微笑みの国 タイの変貌

末廣 昭 作

タイ 中進国の模索 (岩波新書) 新書 – 2009/8/20
末廣 昭 (著) にインスパイアされて、個人的な意見と共にタイの現代史を書いてみました。
正式な資料など、本当のおもしろさは原著が一番です。
ただ、入りとして、このエッセイを読んでいただけたらな、と思います。

注意書き:
表示方法として、携帯で読みやすいように改行をあまりしておりません。
パソコン上で見られる方は表示を大きくするなどをされた方が読みやすいかと思われます。

序章

1988年がタイにやってきていた。この年、タイは二つの大きな変革があった。一つは政党政治の本格的開始、もう一つは悪名高い経済ブームの開始である。タイという国の政治を、そして経済を語るのは難しい。おそらく、欧米のどこにも、このような政治体制をとっている国は無く、長い世界史でもこのような状態になった国はあまり無いからだ。しいて言えば、大日本帝国時代の日本は少し似ているのかもしれない。
詳しく述べていこう。1988年以前、タイでは統治者と政治家は明確に区別されていた。現代もその名残は、国民性としてしっかりと残っている。統治者に必要なものは選挙ではない。その人に備わった人徳(バラミー)であり、仏法(ダルマ)の遵守である。そして、認められているものも、権力とは言い難い。慈悲と寛容に基づく統治、とでも言ったらいいのだろうか。説明するのも難しいが、政治学的に言えば、権力はあるのだが、行使はほとんどしないという存在。その人としての、人徳、仏法、倫理感こそが統治を支えている。現在、統治者はもちろん国王であり、「国民の父」として君臨している。そして、タイ国民の尊敬、畏敬の対象である。日本と違い、馬鹿にすることはない。そして、それは不敬罪という法律の存在だけによるものではなく、心からの敬服である。このように、タイ国民は、民主主義などという国民が行う制度的なものよりも、重視している態勢があるのだ。
さて、では他方、政治とはなんだろうか。アサプション大学の行っている世論調査によれば、2006年時点で、政治家の汚職とは政治に付随するものとして、容認する意見が60%を超えているらしい。現代社会の選挙では、いささか古くさい感じのする利益誘導型の政治を、タイ国民は当然と思っている節がある。タイ人にとり、政治は国家に従事すると言う意味もあるが、ゲームに興じるという意味も多分に含んでいるらしい。
このように、統治と政治はタイ国民の中で全く違ったレベルの話となっている。また、政治に関しても、これは後に語ることになるが、タイでは司法立法行政の三権のほかにも権力機構が存在し、それが確実に機能しているなど、また、非常にややこしい。また、政治の安定と政権の安定はそれぞれ違うということもまた、理解を難解にしている一つだろう。順を追って説明することになるが、最低でも、タイ人にとって大切なのは、民族(チャート)、国王(プラマハーガサット)、宗教(サッサナー)の三つの柱であることは留意しておきたい。国民性はと言えば、あるタイにやたらなじんでしまった日本人記者に言わせれば、タイ人は良識ある中国人という評価である。この三つの柱に拠って己を律すが、同時にずうずうしく図太く生きる、長期的な視点の薄いお気楽な民族性。このように評価されたタイ人が経験してきた、この1988年から2010年の激動の22年。それでは、軽くでしかないが、タイの歴史を語っていくことにしよう。

第一章:タイ現代史の始まり

1988年、タイでは表面的には明るい話題が舞い込んだ。経済ブームの始まりである。また、現代国家として、選挙による本格的政党政治の始まりの年でもあった。政党乱立気味の選挙を経てチャートチャーイ政権は樹立する。しかし、利益誘導型の政治を寛容する国民に選挙をさせると、どうなるか。それを絵に描いたような「政治の腐敗と政権の不安定」の始まりとなった。
チャートチャーイ政権の別名は「ビュッフェ内閣。」経済拡大をとにかく推し進める一方で、よりどりみどりの利権に、わらわらと閣僚が群がっては漁りまくった。それを明確に顕した呼び名である。その利権確保のためにそれぞれ閣僚は私設顧問団を組織。今までの官僚支配体制への明確な挑戦を開始する。基本的にタイ人の高級官僚は批判精神に乏しい。大学の授業でも、人と議論することを避けるといった国民性を多くが持ち、「与えられた知識に疑問をもつ」という大学生には重要なアプローチも、彼らには難しいのである。このような背景から、日本では目の敵にされる官僚も、タイでは、利益誘導型政治家よりは遥かにましな存在であった。そして腐敗は進み、様々な組織からの批判が出始める。チュラーロンコン大学法学部准教授から「汚職にまみれた政権よりも軍事政権のほうがましだ」といった発言も飛び出し、いよいよ世論とともに権力者も動き出した。スチンダー・クラーププラユーン陸軍総司令官が率いた国家平和秩序維持団によるクーデターが発生し、成功したのである。

第二章

実はクーデターは1988年以前にも数度経験してはいた。しかし、どちらも未遂に終わっていたのである。理由は、そんな軍隊があるものなのか理解に苦しむだろうが、「国王の意思に反している」と、軍が理解したから自粛したのである。かつて日本では、大日本帝国時代、2・26事件というクーデターが発生したが、鎮圧するまでも無く首謀者の投降という形で収束した。これは日本国元首であった天皇にとり「不本意であ」ったからである。自分が大日本帝国に少々似ていると表現したのは、この軍の国王に対する忠誠心という理由もある。が、とにかく、タイでクーデターを起こすには、国王の裁可が絶対条件であった。今回、スチンダー総司令官によるクーデターが成功した理由の3つのうち、最も大切であった国王の裁可。それが得られたのは、政治の腐敗の修正といったものが大きかった。残りの2つは、軍の意思の統一にかかわることである。官僚制を否定され失われた軍の威信と復権を求める声の増大、そして、スチンダー総司令官の求心力、特に陸士第五期生の前例の無い強力な結束力の二つだった。
 もう一つ、タイのクーデターの特異的で良心的な部分がある。「暫定政権は、軍と少し遠い者がリーダーになる」という慣習があることだ。今回、暫定政権の首相になった者は、元外務次官のアーナン氏であった。アーナン暫定政権は、すぐにテクノクラート中心の政権運営に戻す一方、閣僚・官僚の汚職を徹底的に排除する方針を打ち出し、「ガラス張りの政治」を行った。また、経済では自由化を強力に推し進め、経済ブームに拍車をかけた。クーデターの発生から一年は国家平和秩序維持評議会(ローソーチョー)とこの暫定政権の二重体制の時代が続くことになるが、その間にローソーチョーはサーマッキータム党を組織、次回の選挙に備えた。
 時は少し過ぎた、1992年3月。サーマッキータム党は選挙により第一党に躍進。財閥の後押しを受けた、ナロン・ウォンワン代表が首相に就任する。しかし、それがスチンダー総司令の運の尽きとなってしまう。ナロンは麻薬取引疑惑により、首相指名後すぐ失脚してしまったのだ。そして傀儡政権樹立に失敗したスチンダーは、タイ人でも許容できない、禁じ手に出ざるを得なくなった。自らの首相就任である。
前年、スチンダー自身がクーデターの正当性を示すため、前年、自らは首相にならないと宣言していた。そして、選挙を経ないで首相になったという嫌いもある。この二つから、タイ国民は4月抗議運動を開始。5月には活動家チャムロン元バンコク都知事がハンストに入り、彼に率いられた抗議運動は、40万を超える人数を集めるほどに至り、事態は加速していく。そして、5月18日。抗議運動を行っていた集団に軍、警察が発砲。53人の死者、759名の負傷者を出す大惨事まで至る。後に「暴虐の五月」と呼ばれた忌まわしき事件の発生。このまま国民全てとタイ全土を巻き込んだ暗く長い内乱へ、そんな最悪の想定がされる中、この事件は突然収束する。国王の親政介入により、スチンダー・チャムロン両名は「歴史的調停」を執り行ったのだ。

第三章

立憲君主制の国王に政治権限などあるわけはない。しかし、現代国家では到底考えられないが、絶対王政も、タイの現国王に関しては少しながら認められていたと言っていいだろう。クーデターになぜか国王の裁可が必要だったり、騒乱の首謀者もその相手方も、国王が出てきたら、黙って矛を収めたり・・・タイにとって国王がどれほど重要な存在であるかは我々の想像を超えている。

さて、歴史的な調停が行われた、暴虐の五月、もしくは五月流血事件と言われた事態が収束した頃、タイ国民には確実に変化が訪れていた。都市と農村、二つの地域で二つの運動が盛んになってきたのだ。
まず、都市側の話をしよう。こちらでは民主化もしくは政治改革を求める運動が盛り上がってきていた。実は当時の現行憲法では、選挙を経ない首相の存在を認める記述があったから、というのも理由の一部として挙げられる。
他方、農村側では「地方住民による、自分たちの権利を守る闘い」という運動が盛り上がってきていた。経済ブームにより、農村では、ダム・工場などの乱開発、それによる環境汚染、様々な立ち退き、などなどの活動により、生活を脅かされる国民が増加。彼らは体制変革要求とまではいかなかったが、デモや請願などを行い、「森、水、土地」を守る闘いに乗り出していく。このような背景から、都市と農村では大別すれば、同じ「民主主義」という言葉でも、違う像を描いてきていた。都市では、理想社会や国民の政治参加を実現するための制度的枠組みを欲し、農村では、自己利益を目的に、議員を通して実現するためのメカニズムというように捉える。これは、オッケイ氏により求める政治家像として分析されている。都市は「プゥーディー(上流人士の政治家)」、農村は「ナックレン(親分肌の政治家)」と呼ばれる。前者は高潔さ、後者は面倒見のよさを求めているとでも言えば、簡便だろうか。
 さて、そのような運動が盛り上がりを見せる中、92年9月出直し選挙が行われた。そこで民主党は22%の議席ながら第一党になり、連立政権、第一次チュワン政権が樹立した。チュワン首相の運営は元弁護士だったからか、堅実だった。汚職追放を公約の筆頭に掲げ、三年ほどの長期政権を運営した。しかし、また根強く、利益誘導型の政治が1995年7月にタイ国民党が第一党になり、バンハーン政権によって復活してしまう。理由は第一党とはいえ24%の議席しか獲得できず、7つもの政党が連立したからである。本来相容れないはずの、都市の政治と農村の政治が手を組み成立した寄り合い所帯、しかも第一党には力がなく、リーダーシップは欠如している。板挟みになった政権は政治の混乱を収拾する術がなかった。運がよかったのは、当時、スチンダーを失った軍が、事件の後遺症もあって意図的に政治と距離を保ったことにある。これにより、前回と違い、政治が軍の介入を受けることだけは避けられた。この後の1996年11月誕生の新希望党のチャワリット政権も同様で、この時期は注目するものを別に移したい。憲法改正運動である。

第四章

 1994年6月に誕生した民主主義発展委員会(コーポーポー)は1年後憲法の全面改正を提言した。この後「政治の腐敗・政権の不安定・指導力の欠如」と三拍子そろったバンハーン内閣でもなんとか政治改革委員会の設置を表明。1996年9月にさらに憲法制定議会の設置が決定された。この議会は画期的で、なんと新憲法の草案の審議のみを目的に国民が議員を選出する異例の試みが行われ、1996年末に憲法制定議会、翌97年1月に憲法起草委員会が正式に発足。草案に関する公聴会を開催した後、8月に最終草案完成、9月に上下院の合同議会で可決、そして10月11日に新憲法公布と、すさまじいスピードで完成された。これが後のタイを揺るがす大騒動の幕開けとなる。
ところで、民主主義発展委員会だが、なぜこのように現行憲法改正に走って行ったか。それは彼らが考える、「農村の政治」の刷新にあった。たとえば、彼らは「下院・良識院・顧問院」の三院制を構想している。農村部から選出されるどこの馬の骨ともしれない下院議員を大卒者で構成する良識院でコントロールする狙いがあった。ちなみにこれは新憲法で、下院議員を大卒以上にするという規定に発展した。また、買票行動の温床として中選挙区制は批判の的となり、小選挙区比例代表並立制に移行。選挙管理委員会が選挙運動を監視し、議員資格を厳格にして政治の浄化を進めようとした。それに必要だったのが、やはり現行憲法の改正であったのである。付け加えておくが、憲法制定議会は農民代表がなんと5%未満。彼らの「農村の政治」追放への意気込みが感じられた。
さて、現職議員の既得権益を大きく侵害する新憲法は、アーナン元首相などをはじめとする「緑色のグループ」が大量のパンフレットと解説本を市民集会などで配布。歴史的意義を国民に訴えた結果、新憲法は当初の悲観的予想を覆し、賛成圧倒的多数で可決される(賛成578-反対16-棄権17)。これは活動だけでなく、同時期1997年7月通貨危機が発生したからである。

第五章

通貨危機は、金融危機、経済危機へと進展していった。1997年11月このような状況下でチャワリット首相は辞職、そして第二次チュワン政権が多数派工作の末、誕生する。第一次の時は政治改革を標榜していたが、第二次では経済改革に切り替えた。当面の最大の目標は通貨危機対策と経済回復である。それに際し、三つの政策を実施した。第一はIMFと世界銀行の政策助言に従い、経済の立て直しを図ることである。中心を占めたのは、通貨危機の根本原因と目された、遅れた金融制度と放漫な企業経営に対する改革だった。どちらもアングロアメリカ流の経済システム導入が手段で、これらは日本のバブル崩壊後と同様の道である。第二は、日本の政策助言の元で製造業などの実物経済の再建を図り、供給能力を増強させることである。日本はタイに対しIMFと連携し、40億ドルもの資金を拠出、また、その後も特別円借款などを通し、経済復興支援を続けた。特に日本はお得意の中小企業支援策(SMEs)を行い、経済用語としても1998年から官庁・マスメディアで定着している。第三は、社会的安全網の構築である。「社会的責任投資ファンド計画(SIF)」と呼ばれ、地域住民自身の提案に基づくボトムアップ型の社会開発であった。以上三点によって経済回復を目指した。が、本格的な回復はなかなかできず、やはり、本格的な回復には、彼の登場を待たなくてはならなかった。
さて、第二次チュワン政権だが、その政治を特徴付けるのは、公聴会の政治と地方分権の推進である。まず、公聴会だが、これは、開発計画の前に閣議決定に先立って行われるものである。公聴会による情報収集をしながら、チュワン首相は、すべての経済政策の検討と決定を、関連省庁の大臣と国家経済社会開発庁などの経済関連機関に委ねた。それと同時に経済閣僚会議も毎週月曜日に定例化している。まさに経済官僚の復権である。そして、もう一つ、地方分権の政治に関しては、権限と歳出移譲であり、農村行政区(タムボン)の首長も、任命制から選挙制に移すことが決定した。このことも後の説明でまた触れるので思い返してほしい。

第六章

さて、これで半分が終わった。物語はついに彼の登場を迎えるが、その前に軽くタイの中進国化と社会変化に触れておこう。社会の変化に関しては、①消費社会の到来②少子高齢化とストレス増加③高等教育の大衆化の三点から説明される。また、この変化に対し、タイという国家が選択するはずだったものも後に重要となるので押さえておこう。
まず、①消費社会についてだが、これはビール生産量が如実に表している。生産量は1985年の1億リットルから、2006年には19.6億リットルへと飛躍的に伸びた。しかも生産の九割以上はタイ人になじみ深く、観光客はあまり飲まない、象印(チャーン)ビールと獅子印(シンガー)ビールだった。また、セブンイレブンに注目しよう。日本とGDP規模で20対1の差があるタイだが、なんとセブンイレブンの人口百万人あたりの出店数で見ると、1.3対1しか差がない。タイの発展がどれだけ急速か、そしてタイ全土での消費パターンの変化が感じ取れる指標である。また、1980年代初頭から大型百貨店の建設ラッシュは始まっていた。バンコクでは多くの百貨店が見ることができる。さらに、携帯電話の加入数を見てみると、92年当時法人を含めて20万件だったものが、2008年末には人口の九割を超える、6100万件にまで増加した。例の彼が経営するシングループのAIS社・UCOMグループのTAC社、CPグループのテレコムアジア社は御三家と呼ばれ、その中でもAIS社は55%以上の圧倒的シェアを誇っていた。彼が有権者を「買票」の対象ではなく「消費者」ととらえたのはこの経営もあったからかもしれない。
次に②についてだが、タイは人口抑制策などの効果もあって、少産少死社会へ移行。人口転換が行われた。2001年には高齢化社会に突入し、出生率も1950年代後半には6.4あったものが、90年代半ばには2.0へと低下している。まぁ、どこの国でも言われているとおり、政府による産児制限政策、女性の社会進出、教育コストの上昇と両親の教育投資に対する関心の高まりなどの理由で高齢社会への道をひた走ってしまっている。また、医療に関しては伝統的な感染症の駆逐には成功、現在は、エイズや鳥インフルエンザなどの新しい感染症と、生活習慣病や老人性退行症などの先進国で頻発するものに悩まされるようになってきている。また、タイでは社会的ストレスの増加が問題となってきている。タイ人の挨拶に「サバーイですか」といものがあるが、これは「元気ですか」という意味である。が、最近は挨拶が「忙しいですか」になりつつあるらしい。自殺率も1992年に比べると、2004年ピーク時は男性3.7倍、女性3.0倍で、原因は通貨危機後の生活困窮とみられている。
最後に③だが、99年8月制定された「国家教育法」により、国民権利として12年の教育を受けることなどが明記され、教育サービスに関してかなりの拡大がなされた。とはいえ、大学を出たものの就職先がない、希望する職に就けないなどの高等教育と労働市場のミスマッチも生じている。筆者独自の考えでは大卒者の農業従事者の創作を目指してはどうかと懸案したいそうだ。
さて、グローバル化と経済自由化がタイにもたらしものは物質的豊かさという確かな利はあったかもしれない。しかし、管理と競争に満ちた社会は過大なストレスをタイ人にもたらし、タイ社会から微笑みと「タイらしさ」を奪っていった。このような現状を国王は憂慮していた。
1997年12月4日、恒例である誕生日前日の講話で語ったのは、こうである。「近年、多数のプロジェクトが実施され、実に多くの工場が建設された。タイは小さな虎にとどまらず、大きな虎になることを考えてきた。人々は虎になることに狂奔してきた。・・・・・しかし虎になることは重要ではない。重要なことは〈足るを知る経済〉だ。〈足るを知る経済〉とは自分たちの足で支える経済のことである。100%を目指す必要はない。今の経済の半分、いや四分の一を〈足るを知る経済〉に変えるだけでも十分だ。」
〈足るを知る経済〉(セータギット・ポーピアン)とは仏教が教える「少欲知足」からきた概念である。これは自給自足を指しているのではなく、それは国王自身が「石器時代に戻ってしまう」と諫めている。まず、この理念を支える要素は、①節度を護り②道理をわきまえ③外からおそってくるリスクに抵抗できる自己免疫力を社会の内部につくることとされる。そして、グローバル化が物的生活、文化、社会、環境に与えるインパクトに人々がうまく対応し、他方では知識と道徳・倫理を駆使して調和と安全と持続可能性の三つに基本を据えた社会を作ることが、タイ社会が目指す本来の道と規定されている。まさに生産性の観点のみに動いてきた資本主義に対する新たな考え方であろうか。これは政策ではなく、タイの新たな社会を目指す思考様式である。この考え方は一種の国民精神運動として広がっていった。タイは現代の先進国も見出せなかった境地に進んでいく、そう思われた中、全てを覆す事態が起きた。その男、タックシンが2001年2月、首相に就任したのである。

微笑みの国 タイの変貌

微笑みの国 タイの変貌

タイ 中進国の模索 (岩波新書) 新書 – 2009/8/20 末廣 昭 (著) にインスパイアされて、個人的な意見と共にタイの現代史を書いてみました。 正式な資料など、本当のおもしろさは原著が一番です。 ただ、入りとして、このエッセイを読んでいただけたらな、と思います。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-21

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 序章
  2. 第一章:タイ現代史の始まり
  3. 第二章
  4. 第三章
  5. 第四章
  6. 第五章
  7. 第六章