藍色の海と金色の大陸

 クロード・カイツの一日は、自宅の郵便受けを開ける事から始まる。そこに督促状が入っていないか確かめるためである。
さほど意味のある行動ではない。いかに支払いを先送りにするか、という思考は常日頃から頭にあるのだから、催促されても出来る事はない。手紙も朝届くとは限らないのだ。
それでもこうして中身が空の郵便受けを見ると、彼は心の底からほっとする。
そして潮風が運んでくる腐臭に顔をしかめる。そこまで含めて朝の日課になっていた。

「……」

屋敷が建つ小高い丘から、クロードは抜けるような蒼穹に抱かれた街と、その向こうにある広大な埋立地を見渡した。
ゾンビとゴーレムを引き連れたアルケミスト達は、そろそろ街の中心部にまで住み着こうという気配だ。
本来埋立地に居るべき彼らの要求は、毎日のようにクロードの郵便受けへ届く。
その要求に応えない限り、彼らが街の侵犯をやめる事はない。
領主であるクロードの苦悩は、そのまま街全体の苦悩でもあった。

 今日は街に客人がくる。
大事な客人なので、クロードは屋敷の掃除をしている。中を見せる予定はないが、泥まみれの廊下にジャガイモの皮が落ちているような体たらくを万一にも見せたくない。昨夜、そのジャガイモを洗った水で石畳を濯ぎ、ブラシで磨いていく。
先代の領主が住んだ広い屋敷。
だがクロードは客間の1つしか使っていないので、点在する燭台の灯もその多くが消えて久しい。
限られたスペースであれば掃除も楽だった。

客が住む予定の家は既に掃除を住ませてある。
仮にも領主が卑屈になりすぎてはいけないという意識から、自宅よりもわずかに小さい家を選んだ。行き来の利便性も考えてこの近辺から、と選ぶ条件はいろいろ付いたが、探すのに苦労はしなかった。
かつて漁業で栄えたこの街も、石を投げれば空き家に当たる程には寂れている。
もっともそれは産業に関わらず、海沿いにある街なら概ねそうだ。
誰もが海の怪物を恐れ、内地へ移ろうとしている。さほど知性はないものの数が多く、何より接触した生物を同じ怪物に変えてしまうことが、海沿いに住む人々の恐怖心を煽りつづけていた。
異変は大陸全土に広がり、最上の対抗手段はゾンビやゴーレムなどの非生物――それを操るアルケミスト達の手にある。
クロード達にとっても、彼らは無くてはならない存在だ。

「……」

クロードの仕える国は小さく、内地の人口増加に伴う領土争いに巻き込まれ刻一刻と疲弊している。
以前なら海岸線を守るこの街「ベミエラ」には物資の特配があり、アルケミストと市民は十分な食料にありついていた。その頃は良好だった双方の関係も、国の疲弊から特配が減るにつれ悪化していく。

――トン、トン

「……?」

玄関の分厚い木のドアを叩くものがいる。
例の客人かと思い、水浸しの床の言い訳を考えながらドアを開けたが、その必要はなかった。
来客を一目見てクロードは盛大に舌打ちした。

 ドアの向こうには、ゾンビが居た。若く体格のいい白人男性で、アルケミスト達の長が伝令にしている死体だ。このゾンビとは街に赴任してからの付き合いだが、信じ難いことに3年前のその時とほぼ同じ姿を保っている。
土気色の顔と白濁した瞳は紛れもなく死人のものだが、露出した肌が腐っている様子はない。漂ってくる腐臭も慣れれば感じない程度だ。

「……」

ゾンビは喋ることもあるが、自我は既にない。なので会話は成立しない。
今回も彼は黙って手紙を差し出すだけで、クロードがそれを受け取ると、緩慢ながらもしっかりとした足取りで帰っていく。

「……」

便箋を開く。物資の要求、と冒頭にある。いつもの事だった。
規定の袋で小麦粉を100袋、豚50頭、ぶどう酒を500本、そして埋立地で働く奴隷を、新たに30人。
目頭を押さえて怒りを堪える。同じ要求に応えたのが2週間前、それでアルケミスト達は1ヶ月暮らせると見込んでいたのに。
加えて奴隷を新たにというが、断腸の思いで送り出した人々は1人も帰ってこない。
その上で奴隷を要求するということが、人心にどういう影響を与えるかわかっているのか――。

「はぁ」

ともかく、アルケミストはベミエラの街にとって、すでに守護者ではなく脅迫者だ。
奴隷とは元々この街の市民であり、同時に人質でもある彼らを盾に食料を要求し、満たされなければ街を侵犯する。
そして要求に応えようにも、ベミエラは海の異変から漁業を封じられ、畜産や農業には得体の知れない病が蔓延り、それを解決すべき知識層である貴族は内地へ逃れ去って久しい。
限界が近かった。もはや街の機能は瓦解を始めている。

そんな折、藁にも縋る思いで冒険者ギルドの知人に手紙を出したところ、魔術師ギルド経由でシャーマンを1人紹介すると返事が来た。
シャーマンといえば魔術師の中でも異端で、精霊の働きを助けたり、あるいは抑えたりすることで作物の豊穣や病気の予防など、自然現象に働きかける魔術師である。
局地的破壊をすぐさま引き起こすソーサラーとは違い、時間をかけて広範囲に異変を起こす。
中でも一番の特徴は、精霊を糧に神々を召還するという点だ。
だが呼ばれた神々が言う事を聞くとは限らない上、彼らに精霊を食いつくされた地域は荒れ果て、草木も生えぬ不毛の地となる。
このように魔術師達は長い歴史の中、魔道の探求やそれに伴う儀式などで社会に害なす事が多かった。
古くから国家と民を支えてきた教会のプリーストとは対照的な存在であり、故に教会と魔術師ギルドは対立している。
わけてもシャーマンは一神教を布く教会はもちろん、身内の魔術師からも魔法の作用副作用を長く残しがちという理由で嫌われている。

シャーマンとは、広く迫害を受けている存在なのだ。シャーマンを見つけると即座にその首をはねるような地域もある。
だが街の現状を変えてくれるなら、そんな事はどうでも良かった。
報酬は結果に応じた後払いという条件を先方が受け入れた事で、クロードは依頼を決めた。

掃除を終え、自室に戻って軍服を着る。青服に黒いマントを羽織る姿は騎士のものだ。
前の領主は既に逃げ、自分がその代役を勤めているが、この地位に執着したことはなかった。
それでもこの地に留まっているのは、彼が騎士だからである。
皺だらけの軍服のようになってしまった誇りだけが、彼をこの地につなぎ止めている。……。

 領主代役のクロードという騎士から依頼を受け、バルガは彼の治める街へとやってきた。
草原に挟まれた街道から街の門をくぐると、海まで続く緩やかな段丘の上にレンガ造りの街並みが見えてくる。赤い街並みの中にクリーム色の路が張り巡らされていて、頻繁に足休めが設けられた蛇行する階段がその半分近くを占めるようでもある。
ここから年寄り衆へ配慮と、街の歴史の長さが伺えた。

『植物が豊富だね』
『ああ、数だけはな』

頭の中に直接響いてくる鈴を転がすような声に、バルガは同じく念話で応じた。
一見単独に見える彼には連れが1人いる。名前はウルザで、バルガのすぐ後ろを歩いている。
が、その姿は誰にも見えていない。

『種類はそう多くない。塩害に強いのを適当に植えたんだろうよ。
 だが管理する奴がもういねぇんだな、枯れかけばかりだ。精霊共も見限ってる」
『……大丈夫なの?』
『何が?』
『上手くいきそう?』
『人間次第だ』

垢じみた黒いローブに泥だらけのブーツという旅姿で、明らかによそ者とわかるバルガを街の人々が物珍しげに眺めている。
「ほんとにきたんだ」と呆れたように言う人へにこやかに笑いかけ、別の人が「案内を?」と遠慮がちに申し出ればそれを丁重に断る。
彼らが自分を「先生」と呼ぶことから、シャーマンという身分が約束通り秘匿されている事が解った。
今のバルガは学者である。……そういうことになっている。

「まずは食料の増産から始めたい。今から家畜と畑について、君の下で働く者のところへ案内する」

クロードとバルガは互いに名乗り終えた後、歩きながら世間話を始めた。
ほんのやりとり数回でクロードは口調を打ち解けたものに変えた。バルガという青年を軽く見た訳ではなく、彼の人柄を親しみやすいと感じたからである。歳もクロードが38、バルガが27と離れている。

「道中、何事も無かったかな。内地の治安もだいぶ悪化しているらしいが」
「ここへ来る途中いくつか街に寄りましたが、半分は独立していました。安定しているのは首都くらいでしょうか」
「ふうん。そうだろうな。国境の様子は見たか?」
「ええ」
「どんな感じだ?」
「帝国軍はいったん引き返したようです。この国は内部からも崩壊を始めていますから、侵略は後回しにしてもいいと判断したのではないでしょうか」
「……」

つまり今までどおり、国の手助けは期待できないということだ。
今の時代、国の威信は海岸線を守れるか否かに掛かっている。放っておけば海の怪物達は、陸地を海に変えていってしまうのだ。それを防げるかどうかが、教会と自分達が迫害してきた魔術師の腕次第かと思うと、クロードの頬を自嘲の笑みがよぎる。

(しかしまぁ、物怖じしない言い方だ)

騎士を前にして貴方の国は崩壊寸前などと。だが不快には思わなかった。

「バルガ、私のことはクロードと呼べ。口調も崩していい」
「……。そうかい?じゃ、そうさせてもらうよ。改めてよろしく、クロード」
「うん」

率直な言動と柔らかな物腰が両立している様から、かえって育ちのよさが伺える。
卑屈なだけの人間よりはよほど好もしい、とクロードは思った。

「とにかく。まずは畑の方から行こう。子供だが頭も良くて、大人に負けないくらい働く――、?」
「どうかした?」
「いや」

クロードは思わず苦笑いして、隣を歩くバルガの様子を観察した。

「いま、私の尻を触らなかったか?」
「え?」

バルガは目を丸くした。ついで、一歩距離を置いた。

「おいおい、誤解するなよ。というより、ほんとに君じゃないのかぁ?触るというより、摘むくらい強くだが……」

クロードは背後を見渡した。
微量の困惑と緊張を感じている。なんといっても今日初めて会う相手、それも魔術師、おまけに接する機会がほとんどなかった黄色人種だ。
バルガの柔和な微笑みに対する印象が少し変わる。よく見れば何を考えているか分からないようでもある。

「……触ってないよ。そんなことより、早く目的地へ行こう」
「ああ……」

クロードはもう一度背後を振り返った後、先ほどよりも少し距離を置いてバルガに並んだ。

『……てめェ、後で覚えとけよ』
『……にししっ』

念話は当然、クロードには聞こえていない。

「恨みっこなしだからね」

アルケミストの慰み者になる女。それを決めるくじを片手にヘラは呟いた。
リーダー格の彼女に視線を集中させながら、同じ年頃の少女達が頷く。数は20人弱というところだ。
小さな子どもではないが、大人と言うには若い彼女たちによる、今後の人生を賭けた大勝負である。生きて帰ってきた奴隷はいないのだから、彼女達の認識は決して大げさではない。

この地区から何人行く事になるか分からないから、くじには人数分の番号が振られている。
3人行く事になったら、番号が若い順から3人行く。自殺者が出た場合、補欠を選ぶくじ引きが行われ、自殺者の家族は冷遇される。彼女らが独自に行っているこのくじ引きだが、その取り決めは命より重い。

農具小屋の窓から日差しが降り注いで、藁の散らばった土の地面を照らす。穏やかな陽気だった。
暢気な小鳥の囀りと、緊張と恐れにすすり泣く少女の声が聞こえる。

「―――」

全員の手がくじに伸びかけた時、戸の向こうから声が聞こえてきた。

「クロード様の声よ」
「呼んでるわ。まさか、もう連れて行かれるのかしら――」

ひそひそと少女達が囁きあう。ヘラは手付かずのくじをエプロンドレスの隠しにしまい、農具を握った。

「出よう。そろそろお昼も終わりだわ」

「心配要らない。私もちゃんとくじを引くから」

畑の中心で少女らに囲まれながら、ヘラはそう宣言した。
クロードは友人で学者だというバルガを自分に紹介し、彼の下で働くようにと言ったが、それを理由にくじ引きの運命から逃れる事は許されなかった。学者の小間使いなど自分以外でも務まる。
何よりヘラは自身の目的のため、少女達の高潔なリーダーであり続ける必要があった。

少女達は畑に散っていく。彼女らが栽培するのはトウモロコシである。肥料が満足に手に入らない中、この選択は冒険と言えた。確実に量を見込めるのはジャガイモだが、年中採れる作物では金策が難しい。トウモロコシなら時期を選べば内地で高く売れる。

(ムダかもしれないけどね)

その独白はトウモロコシ栽培というより、自分の行い全てを語っているようでもある。
クロードは街からの許可無き出入りを禁じている。だがその取締りはさほど厳しくない。病気で動けない母親が居なければ、街に留まる人々を裏切ってでも、弟を連れて別の街に逃げているところだ。警備を抱き込む賄賂も手元に隠してある。

が、ヘラは母親を見捨てようと思った事はなかった。
彼女は海辺を守るこの街の再興を、決して不可能ではないと考えているからだ。
母が動けないなら、この街を平和だった頃に戻せばいい。そのためには、近くにある都市との交易を復活させねばならない。
それが出来たらまず、薬と化粧品を買って、アルケミストを客にした娼館を再開するのだ。
かつて年上の娘達がそうしていたように。
娘達がせめて攫われたままでなく、自分の家に帰れるように。

「……」

ただしそれにはタイムリミットがある。
アルケミストたちが街の全てを奪ってしまうか、あるいは自分が「当たりくじ」を引いてしまえば、それで終わりだ。
そうなれば仕方ない。だが少なくともアルケミストから「指名」を受けないために、ヘラは頭巾を被っている。

少しクセのある長い金髪と染み一つない白い肌を頭巾で、豊かな胸と細い足をダボついたエプロンドレスで隠す。
それが美しさを自覚する彼女の自衛であった。

バルガはクロードと共に豚小屋の1つへと足を向けた。
豚の間でしつこい疫病が流行っているというので、解決のためにまず視察をすることにしたのだ。
中身は小さいながらもすし詰めの状態だったが、豚はどれも痩せていた。小屋の周辺には病死したと見られる豚の死骸が体の半分を覗かせるように埋まっていて、それを見たバルガはすぐに埋めなおすよう指示した。彼は元漁師たちの無知に驚いていた。
畜産など教えなかっただろう、とは思いながらも、クロードに学校について尋ねたところ、自分が来たときには廃校してからずいぶん経っていたと答えた。当たり前のことを告げる口調だった。

クロードは豚の面倒を見ていたアベルという少年を呼び寄せた。

「アベル・オーリンズです」
「さっき紹介したヘラの弟だ。どこでも見たい場所があれば、彼に頼んでくれ」

そう言い残し、クロードは街の若者に戦闘訓練を付けるため広場へと向かう。
後で来るように、と言われてもアベルは肯じなかった。
その拒絶には何度も繰り返された跡が見えて、だからこそクロードは予定のないアベルを案内に選んだのだろう、とバルガは思った。
「じゃあまず、船着場に案内してもらおうかな」
「こちらです」

軽く微笑んでから、アベルは先導を始めた。痩せぎすの体と違い豊かに張った頬がいかにも子どもらしいが、その表情は凛として大人びている。姉と同じ少しクセのある金髪が、強い潮風に靡いた。

「武芸は嫌いかい?学業のほうが好きかな?」
「両方好きですよ」
「じゃ、なぜクロードの訓練を受けない?」
「……貴方は、一人でこの街に来たの?」
「そうだ」
「元はどこに住んでるんですか」
「旅人だよ。定住はしていない」
「護衛も連れずに?」
「……」
「自信があるんですね」
「何に?」
「両方です」
「……」
「学業と武芸」

前方で揺れるアベルの後頭部をバルガは見た。
このご時世の一人旅は、腕に覚えがあるから出来るのではない。何か事情を抱えているから一人なのだ。
悪化する治安を苗床にして組織化されていく野盗には、組織化で対抗する以外にない。
加えて最近では、街道付近にもモンスターが現れる。

「クロード様のご友人だそうですね。彼と知り合ったのはいつですか?」
「私の事が気になるかい」

歩きながらこちらを振り向いたアベルに、バルガは微笑んだ。
詮索への対応は街に来る前から決めてある。シャーマンという身分があらわれて、災いを呼ぶようなことがあれば逃げ出す。
なので緊張する必要はなかった。どうやってもなるようにしかならないからだ。

「貴方が何者で、この街をどうする気かなんてどうでもいいです。
 重要なのは、街から街へ渡る方法を持っているということです。たった一人でも」
「……」

角を曲がると、階段の踊り場にアルケミストの男が座っているのが見えた。
ゴーレムを従えた彼が「よう、アベルの坊ちゃん」と声をかけてきたので、そこで会話が一度中断する。

「誰そいつ?」
「例の学者さんですよ。船着場を見たいそうです。
 帰りもここを通ってくださいね、バルガさん。他の「関所」を通ると、多分、騒ぎになります」
「……」

にこやかに笑うバルガを鼻で笑って、アルケミストは顎で「通れ」と示す。

「……彼は?」

声がその彼に届かないほどの距離を歩いてから、バルガはそう尋ねた。

「関所の番人です。ここから先がアルケミストの領地ですから。
 食料の配給が少ないと……まぁ、あの人たちは実力行使に出るんですね。
 このままだと、街は彼らに占領されちゃいます」

そう言って、アベルは笑った。
街の行く末などに興味はない、という先ほどの言葉が繰り返されたようでもある。

「なぜ、君はアルケミストの領地に入れる?」
「僕がアルケミストの長に指名された、小間使いだから。
 長に会いたくなったら、僕を呼んでください。僕が別の街に渡る方法と引き換えです」
「なるほど。……姉さんはいいのかい?」
「……。僕1人で結構」

アベルは海へ向けて歩き出した。
必要最低限の言葉だけで行われる交渉、またその台詞一つ一つの言い回しから、自身の知恵に対するアベルの強い誇りが感じられる。
それは若さによって剥き出しにされていた。

「……」
「……どうかした?」

ふとアベルが立ち止まる。不思議に思ったバルガはアベルを追い越して、彼の顔を見た。
アベルの豊かな頬が伸びていた。さらに伸びる右頬に引っ張られるようにして首が傾く。
ひとりでに頬が伸びていく様はさながら手品のようだった。
バルガの頬がひきつった。これは彼の顔面神経の都合であり、手品とは関係がない。

「誰かいます?」
「……いや」
「貴方……やっぱり魔術師か何かなの?今のは使い魔?」
「よく知ってるね。使い魔なんて言葉を」
「僕は本が読める立場にあります。アルケミスト達の蔵書をね」
「ふーん」

バルガはやはり柔和な微笑を浮かべながら、しかし考えうる限りの脅し文句と呪詛を念話に乗せていた。ウルザは大人しくなった。

「おお、あれが船着場かい」
「ええ、そうです」

下り坂の向こうに、それらしき街並みが見えてくる。
もっともその向こうにあるのは船でも海ではなく、広大な埋立地だったが。

「ありがとう。ここまででいいよ。読書もいいが、皆と同じように戦闘訓練するのも大事だと思うぜ」
「……」
「余計なお世話かもしれないがね」

好奇心を湛えた青い瞳に見送られながら、バルガは少し歩いた。

『あの子、呪われてるよ』
『……あ?』
『右頬に呪印があった。結構むずかしそうなやつ』
『……』
『見えなかった?わたしみつけたよ?えらい?』
『ああ……』

あの子、とはアベルのことだろう。だが呪いという単語が彼に似つかわしくなく、バルガはいまいちピンと来なかった。
呪術にも様々あるが、それらは往々にして扱いが難しく、魔術としてはかなり高度なものになる。

『たぶん、言う事聞かせる系だね。聞かないなら死んじゃうぞーみたいな』
『ふーん……』

大国の要人を呪うならまだしも、辺境のいち少年を、それなりの実力を備えたソーサラーが呪わねばならない理由が気になった。
しかしそれはともかくとして。

『ウルザ』
『はーい』

角を曲がったところでウルザを呼んだ。

『手』
『? はいはーい』

バルガが差し出した手を、ウルザは無邪気に握る。辺りを見回して誰も居ない事を確認すると、バルガは物陰へとウルザを引っ張り込んだ。

「……」

神秘によって秘匿されたウルザの存在は、誰の意識にも捉われない。彼女がどれだけ悲鳴を上げようが、それは人の耳に届かない。
彼女の長い耳をバルガは手で探り当て、つねる。それは鳩尾ほどの高さにあってとてもつねり易く、叱るときはいつもこうしている。
今回はそれだけでは済まさない。弱点のくすぐりをもわき腹に見舞う。手に伝わってくるウルザの抵抗が、瀕死の動物がするような痙攣に変わったところで、バルガはようやく手を止めた。

アルケミストの領地に入ってからは、街に人影がほとんど見られなくなった。
が、生活臭は漂っている。夜になればアルケミストやその奴隷達が、埋立地での労働から戻ってくるのだろう。
船着場に入って数分、今はもう営業していない酒場が何軒か目に付いている。
2階に売春宿を備えていた事を、風化した看板が今も報せている。

「お」

と、思わずバルガは思わず声を上げた。
4本の柱に乗ったドーム型の屋根の下に、白い岩肌を手酷く腐食された、捧げ物の跡すらない祭壇。
祭壇があると聞けばそこへ行きたくなるのがシャーマンという生き物だ。
船着場の様子を見るついでにしては思わぬ収穫である。見咎められても学者のフリで乗り切ればいい。そう考えてバルガは足早に祭壇へと近づいた。

一神教にとって祭壇は神の家にあるもので、創造主への供物をささげる場所である。
それ以外の場所にある祭壇は、創造主のために設けられたとは限らない。
多くの場合、土着の神々や偉大な死者など、人の枠外から信仰を集めうる存在を祭っている。
一神教はかつてそうした祭壇を弾圧したが、過剰な排斥はかえって布教を遅らせると学習し、今は寛容になっている。
無論、その祭壇が力を持ち、魔術師達が利用するようになれば話は別だが。

『どうだ、何かと繋がりそうか』
『うーん』

祭壇は人でないものと人を繋ぐ装置であり、人の祈りに応えるものは神と呼ばれる。
魔術師の中でも一番神に近しいとされるシャーマンでも、誰も祈りを捧げなくなったこの祭壇から神を感じ取ることはできまい。
バルガは早々に祭壇へのアクセスをウルザに任せる。

『どこかの神様が航海の安全を見守ってたみたい』
『今は?』
『もうここへは長いこと降りてない。でも、見てる』
『何を?』
『ここで死んでいくアルケミスト達。怪物になって焼かれてしまうか、海に入ってしまう人たちを』
『……』

バルガは周囲を見渡した。行き交うアルケミスト達の中、幾人かがこちらを見ている。
こちらを囲み、先ほどのような好奇ではなく、警戒と敵意をない交ぜにした視線を送ってくる。
そうした変化が、彼ら背後に広がる船着き場こそ、彼らの本拠地だと教えている。
かつて海だったであろう桟橋の下には土の地面があり、霞むほど遠くまで続いているその埋立地の上で、岩を継ぎ接ぎしただけの簡素なゴーレム達が、奴隷やゾンビと共に働いている。

はるか沖からやって来る海の怪物たちには

・海へと突出した陸地に上陸してくる
・灯りのある場所へ寄ってくる
・以前上陸してきた場所を目指してくる

という強い習性があり、これを利用して防衛準備が出来ている岸辺におびき寄せる戦術が浸透している。
埋立地では怪物を迎えるための罠仕掛けが作られているのだ。彼らと戦う上でこの準備はとても重要だった。
もし怪物たちが無差別に上陸地点を選んでいたとしたら、人類はさらに厳しい戦いを強いられていただろう。

『あ、ビジョンが残ってるよ』
『どんな?』
『怪物とゴーレム達の戦い。海から……うう、不気味な生き物が……うげぇ』

ウルザが声を暗く曇らせる。

『今はもういい。夜にでも見せてくれ』
『うん』

バルガ達は街へと登っていく。それをアルケミストの1人が呼び止めた。
足を止めると、瞬く間に彼らが囲ってくる。

「学者なんだって?」
「ええ、そうです」
「ここへ何しに来た」
「街の基盤を建て直しに。特に産業の拡充をクロード様から仰せつかっています」
「……」
「特配が充実していた頃は、市街地へ侵入するような事は無かったそうですね。
 食料の配給が元に戻れば、また以前にように振舞っていただけますか?」
「おい、何様だお前。クロードの代理にでもなったのか?」
「個人的な質問ですよ」

アルケミスト達は笑った。質問には答えずに、彼らはこう言い捨てて去っていった。

「奴隷を飢え死にさせたくなけりゃ、もっと食い物をよこしな。連中の腹具合は切迫してるぜ。
 ま。死んだら死んだでゾンビにすりゃいいんだから、俺達はかまわないんだけどよ」
「……」

ゾンビは土を食って動く事もできる。まず奴隷をこき使って殺し、より効率のいい労働力として使っているのだろう。
合理的だが、市民達から格別の憎悪を買うという副作用もある。
食糧の増産が遅れれば遅れるほど、双方の溝は深まっていくだろう。……。

「……」

夜。バルガはあてがわれた邸宅で荷物の整理をし、体を拭いた。
なにしろ長旅の後だ。垢を落としておかねば今後の活動に差し支える。こうした気配りへの重要性を彼は知っていた。
一通りその作業を終えてため息をつくと、手にしたタオルが突然消える。

『借りるよ』
『ああ。……もう出てきていいぞ』
『ほんと?』

風景の中から滲み出るようにして、タオルと共にウルザが現れた。
歳は12、3という風貌で、美しい水流のような長髪のポニーテール、剣のようにはっきりとした眉、長い睫にいたるまで毛という毛が白い。
これと対照的な濃い褐色の肌が、お互いの存在を引き立てている。
久しぶりに使う喉の調子を確かめるように鼻歌を歌いながら、白い巻垂型の衣をすぽーんと脱ぎ捨てた。

「あ、今日はするの?」
「いや、例のビジョンだけでいい」
「はーい」

早々に体を拭き終えたウルザが、寝台に横たわるバルガを跨ぐ。額と額が合わさった瞬間、バルガの夢が始まった。

ビジョンとは、神の記憶である。
神が関心を持った出来事だとか、多くの人々が刮目した光景を祭壇が記憶している、とされているが、その真偽を知るのは神だけだ。
少なくともそれが人知を超えた現象であり、ウルザの助力がなければ1年に1度も見る機会がないことは確かだった。
圧倒的な全能感がバルガを満たす。上空から地表を広く見下ろしながら、同時にそこで交わされる小声の会話さえも聞き取る事が出来る。
彼は神の知覚を得ていた。眼下には昼間に訪れた船着場、だがそこで行われている戦闘はもっと過去のものだ。

「……」

埋立地の終端を引き崩しながら上陸し、怪物達が街へと押し寄せてくる。
手足の生えた魚、頭が幾つもある蛸、外殻から長い舌を生やした蟹、目玉を幾つも備えたクラゲ……。大小さまざまなそれらを、ゾンビやゴーレムが体を張って止める。
彼らを蹴散らして進んでくる大きな怪物は、火が迎え撃つ。
よく見れば埋め立て地の上に、藁と木で組まれた箱が幾つも並んでいる。
油を仕込んであるのか、アルケミストたちが放った火矢を受けると、それらは瞬く間に火の手を上げた。
すると事前の計算通り、幾重にも立ち上った炎の壁が怪物達の行く手を阻む。
しかしそれでも止まらない者が、ついにアルケミスト達を牙にかけた。
瞬間、後ろから飛んできた火矢が彼らの周りに落ち、無事な人々をも一緒くたにして焼いていく。
怪物の群れと共に、火壁の群れも船着場に迫る。
そこへ。

「――――」

鳶色のマントを纏った魔術師が高らかに号令をかけた。
その人は魔力を蓄えた魔晶石を、惜しむことなく樽一個ほども使い、杖を掲げながら詠唱に入る。
ソーサラーの魔術である。他にもその心得があるアルケミスト達が、号令に従って鳶色の魔術師を補佐する。

(こいつが長か)

女だった。羊めいた2本の角を側頭部から生やし、黒い眼球に黄金の瞳を浮かべる妙齢の女。
呼び名は蔑称から雅名まで様々あるが、一般的に魔族と呼ばれる種族だ。
人間よりも長い寿命と高い知性を持つ彼らは、それが災いしてか数を増やす事にかけて大きく遅れを取った。
結局人間に敗北した彼らは、嫉妬交じりの差別を受けながら、人間に使われて暮らしている。
彼女自身純血ではないのだろう、燃えるような赤い髪には、魔族には無いはずの黒が幾筋か混じり、角も小ぶりだった。

「――――」

魔術の詠唱が完成する。身を伏せた周囲の人々の着る服が、狂ったように激しくはためく。
やがてその強風は指向性を持ち、船着場から埋立地を一気に駆け抜けた。
空を覆う黒煙が一瞬にして消え去り、勢いを増して黄金色となった炎が大きく波打つ。
10分もその状態が続いただろうか。さすが魔族、たいしたものだとバルガは思った。
ソーサラーなのか、アルケミストなのか。もし両面でこれほどの力量を持つのなら尊敬に値する。
船着場の上で投石器が準備を完了していたが、炎の波を掻き分けて出てくる者は居ない。

「……」

やがて風は止み、あたりに静けさが戻る。
重い疲労のためだろう、さしもの長も膝を付き、周囲の人が気遣わしげに彼女をカスケイド様、と呼ぶ。
炎は燻りながら明け方まで燃え続け、その後日が高くなっても彼女は目覚めなかった。

「……」

腹に乗っているウルザの頭を押しのけ、そこに出来た涎の水溜りを彼女の服でふき取ってから、バルガは考え込んだ。
時刻は明け方である。ビジョンを含め、昨日一日で得た街の情報を整理する。

海沿いの街には危険の対価として特別配給があるが、これが激減してアルケミストに回す食料が足りていない。
産業は農業と畜産以外ほぼ動いておらず、それらも市民が解決できない不作や病気に見舞われている。
街からの出入りは兵士達によって規制されている。だがそれを取締る兵士にすら逃げ出すものが出てきている。
アルケミスト達は略奪めいたやり方で人や食料を無造作に要求し、満たされなければ市街地へと侵入してそこに住み着く。

市民とアルケミスト。これら2つの陣営は根を同じくした苦境に立たされながら、団結が難しい状況にあるだろう。
特に力を持たない市民の不満は考察するまでもなく明らかで、危険を冒しても街を抜けたいと思っている人は相当数いると考えられた。

「クロードの所へ行くぞ」

バルガはウルザを揺り起こし、知る事で新たに生まれた疑問を解消すべく、ベッドを出た。

「コーヒーでも?」
「いや、お構いなく」
「ま、そんなもの無いんだけどな」

クロードの家を訪れると、門扉の郵便受けを確認している彼とばったり会った。そのままバルガは中へと招かれた。
勧められた椅子に座り、来る途中で用意していた言葉を反芻してみる。
ふとクロードを見ると、寝起きなのか大きな欠伸をしていた。対面の椅子に座って横柄に足を組み、横を向いて頭をぼりぼりとかいている。
バルガは薄く笑った。反芻を止め、疑問を率直にぶつける。

「この街じゃ、過去に何回くらい暴動が起きたかな」
「それがなぁ……一度もない」
「本当かい」

驚いた。てっきり市民の不満は何度も爆発しているものと思っていた。

「驚くような事じゃない。連中に取られた奴隷は人質みたいなものだ。市民達もそう易々と手は出せない。
 それに……アルケミストの側に恐ろしい魔術師がいる」
「なるほど」

ビジョンの中で、カスケイドと呼ばれていたあの魔族。彼女を恐れて暴動が起きないのは頷ける。

「では出奔希望の市民が、その、兵士を押しのけて出て行くようなことは?」
「それも無かった。まぁ、それ程厳しく取り締まっていなかったし」
「というと?」
「この街から絶対に出さない、というほど脱走者に厳しくないんだ」
「見つけたら処刑じゃないのかい?」
「その通りだ。”見つけたら”な」
「……なるほど」
「賄賂なり、何なり……それこそ女なら誑かすなり。脱走するなら代価が必要になる。
そうした旨味が、兵士をここに踏みとどまらせる一因になってる。メリットもあるのさ」
「……」
「あとは、そう、恨みだね」
「アルケミストへの?」
「この街から兵士を徴用してる。そろそろ連れてきた兵士より多くなるよ」
「……」
「いつかアルケミストを倒して、奴隷として囚われた家族を取り戻す……進んで残ってるのはそういう意志のある人だ。
 もしくは何らかの事情があって、街から出られない人か」
「君はどうするつもりだい。いよいよ、となったら戦うのか?それとも逃げる?」
「もし戦いの気運を抑え切れなくなったら、付き合うさ。私にもその責任があろう」

本気か、とバルガは思った。
クロードの役目はそもそも野盗やモンスターから街を守る事であり、アルケミストを倒す事ではないはずだ。
当たり前の話だが、アルケミストたちが居なくなれば、街は遠からず海に沈む。

「その後は?」
「さぁ。その時考えよう。そして、そうならないように君を呼んだのだ」

バルガは頷いた。

「ところで、カスケイドという女性に会ったことは?」
「三度ある。個人的には余り拝みたい顔じゃない」
「彼女、首輪をしてないね」
「よく知ってるな。会ったのか?」

アルケミストは大抵の場合、ギルドが支給する首輪をしている。
首輪をしているものは、国家がギルドに出向させた罪人である。
この首輪はギルドの限られた人間にしか外せず、身に付けている限りどの街や勢力も彼らを受け入れない。
そうでもしなければ海岸線は守れないのだ。
最近ではアルケミストであるだけで、冤罪を作られる理由になるという噂が大陸全土に広まっている。

「いや、直接は会ってない。……海の近くに祭壇があるだろう?」
「ああ」
「あそこに保存されている映像を見た。美人だねぇ、彼女」
「へぇ。映像。魔術っていうのは便利なものだな」

騎士と言えばプリーストの修行も積んでいるはずで、いわば教会の息が掛かった人間だ。
それでも、クロードには魔術師を差別する様子が全くない。バルガは少し嬉しくなった。

「……ふん、カスケイドも哀れなやつなのさ。
 別に犯罪者というわけでもないのに、魔術師ギルドからこの海岸線を守るよう強いられている。
 夫と息子が居るらしくてな。彼らが人質になっているらしい」
「その人質は今どこに?」
「魔術師ギルドの関係者が知ってるらしい。
異変の後はアルケミストとしてやってるが、その前も便利に使われていたらしいな」
「何年くらい?」
「40年にもなるとさ。夫は人間らしいから、生きちゃいまいな。
 そうだ、君、後釜に立候補したらどうだ?うまいこと行ったら楽に街を救えるかも」
「私はそういうの専門外だよ。でも知り合いに適当なのが居るな。追加で呼ぶかい?」

2人は大口を開けて笑った。クロードはカスケイドを特別恨んでいる訳ではなさそうだった。

「カスケイドといえば、気になるのはアベル君かな」
「ああ……説明しようと思ったが、私もカスケイドとアベルの関係を詳しく知らなくてね。
 その件についてはアベルから直接聞いてくれ」
「知らない?……説明させてないのかい?」
「喋ろうとしないんだ。だが、カスケイドの方から毎日の面会を望むくらいだから”気に入られている”んだろうね。
 アベルの方も、カスケイドの肩を持つような言動が目立ってな……正直、困ってる」
「そうかい。じゃ、街におけるアベルの立場っていうのは……」
「悪いね。最悪だ。正直君の下に付けたのは、市民から隔離する意味もあるよ。
 あの年頃であの境遇は、少し不憫だからね」

もはや戦争目前という市民とアルケミスト両陣営の間を、コウモリのように行き来する少年。
だが、そんなアベルの顔には殴られたような跡一つない。暴動が起きたこともないという話をあわせて考えれば、街の民度の高さが伺えるようでもある。
その理由をバルガが知るのは、もう少し後のことだった。

「最後にもう一つだけ。市民達に「海の怪物」とアルケミストの戦いを見せたことは?」
「ない」
「……。アレを見せればさ、少しはアルケミストへの感情も良くなるんじゃない?」
「良くはならない。ただ畏れ敬うだけだ。魚の化物とセットでな。
 それで戦争を遠ざけられたとしても、両者の距離は開いたままだ」
「……」
「第一、あんなものを見せてしまったら。いま街に踏みとどまっている人も、奴隷になった家族を見捨てて逃げ出すだろうよ。
 私はそんな光景を見たくない――」
「……」

海の怪物が恐ろしい事は子供でも知っている。
だがその恐ろしさを実際に体感した人は、幸いな事に少ない。それは身を挺している人がいるからだ。
クロードもバルガも、お互いの主張に利点と問題点が混在している事を知っている。
その上で、やはりクロードの主張が優先された。街を治めているのは彼だからである。

腐った床を踏み抜かないよう気を付けながら、アベルは窓から身を乗り出した。
手にした本を叩くと、立ち上った埃が午後の日差しを遮って土の地面に陰を作る。
本の表題には「戦場兵器について」とある。刀剣や防具から弓、投石器に至るまで多岐にわたる解説が記してあり、この家にある似たような本を手当たり次第にアベルは読んでいた。

家の持ち主は失踪し、今はカスケイドの倉庫として扱われている。門番のゴーレムは主人とアベル以外を中へ通さない。
アベルにとって1人になれる貴重な空間だ。空き時間のほとんどをここで過ごすことで、彼は市民から向けられる悪意を避けている。

彼の意識は街での生活よりも、いま手の中にある設計図に注がれている。
描いてあるのは武器だ。特に投石機や弓の射程距離を伸ばしたり、連射機能を与える知恵を頭から捻り出そうとしている。
アルケミスト達が開発したという爆弾も彼の興味をそそったが、アベルは火薬の威力を知らない。
まったく未知の動力を当てにするのは不可能だった。ならばいま出来ることは、既知の投石機や弓を改良することだ。
仕掛けの中にある歯車を動かす際、人力でなくもっと効率の良い動力を使いたい。
強大な力を途切れる事無く供給してくれる何か。……その先が浮かばず、彼の設計は全く同じ場所で何度めかの頓挫をする。
剣や槍を設計してみても身が入らない。動力、動力!その考察が彼の頭脳を独占していた。

そうして日が傾くまで時間を無駄にした後、倉庫から通りに出ると、待ち伏せしていた姉が行く手を阻んだ。

「……」
「……」

頭一つ分も背の高いヘラが、黙ってアベルを見下ろす。
かつては恐ろしかったその無言と無表情に、いまアベルは余裕を持って相対することが出来る。
むろん、彼女の憤怒が何を根にしているかも知っている。アベルが戦闘訓練に参加しないからだ。

「どいてくんない?」
「今日も行かなかったわね」
「……」

戦闘訓練に、である。アベルはこれ見よがしにため息をついた。

「あの訓練は誰と戦うためにやってんだよ。……何度目だ?この話」
「……」
「アルケミストを倒して、ここから逃げる。街の連中が考えてるのはそれだけだ。
 もしそうなったら……動けない母さんをどうすんだよ。置いてくのか?ええ?」

アベルは母親の事など気にかけていなかったが、姉が街に残っているのは母親のためだと知っている。
そして姉が戦闘訓練に参加しろと言うのも、単に世間体の為だという事も知っている。
アルケミストを憎んでいない者はいない。だから訓練に参加しない者は白い目で見られる。
それは嫌だから、アルケミストを倒す訓練に参加しろ。でも母親も助けたい。
馬鹿な女らしい矛盾だ、とアベルは思った。

「戦争になんかならないわ。クロード様だってほんとは戦いたくないのよ。
 要は奴隷になった人が戻ってくればいいんでしょ?女が家に帰れればいいんでしょ?
 ……私達が何とかするから、あんたも捻くれてないで、皆と仲直りしなさい」
「私が?何とかするって?」

アベルは嗤った。

「”おまえごとき”に何が出来るって言うんだよ?笑わせるな」
「……!」

ヘラの利き腕へ注意を払っていたアベルは、飛んできた平手打ちを首を傾けるだけでかわすことが出来た。
おそらくこの女は、今でも僕に勝てると思っているのだろう。いや、あるいはそんな発想すら無いのかも知れない。
つまり、殴り返されることなどそもそも想定していない。昔から生意気だったヘラが男の腕力に屈する場面をアベルは何度か見ているが、そうした経験則を弟に当てはめる事はしないらしい。

(思い知らせてやろうか?)

積年の恨みもあって、近頃はたびたびそうした思考が頭を過ぎるが、くだらないことだった。

「きゃあぁぁ!?」

平手打ちを放ったヘラの方が、つんのめって転ぶ。一瞬、何をされたのか解らず目をぱちくりとさせた。

「ア、アベル……」
「……」

ただ”転ばせた”だけで怯えの表情を見せている姉を鼻で嗤って、アベルは船着場へと歩いていった。
ヘラは深いため息をつきながら、その背を見送るしかなかった。

夕日を望む埋立地に、それぞれ小剣を手にした女と少年がいる。2人は戦うための訓練をしている。
教えている女の方は惚けた様に剣をだらんと提げていて、跪きながらぜぇぜぇと息を切らしている生徒との力量差は歴然としていた。

「街に学者が来たそうね」

低く掠れた声が頭上から降ってくる。アベルは忙しい呼吸の合間を縫って、なんとか「はい」と返事をした。

「どんな男?おまえの直感的な感想を聞かせなさい」
「魔術師、かも、しれません」

答えながら、アベルは先を丸めた小剣を握り直し、立ち上がり際にカスケイドを突いた。
逆の手で砂を握り、相手に浴びせながら。だが視界を奪われたのはアベルの方だ。
顔にぶつかって来た物を反射的に払いのけると、鳶色のマントが砂浜に落ちた。カスケイドの物である。

「ぎああああ!」

手の甲からばちん、という音がして、激痛が全身を駆け巡る。
だがアベルは剣を取り落とさず、すかさず繰り出された額への突きをも避けた。
ここで剣を落として手を抱えようものなら、更なる苦痛に襲われるのだ。
苦痛の表明は媚びだとカスケイドは言う。そして媚びる事で許してもらおうとする心理は、真剣勝負の最中にすら表面化する、と。
まずはその甘えを殺すことから、アベルの訓練は始まった。

「どうしてそう思うのかしら?」
「ほっぺたを……引っ張られて」
「それがなに?」
「見えない誰かに」

カスケイドの動きが止まった。

「見えない?」
「見えないし、聞こえません。ほっぺたも体が傾くくらい強く引っ張られたのに、”触られた感触はない”んです」
「……」
「だから、使い魔か何かが隠れてるのかなって」

自身の存在を希薄にする魔術はある。
例えばソーサラーの扱う魔術、コンシール。これはそれなりに高度なもので、扱える魔術師はおおよそクラス3以上と見込まれる。
クラス2で一人前、クラス3ともなれば弟子を取る者もいる中、クラス4のカスケイドは相応に稀有な存在だ。
そのカスケイドでさえ、用いれば集中力のほとんどを奪われる魔術、コンシール。

(ほっぺたを引っ張る……?)

悪戯のためにそんな魔術を用いるものはいない。少なくともカスケイドには目的が想像できなかった。
おそらく念動力か何かだろう。益体もない魔力の使い方だが、魔術師なら出来る。

「今日はもうおしまい。ソーサラーの修行を始めるわよ」

アベルの突進をかわし、横合いから前蹴りを叩き込みながらカスケイドは言った。
賢く器用なアベルは、ソーサラーとしてもシーフとしても見込みがある。
どちらもクラス1相当の実力だ。彼を見出して1年、カスケイドの想像以上に彼の成長は早い。
あとは実際の冒険が彼を鍛え上げるだろう。そろそろ街から送り出す算段を付けてもいいのだが。

「……」

這いつくばって呻き声をあげているアベルの背をさすってやる。
まだ早い。呪いは乱発できる魔術ではないから、1度に1人しか管理できない。1人前以上に育て上げてからでも遅くはないだろう。未熟なまま送り出して、アベルが死にでもしたら元も子もない。
正論だとカスケイド自身も思うが、この判断を後押ししているのが、アベルに移ってしまった情である事も自覚してもいる。
実際の冒険が彼を鍛え上げる、と考えることも出来るのに、アベルの死そのものを忌避する考えに彼女は支配され始めていた。

剣と魔術と女を教える事を通して、呪い以外でも彼の心を縛る狙いは達成できているようだが、自分が絡め取られては様にならない、と彼女は自嘲する。
アベルの頬に浮かぶ呪印を見つめ、今なお記憶の中で色褪せない、幼かった息子の顔を思い出す。
アベルには彼を救ってもらわなくてはならないのだ。

「……」

鈍りそうになる判断力を奮い立たせ、次の季節に移ろうまでには送り出す、と改めて心に決めた。

○+

同じ頃、バルガの邸宅には寝台に腰掛けて書面に見入る主と、部屋の隅っこで拗ねているウルザが居た。

「これは……すごいな。肝心な所が欠けちゃあいるが」
「……あっそー」

アベルの監視をウルザに頼んで僅か1日。
彼が兵器の設計をしているらしいと聞いたバルガは、その概要を図面に起こさせた。
ウルザの書く図面は幼児の落書きめいていたが、要点は押さえてある。
バルガは連続投石器、と仮に名づけられたこの兵器は、十二分に新兵器として大陸全土に受け入れられるだろうと思った。
ただし”動力の目処が付けば”だが。

「人力で運用しようとすれば、装置が大きくなりすぎてスペースを取る……
 実戦経験もないだろうに、良くそんな所まで気が回る」
「………………ねぇ。わたしへのお礼は?」
「ありがとう、たすかるよ」
「……」
「なるほど、カスケイドが呪うのも解る。彼女の目的はやはり――」
「……うぐぐぐぐぐ」

おざなりを絵に描いたようなバルガの礼に、ウルザが地団太を踏む。
構って欲しいと言っても上の空。嫌がらせにほっぺたを引っ張っても無視。書類を取り上げると、耳を引っ張ってくる。痛い。

「ふん。仕事しなくていいの?畑を豊作にしないといけないんだよね」
「ああ、もう手は打ってある。明日は帰りが遅くなるから、適当に遊んでろ。……姿は現すなよ」
「……はーい」

ウルザは不貞寝した。それをよそに、バルガは深い考察へと沈んでいく。

「……」

アベルはこの発明を戦場に持ち込もうとしているようだが、それでは大して広まらないだろう。
弓矢の発達により、戦場では投石器の出番が減っているからだ。
だが持ち込む場所が、世界中の埋立地なら話は別である。これは海の怪物に対してこそ使われるべき兵器だ。
海の怪物は打撃と火に弱い。あの柔らかくぬめった肌に斬撃や刺突は効果が薄い。
海岸線で弓矢が使われるのはあくまで着火のためで、海の怪物を殺傷するなら投石のほうが適している。

連続投石器が完成し、船着場に設置されれば、アルケミスト達の負担は劇的に減るだろう。
それは奴隷解放へ一歩近づく事を意味するのだが、連続投石器の存在が街で話題に上がったことはない。

「……」

アベルはこの兵器について、クロードやカスケイドに共同開発を諮ったことはあるのか……だがそれを当事者達に聞くわけにはいかない。
アベルがあの部屋で、本に埋もれながら何をしているのか。ウルザという神秘が居なければ、バルガは知り得なかったからだ。
ウルザの存在だけは、何があっても秘匿せねばならない。
だから結局のところ、この兵器をベミエラに設置するためには、アベルの方から人に協力を求めるよう仕向けるしかない。

カスケイドがアベルを呪ったのは、自分の家族を彼に助け出させるためだろう。
そんな個人的事情のために、アベルの兵器開発を中断させるわけにはいかない。
何か手立てはないものか。バルガは朝まで考えていたが結局妙案は浮かばなかった。

内心の不満を抑えながら、ヘラは近所中を駆けずり回って農家の家人を集めた。
家々の子供らを伝令にして、他の地区にも同じ内容を伝える。
街に来た学者が、不作を解決するための説明を行う、と。

「バルガ・クインシーです。よろしく」

柔和な笑みに明るい声、能う限り親しみやすい振る舞いを心がけて挨拶したが、群衆からの応えはなかった。
老若男女が皆一様に顔を見合わせている。率直な期待を浮かべる顔、疑念を浮かべる顔、中には怒りを浮かべる顔もある。
怒り。それも結構な数だ。おそらくは収穫物をアルケミストに流す事、またその為に自分達を働かせようとするバルガへの怒り。
時に目は口程にものを言う。その声無き表明にバルガは囲まれていた。
自滅的で、この街を見限った証しでもあるその表明と、彼は向き合わねばならない。
なぜなら海岸線には誰かが残らねばならないからだ。
自分は残る気はないが、街の人々にはここに根を下ろしてもらう。
バルガの仕事はそういう仕事である。

不作の原因はゾンビがもたらす不衛生のためという噂が立っているが、これに根拠はない。
この街のゾンビはとてもよく腐敗が抑制されているし、腐敗したゾンビが農業をして豊作が起きた例もやまほどある。
この閉ざされた街にはそうした知識さえ入ってこないのだ。いや、住む人々には知識への関心さえないかもしれない。
クロードの話を信じるなら、戦うか脱出するか。市民はそのどちらかに未来を見出しているはずである。

「まずはこれを見てください」

広場には大人が抱えて一周半ほどの壷がいくつか並んでいて、中には貝殻が入っている。バルガはそのうちの一つをつまんだ。

「貝殻です。あ、見るの久しぶりだったりします?」
「……どっから拾ってきたんだい」
「海の近くから。浜に近い埋立地を掘り起こして、いくつか拾ってきてもらいました」
「誰に?」
「ゾンビです。アベルに頼んで、ネクロマンサーの長にお願いしてもらいました
これを使えば、不作を解決出来ると思います」

群衆がどよめく。今度も反応は様々だったが、バルガは先ほど怒りを表明していた人々を特に観察した。
彼らは何より、ネクロマンサーが街のために動いたという事実を”受け入れ難い”らしかった。
バルガの横に立たされているアベルにも、険しい視線が注がれている。根深い不信が突然ぬぐわれるようなことはなく、彼の仕事を評価する声は上がらない。だがその沈黙はどこか苦しげだった。
例えばさんざん周囲に迷惑をかけ続けた無頼漢が、ふとした時に人々のためになるような事をする。
すると人によっては、彼に背反する感情を同時に抱く。
群衆がアベルに向ける感情を、そうしたジレンマだろう。
しかし生活が苦しい時ほど、それは暗い感情に落ち着くことが多い。

「ところでアベル、例の件も相談してくれたか?」
「例の件、ですか?」
「農作業をゾンビに手伝ってもらう話。カスケイドにしてくれたか?」
「バルガさん、農作業の人手は足りています。何せ街の産業は土いじりと家畜の世話しかないんだ。
昼間以降は暇なくらいなんですよ」
「おい、それはお前だけだろ」

最前列に居た若い男が、鋭く声を上げた。

「昼から日が暮れるまで、こっちは訓練してんだ。先生が誤解するような事言うんじゃねえ」

若者の威圧にも怯まず、アベルは皮肉げな笑みを浮かべてやり返す。

「何の為の訓練だよ。ここを海に変えるためか?」
「……いまなんて言った?」
「では、今から作業の説明をします」

一歩踏み出した若者を制し、アベルの口を塞ぐ。バルガは自分の軽率な嘘を後悔していた。
賢いアベルなら自分の意図を察したとは思うが、そもそも彼には街へ溶け込む気がないらしい。
群衆に笑顔を振りまきながら、内心では頭を抱えていた。
投石器を作るにも人手がいる。彼のアイデアをこの街で具現化するためには、まず市民達と和解させねばならないのに。

「この貝殻を粉末にして、およそこれ1つあたり――」

親指ほどの大きさの二枚貝を2つに分ける。

「ジャガイモなら20、トウモロコシなら12という配分で、苗と苗の間に撒いて下さい。土に混ぜてくださっても結構です」
「何のために?」
「栄養補給です。ただ、直接根にかけないで。苗と苗の間に線を引く感じで」

実際のところ、この貝殻が栄養になるかどうかバルガには解らない。
彼にわかるのは、植物を枯らす精霊がこの貝殻を嫌うという事だけだ。
この精霊は街中といえる規模で畑に住み着いているが、害虫を退治する働きもある。
彼らを追い出すならその対策も必要だ。

(しかし、まぁ)

虫に食われても虫のせいに出来るが、苗さえ育たなければ自分の立場が悪くなる。虫のことは後回しでいい。
そういう打算も働いての、些か拙速とも言える対策だった。

打算といえば、ヘラの母親を治療している事もそうだ。
病状は既に手遅れである。骨と皮に痩せこけ、血便が止まらない彼女を苦しめているのは、病魔というよりは痛みそのものだった。
だから治療はある意味簡単で、本物の医者には及ばないバルガでも目覚ましい成果を上げている。
先が長くない母親にしてやれる事は痛みの緩和ぐらいだから、それ以外のことを考える必要はあまりない。
バルガは強い副作用がある薬も積極的に使った。

街の外にある森へ行けば薬の材料は手に入るが、保存が利かないので処方の度に足を運んでいる。
手間だったが、その手間こそがヘラに感謝される事に一役買った。
頭も良く口も達者、さらに気も強いヘラは男達とも対等の口を利き、街の少女達から崇拝に近い感情を集めているリーダー的存在で、年嵩の女達からも頼られている。
彼女の歓心と同時に、街での影響力も得るつもりだった。

「……」
「それで、慌てたダンが豚小屋の前で滑って転んでさ。豚も大騒ぎだよ。なにせあの図体だからね?
 地震が起きたかと思ったからなぁ。アベルにも見せてやりたかった」
「……」

薬の処方を終えて母親が休む頃、決まって時間帯は夜なので、バルガは姉弟と夕食を共にしている。
キッチンにある大きなテーブルに3人で付き、温かいスープとパンにありつく。
手料理を食える機会は貴重だ。バルガは打算抜きで、この食事の時間をとても楽しみにしている。
あとは会話さえ弾めば言うことはない。

兄妹は目も合わせずに食事を続ける。
やがて食べるのが早いアベルがごちそうさま、とだけ言って席を立ち、カスケイドの元へ向かう。
バルガと2人きりになって初めて、ヘラは気を抜いたようにため息をつく。いつものことだった。

「昔は仲がよかったと聞いたけど」
「今も愛してるわ。ただ……あの子にだけは上手く接する事ができないの」
「……」
「カスケイドの所に行くようになってから、みんなに冷たくされて、それであの子は荒れたの。
最初は私も叱りつけてた。せめて戦闘訓練に参加しなさいって。それで街の男達と中良くなれれば、って思ったから」
「……」
「知ってるでしょ?男同士で凄く仲が良いの、この街の兵隊は」
「ああ、知ってる」

クロードを中心にして、この街の兵士はよく纏まっている。
良い軍隊は、絆が深い軍隊だ。ひねくれた若者が徴兵を経て、社会性を身に付けるという話はどこにでもある。

「それで、どうして上手く接してやれないんだ?」
「……叱りつけてもね、態度を硬くするばかりだったから。優しくしてみたの。押してダメなら引いてみるってね」
「……」
「そうしたら……」

あのヘラが今にも泣きそうな顔をする。

「わかった。言わなくていい」
「……」

誇り高いアベルがヘラからの哀れみに直面した時、どういう対応を取ったのか。
姉のこの表情と、弟の性格をあわせて考えれば想像がつく。
気の強いヘラが怯えるほどの舌鋒。そのためにヘラもまた、硬い態度で自らを鎧うほか無かったのだろう。

「アベルは何がきっかけで、カスケイドと会うようになった?彼女はクロードとアベル以外に会わないそうだけど」
「村の若い人は、一度会ったことがあるはず。4、50人くらいまとめて呼び出されて、色々質問されたの。月が光るのは何故だと思う、とか、真上に山より高く石を投げ時、真下に落ちてこないのはなぜか、とか。よく分からないから適当に答えたわ」
「……」
「それで、アベルだけが続けて呼ばれるようになったの。たぶん、選ばれたのね。あの子が」

その通りだとバルガは思った。
カスケイドはギルドに人質を取られてこの街にいる。アベルは彼女に呪いをかけられ、街から出たがっている。
呪いは人質を解放するためにかけられたのだ。アベルは厳選された工作員、と言うわけである。

「街での生活はどうかな?」
「最悪。……と言いたいところだけど、そうでもないわ。だって希望は見出せるじゃない」
「どんな?」
「クロード様は話の通じる人だし、アルケミストは海岸へ叩き帰せばいいだけだわ。
 食べ物を配っても帰らないなら、ね」
「……」
「ここって土地は広いし、ちょっと足を伸ばせば、鉱山だってあるのよ。それに人も結構残ってるじゃない。
 新しく商売でも始めればいいのよ。そうすれば他の街と交易だって出来るわ
 海沿いにいるからって、不幸になると決めてかかる事ないのよ。きっと」
「立派なものだ」

誉めても何もでないわよ、とヘラが笑う。

「ご飯、いつもどうしてるの?」
「クロードの世話になってるけど」
「持っていってあげようと思ったけど、邪魔しちゃ悪かったかしら?」
「いや、頼むよ。正直男の手料理なんてものは―――」

○+

アベルの幸福は、知恵の行使から産まれてくる。
例えば家畜小屋を箒で掃いている時、より良い道具の姿が頭に浮かんでくる。
アイデア。知恵が結晶化したものに他ならないそれが脳髄を刺してくる感覚はたまらない。
本から知識を得る喜びなどは、彼の知的活動にとって枝葉である。
だがそれでも、目標へ到達するために知恵を使う場合、知識の助けは非情に魅力的だ。

だからアベルは、カスケイドの呪いを自ら受け入れた。本を読む権利と引き換えに。
アベルには野望がある。いずれ自分の知恵で大陸を席巻し、全てを従えてやろうという野望が。
その助けを得るために、人生を投げ出す。この取引の公平性に彼は疑問を抱かない。
こんな街で過ごす人生に、何の意味があるだろう。

「……」

ともかく、彼はいま幸福とは言い難かった。
連日こうして書物の中に埋もれながらも、久しくアイデアは浮かんでいない。
唸り声を上げながら本を叩く回数が増えた。部屋をただ歩き回っている時間が増えた。
そうして行き詰まった彼の思考は、最近はいつも同じ場所に行き付く。

バルガと言う人物。彼が街に来て半月、早くも畑に劇的な変化が起きているらしい。

まず植えるとすぐ枯れていた苗が、枯れなくなった。
例の貝殻が一役買っていることは明白で、他にも彼が選別した虫を畑に放すと、虫に食われる作物がかえって減るなど、街の大人達が思いも寄らなかった方法で状況を好転させている。
畑の次は家畜小屋である。彼は今、病気にかかった家畜を何らかの方法で見分けて治したり、手遅れのものを殺す作業を続けている。
こちらは目に見えた効果がまだ出ていないが、期待は大きい。畑の変化は家畜小屋にも聞こえているからだ。
騎士であるクロードと対等の口を利き、穏和で人の話をよく聞くバルガは市民から急速に支持を集めており、語られない彼の素性については、貴族であるという噂がまことしやかに囁かれている。
大部分の兵士を掌握しているクロードと、街の人気を二分する存在だ。

「……」

この国において、知識は相変わらず特権階級のものであるが、海の怪物が現れてからはその独占体制が緩んでいる。
にもかかわらず街の大人達を圧倒する知識量は、確かに貴族のものと思われた。
アベルもそれに期待し、兵器の事を伏せた上で「歯車を動かす動力」についてバルガから助言を得ようとしたことがある。
するとバルガは火薬の入手ルートになら心当たりがあるが、教えるには条件があると言った。
街の戦闘訓練に参加せよ、という予想外の要求に、アベルは二の足を踏む事となる。

「……」

バルガの意図はともかくとして。
自分はカスケイドの呪いに従って近く街を出る身だし、この街の戦闘訓練は外敵よりもアルケミストとの戦いを想定している。
アベルにそんなつもりはない上に、カスケイドの息が掛かった自分は訓練中にどんな扱いを受けるか解らない。

悪意は恐ろしい。これほどに彼の身を焼いている動力への探求心と、悪意への恐れが拮抗するほどに。
若く多感なアベルには、心の柔肌を鎧う術に心当たりがなかった。激しい罵倒や冷然とした無視に晒される時、顔は涼しげでも内心では嗚咽を上げている。
こうした面で彼はごく真っ当に年相応だったが、プライドの高さとよく回る舌だけは一人前以上だった。
悪意を向けられれば、それ以上の悪意を返してしまう。当然、双方の関係はよりいっそう悪くなる。
悪循環だったが、アベルには変えられなかった。
また、変える必要もない。なぜなら自分は、近いうちに街を出るのだから。
その時だけを見据えて彼は生きている。

「……?」

宙を泳いでいた視線を机の上に戻すと、すぐ異変に気づいた。そこに開いてあったはずの本が忽然と消えている。

「え、どこへ……?」

探すために周囲を見回そうと思ったその時、背後で突然に破裂音がした。
叫び声を上げながら振り返ると、もうもうと立ち込める埃の下に本が落ちていた。
今まさに探そうとしていた、机の上にあったはずの本。

「……」

背筋が寒くなる。本棚が作る死角や闇に目を配りながら、昼の日差しを取り込んでいる窓へと後ずさった。
破裂音だと思ったのは、本が落ちたときに床を叩いた音だろう。だがそんなことよりも、本がひとりでに動いた理由の方が知りたい。
いや、知りたくないようでもある。
後ろ手に窓枠を探り、一気に外へと身を躍らせた。そのまま庭を駆けて建物から遠ざかり、うららかな午後の日差しの中で身構える。

平静はほんの数秒で戻ってきた。

(そういえば最近、似たような事が――)

見えない相手に頬を引っ張られた事を思い出す。
瞬間、脳裏にバルガの顔が浮かび、激昂する。怒りが恐怖を駆逐する勢いそのままに、アベルは倉庫の中へ取って返した。
もしや使い魔に自分のアイデアを盗ませる気ではないか。そんなことは許せない!
あの連続投石器は、自分の名の下に広まるべき兵器だ。学者にも騎士にも、カスケイドにすらも譲る気はない。
あくまで、このアベル・オーリンズの名の下に!

机の上にある書類を弄られた形跡はない。それを纏めてからしっかりと抱え、改めて周囲を見回す。
すると。

『そんな怖い顔して、どうしたの?』
「……」

いかにも悪戯を楽しんでいる、といった声色が頭の中で弾んでも、今度は驚かなかった。
これでバルガが魔術師であるとはっきりした、と思っただけである。

『じゃあさ、じゃあ、○×ゲームしよ!』
「……」

アベルは再び庭に出て、姿の見えない相手と向き合っていた。
頭の中で自分と同じか、それより幼い少女と思しき声が弾んでいる。
何のことはない、彼女の要求はシンプルだった。
余人に見つからないよう、自分と遊べ。それだけだ。

「いいよ。じゃあ、勝った方が負けたほうのお願いを聞くってのはどう?」
『いー、ねぇ!』

心底うれしそうに言う。もっともずっとその調子なので、何が嬉しいのかは解らない。

「それじゃ、僕から先に行くよ。……時間制限は10秒ね」
『はーい』

砂と土が混じった灰色の地面で、○×ゲームが展開される。
何のことはない。こんなものは引き分けになることが決まっているゲーム
ただ、もし相手がそれを知らないなら、先手を取った方がハメやすい。

『あ、ああー……?』

アベルの狙い通り、ウルザは手詰まりになった。
四隅のうち3つをとられ、2つがリーチ。どちらを防いでいいかわからない。

「3、2、1」
『わー、まってよ!』
「はい、僕の勝ち」

一列揃った○を、筆記用具代わりの石で一閃する。さぁ、ここからが本番だぞ、とアベルは頭を捻った。

「とりあえず、姿を見せてくれるかな」
『……えー』

先ほどまでとはうって変わった、困惑と沈鬱がないまぜになった声。

「嫌ならいいよ。遊びはこれでおしまい」
『わかったよー。じゃあ、こっちきて』

倉庫は塀に囲まれていて通りからは見えないが、それでも人目が気になるらしいウルザは倉庫の影へとアベルを連れ込む。
目の前に現れた、自分より少し小さい、時代がかった巻垂型の白い服を着た少女に、アベルはしばしの間見とれた。

「へへ。どう?」
「君、バルガさんの使い魔?」
「え?違うよ?」
「その姿を消す魔術、コンシールだよね。ソーサラーの」
「コンシ……?ああ!うんうん、そうだよ。わたしは魔法使いなのだ」
「そんな高度な魔術、ずっと使ってられるなんてすごいね。クラスはいくつ?あと、その長い耳は何?」
「……」

しばらく呆けたように考え事をしていたウルザだったが、おもむろに姿を消して、こう言った。

『もうダメ!これ以上は秘密!』
「そう、じゃあ僕は帰るから」
『やだー!』

見えない力に体を揺さぶられる。
詳しい事情は解らないが、彼女の存在が外に漏れれば相当な騒ぎになるだろう。
自分よりも歳若そうに見える、少なくともクラス3以上のソーサラー。
しかも魔術の燃料とも言える魔晶石を使っている気配がない。自前の魔力で長時間コンシールを維持しているようだ。
魔族にもこんな子はいるまい。未開の地から来た新種族だとすれば、拿捕のために国軍が動いてもおかしくない。

だがそんな殺伐とした事情をある程度は理解しているに違いないのに、彼女は遊びたくて仕方がないらしい。

『続きを聞きたくば、○×ゲームだ!』
「……いいよ」

そしてそんな彼女を気遣う理由もないのだ、とアベルは内心で嗤った。
だが彼の思惑は外れ、これ以降ウルザは罠にハマらなくなった。

(頭が緩そうだから、あと1、2回はいけると思ったのにな。もうダメか)

そう見切りをつけてしまうと、いよいよこの退屈なゲームにも張り合いが無くなってくる。
一方でウルザは鼻歌などを歌いながら、決着の見えたゲームを未だに楽しんでいた。

「もうやめにしない?」
「え?楽しいよ?」
「じゃあさ、話をしようよ。お互いの事」
「いいよー!」

緩いなあ。とアベルは思った。

「バルガさんとはいつ出会ったの?」
「生まれた時からいっしょだよ」
「……へぇ。若い頃はどんな人だったのかな」
「ふっふっふ、キミも見たら驚くだろうなぁ。今からは想像も出来ないくらい可愛かったよ。
どこへ行くにもわたしのあとにくっついてきてね。鼻水垂らしながら「うるざさまー」とかいって」
「…………」
「あんな裏表のある子に育てた覚えはないんだけどねー。
 なにかあるとすぐ耳ひっぱってくるんだよ?想像できる?いまキミ達に見せてるあの姿、仮の姿だからね。
 ほんとは魔王なんだから」
「キミは魔術師なんだよね。バルガさんもそうなの?」
「…………バルガはただの学者です」

嘘だな。嘘過ぎる。とアベルは思った。

「それよりもキミ、今度はキミの番だぞ」
「は?」
「ねぇ、街の人たちと仲良かった時ってないの。お姉さんとは?お母さんの病気のこと、クロードさんに相談した?」
「家を覗いてるんだね、君」
「……のぞいてません」

明らかに嘘だったが、まぁそれはいい。

「仲良くなくたってやっていけるさ。それに、僕はこの街を出るから」
「出てどうするの?」
「見たかい?これ」

今も小脇に抱えている兵器の設計図を指差す。

「武器が書いてあったね」
「これを使って、戦争を起こしてやるのさ」

アベルの狙い通りウルザの表情は暗くなったが、振れ幅はほんの僅かだった。それが彼には不満である。

「別にアルケミストでもいい。こうして侵略して、欲しいものは奪うんだ。
僕は直接戦わなくても、こいつらが戦ってくれる。ファイターが幅を利かせる戦争なんて、僕が終わらせてやるさ」

アベルは戦いたかった。
平凡な功名心によるものか、それとも若い情熱の行き先がそこしか無いのかは本人にも解らなかったが、もはや彼に奪われるものが無い事は確かだ。
なら、奪うことにリスクなどない。単純なことだと彼は思っている。
もちろんカスケイドの望みも果たさねば、自分の命はない。だがそれは「ついで」でもいい。
魔術師ギルドだって、放っておくつもりはないからだ。
だって結果的には世界を制する事になるだろうから。

「アルケミストになりたいの?」
「自分から戦争を起こすんだ。ギルドや国に使われるわけじゃない。
この街の、罪人の、哀れなアルケミスト共とは違うぜ?」
「じゃあ、ロードだね。君主になりたいんだね?」
「……近いかもな」

話は少女を驚かす喜びのために始められたのに、途中から真実が吐露にされている事に気付く。
常日頃から彼を駆り立てる欲求は、一度在処を知らせてしまえば偽装することが難しかった。

遊興に濁っていた少女の視線が、気付けば透徹したものに変わっている。
そういえば、彼女は見た目通りの年齢でないらしい。
年下だと思っていたが、実は相当な年長者かもしれないのだ。
居心地の悪さと気恥ずかしさのために、アベルは視線を逸らす。

「今日は、お話できて楽しかったよ」
「もう行くのか?」
「ごめんね。そろそろバルガの所に帰らなきゃ」
「……」

いつの間にか自分が引き止める立場になっている事、またバルガに軽い嫉妬を覚えている事にアベルは驚いた。
手を振りながら文字通り姿を消すウルザに笑いかけ、それを一時の気の迷いだと断ずる。
悪く思うなよ、と虚空に向けて呟いた。そして今日この場で見たことを、いかにして今後に活かすかを考え始める。
さしあたって、バルガを強請ってみるのはどうだろうか。……。

○+

長い付き合いを経て、バルガとウルザの間にはいくつかの取り決めが出来た。
そのうちの一つ、ウルザに課せられた取り決めに、余人に関わった場合はその状況を詳細に報告する、というものがある。
つまり街で悪戯などをした場合は正直に言えというわけだ。
もちろんウルザの存在という秘密を守るには、悪戯そのものを禁じる方がいい。彼女の存在は絶対に明かすわけにはいかないのだ。
だが人との関わりを禁じると、ウルザはたちまち情緒不安定になる。取り決めはいわば双方が歩み寄った妥協案だった。
さて、夜に自宅へ戻った後、アベルと遊んだ事をウルザは報告した。

「……」
「……」

それ以来、バルガは寝台に腰掛けたままだんまりを決め込んでしまっている。
おそらくわたしがしたことへの対策を考えているのだろう、とウルザは思った。
ウルザの存在を知ったのがアベルだけなら、街の人々は彼の幻覚や妄想として済ますかもしれない。
だが彼がカスケイドに報告すれば厄介な事になる。

「……」
「……」

バルガを本当に困らせるとこうなってしまう。
無論、話しかければ生返事ぐらいはよこす。バルガは悪意のある無視などしない。
そんな事をすれば、ウルザの心が張り裂けてしまう事を知っているからだ。
せっかくこうして二人きりなのに、話をすることも出来ないのはウルザにとっても損失だが、彼が構ってくれない時間をただ蹲って過ごすことも出来ない。
自分の中にある暴力的なまでの人恋しさを、ウルザは制御できたためしがない。だから行く先々で悪戯をする。

バルガを困らせる事自体も、目的の一つだ。
確かにウルザは人恋しいが、バルガが傍にいればそれでいいとも思う。かねてから人里はなれた場所に2人きりで暮らそう、と提案しているが、彼は肯んじない。
彼のシャーマンと言う身分、加えてウルザの存在を隠しながらの、危険で不便な旅を続ける理由について、2人はこれまでに何度も衝突を繰り返してきた。
外の世界を巡りたいというバルガの気持ちは解るが、それは彼の命に代えられるものではない。
もし彼が旅の途中で死ねば、ウルザは彼の魂を体に取り込み、誰か適当な女を口説いて子を産ませなければならない。
その子はバルガが転生した存在として彼の記憶を引き継ぐだろう。だがウルザは自らバルガの子を宿し、それを彼の転生体とする事もできる。
ウルザの体は両方とも達成できるように出来ている。なら余人を交えずに行う方がいいに決まっていた。

「旅に期限を設ける話、考えた?」
「……いや」
「あなたが40歳になったら旅を諦めて、わたしの子になって。こんな危ない旅、いつまで続ける気なの」
「……」

お前が危なくしている、とは言わない。バルガは一度もそう言ったことはない。
悪戯はウルザの懇願でもある事を知っているからだ。
そして、ウルザが本当に取り返しの付かない事だけはしない事も。

「ウルザ。転生なんて禁呪を使えば、いくらお前でも精霊をどれだけ喰うことになるかわからない」
「だから?」
「不毛の、人の住めない地がどれだけ広がるか解らないんだ。お前、人が好きだって言ってたじゃないか」
「だから?」
「……」

今まで幾度も繰り返された問答を、今日始めてウルザは一蹴した。
わたしを創ったくせに。半神なんていう、厄介極まりないものを産み出した人々の末裔のくせに。

「最近、あなたが死ぬ夢をみる。あなたが死んで、その魂をわたしが掴み損ねる夢」
「……」
「その時私がどんな気持ちか、わかる?」
「……」
「あなたはいざとなれば別の人が居るさ。でも、わたしにはあなたしかいないんだ。そうあなた達が仕向けたんでしょ?」

ウルザは静かに立ち上がった。激情が彼女から分別を奪うことはこれまでに何度もあった。
だが、これほどまでに強く、静かな激昂は初めてだった。普段から溜め込んでいるものが噴出して、もはや収まる気配がないのを感じる。
いっそのこと、今、無理矢理にでも転生させてしまうか。
ウルザの長い経験の中でもバルガは随一のシャーマンで、神格化された英霊や戦神とも交流がある。
だがそんな彼の魔術も、本物の神の血を引く自分にとっては児戯に等しい。

「……」
「……」

ウルザの白い髪が、ゆっくりと重力から開放され、広がっていく。
バルガを自分と同じ神族にする。そうする事で初めて、自分は永遠を手にするのだ。

「……」
「……」

ゆっくりとバルガに歩み寄り、その隣に腰掛けた。
ウルザの髪は元通り、静かな水流のように垂れている。

「その顔がずるい」
「あ?」
「キミ、どっちでもいいや、とか思ってるでしょ。この場で転生してもいいやー。とか」
「思ってたらこんな旅続けてない」
「……」
「いずれお前が身を隠さずに済む世の中にしてやる。そのためには、まだ人間をやめるわけにはいかない
 いずれこの俺が、神を受け入れる国を作るまでは、な」
「……」
「けど安心しろ。俺はお前の傍にいる。それが最優先だ。
 だから寿命が尽きるまでには、大陸を不毛の地に変えてでも、お前の血を貰う」
「……」

ウルザはこの日も、渇望を満たす事はできなかった。

「交易?」
「そう。溜めてある食料を別の街に売りに行くの。大変だったんだから。皆を説得するの」

思案顔になるバルガに、ヘラがにっこりと笑いかける。バルガが街にきてから一月、ヘラは次回の収穫を豊作と見込んでいた。

「リスクは承知の上、ということかい」
「もちろん。でもこれ以上、街の領土を明け渡す気はないわ。今回の取引は成功させる」

万一見込みが外れて作物が実らなかった場合、食料が底をついた街は一気に窮地へと追い込まれる。
また豊作だったとしても、交易の行き帰りで野盗に襲われるリスクもある。
ヘラに目的地を聞くと、ここから歩いて5日ほどかかる交易都市の名前が出た。
荷を運ぶならもっと掛かるかもしれない。
そんなバルガの懸念を見越してか、ヘラは勢いで押し切るように言う。

「街の男が30人くらい護衛として来てくれる。……バルガは戦えるの?」
「少しなら」

バルガはファイターとしてもクラス3だ。各ギルドによるクラス分けは、おおよそ2で一人前、3で熟練という基準になっている。
少しなら、というのは別に謙遜ではなく、単なる保身だ。
野盗の中には騎士団崩れのような者もおり、たとえば50人規模の盗賊団ならクラス3相当の戦士が1人くらい居てもおかしくない。
そしてその50人規模の盗賊団がざらにあるのが、今の世の中である。

「クロード様は、あなたの判断に任せると仰ったけど」
「……」
「私は、貴方にもついてきてほしいわ」

立場を考えれば、断るわけにはいかない。だが危ない橋を渡るのは気が進まない。
何とか交易そのものを中止させる方法がないか、バルガは知恵を働かせる。

「荷はどれくらい?」

と尋ねると、小さな集落なら一ヶ月は暮らせる量だと解った。
クロードによると街の兵士の錬度は、ファイターとしてクラス2相当が半分以上、3も数人だが居るという。
交易の護衛なら精強が付くのだろう。武装もそれに見合った品質のいいものが、数は少ないが揃っている。
自分が盗賊団なら、まず襲わない。リスクが勝ちすぎる。
それなりに安全かもしれない、と勘定を終えた時、バルガはもう一つ根本的な疑問が残っている事に気づく。

「交易というけど、代わりに何を仕入れるんだい」
「作物の種や、鶏や、乳牛。あとは、化粧道具と薬」
「……」
「娼館をやるわ。せめて女がネクロマンサーの家でなく、自分の家に帰れるようにね」
「……」
「それでも女を連れて行くっていうなら……」

ヘラはその先を言わなかった。バルガは結局付いていくことに決めた。

街を出てから4日目の朝。目的地まであと少し、という所でその時は訪れた。
両脇を森に囲まれた街道を進んでいると、前方を哨戒していた軽装の若い男達が、血相を変えて引き返してくる。
それを見ただけで荷を守る面々は身構えたが、哨兵を追う影は見当たらない。

「モンスターか?」
「こんな人里の近くにまで……?」

バルガの背後で男達が囁きあう。槍と剣で武装するものが15名、剣と弓が15名、それぞれの装備が牙を剥く音に囲まれ、さしものヘラも不安げだ。
バルガもまた、ヘラの傍について剣を抜く。

『……すごく多いよ。気をつけて』
「……」

ウルザが言う通りの事を、戻ってきた哨兵がまくし立てる。数、数が多い。とんでもない。
隊長格の中年男が彼らを宥めていると、その数の暴力が姿を現した。

「……」

街道の行く手を阻むように重装兵が姿を現す。
それに呼応して、森の中で伏せていた者達が惜しげもなく姿を晒しはじめる。
見えているだけでこちらに倍する数だ。分けてもバルガは彼らの武装に注目した。
重装兵は金属製の鎧兜とラウンドシールド、ロングスピアで武装し、森に入っている弓兵や剣兵も例外なく金属の防具を身につけている。
驚くべき事に女が1割ほど含まれていて、彼女らでさえ鎖帷子に脛当まで付けている充実振りだ。
小ぶりな胸当てをつけているだけのヘラとは比較にならない。
羽振りが良すぎる。野盗などではなく、この先にある街の自警団ではないのか?
もっともそうした洞察が的を得ていた所で、状況は好転しまい。自警団が強盗を働けない理由もないのだ。

包囲は長槍が10本入る程度の間隔まで詰められ、そこで止まった。
重装兵の間を割って、同じ格好をした背の高い男が出てくる。

「武器を捨てろ。抵抗しなければ命までは取らない」

この言葉に対し、隊長格の男が一歩踏み出してこう言った。

「……荷は置いていってもいい。だが帰りの分の食料はくれ」

これを聞いた相手のリーダー格らしい背の高い男は、傍にいる兵士らと何事かささやき合った後

「武器を捨てて、我々と共に来い。悪いようにはしない」
「……」

武装や僅かな食料さえ見逃すつもりがないというのか。
また、独立して自由都市となった街では、奴隷売買が復活している場合もある。
そうした事情をこちらが知らないと思っているのか、それとも抵抗を恐れないほど戦いに自信があるのか。
どちらにせよ、空気は急速に緊迫していかざるを得ない。

「……」
「……」

これほどの規模を持つ、法から離れた集団になら魔術師が居てもおかしくないだろう。
プリースト技能さえ持たない街の男達は、魔法に対する抵抗力がない。ファイターを壁にした魔術師相手は分が悪い。
だが降伏してしまえば最悪の場合、奴隷である。そうなるわけにはいかない、と思ったとき、隊長がバルガにこう言った。

「俺達で後ろの包囲に穴を開けます」
「……」
「ヘラを連れて逃げてください、先生」
「…………」

後にこの時のことを振り返っても、バルガはああするのが一番安全だったと思う。
だがこの一言が思案を断ち切り、迷う彼の背中を押したのは確かだった。それがいいことなのかどうか、バルガには解らない。

『ウルザ』
『どうするの?』
『威嚇する。大きめの「神秘」を見舞ってやれ』
『わかった』
『ありがとう』
『やめてよ、水くさい』

バルガは隊長の肩を叩き、前方を塞ぐ敵の方へと数歩進む、隊長が鋭く短く何かを言う。バルガを止めようとしたのだろう。

「――――――」

その声に被せるように、バルガは詠唱を始めた。ウルザが周囲の精霊を喰らいながら姿を現す。
虚空から突然にバルガの頭上へと現れたウルザは、魔術師の目から見ても「いま喚ばれた」ようにしか見えまい。
彼を中心に風が巻き起こり、褐色の肌から白い髪と衣がはためく。
場の誰もがウルザを括目した。ただ二人、敵を見据えるバルガと、バルガを見つめるヘラだけを除いて。

「……」

敵の放った矢がバルガに向けて殺到する。だがウルザが一息吹くと、それは消え失せた。
正確には弓から放たれた時よりもずっと早い速度ではじき飛ばされたのだが、それを見た者が居なければ消えたのと同じだった。
ウルザが軽く腕を振るった。すると詠唱もなしに大きな魔方陣が彼女を囲み、広がっていく。それに呼応して敵の包囲も広がっていく。
魔方陣が放つ鈍い光が風景から彩度を奪い始めた。陣営を問わない人々の悲鳴や怒号が、地鳴りにかき消されていく。

やおら天まで届く大樹のような雷が一本、地面から生えた。それは瞬く間に数を増やし、大蛇のように踊り狂いながら敵を呑み込まんとする。

「……」

直前に、雷は幻だったかのように消えた。だが地面にはその爪痕が歴々と残っている。

「……これでもやるか?」

と、言ったところでバルガは気づいた。彼の耳はウルザによって守られていたが、それ以外の人は暫く耳が聞こえにくいはずだ。
やむなく身振りで「どけ」と示すと、前後の道が開く。
すると呆けていた隊長もまた、固まっている馬にムチを入れ、男達にバルガを囲うようやはり身振りで指示する。
割り裂かれた地面を避けながら、荷車は街へと歩み出す。

「すっげぇな先生!魔法使いだったのかよ!」
「囲まれた時は正直死んだと思ったわ。いやー、ありがとう、先生!」

と、隊長を初めとしてバルガに対する態度を変えない者も居たが、中には値踏みの視線を送ってくる者もいる。
カスケイドに対抗できる戦力として期待か、それとも高位の魔術師に掛かる賞金を計っているのか、彼らの視線の意味は明確には解らない。
が、どちらにせよバルガにはありがたくない事だった。

○+

交易都市に入った後、取引をヘラ達に任せてバルガは身を隠していた。
特徴的だった黒いローブはヘラに預け、そこらで買った古着を身につけ、教会の神父に頼んで3階の物置に間借りしている。

『……やりすぎだ』
『ちょっと力入っちゃった』

だって弓なんて撃つんだもん。などとウルザはあっけらかんとしたものだった。
先ほどの奇蹟をソーサラーが単独で起こそうとするなら、およそクラス8相当の実力と荷車一杯の魔晶石が必要になるだろう。
クラス8のソーサラーなど、それこそ神話の中にしか出てこない。ギルドのクラスは10まで存在するが、現状6より上は空位である。
つまり、バルガは100を越える人々に、神話に等しい光景を見せた事になる。
噂が広まれば、詳しく調べようとする者が出てもおかしくない。

『どれくらい精霊を喰った?』
『けっこう。強い木や小さい植物なら大丈夫だけど、それ以外は枯れたり、芽が出なくなったりするかも。1年くらいは』

大きくため息をついて、窓から都市の様子を見渡す。
土埃の都だ、とバルガは思った。遠方が霞んで見えるのは、絶え間ない人の出入りが埃を空に舞い上げるからだろう。
馬車馬や商人達がその足で持ち込む汚れのせいで、モザイク柄の洒落た街路は見る影もない。
広場では典型的な行商身なり達が、勝手に市を開いている。
彼らは広場から溢れて大通り、さらには細い支道にまでテントを張るために往来は少し不便だ。
場所取りを巡る喧嘩も、小一時間ばかりで3回見ている。

海から歩いて5日離れただけで、こうも違う。戦時中でも交易は止まらない。実際に独立都市が増えただけで領内は活気がある。
長い鉱脈に貫かれたこの国は、古くから鉄鉱業が盛んだった。ヘラ達の街にもその名残はある。
アベルもまた、その名残を見て兵器製造を志したのかもしれない。

「……」

先ほど自分たちを襲った集団が、この都市の者達かどうかはまだ解らなかったが、ウルザが商人達の噂話を聞いたところによると、他の都市を急速に併合している反乱軍があると知れた。
彼らは帝国軍と戦って疲弊する国軍を尻目に、都市併合によって力を蓄えている。特に充実した装備と人員で示威はするものの、同時に国よりも都市を慮った交渉で支配者に無血併合を決断させる事も多いという。
中でも一番興味を引かれたのは、旗印が獣人だという点だ。

獣人は身体能力で人間より大きく優れる反面、人間並みの理性を備えることが稀で、気性が粗暴か卑屈のどちらかに傾きやすい。
そのため彼らの社会は大きな一枚岩になることが出来ず、高い社会性を備えた人間に敗北した。
寿命は人間の約半分で交配できるスパンは短いものの、魔族よりも人間との交配が難しいために、街で彼らを見かけることはほとんどない。
獣人は人類の中でもっとも人間と疎遠な種族で、特別な認可を受けた者以外はモンスターとして扱われている。

(その獣人が旗印、というわけだ。かなり前衛的だな)

旗印の名はラヘル。彼女の名を冠するラへル軍はごく近い将来、この国を倒して領土を支配するだろう、と商人達は噂している。
自由を尊重するラヘルは彼らの間でも英雄視されていて、ある都市で支配者が用意したファイターと一騎打ちを演じ、見事打ち倒してその都市を支配した、というエピソードが広まっている。
敗れたファイターはクラス4。この噂を否定する者が見つからない以上、これは事実と思われた。
クラス4になると技量は達人の域に入り、呪文を持たずとも彼らの体は魔力を帯びる。
このクラスより先はそれ以下との差が明確に開き始め、数も急激に少なくなってくる。
事実、ファイターの人口比はクラス2までで95%、クラス3までを含めると99%以上だ。
敗れたファイターも、小国なら騎士団長を勤めていてもおかしくない傑物だったのだ。名前と顔を知っている者も居ただろう。

(ともかく)

先ほど自分達を襲った集団は、もしやラヘル軍の一部ではあるまいか、という気がしている。
充実した装備に、人員ごと吸収しようとする交渉のやり口、連戦連勝の軍にありがちな自信。
噂では英雄的で華やかなエピソードが語られているが、その実態が苦労の多いものであったとしても不思議はない。
たとえばこの都市を襲撃する計画があり、荷を持ってここへ出入りする集団から手頃なものを選んで略奪を働く。
ありそうだ、とバルガは思った。
それが賢いやり方かどうかはともかく、彼らは急造の軍だ。食料不足や、一部の暴走を抑えられないといった問題を抱えているかも知れない。

「……」

本来はこの都市に一泊する予定だったが、やはり取引が済んだらすぐに帰った方がいい。
連絡役のヘラが戻ってきたら、帰還を重ねて申し入れよう。そう考えたとき、物置の戸がノックされた。

「バルガ?」
「ヘラか。どうぞ」

息を弾ませながら入ってきたヘラの表情は明るかった。

「上手く行ったのか?」
「うん、お金がだいぶ余ったくらい。どこでも食べ物は足りないみたいだね、綺麗に売れたよ」
「そうか……他の皆は?」
「帰る用意。ちょっとだけ時間をちょうだい、皆お土産買ってるから」
「ああ」

と返事はしたものの、内心では頭を抱えるバルガである。だがどちらにせよ、事態は既に手遅れだった。

『誰か来る』

というウルザの声を聴き、弾かれたように戸を凝視する。

「困りますな。出て行かれては」

しかしこの声は天井から聞こえてきた。
突然聞こえてきた声にひっ、と驚きの声を漏らしたヘラが、上を見る。
彼女が本格的な悲鳴を上げる前に、その口をバルガが塞いだ。

「お気遣い、痛み入ります」

音もなく天井板を外し、男が1人降りてくる。着地する彼に危うくウルザは踏まれそうになった。
慌てて地面を転がってから、人知れずふくれ面をする。

「お前は誰だ」
「ただの伝令です」
「遣わしたのは?」
「ラヘル」
「……」
「この街のシーフギルドをご存知ですかな」
「知らない」
「では私と来て頂きましょう。外でお待ちしています」

バルガは歯噛みした。やはりラヘル軍はこの都市を狙っている。しかも既にシーフギルドとも手を組んでいる。
近いのだ。戦争が。しかもシーフギルドの敵対を国軍は知るまい。
都市内に敵を抱え、補給も乏しい国軍に勝ち目があるとは思えなかった。

「既にお解りかと思いますが、皆さまを街から出すわけには参りませぬ」
「俺に用があるんじゃないのか」
「どういう用件かは、ラヘルから直接お聞きくださいませ」

男は今、シーフとしての本性をむき出しにしている。
小太りの商人身なりはそれを隠す変装として完璧であり、その上でシーフとして姿を現せば「都市中に自分が潜んでいる」事を誇示できる。
彼らは当然、ヘラ達にも張り付いているのだろう。

「ち、ちょっと」

他に何も言わずに、男は戸を開けて帰っていった。あまりの淡白ぶりに、怯えていたヘラが彼を引き留める仕草を見せるほどだ。
都市から出さない。では出ようとしたらどうなるのか?
その先は言わずとも知れる事に、ヘラもすぐ気付いた。

「……どうするのよ」
「ラヘル軍を知ってるかい」
「市場もその話で持ちきりだから。ねぇ、きっと連中はあなたを仲間に引き込む気よね」
「かもしれない」
「……」

どうするのよ、とヘラが今度は目で問うた。

「話を聞きにいくさ。そうしないと始まらない」
「あなたでも、その、シーフギルドには勝てないの?」
「シーフの奇襲は魔術師じゃ防げない。仮に私が無事でも、君らが危険だ」
「……」
「……」
「もう、街には戻らない?」
「戻るよ。仕事は最後までキッチリやらないと、次が来なくなる。それにまだ報酬を貰ってないしね」

ヘラは疑わしげな視線をバルガへ向ける。
あれほどの魔法を使うバルガが仕事に困るはずはなかったし、街からの報酬が彼に釣りあうとも思えない。
本当に目的が金だとしたら、より多くの報酬を見込めるのはラヘル軍だろう。
これで彼と別れる事になるかも知れない。それが当然なのかもしれない。
彗星の如く現れた英雄ラヘルが、おそらくはカスケイドよりも凄い大魔術師を軍に迎える。
それはいかにも物語的な展開で、ヘラから見ればその住人めいている2人にふさわしい運命であると思えた。

「とりあえず皆と宿を取ってくれ。夜までには、私もそこへ戻るようにする」
「ええ」

物置から出て行こうとするバルガをヘラが引き留める。

「あの……私たちはみんな、貴方に感謝しているわ。こうして都市に来られたのも、行こう決心させてくれたのも、貴方だから」
「……」
「本当にありがとう。あと。「私」よりも「俺」のほうが似合ってるわよ」

バルガは微笑んでから、また夜に、と言った。

神父に礼を言ってから寄付をし、教会を出る。すると先ほどの男が近づいてきて、物陰へとバルガを誘った。
そこ目かくしをされ、樽に詰められる。目は見えずとも音と振動から、荷車に乗せられ運ばれていると解った。

『いいかい?ちょっとでもこの人たちが変な真似したら』
『……』
『ぶっ飛ばすから。後の事なんか知らないからね』
『わかった。そのときは頼むよ……』

腰に剣を差した、敵意の計れない輩がバルガを囲んでいる。その気になれば一息でバルガを刺せるに違いない。
そんな状況、本来ならウルザは看過したくないのだ。聞こえてくる念話から、彼女の緊張がしみじみと伝わってくる。

やがて荷車から下ろされ、複数の男に樽ごと運ばれる気配がする。板の隙間からわずかに差し込んでいた日光と思われる温かみも失せ、ひんやりと湿った空気が頬を撫でる。屋内に入ったのだろうが、それからも樽の運搬は長く続いた。
いい加減酔いそうだと思ったところで、唐突に樽が下ろされる。
誰も何も言わず、足音だけが遠ざかっていく。

「……」

出よう。そう思って目かくしを外した直後、樽の上蓋が取り払われる。
反射的に上を見上げると、覗き込んでくる栗毛の獣人女と目が合った。

窓一つない石室の中、一つきりの出口の前に立つラヘルと向き合う。燭台の灯が照らす彼女の姿を、バルガはじっくりと観察した。
薄い腰布と革の防具だけを纏った半裸に近い軽装に、アベルほどの身長に似つかわしくない豊満な体つき。
体表では人間の肌と虎の毛皮がマーブルになっていて、手足など末端へ行くほど毛皮の率が高くなる。
顔の左側には額から頬にかけて太い毛皮が縦に走り、そこにすっぽりと収まった切れ長の目が薄暗い石室の中、鈍い光を放っている。
尻からは虎の尾そのものが垂れていて、時折石の床を叩いた。

「あたしはラヘル。あんたは?」
「バルガ」
「すごい魔術師なんだってね。あたしの部下になりな」
「……」
「まぁ、それはそれとして」

思い出したようにラヘルは両手に乗る程度の袋を投げよこした。
香辛料と、それでごまかしようのない肉のにおいが鼻を突く。

「食いな。どうせ腹へってんだろ」
「……」

その場にどかりと腰を下ろし、ラヘルは自分の分を食べ始めた。
バルガも迷いは一瞬で、すぐ彼女に倣う。話すべき内容を頭の中で整理しながら、街のものよりずっと上等な肉を頬張った。
途中から夢中になるほどそれは美味かった。

「喰ってねえのかよ。まるでガキだなぁ」

とっくに食べ終わったラヘルが、バルガの貪り食いを見て笑った。

「いくつか、聞きたいことがある」
「おう、聞け」

塩の付いた指まで舐めながら、バルガは話し始めた。

「帝国軍にどう対応する」
「条件次第じゃ属国でもいいぜ。勝ち目のない戦なんてしてもしょうがない。
 そりゃ、奴隷制が蔓延るのはあたしらも気に食わないが、全員死ぬよりはマシだろ?
 この国の偉いサンは、自分達が特権階級じゃなくなるのが嫌なのさ。帝国は属国王室にも質素な暮らしを強いるからな」
「条件次第というが、逆にどういう条件なら帝国と戦うんだ」
「いろいろあるだろうけどよ。やっぱ徴用される人がどれ位になるか、だよな。
 こっちの労働人口の20%を超えるようなら、考えなくちゃなあ。
 でもま、併合前に一番しつこく抵抗した国でも、10%弱だったって言うじゃないか。
 それくらいは仕方ないんじゃないか」
「わかった。それで……私達を襲った連中だが、あれは君の指図か」
「違う。ま、急に大きくなったからな。どうしてもああいう連中は混じるんだよ」
「では、どう処罰する」
「しない」
「……」
「お前さ、何か勘違いしてないか」

適度な凄みを含んでラヘルが笑う。

「あたしらは正規軍じゃない。もちろん、そうなった後に同じことが起これば処罰するけどな。
 今のあたしらは、悪い言い方すれば不満の権化なのさ。”不満は事の良し悪しなんか見ない。”
 あたしの言ってる事がわかるかい」
「……」
「お前、海沿いの街に住んでんだろ?」
「ああ」

これは既に露見しているだろうと思っていたので、驚かない。
あの街道を通って行き着く先は、ベミエラしかないのだ。

「よく考えな。知ってるぜ、そっちがどういう状況なのか」
「……」
「お前達の街を落とすのに、武力が必要だと思うかい」
「……もう一つだけ、聞きたいことがある」
「おう」
「我々の街のアルケミストにどう対応する」
「海岸に叩き帰す。無条件だ。で、頭目のカスケイドって魔女は拘束する
 その後はアルケミストギルドのケツを叩いて、やつらにカスケイドの代わりを早急に寄越させる」
「……拘束?」
「あたしが首都を落としたあとで、国際会議の審問に掛ける。
 カスケイドは略奪者だろ?そうするのが支配者の務めってヤツだ」
「く……正気か?アルケミストの討伐は、どこの国も認めてないぞ」
「同時に。アルケミストの略奪も認めてない。矛盾した場合はどうする?なぁ?」

ラヘルの言うように、略奪を働いたアルケミストが討伐され、その代わりを早急にアルケミストが派遣した例はある。
だがそれは、どれも帝国領で起こったことだ。
アルケミストギルドに大きな発言力を持っているのは帝国だけで、そのほかの国が仮に同じことをしたとしても、帝国に非難の口実を作らせるだけだ。

貴国は禁じられているアルケミスト討伐を行った。この責任をどう取るつもりか―――

「既に、帝国とも話がついているわけか」
「お察しのとおりだ。あたしが討伐する分には、何の問題も起こらない。でもお前らがやったら――ま、わかるよな」
「……カスケイドは海岸防衛の要だ。失っては街が海に沈む」
「皆でお引越しすりゃいい」
「……」
「ベミエラの市民に負担を強いすぎたんじゃないか?……街の連中もそれを望んでるだろ?」
「……ああ。「大部分」はな」

実の所、ラヘルのやり方次第では街を明け渡すようクロードを説得するつもりで居た。
だがこうして会って話してみて、そうするわけには行かないとバルガは思った。
国は倒れて構わない。奴隷も居たっていいだろう。ただ、アルケミストの扱いだけは間違えてはならない。
ラヘルのやり方では、海岸線を守ることは出来ないと思った。

「で、どうする。考えるまでもないとおもうけどな」
「今回の所は街へ帰る。この都市を落とした後なら、私達に用もないだろう」
「……ふーん。ま、いいさ。近いうちにまた会うだろうしな
 んじゃ、帰るならその樽の中に入りな」

ラヘルはさして落胆した様子もなく、上蓋を拾い上げながらそう言った。

「ああ、悪いな。もう1つだけ」
「あん?」
「君の剣の腕を見たい」
「……」

この発言はラヘルの逆鱗に触れたようだった。
先ほどの装われた凄みとは一味違った、彼女の暴力的な笑みに晒されながら、やはりこの女はロードと言うより、ファイターなのだと思った。

『やめて』
『……』
『お願い、やめて』
『大丈夫だ。……それにもう遅い』

色を失ったウルザの声と、ラヘルの獣じみた、いや獣そのものの唸り声が重なる。

「腰に佩いたのを抜きな。あたしはこれでいい」

革の鞘が付いたままの大剣を担いだラヘルが、目の前から体ごと消えた。

○+

心地よい振動と轟音が、意識をまどろみから揺り起こす。
目に入ってきたのは見知らぬ天井と、曇り空越しの陽光である。時刻は判然としないが、朝を過ぎている事は解った。
雨戸の開け放たれた窓際にある寝台で寝ていたのに、太陽に起こされなかったのは天候のせいだろう。

『……ウルザ?』
『なにさ』
『お前、居るなら起こせよ。今何時――』

「―――ぐぅおっ!?」

身を起こそうとすると、全身に激痛が走る。

「寝てたほうがいいわ。体中、酷い打ち身だらけよ」
「!?」

耳に届く、生身の声。
首をめぐらせて部屋を見渡すと、声の主はヘラだと解った。卓に向かっていた彼女が椅子を抱え、寝台のほうへやって来る。
彼女が歩くたび粗末な板張りが軋む。先ほどから鳴り響いている轟音と共に卓上の花瓶がカタカタと揺れた。
典型的な安宿の一室。シーフギルドでラヘルに嬲られ、意識を失った後に運び込まれたのだろう。

「いま何時だい」
「もう昼過ぎよ。……酷い事するわ、あいつ等」
「いや、自業自得さ」
「え?」
「ラヘルにな、ちょっとお手合わせを申し込んでな」
「……」

ヘラの表情が思案顔、そして呆れ顔へと変わっていく。

「魔術師のクセに。バカじゃないの?」
「ははは」
「なんでそんな事したのよ」
「ちょっと彼女の腕を見ておきたくてね」

収穫は少なかった。実力差がありすぎて、ラヘルの本気を引き出せなかったのだ。
だが底が見えないのは身体能力のほうで、技の性格やクセは見抜く事ができた。
少しは。……僅かばかりなら。そう思いたかった。

「クロードなら勝てるかも知れない」
「……はい?」
「その顔。自分たちのリーダーが何者か知らないんだね」
「クロード様、強いの?」
「強いなんてもんじゃない」

既にクロードは”懐刀”としての役目を失っている。話してしまっても構わないだろう、と思った。

「騎士っていうのは貴族の中じゃ身分が低い。特にクロードのカイツ家は新興でね。
 そういう家は貴族として生きていくだけで、周りに借りを作り続けなきゃいけない。
 ……有力貴族の使いっ走りから始まるんだ。このへんは貴族も市民も大差ない」
「……」
「クロードはとある子爵の懐刀だった。その子爵の家は男兄弟の中から、代々騎士団長を輩出してきた家でね。
 彼らの道場には他国から留学生が来るほどだった。クロードも、そこで修行を積んだ。
 彼のファイタークラスは3、だがそれはあくまで表向きの事。
 国軍の前の騎士団長は24歳の若さでクラス4になった傑物だが、彼に戦いを教えたのはクロードだ。
 今でもクロードの方が強いらしい」
「……なんで、クロード様のクラスが3なの?」
「便利だから。本当の強さなんて解らない方が、懐刀は使いやすい。
 政敵を暗殺するような時、護衛もろとも対象を殺せばよっぽどの使い手と見られる。
 クラス3の仕事じゃない……というような目くらましも出来る。万能じゃないがね」

騎士団長と、懐刀。子爵の家に脈々と受け継がれてきた、表と裏の切り札である。

「それに騎士団長よりクロードの方が強かったら……なんというか、ハクが付かないだろ?」
「国全体がこんな大変な時に……」

ヘラは会った事もない子爵を侮蔑するように、またクロードに同情するように言った。

「そんなバカな理由で、人の使い方を変えるんだ。……ラヘルに殺されればいいんだわ」
「そうだな。バカかもしれない。だが多分、私たちが思う以上に政治の世界は難しい」
「……」
「その子爵もとっくに失脚してる。国王暗殺を企てた、という醜聞が元でね。証拠なんてないが」
「……それで、クロード様も私達の所に飛ばされてきたのね。とばっちりで」
「そうだ。そして彼の持つマジックウェポンに釣られて、俺はこの依頼を受けた。
 子爵はクロードに国宝級のハルバードを与えている。特殊なルートを持っていなければ、買値が付かないほどの、ね」
「……」
「何が幸いするか、わからないな?」

バルガは不敵に笑った。街を救った自分がその秘宝を受け取るのは当然だと言わんばかりに。

「あなた、そっちが素なのね。昨日も言ったけど、そのほうが似合ってる」
「そうかい」

一際大きな轟音と、柱の軋む音が聞こえる。

「もう戦闘が始まってるんだな。ずいぶん早い」
「夜明け前からよ、寝坊助」
「何人残りそうだ」
「……」
「ラヘル軍に加わらず、街に帰ってきそうな男は、何人いる」
「いま残ってるのが半分。もっと減るかもね」
「……」
「国軍がね、弱い商人から物資を巻き上げてるの。ラヘルと戦うためだって」
「……」
「何も化粧品や薬まで、取る事ないじゃない」

ヘラは顔を覆ったが、泣かなかった。その姿は慟哭と遜色ないほど痛々しかったが。

「ねえ、避妊の魔法ってないの」
「そういう魔法は持ってない」
「じゃあ、確実に妊娠する魔法は?」
「……なぜ?」
「私ね、街に戻ったら、アルケミストの所に行くの」
「……」
「行く事になるわ。必ず」

ヘラは顔を上げた。正気を失っている彼女をなだめようとするが、言葉が見つからない。
見つける気が無いのかも知れなかった。久々の成熟した女の体に欲望が滾る。

「魔術師の子は、親の才能を引き継ぎやすいんですってね」
「迷信だ。世の中はもっと”不条理”さ。それに魔術師は迫害される」
「魔術師にもマシな人はいる。私は知ってるわ」
「……」
「本当はね、好きな人が良かった」
「……」
「でもどうせ望みがないなら、マシな人を選ぶ。
あのアルケミストどもに比べたら、あなたの方が百万倍マシだから」
「……」
「動かないで。体に障るわ。私が全部やるから」

ヘラが服に手を掛けながら、寝そべるバルガを跨ぐ。
その瞬間を狙ったかのように、黙っていたウルザが念を発した。

『ラヘルを殺そうと思うんだ』
『!』

バルガはぎょっとした表情を隠せなかった。ヘラはそれを敏感に察して身を堅くする。

「どうしたの?……わたしとは、嫌?」
「違う」

乳房を鷲掴みにされ、ヘラが眉根を寄せる。

「こいつが揺れたからだよ。……お前みたいな美人なら大歓迎だ」
「なっ……」

バルガの腕に掻き抱かれ、ヘラはそれ以外の事を考える余裕を無くした。
そんな彼女をよそに念話がやり取りされる。

『大人しくしてろ。馬鹿な真似は止せ』
『もちろん冗談だよ。でも、キミが嬲られている当時は割と冗談じゃなかった』
『……』
『女を抱くのはかまわないさ。でももう少し、わたしの気持ちを想像して』
『……解った』

早鐘のようなヘラの心音を聞きながら、バルガは行為に没頭していった。

数で勝る国軍はその強みを活かし、都市の損害を抑えようと野戦を展開した。
初めのうちは善戦していたが、士官の暗殺や補給物資に盛られた毒など、内情不安のために指揮系統を乱されてしまう。
するとラヘルの呼びかけに応じて公然と投降する兵士も現れ始め、国軍は後退しての市街戦を余儀なくされていく。
結果的に、それが国軍瓦解のきっかけとなった。
都市の混乱に乗じてシーフギルドが太守を拘束し、戦闘開始からわずか1週間で領内最大の交易都市は陥落した。

その後、丸一日もたつと都市は活気を取り戻す。市街地にはさほど被害はなかったし、何よりも商人たちには情熱があった。
ラヘルの統治は、その情熱を阻まない。瞬く間に彼女は都市の支配者として受け入れられていった。

そのラヘルが今、意外そうな顔でこちらを見つめている。
公館のエントランスにラヘルとバルガ、そしてヘラと街の男たちが揃っていた。そこには「元」街の男たち……現ラヘル軍もいる。
結局の所、街に戻る決断をしたのはヘラとバルガを含めて10人。3分の2がラヘル軍に加わったことになる。

「意外だよ。もっとこっちに来ると思ってたんだけどな」
「……呼びつけた用件はなんだ」
「お前ら文無しだろ?どうやって街に帰るんだ?」
「……」
「食い物をくれてやる。こいつらたっての頼みでな」

ラヘルは後方に並ぶ「元」街の男たちを指し示した。
達観した様子のヘラ達に、彼らは哀れみの視線を向けている。

(何故ラヘルに付いてこないんだ)

それぞれが口に出さないまでも、目でそう語っている。
言葉は1週の間に尽くされたのだろう、誰も何も言わない。
そんな状況に鼻白みながら、ラヘルはこう言った。

「なぁ、そこまでして戻る理由ってなんだい」
「海沿いには、誰かが踏みとどまらなきゃならない。俺達のリーダーが、まだ残ってる」
「そうかい……まぁいいさ。お前らの大将がどういう奴か知らんが、こんな状況で国に楯突かない所を見ると腰抜けなんだろうな。
 ま、それでも一応、馬鹿なマネをしないよう説得しておきな。万に一つもあたしに逆らわないようにね」
「……」

挑発に何の反応も示さないバルガ達を、ラヘルは面白くなさそうに眺めた。

「おい」
「……何でしょう」

食料を持って帰って行くバルガたちを見送りながら、ラヘルは彼らの元仲間に声を掛ける。
2つに分かたれたベミエラの男達。ラヘルはその分かれ方にとある法則性を見ていた。彼女自身の獣じみた勘によって。

「お前達の中で上から8人の使い手が、いま帰った連中と戦ったとするぞ」

「はい」
「勝てるか?」
「無理です」

若い男の即答が、ラヘルの勘を支持していた。

「……どうしてそうなる。お前の考えを聞かせろ」
「街の領主はクロードという人なんですが、訓練に熱心な奴は彼によく稽古を付けてもらってます。
だからじゃないでしょうか」
「だからって何だよ」
「その、心酔というか。クロードさんは物凄く強いですし。
 みんなあの人を慕ってたけど、やっぱり強い奴ほど心酔してました。
 いや、心酔してたから強いのかな……必然的に練習熱心になるから」
「ふーん、じゃ、お前らはよわっちい上に裏切り者ってわけだ」
「はい、そうです」

躊躇無くそう答えた男をラヘルは振り返った。

「クロードさんは話の分かる人です。街の連中が大勢こっちに来れば、きっと降ってくれます。
 ただ、そうならなかった場合、クロードさんを中心とした精鋭が相当手強く抵抗すると思います。
 最後まで」
「……何のために」
「多分、クロードさんの為に」
「……」
「お願いします、ラヘルさん。上手くクロードさんを説得してください。俺達も協力しますから」

ラヘルは答えなかった。
彼女の軍は彼女のカリスマで持っている。だがもしこれが勝ち目のない戦なら、ついてくる兵士は居るだろうか、と彼女は考えたが、解らなかった。

「……」

勝算の無い戦いが愚かだという考えは変わらない。ラヘルはクロードを恐れているわけではなかった。
だが海沿いにある滅びかけの街が、この疑問を解く鍵を持っているかもしれない。
そこへ行ける日が早く来ればいいと思った。

「それにしても、意外だな」
「何が」
「あの――」

遠ざかっていく背中のうち、緑色の服をきたものを若者が指差す。

「あいつだけは、こっちに付くと思ってました。アルケミストを心底恨んでたから」
「……」

若者を振り返り、ラヘルはニヤリと笑った。そのまま何も言わずに去っていく。

「?」

怪訝そうな顔で、若者は彼女を見送った。

○+

さて、話はヘラ達が都市へ向け出発した直後まで遡る。

アベルは街の戦闘訓練に参加することになった。
バルガが街を留守にしている間、彼の下に付く役目を解かれたので、空いた時間が訓練にあてられる。
カスケイドのご用伺いを理由にこれを断ろうとしたが、今度ばかりはクロードが許さなかった。
彼自ら訓練場となる街の広場にアベルを引っ張っていく。どうもバルガに何か吹き込まれたらしく、サボりに寛容なクロードらしからぬ気迫だった。

「よし、揃ったな。今日からアベルも訓練に参加するぞ。有名人だ、紹介はいらんだろうな」

クロードに肩を掴まれながら、広場に並ぶ大勢の男たちの前に立つ。アベルにとっては拷問に近い時間だった。
そのことに違いは無いが、自分に集まる視線が予想していたほど厳しくない事にアベルは軽い戸惑いを覚えた。肩すかしを食らったと言っていい。
押し並べて無感情、である。街では冷然とした無視や悪意のこもった凝視に晒されるのが常だったのに。

「……」

訓練はまず隊列を組むことから始まった。隊長の号令に従い、足並みを揃えてただ歩き回るだけだが、アベルはこの集団行動の難しさに驚いた。
キビキビと統制された動きで方向転換や散開、密集などをして見せる同年代の中で、自分が特に浮いているのが分かる。
普段は何かにつけて嘲笑を向けてくる少年達が、視線さえよこさず訓練に没頭している。そのためにかえって羞恥心が強まった。

それが終わると、今度は武器の扱い方を学ぶ。大きく分けて剣、槍、弓、格闘の扱いから入り、熟練者と見なされると隊列を組んだ集団戦闘の訓練も行う。
アベルはこの訓練でも同年代のグループに混じった。先ほどの集団行動で醜態を晒した分、アベルの気持ちは余計に逸る。
彼はこの訓練を汚名返上のいい機会だと考えた。実際、剣や格闘技ならそれなりの自信がある。

(加えて……)

目の前に立っているのは、同じ豚小屋で働くロイだ。アベルは彼より二回りも縦横に大きいこの少年と、格別に仲が悪かった。
アベルの方から特に何かするわけでもないが、ロイは隙を伺ってはアベルの担当場所に箒で豚の糞を送り込んできたり、衆目の中で公然と彼を裏切り者呼ばわりして辱めたりする。
アベルは初めて戦闘訓練に参加して良かったと思った。レイピアの扱いに慣れていたので、始めこそ重いブロードソードを模した木剣に戸惑う。が、すぐに慣れてロイを圧倒し始める。

「いってェ!」
「……」

手首を打たれたロイが尻餅をついた。無表情で彼を見下ろしながら、内心では「どうだ!」と溜飲を下げるアベルだったが

「おい下手糞」
「……なんだと?」

周囲で練習していた少年が放った言葉に、思わずアベルは目を剥く。

「相手に怪我させるような奴は下手糞だぜ」
「何ムキになってんだお前」
「謝って、起こしてやるんだよ」
「……」

他の少年達が口々に言う。
彼らの口調や態度から、それが大人からの受け売りであることは容易に知れた。

(何甘いこと言ってんだ……?)

カスケイドとの訓練では生傷や打ち身が耐えないが、カスケイドを怨んだ事はなかった。
ましてや下手糞などと思うわけがない。

「……そうかい。ま、わかったよ」

それがここのルールなら従わざるをえないだろう。
が、それならそれでやりようはある、とアベルは邪悪な思いつきに微笑みながら構えた。
助け起こされるまでもなく、ロイは既に立ち上がっている。猛然と向かってくる彼の剣を、アベルは一歩下がりながら巻き上げた。ロイの剣が遠くへ飛んでいく。

「……」
「……」

アベルはそれを何度もくり返した、ロイが剣を拾いに行くたび、彼と自分に注目する人は増えた。
そのうち少年達だけでなく、大人からの視線も感じるようになる。
アベルは端的に言って、気分が良かった。しかし。

「……強いんだな、お前」
「!?」

相手を交換する際、感心したようにロイがこう呟いたので、その気分はぶちこわしになった。
特にロイが少しも悔しそうでないのが気に触った。それはほとんど理不尽な事のように思われた。
あれだけ自分を侮蔑していた、小さく非力な自分を役立たずのチビ助とまで言った男が、その自分に苦もなくヒネられたというのに。
恥を知れ、とさえ思った。

アベルは剣と格闘については大人と同じ組で訓練をすることになった。
そして大人達の強さに戦慄する。半数以上がアベルと同じかそれ以上の腕前で、カスケイドに「そのへんの大人には負けない」と評された自分の腕が通用しない事実を突きつけられた。
しかも大人組には成長目覚ましいとされる少年達が混じっていて、彼らは槍の扱いにも長けている。
自信を打ち砕かれると同時に、カスケイドの身をひどく心配に思う。
この錬度なら、兵士達がゾンビの壁を突破するのにそう時間はかからないだろう。カスケイドやアルケミストたちが存分に魔術を振るえるのなら、魔術に耐性のない兵士達などひとたまりもないと思っていたが、これでは事情が違ってくる。

「……」

訓練が終わっても、兵士達の大半が広場に残った。クロードが希望者に稽古を付けているからだ。
既に疲れ切って動けない者ばかりだったが、中には例外もいるらしい。特にカスケイドに迫るような技量を持つ者達が、この稽古こそ本番、とばかりに力を振り絞っている。
その稽古を見ていれば、参加しないものが広場に残る理由が解った。これは見学だけでもためになる。

「……」

中年の男がクロードの前に立つ。固太りの体型からは想像し難い踏み込みの速さと、粘りつくようにして離れない鍔迫り合いの上手さを持っている。そうして隣接してからの格闘が彼の真骨頂だ。
クロードは棒立ちに近い状態のまま、鍔迫り合いを受け入れる。さらにそのまま組み付かれ、鞭が絡みつくような鋭い足技で地面に倒される

(逃げられない)

背丈でも勝る中年男が、押さえ込みの体勢に入る。クロードはその際に剣を手放してしまった。
勝負あった、あそこから逃げるのは無理だ、とアベルは思った。次の瞬間、広場に歓声があがる。

「……」

一瞬だった。中年男の太い腹の下からすり抜けると同時に、いつの間にか奪い取っていた剣で相手の首筋を制す。
クロードが一体どうやって逆転したのか、アベルには解らない。
他の大人には、速い、上手いといった感想を抱くことが出来た。実際に今やられた中年男の強さにアベルは尊敬すら感じていた。彼と手を合わせた際、10年早いと言われて納得したほどだ。

今度は痩身の若者がクロードに挑んだ。やや小ぶりな剣を2本、両手それぞれに持っている。
2人掛かりと錯覚させられるほど巧みに双剣を使い、敵の動きを読むことにも長けている。先ほどの中年男に勝るとも劣らない使い手だ。
彼はクロードの間合いの外から、軽くステップを踏みつつ様子をうかがっている。
クロードの動きを見極めるつもりなのだ。

それに対しクロードは剣をだらりと下げ、真っ直ぐ若者に向けて歩き出した。
アベルが思わず息を飲んだ時、若者が風のように疾った。クロードに肉薄し、彼が提げた剣から遠い側に回り込み、飛燕のような斬撃を2つ見舞う。
が、クロードはそれを上回る凄まじいブレードアーツを見せた。アベルの目には一振りに見えた斬撃が、幾つにも枝分かれして双剣を弾き飛ばし、若者の眼前でぴたりと止まる。

「……」

兵士達は皆、クロードの強さを異口同音に讃えていたが、帝国軍との戦いに参加せずこんな場所に飛ばされたくらいだから、しょせん一流とはほど遠いだろうとアベルは考えていた。
あれ以上の怪物が跋扈しているとしたら、戦場とはどれほど恐ろしい場所なのだろう。……。

それから数日、相変わらずロイとアベルの仲は悪かった。
訓練で殊勝とも思える態度を見せたロイだったが、豚小屋での嫌がらせが続いたためにアベルは傷ついた。
もっと正確に言うなら、傷ついたこと自体が彼のプライドを傷つけた。

訓練場には存在しない悪意が、日常の中では当たり前のように顔を出してくる。
そんな事さえ予測できない自分が情けなく、また訓練の時間に感じてしまう安らぎが疎ましかった。
しょせん、クロードが監視する訓練場が聖域となっているだけで、仕事場に行けば安らぎは落胆に変わるのだ。
それなら安らぎなど最初から無い方がいい。当初はそう思っていた。

しかしアベルにとって意外な事に、この安らぎは徐々に日常を侵食し始めた。
訓練に熱心な少年達のなかで、剣技において随一の腕前を誇るアベルは注目の的だ。
仕事の休み時間に、わざわざ別の仕事場からその腕前を見に来る者も居る。
少年達にとって戦闘訓練は大人達に認められる手段であるだけでなく、互楽としての役目も訓練は担っているらしい。
街には他に娯楽などないのだ。

少年達は辛いはずの訓練でさえ互楽にしてしまう。
剣の切っ先で小石を弾き上げ、それが地面に落ちないよう維持したり、槍投げで的を狙う遊びの勝敗に、担当する仕事の軽重を賭けたりする。こうした遊びを含め、戦いに強い者は尊敬された。
アベルの集める尊敬は、彼が集める嫌悪を中和しつつある。アベルにとってこの中和は救いだった。

「いっ……!」
「あっ!」

ある日、アベルの木剣が練習相手の小指を打ってしまった。
患部は見る見るうちに腫れ上がり、骨折も疑われる容態となる。彼はしばらく訓練を休む事になった。

「すみません」
「いいよ。お前、そろそろクロード様に挑戦してみたらどうだ?」
「え……」

朗らかに笑って、手を庇いながら若者が去っていく。

「……」

クロードに挑戦するかはともかくとして。
怪我をした若者は、立身出世という大望を持っていた。否、彼に限らずこの街の若者は、大なり小なりそうした望みを持っている。
暫く農具を握れない程度ならいいが、数週、数ヶ月と彼が訓練から遠ざかるような事がなければいいと、アベルは強く思った。
そこでアベルは、突然強い自己嫌悪に襲われた。怪我をさせた若者の今後を考えるうち、ある事に気付いたのである。

(僕、こんなに人を気遣った事が、今まで一度だってあったっけ?)

訓練場で何度か会っただけの若者に、これほど厚い「気遣い」をする自分にも驚いた。
だがそれ以上に、自分を育ててくれた家族にさえそうした「気遣い」をした記憶がない事に、アベルは慄然とする。
それはあまりに薄情というよりは、あまりに子供であるような気がした。
ふつう、人は何歳くらいから人を気遣うようになるのだろう。
赤ん坊の頃なら仕方ないが、早い子なら言葉の前に覚える事ではないのか?
自分の人生を振り返ってみる。見えてくるのは、強い自信と渇望に満ち溢れた日々だ。

年上の少年らが寄り集まっても出来ない計算を、即答して見せて、思う。

(どうやら僕は賢いようだ。人よりもずっと)

人が思いつかなかった道具を発明して見せて、思う。

(間違いない、いずれ自分の知恵は世界を席巻するだろう)

連続投石器の概要を書面に起こしてみて、思う。

(ああ、待ち遠しい!周囲の人すべてが自分を畏れ敬うようになる時!必ずやって来る、その時!)

「……」

すぐにでも思い出せる、自分の優秀さを確かめていた日々。
だが今、日に日にやせ細っていく母親の顔さえ、はきと思い出す事はできない。
実際に彼が優れているかどうかはともかくとして。

(僕は、本当に人より優れているだろうか――)

初めてアベルは、自身の優秀を疑った。

○+

仲間意識。アベルは自らの中に芽生えた感情をそう分類した。
考えてみれば当然かもしれない。畑と豚の世話以外にやる事がない街で、剣を握らされたら男は誰だって狂う。
自分の握った剣が、自分の運命を切り拓いていくのだから。
鍬でも箒でもない、剣こそがアルケミストに囚われた家族達を助け、剣こそがその後の立身出世と、自分の命さえをも助けるのである。
ならその扱いを本気で修めようとするのは当然で、共にその修練をする人同士、強い仲間意識が生まれるのも当然だ、とアベルは思った。

仲間意識は、訓練場という聖域を出た後も有効だった!
アベルはその心地よさに夢中になって、初めて街の人々から離れがたいという感情を持った。

そうして過ごす内に、アベルはロイの嫌がらせに対してやり返すようになっていった。
アベルが本気になって考えた嫌がらせは、ロイのそれよりも数段陰湿で酷かった。
何度かやりとりを繰り返すと、ロイは遂に何もしてこなくなった。
彼の悔しそうな顔を初めて拝んだアベルはとても満足すると同時に、その時になって初めて、ロイが暴力だけは決して振るわなかった事に気付く。

ロイだけではない。街で自分を殴ろうとする者は姉だけだ。そんなことに気づけないほど、自分は余裕を無くしていた。
悪意に直面した自分がしてきたのは、ただ目と耳をふさいで立ち尽くし、一刻も早く街から逃れ去る日が来ればいいと願う事だけだった。
ロイを屈服させる事など簡単だったはずなのに、それさえ出来なかったのだ。

もし人々が自分に本気の悪意を向けていたら、今頃どうなっていただろう。
悪意から自分を守ってきたものは何だろう。その考察に初めてアベルは取りかかり、すぐに答えを得る。

(道徳だ)

クロードが兵士達にもたらした道徳。
どんな形であれ私闘は避け、練習相手の怪我を避ける思い遣りを持ち、挨拶を忘れない。
それを徹底させるだけの尊敬をクロードは集め、兵士達の社会をとても円滑に回している。
尊敬の根拠になっているのは、彼の強さと、彼の献身だ。
街が復興不能になった時は、恐ろしい魔術師であるカスケイドを倒し、アルケミストに囚われている人々を解放するとクロードは約束している。
そうなればベミエラの人々にとっては英雄でも、世間はクロードを一生お尋ね者として扱うだろう。

海岸線を守るアルケミストを倒してしまう事を、大陸に存在するどの国家も認めていない。
小競り合い程度なら許容せざるを得ないが、もしカスケイドが死ねば、付近の海岸線は海の怪物に対する防御力のほとんどを失う。
そうなれば反逆は明白である。

「……」

その後、ここの住人達は開放された人々と共に内地へ逃れ去るつもりなのだ。
アルケミストのように首輪をつけていない彼らは、容易に他の街へ溶け込むだろう。
そして新しいアルケミストが来るまで、海岸線は放置されるだろう。

「……」

街の人々を身勝手と罵るつもりはない。そんな資格もないし、そう思えないほどアベルは人々へ感情移入していた。
ただ、クロードとカスケイドが可哀想だった。
何の因果で、2人はこんな辛い役目を押しつけられているのだろう。どうして街は上手く回らないのだろう。

(……僕の投石器が、何かの役に立たないだろうか?)

戦場を席巻するはずだったあれを、この街の守りとする事は出来ないか?
アベルは初めて、ベミエラのためにその頭脳を回転させ始めた。

「……」

交易都市に向かったへラ達が、予定の期間を過ぎても戻ってこない。このことが街の空気を緊迫させていた。
アルケミストが食料を要求している。だがそれを支払うだけの余力が、すでに街にはない。
約束のときが来たようだ。クロードがそう述べたために、戦いの準備が急ピッチで進んでいる。
ベミエラが滅ぶときが近づいている。猶予はもうほとんど無い。

しかし、アベルの連続投石器は着工どころか設計すら終わっていなかった。
そろそろ動力について目処を付けないと間に合わないが、何もアイデアは浮かんでいない。
浮かぶ気配すらない。アベルは半ば絶望しながら机に向かっていた。

もちろん机に向かっているだけでは生活していけない。
日々の労働に加え、へラが戻ってこないことで母親の面倒を見る者が居なくなった事も、アベルの手を煩わせている。
街を空ける際にバルガが用意した薬もとっくに底をつき、母親のうめき声に起こされる日が続いている。
特にアベルにとって苦痛だったのは、下の世話だった。あれのあとは匂いや映像が神経にこびりついてしまうようで、設計に入ってもなかなか集中できない。
へラが居る頃は、母親の世話などしたことはなかった。これを毎日嫌な顔ひとつせずしていたというのだ。

(姉貴は凄いな)

帰ってきたら労ってやろう。そしていつか暴言を叩きつけてしまった事を詫びよう。
そんな風に思える内はまだ余裕がある証拠だ。そう自分に言い聞かせ、母親におやすみを言ってから居間へ戻ろうとする。

「アベル」
「なに?」
「熱いお茶が飲みたい」
「わかったよ」

面倒くさい。アベルはそういう内心を抑え込むことに何とか成功し、居間へ降りた。

お茶を母親に届けた後、アベルはすぐに設計に入ろうとしたが、そろそろ水場から汲んできた水が腐り始める頃だと気付いた。

「んー、めんどくさいな……せっかく火を起こしたんだから、いったん全部沸かしちゃうか……」

お茶のために起こした火を大きくし、溜め込んでいた飲料水を全て火にかけてしまうことにした。
水を汲みに行くのが面倒なので、水自体を日持ちさせる横着をするつもりだ。

「……」

街が豊だった頃の遺物である大きな鍋が、竈の上に乗っている。古くて造りも適当だ。
さて、アベルは設計を再開する。

「……」

そうすると、時間が経つのは早い。すぐに鍋の蓋がカタカタといい始める。

「うるっさいな……」

しばらく沸かしておかねばならない。アベルはレンガをいくつか蓋の上に置いた。

「……」

――ガタガタガタガタ

「…………」

一瞬で設計の事を忘れ、アベルは体ごと鍋の方を向く。
鍋つかみを手に嵌め、力強く音を立てている蓋からレンガをどける。
蓋を押さえつけたり、放したりしながら、時折目の前を立ち昇っていく湯気に息を吹きかけた。

(水なんだよな、これって)

おおむね雲と同じだ、とカスケイドが教えてくれた。
さらにアベルの脳裏を過ぎったのは、彼女と共に行った実験だった。
空気を入れた革袋を密閉すると、踏んでも潰れないほど硬くなる。さらに力をかけていくと、革袋の方が潰れる。
カスケイド曰く、空気や水にも硬さがある。さらに、水の硬さは空気と比較にならないほど、硬い。

「……」

興味深かったあの言葉が、いまアベルの頭でぐるぐると回っている。
蓋を動かしているのは空気か?水か?そもそも”なぜ蓋を動かす事ができる?”
アベルはその理由よりも、正体のわからない「それ」がどれほどの力を持っているのか。そちら方が気になった。

レンガをありったけ蓋の上に乗せ、さらに自分の体重もかける。
どうだ、もしお前が力を持っているのなら、僕の腕を押しのけて、蓋を鳴らして見せろ――。

「……」

しばらくすると、鍋から妙な音がし始めた。
そこでとっさに、実験の中で潰れた革袋の事を思い出す。

「!」

危ない、これは危ない!僕はバカか、何をやってる!
レンガを退かすのも危ない気がしたので、とっさに野菜を洗った水を鍋へぶちまける。
水は竈の中にも染み込んで、その火を絶やしてしまった。

「……んあー……」

更に面倒な事になった。
窓を開けて、もうもうと立ち込める湯気を外へ逃がす。
何をやっているんだか。そう思って頭を抱えたアベルの背後で。

―――――ボコッベコベコッ

「ぐわあああああああああ!?」

轟音に驚き振り返ったアベルの前に、あちこちへこんだ鍋が現れる。
二階から母親のか細い声が聞こえてきたので「大丈夫だよ!」と叫び返し、アベルは再び鍋を見た。

「……」

鉄の鍋が、べっこりとへこんでいる。
もはや蓋が嵌らないほどに形を変えてしまっていた。金槌で思いっきり殴ってもこうはいくまい。
へこむ?爆発すると思っていたのに。そうでなくて、へこむ?

「ん、あ」

閃きが脳髄を刺す、久々の感覚。
それは今まで経験した事がないほど激しく、アベルを貫いた。痛みに近い快感に思わずうめき声を吐き出す。

「―――――」

めまいを感じるほど激しく、頭の中がまわる。
鍋をへこませた力に対する圧倒的好奇心と、その仕組みに圧倒的速度で迫る、思考。
動悸に胸を叩かれ、あえぎながら設計図を抱える。
そして夜の街へと飛び出した。アベルはそのまま、全速力でカスケイドの元へと走る。……。

○+

蒸気の持つ力の可能性。
カスケイドの助言を受けながら、アベルは夜を徹しては実験を続け、それに一定以上の利用価値があることを確かめた。
珍しく発明を褒められたアベルだったが、喜びよりも困惑が勝った。
カスケイドは自分を褒めただけで、持ち込んだ設計図には一瞥もくれず、ただ寝台に腰掛けて寄り添うように命じたのである。
彼女の部屋にある、錬金術のための様々な実験道具。
当初兵器を発明するために使われていたそれが、今は埃を被るままになっている。
使わなくなってどれくらい経つのだろう。部屋を毎日のように訪れていたはずなのに、わからなかった。

とはいえ、この発明だけはやり遂げねばならない。話が一段落して彼女の機嫌がいい時を見計らい、アベルは切り出した。

「相談があります、カスケイド」
「何かしら?」
「これを作るだけの資材を調達したい。貴女のゴーレムはとても頑丈だから、その金属を使いたいんです」

アベルは自分の知恵が詰まった書類を指差す。
兵器の設計図。数十枚に渡るそれにほんの1、2分で目を通し終えてから、カスケイドは薄く笑った。

「倉庫の中でずっとこれを作っていたのね」
「はい」
「時間を大切にしなさい。こうして発想が湧くのを、ただ待っているのは愚かだわ」

アベルの停滞が長きに及んだことまで、カスケイドは見通している。
彼女の膝に頭を乗せ、髪に触れてくる掌に身を任せる。思ったよりも機嫌を損ねてしまったらしい、とアベルは感じていた。

「そもそも、何のためにこれを?」
「海岸線を守る投石器を改良できれば、貴女の危険も減りますから」
「ふうん?」

嘘だったが、今は本当だ。しかしアベルの気遣いには笑み一つ降ってこない。
それどころか、彼の耳が軽くつねられる。

「重要な部品は私が用意するとしても……他の部品は?」
「市民に頼みましょう。彼らと協力して作れば、配備も早い。
 これが出来上がれば、いくらか奴隷を彼らの元に帰せるでしょう?
 そうすれば、市民とアルケミストで争う理由も減る」

頭が持ち上がるほど、強く耳を掴まれる。

「私に弓を引くつもり?」
「違います……」
「奴隷をここから取り戻した後、この投石器が私達を襲う。違うかしら?」
「違います!もしそうだとするなら、こんなもの必要ない」
「うん?」
「こんなものを市民側に与えなくとも、彼らは貴女に勝てる。クロードたちの強さを貴女は知らな――」
「そんなくだらない事を聞いているわけではないわ」

カスケイドが投げやりに言った。
やがて確実にやってくる戦いの勝敗を、その先にある自身の生死すらをも一蹴するように。

「私とクロード達、どちらの肩を持つのか。それが問題なのよ」
「……。僕は、貴女に死んでほしくないんです」
「……」
「このまま行けば、連中は必ず貴女を殺しに来ます。
 でも投石器が完成すれば、埋め立て地に作る罠やゴーレムの浪費が抑えられます。
 そうすれば人を――ひいては食べ物や土地を街から奪わずにすむ
 奴隷だって帰せるでしょう?……戦いを、遠ざける事が出来るんです」
「いつの間にか、そんなことを気にするようになったのね」
「……」
「街の訓練に参加するようになったから?」
「僕は、貴女の味方です。誰か1人というなら、貴女の肩を持ちます」

本心である。アベルにとって一番関係が濃密な人物は、やはりカスケイドだ。

「でもそれ以上に」
「それ以上に?」

視界に火花が散るほど強く、カスケイドが耳を掴んでくる。
寝台に転がされ、腹の上に膝を乗せられ、完全に身動きが取れなくなる。
アベルは声を振り絞った。

「……死んでほしくないんです。貴女にも、皆にも」
「それで?」
「バルガという学者は本物です。この投石器が出来れば、彼に時間の猶予を贈れる。
 食料の問題さえ解決すれば、あとは元通りじゃないですか」
「戻してどうなるの?」
「え……?」
「街を元に戻してどうなるの。まず第一に、彼らが、私を、許すと思う?」
「……許します。クロードなら。そして兵士達は皆、クロードを慕っています」
「では第二に、許したくれたとして、それが何?」
「……は……」
「おまえは私の息子を、助ける事だけ考えていればいい」

2人の間に長い沈黙が降りる。
やがてカスケイドは言葉の尽きたアベルを解放し、無言のまま背を向け、出て行くよう促す。
しかし、アベルは部屋に留まった。カスケイドが振り向いてアベルの頬を何度か打ったが、それでも出て行かなかった。
アベルは目の前の女が、今日よりもずっと以前に正気を失っていたことに、今気付いた。
そしてまた自身の盲目に呆れた。

(そうだよな)

街が繁栄しようがしまいが、アルケミスト達が海岸線を守り続ける事に変わりはない。
いつか自分を殺すのが、魚なのか人なのか。カスケイドにとってそれは重要ではないのだろう。

「貴女にとって重要なことは何ですか」
「……」
「息子さんが開放される事ですか。それとも、息子さんと生きてまた会う事ですか」
「……」
「僕を信用してください。必ず息子さんと会わせてあげますから」

再びの長い沈黙の後、呆けた童女のような表情でカスケイドが言う。

「ゴーレムは貸しましょう。余った分の労働力も開放する。
……ただし、条件があるわ」
「何ですか」
「私がクロードに倒されて死ぬときは、貴方が傍にいて看取りなさい」
「……」
「約束なさい。もし破ったら……街も貴方も道連れにしてやるわ」
「それじゃあ、僕を呪った意味がないでしょう?」

黄金の瞳が哀れなほど揺れる。

「約束しますとも。でも、決して自棄にならないで」
「……」

アベルはカスケイドを抱きしめた。

その直後。ベミエラの街に、海の怪物来襲を報せる鐘が鳴り響く―――

街の人々はあらかじめ纏めてある荷を持ち出し、門の外の草原に集合した。
もし海岸線が陥落すれば、このまま別の街に逃れる事になる。

「いっその事、負けてくんねぇかな。そうすりゃ別の街にいけるし」
「……」

隣の列に並んでいるロイがそんな軽口を叩く。アルケミストに家族を囚われている者が聞けば激怒するような物言いだ。
そんな軽口もどこ吹く風で、アベルはカスケイドの事を思っていた。
彼女と初めてベッドを共にした時よりもずっと、先ほどのやり取りで絆が深まった気がしている。
出来ることなら傍について、彼女を支援したかった。火柱の一本くらいなら自分でも起こせる。

「おお……」
「見ろ。”アレ”だぜ」

カスケイドが得意としているオリジナル・スペル。
風で怪物を押し返し、火柱を煽ることに特化した、まさに海岸線を守るための魔術。
その予兆が、アベルたちの居る草原にも現れる。
星の隠れた空の下、闇色に染まった草木が暴風によって波打ち、アベルたちが手にする灯りも細った。
やがて風は街の段丘を降っていく。すると埋め立て地にひときわ大きな火柱が上がり、未明の空を赤々と焼いた。
市民達は歓声をあげる。

(どうか、無事で――カスケイド。
 あと、バルガ。それに……姉さん)

市民から目を逸らして、アベルはただそれだけを願った。

 夜が開けきってすぐ、アルケミストギルドからの使者がベミエラに急を報せた。
付近の海岸線にある別の街が、海の怪物によって陥落したという。
浄土作戦がそれ以上の侵犯を抑えたものの、もはや防衛機能回復の見込みなし。
つまりこの街へ怪物がやってくる頻度が上がるというのだ。

前回の襲撃は半年前。これまではおよそ4ヶ月から8ヶ月に一度のペースで怪物はやってきた。
今度やってくるのはいつだろう。それまでに怪物を迎える準備ができるのか?
市民達は皆、絶望を孕んだ視線で、荒れ果て煙を上げる埋立地を見た。

それから数時間後。へラ達が帰還した事で、街は緊迫に加えて混迷を呈した。
取引が失敗に終わった事も理由のひとつだが、それ以上にラヘル軍の出現が人々の期待と不安を煽っている。
ラヘルが来る前にアルケミストを倒すべきだと主張する人と、待つべきだとする人の間で軍も割れていた。
ラヘルはいつ来るか解らなかったし、来たとしてもアルケミストもろとも囚われている市民に危害を加えかねない。

そうした意見がやや優勢で、戦いは予定通り行われるかに見えたが、クロードとバルガが下した「ラヘルを待つ」という決断に異論は出なかった。

「母さんをよろしくね、アベル」
「ああ、解ってるよ」

朝焼け色に染まった居間で、姉弟が別れの挨拶を交わしている。
取引を提案したへレスは、その失敗の責めを自ら負う形でアルケミストに身体を差し出す決断をした。
半月ばかりで見違えるほどに痩せた姉を痛ましく思いながら、アベルは掛ける言葉を慎重に選んだ。

「すぐに開放してやるから、妙な気を起こすなよ。姉ちゃんは行動派すぎるからな」
「何のために出向くと思ってんのよ。バカじゃない?」

へレスは苦労して笑顔を作った。

「母さんの世話、大変だったよ」
「あたしはこれからもっと大変よ。あんた、今から弱音吐いてたんじゃ――」
「そうじゃない」

小言も今は気にならない。アベルは口ごもりながらも、なんとか言葉を連ねていく。

「姉ちゃん凄いなって思ったよ」
「……」
「僕達の面倒を見てくれてありがとう。あと、辛くあたってごめん」
「……」

ヘラは一瞬で決壊した。溢れ出す激情と涙を持て余し、くずおれる彼女をアベルが支える。
わたしのほうこそ、ごめんなさい。嗚咽に阻まれながらもヘラは何とかそう言って、後はアベルにすがり付いて泣きに泣いた。
この人に好かれた姉が、たった一度の失敗でこんな決断を下さねばならないのは、街における自分の立場が悪すぎた事も理由の一つだろう。
そう考えると、アベルは極まった悔恨から目が離せなくなる。持てる力のすべてを、事態の収拾に当てる決意を新たにした。

○+

同じ頃。クロードの屋敷でその主とバルガは対談していた。

「またメシの用意を忘れてしまった」
「わかるよ。ヘラの世話になりっぱなしだったからね。お互いに」

男2人がこぢんまりとした卓に付き、手掴みでベーコンにかじりついている。
ヘラはアルケミストの元へと去っており、バルガも心中穏やかでない。
彼女は宿でも毎晩自分と寝たがったし、ベミエラへの帰り路でも野営中、公然と茂みへ自分を誘った。
何度も抱く内に、しかも自分の子どもを必死に宿そうとする彼女に情が移るのは当然のことだ、とバルガは思う。
彼女の妊娠をウルザに確かめさせようとしたが、ウルザは頑として応じなかった。
怒ってはいないようなのだが、重ねて尋ねると機嫌が悪くなっていく。
結局、ヘラが妊娠したかどうかは解っていない。

「ラヘル軍の事なんだけど」
「ああ……その件について君と話したかったんだ。大将と会ったそうだな。どんな人物だった?」
「強いし聡明だが、政治には向いてないだろう、と思った。
それでも彼女はこの国を倒すだろう。このまま行けばね」
「そうか」

自分の言葉にどんな感想を抱いているのか、クロードの様子からは伺い知る事が出来ない。
まるで無感動のようにさえ見えるが、この男の国や国民を慮る言動からは、充分に執念を感じ取る事が出来る。
この街に踏みとどまっている事がそれを顕しているだろう。
だが情熱を感じたことはない。クロード・カイツにあるのは、もはや惰性に近い執念だけのようにも思えた。

「君と上役の伯爵は、帝国との戦争に反対していたそうだね」
「ああ。結局、抗戦派が我々厭戦派を抑え、駆逐した。そして私はこうして海へ飛ばされた。
……知ってるだろ?」
「うん。それで……ラヘルは厭戦派なわけだが。君も同調できる部分があるんじゃないか?」

肉片が歯に挟まったらしいクロードはしばらく口をもごもごさせていたが、やがて諦めたのかそのまま話し始めた。

「出来ないよ。そもそも厭戦派と抗戦派に分かれた政敵同士とはいえ、私たちは共に国王と国家を敬愛する家臣だ。
 私も政敵を斬った事はあるが、恨みからではない。そして政争に敗れた者が冷遇される事も、政治には必要なのだ。
 今の私は抗戦派の戦略が成就することを願っている。心からな」
「……君の本音を聞きたいんだ」
「投げ出して、何処か別の国にでも就職したいね。いち槍兵からでもいい、のし上がってやる自信はあるんだ」

クロードはごく自然に笑いながら言った。そしてそのままの表情で、こう付け加える。

「だが、私は騎士だから」
「……なら、ラヘルを阻止するかい?騎士なら命に代えても、彼女を斬らなきゃいけないんじゃないか?」
「私はそうは思わない。君命とあらばそうするかも知れないがね。
 反乱軍にも理があることは、誰の目にも明白だ。我々はそこから眼をそらすことはできない。
 彼らの意思が首都に――王に届く事もまた、この国に必要な事かもしれない」
「ラヘルが君を斬ると言ったら?」
「その時は、一手馳走仕る、さ。……意味があるのか?この問答は」

言葉とは裏腹に、クロードはバルガとの会話を楽しんでいるようだった。

「騎士、か。アルケミストを倒すことも、君にとっては騎士の所業かい」
「そうだ。私はそれが国家と王に背く行為だとは思わない。
 私は王を含む、全ての人々からの断罪を受けるだろうが、それは罪を犯したからだ。人に背いたからではない」
「……」
「そんな所業は騎士にあるまじき事、という意見も興味深いし、学ぶべきことがあるかもしれない。
 だが私にとっては、私こそが騎士なのだ。それは変わらない」
 
罪を犯すことが、人に背くことと直結しない。
この言葉は、大罪を犯しているバルガをおおいに癒した。
もちろん、ウルザを連れ歩く事が私欲に基づいた行為であることは変わらない。自分などとクロードを比べるべきでない。
クロードは無私と忠節の権化だった。で、あるにもかかわらず、人間的な判断力を少しも失っていない。
騎士という概念に縋りも、酔いもしていない。
あるがままで騎士なのだ。だからバルガは、クロードの「自分こそが騎士」という言葉に少しも反感を覚えなかった。

「子供のころはね、騎士になりたい訳じゃなかった。何にでもなれると思っていたよ。画家が私の望みに近かったな」
「……」
「君はシャーマンになれて、満足しているかい?」
「……満足しているさ」
「可能性に満ち溢れていた子供のころを思い返して、寂しさを覚えることはない?」
「俺は……」

バルガは答えられなかった。あの時こうしていれば、という後悔なら枚挙の暇がない。
ウルザの誘惑に乗り、どこか遠い地へ引きこもりたいという感情を持て余すことだってある。それも毎日のように、だ。

「君はならないのか?画家になれなくて寂しい?」
「いいや、今はない。だが30くらいになるまでは、過去を振り返って寂しさを感じたこともあった」
「……」
「今だって、不満だらけだ。頭を抱えない日はない。だが別の道を歩んでいたら、などと考える事もなくなってからは、きっと私は幸福だ」
「……」
「君の行く道にも幸福があふれている事を祈る」

そう言って、クロードは一枚の紙を差し出した。この街でバルガが仕事をやり遂げた旨と、クロードの術印が記してある。

「もちろん、まだ報酬は出せないがね。だがここから先は緊迫した状況になる。君の判断で、街を去りたまえ」
「……続けるさ。きっと上手くいく」
「……」
「アベルの様子はどうだい?」
「だいぶ溶け込んできたようだ。ふ、子供の悩みはわからんな。もっと早くこうすればよかった。ありがとう」
「そうか。なら大丈夫さ」
「……?」
「彼がもし何かを提案してきたら、それをよく吟味してやってくれ」

『姿を現したい』

クロードの屋敷を出る際、唐突にウルザがそう言ったが、バルガは許さなかった。

『この人なら大丈夫だよ!私と友達になってくれる』
『ダメだ』
『……』

不満げな沈黙。

『わたしを独り占めしたいなら、それを態度で示してよ。ケチ。わからず屋』
『……』

クロードに打ち明けられたら、どんなに楽だろうと思う。
だがやはりそうするわけには行かなかった。クロードと違って、自分達は人に背くかもしれないのだから。……。

「捕まってる人たちは、ゾンビやゴーレムと一緒に働かされてる。……生きてる人はまだたくさん居るよ、4分の3くらい」
「4分の1も死んでるのか……死んだ連中の名前は解るか?解るだけでいい」
「言わない方がいいんじゃない?」
「……」

アベルは初めて、大人達にアルケミスト陣営の内情を告白していた。
時間帯は夕刻、戦闘訓練が終わった所である。クロード直々の稽古が始まる前に、何としてもクロード本人から協力の約束を取り付けたい。
連続投石器の開発。それをクロード達に申し入れるつもりだった。

「とにかく……残った人たちを生かしておくためには、まずアルケミストに海岸線を抑える力をつけてもらわなきゃいけない。
 そこで、こういう装備を作りたい。これを海岸線に並べて、海の化け物どもを蹴散らすんだ」
「……なんだい、こりゃ」
「連続投石器、とでも言おうかな。今までのやつよりもっと強く、遠くへ、しかも連射できるようにしたんだ」

集まってくる大人達へ、簡潔に纏めた投石器の設計図を示す。

「これが完成したら、カスケイドは奴隷の半分を開放してくれるらしい。
 畑が見込みどおり豊作なら、要求された食料も支払える。そうすれば、順次全ての奴隷が開放だ。
 約束してくれたよ、カスケイドが!」

広場がどよめく。だがその雰囲気は、アベルが望むほど彼の提案を喜んでいない。

「信用できねぇなあ。奴隷は帰さない、でも投石器は頂いて街を壊す。そんな魂胆じゃねえか?」
「……」
「それに奴隷は大勢死んでるんだろ?……許せってのか?アルケミストどもを、よ?」

アベルは思わず、縋るような目でクロードを見た。
瞑目していたクロードが、それに呼応するように目を開き、続く宣言が場を一気に緊張させる。

「連続投石器をアルケミスト側に提供し、約束通り奴隷が解放されたら、作戦を中止する」

……アベルは、広場の様相を見ているのが辛かった。
あれほど硬いと思われたベミエラ兵士の結束が、見る見るうちにヒビだらけになっていく。
ラヘルめ!とアベルは思った。英雄だかなんだか知らないが、こんな争いの種を巻くなら出てこなくていい!

「俺達にはラヘルがいる。ラヘルを待って、ラヘルにやらせればいい。そうすればクロード様だってお尋ね者にならなくて済む。
 クロード様、ラヘル軍に加わりましょうよ。あんたなら、そのうちラヘルだって追い落とせるさ!」

だが、クロードは肯じなかった。
紛糾の末、広場は6:4という割合でラヘル派、クロード派にそれぞれ分かれた。
敵のように向かいあっている人々を苦々しく思いながら見ていると、クロードがアベルに声をかけた。

「バルガを中心とした非戦闘員達は、きっとお前に手を貸してくれる」
「……」
「急いでくれ。もはや、お前の発明が我々の頼りだ」
「……解りました」

これから暫くは、寝る間もないぞ、とアベルは思った。

○+

季節は夏に差し掛かっているというのに、ヘラが目覚めたのは寒さのためだった。
空家の湿った床に転がされていたせいで温もりを奪われたらしい、重く冷たい体を何とか起こす。
全裸に剥かれた肌を見下ろし、昨夜の陵辱の跡を呆然と見つめた。
だがすぐにお腹の子の事を思い出し、散乱した衣服をかき集め、もう使えないもので体を拭い、使えるものを着込んでいく。
そして日向に身を寄せて、日に日に強さを増している朝日が体を温めてくれるのを待った。

バルガには黙っていたが、交易の最中に予定日を過ぎたまま、生理は来ていない。
彼の子を宿した可能性に縋ることだけが、いまのヘラを支えていたが、昨夜の陵辱の激しさは彼女の想像をはるかに超えていた。
いずれ流れてしまうのではないか。いや、もうすでに流れたかもしれない。だとしたら、次に自分の体に入ってくるのは?

「ああぁ……」

子供のようにしゃくりあげながら泣く。誰か、誰か助けて。バルガ、アベル、クロード……誰でもいい。私をここから救いだしてお願い。
何が何でも抵抗すればよかった。兄弟そろってどんなになじられようとも、自らこんなところに来る必要はなかったのだ。
いいや、そもそも街に戻ってくるべきでなかった。母親も弟も捨てて、ラヘルについて行けばよかった。
ああ、耐えられるなんて思っていた私。なんて愚かなんだろう。
乱暴で自分を人扱いしない男達。バルガとはまるで異次元の生き物のように思える。
彼らとの「次」があると思うだけで、ヘラの心は潰れそうになった。

―――トン、トン。

「!?」

空家の扉がノックされた事に慄き、ヘラは部屋の隅まで後ずさった。ノックの存在そのものに疑問を抱く余裕はない。
もはや泣く事も忘れ、尻餅をついて体を掻き抱き、奥歯を鳴らしながら扉を凝視する。
お願い開かないで、という彼女の願いも空しく、幾度か繰り返されたノックの後、扉は開いてしまう。

「ヘラ?……大丈夫?」
「……」

見知った顔がいくつか部屋に入ってくる。
運悪く「当たりくじ」を引いて、自分より先にアルケミストの元へ行った少女たち。
痛ましく痩せ細り、中には髪の毛がほとんど抜け落ちてしまった娘もいたが、彼女らの顔を見間違えるわけはなかった。
生きていたのだ。この地獄で、何ヶ月間も。あるいは一年以上も!

気遣わしげにヘラを見ながらも、時間がないから、と早口で少女の一人が「ルール」の説明をはじめる。

食事は朝夕の2回で、食べ物は決まった場所に集積されること。
アルケミストは配るという事をしないので、もたもたしていると自分の分を誰かに奪われてしまうこと。
「奴隷」たちは埋立地でゴーレムやゾンビと共に、重い肉体労働をしなければならないこと。
女の奴隷は男より働く時間が短い代わりに、アルケミストと寝なければならないこと。……。

「私達はまとめて大部屋に入れられてるけど……あなたはそうもいかないわね。評判だもの。美人の新入りが来たって」
「……」
「しばらくは寝る間もない日が続くだろうけど。……こんなこと言うと勝手だってあなたは怒るかもしれないけど、負けないで。
 私達、あなたならこんな状況でも何とかするって、何とかしてくれるって思ってるの」

ヘラは、少女達がパンと服を持ち込んでいる事に始めて気付いた。
パンは自分のために、少女達が朝並んで取って来てくれたこと、服は死んでしまった娘のお下がりであると知れた。

「服は……自分から脱ぐ方が賢いわ。代わりなんて用意してもらえな、―――」

先ほどから説明をしていた少女が息を詰まらせる。ヘラが声も立てずに、震えながら涙を流しているからだった。
少女達はヘラに寄り添って、彼女の髪や背中を撫でた。彼女が慟哭を始めると、一緒になって泣いた。
少女達の涙は悲しみの涙に違いなかったが、しかし誰一人としてもう、絶望してはいなかった。

数日後。ヘラは自分を取り巻く状況が思ったより複雑でない事を把握していた。
特に彼女が気を配ったのは、アルケミスト達の人格だった。女を苛んで喜ぶ者には対処のしようがなかったが、中にはそうでない者も居る。

ヘラは不自然でない範囲で、自分を抱く男に従順な態度を取った。
自分がどれほど身勝手な要求をしているか知りながらも、嫌悪を向けられるよりは、好意を向けられるほうがいいと思うのが人情だ。
最もそういう人種ほど感情の真偽には敏感なので、時折よぎる嫌悪を隠すのにヘラは苦労したが、その成果はあった。
今ではヘラを抱くアルケミスト達の間で、ヘラの扱いをめぐって喧嘩が起きるまでになっている。
いかにヘラが美しくとも、女を苛む男達には代わりの女がいる。だがそうでない男達にとって、ヘラは貴重である。
徐々に自分を抱く男は、やさしく扱ってくれる者ばかりになっていった。
そのうち立場が上の癖に、自分の機嫌を取ろうとする男まで現れる。ヘラにとっては不思議なことだった。

「例のヒト、おまえに興味があるってさ。明日の昼、仕事を抜け出して部屋に来いって」
「ありがとうございます、とりなしてくださって」
「いいってことよ」

その日最後の男に抱かれながら、最初の目標が達成された事をヘラは素直に喜んだ。
例のヒト、とはアルケミストの間で導師と呼ばれている男で、ここではカスケイドに次ぐ実力者である。
美しく従順で、志願したものしか抱かず、その報酬として食料をくれたり、アルケミストの修行を指導したりするという。
アルケミストの修行といっても、会得するのはせいぜいゴーレムの挙動の補佐程度で、ほかの首輪つきたちと同じく身に付く実力はクラス1未満だ。
それでも自分の肉体を酷使しなくて済む分、体力はおおいに温存できる。

「でも……お邪魔するのは夜にできませんか」
「なんで?」
「仕事を途中で抜けたくないんです」

男はぽかんとしている。

「変わってんな、お前。ま、大丈夫だと思うよ。伝えておくから」
「ありがとうございます」

ヘラは笑った。仕事を途中で抜ければ、仲間達は自分を良く思わないだろう。
いざというときのため、そういうことは避けておくべきだった。

導師の部屋は広く清潔で、なにより暖かい風呂があった。まずそこで体を洗うよう指示されたヘラは内心飛び上がって喜んでいた。
急いで垢を落とし体を拭いて、迷ってから服を着ずに導師の部屋へ入る

「失礼します」
「……」
「あの、服も汚れているものですから。お傍に寄ってもいいですか?」

導師は頷く。部屋は蝋燭が1本灯されているだけで暗かったが、彼の顔に刻まれた深い皺は容易に見ることができた。
丁寧にひげを剃った初老の男で、髪も短く切り詰められている。彼の背後から差す月明かりが、彼の黒髪に混じる白髪を鈍く光らせていた。

「……」
「……」

こちらを見ているのかいないのか。
そんなあいまいな状態で黙りこむ男の様子から、彼は評判どおり、とことんまで決断を女に迫る人なのだとヘラは思った。
寝台に腰掛ける彼へとさらに寄り添い、あなたの好きにしてください、と言った。そこまでして初めて、彼は動いた。
獰猛な動きで腕を掴まれた時、揺れる蝋燭の火が哀れなほど高潮した男の顔を浮かび上がらせる。
その光景を見て、なぜだかヘラは唐突に「初日」の事を思い出した。
そしてたった数日で自分が変わってしまった事に気付き、それを寂しく思った。

事が済むと、導師は錆の取れた歯車のように饒舌になった。

彼はクラス3のアルケミストで、この国から特別に許可を得、首都に工房を設けていたという。
魔術師の中でもアルケミストに限っては、国と距離が近い者も居る。
海の異変を通して国との距離が縮まったこともあるが、ゾンビを操るような外法的な魔術が他の系統より少ない上、魔術の理論構築が容易で制御しやすい点も評価されている。
アルケミストの扱う魔術は、分野によっては科学と同一視されていて、彼のように国の下で研究を行う事もできるのだ。
しかし、あくまで国が許す範囲内、である。

「連中は私がスケルトンの研究をしていたと言っている」
「スケルトン……?ゾンビの肉が、その、腐り落ちて出来る、あれですか?」
「それは誤解だ。骨で出来た怪物、という点が同じな所為でその誤解が広まったが……
 本物のスケルトンは不死族の頂点に列される化け物だ。ロードヴァンパイアより厄介だよ
 存在するだけで精霊を食いつくし、周辺を死の大地に変えながら生者全てを憎んで突き進む……」
「……ごめんなさい、解りません」
「おお、そうだろうな……ともかく、私が外法の研究をしていたと国の連中が糾弾しよった。そして裁判で私の妻が……私を陥れた!」

結局、その妻の証言が根拠となり、彼は有罪になった。そして首輪をつけられ、海岸線につながれる事となる。

「ううう……」
「……」

泣き出す男を、ヘラは内心で困惑しながら見た。
泣かれたってどうしようもないし、どうも思わない。第一いまの話は本当なのか?
彼と同じように海につながれている自分には真偽の確かめようもないし、そのつもりもない。
それに、自分よりはマシだ。ゴーレムやゾンビの管理がどれだけ大変なのか解らないが、肉体労働を奴隷に任せて一日中自堕落に暮らし、女を好きなように抱いているアルケミスト達はベミエラの男達よりもいい身分に見える。
ヘラは導師の涙に小指の先ほども共感できなかった。それどころか、立場を変わってほしいとさえ思ったのだ。

「ご家族は奥様だけですか?」
「……息子が居る。妻は後添えで、子供もまだ小さい。交易が止まってからは手紙を送る事も出来ない。
 息子は私の顔も知らずに育つのだ……」
「いずれ会えるといいですね」

導師はヘラの顔を凝然と見た。
そして彼女の胸に縋りながら、私の下で働かないか、と言った。アルケミストの技術を可能な限り伝えてくれるという。
しかしその前に。

「パンとベーコンを頂きたいです」
「……」
「奴隷達は皆お腹を空かせています。出来れば、集配所の食料をもう少し充実させて頂きたいです」
「私の下に毎日通うか?」
「はい」

翌日から奴隷達の食糧事情が若干改善された。
一週間程度でそこまでこぎつけた事にヘラは満足しつつも、次はアルケミストの技術を獲得せねばならないと考えた。
そうとも、最初からそうすべきだったのだ。海を守る危険を皆で分かち合えば、カスケイド達の言う事を聞く必要もなくなる。
修行がどれほど過酷なのかはわからなかったが、この導師から技術を盗み、自分がそれを皆に伝えればいい。
希望の光が見えてきたぞ。ヘラはこの時、そう考えていた。

それから約一週間後。海の怪物が攻めてきた。前回の襲撃から一月弱、この頻度を誰も予想していなかった。

「……」

奴隷達はそれぞれあてがわれた部屋に篭り、不気味なほど静かな時を過ごしている。
いわゆる「売れっ子」だったヘラはこうして大部屋に篭る事自体、初めてだった。いつもなら男の部屋に居る時間帯だ。
奴隷になる前なら門の外の草原で決着が付くのを待っている筈だったが、海に近い事、それに戦局の見えない事がヘラを不安にしている。
それは他の女達にとっても同じらしく、皆いつにも増して沈鬱な表情で項垂れていた。

「あ……!」
「始まったわよ!」

暴風で家がきしむ音に、女達は色めきたつ。
閉められた雨戸が狂ったようにガタガタと鳴っている様は異様だったが、それでも戦いの終わりが近いと感じているのか、女達の表情は若干明るい。
しかし、今回は事情が違った。風が15分あまりも吹き続けて止まった後も、投石器が石を射出する音が止まらない。
それどころかほとんど間を置かずに、暴風がまた吹き荒れ始める。

(―――苦戦してる)

埋立地に火炎箱を設置する作業は、予定の半分も進んでいない。苦戦するのも道理かもしれなかった。
そして苦戦するという事は、敗戦がすぐそこまで来ていると言うことだ。敗戦。そうなるとどうなるのか。

「―――いやああああああああああああ!」
「!落ち着いて!」

女の泣き声と悲鳴が上がり始める。一度火がつくとその恐慌は瞬く間に部屋の外まで広がった。
船着場全体がそんな有様になっている中、ヘラはある事に気付いた。奴隷の歴が長い女ほど、恐慌が激しい傾向がある。
普段は歴の短い女をなだめ、慰める立場にあった彼女らとの立場が逆転している。若い娘達は途方に暮れるしかなかった。

船着場は無事に朝を迎えていた。
恐慌も何とか収まり、いつもよりさらに疲れきって眠る女達を、いつもより早くアルケミスト達が起こしに来る。
ああ、恐らく壊滅状態になった埋立地の建て直しが始まるのだろう。これからしばらくはいつも以上にこき使われるに違いない。
ヘラのその考えは的を得ていたが、それだけではなかった。

海の怪物の襲撃を始めて経験する者は、埋立地へ出向く前に船着場へ集合する事。至急。

いまだ強い緊張を顔に貼り付けたままのアルケミストがそう言って、部屋を出て行く。
すると歴の長い女達が、哀れむように新入りのヘラ達を見た。

「気をしっかり持ってね」
「……?」

女たちと話す機会が少なかったヘラには、何の事かわからない。
近くに居た同じ立場の少女に尋ねると、そんな事も知らないのか、という顔をされた。彼女は憂鬱そうにこう呟いた。

「見せられるんだと思う。……魚になっちゃう人を」

男が叫んでいる。性別が解らないほど遠くからでも、その絶叫が彼を男と教えるほどの音量で。
アルケミストに先導されて彼に近づくにつれ、彼が導師であり、導師をカスケイドのゴーレムが拘束していると解った。
カスケイドのゴーレムは埋立地で見る粗悪品とは違い、3mほどの大きさと球体関節人形のような精巧さを併せ持ち、拙いが文字すら書く。
大きなゴーレムが2体がかりで、決して大柄でない導師を地面に押さえつけている。異様な光景だった。

「私は感染などしていない!この……足を退けさせろ!骨が折れる!」
「……」

彼から10歩ほど離れた場所で、椅子に座ったカスケイドが彼を眺めている。気だるげ頬杖を付いている様がいかにも暢気に見えた。
ヘラもさすがに状況を理解している。遠目からでも全裸に剥かれた導師の肌がぬめっているのが解る。
時折彼が周囲を見渡すと、その目が発する金色の鈍い光が見えた。
そして何より、臭った。これまで嗅いだことのない、生臭さを極めつけたような、悪臭。

「もっと近くに。カスケイド様と同じ距離まで」

冗談だろう、と思った。何かの拍子で導師が逃げ出したら?自分達も彼と同じく感染するのではないか?

「早くしろ。寄らなきゃ―――カスケイド様のゴーレムが殴るぜ?」
「……」

どこまで本気なのかわからない。そもそもこの状況が正気でない。
感染が明らかなら、なぜすぐに燃やさないのか。なぜこんな残酷な真似をする?
ヘラの疑問も意味を成さない。アルケミスト達に重ねて促され、まず男達が顔を青くしながらにじり寄る。次いで女達が啜り泣きながら寄る。
その場で嘔吐したり、腰を抜かして立てないものがちらほら居て、彼らは助け起こされながら寄っていく。

「……」

導師がヘラに気付く。縋るような視線を向けてくる彼の顔が、ぐちゅり、ぐちゃりと音をたてて変わっていく。
深い皺が刻まれていた眉間の肌が伸びてつるつりになり、目が耳の方へと寄っていく。太く大きくなっった唇が、魚のようにパクパクと開閉した。

「――ひ、ぃぃ!?」

思わずヘラは後ずさった。すると導師が悲しそうな表情をする。
悲しそうな表情!もはや半ば以上人でないものに変わっている彼からも、その感情を読み取る事ができた。
ヘラは彼に生きてほしい、とまでは思っていない。彼のもたらす食料は惜しいが、それだけの関係だ。死ぬなら死ぬでかまわない。
だがそんな「どうでもいい」はずの彼に対し、いま切に望む事がある。ヘラは彼に人のままで居てほしかった。
得体の知れないものに変わらないでほしい。こんな異形を陸に持ち込まないでほしい。
恐怖に心臓を鷲づかみにされた彼女は、ただそれだけを願った。
導師に対し立場を代わってほしい、などと思っていた事はきれいに忘れて。

「――――――」

奇声を上げながら導師がカスケイドを睨み付ける。いつのまにか、カスケイドは立ち上がっていた。
彼女に口から唾液を浴びせようと導師は試みたが、それは彼女の前に立ちはだかった炎の壁に阻まれ、霧散する。
炎の壁はそのまま進み、哀れな悲鳴(と思しきもの)を上げる導師を、その中に取り込んだ。

断末魔と共に彼の眼球が破裂する。ゴーレムの腕に体から伸びた触手を巻きつかせながら、導師だった海の怪物は焼け崩れていく。

「目を逸らした者は次も呼ぶぞ」

と、カスケイドが言った。
見続けている者も目を逸らせずに固まっているだけだったし、目をふさいで半狂乱になっている者はカスケイドの言葉など聞いていない。
その様子を見たカスケイドは呆れたように薄く笑った。

焼け跡には体表を少し焦がしたゴーレムと、黒い干物のようになった怪物だけが残った。
船着場には啜り泣きと、カスケイドの付く杖の音が響いている。彼女はややふら付きながら、怪物の遺骸の傍に屈みこんだ。

「……なに、して……」

黒い干物のようだった遺骸は、カスケイドにつかまれると簡単にちぎれた。
彼女は右手に握ったその塊を、無造作に奴隷達のほうへ投げつける。
びたびたびたっという音を立てながら地面に、あるいは奴隷達の体に、黒い遺骸が降り注ぐ。
炎に焼かれても粘性を失わないらしいそれが、ある少女の頬に張り付いた後、口の中に入り込んだ。

―――今日一番の絶叫が船着場に響き渡る。
それは埋立地にまで届き、そこで作業する奴隷達の表情を苦々しいものに変えた。

「あーあー……もう見てらんねぇな」
「先が思いやられるぜ。おーい。もうそれは安全だって。……知ってるだろさすがに。それくらいは」

顔に遺骸を貼り付けた少女が、助けを求めるように近くにいた男へと寄っていく。
寄られた男は必死の形相で本気の蹴りを少女に見舞った。少女は3メートルほども飛ばされた後、地面に頭を強かに打ち付けて、動かなくなってしまった。
これと似たような態で騒然とする奴隷達と、その様子を呆れながら見ているアルケミストを、ヘラは交互に見比べていた。
運よく遺骸を浴びずに済んだ彼女だが、それでも「初日」のように体を掻き抱き、座り込んだまま動けないでいる。

わけが解らなかった。何故こんな事をするのだろう。
そりゃあ、知識としては感染の危険が無い事は知っている。死体になった怪物からは感染は起こらない。
だが、そんなことを覚えていられるほど、私たちはいま、きっと正気じゃない。
むしろアルケミストのように平然としているほうがおかしいのだ。
そうではないのか?

「狂ってるわ……」

この言葉を聞いたらしいカスケイドが、手に付いた遺骸を布で拭き取りながらヘラの方へと歩み寄る。
膝を付いてヘラの顔をのぞき込み

「―――誰が?」

と語りかけた。怒りの形相などではなく、むしろヘラの正気を疑うような、気遣わしげな表情で。
これにヘラは激昂した。

「どうしてあんな非道いことが出来るの!?」
「非道いこと?―――誰に?」
「くっ……」

この!私たちに決まっているじゃないか!
怪物の遺骸なんかを、私たちに投げつけて――

「……あ」

唐突に、ヘラは気付いた。
あの怪物、元は導師――つまり人間ではないか。ではどうして怪物になってしまったのか?

「……」

呆然と埋め立て地の方を見やる。
ここで、昨日、戦っていたからではないか。海の怪物達と。
ではなぜ戦っていたのか。何のために?
――何のために、だろう。

「ううぅ……」

アルケミスト達に同情などしたことはなかった。
罪を犯して海につながれ、隙を見せると街を侵略してきて、人を攫って奴隷にする。
これがヘラ達にとって、能う限りの真実だったからである。
船着き場でどんな事が起きているか。知ってはいたが、確かめたことはなかった。
そこで踏み留まる事を強いられている人が居るなどとは、知っていても、理解をしていなかった。
自分たちの想像を絶するような、正気で居られないような地獄が、すぐ側にあるなどとは。

「ごめんなさいぃ……」
「……どれに?」
「ごめ、んなさいぃぃ……」
「……」

カスケイドはヘラの謝罪を無視して、散り散りにばらけた奴隷達を見渡す。

「いち早く正気に戻ってくれたらしいおまえに、言っておくことがあるわ」
「……」
「今からああいう――」

カスケイドが導師の遺骸を指し示す。

「怪物の死体が転がっている埋め立て地を、皆で掃除して貰う」
「……」
「けど、気をつけなさい。ヤツらはしぶといから。
一見死んだように見えても生きている場合があるわ。
熟練者の言うことをよく聞いて、”しっかりと生死を確かめてから”作業に当たりなさい。
毎回いるのよ。そのあたりをしくじって燃やされる子が。
……導師のようになりたくなかったら、用心なさい」
「……」

ヘラが再び震えだしたので、カスケイドは困ったように苦笑いした。

「気をつけなさい。おまえを特別扱いするわけにはいかないけれど。
……おまえが死ぬと、アベルが悲しむわ」

鳶色のマントを翻しながら、カスケイドが去っていく。
呆然と見送るヘラの背後から、頃合いを見計らっていたらしいアルケミストが声をかけた。

「ちなみにな」
「……」
「食い物はそこに用意してあるから。それも合わせて、他の新入りに伝えておいてね。
俺たちゃもう行かねーと」
「……」
「感謝しろよ。運んでやるのなんざ、今回だけだぜ」
「……」

指し示された方を見ると、黒パンの入った箱がいくつか並んでいるのが見えた。
黒パン。反射的にそれを食べること、口に入れる事を想像する。

「ぐぷ」

げぱっという音を立てて、ヘラの口から胃液が搾り出された。

○+

夕刻、無事に作業を終えたヘラは、初めて大部屋で眠ることを許された。船着き場に来て男と寝ないのは今日が初めてだ。
今日一日を通して体験したことに比べれば、男と寝る事など造作もないと感じられる。
それでも眠る時間を長く確保できるのはありがたかった。
必ず悪夢にうなされるという確信がある。昨日までと同じ睡眠時間では、身が持たない。

「ヘラ・オーリンズは居るか」

膝を抱えて項垂れていたヘラが、名前を呼ばれてゆっくりと顔を上げる。
扉の向こうから、アルケミストの男が手招きをしている。

「俺についてこい」
「あの……わたし、今日はお休みのはずじゃ」
「そっちじゃねぇよ。カスケイド様がお呼びだ」
「はい」

疲れていたが、不満を感じる事もなかった。アルケミストへの反感は既に萎えてしまっている。
かといってどういう感情を抱くべきかもわからない。
リーダーのカスケイドと話せるのであれば、彼らの事を深く知る良い機会かも知れない。
重い体に鞭を打って、何も持たずに部屋を出た。

カスケイドの部屋に入ると、意外な人物がヘラを出迎えた。

「……姉さん」
「アベル!?」

思わずヘラは駆け寄って、弟を抱きしめた。
アベルは哀しげな顔で、薄汚れてしまった姉の頬を撫でる。と、ふいに少し笑って、彼はこう言った。

「姉ちゃんくさい」
「!? うぐっ……」
「ま、しょうがないか……体を拭くことも出来ないんだね」
「……なによ。いいわよ。嫌なら息止めてれば?」
「ぐはっ!?ちょっとねえちゃん!」
「おとなしくしなさい!」

力一杯アベルを抱きしめる。いつものように生意気な弟の言葉で、一息に日常へと立ち返れた気がする。
これまでの忌まわしい日々を思えば、彼の言葉の刺など飲み込んでも痛くないと思った。

弟を抱えてくるくると回る。視界の隅を鳶色のマントが過ぎったので、回転がはたと止まった。

「ご、ごめんなさい」
「よい」

ソファに腰掛け、こちらをぼんやりと見ているカスケイドが億劫そうに手を振る。

「元よりおまえを呼んだのはアベル。再会を楽しみなさい。時間は限られているわ」
「……ありがとうございます」
「というわけで、話しがあるんだ。……あんまりいい話じゃないんだけどね」

アベルが卓を指差すので、ヘラはそこにおそるおそる座った。
その様を見て吹き出した弟を睨み付ける。……睨み付けながら、ああ、なんて幸せな時間だろう、とヘラは思った。

「ラヘル軍の事は知ってるよね」
「ええ」
「連中が攻めてくる。目的は……カスケイドの拘束と姉さん達の解放」
「カスケイドさんを拘束……?そんなことをして大丈夫なの?」

奴隷の解放によって失われる労働力は、ラヘルが補うのだろうか。
そうだとしてもカスケイドの代わりがそう易々と見つかるとは思えない。
彼女のような大魔術師はそう居ないし、しかも進んで海岸線を守ってくれるような人など居るのだろうか。

「カスケイドは拘束された後、略奪の主導者として審問にかけられる。
奴隷は解放されて市民ともども内地へ避難。ま、実質この街は放棄されるわけだね」
「放棄……?」
「後のことはアルケミストギルドに任せるつもりらしい。
たしかに海岸線の守護は彼らの責務だから、応じてはくれると思う。
けど彼らだって暇じゃない。海岸線の侵食がどれだけ進むかわからないな……。
「そんな……ここには母さんだって居るのに」

俯くヘラを勇気づけるように、アベルが「いい話もある」と言った。

「カスケイドが、これから奴隷の半分を開放してくれる」
「え!?なぜ?」
「僕の連続投石器が完成したから。不眠不休で働いてくれた皆のおかげだよ」

ヘラの視線を受けて、カスケイドはゆっくりと頷いた。

「あれがあれば、埋め立て地の工事を急ぐ必要もないわ。
 ふふ……叡智の素晴らしさと比べたら、魔術なんて不便なものね」
「そ……」
「バルガさんも認めてくれたぜ」

得意げな顔をしているアベルを凝視する。
この子は頭がいいな、とは子供の頃から思っていたが、彼の持つ知恵がカスケイドやバルガにさえ認められるほどとは思っていなかった。
言葉を失うヘラを見てさらに増長したアベルは、まるで年老いた学者のように鷹揚な口調で話を続ける。

「これを受けて……クロード様を中心とした街の精鋭は、カスケイドを守る決断をした。
とはいえ、ラヘルに付いた連中もいる。数としては6:4でこちらが不利だな」
「全員揃ったってラヘルに勝てやしないわ。それに、同じベミエラの人たちで殺し合うなんて……」
「時間が稼げれば僕たちの勝ちだ。街の畑はバルガのおかげで豊作さ。
あれを収穫してアルケミストに配れれば、奴隷は、全部開放だ」
「!」

再びヘラがカスケイドを見遣る。面倒くさそうに彼女はまた頷いた。

「手伝っては貰うし、男達の相手もして貰うけど。前のように労働者と娼婦は家に帰すわ」
「じゃあ、もう争う必要なんてないじゃない。ラヘルは何のために街へ来るのよ」
「実績作りのため。海沿いの街を救うってのは、新興勢力にとっては大きな勲章だ。
ラヘルは自分の手で奴隷を解放したいんだろう」
「ラヘルに付いたベミエラの兵士は、収穫の時期が来れば奴隷がすべて解放されると知ってるの?」
「知ってる」
「……」

皆が目指した奴隷の解放が実現されるというのに、それでもラヘルについてアルケミストと戦おうとする。
今のヘラには、その意味が見いだせなかった。姉の表情からそれを悟り、アベルが戦いの意味を口にした。

「復讐さ」
「……」

復讐。アルケミストへの復讐。

「復讐は救済でもあり、メッセージでもある。
 アルケミストの血は、奴隷のまま死んだ人の家族を癒すだろうし、世界中のアルケミストへの警告にもなるだろう」
「……」
「ま、これはクロード様からの受け売りだけどね」

アベルは笑った。
復讐。それを実行しようとする街の人々も、あの怪物と戦えば少しは意見が変わるはずだと思ったが、一方でアベルとあれを引き合わせるなど冗談じゃない、とも思う。
クロードが海の怪物と自分達を隔離した理由を、ヘラは初めて理解した。

「で、ラヘルとの戦い方だけど。この街には、ラヘルが決して手を出せない人々がいるんだ。
 それは僕達民間人、わけてもアルケミストに囚われている奴隷だ。
 ここで起こったことは流石に噂じゃ済まないからね。
 非戦闘員に配慮できない軍隊は、国際社会でも信用されない。
 アルケミストが僕たちを盾にすれば、連中もやすやすと手は出せないんだ」

ここで、黙っていたカスケイドが口を挟んだ。

「私達も奴隷を盾にする時は容赦しないわ。ラヘルが妙な真似をすれば、一人ずつ殺していく。
 せいぜいラヘルに懇願することね。一刻も早く街から立ち去るように、と」

アベルは苦々しげな顔で、ヘラは非難を露にした顔でカスケイドを見た。

「まだ収穫まで間があるわ。にらみ合いが長引けば長引くほど、多くの奴隷が死ぬ事になるのね……」
「そう、だからこちらから申し込むんだ。ラヘルが大好きらしい”あれ”をね。
 こちらが勝ったら街から即刻出ていく。こちらが負けたら、市民の盾は退けるという条件で」
「……あれって?」
「決闘さ。この街の命運は、クロード様とラヘルの一騎打ちで決めるんだ」

クロードなら勝てるかもしれない、というバルガの言葉を思い出す。
わざわざ大怪我をしてまでラヘルと戦ったバルガが言うのだから、信じるほかない。
というよりも、それ以外に何も出来ないのだ。クロードが勝ってくれる事を願うしかなかった。

「これから投石器と引き換えに開放される奴隷を選ぶ事になるけど、頼みがあるんだ。姉さん」
「なに」
「僕と一緒に、船着場へ残ってくれないか」
「ダメ!」

ヘラは鋭く断じた。念頭にあったのは自分が家に帰れるかどうかではない。
アベルの身の安全だった。

「あんたは帰りなさい……。ここに居て何になるの?
あんたじゃなきゃ投石器は動かせないわけ?違うでしょ?」
「街にいる方が危険さ。僕はもうカスケイドの肩を完全に持ってるんだ」
「……」
「それに、僕はカスケイドを見捨てられない。……もちろん姉さんのことも。
だけど、僕の頼みを聞いてくれる人なんて、姉さんしかいないから」
「……」
「自ら進んで、アルケミストの盾になってくれる人を集めて欲しいんだ。
そんな奇特な奴が少ないのは解るけど……ほんの10人、20人でもいい。
アルケミストのために体を張ってくれる人がいれば、ラヘルもかなりやりにくくなるはずだ」
「……いいわ。私もやる」

ヘラは俯きがちだった顔を上げて、こう付け加えた。

「あんたを守るために、やる」

アルケミストではなく、家族のために。
弟と見詰め合うヘラは、カスケイドが自分を凝視している事に気付かなかった。

この後ヘラの説得を受け、彼女と同じ動機で盾役を買って出た奴隷は50人近くにもなった。
動けない年寄りを家族に持つもの、クロードに付いた兵士を夫に持つもの。
当然その多くがアルケミストを憎んでいたが、それでも彼らを守る決断を下したのである。

カスケイドはこの50人に対し、謝罪はしなかったものの、深く頭を下げて礼を言った。

○+

アルケミストへの憎悪は街の総意と言えたために、それでも敵味方に別れねばならないベミエラの人々にはためらいがあった。
街が横たわる段丘の上段をラヘル派、下段をクロード派が占め、多くの人が他人の家で日々を過ごしていく。

そんな中、いよいよ奴隷が開放される日がやってきた。時刻は正午であった。
彼らを迎える広場には朝早くから人が集まっていて、午前には期待と不安が、午後には歓喜と悲嘆がそこで交錯した。
生きて帰ってきた家族を抱きしめる人と、ゾンビになって帰ってきた家族に縋って泣き崩れる人。
そしてその日の夜になると、下段から上段へ、また上段から下段へと移り住む人が相次いだ。
これはラヘルがやってくるまで続いた。

ラヘルは少数の精鋭のみを率いてきたが、街のラヘル派を吸収するとクロード派に倍する数となった。
今度もやはり正午の広場で、充実した武装をまとったラヘル軍と、非武装の市民達を前に出したクロード派が向かい合う。
広場より海側の街では、アルケミスト達がほぼ総出でラヘル軍の来襲に備えている。やはりこちらも、奴隷達にゴーレムのこぶしを突きつけて。
そんなクロード派に、ラヘル軍は侮蔑の視線を向けている。その視線は、クロードが進み出てくると彼へと集中した。
赤塗りの大剣をすでに抜き放っているラヘルと、黒く大きなハルバードを担いだクロードが、互いに広場の中央へと歩み寄っていく。

「ラヘルだ。ただのラヘル」
「クロード・カイツ」

名乗り終えると、静かに獲物の頭を突き出してクロードが構えた。
背の低いラヘルだが、長身のクロードを見下ろすように目を細め、大剣を引きずりながらゆっくりと歩き出す。

「”まいった”は早めにいいな。恥知らずの騎士サン」
「……」
「こんな街に居て……王に一言物申す、って気にならないのかい?――ならないか。市民を盾にするようなヘタレじゃな」
「……」
「だけど、強いんだろ。噂は聞いてるよ。王の目さえ欺き続けた、この国最強の隠し剣。がっかりさせんなよ――」

巻き起こる風すら置き去りにして、ラヘルがクロードへと殺到する。

両手持ちの剣を大胆に振りかぶって叩きつける時も、予備動作なしの静かな突きを見舞う時も、ラヘルはその一撃で仕留める意気を持っていた。
意気だけで言えば、剣を使わぬサイドキックを放つときでさえ、である。
これをステップでかわしたクロードへ追いすがるように下段から斬り上げたが、振り上げられた彼女の剣はそのまま宙を舞った。
巻き上げ。ハルバードでこれを行うのが神技なら、即座に跳んで剣を回収し、クロードの追撃を許さないのも絶技――
そのような”演出”の効果は覿面で、見ている人々の多くが決闘の緊張感に呑まれていた。

だがそうでない者も居る。例えば両陣営の中でも使い手とされる戦士らは、広場で行われている事に気付き始めていた。
またこの演出を可能なら、という条件付で依頼したバルガも、自分が文字通り無駄骨を折ったことに気付いていた。

ラヘルの癖を見る必要などなかった。
ラヘルとクロードの間にある実力差は、果ての見えない荒野のように広い。
剣が舞うたび、クロードがその気ならラヘルは膾切りにされている。
決闘が始まって10分、既に5度剣は舞っているが、その気、という事であればラヘルが死んだ回数は5度で済むまい。

「……」
「……」

ラヘルの背後に並ぶ彼女の軍は、大将がいま泣きそうな顔で戦っている事に気付かない。
気付く、という事であれば、もちろん自分が嬲られていることにラヘルは気付いている。だが意図はわからない。
これを仕組んだクロードとバルガ以外に、わけなど解るはずがない。
それでも彼女は戦いをやめるわけにはいかなかった。自分についてきてくれた皆が見ているのだから。
彼女は、ロードなのだから。

「……」

と、観戦をやめてバルガは海へと歩き出した。
ウルザが彼を呼んだからである。

その青年は今日も緑色の服を着ていた。
それは合図だった。交易都市を訪れた際にラヘルの密偵となった彼は、クロードが抵抗してきた場合、それを打ち破る策を用意しておけと指示されていた。
彼は考えた末に、アベルの投石器を破壊することを思いつく。
そうすれば、アルケミストはやはり奴隷を解放するわけにはいかなくなる。
そうすれば、話が違うとクロード派の兵士達はラヘルへと寝返るだろう。
そうすれば、アルケミストとラヘル軍は必ず戦いになる。収穫の時期までにらみ合いが続いて、戦いが起きないという事はなくなる。
そうすれば、自分がアルケミストを殺すチャンスが出来る――

この策を実行する場合、本来ならラヘルからも合図が出されるはずだった。
だが街へ来てみると、クロードを一騎打ちで破ればいいだけの状況だったので、ラヘルは合図を出さなかった。
それでも彼は暖めていた策を実行することにした。だって、ラヘルがクロードに勝てると思えないから。

「ハッハァ―――」

息をせき切らしながら、今は手薄になっている船着場へ走る。
ランプの火を絶やさないようにしながら、藁を持てるだけ持って。
木で出来た投石器、火種さえあれば燃やせる――その策が成立するかはともかくとして、彼は動かない理由を見つけられなかった。

奴隷だった妹は生きて帰ってきたが、それがなんだろう。
彼女を慰み者にしたアルケミストを許すとか、許さないとか。そういうことを考えた事はなかった。
可能な限り殺す。彼の頭にあるのはそれだけである。その時を思うだけで、彼は笑い声さえ堪えることができない。
もうすこしだ。埋立地に並ぶ投石器が見えてきた。なに、人影がいくらか見えるが何のことはない。
斬り倒して進めばいい。連中はアルケミストだ。剣の腕には自信がある。そう、連中は前菜みたいなもんじゃないか―――

「どこへ行くんだい」
「!?」

路地から行く手を阻むように人影が躍り出たので、驚いた青年は思わず藁を落としそうになった。

「そんなもの持って――船着場で何をする気だい?」
「……」

青年はゆっくりと呼吸を整えながら、風を受けないように物陰へと藁とランプを置き、無造作に剣を抜いた。

「……」
「ラヘルの差し金だな?」

答える必要はない。バルガ――街に来た学者。いい人だったが、今は邪魔だ。見られた以上は逃がすわけにもいかない。
だが一つだけ気になったので、試しに聞いてみることにした。

「いつ見抜いた?」
「いつ?」

片刃のサーベルらしい剣を抜きながら、バルガが怪訝そうな顔をする。

「なぜ、ではなく、いつ、か。難しい質問だな。んー」
「……」

おかしいな、と思ったのは、青年が交易都市からベミエラに帰る時である。
行くときは何も思わなかった。それなりに腕の立つ彼なら、護衛に抜擢されてもおかしくない。
だがラヘルの誘いに乗らず、ベミエラに帰る決断をしたのは変だ。そして今日、クロード派として街の下段に住んでいる事も変だ。
青年に初めて会ったのは、広場で畑にまくための貝殻を配った時。
あの時激しい怒りを”表明”していた彼なら、徹底してアルケミストに歯向かうはずだと思っていたのに、彼はそうしなかった。
だから、バルガはウルザに監視を頼んだ。そして彼はその網に引っかかってしまった。

監視をつけたのは、ラヘルが来る直前。
青年を意識しはじめたのは、ベミエラに帰る前。
だが全てのきっかけになったのは。

バルガが答えを整理し終える頃、青年は焦れていた。もう答えなど別にどうでもよかった。
敵が構えた剣を見る。長いが幅の小さい、緩く弧を描くような刀身と、そこに走る美しい波紋。
欲しいな、と思ったが、力いっぱい叩けば折れそうだな、とも思ったので、実行した。

「……」

青年の剣に、バルガの剣が食い込む。始めてみるその剣は、想像以上に頑丈で、しかも切れ味が鋭かった。

「お前に会ったときからだ――」

それが質問の答えだと、青年は気付かない。
腹から垂れ下がる内臓を反射的に見下ろしたとき、背後から頭蓋に入ってきた切っ先が、彼の小脳を破壊した。

「……」

刀を緑色の服で拭い、鞘に収める。
青年の死は騒ぎの種となったが、容疑者が浮かぶ事はなかった。

哀れな英雄ラヘルは、吟遊詩人が謡うような本物のファイターと、終わりの見えない戦いを強いられていた。
彼女にとって一番不幸だったのは、その様を部下達に見られ続けている事だった。

広場の決闘は、決着が先延ばしにされ続けている。
始まって1時間、ラヘルとクロードは大きく肩で息をしていた。だがラヘルは知っている。クロードが少しも疲れてなど居ない事を。

「なんで!殺さない!」

……と、叫べたならどんなに楽か、とラヘルは思った。否、叫んでしまってもいい気になっている。
決着が待ち遠しい。勝利であれ、敗北であれ、この悪趣味な拷問めいた時間を終わらせてくれるなら何でもいい。
全力を尽くした結果であれば、部下達にも納得してもらうしかない。
おおよそこのような思考に逃避したラヘルは、マジックウェポンの力を全開にする。

「―――」

彼女が持つそれの格は、クロードのものより上である。
高クラスのファイターが纏う奔放な魔力を糧に、組み込まれた術式が魔術に似た奇跡を起こす。
ただ、使い手が魔術を知らなければその制御は難しい。
主の生命力までをも喰らいながら、無軌道な破壊をもたらすのが、ファイターの起こす奇跡の常だ。
そのことを忘れ、広場に多くの人々が居る事も忘れ、ラヘルは赤い刀身に紅蓮の炎を纏わせる。

「死ねぇぇぇェ!!」

横薙ぎに、敵を打ち払う。
その時、別にクロードから目を離していたわけでもない。ただ本気になったクロードが、獣の反射神経を凌駕していただけである。
振りかぶられた赤い刀身を、ハルバードが抑えつける。そこで初めて、ラヘルはクロードの肉薄に気付いた。
不発に終わった奇跡はしかし、広場の地面を深々と抉り、2人の足元を炎で焼いた。

「……」
「……」

遅れて響く悲鳴。市民や兵士に怪我人はいない。赤い剣と黒いハルバードが、地面に刺さったまま交差している。
クロードはラヘルの目を見据えていたが、ラヘルはもう誰も見ていない。
感覚の失せた右腕にちらと視線を落とすと、赤い剣の柄に掌が乗っているだけの状態だった。もう剣は握れないだろう。
そして先ほどのように跳んで逃げる気もない。あとは、偉大な敵のハルバードが自分を切り裂く瞬間を待つだけだ。

「……」
「……」

だが、やはりクロードはそこから微動だにしなかった。
戦いへの集中をやめたラヘルの耳に「先に動いた方が負けだ」などという呟きがどこからか聞こえてくる。
彼女は思わず失笑した。

と、そこで。交差する2人の武器にパシャリと水が掛かった。
思わず体を震わせたラヘルと、視線だけを横へ向けるクロード。
勝負に水を入れたのは、いつの間にか広場に戻っていたバルガだった。
そこらの民家から持ってきたコップを片手に、闘士2人へと歩み寄る。

「お2人ともお見事。だが、そのままでは相打ちがせいぜいだ」
「……」
「素晴らしい戦士を1度に2人失って、しかも得るものは何もない。そんな事が許されていいだろうか」
「……」
「仕切りなおそう。今後どうするかも含めて、両陣営、もう1度話し合うべきかと思う」

クロードはすぐに刃を引いた。ラヘルには是非もなかった。無事な左手で剣を引き抜き、俯きながら自陣へと引き返す。

隊列を左右に割り、ラヘルの兵士達は彼女を迎え入れた。
敵を讃え、大将を労い、再戦と勝利を請う彼らの顔を、ラヘルは見ることが出来ない。
そのまま用意された屋敷まで無言で歩き、ついて来た部下に「誰も通すな」と言って中に入った。その声は隠しようもなく震えた。

「ふっ、ぐ……」

寝室に入った途端、堪えていた涙がぼろぼろと零れてくる。
彼女はただ、動顛していた。人見知りの童女が知らない男を見ただけで泣いてしまうように、心を締め付ける動顛だけが涙の理由だった。
故郷に、帰りたいと思った。

「……」

この後、バルガは夜がふけるまでラヘルの屋敷を何度も訪れたが、彼女との面会は叶わなかった。

○+

「で、この革の胴体に油を塗って、さっき作った袋を被せると……」
「うっ……!?」

盾役を買って出た奴隷の少女達が、引きつった顔をする。
魚の肌を模した青白い布が、油のてかりを湛えてなんともそれらしい質感になる。

「さらに―――」

―――ビチビチビチビチッッ!

「ぎゃああああああああ!!」

魚もどきを軽く揺すると、中に仕込まれたぜんまい仕掛けによって「それ」が激しくのたうつ。
まるで陸に打ち上げられた魚が激しく暴れるかのように。
木のボタンで作られた目、胴体はよく見れば網目も見えるちゃちな作りだが、遠目からでは解るまい。

「あははははっ」

一気に部屋の隅まで引いた娘達を見て、ヘラが笑う。彼女の腕の中で、ゆっくりと模型が動きを止めた。

「明日に備えて、みんなで夜なべしてこれを作りましょうってお話。裁縫が上手い子を探してたんだ。
 カスケイドさんにも頼んで、たくさん作ってもらうから」
「……」

トラウマを刺激された女たちはしばらく固まったまま動けなかったが、やがて恐る恐るといった態でヘラに寄ってくる。

「でも……こんなので本当に戦いを止められるのかしら」
「……」

自らの発明品を前に渋い顔をされたヘラは、逆に笑み(それはやや邪悪なものだったが)を浮かべ、女たちの眼前に模型を突き出す。
再び巻き起こる阿鼻叫喚。やがて女たちを追い掛け回す事に飽きたヘラが、しみじみとした顔で言う。

「こんな事しかできないじゃない」
「……」
「何かの役に立てばいいわ。頑張りましょ」

半泣きのまま恨みがましげにヘラを睨んでいた女たちだが、結局は折れた。
彼女らは夜明けまで一睡もせずに、模型の量産を行った。

夜明け。その頃には既に、ラヘルは自分の中の動顛を怒りへと変える事に成功していた。
右腕の感覚も完全ではないが戻っており、クロード以外の相手なら問題なく勝てる自信がある。
軽く素振りをした後、赤い大剣を鞘に収め、一つ気合の声を発した。

「……」

瞑目し、師の形見である腕輪に手を添える。大柄な彼が手首にはめていたそれは、ラヘルの二の腕にちょうど良い大きさだ。
理性無き親の下に嫌気が差し、好奇心から街へ出たが、危うく自警団に討伐されそうになる。
だがそこの長は、ラヘルが持つ人間並みの理性を見抜いてくれた。
道場を営む彼の下で剣と文字を習うと、すぐに剣では誰にも負けなくなった。
彼女は父と慕う師の教えを守り、粗暴さを抑えて誰よりも人間らしく振舞い、皆からの好意を喜びとする事ができるようになった。
ラヘルは、人間が好きだった。

「……」

やがてこの国が帝国との戦争に入ると、師と兄弟子達は皆、兵士として戦場に赴く事になる。
ラヘルも当然付いていくつもりだったが師はそれを許さず、国軍に諮って彼女を街の守備隊預かりとした。
そして師の遺品だけが街へと戻ってきた時、ラヘルの激情を抑えつけてくれる人はもう居なかった。

復讐、帝国への復讐!
帝国に服従するためにこの戦いを起こしたラヘルだったが、それは面従腹背、いずれは寝首を掻いてやるという気概を失ってはいない。
だが挙兵の動機をそれ以上の割合で占めていたのは、愚かな戦で人々を苦しめるこの国の支配者への怒りなのだ。
飢えのために子を、親を捨てる人。戦いのために家族を失う人。そしてロクな教育も統治も行わず、戦争を理由に戦線へと富を集める貴族達。
まず解決すべきはこれらの問題であり、ラヘルはこの国で戦火に苦しむ人々を救うために兵を挙げたのだ。

やがてよい国王を据えた後、同志だけを集めて国を出奔し、復讐はそれから始めればいい。
剣なら、誰にも負けない自信がある――。

「……」

その自信は打ち砕かれてしまったものの、まだこの国の首都を落とせていない。ラヘルは立ち止まるわけにはいかなかった。
略奪者の首魁、カスケイドの拘束。そして代わりの人材を、帝国領の海岸線にばかり厚い保護を行うアルケミストギルドの連中に寄こさせる。それまでの代役はバルガにやらせればいい。

これさえ達成されれば、自分についてくるという男はこの街にもたくさんいる。
練度の高い彼らは、首都を落とす際に大きな力になってくれるだろう。

「……」

一騎打ちで勝てないなら、軍略で勝てばいい。
市民を盾にする姑息な策を打ち破って、カスケイドの元まで一気に駆け抜けてやる――。

「……面倒なことになったな」
「ああ」

朝。船着き場へ通じる路全てで、同時に戦いが発生した。
ただしそれは素手、徒手空拳のみで行われている。その様子をクロードとバルガが苦々しげに見守っている。
ラヘル派は武器を捨て、素手で盾役の奴隷達、その後ろに控えるクロード派を押しのけようと言うのだ。
クロード派もまた武器を捨てざるを得ない。
襲ってくるのがラヘル軍ならまだしも、ラヘル派というだけで同じ街の市民達なのだから。

既に奴隷達は退避しており、通路では男達が怒号を挙げながらながら殴り合っている。
その様子を、武装したラヘル軍が遠くから伺っている。頃合いを見て船着き場へ突っ込むつもりだろう。

「こうなれば仕方ないな」
「……ああ、仕方ない」

ハルバードを担いで歩き出したクロードに、バルガも付いていく。
ラヘルを捕らえるしかなかった。
昨日のように彼女の名誉を守る事は出来ない。彼女のカリスマを挫いてしまえばラヘル軍に何が起こるか解らないし、間違って殺しでもしたらこの街が戦場になる。
それを防ぐために昨日の段階で停戦したかったが、こうなれば仕方ない。
少しでも上手く状況を収めるため、バルガも魔術を振るう気になっていた。

「そこを退け」

クロードが前を塞ぐラヘル軍に告げる。彼らは無言で武器を構えた。
赤い煌びやかな鎧が彼らを精鋭だと報せている。しかし、クロードが臆することはない。

「退かねば――」

血の雨が降ろうとするまさにその寸前。
男達が立つ街路に、樽が降ってきた。

「うおおおお!?」

街路を挟む住宅の窓から、あるいは屋根から、空の樽が幾つも降ってくる。
元より戦意の薄かった男達は殴り合いを中断し、一斉に上を見上げた。

「バカー!」
「能無しー!」
「ごくつぶしー!!」

奴隷の女達が窓から、あるいは屋根から口々に叫ぶ。
あっけにとられる男達の注目が、ある少女へ集まった。
彼女が手に持つ「もの」を、まさかという表情で凝視する。

「そんっなに、街を沈めたいわけね?」

屋根の上に仁王立ちするヘラが叫ぶ。手に乗った魚が頭を小突かれると、ビチビチと激しく暴れ始める。
――男達は戦慄した。

「ならまず、あんたたちから沈めーーーーー!」

彼女の叫びを号令代わりに、女達は一斉に魚を投げ落とし始めた。

阿鼻叫喚である。
男達は敵味方の区別なく、泣き叫びながら蜘蛛の子を散らすように魚から逃げ惑う。
中には模型と気付いて周りを落ち着かせようとする者も居たが、落ち着いた後にすることが殴り合いだと気付いて、呆然と成り行きを見守る構えになった。

ヘラが街路に降りて、地面に転がった模型を蹴っ飛ばす。
すると中から革袋が飛び出して、逃げ回っていた男達の足下に転がった。

「なっさけない!」

声を嗄らす勢いの絶叫。

「そんなに怖かったら街から出て行きなさいよ!
アルケミストと戦ってるうちに「本物」が来るかも知れないわよ!?」
「……」
「何よ、ラヘルが居なかったらここまで出来ないくせに!
クロード様が居なかったら、カスケイドに逆う度胸もなかったくせに!」
「……」

男達も言われっぱなしではない。正気に戻ったある若者が反論を始める。

「お前は許せるのかよ!」
「……」
「連中にここまでやられて、黙っていられるのか!?お前達が一番の被害者じゃねぇかよ!」
「……」
「許せんのか!連中を!」
「ゆるっせるわけないでしょおおお!!」

天を仰いで、絶叫。

「ほんとだったら!連中のあそこ蹴り上げて!そのまま海に放り込みたいくらいよ!」
「……」
「でも、そうやってアルケミストを殺してしまったら!私たちがここから逃げてしまったら!」
「……」
「誰が大陸を守るっていうのよ!」

正論であったが。そんなことは男達も承知の上なのだ。
白けた表情で、男達が再び敵味方に分かれ、向かい合う。ヘラの存在を無視し、街路に再び緊張感が練り上げられていく。
ヘラが周りを見回しながら、怒りの形相で何かを言おうとした時。

――――カンカンカン、カンカンカン、カンカンカン―――。

ベミエラの街では馴染み深い鐘の音。海の怪物がやって来たことを報せるそれが、街中に鳴り響いた。

「お、おい」
「クソ、まだ昼だぞ。はったりじゃねぇのか――」

人々の視線が一斉に埋立地の向こうへと注がれる。

「…………」

近い。と人々は思った。
実際は埋立地の先端にさしかかったばかりなのだが、「それ」が余りに巨大だったため、人々の遠近感が狂ったようだった。
2枚貝の間から延びた触手が埋立地に突き刺さり、その怪物を陸地へと引っ張り上げていく。
街中に響くような風切音を立てながら貝が開き、中から泡のようにせり上がってきた無数の目玉が、ぎょろりと、人々を見据えるように動いた。
ヘラの近くで、誰かが嘔吐した。

「―――」

ラヘル軍も、ラヘル派も、クロード派も。全てが街の外へと逃げ出していく。一切の区別無く。
彼らを見送りながら、怪物たちを背にしながら、泣きそうな顔のまま、ヘラは叫んだ。

「逃げるのかー!臆病者ーーー!」

「クロード様は避難誘導をお願いします」
「解った」
「バルガ!あんたは私と船着き場にくるの!」
「あぁ!?お前も逃げろ、何の足しにもならないだろうが!俺に任せてとっとと行け!」

クロードとヘラが顔を見合わせてから、バルガを見た。
そしてヘラは笑った。

「地が出てるわよ」
「……殴られたいのかお前……」
「おしゃべりしてる暇なんてない!」

バルガの手を取って、ヘラが船着き場へと走り出す。

「おい、おま――」
「いいの!」

本当は良くないような気もしている。
だが歯を食いしばって世にも恐ろしい怪物たちを見据え、震える脚を何とか動かしながら、ヘラはこう言った。

「私はアルケミストになるんだから!怖いなんて、言ってられないの!」

○+

「ありったけの石炭をくべてください!ソーサラーの方は火炎の呪文で釜を熱して!」

アベルは連続投石機の起動を進めている。
化け物めいた貝が1匹いる以外は数も少なく、厄介そうな個体もいないとの報告があった。

(幸いなことに風も弱い。「コイツ」が演習通りの効果を発揮してくれさえすれば、問題なく撃退できる)

アベルは化け物を見据えながら笑った。体中が震えていたが、こんなもの武者震いだと思った。

「ありったけの戦車を出せ!投石機の起動まで時間を稼ぐのだ!」

カスケイドの命令に従い、ゴーレム達が幅の広い木造戦車を引いていく。
アルケミスト達が頃合いを見計らい、それに向けて火矢を放った。その後ろをゾンビが鈍器を持って付いていく。

「クソ、おっせえぞコレ」
「故障じゃねぇのか――」

待たされる時間は演習の時よりも長く感じる。
蒸気が連続投石機へと力を伝える前に、戦車の第一陣が怪物たちにぶつかった。

ぉぉぉぉぉぉぉぉ――――

貝の化け物が触手を伸ばし、戦車ごとゴーレムを貝の中へ放り込んでいく。恐ろしい勢いで。
アルケミスト達の戦意が萎えかけた時、それを鼓舞するように歯車の軋む音がした。

「回った!回った!」
「まだ石は装填しないで!準備が出来たら、自動で旗が上がりますから!」
「解ってる!耳タコだよ、若先生!」

アベルに向けてアルケミストが笑いかける。
それに笑みを返したアベルは、船着き場に降りてくるバルガと姉の姿を見た。

「ちょ、姉ちゃん!」
「撃退できそうか?」

言いながら戦況を見て渋い顔をするバルガの腕に、ヘラが歯を鳴らしながらしがみついている。

「……何で連れてきたんですか」
「……」
「旗が揚がったぞ!」

アルケミストの叫び応じるように、連続投石機が「準備完了」を知らせる旗を次々と揚げる。
合計6機の旗が全て揚がったところで、カスケイドが右手を挙げた。

「2機は貝の化け物を、4機は他を大きいものから狙え!」

指示に従い、アルケミストたちが発射台の向きを調節する。
塔のような外観の連続投石機は、手をつないで囲うと大人が10人要るほどの太さで、高さは3階建ての家と同じくらいだ。
平らな屋根に発射台があり、人が抱えて押せるよう棒の突出した歯車で向きが変えられるようになっている。
向きが決まったら、大きさの揃った石を6つある投入口に次々と入れていく。
すると耳を劈く風切音と共に、石が射出された。

「……」
「……」

遠く。
走ってもゆうに5分以上はかかるくらい遠くにいる、それでもかざした掌ほどに大きく見える蛸の化け物の頭に、丸く綺麗な穴が空いた。
その穴はみるみるうちに数を増やし、やがて蛸の頭が無くなった。

「……う、うおおお」

ゾンビに倍する体躯を持つ、魚人の上半身が突然消える。
戦車よりも広い幅を持つ蟹の甲羅が、真っ二つに割れる。
……化物貝の外殻が、みるみるうちにヒビだらけになっていく。

「マジかコレ」
「いける」
「ああ、いけるぞ」

歓声を上げながら、アルケミスト達は石を投入し続ける。

「出力過多かな……もう少し小型化できるかも」
「……」

顎に手を当てて思案顔のアベルを、カスケイドが微笑みながら見遣り、そのまま口を開く。

「バルガと言ったかしら。アベルの投石機作りに手を貸してくれたそうね」
「いや、私は何もしていない。彼と、街の人々が作ったんだ」
「そう。それでも、ありがとう」
「……」

船着場までの距離を十分に残したまま、怪物たちの駆逐が進んでいく。
その場に居る多くが、すぐそこまで勝利が来ていることを意識していた。しかし。

いくつかの連続投石器が轟音と共に2、3度震え、急速にその出力を落としていく。

「げ、もう!?」

瞬時にその原因を理解したのはアベルだけで、多くのアルケミストが騒然としながら、闇雲に連続投石器を動かそうとする

「出力を落としてください!それ以上釜を熱さないで!」
「そんな!もうちょっとだぜ!?後はあの――貝の化け物だけだ!」
「ええい……言うとおりにしないか!馬鹿者!」

カスケイドが軽く攻撃魔法をつかって実力行使する。
それでも、シリンダーの破損を免れたのは2機だけだった。

「蒸気量が多すぎて金属が耐えられなかったんだ……くそっ!」
「私の錬金術が未熟なせいね……ごめんなさい」
「そんな、僕の設計ミスだよ!」
「ともかく、2機は動くんだな?」

お互いに責任を引き受けあうカスケイドとアベルに、バルガが声をかける。

「はい……でも、他のシリンダーも限界に近いはずです。
 出力をだいぶ落として使わないと……しかしそうすると、威力が」
「貝を引き寄せればいいんじゃないか?」
「それでは私達が無事で済まないわ。あれほど大きな怪物に、あの勢いで石をぶつけたら―――体液の飛沫が」

いまいましげにカスケイドが貝を見る。バルガは笑って大丈夫だ、と言った。

「カスケイド、アルケミストを連れて陸にあがってろ。アベルもだ」
「……どうする気ですか」
「飛沫ぐらいならなんとかなる。……へラ、お前は残れ」
「へっ……へっ!?」
「1人くらいなら守れるし、俺1人じゃちょっと大変だ。
 アルケミストになるんだろ?びびってるんじゃあないぜ?」

ウインクするバルガを、ヘラが泣きそうな顔で見る。
いろいろと聞きたいことがありそうな顔で、だがともかくいま聞かねばならない事をカスケイドが問うた。

「バルガとやら……飛沫ぐらいと侮ってはいけないわ。少しでも浴びれば、おまえ達は死なねばならないのよ?
 ここはいったん引くの。……あれほどの機械が生み出せたのだから、この街を失っても、巻き返しは利くわ」
「大丈夫さ」

バルガが魔術を行使する。しかし、精霊を食う事はしない。
シャーマンが精霊を消費するのは、召還の時だけだ。

『バックアップするよ』
『食い荒らすなよ。これからもここには、人が留まるんだからな』
『解ってる』

人知れず交わされた念話の直後。バルガとヘラを極彩色の光が囲う。
半透明の球体を形作り、表面に美しい波紋を流すそれは、ウルザの祝福を受けて更に輝きを増す。

「……」
「……ウルザ」

彼女の掌に浮かんだ柔らかな光が、彼女のやさしい吐息を受けてバルガ達へと流れていく。
その様を見て、思わずアベルが彼女の名を呟いた。ウルザはアベルを一瞥し、微笑み、そして消えていく。

「スピリット・ブレッシング……。だが今のは、神?」
「……」
「おまえは一体……」

再びカスケイドが問うが、今度は答えが返ってこない。

「……。引き上げだ!全員陸へあがれ!」
「ね、姉ちゃん!」

姉の元へ向かおうとするアベルを抱え、カスケイドが号令をかける。
最後に一度だけ振り返って、彼女らは陸へと上がっていった。

「心配性だな」

埋立地に向かって強風が降りてきている。カスケイドの魔術だろう、とバルガは思った。
バルガとヘラが会話するためには、その音に負けないよう、大声を張り上げねばならなかった。

「私を残して、やらせる事が、これ?」
「そうだ」

別々の投石器の屋根に乗った2人が、叫び声でやりとりする。
強風の中で石を装てんし、射出台の角度を調節するのは女にとって重労働だった。バルガもぜぇぜぇいいながら準備を整える。

「さっき、すごそうな、魔法使ってたのに……これも魔法で、ちゃっちゃと、できないの?」
「そんな、便利じゃねぇんだよ、魔術は……あと、魔力が、もうない」
「かっこいいんだか、情けないんだか」

ヘラは会話で、怪物への恐怖を紛らわせている。バルガもそれを知っているので、努めて明るく応じ続けた。

「よし、あとは、待つだけだ!」
「ああ、そりゃ、よかったわよ!」

投入口に石をセットし、後は口をふさいでいるレバーを落とすだけで、石が射出されるようになった。
同時に会話が途切れ、ヘラの体が震え出す。
何度見ても慣れることはない、自分達の世界にあり得るべきでない怪物。
足がすくんで動けなくなってしまいそうで、ヘラは思わず目を逸らした。

「おーい、見ろよ、ヘラ」
「……」

呼びかけに応じて、バルガを見る。彼は貝が居る方を指差している。
ああ、もう、だからいやだって言うのに。横目で恐る恐るヘラは見た。

「虫の息だって。なぁ?」
「……」

確かに貝殻はぼろぼろで、開いた穴の方が大きい有様だ
中の目玉もほとんどが潰れ、ジュースとなって外に流れ出ている。
それでも何とか触手を使って、のそり、のそりとこちらへ向かってくる。

「うぅぇぇぇ……」

吐きそうになりながらバルガを睨む。
勇気付けようとして失敗した事を知ったバルガは、少し考えるように虚空を見つめた後、こう言った。

「そういやお前、妊娠した?」
「!?……はあぁぁ!?」
「俺の子。妊娠してない?」
「……知ら――」
「うわ!馬鹿待てちょっと!まだ早い!」

レバーを踏みつけようとするヘラを制止する。しかしその直後、ヘラの判断が少しも逸っていない事を知った。
ヘラに気を取られていたバルガは、貝が最後の力を振り絞り、猛スピードでこちらへ向かっている事に気付いていなかった。
慌ててレバーに縋ろうとするバルガの耳に。

「ない、わよっっっ!!」

ヘラの絶叫と、石の射出音が響く。
遅れてバルガもレバーに縋りついた。彼の放った石が、貝にとどめを刺す。

ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――

断末魔をあげて貝が閉じていく。
カスケイドの予見どおり、飛沫は2人に降り注いだものの、その瞬間に一際まばゆい光を放ったスピリット・ブレッシングに阻まれ、体に届く事は無かった。
ベミエラはこの難局を、1人の犠牲者も出さずに乗り切った。……。

それから一時間もしないうちに、ラヘルとの面会が叶った。
クロード、アベルの2人が、街の門の下でラヘルと対面する。
街側にクロード派、外側にラヘル軍という並びだが、広場で向かい合ったときの緊張感はなくなっている。

「できれば昨日のうちに応じてほしかったね」
「ふん。あの化け物に尻尾を巻いた後じゃ、バツが悪いってだけだ」
「そうかい。用件は停戦交渉だ。受けてもらえると思うがね」
「どうかな」

どこかおざなりにラヘルは言った。
両軍ともに戦いの気運を削がれていることを、彼女もまた悟っている。

「こちらの投石器の性能を見たか?」
「ああ、昼でよかった。ばっちり見えたよ」
「ここに、あれの設計図がある」

クロードに促され、アベルが示した紙の束を、ラヘルは思わず凝視した。
彼女が無意識に体を揺らすと、それに応じてクロードのハルバードがかたりと揺れる。

「……」
「……」

しばしの沈黙の後、クロードが話を再開する。

「これを提供するから、帰ってくれ。ただ、これはいくつか問題点も抱えている。
 設計技術者を――彼を後で送る。どうかな?」
「そのガキが、かい」

ラヘルがアベルを見遣る。

「この投石器がラヘルの名の下に広まるんだ。悪い取引じゃないだろう」

ラヘルは腰に手を当てて考え込むふりをした。
むしろ彼女の方から持ちかけようとしていた提案だ。受けない理由は無い。

「わかった。兵を引こう」
「そうか、よかったよ」
「クロード・カイツだったよな」
「ああ」
「あたしが王になったら、あんたを召抱えたい」
「君がもし王になったら、まずその後の治世を見せてもらおう。今はお断りする」

沈黙する2人を、アベルが気遣わしげに見る。
ラヘルはほんの少しだけ、物憂げな表情になった。

「……あんたは……どんな王を望むんだ」

クロードは硬い表情を初めて崩して、ラヘルを勇気付けるように言った。

「そんな事を私に聞かない王だな」
「……」
「……」
「また会おう」

そう言ってラヘルは街に背を向けた。
本陣に帰るぞ!という彼女の号令に従い、ラヘル軍はベミエラから去っていった。

ラヘルを見送った後、その足でアベルはカスケイドを訪ねた。

「そう、行ってしまうの」
「ええ。出発は、連続投石器の配備が済んでからですが――」

背を向けたまま言うカスケイドの背が弱弱しく見えて、アベルは少し戸惑った。
彼女にとっても待ち望んだ瞬間なのに。一瞬そう思い込みかけた自分を、いいかげん大人になれ、と戒めながらアベルは問う。

「敵の名前を聞いてませんでしたね。息子さん……クラウスさんを軟禁しているのは、誰ですか」
「……レオナルド・ジンケード。クラス6のソーサラーよ」

カスケイドは振り返り、激情に駆られるままアベルの肩を掴む。
なだめるように、アベルはその腕を撫でた。

「正面から言ってはダメ。頭を使って、出し抜きなさい」
「……」
「そして、無理だと思ったら引きなさい。まず、貴方が死なない事が第一。クラウスはまだ若い。急いてはダメよ」
「はい。安心してください」

アベルはにっこり笑う。

「内地に行ったら、人を使うつもりです。もちろん狙いがばれるようなヘマはしません。
 そうなると、調査結果が出るまではヒマです。
 クラウスさんには申し訳ないけど、急いで良くなるような問題じゃないですから――たまにはここにも帰ってきます」
「……」

アベルがカスケイドに寄り添った。

「何度か行ったり、帰ったりしてるうちに、そのうちクラウスさんも一緒に帰ってきますよ」

カスケイドの表情が見る見るうちに柔らかくなっていく。

「いつごろからか。家族のように思っていたわ」
「……僕も。そして、これからもね」

カスケイドの指がアベルの頬を撫でる。
右頬に刻まれていた呪いの印が、ゆっくりと消えていった。

今日もアルケミストと市民の喧嘩があった。
双方の溝はまだ谷と言えるほど深い。奴隷は開放され、食料も行き届いているが、対立が解決したわけではなかった。

とはいえ。ラヘルが居たときのように、明日にも血の雨が降るかのような緊迫感はない。
良くも悪くも、市民とアルケミストはお互いを恐れていた。
そして双方に争いを躊躇わせる一因となっているのが、それぞれの頭目であるクロードとカスケイドが、師弟関係となった事だ。

「いいのかい。教会から除名されるぜ」
「いいんだ。最初からこうするべきだった。私は武器を振るうのが役目と思っていたが―――」

カスケイドの錬金術を学び、埋立地での戦いに参加する。それがクロードの決断だった。
彼の決断に同調し、兵士だったものの中にも志願者が出始めている。
谷に橋が掛かり始めたようだ。過分に希望的な観測に過ぎなかったが、バルガにはそう思えた。

朝焼けが街を染めている。向かい合う2人が無言になったタイミングで、クロードが衣に包まれたハルバードを差し出した。

「受け取ってくれ。約束の報酬だ」
「……」

騎士にとって、拝領した武器は魂とも言えるだろう。
バルガは心から微笑んで、その受け取りを拒む。

「君に貸しを作った方が得だと思ってね。騎士たる君になら、仁義も通貨になりうる」
「……。だが私は、これから長い修行に入る。君の役に立てるとは思えん」
「そうかな。俺の意見は少し違う」
「……」
「君は武器を振るうのが役目だと言っていた。俺は今でもそう思う」
「……」
「人には役割ってものがある。運命ってやつかな。
 いずれそいつが、君を呼ぶさ。俺はそう思う」

バルガは短く別れの挨拶を言って、クロードの返事を待たずに歩き出した。

「……」

逆光がバルガの姿を黒く染める。
それが見えなくなるまで、クロードは彼を見送りつづけた。

エプロンドレスの端をつまんで、ヘラが走っている。
このところ母親の葬式などもあり、予定が立て込んでいた彼女は疲れていた。
おまけに寝不足である。頬には昨日、喧嘩の仲裁をしたときに出来た痣がある。それが腫れたせいで寝つきが悪かった。
バルガの出立。予感はしていたのに、寝過ごしてしまうとは。彼女は自分の不覚を呪った。

「はぁ、はっ」

バルガはもう街を出てしまっただろうか。
彼が高位のシャーマンとわかって、彼を捕らえようとする者が出た事を、ヘラは同じ街の住民として恥ずかしく思った。
魔術師は教会も公然と非難する違法の存在なので、クロードも彼らを処罰しにくい。
バルガは無事だったが、もはや街に長居はすまいと思っていた。そしてその予感は当たり、彼の家はもぬけの空だった。

「あっ!」

ヘラの笑顔がはじける。バルガはちょうど、門を出て行くところだった。
間に合った。

「一声くらいかけていきなさいよね」
「いや、寝てるのを起こすのも悪いと思って」

少し街道を歩いたところで立ち止まり、2人は話し始めた。
既にヘラが妊娠していない事は確かめられている。過酷な奴隷生活の間に流れたらしかった。
身重でないと解ってからは、アルケミストの修行も問題なく進めているらしい。
元奴隷だった彼女の、アルケミストに対する分け隔てない態度は、街の人々に彼らとの関係を考えさせる一因となっている。
彼女の存在は、立派に街を照らしている。そうバルガは思った。

「ほんとはさ。やっぱりちょっと腹立つんだけどね。
 奴隷だったときに好き勝手してきた男が、何勘違いしてるんだか言い寄ってくるのよ。
 顔面パンチしてやりたくなるんだ。そういうの」
「……」

そう言われると、バルガも気が気でない。
以前までヘラから感じられた、自分に対する淡い恋心のようなものが、今はすっかり感じられなくなっている。
弱みに付け込んで、彼女の体をさんざん楽しんだのは自分も同じだ。バツが悪いような気分になった。

「悪かったな」
「?何が?」
「いや。結局何もしてやれなかった」
「……」

ヘラが顔を逸らす。やはり彼女が負った傷はまだ癒えてはいない。それが確認できる仕草だった。
彼女がこちらを向いて笑う。少し鼻声になりながら、彼女は明るく言った。

「私ね、アルケミストのお勤めが終わったら、冒険者になろうと思うの」
「……あぁ?なんでまた」
「あなたも冒険者なんでしょ?なら、どこかで会えるかもしれないじゃない」
「からかうなよ。お前はもう――」
「見損なわないでよね。ずっと前から、いろんなところに行ってみたいとは思ってたんだから」
「……」
「いろんなところを巡って、いろんな人に会って。そしていつでも彼らに会いにいける。
 きっと素敵なことよ。ねぇ、そうでしょう?」

ヘラの笑顔が、バルガ達には眩しかった。

「会いたい人の中に、貴方も居るのよ?ねぇ、いいでしょう?」
「……」
「いつか……この街で起こった悪い事、全部忘れられたらいいと思う。
 でもあの安宿や街道で貴方に抱かれた事は、一生忘れないから」
「……」
「それだけを覚えてるようになったら、また貴方に会いたいな」

ヘラは引き返していく。後ろ歩きで、バルガを見たまま。

「またね!危ない事はしないでよ!」

見送るヘラが手を振っている。
バルガもそれに振りかえし、あとは振り返らずに街道を行った。

『軽く振られたね。結論から言うと』
『やかましい』

ウルザの念話は同情するかのようにやさしい。が、からかっている事は明らかだった。

『いやー、やっぱりどんな手を使ってでもアルケミストの所へ行かせるべきでなかったね。
 いかに彼女の決意が固くともね。攫ってでも手元に置くべきでした。ねぇ?』
『……出過ぎた事だ』
『わたしだったら、そうしてほしいな?』
『おまえだったらそうする』
『……』
『おまえの意思を尊重する必要なんて無いしな』
『むがーーー!』

不満げに唸るウルザだが、どこかうれしそうだ。
あいかわらずちょろいなあコイツ、とバルガは思った。

『いいんだよ、あれで』
『……』
『ヘラが俺に縋ったのは、周囲が絶望に満ち満ちていたからだ。縋る相手が俺しかいなかったから』
『……』
『俺から離れたのは、周囲に希望が見え始めたからさ。お前にもわかるだろ?あの街は、きっとこれから良くなる』
『……うん』
『それにな』
『え?』
『相手がベストコンディションの時に落とすのが、女殺しってやつだぜ』
『そっかー』
『冒険者として成長したヘラ……魔術師かな?クロードも居るし、ファイターもありだよな?
 あいつ結構体格もいいから、適度に筋肉ついてたらおいしそうだなあ……へへへへ』
『うーん。わたしもそう思うよー。共感しちゃうー。んー』
『……』
『……』

2人はため息をついた。

『でもさー』
『あ?』
『わたしが君を好きなのは、周りに誰も居ないからじゃないよ?』
『……ああ』
『うん』
『……えーと』
『うん?』
『ありがとう』
『……』

ウルザが笑い始めた。バルガは頭をかきながら、足早に次の街を目指した。

<ベミエラ編:了>

藍色の海と金色の大陸

藍色の海と金色の大陸

陸地を海に変えていく魚の怪物と、それに抗う人類の物語。 魔術師の青年と、彼に恋する少女の2人連れが大陸を巡り、人が生き残るための希望を見出そうとする。 ――大魔術師カスケイドと、彼女が率いるアルケミストの集団は、「ベミエラの街」を守るために魚の怪物と戦っていた。 しかし国が戦争で疲弊すると、それに属するベミエラもまた疲弊してアルケミストを養えなくなっていく。 するとカスケイドは容赦なく、略奪めいたやり方でベミエラから人や食べ物を奪うようになった。 街の窮状を見た領主代役のクロードは、時に天候さえ司るというシャーマンを1人、藁にも縋る思いで街に呼び寄せた。 何よりも街を養い、カスケイドとの争いを回避するため。青年の活動と、少女の暗躍が始まる

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-25

Copyrighted
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