*星空文庫

姉さんと氷砂糖

かわら 作

 僕は女を甘いとは思いません。
 甘い、なんて肯定的に聞こえる響きを使うなとむしろ拒否をしてやりたくなります。
 女は甘くありません。どろどろとした酸っぱい腐臭物のようなもの、いえ、腐臭物ですよ。
 砂糖を塗り固めた顔を、鼻先寸前まで近付けられたそのときなんかもう相当の地獄です。ただの糖の匂いなら我慢できるのです。ですが、そうではないのです。糖以外にも、女の執念、欲望がそこに混ぜあわらされているのです。
 卑小感の漂うその臭さに、僕はもう我慢できないわけです。えずいてしまうのです。
 ここまで否定の限りを尽くしましたが、僕は女そのものを否定したわけではありません。ただ、女が甘いというのは違うといいたかっただけなのです。
 僕がどうして姉以外のことで饒舌になったかというと、そのきっかけは友人の一言にありました。
「女の子って甘いよな……」
 高く結った髪の下に伸びたうなじを見て、そいつはいいました。瞳の二つを両方ともとろかせ、さも幸福かのようにいうのです。返事はしませんでした、あまりにもくだらなかった。
 無言の肯定とでも受け取ったのか、彼は再びべらべらと続けました。
 それはまるっきり悲しい男の妄想で、お前のほうが甘いよといいたくなる内容でした。耳にこれ以上戯言を入れなかった僕は本を取り出し、栞を挟んでいたページを開きました。無言の肯定さえもしたくありませんでしたから。
 友人は横目で僕の行動を確認するとため息をつきました。はあ、とわざと聞こえるように。
 面倒と思いつつも、なんだよと返事をしました。
「おまえはいいよな、いっつも嗅いでんだろ? モテるもんな」
「ああ、嗅いでるよ」
「ムカつく奴だなおまえ……はあ、ならわかるだろ?」
「わかんないね」
 女のしつこく塗装された面の下を知っているくせに、どうして甘いなんて言葉が出てきたのか、僕はその言葉を聞いたとき理解に苦しんだのでした。

 田山、そのうちおまえも吐くんだよ。

 その日は今年一番かと思うほどに暑く、テレビに映るキャスターも、必要なさそうなコメンテーターも異常だ異常だと騒いでいました。
 日本全国がその異常事態に包まれているとき、我が家もとうぜん例に漏れずひどい暑さにやられていたのです。
 学校帰りの僕はまっさらな空気を求めていました。教室に蔓延する汗と化粧品の混ざった臭いが肺をどす黒くさせたからでした。
 守野くんさよなら、とか、守野くん帰ろうとか、生ゴミと隣にいられるわけないだろうが。せめてキツく縛って蓋でもしておけよ、たまらないんだよこっちは。
 真夏の女は僕にとって公害そのものです。
 鼻と脳がおかしくなったのも原因なのかもしれませんが。
 太陽に焼かれそうになりながら通学路を急ぎました。暑い、暑い、ああ暑い。
 ぐにゃりと視界が歪むような、そんな錯覚に陥ってしまうほど、世界は、日本は、熱気に包まれていました。コンクリートに足をのせただけで香ばしい音が鳴りそうで。
 無我夢中で太陽のしたを駆けました。
 溶けないように走るのに、太陽が近くに感じられるのです。イカロスはこんな苦しみを味わってでも飛びたかったのか、太陽に近づいてまで。
 ロウの翼、今は体全身がロウで出来ているような、そんな感覚でした。
 見慣れた白色の建物が見えたとき、僕は更に足を早めました。それが僕の家だったのです。
 救われる冷房まであと少し、暑さにやられ熱くなったドアノブのことさえ構わず僕は玄関に飛び込みました。
 廊下の奥からひゅう、と冷たい風が頬をすり抜けました。ぬるくはなく、感じの良いひんやりとした風でした。
「おかえり、晃」
 姉の、普通の声でした。
 媚びも何もない平坦な声は、家に帰ってきたことを実感させてくれるのでした。
「ただいま」
 リビングへ向かうと、姉はソファの上で横になっていました。
 薄いブルーのTシャツに、真っ白なデニムのショートパンツ。姉の姿は夏をよく表していました。寒色系に身を包んだ姉。そこから冷気が発せられているんじゃないかと思うほど、リビングの一室は冷たく、心地よい風が回っているのでした。
「涼しい」
 口から漏れた言葉に姉はにっと笑いました。
「エアコンがんがんだから、よかったでしょ。ちなみに、私は内も外も涼しい状態」
「アイスノンでも腹に巻いてんの」
「ばか、そんなわけないでしょ。氷砂糖だよ。おばちゃんにもらったの」
 氷砂糖、聞きなれない名前でした。
 自分たちの世代にあるような菓子ではないので、逆に新鮮に聞こえてしまったのでした。
「へえ、美味しい?」
「ううん、けど氷っていうだけはあるよね。思い込みの力で涼しい感じがしてくる」
「美味しくないならくれよ、俺も欲しい」
「私の口の中にあるものしかないよ」
 姉の口から氷の転がる音がしました。その音を聞くだけでも、涼しくなっていく気がしました。
 そう思うと、ますます氷砂糖を自分も口に含みたくなって仕方ないのです。半開きになった姉の口から小さな氷が見えました。
 透明の氷は姉の唾液で溶かされ、角の部分が全くありませんでした。まるっこいビー玉のようでした。
 ここで僕が他の女にそれをくれというのは間違いだということはわかっています。ですが、目の前にいるのは姉なのです。
 唾液と唾液、世間の劣情など、それらのことが姉弟という理由でどうでもよくなってしまうのです。
 いわゆる回し飲みと同列のものになるのです。姉弟だから。
「別にいいよ」
「あたしが、嫌なんだけど」
「姉さんだけ氷砂糖を食べてずるいだろ。僕も内側から冷たくなってみたいんだよ」
 姉はそう言うと黙りました。
 ころころと氷砂糖を転がすのはやめ、静かに僕を見上げました。姉に見つめられるのは嫌な気分ではありません、むしろ、子供の頃に帰ったような不思議な気持ちになります。
 姉は何かを考えるとき、じっと黙って僕を見つめる癖があるのです。僕が対象でないときも、隣かそれか近くにいたら彼女の瞳は僕を吸い上げるようにひたすら見つめるのです。
「仕方ないな」
 はい、と姉がいうと、姉の口から薄い舌がゆっくりと伸びてきました。桃色の舌のうえに、透明な、まるで水晶みたいな氷砂糖がそこに浮かんでいました。
 しばらくそれを見ているとひくひくと動くので、またそれが面白く、ついつい眺めてしまうのでした。
「は、はやくとってよ」
 辛そうに姉が声をあげるので、僕は眺めることをやめ、どうやってその球体を口に含むかを考えることにしました。
 そのまま口で、いや、これはさすがによくないな、僕がよくても姉が驚くかもしれない。驚いた後、取り立て変わったこともなく平静に戻るのだけど、いつかこれを笑い話にされるような気がする。
 しかし、僕がよいことは姉もよいことなのです。だって姉弟なのだから。
 お互いを姉、弟、としてしか認識していないのです。女、男はおろか、メス、オス、なんてまず考えにありません。性的対象なんてもっぱらのことです。
 姉からあの腐臭がしないのはそういうわけなのです。まっさらで、いつも僕が求めているものが姉の空気なのです。
 姉は姉です。
 ただの姉という記号です。女という意味は欠片も入っていません。それが姉なのです。
 しばらく考えた末、貞淑さよりも面倒臭さが勝りました。
 僕は姉へと顔を近づけました。
 安心できたことに、あの臭いはしませんでした。
「もらうよ」
 姉の目ん玉の動きが大きく揺れるのを無視して、僕は水晶のある場所へと舌を伸ばしました。
 冷気に晒された姉の舌は冷たさに満ちていました。アイスを舐めるような、そんな感覚を意識して、なるべくスピーディに水晶を狙います。
 それでも、舌はやはり接触してしまうのです。
 滑りとした姉の舌は氷砂糖の味がしました。それは、僕が求めていた味でした。
 こんなに甘いものを食べてたのか、ずるいな姉さん。少し悔しくなった僕は動きをやや大きくしました。小さな小さな動きでは困ったことに口に入ってこないのです。
 今思えば、あの判断は失敗でした。
 大は小を兼ねるとは言っても、舌同士がより接してしまうのです。姉は少し怒った顔をして僕を見ました。
 まずい、と思った僕は一気に終わらせる決意をしました。姉だからという言葉に意識の全てを注ぎこみました。
「ごめん姉さん」
 僕は姉の表情を見るのはやめ、唇だけを捉えました。唇、そこから薄く伸びた舌。
 姉の舌が、僕の口内へと入りました。
 吸い込み、念願の氷砂糖を手に入れたのです。氷砂糖と一緒に他の味も混ざってきたけれど、それは気にすることではありません。
 姉の唾液、氷砂糖を舐めていた彼女の唾液は純粋な氷砂糖の味だけではなかったのでした。何千種類もの姉を構成する何かが、いわゆる姉の唾液の味でした。
 柔らかとした舌の感触が少しだけ残りました。
 姉が少し照れた顔をして、舌をまじまじと見つめていました。変なものを観察するように。
「何照れてんの」
「うるさいばかっ、しねっ」
「氷砂糖が欲しかっただけなんだからいいだろ、こんなの回数のうちに入らない」
 さっきまで涼しい顔をしていた姉の顔は発熱したかのようにぼっと赤く染まりました。
「なんだよ、姉さんしたことないの?」
「ある、しかも最近のことだから!」
 そういうと、姉は座っていた無表情のクマを僕へと投げつけ、リビングをすぐさま出て行きました。
「それはそれで、気になることだな」
 氷砂糖は溶けていました。
 内側から冷たくなることもなく、微かにあつい感触が舌のうえを這っていました。

『姉さんと氷砂糖』

『姉さんと氷砂糖』 かわら 作

夏、氷砂糖を口に含んだ姉の話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2015-02-15
Copyrighted

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