*星空文庫

フキダシふわふわ

久保田弥代 作

 由子は高校の屋上に一人座り、しくしく泣いていた。昼休みである。しゃがみ込み、腰の高さのコンクリート壁によりかかって泣いている。めそめそ。彼女のあだ名は『泣き虫ゆうちゃん』。
 今年の誕生日で十七歳になるのだが、「生まれたての赤ん坊の方がよっぽど我慢強い」と友人に言われてしまうほどよく泣く。
「えーん」
 と声を出して泣くのだから困ってしまう。
 転んで泣く。道に迷って泣く。人混みに揉まれて泣く。友人とはぐれて泣く。ショッピングで予算が少し足りなくて泣く。高校の廊下で怖い顔の男の子とすれ違って泣く。これなんか、泣かれた方はいい迷惑である。
 挙げ句の果てには、野良猫にじいっと睨まれて金縛りに遭い、そのうち「あーん」と泣き出す始末。
 いっそ見事と言いたくもなる。
 そんな『泣き虫ゆうちゃん』が、今日も「しくしく」と言いながら泣いている。器用なことだ。
 今日は朝から、どこかおかしかった。
 カレンダーが四月にめくれたこの日は、春休みに一度だけある特別登校日である。
 登校日とは言っても、顔を見せ合ってハイさようなら、というものではない。進級の復習の意味も含めて、きちんと午後まで授業があるのである。
 朝、母は由子の顔を見るなり、くすくす笑いを押し殺したような顔になった。父は可哀相にと哀れむような表情を由子に向けていた。
 おかしい。
 遅刻してしまいそうな時間だったから、由子は泣きたいのをぐっとこらえて家を出た。
 通学路を歩いていると、道行く人が皆、くすくす笑っているように思えたが、泣き虫なくせに呑気なところもある由子はほとんど気にしなかった。
 一人、後ろから早足で由子に並んだ女子生徒がいた。上級生だった。彼女はにやりと笑いながら、
「デンセン」
 と、一言呟いて歩き去った。由子はびっくりして立ち止まり、あわててスカートから覗く自分の足をあちこち見た。泣きそうだった。
 ストッキングは伝線していなかった。
 おかしい。
 校門には生活指導の先生が立っている決まりだ。今日は、由子の担任が当番だった。担任は、おはようございますと挨拶した由子に、
「今日は事情があって、視聴覚室でホームルームをすることになったから、そっちに行っててくれ」
 と声をかけた。先生はにこにこしていた。
 由子は素直に、四階のいちばん端っこにある視聴覚室に行った。からからと戸を開く。
 がらーん。
 寒々と広い。
 そこには誰もいなかった。
 おかしい、と考える前に心細くなった由子は、開いた戸に手をかけたまま泣き出した。
「えーん」
 泣いているうちに予鈴が鳴り始めた。由子はいよいよ激しく、
「ぅわーん、あーん」
 と声を上げ、両手で目の下をこすりながら校舎の中をさまよい始めた。リュックではなく手提げの鞄を使っていたら、放り出していただろう。まるっきり迷子の幼児である。
 幸い、始業のチャイムが鳴る前に、クラスメイトが数人、泣き声を聞きつけて飛んで来てくれた。
「おお、よしよし」
「泣くんじゃないよ、いい子、いい子」
「もう平気だからね、怖くないからね」
 さすがに友人達は慣れたものである。
 頭を撫でられ、片手を引かれながら、由子はどうにか二年一組の教室に辿り着いた。結局、視聴覚室がどうこういうのは、先生の嘘だったらしい。それがどうしてなのか、由子は泣いてばかりで疑問に感じていない。
「しくしく」
 ホントに高二か。
 友人達のお陰でどうにか一時限目には間に合った由子だったが、おかしなことはそれからも続いたのだ。
 数学の時間。先生は由子に問題を当てた。
 由子は実のところ頭がいい。成績優秀。試験の成績は学年でひとケタなのである。この頃には泣きやんでいた由子は、立ち上がって答えた。正解である。であるのだが、先生は悲しい顔をして首を左右に振った。
 由子は涙ぐんで、しょぼんと座った。自信あったのにな、とか思っている。
 次に男の子が当てられた。この子は由子と同じ答えを言った。由子はちょっとびっくりした。
 すると今度は、先生はにこりと笑って、
「よし、正解」
 由子は情けない顔をして先生を見たが、先生は答えたばかりの男の子を「よく出来たな」と誉めており、由子には目もくれなかった。
 じんわりと目に涙を浮かべて、由子は教室を見渡した。クラスの誰も、苦笑いのような笑みを浮かべている。腹を押さえて爆笑をこらえているような男の子もいた。
「えーん」
 由子が泣き出す。
 さっと周囲の机が移動して、由子の周りにスペースが出来た。続いて素早く、友人達が机ごと由子の周りを取り囲み、由子を慰め始める。
「おーよしよし」
「ゆうちゃんはいい子ね、だから泣かないでねぇ」
「ほーら、我慢しようねぇ」
 二年一組名物、『泣き虫ゆうちゃん慰めシフト』である。
 こんな調子で一時間目は終わった。
 だが二時間目の国語でも、同じことが起きた。由子が当てられて正解を答えたのに、先生は残念そうに口を尖らせ、
「ブブーッ」
 と、ブザーの真似をしたのである。それでいて次に当てられた子が答える内容は、由子と同じ。そして先生はよく出来たと褒めちぎるのである。
「えーん」
 ささっと『シフト』が敷かれる。いやまあ、よくやること。
 三時間目は英語。四時間目は理科。似たようなことが続き、そのたび由子が、
「えーん」
 と泣き出し、即座に『シフト』が敷かれた。麗しきかな友情、てなもんである。
 そして四時間目が終わって昼休みになると同時に、由子は泣きやまないまま、またもや校内をさまよい始めた。
 これは時間が悪かった。昼休みである。皆、弁当と購買部でのパン争奪戦に心奪われていて由子の放浪に気付かない。こうなると友情もへったくれもない。
 その結果、由子は壁にぶつかったり階段で蹴躓いたりしながら、誰もいない屋上に場所を確保し、心ゆくまで泣き始めたのであった。
「えーん」
 目の周りが泣きすぎて真っ赤になっている。
 慰めてくれる友人はいないが、それでも昼休みが半分過ぎた頃には、
「ぐすん」
 どうにか泣き声のボルテージが下がってきたようだ。
 そこで一人の男の子が屋上に上がってきた。
 由子はびくっと身体を震わせて、ついでにまた涙をじわりと浮かべた。まだ泣くか。
 二年二組の梶原という男の子だった。そうと気付いた途端に、由子の涙はぴたりと止まった。
 目の回りから顔全体、それどころか指の先までポーっと赤くなった。涙の赤味ではない。
 由子が入学式の日から、一途に片想いを続けている相手が、誰あろう梶原少年なのである。
 背はそこそこ高く、顔もわりと良し。体格はしっかりしていて、気骨もある。
 女の子にまんべんなく好かれるタイプだ。が、逆にそれが災いとなり、彼女はいない。
 それなのに由子が片想いを続けているのは、もしもフラれてしまったら、あんまり悲しくて一生泣きやまないのではないかと自分を怖れているからである。
 全身、余すところなく桜色に染めた由子は、ぽわんと梶原に見とれていた。
 梶原は、由子を見かけると、まるで由子を探していたんだと言わんばかりに駆け寄ってきた。そうと気付いて、由子は充血した目をキラキラとうるませる。それだけで嬉しいのだろう。
 梶原は、由子の目の前で立ち止まった。
「あの、……君を探してたんだ」
 梶原がそう言った。
 由子は勢いよく立ち上がって、
「わわわたっ、たっ」
 と、緊張でろれつの回らない舌で返事をした。涙など完全に吹き飛んでいる。
「なななんでででで」
 落ち着け。
「うん、実は……あの、なんて言うか」
 梶原は、はにかんだように俯いて、意味もなしに耳たぶをいじったりした。心なしか、顔を赤らめているようだ。
 由子の方は目をキラキラさせ、ついでに胸までドキドキさせている。待っている。期待している。
「そのぅ……俺さぁ……」
 由子の心臓はますます高鳴っていった。ドキドキドキドキ。肌の色も桜色を通り越して真っ赤である。
「ずっと前から、君に言おうと思って……」
 ドキどきどきドキどきドッ。
 片想いの相手にこの流れでこんな言い出し方をされたら、期待をするなという方が無理である。これで平然としていられたら、たぶんその人は女の子ではない。
「ななっ、な、ななんんんんー」
 由子の舌はまるで機能していない。とうとう肌が猿のおしりくらいに赤くなった。
「俺さ……」
「はっ、はひいっ」
「君のことが……」
 ぐぶ、と妙な音を由子は聞いた。自分の喉が鳴ったのだった。いつの間にか彼女は、胸の前で両手の拳をきつく握りしめていた。爪が掌に食い込んで痛い。
 頬を朱に染めてためらっていた梶原が、とうとう、最後の一言を口にした。
「……大っキライだったんだ」
 ぱっくん、と由子の口が開いた。
 肌の色が一気に元に戻った。
 点になってしまった目がチカチカと、切れかけた電球みたいに点滅する。
 梶原は、さらに追い打ちをかけた。
「……絶対、一緒にいたくないなって、思ってたんだ。それだけ、……伝えたかった」
 梶原はそう告げると、「それじゃ」と手を振って、急いで階段の方へ姿を消してしまった。どうしてなのか、くすくすと笑いつつ。
 ぱくん。
 由子の口はまだ閉じない。
 目に涙が浮いた。じわぁ。
   ポロリ
 あっ。
   ポロポロ
 あっあっ。
   ボロボロボロボロ
 ……あー。
「ぶぎゃーっっっ!」
 珍妙な泣き声を発して、由子は滝のような涙をこぼした。片手の袖で目を押さえるが、止まらない。残る片腕をぶんぶん振り回しながら、階段を駆け下りる。
「ぎゃーううぅっ!」
 泣き声なのか雄叫びなのか、よく分からない。
 ともかく、とてつもない大声で校舎を震わせて、由子は進路を邪魔するすべてをブチのめしながら学校を飛び出した。この時、生徒五人と先生二人と犬一匹が暴走する由子に吹き飛ばされて被害に遭った。もはや交通事故である。
 泣き声(?)を察知した友人達も、
「しまったっ!」
 とばかりに急いで後を追ったのだが、あっさり見失ってしまった。パチンと指を鳴らし、舌打ちして悔しがる。
 涙するダンプカーと化した由子は、真っ直ぐ自分の家までの道のりを辿った。
 住宅街を走る、走る。
 付近の住民は奇怪な叫び声がどんどん甲高くなり、ある一点をピークとして今度は低く変調していくのを耳にするという、貴重(奇妙)な体験をした。人間の声でドップラー効果を体感するのは珍しいだろう。
 由子が住宅街を走る、走る、突っ走る。つむじ風までビューンとうなる。
 住宅街のど真ん中、由子はついに自宅の門を突破した。
「ぎゃーううぅっ!」
 叫びながら玄関のドアノブに手を差し出す。だが、ドアは押し開けではなく引き開けだ。全速力で走りながらノブを握って回して、
   ズガンッ!
 派手に激突した。
 叫びが止まった。
「ぅう……」
 呟きが漏れた。
 由子はゆっくり、身体をドアから引き剥がした。ぶすったれた子供の顔である。その表情がくしゃっと崩れた。両手を目の下に押し当てる。
「ぅわーん、あー、ああーん」
 人間に戻ったらしい。
 泣きながら、由子は玄関のドアをちゃんと引いて開けた。
 上がり口に、母が立っていた。ぎょっとしたように目を見開いている。
「ぅわーん、あーん」
 泣きやまない。
「あのう……」
 母は、すまなそうにそう言った。小首を傾げて、ちょっと不思議そうである。
「あーん」
「……どちら様ですか?」
 ぴた。
 泣き声がやんだ。
 いや、由子だけ時間が止まった。
 身体全体が、ある一瞬で固定されてしまったようだった。
 目の下に手を当てて、泣き声を上げる形に口を開きながら、由子はぴくりとも動かなくなった。
 やがて、その身体がふるふる震え出した。
「あ、由子のお友達かしら?」
 母は、自分で言った答えに勝手に納得した調子で笑った。
 由子の震えが激しくなってきた。
 上半身を静止させたまま、両足で駄々っ子のように足踏みを始める。
 ばたばたばた。無言の訴えである。
 そこに母の追い打ち。
「ごめんなさいねぇ、由子、まだ帰って来てないのよ。また後で来てくれる?」
 片足上げた姿勢で、由子はまた止まった。
 今度はバランスが悪いから、耐えられなくなるのが早い。すぐにふるふると全身を震わせた。
「びゃはあぁーんっっっ!」
 もうわけが分からない。
 回れ右をして、由子は玄関を突き抜けて走り去った。その背中にさらなる追い打ち。
「ぎゃははは」
 母の無遠慮な笑い声であった。
 ふたたび由子は疾走する。腕の振りも走る速度も、格段にスピードアップしている。
 涙するダンプカーどころか、泣き叫ぶF1マシンである。駆け抜けた後に火花が散りそうだ。
「ぴぎゃーっっ!」
 叫び声までレベルが上がっている。
 今度の疾走では、由子には目的地が存在しなかった。ともかく走り回る。由子の進路は町のほとんどの道におよんだ。つまり町中の人間が、
「ぴぎゃーっっ!」
 という奇怪極まりない叫びを、ドップラー効果つきで聞いたわけである。気の毒に。
 泣き叫ぶF1マシンの弱点は燃費であった。走る以上に、叫ぶことによる消耗が激しい。しかも由子は昼食をとっていない。弁当はリュックと一緒に学校に置き去りである。
 赤信号を律儀に守って突っ立ったまま泣き叫んでいた由子が、ぐるっと背後に向き直った。そこはパン屋である。
「ひぃ」
 ショーケースの陰から、恐る恐る顔を出して様子を見ていたおばさんが震え上がった。
「ぅわーん、あー、ああーん」
 突如、由子のテンションが下がった。片手の袖で目を押さえたまま、パン屋の店先に歩いた。ショーケースの前で立ち止まる。一応、前が見えてはいるらしい。店のおばさんは震え上がって直立不動の姿勢を取った。
 ショーケースには、まだパンがたくさん残っていた。
「わーん、あーん」
 由子は泣きながら、メロンパン、チョココロネ、アップルパイの順番で指差した。甘いものが好きらしい。
 おばさんはガタガタ震える手で、示された通りのパンを袋に詰めた。
「わーん、わーん、わーん」
 由子が手を差し出した。おばさんは震えながら頷き、三つのパンを由子に手渡した。
「あぁーん」
「ええと、……三百六十円です」
 由子は片手だけで器用に、財布から三百六十円ちょうどを取り出しておばさんに渡した。
「あ、ありがとうございました」
 おばさんも律儀である。
 由子は店先のベンチに座って、パンを食べ始めた。しつけが良かったのだろう。しかし泣きながらなので食べにくそうである。
「ぐすんぐすっ……」
 ぱく。
「ずっ……ぶぅ……」
 もぐもぐ。
「ヒック……えぐぅ」
 そうして三つのパンを食べ終えると、由子は人間の世界に帰ってきたようであった。
「ぅわあーん、あぁん、あーん」
 また泣き出したが、とりあえず人間らしい泣き声だった。彼女は立ち上がると、とぼとぼと歩き始めた。泣き叫ぶF1マシンはリタイアしてしまったらしい。
「ぅあぁーん」
 迷子の子供よろしく、再び町中を歩いた。いつの間にか辺りは夕暮れに包まれていた。
 由子はまだ泣きやまない。
 一人ぽつんと公園のブランコに腰掛けて、すっかり夜になってしまったのに泣き続けている。泣いている理由を覚えているかどうか訊いてみたい。
「しくしく」
 ボルテージはだいぶ下がってくれたようである。近所迷惑にならなくてよろしい。
「くすん」
 キコ、キコ。由子が泣いて、ブランコが揺れる。さび付いた、ちょっと寂しい音がする。
 そうして、しばらく時間がたった。
 めそめそし続ける由子に、道の方から声がかけられた。
「おぉい、由子じゃないか。どうした、泣いてるのか」
 由子が顔を向けると、電柱の街灯に照らされて、そこに父の姿があった。スーツ姿で、手に書類鞄を提げている。仕事帰りであった。
 父が公園に入ってくるのを見て、由子は、
「えーん」
 と泣きながら立ち上がった。
 父が由子の前に立った。
「ああ、その様子じゃ、かなりひどい目に遭ったみたいだな。みんなにひどいことを言われて、それで悲しくて泣いてるんだろう?」
 優しく慰める笑顔で、父はそんなことを由子に話しかけた。由子は、泣くだけだ。とても意思が伝わるとは思えない。
「あっ、あぁーん、わぁーん」
「どうして分かるのかって?」
 さすが父親。
「それじゃやっぱり、お前は気付いてなかったんだな。朝、お前が起き出した時から、ちょっと心配だったんだ。お前は小さな子供みたいに呑気だからな」
 父はそう言いながら、由子の頭上の空中を見上げた。
「ああー、あー」
「うん? そうだな。本当はルール違反なんだが、もう夜だし、いいだろう。……ちょっと、そのまま上を向いてみなさい」
「あうー」
 由子がかくんと頭を後ろにやって真上を見ると、そこに奇妙なものが浮かんでいた。
 真っ白い、楕円形の風船みたいだった。全体が、CG映像のようにつるつるしている。下向きのとんがりがチョンとあって、その先は由子の頭に向いている。
 奇妙な風船は、ふわふわ、落ち着きなく揺れていた。由子の頭上、四十センチほどの位置である。
「そのまま、歩いてみてごらん」
「あうー」
 由子は言われた通りに、ぐるっと父の周りを一周歩いた。
 風船は、不思議なことに由子の頭上から動かなかった。ふわふわと揺れながら、しっかり由子の後を追いかける。
 よく見ても、糸か何かで由子と繋がっているようには見えないのだが。
 風船の真っ白な表面を、涙で一杯の両目で見つめながら、由子は言った。
「あーあー」
「そう、お前もマンガとかで見慣れているだろう。これは"フキダシ"だよ」
 フキダシ。
 言われてみれば。
 下向きの小さなとんがりは、これが由子のフキダシであることを示しているわけだ。由子のフキダシなら、由子の後をついていったのも当然(?)か。
「うあー」
「そうか、後ろ向きになってるから分からないな。前を向かせよう」
 父が手を伸ばし、とんがりをつまんでひねる。風船がくるりと回転して、今まで後ろに回っていた部分が前を向いた。
 そこには、太く、力強いゴシック体で、こう書かれていた。
   馬鹿
「うーうーうーうーっ」
 由子が涙をこぼしながらうなると、父はフキダシを放してやりながら答えた。
「あはは、お前が馬鹿だっていう意味じゃないよ。これはね、……お前、今日は何日か分かるだろう?」
「うー、あー」
「そうだ、一日だ。四月一日」
「あ」
「分かっただろう? 今日はエイプリル・フール。年に一度の『四月馬鹿』の日だ。お前は『四月馬鹿』に選ばれてしまったんだよ。だから、朝起きた時から、お前の頭の上にはこいつがくっついていたんだ」
「……ぶぁー、あぁーん、あああー」
 また由子が泣き出した。たっと駈けて、父の胸に飛び込む。フキダシが後を追いかけて、父の頭にこつんとぶつかった。
「仕方ないよ。『四月馬鹿』に選ばれた人には、誰でも、どんな嘘でもついていいというしきたりだからね。このためだけに学校があるっていうくらいだ。年に一度のお祭りなんだから、しょうがないよ」
 すがりつく由子の頭を撫でてやりながら、父は優しくそう言った。
 父が泣きやまない娘の手を引き、二人は仲良く家路についた。ついでにフキダシも。ふわ、ふわり。
 片手を引かれて由子が泣く。
「うあー、あっあん」
 手を引く父が、まるで独り言のようだが、それに答える。
「『四月馬鹿』に選ばれる確率はね、一万分の一くらいなんだそうだ。一万人に一人だよ。それに選ばれたんだから、お前は運が良いのかも知れないよ」
 フキダシは、ふわふわしている。ふわ。
「ああ、あー、うー」
「日本は一億人以上の人がいるから、日本中で一万人くらいは、お前みたいに周りから嘘をつかれた人がいたはずだよ」
「うえっ、えっく」
「みんな、お前が嫌いなわけじゃないんだよ。ただね、せっかく嘘をついてもいいっていう人がそばにいるんだから、つい嘘をついてみたくなるんだよ。怒らないで、許して上げなさい。明日になればそのフキダシも、お前にまとわりつかなくなるから」
「ぅあっ、あーん」
「そうか、いつも慰めてくれる人達は嘘をつかなかったか。きっと、いつものお前をよぉく知ってるから、嘘をつかない方がいいと思ったんだろうね。いいお友達だな」
「うぇーん」
「母さんまで嘘をついたのか。きっと反省して、ごちそうを作って待っててくれてるよ。だからスネたりしないでくれ。母さんも、ストレスが溜まってるのかも知れないな。今度、家族三人水入らずで、旅行にでも行こうか」
「あぁん、あー」
「そうか、じゃあ温泉にしような。……ああ、懐かしいなあ、覚えてるか? お前が小さい頃に三人で、浅草に行っただろう。あの時もお前は、人混みが怖くて泣き出してな。こうしてお前の手を引いてお参りしたんだよ」
「ぅあーん」
「そうか、覚えてるか。あの頃はお前、まだまだ小さかったのになぁ……こうしてると、なんだかあの頃に戻ったような気分だ……」
 やがて二人が家に辿り着くと、申し訳なさそうな顔をした母が出迎えてくれた。まだぐずっている由子が食卓につくと、彼女の好物のトマトシチューが、あったかい湯気をたてながら運ばれてきた。
「ふみー」
 泣き笑いでシチューを食べる由子の頭上で、フキダシはまだ、気楽そうにふわふわと浮かんでいた。
 めでたし、めでたし。


 ……いや、後日談を一つ。
 しばらくたった新学期のある日のこと。あいも変わらず屋上で、
「えーん」
 とやっている由子を捜して、梶原少年が屋上に駆け上がってきた。
 彼は由子のところに走り寄った。
 由子はこの前で懲りたのか、姿勢を変えずに泣き続けている。
 梶原少年は、何故か真っ赤だ。
「あのう……由子ちゃん」
「えーん」
「その、この前はゴメン。『四月馬鹿』のフキダシがあったから、えと、その……」
「えーん」
「きょっ、今日は、今日こそは、その……ほ、本当のことを言おうと思って……それで、君を、探してたんだ。……俺、ずっと前から言おうと思ってたんだけど……」

 今度こそ、めでたし……
 え?
 ……梶原少年は、あの日、嘘をついていたんだもの。本当のことって言ったら、それは、……ねえ。
 分かるでしょ?

『フキダシふわふわ』

『フキダシふわふわ』 久保田弥代 作

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2011-09-20
Copyrighted

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