洒涙雨

0.1

夢を見る。
どこかで自分が消えてしまう夢を。
いつもと同じ風景を見ているはずなのに、身体が自分の意思に反して重く思考することを鈍らせる。
一歩足を踏み入れるたびに錆びついたバネのように足の動きは凍り付き、それが上半身にも広がっていく。
あれ、ここはどこだろう。
記憶喪失にでもなったように、僕は自問自答する。
だけど僕は知っている。
ひどく曖昧で薄っぺらな綻びの演技だということを。
僕は知っている。
だけど何故か思い出せない。
知っていることを知っているのに、だけどこの夢の内容を思い出せない。

「おや、こんなところにも」
うっすらとした暗闇から二つの赤い相貌が光る。
赤い目に白い髪、そして特筆すべきなのは空に向かって伸びる白い耳だろうか。
「君は――――?」
僕は言いかけていた言葉を止める。
既視感といえばいいのだろうか、僕はこの人と出会ったことがある。
「ふぅん、君は別のよりいくらか優秀みたいね」
「別の?」
「そう別の、ね」
目の前の少女は不気味に笑う。
その笑みはどこか人工的でだけど、その赤い目と相成って不思議な魅力があった。
「君は夢を見るかな?」
「今まさに夢の中ですけど…」
「そうだね、これは君の夢の中」
少女はころころと笑う。
ようやく目が慣れてきたのか、周囲の景色の輪郭がぼんやりと視覚することができた。
「夢ってさ、夢だとわかっているのに、当たり前のように空を飛んだりできるよね」
「えぇ、まぁ」
でもどこかそれは、夢だと分かっているから不思議なことが当たり前に思えるフシがある。
だけど現実は当たり前ではないから、目の前の出来事に一喜一憂して驚いたりもする。
夢の世界だけは特別なのだ。
「だからこんな真夜中に、正体不明な私と出会っても平然としている?」
「―――ん」
肯定でも否定でもなく、相槌を打つだけに留まった。
僅かながら少女の登場は僕の心を乱す。
夢だけど、夢ではないと感じてしまう。
要するに夢の世界においての異分子的な存在なのかもしれない。
でも夢ではないのならば、現実なのだろうか。
「夢の反対ってなんでしょうか」
僕は少女に問いかける。
(うつつ)だね」
現――――、だったらこれは現実なんだろうか。
「だったらここは夢ではなく、夢現なのかもしれません」
「なぜ?」
少女は可笑しそうに首を傾げる。
でもこれからいう答えを少女はあらかじめ分かっているような雰囲気を感じる。
「あなたは夢ではなく現の人だから―――です」
少女はその答えを満足そうにして目を瞑る。
「そう―――か」
やがて周りの景色が徐々に明るく照らし出される。
郵便配達のポストに、向かい側の閉店した駄菓子屋、少し曲がったミラー。
どれもが僕の通学路だった。
「半分正解ってところで、赤点回避かな」
「半分正解というのは?」
「よーく、考えてみ」
そこで景色は明るく、眩しすぎて見えないくらいに輝き始める。

あぁ、夢の終わりだ。
だったら目覚めた先は現なのだろうか。

1

(さい)(るい)()』という言葉を知ったのは、六月の終わりから始まる県内の水族館のイベントでのことだった。
友人の秋良が入手した招待券を使って、秋良の幼馴染の八王子椿と後輩である広瀬せりかと休日を使って(くだん)の水族館へと足を運んだ。
六月の終わりということもあって、七夕に所縁の深い魚などが展示されていて、柄にもなく少しテンションが上がったのを覚えている。
世間でいう七夕は祝日ではないため、もちろん学校はある。
グラウンドに降り注ぐ雨をぼんやりと眺めながら、僕は『洒涙雨』という言葉を舌の上で転がしていた。
水族館で聞いた『洒涙雨』は言葉でしか聞いていなかったので、帰宅して調べてみてそこで初めて漢字を知った。
七夕に降る雨の事を『洒涙雨』と呼ぶらしい。
そしてその前日の雨は『洗車雨』と呼ぶ。
まさしく今年はどちらも雨だった。
どうしても梅雨の季節なんだから、ここ数年の天気を見ても『洒涙雨』のほうが多いのではないだろうかと思う。
でもちょっと待てと僕は考えなおす。
そもそも自分の視点から見たら雨だけれども、どこか別の地域で見れば雨ではないところはあるだろう。
織姫と彦星の視点で見ると今日は雨なんだろうか。
「はい、今日はここまで」
古典の教師が教科書を閉じるのを見て、教室の空気は一気に弛緩する。
「さすがに昼食前に古典はつらいな」
秋良はさっそく僕の机にコンビニの袋を置き始める。
そういえば秋良が教室で授業を受けているのを久しぶりに見たような気がする。
「珍しいな、授業にでてるなんて」
「そろそろ出席日数危なくなってきたしな」
呑気に答えながら、秋良と飲み物を買いに売店を目指す。
学校には学食と小さな売店があって、どちらも授業後は混雑している。
秋良や僕は決まって登校途中のコンビニで食料は購入し、売店とは別の自動販売機で飲み物だけ買って昼食を摂っている。
事件性のない毎日に辟易するくらい、この街は平和だ。
開けられた窓から覗く空は真っ黒で今にでも雨が降りそうな気配がする。
「今日も雨かな」
「そうだなぁ」
こうやって暗闇を眺めると、不思議と昔のことを思い出せそうな気がする。
何かが靄に包まれて、掴めそうで掴めない感覚。
「そういえば、小学校の頃って七夕の時にデザートが出てたなぁ」
秋良が外を眺めながらのんびりと話始める。
「小学校の頃は給食だったのか」
「というか普通、小学校は給食だろ?」
そこで秋良は言葉を止める。
「いや気にしなくていいよ」
僕は中学からの記憶がない。
不思議とどうして記憶が消えたのかも分かっていない。
ただそれが当たり前で、僕はうまく子供になりきれてない感覚がこの数年わだかまりとして残り続けている。
そもそもここで暮らした記憶すら残っていない。
ある意味記憶探しの旅のようなものだ。
「そうか、学校の給食か」
感慨深く呟いてみるけども、記憶がないので特に感慨も何もないのが正直なところだ。
「思い出せそうか」
「いや、特には」
「ま、そうだろうな」
たかが給食の会話をしただけで、思い出せるならばこんなに苦労はしないだろう。
「特に記憶を戻すことを強いてもいないしね」
「ふぅん、そんなもんなのか」
秋良は納得したような微妙な表情を浮かべる。
「そもそも深刻な過去を持っているわけでもなさそうし、そのまま思い出さなくてもいいような記憶だと思う」
ただ単純に僕がどんな子供だったのかを知りたいだけだ。
それを知ったところで、今の僕が変わるとはどうにも思えない。
「お前ら女子か」
ふと机の上に小さな影が差す。
「なんだ椿か」
頬杖をつきながら秋良は影の主へ視線を移す。
八王子椿は呆れながら、僕と秋良のパンに目を向けた。
「可愛いパンばっかり食べてるな」
果たして僕と秋良の机に展開されたパンは、見事に砂糖のまぶされたものや、菓子として十分に通用しそうなものだった。
「最初は調理パンばっかだけど、飽きないようにするために別のパンに浮気してたら、いつの間にか菓子パンばっか買うようになっていた」
「なんだよそれ」
「飽きるというか、寄り道したらそのまま本道に入ったというか」
「意味がわからない」
「いままで昼食に菓子パンはあり得ないと思っていたけど、案外菓子パンもありということに気が付いたんだ」
秋良は熱く語る。
「どうでもいいけど、栄養偏りそうだな」
ちなみに僕のパンも5つ入ったクリームパンだ。
「小鳥遊のも菓子パンじゃないか」
「ま、5つ入って安いし」
一つ一つは小ぶりだが、他の調理パンと比べて量も多いし安いところに引かれてしまう。
「一人暮らしと聞いているけど、ちゃんと夜ご飯は食べているのか?」
「まぁ、食べてるよ」
主に袋麺が多いけども。
「そういえば、この歳で一人暮らしってのも大変そうだな」
「まぁ、大変だけども、自由もあるからどっちもどっちじゃないかな」
「確かに自由というのは大きいけど、洗濯物とか含めて家事は大変そうだな」
「そうだね、でも洗濯物は週末にまとめてやってるから特に負担には感じないかな」
平日でもやれないことはないけども、一気にやってしまったほうが効率はいい。
もちろん皿洗いとか、毎日済ませなければいけないものもあるけど。
「まぁ、子供の頃の記憶がないのも手伝って、なんというか誰かがやってくれるという感覚がないんだよな」
「ふーん、要するに慣れってことなのかな」
「そうかも」
「って、そもそも記憶喪失なら洗濯機とか使い方もわからなかったんじゃないか?」
「あぁ、僕が失ったのはエピソード記憶っていう部分だから」
「エピソード記憶?」
「記憶にもいろいろと種類があって、物の使い方や、地名などは意味記憶。過去の事象などはエピソード記憶って呼ばれてるんだ」
「なるほど、その意味記憶ってのは残ってたから使い方には困らなかったのか」
ただ、僕が記憶を失った学生時代どこで暮らして、誰と知り合いだったのかは知らされていない。
というよりも、知っている人物がいないのだ。
それでも、この世界のどこかに僕が生きていた履歴が残されていて、今でもまだ誰にも見つけられずに存在しているような気がしている。
気がしているだけで、実際に消えてしまったのかもしれない。
だけども、その正体不明な不安とか、焦燥とか、僕の気持ちを揺らがせるようなものは何もなかった。
ただ単純に時間の進行に合わせて進んでいるだけの毎日。

一つだけ言えることは、記憶を失ったとしても世界は不変としてあり続けるということだ。

2

ゆっくりと捻じれた坂が僕たちの下校のスタート地点となる。
どうしてこんな坂の上に作ったのだろうなんて、学校に通って一か月で考えるのをやめてしまった。
それほどまでに日常に溶け込んで、坂を上り下りする作業自体が当たり前になってしまうのだ。
繰り返しの単調作業が頭を鈍らせているのかもしれない。
今日は秋良の姿を一日見ることはなく、窓の外から昨日降った雨が作った水たまりが乾いていくのをぼんやりと見つめながら一日を終えた。
「まったく、秋良は何をしているんだろうな」
八王子が腰に手をあてながら憤慨してみているが、実際のところそれほど怒っていないのではないかと僕は考える。
「案外、何もしていないんじゃないだろうか」
「そうかもな」
自分で言っておきながら、短い付き合いだけども秋良が何かしているだろうという予感はあった。
彼女の肯定も形式ばった言葉に過ぎない。
「雨、降らなかったな」
「そうだね」
見上げなくとも、遥か向こうに見える景色は統一感のない灰色の雲で覆われていた。
「あの雲の向こうでは雨が降っているのかな」
「どうだろう」
そう考えると天気予報なんて県単位ではなくて、もっと狭小的に報道しなければ当たらないのかもしれない。

洒涙雨

洒涙雨

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-10

Copyrighted
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