初めての一人旅

初めての一人旅

タイ・シリーズ2

玲子がバンコクにひとり降り立ったのは、
雨季も終わりかけの十月の終わりのことであった。

今は猛暑の季節ではないが、熱帯の空気は
ねっとりと重く玲子の肌にまとわりつき、
鼻腔までもがぴたりとふさがれてしまったかの
ような息苦しさを、彼女は覚えた。

タラップへ一歩踏み込むと、たちまち汗が吹き出し、
化繊のブラウスがべっとりと肌に張りつく。
不快極まりなかったが、たった一人で海外に来るのが
初めてであった彼女は、ホテルにたどり着くまでの
手順を考えるだけで精一杯で、額に浮かんだ汗を
ぬぐう余裕すらなかった。

成田で飛行機に乗り、ドンムアン空港に着くまでは良かった。
飛行機に乗った経験も少ない彼女は終始落ちつかなかった
ものの、周囲の乗客とサービスに来るスチュワーデスが
ほとんど日本人だったため、慌てることは何もなかったからだ。

しかし、バンコクに着いて一歩飛行機から出た途端、
彼女が生きてきた四十数年の経験が、何の役にも立って
くれそうもないことに、玲子は気づいて愕然としたのだった。

まずはこの重く、暑苦しい空気。
人工的な港内の冷気よりも、その外に待っている
熱い熱い空気を彼女は敏感に感じ取り、汗が滲んでくる。
それは辺りに漂う臭いのせいかも知れなかった。
空港内は清潔であったが、何か独特の臭いがする。
タイが初めてであった玲子は、それを異臭と感じた。
そして次に、通り過ぎていくタイの人々の色の黒さに
違和感を受け、胸がざわついた。
あちこちの看板に張り付いた、意味不明の妙ちくりんなタイ文字。
頭では、慣れていないせいなのだと理解していても、
その文字を見ただけで、タイは未開の国というイメージを、
自分の中でいっそう強めてしまう。

ふらふらした頭を抱えながら、玲子は飛行機から降りた
乗客の後に従う形でイミグレーションまでたどり着き、
パスポートのチェックを受けた。
紺色の制服を着た女性係官はひどく無愛想で、
そのくせ要領の悪いのろのろとした動作でスタンプを押すと、
投げるようにパスポートを返して寄越した。

ただそれだけのことで、玲子はこの国の人々の
非常識さに呆れ、どっと疲れを感じた。

しかし、まだしなくてはならないことが山ほど残っている。
重い足を引きずってエスカレーターを降り、
ベルトコンベアに乗って現れた自分のスーツケースを持ち上げる。
途中で両替をして、リムジンタクシーと英語で書かれた
カウンターへ行き、日本の旅行代理店で予約してもらった
ホテルの名前を告げた。
しかし、カウンターの中の男は、その名前をなかなか
分かってくれないのだ。
仕方なく、紙に英語で書かれたホテル名を見せると、
なんだあそこか、というように男はにんまりと
白い歯を見せたが、彼女には笑い返す気力もなかった。

タクシーの運転手が玲子のスーツケースを手に取ると、
一瞬、盗まれるのではないかという思いにとらわれ、
慌ててしまう。
荷物をトランクに入れる時、その運転手はちらり、と
彼女を見たが、黒い肌の中で光る彼の白目が玲子には
恐ろしく感じられた。
それに、タクシーはリムジンという名前がついただけの
日本社製のクラシック・カーで、冷房がよく効いている
ことだけが救いという代物であった。

しかしともかく、運転手は行き先を理解しているらしく、
黙って車を走らせ始めた。
そのことで玲子はようやく一息つくことができた。

(・・・・夫はこんな私にうんざりしていたのだろうか)

そう思うと、楽になったはずの呼吸が再び
圧迫されるように感じ、思わず彼女は自分の左胸を押さえた。

玲子自身は幸福に思っていた結婚生活。
娘二人に恵まれて、問題は何一つとしてないように思われた。
だが、夫は家族という檻の中から抜け出すことを、
幾度も考えていたのかも知れない。
家族の団らんの雑多な雰囲気の中で、夫は度々、
何かを考えるかのように一人顔を背けていた。
そんな時、玲子はふっと不安になったが、
僅かな心の泡立ちは、たちまち日常の忙しさの中に
かき消えてゆく。
いつもその繰り返しであった。

結婚生活においては、お互いに拘束される部分が
出てくるのは当然である。
そして、年を重ねる代わりに、少しずつ
何かがすり減っていくような感覚を持つのも、
人間ならば当然だと彼女は考えていた。

「俺、タイに赴任することになった。
すまんが、おまえは日本に残ってくれ」

一年半前、夫はそう簡潔に妻へ告げた。
 
玲子は突然の夫の報告に慌て、混乱し、
もっと詳しく話してくれと詰め寄った。

「うちの会社がタイに支社を持っているのは、
知ってるだろう。
いつかは行くはめになると思っていたが、
とうとうその時期が来たってことだ」

結局、一緒に行くことは許されなかった。
上の娘は高校受験を控えており、下の娘も
とうに親離れをする年齢となっていた。

「お父さんが一人で行くしかないんじゃない?」

二人の娘はあっさりとそう言い、それ以上
父親の海外赴任に関して興味を持たなかった。

「アメリカとか、フランスだったら
遊びに行けて良かったのに。
タイなんか、行く気にもならないよね」

そんなことまで言い出す始末であった。

また、夫の会社でも、何かと金のかかる
家族同伴を望んでいないことが、玲子にも
ありありと伝わってきた。
日本は依然として不景気であり、夫の会社は
一流とは言い難い、中堅の電子部品の製造会社であった。
何よりも玲子自身、不案内で恐ろしげなイメージのある
東南アジアの国に何年も住むことには抵抗があった。

(そういえば、タイって国はどこにあるんだっけ・・・・)

夫が赴任することで、ようやく
世界地図を広げて調べたくらいなのだ。
タクシーは高速道路に入り順調に流れに乗っている。
道路の両サイドから夕刻の異国の風景が見渡せた。
それは中途半端に発展した中途半端な国の、
殺風景なビルの眺めだった。
時折見えるヤシの木々が、細長いこれらビル群を
うらびれて見せている。

私が知っている安全な国とは、ほど遠い光景。

日本どころか、滅多に家からも出ない私が、
たった一人でこんなところに来ている。

馴染みのない苦しみに追いやられて来たのだ、と思う。
そう考えれば、今まで自分は幸せだったのだ、とも思う。

果たして、夫が不在の日常は、
ただ味気ないだけのものであった。

(それでも最初の頃は、毎日のように夫から電話があったわ)

玲子は当時のことを振り返る。

最初は夫も不安だったのだろう。
タクシーの中で、改めて彼女はそう思った。
見知らぬ国で働くことは、かなりの肉体的・
精神的な苦痛を伴うはずである。
それは働いた経験の少ない玲子でも容易に想像できた。

だが、三か月、半年と経つうちに、
夫からの電話は次第に少なくなっていった。
その後は、我慢しきれなくなった玲子が、
日本から電話するというパターンになっている。
しかし、彼女が夜電話しても、夫が不在のことが度々あった。
日本とタイは時差が二時間あり、玲子が夜十一時にかけても
タイはまだ夜の九時なのだから、仕方がないといえば仕方がない。

玲子が夜電話をしていることを知った夫は、
朝電話してくれるよう妻に言った。

「そのほうが、お互い都合がいいだろう?」

夫はさりげなくそう言った。

「日本で朝九時に電話しても、タイは朝の七時なんだから、
お互いに電話する時は、朝ということにしよう」

(思えば、あの時にはもう既に、夫に女がいたのだ)

子育てという、いくら時間があっても足りない
雑多な忙しさから解放されたのは、
つい最近のことのような気がする。
そして気がついてみれば、玲子は四十歳をいくつか越え、
女盛りという人生の頂点から、緩やかに下りはじめる季節に
一人たたずんでいた。

子育てや家事に追われただけの、十五年という歳月。
その見返りがこれなのだ。
玲子はタクシーの座席の中で両手を強く握りしめ、下唇を咬んだ。

夫に女がいることは、彼のしぐさ、言動、
家族への気遣いなどから微妙に伝わってきた。 

妙に優しいのだ。
奇妙と言っていい、肌に馴染まない優しさ。

夫は盆暮れと四月のタイ正月の休みに日本へ戻ってきたが、
久しぶりに家族に再会する、その嬉しさから来るのではない、
不自然な優しさと気遣いに、玲子はピンと来たのだった。

何より、夫婦が長いこと肌を触れあわせていないにしては、
男として、妙にゆとりがありすぎた。
夫が年をとって淡泊になったからではない。
そのくらいのことは、玲子にも分るのだった。

「私、タイに住もうかしら」

そう言ってみた時の、夫の慌てた表情が忘れられない。
そして夫は怒ったように、
 
「子供たちはどうするんだ、家の管理は誰がやるんだ、
会社だって君が住む面倒な手続きなんて何にも
してくれやしないんだぞ」

と、まくしたてた。
玲子は自分の実家が近いから、彼女の両親に
子供を預けたらどうか、と言ってみた。
とんでもない。夫は言う。

「両親ともに側にいなくなったら、子供はぐれるぞ。
あの妙ちくりんな靴下を履いて、援助交際なんて
されてみろ、君の責任だ」

「だって、やっぱり夫婦が一緒に住まないのは良くないことだわ」

玲子がそう返すと、夫はぐっと詰まり、
何かを言いたそうに口をもごもごとさせていたが、
憮然とした表情をしながら横を向いてしまった。

夫の態度はかたくなだったが、一度タイへ行きたいと
口にしてしまうと、玲子はもう、いてもたっても
いられなかった。
だが、焦った彼女がタイに住みたいと繰り返すたびに、
夫は不機嫌な表情を作って黙り込み、妻の願いを黙殺し続けた。
それでも玲子が食い下がって話をやめない時は、
思い切り顔を歪めて、こう言うのだ。

「君は僕が海外で苦労している時に、我が儘を言って
困らせるんだな。大した奥さんだよ、全く」

確かに夫の立場もわかる、会社が玲子の面倒まで
見てくれない事情も分かる。
しかし、夫がタイで浮気をしているようなのだ。
そして、妻は日本に取り残されたまま、ひとりで
夫のあれこれを想像して、のたうちまわっているのだ。

毎朝子供たちを学校に送り出してしまえば、
もう彼女がすることは、ほとんど残されていなかった。
掃除や洗濯をいくらまめにしてみたところで、
生活に何の張りも生じてはこない。
パートに出ることも考えたが、彼女にできる仕事は
限られていたし、安い時給で苦労してまで働く気にはなれなかった。

だが、空っぽの胸には四六時中鈍痛が走り、
考えることといえば夫のこと、赴任先のタイという国のこと、
まだ見ぬ相手の女のこと。
一人夫をタイへ赴任させた会社、妻に寂しい思いをさせて
タイで女とよろしくやっているはずの夫への恨み。
手をかけ慈しみを一心に向け、自分の人生と引き換えにして
育てた娘たちの、冷たいと感じるほどの親への無関心。
そんなものばかりだった。

その一方で、家族からの愛情を必死になって
かぎ取ろうとしている自分。

独りきりだった。
もうこれ以上日本でじっと我慢していられなかった。
だから、勇気を奮い起こして一人でタイへやって来たのだ。

けれど、この恐ろしいほどの無力感といったらどうだ。
玲子は、かつてこれほどまでに心細い経験をしたことがなかった。
そして、今、自分のしていることが、単に飛行場から
ホテルへ向かおうとしているだけだということに気づくと、
それをひたすら情けなく思った。

(私は年を取っただけの、何ひとつまともに
成し得ることができない人間なのだ。
自分が必死で守ってきたつもりの、家庭というものが
少しでも揺らげば、あっけなく崩壊してしまう、
ちっぽけな存在。
こんなつまらない女だから、夫は飽き飽きして
他の女と浮気をしているのに違いない・・・・)

玲子は顎を細かく震わせながら、静かに涙をこぼした。
不安と緊張で、何もかも悪いように考えてしまう。
 
運転手に気づかれないように、こぼれた涙を
そっとハンカチで拭った。
こんな情けない顔を、誰にも見られたくなかった。

だが、バックミラーをちらっと見ると、
いきなり運転手と目が合ってしまった。
しかも、鏡に写った男の目が、玲子に張り付いたまま
動こうとはしないのだ。
偶然目が合ったのではなく、玲子の様子を
鏡ごしに見ていたような雰囲気だった。

彼女は嫌な気持ちになり、目をそらせたが、
まだ男の視線が自分の顔に当てられているのを感じる。

「オークサーン」

一瞬、ぞっと体に鳥肌が立つのが分かった。
妙なイントネーションの日本語だった。
思わず鏡を見ると、運転手は目に笑い皺をたたえ、
ねっとりとした視線を玲子に送ってきていた。

「オクサン、ヒトリネ。
ツマラナイ、アソビイク、イッショイッショ」

どくん、どくん、と玲子の脈が大きく打ち始めた。
この運転手は何を言っているのだろう。
玲子は、まるで宇宙人でも見るかのように、
この小柄な異国人を眺めた。

「オクサン、キレイネ。トシイクツ」

ヒッと思わず悲鳴を上げるところだった。
この男は、私を女として見ているのだろうか。
私より十歳は若いはずなのに。
若い男が、私をどうしたいというのだろうか・・・・。

黒い肌、黒い顔の中の白目、下卑た笑い。
ハンドルを握る腕の筋肉。
凶暴性を秘めたかのような、むだな肉のない体つき。
垢じみたチェックのシャツに、すりきれたジーンズ。
日本の運転手とは何もかもが違っていた。

(タイでは、タクシーの運転手は手に職を持たない者の、
 手っ取り早い仕事のひとつなんだ・・・・)

そんなことも予測できずに、タクシーでホテルまで
簡単にたどり着けると思っていた自分の愚かさを、
玲子は呪った。

「いいえ、Rホテルよ、Rホテルに行ってくれればいいのよ」

Rホテル、Rホテルと、玲子は自分が今夜泊まる
ホテルの名を呪文のようにつぶやき続けた。
ああ、やっぱりここは野蛮な国なのだ、
日本の常識などちっとも通用しない国なのだ。
玲子は無知と自分を責め続ていたことはすっかり忘れ、
この運転手の存在におびえた。
男はそんな玲子の態度を面白がってか、にやにやと
笑い続けている。

ぽつり。

大粒の雨が一滴、フロントガラスに当たった。
急に辺りが暗くなったことに気づいてはっと外を見やると、
びっくりするようなスコールが突然、玲子を襲った。

「アメ、オクサン、アメネー」

それは玲子の肝を冷やすのに充分な雨の量だった。
ワイパーがいくら動いても、前がよく見えない。
バケツをひっくり返したような、とはよく言ったものだ。
すざましい勢いで、雨がざんざんと地上に落ちてくる。

湿気が出たせいで、運転手の獣めいた臭いが
鼻にまとわりついてきた。
自分の肌からも、動物臭が立ち上ってくるかのようで、
玲子はたちまち気分が悪くなった。
とにかく一刻も早くホテルへたどり着きたかった。
だが、高速を降りる時点で次第に道路が混み始め、
玲子を乗せたタクシーもスピードをゆるめ、やがて停止した。
イライラとした気持ちで車が前へ進むのを待ったが、
ピクリとも動く様子はなくなってしまった。

(ああ、あなた・・・・)

前に延々と続く、車の赤いバックライトを
絶望的に見やりながら、玲子は心の中で夫を呼んだ。

(私が間違っていました。
 こんなところへ、あなたを疑って勝手に来たりして)

雨が降って気温が下がったせいで、
車内の冷気がやけに肌寒く感じられる。
心の中の寂しさと、心細さとで、体がふるえる。

「オクサン、ワタシ、ニホンイッタコトアルネ」

運転手が再び変なイントネーションの日本語で話しかけてきた。
この男が、何のために自分にこんな話をしているのかが、
玲子にはまったく理解できなかった。

「ニホン、カネモチ、タイ、カネナイ。ニホン、グッドネ。
 オクサン、カネモチネ、ワタシ、カネナイ。ノー・グッドネ」

運転手はにやにや笑っている。
ノーマネー、ノーマネー。
運転手は、なおも繰り返す。

(・・・・そうか。お金が欲しいのか)

玲子は財布から千バーツ札を取り出し、
運転手に黙って差し出した。

「オー、オクサン、カネモチ。
 サンキュー、サンキュー」

運転手は相好を崩してハンドルから手を離して
合掌すると、奪うように千バーツ札を受け取って、
ポケットにねじ込んだ。

渋滞は続き、遅々として進まなかった。
だが、運転手はご機嫌な様子で鼻歌を歌うだけで、
もうそれ以上玲子に話しかけようとはしてこなかった。

雨は洪水となって街全体を呑み込もうとしている。
茶色い雨水が、濁流となって道路を流れているさまを、
玲子は呆然と見やった。

(これが、東京と同じ首都の姿なのか・・・・)

右を向いても左を向いても、見えるのは膨大な雨水と車の数、
廃屋と見まごうばかりの工事中の建築物の荒れた景色。

(荒んでいる。ただそれだけの街)

これが、玲子の、バンコクの第一印象であった。

ドン・ムアン空港に到着してから四時間後、
玲子はさんざん気をもみ、疲れ果てた末、
ようやく目指すホテルへ到着した。
運転手はチップと称してまた玲子に金をねだってきたため、
玲子は更に五百バーツを運転手に支払うはめになった。
だが、宿泊先を知られてしまった以上、
支払いを拒否して後腐れを残したくはなかった。
金を払ってこの野蛮人を追い払えるのなら、
いくら支払っても惜しくはないと思った。

「玲子!」

どこからか自分を呼ぶ声がした。
驚いて辺りを見回すと、なんとそこに
夫が立っているではないか。
なぜ夫がここに居るのかは全く分からなかったが、
どう見ても夫であることは間違いなかった。

「あ・・・・あなた」

確かに夫だと認識すると、破綻寸前の神経が一気に緩んで、
玲子はその場にへなへなと崩れ落ちた。

「どういうことなんだ、え? 急に一人で来たりして」

夫は半ば怒り、半ば心配がとけたような複雑な表情で、
玲子を問いつめた。

「あなたこそ、どうしてここが?」

「子供たちだよ。
 お母さんが、今日バンコクに行くからヨロシクって・・・。
 俺は訳がわからなかったが、もう成田へ向かったと
 言われれば、迎えに来ない訳には、いかないだろう。
 空港へ行ったんじゃ行き違いになると思って、
 ここで待ってたんだ」

そうか、子供たちが知らせてくれたのだ・・・・。

そう思った瞬間、涙がどっと玲子の両眼からあふれ出た。

子供のころ、迷子になって警察に保護され、
両親が駆けつけてくれた時のような安心感だった。
玲子は人目も構わず、数ヶ月ぶりに会う夫にしがみつき、
今までの恐ろしく不安な気持ちを洗い流すかのように、
泣きに泣いた。

「一体、どうしたんだ。
 俺は会社の会議を振って、何時間も
 ここで待ってたんだぞ・・・・」

雨が降って渋滞だったんだろ? 
すごかっただろう、これが常々俺が話をしていた
バンコクの渋滞とスコールってやつさ。
俺もいつもこの二つには参っていてさ、
仕事の時に待ち合わせしたところで、
お互い時間通りに待ち合わせ場所まで
たどりつけたためしがなくてね・・・・。

夫の説明を、溶けるほどの安心感の中で、
玲子は何度も頷きながら聞いていた。

もう、何もかもがどうでもよかった。
こうして夫さえ側にいてくれたら、何もいらないと思った。
もともと、夫ひとりを選び、彼の庇護のもとで
ずっと生きてきたのだ。
それ以外のことが何ひとつできなくても、
彼の側にさえいれば、自分の存在価値は
確かにあるはずなのだ。

「ねえ、いつなのよぉ・・・・」

日本で独りきりで我慢することもできなかったし、
子供たちを置いてこの恐ろしい異国へ移り住むことも、
できそうになかった。

「ねえ、あなた、いつ日本へ帰ってくるのよぉ・・・・」

彼女の存在価値をあやうくしている女は、おそらく
タイの女だろう。
玲子は、夫が困惑して周囲の視線を気にして
いることにも気づかずに、子供のような口調で夫にそう尋ねた。

夫さえこの国から、この国の女から奪い返せば、
何もかもが元通りになる。
玲子は夫に力一杯しがみつきながら、何度も何度も
同じ質問を、夫に向かって繰り返し続けるのだった。
                       
【了】

初めての一人旅

初めての一人旅

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-13

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