情事のあとで

 僕がまだ十六才で学生だったころ、僕は優れた小説家になりたくて、その為に人のしてないような非日常的な経験を求めて、毎日を過ごしていた。風景を描くためには美しい風景を見てそれを描写しなければならない。人物を描くためには色々な人物を観察しなくてはならない。そう思い、僕は美しい冬の空を一日中眺めて過ごしたり、学校のさまざまな人たちをひそかに観察したりして人生を送っていた。
学校にも色々な人々がいる。優しい生徒達や教師、いばりたがる人、勉強にばかり精が出る生徒、話ばかりする女の生徒達。
そうした人々の中で僕は、外の人間に、傍観者に徹した。そうしていくつかの下手な小説や詩も書いていたのである。しかし、そのことは、勿論誰にも秘密だった。いつか僕の優れた作品が陽の目を見、人々に知られる日が来る。
そう空想しながら僕は、学校生活を送っていた。

 運命は静かに、死神のようにやって来る。冬の日のある一日の午後、僕は学校を早引けして、(それも小説の材料にするためだった)都内にある大きな公園を散歩していた。と、公園のベンチに一人の帽子をかぶった美しい女の人がいた。山吹色の珍しい帽子をかぶった美貌の女の人である。彼女は公園のベンチに座り一人、本を読んでいた。すると、ある考えが僕の心に浮かんだ。小説家の修行の為に、ちょっとこの人に話しかけてみよう。そうして僕は、その運命の人、時子に話かけることを決めたのだった。
「こんにちは」と僕は声をかけた。
そうして
「今日はいい日ですね、わりと暖かいし、陽射も美しいし、なによりあなたという人に出会えた」
 そう僕は小説に出てくるようなキザな台詞を口にした。すると彼女は笑った。その笑いのなんと眩しいことだったろう。僕は一瞬、目的を忘れた。
「あなたみたいな若い子が私みたいなおばさんにナンパ?嬉しいけど、あいにくと私はもう結婚しているの。子供も居るのよ」
 それは、僕にはかえって都合がよかった。人妻と付き合えば、なにか小説のいい材料になるかもしれない。それに彼女は美しかった、きれいな黒髪の、夏の浜辺なんかが似合いそうな、みずみずしい美貌の女性である。まだ三十に届かない年だろうか、彼女はグレイのコートを着ていた。僕は彼女の夫をうらやましく思った。
「でも、あなた、子供みたいなきれいな眼をしているのね。本当にまだちいさい子供みたい。」
そう言って彼女はさびしそうに微笑んだ。
そう言われたその日、僕は強引に彼女の横に座り話を続けた。けれども、彼女は僕のことなんかは、相手にしないで、話にあいづちを打つだけだった。連絡先を聞いても、彼女は笑って相手にしてくれなかった。そうして二、三日した別の日に彼女は再び公園の同じベンチに腰かけていた。また文庫本を持って。
僕は再び、彼女に話しかけた。彼女はなんと美しかったろう。そうしてその話の合間に見せる表情はなんと魅力的だったろう。僕は彼女に会うことを目的にして、その公園に通うようになった。



 そうして、そんな日が何度か続いたのち、彼女は、僕のことを認めてくれた。彼女は連絡先のメールアドレスと電話番号を僕に教えてくれた、けれど、次の一言が付いていた。
「私達はあくまで、知り合いだからね。勘違いしないでね。正嗣君」
 そう笑って彼女は言うのだった。


 ある日、僕は彼女に言った。
「美的なもの、美しいものについて、君はどう思う?僕は小説家志望だけれど、そういった美的なものには、本当にかなわないんだ。例えば優れた小説や映画や漫画だね。そう言った美的なものには、本当に価値があるよ。でも僕達は、その物語を読むことしかできない。美しい恋愛小説を読んでも、その恋愛を体験することは、できないんだ。そう言ったものを読むことで満足はできるけどね。僕が思うに最高の小説や映画といったものは、人生における最高の道草だね」
「そう。あなた詩人みたいね。私も昔は、よく本を読んだわ、そうしてそういう話も友達とした。でもそれは過去のこと。今の私の夫は小説なんか読まないし私とそんな話もしない。だからそういう話があなたとできてうれしいわ」
と彼女は言い、笑った。
 彼女は僕と話を重ねるようになって、よく笑うようになった。ある日、僕は公園のベンチで彼女に膝枕をしてもらった。
「こんなこと、するの、あなた初めて?私も男の人にこんなことするの初めてよ。どんな感じ?」
「こんな感じだとは思わなかった。正直する人を馬鹿にしてたよ。それに、こんなことをすることになるとは思わなかったな」
と僕は言い
「実は時子さん、僕があなたに近づいたのは小説を書くためなんだ。僕はどうしても、誰かと恋に落ちてそのことを小説の材料にするつもりだったんだ。だから、初めは君のこと好きってわけじゃなかった。でも今は君のことが好きだ。こころから好きだ。友達よりも家族よりも誰よりも好きだ」
 そう僕は告白した。
「そうじゃあ今度、私と寝てみる?」
 それを聞いて、僕は嬉しさを感じた。ちょうど深夜の静かな時間に陽の出を期待するような嬉しさだった。
「気が向いたら連絡して。ちゃんと大人のすることを教えてあげるから」
 そう彼女は言って、その日、僕たちは別れた。
 僕は迷うまでもなかった。彼女、時子と寝ることは、僕に大きな期待感を持たせたし、いち早く大人になることは、僕にある種の高揚感を感じさせた。
 そうして、春になり僕は彼女と寝た。それは、瀟洒なラブホテルの一室だった。彼女と僕はともにシャワーを浴び、キスをして(この時が僕達の最初のキスだった)そうして寝た。それは、僕に喜びをもたらしたが、また他面女と寝ることは、高校生の考えるものとは違うことを知らされた。僕は思ったほどの快楽を感じなかったのだ。自慰のほうがまだいい方だった。しかしでもそれを差し引いても、美しい彼女と寝て、抱き上げることは大きな喜びをもたらした。僕と彼女の関係は、春が過ぎ、夏になっても、まだ続いた。小説の材料にするという当初の目的は果たしたが、僕は彼女に未練を感じ離したくなくなったのだ。美しく、洗練された大人の彼女から、離れたくなくなったのだ。もっと大人の女を、彼女の知っている大人の知識を僕は知りたかった。いや、それだけでなく、僕は彼女にすっかり迷いこんでいたのだ。こころの底から彼女のことを好きになっていて、別れることを考えられなくなっていたのだ。
そんなことを考えると僕は僕と彼女のこれからの将来について考えてしまうのだった。それは、将来もなにもない。僕達の関係に終着点はないのだ。彼女はどこまでいっても人妻で、僕はどこまでいっても学生だった。そうして夏が過ぎ、秋を迎えるころに二人の関係も終わりになった。時子と僕との関係が、彼女の夫にばれたのだ。僕は思い出す。
それは、雨の降る日の日曜だった。僕は、次の日に時子と会うことを、ともに寝ることを期待して、家に閉じこもっていた。するとそこに彼女からメールが届いた。
しかし、その文面は彼女では無かった。彼女の夫からだった。それには、直截的な文章で、時子と別れてほしい旨が書いてあった。



それは僕を絶望のどん底に突き落とした。
もう彼女と会えない、あの眼も、そうして暖かなあの言葉も、魅力的なあの体も僕には、もう手に入らないのだ。もう終わったのだ。それも全てが。
運命の残酷さを僕は恨んだ。時子と僕が最初から同じクラスメイトだったら、同じ年であったら。そうすれば、僕達はこの地上で永遠とも思えるほど一緒に居れただろう。
だったらなぜ運命は、僕達を会わせたのだろう。なぜ僕をあの公園のベンチに向かわせたのだろう。そうしてなぜ僕は彼女に話しかけたのだろう。それを思うと、僕は泣けるのだった。


 そうして季節が過ぎ、時が過ぎ、僕は学校を卒業し大学に入り、そこも卒業し、念願の小説家になった。胸に時子とのことの悲しみを秘めたまま。
 時子との話をある中編にして、書いたりもした。
 僕はもはや、高校生ではなかった。一人のれっきとした。小説家だった。そうして僕は再び、時子のことを考えるようになったのだった。もう一度、彼女に会いたい。僕は再び彼女に連絡した。
 久しぶりに会う彼女は以前のままだった。僕は自分が小説家になったこと、有名人になったことを打ち明けた。(ペンネームを使っていたので、彼女にはわからなかったのだ)彼女はそのことを素直に喜んでくれた。そうして、彼女がもう離婚したことを知り僕は以前よりも、より激しく彼女を求めるようになった。時子はもう三十の後半に近かった。しかしそれでも、彼女は美しかった。
そうして、外で会いデートをして一緒に寝る、そうしてその日の別離が来る。
そうなると、僕はなごり惜しさに胸が締め付けられるのだった。

そうして再会から一月経ち、二月が経ち、僕らの関係にも変化が起きた。彼女も僕ももう以前の僕達では無かった。僕は女性と寝ることにも慣れていた。一度彼女の家に行き、共に過ごしたこともある。(彼女は夫からの慰謝料で生活していた)
「私達って正反対よね」ある日彼女はそう言った。
「そうかなあ」
「ええ、そうよ。あなたは真面目でよく働くし、私ときたら、今まで仕事に就いたこともなかったんだから」そう彼女は言った。そうして、「こんな詩、知ってる?『本当を云ふと、方角ちがいの二人が、一番愛し合えるのさ』私の好きな詩なの、誰かわかる?」
「ラフォルグ、ジュール・ラフォルグだよ」
「そうよ。小説書いてるだけ、あるわね」そう言って彼女は笑った。
「いままで、あなたは、何してきたの?どうやって人生を送ってきたの?こんなこと聞くの、おかしい?」
それを聞かれて僕は苦笑した。
「それはこっちの台詞だよ。君の方こそ僕と出会うまでどうしてきたんだい?」
「何ってずっと悩んできたわ。私、このままでいいのかって。結婚する前には、幸せな家庭を築くのが、私の夢だった。だから、金持ちの彼と結婚したわ。でも結婚した後はずっと悩んでた。私の人生ってこれでいいのかって。そんな時にあなたに出会ったの。実は私、はじめてあなたに出会ったときから、あなたのこと気に入っていた。それは、あなたが若かっただからじゃない。あなたがあなただったからなの。わたしの言うこと分かる?」
「いや分かるよ。僕こそ君が君だったから声をかけたんだ。今にして思えばそうだ。僕達は出会うべくして、出会ったんだ」
そう言うと僕は彼女を抱き寄せキスをした。まるで、初めてのように熱いキスだった。
そうした僕達の日常は六月まで続いた。雨が降る日なんかには、僕たちは部屋でくつろいで、いつまでも話をしたものだった。
ところが六月のある日、僕達の間に事件が起きた。時子が何者かに連れ出され身代金を要求されたのだ。犯人はだれかわからなかった。彼女の携帯からその犯人からメールが僕の元に届いた。
「これは復讐だ。無事に時子を取戻したければ、一千万を用意し、指定の場所に置いていけ。その場所はまたメールする」そう書いてあった。
僕は悩んだ。時子を無事に取り戻すにはどうすればいいか。警察。その考えが一瞬浮かんだ。けれどやはり時子の命が危ない。もし彼女が死んでしまったら、本当に取り返しのつかないことになる。僕は身代金を用意することにした。
僕は不安だった。彼女が今、どうなっているのか。それを考えているとその日の夜も僕は寝れないのだった。そうして僕は現金化したお金、一千万を犯人が指定した場所、荻窪の駅のごみ箱に投函した。しかしそのあとも犯人からはなんの連絡も来なかった。
僕が警察に連絡しようか考えていた。そう考えていた数日後、僕は時子の携帯から、メールを受け取った。それには、こう書いてあった。「私に会いに、代官山の家に来てほしい。どうか私を信じて。色々こみいった事情はあなたが来れば解決するから」
そのメールは時子からではないかもしれなかった。「これは復讐だ」そう言った犯人からのメールかもしれなかった。彼に必要なのは、現金ではなかったのかもしれない。といことは、犯人は僕か時子の関係者ということになる。もしかしたら、彼女の前の夫かもしれない。しかし時子が居る可能性も多分にある。同時に罠の可能性も。僕は決心してメールを受け取った、そうしてその日にその場所を訪れた。



代官山の時子の家に僕は何度も行ったことがあった。合鍵も勿論持っていた。その日は雨だった。しのつくような雨が辺り一面に降り、人々を濡らしていた。僕はドアを開け、その家に入っていった。玄関に上がり靴を脱ぎ、そうして時子の部屋に入っていった。彼女は居た。そうしてロープで拘束され口にはガムテープを貼られていた。僕はゆっくりとガムテープを外した。時子は話ができるようになると、まっさきにこう言った。
「どうしてここに来たの?罠ってわからないの?あなたはここに来ては行けないの」
「だって、君がいるじゃないか。誰でもない君が。君に会うためなら僕はどこへだって行くよ。たとえ罠ってわかっていても。死ぬ可能性があったとしても」
「犯人は私の元夫よ。早くロープをほどいて!」
そう言われ、僕は彼女を拘束していたロープをほどいた。
「早く逃げましょう!そうして警察を呼ばなきゃ!」
「それはもう大丈夫」そう僕が言った時だった。
「動くな」
そう背後から言われ僕は驚いた。何か固いものが僕の背に押し付けられていた。それはナイフだった。


「俺のことは知っているだろう。俺は時子の夫だ」
 そう男は僕に言った。その男、譲二はわりとがっしりとした体形をしていて、腹も出ていなかった。ちょうどスポーツをしていた青年がそのまま年を取った感じだった。
「なぜ、時子を拉致したんだ。何が目的なんだ」そう僕は言った。
「目的もくそもない。言ったはずだ。これは復讐だと。俺は時子をお前に取られたんだ。その復讐だ」
そう言うと、彼は僕の首筋にナイフを走らせた。冷たいナイフの感触と鋭い痛みが僕を襲った。
 僕は手をロープで拘束され、座らされていた。男の傍らには時子がいる。彼女は不安そうに僕と男を見ていた。
「金が目的ではなかったのか?」
「金なんか、俺にはうなるほどある。俺の実家は金持ちでね、まあそのおかげで時子と結婚できたわけだが」
そう言って男はにやりと笑った。
「今日、お前には死んでもらう。それも時子の前でだ。それで、俺の復讐は完了する。時子は再び、俺のものになる」
そう言うと彼は僕を殴った。
「やめて!」と時子が言った。男は強引に彼女を組み伏せようとした。ナイフを持つ手を時子はつかみ必死に抵抗した。しかし、所詮は女の力だ。彼女はふり払われてしまった。
「正嗣を殺すなら、私を殺して!」
「そんなにこいつがいいのか。なぜ俺じゃいけないんだ!」そう言って彼はナイフを僕に向けて、振りかざした。終わった。僕はそう思い、僕は目をつむった。だが痛みはやってこない。目をあけるとナイフを受け僕の身代わりになった彼女がいた。「あなたが好き。たとえ死んでも」そう言い残して彼女は倒れた。「救急車を!」
 そう僕は言ったが、男は呆けたように彼女を見ているだけだった。
「なぜ、なんでこいつをかばったんだ」
男はそう言って彼女を刺したナイフを自分の胸に刺した。


 しばらくして、僕があらかじめ連絡していた知人が警察を呼んでくれた。僕はあらかじめ時子の家に行って二時間連絡がなければ警察を呼ぶようにと、知人に手配していたのだ。全てが終わった。時子も譲二も死にひとり僕だけが生き残った。


それからさらに、数か月がたった。時子が死んだ悲しみにも僕は少しずつ慣れ始めた。
 ある日、僕は夢を見た。初めて時子に会ったときのあのベンチで、話す夢だった。時子は元気そうだった。
「今は春なの?」と僕が聞くと、
「いつも春なの。夏になったり秋になったりもするけどね。冬は来ないわ。私達、冬は大嫌いだから」
「また、こうして会えるんだね」
「そう、正嗣とはいつでも会えるから」
そう言って僕らは他愛のない話をした。



僕は今、この手記を書いている。そろそろみんなともお別れだ。僕も君たちもいずれ死ぬ。生あるもので死なないものは無いはこの世にない。だからみんなともここでお別れしよう。死んでしまえば、また僕達は会えるから。

情事のあとで

情事のあとで

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-17

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