Snow Dome World

Snow Dome World

序章 ココハドコ

 斎藤准一が目を覚ますと、そこは真白色の街だった。
 片頬に触れている積雪は背筋を凍らせるほど冷たい。
 自分は街路のど真ん中でうつ伏せの状態だった。品位に欠ける。誰か知り合いに見られていたら、なんて説明すればよいのか。誤魔化すには不都合な状況だ。
 と思いながら、一つ疑問が心のなかに浮かぶ。
「今の季節って冬だっけ?」
 寝起きのくぐもった声は、ひとりごとに最適だ。たとえ周りに人がいたとしても、聞き取られないから。
「なぜ俺はこんな所にいる?」
 寝起きのテンプレ、目蓋の重たさも最適だ。たとえ周りの景色が見知らぬ場所でも、視界が徐々にはっきりしてくるから。
 手袋をはめた右手を白銀の地面につきながら、ブーツで白銀の地面を踏みしめながら、立ち上がった。
「グローブ? ブーツ?」
 果たして自分はグローブやブーツを身につけていただろうか? というかコートとかも?
 准一は自分のものか確かめるため、ダッフルコートに触れた。けして高級なものではなく学生っぽいが、体のラインにしなやかに馴染む。オーダーメイドで作った覚えもないのに、どうして……。
 まるで自分が今試着室にいるかのよう、自分の姿を見回している。片腕を上げたり、首を捻って背中を確認したり。
 そうしているうちにだんだん見えてくる。視界の片隅にチラチラと映る。そう、周りの景色が。
「ここはどこ?」
 そこはクリスマスの時期に遊びに行ったフィンランドの町並みに似ている。建築年数が一世紀をゆうに超えそうな建物を幾度か改築して、現代の街路に馴染ませる。そんな特徴が似ている。
 ただ、こんなにもアップダウンの激しい町並みであっただろうか?
「って、俺、北欧に行ったことあったけ?」
 頭に生じる疑問が次々と迫ってきているが、ひとつも答えを見出せない。こういう状況はただただ苛立つだけだが、今はそれすらも感じない。
 苛立ちがないということは、それだけ警戒心もないということで……。
「きゃっ!」
 准一の左側を後ろから何かがぶつかってきた。ぶつかってきたといっても、自分が倒されるほどの激しい衝突ではなく、「すみません」の一言で許せてしまいそうなぶつかり。
 准一は声がする方に振り向いた。なにかの髪型のてっぺんが見える。なので視線を少々下に向けた。
そこにはおそらくぶつかってきたであろう、少女がいた。光った絹糸みたいに、濃紺色の長い髪が印象的で、准一にとっては懐かしい年頃のあどけなさが残る少女だった。
「すみませんでした! お怪我はできましたか?」
 今の日本語、ちょっとおかしいような。聞き違いだろうか。
「いや、ないけど」
「それはよかった。すみません!」
 少女は何度もパタパタとお辞儀をしている。そのまま続けていたら、首に何か後遺症を残してしまいそうなぐらいに。
「すみません! 先を急ぎますので失礼します!」
 「します!」を言い終える前に走り始めていた少女は、多少無礼であることを自覚しているような表情をこちらに見せていた。それと同時に重大な用事にでも追われているのだろうか。全くもって落ち着きがない人だ。
 あたりには目を見張ってしまうお洒落な街並みではないか。そんな中を慌てるなんて。
 競争社会で生き残るためには先を急ぐ必要があるかもしれない。高齢化社会、少子化問題、所得格差。そのどれもが未解決なまま、グローバルな経済活動を求められる現代において、平凡な暮らしを得るのも一苦労らしい。いわゆる世知辛い世の中というものか。でもその行き着く先は穏やかな日常風景であってほしい。
ん? 違う。老後の人生設計は後回しにして。
「ここどこだ?」
 自分の中でも未解決の連鎖が続いているわけだが、こちらも一向に解決しない。
 そういえば、さっきの少女は日本語を話していたような。でも、流暢な日本語ではなかったような。
 人影がない街路で、さっき少女も見失った。
そう、人影なんて見当たらない。
 もし、自分がスナイパーに狙われているとしたら、両サイドに並ぶ建物の上階から順に窓をチェックするべきなのだろうか? もしするべきなら、細い抜け道に入り込むべきか。さらに、もしするべきなら、拳銃のセーフティーを外しておくべきか。
 でも自分はスナイパーに狙われるような真似はしたことない。というか、拳銃など持ったことない。ハワイで「試してみるか?」と誘われたが、断った。そんな下衆の遊びなど、品格に欠け――。
「ぎゃっ!」
「うおおお!」
 数秒前に振り向いていれば、一人の人影を発見できていたかもしれない。というか危機を回避できていたかもしれない。
 誰かがまた准一にぶつかってきた。今度は体当たりと述べる方が正しいだろうか。
 まるで坂道を下ってきた巨大雪だるまに吹っ飛ばされたかのよう、准一は宙を舞っていた。
 人が空を飛べないせいか、地上から離れれば離れるほど、視界がスローモーションになる。貴重な経験をじっくり味わうための隠された人間の特殊能力か。だとしたら、じっくり天使の気分を味わいたい。
 寒い地域の特徴、天候の急な変化のなのか、気が付けば雪が降り始めていた。涔々と降り注ぐ雪に混じって、吹き飛ばされた自分も舞い落ちる。道路の片隅に積もった雪塊に。これ、顔から突っ込めば一笑い頂けそうだな。
 空中の准一はそんな余裕さえ持っていることのほうが意外だった。自分はこんなに穏やかな人間だっただろうか。
 そんな穏やかな人間は見事に頭から突っ込んだ。予想通り雪に突っ込むのに痛みなどなかった。雪は元を辿れば水であり、ましてやパウダースノーだったことも幸いして、コンクリートに頭を打ち付けるのとは訳が違う。強いて文句を言うとすれば、毛穴が消失しそうなほどの極寒が顔全体を覆っている、まさにこの状況を打開したい。
「あの……、生きてますか??」
 心配しているのは分かるが、調子外れの明るい声質の持ち主はおそらくぶつかってきた人(二番目)であり、声の振動は空気中から積もった雪の塊を経て准一の耳中に入り込んできた。
 「無事だ」の一言を言おうとしたが、如何せん雪の中なので口を開ければかき氷を、思うがまま食べられる。
 仕方ないので、准一は右手を振って生存報告をした。
「よかったぁ。それじゃ、失礼します」
 一瞬立ち去るのかと思ったが、一応責任感は持ち合わせているようで、浮かれた声の主はどうやら准一の両足首を掴んで、大根抜きの要領で引き抜いた。ちなみにだが、自分は子供の頃、大根抜きのような遊びをしたことがない。子供とはいえ、そんな遊びで満足できるわけがない。
「よっこらせっと!」
 引き抜く時、准一の顔は雪に擦られて、真っ赤になった。
 顔だけ遭難状態だった准一は見事救出された。
「申し訳ない。ちょっと急いでたもので。って、わぁぁぁあ! 大変だ、遅刻する!!」
 アンタもかよ。この街は不思議の国か? 白うさぎが二匹も必要か??
 残念ながら目の前の少女は腕時計やチョッキを身に着けていない。いや、先程の少女も身に着けていなかったが。代わりに明るい金髪の上に赤のリボンが飾られていた。こちらのほうが茶目っ気たっぷりである。
「しかもなんと――!」
 その金髪は遅刻しているにもかかわらず、合格発表の前で崩れるように座り込んだ。
「パンが……。おやつのパンが」
 金髪は座り込んだ先には、歯痕が軽く残ったバケットが落ちていた。出来たてなのか、香ばしい匂いが辺りを漂っている。
 というか、たった今気がついたのだが、パンを咥えたまま俺にぶつかったらしい。金髪はコミックの読みすぎだな。
「由記が出かけたから、つまみ食いしたのに」
 へぇー、つまみ食いしながら慌てているんだ。ついさっきの少女がすこぶる行儀良く思える。
「でも、この地図を届けないと由記が困るはず」
 フード付きのセーターのポケットから地図を取り出した。セーターだけで外出とは寒さに強いのか?
 少女は立ち上がってから、地図を片手で二、三回振りながら開き、独り言の文句をいう。
「准一くんとやらは、もうちょっと暖かい時間に来てもらう訳にはいかないのかね」
 准一?
「あのう、俺、アンタとどっかで会ったことありましたか?」
「え、どうだろう? わたし、物覚え良くないからー」
「あぁ、たしかに物覚え悪いそうだ」
「な、なんと! 初対面に失礼な!!」
「俺は初対面の人に名が知られているようだが」
「? どういうこと??」
 口先では理解していないながらも、「もしかして? 君の名前は!?」と、偶然に驚く一歩手前の顔を見せた。
「いや、他人の名前を確認する前に、アンタのお名前を教えて下さい」
「アンタ呼ばわれしておきながら、語尾を丁寧。どっちかに絞れ」
 明るいテンションで突っ込みを入れられた。
「アンタ誰?」
「不良系キャラを選択かい? 顔は真面目そうなのに」
「俺はお金を持っていそうな人にしか丁寧口調を使わないんでね。って、あれ?」
 そうだったか? 自分って??
「えー、またお金にうるさい人間が来るのぉー。まぁ、いっか。わたしは結城みや子。歳……というか学年は二年生。はい、で、君は? 准一くん?」
 落ちたフランスパンをマイク代わりにして、それを准一の口元に近づけようとする。
「そうです。准一です」
 准一はパンが口元に近づく前に答え終える。パン型マイクはみや子の口元に戻し。「ちなみに苗字は斎藤だね」
「なんで俺の本名を知っているんだ?」
「いやー、助かった助かった。由記の分も一手間省けたね」
「だからなんで本名を……」
「まさに一石二鳥」
「なんで本名を……」
「よし、帰りましょ」
「ほ・ん・みょ、って、おい!」
 ――みや子は逃れられないよう准一の手をしっかり掴む。
「帰ったら、準備やらなにやらで大変だから覚悟しておいたほうがいいよ」
 ――そして坂道の街路を登って行く。
 ――登りきらなくてはならない、その先はまだ霞んでいる。
「こら、手を離せ!」
 ――その坂道は長い長い坂道で。
 ――いつまでも、いつまでも冬の世界はただただ厳しい。
 ――生きていくための備えは満ち足りているのに。
「ちなみにあっちが学園だから」
 ――悠久に降り続く雪は人に優しくもあり、厳しくもある。
 ――見る分には綺麗だが、触れるには冷たすぎる。
 ――けれども、誰もが登らなけらればならない坂道だから。
 ――たまには、こうやって引っ張られてしまうことも、あるかもしれないけど……。
「あれ、向こうだったかな?」
 みや子は右のほうを指さしたかと思えば、後ろの方を向いたりと方向が定まっていない。
 それにしても、俺が人に振り回されるなんて今まであっただろうか?
 准一は為す術もなく、ただただ坂道を登らされる。

「ねぇ、准くん?」
「……」
「あれ、聞こえないのかな?」
 みや子は躊躇なく准一の耳元に顔を寄せて。
「じゅんくーーーん!!!」
「うおおおお!」
 みや子の至近距離の大声は弓矢のごとく右耳から左耳の鼓膜まで突き破りそうだった。
「やめろ! 『聞こえてないのかな?』の次が耳元で大声って、ステップを省略し過ぎだろ!」
「なんだ、聞こえているんじゃん」
「それから、馴れ馴れしく呼ぶな」
 他人が突然親しく接してくるほど無礼なことはない。
「ねぇ、わたしたち、今どこにいるんだろう?」
 さっきからの会話のキャッチボール、お構いなくストレートを全力でしか投げてない二人。折れるのは癪だが、准一が先に相手のグローブにめがけて投げる。一歩譲って紳士となる。
「それなら、俺も訊きたい。ここはどこだ?」
 全く見に覚えのない土地で目を覚まし、立て続けにぶつけられて、おまけに二人目の少女には腕を引っ張られてきた。知らない場所をむやみに歩きまわるのは危険だ。
 辺りは先ほどと変わらずの街並み。石畳の街路に似合いそうな四、五階建ての建物が連なっている。
「ごめんごめん。住んでいる近辺だから、迷わないって思っていたんだけど、油断しちった。てへっ!」
 みや子は両手を猫の手招きのポーズにし、舌の先をちょっと出して、それはそれは、相手のお許しを期待しているとは到底思えないポーズをした。
「さーてと交番でも見つけよーと」
 准一は元々独り身であったかのように独り言を言った。口調を呆れ気味にしているのは気のせいということで。
「あ~、お腹すいたな。さっきパンを食べそこねたし」
 みや子はわざと独り言を言うというよりも、マイペースなだけであった。
 それでも准一は構わずあたりを見回す。
「そもそもこの街に交番なんてあるのか? そもそもこの街って……」
 目を覚ました場所よりは人通りが多いところに来たようだが、見かける人全員、学生のような気がする。老人も小学生も一人たりとも見かけてない。
 しいて言えば、大学のキャンパス内のような人の集まりとでも言うべきか。教育機関において一番学生に自由を与えられた場所。どの授業を選ぶのも、どのゼミに入るのも、どのサークルに入るのも、もっと言えば授業に出席するのも欠席するのも自由な学生。
 でも、目の前の街を行き来する人々は大学生にしては、やや歳に達していないような。まるで制服が似合いそうな年頃。
「ねぇねぇ! ここのコーヒーショップに入ろうよ!おやつの仕切り直しに」
 みや子は丁度目の前のお店を指さす。店内はまるでこれからの帰宅前の一休憩を楽しむ若者たちばかりだ。いわゆる寄り道とでもいうのか。
「よし決まり!」
「おい! いつ俺が頷いた」
「? あ、そっか」
 またみや子は准一に近づき、今度は後頭部を手のひらでおもいっきり押し倒した。准一は強制的に頷いた。
 准一は地面を見つめる。
 あれ? 俺ってこんなにも身長が低かったか? 下を向いた顔と地面の距離が少しだけ近く感じるのは気のせいか?
「ほい、これで頷いた」
「手をどけろ」
「そのどけた手を、ほいっと」
 みや子は准一の腕を掴み、店内へと駆け込んでいった。
 店内に入る瞬間、ドアのガラスに映る自分の姿もなんだか五、六年前の自分を見ているようで。

「おまたせ! わたしの奢りだからお構いなく飲んでね」
 店内に入り、席取りを頼まれた准一は、現在地を知る手がかりが見つけられそうな窓側カウンター席に座っていた。生憎、雪の降り具合が強くなってきている。
 もう一度疑問に思うのだが、今の季節って冬であっただろうか?
 みや子は准一の隣りに座る。それにしても、このみや子という女はパーソナル・スペースが広すぎではないだろうか? 准一にとっては、自分の陣地に気兼ねなく入ってくるのが気に食わない。
「これ、『さくらホワイトチョコレート・フラペチーノ』。もうすぐ終わる限定商品だから、召し上がれ」
 さくらって、外の気温は思いっきり桜の開花に不適切なのだが。昨今の季節商品の早期展開は目に余る。十月に始まるクリスマス商戦とか。
「これ、わたしの奢りだから」
 目の前の奢りを偽善と捉え、さらにその偽善を遮るかのように、准一はその「さくらホワイトなんちゃら」を口に含んだ。飲み物を頼んでもなければ、コーヒーショップに入ることも望んでない。そもそも自分はこんな庶民的な飲み物は口に合わな……。
って、甘! 甘すぎる!
「っ、げほっ、げほぅ」
 やはりお茶の時はブラックコーヒーに限る。
「わたしの奢りだからって、そんなに急いで飲まなくても」
 そう言いながら、みや子は准一の背中を擦った。准一のむせている姿を可笑しそうに見ているならまだしも、本気で心配しているところが尚質悪い。
 そんなみや子は蜂蜜でカスタマイズした「さくらホワイトなんちゃら」を堪能していた。
「あ~ぁ。今晩は吹雪になるって天気予報部が言っていたから、早く帰らなくちゃ」
 言葉と行動が矛盾しているが、みや子はそのことに気がつく素振りがない。
 それと、天気予報部ってなんだ。気象予報士と言い間違えたのだろうか。
「ねぇ? それにしても随分落ち着いているね? 君」
 みや子は不思議そうに尋ねてきた。
 落ち着いているわけではないが、かといって焦る気持ちにもならない。
「は?」
「いや、だから、この街にたどり着く学生はだいたい最初ヒステリーを起こすんだよ」
「あん? 学生って?」
「学生は学生。ちょっとつかぬ事を聞くけど……」
 今までの軽い言動とは打って変わって、みや子は控えめな声色を作る。
「どうして、『コノセカイ』に来たの?」
「『この世界』?」
 准一とみや子が思い浮かべる字面が異なる。
 オウム返しをされたみや子は居心地悪そうである。急にどうしたというのか。
「うぅぅん、だから、どうしてこの街に来たの?」
「知らん」
「……」
 質問に対してそれより短く返答する准一に、みや子は黙ってから呟く。
「そっか」
 「そっか」って何に納得したのか? 先程からみや子という人間がいまいち把握できない。みや子は自由気まま、のびのびと育てられたのだろうか? 准一にとってそんな人間は苦手だ。

 トントン。

 窓の方に顔を向けると、見知らぬ少年がガラスをこっちに向かってノックしている。
 その音に気がついて、みや子は顔を上げる。銀髪のダサく言ってしまえば、お坊ちゃまヘアーの少年は、どうやらみや子と知り合いらしく、みや子に「今からそっちに行く」と身振り手振りで伝えて、出入口の方を向かった。
「はい、今日のおやつの時間はおしまい! 帰るぞ、准くん!」
 みや子は体操の平均台から飛び降りるように席を立ち、カバンを持とうとしたが、そもそも今日は手ぶらだったので、おでこを軽く叩き「恐れいった」と言っている。つまり、茶番。
 そんな茶番を無視して物事をすすめる人間がもう一人いた。准一にとって少々頼もしいか。
「みや子! 絶対に道に迷うはずと思ったら案の定だよ」
 先程窓をノックしていた少年は店内に入ってきて、こちらに来ていた。背丈は准一よりも低い。年下か?
 みや子は面目ないという感情を、後頭部を擦って表す。
「いやはや、自分の方向音痴には困ったもんだよ」
「だったら、むやみに外出しなければいいのに」
「だって、郁は部屋に引き篭もっているし、ユキキは地図を忘れるし……。あ、それはそうと。ほら」
 自分の落ち度を放り投げたみや子は、ポンッと准一の背中を押す。要は自己紹介しろということか。なぜ、見知らぬ人間に名を明かさなければならないのか。だいたい、ここがどこだかわかってもいないのに。
 准一が躊躇っていると、銀髪が先に喋り出した。
「僕、悠木郁。『三文字+三文字』でリズム感がいい名前でしょ?」
「まぁ……」
「よろしく」
 苗字と名前の音数が同じなんてありふれたことではないかと思いつつも、郁が求めてきた握手に、准一は答える。相手より礼儀作法が下になってしまうのはプライドが許さない。
「名前は斎藤准一君だよね?」
 名乗る前に名乗られた准一はわざとらしくため息をつく。
「だから、どうして俺の名前を?」
「どうしてもなにも」
どうしてこうも会話がスムーズに進まないのだろうか。ここ一時間の間に、数名と会話したのだが、准一が質問したことに対して、きちんと答えを貰っていない。自分に問題があるのではと准一が疑ってしまいそうである。人とのコミュニケーションには何一つ問題無いと思っていきてきたのだが。
 みや子はなにか考え終えたのか、手元の甘味を飲み干した。
「とりあえず帰ろう」
「帰るって、どこへ?」
 帰るも何も、自分はこんな見知らぬ町に住んでいる記憶がない。
「あ、そうだ。由記にも連絡しておかないと」
 郁は何をするのか右手人差し指で上から下に弾く。まるで、空中の微小の埃を弾くように。すると、見たことない青の半透明な画面が現れた。光る画面は宙に浮いたままで、郁は手帳を見るような仕草をした。
 少しでも驚いた表情を見逃すまいと、みや子が准一にほくそ笑む。
「びっくりしたでしょ。ホログラムっていうんだよ。ちなみにケータイとかスマートフォンとかは、もう時代遅れだよ」
 みや子はそう言いながら、画面に何やら文字を打ち込んでいた。
 確かに返す言葉がない。自分は最先端の技術に関する情報収集に抜かりはないと思っていた。ドコモがIPHONEを販売するのだって早い時期から進言していたし、早い時期からググタスを利用していたし。って、それは普通レベルか。
准一が心のなかでノリツッコミをしていると、みや子が准一のトレイを持った。
「中身が残っているね。紙のコップだから持ち帰りオーケーだよ」
 准一が「さくらホワイトチョコレート・フラペチーノ」の紙コップを持った時には、郁という少年が外に出ようとしていた。

 トントン拍子で物事を進められている気がするが、本人たちはその気がないのかもしれない。
 なにせ、本人たちのいう、帰るべき場所に辿り着いた一言目がこれだ。
「ぐぁああ、つかれた」
「はぁはぁ。つかれた」
 みや子と郁はほぼ同じ心情を述べる。かくいう准一も疲労困憊だ。コーヒーショップを出てしばらくすると、空の色が暗くなっていき、激しい吹雪となった。
 吹雪の音が潮騒のように聞こえる。ガラスの細かいカケラのように雪が顔や手に突き刺さる。空から舞い降りる雪は街奥へと吹き飛ばされ、地上の雪も砂嵐のように吹き荒れていた。
 行く宛がない准一は微かな視界の中に見える郁の背中を追っていた。まるで台風の日の避難に遅れた住民のように歩いて行った三人。
辿り着いたのが五階建てアパートメントだった。
 エントランスの入り口には看板がかけられている。「スノーム荘」と。
外観とは打って変わって、内装から察するにデザイナーズマンションかと思ったが、何故かエレベーターが付いてなく、最上階の五階まで階段で登ってきた。
「だいたい、建築士のエレベーターつけ忘れって、どういうことだよ」
「仕方ないでしょ。その分家賃が安くなっているんだから」
 郁の一文句をみや子が宥める。その文句に関して准一も同意であったが、口は閉ざしたまま、玄関を通される。
 その先に広がるリビングは二人が居住するには贅沢すぎるスペースだった。五階というだけあって見晴らしのいい景色、傷一つないフローリング、様々なサイズのイラストが自由に飾られた部屋の壁。そして何故か不釣り合いの和風炬燵。
「それじゃ、僕は中断中のものを仕上げるとするかな。後はよろしく、みや子」
「了解であります」
 室内に入って早くも連携のとれた会話が二回目となった。みや子はふざけた敬礼。郁はそれが普段の事のように何処かの部屋に篭ってしまった。
 おいおい、客人を失礼ではないか。って、自分を客人として接待してもらいたいわけではないが。
「お構いなく、その炬燵に入っていいよ。あっ、まるで来客を招くようだね。コートは椅子にでも掛けて乾かしておいたら」
 みや子は炬燵よりもキッチンに近いところにあるテーブルを指さしながら、キッチンの上棚を探っている。
「あれー、チョコパイ食べちゃったのかな? んじゃ仕方ない、紅茶のクッキーを」
 みや子は両手でクッキー袋を抱えて炬燵の方に戻ってきた。
 炬燵の中は温かい。吹雪の中で冷えきった体が蘇りそうだ。
「お茶も飲む? クッキーは紅茶味だけど」
 「紅茶味のクッキーだから飲み物はいらないよね」と暗に言っているのだろうか? お茶を淹れるのも面倒とはそれはまた大層なご身分だ。失礼極まりない。
 しかし、それよりも。
「ここどこ?」
 准一はさっきから気になることを問う。
 クッキーの小包を幾つか准一の方へ寄せたみや子は深呼吸する。
「すー、はー。自分から買って出た任務とはいえ、まさか記憶消失とはなぁ」
 みや子は人差し指で頬を掻きながら言った。
 記憶喪失? 誰が? 
 准一はみや子を見る。確かにみや子は抜けているところがあり、疑う余地はない。郁が言っていたことから察するに、この金髪の方向音痴はひどいらしい。その方向音痴と記憶喪失はどこか関係があるのかもしれない。
 准一はとりあえずみや子は記憶を失っているということにした。
「まぁ、仕方ない。説明しますか」
 よくわからないが、みや子は意を決したようである。
「『ここはどこ?』という答えに対しては『ここはコノセカイ』と答える所存であります」
「はぁ」
 准一は記憶障害を患っている人に対して、適当な相槌を入れる。
「あ、字で書かないとわかりづらいね」
 みや子は炬燵から出たくないのか、テレビ台に乗っているペン立てのシャーペンをこれでもかと腕を伸ばして取り、紙を見つけるのが面倒くさいのか手のひらに文字を書く。ちなみに手のひらはみや子のものではなく准一の。
 手のひらに落書きされた准一は舌打ちをしたが、とりあえず今は受け流した。

『コノセカイ』

 手のひらに書かれた五文字。ただカタカナ表記にしただけで何か意味でもあるのか。
「『コノセカイ』とは……。そうだなー、例えて言うなら、ここは経験値稼ぎみたいなところかな」
 みや子はあたかも黒板に書いた難しい言葉を説明するかのように言った。
 経験値稼ぎ? 確かゲームの用語だっただろうか。残念ながら、准一はそういう遊びに興味がなかった。かと言って、素直に無知を認めるのも癪だ。
「ネトゲーだと? レベル上げてボスを倒す的なこと?」
 ある程度詳しい素振りを見せる。
「いや、ネトゲーではないんだけど」
「そうでしょうね。なぜならネトゲーは画面内の世界ですから」
 話の主導権をやや准一側に寄せる。果たして、この状況でプライドを守ってなんの特があるのか、自分でも首をひねってしまうのだが、癖というものがそうさせる。
「それじゃ、もう一度。ねぇ、准くん」
「その呼び名は止め」
 幼なじみのような間柄を無理やり設定されているようで、准一は頑として巻き込まれまいとする。
「学校の授業って、将来の役に立つとは限らないじゃない?」
唐突にもみや子は年頃に見合う話題を出してきた。
「数学の因数分解なんて実生活で必要ないじゃん?」
「まぁ、そうかもしれないが」
「でもね、授業で得た知識がダイレクトで人の能力に影響する学園があったら、どうする? まるで経験値を稼いでレベルを上げるみたいな感じで」
「まぁ、人の努力もある程度報われるのでは?」
「そういうことじゃなくて……。とりあえずそんな学園がある学園街、それが『コノセカイ』なの」
 みや子は説明を十分やり終えた雰囲気にしたいためか、何故かガッツポーズをした。残念ながら准一にはぼんやりとした輪郭しか見えないような気分だ。
「んー。仕方ないかな? あのさ、准くん」
 准一はジト目気味の視線を送る。
「怒らない?」
「はい?」
「いや、だから怒らない?」
 これは何かのネタ振りだろうか。悪いけど、自分はお笑いというものがわからない。
「だから、どうして?」
「オーケー。男に二言はないからね」
「いや……」
 一言も了承していないのだが。
 みや子は何やらコタツの中から取り出した。それは白の大型封筒だった。何かのロゴも書かれている。
「ここに、全てが書かれている」
 みや子はその封筒を准一に渡した。
 一体何が書かれているというのだろうか。中身は相当の資料が入っているようで、これを一目見ただけで、すべてが明白になるのだろうか。
「あの……、准くん」
 気のせいか、みや子は申し訳なさそうな表情をして。
「ごめんね」
 と言った。
 何に対しての謝罪なのか不明のまま、准一は封筒の中からケント紙で出来た二つ折りの冊子を取り出した。それが封筒の中で最初に触れたものだった。どれから見ればわからなかったが、一番重要そうな書類は封筒内の一番目にあるのが定番だ。そう思い取り出した。その時。
「見ちゃダメ!」
 どこかで聞いたことのある声が、玄関先から聞こえてきた。

時はもう既に遅いかった。

 しかし、それでもいきてしまう。

第一章 ヒキコモル

 自己破産することは自分のプライドが許さなかった。
 もし大学生の遊びに留めておけば、こんな事にはならなかったはずだと思う。人間関係でちょっと嫌なことがあれば国外へ旅だったり、免許も持ってないのにコレクションとして外車を部屋に飾ったり、マイナーな国の皇太子が来日して「どこどこのホテルに泊まった」と聞きつけたら自分はひとつ上のランクで宿泊したり。
 富裕層は「欲しいものはすべて手に入る」とよく口にするが、自分の場合は大学内の全生徒を養うことさえできた。幼少期から目論んでいた投資サークルでの成功は両親が恐れるほどであった。
 不自由のない生活に退屈して、小さなことでもいいから無理にでも不自由さを見つけ出そうと、自惚れが頂点に達した頃、派手な生活は突然終わった。
 数少ない信頼出来る友人とともに立ち上げたプライベートファンド。システム売買で絶対に利益が出ると謳ったが、実際に売買をしていたのは自分だった。友人はシステムの開発が遅れていると言っていたが、その友人は一ヶ月後には海外に逃亡していた。
 当然のごとく投資家からは資金の全額返済を求められた。到底自分一人で返済できる金額ではなく――。

 すべて思い出した。
 自分は生きることからドロップアウトした人間だった。


 新室の備え付けカーテンはまだ開けたことがない。開ける予定もない。たとえ日差しのある世界だとしても、黒染めのカーテンが日光を遮るだろう。
 隙間から差し込む光というものは、希望を求む人へのものだろう。夢を叶えたい人や平和を願う人。准一にとってはそれらから遠い存在。
 照明も付けず、准一はベッドの上でうつ伏せのまま。夕食の時間なのかリビングでは騒がしい。ここの住人は周りに気を使わない人たちの集いなのか、音だけで時間が進み具合を感じてしまう。
 准一は自室の暗闇で、枕に埋めた顔を横に向ける。枕に顔を埋めて窒息しないか、その可能性に賭けたこともあった。
 生まれ変わるまでの世界って存在していいものか。望んでも願ってもいないのに。
部屋の外で死人たちが団欒している。気持ちが悪い。いや、気持ち悪いだけで片付けられるなら、思考が何度も同じ所を回るだけでは済まない。捨てた財布をご丁寧にも交番に届けられたような思いだ。
 准一は枕元の電球スタンドのアーム部分を乱暴に握り締める。スタンドは逃げもしないはずなのに、准一は掌に力を込める。乱暴にしたせいでコードが引き千切れるぐらいにコンセントも抜き取られる。准一はドアの方向を感覚だけで探り出し、電球が砕けることを暗に願い、激しく放った。勢いが余った手はベッドのフレームに殴打する。
 手は自分ものではないかのように痛みを感じない。
 電球がドア板にぶつかり、投げ捨てたパンフレットの上にガラス片が散らばった。リビングはその瞬間だけ静まったが、数秒して陽気さを取り戻した。
 学園案内のパンフレット。
 もう一度パンフレットを見ようとすれば、足の裏をガラス片で切ってしまうだろう。パンフレットは不必要だが、それを取りに行かないのは自傷行為を避けているようにも受け取れる。
 ご丁寧に入学要項の欄には「単位不足だと二度と生まれ変われない」と記されていた。まるで、こちらが生まれ変わることを切望しているかのように。
 切望していないのに、光が差し込む。
「あーーー! せっかく君のために皆で家具を揃えたのに」
 昼間、みや子と名乗った少女はノックもせず、愉快な声が入り込んでくる。きっとこの人は偽善者なのだろうか。
 みや子は無数のガラス片を軽快に飛び越え、ベッドに近づいた。
「ほれほれ、明日は入学式なんだから、落ち込んでちゃダメだぞ、テヤッ!!」
 悪戯感覚で振り下ろされるチョップが准一の後頭部に入る。女子の悪戯の割りには力が入りすぎているが、文句を言う気にはなれない。
「それとも明日の入学式のために、早めの就寝かな? それなら結構結構」
 みや子はズレ落ちた掛け布団を整える。
「それから、えーっと。ちょっとご相談が。准くんの晩ご飯なんだけど、食べないならもらっていい?」
 気を利かせたジョークなのだろうか。
 たとえ余裕があったとしても、准一はみや子を無視するだろう。
「いや、由記のカニクリーム・コロッケは絶品なんだよね。 口に広がる甘く濃厚なベシャメルソースが至福のひと時を演出して――」
 天国のコロッケとでも? 毒でも混ざっているのでは?
 准一はコノセカイに疑心を抱いている。
「うむ。返答ないということは、ご了承いただいたと理解するであります、隊長」
 みや子の独断はテンポよく進んでいった。死人のくせによくもヘラヘラできるものだ。希望が残っている者なら、見習いたいであろう。
「君ね、混乱するのはわかるけど、ここは死にたくても死ねない世界なんだよ。わたしも入学前は何も食べれないほど落ち込んでいたけど、やっぱりダメだよ、このままじゃ」
 初対面の人間に説教とはいいご身分だ。生前の自分なら口の中のガムを吐き捨てていただろう。
 自分は生まれ変わることをこれっぽっちも望んでいない。次のビジョンを描きながらドロップアウトしたわけではない。ただただ無になりたかった。
 みや子は年配の役割を全うしているようだが、年上の威厳はすぐに消失する。ひとまず諦めたみや子は准一にひっそりと耳打ちする。
「でも君の引きこもりによる恩恵もあるので。ごちそうさま」
 みや子は悪代官の真似かニヤリとほくそ笑んでいるようだった。
「コロッケ、コロッケ、カニクリーム~♪」
 愉快なスキップの足音が遠ざかっていき、ドアは閉じられて、視界も閉じられるが、閉じられる直前の明かりを頼りに、准一は一人用のテーブルにベッドから手を伸ばした。捕まえたのはキャンドル・グラス。アロマキャンドルなど興味はない。
 そのキャンドル・グラスを威嚇の意味を込めて、ドアに叩きつけた。グラスはガラス片に変わりながら荒々しい音を立て、先刻のガラス片と重なる。
 よく周りを見れば、家具が揃っているじゃないか。仮にも准一が希望して入居した寮なら、管理人に挨拶してやるのだが。
 准一は俯いたままベッドから降り、部屋中の家具を乱暴に捕獲する。テーブルに、本棚に、テレビ台に、大きめの鉢に。観葉植物まで用意するとはどれだけ気を利かせているのだか。無駄なのに。
 准一はそれらをドアの前に放り込む。鍵が壊されても入室させないために。

 夕食を終えたリビングの方では、テレビのチャンネル奪い合いやお風呂の順番で揉める騒がしい一時を終えて、静まり返っていた。消灯時間を決めるような連中には思えないが。
 まさか自分が不登校児みたいな扱いを受けるなんて、夢にも思わなかった。学生時分、単位を落とすなんてもってのほかで、常に上位キープの成績だった。大学に入ってからも投資だのファンドだの忙しかったが、それでもオールSを狙っていた。
 落ち込んでいると言われた、みや子に。
 落胆しているのではない。もしそういう気持ちになるとしたら、それはまだもう一度生きようとしている証拠だ。自分にはそんなものが残っていない。
 死ぬ前にできる限りのことはした。海外逃亡した知人を引きずり出すために弁護士を雇ったり、持て余していた軽井沢の別荘を四件売却したり。それでも無理だと悟り、安楽死用の薬品を使った。
 誰がなんと言おうと最善を尽くした。自己破産は真っ平、やり残したことはない。
 そんな時、ドアをノックする音もいっそう響いた。
「あ、あのぅ、履修届を書かないと……」
 ドアの向こうから聞こえる声の主は由記という人だっただろうか? 名前の記憶は朧げだが、昼間体当たりしてきたのは覚えている。
「あのぅ、履修届を……」
 学校だか学園だか、行くつもりがないので、その履修届というものが不必要であるという意思表示を黙りで表す。
「……焦らなくてもいいので、いつかは学園に行きましょう」
 まるで外国人みたいにイントネーションが不正確な日本語は、准一にとって煩わしいだけだった。
 先程からの誘いが果たして本心なのか。宴のように騒がしかったリビングと自室、その二つを照らし合わせると、疑いたくなるだけだ。不登校の生徒のために学級委員がやりたくもない仕事を引き受ける、そんなシーンが思い出される。自分はそんな人間にまで成り下がったのか。死んでからも惨めな思いを感じる。そんな心の隅も邪魔だ。
 確かに生きようとするのが人の本能だろう。もとを辿れば自分もそのために大金を得たのだ。学生のみであった自分はいち早く一生安泰を得たかった。
 だが今は状況が違う。全資産を失い、無一文からまた生きようというのだ。死んだことを受け入れないまま。
 落とし穴に落ちたままの日々が三週間続いた。

 カーテンの隙間から明け方の曇り空が微かに明るさを届ける。
 一日中ベッドにくるまっていた日々。激しく撚れた掛け布団は四、五日に一回直し、シーツがズレ落ち、マッドが素肌に触れても気にしない。枕側のベッド枠に頭をぶつけても、たん瘤を擦るのは手間がかかる。部屋に引きこもるどころか、ベッドからも出ていなかった。
 けれども開かない鍵の引き篭もりの先にあったのは、鬱屈の断続ではなく、そのかわりに空腹感がやってきた。いや、空腹なんて生易しいものではない。よくお腹と背中が引っ付くという表現があるが、准一の状況はお腹と背中が入れ替わるぐらい、お腹が凹んでいる。
 それもそのはず、何も食せず三週間ほど経過していた。昨日の夕食時には「4月ももう終わり」なんて嘆いた声が、リビングから聞きたくなくても耳に入ってきた。
 死人のくせに時間経過を惜しく思うのか。
 准一の苛立ちも辿り着く先が空腹になってしまう。一時は空腹で今度こそあの世行きになれると期待もしていたのだが、実際は激痛を伴った空腹だけであった。まるで右フックの拳がストップモーションで鳩尾付近に食い込んだまま、痛みだけが永久に続いているよう。体内の胃腸は内臓の壁細胞に残った微かな栄養分を得るために、雑巾のように絞られているようだ。胃が拗じれていてもおかしくない激痛が腹部から体全身に広がり続けている
 今更ながら「コノセカイ」では死ねないことを思い知らされる。こうなるなら、由記の忠告を聞いておけばよかっただろうか。
 あれからも由記はドア越しに来てはノックをし、様子を伺っていたのだが、「空腹は痛いですよ」と案ずる回数が日に日に増えていった。
 その案ずる声が今日も聞こえてくる朝食後。
「あのぅ、行ってきます」
 イレギュラーな「いってきます」。さっきも同じことを言っていただろう。
 今から五分前、由記たちは出かけていった。おそらく学園というところへ行くのだろう。要は登校ということか。毎日の習慣としているのか、その時も由記は准一の部屋のドアに向かって「行ってきます」と言ってから玄関を後にした。
 由記はなぜか戻ってきた。
 由記は戻ってきたのは忘れ物とかだろうか? 学園に行くときの忘れ物?? 教科書とかノートとか宿題とかだろうか。准一にとっては登校が「学園ごっこ」のようにしか思えない。
 もちろん准一は何も言葉を返さない。その代わりに床に落ちた広辞苑をドアにぶつけようとした。それは三週間前、本棚を乱暴に持ち上げた時に落下したものだった。
 残念ながら、広辞苑はドアにぶつけられない。空腹で衰弱しきった准一にとって、広辞苑を掴むには重すぎた。今の准一にとって広辞苑は足の甲に落としたら骨が砕けてしまいそうな煉瓦のようだった。
 堪えた体の悲鳴なのか、お腹が鳴る。准一にとっては、もう恥じらう気力もないが。
「お節介かもしれませんが、部屋にあるキッチンにある戸棚に非常食がありますよ」
 言葉の語尾がかき消されていく由記。
 非常食って、どうして生きることに執着するのか? 死人のくせに。
「それでは、行ってきます……」
 ドア付近にいる回数は二回で、外出を告げる挨拶は三回。いかにも年上から好かれそうな振る舞いである。准一よりは年上らしいが。
「……あ、あのう……」
 准一にとって諄い挨拶の後、まだ何か言い残したことがあるようだ。自己主張できない人間は准一にとって足を引っ張るだけの存在だ。足手纏い。
 何も返事が返ってこないことを察して、握られていたドアノブは軽くなり、足音は遠ざかっていく。
 由記が去った後、玄関口からドアの閉まる音がした。
 その音が准一にとってホイッスルだったのか、ベッドから降りた。というよりも雪崩落ちた。
 気力さえ失った人間による最大限力を尽くした室内移動の始まり。
 床に頭を打ち付けても、今の准一には苛立ってゴミ箱を殴りつける力もない。
 准一はフローリングの板の隙間に爪を引っ掛けることで、自身の体を引きずるかのように簡易キッチンの方へ向かった。死人の部屋なのに自室にキッチンとは贅沢である。
 高所得者への上乗せ課税を求める庶民の気持ちとでもいうところか。もちろん准一はそんな妬みを生前思ったことがないが。
 間抜けな歩伏前進で、やっとキッチンに辿り着いた准一は、それしか手に届かないであろう、一番低い戸棚を開けた。
「こ、これか……」
 中にはブロック菓子が入ってそうな黄色の小箱が二十箱ほどあった。
 砂漠で干からびた人間が湖を見ただけで楽園と騒ぐように、准一は小箱を我が先と言わんばかりに開けた。もちろん横取りする者などいないのだが。
 非常食を噛みしめる。
 口の中で小さく欠けていった物からフルーツ味が舌に伝わる。思い起こせば、この世界に来て初めて食すのが今だった。良く健康志向の強い人間が言う「絶食の後のご飯は格別に美味しい」という体験談を准一は今なら共感できた。この至福の時間はコノセカイの全食物が美味と期待してしまいそうなほど。
 もしこれが現実の世界だったら、多少体重が増えてしまっても、食べられるだけ食いつくしたい。
 と、その時。
 またノックの音がする。先ほどのノックより乾いた音のような気がする。空腹を満たし始めていたが、聴覚の感覚はまだ麻痺しているのだろうか。
 人間には様々な感覚が備わっている。美味しい記憶を忘れないため、今の准一は味覚の神経に全集中力をかき集められているのだろう。もう二度と絶食はやめろと体が厳重注意しながら。
 しかし、それは聴覚の麻痺によるものではないということが、わかりかけてくるのだった。フェードインしてくる声とともに。
「――食べましたね?」
 ええ、食べましたとも。飢えに苦しむ人間が非常食を手にして何が悪い。こっちは肌が青白くなり、筋肉は骨より細くなっている。大腿筋の弱体化で、ベッドから降りる時は骨が軋む。同情するくらいなら食事をくれ。
 いや、違う。苦し紛れの言い訳を呟く前に――。
 今、外から声がしたような。
 准一は最後の一口を口に押し込みながら、視線をカーテンの隙間に向けて、目を細める。四月だというのに、雪が舞っている。粉っぽい乾いた小麦粉のような雪はケーキの仕上げのように街を彩る。街の白が光を反射させているから、日光は永遠に必要ないと言わんばかりに。
 そういえば、このスノーム荘に来た時は吹雪だっただろうか。強風と豪雪に参りながら辿り着いた一ヶ月前。絶景の裏には厳しい気候が伴っているのが自然界というものだ。
 生活に不適合な場所を選ぶ理由がわからない。誰だって平穏に暮らしたいはずなのに。

 トントン。

 ガラス窓を叩けばもっと勢いついた音が響くはずだが、今のノック音はどこか頼りない。ノックは二回打つのがオーソドックス。しかし、今のは二回目が叩くというよりも触れるに近かった。
 誰かの声が聞こえてきた。
「――お食べたということは、生きる意思表示ですね!?」
 頼りないノック音とは打って変わって、言葉は根が地に付いているようで――。
「窓を開けてくださ、っ、きゃっ!」
 いや、堅固な意志は儚く散る。驚きの声とともに、何かを踏み外した音が短く聞こえた。
 屋外から声が聞こえてきたわけだが、そもそもベランダ付きの部屋だっただろうか? まだ何も知らずこのアパートメントに来た時、外壁に並べられた窓が見えるだけで、ベランダはなかったはず。だとすると?
 准一は慌てて窓の方へ近づき、カーテンを振り払った。
 そこは一面に広がる銀世界。住んでいる建物が高く、最上階でもあるため、目下に広がる街は砂糖を篩で塗すされたようだった。白の煌きが人影さえも包み込み、まるで異世界に取り残されたような街は静まり返っていた。いや、実際には異世界なのだが。
 ドンドンドン
「あ、あの……」
 准一はまだ開けてない窓から見下ろすと、そこには――。
「あ、あんた!?」
 ――仕切りにドアをノックしてきた人物、制服姿の由記が外の窓枠にしがみついていた。黒髪に雪が積もりかけている。
 由記は装飾用の煉瓦に足を乗せるだが、その煉瓦の上にも雪が積もっている。足で踏み潰された雪は固まり、滑りやすくなっている。素手にも雪が降り積もり、しがみつく手に力が入らなくなっていくようだ。
 准一は更に慌てて窓を開け、由記の両腕を掴んだ。
「一体何しているんだ!?」
「た、食べましたね!」
「はい?」
 久しぶりに声を発したせいか、もしくは呆気にとられているせいか、准一の声はひっくり返った。
「カロリーメイトを食べましたね?」
由記は小説家の原稿を待つ編集者のごとく問い詰めてきた。
「食べたけど」
 危機的状況とは縁遠い問い詰めに、准一は答えてしまう。
「そ、それでは――」
「それじゃ?」
「わ、わたし、高いところが苦手で」
 手先から体の芯まで震えきっているのは、寒さのせいだけではなく恐怖心のせいでもあるみたいだ。震えながらも顔は決して遥か下の地面に向けないよう首を目一杯固定している。
「それなら、どうして壁にへばりついているんだ?」
「す、すみませんが、先に助けて下さい!!」
「あ……、もう!」
 准一は雪の両腕をしっかり掴み、外から引きずり上げた。別に重くはないが、焦っていたこともあり、最大限引っ張ったせいで、由記が室内に放り込まれる形になり、由記は床に頭を強く打ち付けた。
「痛いぃ~」
 散らかった室内に放り込まれた由記、自分は「粗大ゴミではないのです!」と訴えかけたそうだった。
「痛いって、アンタ、死にたいのか!」
「それは大丈夫です、死なない世界なので……」
 今し方の危険な状況を省みるより、後頭部のタンコブが気になるのか、由記は頭を擦る。ひどいコブのせいか、軽く手を当てただけで顔を歪めていた。
 アイタタ……と独り言を口にして、由記は立ち上がる。
「それよりも、食べましたね?」
「だから、それよりなんで壁を……」
「食べたということは――」
由記の瞳の中はこの世界の気候と不釣合いなぐらいに煮えたぎっている。
「――この世界で生きていく決心をしたということですね?」
「はっ? 唐突になにを??」
「わたし、隣の自分の部屋から外壁をつたって、ここに来ました」
「だからどうして、危険なことを」
「あなたのほうが危険です!! 一ヶ月部屋に引き篭もってて!」
「いや、アンタのほうが転落死するところで――」
「お黙りです!! わたしはあなたよりも年上です!! 少しは目上の人に従いなさい!!」
 冷えきった外気が入り込んだ室内では説教の声が、いや怒りに近い感情が篭った声がよく響いた。穏やかそうな人間も三週間さえあれば、激怒させられることを准一は学んだ。

 空腹を三週間も過ごした人間は、一体どれくらい食べられるのだろうか?准一は辺りに二十個ほどのブロック菓子の空き箱を散らかしたままだ。
 そういえば、この菓子のことをカロリーメイトと言っていた。確かに味や見た目はそっくりだった。パッケージにも商品名が記されている。どうして、この世界にあるのだろうか。
 謎は深まるばかりだが、実は空腹は満たされていない。三週間飲まず食わずの人間はまだ食欲を持て余している。准一は経験したことない長い期間断食をした。ましてや、先ほど非常食を食べたことで、満腹の喜びを知ってしまった。
 そんな准一はちょっとした食べ物の匂いを逃すわけがなくて。今の准一はたとえコンソメの素の一欠片さえも逃さない嗅覚を備えている。たとえ別の部屋にコンソメの欠片が落ちていたとしても。人の底力とでも言えるのか。
 准一は引き篭もって周りに人がいないせいか、今まででは敬遠しそうな行動もするようになった。たとえば、今まさにしている犬のように鼻をクンクン嗅ぐような可愛らしい仕草など。もちろんお似合いというには程遠いものだが。
 昨日もそうだったが、お昼になると出来立ての料理の匂いがする。掛け布団をかぶリ続けて、香ばしい匂いを経つようにしてきたのも昨日まで。今日はエビピラフだろうか? 都合よく考えすぎだろうが、由記が作り置きしてくれたのかもしれない。
 プライドさえも捨て、食欲を開放させた准一はドアを開ける決心をする。どうせ誰も居ないのだから。
 平日のお昼時、准一はドアノブをひねり、エビピラフに向かって直進しようと――。
 開放する瞬間のドアの隙間から、赤い瞳がレーザーのごとく准一を射る。
「やっと、出てきたわね」
 ドアを開放した准一の目の前には、見知らぬ長身の少女、いやどちらかと言うと女性が立っていた。いや、待ち構えていたとでも言うべきか。ご丁寧にもエビピラフが盛られた大皿をを左手の掌に乗せながら。
 准一は二度も同じ過ちを犯すまいと、亀のように素早く首を引っ込め、続けざまに新聞勧誘を強引に追い返す如く、ドアを勢いよく閉めようとした。
 しかし、その素早さの更に上を行くスピードで見知らぬ女が体を入れてきた。豪腕で封鎖しようとしているドアを強引に止める。そしてもう片方の手で。
 准一の頭を鷲掴みにして――。
「出てきなさいよ!!」
 ――、とても人間が人間にする行為とは思えぬ乱暴さで部屋から引っこ抜いた。おとぎ話のような世界だから鬼の存在も当然だというのか。

「お腹をすかしているはずなのに、随分上品に食べるのね」
 准一はテーブルマナーを守るよう華麗に食事をしていた。空腹により理性を失い、野獣のようにエビピラフを喰らう姿など見せたくない。確かに数時間前は理性を失って貪るように食べていたが、ひと目を気にする准一は優雅に繕って食す。
「非常食の空箱を散乱させた本人だとは到底思えないわ、准一」
「生憎、大学生の時はテーブルで会計を済ませるレストランしか入ったことないので。で、どうして、俺の名前を?」
「いや、私、ここの住人だから」
 住人? 遠藤由記、悠木郁、結城みや子、この三人しかいないと思っていたのだが。
「まぁ、無理もないわ。私も引き篭もっていたから」
 赤髪の少女は自らヒッキーを名乗った。
「へぇー、あんたも。それは奇遇だね」
「……。ふーん」
 元ヒッキーのその人は顔を准一に寄せ――。
「一応これでも、君より二つ上なのよ」
 ――底気味悪い笑みを浮かべた。
「それで?」
「引きこもりでもアンタとは違うのよ。私は小説家をやっているから。それに生前でも習わなかった? 年上を敬えって」
 また目上の先輩には逆らうなと言われている。そういえば由記とかいう人、結構怒っていたな。
「生憎、体育会系の団体とは無縁でいるよう心懸けてきたので。そっちこそ、名を名乗らないなんて、失礼じゃん」
「……」
 帰ってくる言葉がなく、室内が静まる。
「よく覚えておきなさい」
 准一の顔の前に手のひらが差し出され、さらに近づいてくる。人差し指と中指は左蟀谷に、親指は右蟀谷に当てられて――。
「私の名前は柚野ハルよ!」
「いたたたたたたたた!!!!」
 ――片手だけで准一の頭をかち割ろうとしていた。まるで林檎を握り潰すように。
「はっ、離せ!」
「礼儀を弁えなさい!」
「あんたはプロレスラーか!」
「あ?」
 ハルは皮膚に対して垂直になるよう指先を立てた。指先を立てた分、爪先が蟀谷に食い込む。
「ああああああ! はなせえええ!!」
「無礼を詫びなさい」
 准一はアイアンクローに苦しみながら、最終回の大和田常務のように土下座をした。アイアンクローの痛みを堪えながらなので、頭はゆっくりとしか下ろせない。その分だけ、激痛の時間が長引く。
 准一は最後の力を振り絞って、声帯を揺らす。
「し、しつれいしましたぁぁぁぁ」
「え、何? 聞こえないわ?」
「失礼しました!!」
 高校球児のグランド挨拶のように、准一は頭を下げる。
「元気でよろしい」
 ハルはゆっくりと准一から手を離した。
「元気があれば、明日から学園へ行けるわね」
「やっぱり、プロレスラーじゃん。猪木女」
「なにか言ったかしら?」
「いや、なんでもない」
「アンタね、一応ここは共同生活なのだから、もう少し気を遣ったほうがいいわよ」
「わかりました。お姉さま」
 准一は嫌味っぽく言った。
「あ、それなら『ハル姉』のほうがいいわ。なんだか『お姉さま』は妹から言われたい」
「ごきげんよう、お姉さま、タイが曲がっていますよ」
「……殺すわよ」
「じょ、冗談です。すみません!! ハル姉」
「やれば出来るじゃない」
 ハルはとても満足そうだった。両手を合わせて、傾けた顔に添える仕草は気品溢れている。
「こんな住居、出てってやる」
「無理よ、准一。アンタ、今はお金もなければ、稼ぐ能力もない。今度は空腹の上に悠久の極寒に彷徨う生活になりたいの?」
「ホームレスですか? 不便な世界ですね。お金に苦労したことは今までなかったのに」
「だから、学園に行くべきなのよ。コノセカイはRPGみたいに能力を上げることだけを考えるべき場所だから」
「それでお金に苦労しないと?」
「そうね、あながち間違えではないわ」
 ハルは真摯に答える。
「それじゃ、アンタは、いやっ、ハル姉は引き篭もりで貧乏のため、この部屋でお世話になっているんですね」
「残念ながら、私は三年生、成績は良好。卒業に必須な単位はとっくに得ているわ。といっても、卒業できる単位なんて、たかが知れているけど」
「それじゃ、好成績を早々収めたハル姉は引き篭もりの再開すると?」
「私は君と違う。前世に後悔して塞ぎ込む年頃ではないのよ」
 コノセカイというところに死んでしまったこと以外に塞ぎ込む理由なんてあるのだろうか? 塞ぎ込む理由の行き着く先がドロップアウトではないのか? ハルは感慨深げに窓の外を見る。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
 ハルは澄んだ笑みを向けた。

 一夜明けて、午前十時を回ろうとしているのに、准一は歯痒い思いでいる。それは部屋の外に出られないからである。昨日、久しぶりに部屋の外に出て、美味しいものを食べたせいか、准一は留守の時だけ部屋を出ることに決めたのだった。結局のところ、食を断っても餓死しないと身を持って学んだ。だとしたら、せめて苦しむことなく閉じこもっている方がマシだという結論に至った。
 そう思い、いざ今日となったわけだが、不運のめぐり合わせか別の事情で部屋から出られなくなった。というのも、503号室の住人はどうやら学校に登校せず、リビングでゆったり過ごしているのだ。
 先ほど准一がドアにピタリと耳を当てて、リビングの会話を盗聴していたのだが、
どうも本日は学園が休校らしい。准一は今日から昼間カーテンを開けておくことにしたのだが、そのカーテンを開けた時、外は吹雪だった。
雪が地面に突き刺さるように荒れ、五階から見下ろす街は真白い闇とかしていた。もちろん人通りもない。
 壁のデジタル時計を見れば、五月一日。天気と日時の不一致を否めないが、准一にとってはそれよりもさらなる問題を抱えていた。それは三週間の間に溜めてしまった洗濯物だ。
 コノセカイに来た当初は生きていくことを拒否していたので、身に纏うなど気にかけることもなかったが、生存の拒否さえも拒否し返される状況だと悟った准一は、それならせめて清潔感は保とうと考えた。不衛生な生活は生前の習慣から妥協できない。
 准一は洗濯を遂行したいのだが、リビングの邪魔者たちのせいで、立ち往生していた。

「やっぱりわたしのお店も広告を出してみようかと……」
 手にした四月の売上票で心配になる由記。
「広告ならやっぱりオーロラビジョンにドカーンと!!」
「その際はぜひ僕の曲を使ってくれたまえ」
 心配はしてないが協力はするみや子と郁。
「あ、あのぅ、オーロラビジョンはこの街になかったと思いますが……」
「おや、それは早とちりをしてしまったぜ、てへっ!」
「つられて自分を売り込んでしまったぜ、てへっ!」
 心許ない少女と楽観主義の少女と少年。意図的か偶発的か、各々の雰囲気によりバランスが保たれて、リビングの空気は穏やかだった。
「昨日、広告代理部に問い合わせしてみたんですが、予算的にはウェブニュースに一日だけ広告するのが限界かと」
「それで十分だよ!」
 みや子は炬燵を乗り越えそうな勢いで由記を元気づける。
「ユキキのケーキはどれも美味しいから、一度来ればリピーターになること間違いなし」
 親指を立てるだけで万事解決するには到底説得力がないが、本人同士の間では有効性が若干あるようだった。一年間シェアハウスしてきたことによる恩恵か。
 由記は少しだけ笑む。
「そうだといいのですが」
「ねぇ、由記」
 紅茶のカップを置いたハルが諭すように由記を呼びかける。ミーティングみたいな雰囲気の締めは決まってハルが適任だった。
「不安になるのもわかるけど、常連さんが減ったわけでもないんだから落ち着きましょ。商売なんだから波もあるわよ」
「はい……」
 心配症の由記はまだ不安を残していた。
「ユキキ、落ち込みそうな時は一笑いしよう! ほら!!」
 そう言ってみや子は由記に一枚の資料を渡した。
「これは内申書? 斎藤くんの??」
「そうでありますよ! 隊長」
 みや子は「でかしたぞ、みや子二等兵」という返しを一応期待していた。
「駄目ですよ! 勝手に見ては!!」
「え、でもこの内申書って、入居者がどういう人間か予め把握しておくための資料だよ。わたしは何回も見ているよ」
「そうかもしれませんけど……」
 後ろめたさを全面的に感じる由記。
「由記、安心して」
 ハルは妹の不安を和らげるように話し掛ける。由記以外の人間は、ハルが悪ノリしていることに気がついているが。
「確かに内申書には生前のことが書かれているけど、コノセカイに来た理由だけは伏せられているわ。そんなの誰にも知られたくないのはお互い様よ」
「そうですけど」
「ふむふむ。おお! いきなり一行目から恋話? 一目惚れ? 高校三年間? チキン?」
「ちょっとみや子ちゃん!?」

「なぜ今蒸し返されなくちゃならない!?」
 准一自室のドアにへばりつきながら、羞恥心にかられ、体が極度に火照る。屈辱で拳が砕けるぐらい握りしめる。
 「墓場まで持っていく」という言葉があるが、死んでも記憶は抹消されないものなのか。
 あれは確か高一の通学電車の中で……。
 いや、今思い返すだけでも、死にたいほど恥ずかしい。しかし、もう死んでいる身である。それならどうすればいいのか。
 准一が部屋を出てその内申書という不都合極まりないものを取り上げるか否か狼狽していると、頬に冷気が突き刺してきた。外はブリザードというだけあって、飛んでくる氷がガラスの破片のようだった。
 って、ここは室内である。なにゆえ、外気が入ってきている?
 ドアにへばりついていた准一は視界を反対方向へと向ける。ドア、ドアノブ、壁と順に。
 その先には降り積もった雪が、いやそもそも暴風が部屋に入り込んでいる。ベッドのマッドは簡易キッチンの方へ叩きつけられ、蛍光灯は飛ばされて壁に衝突したのかバラバラに散らばり、書棚は一回転して無残な姿のベッドにもたれ掛かっている。
 もしかして吹雪で何か飛んできて窓ガラスが割れたのだろうか? 准一は窓を見る。
 すると、窓は何故か開放していて、窓ガラスが割れた形跡はない。
 とにかく准一は開け放たれた窓を閉めるため立ち上がる。脇目もふらず、一心に。
 手を伸ばす。
 あれ? 窓が閉まらないのだが。
 窓は内開きのタイプのものだが、窓いくら引っ張っても動かない。何かに引っかかっているわけではない。
 准一は一心不乱で窓を引っ張った。
 必死に引っ張るのだが、それに反して体の動きが鈍り始めてきた。氷点下の空気が部屋に入り込み、体中を縛り付ける。コノセカイでしばらく生活してきたが、かすかに懸念していた凍傷の危険性を感じ始める。壊死した指先を切り落とすなんて言語道断だ。
 窓をただ閉めるだけのことに四苦八苦している准一は今後長期戦になると見込んで、とりあえず暖房の設定温度を可能な限り上げることにした。窓枠から手を離し、強風に押されてしまう身体を留めながらも、暖房のリモコンに向かった。
 手にしたリモコンは凍てつき、今にも液晶が消えかかっているが、ボタンを押すと反応する。
 准一はボタンが凹むくらい、温度の上ボタンを押し続けた。
 しかしである、そもそも天井のエアコンの通気口が開いていない。さっきまでは平常に動いていたのに。
 すると室内に部外者の声が響き渡った。
「男子は諦めが肝心よ」
 普段誰の声も入り込まない部屋にハルの声がこだました。気が付けば、先ほどまで盗聴していたドアは開かれ、ハルは准一を一直線に見抜いていた。
「よく聞きなさい。この部屋はわたしの監視下にある」
「はっ?」
 准一は一割も理解できない。
「あなた、気がついていないようだけど、超小型カメラがこの部屋のいたるところに設置されているわよ」
「なに!?」
 准一は強風に吹き荒れる部屋中を掻き回すように見る。今まで監視されていたことに、のどの奥に指を突っ込まれたような衝撃を受ける。盗撮カメラはどこだ!?
「この部屋の様子はリビングの部屋で視聴できるし」
「おい、プライベート保護! それから肖像権の侵害!!」
「確かに弁護士部というのがあるけど、あなた、弁護してもらうだけの資金があって?」
 また、なんとか部か!? 一体何なんだこの世界は? すべての職業を部活動にするつもりなのか?
「ちっ、この俺が弁護士さえも雇えないなんて」
 准一は財布も持っていない状況に項垂れる。
「この部屋は私達の監視下にある。だからさっさと出てきなさい」
 仁王立ちのハルに人差し指を刺された准一は愕然として、膝が床に落ちた。

 学園なんて筆記用具とノートさえあれば大丈夫だろう。大学の時はノートパソコンを持ち込んでいたため、手元の軽さに慣れない。
 まぁ、別に学園に行きたくて、行くわけじゃないから。
 ハルの話によると、このまま学園に行かないままだと、部屋のあらゆる隠し装置を駆使して、准一をイジメるらしい。今日は室内を冷凍庫にするだけですんだが、ハルがその気になれば規定値外の高温のサウナにもできるし、この部屋だけスケルトンハウスにもできるし、いっそう部屋ごと水槽にしもできるらしい。水槽で熱帯魚と同棲しろと。
 コノセカイの科学技術はどの程度のものかは知らないが、すくなくても准一が知る高度技術よりも上を言っているのは確かだ。それは郁がホノグラムを使っていた時からわかっていたことだ。
 屈する自分に苛立たしさを覚えながらも、准一は手を止めない。状況が不利なだけであって、優位に立てる機会は訪れるはず。逃すまい。
 密かに決心していると、ノックする音が聞こえてきた。
「……どうぞ」
 准一は歓迎の言葉を歓迎していない声質で返す。
「あら、まるでランドセルに教科書を用意する小学生みたいね」
 部屋に入ってきたのはハルだった。
「でも、准一、あなた確か履修届出していなかったわよね」
「履修届? そんなものありましたっけ? ハル姉」
 准一は嫌味を含んだ口調で言った。
「あなた、履修届をちゃんと書いておかなかったの? あとでとんでもないことになるわよ」
「知るか」
 履修届けといっても、結局は授業受けることに変わりない。今まで単位を落としたことない准一にとっては問題ない。
「知るかと言っても、由記がちゃんとあなたのことを調べて提出してくれたから、問題無いと思うけどね」
 そういえば、そんな名前の人間もいただろうか。自分に向かって説教してくる人間なんって、今までいなかった。
「そういえば、あの人、怒ってる?」
 ハルはジト目と含み笑いをする。
「ほー、気になるんだ」
「別に」
 どこかの女優が試写会で言い放った一言を真似たかのような准一は、雰囲気で部屋から出て行けと伝える。
「素直になればいいのに」
「言っておくけど、明日気が変わって学園に行かないかもしれないから」
 ハルはにやけ顔のまま部屋を後にした。

 翌日の早朝、隣部屋の目覚まし時計のアラームで准一は目を覚ました。
 カーテンを開けると、白の絨毯が敷かれた街路を見下ろした。朝の散歩を楽しむ学生がちらほら。准一は一番乗りで浴室に行き、その後手早く登校の準備を済ませる。

 朝食の準備がこれからという時、朝日が差し込むリビングを准一は突っ切って行く。
「あら、朝ごはんは食べていかないの?」
 今日の食事当番らしいハルは制服姿の准一に声かけた。キッチンから初々しい准一の姿を楽しんでいる。
「朝食は食べない主義なので」
 准一はそのまま玄関を出て行く。

 学園に行くことにしたが、住人と仲良くするつもりはない。人間関係とは必要最小限にとどめておくべきもの。それが生前に学んだこと。
 そんなことはさておき、准一は学園の案内をブレザーの内側ポケットから取り出し、場所を確認した。
 あれ、そういえば。
 そういえばである。アパートメントから出てきた現在、自分は今どこにいるのだろうか。思えば、この街のことに関しての知識は皆無である。一ヶ月前に来て、それ以来一度たりとも外出をしていない。住居が五階なのだから、街を見下ろして住所を把握しておけばよかった。
 准一は学園案内に掲載されている地図をもう一度見つめる。学園の場所は記されているが、そもそも自分の現在地をこの地図から見つけ出せない。
「チッ」
 似たり寄ったりな建物が並ぶ街路に苛立ちを覚える。
 地図には通り名も載っているが、自分が立っている道には通り名が書かれた看板など見当たらない。道先の遠くを見ても、何かしらの表示はない。
 人の手助けを借りたくない。だとしたら、気付かれないまま人を頼りたい。そうなると尾行するくらいだろうか。
 いや、それだけは避けたい。普段人を避けている人間が誰かを尾行するのは、犯罪の臭いしかしない。そもそもコノセカイに法律が存在するのかわからないが。
 それならと、准一は引き返そうとする。なにがなんでも学園に行きたいわけではない。仕方なく行こうとしているのだから。
 しかし、さっき無愛想に朝食をパスしてきた手前、503号室に帰るわけにもいかない。面子が丸潰れである。
 准一は周りに誰かいないか確認し、奥の手を使うため、准一はアパートメントと隣の建物の間の路地に入り込んだ。ここからならスノーム荘から出てくる人間を見逃すまい。

 しばらくして、スノーム荘から郁が降りてきて、准一は幾分安心する。
 もし女子を尾行するとなれば、何かしらの誤解を招くリスクが伴う。それに対して男子の郁を追っかけるなら、まだ安心だ。
 アパートメントから遠ざかっていく郁を准一はこっそりつけていく。踏みしめることで響く雪の音をたてないよう、靴をゆっくり下ろす歩き方で。

 数分後、郁は何かのお店の前で立ち止まってしまう。ショーウィンドウの先を眺めている。
 おい、登校中の寄り道かよ。
 また路地に隠れている准一は腕時計を見る。時刻は八時前。現実の世界ならだいたい八時半までに付けばよいだろうか。それならまだ余裕あると言えるが。
 准一は視線を先に向けると、そこにはショーウィンドウのガラスに指を乗せ、細かく動かしている郁がいた。何をしているのか詳しくは理解し難いが、傍から見るにIPOD片手に音楽にノっているようにも見える。だが、そもそも郁はイヤホンをしていない。
 世にも奇妙な光景を目の当たりにしていると、隠れている路地の反対方向から鼻歌が聞こえてきた。あの声は聞き覚えがある。お調子者の声を。
 そう思った瞬間に視界を反対方向に移すと、遠くの街路を歩いていくみや子の姿が見えた。
 女子を尾行するのは気が引けるが、このままでは埒が明かない。准一は郁に見切りつけた。

 それにしても503号室の人間は変わった人ばかりの集まりなのだろうか? 郁もそうだがみや子もかなりの者かもしれまい。
 みや子は空中に美味しいものが浮遊しているのか、鼻をクンクンさせながら進行方向が定まらない歩行をしている。傍から見れば犬の物真似と推測する人が三割ぐらいといったところか。こちらも理解不能な行動をしている。
 そのみや子がたどり着いたのは早朝から開店しているスープ屋さんだった。准一が歩いてきた道では人通りが少なかったが、スープ屋さんの店内では朝食をここで済ませる学生で賑わっていた。
 餓死寸前を永久的にした経験を持つ准一にとって朝食を抜くのは気安いことだが、そのスープ屋さんから漂うバジルの香りは食欲を刺激する。
「おぉ、本日の朝メニューはトマトソースですな」
 店先で感激の声を上げているみや子の声が准一まで届いてきた。
 無我夢中で目の前のご馳走に声を上げる彼女は恥ずかしくないのだろうか。みや子の目の前の店内には朝食で賑わっている。
 というか、そもそもみや子は朝食を食べてきたのでは? 准一が503号室を出て行く時、ハルが朝食の準備を始めているところだったが。
 ともあれ、店内には学生が大勢いる。みや子よりも頼りになりそうな男子学生がお店から出てきたら、そいつに付いて行けばよい。今度こそ、学園に辿り着けるはずである。
「アンタ何やっているの?」
 准一が今か今かと尾行する学生の品定めをしていると、不意に声をかけられる。どこかで聞いたことのある声が。
 准一は恐る恐る振り向く。
「あらやだ、やっと外出したかと思えば、今度は尾行かしら? しかも朝から」
准一の後にはハルがいた。
「いや、違うから」
「それなら、どうして影に隠れているのかしら」
「……」
「どうしてかしらね。アンタって執筆のネタに使えそうで便利ね」
「小説家気取りですか。たまたま通りかかったみや子を俺は案じただけで――」
「へぇー、でも心配しないで。あの子、太らない体質だから」
「そっか、それは心配して損した、それじゃ」
 もちろん他人の健康など知ったことじゃない。下手な誤魔化しの上、フォローも出来ない准一は広い街路に出て、足早に学園へ向かおうとした。しかし、方角さえも見失っている。
「アンタ、今、右に行こうか左に行こうか迷ったでしょ」
「迷うも何も、登校がてら街見学をしていただけだし」
 どうも最近人を欺く術を忘れてしまったのだろうか。出てくる言い分の幼さに、心中は額に手を当てたい気分だ。
「さっき、郁に会ったけど、『准一に追われている。僕、狙われてる』って怯えていたわよ」
「狙っているは言いすぎだ!」
「追跡していたのは本当ね」
「……いや、別に」
 おまけに会話の駆け引きもできない。自分はここまで冷静さを欠く人間だっただろうか。
「アンタ学園までの行き方知らないでしょ」
 准一は内側のポケットから出したものをヒラヒラさせる。
「いやいや、地図があるから~」
「そのパンフレットの地図、私達の住んでいるところが載ってないわよ」
「なにっ」
「仕方ないわね」
「おい、なにをする!」
 ハルは准一のネクタイを掴んだ。まるで競馬場のパドックの馬のように引っ張られる准一は周りを気にすることなく、「ネクタイを離せ」と訴える。本当に自分はクレバーな人間だったのだろうか。だんだん自分自身を信用できなくなってくる。

「授業をサボったりするんじゃないわよ」
ハルが准一に釘を刺し、別の校舎へ行った。ハル曰く、「文章実践作法Ⅰ」の授業で午前中が埋まっているらしい。
たどり着いた学園を一言で言い表せば壮大だった。ハル曰く、街の中心である学園は一つしかなく、そもそも街には学生しかいない、だから広々とした敷地であるとのことだった。校舎は街の建築物と似たような外見だが、やはり大きい。遠くの校舎と准一がいる校舎でおそらく朝の放送のようなものが流れているのだが、距離が離れている分、ズレて聞こえる。全くもって大層ご立派な学園だ。
准一は辟易とした気分のまま、昨日読んだ学園案内のパンフレットに記載されていた教室へ向かった。一年だから一階の教室だろうか。昨日の記憶だけで教室へ。
自分は登校拒否とは無縁であった。大学生の時は投資家としての活動の方に時間を割いていたが、講義は欠席することなかった。欠席など己のプライドが許さない。よってイジメが原因で長期欠席をしたことがない。
 だが緊張する。
 教室に入った時、見知らぬクラスメートに注目の視線を向けられないだろうか。時期外れの新入生など訳ありだと勘づくものだ。あわよくば、入学の遅れの理由も知りたいものかもしれない。
 己の弱さから目を背けるように、准一は教室ドアに手をかけた。深呼吸もせず、ただ無暗にドアを開ける。
 だが、その教室は殺風景だった。空席が多い。

 午前の授業がすべて終わった。
 准一が受講していた「古文F」という授業は6号館の東四階だった。いまさら日本文化など興味がないのだが、勝手に提出された履修届に沿って授業を受けなければならない。まったくもって忌まわしい。
 引き篭もっていた時は、高校生活をイメージしていた。全学生は制服を着用しているし、コノセカイの住人は成人前の風貌だし。
 しかし、高校と違うところがニ点かある。ひとつは教師も生徒であること。准一は最初に授業「世界史Ⅰ」を受けたのだが、教師は学生と同じ制服を着た女子だった。黒縁メガネと長身の姿は教師としての威厳が備わっていたが、その次の授業「数学Ⅱ」で、その女教師もとい女生徒が生徒として受講していた。先ほどまで教壇に立っていた人が今度は生徒席に座る、その光景が何とも慣れなかった。
 その後の授業も同じように学生服を着た教師だけであった。街中でも学生しか見かけなかったが、まさか学園も学生のみとは滑稽なことだ。
 話がそれたが、もう一つの違いはすべて選択授業のためホームルーム以外は移動教室であることだ。高校よりも大学に近い受講システムと行ったところか。当然、これは学園のパンフレットを見た時から知っていたことだ。高校のようにクラスが集まるのはホームルームの時だけ。完全な選択授業制のためには全授業を移動教室にするのは効率的かもしれないが、それならなぜホームルームをするためのクラス分けを実施しているのか。いまいち学園の運営方針が読み取れない。
「おーい、地味な黒髪ー」
 なれない学園生活に草臥れた准一が癖であるはずもないタバコをポケットから取り出そうとした時、一人賑やかな声が嫌でも耳に入ってきた。
 物臭な態度の准一が教室ドアの方を向くと、そこには無駄に快活な郁がいた。
 なんとなく要注意人物である。なにせ今朝、准一が尾行していたことを知らぬフリをして様子を伺っていたようだからだ。この賑やかそうな性格の裏に何かを隠しているのか。
「何しに来たのですか?」
 准一は冷めた視線を送る。
「貧乏人にこの僕がお昼をご馳走しようと思って」
「はっ? 誰が貧乏人だか?」
「君、無一文でしょ? そのノートだって、五〇三号室の皆が買い揃えたんだよ。准一が引き篭もっているから」
 准一はそもそも財布を持っていないことに気がつく。財布にはクレジットしか入れてなかったのだが、その財布を携帯してないなんて以前の自分では到底あり得ない。紛失したのではと取り乱すだろう。けれども、今の准一はその財布をポケットに入れてないことすら忘れている。
「悪かったですね。部屋に引き篭もってて」
 准一はこの場から立ち去るために、鞄を机から持ち上げた。この鞄もお節介で用意されたものか。なんとなく持ちたくはないが、持たなければ立ち去れない。放置すれば、どうせ目の前のお節介な人間が代わりに運ぶだろうから。
「あ、ごめん。気分悪くしたなら謝るよ。僕も一年前はハルにごちそうして貰っていたからね。気にせずゴチになって」
「謝って、偽善者気取りですか?」
「悪かったって。ほら、ご飯に行くよ」
 教室を出るためにはドアのところに行かなくてはならない。昼食を誘う郁はドアのところへ行くだろう。誘いに乗ろうが乗らないが、准一もドアのところに行かなくちゃならない。教室とは不便なところだ。
「生憎、人におごられる筋合はないので」
「でも、准一はお金持ってないんでしょ。まだ働いてないから。しばらくはゴチになる生活しか方法はないよ。今日の晩ご飯もきっと」
「生憎、借りを作るのが苦手で」
「朝ごはん食べてないでしょ」
「……」
 この郁というやつに知らぬふりをされて、自分は尾行を許していた。今一番警戒するべき人物なのかもしれない。策士というには不似合いな風貌だが、先の一手を常に売っていそうである。
 しかし、准一が黙っていると、郁が別の角度から切り込んだ。
「あーもう、じゃあ、むしろこっちから頼む。奢られて! じゃないと僕がハル姉に怒られる」
 業を煮やしたのか、逆に郁が願いでた。
「ハル姉って、あの赤髪の人か?」
 ハルは准一とって最も暴力的な人物である。
「そう、赤髪の。相手が男子であることをいいことに、平気で固定器具のようにアイアンクローしてくるハル姉! 顔に傷が付くって毎回言ってるのに」
 この男も一応犠牲者のようだ。
「ねぇ、だからお願い。一緒にカフェテリアに行こう」
 郁は手を合わせて、目を瞑りながら必死のお願いをする。教室には数名生徒が残っていたが、それも構わず頭を下げる。ご馳走を申し出るために頭を下げる奴がいるか。
「もう一度聞くけど、これは利害一致ということでいいんだよな?」
 准一は一番の懸念事項を確認する。
「もちろん! 君が奢られてくれれば、僕は痛い目に遭わない!」
 准一の合意に嬉しさが溢れたのか、郁は准一の両手を掴んで笑う。大袈裟なところ振る舞いに、准一は怪訝な顔をした。

 准一はAランチを、郁はパスタを。
 学食というと日替わりのランチが二種類ぐらい用意されているだろうが、ここは違った。奥に見える調理場で働いているのも、これまでと変わりなく学生で、その学生が要望を断ることができなかったのか、ランチがAからIまであった。和洋折衷のランチが用意されているわけだが、准一は選ぶのも面倒なので、一番頭のAランチにした。メインティッシュはきつね色に揚げられたエビフライで、レモンと千切りキャベツが添えられていた。良いものしか口にしない主義の准一にとっても、一応満足だった。
「白米とパンはおかわりし放題だから、今のうち胃袋に詰めておいたら。皆と夕食食べずに済むよ」
「あぁ、そうなんですか。それじゃあ、お言葉に甘えて……」
 准一は席を立つ。しかし、それに待ったをかけるように、郁が腕を引っ張った。
「待って! 准一は僕がハルに怒られても良いとでも言うのか」
「はっ? どういうこと?」
 准一は郁を面倒くさそうに見下ろした。
「晩ご飯の時、ダイニングに准一がいなかったら、絶対に僕がハルに疑われる」
「疑われるって何を?」
「准一が食卓の席につかないのは、僕が良からぬことを教えたからって」
「教えたじゃん、実際にご飯のおかわりを」
「それはジョークだって」
 いや、ジョークも何もドリンクバーのところにおかわりコーナーが見えるのだが。
 准一はため息をわざとらしくつき、席に座った。
「わかってます。それに俺、大食いではないから。誰かさんと違って」
「え? 僕も大食いじゃないよ」
「いや、アンタじゃなくて……」
 すっとぼけている郁に辟易とした。
「あの、郁さん」
「郁でいいよ。前世だと准一のほうが年上みたいだから」
「郁」
「おお、僕、同姓から名前で呼ばれたの初めて。前世でも呼ばれたことなかったのに」
「気持ち悪! やっぱり元に戻そーと。郁さん」
「呼び捨てで頼む」
「面倒くさい人だ。それでその……」
 急な話題展開を嫌う准一は言い淀む。これもまるでみや子に似ているようで。
「なんだね、准一くん」
「さっきの『働く』なんですけど……」
「なに!」
 任せっきりの社長が業績悪化で倒産を免れない状況を初めて聞かされたかのように、郁はテーブルを両手で叩いた。
「なに働きたくないだと! 君はコノセカイでニートにでもなるつもりか!?」
「最後まで話し聞いてくれない? むしろ働きたいんだが」
 一瞬あっけにとられた郁は首を傾けた。
「働いてスノーム荘を出て行きたいと」
「もちろんです」
 一応お世話になった住居だが、前世で独身貴族で生涯を終える人生設計をしていた准一にとって、住み心地が悪い。
「あんなルームシェアなんて、俺には向いてない」
「残念だけど無理だと思うよ。家を出て行くのは」
「どうして?」
「簡単だよ。准一はお金を持ってない」
 お金を持っていないことを聞かされるのは今日二度目だ。しかも同じ相手に。同じ指摘を繰り返されるのは癇に障る。
 しかし、ここで機嫌を悪くした態度を前面に出すと、相手のツボにはまってしまう。最近自分の周りにはそういう人ばかり相手にしているので、准一もそれ相当の対応をする。
「だから働くって」
「働くためには、それ相当の能力がないと雇ってもらえないよ」
「悪いけど、俺、一流の大学に通っていましたから」
「残念だけど、前世の能力ってすべてが引き継がれるとは限らないんだ。さっきの古文の授業みたいに」
「なぜそれを」
 准一は先ほどの古文の授業に全くついて行けなかった。古文は高校生以来、まったく興味なかった。授業でやっているのが「源氏物語」であることを教師が黒板に書くまで全くわからず、准一は苦労している状況をクラスの誰かに見られまいと必死だった。
「僕、四限目の授業を取ってないから。授業参観気分で覗かせてもらったよ」
「先輩気取りか」
「まぁ、そんなところ。で、当分の間は勉学に励んだほうがいいよ。僕も一年の頃はそうだったから」
 郁も蟹クリーム和えのパスタを食べ終えて、口元を拭いたティッシュを折りたたんだ。
「今更勉学って……」
 確かパンフレットには小学生が受けるような「算数」とかいう科目もあった。さすがにその授業を履修しているわけではないが、それでも基礎の基礎を学ぶような行為が病院のリハビリように思えて仕方がない。
「これからのための勉学だよ。生まれ変わるための勉学」
「あぁ、パンフレットにも書いてあったな、卒業成績が生まれた時の初期能力に関わるって」
 なんだかんだで准一は入学案内のパンフレットを熟読していた。その熟読を悟られてしまったかと、少々焦る。
「郁は成績どうなの?」
「好きな教科を中心に取っているから参考にはならないけど、好成績を収めているつもりだよ。一学期の終わりにでも驚きたまえ」
 鼻高々な郁。もうすでに学年トップを取ったかのように。
「興味ないし」
「興味といえば、街見学しない? せっかく外に出てきたんだし案内するよ」
 でました、例の恥も外聞もなく話を進めるところ。
「なんですか急に」
「ああ、勘違いしないで。またハルに脅されているわけじゃないから。街の中を知っておくのも大切だよ」
 怪しい。果たしてこの郁が案内をするほどお人好しのようには思えない。
「たとえば何が大切なんですか?」
「食材を買ったり、働き先を見つけたり、銀行部で口座を作ったり」
「銀行まであるのか?」
「あるよ」
 そういえば、コノセカイに来た時、坂を上って街を見下ろしたのだが、確かに市場のようなものが見えた。銀行の建物までは気がつかなかった。日本の都会のようなビルが見えなかったからだ。
「じゃぁ、投資会社とかは?」
 その類いの腕ならまだ鈍っていない。確証はないが自信がある。
「あると思うけど、もしかしたら雇ってもらおうとか思ってる?」
「いや、そういうわけでは」
「やめておいたほうがいいよ。基本的にどのお店や会社も部活として運営しているんだけど、入部するときに准一の生前のことを聞かれるはず。あまり好印象を持たれないと思うよ」
「……」
 郁は自分がドロップアウトした経緯を知っているのだろうか。先日、准一の内申書というものを見ていた時、そのことに関しては伏せられていると言っていたはずだが。
「ごめん。気分悪くした?」
 その気があるのかないのか見当付かないが、郁は申し訳なさそうにこちらの様子を窺う。
 それを見て、准一は頬杖をついた。
「いや、別に」
「そう。とりあえず、街に行こう?」
「行きません」
「どうせ、やることないでしょ。元引き篭もり」
「ちっ」

 並大抵の人だったら、そろそろこの無言劇に息が詰まってしまうであろう、そんな頃合いに郁が口を開く。説明するようにハルに言いつけられたのか。
「基本的に五〇三号室の家事は当番制で、食事と掃除を行う。食事は基本的に朝と夜のみ、掃除は共有スペースのみ」
 授業中は窓から見下ろしていた街は天から金平糖を落としているように見えたが、実際外出して見上げると、ただただごく普通の雪だった。外気が寒くて居心地が悪い。
 周りを見渡せる余裕が持てるようになり、この街は雪山に囲まれていることを知る。雪山で四方八方に囲まれた街は生活環境として適さないはずなのに、コノセカイの街は極寒以外で不自由を感じさせなかった。それはこれから向かう市場の賑やかさが聞こえてくるからだ。
「学園都市というだけあって、大きい」
「ちょっと聞いてる、准一!? ちなみに皆は学園街っていっているよ。都会的ではないからね」
「いや、むしろこういう街のほうが好都合だ。生きていた時の別荘近隣に雰囲気が似ている」
「大学生で別荘持ちとは、准一も派手に遊んでいたんだね」
 年相応の遊びではないことぐらいは自覚していた。日本だけでも軽井沢や長万部、ハウステンボスに別荘を持ち、海外に至っては北欧諸国を中心に物件を所有していた。日本の富裕層でもこれほど別荘を持つ人はそういないであろう。しかし、慣れというものは恐ろしいもので、別荘のコレクションに飽きた自分は日本で別荘保有数のトップに立とうと考えた。今考えれば、卑俗な遊びだ。
 准一はそっぽを向いたまま、話を続けた。
「その分失ったものも多いですけどね」
「彼女とか?」
「いや、女性には困ったことがない。お金に釣られてくるから」
 いつだったか、名の知れたアラフォーの女優が近づいてきたこともあっただろうか。お遊びで大金が入ったアタッシュケースを渡し、「海外でアンチエイジングを施してきたら考えてあげるよ」と言ったら、そいつは本気にした。そのころからか、その女優の整形疑惑が騒がれるようになったのは。これも今考えれば、少々卑俗な遊びだ。
「今は裸の王様だと?」
 郁が痛いとこを付く。
「生憎だけど、貧困層に落ちたままでいるつもりじゃないから」
「その前に好成績を収めて能力の向上をね」
「さぁ、どうだか」
 准一は愛想ない返事をする。さっきから「好成績、好成績」と五月蠅い人間だ。あんたは低学歴の受験ママか。
 准一は意図的に話を逸らした。
「都会的ではないって言ったけど、真新しい建物もあるが?」
 准一はコノセカイの初心者的質問をする。
「一応、建築部とか設計部とかもあって、土地の売買も行われているからね。もしかして、ガテン系の仕事で早く貯金をためたいとか」
「冗談じゃないですね。誰があんな汚れ仕事を」
「おいおい、働いている人に失礼だよ」
 郁は肩をすくめて、外国人が「OH, NO…」と言いそうなポーズをした。リアクションが大きくて鼻につく。
「知ったことか。貧乏人の気持ちはわからない」
 正確に言えば、この一ヶ月部屋に引きこもっていたので、体力が衰えているのは目に見えていた。白い息を必死に吐いて働く仕事は今の自分に不適合で、非効率的な稼ぎ方をこの自分が選ぶわけない。
「准一はスポーツとか苦手なの?」
「どうかな、 嫌いではないけど」
「それじゃ、今度スケートしに行こう! あそこに」
 十字路を渡る時、道路の真ん中で郁は横切る通りの突き当たりを指さした。指を指した先には、やや街の風景には不釣り合いな大型の屋内施設が見えた。街の中では少数派の近代的建物だ。
「スケート場ですか?」
「そう、この前完成したんだって。スケート部やアイスホッケー部とごらく部が協力して作ったとか」
 准一は片眉をつり上げて、何かの冗談かと笑った。
「部活動で作れないでしょ。あんな立派な建物」
「それが作れてしまうのがコノセカイなんだよ。といっても、何代も引き継がれてようやく完成したらしいけど」
 何代もって、まるでコノセカイに先祖でもいるのか。孫とか祖父母とかそういう単語と無縁なそうなコノセカイでは異質な言葉に思える。
 准一は郁を真似て小馬鹿にするかのように、肩をすくめた。
「三年間しかいられないのに、どうして後代のために建設するのか、俺にはわからない」
「そのうちわかるよ」
 そのときだけ、郁は違う人に話しているかのように言った。

「パン屋はローレルト通りにもあるけど、基本的には家で由記が焼いてくれるから。非常事態用に覚えておいて」
 郁はトレボルという市場をひと通り説明した。
 大通りから一度路地に入り、その先の開けたところに市場があった。五・六階の建物に囲まれた広場では露店が隙間なく並び、夕方の買い物で賑わっている。生きていた頃にアムステルダムの巨大市場に観光がてらに行ってみたことがあり、それは欧州最大級と言われている。准一の目の前に広がっている市場はさすがにそこまで大きくはないものの、先ほどまで見学して食料品のほとんどが手に入ることを知った。マグロからニシン、牛肉から鴨肉、大根からパプリカと材料なら何でも手に入りそうだ。強いて言えば、どこから手に入れたものなのか、いささか疑問である。
 もちろんパン屋も市場の中に四、五件ほど見かけたわけだが、どこも大盛況だった。
「非常事態って?」
「由記が風邪とか怪我とかになった時。わかっていると思うけど、コノセカイは寒冷地だからお気をつけて」
「そりゃどうも」
 まぁ、これだけ何でもそろっているところなら、医薬品も難なく手に入るだろう。暇があれば医療機関の有無も確認しておこう。
「それじゃ、これを」
 郁は何かのメモ書きを准一に寄越した。
「今日、僕が晩ご飯の当番なんだけど、練習がてら准一に譲るよ」
「はい?」
 メモの内容は「豚バラ肉五百グラム、豆腐四丁、白菜キムチ四百グラム……」と、箇条書きで丁寧に書かれている。
「あ、もしかして准一は韓国嫌い?」
「いや別に」
「それはよかった。見ての通り、コノセカイは日本人しかいないけど、共同生活する上で考えの違いは何かしらの障害を生むからね。他のルームシェアによっては『宗教・学歴・思想などの話は厳禁』なんていうルールを設けているところもあるからね」
 だったら503号室にも今すぐ設けて貰いたい、「人の部屋を監視するべからず」というルールを。
「ではでは、この世界での『はじめてのおつかい』になるけど、頑張って」
 メモを渡し終えた郁は実に愉快そうだ。
「アンタ、サボりたいだけですよね」
「誰もピアノの練習があるなんて言ってないよ」
「今、言ったな!? ピアノの練習って」
「あ、まずい。つい口が滑ってしまった」
「わざとだろ」
 だとすると、今朝郁を追跡していた時、店前で指を細かく動かしていたのも、その類いか。
「ちなみにハルから准一に買い物をさせるようにとお達しもあったのだよ」
「どうせ、虚言でしょ」
 コノセカイに来てから何人かとコミュニケーションを取ってきたが、相手から不愉快な顔をされたことがない。そんなにも丸く収まっている日常は准一に、より警戒心を生むことになるのだが、一番信用できないのは郁とみや子だった。
「もし本当で、准一が買い物を済ませてこなかったら、僕ら共に罰を受けるよ」
 罰とは暴力による罰のことだろう。アノセカイだと教師の体罰が問題になっているというのに、生徒同士の体罰がある程度容認されているのは、アノセカイもコノセカイも同じのようだ。コノセカイが法治主義の街なのか知識不足でわからないが、それならそれで――。
「それで屈するとでも?」
 運動不足とはいえ、自分は男だ。ボディーガードを雇ったこともあるが、結局思い知ったことは自分の身は自分で守ることだ。
「あれ? 頭をかち割られて、藻掻いていたのはどこの誰だっけ?」
「なんでそれを?」
「さぁね。部屋に帰ったからハルに聞いてみたら。それじゃ!」
 引き留める隙を与える前に郁は走り去っていった。

 夕刻のチャイムが鳴る前、強引に押しつけられた買い物は何とか終わりそうだった。
 市場が活気づいていてそれはよろしいのだが、店頭の生徒の売り込みには参ってしまった。よくテレビドラマとかで見かけるスーパーの試食コーナーのおばさんの声かけならまだ許せるが、コノセカイの体育会系の男子生徒に「美味しいか美味しくないかはっきり言え!」と恐喝まがいのことをされたり、か弱そうなで低身長の女子に「別に食べて貰いたくないんだからね」と言いながら追われたりと、それはそれは食材を買い集めるだけでも一苦労だった。
 メモに書かれていた食材はだいたい手に入れた。後は切らした蜂蜜の買い足しだけらしい。
 蜂蜜ってこれまたアバウトなメモだ。オーソドックスなのはレンゲやアカシヤの花の蜜であろうが、紅茶に入れるならミカン花の蜂蜜、フランス料理だったらソバの花の蜂蜜であろう。自分を美食家だと自負するわけではないが、食の拘りなら素材から着目するべきである。一般家庭出身の安物思考を持った人間には、蜂蜜の種類を知らないのだろうか。
 まぁ、素材には拘るものの、調理はすべてお手伝いさんにお願いしていたのだが。料理なんて趣味程度で十分だ。
「目障りなんだよ、そのリボン!」
 突然、噛みつくような声が准一の先にある曲がり角から聞こえてきた。市場の裏手の方からだ。
「いやいや、昨日今日でつけたリボンじゃないんだから、突っかかれるのは困るんだよな~」
 あたりを見回して蜂蜜を売ってそうな店を探していると、聞いたことある声の女子と聞いたことない声の女子二人、計三人の声が准一の耳に入ってきた。
「アンタは脳天気だから気がついていないみたいだけど、コネクトで散々叩かれているっつーの、アンタ」
「ほう、テキストメッセンジャーで陰口を叩くのがコノセカイでもおなじみなのかな?って思っていたけど、君たちは直接言いに来たわけだね。えらい、えらい」
 聞いたことある声の主は、どうやら結城みや子のようだ。どこか完全に相手にしないようとする思惑が声色に混じっている。その思惑こそ、脳天気の気質を持った人間の特徴だろうか。
「アンタさー、人畜無害そうに振舞っているけど、心の中では見下しているんでしょ」
「見下してる? いやいや滅相もない」
「スノーム荘の人間、特にアンタはアタシらみたいな人間を小馬鹿にしているんでしょ」
 スノーム荘は五〇三号室があるアパートメントのことだ。
「ごめんごめん、なにか誤解があるのかな? わたしがもし傷つけるようなことをしたのなら……」
 みや子が言い終える前に一人の女子がみや子の首を掴み、高姿勢に出た。つめ先が皮膚に食い込んで、今にも傷口ができそうなぐらいに。
「本当なら顔に傷をつけてやりたいんだけど、今日は首根っこで我慢してやるよ」
「くっ。わたしを傷物にすれば、気が済むの?」
「調子抜かすな」
「ちょっと、やめてって」
 首元を掴んだまま、まるでみや子の体ごと持ち上げるかのように見知らぬ女子生徒がさらに力を入れた。
「目立ち過ぎた代償だろ」
「く、くるしいからやめてって」
 気管が狭くなったのか、みや子は呼吸をしづらそうにしながらも、冷静さを求める。かすれ声で冷静さを求める。しわがれ声に説得される人などいないだろうが、それでも訴えている。
「あっ」
 みや子は通りすがりの准一を視線で捉え、苦しみながらもニヤリと笑う。気付けば、准一は騒がしい様子を窺っていた。
「ぇね、ね? あっちにいる男子? 准一っていうんだけど。見える?」
 首を持ち上げられたことで顔もうわずっているみや子は視線だけでも下ろして、睨みを利かせている女子に話しかけた。
「はぁ?」
「わたしと同じスノーム荘の人間なんだよね」
 みや子は続ける。
「ふん、お前と同じ人種か」
「いやいや、部屋まで同じだよ。503号室」
「彼氏だって言いたいのか?」
「さぁ、どうかな」
「リア充気取りか!?」
「ちょっちょっと! でもね、そんなリア充でも、あの准一くんにも恥ずかしい過去があるのですよ」
 リア充なんて安い言葉で准一自身のことを言い表されるのも癪で、それにみや子に言われるのがさらに癪だ。まぁ、資産家であったことは自負しているが。
「恥ずかしい過去?」
「そう、恥ずかしい過去! まぁ、アノセカイの話なんだけど、准一くん、不機嫌そうな顔をいつもしているけど、ああ見えてロマンチストなんだなぁ~」
「だからなんだ?」
 これが話を逸らす前兆だと気がついた女子は顔で間合いを詰めた。
「ちょっと、ちょっとストーっプ。でね、高校一年の時、通学途中の電車内で一目惚れをしました、准一くんは。准一くんはもちろんお近づきになりたいと思っていたのですが、ああ見えてナイーブな子。結局、何も声をかけられず高校を卒業してしまいました。非めでたし、非めでたし」
「おい!」
 さっきまで遠い位置にいた准一はみや子に迫り、みや子を奪い取る。他の女子など最初からいないかのように。
「なぜ、それを知っている!?」
「だから、内申書だって」
 また内申書か。昨日といい今日といい、門外不出と言って差し支えない内申書は准一を辱める。墓場まで持って行くという言葉の存在意義が崩壊している。死んでも秘密は消えないのがコノセカイの事実だ。
「ちょっと、こいつ借りる」
「ちょっと、待て、コラ!」
 今の准一には、苛立つ女子生徒たちの声が聞こえない。

 『雲の回廊の制作のために寄付を』そんな見出しの朝刊が今晩吹雪に変わるであろう風に飛ばされて、反対側の建物壁にぶつかる。雲の回廊とはおそらくモーニング・グローリーのことだろう。たしか非常に神秘的な気象現象で画像検索すれば、一目で心奪われる空模様だ。
 そんなものを学生が、というか人間が作り出すとは本当にコノセカイは放埒な世界である。残念ながらその現象の発生条件にコノセカイは当てはまらない。そのモーニング・グローリーは温暖な場所で発生するものだから。
 その新聞はもう一度風に煽られて、ショップのガラス戸に数秒間張り付いた。
「内申書を返せ」
「どうぞ、どうぞ」
 一ヶ月前コーヒーショップに連れてきたみや子、今度はケーキ屋に准一を連れてきた。准一に迫られていたみや子にしてみれば、店内なら騒げないだろうと目論んでいたのだが、それも建前で……。スプーンを指示棒のように振りながら、みや子は補足をする。
「ちなみにその内申書、自宅PCにもコピーがあるからね」
「消せ! ハードディスクを渡せ、クラウドにログインさせろ、コノセカイのネットワークを崩壊させろ」
 恋話で群れることをひどく嫌う准一の唯一人生の汚点と言ってもいい、高校三年間の片思いは何も実りなく終えた話だ。
「どうして過去に拘るの?」
 拘っているのではない、無かったことにしたいのだ。
「思い出しただけで虫唾が走る」
「意外と純粋なところがあって、いいじゃない」
「つべこべ言わず、データも消っ……」
 みや子によって強制的に頬張ったフルーツと生クリームの甘さは、准一にとって甘ったるすぎた。油に火を注ぐとは、まさに自分が置かれている状況のことだ。気持ちが穏やかなときだったら、美味のはずなのに。
「怒りっぽい時は甘いものを摂取しないと」
 内申書の返却を強いる准一に脇目も振らず注文したパフェは壮大だった。
「一応わたしの分だけど、もし残してしまったら食べてね」
「ああ、食べてやるよ。データを返すまで、口封じの一口を何度も貰うから安心しな」
「え? もう一回食べさせて貰いたいの? う……ん、恥ずかしいけどスイーツを残すのは犯罪だし……。あ、犯罪と言っても自分の中でのルールだからね。スイーツを残すのは犯罪です!」
 決めポーズなのか、みや子は准一に向かってビシッと指さす。
「何それ? 年甲斐もなく厨二病?」
「いやパロディーなんだけど。ジェネレーションギャップかな」
「いや、あんたと俺って一学年しか違わないんでしょ?」
 コノセカイの学園は高校生活のように三年制であると認識している。なんて年齢層が狭隘な街なのだろうか。もし自分が政治家ならマニフェストを作りやすいだろう。老若男女を相手にしているお偉いさん、ご苦労。
「確かにコノセカイだと一歳差かもしれないけど、実際はどうだか――。おお!? ここのパフェは中もしっかりフルーツが入っている! 抜かりないな」
 まるで雪山にトンネルを掘るかのようにしている、ご満悦のみや子は話を続ける。視線だけはそれでパフェに穴を開けてしまうかのように逸らさぬまま。
「それよりも君、ちゃんと授業について行けてる?」
 またその話か。同じ話をされるのと嫌気がさすのも当然なのだが、この類いの話に耳を背けると、自分が出来の悪い子のように扱われている気がして、それもそれで不愉快だ。
「まぁ、それなりに」
 准一は店外の人の流れを気にしているかのように、明後日の方向を向きながら答えた。外は夕食の買い物を終えた学生の姿が多かった。 
「嘘だ!?」
「放っておいてください」
 学校に行き始めたからと言って、生まれ変わりたいと願っていない。それ故に成績に関してもシビアになるつもりはない。
「君の履修届け、オールマイティーにして提出されているよ。まるで実際の高校生の授業のようにカリキュラムが組まれているよ」
 でしょうね。不登校児の提出物は他人が適当に見繕って出すものだ。熱心な保護者なら期限ギリギリまで本人に記入させるよう強いるだろう。
「普通の授業を受けるのが変だと?」
 准一が今日受けた授業は高校の普通科の科目ばかりだった。
「コノセカイの人はだいたい得意科目もしくは興味がある科目のみを受けるものだよ。そうしないと平凡な人間にしか生まれ変われないからね」
「あっそ」
「何かに特化した人間になれる可能性もあるんだから、受講する授業も慎重に選びたいでしょ」
「あっそ」
「興味がないフリでクールに演出しているつもりかな?」
「別に」
「……。沢尻か」
 ひと突っ込み入れた後、みや子は一度息を止めていった。
「さっきみたいな人に成り下がったら、もうそこまでの人生だよ」
 さっきの人とはみや子に詰め寄っていた女子のことだろうか。
「へぇ~、あんたに因縁つけてきた人のこと、実は馬鹿にしているんだ? 涼しい顔しちゃって、そっちこそクールに決めてるんじゃない?」
 胸ぐらを掴まれながら、淑女的に応対する姿は不似合いで滑稽だった。普段脳天気のみや子が平常心の人間を演じることで、笑いでも取ろうとしていたのだろうか?
 それにしても、なぜみや子はあたかも嫌われているような扱いを受けたのか。たしかに相手するのが面倒だったり、一人盛り上がったりと人間関係上の欠点はあるが、恨まれるようなことではない。
「よし、今夜学校に忍び込むよ」
 自由気ままな会話は天候が怪しくなることを告げているのか、夕方の雪が降り始めてきた。こうなるなら、面倒なことに首を突っ込まず、まっすぐ帰るべきだ。
「は? 急になぜ?」
「障害者になりたくないなら、来た方がいいよ」
 物騒な言葉を選ぶのも、ウケをいただきたいのだろうか? だとしたら趣味が悪い。
 しかし、みや子がそう言った時にはエッフェル塔のようなパフェがすでに完食されていた。

 教室の照明はすべて消されているが、体育館などがあるホールの方はまだ明るい。パンフレットには大型図書館が二十四時間開館していると記載されていた。
「来るとは意外だね」
「わたしの説得力も侮れないでしょ」
 もちろん、准一はみや子に押されてここに来たわけではない。ただ時間を持て余していただけだ。
 今日覚えたスノーム荘から学園までの道順を完璧に覚えた准一はみや子と郁が待っていた学園の正門前に来た。
 郁は念を押す。
「もちろん、ハルにはバレていないよね? あの人、曲がったことをあまり好まないから」
「あー、それは大丈夫。話しかけられたとしても、手短に済ますようにしていたので」
「相変わらず、無愛想のままなんだね。ま、いっか。それじゃあ行こう」
 みや子は正門の方を指さした。
 学園と言うだけあって、正門には警備員がいる。といってもその警備員も学園の生徒なのだが。
 慎重と不釣り合いな大きめの制帽を被った女子警備員、大きめの眼鏡が似合うがどこか間の抜けた性格をしていそうだ。悪いが警備員の仕事には向いてなさそうだ。
 一応大人の対応で入館許可を得ようとした郁だが、そううまくいかないのが大人の世界である。
「あの、すみません。夜間の出入りは事前申請してないと駄目です」
「まぁまぁ、そう言わずにこれを受け取って」
 警備の女子生徒に郁はディスクケースを渡す。
「これで取引をお願いするよ」
 眼鏡女子は警備室の窓から乗り出し、左右を確認する。
「……わかりました。この件は他言厳禁でお願いします」

 階段を降りて、東館の地下一階の廊下を直進している。地下の階は最近改修工事を行ったのか、真新しい黒の内壁で廊下を包み込んでいた。誇り一つ落ちてなさそうな床は足音をよく響かせる。一応学園の生徒とはいえ、部外者みたいな自分が入り込んでいい場所なのだろうか? まぁ、警報器が鳴り響いたとしても、特に慌てる必要も無いのだろう。なにせここは学生だけの学園なのだから。
「さっきのケース、あれ何? 中身の白い粉をカモフラージュとか?」
准一の問いかけに郁は首を竦めた。
「物騒だな。そもそも、こんな楽園みたいな世界にドラッグなんて必要ある?」
 夜間のせいでもあるが、地下の階は静かである。物音一つしない。授業用の教室が見当たらないので、普段から人気がないのかもしれない。
「おお!」
 洞窟の宝箱を見つけたかのように、みや子が走り出して、一つの扉の前でこちらに振り向いた
「ここだよ、確か!」
 ルームプレートには中央制御室と書かれていた。
 時間つぶしにと軽い気持ちで、合流した准一であったが、何をするのか全く見当つかない。さっき、警備員に無理を言って学校に入ったので、よからぬことであることは想像つくが。
 郁と准一はみや子の元へ駆け寄る。
「開けーごま」
 もちろん呪文によって開くドアではない。これだけ設備が整った建物にメルヘンな仕掛けが用意されていたら建築士のセンスを疑う。みや子は他の二人には見えない角度から右手を出してドアを開ける。
 みや子はパソコンが無数に並べられたコンソールの方へ入り込み、こちらへ振り返った。
「お入りなさいな~、お二人さ~ん」
 並べられたモニター画面のせいで廊下よりは比較的明るい室内だが、不自然なくらいに静かだ。HDDの回転音が全く聞こえない空間は少々不気味だった。
「中央制御室っていうくらいなのに、セキュリティー甘くないですか?」
「もちろん入っちゃ行けない場所だけど、所詮生徒だけの学園だし、そもそもここは死なない世界だからね」
「またそれかよ」
 みや子はさらに奥の方へ行った。中には現実世界で見たスーパーコンピューターのような強大なものもあった。政治家の事業仕分けで予算を削られたアレだ。
 准一はとりあえず、入室する。
 と、そのとき、何かに躓いた。
 躓いたものは自分以外の足首で、准一は転びそうになった。
「しゃしゃり出てこないでね」
「は?」
 体勢を立て直した准一に幾分トーンが低い、郁の声が届く。
「一度で理解してくれないかな? 本当は僕より年上なんだからさー。おじさん」
 そう言い終えると、郁はみや子の方へ寄って行った。
「みや子、精密器機を並べた中を駆けるなんて危ないよ」
 いつもの声に戻った郁の声は当然准一に向けたものではなかった。

 詳しい事情を説明されず、見知らぬ場所に案内されている。准一の経験論から導き出される予想は良いからぬものだけだ。
「悪いけど、プログラミングを修正しろとか引き受けない。嫌な思い出があるから」
 プログラマーのような技術を持ち合わせているわけではないのだが、似たような状況を生前経験した。
「え? いや、その類いのことなら、わたしがやるけど……」
 みや子はブラインドタッチを一度止めて、首を傾げた素振りを准一に見せた。
「じゃぁ、なんでここに連れてきたんだ?」
「それはこのため」
 みや子はキーボード操作していたモニターを准一に見るよう促す。
「君の履修届を改ざんするんだよ。今のままじゃ、中の中の成績しかとれないから、全部得意科目にするよ」
 しつこいボランティアはいつしか偽善と疑われてしまうものだ。生真面目な人間が陥りやすい失敗例。まぁ、みや子が生真面目であるかはこの際問わないでおく。
 准一は辟易した。
「別に成績とか拘ってないし」
「そう言わずに。得意そうな分野は何?」
「高スペックな人間でいるのも飽きたので、中の中の成績でかまわないっすー」
 准一は夕食後の眠気に襲われている仕草を見せた。夕食を食べ終えたのはすでに一時間以上前のことなのだが。
「さっきも言ったけど、障害者にでもなりたいの?」
「いや、それは……」
「得意なことは何?」
 得意なこと? 得意なことをピンポイントに言って困らせてみるか。
「EUあたりの金融機関」
「え? どういうこと??」
「だから外資系の株式投資が得意だって言うこと」
「う~ん。よくわからないからからワード検索するね」
「ぐぐれかす」
「口語体で言うな!」
 みや子は画面内のテキストボックスに「経済」「ユーロ」「ベルリンの壁崩壊」と打ち込んだ。アバウトな前二単語と、藪から棒の最後の単語、それでいったい何が引っかかるというのか?
「おお! 二十件ヒットした。区分は――、経済だから全部履修にしておくね」
「よくわからん」
 履修届というのは履修要項を確認してから提出するものだ。それを「得意そうな科目だね」の一言で、履修の許可を下ろす生徒がどこにいるであろうか。
「他に何かない? 趣味とか?」
「スノーシューイング」
「これまたマイナーなウィンタースポーツだな―」
 意地悪な回答をする准一であるが、准一自身もどこかのツアーガイドブックで知っただけで趣味ではない。
「まぁ、スノーシューイングとやらの授業があるから履修しておくね。単位を埋めるためAからEまでのコースを履修っと。よし、これで書き換え完了」
 まるで王手を駆けるかのようにエンター・キーを指で叩き付けて、みや子は作業を終えた。
「それにしてもこの部屋暗すぎだなー、パソコンの明かりだけを頼っていたら、視力悪くするよ。目が小さい人間になった困る。てやっ」
 みや子は壁に設置されたスイッチを入れる。すると、部屋中は雨空から晴れ渡るかのように視界が広がり。
 ――ビ、ビ、ビー!!
 突然サイレンが鳴り響く。
「まずい! セキュリティーが作動しちゃった!」
「逃げよう! 見つかったら減点対象になる」
 みや子と郁は急いで部屋を出て行く。
 逃げながら准一は至極真面なことを呟く。
「人に入られたくないんだったら、鍵をかけておけよ」
 不完全な校舎のシステムに文句を述べながら、准一も中央制御室を後にした。

 そんな逃走劇を繰り広げてから一週間が経った。
 学校というのは毎日代わり映えのない日常の繰り返しで、ちょっとやそっとの事件では刺激にならないものである。退屈だ。
 放課後の准一は独り下校路の坂を下っている。雪掻きは定期的に行われているのだろうが、それでも降り積もっている。小降りであることが不幸中の幸いだろうか、傘だけで凌げる天候だった。
「ちょっと、傘、傘!!」
 後方から騒がしい声がこだまする。この声はみや子だ。
「ヘルプ!」
「ちょっと、あんた!」
 みや子は傘を持参しそびれたのか、准一の傘に入ってくる。
「これは一人用の傘だ! 片方の肩が濡れるだろ」
「イイじゃん、イイじゃん! 相合い傘で嬉しいくせに」
「生憎、相手が女子じゃないと嬉しくないので」
「うん? わたし女子だよ?」
 みや子はもしかしたら聞き間違えたのかなと思いながらも訂正をした。
 そんなみや子に准一は皮肉る。
「ああ、そうだった、忘れてた? いつものリボンつけてないからわからなかった」
「おい! わたしはリボンを外しただけで、モブにジョブチェンジするようなキャラじゃない」
「ところで、あんた名前なんでしたっけ?」
 「ところで」という接続詞で准一は相手に隙を与えない。
「わざとボケてるのかな? 似合ってないよ、そういう役回り」
「はいはい、似合ってなくて悪ぅござんした」
 似合っているか似合っていないかだけで、自分の行動を決められるなら人生はきっと楽だ。
「時に、准君。この後、暇だよね?」
 気に障る呼び方に指摘するべきだが、その指摘も相手の思う壺ではないのかと勘ぐってしまう。
「さぁ、どうだか?」
「じゃぁ、由記の喫茶店に行こう!」
 勘ぐっても、主導権を握られてしまう。それでも負けず嫌いの准一はおちゃらけてみせる。もちろん、そんな素振りが似合っているなんて自分心でも思っていないのだが。
「喫茶店? なんじゃそりゃ?」
「ほらほら、行こう!」
「いや、今は行く気になれない」
「い~や、行こう!!」
 みや子は傘を奪い取って、それを人質にした。これで完全にみや子の思う壺、准一は追いかけざるおえない。
 百歩譲って追いかけてあげようと思うが、せめてその喫茶店というものが何なのか、説明してほしいものである。

 これまでみや子に連れてこられたコーヒーショップやケーキ屋とは違い、こぢんまりとした喫茶店がトレボル市場から徒歩三分ほどのところにあった。つり下げ看板には「喫茶店」と書かれてあり、これといった固有の店名はないようだ。四人座りのテーブル席が二つとカウンター席、そして色とりどりのケーキがショーケースに並べてあるシンプルな内装で、客が少なければ店を一人で回せる小さな店だった。
 そんな小さな店だから強盗なんて滅多になさそうだが、残念ながらちょうど今物騒なことが起きている。
「あんた、何かしでかしたみたいね? 執筆のネタを増やしてくれて、どうもありがとう。感謝するわ」
「おい、包丁をこっちへ向けるな、ハル姉!!」
 例の喫茶店にたどり着いて、准一はハルによってコンマ一秒で身動きできないよう縛られた。准一の両手は背中越しに縛られている。逃げられよう店内の柱とともに縛っている点から見ても、ハルの一連の行動に抜かりはない。
一方、みや子はハルとグルを組んでいたようだが、今は知らんぷりしている。
「何をしたのか正直に言わないと刺すわよ!」
 逆手で構えた包丁の先を准一に向けながら、ハルは見下ろした。
「おい、人殺しか!」
「残念だけど、コノセカイは人が死なない世界で、刺しても罰せられるような法律は都合良く存在しないわ」
「あんた正気か!?」
 迫る刃先に准一は身が縮こまり、縄を解くことができない両手は震えきっている。
「あー、あんた?」
 ハルの形相はハローウィンのドラキュラを思わせるように殺気立っており、准一は急いで言い直す。
「ハル姉、正気か!?!?」
「わざとらしいわね。のど元に激痛を走らせるわよ」
「やめろ! そんなことしたら死ぬに決まっているだろう!」
「だから死なないって言ってるわよね? その代わり傷口が塞がるまで首の神経が悲鳴上げ続けるけど」
「やめろ!!」
 顎は震え、歯と歯はうまくかみ合わず、単調な言葉を発するだけで精一杯だ。
「土下座する?」
「します! します!!」
「大和田常務みたいな土下座する?」
「よくわからないけどする!!」
「よくわからないのにオーケーするなんて、ナメてるの?」
 これ以上近寄る距離もなくなり、ハルはあえて視線の高さが同じになるよう膝をつく。そうすることで、刃先も喉仏に近付く。
「すみません!!」
「仕方ないわね。それじゃあ――」
 ハルは後方のキッチンの方へ顔だけを向けた。
「由記、ちょっとこっち来て」
「……はい」
 さっきから止めるべきかと心許ない表情の由記は呼びつけられて、落ち着かない動きが止まった。
「准一、『しばらくここで働かせてください』って頼みなさい。この喫茶店、見習いの子がこの前辞めちゃったから、今人手不足なんだって」
 まるで「命乞いをしろ」と拳銃を突きつけられたかのように怯えきった准一は、躊躇無く頼み込む。
「しばらくここで働かせてください!」
「土下座しろって言っただろ?」
「だからその大和田とかいう土下座が何なのかわからないんだって!」
「仕方ないわね。それじゃあ普通の土下座で」
 両腕を後ろで張られた准一は不格好になりながらも正座をし、頭を垂れた。
「ここで働かせてください!」
 無給でも構わないかのような准一の声は、あたかもドームの中で響くかのように聞こえた。
一学期の半分が終わりそうな五月のある日、准一の仕事先が決まった。

 五月九日(金)

ルームシェアをするために決められたルール。基本独り身を好む准一にとっては不都合極まりない住まい環境で、そのうえ自宅でも規則に縛られるとは、もはや牢獄同然だ。ルームシェアする人々に取ってみればごく当たり前のことかもしれないが、いままで自由気ままに生きてきた准一に取ってみれば、牢獄の喩えも大袈裟ではない。
 そんな准一はキッチンに立っている。
 そう、ルールの一つ「料理当番は日替わり」という決まりにより、准一はこれから料理をしなくてはならない。
 身震いが止まらない。
 迫ってくる巨大竜巻に足が竦んでしまったかのように、准一は何も手が付かない。
 一人硬直していると、玄関先から誰かが入ってくる音が聞こえた。
「あら准一、今日はアンタが当番だったのね。って、あら?」
 キッチン内の無音の緊急事態にハルは気が付いた。
「アンタ、どうしてまな板だけ出して、突っ立っているのよ?」
 身震いを止められないながらも無表情のまま、准一はハルの方に顔を向ける。話しかけられて反応できる術はこれだけのようだ。
「いくらコノセカイがお伽の国みたいだからって、呪文を唱えても料理は出来ないわよ」
 准一はぎこちない動きで頷いてみせる。
「理解が良いのは嬉しいけど、早く晩ご飯作ってくれるかしら? 連日図書館でリサーチしてて、食後も下調べしたいことが山積みなのよ」
 未完のアンドロイドのように、再び准一は頷く。
 一方、頭を使い続け空腹でストレスが溜まっているハルは、埒があかない状況に苛立ちを募らせる。指令を下したら、即行動。それが出来ない手下ほど、ストレスの種はない。
「こっちはおふざけに付き合っている余裕はないの」
 痺れを切らしたハルは包丁を取り出すために、シンク下の戸棚を開けた。
「料理の基本はまず食材を加工することからって、由記がよく言っているで──」
「やっ、やめろ!!」
「え、どうしたのよ?」
 准一とハルの距離が開く。あたかもハルに銃を至近距離で突き付けられたかのように。
 キッチン奥の行き止まりに追い詰められたかのような准一は、唐突にもハルに叫んだ。
「やめろ、すぐに包丁を捨てろ!」
「ひどいわね。私だってさすがに凶器を使って、人を脅さないわよ」
「いいから包丁をしまえ!」
「そんなに大声を出すと、本当に私が脅迫しているように誤解されるのだけど」
ハルは悪ふざけに付き合い切れず、激怒しそうになる。しかし、シチュエーションが修羅場みたいになり、誰かが帰宅してきたら大騒ぎになりそうだ。ハルはやや八方ふさがりな状況に陥っている。
「刃物を握ったまま動くな!」
准一の叫び声が悲鳴にも聞こえた。もしかしたら。
「もしかしたら准一、アンタ包丁が苦手なの?」
「だから刃先をこっちに向けるな!」
ハルはつい指先で指すかのように刃先を准一に向けてしまった。
「尖端恐怖症なのかしら? カラスみたいな性格なのに臆病なところがあるのね」
「うるさい! 包丁も立派な刃物なんだぞ!!」
一ミリでも刃先から離れたい准一は奥の壁に自分の身を押しつける。准一とハルの距離は二メートル弱もあるのに。
「包丁を台から落としてしまったら、それも立派な凶器なんだぞ! 足の甲に刺さったらどうする!!」
「そんなこと滅多にないわよ」
「ゼロパーセントじゃないでしょうが!」
「アンタ、怖がりすぎよ。結構臆病なところがあるね」
「喋りながら包丁を持つな! 包丁が微動するだろうが!!」
「細かい人間ね。繁殖期のカラスのように神経を尖らしすぎよ」
仕方なく包丁を置いたハルは台の上に置いてあるレシピを見る。
「一応由記が作り方を残しておいてくれたのね」
ふむふむと流し読み、頷く。
「和食料理ね。仕方ない、手伝ってあげるから今月中には包丁に慣れるのよ」

 数分後。
 なんとか揚げた鶏肉に塩を振り掛ける。目分量で。
「ハル姉、かけ過ぎ! それに砂糖のタッパーじゃないですか、それ?」
「あらヤダ。見た目がそっくりって不便ね」

 数分後。
 彩り豊かな野菜が刻まれて、台所狭しと広がる。
「も、もう包丁は使わないですよね……」
「怖がりすぎよ。まぁ、野菜の切り方にも基本というのがあるみたいだけど、食べられればイイのでしょ、料理って」

 数分後。
和え物に使う酢味噌の味見。
「ちょっと、酢が足りないわね」
「そうですか? じゃぁ、酢を足しましょう」
「ちょっと! 味見してないアンタが酢を適当に足すんじゃないわよ。入れすぎよ。今度は味噌を足さないと」
「ああ、味見は料理の基本っぽいですね。俺も少々味見を。あっ、今度は味噌が多い」

 本日の晩ご飯のメニュー、醤油の塩っぱさを消し去った竜田揚げ、火が通ってないものと焦げたり煮崩れしたりしているものが混じる温野菜サラダ、箸を潜らせないと具材が掴めないホタテとネギの酢味噌和え、それにご飯とお味噌汁を添えて完成。

 五月十日(土)

 部屋の中が散らかっている。片付けようとしても、その気力がない。
 みや子は眠れなかった。眠れないまま、夜が明けてしまった。朝が来ても、どうしても寝なくちゃと焦燥感に襲われ、ベッドから出ようとしない。
 ハルから聞いたことある。人は睡眠を取らないと死んでしまうと。一日の疲労を睡眠によって癒やすのが本来の生活サイクルなのだが、その睡眠を抜けば疲労は蓄積される。連日になれば鬱などの精神疾患を患うこともある。そうなってはいけないと思い、ベッドの中で焦燥感が積もっていく。または睡眠という誰もが出来る行為を自分は出来ず、劣等感が積もっていく。さらには回復しない体が周りの人へ悪影響を及ぼし、罪悪感も積もっていく。
「──さて!」
 みや子はベッドから飛び降りた時はお昼前。
 精神疾患を患っている皆さん、残念ながら、わたしこと結城みや子はあなたたちと縁遠い自由気ままな性格なので、皆さんのお仲間にはなれません。もしわたしが不眠症に悩まされているのなら、深夜に紅茶のクッキーを食せず、真剣にその病と向き合います。
「読み散らかしてしまったなぁ」
 そう言いながら、みや子はお菓子の小袋と共にベッド下に積まれた漫画の山を片付け始めた。山の裾には『あっちこっち』、中腹には『フルーツバスケット』、山頂には『純情ロマンチカ』と順番に積もっていった。
 漫画は平常心を失わせる。ちょっと寝る前にほのぼのとした気分を得るために手を出したのだが、本の中には憧れる学園生活が輝いていたため、全巻を読破してしまう。気がつけば日付が変わっていた。今日は登校日ではないので名作も読破しようと思い、次に手を出す。心中では「どうせ、寝落ちするだろう」と勘ぐっていたのだが、あら不思議、次も全巻読破してしまった。名作は内容も覚えているので更なる発見を見付けるために深読みしてしまう。それが睡眠の妨げになっていたのだろう。ならば濃い作品を読んで睡魔を誘うと思い、さらに手を出し、今現在に至った。
 四、五巻ほど両手で持って、トントンと机の上で整えて本棚にしまう作業をしながら、ふと気が付く。
「そういえば、お昼どうしようかな」
 カーテンの隙間から溢れる光、雪に反射されて鋭く忍び込んでいるのだが、それに気が付いていたのなら、全巻読破の中断できたであろう。みや子は改めて、机の上の置き時計を見た。実はうすうす勘づいていたのだが、時刻は正午を回っており、もう夜更かしの範疇を超えていた。
「皆さん出掛けているのかな?」
 片付けを終えたみや子はリビングを通って、冷蔵庫に向かう。リビングには誰もいなかったせいで、読書は捗ったのであろう。
 まったくもってけしからん。平日朝のリビングの喧噪さえあれば、単行本をそっと枕元に置いたのに。漫画を読み更けていたみや子は怠惰を人のせいにして、冷蔵庫の扉を開けた。
「なっ、なんと!?」
 人のせいにした罰とでもいうのか、冷蔵庫の中身はものの見事にすっからかんであった。ハルから聞いたことがあるのだが、冷蔵庫内の適度な空きスペースを作るのは省エネに繋がるらしい。だからといって、何も貯蔵しないのは冷蔵庫の存在意義を否定する。何も入っていない冷蔵庫こそ、電力の無駄だ。
 扉を閉めたみや子は膝から崩れ落ちた。
「お昼……、お昼ご飯、どうすれば……」
 ハルのように料理が苦手ではないので簡単なものなら自分でも作れるが、だからといって材料ゼロではどんなスゴ腕シェフもお手上げだ。みや子はキッチンのカウンターに手をかけ、リビングの窓を恐る恐る覗いた。
「……もちろん、今日も寒いよね」
 窓の先では、雪が絶え間なく降り注いでいた。みや子が外を望んだ瞬間だって、屋上の縁に積もった雪がガサッと落ちたところだ。積雪注意報発令中であろう。
 ハルから聞いたことあるのだが、食べ物を摂取すると内臓が活発的になり体温が上がる。その逆で空腹時の体温は平熱を下回ることがあるらしい。よって低体温のまま、食材を買うために外出するのは危険だ。これは決して大袈裟なことではない。極寒の土地では一歩の間違いが命取りとなる。あっ、もう命取られているけど。
 みや子は再び膝から崩れ落ち、仕方なく体育座りをした。だから言ったじゃないか、各々の個室に小型冷蔵庫を置くと、共有の冷蔵庫がお座なりになると。各々のデザートはみんなのもの。「おまえのものは俺のもの」と唱えたジャイアンだって、ものを共有することで育まれる絆を暗に訴えていたのである。わたしはそう信じてる。
 完全に詰んだ状態のみや子が魂の抜けたような顔をしていると、玄関扉の音がした。
「ただいまー」
 大きくも小さくもない郁の声であった。コート姿のままの郁がキッチンに入ってきた。煮詰まった時に散歩をするのが習慣と言いながら、煮詰まらないと散歩に行けないとことに気が付き、昨日愕然としていた郁だ。
「どうした? まるで苦手な数学の試験範囲を間違えて勉強してしまった時のような顔をしちゃって」
 郁は膝をつく。
「努力がすべて水の泡になった時は誰しも体育座りのまま、いじけたくなるものだよ、郁」
「努力? 何か嫌なことがあったのは察したけど、ちょっとそこ退いてくれる? 昼食作るから」
「ええ? 郁もこれからお昼ご飯?」
「そうだよ、みや子の分も作ろうか?」
 一人分にしてはやや多い食材が入ったエコバッグを持ち上げてみや子に示した。
「作ってくれるの?」
 棚ぼたである、棚ぼた!
「パスタだから簡単なものになるけど」
 出ました。簡単なものだから気にしないでというアピール。この人間の考えることはどうしてか見透かせる。
「もしかして料理がデキる男子はクールだと思ってる?」
「……嫌だな、変に勘ぐらないでよ」
「じゃあ、なんで週一でエプロンを新調しているのさ?」
 五○三号室で一番の迷惑行為をしでかしている人物をあげるとすれば、わたしか郁のどちらかであろうが、洗濯物が尋常じゃないほど多い郁は他のルームメイトから大ブーイングの空襲を受けていた。なにしろ一人で一日二回洗濯機を回すのである。アンタはレディー・ガガか。
「ほら、そこ退いて。パスタをゆでる鍋を取らせて」
 郁はコートを脱ぐ前にお湯を沸かす準備だけは済ませるようだ。
 そういえばさっきまで読んでいた漫画に友達と料理を楽しむシーンがあったなぁ。青春のあのような一ページを自分も経験してみたかった。
 友達がいる人なら家庭科の授業でその経験をしたことがあるかもしれない。もしくはクリスマスとかのイベント時にパーティーの準備で充実した時間を過ごしたかもしれない。残念ながら、生前のわたしは友達が一人もいなかった。どうしていなかったのか、それを説明してしまうと聞き手に気まずさを与えてしまうので黙秘権を主張したい。まぁ、見当が付いている人もいるかもしれないけど。
 コノセカイに来て、わたしは楽しめなかった青春をここでやり直したいという願いが潜在意識の中にあるのだろう。だからこそ、今目の前のチャンスを逃すまいと、つい気分が高揚してしまう。
「わたし、食材を切るよ!」
「え、みや子も作るの? 構わないけど切るものはハムとピーマンくらいだよ」
「チッチッチー、料理は手間をかければ良いというものではないんだよ」
「『チッチッチー』と言いながら包丁を左右に振るような人と一緒に料理はしたくないんだけど」
「料理は愛だよ、愛! ラブ、アンド、ピース」
「今の会話からピースの出所を教えて下さいませ」
 郁はすまし顔を作りながら、点火させた深鍋に塩を入れた。
 そんな料理を取りかかろうとした時、またしても玄関扉の音がした。
「ただいまー」
 今度はハルの声だった。
「牛丼買ってきたわよー」
「牛丼!?」
 ご馳走を振る舞うというハルの声を聞きつけたみや子はキッチンを飛び出した。
 すぐにありつけるファーストフードがコノセカイにもあるのが、とてもありがたい。手間暇かける料理もいいのだが、食べたい時にすぐ食べられる、その手軽さはどの世界に行っても手放せない。牛丼愛好会の皆さん、今度の生徒会選挙であなたたちに友好的な候補者に投票しますよ。心の隅で部活動認定されることを願ってますよ。
 さてさて、キッチンにはみや子に忘れ去られてしまった郁が心の中で体育座りをしていた。


 五月十一日(日)

「あんた、今日お店のシフト入っているんじゃないの」
 日曜日の午前中、リビングは落ち着いていたので、准一は早朝に流し読みした朝刊をもう一度読んでいた。
 そんな優雅な一時を真上から新聞を取り上げられた准一はコーヒーを一口含んでから、新聞を取り返す。
「シフトは午後から」
 バイトさえしたことないが、それでも准一は勤務時間を入念にチェックしてた。
「それじゃ、今暇ね?」
「全然。コノセカイについてもっと詳しくなるため勉強中だから」
「暇よね?」
 同じ質問を繰り返された。背後にいたハルは准一の顎を引っ張って、後ろを向かせた。強引に引っ張られたため、ソファーに座っていた准一は姿勢を崩された。
「コノセカイは文字を読んで本質を知るような場所じゃないのよ。文字を読みたいなら、これを読みなさい」
 顎を掴まれて顔がクシャクシャになっている准一の目の前に、ハルは一枚の紙を踊らせた。プリントアプトされた文字は横書きで書かれており、最初の見出しは「コンセプト・テーマ」と書かれている。
「プロットの感想を聞かせて欲しいわ」
「プロット? なんですか、それは?」
「小説を書く時の設計図みたいなものよ」
 言われるがままに准一はその紙を手に取った。
「小説って、ハル姉は文学少女なんですか? 外見も内面も文学少女と全く正反対なのに」
「……どういうことかしら」
「いや、気にしないで下さい」
 ハルの変な間を見逃さなかった准一は身の安全のため、早い段階で対処した。ハルという人間はどんな小言も見逃さない。自分への批評が気になるような神経質な女子には見えないが、意味を問うハルの押し迫ってくる表情に、准一は背筋が凍りかけた。
「人生って、どう生きてもやりきれないことばかりでしょ。生きていた時、『やっぱり、小説家を志していれば良かった』って何回も後悔していたのよ」
 あー、あれだ。ちょっとブログの閲覧数が多かったという理由で、新人賞に応募しちゃう女子大生の類いだ。一回りも二回りも自分を魅力的に見せようとする、あの文体。
「悪いけど、俺はやりたいことをやり尽くした人間なので共感できないです」
「そう。それは羨ましいわ」
 へぇー。羨む自分を暗に認めるあたりは、まだ救いようのある女子大生なのか、ハルは。って、コノセカイには大学などないが。
「まぁ、それでね、せっかく時間が余っている世界にいるわけだから、小説を書いてみようって一年の時に思ったの」
「学園の文芸部に所属してるのですか?」
「……してたわ」
 またしても変な間が訪れた。変な間と過去形の組み合わせは、大抵「詮索するな」という意思表示の可能性が大きい。准一が生きていた頃に身につけた洞察力はコノセカイでも、まだ鈍っていないようだ。人付き合いが比較的得意そうなハルが退部したのだとすると、その経緯は推測しにくいが。
 ただ、赤の他人が一つのコミュニティーから離脱した経緯など、准一にとって興味がないに等しい。
「どう、おもしろそう?」
 准一は早起き後の朝刊を読むように、一通り目を通す。
「おもしろそうですね」
 横書きの文字を、まるで一行の縦書きを読み終えるような早さで目を通した准一は、手短に答えた。もちろんハルはそれで満足するはずがない。
「ちゃんと読んでくれないかしら?」
「速読が得意な俺に何度読ましても感想は一緒です」
「それじゃ、どう面白いか言ってみて」
 あー、出たよ。ブログ女子の事細かく感想を求める執着心。悪質なことに、こういうタイプには咄嗟に思い付いた感想も効果ない。
「申し訳ないけど、読書は趣味じゃないので」
「新聞にだって短編とかあるじゃない?」
「新聞を全部読んで、新聞代の元を取るような貧乏人ではないので」
 准一は新聞記事の二・三行でその記事を読み進めるか判断する。。
「参考にならないわね」
 ハルは後ろからソファーの背もたれにしな垂れた。
「それじゃ、この子は魅力的?」
 腕を伸ばして、プリントの中ほどに書かれている「キャラクター」の項目を指した。どうやら、主要の登場人物を説明している箇所のようだ。
「男子の視点でヒロインが魅力的か判断して欲しいのだけど」
「魅力的だと思いますよ」
 小説をはじめドラマ、映画、演劇などの分野と疎遠な准一は全くもって迷惑な質問ばかりだった。フィクションから得られる娯楽など皆無だと、准一は考えている。「現実は小説よりも奇なり」という言葉があるように、准一の人生も魅力的だと今は思えるからだ。
「もしかして、アンタ、ゲイなの? 准一」
「はい!?」
 藪から棒の質問に准一は珍しく間抜けな声が出てしまった。
「アンタこの部屋に来た時、女子と生活することに抵抗感が全くなかったわよね? 年頃の男女は拒否反応を示すものよ。 もっとも准一はコノセカイ自体を拒否していたけど」
「年頃って、中高生じゃあるまいし」
「でも学園があるわけだから、もし私たちに年齢があるとすれば、そのくらいの年頃になるのではないかしら」
「さぁ、どうだか」
 准一は自分自身の精神年齢が生きていた頃のまま引き継がれているかのように変わっていないと思っている。確かに見た目は二十歳に達していないが、思考はアラサーを待ち望むような年齢か。
「准一、好きな女の子の好みは?」
 自分より年下なのではと疑いたくなるような質問をハルがした。
「大人しい人」
「やっぱりゲイでしょ? アンタ」
「なぜそうなる」
 今日のハルは一段と何を考えているのかわからない。
「シンプルに回答する時は答える気がないか、答え自体を持っていないかのどちらかよ、准一の場合は」
 ほう、この女子も人間観察が趣味なのか。それだけは共通の分野になりそうで、これから和気藹々と生活していくための潤滑油になることを切に願おう。
 そんな心の呟きのあと、准一はもう一度答えた。
「ナチュラルメイクで、優しい人」
「アンタ、もしかしたらお付き合いの経験がないの?」


 五月二十五日(日)

 五月だけど、コノセカイは今も冬の真っ只中。外は雪が舞い、室内の暖房をいれっぱなしに。そうしてしまうと、朝起きた時は喉がガラガラになってしまう。同じ過ちを起こさないため、昨日土曜日の夜はしっかりタイマー機能を使った。もちろん、喉の不快感はなくなるのだが、それとは引き替えに、室温が下がる。
 掛け布団と毛布に包まったみや子は何度か起きようと勇気を出したが、布団から指先を出すだけで挫折してしまい、再び眠りに入ってしまった。朝十時頃にまぁまぁ見たいテレビ番組があり、掛け布団と毛布に包まったまま丸太のように転がって、暖房が付いているリビングへ辿り着こうと目論んだ。しかし、それをすると誰かさんにこっぴどく怒られそうな気がしたので、テレビを諦めることと引き替えにまた眠ってしまった。
 時刻は正午過ぎ。
 ようやく、ベットから起きる決心が付いたみや子は、スウェット姿のままリビングに辿り着いた。終着地に辿り着いた喜びも束の間、みや子は再び愕然とした。上半身が崩れ落ちる。まるで青春をすべて受験勉強に費やしてきた東大志望の高校生が合否発表の前で、木っ端微塵にされたかのように。
 誰もいない。
 今日は日曜日だ。せっかくの休日だ。
 みや子は平日の授業中、次の休日は何をしようかと想像しながら授業を受けている。黒板を書き写すことを怠るが、そのかわりに日曜日のタイムテーブルを書いたり、事前に下調べした「一度は行ってみたいお店」を箇条書きにしたり、やりたいことを選べそうになければノート一ページ丸々利用した壮大なあみだくじを書いたりと、それはそれは多忙なのである。
 そんな何度もイメトレを重ねた休日一人で過ごすなど、クリスマスに仕事するくらい無駄遣いだ。
 よく人に言われる、みや子は一人でも十分楽しめそうな趣味を持っているじゃないと。
 確かにそれは間違いではない。クッキーと紅茶を片手にコミックをベットで読みふけるのは一人作業だ。漫画の世界観に入り込んでいる時は声をかけられても、耳に入ってこないものだ。
 しかし、それはそれ、これはこれだ。
 四月に入ってきたカラスくんとは違い、わたしは別に一人を好むような人間ではない。わたしはそういうのにもう懲りているのだから。
「ただいま」
「おおー! ハル、いいところに帰った!!」
 ハルの帰宅がまるで室内の灯りをつけるかのように、みや子は喜びながら振り返る。
「おーい、ハルハル、野球しようぜー」
「しないわよ」
「せっかくの休日なのに?」
「野球がやりたいなら、部活にでも入れば? アンタ、帰宅部なんだし」
「別に野球がしたいわけじゃないんだよ~。せっかくの休日なんだから、青春を謳歌したいのだよ」
「単に遊びたいだけでしょ」
「いやいや、公園の砂場でお城を作るような遊びと一緒にしてもらっちゃー困るよー」
「いくらなんでも、みや子の精神年齢をそこまで低く見積もっているわけじゃないのだけど……。そもそも青春を謳歌って、ただ遊ぶだけでは味気ないわよ」
「それを言わないでくれ」
「この際だからはっきり聞くけど、アンタ生前誰とも付き合ったことないでしょ?」
「だから、それ以上何も言わないでくれ」
「このままだと生前と同じことを繰り返すわよ」
「まっ、まぁ……」
 みや子は突然トーンダウンしてしまう。ハルは慌てて釈明する。
「……みや子、生前と言っても私は恋愛事情について話しているのであって、それ以外のことを追求するつもりじゃ──」
「いやいや、平気平気」
 みや子は両手を振ってみせる。
「あのう、みや子、ごめんなさい。ちょっと踏み込みすぎたわ」
「だから気にしてないって」
「そう。それならいいんだけど」
「その代わり、どっか遊びに行こう」
「残念だけど、そのお願いには答えられないわ。これから原稿に取りかかりたいから」
「みや子、もう一度拗ねます」
「わかったわよ。それじゃとっておきな事を教えるわよ」
「とっておきなこと?」
 ハルはみや子を側に寄せる。取り立てて、側に誰かいるわけでもないのに。
「恋愛事情の話しの続きなんだけど、あの子も──」


 五月二十六日(月)

 夕食の片付けが終わったのか、リビングから聞こえる陽気な声は静まっていた。みや子がお風呂に行ったのか、郁が夜の散歩に出掛けたのか、准一が自室に籠もってしまったのか、自分の部屋のカーペットの上でアイロン掛けをしている由記にはわからない。
 高層階の部屋だからレースのカーテンを掛ける心配はないと言われているのだが、さすがに一晩中オープンにしておくのは躊躇う。けれでも、今夜のように夜空に雲一つなく、暗闇の中にあるお月様を見上げながら、ゆったり過ごすのも落ち着く。冷気で澄み切った空気を切り裂きながら窓に差し込む月光を独り占めしているようで贅沢だ。
 アイロン掛けはあともう少し。みや子に頼まれていた洋服を掛ければ終わりそうだ。
「由記、入ってもイイ?」
「あっ、はい、どうぞ!」
 慌ててアイロンを置き後ろに振り返った由記は返事をした。
 部屋に入ってきたのはハルだった。
「夜分、遅くにごめんね」
「いえいえ、まだ八時半ですから大丈夫です」
「あと三十分で九時よ」
「大丈夫ですよ。最近は連日九時十五分まで起きていられますから」
「……そうなんだ」
 ハルは何か言いたそうな顔をしてしまうものの、そのままベッドに座った。
「そういえば今日みや子ちゃんが作ったホワイトシチュー、美味しかっ──」
「おのれー! あの金の亡者!!」
「はっ、はい!?」
 話が噛み合ってないことが一瞬理解できなかった。由記にできることはアイロンを持ったまま両目をただパチパチするだけ。
「聴いてよ、由記! ローレルト通りの食材問屋、急に小麦粉を値上げするって言い出すのよ!!」
「値上げですか?」
 ハルは夕方、喫茶店で使う材料の買い足しに行ってくれた。キッチンに立てないことの埋め合わせとして、店の買い物はすべてハルがやってくれていた。
「常連さんよりも高所得者を相手にしたいって、ストレートに言ってきたのよ」
 たしかだが、ハルは食材問屋の男店主と仲が悪い。水と油の関係で、由記は他のお店で仕入れても構わないと申し出たのだが、ハルは頑固に通い続けている。
「そうですか。それならばフランス産に近い他の小麦粉を探してみましょうか」
「由記、冗談じゃないわ。ここで折れたら名が廃れるわ。アイツに貧乏人のような視線を浴びせさせられた日には、もう死んだ方がましよ」
「もう死んでますが……」
「なにか打開策を考えないと──」
 どうやらハルは考え続けたまま由記の部屋にやってきたようだ。相手が由記以外なら、そもそも他人の部屋へ行くこともないらしく、由記にとってその特別扱いにされていることが少し嬉しい。みや子に言わせれば、「そんなのグチを聞くためだけの話し相手になりたくない」とのことだが、由記にとっては温かな時間だ。
「そうだ! 値上げするなら払えばいいのよ!」
「あのう、お店の資金に余裕はないのですが──」
「違う違う、由記! 稼がせるのよ!」
「……?」
 由記はまたしてもパチパチする。
「暇を持て余したあの子に稼いでもらうわ!」
 思い立ったら行動主義とはいえ、ハルには珍しく由記に説明をせず、部屋を後にした。
 由記はカーペットに座ったまま、夜空のお月様を見上げる。
 稼ぐ? 暇を持て余した? あの子?
 夜空には月光を遮る雲が見当たらない。きっと明日は晴れるだろう。


 五月二十九日(木)

 今晩は大荒れになると天気予報のアプリが知らせていたため、ハルはいつもより早く学園の図書館から帰宅した。外部要因で中断されることをひどく嫌うハルだが、手元の紙袋で許すことにした。
 何を許すか? 天気? 時間? それとも完璧にこなせない自分?
 大中小でいうと大の紙袋の中には、もぎたての林檎がいくつも入っていた。スノーム荘の階段を上がる時、ここの住人の岡本将生に出会して「よかったらどうぞ」と頂いたのだ。
 岡本はハルより一つ下なのだが、よく出来た人間だった。背丈は高いが物腰低く、誰からも好かれそうな性格。かなり少数の男子には「人垂らし」と陰口を叩かれているみたいだが、まわりはそんな陰口をたたけるのも時間の問題だと見ている。なにせ、彼を目の前にしたら、邪悪な心など消えてしまうのだから。
 その岡本なのだが、彼は園芸部に所属している。コノセカイは一年中冬なので、もちろん屋外で植物を育てることは出来ないが、その代わりに学園の奥に屋内植物園がある。内部は常に温暖で、土から生える花々はコノセカイの住人なら懐かしさを感じる。園芸部が管理をしているのだが、月曜日と木曜日の放課後は部外者にも開放している。散策できるくらいの広さがあるのだ。
 ハルはスノーム荘の五階に上がり終え、五○三号室の玄関を開ける。
 そういえば気分転換にいつか植物園へ行こうと思うのだが、ハルはなんだかんだで先延ばしにしてしまっている。切羽詰まっている証拠だろう。
 ハルは溜息を吐きながらリビングに入る。
「おお、お帰り!?」
 リビングのドアを開けると正面には、セーター姿のみや子がいた。学園に行く時はいつも着ているセーターだ。
 天井から頭を吊らされているのかと思うくらい不自然に直立したみや子が帰宅したハルを迎えた。
「ただいま。みや子、背中越しに何隠しているの?」
「さてー、何のことだかぁー」
 これまた不自然にみや子の両手は後ろにまわされている。人間は嘘をつく時、上斜めに視線を向けると言うが、それは真実から目を背けるためらしい。
「あんた、本当に嘘つくのが苦手ね」
「失礼だな。何も手順を踏まず嘘つきと決めるなんて」
「みや子」
 ハルはみや子の顔を覗き込むように顔を近づけ、適度に威圧する。
「は、はい」
「実はね──」
 季節外れの汗がみや子の額から一滴流れる。
「な、なんでしょう?」
「お土産を頂いたの。はい、取れたての林檎」
 ハルは紙袋の中から林檎を一つ取り出し、みや子はそれを受け取るために手を出す。
「おお、これはまた美味しそうな林檎で──」
 あまりにも美味しそうだったので、両手を差し出してしまう。すると、みや子の背後に水色の個体がいくつか落ちた。
「みや子、あなたの足下に落ちたのは何かしら?」
「……ははは。ただの石だよ」
「ただの石の割には、随分と形の整った石ね」
 ハルは薄いマッチ箱のような形をしたそれを拾った。
「随分と綺麗ね」
「……ははは。綺麗に見えるのは、ハルの心が汚れているからだよ」
「そう。人の心を癒やす石なのね。パワーストーンみたいなものね。お高いのでしょ?」
「……ははは。どうかなぁ……」
 頭をさすって誤魔化そうとするみや子を、ハルはさらに視線で威圧する。
「で、何かしらこれは?」
「ドミノ板です」
「ただのドミノ板じゃないわよね?」
「……すひしょうでしゅ……」
「よく聞こえないわ、みや子。はっきり言って」
「水晶です。水晶のドミノ板です」
 ハルは改めてその石を見る。確かに水晶で出来ている。四方八方に光を放つ水晶はまるで浮いているかのように眩しい。
「あんた、また無駄遣いをしたの?」
「だって、欲しい物は欲しいのだよ」
「最近、あんた部屋着はスウェットばかりじゃない? どうしてかしら?」
「どうしてでしょう?」
「市場に古着屋ができたって聞いたことあるのは私の気のせいかしら?」
「さぁ、どうでしょう?……」
 ハルは確信する。この子はきっと私服を売って水晶を買ったのだと。みや子は服装に無頓着なところがあるが、まさか衣類を犠牲にするとまではハルも考えつかなかった。ここ数日制服姿のまま部屋にいることが多いと思ったら、これが原因なのか。
 呆れて溜息が漏れる。
「仕方ないわね、あまりやりたくないけど」
 そう言いながら、ハルはホログラムを取り出し、ネット銀行のページにアクセスした。
「ハルお姉様、いったい何をされているのでしょうか……」
「あなたの口座、私が管理するわ」
「何のご冗談を。そんなことでいるわけが──」
「暗証番号は──」
 ハルはホログラム上のテンキーでゼロを四回叩いた。


 六月七日(金)

 記号の羅列が果たして将来に役立つのか疑問なので。
 算数や数学なんて、計算機の使い方を理解すれば、単位を頂くわけにはいかないか? 計算機にはよく分からないボタンがあるが、それを使わなくたって日常的な計算は行える。
「心ここにあらず、だね?」
 みや子は宿題を見てもらっている郁にシャーペンの頭で頬を押された。
「いやいやいや。ちゃっちゃと宿題を終えちゃいますか!」
「もしくはコノセカイの教育方針に不満を唱えていた?」
「え、わかった? さすが心通じているとは心の友よー!!」
「こちらこそ、わかり合えて嬉しいよ!!」
 郁もノリよく万歳をする。その大袈裟な動作でみや子の本棚から箱が落ちる。大きさはクッキーのセット箱ぐらいだろうか。
「おっと、ごめんごめん。ついはしゃぎすぎてしまった」
 そう言いながら、郁はその箱を拾い上げようと席を立った。すると、みや子が。
「とりゃっ!」
 隙を与えぬ早さで、箱を野球のベースに見立てたかのようにスライディングを決めた。郁は「え!?」と驚いている。
「さぁ郁、宿題の続きを教えてくれたまへ」
「僕、こういうゲームやってみたい」
「人の話を聞いてくれたまへ」
 みや子の問いかけをスルーしたまま、郁はその箱に興味を持ったらしく、部屋の端に飛ばされた箱を取りに行こうとする。
 しかし、その郁を追い越して、みや子はまたスライディングを決めて、そのまま箱を拾い上げた。
「こういうゲームはまだ郁には早いよ~」
「いや、コノセカイには年齢とかないから」
「もしこのゲームが男ばかりキャラだったら、どうするのかい?」
「いや、女の子ばかりだと思うけど」
 郁が指を指す先、みや子の背中越しに箱が隠された。床に落ちた時には、女の子キャラ数名と「図書館」というタイトル文字が見えてしまった。
「安心して。僕はみや子がどんなゲームをやっていようと、気にしないから」
「あはは……。むしろそこを気にするだけで済むなら、部屋でスライディングをしないよ」
「ほう、他に問題があると? みや子」
「ど、どうだろう……」
 マズい。非常にマズい。どれを参考にしたのかバレてしまう。
 今にも冷や汗が出てきそうなほど、万事休すのみや子に神様のお助けが届く。
「晩ご飯できたわよ-」
 リビングからハルの声が木霊した。
「郁、ご飯だって! 今日は和食かなー、洋食かなー」
 みや子はドアのノブを握る。
 しかし、後ろから郁がみや子の手を握る。
「僕、気になります」
 郁の顔は目を輝かせながら、近付いてくる。
「僕、こういうゲームやったことないんだけど、かなり興味ある!」
「やったことないの?」
「いや、生前の時にはやっていたような気がするんだけど、そのあたりの記憶がなくて」
「他のゲームでもイイ?」
「みや子のオススメを貸して!」

第二章 タノマレル

 永遠に雪が降り続く世界を信じ切れずに時は流れる。疑い深い准一も空を見上げる回数を意図的に減らし、疑い続けた。
 しかし、そんな頑固さも自然の斉一性には勝てない。なぜなら、暦の上では八月一日の今、上空から雪が舞ってきている。八月の気温なら雪など地上に到達する前に蒸発するはずなのに。湯煙に紛れ込みながら雪は舞い落ちる。
 そもそもコノセカイに自然の斉一性という言葉を当てはめるのも見当違いか。

 八月のバカンスと言えば、ハワイに代表されるような海水浴だろうか。 残念ながら、コノセカイに来て海を見たことがないし、そんな話を聞いたこともない。
 コノセカイの夏休みは山々に囲まれているせいで遠出もできず、学校がない日曜日を繰り替えいすような長期休暇となっていた。准一みたいに長期休暇中の特別授業を履修しているなら幾分時間をつぶせるが、だいたいの学生は暇をもてあましていた。
それは退屈なことで、そんな空っぽの夏休みを打破しようと、いつかの生徒が温泉部というものを立ち上げた。温泉同好会ではない。歴とした部である。活動内容は温泉施設を作ること。
 そんな卒業生の恩恵を准一は頂いている。八月の露天風呂で。
「勝負に勝ったのは准一だけど、宿泊費を払っているのは僕だっていうことを忘れないでよ」
「はいはい、感謝してます」
准一は湯船の脇に置いておいたタオルで一度顔を拭きながら形式だけの礼を言った。
勝負というのは二週間前の七月の出来事だった。期末試験で勝負して負け方が温泉一泊をご案内することにしていた。もちろん准一はこの勝負に乗る気がなかった。そもそも学園はすべて選択授業である。ある程度の科目を受講していた方が総合点的に有利で、同じ土俵にたっての勝負ではない。
 断ろうとした准一であったが、履修届を不正に書き換えてから成績がうなぎ登りであったため、腕試しに勝負に乗るくらいの余裕が出てきていたのだ。
「准一、一応僕のほうが年上なんだけど……」
年上の人物を口だけでなく実力でひねり潰したい、そんな強欲で満たされた准一は見事学年トップの成績で郁に勝った。
「だから感謝してますって。あーイイ湯だなー」
 力を抜いたら、ほのかにのぼせた顔は肩に倒れてしまいそうなほど、准一は極上のリラクゼーションを満喫していた。
 街並みを見下ろせるほどの高い場所に位置する露天風呂は脱衣所がどこにあるのか忘れてしまうくらい広々としていた。欧風スタイルを意識しているのか水着着用の露天風呂で、男女入り乱れる混浴は少々騒がしいが、それでも一学期の勉強疲れを癒やすことができた。
 残念なことに温泉の香り漂うこの日から、真冬の夏休みの事件が始まるのだが。

 湯冷めしない程度に休んでから、503号室に戻ったのはちょうどおやつの時間が過ぎるときだった。
「ふたりだけでずるい、ずるい!」
 准一と郁の帰宅時間をおそらく見計らっていたみや子は年甲斐もなく玄関先の床で駄々を捏ねていた。廊下を塞いでいるみや子が邪魔でリビングへ行けない。
郁はみや子の前にしゃがんで手慣れているように宥めた。
「いやいや、たまには女子だけで水入らずの時を過ごせて良かったでしょ? 二十四時間女子会みたいに」
「そんな女子会なんて開催されなかったよ。ユキキはお仕事に行っちゃうし、ハルハルは行方不明だし」
「行方不明?」
「あっ、行方不明といっても、ちゃんと書き置きはあったけどね」
 みや子は一応起き上がり、ポケットから柊の葉の形をしたメモ用紙を取り出した。そこには「いつものあれです」とだけ書かれていた。
「あー、いつものね」
「そう、いつもの」
 准一にはさっぱりわからないが、興味もないので質問もしない。
「それよりも、お土産は?」
 みや子は実物大の木彫り熊を受け取れそうなほど、大きく両手を差し出した。
「お土産? それなら温泉につかって磨きがかかった僕を見れば? 肌なんてすべすべだよ」
「磨きがかかったというより温泉の臭いがするんだけど。劣化したね、郁」
「あっ、匂いといえば」
郁は肩掛けバックを下ろして、中から何か箱を取り出した。みや子はひと嗅ぎした。
「おお! 温泉卵!?」
「わざとらしい。どうせ、かすかな匂いで気づいていたくせに」
 半笑いの郁を差し置いて、みや子は箱を持って今にでも手を出してしまいそうなほど浮かれたまま、リビングの方へ行った。リビングの手前でキッチンに入ったところを見るからに、一応温泉卵は晩ご飯に食べようとする忍耐がみや子にはあるようだ。
 廊下の通行止めが解除になったところで、准一と郁は靴を脱いだ。
「そういえば、郁宛に荷物が届いていたよ~」
 片手だけキッチンから出してこちらに振りながら、業務連絡的にみやこは伝えた。
「おお!! ついに来たな!」
 待っていましたよと言わんばかりに郁は自室へとダッシュした。リビングで右に曲がり、部屋へ続く廊下の方へ入っていた郁を見届けながら、准一は思う。騒々しい日々から解放されるために、お金を貯めて温泉で暮らそうかなと。
「あのう、斉藤君?」
「あ、ただいま」
 准一はいつも通りの素っ気ない返事を由記にする。まるで、「いつからそこにいたの?」と小馬鹿にしているかのように。
「あのう、これを。斉藤君宛に書き置きです」
「『書き置き』は用件を残しておく置き手紙のこと。普通切手が貼ってあるものを置き手紙とは言わない。アンタ、 見た目が純日本人なのにどうして日本語が変なの? もしかしてわざとやってる?」
「そんなことありません!」
 その否定を信じ切っていない准一は得心いかない顔を続けた。
「その手紙ですが、悠木君宛てでもありますので、後で見せてあげてください」
「はいはい」
 適当にあしらって、准一も自室へ行こうとした。
「おい?」
 後からパーカーの裾を捕まれた准一は冷たい面のような顔で振り向いた。
「あ、あのう、明日時間が空いてますか?」
「明日? 特に何もないが」
「そ、そうですか。それなら……」
由記は思い切りが悪い。准一はこういう数秒の間が嫌いだが、黙っている。
「もし良ければ何ですが……」
 本題に入るまで由記が何度止まっても准一は黙りを決め込むつもりだ。
「喫茶店の新メニューを考えようと思っているのですが、いつか試食してくれませんか?」
「いくら?」
「えっ?」
「いや、だから試食してもらうためのギャラ交渉」
「試食のためにお金払わなくちゃいけないのですか!?」
「冗談だけど」
「はひ?」
 気が抜けたのか由記は間抜けな声を漏らした。
「まぁ、いいや。構わないので。それじゃ」
 気が抜けた隙に裾をつかむ由記の手を外して、准一は自室に入った。

「……」
 宿泊後の荷物整理を終えてから、手紙に一応目を通してみたのだが、文章の始まりはこうだった。
 「ボーイズラブに興味ありませんか」
 手紙の差出人はどのような商品を売り込んでいるのか、見当がつかない宣伝文の入りだった。それならそれで「興味ありません」と心の中で無愛想に答えて封筒とともにゴミ箱に入れるだけなのだが、宣伝まがいの文章はそれで終わっていない。
 「私たちは清く正しBLを愛する集いです」
 勝手に自己紹介始めちゃったよ。まぁ、手紙だから当然と言えば当然だが。先に素性を明かしたところは評価してやるか。
 「ただいま、私たちは月刊誌を自費出版しています」
 掻い摘まみながら読み続ける准一は次第にゴミ箱の方へ近づく。
 「ぜひ、お二方にモデルを引き受けて頂きたいと―― 高垣燈子」
 クイズ番組の司会がタイムリミットを知らせるかのように、准一は手紙をゴミ箱に叩き付けた。
 お二方って、あいつとか? 誰が引き受けるか。
 リフレッシュしたはずの身体は直ぐさま疲労困憊になる巡り合わせの准一であった。明日は夏休み中にある週一の授業だから、体調を万全にしておきたかったのに。

 翌朝、准一は日の出の前に目が覚めた。一応温泉の効能が残っているのか目覚めがよいのであるが、こう早く起きてしまうっても用事がない。元来時間を有効活用する癖が染みついている准一は、とりあえずいつもの習慣を前倒しで行った。
 薄暗いリビングの時計を見ると四時半であり、それならばと着替えて一階のエントランスへ降りていった。新聞を取りに行って、いつも以上に隈無く目を通せば良いのだ。
 コノセカイのネット環境は十分すぎるくらい整っている。山々に囲まれている街に、どう考えてもワールドワイドな情報収集など不必要だと思うのだが、街自体は首都のように大きい。ネットもあるならあるで便利と言ったところか。
 この他にも情報ツールとして様々なものがあるのだが、その中に新聞もある。学園の新聞部というありふれた部活動が本格的に活動もとい経営している。部活というより、ほぼ企業だ。まぁ、それは他の部活にも当てはまるのかもしれないが。
 学生が書いた割には記事の内容はしっかりしている。准一は目を通すまで、「どうせ東スポのようなレベルだろ」と小馬鹿にしていたが、たまたまリビング似合った新聞を目にして、そうも馬鹿にできなくなった。
 狭い世界とはいえ社会情勢を把握する習慣を、准一はコノセカイに来てからも続けていた。
 エントランスに行くと、外からの来客を招くかのように外扉が開いた。流れ込む冷気に舌打ちをする准一だったが、その来客がちょうど新聞配達だとわかり、まぁよしとした。
「おまたせ、しあわせ、巡り合わせ、新聞でーす!」
 よくも住民への迷惑を顧みず、騒げるものだと准一は感心さえした。この新聞配達人は伊藤有栖(ありす)といい、元気痛快だけが取り柄の少女だった。新聞の束を包んだ肩掛けが大きく見えてしまうくらい低身長とボーイッシュのショートヘアーが特徴的で、いやでも一度で顔と名前が一致する。
「今日も早くも遅くもなく、定刻ぴったり配達でーす。待ちくたびれましたか? 待ちくたびれましたか? そうですか、そうですか! ささ、どうぞ」
 むしろ外からの冷気で耳の穴を閉じてしまいたい准一は、差し出された新聞を受け取った。
「今日は早い時間にお目覚めですか? 早寝早起き主義ですか? それとも眠れず夜を明かしてしまいましたか?」
 さきほどから質問を浴びせられているが、一つも答えなくても興奮が冷めない有栖は准一の顔をしたからのぞき込む。
「目の下にクマがないですね? ないですよね? ということは寝付き良好ということですね!」
 ウゼー。
 これだけ一人盛り上がっているなら、多少雑に扱っても罪悪感が生ずることもなかろう。准一は冷たい視線を返してから、上階への階段に戻った。

 リビングのカーテンを片方だけ開けて、コーヒーを用意した。今朝のコーヒーの豆はクリスタルマウンテン。苦みと酸味のとれたコーヒーで、現実の世界なら産地はジャマイカである。毎回思うのだが、この豆はいったいどこから仕入れているのだろうか?
 503号室にあるコーヒー豆の種類が豊富なのは由記のおかげだった。喫茶店を開いているせいで、店から補充してある。准一にとっては有り難いことだが、自営とはいえ店の材料を持ち出し大丈夫なのだろうか。無駄に気遣いする性格が仇となっているのが目に見えているのだが。
 そんな一ヶ月に一度するかしないかの心配事をよそに、准一は新聞に目を通し始めた。ほう、芸術の表現規制が緩和されると。
 准一は政府があるのかないのか曖昧なコノセカイに感心しながら、引き続き新聞を読み漁っていると、キッチンの灯りがついた。
「あれ、今日は朝早いのですね?」
 こちらも早起きが日課になっている由記が橙色のエプロン姿で現れた。
「お弁当作りで、ちょっと音を立てるかもしれませんが、許してください」
「はいはい」
 准一は素っ気ない返事をしたが、一つ疑問が沸いた。准一は新聞から目を離さず、一つ訊いた。
「お弁当って、いつもはカフェテリアでお昼じゃなかった?」
「え、え……。そうです」
「まさか金欠とか」
 新聞で隠していた含み笑いを惜しみもなく披露する准一。
「ひっ。金欠の何が悪いのですか!?」
「別に――」
「ちょっと新作ケーキの材料を買いすぎただけです」
 准一は心の中で報われない由記を笑っていた。
「もしよろしければ、斉藤君の分を作りましょうか? 一つ分増やしても手間は変わらないので」
「いや、結構」
 手作りよりもプロフェッショナルの味を好む准一は手短に返答した。あ、でも由記もプロフェッショナルか。お店を出しているのだから。

 そういえば、カフェテリアの食事にも飽きてきた。そんな他愛ないことを考える准一はもうすぐ授業だった。
 准一は夏期休暇中の授業なのでホームルームはなく、そのまま授業の教室へ直行した。科目名は「アメリカ経済論A+」であった。レーガン大統領時代の経済についての授業内容である。履修人数は予想通り少なく、准一の希望通りだった。
 夏期休暇だというのに、カフェテリアは休むことなく開店中らしい。おそらく部活動のためであろう。いつもの惰性でお昼ご飯をそこで済ますことになりそうだが、たまには昼休み中に街へ出てみようか。無駄な体力を使いたくなかったが、今は週一の授業なので無駄足になっても構わない。
 そんなことを考えながら、窓の外に映る白い街を見ていると、男子生徒が准一の方に寄ってきた。
「おう! 大将」
 もちろん准一は大将ではない。挨拶のつもりで肩を叩いたコイツは梅原だった。下の名前は忘れたし、覚えるつもりもない。こんなにも突き放しているのに准一に寄ってくる彼はクラスメートなのだが、まさかこの授業を本当に取るとは思わなかった。一学期の終わりに明るいノリで「おまえが受けるなら俺も受けるぜ」と言っていたのは冗談ではないようだ。
「週一だがよろしくな」
「あぁ」
 なぜ自分に近寄ってくるのかわからないが、たぶん梅原はこの授業の単位を落とすだろう。なにせ梅原の口から経済の「経」の時も聞いたことがない。
「それはそうとよ、お前、あの写真はマズくないか?」
「あの写真? なんだそりゃ」
 興味がない准一に興味を持たせようと、写真など元からなく梅原が小ネタを仕組んできたのかと思った。しかし、梅原は右手の指で空中を払いホログラムを出現させ、ドキュメント・フォルダーから何かをタップした。
「これだよ、これ。この記事」
「記事? っておい!」
 梅原が出した記事はイーストペーパーという新聞部のウェブ記事だった。資金難なのか、それとも生徒会から許可が下りないのか、残念なことに新聞の発行が許されずウェブニュースのみの非公式新聞部である。ちなみに今朝の朝刊は公式新聞部である。
 その非公式は公式に比べてゴシップ記事が多く、一般紙として発行するには問題が多い情報媒体であった。そうゴシップ記事、今まさに梅原が寄越した記事のように。
「『本日一枚』に俺の写真がなぜある!?」
 「本日の一枚」とは一枚の写真から世相をぶった切っていくという誌面コーナーで、イーストペーパーが非公式ながら発行を求められる最大の売りでもある。
「お前も隅に置けない男だな~。相手も男であるのがちょっと意外だが」
 梅原が見せた記事のタイトルは「腐女子歓喜、夏の逃避行」と題されて、露天風呂を楽しむ男二人の隠し撮り写真が掲載されていた。紛れもなく、それは自分と郁だった。
「で、交際は順調か?」
「んなわけあるか!」
 記事を奪い取って丸めて投げ捨てようとしたが、記事はホログラム上に映し出されたものなので、准一の拳はただ空気を切り裂いただけだった。
「おっと、冷静さを欠いている准一を見るのは不登校明け以来か」
 梅原の戯言の後、授業の開始チャイムが鳴った。

 午前中の授業が終わり、准一は学園の外をふらついていた。当初の予定、どこかで昼食を取るのではなく、帰宅の途についたのであるが。正午前には503号室の自室に戻ってきた。午後の授業を受ける気がなくなった。
 逃げ終えたかのように自室のベッドに身を預けた。
 水着を着用していたとはいえ、全裸と誤解されそうなアングルで撮影された写真。そこに誤報を誘発させるための記事タイトル。
 無視し続けるまでの忍耐力も持ち合わせていないので、二学期になったらまた不登校になろうか。
 そんな半分冗談半分本気のことを考えていたら、眠りの扉に吸い込まれていった。

「どこファンなんですか?」
「昔、巨人」
 准一はVIPルームで手短に答える。青山でトップクラスのキャバクラ嬢をオブジェの目的で指名しておき、152インチの4Kディスプレーで日本シリーズを観戦していた。
「はぁ……」
「退屈だったら、お酒勝手に注文していいから」
「それももう飽きました。もう少し構ってくーだーさーい」
絢爛豪華なドレスを纏った女性は溢れても気にせずドンペリをグラスに注ぎ込む。残念なことに、その悪戯も准一には構ってくれない。
「死ね」
「まぁー、物騒な大学生」
 莫大な資産を得て、金持ちが思いつきそうな遊びを一通り終えた准一はもう娯楽がなかった。もう少し人とコミュニケーションをとれれば娯楽を永遠に楽しめるのにと、相手をしている女性はたいてい思う。しかし、それを教授しても聞く耳を持たない准一。
「私、巨人嫌いなんで『読売』って言ってくれませんか」
「読売」
「あー、おもしろくなーい」
「面白いことしてあげようか」
「え、なになに?」
「この試合、楽天に勝ってほしい?」
「ええ、まあ」
 准一はIPHONEをボディーガードから受け取り、下部マイクに「十一億」と吹き込む。
 日本シリーズ第二戦、楽天の決勝点は審判の誤審で入った。
 こんなことで人を喜ばせることができるのだから、人付き合いに飽きてしまうのも時間の問題だと准一は思った。

 コノセカイの夕刻の音で目が覚める。
制服のまま寝てしまったせいで寝相が悪いままだった。眠りに落ちてもシワをつけまいとした結果、首を寝違え気味だった。
「……お、おきちゃったっ!」
「ふぁ?」
 自室だからと油断してしまい、准一は間抜けな声を出してしまった。普段昼寝などしない准一はこの睡眠で気怠くなり、細い目つきのまま百八十度見回した。するとそこには、見知らぬ女子一人が後ずさりしていた。部屋の有限も今は考える余地がないのか、一人で壁際に追いやられていた。
「けっ、けして怪しいものじゃない」
「アンタ、誰?」
 どこからか入り込んだ不審者に准一は目つき悪いまま言い放った。
「ぉ、お、お手紙を差し出したものなんだけどぉ……」
「あん、なんだって?」
 声が小さくて聞き取れないのか、それとも寝起きで意識がしっかりしてないのか、准一は聞き直した。
「そんな大きな声でしゃべらないで」
「いや、起きたばかりだから大して声大きくないけど」
「総じて男子は声が大きいから」
「はいはい。で、アンタ誰?」
「私漫画家を志しているものなんですが……」
「聞けよ、人の話」
「だめよ、燈子。ここで相手のペースに合わせたら思う壺になってしまう」
「アンタ、燈子って言うんだ」
「これが誘導尋問ね! なんて恐ろしい人」
「何の形跡もなく進入する人の方がよっぽど怖いが」
「あの、手紙も読んでいると思うので単刀直入に。BL漫画のモデルになって頂けませんか?」
「手紙って、この前のか?」
「モデルになってください」
「出て行け」
「自分で言うのも変ですが、私、男子が苦手なんです。それに免じてモデルになってください」
 ベッドから立ち上がった准一は燈子をつまみ出した。

「はふぅー、准君も料理うまくなったね」
「その呼び方をやめろ」
「わたし年上なのに威厳がないのか。せっかく手料理を褒めているのに」
「うまくなるのは当然。一流のシェフが作った料理だけを食べて舌が肥えているので」
 忌々しい夕方の出来事を片付けた准一は週に一度か二度の料理当番に取りかかった。予定が五分遅れだったので、買い物を早足で済ませ、昨晩に下ごしらえした食材と併せて調理を終えた。
「このホワイトシチュー、わたしで作るのは不可能です」
「遠藤さん、また日本語が変だけど」
 せっかく褒めてもらったが妙な間違いをされて、准一は何ともいえない気分になっていた。
「それよりも准一、部屋に誰かいなかったかしら」
 由記の隣に座るハルが口を挟んだ。
「いたね。子ネズミが一匹」
「失礼ね、ネズミをあえて子ネズミと言うことで少しばかりの気遣いをしているつもりかもしれないけど、女子のことをネズミという次点で失礼よ」
「准一、女子を部屋に招いたのかい。僕というものがありながら」
 准一の隣に座る郁は芝居っぽくスプーンを落とした。シチューが飛び散らないよう、別の皿の上に落とすのは少しばかり気配りだろう。
「郁は誤解を生むようなことを言うな」
「え、僕と一緒に温泉に行ったのはそういうことじゃなかったの?」
「アンタが勝負事を申し込んできたんだろうが」
 食事だというのに、准一は気が休まらない。
「それで准一、断ったのね、燈子ちゃんを」
 ハルが言った後に、今度はみや子が口を挟んだ。
「じゅ、准君、女子を招いたの!? わたしというものがありながら」
「みや子は一番何もないよ。三次元の天然はウザいだけという言葉が一番当てはまっているからね」
 准一は同じようなボケでも似たような返しをするような柔な人間ではなかった。
「で、ハル姉はなぜその燈子とやら人を知っている?」
「簡単よ。わたしが招き入れたのだから」
「ああ、通りで」
 これで謎が一つ解けた。あんなに男子が苦手そうな女子が一人で男の部屋にいるはずがない。入るにはそれ相当の理由か誰かの手助けがあったに違いないと踏んでいた。
「准一、引き受けなさい。モデルを」
「はい? なにゆえ?」
「あの子はわたしのクラスメートで一年の時からの顔見知りだからよく知っているのよ。ちょっと変わったところがあるけど、自分の漫画を描くことに関しての情熱は誰にも負けてない。履修科目だって美術系の科目しか取ってない。この音楽バカの郁だって一応音楽以外の科目も履修して保険を掛けているのに、燈子は何のリスクも顧みてないわ」
「バカだね」
「確かにそうかもね。でも燈子が即売会で毎年発表している漫画を見れば、そうも言っていられないわ」
「人様に迷惑掛けてまですることか」
「そう言うけど、あの子は後輩の面倒見がいい。下の階で後輩たちをアシスタントとして一緒に暮らしているのよ」
「このアパートメントの住人だったのか」
「執筆ばかりで籠もることが多いから内部ですれ違うこともないかもね。でも燈子はあなたのことを一度だけ見かけたことがあって、4月から何度も相談を持ちかけられたのよ。准一をモデルにしたいって」
「モデル業には興味ないので。特にBLには興味ないので」
「そうでしょうね。私もそういう申し出は自分でするべきって何度も説得して、本人も何度かここの玄関まで来たみたいなんだけど、結局無理だったみたいで、それで今日のようなことになったの」
「『なったの』じゃない。こっちはこっちで事件に巻き込まれて忙しいんだ」
「ごちそうさまー。ちょっと量が多くて残しちゃった、ごめん」
 完食が取り柄のみや子が席を立った。
「また私の言うことを聞かないつもりかしら」
 ハルは声色を一段階暗くして言い放った。
「おい、ちょっと待てって。今回に関してはさすがに荷が重すぎる」
「私の言うことを聞かないつもり?」
 郁も席を立った。飲み物を取りに行こうとしているが、明らかにキッチンを素通りしようとしている。
「こんだけ学生が溢れた街なんだから、俺にそっくりな男子なんて一人や二人いるって」
「言うことを聞かないつもり?」
「それじゃ、一歩譲って俺がそっくりな男子をあてがうから」
「聞かないつもり?」

 四ヶ月前に登っていた街中の坂道を今は降りてきた。積雪がこれから始まりそうな空模様の下で。
 准一が由記の喫茶店に入る時も入り口のベルが鳴る。
「美味です! 美味です!! やっぱりここのケーキは噂以上に美味しい。このミルフィーユ、メニューに加えるべきだよ」
「あ、ありがとうございます」
「砂糖菓子のように香ばしいパイ生地とレモン風味の生クリームの組み合わせ、イケるよ! イケるよ!!」
「あ、はい、ありがとうございます」
「ミルフィーユはなんて言ったって、『対比』だよ。パイのサクサク具合とクリームの柔らかさ、これを一緒に口へ運べば誰でも幸せになれる」
「ありがとうございます……。あ、斉藤君も来ましたね。試食しますか?」
 燈子に圧倒されていた由記はようやく准一の入店に気がついた。
「いや、この人の用を済ませに来ただけだから」
「そ、そうですよね」
 そういえば、試食を頼まれていたんだっけ。
「用件が済んだら、俺にもこのミルフィーユを頼む」
「は、はい」
 由記の表情が晴れ晴れとなった。
「あれ、遠藤さん、どなたか来店ですか――、って、この人!? ひっー」
 今更かよ、と思うくらい燈子は准一から距離をできる限り取るため席から離れた。ケーキがのったお皿とフォークを持ったまま逃げたのが何ともあざとい。
「あのー、俺なんだか恐れられているみたいなんで、帰ってもいいですか?」
「だめですよ!」
 引き返そうとする准一の袖を由記はしっかり掴んでどうにか引き留めようとした。
「協力するって昨日柚野さんに言ったじゃないですか」
「確かに言ったけど、打ち合わせすらできないなら、いても意味ないし」
 ジト目で准一は燈子の方を見下ろした。当の本人は視線を遮るかのように顔の目のまで両手を振っていた。
「そ、そんなに怒らないで」
「別に怒ってないけど」
「距離を5メートル取ってくれれば大丈夫だから」
 五メートル離れろって、もしここが学園なら勉学に支障を来すのでは。
「俺はこれから処理される爆弾かよ」
「ほら斉藤君、文句を言わずこちらの席に」
 そのまま由記は准一を隅の席の方へ引っ張った。
「それでは始めましょ」
「よ、よろしく」
 本来このミーティングの中心となる燈子は覚束ない。
「あ、あのう。安心して。脱ぐとかそういうのは求めてないから」
「俺はアンタの挙動不審な姿に安心できません」
「もちろん、接吻とかの類いも求めてないから」
「どうして、こうも話がつながらないのだろう」
「モデルをお願いしたのだけど、特にすることはないから安心して」
「はい? よく意味がわからないんだけど」
「だから自然体でお願いってこと。日常の君を写真に納めて参考資料にするだけだから」
「俺はてっきり撮影スタジオに入ってフラッシュを浴びるようなことを想像していたのですが」
「そういうポーズは美術資料として図書館にあるから大丈夫。ただ……」
「なんですか?」
「外を歩くときは郁君とできるだけ二人でお願い」
「外を出歩くって、今は夏休みだから週一でしか学園に行かないですが」
「それで大丈夫! あと肖像権とかきにする? 一応売り物にしようかなって」「モザイク掛けてください」
「漫画に全編モザイクなんてできないよ!」

 一週間後、朝八時の十字路で准一は腕時計をチェックする。
「おまたせー」
「いや、待ってないよ」
 准一は郁に心のこもっていない声、もとい乗り切れてない声で返した。
「おお、准一、その腕時計おしゃれだね~。新しく買ったの?」
「郁、アンタ、腕時計なんて古臭いってこの前馬鹿にしていましたよね」
 コノセカイでは何をするにもホログラムが中心的なので、腕時計をするのはおしゃれか、もしくはホログラムを使いこなせないアナログ人間のためのものだ。郁は未だに准一がホログラムを使いこなせてない頃のことをネタにして冗談を言うことがある。
「いまはキミもボクもキャラが違うの。それじゃ行こ!」
「どうして郁は乗る気満々なんだか……」
 たしか郁は夏休みの授業を取っていない。
ご機嫌なままの郁に引っ張られながら准一は学校に向かった。気のせいかカメラのシャッター音が聞こえたような気がする。たぶん撮影されているんだろう。

 慣れないことをしているせいか、授業に集中できないのは言うまでもなかった。リーマン・ショック前の金融商品を中心に学ぶ「現代アメリカ経済論A」の夏期講義は准一の中でもかなり期待していたものだった。
 念入りに予習を済ませて講義に臨んだのだが、単位を望まなければ講義を聴くことが可能という、まるで大学ような授業システムにお世話になった郁が、終始准一の隣で授業に参加していた。いや参加していたというよりも、邪魔していたといった方が正確だろう。自分のノートの隅に「今日の晩ご飯は何にする? お風呂にする? それとも僕にする?」と書き留めてきたときは、本当に首を絞めてやろうかと苛立った。
 その苛立ちは午前の授業が終わった瞬間に屋上までダッシュして気分転換で掻き消そうと思い、准一は空中庭園のように整備された屋上へとやってきた。残念ながら、八月というのに頬に突き刺さる空気は氷のようで、むしろ苛立ちが募るばかりだ。
 その募る苛立ちの上に、雪が舞い降りるかのように新しい苛立ちか募る。
「お弁当にする? 雪合戦にする? それとも僕にする?」
 郁はカフェテリアで食事を済ませると思ったが、准一の考えは甘く、どうやら郁はお弁当を用意してきたらしい。このひとときの間にも、遠くからカメラのシャッター音が聞こえる。
「あのー、演じるとはいえ、やり過ぎて小道具を用意してしまうのは寒いです」
 准一の冷め切った態度に構うことなく、郁は屋上のベンチの真ん中に保温機能付きランチジャーを開けていく。油断したら寒さで歯が震えてしまいそうな准一はコンソメをきかせたスープの匂いに囚われてしまいそうで、ベンチとは逆の方向、待ちを見下ろせる方角を向いたままにしていた。
「べ、別に准一のために作ってきたんじゃないんだからなね」
 不機嫌の表情を作った郁は、スプーンとフォークを准一の視界の前につきだした。
「俺が愛情弁当に歓喜しているような演出をするな」
「ごめん、今日は洋食メニューだから、お箸は用意していないんだ」
「いつ誰が弁当の中身に苦言を呈した!?」

 午後の授業が終わった後二時半頃、准一のもとにメッセージが届いていた。送り元は由記で内容は、「今市場で買い物をして店に向かうところなので音もしてもいいですか?」とのことだった。そういえば、今日の夕方は由記の喫茶店で店番の予定が入っていた。
 特に断る理由もない准一は校門の前で由記を待っていた。
「すいませんー」
 待ち合わせ時間前だというのに律儀に謝る主は由記だった。小麦粉の大袋を抱えながら、こちらへ掛けてきた。
「すみません、待てましたか?」
「それを言うなら、『待ちましたか?』。ほら、行きましょ」
 准一は業務的言葉を並べた。
「それ、昨日言っていた小麦粉でしょ? 持とうか?」
「はい、北海道産の小麦粉です。それほど重くもないので大丈夫です」
「あっそ。じゃぁ、行こう」
 准一と由記は喫茶店に向かうため、トレボロ市場の方へ坂を下りていこうとした。
 そんなときに第三者の声が鳴り響く。
「ちょっと待ったー!」
 その第三者は昇降口から一直線に走りかけてくる郁だった。
「ちっ、さっきうまく撒いたと思ったのに」
「? 斉藤君、何か言いましたか?」
「いや別に」
 准一は昼休みの経験を生かし、午後の授業が終わったら、自分の行方をくらまそうとした。残念ながら郁はついてきたのだが。
「キミが選ぶべきに人は由記ではない、この僕だ!
 郁は傍からの視線に構うことなく吠えて、准一をひっぱって、どこかへ連れて行こうとする。もちろん准一はそれに構っていられない。

 准一にとって苦痛の日々が数日続いた。

 店を閉じて晩ご飯までの時間、由記が後片付けをし、准一は頼まれていた試食をしながら、最近の不満を漏らす。
「はぁー。なぜ郁がBLのモデルにノリノリなのか、俺にはわからない。理解ができない」
「参っているようですね」
 由記はキッチンを布巾で磨いていた。
「やっぱり、今からでも断りを入れてみてはいかがでしょうか?」
「断れるものなら断りたいが、ハル姉がそれを許すとはそれこそ考えられない。あー、一掃のこと薄着のまま外出して凍え死んでしまいたい」
 准一は一口サイズにしたレモンアップルパイを口に運びながら言った。頬杖をつきながら横目で見る屋外は街灯だけの明かりに照らされて雪が舞っている。
「これも流行だから仕方ないですよ。時が過ぎれば、落ち着くでしょう」
「流行? なにそれ??」
「ご存じじゃなかったですか? BL漫画が売れきれになるほど、大ブームらしいですよ。表現の規制緩和で店頭に並べる書店が増えたことも、その流行に拍車を掛けているみたいです」
「拍車ねー」
「今度試しに買ってみてはいかがですか? 面白いかもしれませんよ」
「リアルでBLを体験しているから、漫画は結構」
「あ、そうでしたね」
「でもこのブームはすごいですよ。なにしろ斉藤君みたいなモデルだけで生計を立てられるくらいの男子もいるみたいですからね」
「カリスマモデルとでも? それは滑稽だな」
「サイン会を開けば大行列、街中に姿を現せば大パニック。まさにアイドルですね」
「ふーん」
「この前なんて、握手会の整理券がネットオークションで高値をつけてましたよ。わたしにはとても手が出せないほどの高値で、がっかりです」
「ふーん」
「お忍びで、このお店に立ち寄らないでしょうかね?」
「ふーん」

 帰宅して晩ご飯を済ませて、准一はリビングで夕刊を読んでいた。
 そんな時間をもてあましている准一に郁が力説する。
「きみ! 負けてもいいのかね! この腐女子を騒がしている奴らに」
 郁はホログラムに叩き出した美形な男子のペア画像を准一に見せた。
「多少負けず嫌いな性分は自分でも認めるが、全くの専門外な勝負には興味ないです」
「まったく、どんな勝負事でも手を抜いたら男が廃れるというものだよ」
「生憎ですが廃れて結構」
「この二人のように名声を得られれば、モデル料として稼ぎができるんだよ。お金持ちになりたくないのかい?」
「アンタ、お金も目的でのりが良かったのか?」
「もち」
 当然だと言わんばかり表情に、もはや准一は項垂れた。
「残念ですが、興味ない」
「大金も名誉もいらないというのかね、准一は?」
「興味ない」
「あー!!」
 郁は大袈裟と思えるほど、頭を抱えて打ち拉がれた。
 そんな温度差のあるやりとりの中、夕食をパスして「即売会」というよくわかない場所に行っていたみや子が帰宅した。
「ただいま! あれ、夫婦喧嘩? 夫婦漫才?」
「ちげーよ! さすがにコノセカイでは性別までカスタマイズできないだろうが!!」
「冗談だよ、冗談。落ち着いてよ、准一」
 新聞から得た内容が外の寒空に飛んで行ってしまいそうなほど、准一は辟易としていた。これなら自室で読んでいるべきだった。
「いやー、今日の戦利品に大満足だね。今やプロもアマチュアもレベルが高くて惚れ惚れするよ」
 みや子は両手に下げていた無数のカラフルなビニール袋からいくつか漫画を取り出した。
「私もこういうものを作ってみようかなぁ~」
 漫画で頬ずりするみや子はご満足のようだ。

 高垣燈子はコノセカイに来て一番の上機嫌である。作った漫画は他が羨むほどの早さで完売し、漫画家を志す人間として励みになった。
「やっぱりアートって、自己満足でとどめておくには勿体ないものだよ。昨日からひっきりなしに届く感想メールに酔いしれているこの瞬間、もう少し続かないかな」
「それはよかったですね」
 燈子は甘いココアを喫茶店のテーブルで頂いている。テーブルには由記に注文したケーキが面里と並べられている。
「それがね、売れっ子の悩みというかね、仕事のオファーまで来るようになっちゃって。これは学校に行けないな~」
「仕事と学業を両立させないと駄目ですよ」
「そうだよね~。仕事で大金を得るのもいいけど、単位を落としたら元も子もないからね」
「はい、その通りです」
「スケジュールを自動で管理してくれるアプリでもインストールしようかな~」
 燈子はホログラムを出現させ、アプリ・ストアー内をスクロールさせた。
 そんなときに本日勤務日の准一が店に入ってきた。
「天狗になるのはいいですけど、もうモデルはこりごりですからね」
「うわぁー!」
 男子が苦手な燈子は准一が突然現れて驚いてしまい、椅子から転げ落ちそうになった。
「それからその男性が苦手なところ、克服するのが先だと思いますよ」
 准一は横目で見やりながら、キッチン奥の方へ一度行きエプロンを着た。
「斉藤君、人にはそれぞれ苦手なものがあります。苦手なところもその人の個性です」
「はいはい、ちょっと言い過ぎましたよー。それで今日も注文取りと食器洗いをやればいいですか?」
「……。はいお願いします!」
「なぜ怒るんだか」
 取り立てて気にしてはいないけど、キッチンの方へ入っていく由記を准一は見送った。
「ところで准一君」
 准一と距離があるというのに、耳打ちするような仕草で燈子は呼んだ。
「実は頼み事があるんだけど」
「もうモデルの件は終わりましたよね」
「いや、そうじゃなくて。ちょっとこれを見て」
 燈子が見ていたホログラムは空中を滑って、准一のところに飛んだ。准一は反応良く片手でキャッチする。
 ホログラムには何かの受信フォルダの内部が表示されていた。
「実はそれ、依頼のメールなんだよ」
「ほう、良かったじゃないですか。本当に仕事が増えて。ちょっと見栄を張っていたのではないかと思っていましたよ」
「いや、それ依頼は依頼でも仕事ではないんだ」
「ほう、というと?」
「准一君のモデルを依頼したいので、私が仲介をしてくれないかという内容」
「断る」

 それからというものの頼みと断りの攻防が続き、ようやく観念した燈子は「考えておいて」と灰色決着を勝手につけ、寒空の下帰って行った。
 店内は次の客が来るまで静まりかえっている。
「やりたくないですよね」
 由記が一声掛ける。
「もちろん。だけど今までの経験から言ってそう簡単に断るだけで終わらないんだが」
「柚野さんですね」
「そう。さっきのことがハル姉の耳に入ったら、俺はまた借り出される」
「あのー、柚野さんに無理じしないよう、私からお願いしましょうか?」

 仕事が終わり先に帰宅した准一はスノドム荘の一階ポストを見に行った。
「嫌な予感しかしない」
 503号室のポストには准一宛ての手紙が入っていた。メールのやり取りが主流なコノセカイにおいて、ただでさえ人付き合いが少ない准一に手紙が届くなんて珍しすぎる。珍しすぎるからこそ、勘ぐってしまう。
 准一はいてもたっていられず、ポストの前で封を開けた。
 「もしモデルの依頼を断れば、週刊誌部に『この漫画はノンフィクション』という情報を流します」。
 准一は出来ることならその場で崩れるように座り込みたかった。

 その後、准一と郁は延長一ヶ月のモデル業を続け、大金を得ることになった。郁は自室を大改造し、准一もお金に困ることなくなったので喫茶店で働くのを辞めようと思った。しかし、残念なことに辞職を許さないハルによって、准一は今日もオーダーを取り続けている。

第三章 アコガレル

 月日が経ち、二学期の始業式を終えた日。
 残暑に溜息つきながら登下校するのが現実世界の一般的とするならば、コノセカイは白い息を吐きながらマフラーに顔を埋めて始業式を迎えるのが一般的だった。それもそのはず、絶えず雪が降り続く季節だけの世界なのだから。
 始業式と言ってもコノセカイの場合は、大人気の生徒会の演説を楽しむだけなのだから、校長の長話を聞くような苦痛はない。それにより出席も強制ではない始業式も生徒が登校したがる。
 しかし、そんな盛り上がる学園にそっぽを向きたがる人もいる。それはアノセカイでもコノセカイでも同じことだろう。
 准一もそのそっぽを向きたがる種族であった。
 成績に関係ない行事は無視をする准一は今日学校へ行かず、由記の喫茶店でリフォームの手伝いをしていた。
 学校へ行かないのだからゆっくり休みたいのは当然なのだが、そうもいかないのがコノセカイ。今朝、准一が学校を休むことを知ったハルが、「それじゃぁ、暇なのね」の一言で手伝いに借り出されたのだ。
 そもそもこのリフォーム代だって、准一が先日得たお金で払っているのだ。どういう経緯で払わされているのかは、思い出したくもない。
「よそ見しながら電球を取り付けていると、怪我するわよ」
 手元をまったく見ずに電球をつける准一は脚立の上で溜息を吐き続けていた。
「由記のために学校を休んで手伝っていることを感心していたのに、覇気がないわね」
「俺が自発的に手伝っているような話にすり替えないでください」
「そんなこと言っちゃってー。素直じゃないんだから」
「強制労働をさせておいて、その上俺をツンデレに仕立て上げるつもりですか? こんなことなら学園に行くべきだった」
「そういえば、学園にはさすがに慣れたわよね? 八月も何回か特別講習があったみたいだし」
「あの、俺ってそんなに新しい環境に適合しなさそうな人間に見える? もう五ヶ月以上経っているのですが」
「アンタ、不器用そうじゃない」
「そう」
 准一は自分のことを何でもそつなく熟せる人間だと思っている。
「部活でもうまくやっているの?」
「生憎スピードスケート部は体育会系の団体ではないので」
「先輩がタバコを咥えたら、後輩はライターを瞬時に出さなくちゃいけないの?」
「だから体育会系じゃないって、さっきから言ってますよね?」
「アンタは一度上下関係に厳しい部活でしつけられた方が、今後のためになるわよ」
「承知しました。心得ておきます」
 准一はこれ以上話していても何も得になることはない。小説家なら、もうちょっと聞き応えのあるトークができないのか。
准一は目の前の作業に集中しようとした。
「きゃっ」
 そんな時、今朝搬入した新調の椅子を濡れ雑巾で拭いていた由記が小さい悲鳴を上げた。どうやら、足下のバケツを蹴ってしまったようだ。
「あらまぁ、このままだと新しい絨毯をひけなくなってしまうわ」
ちなみにだが、由記は今日のリフォームのために始業式を欠席した。全くもって生真面目な人間だ。
「准一、モップを取ってきてちょうだい」
「自分で行けよ、こっちは脚立で作業をしているのに」
「何か言ったかしら、准一?」
 ハルは准一を見上げながら、脚立の柱を鷲づかみした。その手で今にも揺すってやろうと言いたげな表情で見上げている。
「わかった、わかったです!! 了解!!」
 准一はそそくさと降参して、モップを取りに行った。
 たしかモップはキッチン奥の階段裏にあった。准一は乾いたモップを選んで持ち出す。
 そんな時、開店していない店のドアベルが鳴る。
「気のある素振りを見せておいて、何も言わずに去る男は臆病者です、チキンです、ガラスの少年です! ふぇーん」
 まるでいじめられっ子にいじめられて泣きながら帰ってきたかのような登場をしたのは伊藤有栖だった。准一は有栖が新聞配達しているときにバッティングしているが、二回目以降は黙りを決め込んでいたため、会話はほぼしたことがない。
「どうしたのですか? 有栖さん??」
 珍しく由記が下の名前で人を呼んだ。親友なのか、一年の頃からの知り合いなのだろうか、それとも百合的な関係なのか。
 最近、准一にとって未知な世界に踏み込んでしまい、今まで思いつかなかった冗談を心の中だけで准一は披露した。
「始業式で何かあったのですか? もしかしましたら、履修の抽選に落ちてしまったのですか?」
 コノセカイの授業はすべて選択授業だ。そのため各学期が始まる一週間前に履修届を提出するのだが、なかには抽選によって授業を受けられないことがある。つまり生徒に人気がある授業と言うことだ。それは授業内容が面白かったり、得られる能力が魅力だったり、はたまた単位が取りやすかったりと、人気の理由は様々である。
 ちなみに履修届けは二次もあるので、もし抽選が落ちた場合はそこで単位を補填できるよう他の授業を履修することも出来る。
「くすん、授業が無くなっちゃった」
 由記にしがみつきながら泣いている有栖はリフォーム中の店内を気にしていないようだ。
「無くなったということは、やはり抽選に落ちたということですか?」
「そうじゃないんだよ、もっと大変なこと」
「もっと大変ですか? まさかすべて抽選になりそうな授業を届け出て、全部落ちてしまったのですか!? それは大変です!!」
 それは災難だな。准一はモップで床を拭きながら一応気にはとめていた。
 郁などから聞いた話によると、二次に履修できる授業は結局のところ余り物ばかりらしい。要は不人気な授業の定員割れを防ぐための措置でもある。つまり、有栖は不人気の授業ばかりを二学期の間受け続けなくてはならないのか。
「ちがう、ちがうの。そうじゃなくて」
 有栖は一度自分の袖で涙を拭い、しゃっくりを押さえようと息を飲んだ。
「久城先生の授業がなくなっちゃたんだよ」
「久城先生?」
 思いもよらぬ返答に由記は目を数回瞬きした。
その名前、どこかで聞いたような? 准一は二、三秒だけ考えてみた。
「えっと、どなた様ですか? その久城先生は?」
「それは……、数学の教師、そう、数学の教師なんだ」
「数学教師の久城先生の授業がなくなってしまったのですね? それは残念ですね」
 由記は有栖を慰めるかのように頭をさすり続けていた。
 教師も生徒が担っている特殊な世界、コノセカイ。実は教師の都合で授業がなくなることは結構な頻度で起きる。責任感が薄い学生が教師をやることで起きる弊害の一部とでもいえようか。始業式当日に授業の白紙が発表されたということは、なおさら教師の都合で中止になったことがうかがえる。
「無くなっただけじゃないんだよ。行方不明なんだよ。久城先生が?」
「行方不明? この街でですか?」
「そうなの! 授業がなくなったのを知ってびっくりしたから、久城先生に電話してみたの? そしたら『この番号は使われてない』ってアナウンスされて……」
 そういえば。准一はあることを思い出した。
「俺、その人夏休み中に会ったことあるかも。確か部活で」
「あ、あのう、キミはもしかしてスピードスケート部所属?」
「はい、そうです。たしか久城さんって、万年補欠って聞いたような」
「久城先生を見かけたのですね!? いつ? どこで? 何をしていた??

「いや、たしか八月の初めに見かけたのが最後ですが。連絡先、入っていたかな――」
 准一は冷たい人間と指摘されないように、ホログラムを出して電話帳を開いた。
「八月の初め――。もうだめかも……」
「有栖さん!!」
 急に力が抜けたかのように、有栖は床に崩れ落ちた。数秒遅れて、返事代わりのおなかの音が店内で淋しく聞こえた。

「どうして、人助けが立て続けに起きるかな」
 准一は文句を並べながら、雪が舞う街路を由記とともに歩いて行く。
「斉藤さん、助けを求める人がいましたら、見捨ててはいけないのです」
「生憎、慈善事業には興味を持ちたくないので。だいたいどうして俺がどうして付き添わなくちゃならないでしょうね。ただ住所を調べただけなのに」
「すみません。初めての場所は苦手なので、付いてきてください」
「俺だって初めてです」
 准一は手元に表示させた久城のプロフィール写真を眺めながら言った。
「すみません」
 由記は縮こまってしまった。

 学園を通り過ぎて大通り沿いを渡り、公園の裏手に久城の住まいがあった。建物の大きさの割には部屋数が多いアパートメントで四階建てだ。一人暮らしようの部屋なのであろうか。
 准一は今一度ホログラムを表示させ、部屋番号を確認した。
「二〇三号室か」
 ほの暗いエントランスを見渡すと、奥に階段があった。

 ちょうどお昼ご飯の時間だというのに、物静かすぎるアパートメントだった。これが一人暮らし物件の特徴なのであろうか。准一は密かに羨ましく思った。
「あ、あのう……」
「はいはい、呼び鈴を鳴らしますよ」
 准一は面倒に思いながらもインターホンを鳴らした。
 しかし、相手が出ない。
「はい、調査結果。行方不明確定」
 呼び鈴を一度だけ鳴らした手を即座に上着のポケットに仕舞い込んだ准一は右回りをして引き返そうとした。
「斉藤君、これは!?」
 由記が目にしている先には、郵便物で溢れかえっているポストがあった。一人暮らしようの物件なのにポストが自宅玄関に備わっているなんて、セキュリティーが甘くないか?
「郵便物が貯まっているのは、帰宅していない証拠。定番ですね」
「いえ、そうではなくて、この手紙――」
 溢れた郵便物の中で今にも落ちてしまいそうな封筒を、由記は取ろうか取らないか迷っていた。
「この手紙、成績表ですよ」
「え? 成績表??」
 教師とはいえ、それと同時に学生でもあるのがコノセカイの特徴。教師の下に成績表が送られてきても何の不思議でもないか。
 准一は久城の成績表をお構いなく手に取る。
「ちょっと、斉藤君! プライバシー侵害ですよ!」
「安心してください。封筒を開けたりはしないから」
 大型封筒をひっくり返してみると、確かに送付元の学園の住所が記載されていた。中身の紙を折れない程度に曲げてみたが、その紙はおそらくケント紙の書類だ。まぁ、成績表で間違いないだろう。
「こんな大事なものをポストに入れたままにするなんて」
 学園の成績発表は学年末に通知されるが、そのあとの追試や修正などにより、成績表が手元に送られてくるの新学期前であった。つまり、それが成績の正式発表となるのだ。
「もしかしましたら、久城さんは消えてしまったのかもしれません」
「消える? コノセカイから消えるということ?」
「はい。学園の七不思議として聞いたことがあるのですが、成績がとても悪い生徒はコノセカイから消えてしまうらしいのです」
「でも、コノセカイは死ぬことがない街だって、ハル姉からしつこく聞かされましたが」
「そうなんです。死ぬことはないのです。実はその噂、続きがありまして――」
 由記は一瞬言うのを躊躇った。
「本当は死ぬことがあり得るのであって、消えた人間のことは皆忘れてしまっているというのです。消えた人間の記憶が消されてしまっていると」
「記憶操作が行われているというのですか?」
「信じたくありませんが……」
 由記は目の前の出来事に怯えていた。

「それはないわ」
 准一と由記が喫茶店に帰ってくると、ハルはリフォームの続きをしていた。
 一方、有栖は食後の一眠りをしていた。全くもって呑気な人間だ。
「でも、記憶を消すことならコノセカイの誰かが出来そうです」
 これも珍しく、由記はハルに反論した。
「記憶操作をできる人間はいるかもしれないけど、そうね――」
 一度作業を止めたハルは脚立から降りて、自分の鞄が置いてあるテーブルに寄った。
 鞄の中から何かを取り出す。
「これを見てみなさい:
 ハルは准一と由記に一枚の書類を渡した。
 書類には「通知」と書いてあり――。
「それは留年通知書」
「留年と言うことは、もう一度同じ学年を過ごさなくてはならないということですか?」
「そうよ。あまりにもひどい成績だと、一年間に取得した単位が没収されて、もう一度同じ学年をしなくてはならないの」
 ハルは由記から通知書を戻してもらう。
「そうなのですか」
「いや、二年の遠藤さんが学園の進級制度を知らないのですか」
「すみません。わたし、単位の心配は日本語の授業だけだったので……」
「あー、そういうこと」
 そういえば、学園案内のパンフレットを一通り読んだ自分も忘れていた。そもそも豊富な授業数から好きなように履修して、単位を落としてしまうなんて、
准一には考えられなかった。よって、自分には関係なさそうな箇所の記憶は無意識に消していたのだ。
「それでは、人が消えるという噂は……」
「去年の文化祭で、ミステリー研究会が出版した冊子の一部よ。その内容は」
「あのう、伺うのも失礼かもしれませんが、柚野さんは留年されたのですか?」
「ああ、この通知表はみや子のよ」
 店内は有栖の寝息だけが静かに響き渡っていた。
 そんな静寂を乱すかのように、入り口のベルを鳴らす者が二人現れた。
「いやー、夏休みを一日追加みたいに始業式をサボっちゃうなんて、ワルですね~、郁」
「いやー、貸し切り状態のゲレンデは最高でしたね~、みや子」
 まるでコントの始まりかのように、みや子と郁が店内に入ってきた。今日から二学期だというのに、格好が思いっきり冬季レジャーの風貌である。
「アンタたち、完全に夏休みボケが抜けてないわね」
 ハルは呆れていた。
「明日から本気を出すのであります」
「僕たち、本気を出すと凄いであります」
 二人はそろってハルに敬礼をするが、ハルは言葉も出ない。
「ところでお客さん?」
 髪を揺らしながら、みや子はハルの後方を覗き見た。
「お客さんというか、迷い子というか……。私もなぜこの子がこのお店に入り込んできたのかわからないのよ」
 困りながらもハルは説明する。
「確か今日は店内をリフォームするから、休店にしたはずだよね? VIPの客?」
「いいえ、そもそもお客じゃなくて……」
「この子、よく見ると可愛い。ちょっと悪戯をしたくなるね」
 みや子はボストンバッグからサインペンを取り出し、テーブルに顔をのせて就寝中の有栖に近づいた。
「こら、みや子、アンタは初対面の人間にも悪戯をするつもり」
「初対面って、この子学園で何回か見かけたことあるよ。よく由記と一緒にいるよね?」
「はい、同じ授業が多いので仲良くさせてもらっている、伊藤有栖さんです」
「有栖か~。見た目とピッタリだね。あっ、もしかしたら、あれ? ケーキの試食に招待したとか?」
「いえ、そういうことではなく……」
 由記はホログラムを表示させ、一枚の写真をみや子に見せた。
「この方をお見かけしたことありませんか?」
「ん~、もともと人の顔と名前を覚えるのが苦手だからな~。ごめん、わからない」
 みや子の後から郁がのぞき込む。
「あっ、みや子、この人ゲレンデにいたよ。ほら、一人黙々とハーフパイプのところで滑っていたボーダー!」
「そういえば、そんな人もいたね。なんだかわたしたちと違って始業式をサボりそうな人には見えなかったけど」
 みや子は思い出したかのように印象を言う。
「教えてください! その人街参る場所を!!」
「え、まだゲレンデにいるかな?」
「最後のチャンスかもしれません。こうゆっくりしている場合ではないかもしれません。ほら、有栖さん!! 起きてください!」
 由記はうたた寝をかいている有栖を揺すって起こす。有栖は目を覚ますものの寝ぼけている。本当にこの人は迷い人なのだろうか?
「行きますよ!」
 椅子に掛けておいたコートを羽織りマフラーは簡単に巻いて、由記はみや子と有栖を引っ張るかのように店から連れ出していった。
 店に残された面々は呆気にとられ、郁はハルに質問をする。
「ハル姉、今日の由記は由記っぽくないけど、何かあったの?」
「こっちが聞きたいのだけど……」

「みや子ちゃん、どこですか? 久城君は!? 右ですか、左ですか??」
 ゲートを通り過ぎ右も左も真っ白なゲレンデで、由記はみや子に尋ねた。
「ちょっと落ち着いてよ、由記! 相手のなりふりに構わないキャラはわたしの役割だよ。これ以上わたしが特徴を失ったら、本当にモブキャラへ格下げになっちゃうよ」
「す、すみません、つい慌ててしまい……」
 やっと我に返った由記は素直に謝った。
「久城君――」
 有栖が呟く。
「久城君です!」
 さっきまでぐっすり就寝していた女子とは思えぬ素早さで駆けていった。雪上の白い靄の中、何かを見つけたのだろうか。
 由記とみや子も急いで後を追った。
 有栖が立ち止まった先はスノーボードのハーフパイプだった。
 そこに一人滑る青年がいた。
「久城君です! やっと見つけました」
 有栖はハーフパイプのゴール付近まで駆け寄る。久城であると言ったその青年を追うかのように。
「今までどこへ行っていたのですか」
 ヒールエッジでブレーキさせた久城に、有栖は追いついた。
「突然、授業も辞めてしまい、皆心配しています。今すぐ戻ってきてください。生徒会に掛け合って、今からでも授業開講の再申請を――」
「どちらさま……?」
 有栖はキョトンとする。
「どちらさまって、私です! 伊藤有栖です。あなたの授業をいつも教室の最前列で受講していた有栖です」
「ごめん。知らない」
「ふざけているのですか!? 二学期も久城君の代数学の授業を取るって言いましたよね」
「悪いけど、知らない」
 すがりついていたアリスの手は力を失い、久城によって引き剥がされた。

 ゲレンデにはレストランがいくつかある。ロッジの建物の中で飲食を提供しているのだが、学園の二学期が始まってからは多くのレストランがナイター営業に切り替え始めた。ゲレンデに遊びに来る生徒は夕方以降に現れるので、昼間から営業しているレストランは数えるくらいしかない。
 その中の一店、焼きたてピザが食べられるレストランに、由記たちはひとまず入った。
「あ、あのう、きっと人違いだったんですよ。ほら、焼きたてのピザですよ。チーズがとろけてますよ」
 意気消沈の空気を全身に纏った有栖は歩くのがやっとなほどで、一言も発していない。
「由記、ちょっと貸して」
 みや子は湯気が立ち上るピザをのせた取り皿を由記から受け取った。
「有栖はリアクション芸人じゃないので、一応――、ふー、ふー」
 息でピザをほどよく冷まし、向かい側の席に座っていたアリスの隣へ席移動した。
 みや子はトマトソースのピザを手に取り、有栖の口元に近づける。
「ほーら、食べないと唇に熱々のピザが衝突するよ」
「ちょっと、みや子ちゃん」
「ほーら」
 心ここにあらずの有栖はみや子の気を利かせた悪戯さえ構うことさえ出来ず、開かなかった口元にピザがぶつかった。
 ぶつかったといっても、さすがにみや子も手加減をしたので、ほくろ程度にトマトソースが着いただけだった。
「私、忘れられてしまったのでしょうか」
 やっと喋ったかと思えば、小動物でも聞き取れないような小声だった。
「そういえば、学園七不思議に記憶喪失の呪いというのもありましたね」
「ちょっと由記、いきなり何を言う!」
 みや子は慌てて注意する。
「す、すみません! 噂話です、噂話!」
「いえ、気にしないでください。確かにあの久城君は何も覚えていないような感じでした」
「有栖さん……」
「私の知っている久城君ではありません。そもそも久城君はスノーボードをするような人ではありません」
 久城の授業を受けたことがない由記やみや子にとって、久城の変わりっぷりはどのような者だったのかわからないが、今のアリスの姿を見れば想像以上の変わり身だったのだろう。
「こんなんじゃいけない」
 みや子は突然立ち上がり宣言する。
「せっかくゲレンデに来たのだから遊ぼう! 落ち込んでいるときは遊ぶのが一番」

 とりあえず、スキー板とスティックを借りた。それ以外は街に出かけるときの服装と変わらないので、リフトには乗らずゲレンデの麓のなだらかな斜面で遊ぶことにした。しかし。
「みや子ちゃん、有栖さんは楽しんでいるのでしょうか?」
「由記、わたしにはスキー板に乗ったドールにしか見えないんだけど……」
 有栖は確かに前方をよく見ているという点では、安全なスキーヤーなのかもしれない。しかし、仮に今ゲレンデが混雑していたら、他の客をよけるように滑っていただろうか。
 角度が緩い斜面を有栖はゆっくり直滑降していってる。
「みや子ちゃん、大変申し上げにくいのですが、気分転換に滑らせるのは間違いだったかもしれません」
「由記、それを言っちゃぁお終いだよ。私が出来る勇気付けはこれしかないもの」
「みや子ちゃん、あれは危ない気がします! 有栖さんが滑る先は崖です!」
「ホントだ!! マズい、止めないと!」
 由記とみや子はスティックで力強く雪を蹴ったのだが、有栖のところまで間に合わず、有栖は止まる素振りも見せず、スキー板に乗ったまま崖の下に落っこちた。
 そのとき、由記の横を駆け抜けていく姿があった。久城だ。

「伊藤さん!」
 崖のそこで、気を失っていた有栖を起こそうと久城が必死になっていた。
「うぅぅ。わたしどうしてここに……? 久城君??」
「伊藤さん! 怪我はない!? どこか強く打っていない!?」
「久城君、やっぱり私のことを忘れていなかったのですね」


 一日お世話になり、さすがに申し訳なく思った有栖は、何かお礼したいと由記とみや子に願い出た。
 由記はともかく、みや子は今日一日遊んでいるつもりだったので、むしろお礼してもらうのも気がひけた。さらにいえば、由記も喫茶店のリフォームのことを忘れていたので、こちらも気がひけていた。
「でも、このまま何もお礼できずに帰るのは心苦しいよ。どんなことでもいいので、何かさせてください」
「何かと言われましても……」
 由記は困ってしまった。
「ねぇねぇ、有栖、この後時間ある?」
 みや子は
「イエス!」
「それなら、晩ご飯の買い物につきあってもらえる? 荷物持ちをお願い」
「ちょっとみや子ちゃん!」
 由記は慌てて止める。そもそも五○三号室の今日の当番は由記で、たとえ買い物が多くなったとしても、みや子と分担して持つことが出来る。五○三号室に関係ない人をそのような形で手伝ってもらうのは悪いと思った。
「いえ、お安いご用。それじゃぜひ!」
 何に張り切っているのかわからないが、有栖は嬉しそうだった。

 准一は黙々と言っては語弊があるような、そうかといって率先して取り組むというわけでもないが、喫茶店の模様替えを進めていた。
 リフォームは一度終わったのだが、ハルに内装をチェックしてもらうと、「カウンター席のテーブルを三センチ高く」や「吊り下げの食器棚がほしい」「照明は店内の内側に寄せて」と注文が飛んできた。テーブルの高さ三センチなんて、拘る必要があるのだろうか。
 たとえ今日一時間でも有意義な休日を過ごしたいが、このあと修正を二度も三度も求められるのも癪だ。准一は脚立の上り下りを繰り返しながら、照明位置の微調整をしていた。
 その照明も調整中とはいえ、店内の半分は点灯させておかないと、作業に支障を来してしまう、そのくらい屋外が夜に包まれてきた頃。
「すみません! 作業を任せっきりにしてしまい」
 何かを忘れていたような気がしていた由記がその何かを思い出し、慌てて喫茶店に戻ってきた。
 准一はボソッと答える。
「別に怒ってないです」
「えっと……、わたし、まだ『怒ってますか?』と聞いてないのですが……」
「別に怒ってない」
「怒ってますよね……?」
「別に」
「サワジリか。あ、あのう、これはみや子ちゃんに教えてもらったジョークの一つで、面白かったですか? わたし、長い間日本にいなかったのでそのサワジリさんという方がどのような方か分からないのですが、それでもおもしろがっていただけたのな――」
「転部」
「えっ? えっと……」
「久城っていう人、スピードスケートの部活からスノーボードの部活に転部したらしいです」
「それでゲレンデでスノーボードをしていたのですね」
「スケートはあまり得意じゃなくて、部活内でも目立ってなかったけど、自分にはスノーボードの方が向いていると気がついたんだとさ」
「凄くうまかったですよ。空中をくるくる回ってました」
「ボードを本格的に始めて一ヶ月にも満たないけど、三年の部員の技術と大差ないらしいです」
「そうなんですよ! ターンするときに雪が水しぶきのように散らして、かっこよかったです」
「しかし、ボードの部活内で突出するほどのレベルではないと。本人は生まれ変わったときにプロのスノーボーダーになりたいらしいが」
「そういえば斉藤君、ずいぶん久城さんのことについて詳しいですね?」
「別に、先輩から聞かされただけ」
「えっと、聞いてくれたのですか?」
 准一は聞こえてないふりでもするかのように、キッチン奥に置きっ放しの工具を取りに行った。
「もう晩ご飯ですから、きりの良いところで切り上げましょう、斉藤君。後はわたしが食後に片付けま――」
 由記がキッチン奥に向かって呼びかけていた瞬間、今日は店を閉じているし、そもそも閉店時間でもあるのに、また来客が現れた。今度は二人の男女。
「生徒会だ、動くな!」
 三人の中のリーダーと思われるグラサン男子が、拳銃を突きつけながら咆哮した。
「ちょっと会長。ふざけないでください! いつからエアガンを仕込んでいたのですか!?」
 最初の男子が生徒会長なら、その会長に一喝したのは副会長なのか、黒髪女子がバレルの部分を握って、エアガンを取り上げた。
「すまない、すまない。堅苦しい空気を作ってしまうのは性に合わなくてな」「そんなこと言っているから、支持率が一桁になってしまったのですよ!」
 生徒会とおぼしき目の前の二人組、准一は知らない。学校行事に興味がない准一にとって知らないのも仕方ないが、生徒会が認知されてない要因は准一のせいだけではないようだ。とはいっても、由記は二人の男女を知っているようだが。
「あ、あのう、こんばんわです。何かご用ですか?」
 適当そうな男子と凄みをきかせる女子の雰囲気に何とか割って入った由記は問いかけた。
「ああ、すまない。君、この人物を知っていうよね」
 生徒会長は懐から一枚の写真を撮りだした。その写真にはまたしても久城が映っていた。
「久城は君らと一緒にいたところを見た人間がいる。もう証拠はあがっている。ひざまずけ! 命乞いをしろ! 小僧から石を取り戻せ!!」
「ちょっと会長! 内ポケットにいくつエアガンを入れているのですか!!」
 またしても副会長は拳銃を取り上げた。ご苦労様である。
「すみません。石のことはよく分かりませんが――」
「あなたも素直にひざまずかなくていいの!」
 言われたとおりに床に着こうとした由記を副会長の女子が止めた。
「会長! あなたが脱線をしすぎるから今日も仕事が七時を回ってしまうのですよ」
「ふふふ。ブラック企業でも生きられるようにこの俺様が鍛えてやっているというのに。まぁいい。それで遠藤由記さん、本題に戻すが久城は今どこにいる?」
「久城さんですか? すみません、日中にゲレンデで見かけた後、それっきりで」
「そうか」
 グラサン会長は諦めたかのように写真を内ポケットに仕舞った。
「あ、あのう、久城さんのことで何か知っているのですか。友人がとても心配しているのです」
「知っているも何も。彼、このままだと職務放棄の罪で取得済み単位を生徒に分配することになる」
「職務放棄って、数学の授業のことですか!?」
「ああ、そうだ。彼は正式な手続きをせず授業を辞めた。授業を履修していた生徒に迷惑を掛けている」

 午後八時を過ぎた頃、五○五号室のリビングでは晩食の準備が始まっていた。晩ご飯の知らせのノックをしても無視するルーメメイト一人と後で食べると丁寧に謝るルームメイト一人がいたため、テーブルには三人のみ。
 准一から聞いたことを由記はみや子に教えた。情報の元の人間は一応席に着いているのだが。
「そっかぁ。三年生になって方向転換か」
「どうにか戻って授業を再開してもらいたいです。久城さんの生徒たちは困っているはずです」
「でも、このままだとその久城という人が保有する単位を生徒に分配されるんでしょ。生徒に取ってみればプラスマイナスゼロじゃない?」
「確かにそうかもしれませんが」
「分配される単位って、久城が今まで取得した単位全部?」
「通例では、そうなるみたいです」
「だったら尚良しじゃないかな? その授業の履修人数がそこまで多くなければ、その授業で取得できるはずだった以上の単位数を得られるんだから」
「単位を得たとしても、何も学習してないんですよ」
「詳しいことは分からないけど、その久城が今まで得た学習内容を山分けしてもらえるんじゃない?」
「そうかもしれませんけど……」
「それにさ、久城も自分は何に向いているかって気がついたんだから、本人にとっても良いことなんじゃないかな? いままで取得した単位はパーになるから、これから必死にスノボーだけの授業を取って、生まれ変わったら五輪出場を目指して、めでたしめでたし」
「そんな簡単にうまくいくでしょうか」
「さぁ、どうだろう。実際にわたしたちも生まれ変わったという経験を知らないから。ただ私は羨ましいと思うよ。たとえ三年でも自分のやりたいことと得意なことが合致するなんて羨ましい限りだよ」
「みや子ちゃんはイラストが得意だし、好きでしょ」
「嫌いでもあるかな……。シビアな世界だし。それにスノドム荘の人間は元から優れているっていう噂の手前で、堂々とできないし」
「そんな噂気にする必要ないです。現にわたしはなにも才能なんてないですから」
「そんなことないよ! 由記ちゃんは美味しいケーキを作れるじゃないか。ねぇ、准一」
「ケーキは美味しかったです。以上」
 准一は会話の中の久城が哀れに思っていただけだった。晩年になって自分の得意不得意に気がつくなんて哀れだと。
「ごちそうさまです。それじゃ、喫茶店のリフォームの続きをしてくるので」
 食器を片付けて、創作活動に没頭しているハルと郁の部屋を通り過ぎて、准一は玄関を後にした。

 今思えば、日中の営業が中心の喫茶店で、照明チェックを夜間に行っても参考にならないのではないかと、准一は一人喫茶店で作業しながら思った。
 拘って照明の位置を調整しても無駄骨だろうか。
「あのう、お疲れ様です」
 脚立の上で照明を取り付けていると、様子を見に来た由記が喫茶店に入ってきた。夜遅くなのに、女子一人が出歩けるのはコノセカイだからこそだろうか。
「すみません。わたしのお店なのに任せっきりで」
「別に」
「さわじ……。これはもう寒いですよね」
「寒いです」
 沈黙の時が流れる。それは由記がつまらないことを言ったせいだけではなく。
「こんばんわーです! ひっく――」
 そんな沈黙に割って入るのは本日の相談人、有栖だった。なぜだか、顔が真っ赤に見える。
「あのう、有栖さん、もしかしましたら酔ってますか?」
「酔ってまーす」
 おいおい、未成年が飲酒して良いのか。そもそも自分が今何歳かはっきりしない世界だが。
「今日は大変ご迷惑おかけしましたから、お高いお酒を持ってきましたよ。マッカランだおー」
 おいおい、その持ち上げたボトルに約一世紀前の年代が見えているぞ。それ、俺でさえ滅多に飲んだことないウィスキーなのだが。
「そ、それはプレミア物のウィスキーですね。そんな高価な物いただけません」
「それじゃぁ、言い方を変えよう。私はショックにショックを重ねて、心身ズタズタなのだ」
「斉藤君、お酒に付き合うことで救われることってありますか?」
「まぁ、ないとは言わないが」
「わかりました。決心しました。お供します」

 それから何時間か経ち、もうすぐで日付が変わる頃。
「由記の髪はさらさらのささらで羨ましいの」
「くすぐったいです、有栖さん! あなたがそう来るならこっちだって!」
「うぉお! くすぐったい、くすぐったい! グラスの水面が波立ってる! 大荒れだぁ!!」
 由記はずっとお酒が苦手だと思い込んでいたのだが、いざ飲んでみたら平気で、むしろ「この愉快な飲み物を知らずにいたなんて信じられないです」とさっきから叫んでいた。

 大学生なら酔いつぶれた友人を目の前にして、「明日の授業は出られないな」と悟る頃、由記と有栖はカウンター席で気持ちよさそうに寝ている。
 眠りながら腕を動かした拍子でグラスを床に落としてしまわないよう、准一は片付けていた。
「……グー、明日の最低気温は氷点下十度を切るそうです……」
「……グー、女の子が風邪引かないよう誰か介抱をしてくれる男子はいないかな……」
 准一は店奥の休憩室へ入り、毛布を二つ拵えた。
 そして、その毛布を由記と有栖に投げつけた。
「アンタたち、俺よりも年上だろうが!」
 そんなことを嘆いていた時、また来客人が来た。夜分遅くといえ、どんな謝り文句も通用しない時間なのだが。
「夜分遅くに、すみません」
「もう閉店ですよ、というかリニューアル・オープンもまだなので、すが――」
 振り向くと、准一にとっては画像でしか見たことがない久城が佇んでいた。いや正確に言うと、准一は久城を部活で見たことあるらしいのだが、覚えていなかった。
「有栖のことでお話がしたいと思って、ここに来たのだが――」
 久城はカウンター席の方を見ていた。
「どうして、ここに有栖がいると知ったのですか?」
「あぁ、それは君がスケート部の元知人とコンタクトを取ってきたと聞いたから。君は僕のことを覚えてもいないみたいだけど、斉藤君」
「すみません」
「大丈夫、気にしていないから。それじゃ、有栖を連れて帰るね」
「ちょ、ちょっと! 連れて帰るって、アンタ、有栖とは無関係のつもりでいるのではなかったのでは?」
「そう決め込んでいたけど、そうはできなくなったよ」

 九月が終わりかける頃、本当なら衣替えの時期かもしれないが、それをする必要もない街は今日も雪が舞っていた。
 リビングの窓から望む上空は相変わらず銀世界だった。
 二学期の授業を取り過ぎた准一は炬燵に入って予習をサボっていた。
「斉藤君、久城君からお手紙が届いてますよ」
 夕食の買い物を終えた由記がポストから持ってきた手紙を見て言った。
「久城君と有栖ちゃん、ご結婚されるみたいですよ」
「へぇー、日本だと男性は十八才、女性は十六才にならないと婚姻届を亭主鬱出来なくて……。というか三年間だけの世界で結婚をする必要があるのか」
「斉藤君、その前に『あの二人、付き合っていたのか!』って驚いたりしないのですか?」
「他人には興味ない」
「……そうですか。コノセカイの結婚というのはですね、現実の世界と少し違っていましてね――」
「興味ない」
 准一は自室に戻って、予習を再び始めようとした。


 十月二十四日(日)

 シェアハウスの難点は、個人がいつのまにかリビングを占領してしまうことかもしれない。ここの部屋が与えられているにもかかわらず、共同スペースを自分色に染めてしまう。最初はリビングのテーブルにお洒落な小物を置いていくところから始まり、次に「皆も読むでしょ」と言ってお気に入りの雑誌や漫画を置いて、結局それらを所有者本人がリビングのソファーで永遠と読むことができれば、もう立派な侵略である。
 そんな綿密に計画を立てなくても、自ずと占拠してしまうのがみや子であった。
 とある夕食後。
「──世の中の男子は全員風早くんを目指せばいいのに~」
 草加せんべいを緑茶と共に頂くことで全く飽きが来ないみや子はソファーに寝そべりながらコミックを楽しんでいた。まさに読書の秋。
 リビングを占拠してしまったことに若干後ろめたさを感じているのだが、自室はもう片付けようがないほど、漫画の塚と化していた。部屋を出入りする時はゆっくりドアを閉めないと、振動でその漫画の塚が崩れてしまい、大変危険である。最近の不安は睡眠中の漫画の生き埋めの可能性である。もう一掃のこと、寝具もリビングに持ってきてしまおうか。
 そんな半分冗談半分本気のことを考えていると、もう一人自室に籠もれなくなりかけている人物、ハルがリビングに入ってきた。
「げっ、漫画……。もう文字は読みたくないわ」
 珍しくハルは具合悪そうにしており、さすがにみや子は反応した。
「漫画にはイラストもあるんだけど……」
「何を書いても面白くない日が一週間も続けば、文字アレルギーを引き起こすものよ」
 小説を書いているハルなのだが、どうやら執筆がうまく進んでいないらしい。これもまた珍しく、さっきの食事の時なんて一人ブツブツと「伏線が少なすぎるわ」「手元の資料だけでは足りないわ」「矛盾点をプロットの段階で見抜くべきだったわ」などと独り言を並べていた。そんな様子に由記も何も言えず、やや怯えていた。
「しばらく、休んでみたら? せっかくの秋の長夜なんだから」
「暦の上では秋かもしれないけど、外は毎日雪よ」
「そうかもしれないけど、リフレッシュは大事かと」
 精神的に参っている人間に何か提案するのも躊躇ってしまうものであるが、一応みや子は休息を勧めた。
「スポーツの秋はどう? 溜まったストレスを解消するには打って付けだと思うけど」
 そう言いながら、みや子はシャドー・ボクシングをする。
「まぁ、それはね……」
 珍しいことはいっぺんにやってくるものなのか、これもまた珍しくハルは歯切れが悪い。
「あれ? ハル姉って運動神経良かったよね?」
「一応ね……」
 本人は取り立てて興味ないようだが、確かにハルはスポーツが得意だった。先日行われた体育祭でも大活躍で、その持て余した運動神経をまったく関係のない運動部の部員が果てることなく溜息を吐き続ける有様だった。
「体も疲れているのかな? それだったら睡眠の秋はどう?」
「睡眠の秋なんて聞いたことないわよ」
「あぁ、私もないかな」
「まったく」
 先日のハルに向けられたすべての溜息を、今度は一気に一人で吐いた。それほど、些細なことで大きな溜息をしてしまうくらい疲労困憊なのだろうか。
「でも、執筆も体が資本なのよね、結局は。しばらく休みを取ろうかしら」
「そうだよ、そうだよ。美味しいものを食べて、リフレッシュしよう。まさに食欲の秋!」
「……そうね」
「あ、でもまた太ってジム通いにならないよう気をつけてね」
「アンタ、気を遣うっていうこと知らない?」
「ごめん、わたし、食べてもあまり太らないから……」
「たった今ストレスが増したわ。机に向かっているわけじゃないのに」

第四章 キラワレル

 学園の玄関ホールは冷笑で溢れていた。 
 これからのランチには持って来いの話のタネになる。悲惨な状況に陥った他人を見れば、自分は安心できる。失笑が渦巻く中心には、結城みや子がいた。
「そ、そんな……。二学期は真面目に勉強していたのに」
 頭を抱えて今にも膝から崩れ落ちそうなみや子、その目の前には掲示板があり、そこには一枚の張り紙があった。書いてある内容は警告を告げるもの。
「未受講の科目が多いなら、もっと早い次期に教えてよ……」
 もう立てないほど気力を失い、視界はブラックアウトした。


 長い間寝てしまったと焦るが、実はそんな時間が経っていない。または、ほんのチョットしか寝てないつもりが膨大な時間をロスしていた。昼寝とはそんなものである。
 みや子は目を覚ました。目に映るものが少々ぼやけていたため、目を擦る。
「ここは?」
 見知らぬ場所での目覚め、それはたいてい緊急事態である。
「やっと起きましたか。空腹で寝落ちって、どれだけ食欲旺盛なんですか」
「ん? 准一??」
 斉藤准一の声に気が付いたみや子は真っ白なシーツを引きずりながら、起き上がった。
「ここは保健室かな?」
「そう、ここは保健室です。そして俺とみや子は生き残りです」
「はひぃ?」
 いつもと様子が違う准一の説明に、いつも通りの調子が抜けた声でみや子は驚いた。
「みや子さん、落ち着いてよく聞いてほしい。実はコノセカイ、今まで経験したことのない大寒波に襲われて、みんな力尽きてしまいました」
「え? ええ?」
「ある者はブレザードによって凍死、ある者は食料が尽きて餓死、ある者は極限状況に耐え切れられず自死。もう残っている人間は俺ら二人。みや子、いやみや子先輩!」
 これまた似つかわしくないほど准一は詰め寄った。
「な、なんでしょう??」
「いままで貴女のことを小馬鹿にしていましたが、そんなことも言ってられません」
 今、失礼なことを口走ったような気が。普段なら文句を挟めるのだが、今のみや子にはそれが出来なさそうな雰囲気がある。ましてや、みや子の両手を力一杯握られている。
「これから何が起きるかわかりませんが、俺ら二人で生きていきましょう!」
「准一、本気なの?」
「みんなの分まで生きることが自分たちに与えられた宿命です!」
「准一」
「天国の郁も見守ってくれるはずです」
「准一」
「もちろん由記やハル姉も見守ってくれるはずです」
「准一、わたしのことを軽く馬鹿にしているか、演技が雑になってるけど、外は穏やかな天気だよ。いつものように雪がさらさらと舞い降りている。ドッキリ企画なら、カーテンぐらいは閉めておこうね」
「みや子先輩!」
 准一はもう一度みや子の両手をつかみ訴えかけようとした。いや、嘘を嘘と認めさせないように努めていた。
「今は十二月。准一が来てから八ヶ月が経ち、冗談が言えるようになったのは微笑ましいことだけど、もうちょっと工夫を凝らそうよ」
「なんだ、面白みの欠片もない」
 准一はやや乱暴に手を離した。
 そんな乗るに乗れない茶番劇が一段落ついたところで、保健室のベッドカーテンをあけて、保健の先生が入ってきた。先生とはいえ、もちろん准一たちと変わらない生徒である。保健の先生として働きながら学園で勉学に励んでいるごく一般の生徒、藤宮杏。
「起きましたね? 過剰なダイエットは危険ですよ。って、結城さんがダイエットをするわけないですよね」
 保健の先生もとい、藤宮杏は見下ろしながら、落ち着いた声色で一応説教っぽいことを言って見せた。
「ダイエットをしないと決め付けた理由を教えてほしいであります、保健室の先生」
 回復しきったみや子に取り立てて返事をするわけでもなく、藤宮は興味なさそうな視線を送り続けた。
 意外とみや子は変な間が苦手だ。
「あのー、どうしてわたしは保健室で寝ているのでしょうか?」
「どうしてって、そこの斉藤君がここまで運んできたのですよ。正確には引きずって来たというのが正しいけど」
 
 午後の授業が始まる頃になるが、准一と杏は授業をとっておらず、みや子は授業の時間割を把握しておらず、三人は話題が脈絡のないままあちこちへ飛ぶ、とりとめのないお喋りを続けていた。
「ですが先生、どうせみや子は空腹で倒れただけなのだから。この後言いますよ、『午前の授業が三分長引いたのがすべての元凶であります!』って」
「午前の授業が三分長引いたのがすべての元凶であります」
「ほらね」
「いいや、本当は空腹で倒れたわけじゃないんだけど」
 毎度ながら失礼な男だ。
 と、その時、廊下から駆けてくる音が響いてきた。
「みや子!! 倒れたって本当!?」
 いつになく深刻そうな顔つきの郁が保健室に入ってきた。
「何をされたの!? 誰に何をされたの!?」
 郁は何か誤解をしているようで、みや子は准一の方を見る。
「准一、君はいったい郁になんて伝えたの?」
「『倒れた』って」
「短い!?」
 さすが省エネ主義の准一、連絡事項には形容詞を用いないらしい。
「みや子、怪我はない!? 顔に傷を負ってない!?」
 郁はみや子の前髪を上げて、心配そうに見る。
「郁、心配してくれるのはありがたいけど、そういうのじゃないから」
「そう、それならよかった」
 郁は何別なことを危惧していたのか、ひとまず安心したようだ。
「郁、空腹で倒れたらしいですよ」
「だから違うって!」
 しつこく誤解を招く准一に、みや子は枕を投げつけた。

 午後の授業が始まったというのに、カフェテリアは賑わっている。午後の授業を取っていない生徒でカフェテリアが溢れかえっているのだから、学園の生徒数は考えつかないほど多いのかもしれない。
 そんなカフェテリアの窓際テーブルでみや子は、お騒がせのお詫びとして准一と郁にランチをご馳走していた。みや子自身は午後の授業を取っているのだが、本日はサボるらしい。
「海老ピラフ、うめぇー」
 ピラフを載せたスプーンを大げさに掲げて見せたみや子は今日も食堂の料理人を褒め称えていた。
「どうせその海老、産地偽装されてますよ」
 食事中の喧騒を嫌う准一が意地悪を言う。
「産地がどこであろうと、おいしいものはおいしいのだよ」
「あー、そうですか。そもそも産地なんてコノセカイにはあるのでしょうかねー」
 濃厚味噌スープのつけ麺を啜りながら、准一は聞き流していた。
「それよりー」
 そんな二人のやり取りに郁が割ってはいる。
「それよりみや子、なんで倒れたの? 体調が優れてないようにはあまり見えないけど……」
「はっ!」
 みや子はスプーンを落としてしまう。平皿にぶつかったスプーンは乗せたピラフを溢してしまった。そのスプーンの持ち主は青ざめている。
「わ、わたし、今度の期末試験、相当マズくなりそうだったんだ……」
「マズいって毎度のことじゃない? いつも得意科目以外は赤点ギリギリで」
「そうじゃなくて、履修するつもりなかった科目を履修しているんだよ」
「学園は単位制なんだから、ひとつふたつ落としたところで進級できないこことはないよ」
「わたし、二学期はギリギリで履修しているから、ひとつでも落とすと進級できない……」
「え?」
「わたし、二学期終了の時点で留年が決まるかも」
 外は寒空の下で冷え切っているが、カフェテリアもなぜか木枯らしに吹かれたような寒さを感じた。
「履修するつもりなかった授業を欠席し続けていたということ? 気がつかずに??」
「うん……」
 そんな事ありえるのだろうか?、と口にはしない准一を他所に、郁は率直に聞く。
「その授業っていくつあるの?」
「三つほど……」
「なんの授業?」
「すべて数学関連……」
「数学って、みや子が大の苦手のあの数学?」
「ほかにどんな数学があるの……」
「終わったね」
「……」
「もう、おわーりだねー♪」
「励ますつもりで即席カラオケしてくれるのはありがたいけど、本当にもう終わりみたいだから……」
「ごめん。もう留年する覚悟しているの……?」
「もちろんヤダよ、二回も留年なんて!」
「何かあてはあるの?」
「二人ともこの科目とっている?」
 立ち上がったみや子はホログラムを映し出し、科目名を三つ表示させる。
「ごめん。どれもとってない。准一は?」
「義務教育レベルなら確実に教えられますけど」
「そうだよね。間違って履修した科目が、大学院レベルの数学だったなんて」
 立ち上がっていたみや子は完全に撃沈した。しかし。
「そうだ! こんなときにハルがいるのだよ、郁君、准一君。ハルえもーん!!」
「映画化されるのか、この物語は」
「残念だけど、というか存じていると思うけど、ハル姉は長期の健康診断中だよ」
 郁は一応念を押す。
 ハルは生前の病気のせいか、定期的に健康診断を受けている。学園内で診断できないような検査をするらしく、外泊中だ。
「そうでした……」
「ハル姉って健康診断しているんですか? 知らなかった」
 ルームシェアしているのに、寝耳に水の准一に郁は「えっ?」と声を漏らす。
「准一の他人への興味が皆無なことには毎回驚かされる」
「長期って、そんな診断が必要なんですか?」
「まぁね」
 郁はうやむやにしながら答えた。
 准一はつけ麺の最後の一口を食べて、箸を置いた。
「そうですか。それよりも、みや子は授業をサボっててイイのですか?」
 そのみや子はコノセカイに来て初めて食事を残してしまいそうだった。

 進級するために今できることは目の前の授業を一心不乱に聴くことであるのだが、「もし留年してしまったらーー」という強迫観念で集中できなくなる。
 負のスパイラルに、みや子は陥っていた。
 完全に意気消沈となったみや子は昇降口を出る足取りもおぼつかない。
 そんな時。
「みーやーこー!」
「郁?」
 こちらもたった今午後の授業を終えた郁が二段飛ばしで階段を下りてきて、みや子に駆け寄った。
「みや子、ノート屋に行こう!」
「ノート屋? なにそれ??」
 二年も暮らしていて、知らない店がまだあったとは。
「さっき人伝に聞いたのだけど、ほとんどの科目のノートが置いてあるんだって!」
「ノートって誰かのノートのコピー?」
「お金に困りながらも優秀な生徒がノートの原本を提供しているらしいよ」
「なんだかそのお店怪しくない?」
 治安はすこぶる良い街だが、ルールをうまくすり抜けて、大金を稼ぐ店は確かにある。
「一応、目立たない場所で古本屋としてお店を開いているみたいだけど」
「でも、わたしノートがあっても……」
「今は一刻も余裕がない。急ごう、みや子!」
「ちょ、ちょっと!」
 みや子は郁に引っ張られるがまま、学園の校門を通り過ぎた。いつもと役目が逆転したまま。

 商業が許されていないような住宅地に、そのノート屋もとい古本屋があった。
「会員制って、いくら?」
「会員費は徴収しておりませんが、会員になるために審査を行っています」
 郁が質問攻めをしている相手は長身の男子で古本屋の店主であった。読書家なのか眼鏡がとても似合いそうだ。
「審査って何のために?」
「弊店は存在を知られずに営業しています」
「ノート屋のことを広めないか見極めるために審査をすると? 何週間ぐらい?」
「半年ほどお時間をいただきます」
「無理、待てない!」
「申し訳ありませんが、お客様だけ特別待遇できません」
「こうなったらーー」
 郁はバッグの中から一枚のディスクケースを取り出した。
「これでお引き受け願おう」
「大変申し訳ありませんが、あなたの音楽には興味ありません」
「なに!!!」
「派手なものよりも、ラウンジで聞くようなものが好きなので」
「くぅーー。最近惨敗ばかりだぁ」
 郁は顔を伏せてしまった。
「自業自得なので、この期に及んで無理を押し付けるのも心苦しいです」
 みや子が珍しく丁寧口調で言った。
「わたしのミスです。履修登録を誤って提出してしまい、受講するつもりのない授業まで履修してしまいました」
「ご検討をお祈りします」
「わたしはどうしてももう留年ができないのです」
「学園には留年回数の上限がないのでは」
「はい、確かにそうです。ですが、わたしにはもう留年できない別の理由があるのです」
「私的な理由ですか?」
「……はい」
「わかりました。では、会員書の手続きを」
「え、今の会話でオーケーなんですか?」
「十分な理由があるのでしょう」
 いつも物静かな青年なのか、引き出しから書類を取り出しながら、みや子にそう告げた。

 一週間後の夕方時、五〇三号室のリビングにて。新聞に目を通していた准一と、ノートを開いて五分経ったみや子。
「数式が全部木苺に見えて、集中できないー」
「木苺に見えるんじゃなくて、ただの数字アレルギーですよね」
「それを言うな!」
「ダサッ。その調子なら中学生レベルの数学でも梃子摺ったことあるんじゃないんですか?」
「それも言うな!! 実際に経験済みだけど」
「あるんだ。でも、コノセカイにある授業って、ほとんど大学レベルのものばかりですよね? 義務教育レベルの授業なんてあったんですね?」
「あるにはあるけど、それを履修するのは能力向上にはつながらない単位稼ぎを狙う人か、もしくはわたしみたいに本当に苦手な人が受講するんだよ。履修生も少ないから、教えるほうもあまりいい稼ぎにはならない。だから授業数自体少ないし」
「まるで補習授業ですね」
「うるさい。どうせ補習塗れの人生でしたよーだ」
「前世でも頭悪かったんですね?」
「でも驚きたまえ。美術は常に学年トップだったのだよ、この結城みや子は」
「あーすごいすごい。他の科目をおろそかにすれば、誰だって何かに特化できますけどね」
「この一言多い男子、もし後世で出会ったら絶対に全教科トップを阻止してやる」
 みや子はノートを丸めて、准一の頭を狙おうとした。
「みや子ちゃん、ストレスが溜まってますよ。そんなときは甘いものを」
 キッチンから出てきた由記は一切れのストロベリーパイをみや子に与えた。
「うぉおおお! これは喫茶店にはないケーキ、いっただっきまーす!!」
「よしよしです」
 由記はみや子の頭を撫でながら言った。
「アンタ、絶対に良き保護者にはなれませんよ。そんなに甘やかして」
「大丈夫ですよ。これでもみや子ちゃんは強い芯を持った方ですよ」
「強い意思と言いたかったのですね」
「え?」
 由記は日本語を訂正されたことに気づいていないようだ。
 そんな時、郁が帰宅してきた。
「まさかこんなにもボーカル探しに苦労するとは……」
 郁はぶつぶつと独り言を言いながら、リビングを通り過ぎようとしていた。ノート屋に出た後、「ちょっと用事があるから」と一度別れた郁は、手元に譜面を持っていた。
「その曲、歌えるよ」
「え?」
 みや子の突然の問いかけに郁は振り向く。
「だから、その手元に持った譜面を歌えるって」
「この歌を……。というか、この距離から譜面が読めるの?」
 郁はみや子と譜面を何度も見返す。
 甘い。このわたしの視力を甘く見ないでほしいものだ。
「それじゃぁ、お礼に勉強見てあげるよ」
「でも、この科目わからないのではないですか?」
 由記が尋ねた。
「いや、さっきノートをちょっと拝見したんだけど、これ簡単だよ」
「それをさっさと言え!」
 みや子はノートで拵えた刀を郁に振り下ろした。
 頭を下げてノートを買った苦労はなんだったのか。
「ただいま」
 こちらはちゃんと挨拶をしたハルが帰ってきた。
「まさかこんなにも小説の書き直しをするとは……」
 あれ? ハルは健康診断をしに行っていたのでは? というか、小説って何?
「あのう、晩ご飯はいかがなさいますか?」
「ごめん、由記。後で自分で作って食べるから」
「わかりました。ご健康には気をつけてくださいね」
 由記に申し訳なさそうにしながらも、ハルは自室へ入っていこうとした。
「みや子、ハルの方が教えるのがうまいと思うよ」
 自室に入っていくハルを見ながら、郁は言った。
「ううん、ちょうどいいタイミングだから、郁に任せる」
「いいタイミング?」
 郁は首をかしげた。
「そういえば、みや子、アンタの履修の件だけど、いつもの人たちの仕業みたいよ。さっきちょっと取材してきた時、そんなことを小耳に挟んだのだけど」
 自室の部屋に入る直前、ドアから顔だけを出してハルが行った。
「別に調べなくてもよかったのに」
「調べたくて調べたわけじゃないわよ。たまたま聞いた話だから」
 言い終えたハルは自室に籠もった。
「いつもの人って、みや子のことを妬んでいる連中?」
「どうだかね?」
 郁の問いかけにはぐらかすみや子。
「どうやって書き換えられたかわからないけど、事情を説明して履修届を修正してもらおうよ」
「いやいや、これは私に与えられた試練なんだよ。ここを乗り越えてこそギャフンんと言わせてやりたいのだよ」
「留年までかけての試練でいったい何を得るっていうんだよ?」
「友情、努力、勝利!」
「勝利しても、その妬まれている人たちと友達になれるとは到底思えないけど」
「わたしも友達になりたいとは思わない」
「じゃあ、やっぱり学園の教務課に行って訂正をしてこよう」
「それは無理な相談だぜ」
 みや子は、さらに運ばれたアップルパイを食べ終え、そそくさと自室へ入っていった。

 夕食後のお風呂も終えて、いつもなら自分の部屋のベッドでゴロンと漫画を読み更けている頃なのだが、そうは言っていられない状況のみや子は机に向かって、これから自習を始めようとしていた。
 コンコン。
 慣れないことを始めようとするとたいてい邪魔が入るもので、ドアのノックもその類いだろう。
「どうぞ」
「失礼」
 やはりと思った来客は郁だった。
「あ、勉強中だった? だったらまた明日に」
「三分間待ってやる」
「それもうすぐ死ぬ人の台詞なんだけど」
「もうすでに死にかけているであります」
 みや子はノート屋で買ったノートを見せながら、今にも泣きそうな顔で振り返った。
「羅列された数字がわたしを苦しめる……」

Snow Dome World

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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-23

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原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

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  1. 序章 ココハドコ
  2. 第一章 ヒキコモル
  3. 第二章 タノマレル
  4. 第三章 アコガレル
  5. 第四章 キラワレル