多次元随筆①

多次元随筆①

イスラム教の『過激派組織』が、非人間的なテロや殺戮を繰り返しています。
今日もそのニュースが後をたちません。
これらの行為は、『悪魔の教育』の成せる悲劇であります。

リアルタイム。ここで言うリアルタイムとは、この執筆が書かれた当日の出来事という意味です。

私は随分と過去から、『死』に対して親近感を抱いていました。
それは私の小学生時代に集中した出来事がそうさせたのかも知れません。
弟の不慮の死に接したことと、ある日、
父親が私の家に仕事で『事故死』した人を連れかえって弔った、
その生々しい記憶があるからです。
たぶん当時の私には、『死』に対する理解や恐怖心はなかったように思います。
あったのは目に見えないものたちに対する感情であります。
それは『死』の不条理さと、不可解さに対する怒りでありました。
なぜ人は死ななければいけないのであろう。
なぜそれは突然でなければいけないのであろう。
まわりにその答えを求めても、どこにもその答えは存在していませんでした。
いつしか私は随分と過去から、『生』の意味を問い続けていました。
そしてその状態は今も延々と続いています。 

さて、この数日、日本国中を賑わせている問題です。〈笑〉
あなたはどうお考えでしょう。テロという単語は学校でも学べますが、
テロを身近な問題として解釈し、思慮を与えてくれる教育は行われているでしょうか。
私は人が正しく生きていく上で最も大事なことを、詳しく説明してくれる先生方、
もしくは人格的に立派な大人たちが、非常に少ないように思いますが、
どうでしょう。

青年は『愛』とか『恋』それに『恋愛』という言葉には、本能的に敏感です。
ですからその世界〈歌や詩の世界〉に生きている人は多い。それゆえ、
青年の多くはそれ以外の面倒な言葉、例えば『平和』とか『自由』とかいう単語に対して、
一種の拒否アレルギーを強く抱いている人が多いようです。
実はそのことが、
現代の平和不在の世界を形成していることを、青年は知るべきです。
実はそのことが、
悪の発生と温存を許していることに、青年は気が付くべきです。
なぜに『青年』なのかと言えば、
『青年』は『大人』に比べて、頭脳が柔軟性を持っているからであります。
えてして長く人間をやっている大人〈私も含めて〉は、
自分のつたない経験を元に、人生観が小さく凝り固まっているケースが多いのです。
その固い凝りを柔軟にするのは容易ではありません。
それには落雷ほどのエネルギーを要するのです。
ご存知でしょうか、日本を近代化に導いた『明治維新』は、
若き使命を持った、青年群によって成されたということを。
ご存知のようにパキスタンの女学生である、
『マララ・ユスフザイ』さんの目指している環境は、
子供たちが『教育』を受ける権利環境であり、そのために必要な、
戦争のない『世界平和』と言う地球環境であります。
これは人類規模の悲願であります。自分だけとか、
一握りの人々だけが満たされていれば良いという平和主義は、余りにも浅ましく、
人として絶望的な生き方ではないでしょうか。 
しかるに、そのいたいけない少女は、私たちが眠る今も、
命を懸けて平和のために『行動』しているのです。
――同時にその対極で、
イスラム教の『過激派組織』が、非人間的なテロや殺戮を繰り返しています。
今日もそのニュースが後をたちません。
これらの行為は、『悪魔の教育』の成せる悲劇であります。
教育にはこの二通りの姿が存在するのです。

ここで私たちが勘違いしてはいけない重要なことがあります。
それは『宗教』と『テロや殺戮』は、共に相容れない性格のものであるという事実です。
『キリスト教』や『イスラム教』に限らず、
長い歴史の中で多くの人類に支持されてきた宗教は、
発生時において『非人間的』な『殺戮』という教義を持ってはいないのです。
人類に幸せをもたらすことが宗教の大事な『使命』であり、
『目的』なのであります。
悪のテロリストたちは、教義を曲げ宗教を利用し、
その皮を被った悪魔たちなのであります。
それを神の名においてなどと言わせてはいけないのです。
もし教義的に『殺戮』を『聖戦』として肯定されるのであれば、
それは人類の宗教ではなく、邪悪〈悪魔〉の教義でしかありません。
しかし事実はそうではないと私は思っています。
純粋な信者たち〈中にはそうでない人も含まれます〉とテロリストたちは、
まったくの別人格者であると考えるべきであります。
そのことを見誤っているのが、
宗教の本質に疎い多くのジャーナリストたちであります。
彼らは『表現の自由』を乱暴に振りかざします。
彼らが本来批判すべきは『過激な組織』であります。決して『宗教の教義』や、
純粋な『宗教指導者』への、個人攻撃であってはいけないのです。
その『過激な組織』は宗教の悪利用〈悪解釈〉者であり、
純粋な『宗教組織』とは別人格で考えるべきであります。
  
少し話が飛躍しますが、
過去の日本も『神道』という宗教を戦争の道具として利用し、
国民の宗教心を統一し規制して、民衆の中に現人神〈神話、天皇神〉を教育し、
『御国』のためという詭弁を使い、信仰心を煽って始めた『世界大戦』がありました。
その証拠として、いまだに政治家自らが『信教の自由』を犯して、
堂々と『神道系神社』を参拝している姿は、
誠にその悪しき名残でなくて何でありましょう。
〈戦没者への追悼という名目は、詭弁です〉
もしそうでないと言い張るのであれば、
政治家としてでは無く、あくまでも個人で参拝することこそ、
『信教の自由』を国民に説くべき政治家の、正論ではないのでしょうか。
子供でも解る理屈です。
であるにも関わらず、戦後の国民の多くは、
まるで悪い酒を飲まされてしまった泥酔者のように、宗教の良し悪しの見分けが付かず、
世間の流れの中で、言葉を失っているのが実態ではないでしょうか。
これが日本国の、戦中戦後の教育のなせる技〈マインド・コントロール〉であります。
いまだに解けないそれは、
国民の素朴な怒りとして、昇華することさえないのです。

もう少し、その証拠をあげますと、
近隣諸国やヨーロッパ世界を含むアメリカまでもが、
今も日本国に対して、遠まわしに指摘していることがあります。
それは『戦争責任』に対しての、現政治家の自覚のなさであります。
そしてそれは、戦後生まれの首相の中にも強く存在しているのです。
天皇を神とし天皇が日本を統治し、軍隊までも統帥するというのが『明治憲法』でした。
これには国民の自由や人権などに対する配慮は、まったくありませんでした。
その明治憲法を『日本国憲法』として監修し、
日本の『平和憲法』たらしめたのは、実はアメリカであります。
その憲法によって日本は自衛隊〈軍隊〉を有しながら、曲がりなりにも、
七十年間ものあいだ、平和な国を保ってこられたのです。
つまり、この件〈信教の自由〉に関しては、
諸外国のほうが『文化水準』が遥かに高いのです。

もう少し、私の話は飛躍します。〈哀訴笑〉
――ここまでに私の話を聞いて不快感を抱いた人は、
間違いなくそれは、悪しき教育が原因であることに気づくべきでしょう。
きつく言えば〈マインド・コントロール〉が解けていないのです。
でもそれは貴方の責任ではまったくないのですから、
決して怒りを持つべきではありません。
ここで引き返しても、恥でもなければ罪でもありません。
それでも、現在世界で起きている『テロ』の本質について、
少しでも多く知りたい貴方は、
あの〈私の〉小説のハヤシ係長のように、コーヒでも飲んで一服し、
それから次に進んでください。〈笑〉

これから重要かつ大事な私の、小さい頃から抱いていた想いを述べます。
それは決して大袈裟な想いではありませんし、
ましてや貴方に対して、マインド・コントロールを行うものでもありません。
あえて大袈裟な言い方をすれば、
『日本国の地球上における存在意義について』です。
少しでも興味を持てる方は、躊躇せずに前に進んでください。

さて、我が国は地球上空から俯瞰して見ると、
実に不思議な国であります。どこが不思議であるかと言いますと、
世界の中で唯一『原爆』が投下された国であることです。
それも丁寧に、二度に渡って被爆を経験したのです。
それに最近でも、大津波とともに『放射能汚染』までも経験した国なのです。
又、自衛隊と言う限りなく軍隊によく似た武器と組織を持っていながら、
不戦を謳う国家でもあります。
それはまるで、矛盾の氷の上を滑る優雅なスケーターのようでもあります。

その国家は、長くのあいだ『鎖国』という歴史を持ち、それゆえに、
おそらく世界でも珍しい神々、『万(よろず)の神』が存在する国として発展しました。
日本国がこの寛大で多様な宗教を受け入れる姿勢を有するために、
そのことで、世界の歴史で繰り返されている『宗教戦争』を、
免れて来たと言っても過言ではないでしょう。
そんな要素が存在する国ゆえに、
世界の中で果たさなければならない『日本国の使命』を、
明確に孕んでいるのですが、
……それが、貴方には見えるでしょうか。
本来、世界に向けて日本の示すべき道は、別に存在しているのです。
それは『世界平和』の先導国という、全人類にとっての、
晴れがましくも輝かしい、未来のための行動力であります。
この地球上の人類の中で、『世界平和』を築いていくべき国はどこかと聞かれた時、
私たちは胸を張り、『日本国』だと答えるべきでしょう。

『第二次世界大戦は一部の政治家と宗教学者が、『万の神』をも押しやって、
一神〈天皇と道教〉を立て開戦したのであります。実は天皇も被害者であったのです。
この点を誤解のないように願います。そして敗戦と言う罰を日本は受けました』

そこで、
今回のテロ組織による『身代金要求』で表面化した事実があります。
過去にも日本が人質による身代金を、理不尽に要求されたことはありますが、
今回は日本政府(首相)がわざわざ火中に飛び込んで、あっけらかんと元気よく、
イスラム国と対峙する姿勢を鮮明にしたのです。〈そうではないと言い訳していますが〉
まさにそのタイミングを待っていた悪の輩のビデオによって、
『敵対の代償』として身代金要求が、世界に向けて公になされたのです。
つまり日本国自らが、招いた出来事であると私は思います。
それまで悪魔たちは、日本国の『平和主義』につけいる隙を、
見い出せずにいたのです。
しかるに今回は、これまで敗戦の傷を負い『平和の国』として、
後方での『資金援助』のみで存在していた、我国の指導者たちが、
あまりにも長い平和ボケから招いた、
〈実は反対も表明できない、国民のボケの罪でもありますが〉
『慢心と驕り』による過失であると私は想っています。

予兆は以前から存在していました。
戦争の本当の怖さを経験していない指導者たちが、
過去の戦争に異論〈侵略や慰安婦問題に対しての〉を唱え正当化して、
近隣に対して強気の姿勢を見せ始めたころから、私は危惧していました。
「内政干渉と言い切り、物事をはっきり堂々と語り、強い日本を取り戻す」
この言葉は正確ではありませんが、
そんな姿勢を強調している指導者〈一個人ではない〉が、
ここにきて、台頭しているように思えてなりません。

もとい、
本来、日本が外交戦略で世界に向けて語り、発信しなければならないことは、
偽善に似た『資金援助』や、『全面的な支持』という言葉のごまかしではないのです。
語るべきは、完全なる非武装への道のりであり、
言うべきそれは、世界に先駆けての『平和立国宣言』ではないでしょうか、
そうでないと人類が、
地球上に『平和』なる歴史を実現することは、
不可能の領域に到るのではないかと、私は心から危惧しています。

はて、さて、貴方はどう思うでしょう。

H27年1月23日記す。

多次元随筆①

多次元随筆①

イスラム教の『過激派組織』が、非人間的なテロや殺戮を繰り返しています。 今日もそのニュースが後をたちません。 これらの行為は、『悪魔の教育』の成せる悲劇であります。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-04

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