効果的なゾンビの対処法

一章 あの日   第一話 東京都東村山市  夫婦

はじめに
 
 弥生のみぎり、皆様はいかがお過ごしでしょうか。未曽有のことにご苦労も多いことでしょうが、どうかご自愛下さい。かかるうえは、一日も早く平穏な生活に戻れることを心からお祈りするばかりです。

 小生は山岡友広と申します。失礼なこととは存じますが、後々のことを憂慮し、仮名にさせていただきました。姓は尊敬する山岡荘八先生から拝借させていただいております。
 この絶望と狂気の世界で、本名を知られることに愁眉をひらく条項が今更あるのかと、疑問をもたれる皆様もいらっしゃると思います。確かにその通りでございます。
 私は「やつら」と深く係わり合う機会がありました。そこで思いがけない「やつら」の特徴に気が付いたのです。もしかするとこのことから「やつら」への対処の方法が導けるかもしれません。私の取るに足らない体験談が、後人への有益な情報になることを切に願い、記していく所存でございます。
 ですが、私がこれから先に何をし、どのような最後を遂げるのかを想像したとき、胸を張って人様に公表できるものになるのか自信が無いのでございます。仮名の件につきましてはご容赦下さりますよう重ねてお願い申し上げます。
 この掲示板をご覧になった皆様の何かしらのお役に立てれば幸いでございます。

 さて、何から話していいものか。
 人類の転機となった「あの日」二0一五年九月二十八日から五ケ月が経過しました。
 皆様は「あの日」をどのようにお過ごしになられたのでしょうか。
 誰もが思い出したくはない「封印された過去」でございます。私も同様です。
 まずは、私自身のお話をする前に、インターネットの掲示板を通して得られた「あの日」の状況について紹介していくことにいたします。情報交換が何らかの理由で途切れた場合もございました。私の勝手な想像のもと脚色・補完させていただいている部分もございます。ご了承ください。
 悲しく悲惨な話ばかりですが、生き残った私たちはそこから多くのことを学ばねばならぬ責務がございます。目を背けず、しっかりと現実を直視し、苦難を乗り越えて前へと進んでいきましょう。
 
 そうですね、それでは東京都東村山市のご夫婦のお話からさせていただきます。


 一章 あの日

第一話 東京都東村山市 夫婦

 工藤琢磨は三十一歳のどこにでもいる平凡な会社員であった。妻は二つほど年下の工藤恵。二人は結婚して七年になる。古いアパートで狭い間取りだったが、一人娘の工藤愛華と三人で慎ましやかでも幸せな家庭を築いていた。
 「あの日」、二0一五年九月二十八日の月曜は、残暑がまだ幾分残っており夜は寝苦しかった。週の始まりはいつもそうだが身体が重い。気持ちも重い。今日も満員電車に揺られて目黒まで出勤である。好景気に沸くのは海外進出を遂げた大企業ばかりで、工藤琢磨の勤める小さな保険会社はまだまだ苦しい経営を迫られていた。彼自身も責任ある役職に就き、部下を励ましながら課せられたノルマをこなす懸命な毎日を送っていた。
 
 この日は、彼には珍しくいつもの時間に起きられず寝坊をしてしまっていた。なんと妻の恵も同様である。
 自分自身の不注意でもあったが、怒りの矛先は妻に向けられた。怪訝そうな表情で恵も夫の準備を手伝っている。娘の愛華は小学一年生だ。不機嫌な父親の雰囲気を敏感に感じてさっさと食事を済ませ、学校へ向かう準備をしていた。
「なんでこんなときに限って背広が無いんだ」
琢磨の怒気はことあるごとに激しくなっていく。昨日クリーニングに取りに行くはずだった背広の事を二人とも忘れていただけのことだが・・・。
「グレーの背広があったはずよ」
妻が必死に打開策を提案した。琢磨は大きな舌打ちをし、掛けられたワイシャツの奥から古い背広を引っ張りだした。その勢いでそばに掛けられていたネクタイが数本一度に床に落ちる。琢磨が苦々しくまた舌打ちした。
「しょうがないでしょ。あなたも忘れていたんだから」
「しょうがないじゃないだろ。お前が買い物に行くついでに取ってくるって話だったろうが」
「一緒に買い物に行ったんだからあなたが気がつけばよかった話でしょ」
いつもの夫婦喧嘩。
 愛華は巻き込まれては大変と、慌てて玄関を飛び出した。
「ちょっと待って愛華。行ってきますって言ってないでしょ。忘れ物はないの」
恵が急いで玄関の方を覗き込むと姿はそこにはなく、「行ってきまーす」という可愛らしい声だけが聞こえてきた。背後からは琢磨がまだぶつくさ文句を言っている。    
恵にとってもなんだか憂鬱な朝の始まりだった。
「あなた朝食は?」
「いいよ。どこかで買って電車で食べる」
「食べられるの?」
イライラした表情で頷きながら琢磨は玄関で靴を履いた。
いつもは娘と一緒に家を出るのだが今日は置いて行かれた。
(こんな時間だから電車は満員ではないだろうが、会社には完全に遅刻だ。電話をして腹痛という言い訳をしておこうか・・・)
 琢磨は自宅を出て、アパートの階段を下りて一階へ向かった。外に出るためにはアパートに設置されているたった一つの共同玄関を通らなければならない。いつもは一階で佐藤さんの奥さんに出会うはずだったが今日は誰もいなかった。
(自分がいつもの時間に出勤できなかったからだろう)
琢磨はそう納得した。

 玄関のドアを開き、外に出た。
 (なんだ・・・これは・・・)
 臭気の異変に驚いた。腐った匂いが鼻をつく。そして騒音。怒鳴り声、悲鳴、パトカーのサイレンに救急車や消防車のサイレン、辺りは騒然としていた。
 不自然なのは、これだけの騒ぎなのに人の気配が無い。
 途端に頭がガンガンと痛んだ。昨日の夜は妻と飲み過ぎた。お陰で二人とも寝過す結果になったわけだ。起きて十五分で飛び出してきた。慌て過ぎていて外の異変に気が付かなかった。
「愛華・・・愛華・・・」
先に出ていった娘が気になった。この異変は周辺で何かあったに違いない。どこかの工場が爆発でもしたのだろうか。妙な化学物質が飛び交っているとも限らない。
琢磨は急いで携帯電話を取り出して自宅に電話をする。
「なんだ。つながらないぞ。」
会社にもかけてみたが繋がらない。混線していて繋がりにくい状況になっていた。
 そのとき琢磨は一瞬悲鳴を聞いたような気がした。背後のアパート内からだ。女の子の悲鳴のように思えた。琢磨はドアを開いて階段を上る。愛華はいつも五階の理奈ちゃんと一緒に学校に登校していたことを思い出した。
(まだこの建物の中に居るのかも・・・)
 一気に五階まで上った。各フロアは六部屋横並びになっている。一番奥の部屋が理奈ちゃんの家だ。息を切らしながらフロアの半ばまで進んだとき、奥で三人の子どもたちがうずくまって何かをしている光景が見えた。
(チョークで地面に何かを書いているのか?)
三人が囲んでいる真ん中に何かがある。近づくにしたがって子どもたちが座り込んで何かを食べていることに気が付いた。一心不乱に何かを食べている。
(理奈ちゃんだよな・・・)
後ろ姿でわかる。他の二人は見たことがないがこのアパートに住んでいる小学生なのだろうか。探している愛華の姿はない。
 琢磨はもう少し進んでみた。じとりと汗が額に滲む。臭気は濃くなり、むせ返すような息苦しさが募った。
 
 子どもたちの周辺の床に赤いものが散らばっていた。
 赤い液体と赤い破片。
 貪り食う子どもだちも顔を真っ赤にしていた。
 無邪気な笑顔。
 白い骨がその手から地面に落ちた。
 
 (肉を・・・肉を食っている)
 声を掛けようとしたが、今にももどしそうだ。これは二日酔いのためだけではない。
 子どもたちの寸前まで進んだ。
 中央に置いてあるものに見覚えがあった。
(まさか、人間、なのか・・・)
 無残な肉片。子どもたちは両手を伸ばしてそこから内臓を取り出し、歓喜の声を上げながらほおばっていた。
 (何が起きている?)
 琢磨の視界がぐるぐると回る。これは夢の続きなのか。だとしたら早く目を覚まさなければならない。今、目を覚ませば会社に遅刻しないで済むかもしれないのだ。
 しかし、子どもたちの声も匂いもすべてがリアルだった。
(いや、今までも夢か現実か判断つきかねるような夢を見てきた。きっとそれなんだ。)
 地面には血や肉片でべったり汚れビリビリに裂かれた服やスカートが散乱していた。
(愛華のお気に入りの服と一緒だ・・・)
 なんだかおかしさがこみ上げてきた。
 こんな不吉な夢は見たことがない。よほど仕事のストレスが激しいのだろう。精神的に参っているのかもしれない。
(今日は起きても会社には有給をもらおう。愛華が帰ってきたら三人で散歩でもして気持ちをリラックスさせるんだ)
 琢磨はふらつきながら来た道を戻り始めた。二階の自宅へ向かう。
 こんな光景には耐えられない。
 (早く、目よ、覚めてくれ)
 階段をゆっくりと下りていく。外からは車の衝突音が聞こえてきた。階段の上からは駆ける足音、唸り声、悲鳴。琢磨は耳を塞いで自宅のドアを開く。
 「あなた、どうしたの。今の悲鳴は何?」
食器でも洗っていたのだろう、手を洗剤で泡だらけにしながら恵が玄関で出迎えた。
「ずっとサイレンが鳴っているけど、外で何かあったの?」
恵の声を無視するように琢磨は室内にあがりソファーでバタンと倒れた。リモコンに手を伸ばしてテレビをつける。
「・・・緊急警報です。只今、日本国中に警戒緊急警報が発令されております。外出は控えてください。鍵をかけて絶対に外出しないようにしてください。指定されている避難所への非難も避けてください。繰り返します。只今、日本中に緊急警報が発令されております。絶対に外出はしないようにしてください。・・・」
どこの局も同じような放送をして、アナウンサーが同じことを繰り返し叫んでいた。
「何これ・・・。あなた愛華は?愛華はどこ?」
恵が慌てて玄関へ飛び出していきそうになったのを、琢磨は掴まえて離さない。
「どうしたのあなた。愛華は外よ。探しに行かないと」
 恵の叫びに琢磨は何も答えず、ずっとその右手を握りしめていた。
 (これは現実かもしれない)
 そんな思いが少しずつ彼のなかに芽生えつつあった。


 「あなたー。愛華がそろそろ帰ってくる時間だから迎えに行ってね。私は手が離せないから」
部屋の奥から妻の恵の声。
「ああ、わかった。すぐに行くよ」
琢磨はソファーに座ったまま、僅かに振り返ってそう答えた。
 
 「あの日」九月二十八日から一ヶ月が過ぎていた。
 これまで一度も外出を試みてはいない。
 一ヶ月の期間で知り得た真実はたったひとつだけ。それは、人間の精神がこんなにも簡単に崩壊するということだ。恵は完全に夢の中を生きている。夢の中では平和な家庭が続いているのだろう。琢磨は毎日仕事に行き、一人娘の愛華は元気に学校に通っている。そんなごく普通の幸せが恵だけの中で続いている。
 食料は完全に尽きた。
 テレビの放送で、水道水は汚染されている可能性があると聞きまったく使用していない。電気はまだなんとか生きているが、それもやがては止まるだろう。
 窓から外の景色を眺めると、「やつら」が昨日と同じようにうろついている。遠くで立ち上る煙が幾つも見えた。
 テレビをつけても放映されている局はどこも無い。情報はインターネットだけだ。電話の混線状態は終わったが、どこにかけても相手はでなかった。
 
 「あなたー。明日は会議だったわよね。アイロンかけておくからどっちのワイシャツにするか決めておいてねー」
「ああ、決めておくよ」
 希望の無い人生がこうも苦痛に満ちていたとは・・・。明日も今日の繰り替えし。明後日も一週間後も一年後も、きっとそうなのだろう。
 ストレスの溜まる営業回りからは解放された。うんざりだった満員電車からも。忌々しい上司にももう会うことはない。すべては終わったのだ。そして愛華は帰ってはこない。恵の正気も戻らないだろう。
 「あの日」、琢磨が五階で目撃した惨劇の現場。いくら話しても恵は決して受け入れることをしなかった。必ずどこかで愛華は生きていると言い張って泣きわめくだけ。外に飛び出そうとする恵を必死に止める日が何日も続いた。テレビで放送される内容はどれも絶望的なものばかりで、やがて恵はおかしくなった。
 何を待って生きているのだろうか。
 少し前には、いつか混乱は収まると信じていたが、今はもうそんな期待はしてはいない。誰も「やつら」を止められなかったのだ。警察はおろか軍も政府も何もできなかったに等しい。今更原因なんてものに興味はない。それがわかったところで何も戻ってはこないのだ。
 昨晩、恵が何かを食べていた。
 よく見ると部屋に置いてあった観葉植物の葉っぱだった。恵にはそれがサラダに映るらしい。おいしそうに口にしていた。
 琢磨の涙はもう枯れ果てている。湧き上がる気力も無い。
 一日一本と決めていた最後のタバコに火をつけた。空虚な煙が立ち上る。
「あなたー、美咲の身体に悪いからタバコは外で吸ってねっていつも言っているでしょ。ねえ愛華。ほんとしょうがないよねー。向こうに行っちゃ駄目よ」
恵には時間の感覚も、ストーリーの連結も何も無い。状況はその場その場で一変する。
 琢磨は言われた通りにタバコの火を消し、大切そうにテーブルに吸殻を置いた。そしてゆっくりと立ち上がり、洗面台に向かう。使ってはいけないと言われた水道水で歯を磨き、ひげを剃った。
「あら、もうそんな時間?たいへん、お弁当を作ってなかったわ」
琢磨の行動を見て、恵が慌てて台所に立った。食材なんてもうこの家には無い。それでも恵は包丁を取り出し、その辺りに散乱しているゴミを弁当箱に詰め込んだ。
「困ったわ。野菜が無いの」
「いいよ。それで充分だから」
「そう?ごめんなさいね。今日の晩御飯はあなたの大好物の野菜炒めにするから」
「楽しみにしてるよ」
そう言って琢磨は恵の頬に優しくキスをした。冷たい肌の感触。恵はやや表情を赤らめて、弁当箱をバックに入れて手渡した。
 琢磨は新品の靴下を履き、真っ白のワイシャツに袖を通した。愛華からプレゼントで貰ったピンクのネクタイを締め、グレーの背広をまとう。昔と何も変わらない朝がそこにはあった。
「今日は早く帰って来られるの?」
「ああ。誘いは全部断って帰ってくるよ」
「私は近所のママ友たちと懇談会があるんだけど、なるべく早く切り上げてくるわ」
「いいよ、ゆっくりしてきなさい。風呂にでも入って待ってるよ」
 琢磨は黒のカバンを手に取る。何年もこれを持って出勤してきた。お弁当の入ったバックと二つ、大切そうに右手で持って玄関へと向かう。恵は見送りに来てくれた。その表情には一点の曇りも無い。
 使い古した革靴をゆっくりと履いた。昔はよく憂鬱な気持ちでここを出発したものだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
琢磨は、愛していると伝えようと思ったが口にはできなかった。そんな言葉、普段は吐いたことが無い。それを言ってしまったら、何も変わらぬ一日は始まらない。
「気をつけてね」
「ああ」
 琢磨は玄関のドアを開き、アパートの階段へと向かった。灰色の壁。窓からは清々しい空が見えた。タバコの吸い殻にもう一度火をつける。
「もう十一月になるからな。寒くなってきた。コートでも着てくればよかったか」
そんな独り言を言いながら階段を降りる。アパート共同の玄関口。錆びついた自転車が横たわっている。郵便受けの自分の名前を確認した。工藤琢磨、恵、愛華。幸せな家庭だった。ごくごく普通ではあったが、楽しい日々だった。確かに自分たちはここで暮らしていたのだ。  

 人生に悔いなど何も無い。
 
 共同玄関のドアを開ける。
  
 一日が始まるのだ。この家庭を守るため、この幸せを続けるために働く一日。
 
 風で目の前の木が揺れた。
 今日は風が強そうだ。

 景色がぐるりと回転する。

 募る唸り声も琢磨の耳には届かない。覆いかぶさってくる「やつら」の隙間から空が見えた。

 一日働けば野菜炒めが食べられる。


 今日も頑張ろう。

 やがてすべてが真っ暗となった。

第二話 愛知県日進市  独身女性

第二話 愛知県日進市 独身女性

 二十六歳の森田歩美は学習塾講師の仕事が終わった後、いつも立ち寄る二十四時間営業のスーパーで買い物を済ませた。
中学生相手に授業をし、この生徒の成績がどうの、あの生徒の志望校がどうのと、同じ教室に入る他科目講師と話をしていたら深夜の二時。遅すぎる晩御飯と明日の朝食を購入し、五年ローンで購入した愛車に乗ったところだった。

 毎日、午前十一時に出勤して、帰宅は深夜の二時や三時。一日の労働時間は平均すると十三時間にはなる。残業代など民間会社のそのまた底辺のような会社では出るわけもない。正社員として働き始めた同期入社の仲間たちは次々と退職していき、いつの間にか彼女だけになっていた。それでもしがみ付いて仕事を続けてこられたのは、子どもが好きだったからだ。教えることも好きだった。そして、どんなに身勝手な注文を職員に要求してきても、会社自体の理念は決してぶれない。資源の少ない日本の国を支えてきたのは人の力。その人を育てるのもやはり人。会社は日本のため、将来のためにここまでひた走ってきた。彼女はそんな会社が好きで、ここまでやってきたのだ。

 それでも女の身では過酷すぎる世界だった。肉体的にも精神的にも疲れ果てている。授業中もいつの間にか笑顔が強張っていることがある。余裕がなくなり、生徒に感情的にあたってしまって自己嫌悪に陥ることも多々あった。食事も洗濯もままならず、異性との出会いの時間なんてまるでとれない。

 辞めようと思うことはほぼ毎日のことである。机の中には退職届がいつでも提出できるようにしまってあった。明日こそ「辞めます」と言おう。そう決心をしても、「先生のお陰で英語が楽しくなってきたよ」なんて生意気盛りの中学生に言われた日には今までの苦しみなんて吹っ飛ぶのだ。テストの結果をうれしそうに持ってくる生徒もいる。自分から家庭学習をするようになったと保護者に感謝されることもある。その度に思う。私は必要とされていると。少なくともこの人たちの幸福のために微力ながら貢献できたのだと。この充実感が彼女の支えとなっていた。この仕事以上にそれを感じられる仕事はあるのだろうか。そう考えると退職の決心はいつも鈍った。
 
 身体のことを考えて深夜はあまり食事を取らないようにしているが、「あの日」、九月二十八日未明に限っては、スーパーの駐車場の車の中で菓子パンを三つも頬張っていた。あまりお酒を嗜まないので、ストレス解消は甘いものばかり。この日もクリームパンにチョコファッション二つ。とても深夜二時過ぎに食べるような物ではない。しかし食べなければ、このドラ疲れた身体は回復しないのだ。
 広々とした駐車場の中、深夜にも関わらず二十台以上の車が止まっている。タクシーやトラックの姿もある。みんな彼女と同じように疲れを癒すためにここに立ち寄っているに違いない。頑張っているのは私独りでは無いのだと思うとなんだか自然と涙がこぼれた。生きていくということは、九つ苦労と不満でも一つ喜びがあればそれで幸せなのかもしれない。

 「ガタン」

という音で森田は目が覚めた。

 不覚にもそのまま運転席で寝てしまったらしい。驚いて腕時計を見ると午前六時三十分。車内で三時間以上寝ていたことになる。余程疲れが溜まっていたのだろう。今日で十日間連続出勤になっていた。
彼女は慌てて車のエンジンをつけ、家路につこうとアクセルを踏んだ。すると、凄まじいスピードで彼女の車の前を通り過ぎる影が目に入った。反射的にブレーキをかける。身体は前のめりになったが、車はわずかに前に進んだだけであった。ほっとしたのもつかの間、通り過ぎた先で激しい衝突音。目の前を猛スピードで走り抜けたタクシーが前方を塞いでいたトラックに衝突したのだ。
 「なにこれ・・・。」
森田は周囲の異変に気が付いた。逃げ惑う人々の姿。我先にとぶつかり合う車の群れ。クラクションと飛び交う怒号。一体何が起きたのか。地震か?揺れているようにも感じたが、どうもそうではなさそうだ。

 集まった車が駐車場の出入り口に集中し、渋滞になっていた。そこに無理を承知で割り込もうとする車。一体何を慌てているのか・・・。彼女は車の窓を開けた。
「うっ!ドラ臭い。」
腐ったような臭気が鼻をさす。急いで窓を閉めた。吐き気がこみ上げてくる。昔、世間を騒がした薬品テロを思い出した。それしか考えられない。だとすればこの場を早く去らねば大変なことになる。車を出て徒歩で逃げるか、車を運転して逃げるか、彼女は悩んだ。

 ここから出入り口までの道は先ほどのタクシーがフロントをぐしゃぐしゃにして止まっていた。もう動かないだろう。迂回すれば出入り口にたどり着けるがこの渋滞の様子だと動きは取れなそうだ。朝方になって客の数も増し、駐車場の車は五十台近くになっていた。車を置いて逃げるのが賢明だと彼女は判断した。しかし、この臭気を吸い込んでいいものなのだろうか。辺りをまた注意深く窺う。必死の形相で逃げている人たち。しかし、誰も口や鼻を覆ってはいない。というよりそんなことをよりも何かの行方を盛んに気にしているようだ。

 と、森田の車の目の前で人が倒れた。自分と同年代らしき女性。倒れたというより勢いよく転んだ感じである。確実に膝は血まみれだ。しかしこの女性もまったくそんな傷の状態など気にはしていない。転げるようにして立ち上がる。そこへ後方から二人の男性が迫った。助けてあげるのかしら。森田は一瞬そう思ったが、男たちの行動は予想に反したものであった。女性の首筋に噛り付いたのだ。もう一人の男は女性のふくらはぎに食らいつく。女性のかん高い悲鳴が響き渡った。この時になって初めて、外を走る人々が二種類いることに気が付いた。逃げる者と襲う者。至る所でその光景が繰り広げられていた。
 首を噛み切られて女性は為すすべ無くその場に倒れた。引き倒されたという表現の方があっているのだろうか。血が森田の車のフロントガラスに飛び散った。男たちは歓声を上げながら、倒れた女性に乱暴にのしかかり、肌の露出している部分に手あたり次第に食らいつく。女性は悲鳴をあげながら魚のように手足をわずかにバタつかせていたが、やがて静かになった。

 森田は顔を両手で覆い、指の隙間から茫然自失でその光景を見守っていたが、我に返って携帯電話を取り出した。すぐに一一0番通報する。この女性が死んだことは確認しなくてもわかる。とても信じられない。目の前で人が殺されたのだ。
携帯電話からは
「只今、電話がつながりにくい状態になっております。後ほどおかけ直しください。」
機械的な女性の声が繰り返される。
 
 悲鳴はあちらこちらで聞こえてきた。

 普通の服装のサラリーマンや主婦、店員の姿もある。様々な人たちが恐ろしい形相で逃げ惑う人たちを襲っていた。車で逃げようとしている人たちも大勢いたがパニックになって衝突を繰り返している。渋滞は極限に達し、もう動いている車は一台もいない。クラクションだけが鳴り響いていた。

 外に出て逃げるしかない。そう判断し、ドアを開けようとしたとき、向かいの車の中でこちらに気づいて合図を出してきた者がいた。両手で×を作り、外に出るなと警告している。眼鏡をかけた中年の男性だ。首を振って絶対ドアを開けるなというジェスチャーをした。よく見ると車に避難している人たちは襲われてはいない。無理に車をこじ開けようとしている人もいない。車の中にいれば安全なのか?やむを得ず森田はすべてのドアに鍵をかけてじっと身を隠した。

 悲鳴の中から唸り声も聞えてきた。

 まったく現状が把握できていないが、彼女は自分がここに閉じ込められたのだということを感じていた。逃げ場無く取り囲まれたのだということを。

 これから先この狭い車内に永延隠れ続けることになろうとは、森田にはこのときはまだ知る由もなかった。


 森田歩美が自車に立て籠もってから十日が過ぎた。

 逃げ惑う人々の姿はもう無い。けたたましい車のクラクションもすっかり止んでいた。おそらく駐車場の出入り口付近で車を乗り捨てていった人たちが多かったのだろう。渋滞した車は溢れかえったままである。
 そんな間を縫うようにして彷徨う「やつら」の姿。朝も昼も夜も、雨が降っても「やつら」のうめき声と歩みは止まることはない。

 とりあえず車内は安全であった。「やつら」はなぜか車の中までは覗かない。車内の人影にも気づく様子はなかった。森田の車の近くにもまだ六台の駐車した車があり、その中には森田と同じように逃げ遅れて隠れ潜む人々がいた。遠くの事まではよくわからないが、この駐車場には少なくとも十人以上の避難民が助けを求めて車内でじっとしている。

 十日間で何度もサイレンの音を聞いた。みんなも聞いたであろう。その度に助かったと安堵の溜息漏らしてきたが、結果は常に裏切られている。音だけで、実際の警官の姿も消防士の姿も見かけられないのだ。そして今や、サイレンの音すら耳にしなくなっていた。 
 頭上では「国防軍」のヘリやマスコミのヘリが飛び交っていたが、救助の手が差し伸べられることはなかった。

 朝食用にと購入しておいたパンとサラダ、間食用の菓子三袋、一リットルの紅茶のペットボトル一本、これで今日まで命を繋いできた。森田はまだ運がいいと思っている。スーパーで購入した後だったからだ。同じような境遇で車に隠れている人々のなかには購入前だった人もいるはずだ。とてつもない飢えに苦しんでいるだろう。皮肉なものだ。こんなにも大きなスーパーの前で何も食べられず、水すら飲めずにもがいているのだから。車を出れば二百メートル先に自動販売機がある。手元には購入するに余りあるお金もある。しかし手に入れることはできない。自動販売機と森田の車の間に「やつら」が六人いるのだ。近くて遠い距離。
 「やつら」は一定の区域を絶えずぐるぐると回っていた。全員が等間隔で散開し、誰一人ここから逃がさないような陣形であった。

 森田の車の前を繰り返し通り過ぎる男もいつも同じ。頭の薄い五十代ぐらいの男で、服装から察するに長距離運転手だったに違いない。森田はこの男を「ハーちゃん」と名付けていた。はげのハーちゃんだ。手持無沙汰な森田はあまりに同じ行動を繰り返すこのハーちゃんを観察してみた。腕時計でその周期を測ってみる。森田の車の前を通り過ぎ、また戻ってくるのに二分三秒。途中で僅かに立ち止まる場所も、ターンする場所もまったく変わらない。次測っても、その次測っても、都合二十五回計測してみたが、二分三秒で必ず森田の車の前に戻ってくる。その歩みは実にのんびりとしたものだったが、計算高く、狙った獲物は決して逃さない凄腕のハンターのもののように森田は感じていた。

 車内では多少動いても気が付かれない。森田の動きはどんどん大胆になっていった。寝るときはシートを倒して大の字で寝た。寝そべりながら軽くヨガの体操などもやっていた。ハーちゃんはそんな森田のことなど眼中にないのか、淡々と歩き続けている。

 もちろんタブーが無い訳ではない。この十日間の体験でわかったこともある。絶対に窓を開けてはいけないことだ。理由は不明だが、窓を開けると途端に「やつら」の目に留まる。いや、鼻に留まるということなのだろうか。生きた人間を発見したときの「やつら」の豹変ぶりは言語に尽くしがたい。唸り声をあげ、猛然と駆けだす。まるで虎やライオンのようだ。唸り声を聞くと周辺のやつらも寄ってくる。その前に窓を閉められなければ一巻の終わり。自分の骨が砕けることも厭わず、「やつら」は全力でドアにぶつかってくる。ガラスを砕く。侵入されたら後は血祭だ。森田はその光景を二回、目にしている。雨が初めて降ったとき、そんな犠牲者が出た。渇きに耐えられなかったのだろう。以来誰も車の窓は開かなくなった。

 携帯電話だけが頼りだった。情報はスマートフォンを介し、インターネットから収集した。日本中が同じ状況だと知ったとき森田はがっくりと肩を落とした。出来うる限り前向きに生きてきた森田だったが、これは救援に来ることなど無理かもしれないと思ったからだ。あの子たちはどうしているのだろうかと自分の教え子たちが気になった。電話の混線は未だに続いている。誰の安否確認も出来てはいない。やれることは携帯電話をいじることぐらいなのだ。二日と持たず携帯電話の充電が切れた。その後三日間、森田は沈黙を守ったが、やはり状況が気になる。車には携帯電話の充電用のソケットを備え付けているし、ケーブルもあるのだが、充電のためにはエンジンをかけなければならなかった。エンジンの音でやつらが集まってくるとも限らない。ためらって五日過ぎた。葛藤の日々。

 森田にとって社会人としての五年間はチャレンジの連続だった。畑違いの教育の仕事。人見知りの性格に反して、沢山の生徒を前にして授業をしなければならなかった。他人と競争することなんて苦手だったが、男だらけの職場で講習会の募集だ、授業アンケートだと全力で張り合ってきた。そもそも学生時代は自分のことだけを考えて生きてきた。それがこの職場に出会って、他人のために、他人の笑顔を見るためにへとへとになるまで働くようになった。幾多の挑戦の中で変わっていく自分が好きになった。「無理だと勝手に決めつけないこと」。がむしゃらに挑戦することが森田の人生を明るく切り拓いてきたのだ。周囲になんと言われても、自分の信念を貫いてきた結果、成功とは言わないまでも以前の自分では想像できないくらいの充実した人生を過ごせることができた。
 
 十日目、森田はチャレンジすることを決意した。誰かがやらなければならないことならば自分がやる。文字通り、命をかけた挑戦。もちろん命がけのチャレンジは初めてだ。

 車のキーを差し込み一気に右に回す。「躊躇するな。考え込んだら動けなくなる。」社会人としての経験から学んだ大切なコツ。成功のイメージも失敗のイメージも必要ない。必要なのは思いきりだ。

 エンジン音とともにカーステレオが鳴る。大好きなMiwaの曲。しかし聞き惚れている暇などない。ボリュームをゼロにして、すぐに充電を始めた。ふと顔を上げるとフロントガラスのすぐ向こうにハーちゃんがいた。小さな唸り声を上げながらこちらを見つめている。ハーちゃんの肌はボロボロになって剥がれ落ち、血走った眼は大きく見開かれている。口の両側からは白いよだれが滴り落ちていた。

 森田は一瞬悲鳴を上げそうになった。必死に堪える。

 どこからともなく一人、二人と森田の車の前に集まってきた。

 森田は運転席の下に隠れ、祈った。

 恐る恐る目を開く。

 祈りが通じたのか、「やつら」の唸り声は大きくはならない。ドアに衝突をしてくることもなかった。ただ車の前にずっと立ち尽くしている。

 三十分粘った。充電は三十%ほどしかできなかったが、そこで車のエンジンをきった。「やつら」の反応を待つ。五分ほどしたらまるで何もなかったかのように「やつら」は分散していった。
森田の挑戦は成功したのである。

 その後、次々とエンジンをかける車が出現し、「やつら」はその度にエンジン音を聞きつけて集結したが、誰も危害は加えられていない。森田の挑戦は同じ境遇の人たちに希望をもたらせたのである。

 森田がうれしそうに周囲を見渡していると、正面の車の中の男がしきりになにか合図を送ってくる。初日に森田が車を出ようとして止めてくれた男だ。自分の携帯電話を指さしていた。コンタクトを取りたいのだろうか・・・。森田はバックから赤い口紅を取り出し、フロントガラスにそれで電話番号を書いた。このルージュは母からのプレゼントで、使うのはこれが初めてである。随分派手だ。男っ気が無いことを心配しての贈り物だったのだろう。残念ながらその期待には未だ応えられていない。

 電話は混線が続いていたが、LINEは比較的スムーズに動いていた。送信して十分もあれば相手に届く。森田はドキドキしながらLINEが来るのを待った。相手は眼鏡をかけた中年オヤジで、まったくタイプでは無かったが、なぜか心がときめく。この恐怖に満ちた環境のせいなのかもしれないが、と、いうよりそうなのだろうが、それでも構わない。絶望の中でなにかしらの希望や喜びを見いだせることは幸いである。

 一時間後、男からLINEが届いた。

 彼の名前は岸田亮、四十一歳。この街の不動産で働いているようである。LINEのやり取りにびっくりするほど時間がかかったが、日進市が以前は日進町だったとか、来年の中日ドラゴンズはここが期待できるとか、しょうもない話がとても楽しく、苦痛を忘れることができた。

 あっと言う間に充電が無くなり、またエンジンをかける。やつらが集まってくることにも慣れてきた。心配はむしろガソリン。あと二十リットルほど残っているが使いすぎてしまうと、もしもの時に動きが取れなくなる。
 それでも何もできない車内にあって、岸田との交流は唯一の楽しみになった。

 これが恋なのか、愛なのか、どちらでもないのか判断できないが、なるほど、恋愛とは人間にここまで活力を与えてくれるものなのかと客観的に自分を鑑みて驚いていた。
 
 十一日目、十二日目、十三日目、毎朝六時には岸田からのおはようのLINEが届く。いつの間にか森田もLINEの文章の中にハートマークを入れるようになっていた。まるで気分は高校生か中学生だ。

 当然ながら森田も、こんな日々が長く続くはずも無いことはわかっていた。

 事態が急変したのは十八日目のことである。

 事前に購入していた食料も飲料水も尽きて数日が経過していた。

 森田は極度の脱水症状に陥っていた。倒されたシートに横たわる日々がここ二日続いている。頭痛が止むことがなく、身体にはまったく力が入らない。意識は朦朧とし、一日の大半は死んだように眠っていた。僅かに首をもたげて窓の向こうを眺めると赤い自動販売機が見える。電気が通っていないわけでも、故障しているわけでもない。あそこに行き、お金を入れれば水分は補給できるのだ。時間にしてわずか一~二分。しかし、生きてあそこに辿り着く着くことはない。

 この十八日間で多くの人々が犠牲になった。

 耐えきれず車を発進し、駐車場を囲う柵に激突する者もいた。衝撃で運転手は頭からフロントガラスに突っ込み、群がった「やつら」に頭から貪り食われた。

 夜に車を降り、逃亡を図った者も数名いた。眠っていて森田が気が付かなかったこともあったが、全員が十歩も進めずやつらに押し倒され餌食となった。無残な姿が明け方に転がっていることも珍しくはない。
誰も彼もが極限状態だったのだ。

 もちろん車内にひたすら潜んでいる者もいる。やつらに食われるのならこのまま餓死したほうがまし。それが森田と正面の車に乗っている岸田亮の共通した意見であった。
 このまま静かな眠りにつくのも悪くはない。最近では森田はそう思っている。逃げるチャンスも、そのための体力も残ってはいない。

 森田の車周辺をテリトリーにしている「ハーちゃん」は飽きることなく同じ範囲を同じ歩調で彷徨っている。

 森田は幻聴や幻覚を見ることが多くなった。どこからともなく生徒たちの声が聞こえてくる。自分の授業をする声も聞こえてきた。宿題を取り組まない生徒に熱く語る自分。努力の大切さを切々と語っていた。
 岸田からのLINEだけが唯一、森田の現実と幻を繋いでいる。ただ、返信をする気力も失い、送れても日に一本が限界となった。命の灯が消えようとしていることを森田は実感していた。それを避けるすべが無いことも十分承知していた。

 「嘘でしょ・・・。」
そんな中、月のものがきた。

 確かにその周期だった。まさかこんな長期間に渡って車内に閉じ込められるとは考えてもいなかったので、生理用品も備えはない。しかし、この命が尽きようとしているこの期に及んで、なんのための生理なのか。子どもを産む機会など私には残されてはいないのだ。森田は長年付き合ってきた腹痛を感じたとき、可笑しくて笑い声を発してしまった。蚊の鳴くような弱々しい声。丁度その時に岸田からLINEが届いた。横たわりながら微かに指を動かし、アプリを開く。
「きっと助けは来る。諦めないで頑張ろう!今晩、僕は自動販売機に挑戦するよ。そしたら二人でたらふく飲もう。僕はコーラを一気飲みするから、キミは何を飲む?」
倒れて動かない森田を心配しての内容だった。涙がこぼれシートと髪を濡らした。おそらく彼女の中の最後の水分だったに違いない。森田はもう目が開けなかった。習慣を頼りにLINEのメッセージを打つ。
「ありがとう。でも、もう無理です。バイバイ。」
せめて最後はハートマークにしたかった。しかしこれが限界だった。
 
 その後二十分で異変が起きた。まずハーちゃんの動きがおかしくなった。辺りをキョロキョロするようになり、唸り声が獰猛になっていく。

 森田から発せられる血の匂いを嗅ぎつけたのだ。

 三十分後には森田の車の窓を叩き始め、周辺にいた「やつら」もどんどん集結してきた。その数六人。興奮がどんどん高まり、車にその身体をぶつける衝撃も大きくなっていく。

 森田にはその音も衝撃も伝わってはいない。意識がほとんど薄れていたからだ。
 
 やがて後部座席のガラスが叩き割られた。一人がそこに頭から突っ込む。車内に轟く唸り声。
 それでも森田の瞳は閉じられたまま。
 
 助手席の窓も割れた。破片が横たわる森田の顔へと飛んだ。
 
 森田には生徒の誰かがふざけて教室の窓を割ったように伝播していた。注意しなければならない。しつけはタイムリーさが大切だ。その場で強く叱る必要がある。

 ようやく森田の目が開いた。

 運転席の窓もそろそろ限界だった。窓のすぐ向こうにはハーちゃんが歯茎を剥き出しにして今か今かとそのときを待っていた。
 
 と、正面の岸田の車のエンジンがかかった。すぐさま急発進し、森田の車の真ん前にいた男二人を弾き飛ばした。一人の頭が森田の車のフロントガラスにぶつかり割れた。岸田はすぐにバックし、今度は森田の車の助手席の連中をはねる。その勢いで隣の車に衝突し、岸田の運転席の窓が大破した。それでも動じず、またバックする。
 
 しかし、森田の運転席の窓もついに割れた。
 ハーちゃんが歓喜の声を上げて意識が朦朧としている森田の肩口に食らいついた。後部座席に乗り込んだ一人が背後から森田の首筋に噛みつく。

 森田には鋭い痛みがあったが、恐怖はなかった。

 それよりも、最後に岸田の顔を見たかった。

 気力を振り絞り、身体を起こして正面を見る。ガラスの破片で顔中を切った岸田が必死に運転を続けていた。次は森田の運転席の方の「やつら」を駆除をしようとしている。「やつら」の一人が砕けた窓の隙間から岸田に食らいつく。それでも岸田はハンドルを離さない。
 
 近づいてくる車の中から岸田の顔が見えた。

 この何日かで随分と痩せたようだ。

 諦めもせず、岸田は森田を救おうとしていた。
 自分のことばかりだったが、彼は私のことを愛してくれていたのだ。
 
 愛されていたと感じて心が安らいだ。

 森田の下腹が痛む。


 この人の子どもが生みたかった・・・。


 助手席側からもさらに一人が車内に突入し、森田の顎に噛みつく。


 岸田がなにか叫んでいた。


 最後にこのひとの声が聞けてよかった。



 森田は微笑みながら静かに目を閉じた。

第三話 群馬県高崎市 大学生 前編

 第三話 群馬県高崎市 大学生 前編

 上田和也、二十歳は高崎経済大学の二年生である。

 大学からは少し離れた高崎駅西口のビジネスホテルでフロントのバイトをしている。遠く故郷の鳥取県の両親からの仕送りは月に八万円。家賃や光熱費を差し引くとほとんど残らない。食費や交遊費、携帯電話の料金などはこのバイトでやりくりをしていた。
 フロントのバイトは時給で八百五十円。午後七時から十一時までの四時間勤務だ。他にもバイトをしている学生がいるから毎日シフトに入るわけにもいかない。上田の思ったようには稼げてはいなかった。
 半年前から社会人の女性と付き合っており、どこに行くにも何かとお金が必要。彼女の誕生日も近づいてきていたときで、上田はブランドもののバックをサプライズプレゼントするつもりでいたから、もう少し稼ぎたい。
 ホテルの社長から深夜のシフトに入ることを提案されたのはそんな矢先だった。渡りに船。深夜十一時から朝の七時までのフロント業務をいつものシフトと合わせると十二時間ビッシリの労働になる。一日で一万円近くは稼ぐことができるのだ。学生の本分である大学授業のことも鑑みて、週に一回、上田は日曜の夜だけは深夜管理も任されることとなった。
 一緒にフロントで働く正社員は午後十一時になると仮眠をとる。本当はフロント隣の仮眠室でとらなければならない規定になっていたが、それをしている社員は誰もいなかった。皆、空いている客室を社長に無断で活用していた。お陰で上田は監視の目を気にすることも無く、自由気ままに時間を過ごすことができた。
 
 十二時間労働といえば大変に聞こえるかもしれないが、これほど楽な仕事は無いと上田は思っている。
 日曜の夜はビジネス客などほとんどいないのだ。八割以上の部屋が空席。フロントの呼び鈴が鳴ることも少ない。その間何をしているのかというと、裏の控室でタバコをふかし、テレビを見ているだけ。時には大学のレポートをひたすら取り組んだりもした。朝の六時頃になると新聞配達が来る。五社の新聞を読んで持て余した時間を費やしていた。
 だんだんと深夜の業務に慣れてくるにつれ、暇がどうしようもなく耐えられなくなってきた。
 その対策としてゲーム機を持っていくようになった。堂々と控室のテレビに繋いで朝までやる。時々呼び鈴が鳴ればフロントに出向く。これで給料をもらっていいのか、というほど楽で気ままな仕事だった。時には友人も誘った。控室のソファーに座り、どうでもいい話を朝までする。友人が来ないときは控室に備えついている電話で長電話をする。故郷の鳥取の知り合いや家族ともよく電話をしていた。
 
 要するに寝なければいいのだ。これが上田の行き着いた結論だった。

 仕事が終わればその足で大学に向かった。バスで二十分。バスの中と講義中が睡眠時間となった。若い身体でもやはり毎週の徹夜は疲れた。
 
 そして「あの日」、九月二十七日(日)から九月二十八日(月)までの十二時間バイトの日、上田は調子に乗って思い切ったことを計画し、実行に移した。
 
 合コンで知り合った女を連れ込んだのである。歳はひとつ下の宝石学校の生徒で、福岡から来た村上京子という女性だった。ややパーマのかかった黒髪、くっきりとした瞳は芯の強さを物語っている。骨太の感はあるし、肉感もあるが、決して太っているわけではない。二対二でのドライブで静岡まで行き、意気投合した。二人だけで会うのはこれが初めてである。
 上田には社会人の恋人がいる。無邪気なお嬢様タイプだが気は強く、それでいて憎めない女性だった。彼女に特に不満があるわけではない。むしろ満足していた。別の女性と仲良くなるのはまた別問題である。
 上田が初めて付き合った女性には彼氏がいた。カラオケボックスの出入り口でナンパして知り合い、その後、意気投合して二人で東京まで旅行に行ったりした。ワンボックスカーでみんなで花火を観に行ったとき、一番後ろの後部座席で初めてキスをした。嫌がる素振があったら止めようと思っていたが、意外にも彼女も乗り気だった。初めて身体を合わせたのも彼女だ。実は三年付き合っている彼氏がいることを知り愕然としたが、彼女は上田と会うことを止めようはしなかった。何度も会ううちに上田が焦れた。彼氏と別れて正式に自分と付き合ってほしいと頼んだ。彼女の返答はノー。三年付き合うともう空気みたいな存在で別れられないと意味の分からない断られ方をした。
 
 以来、上田の恋愛観はズレている。
 最初の恋愛が基準となっているのだ。付き合っていている人がいても、他の異性と恋仲になることに対し違和感がまるでない。と、いうよりもそれが彼にとっての恋愛そのものであった。
 大学のゼミの同僚ともそういった関係になったことがある。後輩にも何人かいる。遊びではない。一つ一つが彼にとっては本気の恋愛だった。そのすべての相手に、上田には年上の彼女がいることが知れていたし、女性のほうにも彼氏がいることが多い。
 もちろんそれを大っぴらにするような野暮なことはしなかった。社会人の彼女にも絶対に知られないような注意はしている。最低限のエチケットは守ってきた。
 
 「あの日」深夜0時を回った頃、約束通りに村上は来た。乗ってきた銀色の原付バイクをホテルの駐車場に止め、上田の案内のもと裏口から入る。控室のひとつしかないソファーに座った。上田は用意しておいた紅茶のペットボトルを差し出す。
「ありがとう。」
静岡にドライブに行ったとき彼女が好きだと言っていたものだった。村上はうれしそうにフタを開け、柔らかそうな唇で少しだけ口にした。
「ほんとにフロントで働いてんだね。」
村上は眩しそうに上田を見上げた。ドライブしたときと違い、上田は背広姿だ。ネクタイもしっかり締めている。そのギャップに村上はドキリとした。

 二時間ほど話をした。何を言っても上田は優しく頷き、話を受け止めてくれた。身体が細い点は村上の好みではなかったが、童顔でそれでいて時折見せる真剣な表情はカッコいい。実際、ドライブで隣になったときから惹かれるものがあった。誘われて喜んで来たのもまんざらではなかったからだ。彼女自身セックスフレンドはいたが、特定の彼氏はいなかった。
 上田がゆっくりと口づけをしてきた。焦らして、焦らしての甘いキス。悪くなかった。ゆっくりと上田の手が村上の身体に触れてくる。強引な感じは一切ない。むしろこちらからもっと積極的に攻めたい気持ちになった。ようやく肌に上田の指が触れる。身体が熱くなる。村上のほうから上田の身体をまさぐるようになった。お互いの荒い呼吸が大きくなっていく。まさか、ここで最後までいくことはないだろう。村上はそう思っていたが、反面その予想を裏切ってくれることも願っていた。照明に村上首筋に浮かんだ汗が光る。
 上田は思ったより大胆だった。いつ宿泊客がフロントに来るかわからない。奥の控室だから何をやっているのかは気づかれないだろうが、一体どんな表情で客に対するのだろう。発情した二人の声がフロントまで届いている可能性だってあるのだ。そんな危険を危惧している雰囲気はまるでない。どんどん村上の衣服を脱がし、熱い吐息を肌に押し当ててくる。
 村上も完全にその気になっていた。自分の芯が濡れているのがわかった。意識してやっているのか、一番感じる部分に直接触れてこず、遠回し遠回しに誘ってくるのも燃えた。
 やがて二人はひとつになった。
 朝刊がフロントに届くまでに、都合三度、上田は果てた。村上も余韻に浸り、ソファーにぐたりとなっている。こんな恋愛もたまにはいいかもしれない、村上はそんな気持ちのまま眠りについていた。
 
 異変が起きたのはその直後だった。
 
 掃除のおばさんが、フロント正面にあるレストランからいつものように拭き掃除を始めたときのことだった。
 レストランの奥でガタリと音がする。おばさんは動じない。冬になると駅前のホームレスが暖をとりに勝手にホテルに潜り込み、レストランの奥で寝ていることがよくあったからだ。不審者を起こして外に出すことは慣れっこではある。

 薄暗い中をゆっくりと近づいていく。

 人の気配があった。

 何度か見たホームレスの老人だ。危害を加えてくることは絶対に無い。しかし、昨晩は残暑が残っていて寒くなどなかった。むしろ外の方が寝やすいのではと感じたほど暑かった。
 
 うめき声がした。具合が悪いのかもしれない。

 「どしたん?どこか悪いんか?」

 おばさんが手を老人の背中に差し伸べる。老人はすっと振り向き、暗闇の中で目が合う。大きく口を開いて、ダッと、おばさんの口に食らいついた。凍り付いたようにおばさんの目は一点を見つめたまま、自分に何が起きたのかよく把握できないようである。悲鳴のようなものが口づけをし合うように重なった二人の口元から漏れる。おばさんの腕が反射的に上がり、近くにあったテーブルの上の花瓶を倒した。
 
 ガッシャーン!
 
 フロント奥の控室でまどろんでいた上田と村上が驚いて目を覚ました。
 
 これは罪悪感を感じない上田に対する「罰」だったのかもしれない。



 「あの日」九月二十八日(月)早朝、ビジネスホテルのフロント業務時間に上田和也は知り合ったばかりの村上京子を控室に連れ込んでいた。
 
 本能の赴くままに愛し合った二人は、ソファーの上で抱き合いながらまどろんでいた。
 不意に、フロントの方で音がした。何かが割れる音。上田は飛び上がるように起き上がり、急いでフロントへ向かう。同時に正面玄関の自動ドアが開き、宿泊客が戻ってきた。  
 五年前からずっと五一三号室に泊まっている女性客である。
 マンション代わりに使用しているのだ。正社員からは隣の風俗店で働いているのだと聞いたことがあった。三十代半ばぐらいだろうか、いつもむせ返るほどの香水を焚いている。毎日のようにフロントへ高級そうな洋服をクリーニングに出してほしいと持ってきた。袋を手にするとさらに強い香水の香りがして胸が悪くなった。
 正面玄関とフロントの間は十メートルぐらいだろうか、その間に二十席ほどのレストランがある。ブラインドはすべて閉め切ってあって室内は薄暗い。その女性がレストラン前を通り過ぎ、フロント目前に迫ったとき、背後から誰かがその背に乗りかかった。女性はその重みでガクリと膝を落とす。
 この女性がらみのトラブルは何度か目撃したことがあった。四十歳ぐらいの男性が何度も部屋を尋ねに訪れたり、その奥さんだと思われる女性がフロントに泣きながら怒鳴り込んできたり、その女性に殴られたのだろうか頬を真っ赤にしながら帰宅してきたこともあった。
 上田の頭は寝ぼけている。この類のトラブルには係わらないようにしようとぼんやり思ったぐらいだ。君主危うきに近寄らず。

 「ぎゃああー!!!」

 目の前で、信じられないぐらいの悲鳴を聞いて我に返った。

 イサムノグチ作の芸術的な照明が照らし出した光景は、目を疑うものであった。

 老人が、女性の背に乗りかかり、その首筋に噛みついている。水鉄砲のように勢いよく血が噴き出す。照明が揺れた。女性は悲鳴をあげながら、信じられないといった表情で上田を見つめていた。
 その声を聞いて控室から村上もフロントに出てきた。熱が冷め切らないのか、まだうなじの辺りがピンクに染まっていた。

 「なにこれ・・・」
眼前に広がる異常な光景に村上は絶句して立ち尽くした。上田は震える手で、当番の社員が仮眠をとっている三一四号室の内線を鳴らす。その間、一歩も動けない。声も発することができなかった。

 「・・・もしもし、どうしたの上田くん。」
「若尾さんですか。大変です。あ、あの、お客さんにおじいさんが襲いかかってます。早く降りて来てもらっていいですか・・・」
「え?おじいさんが何しに来たって?」
「五一三号室のお客さんに噛みついているんです。いいから早く降りてきてください。」
「ハア?・・・って、今何時?」
「いいから早く!!」
日頃からマイペースな社員だった。イライラしながら受話器をおいた。

 老人はずっと女性の首に顔を埋めたまま、女性はついに前のめりに倒れた。

 「ちょ、ちょっと京子ちゃん。」

 村上が一端控室に戻り、ぐるりと一周してフロント前に来た。明らかに女性を救出しようとしている。近寄るが、周囲に飛び散った血の量に圧倒されて触れることができない。
「危ないから、近寄らないほうがいいよ。いま、社員の人が来るから。」
そう言って上田はフロントから出ようとはしない。足がすくんで出られないのだ。
「そんなことを言ってたら、このひと助からないでしょ!早く救急車呼んで!」
「そ、そうか」
村上に促され、上田は電話をとった。何度ダイヤルしても繋がらない。
「なんだこりゃ。警察にも繋がらない。駄目だ京子ちゃん、電話が使えない。」
上田のパニックになった声など村上の耳には届いてはいない。

 村上は意を決して老人の髪に手をやった。凄まじい異臭が鼻をつく。
「いい加減に離しなさいよ!この変態野郎!」
怒号とともに渾身の力を込めて引き離そうとしたが、まるで吸盤のように女性に引っ付いていた。
「痛い!」
老人の爪が、村上の腕に食い込んだ。村上の白い肌に血が流れる。

 「京子ちゃん!」

 上田がフロントを乗り越えて、老人へ肩から突進すると、老人は吹っ飛んで垂れ下がった照明に激突した。手が離れた村上は倒れ込んで腕の傷口を押さえた。
 
 エレベーターの開く音。
 ようやく社員の若尾徹が一階に降りてきたのだ。首を回し、あくびをしながら向かってきた。

 「どうしたの、え?ちょっと、ちょっと大丈夫ですか!?お客さん。」

 女性が二人、一人は首から大量の血を流しながら倒れ、もう一人も腕から血を流しながらひざまずいている。端には老人が呻きながら転がっており、バイトの上田が蒼白な顔色で立ち尽くしていた。辺りは赤いペンキを巻き散らかしたような有様。
 驚きながらも若尾は倒れている女性に近寄った。
 上田は息を切らしながら村上のもとに向かい、肩を抱く。村上は恐怖と驚きで涙が止まらない。

 「上田くん、救急車、救急車呼んで!」
「それが何度やっても繋がらないんですよ。」
「繋がらない?とにかく何度もかけてみて。」
そう言われて上田は村上を抱えるようにしてフロントの控室へ戻った。控室には救急箱がある。それで村上の傷は処置できるはずである。
「上田くん!タオル!タオルとって!」
救急箱を探す上田に、向こうから催促する若尾の声。上田は舌打ちしてそこにあったタオルを手にフロントへ。

 「若尾さん、救急箱ってどこにしまってあったんで、し、た、か・・・」

 さっきまで女性を介抱しようとしていた若尾の姿がない。

 いや、厳密にはあった。

 床に倒れていたのだ。

 そこには元気を取り戻した老人の姿があった。若尾の頭に噛り付いている。瀕死の重傷だったはずの女性もなぜか若尾の手に噛みついていた。そして掃除のおばさん。口の周りの肉がごっそり剥がされている状態で若尾の顔面に食らいついていた。

 若尾は上田に何かを言ってきた。

 声にならない声。

 口を開いた瞬間におばさんがその口の中に噛みついて舌をもぎ取った。手の平に噛みついた女性はそこから指を噛み切って、ボリボリと食べ始めている。三人が三人とも歓喜の声をあげていた。
 
 上田は後ずさりして控室へと戻る。村上は不安そうな表情で、
「どうしたの?あっちでまた何かあったの?」
「逃げよう。ここにいたら危ない。」
そう答えて、村上の手をとった。控室を飛び出し、裏口から外へ出る。
 
 外はすっかり朝だ。快晴の空が一面広がっていた。しかし、地上の光景はいつもと変わっている。けたたましいサイレンの音があらゆる方向から聞こえてきた。走り回る人たち。悲鳴。車の衝突音。唸り声と歓喜の叫び声。深刻な状況になっている。
 
 「やつら」がいる。
 それもかなりの数だ。
 
 上田はどうすべきか悩んだ。動きがとれない。
「和也くん。」
「なに?傷が痛む?」
「ウウン。それよりさっきはありがとう。助けに来てくれて。」
村上は傷口の痛みを堪えながら笑顔を見せた。

 彼女もまた上田に恋人がいることはわかっている。別れる気が無いことも話をしていてよくわかった。それでも関係をもった。接していて上田の事が好きになった。身体を合わせてなお好きになった。

 「先に立ち向かったのは京子ちゃんだからね。勇気あるよ。」
上田は村上のその笑顔を見ていて切なくなった。自分の身体が二つあれば、きっとこ子のことを大事にして付き合っていくのに、とも思った。
 
 左手の路地で誰かが襲われている。

 正面から走ってきた青年が行き過ぎた後、左右からタックルされて地面に叩きつけられた。

 立ち止まっている訳にもいかない。
 
 二人はとりあえず近くのネットカフェに逃げ込んだ。
 
 表の騒ぎは中にも届いている。店内は騒然となっていた。

 
 老人の爪が食い込んだ村上の傷口は、美しい緑色に腫れ上がってきていた。
 

第三話 群馬県高崎市 大学生 後編

第三話 群馬県高崎市 大学生 後編


 大学二年生の上田和也が、同じく学生の村上京子と高崎駅西口のネットカフェに逃げ込んでから七日が過ぎていた。
 
 当時店内には店員や上田、村上を合わせて十三名いたが、現在は八名まで減少している。
 外の様子を見に行って戻ってきた者はいない。
 外から訪れる人も誰もいなかった。
 ドアには鍵をかけ、すべての窓のカーテンを下ろして完全に外との交流を断っている。
 居住スペースは余裕があったし、食料も豊富。店内に隠れ住む者同士での諍いは今のところ無い。
 
 インターネットで外部の情報を得られることも大きなメリットだった。あのままホテルの一階にいたらと思うと、ここに逃げ込むことができたことは不幸中の幸いである。
 
 気がかりなのは村上の腕の傷だけだった。
 救急箱が店内にあり、看護学校に通っていたことのある者に応急処置をしてもらって一安心していたのだが、最近になって状態が変わってきている。
 まず、一日のなかでほとんど食べ物を口にしなくなった。
 食べてももどす。身体が受け付けない。
 飲料水はわずかに口にするものの明らかに日増しにやせ細っていた。立ち上がることも少なくなり、リクライニングシートで横になって眠っていることが多い。
 上田はこのまま村上が死んでしまうのではないかと心配で仕方がない。医者に診せようにも外には出られなかった。
 
 時折、カーテンを少しだけ開けて外の様子を窺ってみる。
 走る車の姿はまるで無く、代わりに歩道、車道問わずに歩く人の群れ。うめき声を漏らしながら、一定の区間をそれぞれぐるぐると彷徨っていた。健全な人間では無い。上田にはそれがホテルのフロントで見たあのおぞましい感染者なのだということがわかっている。
 生きた人間を見つけて走り出す姿も何度も目撃している。恐ろしいほどの全力疾走だった。上田も足には自信があったが、この集団相手ではとても逃げきれないだろう。
 「やつら」が鎮圧されない限り、ここを出ることはできないのである。
 ネットでは連日のように「国防軍」の活躍が流れていた。最新鋭の装備でやつらを駆逐していっているそうである。だが、進軍はこの高崎市までには至っていない。いずれはこの街にも平和が訪れるであろうが、それまで村上の体力が持つ保証は無かった。
 
 「和也くん、鳥取の話をしてよ。」
一日の内、数時間は村上は目を開けて上田と話をしたがった。そんなとき上田は必ず村上の手を握り、故郷の話をしてあげていた。
「行ってみたいな。」
どんな話をしても必ず村上はそう漏らした。
「落ち着いたら一緒に行こう。」
元気づけようと上田はそう答えてきた。
「彼女には電話つながったの?」
そう問う村上の笑顔は変わらない。その話だけが上田の心を鋭く揺れ動かす。
「きっと心配しているよ彼女。」
「ああ。大丈夫だよ。あっちは家族と一緒にいて安全らしいから。」
「彼女も和也くんにきっと会いたいだろうね。」
率直な村上の感想なのだろう。悪意は感じられない。それが余計に切なかった。
「さあ寝ようか。そばにいるから。」
「ありがとう、和也くん。あの日、和也くんに会いに来ていて良かった。」
そう言いながら村上は静かに眠りについた。
 
 十日を過ぎた頃から村上は会話も満足に出来なくなった。
 傷口は治りかけていたが、全身に緑の斑点が浮かび上がってそれが大きくなってきた。肌が乾燥しきってボロボロになっていた。
そして悪臭。
 まるで腐った生ごみのような臭いが強くなってくる。
 上田は毎日、何回もタオルを水に濡らして村上の身体を洗った。ホテルのフロントで交わってから幾日しか経っていないのに、まるで別人のような肌。タオルで擦り過ぎると血が滲んでくる。上田は泣きながら村上の腹部の肌に額をつけた。
 代われるものなら代わってあげたい。
 
 店内に住む人たちから苦情がくるようになった。
 店内に立ち籠る異臭がどうしようもできない。空調のための換気扇は一日中回してあったが、あまり効果は無かった。窓を開けることなどできやしない。我慢するより仕方が無いのである。
 
 やがて、この店を出るように他の住人たちが迫ってきた。上田は土下座をして頼みこみ、その時はどうにかなったが、どんどん臭いは強くなる。
 
 十五日目、彼らの我慢の限界を超えた。
 食料の配給を止められ、上田と村上は二択を迫られることになった。
 この店を追い出されるか、トイレの一室に移り住むかである。
 村上を追い出すのであれば、上田はここにいてもいいとは言ってもらった。その提案に村上は笑顔で快諾した。彼女はもはや死期を悟っていたからだ。好きな人の負担にはなりたくなかったし、自分から異臭を発してその人を苦しめていることも我慢できない。悩むことなど何も無い。話せることならむしろそうしてほしいとお願いしたいぐらいだ。
 しかし、上田は最後まで抵抗した。
 国防軍さえ来てくれれば解放される。
 それまでの辛抱なのである。それまでは泥をすすっても生き延びる覚悟だ。
 言葉を口に出来なくなった村上は涙を流しながら首を振って拒否したが、上田の決意は変わらない。布団をトイレの一室に運び、便器の横に敷いた。そして、村上を抱きかかえながらそこに連れていく。
 二畳も無いスペース。
 上田までがそこで寝る必要などないのだが、ピタリと寄り添って二人は寝た。
 外で「やつら」に囲まれて寝るよりかははるかにましなのだ。人間としての尊厳を踏みにじられる行為であっても今は耐えるしかない。生きていれば幸せな日々は取り戻せる。
 
 インターネット上では、国防軍のニュースが次第に流れなくなった。
 症状に関する憶測が飛び交い、生きている者たちの絶望の声ばかりがアップされる。
 もしかしたら世界はこのままなのかもしれない。この状況下で人間は生き続けていかなければならないのかもしれない。それでは、村上はどうなるのか。このまま腐っていくように寂しく死んでいくしか無いのか。
 怒りと絶望が上田の心を占めるようになっていった。
 寝るときは必ず村上のそばに寄り添った。呼吸が出来ないほどの異臭。村上にも以前のような笑顔はない。殺してくれと言わんばかりの悲しみに満ちた表情をしていた。上田は背中から村上を抱きしめて眠る。肌からは何かの液体が絶えず流れ出ていた。
 
 十八日目、村上の目から光が消えた。
 死んではいない。生きている。
 その証拠に声を発している。うめき声、唸り声に近いかもしれない。外の「やつら」と同じもの。身体を動かそうとする様子も見られる。ただ、上田が傍に寄ると落ち着いて静かになった。手を握ると安心して眠りにつく。
 
 二十日目、立ち歩くようになる。
 もう十日間は食べ物も水も口にしていないのに体力が回復してきているのだろうか。
 五日間食べ物を口にしていない上田は、空腹と疲れで意識が朦朧としている。トイレ内でぐったりしていることが多くなった。
 狭いトイレ内を村上がうろつく。しかし上田を踏むことは無い。
 
 二十二日目、原因はわからないがネットカフェが「やつら」に占拠された。
 もはや店内に生きている人間はいない。彷徨う足音が至る所から聞こえてくる。そんな声に反応したのか村上はトイレのドアの前に立ち尽くして動かない。
 上田がまどろみながらも村上の手をとる。
 そのまま布団に引き寄せた。
 目は開けない。身体の感触だけが伝わってくる。頭をなぜた。低い唸り声が聞こえてくる。上田はふーっとひとつ大きな呼吸をした。気のせいだろうか、臭気に慣れると随分と空気が美味しく感じる。森林浴をしているような錯覚。

 唸り声が少しずつ大きくなってきた。

 上田は何かやり残していることがあるような気持ちがしている。何だったのだろうか・・・。
 思考回路は止まったままだ。

 村上が目を見開いた。口元から白い涎がこぼれて、上田の服にべっとり付いた。

 上田は終わりを実感した。しかし、この心残りは何なのか・・・。

 村上が大きく口を開く。

 上田の首筋に食らいつく。

 そうか・・・。ずっと我慢していて言えなかったことがあった。言っても信じてもらえないと諦めていた言葉。

 温かな血が流れ落ちていく感触。

 上田はそれでも村上を抱いたまま離さない。


 「・・・京子。キミを愛してる・・・」


 上田が最後の力を振り絞り、ライターの火をつけた。布団には十分に油が染み渡っている。随分前に準備したことだ。火はトイレ内に一気に燃え広がった。

第四話 栃木県日光市 中学生 前編

第四話 栃木県日光市 中学生 前編

 山崎裕香は東京都在住の中学校二年生である。

 ショートカットなのは部活のためだ。女子バレーボール部に所属し、一年生からレギュラーを任されていた。今年の中体連では彼女の躍進のお陰で全国大会まで進み、初の準優勝を掴みとった。
 活躍の場は運動だけではない。
 家庭の方針で小さな頃から文武両道に励み、勉強でも学年一位を争うほどである。
 特別な存在として周りから奇異の目を向けられることもしばしばであったが、嫉妬をかうことはあまりない。
 理由は、彼女の笑顔と性格にある。
 他人に対する時はいつも満面の笑顔だったし、競争に対しても、自分の力を高めることに懸命で、仲間と一緒になって目標に向かって切磋琢磨することに喜びを感じているような子だった。
 
 「あの日」九月二十八日(月)は、学年全員参加による宿泊研修初日であった。
 東京をバスで早朝に出発し、午前九時には栃木県日光市に到着する予定である。

 「もう!大樹くんからきっとLINE届いている頃だよ。あー、なんでスマフォ没収されなきゃなんないんだろー」
裕香の隣に座っている藤野由比がそうぼやきながらため息をついた。
 裕香とは対称的に腰まであるストレートの黒髪。
 部活や勉強ではあまり目立つことは無かったが、明るい性格の子で女の子たちの中ではムードメーカー的な存在だ。だから男女問わずに人気がある。裕香とは互いに気が合って、一年生の頃からの親友同士の間柄だった。
 「大樹くんも宿研に来てるんだからLINEは無理じゃない?」
裕香が優しく微笑みながらそう答える。
 裕香も由比もA組。大樹はD組である。大樹の乗るバスはかなり後ろを走っている。
「大樹くんが素直にスマフォ没収されるわけないじゃん裕香。」
「え?だって全員の携帯電話を担任の先生が集めてカバンに入れてるはずでしょ。」
「フェイクよ、フェイク。二台持ってて、必要ない一台を預けてるのよ。結構いるみたいよーそういうことしている人。」
お嬢様は何にも知らないのね、と言わんばかりの表情で由比は裕香を見た。
 裕香はあきれ顔で首を振った。そうまでして携帯電話を持っていたい気持ちがわからない。今日は東京を出て、みんなでゆっくり楽しめる日なのだ。せっかくの旅行で何が楽しくて携帯電話を相手にしていなければならないのか。
 「習慣よ。習慣。」
当然だと由比は言い返してくる。
 確かに裕香も携帯電話は必需品だと思っている。毎日LINEはしている。その一方でこんな事も考えている。一日二十四時間のうちトータル四時間ほどLINEやゲームなどに時間を費やしていたら、二十四年間の人生のなかで四年間はフルに携帯電話をいじっていたという割合になる。
 とても有意義な過ごし方とは思えない。
 やるべきこと、やりたいことは他に山ほどあった。だから裕香は携帯電話を使用することを必要最低限と決めていた。
 彼氏が出来たばかりの由比はそうはいかないようではあったが。
 「次の休憩場所に着いたら、こっそりバスの荷物入れのところ探しにいこうかな。」
「この下のこと?運転手しか開けられないでしょ。そんなことより直接会いに行けば早い話じゃないの?」
今度は由比があきれ顔で首を振る。
「あのね、そんな大胆なことできるわけないでしょうが。だいたい大樹くんも照れちゃってみんなの前で会ってくれないよ。」
「あれー?だってこの前、大樹くんから愛してるって言われたんじゃなかったっけ?」
「LINEでね。面と向かって言うわけないでしょ、そんな恥ずかしいこと。」
 
 そうこうしている間に午前八時を回った。
 バスは軽快に東北自動車道を走り、日光市に近づきつつある。
 「えー、次のサービスエリアで停まる予定でしたが、予定を変更して先に進みます。」
A組の担任である佐々木先生が先頭に立ち、全員にそう告げた。
 えー!という悲鳴がバスの中に響き渡る。
 時間は予定通りのはず。みんな一応に納得がいかない表情だ。
 「すまんな。とりあえず座ってろ。」
佐々木先生はいつも生徒の話に耳を傾けて、その意見を否定するようなことは言ったことがない。信頼できる数少ない先生のひとりだ。日頃から頭ごなしに命令するような先生ではないから、説明をせず一方的な今回の態度に対し、裕香と由比は顔を見合わせて首をかしげた。
 二人はバスの中間の位置で座っていたから、先生の表情までしっかりとは見れなかったが、雰囲気がいつもと違う。五十歳近くのベテランで、失敗したり、慌てたりする姿を生徒にほとんど見せたことがなかったが、今日はなにか慌ただしい。ひっきりなしに誰かと電話をしているようだった。運転手とも盛んに話をしている。
 「おい、なんかやばいことが起こっているみたいだぞ。」
後ろの席から男子の声。
 野球部の住吉太一だ。
 周囲の男子も集まっている。隠し持っていた携帯電話を覗いている様子だった。
 由比は遠慮なく話しかける。
「住吉、何?やばいことって。」
坊主頭の住吉が頬に沢山あるニキビを赤らめながら、
「何か暴動が起こってるらしい。」
「暴動?どこの国の話?」
ここで住吉が一呼吸おき、じっと由比の顔を見つめた。いつもにない真剣な表情。
「日本だよ。」
 その言葉を聞いて裕香も身を乗り出して後ろを振り返った。
 住吉が途端にもじもじし始める。
「住吉くん、日本のどこで暴動が起きているの?」
「住吉、照れてないでさっさと教えろ!」
由比がイライラを募らせながらそう言った。住吉は慌てて、
「日本中らしいよ。ネットでこの話が炎上してる。まあ、すぐに収まるって書いてあるけど。」
「はあ?そんな話信じてるの?なんだよそれ。もういいよ裕香、前向こう。車酔いしちゃうから。」
「う、うん。」
 暴動?
 日本で暴動など、生まれてこのかた聞いたことがない。この話が本当だとすると、誰が何のために起こした暴動なのだろうか。
 「あれじゃない、消費税値上げでみんなキレまくってるんだろ。きっと。」
 「いや、生活保護費の削減でしょ、やっぱ。」
 「十五歳で喫煙飲酒OKにしてくれないかなー。」
後ろでは男子の談合がああでもないとこうでもないと盛り上がっていた。
 暴動のニュースはこのバスのスケジュール変更と何か繋がりがあるのだろうか。
 「とりあえず、一気に東武ワールドスクエアまで行くぞ。トイレはバスの後ろのを使用するように。」
また佐々木先生の声。
 口調に余裕が無い。
 明らかに何かあったのだ。
 由比が不安げに窓から後方のバスを見る。
 丁度緩やかなカーブに差し掛かったところで、三台後ろのバスが見えた。大樹が乗っているバス。この子は本当に大樹くんが好きなんだと、裕香はしばらく由比を見守っていた。
 
 間もなく目的地に到着するといった頃に、前方から何人かの悲鳴があがった。
 みんな何が起きたのかと席を立って前方に注目する。別に誰かに何かがあったようには見えない。
 原因不明。
 錯綜した情報が飛び交う。
 「反対側の車線の方で人が轢かれたらしいぞ。」
 「マジで!?見てえ!!」
 興奮気味の男子の声が聞こえてくる。
 裕香は窓の外を見た。
 浅間山、だったろうか。のどかな風景。
 反対車線から来る車も順調に流れている。と思っていたら、突如、炎上している車が目に留まった。事故か・・・。
 「おい、あそこでも誰か倒れてるぞ・・・。」
 さらに前方にもガードレールに衝突した車、血だらけになりながらも助けを呼んでいる姿も見えた。高速道路の真ん中で取っ組み合いのケンカをしている人たちもいた。
 玉突き事故が原因なのだろうか。少なからず車内に動揺した空気が流れる。
 「救急車に電話しておいたほうがいいんじゃねえの。」
誰かが口にした。
 携帯電話を隠し持っている生徒は一人、二人ではなさそうだ。一斉に電話をかけ始めた。
「かかんねえぞ。」
「こっちも駄目だ。混み合ってるってよ。」
 同じような声がいろいろな方向から聞こえてきた。おそらく佐々木先生の耳にも届いているだろうが、まったくの不問。
 「みんなよく聞けよ。もうすぐ目的地に着く。着いたらすぐに降りて、屋内に入れ。そこで点呼をとるからな。勝手に動き回るな。」
佐々木先生の厳しい言葉にみんなが小さな声で返事をした。車外の様子が気になってそれどころではないのだ。

 車道を歩く人の姿が見えた。全速力で走っている人もいる。

 目の前でそんな一人がトラックに轢かれた・・・。

 あまりの驚きにみんな唾を飲み込んで沈黙する。

 こうして裕香たちの命をかけたサバイバルが幕を開いた。


 山崎裕香ら中学二年生の一行は宿泊研修のため栃木県日光市を目指していた。
「あの日」九月二十八日(月)早朝に東京都を出発したバスは、午前九時には目的地の東武ワールドスクエアに到着する予定であった。
 ここには世界中の文化遺産がある。パルテノン神殿、クフ王のピラミッド、アンコールワット、アメリカ合衆国の自由の女神から日本の法隆寺まで五十近くの世界遺跡が一度に見ることができる場所だった。二十五分の一サイズに縮小されたものではあるが、その精巧な作りは実物を彷彿とさせる。ロマンチックな雰囲気で、カップルにも人気がある。
 今回は社会科担当の佐々木先生の強い推しがあり、宿泊先に到着する前にここに寄ることになっていた。
 先生方曰く、「社会見学ではなく、これは世界見学である。」
 しかし状況は一変している。
 この地に生徒たちを連れてくることを楽しみにしていた当の本人、佐々木先生ですら険しい表情でバスの先頭に立ち、運転手と何か言い争っていた。先ほどまでは他のバスに乗り込んだ先生方と連絡を取り合っていた携帯電話も生徒たち同様に使用出来なくなった様子だ。
 
 「キャー!!」
バス内で一斉に悲鳴。
 運転手が急にハンドルをきったため生徒たちの身体が投げ出された。
 裕香も悲鳴を発し前方の席に必死につかまる。
 窓の外を見た。
 車が二台止まっていた。こちらの車線でも事故があったらしい。それを回避するための急ハンドルだったようだ。
 おかしい・・・普通ならば止まるはずなのに。
 「いいから、とにかく止まらず進め!」
佐々木先生の怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら運転手に命令しているらしい。
「いいか、多少荒っぽいことになるからシートベルトを締めて、しっかりつかまっていろよ。何があっても道の途中では止まらん。」
佐々木先生自身もかろうじで立っているような状態で、後ろを振り返りながら裕香たちにそう宣言した。
 生徒たちは唖然として先生と外の景色を見比べる。
 何が起きているのか誰も理解できていない。
 信号でバスが止まった。
 東北自動車道からはすでに下の道に下りていた。佐々木先生もさすがに信号無視までは指示できなかったようである。
 バスが止まったことを確認するとみんなふーっと大きく息を吐いた。
 裕香の隣に座っている藤野由比は蒼い顔をしてうつむいていた。その手を握り励ますと、由比は引きつりながらも笑顔を裕香に向けた。
 「ドン!!」
 窓の向こうで音がして、裕香と由比がビクリと身体を振るわせた。
 「裕香、何?」
窓側の裕香が恐る恐る外を窺う。
 「ドン!!ドン!!」
 誰かがバスの車体を叩いている。
 中年の男の姿。
 その横には奥さんだろうか、小学生らしい子どもも二人。
 男が何かを叫んでいた。
 一瞬だが男の血走った目と合った。
 「早く進め!!」
佐々木先生の声。
 バスが急発進し、また車内には生徒たちの悲鳴があがった。
 その時、裕香は見ていた。
 外にいる家族に襲い掛かる集団を・・・。
 家族を引き倒し、十名以上の男女がそこに覆いかぶさった。あっと言う間の出来事。現実とは思えない光景だった。
 「裕香?」
由比は見ていない。
 裕香は無言で由比の手を握りしめた。何か恐ろしいことが起こっている・・・。
 その後、何度かバスが傾きそうなほどの急ハンドル、急ブレーキ、急発進と荒い運転を続けたが、生徒たちも慣れてきて悲鳴をあげることはなくなっていた。とにかく必死につかまって到着を待っている。車酔いした者が続出し、車内には酸っぱい匂いが充満していた。
  「着いた。」
通路側の由比が前方を確認し声を上げた。
 時刻は午前九時四十五分。
 この状況で目的地に到着したこと自体が奇跡なのだが、この時にはそんなことを誰も知りようはずが無い。実際指揮を執っていた佐々木先生も状況はよく呑み込めていなかったのだ。暴徒の危険性だけを途中で通知されただけだった。
 兎にも角にも目的地に到着し、生徒たちにも一応に安堵の表情が見られた。
 裕香は窓の外の様子を隅々眺める。
 異変を探す。
 開園から四十五分ほど経過しており、駐車場には数台の車が停まっている。
 A組のバスから遅れること五分、B組のバスも到着した。
 外を歩く人影を探す。
 いた・・・。明らかに歩調のおかしい集団がB組のバスに続いている。
 裕香からは死角に入って見えてはいなかったが、この時、メインゲートの方からも集団がバスに近づきつつあった。
 「由比、由比、早く降りよう。」
異変を察して裕香がしきりに由比を促す。
 バスは駐車場に到着し、ドアが開き、佐々木先生が早く降りるように指示していた。が、みな具合が悪そうでなかなか立ち上がれない。無理もない。ありえない運転に付き合わされてきたのだ。
 「私、胸が悪くて、裕香、ちょっと待って。」
由比もそんなひとりだった。裕香はその背中をさすりながら声をかける
「外の空気を吸おうよ。きっと気分も良くなるから。さ、早く。」
言いながらも外の様子が気が気ではない。
「わかった。そうする。」
そう答えると由比も渋々立ち上がり、通路を進んだ。
 席でぐったりしている級友たちはまだ半数はいた。
 なかなか動こうとしない生徒たちに佐々木先生がどやしつけている。
 「裕香と由比か。体調は大丈夫か。よし、入口で待ってろ。」
二人は、わかりましたと返事をしながらバスを降りた。
 「え?何この匂い。」
新鮮な空気が吸えるかと思いきや車内よりも異臭がする。
 由比は途端にその場にもどした。
 同じような光景が駐車場内に広がっている。
 裕香は持っていたペットボトルの水を由比に飲ませ、ハンカチで口を拭いてやった。その間も何かがにじり寄ってくる気配を感じる。
 A組のバスからは、後ろに座っていた住吉太一らが降りてきた。野球部の所属の彼らはこんな状況でも幾分元気そうである。
「なんだよこれ、芥溜(ゴミだ)めの匂いじゃん。」
「うえー、俺も吐きそうだわ。」
「あれー?由比ちゃんどうしたの?まさか吐いちゃった?」
裕香と由比の姿を見るとおかしそうにそうはやし立ててきた。
 由比がジロリと彼らを睨んだ。いつもならば負けずに言い返すのだが、この時は随分と弱っていた。舌打ちをして歩みを進める。
 「おい、見ろよ!なんだこりゃ・・・」
メインゲートに到着したところで、後ろを歩く住吉が喚き始めた。
 裕香と由比も顔を上げて振り返る。

 至る所で具合が悪くうずくまる生徒たちの姿。

 そこに寄り添う警備員や係員の人たち。介抱しているのだろうか。

 誰かが悲鳴をあげた。

 ここら一帯が唸り声に包まれていることに気が付いた。

 みんな襲われていた・・・。

 首に噛みつかれ痙攣している者。

 皮膚を食い破られ悶える者。

 悲鳴に悲鳴が重なる。

 鮮血が中を舞う。警備員や係員、一般市民の口からは滴る血。

 血まみれの制服の残骸があちらこちらに散らばった。

 A組のバスから引きずり出される佐々木先生。そこに数人が群がり食らいつく。そこからあぶれた者は我先にとバスの中に駆けこんでいく。

 バスの中からも悲鳴。

 いくつもの悲鳴と唸り声が折り重なり、裕香らの耳をつんざく。

 裕香たちはあっけにとられて眺めているばかり。誰もその場から動けない。

 C組のバスが到着したかと思うとブレーキも踏まずに裕香たちの近くのゲートに頭から突っ込んだ。凄まじい衝突音。窓が割れて数名の生徒が車外に投げ出される。やつらはあっと言う間にそこに群がった。うめき声を上げながら倒れている者に食らいつく。

 
 「ギャー!!!!」


 その光景を目前にして、由比が絶叫した。みんな我に返り、走り始める。

 「行くよ由比。」
裕香も由比の手をとって、屋内へ走った。


 この時点で半数以上の生徒たちが犠牲になっていた。



 生き残った生徒たちにはさらなる地獄が待っていた。

第四話 栃木県日光市 中学生 後編

第四話 栃木県日光市 中学生 後編

 やつらの襲撃を免れ、九死に一生を得た生徒たちは、こぞってメインゲートから東武ワールドスクエア内へ逃げ込んでいた。
 園内に入った生存者を率いる者は無く、誰ひとり冷静な判断などできない状態のまま、ばらばらに散っていった。
 生存者の大半が山崎裕香、藤野由比、住吉太一ら二年A組のメンバーで、他にもB組のバスから逃げ延びた者が数名。C組に至っては衝突の衝撃で負傷者が多数おり、そのほとんどが逃げる間も無くやつらの餌食となっていた。D組のバスは未だに到着していない。
 裕香と由比は手を取り合って、メインゲート近くのガラス張りのレストランに身を隠していた。
 表からは悲鳴や絶叫が絶えず響いてくる。
 「何なのあれ?噛みついていたよね。どうなってるのここの人たち・・・」
 外の喧騒はどこへやら、レストラン内は静まり返っていた。
 屋内に逃げ込んでも二人の震えは止まらない。裕香も頭が混乱していて、何がどうなっているのか、これからどうすべきなのかまったく頭が回らない状態であった。
 喉の渇きを潤すため、取りあえずカウンター近くの水に手に伸ばす。
「ここの水を飲むなんて、やめておいたほうがいいいよ裕香。ここの人たちが一斉におかしくなるってことは・・・なんかの伝染病なんじゃないかな」
 忠告を受けて裕香の手が停まる。
 確かにこんなことが住民たちの意思で行われているとは到底考えられない。何かの病気が蔓延して暴動が起こっているのならつじつまは合う。感染源は水?いや、空気感染かもしれない。この匂いも関係あるのだろうか。だとすればマスクを持たない自分たちでは免れるすべは無いだろう。
 「カラン!」
 表のドアが開いた。
 二人が身構える。
 玄関口には、肩を震わせ、荒い息を吐いている坊主頭の学生が立っていた。野球部でないことは確かだ。
 服装はアンバランスなセーラ服。
 数ヶ月前、不倫のスクープをされたアイドルが、頭を丸めて謝罪会見を行った。その姿が可愛いということになって、それ以来女の子の間でも坊主頭が流行している。
 だが、A組にはいない。B組には数人いたはずだ。
 「B組の田中萌じゃない」
由比は知っているようだ。裕香にも何度か見かけた記憶があった。体育会系の部活に所属している生徒であれば全員の名前ぐらいはわかる。聞き覚えがないということは、文科系の部活か、帰宅部か。
 「大丈夫?こっちにおいでよ」
裕香が優しく声をかけたが返事はない。こちらをずっと睨みつけたまま立ち尽くしていた。
 と、背後のガラス窓の向こうで走る人の姿が見えた。制服姿の女の子。その後を三人の男が転げるように追っていた。
 田中はその光景を見て、特に何か言い残すわけでもなくドアを開いて外に姿を消した。
 「・・・噂じゃ、かなり変わった子らしいよ」
裕香はその後ろ姿を見送りながら由比の言葉にうなずいた。
 
 店内へ入るドアすべてに鍵をかった。
 トイレ、厨房、従業員控室と隠れるところは幾つもあるが、裕香は店内の片隅の外からは見えにくい場所に陣取り腰を下ろした。もしやつらが突入してきたら反対のドアから逃げられる。部屋に籠ると逃げ場を失う恐れがあった。
 カバンの中からペットボトルの水を取り出し、二人で分けると、つかぬ間の平穏に涙がこぼれた。
 一時間ほど経過すると外を走り過ぎていく人影は見えなくなった。
 みんな園内の奥へと逃げ隠れているのだろう。メインゲートから近すぎるここには誰も近づいてこない。
 「大樹くん、大丈夫かな」
由比が漏らす。
 裕香もD組のバスがどうなったのか気になっていた。はたしてここに到着できたのであろうか。仮にできてもバスの外に出ることは不可能に近いはずだ。
 「そうだ、お店の中の電話を使えば連絡が取れるんじゃない」
裕香の提案に由比が笑顔で答える。
 二人は早速、奥の厨房へと向かい、受話器を取った。東京の家族も気になるが、まずは由比が大樹に電話をかけてみる。
「ダメ・・・混雑していて繋がらないみたい」
 代わって裕香が自宅にかけてみたがこちらも繋がらない。
 警察にも消防にも繋がらなかった。
 携帯電話があればインターネットから情報が引き出せるのだが、二人の携帯電話はバスの荷台の中だ。裕香はバスに取りに行くことも考えたが、あまりに危険すぎる。せめて住吉たちと合流できればとも思うが、彼らがどこへ行ったのか調べる手立てもない。
 時折、ガラスの向こうを彷徨い歩くやつらの姿を目撃したが、このレストランに侵入しようとする素振はまったくなかった。
 やがて日が暮れ、夜となり、真っ暗な中を不安と恐怖に包まれながら、二人は寄り添って眠りについた。
 
 翌日、空腹で目を覚ました二人は厨房を物色することにした。
 ビンジュースが幾つもあり口にする。自然と元気が湧いてくるのがわかった。
 そばやうどんが大量にあったが水を使わなければ調理ができない。仕方なく冷蔵庫にあった豆腐でおなかを満たした。
 「裕香、これからどうする?」
「考えてみたんだけど、やっぱりみんなと連絡を取り合って一致団結する必要があると思う」
「どうやって?外はあの変になった連中がうようよしてるんだよ。電話も繋がらないし」
「でも、どうしてこの建物の中に入ってこようとはしないんだろう」
「わかんないわよ、そんなこと」
由比の昂ぶりを察して裕香は微笑んだ。
「大丈夫。落ち着いて由比。きっと助けは来るから」
「けど・・・住吉が日本中で起こってるって言ってたよね。東京もこんな感じだったらどうする」
「あんまり物事を悪い方に考えるのやめよう。何かいい手段がないか一緒に考えようよ」
その言葉に由比もようやく頷いた。
 由比はどちらかというとマイナス思考だ。大樹に告白するときも上手くいかないことばかり考えていた。背中を強烈に押してあげたのは裕香だった。おかげで交際がスタートし、由比は幸せを掴んだ。それ以来、裕香のアドバイスには素直に従うようになっている。
 異変に気付いたのはその日の昼を過ぎた頃だった。
 外をうろつく人間の中に制服姿の中学生が混じり始めたのだ。
 首筋からは血を流し、顔の皮膚は剥がれ落ちている者が多い。中には手足がもげているのもいた。痛みを堪えている様子も無くただフラフラと彷徨っていた。
「感染したんだ」
由比が力強くそう断言した。
 噛まれると感染するのか・・・。空気感染であればとっくに自分たちも感染しているはずである。噛まれなければ問題ないということなのか。
 「あれ、涼子じゃない。そうでしょ。涼子よ!」
由比が叫んだ。
 店の前を無気力に歩む女の子。黒い長髪、お気に入りで自慢していた茶のブーツ。仲良しだったA組の友人の姿。
「助けに行こう。ここに入れて治療しようよ。ねえ、裕香、あんたさっき言ってたよね。みんなと一致団結してって」
「落ち着いてよ由比。そうは言ったけど・・・」
それはあくまで生きている仲間の話だ。普通に考えてあの傷で立ち歩けるはずがない。
「もういいよ裕香!」
由比が裕香の制止を振り切り、ドアへ向かった。鍵を開け、ドアを開いて涼子に呼びかける。
 涼子は食いちぎられ半分白骨化したような顔を由比に向けた。
「笑った・・・」
裕香は涼子の笑顔をはっきりと見てそう呟いた。涼子の口が大きく開き、頬骨が見える。そこから歓喜の声が上がった。狂ったような声。
「涼子早く!早くこっちへ!」
由比は気づいていないのか、しきりに涼子に手招きしている。
 裕香がスタートをきったのと、涼子がスタートをきったのはほぼ同時だった。互いに全力疾走。裕香の方がドアに近い。気づくと周囲のやつらも一斉に由比の方に駆けはじめていた。
「由比危ない!」
間一髪、裕香が先に由比のもとに着き、力強く室内に引き戻した。
 一瞬の差で涼子は目標を失い、そのままガラスに衝突して破片をまき散らしながら道に転がった。
 由比は声も出せずに茫然とその光景を見ている。
 間髪入れずに他のやつらがガラスを突き破って室内に侵入してきた。
 裕香は由比の手を引き奥へと駆けた。
 厨房には裏口の玄関がある。
 二十人以上が唸り声を発しながらその後を追った。
 おそらく直線であればすぐに追いつかれていたであろう。
 裕香は厨房に置いてあったカバンと袋をひったくるとドアの鍵を開き、外へ出た。慌ててドアを閉める。何かが物凄い勢いでドアにぶつかる衝撃音。
 不幸中の幸いは周辺のやつらがこぞって店内に侵入していたことだろう。
 辺りにはうろつく人の姿はない。
 息を殺しながら二人はモニュメントのある園内中心部へと進んでいった。
 血まみれの道を這うようにして進むと、また小さなレストランを発見した。周辺にはやつらの姿が見える。まだ気づかれていない。エジプトゾーンのピラミッドの物陰に隠れた。
 「裕香、あれ見てよ」
由比が指さす方向には犠牲者の遺体が横たわっていた。女の子。ほぼ裸に近い状態だ。ストッキングだけは履いている。
「理恵、じゃない?」
首に何かで切られたような傷がある。表情はまったくの別人のように見えたが、スタイルや髪型と見ていくにつれ記憶と一致した。確かに小沢理恵だ。学年でも指折りの美人。その面影はまるでない。
 「おい、早く来い!こっちだ」
男子の声、目前の店のドアが開き誰かが手招きしている。
  二人は互いに頷き、一斉に駆けた。
 目を瞑って全力で走る。
 腐った匂いを間近で感じた。
 誰かに触られた感触もあった。
 「よし、入れ!早く!」
ドアの閉まる音。振り向くと由比も無事に室内に入ることができていた。
「向こうで音がしたから見張っていたんだ。よくここまで無事に来られたな」
声の主は住吉だった。他にも野球部が六名いる。
 「ドンドン!!」
ドアに凄まじい勢いでぶつかる音と唸り声。
 「まずいよ、やつらが突入してくる。」
さっき同じ目にあったばかりだ。裕香は住吉にそう告げるが、ここにいるメンバーは誰も驚かない。ニヤニヤ笑っているばかり。
「大丈夫。静かにしていればやつらはそのうちいなくなるさ。」
 店の窓はすべてカーテンが下ろされていて、外から中を垣間見ることはできない状態になっていた。さっきのガラス張りの店と違い頑丈そうである。
 やつらはドアに体当たりをしばらく繰り返していたが、住吉の言う通り、やがてあきらめたのか静かになった。
 裕香はほっとして床に腰を下ろした。
 ふと目をやると女の子の制服が乱暴に投げ捨ててある。下着も落ちていた。制服には名札が・・・。

 小沢理恵・・・。

 首を切られて転がっていた遺体の服がなぜここにあるのだろうか。

 そう、これから先は人間同士の戦いの日々である。


 宿泊研修でこの地を訪れていた中学二年生の山崎裕香と藤野由比は、避難場所を園内の奥に移し、住吉太一を筆頭とする野球部の面々と合流していた。
 四十席ほどの小さな店内はカーテンが下ろされ完全に外部と遮断されている。
 ひとつのテーブルにはペットボトルの飲料水やハンバーガーなどのファーストフードが無造作に積み上げられていた。
 「ここにいれば安心だ。この中で俺たちと一緒にいればやつらに襲われることはない。もし、やつらがここに入って来ても俺たちにはこれがある」
身長が百八十cmほどある坊主頭の住吉が、右手に持った包丁を裕香の目前に翳した。
 他のメンバーも刃物や鉄の棒を持って武装している。みんないつもに無い血走った目をしていた。
 「ここにいろよ、裕香」
住吉が遠慮なく裕香に近づき肩に手を触れた。
 住吉が裕香に好意を持っていたのは周知の事実であったが、休み時間や放課後の部活動にときに目が合うと照れくさそうにしてその場を去るので、まともに会話などしたことが無い。やんちゃなグループのリーダー的存在だったが、裕香はそのシャイな雰囲気に好感を持っていた。
 少なくともこうなる前までは・・・。
 目前にいる住吉はいつもと違う。
 鼻息荒く裕香に迫ってくる。
 「住吉、慣れ慣れしく裕香に触るな。気色悪い!」
由比がそう言うと住吉の手を乱暴に払った。
 日頃の住吉だったら由比の言葉にすごすご引き下がるのだが今日は違う。怒りに満ちた表情で由比に睨み返す。
 裕香は床に落ちていた制服を拾い上げ、住吉に突き付けた。
「これ、理恵のだよね。どうしてここに落ちているの?」
住吉は一瞬まずいという表情をして、後ろの仲間たちを振り返った。他の者たちは一応にニヤニヤし続けている。
「裕香、大丈夫だよ。お前には俺がついているからな。絶対に誰にも手は出させない。約束する」
「どういう意味?あなたたち理恵に何をしたの?」
「何って、ナニだよな」
男たちの誰かがそう言うと、一斉に爆笑が起こった。
 由比が事態を飲み込んで住吉の胸倉を掴んだ
「あんたら理恵をレイプしたんじゃないだろうな!」
住吉は冷たい目で由比を見返す。
 また誰かが言った。
「同意のもとだよ。同意のもと。匿ってほしいからあいつが自分から服脱いだんだよな」
「だったらなんで理恵は首を切られてあんなところに投げ捨てられているのよ!」
 住吉が力任せに由比の腕を振り切り、代わりに右手の包丁を由比の首に突き付けた。
「調子に乗ってんなよ藤野。今の状況がわかってんのか?先公たちはみんな死んだ。外はやつらでひしめき合ってる。一歩間違えりゃ俺たちも速攻であの世行きだ。だからここのルールは俺が決めてるんだ。逆らうんだったらここには置いておけねえ、お前は外だ。あ?どうする藤野?」
由比はそれでも住吉から目をそらさない。
 「まあまあ住吉、熱くなるなよ。由比ちゃんはあっちで俺たちと仲良くやろうぜ。お二人の邪魔するのは野暮だからなー」
そう言って一人由比に近寄ってきた男は工藤だ。陰口を叩くのが好きな男で、女子たちからは距離を置かれている。以前、由比に告白して振られた過去があった。その後、嫌がらせのようなことが二ヶ月ほど続いた。
「キモイんだよ!気安く人の名前を呼ぶな!」
由比が工藤の右頬を平手打ちした。場がシーンと静まり返る。
「このアマ!!!!」
工藤が由比の手を引っ張って引き寄せると、胸元から制服を力任せに破った。髪を掴み、床に押し倒す。
 「何してんのよ!!」
裕香が止めに入るのを住吉が制した。包丁の刃が冷たく裕香の首筋に当たる。
「やるならあっちでやれ。口にタオル詰めるのを忘れるな!騒がれたら理恵のときみたいにやつらが押し寄せてくるぞ」
興奮した工藤は荒々しく頷き、悲鳴を上げる由比を二、三発殴りつけながら奥に引っ張っていった。
「住吉くん止めてよ!私たちクラスメイトでしょ!仲間でしょ!」
「大丈夫だ。裕香は俺が守ってやる。あいつのことは構うな。口うるさいだけの馬鹿女だ」
「何言っているのよ!こんなこと許されるはずないでしょ・・・」
叫び出した裕香の口を住吉の口が塞いだ。

 何が起きたのか裕香は一瞬わからなかった。
 住吉の舌が入ってくる。
 裕香は慌てて口を閉じ、住吉を突き放した。
 初めてのキスの味は血の味がした・・・。

 「ガシャン!!」
 店の奥で窓の割れる音。
 厨房の方だった。
 由比を羽交い絞めにして乱暴しようとしていた男たちの手が止まる。みんなが一斉にそちらの方向に注目した。
 また窓の割れる音。
 「やべえぞ、住吉どうする!」
「五人で行くぞ!2人残れ。こいつらを監視してろ」
それぞれが武器を持ち、奥へと向かう。
 また窓の割れる音。
 裕香は倒れた由比の方に走り寄り声をかける。由比は上半身裸にされた状態で、口にタオルを詰め込まれていた。急いでそれをはずす。口からは血が流れていた。小さな白い胸にも血が滲んでいる。由比は涙を流し裕香に抱き付いてきた。裕香もその頭を大事そうに抱え込んだ。
 「最低だよあいつら。最低だよ・・・。」

 一方、厨房奥に進んだ住吉らは裏手のドア横の窓が割られているのを発見した。床にはガラスの破片とともに石が数個転がっていた。誰かが投げ入れたのに違いない。
「なんだよこりゃ!誰の仕業だよ!!」
石を手に取り、工藤が怒鳴り声を上げる。
 鍵が開けられ、ドアがわずかに開いていることに誰も気が付かなかった。
 「うー・・・うー・・・」
工藤の声につられてやつらが室内に侵入してきた。
 低いうなり声。
 ガラスの割れる音で周辺から五人寄ってきていた。その全員が制服姿。血まみれの顔がニヤリと笑う。
 「ギャー!!」
最初の被害者は工藤だった。耳に噛みつかれ悲鳴を上げながら転げまわる。もう一人が工藤の喉元に食らいつく。ひゅーっという空気の漏れる音が工藤の口から漏れた。
 その場から逃げようとした者が背後から圧し掛かられ倒される。女々しい悲鳴が響き渡った。
 住吉の持っていた包丁が向かってくる相手の顔面を切った。割れた右目が床に落ちる。それでも相手は動じず住吉に襲い掛かった。右腕に噛みつき肉をごっそり剥ぎ取る。住吉の前蹴りが相手の胸に直撃し、肉を頬張りながら後ろに吹っ飛んだ。
 「逃げるぞ!ここはもう駄目だ!!」
そんな住吉の指示など誰も聞いてはいない。それぞれがパニックになりながら格闘していた。
 悲鳴を聞いてさらに周辺からやつらが詰めかけてくる。いつの間にかやつらの数は二十人を突破していた。
 住吉以外の者たちは全員床に押し倒され、生きたまま食らわれている。

 「どうするよ、おい、中に入って来てるんじゃないのか」
裕香たちを見張っている一人が怯えながらもう一人に問いかける。
 住吉という柱が無ければまとまりなどない。どうしていいのかもわからないのだ。
 「お前らなんてやつらに食われて地獄に落ちればいいんだ!」
破り捨てられた制服の替わりに理恵の服を着た由比が高らかに叫ぶ。憎しみに満ちた瞳。
 「に、逃げるか・・・」
「馬鹿、どこに逃げるんだよ」
二人には由比の声など届いてはいない。
 厨房からは男たちの悲鳴と争う物音。
 そこからダッと踏み入ってきたのは住吉だった。腕や肩から大量の血を流している。
 由比を抱きながら座り込む裕香と目があった。獣のような色は消えている。
 何かを裕香に投げた。反射的にそれを受け止める。携帯電話だった。
 顎で逃げろと合図してくる。
 見張りの二人は住吉のその姿を見て喚きながらドアを開いて外に飛び出した。
 「由比、立てる?行こう。」
由比も事態が窮まっていることを敏感に感じ、ヨロヨロと立ち上がった。
 表からも悲鳴が聞こえた。飛び出した二人はあっさりと捕まったのだろう。
 住吉の背後からやつらの姿が見えた。
 住吉は持っていた包丁を床に捨てた。視線はずっと裕香に注がれている。何かをつぶやくように言ったが、裕香には届かない。裕香はそんな視線を振り切り、開かれたドアから外に出る。
 五mほど向こうでは倒された二人にむさぼりつくやつらの姿があった。
 裕香は由比を支えながら、人気の無い方向へと歩みを進めた。
 
 住吉の断末魔が店内から聞こえてきた。

 
 住吉太一らの拠点が急襲され、山崎裕香と藤野由比の二人は心に深い傷を負ったままその場を離れた。

 たった一日で人はこうも変わってしまうものなのだろうか。
 級友を暴行し殺すなど、裕香は未だに住吉らのとった行動が信じられない。
 あれが彼らの本性だったのだろうか。
 今日まで見てきた彼らは、現実社会の規律と秩序によって偽りの仮面をつけさせられていただけにすぎなかったのだろうか。仮面をはずせばそこには人間ではなく、獣、いや悪魔がいる。だとすると人類の文明が発展し続けていくにも関わらず、平和な日本であっても毎日のように殺人事件が繰り返されてきたこともうなづける。この世には人間の仮面をかぶった悪魔が混じっているのだから・・・。

 住吉らの拠点の騒ぎがやつらを惹きつけてくれたので当初の移動はスムーズであった。問題は安全地帯の確保である。
 屋内がいい。やつらの侵入を受けていない屋内を迅速に探す必要があった。
 脇道を進む。進むほどにやつらの姿が増えていく。
 物陰に隠れながらの移動になってきた。よほど音をたてない限りは気づかれないということを最初の拠点から住吉の拠点までの移動のときに裕香は学習している。集中していけば大丈夫と自らに言い聞かせてきたが、今回は何か違う。やつらの様子がおかしい。自分たちの存在が察知されている気配があった。
 やつらはある程度進むとターンして戻ってくる傾向がある。しかし、この辺りのやつらはこちらの方向を見て動かなかったり、あるいはいきなりこちらに向かってくるのもいた。  
 姿を見られていないはずなのになぜだろうか。
 慌ててその場を去るものの包囲網が少しずつ狭まりつつあり、裕香は焦燥感に駆られた。遠くに建物が見えるがこの調子だとそこに着く前に発見されそうだ。
 と、仮工事中の建物を発見した。壁もまだ塗られていない平屋だ。ドアもついているし窓もしっかりはめ込まれている。ここに逃げ込む以外に助かる道は無い。
 やつらのひとりが唸り声をあげた。
 気づかれた。走るしかない。ドアへ急ぐ。
 「ダメ!鍵がかかってる!どうしよう裕香」
由比の声を聞きやつらは完全に裕香たちの存在に気が付いた。
 ニヤリと笑い、歓喜の声をあげた。
 周囲のやつらに連鎖していく。
 物凄い速さで一斉にこちらに迫ってきた。
 もう逃げられないと目を瞑って観念したとき、ドアが開き、そこから伸びた手が二人を室内に引きずり込んだ。

 室内は八畳ぐらいほどの広さでイスやテーブルなどの調度品はなにひとつ置かれていない。照明だけが低い天井に備え付けられている。隅にバケツが三つほど置かれていた。
 二人を引き入れてくれたのは坊主頭が印象的なB組の田中萌だった。
 「ありがとう。助けてくれて」
裕香と由比は素直に感謝の言葉を告げた。
 田中は険しい表情を崩さず何も答えようとはしない。ただ、ドアだけを見つめている。やつらは、ドアが壊れるのではないかと心配なほどの体当たりを繰り返していたが、五分もしないうちに静かになった。
 「やつらは人間の声を聞き続けないか、見続けない限りは襲撃の意欲を保っていられないのさ。逆にずっと声を聞き続ければ意欲とともに攻撃力が高まってこんなドア簡単に押し破られる」
まるで独り言のような田中の話し方だった。この両日の中で着替えたのだろう、服装は最初に会った時の制服姿から緑のパーカーとカーキのパンツ姿に変わっていた。
「そ、そうなんだ・・・」
「ラッキーだったねあんたら。あの場所から逃げ延びられて。住吉たちはどうなった?」
「どうして知ってるの?もしかして、あれを助けてくれたのもあなた?」
田中が少し微笑んだ。優しさの伝わってこない自分の内だけで納得したような微笑みだった。
由比がそれを聞いて二、三歩前に出た。お陰で間一髪のところで野獣たちの牙から免れたのだから手をとって感謝したいぐらいだったのだろう。
しかし田中は突き放すように、
「残念だったね、もう少しで男たちに輪してもらえたのに」
由比が棒立ちになり、激しい怒りの表情に変わる。
 裕香が間に入った。
「あなたのお陰で助かったわ。本当に感謝してる。由比もそうでしょ」
「別にあんたらを助けたくてやったわけじゃない。偶然だよ。あれは私の復讐なんだ」
「復讐?あなたもあいつらに何かされたの?」
田中がその問いには答えず隅へ行き座り込んだ。裕香と由比も倣倣(なら)って崩れ落ちるようにその場に座り込む。それを見て田中は言葉を続けた。
「あいつらはクズだよ。殺されて当然のやつらだ。あんたらみたいに日の当たる場所でちやほやされてきた連中にはわかんないだろうね。学校に行ってもひたすらシカトされ、気分転換にイジメられる人間の気持ちなんて」
「あなた、住吉くんたちからイジメを受けていたの?」
「あいつらだけじゃない。中一の頃のクラスメイト、クラス替えしてからのB組の連中。全員にさ。こんなことでもなけりゃ復讐なんてできなかった。私にとってここは天国。私にさんざん嫌がらせをしてきたやつらを苦しませてやることができるからね」
暗い、地の底から響くような田中の声だった。裕香と由比は聞いていて眉をひそめた。
この子はこの状況を楽しんでいるんだ。住吉たちと同じ。この状況を利用している。自己満足のためだけに。
 「まあ、あんたらとは同じクラスになったことないしね。好きなだけここにいればいい」
そう言うと田中はまた立ち上がった。そしてドアに近づいていく。
「次のターゲットはもう決まってる。しばらくは戻ってこないから鍵をかっておいて」
「外に出るの?」
「心配はいらない。私は死人の血を被っているから」
田中が隅のバケツを指さした。よく見ると赤い液体が並々注がれている。
 血、なのか・・・。
 「こんな状況に絶望した私は最後にどうしても赤木ってブスに復讐したくてさ。表で見つけて刺し殺してやったんだ。死んでも何度も何度も刺し続けてやった。そのうちやつらが寄って来てね。私も観念したんだけど、やつらは素通りしていったんだ。その後いろいろ試してみてわかった。やつらは死んだ人間にはまったく興味を示さないってことに。人間の肉を食っているのも相手が生きている間だけ。死んだらポイだよ」
由比が露骨に嫌な顔をしてそっぽを向いた。
そう言えば、首を切られ投げ捨てられていた理恵の死体には他に損傷が無かった。あの時感じた違和感は、噛み千切られたりした跡がまるでなかったことだったのだ。
「私は死人の返り血を全身に浴びてたから助かったのさ。それ以来、自由にここを行き来できるようになった」
完全に順応している。裕香は驚いた。
田中はドアの方だけを見つめながら
「人間は集団になると必ず敵を作る。敵を作って協力し合って団結力を高めていくのさ。そうしなければ人間は互いに協力しあえない存在なんだ。敵なんてなんだっていい。獣でも、他国でも、仲間でも。敵として適したやつを狭い世界の中から見つけるんだ。肌に合わないやつ、人と違ったやつがだいたい的にされる。標的にされた方はいい迷惑だよ。毎日毎日しつこくやられる。排除されるまで続くんだ・・・。想像できるか?そんな地獄の日々を。けど、やつらは違う。やつらは人間しか襲わない。仲間同士で裏切ることも争うことも無い。言ったろ。ここは私にとって天国だって」
裕香も由比も言葉を失った。田中は機械的にその首だけを裕香たちに向け、
「あんた、口から血を流してたよね。その匂いが風下のやつらを引き寄せてたんだ。血はもう止まったようだけど洗い流しておいたほうがいい」
そう言い残すと田中は静かにドアを開き姿を消した。

 その後、三日間で田中が戻ってきたのは二度だけ。その都度、食料を持ってきてくれたり、携帯電話の充電器を探し出してきてくれた。

 やつらの低い唸り声が一日中聞こえてきたがここは安全だった。

 裕香と由比はこれまでの学校生活の楽しい思い出話をした。

 部活は厳しかった。それでも仲間たちと汗をかいた日々は宝物だった。勉強も時には苦しかった。それでも何かを学ぶのは楽しかった。相性の悪い人もいた。それでも笑いあえる友がいた。喜ぶ日もあれば、悲しむ日もあった。

 狭い世界だったかもしれないが、精一杯生きてきた。

 敵なんていなかった。

 敵なんていなくとも分かり合えた。

 でもそれは仲間内だけの話だったのかもしれない・・・知らないうちに人を傷つけていたのかもしれない・・・心の内では仲間から外れることを恐れていたのかもしれない・・・

 だからって立ち止まることなどできやしない。

 それでも、どんな恐怖も振り払って、光だけを見て生きていかねばならない。

 ここにずっと隠れていれば安全だった。

 でも、裕香と由比にはそれが出来なかった。

 田中が衝撃の事実を二人に告げたから・・・。
 
 最後の局面でもやはり戦う相手は、人間だった。


 山崎裕香と藤野由比が田中萌の隠れ家に移り住んで五日が過ぎた。
 住吉太一から譲り受けた携帯電話からインターネットに接続し、情報を収集する毎日だった。救助の手が伸びてくることを願う日々でもあったが一向にその気配は無い。家族の安否も気になったが連絡は取れなかった。
 「今日は大物を狙ってくる日でね」
そう話を切り出してくる田中はいつになく機嫌が良い様子だ。待ちに待った日がついに来たといった感じである。
「私の復讐劇もいよいよフィナーレだよ」
「出かけて行っていつも何をしているの?食事だったり、服だったり、持って帰って来てくれるのは有難いけど・・・やっぱり気になる」
裕香も少しずつ田中との距離の取り方を掴んできた。根本は他人に優しい子なのだ。
「別にたいした事はしていない。大事なクラスメイトが隠れ住んでいる所を探し出し、一日かけてじっくり偵察して隙を見つけてから料理するだけだよ」
「料理?」
「ドアを開いておいたり、窓を割っておいたり、やつらが入っていきやすくするのが私の役目」
「やつらに襲わせているの!?なんてことを・・・。みんなを死に追いやっているってことじゃない!」
「直接私が殺しているわけじゃない。私はドアを開けるだけ」
「間接的に協力してるじゃない。共犯よ!」
「そうだよ。いつだってそう。イジメを傍観している連中、黙殺している連中、みんな間接的に協力して私を追い込んできたんだ。だから私も間接的に鉄槌をくらわすのさ。私の仲間の協力のもとにね」
人間がねじ曲がっている。いや、元来がこうだから標的にされてきたのかもしれない。
「大物って何?」
堪らず由比が問いかけた。田中はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに
「駐車場にあるD組のバスだよ」
 え!?
 裕香と由比は同時に声を上げて驚いた。D組のバスも到着していたのか。てっきり、阿鼻叫喚の惨状を見てどこかへ逃げて行ってしまったと思っていた。
 D組のバスには由比の彼氏の大樹が乗っている。
 「なかなかしぶとい連中でね。食い物も飲み物ももう尽きているはずなんだけどバスに立て籠もったまま出てこようとしない」
「どうしてずっと停まっているの。こんな所に長居せずにさっさと移動してしまえばよかったのに・・・」
「駐車場に着いてから先生と運転手が降りて様子を見に行ったんだろう。生徒たちだけが残って、それで動きがとなれなくなっているって感じさ。見に行ったらバスの周辺を担任と運転手が唸り声を出しながら彷徨っていたよ」
薄笑いを浮かべる田中に由比が詰め寄る
「どうする気!?大樹のバスをどうする気なの!」
「バスの中にひとりを潜り込ますだけ。それで終わり」
「なんで?D組でしょ。あなたとは関係ない人たちばかりのはずよ」
「一年生の頃のクラスメイトが何人か乗ってるんだよ。お世話になったお返しをしないとね。このままじゃ連中は餓死して終わってしまう。それじゃ私の気が収まらないんだ。きっちり係わってあげないと復讐にはならないだろ」
「その何人かのために全員を襲うっていうの。なんて酷い・・・。」
「あんたらは好きにしな」
そう言うと由比の手を払いのけ、田中はドアへ進んだ。
 行かせるわけにはいかない。裕香と由比が後を追う。田中はドアを開いた。
「外に出る勇気があるなら止めにくればいい」
さっと田中は姿を消した。由比がよろめきながらも外に出る。ギリギリの食事で食いつないできて体力は限界だった。
 「待って!!バスを襲うのは待って!!」
由比がありったけの力を込めて叫んだ。
 周囲で唸り声が一斉に高まる。
 由比はドアを閉めずに室内に戻るとバケツの所へ向かい、それを手に取る。一瞬のためらいも無くそれを頭から被った。
「由比・・・」
「ごめん裕香。私行くね」
そう言い残して由比も飛び出していった。入れ替わるようにやつらが室内に突入してくる。
 立ち止まっている暇などない。
 裕香もバケツの血を全身に浴びた。
 やつらは室内をうろうろしていたが、やがて声が聞こえていたことなど忘れてしまったかのように低い唸り声をたてながら外に消えていった。

 D組のバス内はひっそりと静まり返っている。
 全員が心身ともに疲れ果て、死んだように席にうずくまっていた。口を開く者など誰もいない。
 馬場大樹は学級委員長として、いなくなった担任の席に座り、これまで仲間たちを鼓舞し続けてきた。それももう限界に達している。食料は尽き、各自が持っていた飲み物もなくなり、携帯電話の充電はとっくに切れている。
 まどろむ中で外の景色を見ていると、誰かがこちらに走ってくる。彷徨う亡者たちをかき分けて近づいてくる人影に見覚えがあった。
 「由比?」
息をはずませながら乗車口まで辿り着く。全身はびしょ濡れだ。黒い液体を滴らせている。
 大樹はドアを開いて由比を招き入れると、すぐにドアを閉じた。由比が飛びついてくる。この泣き声、この感触は確かに由比だった。
 車内がどよめく。生存者がいることなど誰も考えていなかったからだ。しかもこの溢れかえる亡者たちの中をどうやってここまで来たのか。
 大樹は由比の全身をタオルで拭いてあげた。
 タオルに染み付いた跡は黒ではなく赤だった。

 みんなの注目が由比と大樹に注がれる中、田中はバスの後方に忍び寄っていた。誰にも気づかれてはいない。さらにドアに近づく。
「田中さん。待ちなさい」
その背後から呼び止める声。裕香だった。
「血を浴びて来たのか・・・。思ったより勇気があるね、あんた」
「裕香よ」
「で、どうするんだい?お友達はあんたを置いてさっさとバスの中にしけこんだようだけど」
「あなたはどうするの」
「言ったろ。こいつらに復讐するんだよ。こいつらはここまで生き伸びてきたことを後悔しながら死んでいくんだ。そして初めて私と仲間になれる」
「仲間?ここにあなたの仲間なんていない」
「目的地も見えず、絶望の中を彷徨い歩くあいつらが私の仲間だ!!」
 田中がその言葉を発するのと同時に、裕香は右手に持っていた包丁で切り付けた。
それをかばった田中の左腕が大きく裂ける。血しぶきがバスの車体に飛び散った。
「田中さん、あなたの思うようにはさせない。私は全力であなたを阻止する」
田中は苦しそうにうめきながらバスを離れた。足をよろめかせ地べたに尻餅をついた。
「裕香、だっけ。まあいいさ、友だちじゃないけど、この五日間ずいぶん話したからね・・・あんなに他人と話をするのは久しぶりだったな・・・。まあいいさ・・・」
 新鮮な、生きている人間の血を嗅ぎつけてやつらが田中に群がる。数十人が辺り構わず噛みついた。田中は悲鳴を上げなかった。
「これで、ほんとに仲間入りができるから・・・。」
歓喜の声をあげるやつらの中で田中の姿は見えなくなった。

 ふと見上げると、バスの中でも暴れているのがいる。鮮血が窓にべったりとついていた。

 由比だ。

 鬼の形相。

 バケツの中の血は感染者のものだったのだろう。それを頭からから被り、口元の傷口から由比は感染したに違いない。

 由比は、正常なうちに大樹に会えたのだろうか。

 言葉を交わすことができたのだろうか。

 ふと思い出した。大樹が昔、田中という同級生に告白されて断ったという話を。

 大樹は女の子たちに絶大な人気をもっていたから、田中の行為は、身の程知らずとその後随分叩かれていたと聞く。

 勇気を振り絞って踏み出した行為が全否定されるってどういう気持ちがするのだろうか。

 怒り、だろうか。絶望、だろうか。

 私も大樹が好きだった。

 でも、親友も大樹が好きだと聞いて、諦めた。

 壊したくなかったから。

 交友関係は中学生にとって住む世界の中心なのだ。

 この世界のために私は諦めた。

 偽りの仮面を被っていたのは私なんだ。


 裕香は包丁を握りしめ、バスを後にした。
 
 外に逃げようとバスを飛び出したD組の生徒たちはことごとく集まったやつらに捕獲され、生きながらに食われていった。

 
 だからって立ち止まることなどできやしない。

 罪も罰も罪悪感も振り払って、光だけを見て生きていかねばならない。


 これからは真実の世界を構築しよう。


 私は今日からひとりなのだから。

第五話 神奈川県横浜市 独身男性

第五話 神奈川県横浜市 独身男性

 中学、高校時代と恋愛に興味が無かった。
 興味が持てなかったと言ったほうがいいかもしれない。

 古いアパートに家族四人。
 狭い空間の中で日々小言を聞かされ、机に向かって勉強をし、朝学校に行ってなんとなく時間だけが過ぎ、自宅に帰ればまた小言。
 自分を変えたいとか、他人に憧れるとか、そんな心の余裕がまったく無かった。とにかくここから一日も早く抜け出したいと、そのことばかりを考える毎日だった。
 大学受験に失敗し、浪人生活に突入するとさらに心は荒んでいった。そのうち、予備校からも足が遠のき図書館で受験に関係ない本や新聞記事に目を通して一日が過ぎていくことが多くなった。
 焦りもあったが、気力が沸かない。
 こんな状態で横浜の国立大学に合格したことは奇跡に近い。センター試験でとれたのはまぐれだ。適当につけた答えがことごとく正解していた。
 
 ようやく家を出られる。
 とにかくそれが一番うれしかった。
 窒息死寸前だったのだ。
 気が狂う一歩手前だった。

 横浜は都会だった。
 何もかもが新鮮で、活力に満ち溢れていた。
 今までの人生のわだかまりが一気に放出されていく。
 
 ゼミの仲間と朝まで飲んで馬鹿騒ぎ。
 慣れないバイト。自分で稼ぐ充実感を知った。
 自分の興味のある勉強だけを行うことができる。自由な環境。
 独り暮らしは何かと不便ではあったが、水を得た魚のように毎日が楽しい。

 そんな生活のなかで、恋愛に目覚めたのは大学入学から半年が過ぎた頃である。
 相手は区役所の職員。歳は二十三歳。窓口で出会った瞬間に電気が走った。さらに声を聞いて夢中になった。

 区役所に毎週通うようになり、時間があればずっと待合席から受付の対応をしている彼女を見守った。一日六時間滞在し続けたこともある。彼女が区役所の飲み会に参加すると聞いたときには友人とその店に行き、隣のテーブルでずっと眺めていたこともある。

 肌は雪のように白く。結んだ黒髪の間から見えるうなじははっとするほど魅力的だった。黒く丸い瞳は猫のようで、微笑むと濡れたように輝いた。唇は厚く艶やかで、そこから発せられる声は力強くもあり可愛らしさもあった。カラオケボックスで歌っているところを覗き見たときに微かに聞こえた歌声も素敵だった。

 毎日、彼女のことばかりを考えるようになった。寝ていても、彼女は今どうしているのかが気になって落ち着いていられない。
 苦しくて胸が痛い。
 その後、あらゆる手を使って彼女の住んでいる住所、電話番号、メールアドレスなどを入手し、時々は彼女の家の玄関まで行ってみるようになった。
 なかなか緊張して呼び鈴に手をかけられない。
 一日に何度か彼女の携帯電話に電話するものの、彼女の声を聞いた瞬間に何も言えなくなり電話を切るといった日が続いた。

 LINEは何度も送った。夏休み中は毎日一時間に一回、日に二十四回は休まず送り続けた。返答は無かったが、既読されており、自分の気持ちは確実に伝わっているはずだ。
 彼女が自分の愛に応えてくれるようになるまでそう時間はかからないという確信もあった。

 彼女は趣味で合唱にコーラスをやっていた。コンクールは必ず観に行ったし、その日の夜は彼女の打ち上げパーティが終わって帰宅するより先に彼女の家に行き、ケーキなどの贈り物を玄関のドアにかけておいた。
 まあ、「サプライズ」というやつである。

 時が経つにつれ気持ちも高まっていき、自分がここまで一途に人を愛することができるのかと驚くとともに、一向に彼女との距離が縮まらないことにももどかしさを覚え始めた。
 正直、恋愛について初心者のためか自分が何をしたいのかよくわかってはいない。
 友人からは告白して付き合えと言われるが、今ひとつピンとこない。その辺のカップルよりよほど強い恋愛感で結ばれているという自負がある。今更そんな形式じみたことが必要とも思えない。
 とにかく、彼女をずっと見ていたのだ。ずっとそばにいたい。二十四時間くっついていたかった。

 彼女に男の気配が無い訳ではない。会社には同僚もいれば上司もいる。スタイル抜群の彼女にモーションをかけてくる男たちも少なからずいるだろう。それを考えると夜も眠れない。自分以外の男と彼女が一緒にいるなど許せるはずもない。自分の気持ちに気づいていながらそれをするのであれば完全に裏切り行為である。いや、彼女がそんなことをするはずがない。仮にそれをするのであれば、きっと勇気を持って告白しない自分に焦れてのことだろう。
 まあ、「駆け引き」というやつである。

 九月に入って、彼女が北海道に旅行に行くという話を耳にした。
 相手は一体誰なのか血眼になって情報を探したが、結局幼馴染の女の子との旅だとわかった。
 もちろん自分も一緒に行くことになる。
 行きの飛行機の時間から旅先の宿泊先まで徹底的に調べ上げた。
 宿はすべて隣の部屋を押さえた。
 これで彼女の寝息を聞きながら眠りにつくことができる。女同士、恋の話もすることだろう。聞いていて話の流れ次第では彼女の部屋に行き、直接この気持ちを伝えても構わない。

 九月二十七日、北海道の旭山動物園でゆっくりと時間を過ごした後で、一時間ばかり離れた場所で宿をとっていた。
 層雲峡という温泉街である。
 彼女が部屋を出て、温泉に入りに行く度に、部屋のドアを少し開いて彼女が浴衣姿で歩く後ろ姿を堪能した。
 この興奮は抑えきれない。
 その後、廊下で足音がするたびにドアを少し開いて確認した。
 歩いているのは従業員ばかり、彼女はなかなか戻って来ない。でも待っている時のこのドキドキがたまらない。わざとじらしているとしか考えられないほど、彼女の温泉の時間は長かった。
 もしかしたら自分が付いて来ていることに気づいているのでは、とすら邪推してしまうほどである。

 夕食はバイキングだった。客が少なかったので、距離をかなりおいて席に着く。
 楽しそうにおしゃべりしながら食べている彼女を見ているとこっちも幸せな気持ちになる。
 化粧を落としたすっぴんの顔も魅力的だ。

 こんな楽しい旅行は初めてだった。
 恋愛がこんなにも日々の充足感を満たしてくれるということも実感することができた。

 
 そう、あんなことさえ起きなければ。

 宿泊施設内が突如暴漢たちに占領されたのが、九月二十八日の午前二時ごろ。
 サイレンとともに場内アナウンスが流れ、事態の深刻さを物語っていた。
 窓から外の駐車場を見渡してみると、確かに怪しげな動きをしている不審者の姿があった。

 彼女は友人を部屋に残し、露天風呂に行ったまま戻って来てはいない。
 自分が連れ戻しに行けばいい話だが、それも何かまぬけな話だ。風呂に女性を探しに行くなどロマンチックではない。しかし、彼女に何かあったらそれこそ後悔してしまうだろう。
 フロントに内線しても繋がらない。

 こうなると誰かに頼むしか手はない。
 片っ端から宿泊客に内線してお願いしていこう。女連れの客がいい。
 念のために三件は、トリプルブッキングでお願いしていくべきだろう。

 救出された後に、きっと誰がそこまで手配したのかという話になる。
 顔を見せるときはその時でいい。
 まあ、これも「サプライズ」というやつである。

 三十分後、高橋守は八階の山岡友広に恋人の石和麻由希)捜索の依頼をすることになる。


 そして、石和麻由希に向けられていた彼の想いは、やがて全て山岡夫婦に向けられることになる。

 深い深い憎しみを込めて・・・。
 

    第一章  完

二章 北海道上川郡 層雲峡  第一話 「あの日」のはじまり

二章   北海道上川郡 層雲峡

 以下、私、山岡友広のホームページに掲載した内容を紹介させていただきます。


第一話 「あの日」のはじまり

 九月も下旬、もうすぐ神無月ともなれば本州の残暑とは異なり、北海道はもう晩秋でございます。
 私は趣味でゴルフを嗜んでおりますが、早朝のプレーは身体に堪える寒さになっておりました。
 私の住んでいるところは、北海道の中央に位置する旭川市の郊外でございます。
 旭川は京都や甲府と同じ盆地でして、ぐるり三百六十度、山に囲まれております。
 我が家は車で少し行けばすぐに市外というような高台にありました。
 中学校で数学の教鞭を執るようになって十四年。
 職に就いてからすぐに結婚し十三年経っております。子どもはおりません。
 妻と私で働き、なんとか蓄えもでき、自宅は四年前に新築を購入しております。二階に部屋が三部屋ありますが、二人暮らしのため寝室以外はほとんど活用しておりません。その二階の窓から見える向かいの鷹栖神社の景色は毎年見事でして、春には桜が豪華に咲き誇り、秋には楓が紅に、イチョウが黄色に一帯を染め抜きます。それを楽しみながらの一杯は実に贅沢でございました。
 この年の紅葉は例年に比べ早かったように思えます。
 教職は激務でしたが、休日は仲間たちと早朝にゴルフをし、昼からは妻と買い物、夜は一階のリビングで六十型のハイビジョンテレビで借りてきた映画を妻と観るという実にのどかで平和な日々を過ごして参りました。
  「あの日」九月二十八日は週の始まりの月曜日でしたが、無理を言って時間をいただき有給を取り、土、日、月と二泊三日で層雲峡の温泉に行って帰ってくる日でございました。
 層雲峡は旭川市から車で約一時間あまり。手軽に往復し過ごせる温泉街としてはもってこいの場所で、よく妻と羽を伸ばしに行ったものです。一泊二日であればちょうど上手い時間の費やし方なのですが、今回は思い切って初めての連泊にしてみたのです。
 案の定、温泉に入る以外は特にやることがありませんでした。
 紅葉で目と心を癒すことは日頃から自宅でできるので、ホテルを出て山に入り風景を楽しむこともしませんでした。妻は極端にインドアでしたからなおのことです。特に虫が駄目なのです。森や山に入ることなどまずありません。まあ、今となっては誰も入ろうとはしないでしょうが・・・。
 では何をして過ごしていたのかといいますと、宿にはテレビゲーム機を持参し、旭川市からの行きの道の途中でDVDを数本レンタルし、着いてからは温泉に入っては映画を観、また温泉に入り映画を観るということを繰り返していたのです。無精者と笑われるでしょうが、それが私たちの無上の楽しみ方でございました。
  「あの日」、借りてきた最後の映画を観終えたのが深夜の二時頃だったと思います。
 妻は散々アルコールを飲み干してすでに眠りについておりました。私は結局独りで観る羽目になったのですが、よくあることなので特に気にせずおりました。妻は朝食前に一風呂浴びるのが常で、宿に泊まれば夜は日頃よりも早く寝ることが多かったのです。日頃は掃除や洗濯、食事の準備や後片づけなどがありますが、ここに来れば全てのことから解放されます。三十分ほどマッサージをしてもらい、好きなお酒をたらふく飲んで幸せそうに眠っている姿は微笑ましいものでございました。
 朝食のバイキングは午前八時の予定でしたので、私自身もこれから寝ても充分に睡眠時間が取れます。
 思えば、妻がゆっくりと眠れたのはこの瞬間が最後だったのかもしれません。安らかな寝顔が見れたのも・・・申し訳ありません、合い間合い間でつい今の私の心情が入ってしまいます。
 あの時の私はトイレを済ませて眠ろうとテレビを消し、寝室の襖を開けました。と、部屋から廊下に出るドアの向こうで何かが聞こえてきたのです。
 音、ではなく、それは声でした。
 うめき声、いや、うなり声に近かったと思います。今となればはっきりそれがうなり声だとわかるのですが、当時の私には区別はつきません。そんなに大きな声ではありませんでしたが、
 「うー・・・うー・・・」
という低い声でした。私はとてもびっくりしてドアの前で立ち往生してしまいました。最初は幻聴かと自分の耳も疑いました。
 しかし確かに聞こえてきます。
 いくら北海道といってもホテルの八階のフロアに獣がいるはずはありません。
 おそらく酔っぱらった御年寄のうめき声だと思いました。そうだとすれば、血の気が引くような驚き方をした自分は随分な臆病者だと恥ずかしくなりました。ただそう納得してもドアを開けて外の様子を確認する勇気はありませんでした。酔っ払いに絡まれることを恐れたということより、それが別の何かから発せられたものだとしたらという一抹の不安があったからです。確かめたところで何も得することはありませんしね。
 私は早く用を済ませ部屋に戻ることにしました。用を足しているときもせわしなかったですよ。こうしている間にあの声の主がこの部屋に入っているのではないかと不安になりました。
 私は酔ってはいませんでした。仮に酔っても私は理性を失ったことはありません。むしろあの時は日頃よりも神経が過敏になっていました。もちろん日頃そんな幻聴を聞いたこともありません。
 トイレを出て、素早く部屋に戻る際も、そのつもりがなくてもつい気になって耳を澄ませてしまいます。
 声はまだ低く聞こえてきました。
 昨夜聞いた隣の部屋のイビキとはまるで種類が違います。どう記憶を手繰ってもこれは獣の声でした。
 この日は風が強く、ビュービューと引っ切り無しに鳴ってもいましたが、その中をはっきりと聞こえてくるのです。
 土曜の夜は家族連れの宿泊客は多いのですが、日曜の夜となるとこの時期はほとんど宿泊客はおりません。この日も数度温泉に入りに五階に下りましたが、その際は誰とも顔を合わせませんでした。妻とはこの八階に 客は自分たち以外いないのではないかと、冗談を言い合っていたものです。
 聞こえるはずの無いところからの声というのはとにかく不気味でした。
 ドア越しでしたから声の主までの距離はわかりませんが、廊下の随分先のように感じました。私たちの部屋はエレベーターのすぐ前でしたから、その声の主がエレベーターを乗りにこの部屋の前まで来るのではないかと恐ろしくなりました。まあ正体が獣であればエレベーターなど活用できませんがね。
 人なのか獣なのか、この状況で部屋から出て正体を確かめられる人がはたしてどのくらいいるでしょうか。とてつもなく胆の据わった人でしたら可能なのでしょうが、私には無理でした。
 私は静かに襖を閉め、布団に入ったのです。トイレ前の電気は消さないよう妻から再三再四言われていたのですが消しました。この部屋に人が居ることを外に気づかれたくなかったのです。
 布団に潜り込んでも胸の動悸は鎮まりません。
 夜半から雨が激しく降っており、窓から聞こえる強い風の音でうなり声はかき消され、聞こえるはずもなかったのですが、耳の奥では幻聴なのかあの声が絶えず続いておりました。
 そのうちに妻がもよおして布団を立ったのです。
 何かを伝える暇もありませんでした。
 嫁は突然バンと布団を出るなり、襖を開き、電気が消えていることに気づき怒り出しました。酔いもあったのか随分と大きな声を発したものです。私はというと布団を跳ね除け大慌てです。そんな私の姿などまったく気にせず嫁は文句を言いながらトイレに籠ってしまいました。
 私は、外に部屋の声が漏れたのではないかと気が気ではありませんでした。
 玄関口で耳を澄ませてみたのですがトイレの中からの嫁の声が邪魔して先ほどのうなり声は聞き取れません。もしかしたら声の主は立ち去ったのかもしれません。しかしドアを開きそれを確かめる勇気はやはりありませんでした。
 トイレから出てくる嫁を宥め、電気もそのままに布団に戻りました。こちらのパニックぶりなど露知らず、嫁はすぐに寝息をたてて眠ってしまいました。
 もちろん私は寝つけません。玄関口の電気がついていることが気になって仕方がないのです。また来るかもしれない。その時はここから漏れる光に気が付くかもしれない。しかし襖を開きたくはない。恐怖は想像力を掻き立て、いつの間にか襖の向こうまで来ているような錯覚に陥っていました。
 三十分程葛藤したあと、意を決してもう一度襖を開け、ドアに近づきました。
 一歩一歩音をたてないよう慎重に踏みしめながら・・・。
 元来私は身体の代謝が良いほうではありませんので温泉に入ってもなかなか汗をかかないのですが、この時は随分かいていたと思います。浴衣の背中を何か冷たいものが流れたことを覚えております。
 ドアに恐る恐る耳をそばだててみました。
 ビュービューという風と雨の音。嫁の歯ぎしりが背後で聞こえるなか、それ以外の音に耳を澄ませました。三十秒ほどでしょうか、それ以外は何も聞こえない状態が続きました。
 私は安堵しました。これでゆっくりと眠りにつけると安心したのです。
 その瞬間です。あのうなり声がはっきりとドアのすぐ向こうから聞こえたのです。
 いや、あの時は私のすぐ耳元で息遣いすら感じました。私は鼓動が止まるほどに驚きました。おそらく瞳孔も白目が無くなるまで開き切っていたと思います。そして微動だにできませんでした。息をすることも忘れ硬直し続けました。
 ドアを挟んだ向こうに確かに何かがいるのです。
 こういう場合、とっさに何かできるようになるには経験が必要ですね。この五ヶ月で痛感しました。信じられない驚きや恐怖に直面すると人の思考は止まるのです。
 どのくらい時間が経ったのか。もしかするとほとんど同時のことだったかもしれません。私がドアの向こうの存在に気付いた直後、ホテル全体に非常ベルが鳴り響きました。けたたましい音とともに非常に慌てた男の声でアナウンスがありました。
「・・・非常事態です。みなさま、絶対に部屋を出ないように」と。
 今思い返してみれば、あのベルの音は平和な日々が終焉を迎えたことを知らせる呼び鈴だったのかもしれません。
 事実、私と妻はこの後四日間、混乱と恐怖に震えながらこのホテルで過ごすことになるのです。

 ああ、思い出してまた呼吸が苦しくなってきました。
 この続きはまた次回とさせていただきます。
 それでは一度、失礼いたします。

第二話 電話

第二話 電話

 お待たせいたしました。
 先日は初めての執筆で慣れていなかったことと、あの日のことを久しぶりに思い出したために興奮してしまいました。申し訳ございません。
 もう大丈夫でございます。この二日は中学数学の問題集を予習して冷静さを取り戻しました。素数を用いた問題が私は好きでして、いかに説明すれば生徒たちにすっと落ちるのか試行錯誤しておりました。今更何の役にも立たない特技かもしれませんが、これが今の私の唯一の安らぎのひと時なのです。
 さて、九月二十八日未明の話を続けることにいたしましょう。
 非常ベルとともにホテル内にアナウンスが響き渡ったところでございました。
 あのけたたましい音は人の恐怖心をあんなにも強く揺さぶるのですね。心臓に突き刺すような響きが、熟睡していた私の妻を起こしました。飛び起きるのかと思いきや、妻はゆっくりと身体を起こし、まるで機械のように辺りを見渡しました。八方を平等に眺めていくのです。そして襖の向こうの私をみつけました。そこに安堵の表情は無く、青白い顔でサイレンにかき消されるような声を発しました。
「か、火事・・・火事なの・・・」
咄嗟の際に素早いリアクションをとれるようになるには訓練が必要なのでございます。妻の挙動はまるでスローモーションのようでした。
 私の答えを聞くまでにアナウンスが続きました。
「不審者がうろついております。お客様のみなさまは室内で待機していてください。危害を加える可能性があります。ただ今警察を呼んでおります。けっして部屋を出ないでください」
 私はハッとしてドアをみつめました。透視などできやしませんがね。じっとドアの向こうをみつめました。
 妻はその様子に気づき、
「何?そこに誰かいるの?」
 先ほどまで酔いつぶれて歯ぎしりをしながら眠っていたにしては鋭い質問です。私は慌てて口に人差し指を当て、口を開かぬように嫁に合図しました。
私は妻よりも幾分冷静でございました。心の準備ができていたからかもしれません。正体が掴めたことで気持ちにゆとりはできておりました。静かなる侵略者も、ここまで開けっ広げになれば退散するしかありません。警察がまもなく到着するという話も私を勇気づけてくれました。大袈裟かもしれませんが、霧がすっと晴れたような、闇が光に溢れていくような心地でした。アナウンスにしても、嫁が起きたことにしても人は誰か自分側の存在を感じたとき随分と心境は変わるものでございます。
 非常ベルが急に止みました。
 一瞬耳が聞こえなくなったのかと思うほどの静寂が辺りを包みます。
 私は必死にドアの向こうの音に耳を傾けました。
 うなり声は・・・・・・聞こえませんでした。
 そう、やつは去ったのです。
 私はフウっと息を吐きました。随分と呼吸をするのが久しぶりだったように感じました。
振り向くと嫁が慌ててフロントに電話をしています。私はこの時になってようやく足の硬直から解放されておりました。いそいそと寝室に入り、今度は嫁の電話に耳を傾けます。
「ダメ。通じない。」
 おそらくはホテルの宿泊客全員が心配になってフロントに一斉に電話しているはずです。混線は仕方ない現象でした。
「チェーンロックはした?早くしてきて!」
嫁は電話を切るなり私にそう命令をしてきました。気持ちの切り替えの早さは女の特権なのかもしれません。
 私は頷き、ドアへと向かいました。

 そのとき、

 「ぎゃあーーー!!」

 女の悲鳴がドアの向こうから聞こえてきました。それはまるでドアのすぐ向こうから発せられたようなとても大きな悲鳴でした。
 みなさんはもう悲鳴など慣れっこになっていると思います。おそらくそんなことでは驚かないでしょうが、この時の私は、妻も含めてですが、生まれて初めて恐怖に引きつったような悲鳴を聞いたのです。それは映画から流れるものとは違い、指先まで震わす圧倒的な不協和音でございました。
 
 襲われたのです。誰かが・・・。
 
 こんな近くで誰かが襲われたのです。
 
 殺人事件が日本中で毎日にように発生していることはニュースや新聞の記事で認知はしております。ですが親兄弟はおろか友人に至るまでそのような事件に遭遇したなど聞いたことはございません。リアルティを感じられない他人事の話に過ぎなかったわけでございます。
 それが今起こったのです。
 この状況であなたなら何ができますか?
 救出に向かいますか?武器も無しに?相手がどんなやからなのかもわからないのに?
 無理でございます。現に私の膝はガクガクと笑っておりました。
 嫁は物凄い勢いで電話をとりフロントへ・・・・・・ですが電話はつながりません。
 その間も悲鳴は断続的に続きます。
 声量は大きくなっていきます。
 嫁は受話器を投げ捨て携帯電話を手にしました。層雲峡では電波が届かない。なんてことはまったくございません。もちろん昼間も普通につながってました。嫁は連泊の感想を実家の母親に電話で伝えていたぐらいでした。
「なんで・・・」
 しかしこの時携帯電話もつながらなかったのです。
 いや厳密に言うと混線し、つながりにくい状態になっていました。あの大震災のときとまったく同じ現象です。
 いつまでも続く悲鳴が私たちの冷静さを完全に奪い去っていました。パニック状態と言われても過言ではございません。
 「どうしよう。どうしよう。」
嫁は頭を抱えて同じ言葉を反芻しています。
 私は助けに行く勇気など欠片もない心境でしたが、ドアの前で動けずおどおどするばかりでございます。
 悲鳴が一端止みました。
 なぜか私は胸を撫で下ろしました。
 と、さっきとは比べ物にならないぐらいの大きな悲鳴がドアのすぐ向こうから聞こえてきたのです。今度は本当にすぐ外からでございました。

 「ドン!!」

 何かが強くドアにぶつかってきました。
 倒れる音。
 すると悲鳴がドアの下から聞こえてきます。
 私は一度嫁の方を見ましたが、嫁は受話器を所定の位置に戻した後、震えながら布団の中に身を隠していました。この恐怖から逃れるために・・・。

 「ドン!!」

 また衝突音。
 今度は悲鳴とともにうなり声も聞こえてきました。ずっと私を悩ませてきたあの声です。その声は次の瞬間歓喜の雄叫びとなり、何かが無造作に引きずられる音に変わりました。
 嫁は布団の中で呻いています。
 「不審者は集団です。気を付けてください。絶対に部屋のドアを開かないでください。繰り返します。何があっても部屋のドアは鍵のかかったままにしていてください」
早口のアナウンスが響きました。
 集団?
 まったく気にもしませんでした。人数など。
 勝手に相手は一人だと決めつけていたのでございます。
 集団の異常者たち・・・この状況で私たちが何をもって身を守ればいいのでしょうか。唯一の希望はこのドアだけなのでございます。
 その時また私たちを驚かす音が。

 「リーン、リーン」

 電話です。内線の電話が鳴った音でした。
 嫁は怯えて取ろうとはしません。
 あの恐ろしい悲鳴を聞いた後では仕方のないことでございました。
 私も胸を押さえながら受話器を取ります。

 「・・・はい。」

 受話器の向こうは雑音でした。悲鳴、のような声も聞こえてきます。

 「・・・よかったようやくつながった。おれは二三二号室のもんです」
 相手はフロントではありませんでした。同じ宿泊客だったのです。若い男の声でした。
 「そこは何号室です?適当に押してようやくつながったからわからないんですよ」
「こっちは八一0号室ですが」
「八階か。フロントにはつながりましたか?」
「いえ。何が起きているのかご存じですか?」
「場内放送の通りでしょう。不審者がこのホテルの中を暴れまわっているみたいです。外に出てないんでよくわからないんですが。八階はどうですか?」
「こちらは先ほど女の方の悲鳴がありました。」
「二階も同じ・・・おれは高橋。高橋守と言いますが、あなたは?」
「私ですか、私は山岡友広と言います。」

 この後私たちは高橋さんから衝撃の状況を聞かされます。そして私たちはとんでもない行動に出るのです。

 すみません。日々の日課の調査の時間になりました。
 この話の続きはまた後日とさせていただきます。
 それでは一度、失礼いたします。

第三話 依頼

第三話 依頼
 
 お待たせいたしました。
 この掲示板を読んでくれている方がいることを知り、大変嬉しく思っております。なかなか「やつら」の核心に迫らずやきもきされている方も多いかもしれませんが、もうしばらくお待ちください。順を追って説明しなければ伝わらぬこともございます。
 外では雪が降っております。
 北海道はどこも雪が多いわけではございません。本州とほとんど変わらぬ積雪の地域もございます。ここ旭川市はなかでも雪が多いのでございます。今年は初雪が例年に比べ遅いように思えますが、おそらくこれから  豪雪となり辺りの景色は一変することでございましょう。
 
 さて、話をあの九月二十八日未明に戻します。
 私と妻は内線で知り合った高橋守という青年と情報を交換しておりました。
 話を聞くと、彼は二十一歳の横浜国立大学の学生でございました。
 二つ年上の恋人と北海道旅行に来ていた最中の出来事だったようです。
 晴天の霹靂とも言える今回の騒ぎに対し、この若者が随分と落ち着いて分析していることに私は驚きました。
 私は三十八歳ですからイニシチアチブは当然こちらにありそうなものですが、ハプニングの中では歳など関係ないのでございます。特に彼にはそのような遠慮は無く、まるで友人に話をするように私に語り掛けてきました。私たちは幾分プライドを傷つけられながらも、彼の話を頼るべくして頼る結果になりました。
  「まったく携帯電話が通じない状態だけど、異常者が暴れまくっているのはここだけじゃないようだね。LINE(ライン)で情報交換した感じじゃ本州もやばいらしい」
 LINEというのはスマートフォンのアプリの一つでメールより手軽に交信できるので老若男女問わず大流行しておりました。インターネットの回線を使用し電話同様にやりとりすることも可能です。
 「全国でこれが起こっているということですか?どこかの宗教信者が一斉蜂起したのでしょうか」
「確かに今年を人類の終末だと騒いでいた連中もいたな。あんた、山岡さんと言ったっけ。テレビつけてみたほうがいいよ」
私たちは急いでホテルに備え付けられているハイビジョンテレビのスイッチを入れました。いろいろな局にチャンネルを合わせていく中で私たちは唖然とする映像を目にしたのです。
 時刻は深夜三時過ぎ。
 普段であればテレビショッピングか、風景映像にニュースの文章が流れるぐらいなのですが、どこの局もアナウンサーが深刻な表情で叫び続けていたのでございます。
 私たちはより一層動揺いたしました。
 とんでもない事件が発生している。
 私たちはその渦中にいるのでございます。知らぬうちに両腕に鳥肌がたっておりました。
 アナウンサーたちはどこも同じような内容を訴え続けております。時々「テロ」という言葉も聞えてきましたが、詳細はどうやら不明なようです。
「・・・・・・人を襲う集団が全国で出没しております」
「・・・・・・たいへん危険な状況です。施錠をし、外出を控えてください」
「・・・・・・避難所に向かうのは危険です。自宅で待機していてください」
「・・・・・・警察のほか自衛隊も出動し、暴動を鎮圧しております」
 どの内容も私たちを今まで以上に怯えさせるものでございました。
 妻は何度も、実家がある山梨県の韮崎市へ電話をしていましたがつながりませんでした。大変な混線ぶりだったようでございます。妻は私に比べ家族思いの一面があり、日頃からよく電話やメールをして交流しておりました。心配が募るのも当然でございました。
 「山岡さん、気が付いたかい?やつらは武器を持っていないようだ」
高橋守はそう私たちに話しかけてきました。
 テレビでも惨状はまだ撮影されておらぬようで、アナウンサーの話だけでございましたから、私たちはまだ異常者の姿を見ておりません。
 「高橋さんはどこの局で彼らを見たのですか?」
「ニュースじゃまだそこまで撮れてないよ。直に見たんだ。窓の外がすぐ駐車場なんだけど、徘徊するあいつらの姿を街灯の下で見たよ。手には何も持っていないんだ」
「それは被害者ではありませんか?必死に逃げているところでは?」
「ハハハ・・・。実際見ればすぐにわかるよ。あれが被害者の面と動き方のものか。唸り声を上げながら走り回っていやがった」
「唸り声ですか・・・」
「獣だね。あれは」
 私が先ほど聞いた声と同じなのでしょうか。やはりドアの外にいたのは他人に危害を加えようと目論んでいた犯罪者だったのです。
 「三人ほど下を通ったけど、みんな似たようなもんだった」
「どうやって襲ってくるのでしょう。武器を持っていないのであれば、素手ということでしょうか」
「さあね。それより山岡さん、困った状況なんですよ。おれの彼女がこんなことが起きる前に温泉に入りに部屋を出たんです」
 その話を聞いたとき私は背後で必死に携帯電話をかけている妻の方を振り替えました。そして安堵したのです。妻が酔っぱらって寝ていてくれて良かったと、この時初めて思えたのでございます。
 「戻ってこないんですよ。もう一時間半になります。風呂に入ってもいつもは三十分と持たないんですが」
 高橋守の口調が突然敬語になっても私は違和感を感じませんでした。私が彼の立場であれば誰であれ、土下座をしてでも協力を求めたと思います。
 「浴場でこのアナウンスを聞いて避難しているのでは?あの放送を聞いては部屋に戻ることもできないでしょう」
「そうかも、しれないんですが・・・」
「そう考えましょう」
「ええ、ありがとうございます。そう言ってもらえて少し落ち着きました」
「待つしかありませんよ」
 しばらくの沈黙の後、彼はこうつぶやきました。
 「ただ、心配なことがあるんです」
 心配なことだらけでしたが、問わずにはいられません。
 「何ですか?」
「増えてるんです」
「増えてる?何がですか?」
「やつらの数です。廊下から聞こえてくる声も、窓の外のやつらの影も、増えてるんです」
 なんという恐ろしいニュースなのでございましょう。想像したくもない話でございます。犯罪者が増殖するなど・・・。
 「もうすぐ警察も来ます。待っていればじきに元に戻りますよ」
私は自信なく希望だけをそう伝えました。
 ただ彼は私たちよりはるかに冷静に状況を見つめていたのでございます。
「脱出するには今しかないんです。そう感じます。そのうちにここから動けなくるような気がするんです。おれは彼女を探し出し、ここを出るつもりですよ。山岡さんも早く動いた方がいい。今なら外の駐車場にもやつらは少ない。車にさえ乗ってしまえば安全です」
 私たちは彼の部屋とは反対側に位置しておりまして、窓の外は山の景色と川のせせらぎだけでございます。状況が直に掴められないのです。
 「私たちには無理です。そんな勇気はありませんし、動かない方が安全に思えます」
「このホテルはつぶれますよ。ここに居れば一緒にぺちゃんこだね」
「地震がきたわけじゃあるまいし・・・」
「もっと深刻なんだよ。これが続けばこの部屋で野垂れ死にだ!」
投げ捨てるような彼の台詞。
 何を言いたいのか、私はこのときよく理解ができませんでした。彼は実情をその目で見て何かを感じていたのです。いや、人生で感じたことのない絶望に襲われていたのです。彼の言葉が真実だということを私たちが知るのはもっと先の事になります。
 しかし、私たちはこの二十分後、彼の助言通りにこの部屋を出るのです。
 ほとんど何もわからぬまま、この混乱の世界に飛び込むのでございます。
 冒険というより無謀。
 ただそうした行動をとった理由がございます。そしてこの行動が私たちに多くの生きるヒントをもたらしてくれたのでございます。

 思い出しても冷やせが出ます。
 このお話は後日、改めてゆっくりとさせていただきたいと思います。
 それでは一度失礼させていただきます。

第四話 決断

第四話 決断

 お待たせいたしました。
 後日改めてと申しましたが、やはり一刻も早く本題に進みたいので続きを書かせていただきます。
 この掲示板をご覧になられた新潟県六日町の女性から情報をいただきました。
 やつらの記憶が持続する時間は五分だそうです。
 五分隠れきれば状況はリッセトされるそうでございます。
 私のこれまでの経験を振り返ってみても確かに合致するお話でございました。
 しかし当初はそんな余裕はありませんでしたから必死でございました。
 必死に逃げ、死にもの狂いで隠れていた毎日でございました。
 
 さて、「あの日」九月二十八日未明の話をいたしましょう。
 高橋守という大学生からの内線電話から、私たちは突然襲ってきたこのハプニングの一端を垣間見ることができました。
 ただ、彼の意図までは見抜けてはいませんでした。
 彼は、単なる情報交換をしたくていろいろな部屋の内線に電話をかけていたわけではなかったのでございます。
 「お願いします山岡さん。おれの部屋の外にはやつらがいるんです。気配でわかります。やつらは待っているんです。おれがこの部屋を出ること、彼女がここに戻ってくること、それをじっくり待っているんです。助けてください山岡さん」
なんという哀願に満ちた声なのでしょうか。内線電話のスピーカーを通して話を一部始終聞いていた妻も、身を乗り出して彼の言葉の続きを待っておりました。
 「私たちに何ができるのでしょうか。しがない中年夫婦ですよ」
「できますよ。そこの部屋の外にはすぐにエレベーターがありますよね」
確かに私たちの部屋のすぐ前がエレベーターになっておりました。
 宿泊初日は、五階の露天風呂に行くのが便利で喜んだものでございます。
 そう思い出して途端にギクリとしました。まさかの展開を予想したのでございます。彼は私のそんな悪夢のような予想を裏切ることはありませんでした。
 「行ってほしいんです。山岡さん。五階に降りておれの彼女に会ってほしいんですよ」
こんな無茶なお願いを私はこの人生の中でされたことはございません。
 「無茶苦茶云っているのはわかっています。ありえないお願いです。でも、この状況では誰かに助けを求めるしかないんです。おれの彼女に会って、この部屋に戻ることは危険だと告げてほしいんです。そしておれが無事だということ、愛しているということを伝えてほしい」
妻は感激で涙がこぼれそうになっておりました。まるで自分が言われているような錯覚に陥っているのではないでしょうか。
 そしてついにこんなことを云い出し始めたのです。
「トモ、行こう」
トモ、とは私の名前でございます。
 女性とはみなこうなのでしょうか。見ず知らずの男の恋人のために夫を死地に送り出そうとしているのでございます。私はいろいろな意味で恐ろしくなって参りました。
 「と、途中でやつらに出会ったらどうするんです。私には立ち向かうすべがありません」
言い訳している自分が情けなく感じてもきましたが、だいたいとんでもない提案なのでございます。自分の愛する人を助け出したのであればまず己が努力すべきであります。それを何もせず電話一本で何とかしようとは虫が良すぎる話ではありませんか。
 「行ってあげようよトモ。エレベーターで降りて少し歩けばすぐに浴場につくから」
その少し歩く間に危険が潜んでいるのでございます。妻はもはや現状が全く把握できておりません。愛は盲目とよく言いますが、混乱した世界ではその症状は伝染していくようでございます。
 「一生のお願いです。山岡さん、お願いします」
一生のお願いも何もさっき出会ったばかりの間柄でございます。そしてもう二度と会うこともなかろうと思います。そもそも彼の顔すら知らないのです。ですが、私には求められて断る図太さもございません。結局は、
「わかりました。彼女の名前を聞かせてください」
と、答えざるをえませんでした。場の空気に私は追い込まれておりました。
 「行ってくれるんですか!ありがとうございます」
彼は今まで以上に勢いのある口調で話を続けました。
「麻由希と言います。石和麻由希です。髪は黒で肩までの長さです。歳は二十三歳。区役所勤めです。身長は、そうですね、百五十五cmぐらいでしょうか・・・」
畳みかけてくる彼の言葉に対し、私のメモは間に合っておりませんでした。
 部屋中を探してみましたが、武器と呼べるものは何もありませんでした。
 しかし何も持たずに部屋を出る勇気もありませんでしたので、多少頑丈にできていた木製のハンガーを手にしました。これで思いっきり頭を殴れば相当なダメージは与えられるはずでございます。私は趣味でゴルフをしておりましたので多少なりともスイングには自信がありました。もちろん他人の頭など殴ったことはありませんでしたが。
 「私も行かないと」
妻も一緒に浴場に向かうと云い出したのです。理由は簡単でした。
「トモだと女湯には入れないでしょ」
状況が状況なだけに何とかなるのではないかと思うのですが、もしそんな理由で浴場に入れなかったら、危険の中を辿り着いた努力が水の泡です。しかし、私は咄嗟のときに妻を守りきる自信がありませんでした。もちろん断るべきですが、妻は一度口にしたことは決して曲げません。結婚して十三年になりますが、自分の嫌いな物は、夫の私が大好物であっても絶対に口にしません。作ってはくれますがね。
 先の事を考えて私は彼とLINE(ライン)でつながりました。電話自体が混線してもネットならばいつでも交流できます。ちなみに妻は未だにスマートフォンではないのでLINEを使用することができません。私の携帯電話と 彼の携帯電話だけが五階までの道筋で情報を伝え合える唯一の手段ということになります。
 「麻由希に愛していると伝えてください。お願いします」
自分で伝えればいいのに、とはもう思いませんでした。こんなにも他人に頼られたことは人生で初めてだったからでございます。中学校では数学を教えていましたが、生徒は塾の講師に質問をよくしていたようでございます。北海道は中学一年生の内申点から高校入試に係わってきますので、表立って問題を起こしたり、私に対し敵愾心を剥き出しにするような生徒はいませんでしたが、反面、頼ってくる生徒も皆無でした。
 だから燃えたのかもしれません。
 妻が他人のために何か行動を起こしたいと云ってくれたことも少なからず私の背中を押しました。
 今考えると世間知らずの乙女のようなウブな決断でございます。おそらく今後の生涯で二度と同じ決断を下すことはないでしょう。
 十中八九殺されることがわかっているからです。
 二人が無事に戻ってくる可能性は限りなくゼロに近いと思います。
 まあ、知らぬが吉ということもあるのかもしれません。
 私たちは電話を切り、私服に着替え、恐る恐るドアに近づきました。
 のぞき穴がないので外の様子がわかりません。これがビジネスホテルと温泉宿の違いなのでしょうか。
 私たちは音だけを頼りに外の危険を察知しようとしたのでございます。遠くから悲鳴が聞こえてきます。遠く、おそらく別のフロアだと感じました。近くには足音も唸り声も聞えてはきません。
 それでもやはり意を決してドアを開くことができなのです。
 もし、外で待ち受けていたら・・・。
 もし、高橋守が犯罪者の集団の一員だったら・・・私たちはまんまと騙されたことになるのでございます。
 一抹の不安、というよりも想像力を高めれば多くの不安要素が頭をよぎります。

 踏ん切りがつかない状態が十分ほど続いたでしょうか。

 妻が脈絡もなく突如ドアを開いたのでございます。

 そして真っ先に向かいのエレベーターへ駆け、ボタンを押しました。

 私は茫然自失で、その姿を見守っているだけでございました。
 女は度胸・・・誰かがそう云っていたのを思い出しました。

 部屋を出てからの事は、正直ほとんど覚えておりません。
 とにかく必死だったからでございます。
 そんな中で印象に残るエピソードがいくらかございます。次回はそのお話をしていきたいと思います。
 それでは一度失礼させていただきます。

第五話 五階

第五話 五階

 お待たせいたしました。
 みなさまもご覧になられたことと思います。昨日ネット上で大炎上したゴシップネタのことでございます。私は事の真相よりも、書き込みの数にびっくりしました。日本中でまだこんなにも生き残っていらっしゃる方々がおられることに驚き、また強い希望を抱きました。
  どんな不幸や災害が起こっても日本人はあきらめず、そのたびに逞しく復興してきたのでございます。歴史がそれを証明しております。生きていれば、私たちが平穏に生活できる日々、かつての文明を必ず取り戻せるはずでございます。諦めてはいけません。自暴自棄になっても駄目でございます。みんなが同じ境遇で歯を食いしばりながら懸命に生き抜いているのですから。
 頑張りましょう、みなさん!
 それにしても昨日のニュースには私も驚きました。
 某大国から輸入されたあの食品の中にウィルスが混入されていたなど・・・。
確かに日本、アメリカ合衆国、ロシア連邦、そしてインドに今回の伝染病の発生が集中していることから考えてもあながち眉唾とは言えない話でございます。あの九月二十八日に日本国中で一斉に症状が現れたこともこれで説明ができます。
 しかし、これまでも多くの原因解明とされるニュースがネット上を騒がせてきました。そしてその都度、偽りの話であることが明らかにされてきました。今回の件も決して鵜呑みにはできません。
 ただ、あの食品に関して思うところはございます。私の妻は、国産のみしか購入しないと日々こだわっておりましたから、私たちが口にすることはありませんでしたが、「あの日」、ホテルの夜のバイキングには見かけた気がいたします。いえ、無かったかもしれません。申し訳ありません。記憶が定かではないのでございます。どちらにしても私も妻も偏食でございましたからあっても口にすることはありませんでした。
 
 さて、九月二十八日未明の話に戻しましょう。
 私と妻は高橋守という横浜から来た大学生に頼まれ、五階にある露天風呂まで石和麻由希という女性に会いにいくところでございました。
 足の竦んでいる私をよそに、妻はドアを開き、辺りの様子をうかがうことも無くエレベーターまで駆けだしました。ボタンを押すと、エレベーターは運よく八階で止まっており、すぐに開きました。
「トモも早く来いし!」
 「~しろし」というのは甲州弁でございます。「しなさい」を「しろし」と山梨県の人々は云うのです。私も最初は驚きましたが、「~しろ!」という命令口調よりも「~しろし!」の方が幾分優しさを感じます。私も妻と話をするときはよく使っておりました。
 とにかく私は慌ててエレベーターへと向かいました。右手の通路はずっと奥まで続いている直線で、部屋は二十室以上あったと思います。左手の通路はすぐに曲がり角になっており南北に続いておりました。
 今、思い出しても背中に鳥肌がたちますよ。エレベーターから手招きする妻だけを見て一目散に駆けたとき、右手の方向で人影を感じたのですから。気のせいだったかもしれませんが、五メートルほど向こう側で何かが動いていたように思えます。私は振り向いて確かめることなど一切しません。走り込むなり私はすぐにボタンを押しました。
 エレベーターにはどうしてあんなにも多くのボタンが存在しているのでしょうか。冷静であれば特に気にもならないことですが、パニックになっていた私は「開」のボタンを連打していたのでございます。なぜ閉まらないのか、私は気持ちだけが先走っておりました。 
 たまらず妻が私の手を跳ねのけ扉を閉めました。その時に妻は、何か叫びながらボタンを押していたような気がするのですが覚えておりません。血走った表情で、壊れるのではと心配になるほど強くボタンを押しておりました。走り込んできた私の背後の廊下に何かを見たのかもしれません。私は首筋に息のような空気の流れを一瞬感じた気もいたします。
 お互いに何かを確認する間も無く、エレベーターは五階に到着いたしました。私たちは扉が開くまで呼吸をするのも忘れておりました。
 さて、気持ちを切り替え、先を確認します。
 ここを左手に進めば目的の浴場でございます。途中で分かれ道があり、道なりで問題ないのですが、曲がってしまうと宴会場に行きつきます。たしかこの日は団体客も少なく、宴会は行われていなかったように覚えております。温泉帰りに通ると、薄暗く、どうにも近寄り難い雰囲気でございました。
 妻も怯え始めておりました。唇も青紫色に染まり、がたがたと震えているのです。
 私はふと、大学生時代のことを思い出しました。山梨県の河口湖近くに富士急ハイランドという遊園地がございまして、よく妻と遊びに行ったものでございます。妻はジェットコースターなどのアトラクションには強く、何度も 平気な顔をして乗っておりましたが、お化け屋敷などの別の恐怖を煽るアトラクションには滅法弱いところがありました。当時は病院をそのままアトラクションの舞台にした施設がありまして、懐中電灯一本を持ってその三階建てのお化け屋敷を彷徨うのです。妻が途中に隠れていたお化けに驚き、追われたときに転んで膝をすりむき、泣きながらギブアップした姿を思い出しました。妻はこういう恐怖は苦手なのでございます。そもそも宿ではトイレ前の玄関の電気を消さずに寝るぐらいの怖がりでございました。
 しかし、戻ることもできません。責任感がそうさせたのでございますが、どちらにせよ八階に戻れば、必ず何かに待ち構えられている予感がございました。私たちには進むしか他に選択肢が無いのございます。
 「私、無理かも・・・」
先ほどとは打って変った妻のか細い声。今頃そう云われても私はどうすることもできません。軽率な振る舞いをここで叱りつけている時間も無いのでございます。前を向いて私が先導するしかないのです。
 「静かに・・・」
私は意を決してそう云うと、妻の手を取りエレベーターを出ました。走れば三十秒とかからぬ距離ではございましたが、警戒しゆっくりと足を進めました。冷えた小さな妻の手を握りしめながら・・・
 窓の外は激しい雨でございました。ふと外を眺めると大きな橋が架かっておりました。
 オレンジ色の街灯の下、車はまったく通っておらず、閑散とした景色でございましたが、ふとそこに人間の影が動いたのでございます。向こうからこちらに走ってくる一人の女性のようでございました。傘をささず、転げるように走って参ります。すると手前にも人影が・・・五名くらいでございましょうか、彼女を待ち構えるようにしております。その姿に気づいた女性は慌てふためき反転しました。今度は逆方向から十名くらいの集団が彼女の後を追ってくるのです。前後から追い立てられ、八方塞りの状態になりました。この雨のなかを誰も傘をささずに・・・。何とも言えない違和感がありました。と、前後から来た集団が一気に彼女に群がったのでございます。あっと言う間に女性の姿は見えなくなりました。死骸に群がるカラスたちのような光景でございました。
 それが一瞬のことでございましたので私は現実味を帯びたものと捉えることはできませんでした。妻は外の景色など気にはしておりません。周囲を雀のようにキョロキョロしております。私はこの件が悟られぬよう、窓を身体で隠しながら進んだのでございます。この恐ろしい光景を目にしたとき妻がどんなリアクションをとるのか、私には容易に想像がつきました。
 マッサージの店を過ぎ、私たちは浴場の前に着きました。数台あるマッサージ器の裏などに何かが隠れてはいないかと充分見渡しましたが、特に変わった様子はございません。
 私たちは何ら異変に遭遇することもなく、無事に目的地に着いた訳でございます。
 なんという幸運。ビギナーズラックとはまさにこのことでございます。
 私たちはそのまま女湯の入口へと向かいます。ほっと胸を撫で下ろしながら暖簾を潜ったのでございます。あの時は自らの幸運を喜んでおりましたが、実は運ではございませんでした。それを知ったのはすぐ後にことでしたが、これは高橋守の策略だったのでございます。
 だからと言って彼に唾を吐くようなことも私たちはできません。なぜなら私たちは思いもかげず彼の思惑に救われることになったからでございます。
 浴場内に入った私たちは悪夢のような惨状を目の当たりにすることになります。それは実に衝撃的な光景でございました。
 未だにあの光景が蘇って参ります。そしてその夢がもう覚めないことに気が付き、また絶望にかられるのでございます。
 
 さて、本日はここまでとさせていただきます。起きている時間を極力短くすることもエネルギー消費を抑える大切なポイントなのでございます。生き残るすべでございます。
 それでは一度失礼させていただきます。

第六話 出会い

第六話 出会い

 お待たせいたしました。
 先日、掲示板にご質問をいただきました。津市の男性の方からでございました。他人との交流は私に勇気を与えてくれます。ありがとうございます。私の記憶では津は、ウナギで有名な地域だったではないでしょうか。ウナギなどもう随分と口にしてはおりませんが・・・。
 質問の内容は、日頃何をして過ごしているのか、ということでございました。
 当然ながら外出は控えさせていただいております。
 冗談はさておき、本日の我が家の過ごし方をお伝えしましょう。
 妻は、完成し額に飾ってあったジグゾーパズルを崩して、一から始めておりました。妻は生来、パズル好きでして千ピースのパズルが我が家にはたくさんあるのでございます。私には何が楽しいのか理解できませんが、妻の誕生日やクリスマス、ホワイトデーなどのイベントの度にプレゼントしてきたものでございます。妻は自分の世界に浸り随分と楽しそうに取り組んでおりました。
 私はと云いますと・・・たいへんつまらない話ではございますが、本日は「円周率」を覚えておりました。円周率とは円周の長さをその直径で割った数値でございますが、3.1415926535・・・と無限に続く無理数でございます。
 円周率は実に不思議でございます。規則性は全く無いのです。一説にはこの無限に続く数字の中には地球上に住むす全ての人間のパーソナルデータが数値化され存在するそうでございます。私の誕生日からその歳の身長や体重、髪の毛の本数まで掲載されているのでございます。おそらくいつ結婚し、いつ死ぬのか、その人間の全てがそこに反映されているのです。
 この地球の誕生から、滅亡までも・・・。
 円周率には宇宙の全てが、もしくは運命の全てが詰まっているのでございます。
 私はその不思議な感慨に浸りながら今日を過ごして参りました。もちろん飲まず食わずでございます。
 みなさまはどのような一日を過ごしていらっしゃるのでございましょうか。
 
 さて、九月二十八日未明、「あの日」の話に戻しましょう。
 私と妻は層雲峡のホテルに宿泊している最中に事件に巻き込まれました。その中で二階に宿泊している高橋守という学生から恋人の捜索を依頼され、五階の露天風呂へと向かっていたのでございました。
 予想に反し、私たちは危険な場面に遭遇することも無く無事に浴場入口に到達いたしました。
 さらに私たちを驚かせたことは、浴場入口のドアに鍵がかかっていなかったことでございます。バリケードなどで妨害され、室内に入ることは難しいのでは、と危惧していただけに、なんとも肩透かしを食ったような感じでございました。
 私と妻は恐る恐るドアを開き、中へと進みました。
 甘い匂いが鼻孔をくすぐります。生まれて初めての女湯に私は足を踏み入れたのでございます。状況が状況ですが、妙に胸が高鳴りました。
 脱衣室には誰もおりませんでした。棚には浴衣を収める籠がいくつもございましたが、全て空でございました。
 けたたましい非常ベルが消えてから時が経過しておりまして、辺りは静寂に包まれております。私たちが探している石和麻由希の姿は脱衣室にはありませんでした。
 私はさらに奥へと進み、彼女を探索しようとした矢先、妻が左手にあるトイレのドアの前に立ったのでございます。そして優しい声で囁やきました。
「・・・大丈夫ですか?そこに居たら駄目ですよ。出て来て私たちとここを逃げましょう。今なら外は安全です」
トイレの中で人の気配がいたしました。
「誰、ですか。従業員の方ですか。警察の方ですか」
中からか細い声が聞こえて参りました。若い女性の声でございます。少女と呼ぶにはしっかりした声でございました。
「私たちもここの宿泊客です」
妻は落ち着いた口調でそう返しました。
 立て籠もっている女性も様々な葛藤をされていたのでしょうが、やがてドアを開き、私たちの前に姿を現しました。おそらく妻がここにいなければ彼女が出てくることはなかったでしょう。
「私は山岡友広といいます。こちらは私の妻です。あなたは石和さんですか?」
男の私がそこにいたことに驚いた様子ではありましたが、夫婦だということで警戒する気持ちは和らいだようで、素直に応じてくれました。
「そうですが・・・どうして私の名前を知っているんですか?」
その言葉を聞き、私は思わずガッツポーズをしてしまうところでした。このような非常事態でこうも安易にミッションをやり遂げられたことに自己満足したのでございます。
「よかった。あなたが石和麻由希さんなんだ。ほんとによかった」
妻は目尻に涙を潤ませながら何度もそうつぶやきました。
 石和さんは不思議そうに妻を見ております。
「石和さんは一人ですか?」
そんな彼女に私は話かけました。
「はい・・・私一人で部屋を出て露天風呂に来たんです。そしたら非常ベルとアナウンスが流れてきて・・・怖くてここに逃げ込んだんです」
「そうですか。でもよかったですよ。ここに隠れていて正解です」
「いったい何が起こっているんですか?部屋に残してきた友達は大丈夫でしょうか?」
青ざめた表情で彼女は私に詰め寄ってきました。
 私は「友達」という言葉に少しばかり引っ掛かりを覚えましたが、「恋人が」だとか「彼氏が」というキーワードをなかなか口にできない様子を見て、彼女から清々しい奥ゆかさを感じました。
「大丈夫です。私たちはその友達に頼まれてここに来たのです」
「そうなんですか」
「それはもう熱く説得されましたよ」
私は少しからかい気味にそう答えました。
 ようやく私も彼女をまじまじと見る余裕ができておりました。彼女はスラリとした体形で、色は白く、唇はとても厚い美人でございました。動くたびにその腰まである黒い長髪から良い香りがいたします。
「奈々子が・・・男の人に話をするなんて・・・」
私は彼女に見とれてその言葉を聞き流しておりましたが、妻は驚いて聞き返しました。
「奈々子さん?あなた、何人で宿泊してるの?」
「何人?二人ですけど。私と幼馴染の奈々子の二人で北海道旅行に来ているんです」
それを聞いて私と妻は同時に唖然として声を失いました。
 では、私たちに依頼をしたあの高橋守は供に宿泊しているわけでは無いことになります。
 それでは、あんなにも情熱に満ちた語りをしていたあの男性は何者なのでございましょうか。
 その時、私の携帯電話が振動しました。LINE(ライン)を通して高橋守から通信が来たのでございます。
 そして、まったく同じタイミングで浴場の入口のドアが激しく開きました。
 
 止まった時がまたあわただしく動き始めました。
 
 運命とはまったくもってわからぬものでございます。
 
 そして衝撃的な惨状を私たちは目の当たりにするのです。

 さて、本日はここまでとさせていただきます。はたしてこの空腹で眠りにつけるのか自信はございません。もう三日、まともな物を口にしてはおりません。執筆を続ける力も無いのでございます。続きはまた体力の回復を待ってさせていただきます。
 それでは一度、失礼させていただきます。

第七話 侵入

第七話 侵入

 お待たせいたしました。
 前回の掲示板に対し、随分と批判めいた返信をいただきました。
 私の石和麻由希さんについての描写が、妻帯者のものとして不適切な表現だというものでございます。指摘されて読み直してみると、確かに女性として意識しすぎた感がございました。ですが決して私心があってのことではございません。私は妻と一緒でしたし、そのような気持ちになったことは決してございません。若い頃とは違い、面と向かって伝えることは無くなりましたが、私は妻を愛しております。無用な詮索はご容赦くださいませ。もちろん不快な思いをされた皆様に謝罪はいたします。
 
 さて、九月二十八日早朝の話に戻しましょう。
 私と妻は宿泊宿の五階、露天風呂のある浴場の脱衣室で探していた石和麻由希さんを発見しました。恋人の高橋守からの依頼であることを伝えようとしたところ、彼女から思いもかけぬ返答が返ってきたのであります。 石和さんは高橋と宿泊していなかったのです。彼女は幼馴染の奈々子という女性と二人で北海道旅行をされている最中でございました。
 狐につままれたような私と妻でしたが、ちょうど折よく、高橋から私の携帯電話にコンタクトがございました。
 これについて一言触れておかねばならないことがございます。LINE(ライン)というインターネット回線を利用した交信でございますが、私の場合、声のやり取りはできませんでした。文字のやり取りはできるのですが、なぜか規制があって話は直接できないのでございます。未だに原因がわかりません。
 指で携帯電話の画面をたどると高橋からのメッセージがございました。
《どうですか?石和麻由希は見つかりましたか?》
実にシンプルな内容でございました。
 私がすぐに返信しようとした、その時のことでございます。
「ワアア、ッタアアアア」
雄叫びとも悲鳴ともつかぬ声とともに廊下側のドアが勢いよく開きました。私たち脱衣室の三名はビクリとしてその方向を見つめました。
 今考えると不用心極まりないのでございますが、その時は侵入者への備えなど何一つしてはおりませんでした。石和さんに出会えたことをただ純粋に喜んでいただけでございました。
 「た、助けて!」
入ってきたのは二人でございました。逃げ込んできたという表現が正しいと思います。顔や体形から六十歳台の老夫婦といった感じでございました。二人から何かが滴り落ちていたので雨の中を来たのかと思いましたが、よく見ると血だらけだったのでございます。
 「早く、早く、そのドアを閉めてくれ」
男性の方がうめくようにそう云いました。女性がその場に崩れ落ちそうになるのを男性が必死に支えております。その男性の首筋からは滝のような出血が・・・。
私は慌ててドアを閉めました。咄嗟の事でしたが、条件反射的にそのような行動をとることができたのは危険を察知したからのことでございましょう。動物として本来持ち合わせている防衛本能が働いたのに違いがありません。

 「ドン!」

 ドアを閉めた瞬間に向こう側から強い衝撃がございました。
 そして部屋で聞いたあの唸り声・・・。
 声の主は物凄い強さでドアを押してくるのでございます。まるで獣のような乱暴な衝撃でございました。
 私は背中をドアにつけて必死に踏み留まりました。が、何度も突き上げてくる衝撃に耐えられそうもございません。私の妻と石和さんがそれに気が付いて私に駆け寄るなり両手でドアを支えます。その勢いで石和さんの浴衣は乱れておりました。が、当然ながらそのようなところに目を奪われてはおろません。
 私は踏ん張りながらも、視線は倒れ込んだ夫婦に釘付けでございました。私は生まれてこの方、このような大量に流血する怪我を間近に見たことはございません。ですので、この光景を見ただけで腰がぬけそうでございました。
 かがみこんだ女性の方は浴衣が乱れ、右ひじ辺りと左足首の辺りから血が噴き出しております。旦那さんだと思われる男性は自らの首筋に手を当て、必死に血を止めようとしながらも逆の手で奥さんの肩を抱いておりました。あっと言う間に足元に広がる血の海を前に、私は夢見心地でございます。
 どのくらいの時が流れたのでしょうか。三十分くらいでしょうか。いや、もしかしたら十分ほどだったかもしれません。抵抗してくる力が無くなっても私たちはしばらくドアを押さえる力を抜くことはできませんでした。
その間、老夫婦は何かを呟きながら床で悶えておりました。先に力尽きたのは旦那さんの方でございました。あまりに大量の血を流しすぎたのでございます。奥さんがそれに気づき嗚咽を漏らしました。旦那さんは目を見開いたまま静かに床に倒れました。その目から生気が失っていく最後の瞬間、私たちの方を見て、こう発したのです。

 「・・・い、石和麻由希さん・・・あんたを助けにきた・・・・」

 ええ、間違いありません。その男性は確かにそう云ったのでございます。
 私たちと同じ目的でこの夫婦はここに来たようでございました。
 私と妻はまじまじと隣に立ち尽くす石和さんを見つめました。彼女は一体何者なのでございましょうか。彼女は私と目を合わすと、その大きな瞳を伏せながら首を振ったのでございます。どうやら彼女はこの夫婦のことを存じていない様子でございました。
「早くあの奥さんを病院に連れていかないと。救急車を呼ばないと」
妻がそう叫びました。私はドアへの力を緩めることなく、携帯電話のボタンを押しました。一瞬見たLINE(ライン)の画面では高橋からのメッセージがずらりと並んでおりました。
《どうなんだ?なんとか言ってくれ》
《いい加減にしろ。答えろ》
《殺すぞ 答えろ》
恐ろしい文章を見た気がしましたが、それどころではありません。高橋を無視し、緊急コールをしようとするのですが、相変わらず電話は不通状態でございました。
 私は怪我に対処するノウハウを持ち合わせてはおりません。誰かを頼る以外にこの局面を乗り切ることはできないのでございます。
「露天風呂の方から外に出られるはずです。外に出て助けを呼ぶしかありません」
石和さんが私と倒れている老夫人を見比べながらそう云いました。ふと、内線用の受話器が私の視界に入りましたが、部屋から何度試してもつながらなかったのでございます。試している時間は無いように思えました。
 妻が興奮した表情で、
「トモが行くしかないでしょ」
「でもここのドアを押さえる人がいなくなる」
このドアには鍵がついていないのです。誰かがここでドアを押さえていないと簡単に侵入されてしまうのでございます。
私と妻のやり取りを見て、石和さんがこう提案されました。
「そこのトイレは鍵がかかりますから、私があのおばさんを連れて隠れます。その間にお二人は外に出て助けを呼んできてください」
彼女はそう云うと着衣を正し、ゆっくりと老夫人に近寄り、自分が部屋から持参したのであろうタオルをその傷口に当てました。
「ひどい。・・・これは噛み傷?」
噛み傷・・・私は、この夫婦に何があったのか想像するだけでも足が震えたのでございます。石和さんは老夫人を抱えるようにして一つだけあるトイレへと連れていきました。夫人は涙と血にまみれた表情を倒れた旦那に向けながら、促されるまま歩き出しました。
 妻もそれに合わせてすぐに行動に移ります。そして私の方を見て、
「トモ、早くしろし。急がないと間に合わなくなるよ」
「・・・わかった。行こう」
私はそう云うと恐る恐るドアを離れました。倒れた男性の遺体の横を通り過ぎ、この場に残す石和さんに後ろ髪を引かれる思いのまま、浴場へ向かいました。背後でトイレのドアが閉まる音、鍵のかかる音を確かめ、私は浴場へのドアを開きました。そして屋内の温泉を抜け、屋外に出たのでございます。
 この時にはもう夜は明けておりました。
 目前にそびえる山々の紅葉がはっきりと見て取れたのでございます。
 私たちにもう少し知識と経験がござましたら、決断は変わっていたはずでございます。
 ここから先は後悔とそこから教訓を得る学習の日々でございました。返す返すもあの場に石和さんを残してきてしまったことを悔いております。

 さて、本日はここまでとさせていただきます。
 目を瞑ればあの時の惨状が浮かんで参ります。あれから後、数限りない陰惨な光景を目にしてきましたが、どうしてもあの最初の衝撃が強く脳裏に焼き付いております。おそらくこの記憶は永遠に消えることはないのでしょう。
 新しい世界を迎えてからの、これが私の原風景でございました。
 それでは一度、失礼させていただきます。

第八話 悲鳴

第八話 悲鳴

 お待たせいたしました。
 やつらの五感の中で一番鋭いものはどれなのか、掲示板を通じて確認しあったところ、「聞く」点ではなかろうかという結論に達しました。
 やつらの視力はとても良いとは言えません。じっとしていれば三メートルほどの距離でも気づかれることはありません。
 人間の匂いを嗅ぎつける力は我々よりも強いと思われます。特に血の匂いには敏感で、どんな暗闇でも血が滴る地点に正確に群がります。まるで鮫のようです。
 それ以上に警戒すべきは「音」でございます。風の音、雨の音、鳥の鳴き声などにはまったく刺激されないのですが、こと人間が発する音には異常に敏感です。足音、悲鳴などはもちろんのこと、自動車のエンジン音や携帯電話から発せられる電子音などの人工的な音までもやつらは興味を持つのでございます。そして火に飛び込む蛾のように引き寄せられてくるのです。
 やつらは我々人間とは大きく異なる特徴を持っております。もはや「新種」と呼んでもなんら問題は無いのかもしれません。
 「触れる」という点において、やつらは人間の体とそれ以外を判別することしかできず、また「味わう」という点においては、生きている状態の人間の肉しか口にしようとはしません。
 まさに対人間用生物、人類の天敵のような存在でございます。
 某国の敵国攻略用軍事兵器という予測も当たらずとも遠からずなのでございましょうか。
 
 さて、九月二十八日早朝の話に戻しましょう。
 五階で石和麻由希さんに遭遇することができた矢先、私と妻は同じ目的で石和さんを探していた老夫婦にも出会いました。老夫婦はやつらの襲撃にあった直後で、旦那さんは首からの出血が大量のためすぐに亡くなりました。夫人の方は腕と足の傷が激しかったものの早く処置をすれば助けられる状態でございました。廊下には老夫婦を襲った何者かが潜んでおりドアから外には出られず、電話も混線が続き助けを呼べません。石和さんと負傷した夫人を脱衣室のトイレに隠れさせ、私と妻は露天風呂から脱出し助けを呼ぶことになりました。
 「トモ、気づいた?」
露天風呂の周囲は木々が連なり、そして崖のようになっております。どこから降りたものなのか辺りをうかがっていると背後から妻がそう呼びかけました。
「もう朝になっているってこと?」
「違うよ。そのメモ、見てみろし」
 私は茶色のセーターのポケットからメモを取り出し読み返してみました。二階の高橋守から石和さんの特徴について聞いた情報がまとめられています。
 そこには、石和麻由希、髪は黒で肩まで、歳は二十三歳。区役所勤め、身長は、百五十五cmと書かれていました。
 髪は肩まで?
 確か先ほど出会ったとき、石和さんの髪は腰までありました。妻が、ようやく気が付いたのかという表情で話を続けます。
「たぶん、日頃は髪をアップにしてるんだよ。きっとあの男はリラックスした状況の彼女の姿を見たことないんじゃない」
「どういうこと?」
「鈍いな。日中の彼女しかしらないってことよ。それで恋人って言える?」
「つまり付き合ってる関係では無いってことかい?」
「でしょうね。しかも親しい関係でも無い」
「だけどあの説得の熱の入れようは・・・あの男の片思いかもしれないってことかい?」
「かい、かい、うるさいなあ。その北海道の方言やめてっていつも言ってるでしょ。きっとストーカーかなんかなんでしょ。気持ち悪い」
 妻からいつもされている指摘は私の耳には届いておりませんでした。思い返してみると高橋守には気になる点がありました。私からの連絡が遅いことに激しい憤りを感じているのはわかりますが、LINE(ライン)のコメントは常軌を逸しています。私は彼から狂気のようなものを感じたのでございます。
 女の直感は鋭いものがございます。私は過去、身をもってそれを妻から知らされておりました。
 「ちょびちょびしちょ!早くしないとあのおばさん助からないよ。」
人には北海道の方言を規制するくせに自分は甲州弁丸出しでございました。言葉の意味はいずれ説明させていただきます。
 「ガン!ガン!」
私は部屋を出た時からずっと手にしていた木製のハンガーで身近にあった大木を殴りつけました。ポケットの中では引っ切り無しに振動する携帯電話。高橋からのコンタクトでございました。私は彼と交信するつもりはもはやありません。私と妻は、いや、あの負傷した老夫婦もおそらくあの男に騙されたのです。この状況など露知らず、それでもしきりにくるLINEの交信は自分勝手なあの男そのままで、何とも言えない怒りがこみあげてきたのでございます。 
 「トモ!パトカーだ!救急車も!」
妻は歓喜の声を上げました。崖の下を見下ろしてみると、随分下に何台も停まっております。あの赤い光がこんなにも頼もしく見えたのは初めてのことでございました。サイレンは鳴っておりませんでした。
 「駄目だな・・・ここからじゃ降りられない。迂回して道を探そう」
「大きな声で呼べば気づいてもらえない?だってほら、あそこにお巡りさんがいるよ。」
パトカーの外に一名、よく見ると車の中にもいます。救急車の運転席にも人影がございました。妻の云うように、呼べば声が届くかもしれません。私はこれでも声には自信がございました。昔は大きな声で授業がわかり易いと評判だったものです。山々に響く大声でいっちょ叫んでやろうかと身構えたその時のことでございます。どこからともなくまたあの集団が眼下に群がってきたのでございます。二十名はいたでしょうか。
 その光景はまるでラグビーの試合をやっているかのようでございました。あっと言う間に外に出ていた警官は引き倒されます。よくは見えませんが群がった人々は警官に噛みついているようです。大きな悲鳴がこだましました。慌ててもう一名の警官や救急士が車から出てきました。途端にそこにもやつらは群がったのです。どこから湧いて来たのか数は五十名には達していました。救急士の一名が救急車の後部から飛び出し、逃げ出しました。しかし、十歩も行かぬうちに左右から挟み撃ちにあい引き倒されます。
 「キャー!」
妻が一歩も動けずその光景を目撃し悲鳴を上げました。もしかしたら私の悲鳴だったかもしれません。
 その瞬間、やつらがこちらを一斉に見たのです。
 そして全員がニヤリと笑いました。
 遠目でもその表情は確認できたのです。薄気味の悪い、それでいて無邪気な微笑み。そして一斉にあの唸り声をあげたのです。服装、性別、年齢はバラバラなのに統制がとれた動きでございました。やつらはすぐには向かってきません。こちらを見ては、ビクビク動く横たわった人間に食らいつき、噛みしめながらこちらを眺めます。獲物が動かなくなり絶命するまでその動作は続きました。
 やがてやつらは我先にと、口元から血を滴らせながら私たちの方向へ走り出しました。足元を確認することや周囲を気にすることなく、私たちだけをずっと見上げながら崖に迫って参ります。不自然なことに表情は皆ずっと笑顔でございました。
 十五メートルぐらいの距離がございましたし、私たちが降りられないと断念しようして程の崖でございましたから、やつらがそう容易く登ってなどこられないはずですが、それでも私たちはかつてない恐怖、焦燥感に襲われておりました。大人たちがあんなにも歓喜の笑みで全力疾走する姿を私は見たことがありません。まるで私たちがここから万札の紙幣をばら撒いているかのような錯覚にも襲われました。無論やつらが心底求めているのは金ではなく、私たちの身体なのですが・・・。
 「キャー!!」
妻の声とは違う悲鳴が背後で響きました。
「石和さん!?」
浴場の奥、脱衣室の方向から聞こえてきたのです。
 「囲まれた・・・」
窮地に追い込まれたことに気が付きました。
 ついに私たちはやつらの標的になったのでございます。いえ、もともと標的にされていたのでしょうが、ここで初めてそのことに気が付きました。
 ここから私たちは必死に自分たちの部屋に戻ることになるのですが、言うは易し行うは難し。どれほどの回り道をしたことでしょうか。
 
 さて、本日はここまでとさせていただきます。
 音がたてられない生活の不便さといったらありません。みなさまはもう慣れたのかもしれませんが、私は時折思いっきり大声を出したくなる瞬間がございます。もう一度平和が訪れたら真っ先にしたい事の一つでございます。
 もう眠る時間ですね。
 習慣とは恐ろしいものです。実は私は夢の中でも声が出せないのです。
 それでは一度失礼させていただきます。

第九話 逃亡

第九話 逃亡

 お待たせいたしました。
 先日、掲示板にありました疑問についてお答えいたします。
 私が今どこにいるのか、どこでアクセスしているのか、予想されたり、心配してくださっている方が多いようでございます。冒頭で話をしたつもりでしたが、不十分だったようですね。私はネットカフェに逃げ込んだわけでも、地下かどこかに潜んで携帯電話をいじっているわけでもありません。
 私は旭川市の自宅にいるのでございます。
 私は二階の窓から日々、外を眺めております。もう十二月ですから寒気も強まり、日も短くなって参りました。真っ白な空からは深々と降り積もる雪。目前の鷹栖神社もすっかり雪化粧の装いでございます。その中を点々と彷徨い歩く黒い姿。そこだけはこの二ヶ月あいも変わらぬ光景なのでございます。
 やつらは「群れ」では日頃行動しません。あくまで単独で動き回るのです。集団となるのは獲物を発見したときだけです。
 やつらは等間隔で離れて歩き回っております。それぞれがそれぞれの速度、進む方向も様々ですから一見はバラバラです。ただ、驚くべきことは、やつらには縄張りが存在するのです。その領域はおおよそ三メートル×三メートル四方ほどでしょうか。そしてその縄張りの中をぐるぐると休むことなく歩き続けます。動物園の熊のように同じルートを同じ歩調で永延と回り続けるのです。
 私はこの自宅の二階から何度も目撃した光景がございます。
 縄張りにほかの者が侵入したときのケースです。普通の動物だと同種であっても縄張りを守るため威嚇する行為があったり、調節攻撃したりすることが多いのですが、やつらは違います。もとの縄張りを張っていた者が隣の縄張りへと移動するのです。つまり譲り合うのでございます。そして隣に縄張りを張っていた者もさらに隣へ動く・・・実にスムーズに全体の縄張り構成が変化していきます。
 私は初めてそれに気づいた時、感動すらいたしました。やつらは実にシステマチックな種なのでございます。
 獲物が悲鳴を上げたとき、その声の届く範囲の者たちは縄張りを捨て、こぞって集まってきます。そして獲物の息が絶えた後は、またゆっくりと縄張りの構成が始まっていくのです。しばらくの時間の後、規則性に富んだ美しい幾何学的な配置が完成します。
 やつらはこうして隅々まで種の生息範囲を行き届かせているのでございます。
 まあ、我が家の周辺で起きた事件はまたいずれお話をさせていただきます。

 さて、九月二十八日、早朝の話に戻しましょう。
 露天風呂を抜け、なんとか崖を降りて救援を求めようとしていた私たちの眼下で警官や救急士が襲撃されました。それを見た私の妻の悲鳴、そして背後の浴場内からは襲撃されたのであろう石和麻由希さんの悲鳴。もしかすると私も四面楚歌の現状に対し同じように苦悶の声を漏らしていたかもしれませんが、とにかく私たちの声がやつらを引き寄せておりました。この時にはその危機感はありませんでしたが・・・。
 地上に溢れたやつらは一斉に斜面の木に手をかけ、なんとか這い上がってこうようとしておりました。
 私は腰をぬかしたようにうずくまる妻の手を引き、屋内の方へ引き返します。
 浴場へのドアを開くと、女性の悲鳴は先ほどより大きくこの耳に届きます。私はその声の主が石和さんであることを確信しました。
 「トモ駄目だよ。これ以上行くと、あいつらがいるよ」
妻は完全に委縮しております。涙を流しながら先に進むことを拒絶します。私たち二人はしばらく屋内の浴場で立ちすくみました。二つほどある風呂の中には当然誰も入っておりません。ガランとした屋内に妻の震えた声だけが響き渡ります。
 私は一端妻の手を離し、木製のハンガーを握りしめながら脱衣室へのドアに近づきました。石和さんの悲鳴が断続的に続いております。同時に、死にもの狂いでドアか壁を強く叩く音も聞こえてきます。曇り切ったガラスドアの向こうに乱暴に動く影・・・明らかに石和さんのものではありません。
 私はゆっくりと音をたてずに脱衣室に続くガラスドアを開きます。そして壁に頭をこすりながらガラスドアの隙間から向こうを垣間見ました。
 男の背が見えました。
 倒れていたはずの老夫婦の旦那さんのほうでございました。亡くなったと思っておりましたが生きていたのです。そういえばあの時、手をとって脈を確認したりはしていませんでした。首からの出血があまりに激しかったので。亡くなったのだと早合点してしまったことに反省いたしました。
 それにしても元気に動いております。
 よく見ると、石和さんが隠れているはずの鍵のかかったトイレのドアに拳と全身をぶつけているのです。
 トイレのドアは開いてはおりませんでした。
 石和さんはまだ中で隠れております。では先ほどの悲鳴はこの男が起き上がったことへの驚きの悲鳴だったのでしょうか・・・いえ、トイレの中でも格闘するような衝突音が聞こえてきます。悲鳴は小さくなっておりましたが、その分中から唸り声が圧してきております。石和さんはあの室内で襲われているのです。相手はどうやって中に入って石和さんに襲い掛かったのでありましょうか。とにかくこの旦那さんはそんな石和さんを助けようとドアを叩いているのだ、この時の私の咄嗟の判断はこのようなものでございました。
 そのままドアを開き私も加勢しようとした刹那、男の背からあの唸り声を聞いたのでございます。
驚いて私はドアを半分まで開いた状態で固まりました。
 もしこの時、石和さんが絶命していて声を発せない状態に陥っていたなら私は気づかれていたかもしれません。この初老の男性は、背後でドアの開く音より、目前の悲鳴に反応していたのでございます。私は男の方を向いたまま後ずさりして妻に近づきました。そしてその手を取り、無理やり前に進んだのでございます。
 外にいた集団は確実にここまで登ってく気配がありました。ここに留まることなどできなかったのでございます。男がトイレの中に気を取られているうちにその背後からこの脱衣室を抜け、廊下へ抜けることを私は決断しました。もし気づかれて襲ってくる場合はこの木製のハンガーでやつの頭を叩きつぶす覚悟です。
しかし、妻がどうしても前に進みません。唸り声を上げる男の背を見た途端に硬直し、震え、手の平で押さえた口から嗚咽が漏れます。これ以上力づくで引っ張ると妻は倒れ込むことが予想されました。遊園地のお化け屋敷で同じような状況があったから私にはわかるのです。
 私は意を決し妻を抱え上げました。妻は私の胸に顔を埋め、必死に声を上げるのを堪えます。私は呼吸すら止めながらゆっくりと脱衣室内に入りました。このとき私か妻のどちらかが負傷をし、血を流しているようなことがあったらすぐに気づかれていたと思います。とにかく石和さんの断末魔、そしてその血の匂いにこの男は完全に気をとられていたのでございます。
 私の額からびっくりするほどの大量の汗が滴り落ちます。
 振り向かれたら一貫の終わりでございます。
 このような勇猛果敢な行為に踏み切った私に対し、驚くみなさまもいらっしゃると思います。これには理由がございました。人は土壇場では意識よりも無意識が先に出るものでございます。日頃の癖とも言うべきものでしょうか。私は先ほど見たやつらの仕草からあることを感じ取っておりました。妻が崖の上から悲鳴を発したとき、やつらはわき目も振らず一目散にこちらに駆けつけました。あの時感じたのは凄まじい集中力、凄まじい執着心でございました。私は教鞭をとり、教壇上から同じ光景を見たことがあります。物凄く集中したときの子どもには周囲の音が聞こえないのでございます。その時の仕草、まったく同じでございました。眼下の集団はことごとくその特徴を有していました。
 この男もおそらく同じではないかと考えたのでございます。慎重に事を運べば必ずここから脱出できるという自信が沸いて参りました。たいして根拠の無い決断ではございましたが、十四年培った経験から導かれた理が私にわずかばかりの勇気をくれたのであります。決して当てずっぽうの行動ではございません。
 男が激しく動くたびに、石和さんの首元から血がまき散らされます。床は血の海。トイレの木製のドアはその拳のため割れ始めております。
 男の背に極限まで近づきました。距離にして三十センチほどでしょうか。耳をつんざくばかりの唸り声、男の背中からは腐ったような臭いが鼻をつきます。妻の震えは最高潮に達しまるで腕の中で跳ね回る魚のようです。
と、振り上げた男の腕が私の前髪をかすめました。トイレの中からは石和さんの最後の力を振り絞った悲鳴が聞こえてきます。
 私の汗と妻の涙が大量に床に溢れた血の海に滴っていきます。
 この時ついに妻が堪え切れず嗚咽の声をついに漏らしたのです。私はビクリとして立ち停まりました。同じく、暴れていた目前の男も・・・。
 そのとき、妻が握っていたハンガーを反対側に投げつけたのです。男は反射的にそちらに向きました。私は駆けだしました。廊下に続くドアはもう目の前だったのです。

 さて、本日はここまでとさせていただきます。

 執筆していてあの男からの異臭を思い出しました。
 やつらはおそらくあの臭気で仲間かどうか判断しているのだと思います。
 それでは一度失礼させていただきます。

第十話 分かれ道

第十話 分かれ道

 お待たせいたしました。
 先日のお話のなかで反響のあった「教職」について少し触れさせていただきたいと思います。掲示板で質問やご指摘が多数ございました。集団の中にあっても相手が何を考えているのか咄嗟の判断でわかるのかという内容です。
 結論から述べますと、すばり、教師にはできるのでございます。
 大きな教室で三百人の生徒相手に授業を行ったことがございましたが、その時はさすがに無理でした。二百人のときも厳しかったと記憶しております。百二十人までならば授業の中で板書し、生徒たちに振り返った瞬間だいたいは把握できます。誰が話を聞いていて、誰が聞いていないのか。誰が集中していて、誰が聞いているふりをしているのか。説明していても誰の心に響いていて、誰の心には届いていないのかわかるのでございます。四十~五十人であればなおさらです。だいたい一クラスの人数は四十人前後でございますから、十年以上の経歴でそれができない教師などおりません。
 ただ、わかっていてもその生徒たちの反応にどう応えるかは人それぞれでございます。若い教師や情熱を持った教師はそれこそ攻め込んでいきますが、それ以外の方々は聞いていないな、届いていないなと認識していてもそのままです。スルーするのでございます。己の力量の及ぶ範囲を職歴の中でいやというほど思い知らされ、諦めや妥協というものが生まれてきているからでございます。
 どちらにしても表情や仕草、雰囲気などで瞬時にその人間の状態を把握することはできるのです。職業病なのかもしれません。人に対せば無意識でその判断を常に行っているのでございます。
 お疑いならばぜひ最寄りの教育者の方に質問されるべきでございます。もっとも、生存されている人間自体が少ない世の中ではございますが・・・。
 
 さて、九月二十八日の午前中の話に戻しましょう。
 私は妻を抱きかかえ、暴れまわる男の背後から脱出するところでございました。脱衣室の出口のドアを開けば、そこから五階の廊下に出られるのでございます。
 妻の嗚咽が背中を向けていた初老の男に聞こえた、と思った瞬間、妻は機転を利かして持っていた木製のハンガーを反対側に投げつけました。男はまずそちらに向いたのです。
 私は走りました。
 ドアまではもう一メートルほどでございました。
 一歩踏み込んだとき、私は妻を両手に抱えていてドアを引けないことに気が付きました。その時は何も思案が浮かばず、そのまま突っ込んでドアをぶち破ろうと考えたぐらいでした。まさに早計でございます。もしそうしていたら私たちは跳ね返され、あえない最後を遂げたことでありましょう。
 ここでも妻はタイミングよくドアの取っ手を引いてくれたのでございます。思い返してみると、感情の波に押し流されていても妻は随分冷静だったようです。
 ただ、私の一歩目の踏み込みが反対側でした。ドアの蝶番の方に身体が向いておりました。わずかなのでしょうが時間のロスが生まれたのです。一歩右にさらに踏み込まねばドアから出られないのです。ほんのわずかな時間の中で、妻の機転に関心しつつ己の先を読めない動き出しに後悔しました。
 結果としてはこれが功を奏したのでございます。
 今考えれば当たり前のことなのですが、ドアの向こうにはやつらがいたのでございます。
 これだけの石和さんの悲鳴です。辺りの連中が寄ってこないわけがありません。この時の私たちはその場を逃げることしか頭にありませんでした。そもそも先を考えて一手打つためには私たちには経験値が少なすぎました。
 ドアが開いた瞬間に三人がなだれ込んできたのです。
 私が右に一歩踏み込む寸前でございました。
 間近で見るのが初めてのことでしたので、まったく目がついていかず、なにか塊が飛び込んできたように感じました。そもそも三人以上いたのかもしれません。
 私の後方のトイレの木製のドアは半壊の状態になっており、その隙間から石和さんの虫の息が聞こえておりました。見殺しにしたと非難される方もいるかもしれませんが、私には何もできませんでした。何かしていたら私も妻も今ここにはいなかったでしょう。
 やつらはその勢いのまま、半壊したそのドアの隙間に頭から突っ込みました。
 まるで躊躇がありません。
 一人が後ろから来た者に弾き飛ばされ、もともといた初老の男性もろとも隅まで転がっていきます。まさに野生の肉食獣の迫力です。発見されたら勝ち目がないことを私は痛感しました。
 私はすぐさまドアから廊下に飛び出しドアを閉めました。私はやつらが取っ手をとってドアを開いたり閉じたりできないことに気づいておりました。鍵ではないのです。ドアが閉まっているのか、開いているのかが問題なのです。
 廊下に出た私は大きく肩で息をし、辺りをうかがいました。
 並んでいるマッサージチェアは閑散としており、誰もおりません。
 背後の脱衣室へのドアの向こうで、何かが引きずり出される音を聞きました。そしてやつらの歓喜の叫び。妻は耳を塞ぎ、ずっと目を閉じたままでございました。悪夢にしてもあまりに酷い話です。
 私は妻を抱えたまま右手に進みました。
 マッサージ店を過ぎ、分かれ道に差し掛かります。道なりでエレベーターです。それに乗れば一階の出口にも八階の自分たちの部屋にも行けるのでございます。
 しかし、先のエレベーター前に男の姿があったのです。その姿を目撃するより先にあの低い唸り声がここまで届いておりました。向こうはまだこちらに気づいていないようでした。
 私はエレベーターを断念し、分かれ道を曲がったのでございます。私の記憶によれば、そこは宴会場に続いており、そちらにもエレベーターと階段がございました。充分にこのフロアから脱出できます。
 無論、この時はやつらの縄張りの広さなど知りようはずがございません。幸運なことにこの周辺の連中は石和さんの悲鳴に引き寄せられており、目撃したのは離れのエレベーター前にした一名だけでございました。
 今考えるとなぜ私たちがやつらに遭遇することなく五階の浴場まで来られたのかよくわかります。高橋守が、私たちに対して行った依頼と同じことを、片っ端から他の宿泊客に繰り返していたのです。断った客も多かったと思いますが、あの老夫婦のように引き受けた人たちもいたのでしょう。その人たちが襲撃され、縄張りが一時空いたのです。だから私たちは何事も無く辿り着けたのでした。おそらく被害者はあの老夫婦だけでは無かったはずです。
 宴会場は三部屋連なった構造です。私は妻を抱えたまま素足でその前を通り過ぎます。耳を澄ませば襖の向こう、宴会場の中からやつらの声が聞こえてきました。幾分控えめな歓喜の叫びとともに何かが飛び散るような音。
 躊躇などしている時間などありません。私は音をたてぬよう気を配りながら進んでいきました。そして、真ん中の会場の襖が破られているに気が付き、心臓が止まるほど驚きました。
 その間の歩幅としては七歩ほどでございましょうか。
 もしやつらがこちらを見て食事をしていたら、私たちはその目前を通ることになります。肉食獣は普通獲物を食している最中はほかの獲物を襲わないと聞きますが、やつらにその概念が適用されるとも限りません。私たちはなすすべなく襲われるのです。
 しかしこのような場所でまごついている場合ではないのです。退くことも許されないのならば進むしか道がありませんでした。
 妻はずっと目を閉じたままでしたが、この時ばかりは私も目を閉じてゆっくり進んだものです。聞こえてくる音が変化することの無いよう祈りながら。
 襖を破って中の人間に襲い掛かれば廊下には背を向けた格好になります。でももし逃げ回ればどちらを向いていてもおかしくはありません。ただ、その集中力であれば、食事中に顔を上げることはないはずです。
 やつらの唸り声は高まることも無く一定でございました。私は呼吸などできようはずもありません。まるで深海の底を歩くようにゆっくり前へと進んだのでございます。
 はたと気づくと最後の宴会場の前も通り過ぎておりました。
 開かれた宴会場から発する血の匂いに辺りの連中は引き寄せられていたのでしょう。周囲には誰もおりません。返す返すも私たちの生存はそのほかの犠牲者の上に成り立っておりました。
 ようやく辿り着いたエレベーターのボタンを押すことを私はためらいました。エレベーターは一階に止まっております。もしボタンを押して音でもしようものならば、到着前に私たちは発見される可能性があるのです。エレベーターはボタンを押したときに音が鳴るのか、到着したときに鳴るのか、それともまったく鳴らないのか、頭の中が混乱している状態で思い出すことができません。こんなところで賭けに出るわけにもいかず私たちは階段へと進みました。
 正直このときまで下へ進むか上に進むか決断しておりませんでした。
 一階の外に五十人ぐらいいたことはわかっています。今頃は崖を登り切って露天風呂まで達している頃かもしれません。ということは外にはいないのか・・・いや、その前にあの広いロビーを通らなければならないのです。また、一階へ向かうより八階に向かったほうが近いということも最後の決め手になりました。運命の決断でもございました。
 階段は三人ぐらいが一度に通れるぐらいの広さがありました。やや薄暗かったことを覚えております。とにかく発見されたら逃げようが無い環境です。両手の感覚も無くなってきておりました。しかし妻を降ろすと、もしものとき逃げられなくなります。やつらに遭遇した場合、妻は必死に逃げることをせず、諦めてうずくまることでしょう。だからもうしばらく頑張る必要がありました。
 この後、私たちは一気に八階まで進めない状況に陥ります。七階で、新館から旧館へと渡り廊下を歩くことになるのです。今考えてもよくまあ戻りきれたものでございます。

 さて、本日はここまでとさせていただきます。

 外を見ると随分と雪が降って参りました。
 明日の朝になれば膝ほどまで積もるかもしれません。
 このままやつらが雪の中へ埋まってくれるといいのですが。

第十一話 七階

第十一話 七階

 お待たせいたしました。
 アメリカ合衆国から発表された突拍子もない記事について、ここで私も一言触れさせていただきます。
 ご覧になられていない方もいらっしゃると思いますので、記事の内容を整理してみました。特筆すべきは三点でございます。
 一番目はやつらの体温が常に四十一度であるということ。やつらにこびりついている死のイメージから、体温など氷ほどの冷たさかと私は思っておりましたが、人間の体温よりも温かいとは驚きでございました。獲物である人間に対する心根とは随分反比例しているものです。ただこれで納得いたしました。ここ数日観察して、やつらの身体に雪が降り積もらないことの原因がわかりました。こちらがいくら期待したとて、一日中極寒の北海道にあってもやつらは凍り付くことは無いのでしょう。
 二番目はやつらを解剖したところ消化器官が存在しなかったということでございます。人間の生肉を食したところで、それを分解吸収し栄養分とすることは無いということです。ではなぜ人間ばかりを襲っているのでしょうか。
 ではどこから運動するためのエネルギーを供給しているのか、なにが活力の源になっているのか。
 三番目が最も驚きでございました。
 アメリカ合衆国の博士たちの研究により解明されたのは、その皮膚で光合成を行っているということでございました。やつらは植物に近い生命体ということになります。厳密には違うのかもしれませんが、わずかな日光と汚染された大気を取り込み、それをエネルギーに変換しているそうでございます。人間を食さなくても、半永久的に動いていられることになります。さらにやつらは汚れた空気を健全な空気に体内で変換して排出しているそうでございます。実際、やつらが生息する地域の放射線量は著しく自然の平常値に戻っているとのことでした。
 やつらは人間が破壊し、汚してきた環境を回復させているのでございます。
 この説が真実であるのならば、やつらと我々人間、はたしてどちらがこの地球にとって必要な存在なのでございましょうか。地球上の生物すべての多数決を採れば、圧倒的に人間側が負けることは明白です。やつらが襲うのは人間だけ。人間にひたすら虐げられ、餌にされてきた動物たちはやつらが活躍する限り自由を得られるのですから。
 私たちが平穏を取り戻すために戦うことはもはや正義では無いのかもしれません。私たちが生き抜くことは罪なのかもしれません。
 あなたはこの話をどこまで信じますか?

 さて九月二十八日の午前中の話に戻しましょう。
 私は妻を抱きかかえながら危機的な状況の五階の浴場を脱出し、やつらの餌場となっていた宴会場の前を抜け、ようやく他のフロアに続く階段へとたどり着きました。
 一階から外へ脱出することよりも、まずこの身の安全を図ることを優先し、私たちは八階の部屋で籠城することを決断しました。もちろん八階への道のりが平坦なものではないことは覚悟の上でございます。
 薄暗い照明のなか、グレーのコンクリートに囲まれた階段は静寂に包まれておりました。素足に冷たい感触が伝わります。それ以上に空気が冷えておりました。心なしか風も感じます。
 三十八歳にもなると普段でも階段を上ると膝が痛みます。ましてや妻を抱きかかえながらではなおのことでございます。真夏日のようにシャツが自分の汗でベタリとしておりました。この日はまた朝から随分と汗をかいたものでございます。ダイエットに挑戦しても失敗の連続でしたが、この日だけで五㎏は痩せたのではないでしょうか。
 六階から七階への踊場へ差し掛かった所で、私の両腕はとうとう悲鳴をあげました。両腕が痙攣し、膝の痛みが限界に達し足が前に進みません。ですが、夫として、男として、ここで限界を宣言するわけにもいきませんでした。しょうもないプライドを守りたいということではなく、私は何があっても妻を守るつもりでおりましたから。例えこの身がどうなっても・・・。
 「トモ、いいよ。無理しちょ。降ろせし」
「なんで、まだまだいけるから。それとも加齢臭臭いかな?」
「まあね。なんてウソ。とりあえず一服したいから降ろして」
そう言うと妻は私の手を離れ、階段の手すりにもたれながら煙草を咥え、火をつけます。妻は一日にひと箱は吸いつくすヘビースモーカーでございました。絶え間なく続く緊張と恐怖のなかようやく味わう安らぎだったようで、目を閉じて微笑んでおりました。
 さすがは長年連れ添った妻でございます。何も言わなくても私の状態の厳しさを感じ取り、自ら歩くことを選択いたしました。
 私は握力を失った両腕を垂らしながら七階へゆっくりと向かいました。振り返ると妻も落ち着いた様子で私のすぐ後を付いて参ります。わずかな期間で妻も随分精神的に強くなったものです。
 
 ようやく七階まで上ったところでございました。
 
 コツン、コツン・・・
 
 階段を歩く足音。
 私は妻を振り替えました。私も妻も裸足でしたので音は鳴らないはずでございます。妻が恐怖で歪んだ表情をしておりました。
 どこから聞こえてくる音なのか・・・
 上か、下か・・・
 私は下であることを願いました。
 じっとして耳を澄まします。
 妻が諦め顔で首を振りました。
 上です。足音は上から聞こえてきます。しかもすぐ上です。あの唸り声も近づいてきておりました。恐る恐る階段の隙間から上を眺め見ると、男の姿がすぐ上の階にありました。よりにもよって八階にいるのです。私は慌てて首を引込めました。
 ここはもう使えません。やつらがいる限り、上へ進むことは断念せざるを得ないのです。
 私たちは進路を修正し、七階にある別階段を目指すことにしました。
 フロアに出、直線に続く廊下を慎重に進みます。
 両側に連なる部屋からはまったく人の気配は感じません。始めから宿泊客が居なかったのか、脱出したのか、息を殺して潜んでいるのか・・・
 さらに奥へと進んだところで私たちは声を聞きました。
「あ、赤ちゃんの泣き声じゃない?」
妻が敏感に反応しました。私の妹の子もまだ幼かったですし、妻の妹の子も同様でした。だから聞き間違えることはありません。確かに赤ちゃんの泣き声です。声は目前の曲がり角の向こうから聞こえてきました。
 私たちは神に祈るような気持ちで角を曲がりました。
 もし、赤ちゃんがやつらに襲われていたとしたら・・・恐ろしいイメージが頭の中に広がります。
 さらに廊下は奥に繋がっておりました。その途中ぐらいでしょうか、やつらが三人ほど部屋のドアにぶつかったり、殴りかかっておりました。そのなかの一人が若い女性だったことが衝撃的でございました。母性の欠片も残すことなく、その女性は赤ちゃんを食したい一心で悪戦苦闘しているのでございます。もはや、赤ちゃんの泣き声がその部屋の中からのものであることは疑いようもありませんでした。
 その光景を見て、私は初めてやつらに怒りを感じました。強い憎しみもこみ上げて参りました。私たちには子どもがおりませんでしたので、赤ちゃんに対するこだわりや愛おしさは人並み以上でございました。
 私のすぐ隣には従業員用の準備室。ドアノブを開き、中をのぞくと武器になりそうなものがいくつか見えます。私は柄の長い掃除用のモップを手にしました。妻も室内を物色し、鉄製のパイプイスを持ち上げます。
 私たちは本能の命令に従うまま、人間という種を守るべく戦うことを選択したのであります。
 なんという無謀な決断だったのでありましょうか。
 無知とはまさに蛮勇。私たちは先ほどまでに見てきた凄惨な光景を忘れ、一時の感情に囚われておりました。
 そんな私たちの決意を知ってか知らずか、赤ちゃんの泣き声はより一層高くなり、私たちの心に響きました。

 さて、本日はここまでとさせていただきます。

 それにしても赤ちゃんの泣き声とはなんと希望に溢れたものなのでしょうか。
 一日も早く、子どもたちの声が溢れる日常を取り戻したいものでございます。
 それでは一度失礼させていただきます。

第十二話 天使

第十二話 天使

 お待たせいたしました。
 赤ちゃんを救おうとした私の行動に対し、勇敢だと賞賛のコメントを多数いただきました。恐縮でございます。
 私が格闘技などを習得しているような憶測も飛び交っておりましたが、そのような経歴はまったくございません。女性に手を上げたことが無いばかりか、男同士の喧嘩も皆無でございます。他人に暴力を振るったことなど生まれてこのかた一度も無いのです。
 自分の力量も、相手の危険性も見抜けないからこその蛮勇だったと思います。
 恥じるつもりはありません。あの時の自分は確かに勇気ある行動をしようとしていたと今も誇りに思っております。

 さて九月二十八日の午前中の話に戻しましょう。
 私は掃除用のモップを握りしめ、大きな深呼吸をゆっくりとしました。
 意識することはゴルフのスイングをするときと同じでございます。力を抜いて振りきること、これだけでございました。
 廊下の幅や天井の高さを考えるとこのような長い棒を振り回すことなど出来ようはずもありませんでしたが、私は立ち向かうことだけを、この身も妻のことも忘れ、幼い命を救うことだけを考えていたのです。おそらく妻も同じ心境だったと思います。
 赤ちゃんの泣き声がする部屋のドアを力づくで破り、突入しようとしているのは三人。髪を振り乱し、必死の形相で体当たりを続けております。ぶつかった衝撃で傷ついたせいなのか、やつらの周辺には血のようなものが 巻き散らかされておりました。
 やつらはまだこちらには気がついてはおりません。
 わたしはジリジリと間合いを詰めていきます。
 奇襲攻撃をすればまず一人は倒せる算段でした。
 五メートルほどの距離まで接近しました。
 やつらの腐った匂いが鼻をつきます。
 唸り声が一合玉の花火のように強い振動で腹の底に響いてきます。
 握力を抜き、大きく振りかぶり、一気に駆けて距離を詰め、やつらに襲い掛かろうとしたその時でした。背後から呼び止める声がしたのです。
「何をしようとしているんです」
私ははっとして後ろを振り返りました。妻のものとは明らかに違う透明な声。
「そんなものを振り回しても勝てっこないですよ」
従業員用の準備室の隣にある客室のドアがわずかに開き、そこから誰かがこちらを覗き込むようにして話しかけてきておりました。
「無茶はやめて、まずはこっちの部屋に来てください」
 私も妻も互いを見合ったまま動けません。そんな私たちの様子を見て、小声で一方的に話しかけてきます。その声は赤ちゃんの泣き声と唸り声にかき消されてやつらには届いていないようです。
「ほら、これ」
ドアの隙間から白く細い手が伸びてきました。手にしているのはスマートフォンです。
「これがあの部屋に置いてあるんですよ。本物の赤ん坊の声じゃありません。だから早くこの中へ」
手招きに誘われるまま、私たちは急いでそのドアから部屋に入りました。モップがドアの上の方に辺り大きな衝突音がしました。ヒヤリとしましたが、やつらには聞こえてはいないようです。
「もたもたしないで。声が聞かれると面倒です。もっと中へ」
私たちは玄関口から襖を開き、室内へ進みます。
「襖を閉めてください。そうすればそうそう外には声が聞こえませんから」
妻が云われるままに襖を閉じました。
 室内は私たちの部屋とまったく同じ造りになっておりました。窓の外の景色もまったく同じでございます。布団などは片づけられていて、誰かが宿泊していたような気配は感じられません。
「すごいですね。そんなものでやつらに立ち向かおうなんて」
そう云われて、私はモップを、妻はパイプイスを畳の上に置きました。音をたてぬよう恐る恐るでございます。汗ばんで手のひらはグショグショです。妻は肩で息をしながら畳に腰を落としました。
 「一応、自己紹介しておきますが、僕の名前は沖田春香です」
 女性だと思っておりましたが、名前を聞き、その表情をまじまじと拝見し、初めて相手が男性だということに気が付きました。
 身体も足も細く、肩までのショートカットに薄紫のカーデガン、インナーは黒のシャツ、黒のジーンズ。後ろからの姿は明らかに女性の線でございました。目は綺麗な二重で瞳は大きく、鼻筋もすっとしていて大変な美形でございます。歳は十五歳ぐらいと拝見しました。中学三年生から高校一年生ぐらいです。
 「私は山岡友広です。こっちが私の妻です。沖田くん、ですか、あなたは独りですか?」
浴場で石和さんにも同じような質問をしたことを思い出しました。そして同時に彼女の身に起こったことも思い出しました。私は彼女を見殺しにしたのです。心に重い何かが圧し掛かります
 「今はそうですね。山岡さんたちは何号室のお客さんです?」
声には透明感があり、それがなぜか私の罪の意識を和らげてくれます。声だけ聞くとやはり女の子としか思えません。彼はその長い脚を畳に広げ、私を見上げるようにしてそう質問してきました。私もたくさんの生徒をこれまで担当してきましたが、彼はその誰とも違う空気を持っておりました。例えるならば神話に出てくる妖精のような雰囲気です。
 「八階です。八階の八一0号室です」
それを聞くと彼は無邪気な笑顔を浮かべました。
「凄いな。あの声を聞いて八階から助けに来たんだ。勇気ありますね」
勝手に独りで納得して鼻歌を歌い始めました。
 「いったい何のためにこんなことを?」
妻は疲れ切って座り込んだままでしたので、私が問うしかありません。
「ああ、これのことですか。あいつらは音に反応するんです。普通の音でも反応するけど、一番興奮するのは声みたいですよ」
そのことはここまでの経験で私も漠然と掴んおりました。思い出したくも無い経験をして得た貴重な情報です。
 私は彼の話に同意しつつこれまでの体験を語りたい衝動に駆られました。しかし、情報を聞き出すにはとにかく聞き手に回るのが第一です。この場合、こちらの意見を云うことや、こちらの知識をひけらかすことはNG。気持ち良く喋らせることが肝心です。コーチングの鉄則はとにかく質問を投げかけることにあります。相手の答えに対し、頷いて聞くだけで、相手の信頼を得ることができるのです。
「そうなんですか。驚きです。それで、あいつらをあの部屋に誘き寄せて何をするつもりなんですか?」
「あそこの廊下を渡るんですよ。あの先に食堂があるから。食料調達ってわけですね」
 食料・・・たしかにこのまま籠城して持久戦になった場合は一番必要になるのは食べ物でございます。しかし、状況が一変してまだ数時間しか経っていません。パニックになったり、逃げ惑っている人たちが大勢いるなかでこの少年は随分冷静沈着に先のことを考えて行動しているのであります。子どものほうが環境に適応するのは早いのでしょうかが、それにしても早すぎます。
「水も危険なんです」
「水?」
「ここの蛇口から出る水を飲んで感染したんじゃないかって聞いたから。だからペットボトルの飲料水も必要ってわけです。あそこにはそれも置いてあるので一石二鳥ですよ」
 いったいこの少年は誰からこんな情報を聞いて行動しているのでありましょうか。
 「やつらがあの部屋に突入した瞬間がチャンスなんです。一気に走って向こうに行く。食堂にいたやつもあそこに来てるから食堂には誰もいないはずです」
なるほど。素晴らしい戦略でございます。しかし携帯電話が混線している中でどうやって向こうの部屋の携帯電話を鳴らしているのでしょうか。
「それはね、簡単な話です。アラームが鳴っているんです。赤ん坊の声のアラームを最大音量にしているってわけ」
彼はそう云ってウインクし、満面の笑みを浮かべました。
 
 さて、本日はここまでとさせていただきます。

 彼に出会うことがなければ私たちは野垂れ死にしていたことでしょう。
 私は彼のことを今でも「天使」だと思っております。

 そう、我々凡人の理の外に彼はいました・・・

 それでは一度失礼させていただきます。

第十三話 食料確保

第十三話 食料確保

 お待たせいたしました。
 自衛隊が「国防軍」というような名称に改名され、大幅な編成変更が行われて三ヶ月ほど経ちます。
 私たちの住む北海道旭川市には北方部隊の一大基地があるのでございます。私の自宅から車で約十分ほどの距離です。近隣には公立の高校や教育大学の附属小学校や中学校が軒を連ねております。
 屯田兵時代からの長い歴史を歩んできた対ロシアの拠点です。
 柵で覆われている基地の周囲をぐるりと一周すれば五㎞はあるでしょうか。再編成されてからは、「集団的自衛権の行使」の名のもとに、対ミサイルの撃墜兵器や最新鋭の戦車などが内地から多数運び込まれました。
 もちろん地元住民からの激しい反対運動に晒されておりました。
 憲法改正の余波が随分隅々まで及んだものでございます。いえ改正ではなく、憲法解釈の相違でしたでしょうか・・・まあどちらにせよ、与党の強行採決がなければこうはならなかったはずです。
 アジアの列強に対する防備強化の動きではございましたが、向こうは日本の変化に敏感でございました。日本には日本の、同盟国のアメリカにはアメリカの、中国には中国の様々な思惑が交差するなかで、世界大戦の火ぶたは静かに切られたのだと今なら理解できます。
 平和な世界を一瞬で地獄に変えるバイオ攻撃。私たちはそんな前代未聞の先制攻撃を受けたのではないでしょうか・・・。その効果は著しいものがございました。無言となった国防軍基地がそれを物語っております。

 さて、九月二十八日の午前中の話に戻りましょう。
 私と妻は七階フロアで沖田春香という少年に出会いました。彼は混乱するホテル内にあって、冷静に先を見つめ、大胆な行動を起こしておりました。環境に適応する能力以上に、事の成り行きに詳しい点に私は大きな驚きを覚えました。
 「春香、何をしている。やつらがあの部屋の扉をぶち破るぞ。急げ」
大柄な男が音もたてずに入って来てそう云い放ちました。
 色黒で恰幅がよく、あたかもプロレスラーのようです。眉が濃く、頬が張っていて東南アジア系の顔をしておりました。
その男は室内で私たちを見て眉をひそめましたが、特にこちらに挨拶をするわけでもなく、沖田に廊下に出るようしきりに促します。
「仲間の桂さんです。体格通りに強いんですよ」
私たちに向けてそう云うと沖田はニコリと笑いました。こんな環境で笑顔の多い男でございました。その笑顔がまた実に自然なのでござます。
「桂さん、山岡さんと奥さんです。このお二人、やつらを襲撃しようとしていたんです。赤ん坊を助けるために」
沖田はおかしそうにそう云うと、床に投げ捨ててあった掃除用のモップを手にしました。
「これでですよ」
そう云って左手一本で振ると、空を斬る鋭い音がいたしました。桂は一瞥すると興味無さげに
「正気の沙汰じゃないな」
随分と冷たい一言でございます。
 沖田は困ったなという顔をしてまた私たちに振り向きました。
「さて、それじゃ行きますか。山岡さんも御一緒にどうですか?」
「ご、御一緒にって・・・食堂に行くのかい?」
私の問いに対し沖田はもちろんという顔でうなずきます。まるで森にカブトムシでも獲りにいくような気軽さでございました。
「山岡さんたちもここでしばらく立て籠もるつもりなら必要ですよ。警察や消防の応援なんて待っても無駄ですし。物流もいずれはストップします」
 先ほど見た警察や消防の人たちがやつらに襲われる光景が思い出されました。あっと言う間の出来事でした。確かにあんなことが日本中で起こっているのであれば大変なことです。で、あればそう容易くは収拾できないかもしれません。
 「沖田くんはどうしてそんなことを・・・」
私がそう問うと沖田は不思議そうに私を見つめ返しました。彼はしばらく考えた後、ああそうかという表情でニコリと笑い、
「僕たちには予備知識があるから」
 「春香、いい加減にしろ。チャンスは一度きりだぞ」
桂が低い威圧的な声を発しました。沖田が右手を上げて応えました。
「じゃあ山岡さん行きましょうか」
 私は一度妻を見た後、意を決して頷きました。
 高橋守という男に騙されたばかりでしたが、私はこの少年たちと行動を共にする決心をしました。
 彼のその無邪気な表情に魅せられたからでしょうか。
 それとも私の予定や計画があまりに隙があると突きつけられて、彼らを頼るような弱気になっていたからかもしれません。
 「春香、それを持っていくのか」
桂の声に反応し、私は沖田を見ました。
 沖田は隅に置いてあったケースを手に取るところでございました。楽器のケースのように見えました。沖田はそれを大切そうに抱えると
「もしもの時にね。お守り代わりですよ」
そう云ってまた私にウインクするのです。長い睫毛がバサリと音をたてるようでございました。
 「おい、やつら入ったぞ」
ドアの隙間から廊下の向こうを観察していた桂がそう云いました。云い終わらぬうちに沖田がダッシュし、勢いよくドアを開きました。私も慌てて駆けます。桂の舌打ちが背後で聞こえました。妻はこの安全地帯でしばしの休憩です。
 廊下に出ると赤ちゃんの泣き声がはっきりと聞こえてきます。その声の主が居る部屋に先ほどまで体当たりを繰り返していた連中の姿はありません。替わりに砕けちったドアの残骸がその辺りに散らばっておりました。
 私たちは全力疾走でそこを通過します。一瞬だけ左をみると空洞となったドアの向こうに三人の姿がありました。髪を振り乱し、狂ったように室内のトイレのドアにぶつかっております。おそらく赤ちゃんの泣き声の発信源はあのトイレの中なのでしょう。
 前を走っていた沖田が急に立ち止まり、右を指さしました。
 ガラス張りのドア。
 その前にはメニュー表が可愛らしい看板に掛けられています。
 桂がすぐに追いつき、用心深く辺りをうかがいながら室内に侵入します。
 その後には沖田と私が続きました。
 バーのようなお店でした。
 皮のソファーが幾つもあり、その前にはガラスのテーブル。ボックス席が三つにカウンターに席が五つ。
 思っていたよりも狭く、密集した空間でございました。
 「桂さんは水。僕は非常食になりそうなものを探します。山岡さんは僕を手伝ってください」
そう云うと沖田は楽器のケースをカウンターに置き、さっとそこを乗り越えて調理場へ進みます。私はそんな身軽にはいきませんでしたが、後に続きます。
 沖田は近くにあったダンボールに食料を詰め込み始めました。私もそれに倣って手あたり次第ダンボールに詰め込みます。こうなったら偏食など言っている場合ではありません。妻も納得してくれるはずでございます。
 「それはやめておいたほうがいいよ山岡さん」
ある食品に手を伸ばしたとき、沖田が語気を荒げてそう云いました。うって変わったその深刻そうな表情に私は驚いて手を止めました。
 今考えるとその食品こそ、ウイルス発祥の元とされている某国からの輸入食品でございました。沖田春香は、事件が起こった直後にその正体を知っていたことになります。
 「予備知識って・・・なんなんですか?」
私は彼に出会った部屋で聞きたかった話の続きを促しました。
 沖田は困った顔をしていましたが、やがて観念したように
「別に隠しても仕方の無いことですね。僕の父は旭川の国防軍の将校なんですよ。取りあえずこれだけ話せば納得してくれると思いますが」
その時の私はそれだけで納得するはずもございません。むしろ謎は深まるばかりでございました。
「国防軍?それが一体どういった関係・・・」
私が沖田に詰め寄ろうとした時、カウンターの方から桂の声がしました。
「まずいぞ春香。赤ん坊の泣き声が消えた」
泣き声が消えたということはイコールでやつらがあのトイレに侵入し騙されたことを知ったということであります。
「思ったより早かった。さあ山岡さん、もたもたしてる暇はないですよ。早くここを出ましょう。やつらが戻ってくる」
そうなのです。目標を見失ったやつらは縄張りに戻るのです。もちろんこの時の私はそんなことは知りません。
「一匹こっちに来るぞ。どうする春香。戦うか?」
「気づかれたら他の連中も集まってきます。ここは逃げましょう」
そう云うと沖田は詰め込んだダンボールを抱えてカウンターを乗り越えました。私は一端ダンボールをカウンターに置き、慎重に乗り越えます。足の長さが違うのです。
「窓の外から渡っていくか?」
「いや。桂さんには出来ても、ダンボールを抱えている僕たちには無理です。とりあえず桂さんは窓から出てください」
桂は頷き、水を詰め込んだリュックを肩に掛けました。
 一番壁側の窓を開き身体を乗り出します。
 ここは七階です。落ちたら一貫の終わりです。それでも桂は躊躇することなく足を窓枠に掛け、外に出て隣の部屋へと進んできました。

 私が沖田春香を「天使」だと最初に認識したのはこの後のことでございます。
 また、やつらにあそこまで面と向かって接近するのは初めてのことでございました。
 
 さて、本日はここまでとさせていただきます。
 私の自宅にもまだ水道は通っております。
 ですが口をつけることも、肌に触れることもありません。沖田の言葉が今も耳にはっきり残っているからでございます。
「この水を飲んで感染した・・・」
 何が感染源かはっきりしていない今、とにかくすべてが怪しいのでございます。
 今日も私は何も口にせず眠りにつこうと思います。

 それでは一度失礼させていただきます。
 

第十四話 バイオリン

第十四話 バイオリン

 お待たせいたしました。
 北海道旭川市郊外にある私たちの家からは、晴れた日に真っ白な大雪山を眺めることができます。妻の故郷である山梨県の富士山とはまた違った味がございます。
 層雲峡は、そんな旭岳を主峰とし日本一の広さを誇る大雪山国立公園の一角にありました。
 この渓谷の特徴は、いにしえの神々が創り上げたとしか思えないほどの美しい断崖絶壁です。噴火と堆積、そして冷えて固まるなかで奇跡的に創り出された柱状節理は四角形や六角形の幾何学的な色彩を放っております。それが二十㎞ほどの道のりで続くのでございます。
 アイヌ語で「カムイミンタラ」。
 「神々の遊ぶ庭」と呼ばれる神秘的な風景でございました。

 さて9月30日の午前中の話に戻りましょう。
 私は沖田春香という少年とともに食料確保のため、七階のバーに侵入しておりました。
 彼の陽動作戦は見事でございましたが、作戦途中で私たちはバーから出られなくなったのです。
 ただし、沖田の仲間の桂という偉丈夫は、水を詰め込んだリュックとともに窓から逃亡を図りました。とても素人とは思えない軽々とした身のこなしでございました。
 「桂さんは父の部下なんですよ。ああ見えても特殊部隊の指揮を任されているんです」
沖田が私の顔を覗き込むようにしてそう云いました。ああ見えてもと云われても、私にはそうにしか見えませんでしたが。
「まあ猿も木から落ちるって云いますから、もしもってこともあるかもしれませんけどね」
その言葉を聞いて私は不安になり窓から顔を出しました。はるか下はコンクートの道。やつらの姿もいたるところに見られます。落ちて死なずともそれ以上に残酷な死が待っているはずです。
 横を見ると、桂はすでに四部屋離れているところまで到達しております。見ていて冷や冷やしましたが、窓の散に足を掛け、勢いよく踏み込んで隣の窓に飛び移るのです。あっと言う間に妻が避難しているスタートの部屋まで辿り着き、窓から室内へと姿を消しました。
 「他人の心配もいいですけど。山岡さんの方が窮地に追い込まれてますよ」
沖田が背後からさもおかしそうに云いました。
 廊下からは唸り声が聞こえてきます。やつらがこの部屋に入ってきたら逃げ場はありません。私には窓をつたっていくような芸当など無理でございました。
 「山岡さん、ほら」
沖田が開け放った窓の外を指さします。
 断崖絶壁の山肌を縫ってそびえる木々。
 こんな合間にも余裕の観葉かと皮肉でも云い返そうとしたとき、その方向から声が聞こえてきました。
 いや、悲鳴でございます。
 よく注意して見ると柱状節理の岩壁の上、地上から十五mはあるでしょうか、どうやってそこまで上ったのか山登りの格好をした中年男性の姿がございました。そしてその両脇からは落下を恐れることも無く詰め寄せる六人の男女。唸り声は聞き取れませんでしたが、やつらに違いがありません。
 息を飲んで見つめていると、やつらのひとりが足を滑らせ崖から落ちました。空中でも男を追おうともがいております。
 やがて左手の少年が男に飛びつきました。
 男は何かを喚きながらその手をかいくぐり、岩壁からずり落ちていきます。
 周囲の連中も落ちていく男目がけて中に飛びます。
 一斉の集団自殺・・・。下に激突する瞬間私は目を覆いました。そして声を失いました。沖田は続けます。
 「凄い執念でしょ。追う方も追われる方も。日本人は腰が退けてるとか引っ込み思案だとか諸外国からは言われてるけど、あれが本当の日本人の気質なんです。最近じゃ図々しいアジアの列強が幅を利かせてますけどね。みんながあんな真の大和魂に目覚めれば敵じゃないんですよ。列強も僕たちが覚醒することを恐れてるんです」
私はこの時、沖田が何を云いたいのか、まったく理解できませんでした。単なる異常者たちから学ぶものなどあるはずもないと思っておりましたし。
 「さて山岡さん、まずいことになりましたね。僕はこの箱を置いていけば窓から楽に帰れます。現にさっきの仕掛けをするために窓を伝ってあの部屋に入りましたからね。けど、これを持っては無理です。こいつもありますし」
抱えたダンボールの上に持ってきた楽器のケースが置いてあります。
「何回もこの部屋から誘い出したんだけど、必ずすぐにここに戻ってきちゃうんだよな、あのおばさん。きっとここが大好きなんでしょうね」
「おばさん?」
沖田は私の声など聞いてか聞かずか言葉を続けます。
「参ったなあ。こうなると打つ手が無いや。せっかく手に入れた食事を手放すわけにもいかないし・・・」
とてもこの切羽詰まった状況とは思えない柔らかな表情で私を見つめます。
「とりあえず隠れましょうか。山岡さん」
そう云うとダンボールをカウンターに乗せ、さっとそれを乗り越えて向こう側に消えてしまいました。私も慌ててその後に続きます。
「その特殊部隊の人が助けに来てくれることは?」
 私は身を潜めがら沖田の方を向き直して問いました。肉迫した彼から随分いい匂いがしたことを覚えております。薔薇の香りがいたしました。
「無茶云いますね。仮に銃を携帯していたって戦うことはしませんよ。音がすればやつらが集団で集まってきますし、万が一にも傷を負えば終わりですからね」
あんな屈強な男が傷を負うことを恐れるものなのでしょうか。私の表情から察して
「あれ、山岡さんは知らないのか。あいつらにかっちゃかれても噛みつかれても感染してシ・エンドなんですよ」
かっちゃかれる、とは北海道の方言で引っ掻かれるという意味です。ちなみに山梨県では、かじる、とも云いますが。
「これ使うしかないか・・・」
おもむろにカウンターに手を伸ばし、楽器のケースを手元に引き入れました。そしてケースを開き、中からそれを取り出します。
「バイオリン?」
私の問いに沖田は頷きました。
「効果はそれほど無いんですけどね。やつらの凶暴性を少しだけ緩和するん・・・」
 話の途中でガラス扉が勢いよく開きました。
 唸り声をあげながら女性が入ってきます。
 先ほどまで赤ちゃんの泣き声がする部屋のドアをこじ開けようとしていた一人でございます。おばさんというには歳は若く見えます。二十三、四でしょうか、たしかに沖田から見たらおばさんなのでしょうが。
 私はカウンターの隙間から出していた頭をすぐに引込めました。こうなると沖田との会話も続けられません。
 女性は真っ直ぐにカウンターに向かってきます。
 唸り声がどんどん近づいてくるのがわかりました。あの腐ったような異臭も漂い始めております。
 沖田は音をたてないよう注意しながらゆっくりとバイオリンを肩に載せました。この状況で演奏を始める気なのです。これこそ正気の沙汰とは思えません。しかし私は身体が震えて止めることができません。少しでも動けば口から悲鳴が漏れそうでした。
 
 彼は目を閉じて流れるように弓を弾きました。
 
 低調な響き。
 
 唸り声は止んでいました。私の震えも和らいでおります。
 沖田が目を開き演奏の手を止めず、私に行けと合図を送ってきます。
 私はカウンターの下を這いつくばって隅へと進みます。
 廊下に続くドアは目前です。
 横を見ると、女性がカウンターのすぐ前でピタリと止まっておりました。
 カウンターを挟んで眼下には沖田。その距離三十㎝ほどでございます。
 女性は目を見開いたまま首をぐるぐる動かしております。その手はカウンターを掴んでおりました。
 あとは意を決して飛び出すだけでございます。廊下にはきっとやつらがいるでしょう。もはや体当たりして進むより仕方がありません。
 ドアは開いております。ダンボールを持つ手に力が入りました。すっと私の身体がカウンター横から前に進んだ、その時です。
 大きな悲鳴が廊下から聞こえてきました。一人ではありません。たくさんの若い男性の悲鳴でございます。
 カウンター前で立ち尽くしていた女性はその悲鳴で我に返り、もの凄いダッシュをしてドアに向かいました。出会いがしらに私の持っていたダンボールを弾け飛ばします。そんなことは意にも介さず女性は一目散に悲鳴の聞こえる方向へと走り去っていきました。
 「山岡さん、危なかったなあ。もう少し早く踏み出していたら餌食でしたね」
沖田が何事も無かったかのようにそう云いながらカウンターを乗り越えます。私は急いで廊下に出ました。妻が発見されたと思ったのです。声の主は桂かと疑いました。
「なんだか賑やかな連中だなあ。」
沖田も後に続いて廊下に出てきました。
 廊下の反対側、かなり向こう側では宿泊客が我先にと廊下に飛び出してきております。
 大学生らしい男性が八名。浴衣も乱れ、中には裸の者もおります。
 昨日露天風呂に入ったとき喧しい連中がいたことを思い出しました。露天風呂から山に向かって雄叫びを上げる者や風呂の中で泳ぎ始める者など縦横無尽に騒いでおりました。体育会系のノリでうんざりさせられたものの、若気の至りと特に注意もしませんでした。人数も多かったのでその勇気もありませんでしたが・・・。
 食事時も同じタイミングで、バイキングの際には聞きたくもないしょうもない話を隣の席で随分と聞かされたものです。確か、別の宿泊客の女性をナンパしようと企んでいたようです。相手は中年の女性一人旅のようでございました。若者たちの部屋は三階だと聞いていましたから、この七階は女の部屋なのでしょう。彼らの目論見は成功し、おそらくこの状況を見ると女性一人でこの人数を相手にしていたようです。
 廊下に出てよろめきながら倒れるものが多数。
 首筋から血を流して倒れた裸の男を茫然と見つめております。部屋からは口の周りを血だらけにしたこちらも裸の女性が悠然と飛び出し、眼下の獲物たちを見つめております。 
 若者たちは何か喚いておりましたが、それも一瞬のこと。この店から飛び出していった女性を含め三人、反対側から駆けつけてきた三人に次々と襲われていきます。腰を抜かして動ける者はおりませんでした。
 「さて、時間を稼げましたね。早く戻ってここを離れたほうがよさそうです。あの元気な悲鳴じゃ他のフロアからも集まってきますよ」
「戻ってどうする?あの部屋に立て籠もるのかい?」
「食料は平等に分配しましょう。山岡さんの持っているのをそのまま持って行ってください。こっちはこれで十分です」
「やつらが集まってくるから八階には行けない。階段にもやつらがいるんだ」
私たちは急いで妻が待つ部屋に向かいます。
 路途中にいるはずのやつらは皆、若者たちの方に行ってしまっていました。
 沖田が足を止め、笑顔で私の足元を見ます。私は裸足でした。どこで靴を脱いだのか覚えておりません。おそらく露天風呂の浴場からやつらのいる脱衣室に入るときに音をたてぬよう脱いだのだと思います。
「エレベーターで八階に行けばいいじゃないですか」
私は振り返ります。向こうでは阿鼻叫喚の饗宴が続いており、すぐに目を伏せました。エレベーターはその光景のすぐ後ろです。とうてい行き着くことはできません。別な場所にもあるのでしょうがこの状況で辿り着く可能性はゼロに等しいはずです。他のフロアからやつらが集まってくるのであれば鉢合わせになるのは時間の問題です。
「さっき掃除のモップを持ってたでしょう。どこで手に入れたんです?」
「プライベートルームって書かれていた従業員の準備室」
私は息絶え絶えに答えました。
「まったく山岡さんは勇気はあるのにあわてんぼうですね。あの部屋の奥に掃除道具を運搬するのに使う従業員用の業務エレベーターがあったはずですよ」
云われて思い返してみると、確かに部屋の奥までは行っていません。あの時は赤ちゃんを救うことで頭がいっぱいでそこまで冷静に周りを見られていませんでした。
 
 私は妻の待つ部屋に無事に戻り、彼らに別れを告げて、従業員用のエレベーターに乗りました。
 八階のフロアは静かで、このときはやつらの姿もありませんでした。私はほっとして八一0号室へと向かいました。
 別れ際に沖田の云った話が頭の中を反芻しております。
「警察や消防ではこの状況はもう打開できないはずです。しばらくは僕たちも潜んで様子を見ます。山岡さんも何日かはそうしたほうがいですよ。ただし、五日がリミットです。五日過ぎると軍が動きます。ここは火の海になるはずです。生存している人間とやつらの区別などつきません。その前にここを逃げる算段をつけてください。お二人の無事を祈っています」
 私と妻はこの後、八一0号室に籠り脱出の計画を立てます。日増しに生存者の数が減り、やつらの数が増す中で、私たちは決死の覚悟で行動に移るのでございます。
 
 さて、本日はここまでとさせていただきます。
 その後、私は沖田春香に二度と会うことはありませんでした。彼らが何のためにあそこにいたのかもわかりません。ただ、彼がいなければ、彼に出会っていなければこの旭川の地に戻ってくることはできなかったでしょう。
 沖田春香との出会いに感謝いたします。
 そして彼があの笑顔のまま元気でいることを願っております。

 それでは一度失礼させていただきます。

第十五話 鍵

 第十五話 鍵

 お待たせいたしました。
 この掲示板を活用するようになって多くの人と交流を持つことができました。ネット社会を構築した人類に感謝です。未だ事態が好転するような話は聞きませんが、同じ境遇で戦っている人たちがいることを知りとても勇気が沸きました。
 北海道旭川市の自宅に滞在するのももはや限界を感じております。
 私は妻とここを出ようかと相談しているところです。食料が尽き、飲料水としてきたアルコールの類ももう残り僅かでございます。計画的に食いつないできましたがこれ以上は無理です。体力の限界に達する前に行動に移す覚悟です。
 層雲峡を脱出したあの日のように・・・。

 さて九月二十八日の話を最後にいたしましょう。
 私と妻はやつらがひしめく五階から八階までを駆け抜け、無事に生還することに成功いたしました。
 途中の七階で出会った沖田春香という少年の作戦に参加し、食料を得ることができたものの、すぐに彼らとは袂を分かつことになります。
 彼らには彼らの使命があるようでした。
 「しまった・・・水を分けてもらうことを忘れていた」
もうすぐ八一〇号室というところで私は大切なことに気が付きました。私が大切に抱えるダンボールには食料しか入っていないのです。飲料水は沖田の仲間である桂という男が先に持ち帰っていたのです。忘れておりました。いくらなんでも水無しではもちません。
 「そこに自販機があるから買っていけし」
妻が指さす先には小さな自販機がございました。まさに天の助けでございます。急いで財布を出します。なんということでしょうか、こんなときに限って万札しか入っていないのです。小銭を数えると二百六十円です。すがる様に自販機に浮かび上がっている価格を確認します。一番安い水のペットボトルが百三十円。なんとか二本は買えます。
 「トモ、たいへん。カバンをどこかに置いてきちゃった・・・」
おそらく五階の浴場です。かなりパニックになっていたのでよく覚えていませんが、妻を抱えたときにカバンが邪魔でその場に置いてきたような気がします。仕方ありません。こうして生きて戻って来られただけでも感謝ものです。
 「部屋の鍵はあの中だよ・・・」
妻のその言葉を聞いて私は立ちくらみを覚えました。
 ここまで来て部屋に入れない。
 部屋に入るためには、五階のあの場所に戻らなければならないのです。
 その時の私のショックをわかっていただけるでしょうか。
 実際、笑うしかありませんでした。
 「なんだったらついでに一階のフロントで両替でもしてもらうか」
自虐的な言葉を独り言のように口にしました。
 考えてもみてください、九死に一生を得てここまで辿り着いたんです。今考えても奇跡としか云いようがありません。犠牲者が周囲にいたから逃げ延びられたのです。生存者が少なくなった今、標的にされるのは私たちだけ。
 自宅を丸ごと賭けてもいいですよ。
 私たちは三十分と持たないはずでございます。
 私はダンボールを両手に持ちながら、壁に力無くもたれかかりました。頭の中は真っ暗です。ゴール目前の絶望。
 計画的に物事を進めること。忘れ物はしないよう注意すること。この二点は常日頃から生徒に言ってきかせてきたことでございました。この人生で最も重要なタイミングで自分自身がそれを実践できなかったのでございます。心底己に腹がたちました。私は口だけの男だったのでございます。
 「鍵は二つあったでしょ。ひとつはトモが持って出たはずだけど・・・」
私の落胆の表情を注意深く見つめながら妻が云いました。そうです。フロントから受け取った部屋の鍵は二つあったのです。そして私がこの部屋を出る際に確かに持って出ました。
 私は妻の顔を見つめ返しながら、恐る恐るズボンのポケットに手を入れます。あそこまでバタバタしたのです。どこかで落としても気が付くことはありません。私は祈る様に右のポケットに手を入れます。一番可能性の高い場所です。
「無いの?」
不満げな、いや怒りすら感じるような妻の口調です。
 右には入っていませんでした。
 この時の私の緊張感はそれこそ全財産を賭けて挑んだルーレットの結果を待つようでした。
 左のポケットに手を入れます。
 あってくれ!!
 心から祈りました。口にも出ていたかもしれません。
 どちらにもありませんでした。落としたのです。あんな大事な物を。三歳の幼児でも落さないよう大切にするだろう物を私はどこかで落としたのです。命の次に大切にしなければならなかった物を。
 私は馬鹿です。利口なふりをしてきましたが、世界で一番の馬鹿です。オセロで言えば勝ったつもりで有頂天になっていたら最後に置かれたコマで全部をひっくり返されたようなものです。ここまでの苦労はすべて水の泡。
 なぜもっと注意しなかったのか。
 後悔は先に立たずと云いますが、こればかりは自分が少しでも意識していれば避けられた失敗でした。
 「そのセーターのポケットは?」
もうすべてが終わったと思った矢先に妻が閉口してそう言います。私は上着に茶色のセーターを着ていました。確かにポケットが両脇にございました。
 私は一心不乱に手を突っ込みました。
 「あった・・・あった・・・・鍵があったよアヤちゃん」
 いまさらですが妻は「アヤコ」というのです。
ちゃん付けはこの歳で気持ち悪いかもしれませんが、付き合い始め、結婚してもずっとこう呼び続けております。今更かっこつけることもできません。御聞き苦しい点はご容赦ください。
 私のセーターのポケットの中には部屋の鍵だけでなく、車の鍵、自宅の鍵がすべて収まっておりました。ズボンのポケットよりもよほど落ちそうなポケットでしたが、落ちずになんとか耐え忍んでくれたのです。私は物の頑張りにここまで感謝の気持ちを持ったことはございません。涙がこぼれて鍵に落ちました。
 思えばこのとき私は妻の前で初めて涙をこぼしたのでございます。しょうがない男と笑われるでしょうが私は安堵の気持ちでこれまでの緊張の糸が寸断されておりました。
 「ちょびちょびしちょ。早く行けし」
まあ、もたもたするなといった意味でしょうか。私は何度も頷き、よろよろと立ち上がり前に進みました。もちろん水を二本買っていくことも忘れておりません。
 たくさんの後悔のなかで、たくさんの経験のなかで私は多くを学びました。己のふがいなさを痛感しました。そしてこの思いが今後のサバイバルに大きな影響を与えることになります。
 ようやく立った八一〇号室の前。
 この部屋を出てから数時間。人生でこんなにも濃い数時間を過ごしたことはございません。悪夢のような数時間。それでも私と妻は無事にここに戻ってきました。

 私たちの生命を繋いでくれた犠牲者の方々に感謝です。
 これが人生というものなのでしょうか。

 「トモ、部屋の中で電話が鳴ってる」
妻の一言で我に返ると随分けたたましく内線がドアの向こうで鳴っております。もし、やつらが近くにいたら立ち塞がられて私たちは部屋に入ることができなかったでしょう。
 私は急いで鍵を開け、部屋に入りました。
 すぐに鍵をかけ、襖を開きます。
 出る時と寸分変わらぬ私たちの部屋。
 投げ捨てられたスナック菓子の袋。テーブルの上には妻が飲み干した酎ハイの缶の山と私が飲んだ発泡酒の缶が数本。散らばった浴衣・・・。
 「もしもし。もしもし」
私は電話の受話器を取りました。フロントからか、警察からか、もしかすると沖田春香が心配してかけてくれたのかもしれません。私は向こうの反応をしばらく待ちました。

 「なにをやっていたんだ!」

 怒りに任せた乱暴な叫び。
 そう、高橋守の声でございました。

 「俺の麻由希はどうなった!!なんでLINE(ライン)で応答しないんだ!!」

 そうでした。
 私はこいつのために部屋を出たのです。
 こいつのせいで死ぬところだったのです。

 「ふざけるな、何とか言え!!じじいたちはどうなった!!あいつらも探しに行ったはずだ!!俺の麻由希はどうしたんだ!!」

 私は受話器を床に置き、電話機からケーブルのコンセントを抜きました。
 
 気味が悪いほどの静寂。
 
 夢だったのか・・・。
 
 そんな気すらするほど静かです。
 窓の向こうはすっかりと晴れて紅葉がいよいよ色付いておりました。山も空も何も変わらぬ一日を迎えております。
 どこかで悲鳴が聞こえてきました。
 もう驚いたりしません。
 ドアの向こうで唸り声がします。
 自然は変わるのです。
 これがこれからの地球の自然。
 人類は絶えずこの自然に抗う存在なのでございます。
 「アヤちゃん、疲れたから寝ようか・・・」
そう呼びかけると、妻はすでに布団にくるまり寝息を立てています。緊張と恐怖でよほど疲れていたのでしょう。それを見守りながら私も静かに眠りにつきました。
 悲鳴と唸り声をBGMにして・・・。

 さて、本日はここまでとさせていただきます。
 ようやく本題に入れる準備ができました。ここからが本当に伝えたい内容になります。開き直った人間の強さ、日本人の逞しさを伝えていきたいと思います。いえいえ、すみません。本題はやつらの生態でございました。  それを忘れてはいけませんね。
 
 それでは一度失礼させていただきます。

三章 層雲峡脱出編  第一話 結論と仮定

はじめに
 
 私、山岡朝洋友広が住む北海道・旭川市も随分と雪深くなったものでございます。
 例年であれば除雪車がせわしなく行き交い排雪していくのですが、今年ばかりは重機の音などまるで聞こえず静かなものです。
 三月下旬ともなればこの雪も融けだし、北の国にも遅い春が訪れます。
 その頃には車を走らすこともできるでしょう。
 もう間もなくの辛抱でございます。それまでは雪をかじってでも生き延びる覚悟です。そして妻と二人この自宅を脱出します。
 それまでこの体力と気力が続くことを願っております。
 そうですね・・・
 その前に私たちがどうやって層雲峡を脱出し、ここまで辿り着いたのかをお伝えしておかなければなりません。
 時を「あの日」二〇一五年九月二十八日に戻してお話していきましょう。
 みなさんの今後の行動のヒントになれば幸いでございます。


三章  層雲峡脱出編


第一話 結論と仮定

 私、山岡朝洋と妻のアヤコは二泊三日の休暇をとり旭川市から車で1時間ほどの場所にある温泉街「層雲峡」に来ておりました。
 事件が起こったのはその最終日にあたる九月二十八日の早朝でございます。
 私と妻はひょんなことから高橋守という大学生から頼まれ、五階の露天風呂に石和麻由希さんを捜索することになりました。
 八階の宿泊部屋を出て数時間の間でしたが、それは酷い経験をしたものです。
 この内容につきましては以前に掲示板に記しております。そちらをご覧になられてからここから先の話を読んでいただければと思います。
 石和さんは五階の脱衣室でやつらに襲われ亡くなりました。
 私たちも命からがら部屋に辿り着き、ただひたすら心身の疲れを癒すため眠りについたのでございます。部屋に備え付の電話のケーブルをぬき、携帯電話の電源を切って・・・。
 目を覚ましたのは九月二十八日の午後十時ぐらいだったでしょうか。
 横で眠る妻は布団に潜り込んでまだ夢の中でした。
 私はこれまでの出来事が夢かと疑いました。
 たちの悪い夢かと。
 暗闇の中、部屋を見渡すとダンボールが置いてあります。中には私自身でかき集めた食料が入っておりました。自販機で購入した水のペットボトルもあります。携帯電話の電源を入れ画面を開くと、LINE(ライン)には高橋からのメッセージが三十八件残されておりました。
 私が愕然として頭を抱えたのも無理からぬ話でございます。全てが現実に起こった事だったのです。そして私たちはその渦中に未だ取り残されているのでございます。幸いな事と言えば、この数時間の体験が大きな経験値となっていることぐらいでしょうか。原因の解明とはいかないまでも事態に対する情報も入手できておりました。そしてこの部屋に数日は籠城できる食料と水があります。サイレンと場内アナウンスに怯えてこの部屋に閉じこもっていたらこうはいかなかったはずです。そう考えれば高橋に感謝しなければならないかもしれません。もちろん直接それを伝える気などこれっぽっちもありはしませんが。
 窓から外を眺めると、夜のとばりの中、層雲峡の山がひっそりとそびえております。実に静かなものでございます。我々人類にとって大きな境となった日でしたが、自然は自然のままでございました。夜は夜。山は山なのです。
 私は大きく息を吐いてこれからのことを思いました。そうすると沖田春香の言葉が脳裏をよぎります。彼は最後にこう云っていました。
「ここに逃げ隠れるのは四日がリミットです。五日後には軍が動き、ここは火の海になります」と。
彼の言葉が真実であるのならば、私たちはこの四日間の中でここから脱出する算段をつけねばならないことになります。
 私は彼との出会いを天使との邂逅だと頑なに信じておりましたから、彼の言葉を疑う余地もございませんでした。
 考えを進めていくと、私がこの四日間ですべきことは自ずと決まって参ります。
 やつらの襲撃に怯えながらも脱出の準備を進めていかねばなりません。私たちの武器は「知恵」と「情報」でございます。それらを駆使し、ゴールを目指していくためには順繰り筋道を立てていく必要があります。
 これは数学の証明問題を解くときとまるで同じ手順です。結論から考えていくと絶対的に必要な仮定が見えてくるはずなのです。あとは真実に近い仮定をいくつ持っているのか、それらを組み立てれば解法は導けるはずでございます。
 やらねばならないことは次の二つに大きく絞られます。
 ① この八階から一階に下りること。
 ②  一階から駐車場の車に辿り着くこと。
成り立たせるために重要な鍵を握っているのは、やつらをいかに回避するかということでございます。
 肉弾戦で「戦う」という選択肢はありません。実際にやつらの動きを垣間見るに一対一であっても私に勝ち目は無いでしょう。仮に倒せたとしても私は大きな傷を負っているはずです。沖田春香の話によれば、かっちゃかかれても噛まれても感染するとのことでしたから、「戦闘」は結論を導く仮定としては不適でございます。
 肝心なのは「遭遇しない」ことなのです。いかにやつらの目に触れずに事を運ぶかが大切です。その前提のもと組み立てていく必要がありました。
 私はそっと襖を開き玄関口に立ちました。そして耳をそばだててみます。
「うー・・・うー・・・」
やつらの低い唸り声が聞こえて参ります。廊下を彷徨うのは一人二人ではきかないかもしれません。
 沖田春香は実に効果的にやつらを陽動しておりましたが、私には窓から外に出て離れた部屋に飛び移っていくような芸当など無理な話でしたし、そのために生命線となる携帯電話を失うこともできません。廊下からの脱出は不可能だと思われます。
 となると、出口は窓になります。
 ここから一階まで進むしか方法は無いのです。
 この部屋の窓の下はホテルの裏庭になっております。おそらくかなりの数がそこにいるはずです。外に下りるのではなく、外を伝って真下の一階の部屋に潜り込む手段が必要です。
 また、行動を移していくにあたっては周辺の情報を入手しておくことも忘れてはいけません。高橋と連絡を取り合えばホテルの反対側の状況は把握できます。駐車場内がどうなっているのかもわかるのです。
 高橋でなくても他の宿泊客でも構いません。
 これは高橋同様の作戦で何とかなるはずでございます。徹底的に各部屋に内線を鳴らせば誰かに繋がることでしょう。そうすればこのホテルにどのくらいの生存者がいるのかも把握できます。もともと日曜の夜ということで宿泊客は少ない状況でしたから、やつらの歯牙を免れた人たちとなるとごく少数のはずです。従業員がどのくらい働いていたのかはわかりませんが、何人かは生き残って隠れているはずでございます。その人たちと連携を取れれば脱出の可能性は高まるのです。夜が明ければまずここから着手することになりそうです。
 結論を導くためにはまだ、仮定が少なすぎました。情報の収集が急務でございます。何も知らない状態でしたら無謀な行動にも移せたのでしょうが、あれだけの経験をした後でしたので何事にも慎重にならざるを得ません。もうビギナーズラックに頼ることなどできないのです。薄氷を踏む冒険になることはやむを得ないとしても、それはどこまでも理に沿った行動であらねば脱出はならないと覚悟しておりました。混乱と恐怖に震える日々が続こうともやらねばならないことはやらねばならないのです。私は日々生徒たちに語っております。
「やりたいことは、やらねばならないことの後にしなさい」と。
泣き叫ぶことも絶望に暮れることも後なのでございます。祈ることさえも・・・。
 ふと、妻の歯ぎしりが聞こえてきました。外に音が漏れないか心配になりましたが、外の動きに変化はございません。この音量であれば問題無いようでした。暗闇のなかで布団からはみ出した妻の寝顔を見て、私は強く決心したのでございます。

 妻を連れ、必ず生きてここを脱出する!と。

 どのような人生においても決断に困難は付き物でございます。人間は希望と努力でその困難を打破し、目的を達成してきたのです。不可能を可能にしてきたのです。

 私の場合、難しい問題ほど燃えるのはどうも数学に対してだけではなかったようでございます。

 この続きはまた次回とさせていただきます。
 それでは一度失礼させていただきます。

第二話 アーシュラマ

第二話 アーシュラマ

 お待たせいたしました。
 人類が未曽有の大変貌を遂げることになった二〇一五年九月二十八日、月曜日。
私、山岡友広にとってもこれほど長く危険に満ちた一日は、三十八年間の人生で稀有でございました。恐怖と混乱の中を無我夢中で切り抜けた私は、最後には明確なビジョンを伴った決断とともにこの一日を終えました。
 私が大学生の時代に放浪の旅に出たインドでは、かつて「アーシュラマ」という習慣があったそうでございます。
 バラモン教では人生の過程を大きく四つに分類しております。
 学生として勉強に励む「ブラフラチャルマ」を経て、家庭を築く「ガールハスティア」、その後は森林部で暮らし世俗との関係を断つ「ヴァーナプラスタ」そして最後には全てを捨て乞食遊行の旅に出る「サンニャーサ」となる。
 これらが人間として完成されるために必要な経験だと古代から認知されていたのでございます。
 私は意図せずこの九月二十八日をもって第三区分たる「ヴァーナプラスタ」に突入したということでございましょうか。いいえ、人類自体がそのような時期を迎えたのです。人類が進化の頂点に進むには必要なプロセスだったのかもしれません。
 さて、層雲峡脱出編のお話を進めていきましょう。

 明けて九月二十九日。
 昨日の雨が嘘のように晴れあがった空が広がっております。
 層雲峡独特の柱状節理の山肌が青く澄みきった空の中にくっきり浮かび上がって荘厳でございました。
 妻は大胆にも窓を開け放ちタバコをふかせております。
 異臭さえ気にしなければ新鮮な空気が冷たい風となって顔をなでます。時計を確認すると午前五時十五分でございました。 
 私は一度テレビを布団で囲い込み、恐る恐るスイッチを入れます。そしてすぐさまボリュームを0にし、そこから徐々に上げていきました。ギリギリ聞き取れるかどうかの音量です。廊下にはやつらが徘徊しており、うかつに声も音も出せない状況なのでございます。
 
 「・・・です。えー、昨日から日本各地で発生しています正体不明の暴動ですが、拡大の一途の模様です。官邸に設置された国難緊急対策会議の発表によりますと、現在警察関連、消防関連の他に国防軍も全部隊が出軍にあたり鎮圧に尽力しているという話です。えー、それでは、ここで・・・すみません、それでは、これまでの被害者の数字が入ってきました。全国各地で千八百万人の負傷者が出ているとのことです。せ、千八百万・・・ほんとうですか?え・・・死傷者ですか?死者?・・・あくまで予想ですか?どこのだれの予想なんですか!?すみません情報が錯そうしております。えー、昨日から日本各地で発生しています正体不明の暴動は拡大の一途の模様です。都内全域は緊急車両以外は全面通行禁止、路線も全線運行停止、飛行機の離発着も停まっております。なお日本政府からは外出禁止令が出されております。外は非常に危険なので絶対に屋外に出ないでください。繰り返します。屋外は大変危険な状態になっております。指定されている避難場所への移動も危険なので控えてください。電話回線も非常に混雑しており通話できない状態です。家族のもとへの無理な移動も避けてください。襲われた場合は最寄りの警察、消防、国防軍へ救援を求めてください。電話回線が不通になっている状態が続いています。インターネットも緊急機関に集中し繋がりにくい状態です。現在関係各所が鎮圧に尽力している最中です。みなさんのお住いの市、町、村への救助にも動いております。どうか屋内のどこかに隠れて救援を待ってください。絶対に屋外に出ないでください・・・」

 アナウンサーはかろうじで冷静さを保っておりましたが、放送局全体がパニックに揺れ動いていることは画面を通して嫌というほど伝わってきました。
 話している内容も矛盾している点がいくつかありましたが、私が一点気になったのは国防軍がすでに動いているということです。沖田春香の話では軍がここに来るのは五日後ということでした。旭川市には北方の国防軍基地がありましたから、市内から順次鎮圧していってここに辿り着くのがそれぐらいになるだろうという沖田の予想なのでしょうか。始めからそう想定されていたとは考えにくい話でございます。
 千八百万人の人間が一日で死傷したという話は眉唾ものでございましたが、私は実際にその猛威に直面した直後でしたので全面的に否定する気持ちにもなりませんでした。同じことが日本中で発生しているのだとしたら被害はそれ以上かもしれないとすら思えます。
 妻がタバコを吸い終わり、私とテレビを覆っている布団の中に潜り込んできました。タバコの匂いが狭い空間に広がります。妻とこのように密着したのは随分と久しぶりのような気がいたしました。

  「・・・正確な情報はこちらにも届いておりません。現場に向かったリポーターたちもそのほとんどと連絡が取れない状況です。東京都足立区に向かった坂本祥子からはこのような映像が届けられております。正確な情報は不明です。あくまでも現場の様子を撮影した内容と坂本の実況です。ご覧ください」
すると突然民家の庭先が映し出されました。
目前の芝生の上に肥えた女性がうつ伏せで倒れております。顔はよく見えませんが年のころは四十五から五十歳ぐらいでしょうか。周囲にはそれほど大量ではないものの流血の跡がありました。
リポーターの女性が画面に向かって何かを叫んでいますが音をまったく拾えていません。非常に興奮した表情で喚きながら倒れた女性に近づいていきます。それを制止しようとするカメラマンの右手も映し出されております。

 すると突如音声が入りました。
 「・・・は、・・・・っです!!感染者に噛まれて死んだ人間が生き返るというのです!ご覧ください!先ほど感染者に襲われ息を引き取った方です。私が直接脈をとりました。脈は停まっていました・・・それはカメラマンにも確認してもらいました。一度確実に亡くなった女性が、ご覧下さい・・・動いております・・・」

 うつ伏せで倒れている女性の肩がビクビクと震えております。

 カメラマンが撮影しながらも必死になってリポーターの女性を引き戻そうとしておりましたが、リポーターは構わず近寄っていきます。

 そしてその髪に触れるかというほどまで顔を寄せました。
「なんでしょうか、この異臭は・・・。強烈に腐ったような匂いがします!・・・うめき声です。うめき声が聞こえてきます。奥さん、大丈夫ですか?奥さん!」

 その声に反応して顔がぐるりとカメラの方を向きました。
 口元からは白い涎、
 目は大きく見開かれ、声の相手を必死に探しております。
 隣でテレビを観ている妻もビクリと反応し目を背けます。この後の結末が想像できるからでございましょう。パニックになったカメラマンの怒鳴り声とリポーターの悲鳴、そして歓喜の雄叫びが響き映像が乱れて終わりました。
 
 「衝撃の映像です。これは合成の映像ではありません。今、日本で起きている現状の一部です。お、恐ろしいことが起きています・・・。坂本ともカメラマンともこの映像撮影後もネット回線で連絡は取り合っていたのですが、現在は消息不明になっております。今回は配信されてきた命がけで撮影した映像を修正せず放送させていただきました。彼らが安全な場所に避難し、無事でいることを祈ります」

 死んだ人間が生き返る?
 そんなことがあり得るはずがございません。
 そう笑い飛ばそうとするのですが、何かが引っかかります。昨日の記憶がフラシュバックしてくるのです。たしか同じような出来事があったような気がしました。
 悩んでいる私を見て妻が、
「五階の露天風呂の脱衣室で同じようなことがあったら」
「脱衣室・・・」
「あのおじさんズラ」
~ら、も、~ズラも甲州弁でございます。妻は北海道に嫁いできて十年年以上経ち標準語も使いこなせるのですが、興奮すると生まれ故郷の訛りが自然と出て参ります。私も数年山梨県に住んでいたものですから特に違和感なく会話することができました。まあ、北海道には北海道の訛りがあるのですが。
 「石和麻由希さんを助けにきたあの人か・・・」
 思い出しました。
 あの時、やつらに襲われて血まみれになりながら脱衣室に飛び込んできた夫婦のことでございます。旦那さんの方は首から大量に血を流していて室内に倒れ、やがて息を引き取りました。それが数分後に再度室内に入ったときには立ち上がって暴れていたのです。生きていたのかと思っておりましたがやはりそうではなかったようでございます。一端は死んだことに間違いなかったのです。
 
 「うーーうーー・・・・」
 玄関口からやつらの唸り声が聞こえてきました。
 巡回しているときの低い唸り声です。私たちの存在が気づかれたわけではありません。すぐに唸り声は遠のいていきます。
 私は頭を抱えました。
 やつらは病気になった人間ではないのでございます。まったく別の生物。いや、こうなると生物と呼ぶことすら該当しないかもしれません。
 仮にこの話が真実だとすると話は大きく変わってきます。
 千八百万人の死傷者がそのままやつらに変化しているとしたら被害の拡大はより一層大きくなっていくだけでございます。加害者がどんどん増えていく換算です。被害は「べき乗の法則」で増加していくことでしょう。グラフで表すと一定の割合で増加していく一次関数の直線ではなく、変化の割合がどんどん大きくなっていく二次関数の放物線に近い形です。計算上では、・・・いいえ、そんな計算をする必要などありませんでした。そんな簡単に今回の犠牲者を関数の式で表すことなどできないはずです。それに計算した結果の解は絶望しか導かないはずでございます。  
私には今、やらなければならないことがあるのです。
 布団の中で妻に私の考えを話しました。十月二日までにはこのホテルを脱出しなければならないこと。そのために準備をしていかなければならいこと。
 思い描いたことはすべて伝えました。妻は相槌を打つわけでも反論するわけでもなく黙って話を聞いていました。そして私が話終えると涙を浮かべ、
「旭川の家に帰りたい」
と、たった一言だけそう云ったのでございます。

 私たちの城。安住の地。思い出の場所。私たちはそれを取り戻すために活動を開始しました。いかなる時も、「目的」は必ず力を与えてくれるものでございます。この数日で私たちは強く実感することになるのです。

 ただ、時代の流れは、人生のベクトルはやはり「アーシュラマ」ではございました。

こ の続きはまた次回とさせていただきます。
 それでは一度失礼させていただきます。

効果的なゾンビの対処法

効果的なゾンビの対処法

2015年9月28日 日本各所で異変が起こる。 人々を襲い始めるゾンビの群れ。崩壊していく人間の文明。 逃げ惑う人々の姿、生き延び方をここに綴る。 (読みやすく書き直したNEW効果的なゾンビの対処法です)

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 一章 あの日   第一話 東京都東村山市  夫婦
  2. 第二話 愛知県日進市  独身女性
  3. 第三話 群馬県高崎市 大学生 前編
  4. 第三話 群馬県高崎市 大学生 後編
  5. 第四話 栃木県日光市 中学生 前編
  6. 第四話 栃木県日光市 中学生 後編
  7. 第五話 神奈川県横浜市 独身男性
  8. 二章 北海道上川郡 層雲峡  第一話 「あの日」のはじまり
  9. 第二話 電話
  10. 第三話 依頼
  11. 第四話 決断
  12. 第五話 五階
  13. 第六話 出会い
  14. 第七話 侵入
  15. 第八話 悲鳴
  16. 第九話 逃亡
  17. 第十話 分かれ道
  18. 第十一話 七階
  19. 第十二話 天使
  20. 第十三話 食料確保
  21. 第十四話 バイオリン
  22. 第十五話 鍵
  23. 三章 層雲峡脱出編  第一話 結論と仮定
  24. 第二話 アーシュラマ