雨の日と日曜日のタナトス
ヨーコは洋子と書く。二文字や三文字のわけの分からない普通の常識では判読不可能な名前の女の子がやたらに多い昨今の名前事情からすると、この平凡な洋子と言う子がつく名前(ナニナニ子って今や絶滅状態だもの)に、僕はいつも癒される。
ヨーコは病的に雨が好きな子で、ついでにバッハやモーツアルトを嗜み、つまり、雨の日に「トッカータとフーガ・ニ短調」みたいな代表的なバロック音楽やアイネ・クライネ・ナハトムジークのような壮大な交響詩を大音量で聴くなんていうのが好みの女の子なのだ。
「ついでに言っておくとね、ハード・ロックも好きよ。だって、様式美としてはこっちの方が私の好みにぴったりだもん、クラシックとロックは両極端ね、お互い様式美の極致だもの……」
などと、マックのチーズ・バーガーを食べながらの給う女の子でもあるわけで、どうやらその理屈っぽさは、変人の兄貴のせいなのだと常々僕に向かって自分の正当性を主張するのだ。
で、雨の日曜日は決まって彼女の部屋でだらだら彼女の好みの音楽を聴くはめになる。
じゃあ、雨が降っていない日曜日はと言うと、キンビ(道立近代美術館)で彼女好みの展覧会や、芸森(芸術の森です)で、屋外に展示してある誰某の彫刻なんぞを彼女が作ってくれたサンドイッチなんぞを食べながら見るわけで、いったい僕の主張はどこにあるのかと言うともう殆どないわけで……。
一年ほど前、僕らは大雨の日に出逢った。
空が抜けたんじゃないかと思うほどの土砂降りで、ワイパーも効かないってくらい視界が悪く、横断歩道の手前で人が転ぶのがやっと見えた。
そのまま通り過ぎようとしたけれど、なんだかその転んだ子が女の子だと気付き、車を脇に寄せた。
傘を差しながら車を降りた。
「大丈夫ですか……」
彼女はずぶ濡れの状態で起き上がれないでいる。
「ちっつ、もう、ヒールの靴なんて履くもんじゃないわね、おまけに傘まで忘れるなんてね」
「手を貸そうか?」
ゆっくりと僕を見上げた。そして、雨があたる顔で頷いた。
素直に差し出した彼女の手を握り、助け起こした。
バーバリーのステンカラーのコートがずぶ濡れなうえ、泥まみれだった。
「最低ね、男には振られるし、雨には降られるし、おまけにコートは台無しだし、まるでヘレン・ケラーの心境だわ……」
「ははは、若いくせに言うことが古いね」
彼女に睨まれた。
「貴方、傘持ってるんでしょ。差しかけてくれるとかの気遣いないわけ!」
慌てて傘を差しかけた。
「いや、ここまで濡れたらもういいかと思ってさ、これ以上濡れてもさ……」
また睨まれた。
雨は容赦なく降り続いている。舗道にすら水溜りが出来始めた。
「送っていくよ、そんなずぶ濡れじゃ帰るの大変でしょ、どうせヒマだし……」
またまた睨まれた。
「そういう憎まれ口利くのが趣味なわけ、最低ね」
そう言い放つと彼女はすたすたと大雨の中を歩きはじめた。
僕は傘を持ったまま暫く彼女の歩き去る後姿を見つめていた。
何もかもがグレーに染まる街並み、容赦なく舗道に打ち付ける雨、
僕は知らずに彼女の後を追った。
こんな土砂降りの中、彼女の後姿を追いかけていた。
何か気の利いた理由があったわけじゃない。ただ、このまま別れがたかった、それだけだ。
彼女に追いつき滴る雨に濡れた彼女の肩に手をかけた。
振向きざまに彼女が言い放った。
「ほっといてよ!つまらないフェミニストぶりは止めて!」
「ご、ごめんなさい。悪気はなかったんだ……こういう状況だから、是非僕に送らせて欲しいんだ……」
顔面に滴る雨、瞳は僕を睨んだままだ。彼女は僕を値踏みしているらしい。
きっかり1分後、彼女は助手席の皮シートにそのずぶ濡れの身体を横たえていた。
どうやら僕を一応は受け入れる気になったらしい。
「貴方、絶対後悔するわよ、ほんとの私を知ったらね、今日乗せたこと……」
見上げた彼女を僕はゆっくりと見詰めた。
「私は、私は……タナトスの……」
額を滴る雫の中に彼女の瞳があった。
美しかった。彼女はまるで雨の妖精のような姿で僕の心に巣食った。
あの雨の日以来、僕は彼女に夢中だ。
洋子の時々起こす理不尽な癇癪すら、僕は、受け入れることができる。
彼女のために起き、彼女のために眠りにつく。
僕はいつのまにか彼女の家に出入りし、彼女の父親と談笑し、変人の洋子の兄とまるで古くからの友人のように付き合った。
兄の正志は洋子が言う変人でもなんでもなく北大の工学部、建築学科の四年生で、
卒業し、ゆくゆくは彼の父の設計事務所を継ぐ、つまりいたって健全な常識人だった。
洋子の我侭はと言えば、それはそれは些細なものだった。
例えば、人前だろうとどこだろうとキスを強請ったり、僕の前で平気で素っ裸になって着替えたり、初めて作ったクロックムッシュの不味さに辟易している僕に更に食べるように強要したり、赤信号の横断歩道をむやみに渡ろうとしたり・・・まあ、そんな些細な出来事だ。
僕にとってあの雨の日以来洋子は僕の世界の全てになった。
いつものように彼女の部屋でパッヘルベルのカノンを聴きながら、うとうとしてしまった。
その日は朝からどんよりした曇り空で、今にも降りそうな空模様が心に影を落としていた。
薄眼を開けると隣にいたはずの洋子の姿がなかった。
開け放たれた窓から微かに雨の匂いがした。
大きく茂った楡の木の下に洋子は佇んでいた。
夏の生暖かい雨とはいえ、着ている服はすでにかなりの部分濡れてしまっている。
滴る雫も気にならないらしい。
声を掛けようとした僕を兄の正志の声が静止した。
「母が死んでから妹は、どうやらこっちの世界と決別したらしいんだ」
洋子の虚ろな表情に僕は少しの恐怖を覚えた。
「脳梗塞で倒れてから、パーキンソン病を併発してねえ、療養期間も長期に及んだりして、父や僕や洋子の顔すら忘れてしまったようなね、一種の痴呆状態や、鬱状態が続いたりしたからね、殆ど看病には洋子がついていたから……父も僕も気付かなかったんだよ・・・洋子の心が次第に疲弊していってるなんてね……」
洋子は灰色に曇った空を見詰めていた。その頬を伝うのが雨の雫なのか、涙なのか二階の窓からは分からなかった。
「普段はね、医者から処方された精神安定剤を1日三回を限度に飲んでいるから、全く何も変わらないんだ。でも、それを自分で拒否するようなところが妹にはあるんだよ、
啓輔君もそこんとこ分かっておいて欲しいと思って話してるんだけれどね……」
洋子が病んでいる……僕は全く、いや、気付いてはいたのだ。
ただ、それを認めること、あるいは、その事実を容認することを、僕自身が拒んでいた。
「洋子は必死なんだよ、君がいてくれるお陰でね、病気と闘おうとしているんだ。一時は完全に精神的に参っていたからね、父は入院させることさえ考えたから」
タナトス、あの雨の日に彼女が発した言葉……破壊と死を司る古代ギリシャの神に今にも崩壊しそうな自分の心を委ねたのか……。
母親の死が自分の過ちだと思うことは心理学上、あることなのだそうだが、繊細な心ほど、愛するものの死は予想もしないほどの打撃を与えるものだ。
洋子の心はどうやら母親の死を自分のせいにするしかその事実から切り抜ける術を持たなかったらしい。
宮の森の閑静な住宅街を抜け、簡易舗装された山並みのうねった道路を小一時間程進んだ、三角山の麓の鬱蒼と茂った松やブナの木々の間に白くひっそりとその施設はあった。
一見してそこは普通の保養施設でないことが分かる。
窓枠に目立たないように白く塗られた細い鉄格子が嵌められていたから……。
洋子はその病棟の一室で、穏やかな日々を送っていた。
月に何度か、特に雨の日の日曜日は、決まって僕はその一室で洋子と過ごす。
雨が洋子の心を癒すのか、不安定な精神状態はそういう日に限っては皆無だ。
大声を出し、泣き続け、叫び続けて面会すら出来ないで帰る日も何度かあるのだから……。
そんな彼女の傍にいつまでもいたいと思う。
後悔などしない、君と巡り逢えたことを……。
彼女のために起き、彼女のために眠りにつく……いつまでも……。
雨の日と日曜日のタナトス