コゴエタツキ

コゴエタツキ

タイ・シリーズ3

これは俺が、タイで出会った数多くの人々の中で、
最も印象深く記憶に刻まれた女の話である。

数か月たった今でも、あのときの情景の隅々までを
克明に思い描くことができる。
だが同時に、たまに我々が見る、ひどく鮮明な夢の
ひとつであったような気もするのだ。

彼女はいま、どうしているのだろう。
あの小さな箱の中で、眠っている子猫のように
静かに横たわり、遠い昔の思い出を追っているのだろうか。
そしてだれかれとなく過去の幻影を重ね合わせ、
泣いたり笑ったりしているのだろうか。
甲の薄い白い足をひらひらと舞う蝶のように動かしながら、
それでもひとりきりで。

俺は、八年ほど前に日本からバンコクへ、
某都市銀行の駐在員として、やって来た。
だが、三年もしないうちにビジネスマンとしての
さまざまな壁と現実にぶつかり、心底疲れ果ててしまった。

潔く銀行はやめたものの、さてこれからどうしたものか。
銀行員くずれほど、使い勝手の悪い者もない。
とりあえず、いま少しの間バンコクに残ることにし、
友人知人を頼りに、仕事のあてを尋ねて回った。
俺にできることは限られていたが、今は日本の
旅行雑誌むけの原稿を書きちらして、
何とか生計を立てている毎日である。

タイで食うに困らずというのは実にやっかいな状態で、
今日と変わらぬ明日が来ても何とも思わなくなるし、
昨日やり残した事柄を、明日にまた引き伸ばしても、
誰も文句を言わない。
日本では考えにくいことであるが、タイではその、
のんびりとしたペースが日常の隅々にまで浸透しており、
淀んで発酵した水の中で、国全体の人々が
たゆたっているような、そんな一面があった。

以前の俺がそうであったように、駐在員など
企業を背負って来ている人は別として、
自ら好んでこの地へやって来た日本人の中には、
このぬるま湯状態に頭まで浸り、
溺れかけていることにすら気づかずに
毎日をやり過ごしている者もいる。
そうしてだめになってしまった日本人を
何人も見てきたが、振り返れば、
自分もそう彼らと変わらないのだということに、
すぐに気づくのだった。

歳月はあっという間に過ぎてゆき、俺もいつの間にか
三十半ばを越す年齢になっていた。
この年で特定の女もおらず、子供もおらず、
親も日本に置き去りにしたまま、好き勝手なことばかり
やっている。
両親は秀才として通っていた大学時代までの
息子の思い出だけを頼りにしているようで、
たまに用があって連絡をすると、彼らから出てくるのは、
昔の思い出話と、秀才のなれの果ての
現在の俺に対する愚痴だけであった。

こんな俺であったから、あの女に出会うことになったのか。

薄い唇の両端をつり上げて、静かに微笑む女の顔が
脳裏に浮かび上がる。

その表情を思い浮かべるだけで、甘い罠に落ちたような
焦燥感を伴った官能と、どうにもならない切なさで、
彼女から自由になった今も、体のあちこちから
汗が滲み出てくるのだった。
それは三ヶ月ほど前の話だ。

俺は原稿書きに必要な取材をするために、
サームセーンというチャオプラヤ川の近くへ
ひとりで出かけて行った。

ごちゃごちゃとしたソイ(路地)を歩き回って
一通りの仕事を済ませ、さて帰ろうかという
夕刻になって、突然のスコールに見舞われた。
タイの雨季にはごく普通の天候の変化だったが、
こんなところでついていない、とちょっと舌打ちをして、
近くの軒下まで走って雨宿りをすることにした。

激しい雨は瞬く間に地面を覆ってその嵩を増してゆく。

また洪水か、と思う。
慣れたとはいえ、バンコクの洪水はやっかいなのだ。
道路はどこもかしこも大渋滞になる。
バスはいつまでたってもやって来ないし、
タクシーも空車が全くつかまらなくなる。
雨があがり、歩いて帰ろうとて、ソイは
数十センチ嵩の川と化している。
この即席の川は、下水から水があふれ、
ごみ捨て場のごみも巻き込み、逃げ損なった
ゴキブリやドブネズミがぷかぷかと浮かぶ
不潔な水からできている。
人々は町の汚れをあらかた吸い込んだ水の中を、
ちゃぽちゃぽと歩かねばならないのだ。

だが、こうして外にぽつねんと取り残されるような
状況でさえなければ、俺は雨が嫌いではなかった。
ぎらつく太陽を厚い雲が覆い、一陣の冷たい風が吹くと、
さっと大粒の雨が地上に落ちてくる。
灰色に変色した町を洗い流す雨は、バンコクの
排気ガスや埃を浄化し、緑を蘇らせる。
そうして人々は、やっと澄んだ空気を
肺いっぱいに吸い込むことができるのだ。

ぼんやりと軒下から雨を眺めながら、
とりとめもないことを考えていると、
向こうから女がずぶ濡れになりながら走ってくるのが見えた。
その女は、はあはあと息を切らしながら、
俺のすぐ隣に駆け込んできた。

ちらりと横目で女を見やると、まず目に飛び込んできたのが、
細い体に不釣り合いなほどに膨れ上がった腹部だった。

妊娠しているのだ。
走って来たときは前かがみにしていたので
気づかなかったが、もう臨月になるのではあるまいか。
雨に濡れた水色のワンピースが体にぴたりと
まとわりついて、ぎょっとするほどその膨らみは目立った。

女は首を振って髪の滴を払い、濡れた衣服を
気にしていたが、ふと俺の視線に気付いて顔を上げた。

俺は慌てて視線を逸らしたが、女の視線は
俺の横顔に張りついたまま動かないのが、
目の端にうかがえる。
女の体を無遠慮に眺めていたせいかと
内心落ち着きをなくし、見られている顔の半分が、
急に熱っぽく感じられた。

「あなた、ニホンジン?」

俺は驚いて女の方を向いた。
日本語をしゃべったからだ。

見ると、臨月の女は、下から私を覗き込むようにして
笑みを浮かべていた。
俺を見つめる瞳は大きく、赤子のそれのように
無邪気な光でふちどられている。
雨に濡れたせいか、彼女の白い頬はかすかに
青みを帯びている。
その青白い頬には、濡れた長い髪が
いく筋もまとわりついていた。

「ニホンジンでしょ?」

俺は彼女の二度目の質問で我に返り、
慌てて頷いて言った。

「日本語、お上手ですね」

虚を突かれたように、どぎまぎとしていた。
雨に濡れて、女の白い胸元が透けているのが
嫌でも目にとまる。
その濡れた水色のワンピースからは、
細長い手足が十代の少女のように頼りなく伸びていた。

「ジョウズよ。
 だってワタシ、ニホンのツキサムにいた」

「ツキサム・・・・?」

「ニホンジンなのに知らない? 
 ホッカイドウのツキサム。サムイ・ツキ。
 タイのコトバだと、プラチャン・ナーオ」

横浜生まれの私は、北海道に月寒なる
場所があるとは知らなかった。
だが、その名前を聞くだけで、北の地の
厳寒の風景を思い出す。

「月寒は北海道のどの辺にあるの?」

一応タイ語で尋ねてみたが、
女は日本語で返事をしてきた。

「チズのヒダリね」

「札幌の近く?」

「そう。サッポロの中にあるの」

どうやら、月寒とは札幌市の町名であるらしかった。

「僕は横浜出身だから、札幌の町の名前までは知らないよ」

俺はいくぶん自分のペースを取り戻し、
少し笑いながら女に言った。
日本人なら、自分の住んでいた町の名前を知っている
と思うところが、可愛らしいと思ったのだ。

だが女は急に堅い表情になり、
雨の降る方を向いてこう繰り返した。

「ワタシはツキサムに居たの」

「・・・・」

俺も大学生の頃に一度だけ、当時付き合っていた女性と
札幌の雪祭りへ行ったことがある。
当日は絶好の祭り日和であったが、帰り際に天候が急変し
猛吹雪となった。
その日の夜、俺と当時の彼女は、ホテルの窓から
闇の中で荒れ狂う白い魔物を呆然と眺めていた。

あっという間に雪が町全体を覆う。
しかし、それでも飽き足りずにどんどん雪は降り積もる。
いいかげんにしないと、雪で窒息してしまうのではと
本気で心配するほどの、圧倒的な雪の量だった。

この女(ヒト)は、そんな所に住んでいたのだ。

「どうしてあなたは日本へ行ったの?」

「ニホンジンとケッコンしてたから」

「してた? じゃあ今は別れたの?」

「そう。サムイところはキライだから・・・」

俺は、よくある話だと思った。

日本という土地に幻想を抱き、夢だけを両手に携え
日本へ渡った異国の女の末路。
関東以南ならともかく、女の亭主だった男も
残酷なことをしたものだと思う。
国も自然環境も価値観も、何もかも異なる場所に
ひとり置かれたら、うまくいくものも、
うまくいかなくなるのは、当然のような気がした。

しかし、その行く末を眺めて帰ってきても、
女は充分に美しかった。
これだけの若さと器量があれば、いくらでもやり直しがきく。  

この女なんて、きっとまだ幸運なほうだ。
俺はそう思った。

だが、お腹の子供の父親は誰なのだろう。

「いつタイに戻ってきたの?」

俺はそのように聞いて、父親の存在を探ろうとした。

「イチネンマエ」

「じゃあ十二か月前ってこと?」

「・・・・ジュウシ、ジュウゴツキマエ」

女は指を折って数えながらそう言った。

これで決まりだ。
女はさっさと別の男を見つけ、新たな幸福を手にしたのだ。
第一、こんな女なら、男が放っておかないだろう。
俺はそんな下世話なことを思いながら、改めて女を眺めた。
小づくりの顔、細い顎の線、はかなげな体、長い黒髪。
妊娠しながら少女の雰囲気を漂わせている女も珍しい。
ふつう、子供ができれば、どっしりと落ち着いた貫祿を、
女は見せ始めるものではないのか。

雨はまだ降り続けている。
道に溜まった水が、俺達の踝のあたりまで嵩を増していた。

「ワタシのニホンのナマエはね、ヨメ、だったの」

女がひとりごとのように、ぽつりと言った。

「ヨメ?」

それが嫁という意味だと理解するまでに、かなりの時間を要した。
そして、理解すると、俺はほんの少しだけ眉をひそめた。

都会で生まれ育ち、また一切のしがらみを避けて生きている俺は、
田舎の人間が好んで使う『嫁』という言葉に、閉鎖的かつ、
昔ながらの女性蔑視的な意味合いを、敏感に嗅ぎ取っていた。
この言葉ひとつで、女がなぜタイへ戻ってきたのかが、
おぼろげながら分かるような気がしたのだ。

女は雨の降る方を向いて、何事かを考えているようだった。
日本に居た頃のことを、思い出しているのかも知れない。

「札幌にはタイ人の友達はいた?」

「・・・・ツキサムにはいなかった」

なるほど。日本での彼女の生活範囲が想像できる。
おそらく、家に閉じこもりがちだったのだろう。
それを半ば強制されていたのかも知れない。
だから、女はこの地名にこだわっているのだ。

「北海道は寒かったでしょう?」

「サムイよ。イチネンのハンブン、ユキね。
 ナツはちょっとだけ。フユはね・・・・」

女はふっと空を見上げた。俺もつられて上を見やる。

「ホントウにツキがコオッテイルの。サムイ、サムイ色」

正体の知れない、目に見えないもので少しずつ
体の自由を奪われているような、奇妙な感覚があった。

女に抱いた興味が次第に形を変え、思わぬ方向へ
引きずり込まれていくような、危機感を伴った感覚である。
何かが、俺をがんじがらめにし、息苦しくなるような圧力を加えている。

俺は女の住む家の中に居た。
彼女と話し進むうちに、何となくこのまま別れ難い
気持ちが残り、誘われるままついて来てしまったのだ。

雨はあがったが、タウンハウスの軒上から
突き出た排水孔からは、大量の雨水が
滝のように地面に流れ落ちていた。
それを避けながら五百メートルほど歩くと、
そこに女の家があった。
ここも通り道に並んでいたようなありふれた建物で、
豊かな暮らし向きではないようである。

道すがら、女は身重なのに洪水の道を早い足取りで進み、
ときたま後ろを振り返ってにっこりと笑った。
裸足の足の裏が浮き浮きと弾んでおり、
俺はその足の裏を、白い蝶のようだと思った。

家の中は薄暗く、またひどく荒れており、
衣服やごみ、汚れた食器などがあちこちに散乱していた。
家に一歩踏み入れた瞬間、異様な臭いが鼻についた。
おそらく食べ物が腐った臭いだろう。

だが女は、他人に乱雑な部屋を見られても気にする
様子もなく、床に散らばっている物をひょいひょいと
器用に避けながら部屋の奥まで行き、冷蔵庫から
冷たい中国茶を取りだしてグラスに入れ、俺に差し出した。

「キガエル。まってて」

そう言って女は部屋の奥へ消えた。
俺は埃の薄く被ったビニール張りのソファーに腰かけ、
もう一度部屋の様子を眺めた。

若い女が住んでいる雰囲気が、まったくない。
まるで、アル中の、男やもめの部屋のように荒廃している。
タイ人は整理整頓が嫌いだからな、とも思ったが、
そんな乱雑さとは明らかに異なる感じが引っかかり、
それが俺の居心地を悪くしていた。

壁ぎわの棚の上には、小さな額に入った写真が
いくつも並んでいた。そのひとつを手にとってみる。

よくある家族の写真だった。
制服を来た少女時代の女が写っている。
両脇にはおそらく両親、そして祖父母。
写真の中の女はただあどけなく、
無邪気な笑みを顔いっぱいにたたえていた。

俺はここへ来たことを後悔していた。

見てはいけないものを見てしまったような気がした。

「タケシさん」

ぎくっとして写真立てを元の場所へ急いで置き、
声のする方向を見ると、女は着替えを済ませて
戻ってきていた。
薄暗い部屋の中で女の顔はよく見えず、
ただ淡いオレンジのワンピースだけが
浮かび上がって見えた。

「タケシさん」

もう一度、女は俺をそう呼び、
近寄って来て俺の腕をとらえた。

すぐ間近で目と目が合った。

女は夢見るように瞳をうるませ、俺を見つめている。

心臓の鼓動が次第に大きくなり始めていた。
こんな目で女から見つめられたのは、
初めてのことのような気がした。

思わず女に触れようと手を伸ばしかける。
しかし同時に、彼女がとらえている俺の腕の皮膚は、
寒くもないのにふつふつと泡立っていて、
ここからどうにかして逃げ出す算段をしているのだった。

「ぼくは、タケシさんではありませんよ。」

俺はゆっくりと、そう、子供をさとすように言った。
何故だか、そうしなければならないと思った。

「?、アナタ、タケシよ。」

そう言いながら女は、俺を見てはいなかった。

いや、実際に目の前の俺を目でとらえてはいるが、
焦点は俺にではなく、彼女だけが住む
虚構の世界にそそがれているのだ。

「どうしてアナタ、自分をタケシじゃないと言うの。
 ワカラナイ。」

「ぼくは日本人だけど、タケシという名前じゃないんですよ。」

辛抱づよく俺は言った。
だが、女は急に笑いをすっと引っ込め、
代わりに顔をくしゃくしゃっとゆがめた。

「ウソ。ウソツキね。
 でも、アナタ、ずっとウソがスキだった。
 おわりは、ゼンブ、ウソ。」

そしてぽろぽろと、きれいな、
とてもきれいな涙を流すのだった。

彼女は完全におかしかった。
雨宿りしていた時にはまったく感じられなかったことだった。

けれど、考えてみればここは彼女の居場所なのだ。
自分の中でうず巻いているたくさんの想いを、
存分に放出できる場所なのだ。

「わかったから、もう、泣かないで・・・・」

俺がそう言うと、今度はその言葉に含まれた優しさを、
カラカラに乾いたスポンジのようにただ素直に吸収し、
嬉しそう微笑む。

それから俺の胸元に顔を近づけて、
そこに頬と手のひらを押しあてた。
ゆっくりと、愛しそうに。

女の息づかいがぬくもりとともに、直に伝わってくる。

どうしたらいいのだろうか。

気味が悪いという思いはぬぐえなかった。
女がどういう経過を経てこんなふうになってしまった
のかは知るよしもなかった。

だが、気味が悪いのと同じくらいに、女を抱きしめて
優しくゆさぶってあげたい気持ちが、俺の中に確かにあった。
それは、小さい頃、外で遊んでいて偶然覗いた
段ボール箱の中に、まだ目も開かぬ子猫を見つけて
しまった時の気分に、少し似ていた。

小猫をそのまま置き去りにすることは、
実に簡単なことだった。
しかし、自分なりの屈折や弱さをひとりで抱えていると、
女のさむざむとした心のなかが透けて見えるような気がし、
すると女を傷つけた過去の出来事が他人事でないように思えてくる。

彼女はおそらく、好きな男に自分のすべてを
ぽんと投げ出してしまったのであろう。
ぽんと投げ出すひたむきさしか持ちえなかった女に、
要領の悪い生き方をしている自分と、
どこか似たものを感じ取っていたのかも知れない。

しかし彼女にはすでに新しい男がいて、
今は幸せなのではないのか。
女の精神状態が良いとは思えなかったが、
こうした病は簡単に治るものではないのだろう。
それに、もしかしたら、日本人の俺が突然登場したことで、
疲れた彼女の心が乱れただけなのかもしれなかった。

「アカチャン、シんで、また生きかえった」

「え?」

俺が女の突き出た腹を見ていると、女は妙なことを口にした。

「タケシさんイッタね、アカチャンいらない。
 あのとき、アカチャン、シんだけど、いまは生きてる。
 ホラ、ね?」

女が微笑んで、大きなお腹を愛おしそうに撫でる。
俺はぞっと寒気が背中を走るのを感じていた。

俺は自分のアパートに戻りたかった。
気づくと、彼女には、俺のアパートの住所を記した
名刺を渡していた。

「ここを訪ねてくれば、いつでも僕はいるから。」

そう言うと、女はこくり、と素直にうなずいた。

「いつ来てもいい。
 さびしくなったとき、だれかとおしゃべりしたく
 なったとき、ひとりきりでいたくないとき。
 だから、もうこれ以上泣くことはないからね。」

名刺を渡したのは同情もあったが、それよりも、
女の家から出るきっかけが欲しかったからだ。
それに、多少おかしくても、いまは新しい男が
いるのだから、それでいいではないか。
俺は、これまでだ、と思い、女の家から急いで出た。

彼女の家から一歩外に出た途端、現実の世界が
ふたたび回りだしたような気がした。

俺は、今の彼女はそれでも幸せだと思っていた。
だが、やはり彼女は、弱り切った捨て猫であったのだ。

実はあの日の帰り、俺は暇をもてあましている
近所の中年女性から、彼女の話を聞かされていた。

その女性は俺が女の部屋に入るところも、
出てくるところもしっかりとチェックしていた。

「あの娘は頭がいかれてんのよ」

と言って、好奇心をあらわにして
俺に話しかけてきたのだ。

「ふだんは何ともないんだけどねえ、
 たまに泣きわめいたり、変な格好で
 飛び出してきたり、ぶつぶつひとりごとを
 言ったり、わけわかんない言葉使ったり。
 気味わるいねえ。
 けどね、日本の、屋根より高く
 雪が積もるような不便なところに
 六年もいて、亭主に捨てられて、
 子供まで流しちゃったもんだからね、
 むりもないね。
 いまの腹の子は、大きな声じゃいえないけど、
 あの娘の頭がおかしいのをいいことに、
 だれかが悪さしたようなのさ。
 あの娘はいま父親と二人で暮らしているよ。
 結婚するときは日本の男から大金を
 もらったみたいだけど、あの様子じゃ、
 なんにも残っちゃいないねえ。
 あんたは日本人? 
 日本人は、ああいう娘が好みなのかね。
 まあ、きれいな顔をしているからね。
 金持ちは、女が働き者かどうかは
 関係ないものね・・・・。」

あれから数日が過ぎ、数週間が過ぎてゆくころになると、
あのとき感じていた女への同情めいたものが、
自分の中で少しずつ変化しふくらんでいくのを感じていた。

知らなかったとはいえ、結局、俺は
偶然開けて見た段ボールの箱をふたたび閉じ、
歩み去ったのだった。

俺はあの箱がどこにあるのかも、
その中に子猫が捨てられていることも知っている。

あれから三か月以上たったが、彼女はやっては来ない。

けれど、俺は二度とあの場所には行かないだろう。
彼女は子猫のようだったが、子猫のように気楽に、
またこちらの一方的な気持ちだけで
引き取ることはできない存在であった。

あの場所へ行かないことは自分で分かっていたが、
俺の心は日々変化しふくらんでゆき、
ひとりでいる味気なさをつくづくと感じていた。

それと同時に、いつまでも子猫を見捨てたという
罪悪感が離れず、たまに少年の俺が箱を開けると、
中に女が冷たくなって横たわっている夢にうなされるのだった。

(了)

コゴエタツキ

コゴエタツキ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-13

Copyrighted
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