平成27年度『楓』 冬季号 

信州大学文藝部楓機関紙『楓』の平成27年度『楓』冬季号です。

収録作品

『フラれた僕 v.s. 元海兵隊の黒人』  志乃山こう著
『めぐる』 夜久著
『午前六時半の憂鬱』 柊木智著
『卒業(一題リメイク)』 井伊著
『変態』 深海魚著
『痛み』 青木一郎著
『短歌 糸切り歯』 蔦屋著

平成27年度『楓』 冬季号

『フラれた僕 v.s. 元海兵隊の黒人』  志乃山こう著



「あ」

僕は偶然出会った。

僕の元・彼女が、大学構内で、筋骨隆々の男性の黒人と肩を組みながら歩いているところに。小柄な元・彼女は、俯きがちに小さくなっていて、それを半ば強引なようにして大柄な黒人が肩を抱いていた。

何が何やら分からずに、最初僕は二人の横を何事もなかったように通り過ぎてしまった。ようやく頭が働いてきたころから、あれは紛れも無く僕の元・彼女だと理解した。

なぜ、あの黒人は肩を組んでいる? 僕がついに抱けなかったあのか弱い肩を。なぜあの黒人はさも楽しそうに声を上げて笑っている? そして彼女は、なぜ顔を赤らめて俯きながらも微笑を口元に浮かべている?

何かしなければいけないと思った。だけど、僕は何が出来るか分からなかった。

そんな具合で、結局空っぽな頭のまま、僕は次の実習に出て先生から注意をされた。

気になって仕方がない僕は、実習が終わるや否や携帯電話のボタンをプッシュして、元・彼女と同じ学部の友人に、最近の彼女のことについて聞いてみた。すると、友人はすぐに察したのか、「ああ、ジェイダンのことか!」と言った。

「ジェイダンって誰」聞いたことのない人名に、僕は若干戸惑った。

「お前が知らないのも無理はないだろうな。最近アメリカから留学しに来たヤツでさ、身長二メートル近くてすげぇマッチョで元海兵隊らしい。でも、めっちゃいいヤツで、しかも勉強熱心なんだよ。いろんな人間に挨拶するから、俺らの学部で知らない人間はいないと思う。

でさ、ここからが驚きなんだけど、情熱家なのか分からないけど、『一目惚れだ』ってとある女子に告白して、それでオーケーしてもらったって話だったんだ。で、ふたを開けてみたら、その女子というのが」

僕の、元・彼女だった、というわけか。それがもう一か月以上前の話らしい。

すぐに僕は、長時間使っていなかった彼女のラインを呼び出し、こう打った。

『突然ごめん、今日ちょっと話したいことがあるから、会いたいんだけど』

一分後、返事が来た。

『いいですよ』

喫茶店で久々に彼女と二人きりになった。二人きり、というシチュエーションに以前付き合っていた頃を思い出した。

久々に見た彼女は、僕と付き合っていた頃よりも、少しだけお洒落をしているように見えた。

しばらくは様子見のためにとりとめのない会話をしていたが、いい加減耐えられなくなって、ジェイダンのことについて聞いてみた。しかし、彼女は全く話をはぐらかすばかりで、ちっとも僕の質問に答えてくれない。

頭に血が上って、僕は少しばかり語気を荒くしてしまった。

「だから、あのクソ黒人とは、どういう関係かって聞いてんだろ!」

彼女は、曖昧な笑顔を凍りつかせて、それから小さな声で「……付き合ってるよ」と言った。

「……何で」

そういうのが精一杯で、実のところ頭はすでに真っ白になっていた。

お互いに無言で、時間が流れた。何も言う気が起きなかったし、彼女もそのまま黙っていた。

ついに、彼女が口を開いたと思ったら、たちまち上着を羽織って、荷物を持って、帰る用意を済ませてしまった。

「ごめんなさい、ごちそうさま。お金は私が払うから、お願いだから、これ以上話しかけないで下さい」

遠くに、レジで会計を済ませる声が聞こえたまま、僕は固まっていた。

『もうこれ以上話しかけないで下さい』だって?――そんなの、冗談じゃねえんだよッ!

僕は走って店を出て、彼女の後ろ姿を全力で追いかけた。涙でぼやける元・彼女の輪郭に向かって、感情がとめどなく溢れてくる。

僕は、いつも君のためを思って付き合ってたんだよ?

初めての恋人だから、大切にしたいって本当に思っていたんだよ?

でも君は僕に心を開いてくれなかった。何を言っても上の空だし、君から何かを誘ってくれたことなんて一度もないし、僕だけが一方的にすり減っていった。もうこれ以上耐えられないと思って、君のためにもならないと思ったから、僕は別れたんだよ?

もっと恋人らしいことがしたかった。愛して欲しかった。

甘えて欲しかったし、抱きしめたかったし、いっぱいやりたかったことがあったんだ。でも、全部あきらめたのは、君の迷惑になったら嫌だって思ったからなんだよ?

彼女は、僕の姿を見るなり、必死で逃げるように走り始めた。僕は、泣きじゃくりながら、続かない息の苦しさを我慢して、それでも叫び続けた。多分、理解可能な言葉になっていないのは、分かる。だけど、叫ばないわけにはいかなかった。

気持ち悪い男だ、と頭のどこかで声がする。充分知っている。知っているから、今は黙っていろ。

彼女のアパートの前に来た。彼女は家の扉を開けようとした瞬間に、肩を持って強引に壁に押し付けた。そして、強引にこちらに顔を向けさせる。小さく、「キャッ」と声を漏らした。

彼女の表情は涙と引き攣った唇で緊張して、恐怖で小さく震えていた。

「たのむ、頼むから、話を聞いてくれよ……もう話しかけないで、なんて言わないで……お願いだから……」

お願いだから、僕をそんな怖い物を見る目で見ないで。

と、その時、なぜか彼女の家の扉が開いた。そこから、おそるおそる「Asuna?」と顔をのぞかせる人物がいた。他でもない、ジェイダンだった。

僕と、目が合う。一瞬ジェイダンが息を飲むのが分かったが、次の瞬間には僕の体は強力な前蹴りで吹き飛ばされていた。地面に転がって、砂利が口の中に入る。小学校のころ、いじめで地面に転ばされていた時に、何度も味わったあの味。

頭上で何事かわめきたてる男の声と、「やめて」と大声で叫び続ける彼女の声が聞こえる。しかし、しばらくすると、二人とも部屋の中に入ったようで、何も聞こえなくなった。

僕はこのまま寝転がっているわけにもいかず、手をついてふらふらと立ち上がった。

――なんで、彼女の後を追ったんだろう

何も出来ないのは、最初から分かっていたくせに。

重い体と頭を抱えたまま、寒くなった夜のキャンパスを通って、僕は一人で家に歩いていった。

翌日、僕はジェイダンに会いに、彼女の学部の近くへと足を伸ばした。ジェイダンは大柄なので、すぐに見つかった。僕が会いに行くと、自販機のそばのソファに座っていたジェイダンは、すぐに僕が昨日の男だと気付いて、こちらを睨みながらすっくと立ち上がった。

僕は無言で、一通の手紙を取り出した。昨日帰った後に、プリント用紙に書きつけたものだ。

果たし状。

場所と時間は、今日の午後から、生協前広場にて。ルールは、どちらかが倒れるか降参するまで、素手で戦うこと。

「Can’t you spare me time?」昔ならった英語表現で尋ねた。

「No problem, but on one condition: DON’T ENGAGE HER IN IT. It’s a matter between only you and me, right?」

「上等だ」

僕はそういって、二時間目の講義に出て行った。

僕が広場で待っていると、二分前になってやっとジェイダンが来た。タンクトップから鍛え上げられた筋肉が輝いている。軍隊的なカーゴパンツをはいていて、その下からは磨き上げられたブーツが覗いている。

僕はといえば、オープンフィンガーグローブも無かったので、軍手の指部分を切り落としたものを着けて、シャツにジーパンといった格好でいた。

ちなみに、シャツの襟の内側には、カッターナイフの刃が縫い付けられている。古典的だが、襟を掴んだら指が切れて一瞬隙が出来る仕掛けだ。喧嘩の作法は詳しく知らないが、おそらくこの程度は許されるだろう。

ジェイダンが口を開く。今度は日本語だった。

「ワタシは、オマエを許さない。彼女と、ワタシは、愛し合っている。オマエはそれを邪魔しようとしている。卑怯者だ。

そしてワタシは、容赦しない。知っているか、婦女暴行事件の多くは、オマエのような知人の男によって、起こされている。だから、二度と彼女に近づかないと言うまで、全力を尽くす。

分かったか?」

見た目と裏腹に、言葉遣いや態度から、ジェイダンは理知的な印象を受けた。日本語もその勉強熱心な態度から、ここまで習熟出来たのだろう。海兵隊に入っていたという話が本当ならば、そういった地獄から大学に留学しに来るという彼のライフヒストリーは、さぞドラマチックで激しいものなのだろう。

しかしそれが、ジェイダンと僕が戦わないでいいという理由には、絶対にならない。何より僕が、納得しない。

「いいぜ。彼女をかけて、決闘だ」

足が震える。勝てる気がしない。

それでも、これだけは聞いたことがある。

ケンカは、怖がった方が負け――!

「ああああああぁぁぁ!」

僕が喧嘩を売った以上、最初に動かなければならない。足がもつれるが、その分不安定な重心を相手にぶつけるように、走り出した。

ジェイダンが驚いて少しでも怯んでくれることを期待したが、果たしてジェイダンは――拳を顔の前に構えて、静かに備えていた。

相手にぶつかった衝撃が、やけに柔らかいと思ったら、頭を両手でつかまれていた。髪の毛までぎっちりと握り込んで、もう逃れられない。

あ、死んだ――と直観的に理解した。

「フッ」

小さく息が吐かれて、膝蹴りが僕のみぞおちに叩きこまれた。まるでトラックにでも撥ねられたような衝撃が背中まで抜ける。

二回目が来る……そう思ってかばうように前に出した左腕ごと、ジェイダンの膝が打ち抜く。手首が変な方向に曲がって、今度はあばらの辺りに衝撃が来る。肺の中の空気が押し出されて、呼吸ができなくなる。

背中を丸めて逃げようとすると、案外掴まれた頭は簡単に放された。意図が理解できなかったが、とにかく僕は後ろに下がって体勢を立て直そうと考えたが、その瞬間。

横っ面を、強力なブーツでの一撃が捉えた。いや、正確には顎か。

カクンと糸の切れた人形のように、僕は崩れ落ちた。意識はあるが、体が言うことを聞かない。ジンジンする視界の向こうで、誰かの声が聞こえた。

「立てるか? 立てないなら、ワタシの勝ちだ」

その声に交じって、生協広場を取り囲む野次馬たちの声が聞こえてきた。

「オラ立てー」「何やってんの」「一瞬で終わったじゃん」「ザコ」「これで終わり?」「大学病院のスタッフ呼ぶ?」

うるせえ。まだ終わっちゃいねえよ。

だけど、足が立ってくれない。頭が朦朧とする。首を鍛えていないと、少し殴られただけで簡単に脳震盪を起こす。脳震盪を起こすと、体が言うことを聞かなくなるという。まさにこの状態なんじゃないのか?

本当は、もう少し泥まみれの闘いがしたかった。相手を殴って、こちらも殴られて、ギリギリの状態で負けるなら、それの方が諦めが付くと思った。だけど、相手は明らかに慣れていて、どうしたら効率的に素早く敵を無力化するかを心得ていた。敵うはずがなかった。

もうこのまま終わってもいいかも知れないと思った時、聞き覚えのある女性の叫び声が聞こえた。

「二人とも、もうやめて!」

元・彼女の声。聞くだけでイライラする声。

それでも、僕がとうとう離れられなかった声だ。どうしても諦められなかった声だ。

僕は何のために戦っているんだ? 相手を倒すため? 違うだろ。だったらもっと様々な手段を使って、毒殺でも絞殺でも非力な人間が強い人間を葬る手段はいくらでも考えられる。

僕は、どうしようもない自分を殺したいんだ。

粘着質で、思い切りがなく、相手のことを考えていると言いながら結局自分が可愛いだけの、そんな僕を、殺す。

だからこそ、戦いは僕の意識がある状態で決着をつけてしまってはいけない。意識が落ちるように、眠るように無くなるまで、僕は自分を許そうとする僕自身を、徹底的に殺す。

下半身に力が入らないなら、上半身に力を入れればいい。

痺れるような感覚を味わいながら、両手で地面を押して僕は徐々に体を起こした。そこから、足を地面に突き、何とか立ち上がった。

元・彼女がジェイダンを押し止めるように立っているが、ジェイダンは依然として僕を睨んでいる。そうだ、それでいい。

「ナックル、パンチオンリー。オーケー?」

もはや機敏に全身を使って戦闘を継続することが無理だと悟った僕は、厚かましくも提案をした。ジェイダンは無言で彼女を横に置いて、ゆっくりと構えた。彼女が首を横に振りながら絶叫している。

僕は、見よう見まねで両手を握って、首元に構えた。顎を引いて、今度は簡単に打ち抜かれないようにする。口の中の血が気持ち悪いから、吐いて捨てた。

すでに体がボロボロで、もう幾分も持たないだろう。だから、後がない分全力を出し切れる。

ジェイダンが動いた。動いて、左手の素早い一撃。

ジャブ。ジャブがそもそも早すぎる。構えた腕にガンガン鉄球のように当たってくる。これにモロ当たっただけで倒れそうだ。しかし、痛みだけなら幾らでも耐えられる。

と、思いきや、ジェイダンがジャブとは違う動きをした。右手の拳を下げて、そのまま僕の腹にブロー。息が止まる。

ジェイダンは追撃をしてこなかった。おそらくこれでもう僕が倒れると思っていたのだ。

しかし、僕は折角掴める位置に来たジェイダンの腕を、左手で掴んだ。軍手をはめていてよかった。おそらく滑り止めがある以上、そう簡単には抜けられまい。それを引っ張りながら、倒れるのを防いだ。同時に、ジェイダンがやや腕を引かれて前につんのめる。

今しかない。

僕は握った右手を無茶苦茶に前に突きだした。体重も乗っていない、早くもない、ただの拳だ。しかし、弱点に当たれば、それで十分。

拳は、ジェイダンの鼻先に命中した。うっ、と呻いて、ジェイダンが仰け反る。ざまあみろ。

ジェイダンの腕が離れると、僕はついに両手を地面について、四つん這いの状態で喘いだ。まだまだ、この姿勢で少しだけ回復しよう。

だが、今度こそ僕の足は動かないようだった。重くて、言うことを聞かない。意識はかろうじてあるのに、何も出来ない。

いやだ、こんな風に終わりたくない。まだ戦える。

涙がこみ上げそうになった。もう少しましな終り方にしたかった。それとも、弱い自分のせいでこうなった以上、結果は認めるしかないのか。

すると、地面に影が落ちた。ブーツの先端が見える。ジェイダンだった。

ゆっくりと腰を下ろし、僕の耳に口を近づけて、そっと囁いた。

「アナタは、よくやった」

そして僕の首にその太い腕を回す。きゅうっと締め上げる。

なんてことないように思ったが、だんだんと視界が暗くなっていくのが分かった。

意識が落ちる感覚は、意外に清々しかった。

気が付いたら、見知らぬ部屋の天井を見ていた。

上半身裸で、床に寝転がっていた。左腕を見ると、テーピングが施されている。

「気が付いたか」

見上げるようにして、ジェイダンが立っていた。手には、ボウルと水が入ったコップを持っている。口をゆすげ、というようにそれらを差し出してきた。

受け取って口に水を含むと、じわりと滲みる感覚があった。口の中が切れていたようで、ボウルに吐き出した水は赤くなっていた。

落ち着いた様子を見て、ジェイダンが口を開いた。

「ワタシは分からない。なぜ、アナタは卑怯かと思えば勇敢で、一貫した態度を取らないのか。なぜ、敵わない闘いを挑むのか」

「……」

僕が黙っていると、ジェイダンは彼が彼女のことをいかに愛しているかを語り始めた。曰く、一目ぼれに理由はいらない。奥ゆかしい日本的な女性に惹かれた。彼女が嫌がらないなら、私はもっと彼女とベタベタしたい。そして、実際かなり積極的にボディタッチを行っている、等。

聞いていてあまり気分の良い話ではなかったが、彼が熱っぽく語る様子を見ると、本当に愛しているように思われた。

突然、「阿須那に、アナタと元々付き合っていたと聞いた。アナタは、阿須那のどこが好きで、何をしたかったか?」

僕はすぐに答えられなかった。映画館に行ったり、一緒に散歩したり、手を繋いで歩いたり……したいことはたくさんあったけれど、それを言いつくしたとしても、何をしたいのかを全て語ったように思えなかったからだ。恋愛の本質的な部分を、語れていない。

溜息をついた後に、ジェイダンは、もう少し欲求を具体的な形にすることを僕に薦めた。加えて、日本的な文化では、そういった要求を具体的にすることが禁忌とされているから、今後の日本人はそういった狭い価値観から抜け出るべきだとも言われた。

僕は、そんなに割り切れない。逃げだと言われるかもしれないが、特に恋愛感情に対しては、もっと曖昧で漠然としたまま過ごしたい。でも、きっと、そういうわがままが許されるのは、子供時代だけだろうとも思う。そういう曖昧な態度は、相手を困らせるだけだって知っているから。

ジェイダンにお詫びとお礼を言って、僕は家を出た。彼とはメールアドレスを交換したから、今後は友人として付き合っていこうと思う。元・彼女とは……まだどういう顔で会えばいいのか、わからない。ただ、彼らが幸せになってくれることを祈りたい。

本当のことを言えば、もっとズタボロにされて、極限で果てたかった。けれども、それは僕が弱すぎて不可能だった。実力が拮抗していなければ、そもそも泥仕合にはならないのだ。それでも僕が感じた複雑な感情は、綺麗に無くなった。今はただ、それだけで十分だ。

ジェイダンのように自分の欲求に割り切ることは出来ない。でも僕は、自分から負けるようなことはしなかった。それだけが頼りだ。

テープが巻かれた左手首をなでると、少し痛い。でも我慢しなくちゃ。

本当の闘いは、これからなのだから――

(終)







『めぐる』 夜久著


評判のわりに、観覧車から眺めた景色はさしていいものでもなかった。最初こそ、おお、結構のぼるなぁ、なんて無邪気な歓声を上げていられたけれどてっぺんまで辿り着いてしまえばそれっきり。高度を下げてゆくだけの景色に私も彼もすっかり飽きてしまって、片やぼんやり窓の外を眺め、片やスマホに釘付け、といった有様だった。

「言いだしっぺの癖に、全然見ないんだね」

皮肉を込めて言ったつもりだったが、柳に風だったようだ。

「なんか期待したほどじゃなくて」

ふぅん、と適当な相槌を打ったきり、言葉が出てこなかった。なにか言いたいことがもっと沢山あったはずなのに。

言葉の尻尾を掴みかねて、ゴンドラの小さな天井を仰いだ。ついさっき何を言おうとしたのか、大切な言葉だったかもしれないのに逃げ行ってしまった。思えば、私はいつも大切なことを言えないまま曖昧に人生を歩んでいたような気がする。だからいつも後悔と隣り合わせだった。

またスマホに視線を落とす彼にちょっとした憤りを覚える反面、見慣れた町より海寄りの市街地を眺めても大した感慨がわかないのもまた事実だった。どうせ最後なら、もっと見慣れた景色を見て回りたかった。しかしそんなことをしようものなら、変な未練がまた生まれてややこしいことになってしまうかもしれない。そもそも私が今になってもここを離れられないのは、その手の理由があってのことだったろうから。

それにしてもよく保ったほうだ。六か月。妙な雑学ばかりを知っている彼によれば、それは人間の全身の細胞が全て生まれ変わるまでにかかるおおよその時間なのだという。彼の雑学はいつも信憑性に乏しいものばかりだったが、現にこうして六か月後にリミットが来ている事実を思えば少しは確かなのかもしれない。

「多分さ、こんなとこに来たって、意味なんかないんだよな」

徐に視線を上げた彼は、私の向こう側の景色を見詰めているようだった。視線が重なっているはずなのに、見つめ合えている気がしない。

この六か月で変わったのは彼の方なのかもしれない。それもそうだ、この六か月間の間に高校卒業と大学入学という一大イベントがあったのだから。人生の関門を乗り越えた彼は、今改めて見てみるとすこし大人びている。何ら変わりない表情の筈なのに別人のもののように思えた。彼はこんなに、寂しそうな顔をする人だったろうか。

「思い出にくらいはなると思うけど」

「傍から見れば一人で遊園地に来て、一人で観覧車に乗ってるちょっと頭のおかしい奴だよな」

「頭がおかしいのなんて、今更じゃないの」

から元気を振り絞って笑声を上げてみたけれど、どこにも響いていないようだった。私の向こう脛を蹴っ飛ばすように足が振り上げられたけれど、私の脚がある場所をすり抜けてしまった。透けた脚の輪郭は私には見えるけれど、もう存在していないのかもしれない。

「時々思うんだよ、全部俺の妄想だったんじゃないかって。六か月は単に俺の気持ちに踏ん切りがつくまでに必要な時間だっただけなんじゃないかって」

私の声も、もう届いていないのだろう。

彼の唇が白くなるほど噛みしめられている。思わず立ち上がって触れようとしたけれど、上手く加減が出来なくて指先が肌の中に埋まってしまった。すぐに手を離す。なにか、いけないことをしてしまったような気がした。

ゴンドラはもうすぐ地上に辿りつこうとしていた。立ち尽くす私と、

座って涙を堪えたままの彼。その時間も、もうすぐ終わるのだ。

彼の白い唇にまたきちんと血が巡り始める。

「もう、大丈夫だ」

その言葉は彼自身に向けたものなのか、見えない私に向けたものなのか。わからないけれど、都合よく受け取った私のからっぽな胸はじんわりと温かくなった。まるで再び血が巡りはじめたように。

ありがとう、ごめんなさい、と。言いたかった言葉がやっと唇から発せられたような気がした瞬間、私の意識は消えた。今度こそなにひとつ、残さずに。






『午前六時半の憂鬱』 柊木智著


露出の多い服を着る。ウイッグを被る。口紅を塗る。

そして、鏡に映る自分の姿を見る。

櫻子は、この瞬間が一番嫌いだった。なんて醜い姿。それは、自分でもぞっとするほどに。

それでも櫻子は、夜の世界へと踏み出す。

***

「櫻子ちゃん、ちょっと聞いてくれないかな?」

カウンター越しの達也の顔が珍しく真剣で、櫻子は思わず身構えてしまった。

「……急にどうしたのよ。まあなんでも聞くけど」

そう返事をしてやると、達也は一呼吸おいて口を開く。

「『君のこと、愛してる』」

「……え?」

「『僕なんかが君のこと愛してるなんて、おこがましいにも程があるとは思う。そんなの自分でもわかってる。でも、この気持ちだけはどうしようもないんだ』」

達也は急にこんなことを言い出すような柄でもないし、何かがおかしいのはすぐわかった。それでも、こんな歯の浮くようなセリフを聞いた櫻子の胸はどうも高鳴ってしまう。

――どう頑張っても叶うはずのない恋なのに。

櫻子の気持ちなんて知るわけもなく、達也は無邪気に笑う。

「なーんて、どう?」

「どうって……どうせ次の講演の練習かなんかでしょ?」

「そ。大当たりー」

達也の職業は売れない舞台役者だった。舞台に立って大スターになる、なんて馬鹿げた夢を追って十数年が経とうとしているが、せいぜい小さな講演の準主役を演じられる程度。収入も少ないはずなのに週一回はこんなバーに来て飲んでおり、親戚からはきちんとした職につけと言われている、なんて愚痴を櫻子も何度か聞いたことがある。

どうしてこんな男を好きになっちゃうのかしら、と内心溜息を吐く。

「それで、どうしたって急にそんなセリフを。アンタここで講演の練習なんてするような柄だったかしら」

やれやれ、といった風に櫻子が言うと、達也は苦笑した。

「いや、こういう甘い感じのセリフって、なかなか言ったことが無くてさ。櫻子ちゃんみたいな人が聞いたらどうなんだろう、って思ってね。それでどうだった? 俺の演技」

『櫻子ちゃんみたいな人』……それってどんな? なんて質問を一瞬だけ投げかけたくなったが、よく考えなくても答えは明白だった。結局、櫻子は素直に達也の言うことに答えることしかできない。

「まあ良かったわよ。アタシともあろうオンナが、少しドキドキしちゃったじゃないの、全く」

そう答えて、わざと下品に笑って見せる。こう振る舞ってないと、本心が達也に見えてしまう気がした。

「はははっ、どの口が『オンナ』なんて言うのさ」

「あっらーアタシだって心はオンナなのよ?」

愉快に、楽しく、他の客に接するのと同じように。

それでも、口から出た言葉は、思ったよりも自身の胸を抉った。

***

達也がこのバーに通いはじめて間もない頃――そして、櫻子がまだ達也に恋心を抱いていなかった頃――、なぜこんなバーに足を運ぶのか尋

ねたことがあった。すると、達也は半分笑いながらこう答えたのだ。

「最初は面白半分だったんだよ。オカマが経営してるバーがあるらしいって噂を聞いてね。それで来てみたら、櫻子ちゃん意外と話しやすいのねこれが。女と話してると、どれだけ親しい相手でも心のどっかで女性として意識しちゃうわけ。女性経験が無いわけではないんだけど、なんかね。けど、櫻子ちゃんに対してはそういうのが無くて楽なんだ。だって、櫻子ちゃんはそもそも恋愛対象外だし」

それを聞いた当時は櫻子もその言葉について軽く捉えていたのだが、今その言葉を思い出すとどうしようもなく辛くなる。

『櫻子ちゃんはそもそも恋愛対象外だし』という達也の一言が、頭の中をぐちゃぐちゃにしているみたいだった。

「そうよね、オカマに恋なんて、ね」

きらびやかな服を脱ぎ捨て、ベッドに倒れこみながら櫻子は呟く。こうやって一生懸命自分に言い聞かせたところで何かが変わるわけではないけれど。

手に持っていたスマートフォンに目をやる。時刻は六時半。外はもう明るい。

結局今日も閉店まで居座ってたなあ、なんて無意識のうちに思いをはせていた。そして同時に、達也のセリフが頭をよぎる。

『僕なんかが君のこと愛してるなんて、おこがましいにも程があるとは思う。そんなの自分でもわかってる。でも、この気持ちだけはどうしようもないんだ』

いつもより数段甘ったるい声色から、イントネーションの細部に至るまで明確に思い出せてしまう自分がいっそ憎らしい。

――なにが『愛してる』よ。『この気持ちだけはどうしようもない』よ。おこがましい。……本当、おこがましいんだから。

暗くなったスマートフォンの画面には、櫻子の大嫌いな自分の顔が写って消えなかった。








『卒業(一題リメイク)』 井伊著


俺は小さい頃から猫、特に黒猫を虐げてきた。それは、別に猫が嫌いだからというわけではない。猫の外観や気まぐれな性格云々に対してとりわけ何の感情も湧きはしない。ただ猫の存在を認識すると自動的に、猫を排除しようと頭と体が働きかけるのである。猫にとっては理不尽極まりないに違いないだろうが、それが悪いとも、ましてや止めるべきだとも思ったことはなかった。

初めのうちは石を投げつけたり、エアガンで撃ったりする程度だったが、小学校を卒業する頃には猫の四肢を破壊するようになり、行為は次第にエスカレートしていった。

中学を卒業する頃、俺はとうとう一匹の黒猫を殺してしまった。意外にもそれは偶然で、卒業式の帰り道、俺の操る自転車の前に飛び出してきたその黒猫は、車輪の下敷きとなって死んだ。だが、避けられないわけではなかったことを考えると、それは偶然ではあっても事故ではなかった。だから“殺してしまった”といっても罪悪感などはなく、それどころかやるべきことを成し遂げたかのような清々しさに満たされたくらいだった。

とどのつまり、俺は狂っていた。もしかすると、この段階に至る前のどこかで自らの異常性に気づき、踏みとどまることができていたのなら、まだ救いがあったのかもしれない。しかし、この件で俺は一線を越えてしまった。眼前で標的の消滅する快感とそれに付随する言いようのない達成感を知ってしまったのである。当然、俺はその感覚におぼれ、それからも何匹も猫を殺した。最初に黒猫を殺したときから約三年経つが、殺した数は少なくとも二桁には達しているだろう。

と、まぁここまで俺の歪んだ面について述べてきたわけだが、またもや意外というか、実のところそれ以外の面では他人となんら変わったところはない。と思っている。

勉強は学年内で中の上くらい、運動はそこそこ、交友関係は少なすぎずかといって多いわけでもないといった具合で、そこだけ見ればどの学校にも数人は必ずいるような何の変哲もない人間だ。俺の唯一のズレも、日常生活の中でさらけ出すことはないため、誰にも気づかれていないようだ。そのおかげで、どうやら何事もなく高校も卒業できそうである。

卒業式前日。教室の中は浮足立った空気で満たされていた。俺も推薦で地元の私立大学に合格していたので、何の不安もなくこの雰囲気に混ざっていた。

「――おはよう」

声のした方を向くと、同級生の女子が立っていた。

彼女は中学卒業後すぐに近所に引っ越してきた子で、俺とは三年間同じクラスである。きれいな黒髪に整った顔立ち、加えて性格も優しく穏やかなので、男子の間では高評価だった。強いて欠点を挙げるならば、人見知りなせいで俺以外の人とはあまり話せないことぐらいだろう。最初は俺ともロクに会話できなかったほどなので、その時と比べるとかなり良くなったほうではあるのだが。

「……もう卒業だね。みんな卒業できることに浮かれてるみたいだけど、私はむしろみんなと別れなくちゃいけないのが悲しいな」

そのみんなと大して関わろうとしてこなかったくせに、彼女はそんなことを言う。

「まあいずれ通らなくちゃならない道なんだし。それにどうせなら楽しい方向に意識を向けたほうがいいじゃん」

「まぁ、それはそうなんだけどね……」

そう言いながらも、彼女は不服そうに顔を背ける。

それを見て俺は、もしかしたら彼女も、もっとクラスに溶け込みたかったのかもしれないな、とそんな風に思った。

確かに、卒業したらクラスのみんなの大半とは離ればなれになってしまう。そうなれば、いかに家が近くても彼女と会う頻度はかなり少なくなるだろう。そう考えると少し寂しい感じはする。

「にしても、楽しい時ほど時間の経過が早いよね。どうして神様はこんな皮肉なシステムを作ったのかなぁ」

「案外神も万能じゃないのかもよ。というか何? 神様とか信じてる人なの?」

「いや、今のは言葉の上で使ってみただけだよ。ただ、幽霊はいるって信じてるけど」

「幽霊?」

「そう、幽霊」

この返しは予想外だった。神様よりはまだ信憑性があるかもしれないが、それでもまさか彼女がこの類の実体の存在しないものを信じているとは思わなかった。

「死ぬ前に強い思いを抱えていた生物は、その思いを果たすために霊体となって世界に居続けると私は考えてるの。思いを伝えたいとか、途中になってしまった何かをやり遂げたいとか、あるいは恨みを晴らしたい、とか」

「?」

何か含みがあるような物言い。それが何を意味しているのかを考えようとしたが、ホームルームの開始を告げるチャイムとともに担任がクラスに入ってきて、その思考は遮られてしまった。そして、俺は学校が終わるまでそれを思い出すことはなかった。

卒業式の前日なのでもう授業はなく、卒業式の流れについての説明を受けただけで解散となった。

「午前中に帰宅か……。いよいよ卒業も現実味を帯びてきたな」

「今頃? しかも実感するタイミングおかしいでしょ」

俺と彼女は家までの帰り道を歩いていた。普段なら雑談を交わしているうちに家に着いているのだが、今日はなぜか会話に不自然な間が空いてしまう。

「そういえば聞いてなかったけど、お前は卒業したらどうするつもりなんだ? 大学には行かないらしいけど」

「わかんない。何がしたいのかずっと考えてきたんだけど、卒業の段階になってもまだ答えが出せないままなんだよね。優柔不断でほんと自分が嫌になる」

「そっか。でも、大学には行かないという決断ができるだけで十分すごいと思うけどな。俺なんか目的もないまま大学に行こうとしてるんだからさ」

「決断したわけじゃないんだけどね。ただ、大学を受験する必要性が感じられなかったから」

会話はそこで途切れてしまった。今までこんなことで困ったことはなかったのに、今日に限って何を話したら良いのかが全く思い浮かばない。彼女の今日のテンションが妙なこともあったが、俺もそれに引き摺られてか、なんだか心が落ち着かなかった。

そうこうしているうちに俺たちは、彼女の家の前まで到着してしま

った。

「……じゃあね」

「ああ……」

家に入る彼女の背中を見届けた後、俺も自分の家へと向かった。

家のすぐそばの十字路を通ろうとしたとき、そこに一匹の野良猫がいるのを見つけた。いつものように俺はポケットから小型のナイフを取り出し、迷うことなく猫の喉笛を掻き切る。猫は血だまりの中でしばらく痙攣していたが、やがて動かなくなった。

今までこの一連の流れに何も感じることはなかった。しかし今回は朝聞いた彼女の言葉が思い出された。もしかすると、殺してきた猫たちも殺される時俺に恨みを持ったかもしれない。いや、さらに言うなら俺が前世で猫に恨みを持っていたのかも。そんなことをぼんやりと考えながら家に帰ったが、結局はどうでもよかったのか、すぐに忘れてしまった。

午後一一時半を過ぎた頃、ナイフの手入れをしていた時に彼女から電話がかかってきた。

「もしもし、夜分遅くにゴメン」

「いや、それは別に構わないけど、一体どうしたんだ?」

「えっと……、話したいことがあるんだけど、今から学校に来てもらうことってできる……かな?」

「今から⁉ 今からって、もう日付が変わるような時間だぞ? 今電話で話してくれればいいだろ」

「うん……。こんな時間に呼び出しちゃって本当に申し訳ないと思ってるんだけど、できることなら顔を合わせた状態で話したいことなんだ」

結論から言うと、俺は学校に行くことにした。普通に考えて色々とおかしな点はあったため、常識的には断る場面だったのかもしれない。しかし、彼女の今日の発言やテンションが頭に引っかかっていたし、何よりこれが彼女としっかりと話すことのできる最後の機会かもしれないと思ったので、彼女に会うことにしたのである。

この時、時計は一一時五〇分を指していた。

俺が学校に着いた時、彼女はどうやらまだ到着していない様子だった。

「夜の学校か……。初めて来たけど、さすがに嫌な感じがするな……」

校庭をぶらぶらと歩きながら待っているが、なかなか彼女はやってこない。仕方がないので電話をかけてみることにした。

「……出ないな」

もしかしたら急いでこっちに向かっていて、気づいてないのかもしれない。そう思って時計を見ると、時刻は午前〇時。卒業式の日になっていた。

その時だった。いつからいたのかはわからないが、目の前に黒猫が座っていた。

恨みを晴らしたい。

彼女の言葉が再び脳裏をよぎったが、それを振り切って、手入れの済んだナイフを手に取る。こんな時でも、俺の異常は正常だった。

「あいつが来る前に手早く片付けなくちゃな」

ナイフを構え、黒猫の動きを止めようと飛びかかった。だが、黒猫は俺の手を潜り抜け、校門の方へと逃げていく。彼女がまだ来ていないかどうかを素早く確認しながら、俺もその後を追う。

校門を出た後、黒猫は学校の前の大通りを横切り、ここまで来れば大丈夫だと思ったのかそこで動きを止めた。その小休止が命取りだと

言わんばかりの勢いで俺も校門を潜り抜け、大通りに差し掛かる。

そこまでに冷静さを取り戻しておくべきだった。俺の意識はあまりにも黒猫に注がれすぎており、周りが全く見えていなかった。

気づいた時には、大型トラックがすぐ横まで来ていた。

間に合わない。

最後に見たのは、黒猫のいた場所に佇み、こちらを眺めてニタリと笑う彼女の姿。

『恨みを晴らしたい』

そして、俺の意識は黒く途切れた。







『変態』 深海魚著


ある朝、不安な夢から目覚めると、私は生まれ変わっていた。比喩や皮肉などでは決してない、言葉の表すまま、私は昨日までの私ではなかった。それを確かに確信していた。根拠などは何もないが、はっきりと、新しい世界の萌芽を感じたのだった。

人は、何によってその人たらしめられているのだろう。鏡を見ながら、私は自問した。私は何者であろうか? 鏡に転写された自画像は昨日と寸部も違わない、しかし、それは確かに昨日までの私ではないのである。これは一体どういうことか。歯を磨き、口の端から筋をつくって流れていく白い泡を目で追いながら私は考えた。昨日まで、私を私たらしめていたものはなんだったのか。そもそも、私とはなんだったのか。今ここにいる私が、以前の私と違うなら、この私はどういった存在であるのか。口をゆすいで水を吐く。排水溝に渦が生じて、泡がくるくると吸い込まれ消えた。しかし、私の不可思議な感覚までは消してくれなかった。

階段を下りてリビングへ降りると、既に朝食が用意されていた。母は、早く食べて家を出ないと学校に遅刻するだろうと私を叱った。私はそれに対し、従順に謝った。そして、私は母に感謝しながら朝食をいただき、食後に皿を洗った。私の心を波立たせるものはなにもなかった。私は明らかに変化していた。しかし、母がそれに気づいた様子はなかった。

学校はいつも通り私を出迎えた。錆びた校門や、間延びた廊下や、立てつけの教室の悪い扉などには一切変わったところはなかった。しかし、私はやはり、新鮮な心持でそれらを眺めた。すべての場所が、まるで初めて訪れる異国のように感じられた。世界が一瞬にして別物に取り換えられてしまったとでもいうようだった。もっとも、取り換えられたのは世界のほうでなく、私のほうであるのだが。

授業中、私は幾度か指名された。私は何ら羞恥や躊躇いを感じることなく答えることができた。そればかりか、授業中に居眠りすることもなかったし、集中が切れて下らない空想に耽ることも、頭を空にして茫洋と外を眺めることもなかった。私はすべての授業で板書をし、先生の話をきき、その内容を咀嚼した。それらのことは全く私を疲弊させなかった。なにもかもが、当然のように行われ、私はそれを苦痛に感じることも、放り出したくなることもなかった。私は驚くほど安定していた。

時間がたつにつれ、私はいよいよ、私自身の変革を確信した。頭はいよいよ透明になり、意識は階層化され、私は私を把握することができるようになっていた。もはや、思考と行動の矛盾に悩まされることも、脆弱な精神の不安におびえることもないように思われた。だが、精神の変態は私にとっていいことばかりではなかった。生まれ変わった私の心は、合理的な思考回路を手に入れる代わりに、以前覚えていた喜びを切り捨てたらしかった。昨日まで楽しんでいた友人達との何気ない会話や、音楽を聴くこと、果てはあれだけ熱中していた読書さえ、今や私の心を動かすことはなかった。それどころか、苦痛ですらあった。それらは思考を停滞させる。今、私の意識は、停滞は悪であるという漠然とした命題に支配されていた。その言葉は私の頭の片隅から生まれ、血管を廻って全身に感染したのだった。私は、私のこの不可解な変化は、どうもこの命題に原因があるのではないかと思うた。私の隅々まで行き渡ったこの攻撃的な信号が、一夜にして私の身体を作り変えてしまったのではないか。夢を見ている短時間のうちに、私は一度、この言葉に殺された。そして、細かい部品に分解され、もう一度組み立てられたのだ。そして夢から覚めた時、私は生まれ変わっていた――この一見奇妙な考えは、一旦現れると、もう私の頭から離れなかった。私は今や人間ではなく、前進への衝動に貫かれた新しい生き物なのだと信じてしまった。こうして私は、誰にも知られることなく、ひとつの進化をとげたのである。

私は家に帰ると、その日行うべきことを順序立てて行った。すべては滞りなく進んだ。気が付くと新たな私としての、初めての一日が終わろうとしていた。私は眠るために、部屋の電気を消し、ベッドの中へと身体を滑り込ませた。目を閉じようとする、まさにその時だった、鈍い振動音が鳴り響いたのは。私は反射的に身を竦ませ、恐る恐る電子端末に手を伸ばした。震える冷たい画面の中には、通話の通知が表示されている。未登録の番号からだった。私はしばらく躊躇っていたが、振動がいつまでも鳴りやまないので、仕方なく出ることにした。

「もしもし」

『…………』

私が話しかけても、なんの声も返ってこない。それどころか、息遣いさえも聞こえない。あるのは底知れない無音だけだった。私は急に恐ろしくなって、通話を切ってしまおうと思った。しかし、私の指が決断する前に、声がそれを静止した。

『切ってはならない。これはお前への警告であり、お前への啓示である』

懐かしい人の面影のような、しかしまったく未知の音楽のような、不定型な声だった。男か女かさえ判然としない。聞いていて不安になるような声であった。声は続けた。

『己が内声に耳を塞がれ、瞼を閉ざしてはならぬ。他者と己を切り離してはならぬ。心を通わせることを怠ってはならぬ。お前の罪、それは傲慢である』

私は声に反駁を試みた。

「私の視界は開かれている。私は他者への尊敬を知っている。私は言葉を重んじている。私は傲慢ではない」

すると、声はより大きくなって、言った。

『振り返ることを忘れてはならぬ。生活の在処を忘れてはならぬ。未来の危機を忘れてはならぬ。お前にその資格はない。お前は悔い、改めなければならぬ』

私は、またも反駁を試みた。

「私は経験を知っている。私は道の在ることを知っている。前を向くことを知っている。私は人間であり、人間である資格を持つ。ならば、悔い改める必要はない」

声はさらに大きくなって、耐え難いまでになった。あまりの大声に、頭が割れそうに思われるほどであった。声は私に叫んだ。

『己が心の在りようを偽ることこそ、この世で最も罪深く、救いがたい惡である。お前は必ずや不幸になることだろう。お前は棘の荒野で、盲いた瞳から血の涙を流し、飢えと渇きに嗄れた声で己の罪を懺悔する。しかし、そのときにはもう遅い。お前はお前が踏みにじってきたすべての人々に石を投げられる。そして、誰の赦しも受けられぬまま、お前は死んでいくだろう。お前は取り返しのつかぬ罪を犯している。人は人を超えられない、それを超えようとすることは、赦されざる傲慢である』

「私は――」

三たび反駁しようとしたところで、通話は唐突に切れた。掛けなおそうとしてみたが、今しがた掛かってきたはずの番号は、通話履歴のどこにも見当たらなかった。私は形容しがたい不安を抱えながら、無理に目を閉じた。明日も朝早くから起きて、学校へ行かなくてはならない。そのほかにも、すべきことは山ほどある。そしてそれらは終わることなく、延々と続くのである。解放される日は来ない、死が私を連れ去るまでは。

私は頭を振って、布団を被った。何もかも忘れることにした。私には、夢か現かもわからないような下らぬ出来事に関わっている余裕などない。一度立ち止まってしまえば、二度と歩くことなどできない、そんな予感が私を脅

かしているからだ。

私は夜を眠るため、考えることを放棄した。







『痛み』 青木一郎著


私は昔から痛みというものが理解できなかった。それは痛覚を知らないという意味ではない。もちろん私も包丁で指を切ったとき、ピリッと皮膚に走る電撃とその後しみ出るように広がる肉の熱さはよく知っている。しかしその痛覚が心とつながらないのだ。痛いから悲しくなるということはないし、痛いから不快であるとも感じない。だから痛いから避けようと思ったこともない。

そんなことだから、長らく痛みに関してとんと頓着してこなかった。幼い私がこけて膝を擦りむいても泣かないのを見て、大人たちはまず我慢強いと褒めた。そんなことが何度かあり、大人は、今度は病気ではないかと心配して私を医者に見せた。そこに至り、私は痛みを人は避けるものだと悟ったのだ。痛みは後天的に学習した。

昔の私はよく、自分の指と爪の間に針を刺して、痛みを観察していた。浅く刺すのがこつだ。深く刺しては痕が残る。大人に見つかれば医者に連れて行かれる。医者はにこにこした笑顔で私を迎えるが、その空寒い笑いが嫌いだった。おべっかを使う人間は内臓が臭い。息が臭う。私はそれをなんとなく嗅ぎ分けることができた。まあつまり、やぶの古狸に変な病名を付けられないように隠れつつ、私は痛みを知ろうとしていた。

針はヨードチンキを塗ったきれいなものを使う。私は神妙な顔をして、実験道具をそろえると、押入れの中に隠れた。爪の間に針を刺すと、爪の裏に血が少しずつ滲み出していく。指先は熱くじんじんと鳴っている。その様子を暇な一日眺めていた。夕方ごろ、飽きて外に出ると、ちょうど夕日が山の裾に隠れ始めている時がある。夕陽が山の影に映す赤紫の影と私の血の色が同じだと、私は気分が良くなって、このまま死んでもいいかもしれないと思ったものだ。

学校に上がってからというもの、私はその遊びを止めた。痛みについて考えることもなくなった。痛みを知らなかった私は、痛みを学習した私になり、周りの空気を読み、多数に同調し、異常を隠して集団に溶け込むのが上手い私になっていった。

私は、夕日に恋した私に鍵をかけて、心の砂漠にそっと埋めておいたのだ。

大人になり、働き始め、ある日里帰りをして、電車の窓から夕日を見つめた。その時、私はあの夕陽を思い出した。痛みを知らない幼い私を忘れてしまっていたことを悟った。その時初めて、胸がしくしくと泣くように痛んだ。








『短歌 糸切り歯』 蔦屋著


今日の会話咀嚼すること三百回目に振り返る開かずの踏切

ライオンでなくてよかった踏切を待つ間に君を咬まずにすんだ

何者になれたか知れない青虫の死因コンソメスープで溺死

ああこれは差し歯こっちは糸切り歯柔らかな舌で覚えておいて

答え合わせを待ちわびているああこれが差し歯こっちが糸切り歯

優しさの一つの基準コンビニの百円コーヒー砂糖はふたつ

シュガーレスガムのように切り捨てていくがいい君に都合良いよう

繁栄を求めぬ愛ありピアノの音は増幅せずに消えていく

モスバーガー食べつつマックのポテトを思う我儘動点Pを求めよ

結末を知れ白雪の手を引いて七人の侏儒は何を得たのか

不器用を愛でてたことは気づいてないふりペンギンは空を飛んだ

二十五メートルプールの往復踏みつぶすべき塩素はまだ見つからないまま

船酔いを忘れられずに足元もアイデンティティもばったり転び屋チェブラーシカ

ともだちとずいぶん臆した口ぶりでチェブラーシカは呟いていた

いいね!より自爆ボタン欲し人生に楽しい瞬間あった時には

手紙入りウォッカの空き瓶流れ着く果てを宇宙の波打ち際とす

皮肉屋は三十路過ぎればことごとく神を求むと教授が言う朝

理不尽の味付け飽きてさっきからあなた付け合せのトマトばっかり

深海の孤独は小雨のハイウェイ走ればたちまち思い出すはず

電子からこぼれ落ちたるもろもろはお悔やみ欄が教えてくれる

可算名詞と辞書に載せれば幸福も五本の指で数えてもよし

さめざめと泣きたいときは内臓が冷えてるときだ触ってごらん

早朝の粘つく口の中で言う「もらとりあむ」を吾だけが聞く

変わらないものなどなくて花嫁の花とは生花のことだ、君

隙の無い生き物になりにゆくのだね銀のピン留めかたくなに光る

ひとの子の血が白ワインだったなら地球は今より青かったろう

平成27年度『楓』 冬季号 

平成27年度『楓』 冬季号 

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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