*星空文庫

不眠少女の恋愛話

増本リョー 作

平川(ひらかわ)霧也(きりや)先生といえば現在、高校二年生の数学を担当する男性教員だ。きっとこの高校の教師陣の中では最も若いと思われる24歳で、明るく調子の良いキャラクターとその狭間(はざま)にちらりと顔を見せる紳士的な一面、そしてなんといっても「さわやか」を擬人化したような万人に受け入れられる端麗(たんれい)な見目形(みめかたち)が特に女子生徒のハートを掴んで離さないこの学校の人気者である。
 そんな平川先生と私が初めて会話を成立させたのは輓近(ばんきん)と昔のちょうど間と言える時間を遡った在りし日のことであるが、これまた不思議なことに、私は現在そんなモテモテイケメンさわやか数学教師と、千万(せんばん)懇意(こんい)な関係になっていた。


 私の通う高校は普通とは少し外れている。なぜなら、ここに通う生徒が皆、普通の高校生から外れてしまった人間ばかりであるからだ。
 ここは、いわゆる「精神病」を患い通常の高等学校への登校が困難となってしまった学生達の社会復帰を目的に広闊(こうかつ)な土地と豊かな自然の中に建てられたある意味垢抜けていて赫赫(かっかく)な功績を持つ学校であり、様々な症状を持つ若人が唯一の拠り所として身を寄せる場所になっている。
 もちろんここに通うからには私も「通常の高等学校への登校が困難となってしまった学生達」の例外ではなく、過去に残酷で残忍で残虐な惨(むご)い経験をしてしまったおかげで忌まわしい「不眠症」などという気合でどうにかなりそうでならない病気を持ってしまった人間だった。
 特に需要はないが詳しく説明するともちろん日夜(にちや)瞳孔(どうこう)を開いて瞬(まばた)き運動をしまくっているわけではない。睡眠をとらなければ人は死ぬので、無呼吸症候群の危険にさらされている時間も一日一回は必ず存在している。
 例えば、授業中。
 例えば、休み時間。
 例えば、放課後。
 私が眠れないのは、日の落ちた「夜」の時間帯だけだった。なので、日の高い時間は貪るように眠りこけ、夜半(やはん)は活動をする生活を続けている。
 言ってしまえば教師が教壇に立つ時間帯は始終|嗜眠(しみん)のような白河夜船(しらかわよふね)の最中なので通学の意義は最早(もはや)零(ぜろ)と言えるが、かろうじて絞り出してみれば、「卒業した」という学歴、そしてなぜか私と会話をしたがるクラスメイトたちだった。

 前述の輓近(ばんきん)と昔の間というのを具体的な数字で表すと4か月ほどが妥当(だとう)だ。
 輓近と昔の間、言い換えて4か月ほど前のある日、友人の一人が微睡(まどろみ)の中で目を擦(こす)る私に溌溂(はつらつ)とした調子で声をかけてきた。
「ねえ悠稀、平川先生の授業、一回受けてみなよ!おもしろいから!絶対悠稀気に入ると思うよ!」
 この人は一体何の根拠を持って私が善(よ)がることを確信しているのだろう?という気持ちが七割。ヒラカワって名前は聞いたことあるけど一体誰だ?が三割。
 しかし周りを見渡してみれば、ほかの女子たちも首をしきりに縦に動かす行為でやけに元気な彼女に賛同の意を表している。
 ずいぶん人気のある先生だなあという、第一印象だった。

 翌日、友人のアドバイスを無下にするのも性根(しょうね)の悪い話なので、私は数学の授業をまじめに耳に入れることにした。


 ところまでは思い出した。
 私と平川先生が昵懇(じっこん)の間柄になった理由の話だ。
 ただ、ここまででその兆しが全く見えてこなかったので、私の追い求める物はそれから先の時間にあるのだろう。
「考えるのめんどくさくなってきちゃったなぁ…………」
 学生に課せられた本日の日程は全て終了した放課後、私が高校校舎の中庭に設置される黄色いベンチに体を投げ出して思慮(しりょ)にふけり始めてから軽く26分は経過している。そもそもこのテーマについて答えを見出したとして、達成感を始めとする諸々の快感を得られるわけではないので正直どうでもよくなってきてしまったというのが本音だ。
「……………」
 ぽかぽかとした秋の陽気を体全体で受け止める。足元を埋める植物が風に擦られる音が頭の中を通り抜ける。実に心地がいい。
 光合成で生きていけたらいいのに。
 ふと、そんな超自然的考えが頭を過る。
 確かに、睡眠のことや、食事、呼吸、「生きる」という概念を全て忘れ生命をつなぎ続けることができるのなら、脳内ストレージのざっと48パーセントは他のことに使えるだろう。
「………………ねむい」
 というわけで実に珍妙(ちんみょう)奇妙(きみょう)で奇異荒唐(きいこうとう)な意見を最後にマイ・ブレインは完全に全思考を放棄。ただいまより脳髄の活動及び全ての内面的精神活動を停止のち、エネルギー蓄積活動を開始。この瞬間から反射など神経機能は低下、感覚も鈍麻(どんま)します―――――――――――
 瞼(まぶた)が視界を徐々に狭め、全てが闇の中に飲み込まれる、睡眠――その瞬間に、
「増田さん」
 高くもなく低くもなく、どこか男らしくてさわやかさを孕(はら)む耳に慣れた声が私の苗字を形にした。陽気と微睡(まどろみ)に溺れていた精神が一気に現実へと引き上げられ覚醒する。
 途端に体中の器官が活動を活発にし始め、一度ブラックアウトした世界が再び光彩を取り戻しだした。
 そして、次第に焦点が合いクリアになっていく私の視界に一番初めに飛び込んできたのは二次元の世界から飛び出してきたかのような風貌で微笑をたたえ私の顔を覗き込む平川霧也先生の姿だった。
 ふわふわと感触のよさそうな黒に近い茶色の髪が風になびいている。少しゆるめに巻かれたネクタイと、もう9月とはいえ暑さが残る学園内では珍しくないはずの肘までまくられたシャツが私の目線を数秒間奪ってしまう。
「増田さん」
「あ……はい……先生……」
 まだ少々全機能の起動に時間がかかっており、意味の伝わらない言葉を発しつつ通常より目を心持ち大きく開く私を見て平川先生はこらえきれなかったのかくすりと小さく笑いを漏らした。
「探したよ。まあ、ここだろうなとは思ってたんだけど」
 いや、違う。私の思考回路はもうとっくに正常に機能している。平川先生の瞳にがっちりと捉えられ、全身が硬直してしまっているのを覚めていない脳幹(のうかん)のせいだと錯覚していただけだ。
 今更ながら姿勢をただし、ひとつ咳払いをする。吸い込まれるように注視してしまっていた眼前の眸子(ぼうし)からなるべく不自然な様子にならないよう目を逸らし、少し距離をあける。
「起こしちゃった?ごめんね、これ渡しに来ただけなんだけど」
 そう言って平川先生が輝く白い歯を見せて王子様の如きはにかみとともに差し出したのは、ホッチキスで束ねられた文字達。ところどころ確認できる単語に武将や偉人の名が見受けられることから、日本史、つまり平川先生の担当ではない教科の紙切れであることが理解できる。
「日本史ですよね?なんで先生が……」
 あまり顔の筋肉が発達しているタイプではない私は面部(めんぶ)のパーツをあまり動かさずに話すことが殆(ほとん)どだ。今回も口許(くちもと)のみを操って目線は受け取ったプリントに縫い付けたまま特に追い求めたいわけでもない疑問を紡ぐ。
「作田先生に頼まれてさ。まったく、みんな俺のこと増田さんの何だと思ってんだか」
 しかしこれにはさすがに申し訳なさが生まれてしまった。リアルタイムで自分の顔を見ることは不可能なので推測だが少なくとも普段よりは「ばつの悪い顔」が張り付いているに違いない。
「すいません………」
「いやいやいや!」
 私の前に立つ平川先生が突然声を張り上げた。顔を上げてみれば困ったように眉尻を下げる24歳数学教諭のほどよく整った容姿。この状況とは何ら関係はないが彼にかかれば身に着けるだけで全ての物が輝いてしまうようだ。本人談の安いスーツも彼が纏(まと)えば威張り散らした成金小太り初老男性が着けるイタリア製オーダーメイドスーツとさほど違いなどないだろう。むしろ彼のほうが上と言える。
「そーいう意味じゃなくてさ。こう見えてもおれ、さっき頼まれたときに増田さんが授業聞いてくれてるのほんとにおれだけなんだってちょっと嬉しくなっちゃったんだから!増田さんにとっておれが特別ってことだし、教師やっててよかったなーとか思って」
 話しながら平川先生は私の右隣に腰を降ろす。半途で恥ずかしくなってしまったのか頬をほんの僅かにピンクに染め、ふい、と顔を背ける様子に、自分でも経験したことのないような淡い感情が私の胸を侵食していくのを感じた。
「そう、ですか。光栄です」
 なんだかむず痒い。
「あ、増田さん今笑った?」
「え?笑いました?」
 完全な無意識を突かれ僅(わず)かながら戸惑う。笑っていたこと自体は特に問題なくむしろ喜ばしいともいえることだが、もしその笑い方が不気味なものであったり気分を悪くさせてしまうものであったら、と考えると恐怖に似た何かを覚えるのだ。
「笑ったよ絶対!へへ、なんか嬉し。笑うのはいいことだよー、お嬢さん!」
 そんな私の思弁(しべん)を知るはずもない平川先生は私が持つ色素の薄い髪をくしゃりと撫でて立ち上がり、去ってしまうのかと思いきや地面の植物の上にあぐらをかいて座った。
 しばらく沈黙が流れる。決して居心地の悪いものではない、遠くから小さく聞こえる運動部の掛け声や肌をするりと撫でて過ぎ去っていく秋風が快楽物質を大いに分泌させる午後の時間は人間の本質的な幸福を感じさせるものだ。
「ほんとはさ、」
 そんな中、平川先生が小さく切り出した声音は真剣そのものだった。しかし、こちらから見えるのは後頭部と背面のみでその表情を確認することはできない。
「おれ、誰かの『特別』になるのはそんなに好きじゃないんだ。もう昔の話だけど、平川君は特別だって言われることはよくあった。でもそのたびにそれに応えらえない自分が嫌だって思ってたんだ。おれはその人の数少ない『特別』枠に居座ってるのにさ、おれの中の『特別』には誰もいない。そんな悲しい一方通行は嫌だった。誰かを特別にしようって躍起になった。逆に自分の孤独感が増しただけだったけどね。今から思えばそんな頑張ることなかったけどさ。でも、そう思ってみるとなんでみんな誰かの特別になりたがるんだろうね。もっと深いところまで理解してる人ならさ、特別がいかに悲しいことかわかるはずなのに」
 珍しいことではない。先生は時々こうして自分の哲学的で感情的な理論を私の考えなどお構いなしに吐き出すのだ。
 風になおも揺れる絹糸のようななめらかな髪が先生の表情をなおさらうかがい知れぬものにする。だが、よく目を凝らしてみれば何やら手元の植物を男性のものとは思えない細長いきれいな指でもてあそんでいるようである。
 私との会話がつまらないと感じているのか、それとも先生にとって今必ずやり遂げなければいけない行為があるのか。
 前者ではないことをひたすらに願いながら私は言葉も纏まらないうちに開口した。
「人間の本能には逆らえないものです。奥底には利己的な負の感情がやまほど詰まっていますから、特別を望むのは仕方のないことだろうと思います。私も特別になりたいと思うことはあります。その人が私にとって至高ともいえる特別な存在なので。しかしよくよく考えてみれば、別に特別になどなりたくないのかもしれません。人間とはまた、狩猟的な本能も秘めていますので、その方の特別枠を狩ることに幸せを感じているのでしょう。それは意識的なものではないのでみんなその人の『特別』になることこそ最終的な僥倖だと、思い込んでしまうのでは、と思いますし、それに、特別になりたいって思える人がいることは素敵なことですよ、ね」
 いつの間にやら自らの手元に向いていた目線を動かし先生のしぐさをちらりと確認してみると意外なことに顔を見合わす形となってしまっていた。
 手の動きは止まっており、前を向いていたはずの面は私のほうに向けられて先ほどよりも嬉しそうに破顔一笑(はがんいっしょう)している。
「さすが、やっぱり増田さんの言うことはセンスあるよ!」
「ありがとうございます」
 あまり人に褒められた人間ではないので、やはり彼の言葉は私の面映(おもは)ゆさを誘う。
「ほんと、自信もっていいよ」
 平川先生は満足そうな笑顔のままつぶやくと、再び手元の作業へと戻る。
 再び沈黙。時間がループしてしまっているのではないかと疑ってしまうほど、先刻と同じような状況。
 いつもならもっと饒舌(じょうぜつ)な筈の先生を黙らせるその所為(しょい)が気にならないと言えば嘘になってしまうことは確かであるので、話題の一つにでも、と尋ねてみる。
「なにしてるんですか?」
「んー、もうちょっと待ってて」
「はぁ……」
 希(こいねが)っていた返答は得られず、会話は終了を迎えた。
 しかし特にやることも見つからず、最前(さいぜん)手渡された用紙をパラパラと捲(めく)ってみる。
 なるほど、ちんぷんかんぷんだ。
 ものの数秒で通読を断念した私は二人掛けベンチに再度身を預け、空を仰ぐ。いつのまにかそよ風は止んでいて、先生の服の擦れる音だけが耳朶を揺らす。
 目を閉じてると、太陽の恩恵を十分に受けるこの時間がとてつもなく貴重なものに感じられた。もう二か月もしないうちに寒さに対して薄弱な増田(ますだ)悠稀(ゆうき)はここに訪れるのをぱたりとやめてしまうだろう。
 自分でも気づかないうちに意識の幅が狭小(きょうしょう)になっていた。
 情けないことではあるが、未だ己の欲望に打ち勝つ術すら知らない私は、今回も現(うつつ)の淵から手を離してそのまま闇の奥深くへと落ちて行ってしまったのだった。



 ・・・
 ・・・・・
 ・・・・・・・



「………うき、ゆうき!」
「!?」
 友人の声が私の瞼を完全に開かせたのは、すっかり空がオレンジ色に染まってしまってからのことだった。
 そのまま辺りをきょろきょろと見渡すが、もちろん平川先生の姿はない。
「いつまで寝てんの、もう部活終わっちゃったよ。帰ろ!」
 微量ながら額に汗を滲ませた友人が呆れ返ったように起立を促す。確か彼女は、バトミントン部。
 私と同じく帰る家の無い彼女は、クラスメイトであると同時に学生寮のルームメイトでもあった。
「ご、ごめん、寝てたみたいで」
「それはいいけど……って悠稀、そんなん作ってたの?」
 友人が笑いながら私の膝を指さす。
「え?」
 当然、何かを作成した覚えはないため、不審感を覚えつつ顔の角度を下へ向くように調整すると、
「これ…………」
「懐かしいー!」
 そこには、地面に生えているシロツメクサで作られた花冠(はなかんむり)が乗せられていた。女の子なら誰しも小さい頃に作ったであろう、あの手作り感満載のやつだ。
 しかし、私はこれを製した人物が女の子でないことを瞬時に把握していた。
 ベンチの斜め前の地表を確認すればわかる。その一帯だけシロツメクサの花は根こそぎ刈り取られているはずだ。
「っ…………」
 あの時の彼の手元の作業はこれだ。
 どんな名称を持つのか知り得ない感触、胸のあたりがざわざわと騒いで、温かくて切なくて――――そんな感情が一気に私を支配する。
 行動として表してしまえばきっと居場所もわからない平川先生のもとへと走り出してしまうのではないか。それほどに嬉しくて、『特別』な何かを感じた。
「どしたの?おいてくよ!」
 すでに歩き始めている彼女の後を追って立ち上がり、プリントを少々乱雑に掴む。
「ん?」
 その時、どこかでカサリと紙の擦れ合う音がした。
 しばらく身の回りを探る。
 そして着衣しているブレザーのポケットで、その答えを見つけた。
 二つ折りにされた小さな紙を開くと、見慣れてはいるが綺麗とはとても言い難い字が羅列していた。
「…………!」
 再びそれをポケットへと戻し、一歩を進み始めたとき、少しだけ口角が上がっていることに気が付く。

 今夜は眠れるかもしれない、なんてありえない期待を胸にしながら布団へもぐりこんでみるのも、たまには悪くないと思う。



『おやすみ、いい夢見てね。』

『不眠少女の恋愛話』

『不眠少女の恋愛話』 増本リョー 作

眠れない少女と数学教師の恋。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2015-01-18
CC BY-NC-ND

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