空気が殺す

「早くやれよ」
 健二(けんじ)は思いのほか軽い口調でこう言った。
 彼の手下である、修平(しゅうへい)は、命令に対し若干戸惑った風に手足を凍りつかせたが、健二の目を見た途端その動きを再度開始させた。
 宙に浮いた金属バットが月明かりに照らされた小学校のグラウンドの中で一際輝いている。

 しかし彼にその凶器を振りかざすことはできない。
 
「どうしたんだよ? 俺に逆らうつもりかよ?」

 体の力が急激に抜けてくると、大きな空洞でもできたかのように、重苦しい空白が一斉に脳内を埋め尽くしていく。

「でも警察に見つかったら、俺たち捕まるんだよな。……やっぱり無理だよ」

 口元をプルプルと震わせながら、彼は健二に向かって反抗の意を唱えた。
 それに対し健二は一向リアクションすることなく、終始両腕を組んで突っ立ったまま同じ表情で二人の様子を監視している。
 彼の威圧感は修平の脳裏に、さっきの勢いをもう一度取り戻させ、両手両脚の血管に、憎しみの流血を少しずつ舞い戻らせていく。
  
「……分かった。やればいいんだろ」

 意を決したのか、倒れている少年の足元へ向う彼の瞳が、獲物を狩るライオンのような鋭い目つきに立ち代る。
 すると背後から健二がゆっくりと近づき、その殺し、に対してストップをかけた。

「ちょっと待って」

 二転三転する彼の言動が己の神経を惑わす。
 修平は呆れているのか、それとも安心したのか、泣きそうな目頭をゆっくりと彼の方へ戻した。

「…俺がやる」

 その時修平は向かってくる健二の表情を垣間見て思わずぞっとした。
 さっきまでは彼の真剣な顔つきに、まがりなりにも多少の緊張感あるいは殺気を感じ、その空気に同調することによって実行の意を決することができる、と考えていた。
 目の前に寝そべっている工藤一志(くどうかずし)を本当に殺すことができる、と考えていた。
 しかし今の彼はそれを躊躇させるほどの尋常ではない神経をひしひしと辺りにまき散らしている。
 まるで九回裏満塁一打逆転にまで差し掛かった野球の試合において、代打として指名された選手が、その後バッターボックスに向かっている時のような、どこか言いようもない緊張感と歓喜に満ちている。 
 
「…っえ?」

 いつの間にか自分の手からバットが無くなっていることに気付いた修平は、ハッと思いなおし、健二の同行を再度追跡した。
 既に両手に握っている鉄の塊を肩の上にしならせ、向かって来るボールを打ち返すような姿勢になっている。
 …それは息をも付かせぬ一瞬のできごとだった。
 地面の上に寝転んでいた少年の頭を、まるで低めの変化球にあわせるように、思いっきりクリーンヒットさせたのだ。
 カーンッという甲高い金属音が校内の隅から隅にまで一気に轟き渡った。 

「…どうしたんだ?」

 ことが終わると健二は倒れている少年の目の前に座り込み、髪の毛をつかんで、投打した頭蓋骨の様子を丹念にチェックしつつ問いかける。
 その態度は一志を殺した当事者だという罪の呵責を全く感じていないまでか、あたかも交通事故にあい地面に放置された小動物をせせら笑いながら小突いている幼い子供のような無垢な雰囲気まで漂わせている。

「…キタネエな」

 手についた血を恭しくズボンに擦り付け、その後パッパッと両手をはたくと、死体に向かってペッと唾を吐きかけた。

「……こいつどこかに捨てとけよ。キタネエからな」

 修平は目の前の惨劇を終始呆気に取られて見ていたが、それを微塵も気に止めない健二は、ポケットに両手を突っ込むと、ふてぶてしい態度でグラウンドから去っていってしまう。
 残された工藤一志の亡骸は、一人呆然と突っ立っている修平と共に無造作にその場に放置されてしまった。 
 
「…きたねえ面だな」

 最初にこの言葉を口にしたのは、醜い死に様を晒し、挙句の果てに健二に容赦ない捨て台詞を吐かれた、工藤一志の方だった。  
 彼は一年前、高校に入学し立ての二人に対して、勇ましくもこう言い放ったのだった。
 当時、健二、修平、一志の三人は同じクラスに在籍している同級生。
 二人は周囲から見てもあまり目立たない存在で、俗に言う優等生と呼ばれるタイプ、それに対し一志は体も大きく喧嘩っ早く、誰が見ても、絶対に近寄りたくない存在として名を馳せていた。
 彼は弱々しい二人に対して、なかば強引に仲間に引き込むと、手下としていつも手元に置いておいた。
 それから三人の悪事は学校関係者の耳に入るくらい校内を沸かせていたが、いくらそうなったとしても大人に近づきつつある若者たちの現実を知っている彼らにとって、大きな恐怖感を払拭することは容易ではなかった。

「おい、健二、修平、お前らジュース盗んでこいよ」

 彼らにとって万引きという行為は、単なるお遊びの一つにすぎなかった。
 遊びごときに自ら手を下す必要性を感じなかった一志は、店先で二人に命令しては、いつも自分の変わりに盗みを実行させた。
 
 放課後いつものように三人は盗んだジュースを堪能しながら自宅への道のりを歩んでいた。
 入学当初はまだ弱々しい姿の垣間見えた二人も、彼に影響を受けたのか、今では髪の毛を黄土色に染め、眉毛も薄くなり、服装もだらしないものに変化している。
 
 修平は一志のことを、一志さん、とさん付けで呼んでいた。
 同級生同士が先輩後輩の間柄のように言葉を交わしている姿は、客観的に見れば一種異様だが、彼らの中ではこれが常識となり日常の風景と化していた。 

「一志さん。あした野球の試合見に行かなくていいんですか?」
「何が?」
「先輩たち言ってましたよ。俺らもうすぐ卒業だからお前たちも一回顔出しに来いって。退部したいんならちゃんと退部届け出せって」
「……俺はいいや。どうせ眠くなるし」

 一志はジュースの箱をグシャリと潰すと、それを道路に投げやり、代わりにポケットから取り出した煙草を口にふくんで、煙をプカプカと吹かしはじめた。

「だってアイツらの試合ってつまんないじゃん? 例えば打者がヒットを打って塁に出ても、最初に考えるのが、次にどう繋げようか、それとも、そいつをどうやって次の塁に進ませようか、とかそんなじゃん? 見てくれている客のことなんて一切考えてない。もし俺が監督だったら迷いもせずに打てって命令するけどな。だってそうだろ? そんな試合見てて面白いか? 面白いと思わせられるか? どう考えても見てる奴らに対して失礼だと思わないか?」
「……すね」
「健二、お前もそう思うだろ?」
「………ああ」 

 健二は彼のふりに対して素っ気なく返事をする。
 素っ気ないからといって彼は一志のことを気に食わないと思っているわけではない。
 彼にとって人と付き合うということは、ただその人の空気に合わせ選択し、空気に合わせ行動するものだと思っている。
 だがその実、単に返事をすればいいものだとも思っている。
 この態度は幼い頃、幼馴染だった修平といる時からも如実に現れていた。

「お前、野球やり続けて将来何になるんだよ?」

 まだ小学生だった頃の修平は学校の終わった放課後、野球の練習の帰り道、健二に対してこう質問した。

「…さあ」
「なんだよ、さあって。…お前っていつもそうだよな。俺が質問しても、ああ、とか、うん、とか適当にしか答えない。俺の話、ちゃんと聞いてるのか聞いてないのか分からない」
「ただ面倒くさいだけだよ」
「…なんだよ面倒くさいって」
「それに将来のことなんて考えたことないし。野球だってただ親にやれって言われてるから仕方なくやってるだけだし。自分がやりたいなんてこれっぽっちも思ってないんだ」
「…ったく、お前って夢がないよな。いつも現実的だし、それに理屈臭いし、人に流されてばっかだし」

 修平は鞄からバットを取り出すと、それを所構わずブンブンと振り回す。

「俺はな、お前とは違うんだ。お前とは違って大きな夢があるんだ。小学校を卒業して中学校に入ると、そこで今みたいに野球部に所属する。そして活躍して、次は高校に入学すると、また野球部に入って、またまた活躍する。そんでもって偉い人にスカウトされて、その後プロになって有名になる、そいで大金持ちになる」
「……へえ」
「で、もっと有名になったら、最後は国内最強選手として海外から指名され、そして海を渡るとあっちのファンの大歓声に迎えられて堂々とピッチに立つ。そして、そこでまたまた大活躍して」
「……ふぅん」
「ほら、またその言い方。せっかく俺の壮大な夢を披露してやったのに、そんな適当な言葉で返す」
 
 修平は呆れながらも苦笑していたが、それとは対照的に健二はただ俯いているだけで、終始真面目な表情を崩さなかった。

 体は大きくなれど、彼の性格は今もそのままだった。
 一志という大きな存在に対し、同じようにいつも寡黙な態度。
 焦燥感と無気力。
 表向きは他人に合わせているような態度を見せながらも、実は心の中ではいつもどこか別の所を見ている。  
  
「修平、こいつ、どうするんだよ?」

 それから一年後の健二は、今とは似ても似つかない性格になっている。
 小学校のグラウンドに連れてこられた一志は、服が破け、骨が砕け、全身には青いアザが這いめぐり既にボロボロの状態だった。

「どうするっつっても……どうするんだよ?」

 修平は目の前で起こっている惨事に対し、まるで現実感を見出せないでいる。
 
「……殺す」
「え?」

 彼は目を丸くして驚いた。
 
「…だって邪魔じゃん」
「邪魔じゃん…ってどういうこと?」
「お前の夢にとって邪魔だろ?」
「ゆ…夢? お…お前、まさか俺が昔言ってたこと、まだ覚えてたのかよ?」
「当たり前だろ」
「そんな馬鹿なこと……もう無理だろ。野球もやめちゃったし、練習もやってないし、それにボールすら長いこと触ってないんだし」
「…じゃあ俺がやる」
「え? …ちょ…ちょっと待って」
「何?」
「ほ…本当に、こ…殺さないといけないのか?」
「だって、やらないと、やられるだろ?」
「…うぅん」
「今やっとかないと、また仕返しにくるかもしれない。あいつらクズだから他の仲間たち引き連れて何されるか分からない。今のうち、やれる時にやっとかないと」

 健二は持ってきていたバッグの中から金属バットを取り出し、誇らしげに宙に掲げる。
 そしてそのまま固まったかと思うと、切っ先をすぐさま倒れている一志の方へ向けた。
 ゴクリ、という修平の唾を飲み込む音が深夜の静寂の中にこだまする。
 その静寂が生み出した鬼気たる緊張感と恐怖感が、二人の脳内に侵食し、周囲の広大なグラウンド内を我が物顔で支配していく。
 
「……待って、俺がやるよ」

 こう声をかけたのは修平だった。
 それに対して健二は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべると、握っているバットをゆっくりと彼に渡した。  

「一志が逮捕された?」

 …一年前、まだ三人の関係が出会った頃と何ら変わらない時代、修平と健二の耳にある一報が舞い込んでくる。
 それは彼の言葉どおり、一志が警察に逮捕されたということだったのだ。
 
「そ…それはどういうことだよ?」

 彼らの共通の友人の口から入った情報に対して、最初に驚きの表情を見せたのは健二の方だった。
 いつもはちょっとやそっとでは動じない彼も、今回はその特別な事情によって隠すことのできない感情を露にしていた。

「どういうことなんだ? またアイツ何かやらかしたのか?」
「いや、俺もちゃんと話し聞いたわけじゃないし、間違ってるかもしれないけど、なんでもキレたアイツが親を鈍器で殴って病院送りにしたらしいんだ」
「…はあ?」
「それでアイツ自分で警察に電話して自首したらしいんだ」

 二人は呆気に取られ、しばらく放心状態を崩せなかった。

「今、警察署で根掘り葉掘りと取調べを受けてるみたいだぜ」
「……その殴られた親の状況はどうなんだ」
「ずいぶん醜いらしい、あれから一時間近く経った今になっても、まだ意識は戻らないらしい」

 次から次に質問を投げかける健二に対し、修平はただ頭を抱えているだけで、茫然自失といった感じだった。
 
 二人は元々彼の素性をだいたい把握しており、いつかはこうなるんじゃないかと予想はしていた。
 父親が粗暴で、酒癖がわるく、家に帰るといつも暴力を振るわれていたこと。
 そして帰る場所がないからと、よく修平と健二の家に押しかけていたこと。
 さらに極めつけは最近一志がよく、父親を殺したいと何度も口癖のように嘆いていたこと。 
 きっとこれらの要因が重なり彼の不満が爆発し、ことに及んだのではないかと。

「でも、アイツは親に暴力をふるわれてたみたいだから、きっと無罪ですむよな」

 修平は泣きそうな表情で健二に問いかけたが、彼はいつものように固く口を閉ざし、返答をよこさなかった。

 二人は一志が一時街の少年院に移送されたと聞いたが、連絡はぱったりと途絶え、それから彼とのコンタクトが取れなくなってしまう。
 クラスの担任の話では、それから彼は少年院を出所したようだが、学校に来る意思がないらしく、自宅に引きこもって、訪れた教師の問いかけにも全く耳をかさないらしい。
 彼のいなくなった学校生活が長く続いた。
 最初はふて腐れ気味だった二人だが、時が経つにつれ、だんだんと今の生活に馴染みつつあった。
 そして大きな変化だったのは、彼ら二人がしばらくの間、疎遠になっていた野球を再開したことだった。
 元々乗り気ではなかった一志がいなくなったことで二人もまた元の、やる気、を取り戻したのだった。

 充実する学校生活。
 彼がいなくったことが、自分たちの心境にこんなにも影響を与えるものか、と本人たちですら驚きを隠せなかった。
 勉学にのめり込み、部活動にはげむ。
 最初は敬遠しがちだったクラスのほかの生徒たちも、彼らを認め、許し、徐々に人間関係が再構築されていく。

 ある日、街の外れにある川辺のグラウンドに大勢の選手たちが集い、野球の試合が行われていた。
 片方のチームは修平と健二が所属する野球部。
 休日であること、そして県大会の決勝であることが重なり、周囲の観客席にはいつにも増して多くの人だかりができていた。
 キーン、キーン、という野球独自の金属音と生徒たちの甲高い歓声が、熱気あるグラウンドをにぎやかに彩っている。
 ネクストバッターズサークルに健二が降り立った。
 バットを片手に持ち、足を動かしたり、手を曲げたりし、準備運動に余念がない。
 その時、背後から声が聞こえてくる。

「おい、おい」

 振り向くと修平が手を挙げて彼を呼んでいる。
 何だ何だ、と近寄っていき話を聞いてみると、それはあまりにも驚きの内容だったので、内心彼は動揺を隠せなかった。

「ほら、あっちあっち見ろ」

 彼の指差した方を目を細めながら注視してみると、確かにある男が一人観客席の金網のうしろに立っているのだ。

「なあ、いただろ?」

 工藤一志だった。
 ポケットに両手を突っ込み、口に煙草を咥え煙を漂わせながら偉そうな態度で観戦している姿は、まぎれもなく昔見た彼の姿そのものだった。
 健二が屈伸の姿勢のまま、顔だけを突き出し、こう呟く。

「…変わってないな」

 修平が彼に向かって手を振ろうとしたので、思わず健二が止めに入る。

「何だよ?」
「…やめとけよ」
「どうして?」
「俺たちにはもう関係のない奴だろ」
「なに言ってんだよ、友達だろ? 冷たいな」
「もう友達じゃねえだろ。あれから一年近く経ってんだ。それなのに、アイツ俺たちに一度も顔をあわせようとしないし連絡をよこしても返ってきさえしない。何度かあいつんちに出向いたりしたけど、全く反応もなかった。きっともう縁は切れてるんだ。すでに俺たちとアイツは遠く離れた赤の他人同士なんだよ」
「そんなこと言われても、現にああやって俺たちのこと見にきてくれてるじゃんか」
「いいか? 一志はもう過去の人なんだ。俺たちとは全く違う人間なんだ。絶対に関わらないほうがいい」 

 こう言いさすと、次の打席が回ってきたのか背後に立っている審判が大きな声で健二の名を呼んだ。 
 
「分かったな? もう一度言うぞ。…アイツとは今後一切絶対に関わるなよ」

 するとバットを肩の上に乗せそそくさと去っていく。
 指定の位置に彼の二本足が備わると、バットを斜め上に構え、せまりくるボールの動向を今か今かと待ち受けている。

 球が近づくと、それに対して無心でバットをふった。
 ……カーンッという大きな音が場内にこだますと、球は見事フェンスを乗越え、すさまじい勢いで遥か中空の彼方へと飛び去ってしまった。
 健二はそのホームランに対しても何らの感情すら見せることなく、ただ黙々とベース上を駆け抜けていった。

「すごかったじゃん」

 喜びいそしみながら近寄ってくる修平に対しても、彼はマイペース。
 ほどけたシューズの紐を結ぶため地面に屈みこむと、それをゆっくりと結びはじめる。 

「つぎお前だろ? はやく行けよ」

 修平は不満気にこう答える。

「……ああ、分かった」

 健二の言うとおり次は修平の打順だった。
 
 しかし結果はあっさりと三振。

 悔しそうにベンチに戻る修平は思わず、彼の方を見上げてしまった。
 見てはいけない、と言われれば、見たくなるのが人間の常である。
 遠く離れた場所にいるものの、彼の表情が多少垣間見れる。
 その表情は、微かな憎たらしさを秘め、かつ苦笑いともあざ笑いともとれない不思議なものだった。

 …せっかく健二が作った逆転のムードも無駄に終わり、試合は残念ながら彼らチームの敗北となった。

 試合が終わった後、選手それぞれが悔しさを噛みしめながら、帰宅の途につこうとしている時、彼ら二人の目の前に彼が立ちはだかった。

「…よお」

 相変わらずの野太い声は、二人にとって昔を思い起こさせる懐かしさがあった。 
 が健二の命令どおり、修平は俯き加減に彼を無視すると、両者同じような姿勢で目の前をただ黙々と通りすぎていく。
 健二はさっきも本人が口にした通り、一志に対して、すでに過去の人だという思いを強くもっている。
 彼がいなくなり、生活も一転し、人間関係も良くなった、自らの心持さえ変わっていった。
 言い方は悪いかもしれないが、彼の消失こそが自分たちにとって、天から授かった最上の幸運なのではないか、とも思っていた。 
 自分たちの人生が上手くいかなかったのも、彼という悪魔が、二人にとりついて背後から命令を下していたから、とも思えていた。

 …それが今、再び舞い戻ってきた。

「…なに無視してんだよ?」

 一志は首を前に突き出し、威圧するかのように間近にとらえた二人の顔面を交互に睨みつける。

「あいかわらずつまんねえ試合だな。修平、特にお前は最低だな。せっかくコイツが作った良いムードも、お前のせいで全部おじゃんになった。あそこでお前が次に繋げときゃあ、もしかすると逆転もありえたのにな」

 言葉ひとつひとつにトゲのある言い方だが、二人は動じない。

「おっ健二、何だお前も無視か? 昔はあんなに臆病で俺の命令をなんでも聞く従順な奴だったのに」

 送迎のバスが近づく。
 選手たちが一列に並び、車両の中へ吸い込まれていく。
 一志は二人が視界から消えていく姿をただ黙って見送るだけ。
 扉が閉まり何台も連なった車の列がグラウンドの駐車場を次々と後にしていった。

 …その後もしかして彼が学校に戻って来るのではないかと予想していた二人だったが、幸いなことにそれが当たることはなかった。 
 いつものように、クラスの一番後ろには工藤一志の席がポッカリと空白を空け、寂しそうにしている。
 春が過ぎ、夏が過ぎ、次の季節がやってきても、誰もその席を触ろうとも、動かそうともしなかった。
 
「…俺がやる」
 
 …健二は倒れた一志の目の前に陣取ると、野球の試合の時に見せるそれと、同じような体制でバットを構えた。
 彼の姿はすでにボロ雑巾のように、見る影もないが、そもそもこうなったのも、元々は彼自身が原因であり、実際の因果関係は二人にはない。
 今から五時間前、一志の姿をある場所で見つけた二人は、その光景に愕然とした。

 駅前は人がごった返していた。
 通勤客の群れ、遊戯にたしなむ若者の群れ、無垢な笑顔に包まれた子供たちの群れ、そしてその群れの中にポッカリと空間が空いていることに気付いた二人は、何が起こっているのかと近寄っていった。
 そこには驚いたことに、額を地面につけ深々と土下座をする工藤一志の姿があった。
 彼の周りには黒いスーツを着ているがサラリーマンのそれとは少し違った、ガタイがよく、それでいて恐持てな男たちが並んでいた。
 未成年である彼が関われるような人間には到底思えなかった。
 平謝りする一志に対し、その男たちは容赦なく殴る蹴るの暴行を与えているのである。
 周囲の人だかりは誰もその行為を止めようとはせず、むしろ笑みすら滲ませ、無関係な弱いものイジメに享楽を感じている。
 彼に対して指を差しては馬鹿にしたような言葉を浴びせる人もいる。

 修平は鞄を地面に下ろすと、彼を助けようと突然スタートを切ろうとした、しかし健二がそれを止めに入る。
 あの時も同じだった。
 野球の県大会の決勝、観客席に来ていた一志に対して手を挙げようとした修平に向かって、同じように制止を促した。
 関わるな、無関係の人間だ、と言った。
 
 …しかし、今回はあの時とは違っていた。
 彼を制止したかと思いきや、健二は躊躇いもなく彼を救いに飛び込んだのである。
 通行人を押しのけ、野次馬を押し倒し、倒れこむ一志の元へとひたすら走ったのである。
 修平の止めようとする声も聞かず、彼はただ黙々と、過去の人、の窮地を救おうとしているのだ。
 ざわざわと騒ぎが大きくなる中、健二がやっとのことで騒動の中心地にたどり着くと、有無も言わさず彼の体を包み込むように自分の体を覆い被せた。

「なんだ? お前」

 暴力の嵐はその瞬間停止した。
 今まで騒がしかった野次馬の声の波は一瞬で水平線の向こうへと消えていった。
 静寂に包まれる辺り一帯。
 まるで時間が止まったかのような、規律の整った一定の空気がしばらくその場一帯を支配してやまなかった。
 
「…コイツの仲間か?」

 黒スーツの一人が健二に対してこう質問するが、彼は構わず地面に横になっている苦しげな顔をしている一志に向かって心配の声をかける。

「だいじょうぶか? 一志?」
「おい、聞いてんのかよ?」

 すると黒スーツは若干イライラした体で二人の男に近づいていくと、健二の胸倉を掴み、彼を無理やり目の前に立たせた。
 
「仲間かって聞いてんだよ」
「おいだいじょうぶか? 一志」

 次に駆けつけたのは修平だった。
 傍らに屈みこみ、心配そうに彼の容態を見守っている。
 
「コイツが悪いんだ。コイツが俺らの縄張りで商売しようとしているから」

 聞くまでもなく、こうなってしまった理由を彼らの口から自然に耳にすることができた。
 きっと客引きか何かをやっている一志が、他の同業者の縄張りに入ってしまったことで、彼らの怒りの琴線に触れてしまったのだろう。
 少ない言葉から、健二と修平は同じようにそう読み取った。
 
「だからその見返りに金を要求したんだがな。コイツ払わねえって言い張るもんだからこんなボコボコにしてやったんだ」

 黒スーツの集団に健二の鋭い目つきが飛ぶ。
 
「何だ? やる気か?」

 すると一触即発に陥れられた二人の境地に割って入っ
たのは、さっきから俯いたままで一向口を開かなかった一志の言葉だった。

「……すみません……彼ら僕の友達で………もしお金が欲しいってんなら、彼らが僕の変わりに払ってくれますから」 
「何だ? お前らやっぱり知り合いなのか?」
  
 健二は一志の方を振り向いたが、彼は最前同様、俯き口の中からおびただしい量の鮮血を吐き出していてそれ所ではない。

「お前らが払うんか?」

 黒服の一人がこう問いかける。
 緊迫した雰囲気がしらばらく時間と併走しているが、隣にいたもう一人の黒服の言葉によって、その時間が一気に終わりへと向かう。

「…もう行こうぜ。こんなガキ放っておいても構わないだろ? ここまでやりゃ、もう俺らの縄張りには入ってこないだろ」

 周囲の野次馬は、騒動が一しきり終わったと見えたのか、一斉にその場から散っていってしまう。
 すると、それにあわせるかのように、黒服の一団は、黙って三人に背を向けると、堂々とした態度でその場から遠ざかっていく。
 残された健二と修平はバタバタと革靴の弾ける音を傍らに、地面に這いつくばるようにして、一志の容態を心配している。
 時間は夕刻だった。
 空には微弱の暗闇が辺りを包み込み、だんだんと周囲を黒く染めていった。
 すると突然、健二は一志の体を背負い始める。

「おい? 何してんだよ健二。一体どうするつもりだよ。はやく警察か救急車を呼んだほうがいい」
「お前も手伝えよ」
「……え?」

 修平は何がなんだか分からずに、ただ座ったまま、彼の動向を見上げていた。

 ……それから夜のグラウンド。

 三人は真っ暗な闇が包み込むこの平地の中央で、ひさしぶりに顔を合わせていた。
 といっても、一志の顔面は目も開けられないほど膨れ上がり、体中もあちこちアザだらけですでに満身創痍、どう見ても他の二人と会話できる状態ではなかった。
 修平は勝手に動き回る健二の行動に戸惑いながらも、飼い主に付き添う犬のようにただ黙々と彼の後姿を追い掛け回すしかなかった。
 一志のことも一様は気にかかったが、実際にこうまでボロボロになってしまった人間を目の前にすると、すでに救う気すらだんだんと薄れてくる。
 彼は何年かぶりかに訪れたこの懐かしい小学校のグラウンドに思いははせながら、思わずこう口にしてしまった。
 
「…ひさしぶりだなここ。俺たちが小学生の時によく野球の練習したな」

 健二の姿は闇にまぎれよく見えないが、修平は暗闇の中から手繰り集めるように彼の言葉に聞き入ると、どこからともなく返って来る言葉に対して、また言葉を返した。

「お前に俺の壮大な夢を語ったのは覚えている。お前はやっぱり、ふぅん、とか、へぇ、とかしか言わなかったけどね」
「お前の夢、つまらないからな。しょせん誰かが思い描いたような平凡な夢で、なおかつ馬鹿げたもんだと思ってたからな」
「やっぱり馬鹿にしてたのかよ?」
「当たり前だろ。しかも絶対に叶うわけがない。プロの選手になって活躍して、大金持ちになるなんざ、しょせんこの世にいる野球やっている人間の数パーセントにも満たないんじゃないか?」
「可能性じゃないんだよ。夢ってのは可能性じゃない。持つことが大事なんだ。持つことによって自分の人生が華々しいものに変わっていくんだ」
「…華々しい人生ね」
「お前はやっぱり、つまらないんだ。いつも最初に考えるのが現実、確率、可能性。夢を持つ前にいつも、それを考えて、頭の中で計算処理して、叶うか叶わないか先に答えを出してしまう」

 …健二は何も答えなかった。

「コイツもアホなんだ」

 修平は一志の方を指差してこう言う。

「コイツなんてそもそも普通の人生すらマトモに歩もうとしない。悪いことやるにしても、自分でやるのが嫌だから、他の奴さそってソイツにやらせるんだ。入学当時、俺らを誘ったように、他の人間にまで自分の人生を強要して、同じ境遇に陥れたことに対して悦に浸って喜んでいるんだ」

 一志は意識が朦朧としている中、彼の暴言が耳に入っているのかいないのか、ただ黙って同じ状態を維持し続けている。
 
「……死んだ方がいいのかもな、こんな人間」

 こう言いさした瞬間、とつぜん健二が立ち上がった。
 修平はビクッと肩をすごめると、暗闇に立つ大きな黒い影が自分を威圧するかのように目の前を覆っていることに気づく。
 その姿はなかなかハッキリとらえることができない。
 すると影の上部あたりから、何かボソボソと声が聞こえたような気がしたが、修平にはその声がハッキリと聞き取れず、ただ呆然と見上げているだけ。
 それが屈みこむと背後にあったバッグから何かを取り出そうとごそごそと漁っている。
 カランッという甲高い金属音がはじけたかと思うと、片手の部分に黒くて長い棒が伸びていることに気づく。
 カラカラカラカラと地面を引きずるような音が聞こえ、それがだんだんと倒れた男の方へ近寄っていく。

「お…おい、お前何やってんだよ?」
 
 ハッと我に返った修平がこう言葉を投げかけるが、彼はそれに応じる素振りすら見せず、何も言わずに棒を地面に横たわる彼の両脚に打ち付けた。
 
「な…健二? やめろよ」

 そして次々に打ち出される金属バットの嵐。
 …両手、腹部、胸と徐々に首元へ向かっていき、とうとう最後に残されたのが、彼の頭部だけとなった。

「おいやめろ」

 慌てて彼の腕を羽交い絞めにするが、それを勢いよく跳ね除けると、彼は最後のパーツめがけてゆっくりとバットを振りかぶった。
 尻もちをついた修平の目の前に今にも凶器を振りかざさんとしている男の影は、恐ろしくもあり不気味でもあった。
 深遠のごとき闇の中に、鬼のような形相の彼。
 それでいて、今から人を殺すことに何ら躊躇いが見えないような、陽気でいて、かつ無垢な表情すら除かせている奇妙さ。

 しばらく沈黙が続くと、はたとその沈黙を引き裂くように健二が口を開いた。
 
「…どうして?」
「…どうしてって、それはこっちの台詞だよ。どうして殺そうとしてんだよ。もうそいつは死ぬんだよ。どうせ放って置いても死ぬ。お前が殺す必要なんてないんだよ」

 健二はさっきと同じようにまるで自問自答するかのように何やらブツブツと呟きながら、一志の肉体をじっと見下ろし見つめている。

「空気があるからさ」
「……く、空気?」
「殺さなきゃいけない空気があるからさ」
「お前」
「人間空気を守ることが大事だろ? 友達と話している時だってそうだし、勉強している時だってそう、野球の練習の時もそうだ。いつだって空気を読むこと、これが一番大事なんだ」
「何言ってんだよお前」

 修平は慌てて彼に近づくと、必死にその行為を止めようとする。

「それで、今が殺さなきゃいけない空気だってこと?」
「…そう」
「お前頭おかしいんじゃねえのか?」 
「なんで?」 
「今はそんな空気じゃねえだろ? こいつを助けるか、放っておくかのどっちかだろ?」
「だって頭の中で声が聞こえるんだ」
「…声?」
「誰が言ったのか分からないけれど、ここで俺にやれ、やれって執拗に訴えかけるんだ」

 健二は打席が回り、バッターボックスの所定の位置に立つように、しっかりと二本の脚をそこに添えた。
 
 彼がこういう行為に及んだのも、彼自身が言うようにとっさにある言葉が脳裏に浮かんだからであった。

 それは健二にとっては一体誰が言った言葉かは思い出せないが、この瞬間、この光景にピッタリと合致したような気がしたからであった。

 …だってアイツらの試合ってつまんないじゃん? 例えば打者がヒットを打って塁に出たとしても、最初に考えるのが、次にどう繋げようか、それとも、そいつをどうやって次の塁に進ませようか、とかそんなじゃん。見てくれている客のことなんて一切考えてない。もし俺が監督だったら迷いもせずに打てって命令するけどな。だってそうだろ? そんな試合見てて面白いか? 面白いと思わせられるか? どう考えても見てる奴に対して失礼だと思わないか?

 これらの言葉が頭の中でフワフワと旋回し己に命令を下し、自然に自分自身の手足を操り、バットを彼の後頭部へと打ちつける原動力となったのだった。
 彼が工藤一志を殺した理由は、何者かが作り出した下らない空気の一端にすぎなかったのだ。

──空気が殺す──終わり

空気が殺す

空気が殺す

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-03-10

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