平成26年度『楓』 夏季号 中長編小説集

信州大学文藝部楓機関紙『楓』の平成26年度『楓』夏季号中長編小説集です。

収録作品


『セカイメツボウモクジロク』 寄木露美著
『王子様ごっこ』 青木一郎著
『愛してる』 北柊トキ著
『少年英雄激突譚』  風観吹著

『セカイメツボウモクジロク』 寄木露美著


ぴーんぽーんぱーんぽーん。えー、世界の皆さま。世界全人類の皆さまー。こちら全宇宙管理局のものですー。えー、聞こえますか―。今から重要なお知らせがありますー。まあ重要かどうかは人によるだろうけどー。

えー、いいですかー。聞いてくださいー。今から二か月後に世界は滅亡しまーす。嘘だと思う方もいるでしょうがこれは事実です―。まぎれもない事実です―。えー世界は滅亡するのですー。まああと残りの二か月、せいぜい生きて下さいねー。みんな死ぬけどー。

えー、こちら全宇宙管理局のものがお送りしましたー。

*******

1. Everyday (before month)

アパートの階段を下りると、空から生首が降ってきた。

食料品が少なくなったので、買い出しに出かけようとしたらこれだ。舌打ちをして私はそれを避ける。生首は湿った音を立てて地面に激突し、醜悪な中身をまき散らした。シロとピンクが混じり、ぶよぶよとした脳みそが割れた頭から飛び出て地面をまだら模様に染める。赤いスイカの中から苺の混じった豆腐が出ている、そんな感じ。初めて見た時は恐怖で泣き叫んだものの、既に慣れきってしまったせいか特に反応を起こすことも無い。

割れた生首を見ていると苺アイスとか豆腐が食べられなくなる。奴らは脳漿そっくりだから。まあ今となっては両方とも高級品だけれども。

「ああ、ごめんなさい。そっちに飛んできてしまいましたか?」

三階から見慣れた顔が飛び出し、私に向けて声を掛けた。目元に皺を寄せてにこにこと微笑むこの人はうちのアパートの大家さんだ。ぱっと見は人の良さそうな顔をしたおじさんだけれど、全身についた返り血が全てを台無しにしている。

「大家さん。また強盗?」

「ええ、そうですよ。最近は随分と多くなってしまったので困ったものです」

顔中を血だらけにしながら大家さんは苦笑する。高級そうなワイシャツを赤く染め、顔から垂れた雫をぺろりと舐めあげる姿は妙にアンバランスだ。

「まあいいんですけれどね。これであと一週間は持ちます」

天からの恵みに、アーメン。そんなことを言いながら大家さんは部屋に戻っていった。首なし死体を引きずって。

随分変わったなぁ、大家さん。前は上品な雰囲気漂うふつうのおじさんだったのに。あの日から全てが変わってしまった。気が付いたら優しい大家さんは食人鬼だ。

とりあえずスーパーに行こう。早くしないとまた物資が無くな

ってしまう。未だに見慣れない赤い空を見上げ、私は一歩踏み出した。

*******

ぴーんぽーんぱーんぽーん。えー、世界の皆さま。世界全人類の皆さまー。こちら全宇宙管理局のものですー。えー、聞こえますか―。今から重要なお知らせがありますー。まあ重要かどうかは人によるだろうけどー。

えー、いいですかー。聞いてくださいー。今から二か月後に世界は滅亡しまーす。嘘だと思う方もいるでしょうがこれは事実です―。まぎれもない事実です―。えー世界は滅亡するのですー。まああと残りの二か月、せいぜい生きて下さいねー。みんな死ぬけどー。

えー、こちら全宇宙管理局のものがお送りしましたー。

*******

あのふざけた全世界放送から一ヶ月がたった。確か平日の昼十二時。テレビ、ラジオ、パソコン、スマートフォンといった思いつく限り全ての情報機器がジャックされ、あれが放送されたのだ。世界は二か月後に滅亡します。人を馬鹿にしているような、間延びした喋り方で画面の向こうの男はそう言った。

最初こそは皆信じようとしなかったし、各国の大統領や首相は謎の放送の発信源を辿ろうとした。けれども駄目だった。それから一週間も経たないうちにNASAが緊急ニュースを放送した。何やら地球に大きな隕石が近づいているとか。ぶつかったら最後、地球は木端微塵になってしまうとか。それでも大多数の人間は信じようとしなかった。あれだけ信じられていたノストラダムスだって結局外れたんだもの。嘘だって思う方が大多数に決まってる。

世界が滅亡する。大多数の人たちは信用しなかった。それは国家の元首だって一緒だった。それが覆ったのは、確か二週間前の事件の時だ。念のためという理由で全世界の首相、大統領、国王といった人たちが集められ、大きな会議が開かれることになった。誰が企画したのかは知らない。まあそんなことはどうでもいいことだ。重要なのは、そこに集まった全ての人たちが全員死んだってこと。

その世界大会議の日の午後三時、またジャックが行われた。確かその時私は大学にいたっけ。スライドに映し出された講義を見ていたら、急に画面が切り替わったんだった。画面の向こうに座るスーツ姿の男は呆れた顔をして、話を始めた。

えー、全世界の皆さま。皆さま、こんにちはー。こちら全宇宙管理局のものですー。いいですかー。まだあなたたちは信じていないようですねー。やっぱり人類は皆馬鹿なんですかねー。まあ馬鹿なんだろうけれどー。

えー、皆さま全員信じていないようなので、証拠映像でも見せましょうかねー。さん、にい、いち、はい。

スーツ姿の男から、画面が切り替わる。映っていたのは、会議室と、そこに散らばる赤い綿状の大量の何かだった。そのままカメラがズームアップする。赤い綿に、白いつぶつぶや赤黒い色の繊維質状の何か、白い破片が大量に混じっている。なに、これ。

急に講義室の一部から悲鳴が上がった。女子の一部が嘔吐してる。酸っぱくて苦い、嘔吐物特有の匂いがこちらまで漂って、こちらも気持ち悪くなる。更にカメラがズームする。白いつぶつぶと、近くに転がっている白い玉が良く見える。白いつぶつぶはところどころ黄ばみ、凹凸がついている。一見すると全体が白かった玉も一部に青色の丸がついている。あっ、これもしかして。胃の奥からむかむかとしたものが込み上げてくる。この会議室にある赤い綿ってもしかして全部。

あー、見えましたー? あー、その様子だと見えてるみたいですねー。あー、はい。説明したんですけれど納得していないようだったので皆さんには死んでもらいました。

まあこんな感じに全て真実なんですよー。世界が滅亡することは嘘でもなんでもないんです―。えっ、なんで滅亡するのかって? どうでもいいじゃーないですかー。

まあ仕方ないので説明してあげましょう。あなたたち人類は増えすぎたんです。地球の中だけで争うのならよかったですよー。でもあなたたちは宇宙にも手を伸ばそうとしている。困るんですよ。片田舎の下等生物がそんな考えに至られちゃあ。

だから滅亡させることにしました。あなたたち全員死んでもらいます。

全宇宙管理局からは以上ですー。はいー、ありがとうございましたー。

講義室の中は嘔吐物の匂いと、すすり泣く声とで一杯だった。というか私も吐いた。画面越しとはいえ誰だってミンチになった死体のズームアップ映像なんて見たら吐くに決まってる。近くの女子大生はその場で失神したせいで、髪の毛やら服やらがまき散らされた吐瀉物に塗れてるし、なんというか地獄絵図だ。当然ながら講義は中止になって、その場の混乱を学務が収めることになった。しかし変化はそれだけに終わらない。

講義室の外に出た私たちが目にしたのは、真っ赤に染まった空だった。まだ午後三時だというのに、空は朱色に染まっている。夕焼けよりも赤い、赤い空。近くで悲鳴を上げる声が聞こえた。その日から日中の空の色は赤色になった。

世界大会議でたくさんの人が死に、空が赤く染まったその日から世界はどんどん変わっていった。世界滅亡を信じる人たちが大多数を占め、日常的にストライキやらなんやらが起こる様になった。世界が滅亡するから、皆全部が全部馬鹿馬鹿しくなったんだと思う。真面目に働く大人は少数派になり、経済は破たんした。

そこからは早かった。食糧不足やら交通網の麻痺やら暴動やら色々なことが一気に起きて、治安は一気に悪化した。更にそれを取り締まる人も殆どいなくなった。いたとしても大体は暴走した人たちに殺されて身ぐるみ剥がれて捨てられる。その棄てられた体ですら食べる人たちがいるんだから恐ろしい。

大家さんもそのうちの一人だ。大家さんの家はそこそこのお金持ちだから強盗に入る人が絶えない。大家さんはそれをひたすら返り討ちにしたものの、日に日に増えていく死体に困っていた。それに加えて交通網の麻痺からくる食糧難が起き、食べ物に困る様になったので死体を食べてみることにしたらしい。結果、人肉の美味しさに気付いた大家さんは家に侵入する強盗を返り討ちにして肉を食べるようになった。

大家さんは人間をさばくのが上手だ。血抜きをされ、皮を剥がれて骨を抜き取られ、様々な下処理をされた肉はパッと見て人間だなんて分からない。私もたまにおすそ分けを貰う。最初は拒否していたけれどだんだん慣れた。人は食べなければ生きていけないのだ。アーメン。

食糧を貰いにスーパーへと向かう。貰う、というかまあ大体は物々交換だけれど。道路はひび割れ、割られた電燈や血液や内臓がそこらに飛び散っている。警察が機能していないから街は犯罪の温床だ。たった一つのパンを巡って三人が殺されるのだって珍しくない。こうやって見ると、随分前に読んだ漫画の世紀末は割と正しかったんじゃないかと思う。

道を歩いている途中に、横転して荷物をまき散らしたトラックが見えた。恐らくはどこかに輸送している最中に襲われたんだろう。近くによると、転がった段ボールの中に人参が入っているのが見えた。ラッキーだ。野菜は高級品だから滅多に手に入らない。段ボールの中から数本抜き取り、その場を後にする。野菜はスーパーでの物々交換にも役に立つ。人参一本でどれだけのものが手に入るか分からない。あとで大家さんにも一本あげよう。

そんなことを考えているうちにスーパーについた。スーパー、と言ってもスーパーなのは店の外観だけだ。確かオーナーが混乱に乗じて食品の値上げを行い、それに怒った人たちによって従業員全員が皆殺しにされたんだった。生前あんなにも偉そうだったオーナーは今ではスーパー前にさらされた生首だけを残してみんなの胃の中に入っている。

割られたガラス扉を抜けると、既に市場が始まっていた。並んでいるのは主に肉とか肉とか肉とかだ。たまに野菜とか、穀物とかが並んでいる。この二つは大体人気だからすぐに売り切れてしまうけれど。

『キャット 百グラム』とか『ドッグ 五百グラム』、『ネフィ 一

キロ』といったコーナーをくぐり抜け、お目当てのものの所に向かう。ちなみにネフィは人肉のことだ。ネフィリムからとって『ネフィ』らしい。思いっきり人肉と書くと罪悪感を持つ人々が出るから表記を変えたのだと顔なじみのお兄さんが言っていた。ちなみに『キャット』と『ドッグ』と『ネフィ』だと『ネフィ』がいちばん安い。そこらへんに一杯いるからだ。

大量に並べられた肉市場を抜けてたどり着いたのは穀物コーナーだった。ここにあるのは米、麦、トウモロコシ、芋といった保存が効くものばかりだ。故にそこそこの値段がすることが多い。店主は地面に座って行きかう人を観察している。穀物コーナーは人気だけれど、価値が高いから一部の人しか買うことが出来ないのだ。強奪しようにも店主の右手にはマシンガンが握られている。強いものに下手に手を出せば返り討ちにあうのが目に見えている。

「お米を三キロ売ってもらえますか」

声を掛けると、フードの奥の顔が私を見た。濃いひげに覆われ、筋肉をつけた姿はどこかの国の傭兵みたいだといつも思う。

「あー、交換できる品は?」

私は鞄から人参一本と大家さんに貰った肉一キロを出した。ちなみに肉は太ももの部分で、ローズマリーとお酒に漬け込まれている。大家さん自慢の一品だ。

「ふむ。これは高田のところの肉だね」

「はい」

高田は大家さんの名前。大家さんがさばいて下処理をした肉はあまり臭くないので市場だと人気だった。

「ふーむ。お姉さん、もう少し何か持ってる? これだけじゃあ譲れない」

「じゃあ、これでどうですか」

人参を一本足す。店主は少し考え込むそぶりを見せた後、深く頷いた。商談成立だ。私は米三キロを鞄の中に入れ、スーパーを後にした。他に欲しいものは特にない。今日は米を買いにくることだけが目的だったから、他に交換できるものもないし。

スーパーを出た瞬間、私は鞄を体にぴったりくっつけた。そのままわざとらしいほどにゆっくりとした足取りで家に向かう。スーパーに物資を買いに行くので恐ろしいのは、行きよりも帰り道だ。いつ買ったものを奪われるか分からない。奪われるだけだったらまだしも、殺される可能性もあるのだ。

大通りをそのまま私は歩いていく。何人かの人たちとすれ違うものの、とくに気づかれてはいないようだ。裏通りよりも大通りの方が犯罪率は低い。モラルが欠けた状況でも、なんだかんだ内心は犯罪に手を染めたくない人たちも多いのだ。だから人が見ていそうな大通りの、特に昼間に堂々とした犯罪が起こることは少ない。その分人通りの少ない辺りは危険だけれども。

しかし油断は禁物だ。大通りを抜けて、三分。アパートまで百メートルの時点でそれは起こった。目の前に包丁を持った男が飛び出してきたのだ。男の目は血走り、腕は震えている。恐らく犯

罪をするのは初めてなんだろう。アパート近くなのに変な奴が出た。面倒くさいなぁ。そう思いながら私は鞄の中に手を突っ込む。

「その手荷物をよこせ! さもなくば」

そう言いかけた所で男の声は止まった。厳密に言うと、私が止めた。

乾いた銃声と共に男の頭に風穴があいた。ぴくぴくと男の指先がけいれんし、包丁を落とす。そしてそのまま男は倒れた。

私はため息をついて、鞄から取り出した銃をしまった。このまえうちに押し入った強盗から取り上げたものだ。その時はたまたま大家さんがうちに差し入れに来た時だったので、その銃は使われることなく私の元へと渡った。ちなみに強盗は夕食のハンバーグになった。

やっぱり銃は携帯しておいたほうが便利だ。私は残りの弾薬を数える。一、二、三、四。あと少ししたら市場に買いにいかなくては。

弾薬の数を確認した後、地面に転がった死体を私は見た。荷物が増えるけれど、これも大家さんの所に持って行って解体してもらおう。きっと大家さんも喜ぶだろう。私は血に濡れた男の襟首を掴み、そのままひっぱっていった。脳漿やら体液やら飛び散った鼻汁やらでぬるぬるして気持ち悪いけれど仕方ない。美味しいご飯を食べるためには少しくらいの嫌なことには目をつぶらなければならないのだから。

なんとなく、私は空を眺めた。空はあの日と同じ、鮮やかな茜色だ。

*******

2. Guiniol (before three weeks)

共有しましょう。共有しましょう。全てを分かち合って、導かれるのを待ちましょう。皆同じになってしまえば、何も怖いことなんてないのです。

共有しましょう。一緒になりましょう。私たちは同じ肉を分かち合い、共に終末まで生きるのです。全宇宙の神が全てを終わらせてくれます。嗚呼、共有しましょう!

外で大音量で流される放送に、私は朝からたたき起こされた。今日も朝から宗教勧誘がうるさい。カーテンを力任せに開けると、メガホンのついた宣伝車が見えた。車体にはでかでかと『全宇宙終末共有会』という文字と、どこかで見たことのあるようなロゴマーク書かれている。最近この街で見かける団体だ。アパートに突撃したりビラを撒いたり街中を宣伝車で走っていたりする。

……であるからして故に我々は共有するべきなのです。全てを分かち合い、終末に備えましょう。そうすることで全宇宙の神が全てを終わらせ、私達を楽園へと導きます。

それにしてもうるさい。あまりの音量に窓ガラスが割れんばかりにみしみしと軋んでいる。近くで怒鳴り声が上がった。恐らく隣の部屋の浪人生が苛々としているんだろう。

とりあえずうるさいうるさいと思っていてもどうしようもないので、朝ごはんを食べることにする。備品のカセットコンロと昨日炊いたばかりのご飯、そして冷蔵庫の中に貯蔵されている肉を取り出す。これだけ世紀末をやっているのに電気や水道が未だに通っているのはある意味すごい。きっと前の数倍、数十倍の賃金や食べ物と引き換えに誰かを働かせているのだろう。五日に一度は停電するけれど。

カセットコンロにフライパンを置き、スイッチを付ける。フライパンが温まったところで油を垂らし、湯気が上がったところでタレにつけこんだ肉を投入。焼けた肉とタレの匂いが鼻の奥をくすぐっていく。ちなみに調味料はそこまで高くない。それ単体だと食べられないというのが大きいのだろう。

「いただきます」

焼けた肉をご飯の上に置き、手を合わせた。数日前に道で遭遇した男に、合掌。弱肉強食という言葉が頭をよぎる。まあいいか、正当防衛だし。

肉をご飯と一緒に口の中に放り込み、咀嚼する。人肉は弾力があって飲み込みにくい。最初の頃はこの感覚が嫌で、わざわざ細かくして水で流し込むようにして食べていたことを思い出した。

放送は暫く行われていたものの、突如ハウリングや機械が壊される音が響き、そして停止した。同時に何かが割れる音や悲鳴が聞こえる。窓から外を見ると、数人の男が宣伝車に襲い掛かっていた。窓ガラスが割られ、中から人が引きずり出されている。あーあ。こんな朝早くから一時間も放送なんてするから。

窓の外の様子をちらりと見た後、私は着替えることにした。このままずっと外の様子を見ていてもいいけれど確実に血液やらなんやらが飛ぶ惨事になるので気分が悪くなる事うけあいだからだ。慣れているとはいえ、朝っぱらからホラー映画顔負けのスプラッターなんて見たくない。食器を片づけた後、私は今日着る服を適当に取り出し、着替えた。外から聞こえる悲鳴は段々細くなり、やがて途切れた。御臨終なさったのだろう。心の中で唱える。アーメン。

さて、今日はどうしようか。一日家でごろごろしているのも退屈だ。かといって大学に行くのもどうだろうか。あの日以降公共機関は殆ど機能していない。それは大学にしても同じことで「一連の騒動が収まるまで全生徒は自宅待機」という味気ない指示が出されてしまった。友人たちはどうしているんだろうか。無事なのか、それとも食べられてしまっているのか。

治安が悪化した後、女性が一人で出歩くことは推奨されなくな

った。いつ誰かが襲ってくるかもわからない。私は食料品の買い足しなどで出かけることがあるけれど、それはあくまで武器を持参しているからだ。普通の女子大生は銃なんて持ち合わせていないから一人で出歩くことはないだろう。

しかし退屈だ。最初の頃は毎日が休みになって嬉しかったものの、三日もすれば飽きてくる。大家さんの手伝いでもするか、それともお隣の浪人生の所にでも遊びに行くか。とりあえず部屋から出てみよう。私は鞄の中に銃器と包丁を入れ、玄関を開けた。いや、開けようとした。

最初に感じたのは何かにぶちあたる手ごたえだった。ごん、という鈍い音と同時にドアが開かなくなる。五センチの隙間から赤い空と、地面に横たわった白い指先が見えた。……開かない。

何度も繰り返してみるものの、開かない。ドアの前に大家さんが取り逃がした死体でも置かれているのだろうか。参ったなぁ。扉が空かないのは困る。少し考えた後、私はお隣に頼むことにした。ベッド横から大体五十センチ上の壁。そこを思いっきり殴る。ごすん。我ながらいい音が出た。隣は反応しない。あの野郎、またエロゲでもやってるのか。ごすん。もう一度殴るも反応は無し。仕方ないので最終兵器を使う。棚の奥にしまってある『凶悪な』それ。丸っこいフォルムに大きな文字盤。そして頭頂部についた大きな二つのベル。現在の時刻は八時四十七分。耳栓をしてから針金のようなそれをカチリと音がする所に合わせ、壁に押し付ける。私はそれ――『超凶悪目覚まし:激起き君』の裏に付けられているスイッチをオンにした。

ジリリリリリリリリ。ジリリリリリリリリ。朝です。朝です。朝です。

実の持ち主である私ですら一日で使用を辞めたそれは、凶悪な音を放ちだした。時計を持った腕を伝い、振動が体へと伝わる。耳栓をつけても『激起き君』は凶悪だ。全身が音波の刺激を受け、ぐらぐらと揺れる感覚が頭に伝わる。

それは隣人も同じだったんだろう。一分と経たないうちにこちら側の壁が思いっきり叩かれた。どうやら気づいたらしい。私は『激起き君』のスイッチをオフにして、ベランダに続く窓を開けた。ベランダに出ると同時に隣の部屋の窓も空き、眉間に皺をよせた顔が私を思いっきり睨みつける。

彼の名前は鈴橋李弦。私の部屋の隣に住む名目上は浪人生のニートである。

「うるせーよ。今一体何時だと思ってるんだよ」

異常なほど低い声で、彼は私に怨念のこもった声を投げた。そういえば彼は極度の低血圧だったか。鈴橋は、朝は非常に機嫌が悪い。

「ごめん。でもちょっと頼みごとがあってさ」

「なんだよ。しょぼい用事なら容赦しねーぞ」

「ちょっとうちの前の玄関みてくれない。大家さんが残した死体が転がってるみたいで開かないんだよね」

舌打ちをした後、彼は部屋の中へとひっこんだ。少ししてから

隣室のドアが空く音がする。どうやら手伝ってくれるらしい。

「おい」

ドアの向こうから隣人の声が聞こえた。鉄の扉を隔てているため、ややくぐもっている。

「移動させたぞ、あと」

鈴橋が言い切る前に私は扉を開けた。鉄の重い感触の後に、顔に涼しい風があたる。ドアの向こうには相変わらず不機嫌そうな顔をした隣人と、そして。

「こいつ、生きてる」

全身ぼろぼろになった男が、鈴橋の足元に転がっていた。

それから十五分後。部屋の中には私含めて三人がいた。隣人は部屋の真ん中に腰かけ、本棚の漫画を読んでいる。確かこの間発売した最新刊だ。大の男が少女漫画を読んでいる光景は、なんか面白い。ちょっと笑いそうになってしまったものの、ここで笑うと彼に睨まれることは確定なので我慢しておく。

まあ鈴橋は置いておこう。玄関に転がっていた男は意識がないまま、私の部屋の床に横たえられていた。薄い胸が上下しているので、一応は生きているらしい。年齢は大体二十代から三十代といったところ。やせ形で、背はふつう。顔立ちはまあまあ整っている。ただ、髪と肌が異様に白い。所謂アルビノというやつだろうか。

さて、どうしようか。私は隣人と床の男を交互にみた。とりあえず大家さんに解体されないように部屋に運んだものの、ここからどうしよう。鈴橋は相変わらず漫画を読んでいてわれ関せずだ。最新刊だからって集中しやがって、ちくしょう。足元の男も目が覚めないし、どうしようもない。

それにしても、と私は男を見る。男の身に着けていたカッターシャツとズボンは血で染まっていたり所々裂けている。しかし男の体にはかすり傷一つついていない。これは、どういうことなんだろう。

そんなことを考えながら男の顔を眺めていると、白い睫がぴくりと動いた。あっと思うのとほぼ同時に男は目を開く。瞳の色は、ややピンクがかった赤色だ。男は数度瞬きした後、ゆっくりと上体を起こした。まだ頭が上手く働いていないのか、ややぼーっとした様子だ。

「目、さめた?」

私が声を掛けると、男はじっと私を見た。

「私の部屋の前に転がってたんだけどさ。あなたは、どこの人?」

男は何も言わない。ただ、私の目を見つめている。ひどく純粋で無垢なような、そんな目。その澄んだ赤色に射抜かれたような気分になる。

暫く見た後、男は私から視線を逸らした。そのままゆっくりと部屋の中を見渡し、そして。

「覚えてない、です」

男はぼそりと呟いた。白い睫に縁どられた赤い瞳がそっと伏せられる。

「……覚えてない?」

一瞬男の言っている言葉の意味が分からなかった。覚えてない? 覚えてないって、何を?

脳内が思考停止状態に陥った私を尻目に、鈴橋は漫画を読んでいる。縋るような目を送ると、彼はわざとらしいため息をつきながら漫画を脇に置いた。

「覚えてないっていうのは、あれか。住所も年齢も職業も全部、覚えてないってことかよ」

鈴橋の言葉に男は頷いた。と、いう事はつまり。

「名前も憶えてないってこと?」

「……はい」

きまり悪そうに男は言う。これは困った。まさか住所職業姓名全て不定の迷子を拾うことになるとは思わなかった。

「……鈴橋、どうしよう」

「俺に聞かれても困る」

助けの言葉がぴしゃりと弾かれる。お巡りさんに助けを求めようにも、近所の警察署は瓦解状態だ。市役所も、町内会も、頼りようがない気がする。かといってこのまま放流するのもどうなんだろうか。大した手荷物もない状態じゃ、飢えて死ぬか殺されて食肉にされてしまうかのどちらかしか残っていないだろう。

「まあ、なんつうかさ」

暫く沈黙が続く。十分ほど経って口を開いたのは鈴橋だった。

「お前の部屋の前に落ちてたんだし、お前が拾えばいいんじゃねえの」

「……は?」

「いや、だってどうしようもねえだろ。要らねえなら大家のとこ連れてって解体してもらえばいいしさ」

鈴橋の言葉に押し黙る。それは、大分忍びない。ちらりと男を見ると、また目が合った。そんな純粋な目で見ないでほしい。

「解体、かぁ」

大家さんだったらいとも簡単にこの男を殺し、解体することが出来るだろう。恐らく明日の夜には焼肉パーティーが出来るはずだ。けれども、そんなことをする気にはなれなかった。彼の赤い瞳は、まっすぐに私を射抜いていたのだ。

「……いいよ」

「あ?」

「その人、うちにおいても」

正直、男をうちに置いておくことはリスクが高いだろうと思う。食べ物だって二人分必要だし、いつ襲われるかも分からない。けれども、不思議と男を見捨てられない気がした。

「じゃあ、決定だな」

鈴橋は一人で頷く。正直さっさと終わらせて部屋に帰りたいのだろう。男はというと、相変わらず何を考えているのか分からない顔をして座っている。まあ、これでいいか。問題が発生したら後でなんとかすればいいだろうし。

「結局」

男が口を開く。高すぎず、低すぎない声だ。

「僕は、どうすればいいんでしょうか」

「聞いてなかった? うちで暫く預かるの」

男の目が少しだけ見開かれる。けれどもそれは一瞬のことで、また最初の無表情に戻ってしまった。

「まあ後は二人で適当に色々決めとけ。俺は部屋に戻る」

りりんちゃんが俺を待ってるからな、とだけ言って隣人は部屋に戻っていった。こんな時でもアニメか。

部屋には私と男だけが残される。男は部屋の隅で膝を抱えて座っている。浮世離れした色素のない肌と髪、そして赤い瞳のせいか一種のオブジェみたいだ。

そういえば男のことは、なんて呼べばいいんだろうか。なんというか名前がない状態だと色々と面倒な気がする。

「えっと」

私の声に反応して男が顔を上げる。

「名前、憶えてないんだよね」

男は頷く。どうしようか。脳内でいくつか候補を上げる。白いからシロ。ちょっとシンプルすぎる。白太郎。ダサい。うさぴょん。ふざけ過ぎ。うーん。

男の方をちらりと見る。自分のことだというのに、男はわれ関せずと言った様子だ。赤い瞳は何の意思もこもっていないように見える。まるで人形みたいに。

「ノラ」

大学で取り扱ったとある戯曲の主人公に、男の姿が被る。まあノラという名前は女の名前だけれど、別にいいか。

ノラ、と私に呼ばれた男は不思議そうな顔で私を見た。

「……ノラ?」

「あなたの名前。便宜上ないと、色々面倒でしょ?」

男は噛んで消化するかのように、その名前を繰り返した。ノラ。

「気にいった?」

男は少し考えるそぶりを見せた後、小さく頷いた。硝子のような瞳に、一瞬だけ光がやどった気がした。

「私の名前は笹子晶。これからよろしくね。ノラ」

やや遅れた後、彼はしっかりと頷いた。何にしろ、これから私と彼の生活は始まるのだ。

世界が終わるまでの後三週間、私と彼の出会いが互いを大きく変えることになるなんて。この時は思いもしなかった。

ノラが家にやってきてから三日が経過していた。相変わらず彼は殆ど喋らない。日中はひたすらぼーっと宙を眺め、出された物

を食べ、夜になったら寝ている。ちなみに彼は浴室の使い方や水道の出し方といった生活の基本すら知らなかった。今まで一体どんな風に生活していたんだろうか。

「ノラ」

男は名前を呼ぶと、ちらりとこちらを見た。その動作は人間というよりも動物に近い。

「何か、したいこととかないの」

男はかぶりを振り、また宙を眺める作業に入った。……困った。彼はいいかもしれないけれど、私が困る。ただでさえ赤の他人が家の中にいるということに慣れないのに、その人がひたすら体操座りをして宙を眺めているだけだったら嫌にもなる。

「……はぁ」

思わずため息をつくと、ノラはちらりとこちらを見た。しかしそれは一瞬のことで、再び目を逸らされる。なんなんだ、一体。

なんでこんな奴を拾ったんだろう。早くも後悔が私を襲いつつあった。

「……したいこと、とは」

「……へ?」

赤い瞳がまっすぐに私を見つめている。

「したいこと、というのは何なんでしょうか」

男の言っている意味が一瞬分からなくなった。

「僕がしたいことを度々あなたは聞く。けれど、僕にはそれがよく分からない」

心底不思議で仕方ないという口調で彼は言った。

どうしよう。まさかこんな答えが返ってくるとは思わなかった。というか彼は今までどんな環境にいたんだろうか。

「……どうしよう」

ちらりと本棚を見ると、写真集が目に入った。世界のいろいろな風景が写されたものだ。

写真集に手を伸ばし、ノラの前に差し出す。言うなれば彼は子供だ。多分この世界の千分の一も知らない。

「これ、見てみて」

私の手元の写真集を見て、彼はぱちぱちと目を瞬かせた。恐る恐る手を伸ばし、そのまま表紙をめくる。その先に広がっていたのは、目が覚めるような青。南国の海が中表紙にでかでかと写っていた。

「……これは、なんですか」

赤い瞳に光が宿る。さっきまでのガラス玉じゃない、意思を持ったカーネリアンの色。

「海だよ」

「……海?」

海、と彼は繰り返す。初めて食べたものを何度も咀嚼するかのように、海という言葉を噛み砕く。

「そう、海」

「行ってみたい」

初めて、ノラが即答した。初めてのことに驚き、思わず変な声

が出る。

「どうかしましたか」

「いや、初めてじゃん。ノラがそんな風に意見出したの」

ノラは一瞬よく分からなさそうな顔をした後、小さく頷いた。

「海かぁ」

海は好きだ。青くて澄み切っていて、全てを飲み込んでくれる気がする。世界の終わりが告げられる前は、度々原付に乗って海へと行ったっけ。今となっては足がないから行きようがないけれど。

「申し訳ないけれど、ちょっと無理かな」

「なぜ今は駄目なんですか」

「遠いからだよ。ここから歩くとかなりかかるの」

「……そう」

やや釈然としない顔で彼は返事を返した。ここまで感情が出る顔を見るのは初めてかもしれない。少し気の毒になってきた。

「世界が終わる日にでも、行ってみる?」

電車で大体一時間程の距離だったから、半日ほど歩けば到着することができるだろう。疲れるだろうけれど、まあいいか。

「本当ですか?」

「うん。まあ疲れるだろうけれどね。最後だしいいかなって」

そう言った瞬間、ノラの口元が少しだけ緩んだ。もしかして、初めて笑った?

「笑った」

それに彼は首を傾げた。顔がいつもの無表情に戻る。残念。

「もっと笑えばいいのに」

思わず言葉が零れる。せっかくそこそこかっこいいのだから、笑ったらもっと魅力的だろう。

「……笑う?」

「そう。もっと口角上げてさ」

少し考え込むそぶりを見せた後、彼は作り笑いをした。口角が引きつり、目が笑っていない。正直怖い。

「いや、無理に笑わなくてもいいけれど」

そうですか、と返して彼は作り笑顔をやめた。赤い瞳がさっきまでのガラス玉に戻る。

そういえばこの顔、どこかで見たことがある気がする。けれども、私と彼が知り合ったのは三日前の話だ。それなのに、どこで?

「どうかしましたか?」

気が付くとノラがこっちを見ていた。

「ううん、なんでもない」

私の返事を聞いて、ノラは再び視線を逸らした。きっと気のせいだ。私はかぶりを振る。

そういえばさっきの写真集はどうしたんだっけ。ちらりとノラを見ると彼は写真集をじっと見つめていた。

「ノラ」

名前を呼ぶと、再びかれはこちらを見た。そう言えば彼はたまに本棚を見ることがあった、気がする。

「私の部屋の本、興味があったら読んでもいいよ」

ぴくり、と彼の体が動く。やや躊躇うようなそぶりを見せた後、彼はそっと床の写真集へと手を伸ばした。ぱらり、とページを捲る。心なしか、少し楽しそうだ。

そのまま彼は一日を本を読んで過ごした。私が話しかけた時は本から目を離すものの、それ以外の日はずっと本に釘づけだった。若干思うことがないわけではなかったけれど、まあいいかな、と思う。前の様な人形状態よりはずっといい。

「ノラ」

名前を呼ぶと彼はこちらを見た。何か用があるのかと、首を傾げて見せる。ごめん、特に意味はない。読んでみただけ。

特に用事がないと分かったのか、彼は再び画集に目を戻した。何はともあれ何かに興味を持ってくれてよかった。安堵からかため息が出る。今日よりも明日、明日よりも明後日。だんだん変わってくれたらいいな。そう思って、私は手元の小説に目を落としたのだった。

*******

3. Philosophy (before two weeks)

ぴちちち、と外で小鳥が鳴く声が聞こえた。頭の中がまだ動いていないものの、なんとか体を起こす。外は既に明るい。もう朝か。ベッドから起き上がり、カーテンへと歩こうとする。その道中、何かに思いっきり足をぶつけた。ごん、という鈍い音が木霊する。

「あ、ごめん」

ぶつかったそれ――床の布団にくるまっていた彼は体を九の字に曲げて悶絶していた。赤い寝ぼけ眼に涙を浮かべながら、必死に私を睨みつける。

「……痛い」

身元不明職業不定の迷子男ことノラを拾って既に一週間が経過していた。殺されるだとか襲われるだとか心配していたようなことは全くなく、彼は私の部屋でのんびりとすごしている。ちなみに恋人関係に陥るとかそんなことは、断じてない。念のため。

ノラは拗ねたような顔をして布団に顔を埋めた。大の男がそんなことをしても大してかわいくない。

「ごめんってば」

「……嫌、です」

この野郎。

「今日のごはん、ノラの好きな物で良いから」

その言葉にぴくりと彼は反応する。彼に猫耳がついてたらぴんと立っているに違いない。

「……野菜炒め」

よりによって超高額なやつをリクエストしやがった。キャベツなんてめったに手に入らないのに。これは大家さん宅で人間解体のバイトをするしかない。

野菜炒めをどうするかは考えてとりあえず起きよう。寝ぼけた頭をリセットするために洗面台へと向かう。ペットボトルにストックしておいた水をつかって顔を洗った。三日ぶりの断水。水道と電気が断線する周期が、前に比べて短くなってきている。

冷蔵庫から肉を出し、フライパンに並べて焼いた。この間入手したばかりのレタスを下に引き、肉を並べる。あとは二人分のご飯をつけて完成。

二人分の食事をもってリビングに戻ると、ノラは布団を片づけて待っていた。テーブルに食事を並べ、向かい合わせに座る。手を合わせた後、朝ごはんを食べ始めた。

「ノラ」

私は男の名前を呼んだ。男は肉の下のレタスばかりに箸を進めている。

「肉も食べなさい。てか私の分のレタスまで食うな」

「…………」

若干嫌そうな顔をしながら、彼はレタスから箸を引っ込めた。大多数の人間とは違って、ノラは野菜が好きだ。というか人肉は必要最低限でしか取らない。

しかも暴力沙汰もあまり好きではないから、戦力としては問題外だ。せいぜい外に行ったときに荷物持ちをさせること、あと男性がいるということによる犯罪避けくらいにしか役に立たない。それでも何故追い出さないのかと言われると、自分でもよく分からない。なんというか、植物とか動物とか飼ってる感じに近いのかもしれない。

食事が食べ終わった後、歯磨きをした後着替える。部屋の隅でノラは本を読んでいるが、とくに気にしない。最初の方は気にしていたけど、向こうがあまりにも無反応なのでまあいいか、と思っている。

「ノラ、大家さんの所に行くけれどついてくる?」

少し考えるそぶりを見せた後、彼は小さく首を振った。まあ、行きたくはないか。靴を履き、玄関の扉を開ける。

「あの」

ちらりと振り返ると、玄関までノラが出て来ていた。相変わらず表情は硬い。けれども、ぎこちない笑みを作っている。

「いってらっしゃい」

彼ににこりと笑いかけ、私は部屋を出て行く。

彼は前に比べて、少しずつ表情を出すようになっていた。ちょっとずつ、『人形』から抜け出しつつあるかもしれない。

とりあえず大家さんの所へ行こう。そして、解体を手伝ってお肉を貰おう。多分なんとかなるだろう。

三階の大家さんの部屋の前につく。室内からやや物騒な音が聞こえているものの、まあ気にしないことにする。

「大家さん、こんにちは」

扉をノックした後呼びかける。やや遅れた後、金属音と同時に大家さんが顔を出した。顔にはがっつり返り血がついている。

「おや、笹子さんじゃないですか。今日はどうしたんですか」

「大家さん。今、忙しくないですか?」

「あなたも、なかなか図太いですよねぇ」

いいですよ、と笑って大家さんは私を部屋の中に導いた。上品な外装の家具は所々赤く染まり、室内からは異臭がする。上品な木彫りの扉を潜ると、そこは地獄絵図だった。

床にしかれたビニールには、二体の死体が横たわっていた。一人はかなり解体が進んでいるが、もう一人は綺麗なままだ。そこまでひどい匂いがしないので、おそらく昨日か一昨日の間に殺されたんだろう。

「昨日、丁度二人強盗にやってきましてねぇ。返り討ちにしたのですが、一人ではさばききれなくて」

解体が進んでいる方の死体に牛刀を突き立てながら大家さんは言う。死体はだるま状態になっており、表皮がなくなっていた。人体模型そっくりのそれは、逆に現実感がないのであまり怖くない。

「恐らく体をさばくのは難しいと思うので、そちらの手を解体してもらえますか」

大家さんはそう言って部屋の隅に転がっている右手と思わしき物体を示した。それを被拾い、牛刀をつきたてる。大分慣れてきたせいか、肉はあっさりと刃を飲み込んだ。

そのまま筋肉の筋に沿って、丁寧に解体していく。前は怖くて仕方がなかったけれど、今はもうそんなことはない。肉や魚をさばくのと同じだ。こうやって人を解体していると、人間も牛や豚、魚と変わらない動物なんだなぁと思う。

「あなたもそう思いますよね」

私の考えを読み取ったのか、大家さんが語りかけてきた。私のもっているものよりも一回り大きな牛刀で、男の腹をさばいている。筋肉の壁からでろりと飛び出した腸を引き出しながら、大家さんは微笑んだ。

「世界がまだこうなる前、私は外科医をしていました。人の頭や腹を開けて、腫瘍を取り出す度に思っていたのですよ。人間も、他の動物と変わらないとね」

大家さんはにこにこと笑う。笑いながら、男の腸を引き出していく。ずりゅ、ぶちぶちぶちという鈍い音と同時に腸は完全に腹から出された。それを切り取って、ビニール袋の中に捨てる。その間も、彼はずっと笑顔だ。

「初めて人を殺して食べることを考えた時、こう思ったんです。人間も、動物と変わらない。それなのに人間を食べることがどうしてタブーと言えるのか、とね」

「……まあ、そうですね」

他の人が見たらきっと、大家さんは狂ってると言うのだろう。けれどもこの状況じゃ、そう言ってられない。だって、食べなきゃ食べられる。自分が食べられる立場になりたくなかったら、食べるしかない。筋肉を剥がされて、ピンク混じりの骨になった腕を見ながら思う。こうなりたくなかったなら。

「あの」

「はい?」

「大家さんは」

考えた言葉を一度噤む。こんな質問はナンセンスだけれど、それでも聞いておきたい。

「大家さんは、世界が終わると思いますか?」

大家さんの手が止まる。少しだけ考え込むそぶりをして、彼は言う。

「終わると思いますよ」

「それは、何故?」

「笹子さんは、この世界が美しいと思いますか?」

「……へ?」

大家さんの言葉に、思わず変な声が出た。随分と急な問いかけだ。

この世界が美しいか。私は考える。暴力が日常と化し、モラルも何もなくなった世界。道路には血が散乱し、今日もどこかで争う人の怒声と悲鳴が聞こえる世界。

「私はね、この世界はこうなる前も元々狂っていたと思うんです。そりゃあ今と比べたらいろいろな規律が守られていましたよ。けれども、人の本心はそうじゃない。誰もが皆誰かより優れていたいし、様々な物を手に入れたい」

大家さんの手が、内臓へと伸びる、胃を、肺を、肝臓を、心臓を取り出しながら彼は言う。その瞳はどこか空虚で、それでいて狂人じみている。

「全宇宙管理局は、その内面をあばきたかったんじゃないですかね。本当に我々の内面が狂っているのか、そうでないか。そして、その結果がこれです。私含め多くの人間は同族食いに走り、街中で犯罪率が増加している」

大家さんは解体している死体をちらりと見た。その視線は普段のものよりずっと冷たい。一瞬、大家さんが恐ろしく感じた。

「もし今から実は世界は滅びませんよ、などと言われて、それで前の世界が帰ってくるとあなたは思いますか?」

「……それは」

「私は思いません。一度崩壊したものは、戻らないんです」

もしかして、と思う。もしかして、この人は。

「こんな崩壊した世界は、もう続かなくてもいいんですよ」

大家さんはどこか悲しそうな笑みを浮かべた。もしかして、この人は内心こういう行為に自己嫌悪を感じてしまっているんじゃないだろうか。人を殺して食べざるを得ない自分にも、それを容認する世界にも。

「大家さん」

「……なんちゃって! 全部嘘ですよ」

今までの悲壮な雰囲気はどこへやら、大家さんは一瞬で普段の大家さんに戻ってしまっていた。普段通りの、飄々とした大家さんに。

「私が人を解体して食べてるのは、そりゃあ生きていくためもありますけれど。楽しい殻ですよ」

「……大家さん、びっくりしたじゃないですか」

「それは申し訳ないことをしましたねぇ。まあおじさんの洒落という事で、許して下さい」

そんな軽口を言う間にも、大家さんの手元の死体はどんどん解体されていく。ブロック状の塊になったそれは、他の生き物となんら変わらない。

「どちらにしろ、恐らく世界は滅ぶでしょうね。そうでなかったら、あまりにも救われません。殺された彼らも、それを食べる人々も」

「……大家さんは」

私の問いかけに、大家さんは不思議そうな顔でこちらを見る。上品そうな紳士の顔には、べっとりと返り血が付いている。

「どうしました?」

「……なんでもありません」

あなたは、この世界が滅んだら救われるのですか。

そう聞こうと思って私はかぶりを振った。やめよう、こんな悲しい問いかけは。こんなこと聞いても、どうにもならない。

「まあいいでしょう。とりあえず、腕が終わったら足もお願いします」

「えっ、まだあるんですか?」

「勿論。もう一体も解体するまで今日は返しません」

にっこり笑って大家さんは言う。その微笑みは、仏というより鬼だ。やっぱり来なきゃよかった。そう思いながら私は牛刀と向き合ったのだった。

結局大家さんに解放されたのは午後四時過ぎだった。体がもうくたくただ。体を動かしていないと眠気が襲ってくる。

ただ労働の対価は相当はずんでくれた。手元のビニール袋に入った大量の肉を見てそう思う。これで野菜がいくつか交換できる。

「ただいま」

鍵を開けて部屋へと入る。

「おかえりなさい」

やや遅れてすぐに返事が返ってきた。本を読んでいたノラが顔を上げ、こちらを迎えてくれる。最初の頃は写真集や画集ばかり読んでいたノラだけれど、最近は小説を読むのに凝りだした。最初はまともに字すら読めなかったのに。学習能力ってすごい。

「随分と、疲れた顔をしている」

「……まあ、ね」

やばい。喋ってるけど頭が働いてない。眠い。

「……ノラ」

ノラが不思議そうな顔をしてこちらを見る。赤い瞳が、夕日をうけてきらりと光る。

「なんでしょうか」

「……ごめん、買い物」

少し寝てから一緒に行こう。そう言おうとしたけれど途中で言葉が途切れてしまった。同時にどっと疲れが襲って体から力が抜ける。

「アキラ!」

あれ、初めて名前呼んでくれた? なんか嬉しいなぁ。そんなことを最後に思って、私の意識は薄らいでいった。

目が覚めると、外は既に真っ暗になっていた。慌てて飛び起きる。今、何時? ベッド脇の時計は既に八時を過ぎている。まずい、寝過ぎた。もうスーパーは閉まってる。

「やっと、起きた」

声の方を見ると、見慣れた白がそこにいた。

「スーパー、行ってきたよ」

ビニール袋に入ったそれを、彼は差し出す。中に入っていたのはキャベツと人参と玉葱、あとじゃがいもだった。

「えっ、あ、あの。うん。ありがとう」

驚きすぎて言葉が出ない。だって、あのノラが。基本的に必要最低限で外に出たがらないノラが。

「そんなに、驚く?」

「えっ、だって。ねぇ」

「……失礼ですね」

彼はぷいとそっぽを向いた。あ、拗ねたかも。

「ごめんね。でも、ありがとう」

「……はい」

というか、なんでこんなに野菜が手に入っているんだろうか。普通ここまで手に入るのは稀なはずなのに。そんなことを考えていると、ふと彼の袖が真っ赤になっていることに気付いた。

「ノラ、その腕」

「……ああ、これは」

別に大したことないです、と彼は言う。けれども、傍から見て分かるほどに彼の左袖は赤く染まっていた。どう見ても大怪我をしている。

「大したことないなんてことないよ。ちょっと見せて」

「……え、別に」

「別にいいなんてことないって」

無理やり飛びついて袖をまくる。きっとこの下にはひどい傷が……傷が。

傷が、ない?

「だから大丈夫だと」

「……でも、その袖どうしたの」

「外で倒れている人を介抱しただけ」

釈然としないものの、これ以上突っ込んでもどうしようもないので黙ることにする。多分喋ってくれないだろうし。

「とりあえず、ご飯作る?」

「手がいるのなら、貸します」

「じゃあキャベツ千切る係ね」

とりあえず気にしないことにしよう。何も知らなければ大丈夫、きっと。

世界が終わるまであと二週間。この日々が続いてくれればいい。そう思った。

「終末(ラグナロク)が見つかりました」

「ほう。どのあたりで」

「四日前、○○町のスーパーだそうです。一人だったそうで」

「ふむ。随分と探し回らせてくれたな。で、どのあたりに住んでいるか目星はついているのか」

「なんとなく目星はついてはいるのですが、まだ確定してはいません」

「そうか。早めに確定しておけ」

「はい、分かりました」

「奴は必ず回収せねばならないのでな。終末は我々にとって必要不可欠だ。世界が終わる、まさにその日までに」

*******

4. Ragnarok (before one week)

共有しましょう。共有しましょう。全てを分かち合って、導かれるのを待ちましょう。皆同じになってしまえば、何も怖いことなんてないのです。

共有しましょう。一緒になりましょう。私たちは同じ肉を分かち合い、共に終末まで生きるのです。全宇宙の神が全てを終わらせてくれます。嗚呼、共有しましょう!

今日も近所で新興宗教団体の宣伝車が演説を行っている。窓ガラスがびりびりと震えるほどの音量に、部屋に遊びに来ていた隣人がブチ切れた。

「あーっ、もう。うっせえよ!」

「鈴橋、うるさいのはあなたも同じでは」

「てめえは黙ってろ。この迷子男」

「迷子男じゃない。僕の名前はノラです」

室内もうるさくなってきた。ちなみに今日は暇つぶしにと隣人を呼んで三人で人生ゲーム中だ。世界が終わるまで一週間。暇で仕方ないので最近は隣人と三人でアナログなゲームをすることにはまっている。

「おい、笹子。てめえが飼ってるこの兎野郎をさっさと黙らせろ」

「アキラ。鈴橋がうるさいです」

「二人ともうるさいよ。あ、私一万エンの臨時収入ね」

二人があっと驚く顔になる。抗議の声が二人から上がったが、私は素知らぬ顔をして銀行から金を抜き取った。よそ見をしているからだ、馬鹿め。

あと少しで上がりになる。そんな時だった。

ぴーんぽーんと間延びした音。玄関のチャイムが鳴った。瞬時、玄関に緊張感が走る。

こんなご時世でわざわざ人の家に来てチャイムを鳴らすのは、碌な奴がいない。具体的には強盗とか強盗とか強盗とかだ。

「……誰だろう」

「おい、笹子。とりあえず銃携帯しとけ」

「言われなくても分かってる」

右腕にそれをそっと持ち、玄関へと向かう。のぞき穴に見えるのは、一人、二人……。

三人の人間が、玄関の前に立っていた。全員黒いスーツを着て、無表情で立っている。どう見ても怪しい。三人か……。若干相手にするにはきつい人数だ。

「鈴橋、大家さんに念のため電話して」

「了解」

玄関のドアの前で小さく深呼吸する。一、二、三。ドアチェーンをかけたまま、私は鉄の扉をそっと開けた。

「どなたですか」

「全宇宙終末共有会の者です。終末(ラグナロク)を、迎えに上がりました」

「……ラグナロク?」

ちょっと言っている意味が分からない。というかいつも外で宣伝している奴らじゃないか、こいつら。

「……なんですか、それ?」

「あなたの家にいるのは分かってるんですよ。さっさと出しなさい」

さもなくば、と男は懐に手を伸ばす。やばいぞ、これ。瞬間的に右手の銃を構え、引き金に手を掛ける。

「実力行使させて」

そこまで言ったところで男の声は途切れた。同時に鉄扉に思いっきり何かが衝突する音。その原因は分かりきっている。ドアチェーンを外して、私が思いっきり扉を開けたのだ。

想像した通り、男の一人は鉄扉に思いっきりぶつかって悶絶していた。残りの二人はあっけにとられている。それを尻目に私は容赦なく銃を突きつける。こういう時は、怯んだ方が負けだ。

「撃たれたくなかったらさっさと帰って。帰らなかったら撃つよ」

男たちの顔色が変わる。ああ、これ面倒くさいパターンだ。怯えて帰ってくれたらどれだけよかったことか。男たちは一斉に懐へと手を伸ばした。分かりやすい隙だ、チャンスをありがとう。

私は立ち上がりかけている男に向かって引き金を引いた。乾いた音と同時に男の首から血液が噴射する。頭を狙ったけれど外れた。ちっ。でも、とりあえず一人。

「こいつ、本気でうちやがった!」

男の一人が叫ぶ。そう、私はいつだって本気だ。本気じゃなきゃ、殺される。あの時みたいな目にはもうあいたくない。

男の一人が舌打ちし、懐からナイフを取り出す。ふりかぶったそれを、室内に入ることで避ける。キッチン脇にあったフライパンを手に取って、ナイフを持った手を叩こうとした。あれ、あと一人は?

「確保に向かえ!」

そう思うのと同時に私の脇を一人の男が走り抜ける。やられた! 追いかけようとした瞬間、足を思いっきり引っ掛けられる。あっと思った瞬間に地面に倒されていた。やばい、これ。

「いたぞ、終末だ!」

部屋から叫ぶ声が聞こえる。直後に鈴橋の言い争う声。だから終末って何だ。そんなことを考えている間に首根っこを掴まれ、部屋の中へと引き摺られていく。ノラ、鈴橋、ごめん。

「約二週間ぶりだな、終末」

室内に先に入った男は、鈴橋がなんとか倒していたようだった。鈴橋の足元に、血と土に塗れて倒れている男の姿が見える。どうやら近くにあった植木鉢で殴ったらしい。

男に引きずられてきた私を見て、鈴橋が呆れたような目を向けた。そんな奴に捕まったのかよ、だせえ。そんなことを目で語っている。

「おい、そいつをはなせ」

「終末を我々によこしたら女を返そう」

「だから終末って何のことだよ」

鈴橋が男に突っかかる。

「貴様らには関係のないことだ」

「いや、でもノラは私が拾ったんだし」

ペットか何かか。鈴橋が小声で毒づく。

「人の家に勝手に上り込んで、一体何なの」

「我々は終末を確保しにきただけだ。あいつは我が教団に必要なのだよ」

「だから終末ってなんだよ」

男は忌々しげに舌打ちし、ノラの方をじろりと見た。

「飲み込みの悪い奴らめ。週末は、貴様らの部屋にいたあの白い男のことだ」

思わずノラの方を見る。彼は相変わらず無表情だったけれども、少しだけ顔色が青白くなっているような気がした。

「どうせ貴様らはあの男の正体も何も知らないのだろう。あの男が我が教団の供物として天から捧げられたこともな」

本当に男が何を言っているかどうか分からない。終末って何だ。そもそも全宇宙終末共有会とやらの内容も知らないのに。

「さっきから意味分からないことばかり言わないでよ」

「ふん、貴様らのような一般人は知らんだろうな」

男はにやりと笑うと私を地面に叩きつけた。視界が歪み、体に痛みが走る。痛い、このやろう。男を睨みつけようとした瞬間、男はノラに向かって跳躍した。どん、という音と同時に男とノラの間から赤いものがしたたり落ちる。

「ノラ!」

刺されたんだ、と直感的に思った。頭の中が真っ白になる。どうしよう。どうしよう。

「てめぇ!」

鈴橋が男に飛びかかろうとする。男は鈴橋をあっさりといなし、地面に叩きつけた。分かりきってたことだけれど弱い。戦力として期待していなかったけれど。

ノラを引き摺り倒し、男は笑った。ノラの腹には深々とナイフが刺さっている。そんな、どうして。頭の中でぐるぐると疑問符が浮かぶ。助けて。ノラが。

男がノラに刺さったナイフを引き抜く。赤色の液体が噴射し、私の顔にかかった。

「よく見ろ。これが終末の正体だ」

男がノラのシャツを捲る。血に染まったシャツの下から、赤い肉が露出した腹が見える……はずだった。

ノラの腹についた傷は、どんどん薄くなっていった。まるでビデオを早回しするかのように、血液が止まり、組織が繋がり、傷口が薄ピンクの膜が張っていく。

なに、これ。

「こいつはそもそも人間ではない。貴様らは疑問に思わなかったか? この男の衣服はほぼ襤褸布であったのに、体に傷一つなかったことを」

頭の中に二週間前の光景がリフレインする。身に纏っていた服はぼろぼろで血塗れだったのに、体に傷一つ負っていなかったこと。一週間前、左袖が血まみれだったのにその下の腕は全くの無傷であったこと。

「此の顔に、見覚えはないか?」

男は笑いながらスマートフォンを差し出した。画面の向こうでは二か月前の全世界放送の録画が流れている。どこかつまらなそうな顔をした、スーツ姿の男。髪や瞳こそ黒いものの、その顔はノラにそっくりだった。

「……どういうこと?」

「こいつは全宇宙管理局の奴らの一人だ。何故この街に落ちてきたのかは知らないがな。そして」

そこまで行ったところで男の声は途切れる。直後、男の首が文字通り飛んだ。その場に血の雨が降る。血の雫がぼたぼたと音を立てて落ち、部屋を赤く汚した。

「間に合ったようですね」

首を失った体がゆっくりと倒れていく。その背後には、鉈を構えて微笑んでいる大家さんの姿があった。

「大家のおっさん、もうちょっと待てなかったのか。今そいつが重要な話をしている最中だったんだが」

「今殺さなければいつ殺すんですか。話をしていたからこそ彼は隙を見せていたんでしょうし」

小さく舌打ちをして鈴橋が起き上がる。大家さんに手を伸ばされたので、私もその手を掴んで体を起こした。少し体がずきずきするものの、多分大丈夫だろう。

「それに」

大家さんは流し目を向ける。視線の先には、ノラがいた。

「恐らく彼は全てを知っています」

大家さんの視線を受け、彼は目を伏せた。どこか怯えたような、びりびりとした空気がその場に流れる。

「とりあえず、知っていることを全て話してもらいましょうか」

大家さんの一言に、ノラはやや躊躇うような様子を見せ、やがてしっかりと頷いた。

「一つ、謝らなければいけないことがあります」

そう言ってノラは話を始めた。部屋に居るのは私と鈴橋と大家さん、そしてノラの四人。ちなみに部屋にあった死体は全て大家さんの家に運んだ。多分後でおいしいお肉になって帰ってくるだろう。

「初めて会った時に記憶喪失と言いましたが、半分は嘘です」

半分は嘘、とは。鈴橋が怪訝そうな表情を浮かべたのが見えた。恐らく私もあんな顔をしているんだろう。

「厳密に言うと、この街に落ちる前の記憶が欠落しているのです」 「えっと、それは」

おずおずと口に出す。つまり、どういうことなのだろうか。

「僕が全宇宙管理局に居た頃の記憶は全て失われているということです。僕自身、彼らに指摘されるまでは自分の正体を知りませんでした」

「つまり、あなたが覚えているのは全宇宙終末共有会に居た時からの記憶ということですか」

大家さんの言葉にノラは頷く。ここで、鈴橋が怪訝そうに口を出した。

「そもそも全宇宙終末共有会ってなんだよ。カルト宗教なのはなんとなく分かるが」

「その話も、これからします。全宇宙終末共有会は、終末に向けて全てを共有し、大きな一つの存在になることで終末に対する恐

怖を薄めようとする団体です」

「全てを共有する……?」

「はい。具体的には、同じ肉――人智を超えた存在である供物を食べることによって同じ存在になろうと」

いまいちピンとこない。

「でも、なんでそんなことするの」

「鈍いなぁ、お前」

鈴橋に若干馬鹿にされた。ちょっと腹が立つ。

「論理なんてどうでもいいんだよ。結局のところ信じるかどうかだ」

「まあその話はさておいて。供物というのは、ノラさん、あなたのことですね」

ノラは深く頷いた。供物――食べる? ノラを?

「僕の体はどんな深い傷を負っても再生する。だから」

「減らない食糧を飼ってたってことだろ。どんだけ肉を切り取っても再生するんだから、まあ便利だよな。しかも人智を超えた存在というお墨付きだ」

「……なに、それ」

上手く言葉が出ない。狂っている。ただそう思った。

「まあ人肉を食べると言った点では我々も彼らと変わりませんが」

「でも、ノラは生きてるじゃない。死体を食べるのとはわけが違うよ」

脳内に拘束されるノラの姿が思い浮かぶ。拘束され、暴れているところを無理やり押さえつけられ、肉を切り取られる。何人もの人間が同時に体中を切り取っていく。けれどもそれだけじゃ終わらない。切り取られた肉が再生したところに、更にナイフを突き立てられる。同じ苦しみがずっと続く。思わず眩暈がした。

「僕が、人ではないから」

ぼそり、とノラが溢した。

「お前たちのせいで我々の世界が滅ぶのだから、だからお前がこういう目に遭わされるのは当然の報いだと彼らは言っていました」

世界が滅びるのが納得いかないのは分かる。けれども、ノラ一人に八つ当たりするのは間違ってる。

「確かに我々からしたら彼らの考えは理解できません。けれども、彼らからしたら自分の考えこそ正義なのですよ」

「そんなこと……!」

間違っている、と言おうとして私ははっとした。死にたくなかったら殺せ。生きたかったら食べろ。彼らのやっていることも、私たちも。

「同じなんですよ、我々は。認めたくはないですが」

胃の中のものが逆流する。罪悪感も何もかも捨てたと思っていたのに。胃液独特の酸味と苦みの混じった味が口の中にあふれ出る。吐きそうになるのを、私はなんとか飲み込んだ。

「アキラ」

ノラが心配そうに見ている。大丈夫だよ、と言おうとしたけれど上手く声が出なかった。

「まあそれはさておいて。このままだとまずいでしょうね。ノラさんの居場所はばれてしまっているわけですし。近日中に全宇宙終末共有会は訪れるといっても過言ではないでしょう」

全員の間に沈黙が降りる。鈴橋がちらりとノラを見た。ノラは黙ったまま、俯いている。

「大丈夫だよ。いざとなったら逃げればいいし。世界が終わるまであと一週間なんだからきっと大丈夫」

私は無理やり明るい声を出した。希望にあふれたことを言わなければ、何か暗いものに呑まれてしまう気がした。

「とりあえず今日は解散しましょう。皆疲れているでしょうしね。対策は、明日にでも練ればいい」

大家さんの言葉に全員が頷く。このまま黙っていても何も始まらない。それだったら一日休んで明日にでも方策を考えた方がいい。結局その場は解散となり、その場にはノラと私の二人だけが残された。窓の外の空は既に紫色になっている。

「ノラ」

部屋の隅で膝を抱え、俯いたままの彼に話しかける。

「とりあえずご飯食べよう」

彼は小さく頷いた。二時間前まではあんなにも生き生きとした瞳をしていたのに今は拾われた時と同じガラス玉になってしまっていた。

それから四時間。私とノラは殆ど喋らないままに過ごした。会話がなかったわけじゃない。私が話しかけたらきちんと返事も返してくれた。けれどもそれだけだった。くだらない冗談だって言えるくらいの仲になっていたのに、全て最初に戻ってしまった。

いつも通りノラの布団を敷き互いに別々の寝場所で寝る。布団にくるまったノラは特になにも喋らない。

「ノラ」

名前を呼びかけると、布団の間から彼はちらりと顔を覗かせた。

正直今日は何が起こったのかとかノラの正体だとかで色々と疲れた日だった。ノラが人間じゃなかったとか全宇宙終末共有会とかいうカルト集団に飼われてたとかよく分かってない。けれども。

「私は、ノラを捨てる気なんてないよ」

人間じゃないとか体が再生するとかそんなことは正直どうでもいい。私にとって彼は彼だし、それ以外の何物でもない。

「ノラはノラだよ。ただそれだけ言いたかっただけ」

じゃあ、おやすみ。そう言ってベッドに行こうとした時だった。後ろに引っ張られる感覚と同時に世界が反転する。ぼす、という音と同時に体が布団に倒される。すぐ近くには、ノラの顔があった。押し倒された、ということに気付いたのは少し経った後だっ

た。

「……ノラ?」

「……ごめんなさい」

小声で彼は呟く。私の肩に顔を埋めながら、何度も彼は続けた。

「大丈夫だよ」

優しく背中を撫でてやる。小さな子供に親がするように、彼が謝る度に私は彼の背中を撫でた。私よりも大きな背中が震えている気がした。

「大丈夫」

大丈夫だ、きっと。明日になったらきっと全部なんとかなってる。今までだって大丈夫だったんだから、きっと今回だって何とかなる。そんなことを考えているうちにだんだん眠くなってきた。やばい。意識が薄れる。最後に見えたのは、ノラの泣きそうな顔だった。

次の日、ノラは私の前から姿を消した。

*******

5.Regret (before four days)

ノラが姿を消して、三日が経過した。ぽっかりと穴が開いたような感覚が、私の心の中に残っていた。

世界終末共有会がやってきた次の日に、彼は私の家からいなくなったのだった。最後に特に何も言われることもなかった。ただ、目が覚めたら彼はいなくなっていた。

鉄扉を叩く音と同時に、鍵が開く音がした。

「入るぞ」

鈴橋が部屋に入ってくる。鍵、かけてたのに。なんで。

「大家のおっさんに合鍵貰ったんだよ。お前があまりにもへこんでるから様子見てこいってさ」

それって不法侵入じゃないの。そう言おうとしたけれど面倒だからやめた。

「……大丈夫だよ」

「どう見ても大丈夫じゃねえだろ。葬式に三連続で行ったような顔しやがって」

鈴橋は私の隣に腰を下ろし、手に持っていたスーパーの袋を見せた。中に入っていたパック詰めの肉を私に見せる。

「どうせ三日間何も食ってねえんだろ。大家のおっさんからもらったから食え」

「……いらない」

「食えったら食え。今まで生きるのに誰より貪欲だった奴がそん

なんでどうする」

私は鈴橋から目を逸らした。自分でも驚くほどに何もかもがどうでも良くなっている。たかが同居人がいなくなっただけなのに。どうして。

「ほら、あーん」

パック詰めの肉を取り出し、箸につまんだ肉を私に向ける。

「俺がわざわざやってやるんだから。ほら、顔向けろよ」

「……鈴橋にやられても嬉しくない」

「なんだとこのやろう」

鈴橋は舌打ちをする。直後、顎をむんずと掴まれた。無理やり口を開けられ、中に肉を突っ込まれる。吐き出そうとしたものの口を手で塞がれた。仕方がないのでそのまま咀嚼し、飲み込む。生臭い、不味い。どうして今までこんなものを食べてこられたんだろうか。気持ち悪い。

「ちゃんと呑み込め」

ペットボトル詰めされた麦茶を口の中に突っ込まれた。やめて。窒息する。ほんとやめろ。

「……食べられるから!」

無理やり奴の手を払いのける。溢れた麦茶が少し床に零れたけれど気にしない。

「じゃあそのまま食え。全部食うまで見張ってるからな」

あんたは私のお母さんか。そんなことを思ったけれども言う気力もない。私は黙々とパックの中の肉を食べた。不味くて臭いそれを繰り返し咀嚼し、飲み込む。なんとか全部食べ終わり、私は一つ息を突いた。

「お前さ、気分転換に写真集でも見たらどうだ。例えばこれとか」

そう言って彼は本棚の中の一冊を取り出した。

「全部『読めた』頃にもう一回来るわ。大家さんが話したいことがあるらしいからな」

そう言って彼は出て行った。鈴橋の言った『読む』という言葉が気になったものの、そのまま私は彼を見送る。

鈴橋が出て行った後、私は残された写真集をちらりと見た。確か、ノラが初めて読んだ写真集だ。これを読んでどうしろというのだろうか。そのまま本を持ち上げ、中表紙を開ける。その時、白い小さな何かが下に落ちた。なんだろう、これ。床に落ちたそれを拾い上げる。それは、折りたたまれた紙片だった。何か文字が書いてあるようだ。私はそれを広げた。

中に書かれていたのは蚯蚓が這ったような汚い文字だった。正直なんて書いてあるのかすら分かりにくい。けれども、読まなければいけない気がした。

ササコアキラさまへ。

きゅうにでていってしまい、ごめんなさい。

このままあなたのところにいても、ただめいわくがかかるだけ

なのでぼくはきょうだんにかえることにしました。

あなたがどんなはんのうをしているのかぼくにはよくわかりません。けれども、おそらくはかなしんでいるのでしょう。なぜなら、ぼくもおなじきもちだから。

きょうだんにいたころぼくにあたえられていたのはまどがひとつついたせまくてくらいへやだけでした。きょうだんでぎしきがおこなわれるときだけ、ぼくはへやからだされました。そのままひろいへやにつれてかれて、おおぜいのひとにかこまれました。そこでぼくのからだにたくさんのはものがつきたてられ、ぼくのからだのにくはきりとられてかれらすべてのひとにたべられました。ないてもわめいてもかれらはぼくをかいほうしてはくれませんでした。

やがて、ぼくはかなしいこともおこることもわすれました。ただ、すべてをあきらめました。すべてをあきらめてしまえば、なにもつらいことなどないとおもったのです。

そんなぼくがきょうだんをぬけようとしたのは、まどのそとからみえるたくさんのひとびとのふうけいがうらやましいとおもったからでした。

きょうだんのそとはみにくいものであふれているのだときょうだんのひとびとはいいました。しんせいなそんざいであるぼくはけがれたせかいにいるべきではないと。けれども、ぼくはそうだとはおもえませんでした。たしかにいいあらそうこえやじゅうせいがきこえましたが、それとおなじくらいわらいごえもきこえました。ただまいにちをすごすなか、まどからみえるひとびとのたのしそうなようすをみることがぼくのゆいいつのたのしみとなりました。

きょうだんからぬけだせたのはぐうぜんのことです。そのひ、ぼくをおおひろまへとつれだすよていのおとこのうちのひとりはにっかをさぼり、もうひとりはたまたましんぞうほっさをおこしたのでした。どうするべきかぼくはまよいました。このままきょうだんのなかにいるのか、それともにげるか。かんがえたけっか、ぼくはにげることにしました。ぼくのからだはたしょうのむちゃをしてもなんとかなります。さんがいだてのまどからぼくはみをなげ、そのままにげだしました。そのままぼくはにげつづけました。おってをなんとかやりすごし、ぼくはてごろなあぱーとにかけこみました。そうしてあなたにひろわれたのです。

あぱーとでのひびはぼくがいままでけいけんしたことのないものでした。だれもぼくのからだもきずつけません。ぼくはぼくのままにふるまってもいいのだとしりました。あなたはまったくみずしらずのぼくをひろい、うけいれてくれました。それじたいがぼくにとってまったくなれないものでした。けれど、ふしぎといやではありません。むしろここちのよいものでした。このまま、ずっとつづいていけばいいとおもいました。

けれどもそうはいきません。ぼくはきょうだんにみつかってしまいました。このままあなたといっしょにいたら、あなたすらもきずつけてしまいます。ぼくはあなたをきずつけたくありません。

だから、ぼくはあなたからはなれなくてはいけないのです。

ごめんなさい。そしてさいごに。

しゅうまつまで、あなたがしあわせにすごせますように

ノラ

「馬鹿じゃないの」

思わず言葉が零れた。私の為に離れる? 私を傷つけたくないから? 私がいつそんなことを頼んだんだ。そんなこと、私は一言も言ってない。

「読み終わったようですね」

気が付いたら、後ろに大家さんが立っていた。いつのまに、部屋に入っていたんだろうか。

「大家さんは知ってたんですか。ノラが、手紙を残していったこと」

「……ええ。彼がここを出て行く前に、私に言付けていきましたから」

なんで大家さんにはいうのに私には言ってくれないんだ。そう言おうとしたものの言葉を飲み込んだ。ここで大家さんに何かを言ってもどうにもならない。

「あなたは、あの時のことを覚えていますか」

大家さんは私の目をじっと見る。私は、小さく頷いた。忘れるわけがない。私が、初めて人を殺した日のことなんて。

あれはいつのことだっただろうか。確か世界が壊れ始めてから二週間も経たない頃だった。宅配配達人を装った男に、私は襲われかけたのだ。

その時のことは良く覚えていない。ただ全身が痛んだことと、圧し掛かる男の荒い息遣いと、体中をまさぐる指のことは朧げに覚えている。あの時、必死に抵抗して。けれども押さえつけられて動けなかった。そして、一瞬の隙をついて。近くに落ちていたフライパンで男を殴ったのだ。

覚えているのは腕に残った感触。何度も殴り、変形した男の頭。そして床に流れる血流。大家さんの所に男の死体をもって行ったとき、大家さんはひどく驚いた顔をしていたっけ。

それからだった。それから、私は人を殺すことに躊躇しなくなった。殺さなかった自分が死ぬ。あの時と同じように。それだけじゃない。全てに対して薄っぺらな感情しか抱けなくなった。きっとあの瞬間に心の奥が枯れてしまったんだろうと思う。

「あの日以降、あなたは心の奥から笑ったり泣いたり怒ったりするということが殆どなくなりました。私なりに心配はしていたんですよ」

「……はい」

「けれどもあなたは変わった。あの青年を拾ってからね」

ノラがいた日々を思い出す。ただ一日を過ごすだけだったのに、不思議と楽しかった。特別なことなんて何もなかったのに。写真集を読んだことも、料理を一緒に食べたことも、鈴橋を交えて色々ゲームをしたことも、全て鮮明に覚えている。枯れかけた心を救ってくれたのは、きっと彼だった。

「あなたは、あの青年が好きなんですね」

大家さんの言葉に、私は小さく頷いた。どうして今まで気づかなかったんだろう。私はきっと、ノラのことが。

「ねえ、笹子さん。あなたはノラさんを取り戻したいですか?」

私は躊躇せずに頷いた。最後に見たノラの顔は、泣き出しそうな顔だった。あんな顔を覚えたまま世界が終わるのは嫌だ。どうせだったら、笑った顔が見たい。それに。

「約束したんです。世界が終わるその日に、海を見に行こうって」

「それは随分と素敵な約束ですね」

大家さんが微笑む。そう、私は約束したのだ。世界が終わる日に海を見に行くと。

けれどもどうやって海まで行こう。それに、どうやってノラを取り戻せばいいんだろう。

「一つ、四日後の終末を楽しむための提案があるのですが」

大家さんはにこりと微笑む。

「どうです、あなたも乗ってみませんか?」

大家さんが私の耳に顔を寄せ、それの話をする。私は少し驚いたものの、やがてしっかりと頷いた。

*******

そう遠くはない昔々、とあるところにかみさまたちがいました。厳密に言うとかみさまは神ではないのですが、それに近い存在だったのでいろいろな世界からかみさまと呼ばれていました。かみさまたちはすべての世界を管理し、たびたび必要ではない世界は滅ぼしていました。彼らには感情がありませんでした。常に公平公正に全てを管理しなければならなかったので、そんなものは必要ではなかったのです。

ところがそんなかみさまたちにも変わりものが存在しました。かみさまたちのなかで唯一、わずかながら彼には感情が存在したのです。他のかみさまたちが淡々と世界を管理し、時に滅ぼすことを彼は疑問に思っていました。滅ぼされる世界にもうつくしいものは存在するのに、どうして彼らはあんなにも冷酷に世界を滅ぼすことが出来るのだろうか。

そんな彼はある日、とてもうつくしい蒼い星を見つけました。その世界を除けば除くほど、彼はそのうつくしい星の魅力にとりつかれていったのでした。咲き誇る花々や青い空なんてものは、かみさまたちの世界には存在しなかったのです。彼らを取り巻いているのは、ただ鈍い銀色をしたつめたい壁と床だけでした。

その星の中で特に彼を魅了したのは青色の風景でした。その世界で「海」と呼ばれるそれは、彼にとってとてもうつくしく感じる場所でした。銀色の鱗を煌めかせて泳いでいくいきものや、青色の中に咲く緋色の花は彼の目を奪いました。

しかしながら現実は非常でした。かみさまたちはその世界を滅ぼすことにしたのです。その世界の中の生き物の進化がめざましく、このままだと他の世界に干渉することになるかもしれないという意見が出たためでした。彼は必死に反対しました。こんなにうつくしい世界を滅ぼすべきではない、間違っていると。

かみさまたちは彼を鬱陶しく思いました。元々あいつは他の奴らとは異なっていたのに、とうとう我々に逆らうようになった。そんなにもその星が好きなら、一緒に滅んでしまうと良い。

かみさまたちは彼を捕まえ、世界を管理する力と記憶を奪いました。そして彼が守ろうとした「うつくしい星」に落としたのです。ただ、かみさまたちは一つだけ彼に恵みを与えました。もし彼が全てを思い出し、その星を諦めるとするのなら。その時は再びかみさまたちの世界に戻って来れるようにしたのです。

そして、落とされたかみさまは――。

*******

6. The end of the world (before one day)

えー、全世界の皆さま。皆さま、こんにちはー。こちら全宇宙管理局のものですー。

はい、とうとう今日世界が終わりますよー。よかったですねー。今日の日没に、世界は滅びますー。どんな風に滅ぶのかはお楽しみですねー。

えー、こちら全宇宙管理局のものがお送りしましたー。

ついに、世界が終わる日がやってきた。今朝、再び全宇宙管理局から放送が送られてきたのだ。世界が終わる。嘘みたいだけれど、内心少しだけわくわくしている。それは世界が終わるということだけでなく、これから行われることに対してもわくわくしているんだろうと思う。

「準備はいいか?」

横にいる鈴橋が私に尋ねる。普段はアパート内でしか姿を現さない鈴橋が、珍しく外に出ている。珍しい。

「本当に良かったの?」

「何がだよ」

「だってさ、せっかく世界が終わるのに。最後の日をこんな風に過ごしてもいいの?」

「あー、別にいいよ。会いたい奴もいねえし。だったら一日くら

いぱーっとはしゃいでもいいだろ。初めてなんだよ、こういう漫画とかでありそうなやつ」

鈴橋はにやっと笑った。

「鈴橋、あのさ」

鈴橋は怪訝そうな顔でこちらを見る。

「私さ、あんたのことなかなか好きだったよ」

「急に何だよ気持ち悪りぃ」

ひどい。せっかく人が褒めたのに。

「まあ、俺もお前が隣人で良かったとは思ってるぜ」

小声でぼそりと彼は言った。思わず頬が緩む。これがツンデレの威力という奴か。

「とりあえず黙れ。あと少しで時間なのに見つかったらどうしようもないだろ」

確かにそうだ。私はなんとか表情を張りつめたものに変えた。

私達は市の中心にある全宇宙終末共有会のビルの前に居た。周りには、たくさんの人たちがいる。

ビルは悪趣味な金色の文字で「全宇宙終末共有会本部」と書かれてあった。エントランスには同じく悪趣味な金色の像が飾られている。まあこの派手さのおかげですぐに本部が見つかったのだから、よしとしよう。

「時間まで、あとどれくらい?」

「あと一分だ。時間になったら大家のおっちゃんの空砲で突撃する」

「他の人は、分かってる?」

「当然だよ。何のために世の中のネットツールがあると思ってんだ。とっくの昔に打ち合わせてある」

私は周りを見回す。全終末共有会のビルの周りには、たくさんの人がいた。それぞればれないように携帯をいじっていたり周りと喋っていたりする。全員に共通するのは皆帽子を被っているという事だ。ある「計画」を実行するため、今のところはカモフラージュとしてのそれが必要だった。

「あと一分」

鈴橋が時計を見て言う。五十九、五十八、五十七。周りを見回す。時刻は十一時五十九分五十五秒。太陽は空の真上。赤い空が私たちを見守る。

三十八、三十七。三十六。懐に隠しておいた銃を構える。銃弾はきっちり詰めてある。大丈夫。きっとなんとかなる。

二十一、二十、十九。余所を向いていた人たちがちらほらとビルを眺めはじめる。

十四、十三、十二。鈴橋の横顔をちらりと見る。流し目にされた三白眼と一瞬目が合うと同時に、彼は口元をにやりと吊り上げた。十、九、八、七。大きく深呼吸。突入まで十秒を切る。六、五、四。体をビルに向け、スタートダッシュへと意識を集中させる。三、二、一。

そして、零。遠くでぱん、と空砲が鳴った。恐らく近くに潜んでいた大家さんだ。それと同時に皆が一斉に帽子を脱ぎ、空へと

放り投げる。赤い空に何百もの帽子が舞った。同時にその下から現れる同じだけの数の真っ白な髪。

「突撃ぃ!」

髪を白く染め、赤いコンタクトレンズを付けた鈴橋が出来る限りの大声で叫ぶ。それと同時にその場にいた全ての人がビルの中へと突入した。

四日前に日大家さんが提案したのは、全宇宙終末共有会のビルを大勢で襲撃するというものだった。味方がいないのなら作ればいい。相手が数で圧倒するならこちらがより多くの数で圧倒してやれということだろう。でもどうやって人を集めるのかという質問をすると、大家さんは下手なウインクをした。鈴橋に任せなさい、と言って。

終末まで何日もないけれど、電気やネットワーク機能はまだちゃんと生きている。彼はそれを利用した。

「Xデーに××市内某所の新興宗教ビルに突撃するオフを行う。参加したいものは白い髪(染髪か鬘を着用)にし、出来れば赤いコンタクトレンズを付けること」。彼が掲示板やSNSツールに書き込んだそれは拡散された。髪を白くし、赤いコンタクトレンズを付けさせた理由は、私達を逃がすための囮となるためだ。

周りの人間をちらりと見る。私と同じくらいの年の人が一番多いけれど、老若男女がごたごたに混じっている。よく見ると見知った顔が何人かいる。市場の常連さんやアパートの近くで犬の散歩をしていた人。野菜売りの店主までがいるのには驚きだ。恐らく大家さんが話をしたんだろう。大家さんは人肉の提供者としてある程度顔が聞いていたから、きっといろいろな人に話を持ちかけたんだと思う。

結果、数百人にもわたる人たちが集まることになった。どうせ世界が終わるんだから最後くらい面白いことがしたい人間が集まったのだろう。

ビルの中を私たちは走っていく。守衛がぎょっとした顔で止めようとしてきたものの、あっさりと押し流された。大広間は確か三階の奥だ。ビル内の地図は、全宇宙終末共有会に無理やり勧誘された人が持っていた。無理やりな勧誘や朝からの宣伝車は街の人たちの不興を大量に買っていたようだった。

一階、二階、三階。階段を数段飛ばしで駆け上がる。正午ぴったりに彼らの最後の「儀式」が行われることになっていた。それを最後に、ノラは骨の一片も残さず綺麗に食べられる。けれどもその前に突入すると厳重な警備によって失敗する可能性がある。遅れてもいけないけれど早くてもいけない。だから、私たちが「儀式」が始まるちょうどぴったりに突入する必要性があった。

黒檀に彫り物がされた大きな扉を思いっきり蹴り破る。ホールの中には百人程度の信者がいて、こちらをぎょっとした目で見つめた。ホールの一番奥にはステージが設置され、其処に置かれた

寝台に見慣れた白色が横たわっているのが見える。直後、大量の人々がホールに流れ込んだ。怒声や悲鳴、困惑の声が聞こえる。もみくちゃにされながら、私は必死にノラに向かって走った。人の波をくぐり抜け、押しのけながら走る。体中がよれよれになりながらもなんとかステージ上に這い上がった。上には教祖と思わしき、金色のペンダントを付けた男がいる。男は私の姿を見た瞬間、ぎょっとした表情を浮かべた。

「なんだ、君たちは。我々は今から神聖な儀式を行うと言うのに」

「その儀式だけれど、いまから中止させてもらいます」

肩で息をしながら、私は言った。同時に寝台へと視線を向ける。その上に居た男は体を起こし、信じられないようなものを見るような顔で私を見ていた。赤い瞳と、ばっちりと目が合う。

「……アキラ、なんで」

「迎えに来たよ。海、見に行くんでしょ?」

有無を言わせずに彼の手を取る。そのまま寝台から起こし、思いっきり走り出した。後ろから教祖の慌てる声が聞こえる。そんなもの、どうでもいい。ノラの手が離れないように強く握る。少しして、躊躇いがちに握り返してくるのを感じた。

もみくちゃにされながらなんとかホールを抜け出す。ホールの外でも白い髪の人たちが暴れている。それをわき目に私たちは階段を下りていく。三階、二階、一階。そのまま玄関を抜けようとした時だった。

乾いた音と同時に左腕に激痛が走る。耐え切れずにその場に膝をついた。痛い、痛い、痛い。撃たれたということに気が付いたのは直後だった。

「みすみす終末を逃してたまるものか」

後ろを振り向くと、ステージ上に居たはずの教祖がこちらを睨んで立っていた。右手に握られたピストルの銃口はしっかりと向けられている。

「……化け物に同情するなど馬鹿な小娘め」

「ノラは化け物なんかじゃない!」

私は必死に言い返す。左腕の痛みでおかしくなりそうなのを、必死に我慢した。

「例えそうだとして、一体何が悪いの。私にとってノラはノラだよ。化け物がどうとかそんなこと関係ない!」

男の顔が醜く歪む。引き金に指がかかるのが見えた。もう駄目だ。思いっきり目をつぶる。銃声が聞こえたのはその直後だった。

……痛くない。薄々目を開ける。目の前で私をかばっていたのは白い人。

「大丈夫ですか、アキラ」

ノラはにこりと微笑んだ。脇腹のあたりから血液が溢れている。

「ノラ」

「僕は大丈夫。すぐに回復します」

「終末、何故その女を庇う。お前は我々の人形だろう?」

ノラは男を静かな目で見つめる。そしてゆっくり首を振った。

「僕は僕です。あなたたちの思い通りにはならない」

男の顔が驚愕から、憎悪へと変わる。

「邪魔をするのならお前も殺さなければいけないな。無限に再生すると言われるお前も、恐らく頭部を損傷したら生きてはいないぞ」

男はノラを睨む。駄目だ。このままじゃ。なんとかしなければいけないのに、体が上手く動かない。助けて。

男は不気味な笑みを浮かべ、ノラの頭に銃口を向ける。そして。

男の肘から先が落ちた。血が傷口から吹き出し、辺りを赤く染める。男は驚愕の表情を浮かべた後、その場に倒れた

「外で待機していたのに全然来ないと思ったら。何をそんなに苦戦しているんですか?」

返り血で体中を赤く染めた大家さんが呆れたように言う。思わず安堵の涙が零れそうになった。

「大家さん」

「けがをしているじゃないですか。ちょっと貸してください」

懐からスカーフをだし、私の左腕にそれをきつく巻く。傷口からまだ血が出ているけれど、大丈夫な気がした。

「……貴様」

「ああ、あなたはうるさいから黙ってください」

倒れた男が大家さんを睨んだ。そんな男に対して大家さんは躊躇いなく鉈を振り下ろす。あっさりと男は絶命した。

「行きますよ。早くしないと日没までに海にたどり着けません」

大家さんは玄関へと私達を引っ張っていった。ビルの外には原付が停められている。世界がまだ平和だった頃に使っていたそれ。まさか今役に立つとは思わなかった。

ノラを後ろに乗せ前に跨る。エンジンはかかった。身の回りの価値のあるものを全て交換しただけあって、海まで行くには十分の量だ。

「左腕はノラさんがサポートしてあげてください。こう、添えるようにね」

大家さんの言葉に、ノラがしっかり頷く。怪我をした左腕を守るように、私の左手の上にノラの手が添えられた。

「大家さん」

エンジンをかけ、私は大家さんに顔を向けた。大家さんがにこりと微笑む。返り血に塗れていても、大家さんは大家さんだ。

「ありがとうございます。そして、さようなら」

そのままエンジンを入れ、走り出す。また会いましょう、とは言わない。どうかあなたが満足のいく世界の終わりを迎えられますように。

私達は走り出す。海は、あと少し。

*******

7.The word of love (our world end)

ざざ、と波の音が耳をつく。目の前には赤い空を反射した、紫がかった青色が広がる。それを目の前にして、私たちはぼんやりと座っていた。

道路が整備されていなかったり道で騒いでいる人たちがいたりしたのを避けてきたので、海に到着したのは日没まであと少しという時間だった。腕の傷は相変わらず痛んでいる。けれども不思議と満足感があった。

ノラはじっと海を見ていた。初めて見る海に驚いているのか、それともがっかりしているのかは分からない。私の住んでいる市から近い海はお世辞的にも綺麗だとは言えない。南国のような澄んだ色はしてないし、砂浜にごみだって落ちている。ノラは、どう思っているんだろうか。ちらりと彼の顔を見るものの、彼は海を見ているだけだ。

ねえ、返事をしてよ。声を聞かせてよ。そう言ってしまいたいけれど、言葉にすると全てが消えてしまう気がした。

海水が夕日を反射して橙色に輝いている。それ自身とは対照的な色をしているのに、色彩が喧嘩し合うということもない。黄土色の砂浜にはいろいろな色の貝殻が埋まっていて、まるで地面から発掘された宝石たちのようだった。

ふと、私とノラの目の前に小さな生き物が現れた。赤色の体に小さな鋏。蟹はゆっくりと私たちの前を横切っている。彼はこの世界があと少しで終わることを知っているんだろうか。

アキラ、これはなんですか、とノラは尋ねる。蟹だよ、と私は返した。

ノラはここから見える一つ一つを指さして、名前を聞いて行った。水、波、砂浜。小さな魚、貝殻、夕日。私は全ての名前を答える。二十ほどの名前を聞いた後、彼は満足げに頷いた。その様子が妙にほほえましくて、ふっと笑みがこぼれる。

やがてノラは私の瞳をはっきりと見つめた。夕日の色と同じ、赤色が私を掴んで離さない。

とある話をしましょう、と彼は言った。昔々の、全ての世界を支配するかみさまたちの話を、彼は語った。全ての宇宙・世界を管理する公平公正のかみさまたちのなかの、たったひとりの変わり者の話。

変わり者はこの星へと落とされ、悪い人たちにつかまってひどいことをされた。そこからにげだした変わり者はとある少女の元に拾われる。少女の元でかみさまは楽しい日々を過ごし、そして再び悪人たちに囚われた。少女の身の安全を願ってのことだった。けれども少女は変わり者を助けに来た。放っておけばよかったのに、変わり者のために少女は傷ついた。変わり者は不思議だった。少女がどうしてそんなにも自分を救おうとするのか分からなかった。

けれども、と彼は続ける。やっと分かったんです。どうして少

女が僕を助けてくれたのか。

「アキラ」

はっきりとした口調で、ノラは私の名前を呼んだ。吸い込まれそうな赤色。その赤色に金色の光が舞っている。それに引き込まれるようにして、私は彼に抱きしめられた。

「僕は、あなたを愛しています」

例えこの体がこの星と一緒に滅びることになっても、僕はあなたを愛している。耳元でそっと囁かれる。抱きしめられた体から伝わる体温が暖かくて気持ちいい。こんなにも幸せな気分で終末を迎えられるのか。

日没が近づく。全てが終わってしまう。空が暗くなるのに気付いたノラは、私を抱きしめる腕を一層強くした。そう、もっと強く抱いていて。世界が終わるその時まで、ずっと私を愛していて。

とうとう日が沈んだ。辺りは空に浮かぶ一つの星を除いて真っ暗になる。何も、見えない。体温だけが、互いが存在することを教えてくれる。明るい星は徐々に大きくなっていく。闇が薄闇になり、昼のような明るさへと変わる。やがてそれを超えて、全てが光り輝き、そして全てが真っ白になる。

全ての感覚が、薄れていく。これが終末なんだろうか。終末という言葉から想像されるものよりもずっとやさしく、そしてあたたかい。

ノラ、まだ聞こえる? 私がそう問いかけると私の身体に触れている感覚が、少しだけ強くなった。聞こえているんだ、だったらよかった。

ねえ、ノラ。さっき言えなかったけれどね、私もあなたを愛しているの。他の人じゃない、あなたといっしょに終末を迎えられて本当にしあわせだと思ってる。

ねえ、ノラ。わたしたちはきえてしまうけれど。すべてがなくなってしまうけれど。わたしがあなたをあいしていたことを、すべてがきえるまでずっとおぼえていてね。

ほんとうに、あなたにあえてよかった。

********

?. Beginning with the end (The new world)

こうしてとある世界は終末を迎えました。全ては光に呑まれ、消えていきました。かみさまたちは結果に満足し、そのまま消してしまった世界のことを忘れてしまいました。

たった一人をのぞいては。

そのかみさまは追放されたかみさまの友人ともいえる存在でした。生憎彼には感情がありませんでしたが、友人の話すことはなんとなく聞いていました。うつくしいと言われた星のことも知っていました。

そのうつくしい星が滅ぶことになった時も、かみさまは特に気にもしませんでした。友人が追放されたときはすこし残念に思いましたが、すぐに気にしなくなりました。世界が滅ぶ直前までは、気にも留めていませんでした。

そんな彼でしたが、世界が終わる直前に友人が取った行動を不可思議に思いました。あの世界を諦めれば彼はこちらに返ってくることが出来たのに、どうしてそうしなかったのだろうか。あの「愛している」という行動原理がそれを導いたと言うのだろうか。

世界が終末を迎える直前、彼はその世界のバックアップを取りました。コピーされた新しい世界は元々あったものと殆ど変わりませんが、違う世界であるという申告をしました。かみさまたちの中には疑問をもったものがいたかもしれませんが、やがて誰も気にしなくなりました。なにせ管理するべき世界は膨大であったので、いちいち覚えていられなかったのです。

彼はコピーの世界に、その世界の全ての生き物たちのバックアップを移しました。ただ世界が滅亡するまえの状態のままでは情報の齟齬が起きそうだったので、世界が滅亡することが決まる前の状態まで巻き戻しました。

巻き戻している最中に、かみさまは友人のデータを見つけました。かみさまは彼をどうするか悩みました。今の状態だったら我々の世界に彼を戻すことが出来るだろう。しかしそれで彼は納得するだろうか。それに、彼を戻したらいろいろな問題が起きるのではないか。

悩んだ末かみさまが出した答えは――。

*******

ジリリリリリリリリ。ジリリリリリリリリ。朝です。朝です。朝です。

今日も私はこの凶悪兵器にも匹敵する目覚まし時計にたたき起こされた。寝ぼけた頭で必死にそれ――『激起き君』を探す。そうしている間にも隣の部屋から壁を叩く音が聞こえた。ごめん、鈴橋。でもあんたもまともな時間に起きるべきだと思う。

なんとか時計を止め、時刻を見る。八時二十分。ちなみに今日は一限から。頭の中が真っ白になる。やばい。遅刻する。

顔を洗ってパンを口に詰め込み、着替えをする。歯磨きをしながら今日の準備をして、髪形やら化粧やらを整える。時刻は八時四十分。ちなみに家から大学までは徒歩十五分だ。原付を使えば間に合うかな。とりあえず色々鍵をひっつかみ、玄関を飛び出す。そのままアパートの階段を駆け下りて、原付置き場に行けばいい。

最後の階段を降りたところで、私は何かを踏んづけた。柔らかくて暖かい感触。なに、これ。そのままバランスを崩して地面に倒れる。鈍い痛みが全身を襲った。

「……何なの」

ぼそりと呟いて私は立ち上がる。一体なんだ。誰かが酔っぱらって寝てるのか。一言文句を言ってやろうと思って私はそれを睨もうとし、そして目を奪われた。

そこに倒れていたのは、真っ白な男だった。髪も肌も、雪みたいに白い。年齢は大体二十代から三十代といったところ。やせ形で、背はふつう。顔立ちはまあまあ整っている。

そんなことを考えながら男の顔を眺めていると、白い睫がぴくりと動いた。あっと思うのとほぼ同時に男は目を開く。瞳の色は、ややピンクがかった赤色だ。男は数度瞬きした後、ゆっくりと上体を起こした。まだ頭が上手く働いていないのか、ややぼーっとした様子だ。

私が見ていることに気付いた男は、私の瞳を見つめ返した。ひどく純粋で無垢なような、そんな目。その澄んだ赤色に射抜かれたような気分になる。

一瞬だけ遅刻しそうな一限が頭の隅によぎったものの、それは一瞬で消える。何故だろう。一限なんかよりずっと大事なことを忘れている気がする。もっと大切で、重要なこと。

「あなたの、名前は?」

思わず言葉が喉を突いて出た。男はやや考え込むようなそぶりを見せ、やがて口を開いた。その名前は――。

そうして、世界は再び始まる。

end



『できればまた、桜色の約束を』 凸神桜花


僕、浅間圭介は毎年春にここ、天美崎あまみざきを訪れる。

ここは父方の祖父の実家がある村で、僕は毎年家族と帰省していた。だが今年は両親とも仕事の都合がつかず、中学生になったんだし、ということで僕一人だけでくることになった。

この村は総人口は二桁強ほどしかいない過疎の村だが、村人みんなが家族のような付き合いだ。、僕も小さい頃から、皆によくしてもらっている。そしてなにより、自然が豊かなのだ。スモッグのない新鮮な香りが感じられる空気。そして、美しく壮大な桜吹雪。

もともと自然が大好きな僕は、この地がけっこう気に入っていた。ここは普段住んでいる都会の喧騒を忘れさせてくれる。新鮮な風を体いっぱいに感じながら、僕は実家へと駆け出していった。

記憶にある道を歩いて数十分。ようやく実家の赤い瓦屋根が見えてきた。

この辺りは交通の便が悪く、バスは元々バス停が一つ二つしかないうえに、一時間に一本あるかないかだ。

だが自家用車を使おうにもあぜ道が多く、車が通れないようなところも珍しくない。なので主な交通手段は徒歩や自転車ということになる。

毎年来ているとはいえ、実家の屋根が見えたときは少しホッとした。僕の頭の中で、何度か迷ってそのまま遭難しかけた忌まわしい過去を思い出す。そんな幼少の頃を思い返しているうちに、僕はようやく家の前までたどり着いた。

鍵のかかっていない引き戸を開ける。

「ばあちゃん、圭介です」

そう声をかけると、目の前のふすまが開いて、ニコニコとした笑顔でばあちゃんが出迎えてくれた。

「まあまあ、圭ちゃん、こんなぁに大きくなって。一人でよく来たね」

身長は僕と同じくらいで髪は短めにまとめている。少しだけ老けたような気もするが、この様子を見るとまだまだ元気そうなので安心した。

「疲れたろう、早くあがんなさい」

そう言ってばあちゃんは僕を家の中へと招き入れた。

ばあちゃんと少し雑談した後、早速僕は遊びに行って来ると言って家を飛び出した。

──実は、僕が毎年欠かさすにこの地を訪れているのには、もう一つ理由があった。家を出た瞬間、ザアッ、と風が吹いて。

──家の前には、彼女がいた。

僕がここにくるもう一つの理由。それは目の前の彼女。春海陽香の存在があった。

陽香は実家の隣の大きい家に住むちょうど同い年の女の子だ。幼い頃に知り合って以来、毎年こっちに来る度に一緒に遊んでいた。田舎町の娘には不釣り合いともいえるくらいの白い肌に、後ろに長く伸びるつややかな黒い髪。いつも白い帽子をぎゅっ、とかぶっているその姿は可愛らしくて、それでいてどこか上品な感じがして、毎年会うたび僕は『お嬢様』という単語を想起させていた。

そしてどうやら実際に家は昔から続く旧家で、やけに大きい家はその名残らしい。

僕は毎年、彼女に会うのが楽しみだった。

夏も冬も忙しくてここには来れず、唯一来れる春も、ここに滞在できる期間は短いものだった。だけど僕らは、毎年僕が帰るとき、お互いに約束するのだ。

「来年も、また遊ぼうね」

その彼女が、家の前に立っていた。多分、僕が来る日を覚えてくれていたのだろう。

僕は少しうれしくて、自然と笑顔になって「陽香ー!」と声をかけながら手を振った。すると陽香もクスッとまぶしい笑みを浮かべて、軽く手を振りかえしてくれた。

ああ──、今年はどこで遊ぼうか。まだ少し冷たい小川で水遊びをしようか。それとも、神社でかくれんぼをしようか。やはり、最後にはいつもの丘でお花見にしようか、あそこの風景はいつ見てもきれいなんだよなあ。

そう想いをふくらませながら、陽香のほうへと近づくと──。

「……?」

──その時、なんだか不思議な違和感を感じた。

「久しぶりだね、圭ちゃん。待ちくたびれてたよっ」

声も、口調も、姿も、完全に彼女のものだ。……それなのに、一瞬彼女が陽香ではないように感じたのだ。

「……圭ちゃん?」

僕の様子を変に思ったのか、陽香が顔を近づけて、僕の顔を覗き込む。そのしぐさに、ドキッとして、顔を赤らめる。

「ごめん、なんでもないよ」

──やっぱり気のせいか、なんだったんだ? さっきの違和感……。

「……まあいいや。ねえ、圭ちゃん。なんと! コンビニが出来たんだよ!」

「えっ! マジか!?」

都会ではもちろん珍しいものではないが、ずっと雑貨屋一軒しかないこの村に出来たとは、さすがに驚いた。

「行ってみる?」

「うん、行ってみたい」

せっかくこんな広大な自然を前にしているのにわざわざコンビニに行くのもどうかとは思ったが、やっぱり、どうしても一目見てみたかった。

「じゃあ、行こっか。こっちだよっ」

陽香は笑顔でそう言って、ぴょんと歩き出した。

***

「ねえ……」

コンビニへと向かう途中、前を歩く陽香が、前を向いたまま僕に話しかけた。

「なに?」

「……今年は、いつまでいられるの?」

そう聞く彼女の表情は前を向いているのでよく分からなかったが、進んで陽香の表情を伺うことも出来なかった。

「……五日間。ごめん……忙しくて」

僕がそう少し俯いて言うと、陽香は「何で謝るの?」と言ってこちらを振り返った。

「しょうがないじゃん……今年から中学二年生なんだもんね。私も、圭ちゃんも……だから、さ──」

「あ、あのさ!」

「な、なに……?」

「え~っと……ほら、コンビニにはどんな物があるのかなあって」

僕は思わず、とっさに考えた質問で話題をそらそうとした。なんとなく……あの後に続く言葉を聞くのが怖かったのだ。

「……フフッ。それは、行ってからのお楽しみだよ」

陽香はいたずらっぽい笑みを浮かべて再びスキップのような足取りで歩き出した。結局、僕はあの言葉の先を聞くことはなかった。

「ほら、圭ちゃん。ここだよ」

「……え? ここって……」

目の前には確かに立派な(?)コンビニがあった。

──だけど確かここって……

「──ねえ。ここって、コンビに出来る前ってなにかあったよね……?」

「うん、雑貨屋があったよ」

雑貨屋つぶしちゃったよ! じゃあ、村で唯一の雑貨屋がコンビニになった、と……

──というか、雑貨屋のキヨばあちゃん(90)どうしちゃったんだろう……まさか、死んじゃったとか──

「? どうしたの? 入ろうよ」

「え、あっ、ちょっと待って!」

陽香が前に一歩進むと、自動ドアがガーッと音を立てて横に開いた。

「いらっしゃい…………あら、陽香ちゃんじゃない。それと、圭ちゃんも。久しぶりだねえ」

「こんにちは、キヨさん」

店員やってるのかよっ! 思わず心の中でそうつっこむ。しましまなコンビニの制服しっかりと着ているキヨばあちゃんは、かなり浮いて見える。

というかレジ打てるのか? ……あ! となりにそろばん置いてる! レジ必要ねえ!!

──だけど、様子を見るからにとても元気そうだ。もしかしたら、雑貨屋を営んでいたときよりも生き生きとしているのかもしれない。

そう思うと、心の中で少しホッとしている自分がいた。

「久しぶり、キヨばあちゃん」

「うん、うん。また背伸びたかねえ……ちょっと前まではこーんなにちっこかったのにねえ」

そう言って人差し指と親指で大きさを示す──そこまで小さくはなかったぞ!?

それから、ばあちゃんと僕、陽香を交えて思い出話に花を咲かせた。というか、ほとんどばあちゃんの思い出話になってしまったが。それでも、俺が到底体験できないようなことを語るおばあちゃんの話は、やっぱり興味深いものだった。

何にも物を買わず、ただ雑談をしているだけの客に、それに率先して加わる店員。本来ならあまり褒められた光景ではないのだろう。だけど、この村ではそれも全て許されるような気がした。

──店が変わっても、ばあちゃんは、何も変わっていなかった。

***

それから毎日、僕と陽香はいろいろなところで遊んだ。

小川で釣りをした。結局二人とも一匹も釣れなかったが、それでも途中でふざけあったりもして楽しく過ごした。

神社でかくれんぼをした。絶対に見つからない究極の隠れ家ともいえる場所を見つけて、得意げに隠れた僕だったが、すぐに陽香に見つかり顔が熱くなった。

田んぼでザリガニを探したりもした。稲ごと捕まえたりして、あとで農家のタケさんに怒られた。

一日一日を楽しく過ごしたが───やはり、僕の、陽香に対するなんともいえない違和感は消えることはなかった。いや、それどころか日に日に大きくなっていったのだ。

まるで陽香が陽香でないような……そう思ったとき、僕は昔、亡くなったおじいちゃんが話してくれたこの村の伝説を思い出した。

『いいかい、圭介。この村にはな、昔から人に化けるキツネ、妖狐が住んでいるんよ。普段は山にいるが、春になると、人に化けて村に下りてくることがあるといわれとる。……ん? なんでかって? そうさのう……キツネも、長い冬を一匹で──寂しかったんじゃないかのう』

──妖狐? ……確かそういえば確かこの村唯一の神社も稲荷神社だ。まさか……

そう思ったところで、僕は自嘲した。バカらしい……一体俺、何歳だよ……

いい年してなに考えてんだろう、

あの陽香が、──実は妖狐だと思うなんて……

はっ、ばかげてる……!

だけど、その考えは僕の頭の中から消えるどころか、むしろ大きくなっていくのであった。

***

「──やっぱり、最後はここだよねえ……」

最終日──僕は明日の昼には電車に乗らないといけない。

僕たちは丘の上の原っぱに来た。周りの木は全て桜で、一面の桜吹雪が咲き、そして散り乱れる。その光景には、一種の神秘性さえも持っているように感じられた。

ここで告白すれば何でも許されるような……そんな魅力も持ち合わせているのだ。僕らは毎年、ここで「来年も、また遊ぼうね」と約束するのだ。

去年もそうだった。去年の彼女の光景を思い出して──目の前の、咲き乱れる桜を遠目で眺める彼女を見て──

「──っ」

再び、違和感を感じた。

姿は、間違いなく彼女のものだ。声も、性格も、雰囲気も……だけど、僕のなかの何かが叫ぶのだ。

『彼女は陽香ではない』──と。

「……どうしたの?」

「えっ?」

不意に、彼女がいつものしぐさで僕の顔を覗き込む。例の如く、僕の胸はドクン、と大きく高鳴った。

「なんだか……お花見を楽しんでない」

「そんなことは……」

僕がそう言って少し眼をそらすと、彼女はクスッと笑って、桜の方を向いた。

「ねえ、圭ちゃん……知ってる? この桜の前ではね、隠し事は出来ないんだって。どんな些細なうそでもわかっちゃう……って、知ってるか」

そう言って再びこっちを向いて舌をペロッとだす。

──そうだ。昔、陽香に聞いたことがあった。これが村の伝説なのか、それとも陽香が勝手にそう思っているだけなのかは分からない。だけど、その話はおそらく真実なんだろうな、と思った。

「──陽香」

「ナニ?」

陽香は再び桜の方に向き直って答える。

「おかしなこと聞くけどさ」

「うん──」

「──君って本当に陽香?」

「…………」

彼女は少しの間、何も答えなかった。桜の方を向いているので、彼女が今どんな表情をしているのかは分からない。

「──何で、そんなこと聞くの?」

彼女は静かに尋ねた。その声は、やはりいつもの陽香とは少し雰囲気が違った。

「なんだか、違和感があったんだ……」

「最初から?」

「うん……」

僕も静かに答えた。

「……圭ちゃん──人って、変わるんだよ」

「…………」

彼女のその言葉に、僕は一瞬、何も言えなかった。

「私も……圭ちゃんもそう。人は、忘れて、成長して、…………変わって、生きていくんだよ。……だから──」

そこで彼女の言葉が止まった。そして僕は、なぜかそこではっきりと断言できた。

「君は、陽香じゃ、ない──!」

「──っ!」

彼女は少しの間桜を見て、そして僕の方を振り返った。

「……え?」

彼女は──泣いていた。そして不意に、「……ごめんなさい」と一言つぶやいて、彼女はその場を走り去った。彼女の涙を見て、僕はそれこそ狐につままれたような感じで少しの間そこに立ち尽くしていた。

僕が今まで見ていたのは、本当に陽香ではなかった……? さっきはあんなに確信を持っていたのに、今はまたどうにも、現実味が持てない。なんであんなに断言できたのだろう……。やがてひざの力がフッと抜けたように、そのままへたり込んでしまった。

僕は化かされていたのだろうか。そう思ったとき、不意に彼女が去っていったのとは別の方から聞き慣れた声がした。

「あら、どうしたの? こんなところで」

声のしたほうを見ると、そこには陽香の実の母の、秋穂おばさんがいた。僕は陽香とはよく遊んでいたが、秋穂おばさんとは会ったら軽くあいさつする程度だった。それに秋穂おばさん自身、都会のほうで働くキャリアウーマンであるらしく、祖母に預けている陽香の様子をたまに見に来る程度で僕とはめったに会うことはなかった。

「あれ? 陽香は? てっきりあなたと一緒だと思ったのに」

秋穂おばさんはそう言って僕の顔を覗き込んだ。

「あの……秋穂さん」

僕は思い切って話してみることにした。いや、話さずにいられなかった。

「僕……この村の狐に化かされてたみたいなんです」

「は?」

秋穂おばさんは怪訝な顔をしてこちらを見つめる。──当然の反応だろう。だけど、僕は言葉を止めることは出来なかった。

「僕といた陽香は、本物の陽香じゃなかったんです……! 最初あったときから、違和感がしてて……」

僕は、さっきまでのことを全て話した。

「……ねえ、それ。本気で言ってる?」

僕はおばさんの顔を見れず、うつむいて、まるで子供が親に叱られているときのように俯いたまま頷いた。眼に涙がにじんで、もう泣き出してしまいそうだった。おそらく、秋穂さんはかなり怒っているだろう。だって、自分の娘を妖怪呼ばわりしているようなものなのだから。今ここでぶったたかれてもおかしくないとまで思った。

だが──

「ぷっ、あっはははははははははははははは!!!」

突然聞こえた笑い声に、僕は驚いて顔を上げた。すると、秋穂おばさんがお腹をかかえて笑っていた。

「あ、秋穂さん……?」

「そっか……分かっちゃうのかあ……」

笑い終えた秋穂おばさんの目には、涙が浮かんでいた。

「ねえ、圭介君。ちょっと付き合ってくれない?」

秋穂おばさんは、静かにそう言った──。

***

──翌日。

僕は帰りの電車に乗るために、駅へと向かった。早めに家を出たので、電車が来るまでに、まだ少し時間があった。駅に着き、電車の時間を確認してからホームへと向かった。

「──あ」

そのホームにポツンと一つ置かれているベンチに、彼女は座っていた。僕が来たことには気付いた様子であったが、僕の方には眼を向けず、ただ正面を向いて、少し俯いていた。僕は何も言わずにゆっくりと彼女の方に歩み寄り、そしてそのすぐ隣に座った。

──少しの間、僕たちは一言も話さずに、ただ前の方を向いていた。

「──ごめんなさい」

すると、彼女が前を向いたまま、ボソッとつぶやいた。

「もう全て、知っているんでしょう……?」

僕はその問いに、「うん……」とだけ返した。僕があの後、秋穂おばさんに連れて行かれたところ──。

そこは墓場であった。
そしてそこの、ある一つの墓石の前まで案内されて、

「──ごめんなさい」

その前で、秋穂おばさんはそう言って僕に頭を下げた。そしてその場で、秋穂おばさんは懺悔するかのように、静かに僕に話しはじめた──。

「──陽子さん、だっけ」

今度は僕の方から声をかけた。

「うん──春海 陽子。あ、妖怪の狐と書くんじゃなくて太陽の子と書くほうだからね」

そう言って、僕と陽子は互いに軽く笑った。そしてその後、陽子は「あーあ、」と軽くため息をついた。

「私たち、その気になれば親でも騙せてたのに……まさか一年に数日ほどしか、それも陽香としか会っていなかった男の子に見破られちゃうなんて……。こりゃ、向こうで陽香、笑ってるだろうなあ……」

陽子の方に目を向ける。その容姿は、やはり陽香と瓜二つだった。そのことを思って、僕はまた胸が締め付けられた。

僕は、陽香がこの地に住んでいるのはただ単にこの地が大好きだからだとしか思っていなかったし、実際、陽香も否定していなかった。

「僕は、何も知らなかった……陽香に、双子の姉がいたことも、生まれつき体が弱かったことも、そのためにこの村にいたことも──」

「──ううん。あの子がこの村が大好きだったのは本当よ。それに、あの子が圭ちゃんに自分の身体のことを隠していたのは、せめて圭ちゃんには、普通の友達として何の気も使われずに、接して欲しかったんだって」

そのことについては、秋穂おばさんからも聞いていた。そのために、陽子の存在も伏せていたらしい。離れて暮らしている、元気な姉のことは、伏せておきたかったらしい。

だけど一つだけ、「本人から聞いて」と言われて、どうしても教えてくれなかったことがあった。

「どうして……陽香の振りなんかしたの? 村の人たち全員に頼み込んでまでして……こんな大芝居を、どうして……?」

僕がそのことを尋ねると、陽子はふっと上を見上げて、ゆっくりと口を開いた。

「──陽香が急に身体を崩して、町の大病院に運ばれた夏から……陽香、ずっとその病室の窓からこの村の方角を眺めていたの──最初は私、村が恋しいのかな、なんてくらしか思ってなかった。でも、毎日お見舞いに行っていたある日、陽香から、君──圭ちゃんのことについて聞いたの。『あのね、毎年、男の子が村に遊びに来て……とても面白かったの』って、その日からほとんど毎日、圭ちゃんとの思い出話を本当に楽しそうにしてしゃべってた……だけどある日、突然悲しそうな顔をしてつぶやいたの……『それで、いつもその男の子が帰る前に、あの桜がきれいな丘の上で、約束するの。「また来年会おうね」って……ゴメンね、約束、破っちゃうかもしれない……』って」

その数日後に、陽香はまた容態を崩して──そう話す陽子の目からは、一筋の涙が流れ出していた。

……そして、いつの間にか僕も泣いていることに気付いた。昨日あれほど泣いたのに──

「私は陽香の、最期の言葉が忘れられなかった。そして陽香が死んだとき、私は決めたの──陽香の代わりに、私がその約束を果たそう、って……村の皆も、頼み込んだら了承してくれたわ。あとは私が圭ちゃんに遠いところに引っ越す、とでも言ってしまえばいい──そう思ってたの……でも実際圭ちゃんと会って──なんでか、言えなかったんだ……」

「……」

「もしかしたら、心のどこかで、陽香の毎日に憧れていたのかもしれない。私は毎日塾通いの日々だったから──」

そう彼女がつぶやいて、僕は思わず立ち上がった。僕の中の何かが抑えられなくなった。陽子が話すのを止めて、少し驚いたような表情でこちらを見る。

だけど、この胸からあふれ出す感情の正体は、僕自身も分からない。堪えられなくなって、立ち上がって、でもなんといえばいいのかわからなく

なって……昨日出し尽くしたはずの涙が、目からあふれ出して──

──僕はやっと、何とかして、頭の中にあったものを言葉にして搾り出した。

「……ずるい。ずるいよ……皆、ずるいよ……!」

その言葉の真意はもう、僕自身にも分からない。ただ、その言葉、文句だけが頭からあふれ出して、僕は再びベンチに座ることなく、そのままその場に泣き崩れた。

すると、陽子が僕の隣に寄ってきて、そのまま背中をそっとなで始めた。

陽子は何も言わなかった。何も言えなかったのかもしれない。ただ、泣きじゃくって闇が広がる中に、彼女のその手のぬくもりと、背に流れ落ちる水滴だけが僕に伝わった。

僕は少しの間、小さい子供のように、その場で泣きじゃくった。陽子は、その間、ずっと背をなで続けてくれた。

***

「──もうすぐ、電車が来るね……」

「うん……」

いつの間にか、電車が来るまであと数分となっていた。僕たちの目からは、もう涙は出ていない。心の中は幾分か落ち着いた。──それだけ泣き続けていた。

「──あのね、圭ちゃんとの、この数日間。……とっても楽しかった。……陽香もこんな日々を過ごしてたのかな、って思うと少しうらやましいくらいに──」

陽子は静かにそうつぶやいた。

そのとき、大きな音を立てて、電車がホームに止まった。停車時間は約一分です、と言ったアナウンスが鳴り響く。そのままドアが開いて、僕が乗り込むのを待ちはじめた。

僕は陽子の方を見ずに、電車に乗り込んだ。そして、陽子の方を振り返り、さっきからずっと考えていた言葉を口に出した。

「……なあ、来年もまた、ここで会えないかな?」

「え?」

僕のその言葉を聞いて、ぽかんとした表情を浮かべる陽子に、僕は言葉を続けた。

「だから、また来年。僕、必ずここに来るから。……そしたら、またここで遊ぼう!?」

そう言って、顔が少し熱くなる。陽子は少しの間、驚いたような顔をしていたが、クスッと笑って、「うん……」とだけつぶやいた。

──その時、僕たちの前に、ハラハラとピンクのものが舞い散ってきた。

「──え?」

僕たちは驚きの表情を浮かべる。

──桜が、桜の花が、ハラハラと舞い散っている。

「うそ……この近くには桜の木なんて──」

彼女がそうつぶやく。それは僕も同じ気持ちだった。信じられない、そういった気持ちで僕らは上を見上げる。

──その時、僕はホームの上で、あの穏やかな表情で笑っている陽香の姿を見た、──気がした……

その時、ピリリリリリと音が鳴って、電車のドアが閉まった。

僕が「また来年なー!」と叫ぶと、陽子はゆっくりと動き出す電車を追いかけて手を振りながら叫び返してきた。

「うんー! また来年。待ってるからー!!」




『王子様ごっこ』 青木一郎著

この世には三種類の人間がいます。ヘンタイとキチガイと僕です。ヘンタイはその辺にうじゃうじゃと溢れておりますが、キチガイとなるとそんじょそこらにいないのです。

僕の恋い慕う生徒会長、神無月麗花さんはそんな稀有なキチガイです。

「おい、槌金。命令だ。水泳部に行ってこの書類を突き付けて来い」

放課後、生徒会室で、麗花さんが僕に差し出した紙は廃部届でした。丁寧にも、後はハンコさえ押せば自動的に水泳部は部活動名簿から消えるようになっていました。

僕はわざとパソコンの椅子から落ちそうになる振りをして驚きます。

「か、会長、廃部届ではないですか。それを渡すなんて残酷なことできませんですー。あと僕はネットサーフィンの真っ最中なんですー」

「猫はかぶらなくていい。早く行ってきてくれ」

僕は目に涙を浮かべる振りをしながら、書類の入ったクリアファイルを受け取りました。

麗花さんの物言いはいつもぶっきらぼうです。たった一つしかない駒に愛想を尽かされてもいいのでしょうか。

まあ、そんな麗花さんの無愛想なところを僕は慕っているんですけどね。

僕は麗花さんからの大切な命令を忘れないようにメモすると、クリアファイルを脇に挟みました。

「いってきまーす」

僕は意気揚々と生徒会室から出て行きました。

生徒会室には、麗花さんの席と僕の席しか置かれていません。麗花さんは人を信用できない性格なのです。なんでも幼い時に、人を蹴落として成り上がるよう教育されてしまったと聞きます。なので、麗花さんは生徒会の役員を全て切り捨て、僕を雇いました。

僕も人を信用しません。これは生来のものです。

「こんにちは」

僕はとんとんと水泳部の部室のドアを叩きました。返事の後、中からひょろひょろで背の高いガリベンみたいな男が出てきました。

男は僕を見た瞬間、ドアをすぐさま閉めようとしました。なんて失礼な奴でしょう。僕は足を挟んで阻みます。

「失礼します。これをどうぞ」

ドアの隙間から廃部届を見せてあげました。男は観念したのか、渋々僕を中へ招き入れました。

部室の中は散らかっていました。僕はすぐさま、男はヘンタイだなと勘づきました。部屋が汚い奴はヘンタイです。

男は悔しそうに唇を噛みしめてのたまいました。

「僕らはまだ、負けていないんだ。頑張れば県大会にも進める」

「ぼ、僕も心苦しいんです。水泳部の皆さんが頑張って練習しているのは、登下校時に観察しています。けど会長が廃部を勧めてこいって言ったんですよ」

僕に同情されていると思ったのか、男の顔が少し緩みました。やはりヘンタイです。ヘンタイはすぐに人を信用します。

「き、君も僕らの頑張りを分かってくれてるんだね。頼む、この通りだ。会長に直訴して取り潰しは避けてくれ」

男はガマガエルみたいな恰好でゲコゲコ鳴き出しました。

僕はぷぷぷと心の中で笑います。

「顔を上げてくださいよ、水泳部部長。僕じゃどうにもならないんです。知っているでしょう? 僕はただの会長の使い走りで、生徒会は実質、会長の独裁政権なんですよ。会長は実力主義者で、結果を出さない部活はいらないそうですからね」

「すぐに結果を出すから、頼む。頼むよ」

ハンコの押し合いが続きます。いい加減面倒くさくなってきた僕は、仕方がないので切り札を出すことにしました。

「これなーんだ?」

僕は男に一枚の写真を突き付けました。男が職員室の机を漁って、テストの問題用紙を一枚くすねている映像です。男の顔がみるみるうちに青ざめていきます。

「どうして、こんなものが……」

「学校中で生徒会の目が光っていることをお忘れなく。ちなみにネガは会長が握っています」

高校には至るところに監視カメラと盗聴器がセットされています。麗花さんは敵が多いのです。自己防衛のためには致し方ないと言えるでしょう。

学園の秘密は全て麗花さんのものです。そして麗花さんの秘密は僕しか知らないのです。

男は僕を殺しそうな目で睨むとハンコを押してくれました。

「お前、そんなことばかりやってると、いつか報いがくるぞ」

「ご忠告ありがとうございます。僕に復讐したいならお早めに。なにぶん敵が多いもので、いつ襲われてもおかしくないのですよ」

僕は恭しくお辞儀をするとヘンタイの巣から出て行きました。

「よくやった」

僕が生徒会室に戻ると、麗花さんはおさつパイを僕にくれました。僕の大好物は和菓子です。麗花さんはその辺をよく分かってくれています。

「今日はもう帰っていいぞ」

麗花さんにそう言われ、僕は荷物を畳み始めます。

僕は横目でちらりと麗花さんを盗み見ました。麗花さんはパソコンに向かい、何やら書類を作っています。

赤い眼鏡のフレームの奥で、理知的な瞳がきらりと光ります。麗花さんはキチガイなので、背も高くスタイルもいいです。学園のしょぼい制服は残念ながら麗花さんの豊満な胸を包み切ることはできません。麗花さんは風紀を守るためにいつも白衣を着ています。

その時、麗花さんは切れ長の目を僕に向けました。僕は慌てて目線を鞄の中に落とします。

「今、私を見ていなかったか?」

「外の天気を見ていました」

「そうか、まあいい」

麗花さんは無表情のまま、またパソコンの操作に戻りました。僕の心臓は先ほどからとくとくとひっきりなしに高鳴っています。僕は苦しくなってそっと服の上から胸を撫でました。

夢を見てはいけないのです。

「会長、お疲れ様でした」

僕は慌てて生徒会室から出て行きました。

麗花さんと僕はあくまで主従の関係なのです。

そこを決して間違ってはいけません。

和菓子は良いものです。人の心を和ませ、幸せにしてくれます。僕は少し行儀悪く、歩きながら、麗花さんにもらったおさつパイをパクつきました。外はサクサク、中はしっとりとした食感がこれの売りです。おさつの上品な甘さが舌の上に沁み渡り、僕は思わず目を閉じて嘆息してしまいました。

だから、僕は若干、不注意になっていました。下駄箱から靴を取り出そうとする時、かさりと音が鳴って手紙が零れました。初めそれに

気が付きませんでした。

僕が気づいたのは、手紙から麗花さんの香水の匂いがしていたからです。

拾い上げて中を見ると、便箋が一枚入っています。趣旨は体育館の裏で待っているというものです。待ち合わせ時間までにはもうあまり余裕がありませんでした。僕の目は手紙の最後の「Octo」というサインに注がれます。

October は英語で十月を指します。そして、十月は日本の旧暦で神無月のことです。「Octo」は神無月会長から僕への秘密のメッセージなのです。

誰にも見つからないように校舎裏に来い、ということです。

僕は麗花さんの使い走りです。呼ばれたらすぐに駆けつけなくてはいけません。急いで校舎裏に向かいました。

少し、この手紙に期待してしまったことも事実です。甘い香水の匂いにかどわかされたのかもしれません。

校舎裏は秋だというのに落ち葉が隅々まで掃かれ、掃除が行き届いていました。清掃委員が活躍しているのです。さすが麗花さんの生徒会です。

しかし、期待していた麗花さんはいなくて、そこには一人の女の子が立っていました。

金髪ツインテールを秋風に靡かせて、鳩が豆鉄砲を喰らったような目で僕を見つめていました。丈の短い赤黒チェックのスカートの下から、黒タイツの細い足が伸びています。

僕と同じクラスの糸川ケイがそこにいました。

糸川は背が低く、僕も背が低く、背の順に並ばされるといつも隣同士で最前列に来ます。だからといって親しいわけでもなく、糸川と僕は挨拶くらいしか会話を交わしたことはありません。

その糸川がなぜかもじもじしながらその場で足踏みしています。

「手紙見たよ」

糸川の手にはハートのシールで封がされた封筒と便箋が見えました。

途端に、僕の背筋に嫌な予感が走りました。毛虫を下着の中に入れられた気分です。そのまま後ろを向いて逃げ出したくなります。僕のこうした予感は大抵当たるのです。

「槌金って、何考えてるか分かんない奴って思ってたけど……その、こんな情熱的な文章も書けるんだね。知らなかった……」

糸川は伏し目がちになります。

「糸川さん、その、手紙の内容って……」

「あたしも、槌金なら、いいって思える。うん……むしろ最高。行くよ、遊園地」

彼女は封筒から二枚のチケットを取り出しました。事態の飲み込めない僕は目を白黒させるしかありません。

僕は紳士です。紳士的に吐き気を催し、我慢し、糸川に微笑みかけました。

「手紙を見せてくれませんか」

「いいけど……」

糸川からはもじもじしながら手紙を僕に差し出しました。そこにはこんなようなことが書かれています。

拝啓 親愛なる糸川ケイ様へ

秋分も過ぎ、日増しに風の冷たくなる中いかがお過ごしでしょうか。

突然ですが、僕はあなたに初めての恋をしてしまったのです。あなたを思う僕の気持ちは秋の蒼天よりも高く高く、澄み渡っています。

好きです。付き合って下さい。今度一緒に遊園地に行きませんか。

おいしい洋菓子のお店を知っています。

もし良い返事をいただけるなら、今日の放課後、校舎裏まで来てください。お待ちしております。

あなただけの王子様、槌金霊土より

ふざけた手紙でしたが、書いた人は一人しか思いつきません。

ならば、僕の取るべき行動は一つです。僕は紳士的に彼女の手を拝借します。

「え……え、あの?」

「糸川さん、」

僕は彼女を抱き寄せました。

「ずっと慕っていました。僕は今、とても幸せです」

僕は彼女をきつく抱きしめます。糸川はしばらくまごついていましたが、その細い腕で僕を受け止めてくれました。

彼女の肩に顔をうずめて僕は涙を流しました。

それは偽りの涙です。

そう、世界一の道化師にだって僕はなります。全ては麗花さんのためにです。麗花さんが糸川と付き合うよう僕に命令するならば、僕は進んで己を偽りましょう。

「あなたのことが大好きです」

糸川の耳元で僕はあなたへの愛をささやきましょう。

僕を試しているのですよね、麗花さん。

糸川と別れた後、僕は生徒会室に戻りました。麗花さんは相変わらず、部屋の奥の机でキーボードをかたかたと打ち、書類作りに没頭しています。僕が入ってきたのに気付くと、麗花さんは少し手を止めて僕を見ました。

「どうだった?」

僕は糸川と付き合うようになったと顔をほころばせて語りました。小躍りもして見せました。遊園地に行くことも話しました。

「そうか。……糸川を楽しませてくれ」

麗花さんは僕に糸川の好みの服装から、最後のキスをする場所まで細かく指示します。僕はそれを一つひとつメモに取って記憶しました。

「うまくやってくれよ」

麗花さんは相変わらずの無表情で僕の肩を叩きました。どうしたらうまくやったことになるのか、僕は麗花さんの真意を図りかねていました。

少しだけ焦った顔の麗花さんも、たまには見てみたいものです。

僕は目を細め、いつものミルキーボイスを低くし、小悪魔を演出します。

「会長、一つだけいいですか? どうして糸川を? 彼女の学校生活を同級生として僕はよく知っています。彼女には友達がいません。媚びていったいなんの得があるのですか?」

「……お前は糸川をどう評価している?」

会長がじろりと僕を睨みます。僕はもう悪人ごっこを止めにします。

「無遅刻無欠席で、とっても真面目な良い子ですよー。他人の私生活にもずかずか入りこんでくるほど優しさに溢れています。人の汚点を面と向かってすぐ指摘する素直さもあります。クラスのみんなは畏敬の念を持って、彼女とは一歩離れて暮らしていますねー」

「そうか」

麗花さんは物思いに沈んだ顔で、パソコンに目を落としました。

今日の麗花さんはなんだか元気がありません。

「糸川のことはいずれ教える。お前はただ糸川と楽しんでくればいい」

机の中から栗饅頭を取り出して、麗花さんは僕に渡してくれました。

服を買うお金と、デートに使うお金もくれました。

和菓子の好きな僕はとりあえずそれだけでハッピーになれます。

僕はさよならを言って生徒会室から出て行きました。デートの日が楽しみになってきた僕は、鼻歌を歌いながら栗饅頭を頬張りました。

デートにはいくつかの鉄則があります。その一つが「女性を待たせない」ことなのは言うまでもありません。僕は約束の時間の十五分前には、遊園地前の噴水公園で糸川を待っていました。せっかくのデートだというのにあいにくの雨で、空はどんよりと曇っていました。

「ごめん、遅れた」

息を切らして、雨合羽を着た糸川ケイは現れました。

「待った?」

「いえ、僕も今来たばっかりです。雨で道が悪かったから遅れてしまいそうでした」

糸川は「良かった」と言って、遊園地の方に歩いて行きました。

雨中、彼女を待っていたことで僕のズボンの裾が濡れていることに、彼女はどうやら気付いていません。まあ、いいのです。今日は彼女を楽しませるための日なのです。いつかの日の予行演習と思って僕は恋人らしく振る舞えばいいのです。ただそれだけなのです。

チケットを手に、妖精の飛び交う門を抜けると、そこには夢の国が広がっていました。

霧雨の中、ガス灯に火が灯り朧に光り輝いています。点々と続く光の先には、青緑色のジェットコースターの軌跡や、大きな観覧車の輪郭が薄らいで確認できます。

そういえば、僕は幼い頃から遊園地という場所に行ったことがありません。僕の瞳はより多くの情報を捉えようと、若干大きくなりました。

少し胸が高鳴ってしまったのも事実です。

「槌金は何から遊びたい?」

糸川はそう言って合羽の下から僕を見上げてきました。

「なんでもいいですよ。糸川さんはどうしたいです?」

「うーん、雨降ってるし、まずは室内の肝試しとかかなあ」

糸川は水たまりを狙って長靴で踏みながら、ぴしゃぴしゃ音を立てて先を歩いて行きます。傘を差した僕がその後ろから付いて行きました。

「槌金、そういえば、なんでさっきから敬語使ってんの?」

「え……だって、僕と糸川さんはそんなに話したことないですし、こっちの方が自然かな、なんて」

「いいよ、普通に話して」

「糸川さんがそっちの方がいいって言うならそうするね」

僕と糸川は遊園地の中央に位置する洋館まで歩き着きました。レンガ造りの洋風の屋敷で、ところどころ赤の塗装がはがれていました。洋館には蔦が絡みつき、蜘蛛の巣が張っています。遊園地ガイドブックによると、モンスターハウス、俗に言うお化け屋敷です。

洋館に入ると、シャンデリアが頭上で煌々と揺らめくエントランスホールにスタッフから案内されました。

僕は傘を畳み、糸川は雨合羽を折り畳んで、水気を拭います。僕の視線はふと糸川の姿を捉えていました。

糸川は白いカットソーの上からピンクのカーディガンを羽織っていました。白く輝く金髪はいつも通りツインテールに束ねられています。淡い鶯色のスカートには、水玉模様が点々と走っています。

糸川は黒タイツが好きなのでしょう。一筋も伝線していないタイツがすらっとスカートの下から伸びています。

「へぇ……意外と女の子っぽいんだ」

僕は少しだけ糸川に見とれてしまいました。僕の中の糸川は、クラスの皆からのけ者にされている女子というイメージしか持たなかったのです。意外な一面を知った気がします。

糸川は口の端を歪めて、ジト目になり、僕を睨みます。

「意外?」

「え……えぇ、いつもはそんなにおしゃれな子って感じじゃなかったから……。学校だと糸川っておとなしい、よね」

僕ら二人がそうして喋っていると、一組のカップルが、洋館の中から広間に出てきました。係の人はそれを見ると、僕と糸川の手に手錠をかけました。

僕と糸川があっけにとられていると、係のお姉さんは、ハイテンションで言いました。

「さあ、次はあなたたちの番ですよ。この洋館、モンスターハウスには、不思議な言い伝えがあるのです。一人で入った者は生きて出てこられません。しかし、二人で入ったカップルは、無事外に出てこられたら、一生添い遂げられるんです。二人の絆をさあ、試さん! 若き二人よ、さあ、行かれよ」

僕がどきまぎしていると、糸川はぐいぐいと手錠を引っ張り、先に歩き出しました。

「あたし、実はオカルトって大好きなんだ。早く、早く」

「え……ちょっ、待って、えっ」

糸川は信じられない怪力で僕を引きずっていきます。

「僕、実はオカルトとか幽霊の類は苦手だったりしたり……いや、実在の人間だったら弱みを握ってゆすってちょちょいなんですけど、幽霊の奴ら、実体ないから……」

僕の嘆きは彼女に届きませんでした。

飛び出すお化けと幽霊とこんにゃくの数々に僕は涙を流して絶叫しました。

モンスターハウスを抜けたころには、僕は足腰も立たないくらいふらふらになってしまいました。恥ずかしながら糸川に肩を借りてびっこを引きずりながらエントランスホールへと戻ってきます。

「ごめん、槌金ってオカルト駄目だったんだ……」

僕は全力で息を整えながら答えます。

「……いいよ。糸川が楽しめたならそれで」

心臓が震えて未だにばくばくと鼓動しています。百メートルを走り切った時よりひどい息切れです。冷や汗が背中から止まりません。

こんな悪趣味なエンターテイメントを考えた奴はヘンタイに違いありません。絶対そうです。

「うん、とってもどきどきしたよ」

糸川は真っすぐ前を見つめて言いました。黒真珠のような瞳がきらきらと輝いています。少しだけ白磁の頬を紅に染めています。

糸川の肩に回した肌ごしに彼女の体温が伝わってきました。脈も触れています。彼女の心臓も先ほどからずっととくとくと高鳴っていました。

こんなに脈が上がっているなんて、意外と糸川も臆病なのかもしれません。

意味深な視線を送ってくる係のお姉さんに、僕はにこにこと微笑み返して心の中で毒づきます。ホールで少し休憩した後、僕と糸川は次のアトラクションに向かいました。

次はハッピーシアターという建物に行きました。ここはスリーDの飛び出す映画が眼鏡なしで楽しめると評判です。ちょうど映画の上演が終わり、客が掃けていくところでした。

「ねえねえ、これ見よう」

糸川が指差した映画は「マイ・スイート・バニー」という恋愛ものでした。僕は純愛と正義が吐くほど嫌いです。

「おもしろそうだね」

吐き気を押さえつけ、麗花さんの顔を思い出し、僕は糸川と映画館の中に入りました。

上演まで時間があったので、僕は麗花さんからもらったお金で二人分のポップコーンを買いました。デートの飲食では女子の分までお金を払うというのが僕の信条です。

「あたし、ジュースも飲みたいな」

糸川の要求でストロー付きコーラも二本買い、僕と糸川は席に着きました。ブザー音と共に映画の上映がスタートします。

鼻の高い白人と兎が原っぱで追いかけっこをしているシーンから始まり、しばらくして女が出てきたり、戦争が始まったりしていました。

正直、あまりよく覚えていません。後で糸川と話を合わせるために情報としての映画は頭に詰めるのですが、映像として視野に入ってこない感じです。唯一、主人公の浮気がばれるシーンだけは色鮮やかに楽しむことができました。

糸川はずっと画面に見入り、ときおりふんふんとうなずいて、ポップコーンを口に放りこんでいました。

そんな糸川を僕はぼうっと横からちら見していました。

思えば、学校で糸川を意識的に視界に入れたことはありません。糸川は友達のいない寂しい奴です。お昼時、いつもすっと姿を消して、掃除の時間になるといつの間にか現れています。

この前、たまたま監視カメラの整備で屋上に上ったとき、そこで一人、飯を食べている糸川を見ました。糸川の周りには鳩が二、三羽いて、糸川の撒くパンくずをつついていました。糸川は対して楽しそうでもなく、読書をして、ときおりパンをばら撒いていました。僕は作業ができないのを残念に思い、糸川に見つからないうちにドアを閉めました。それだけの記憶です。

クライマックスにいよいよ差し掛かりました。主人公の白人が恋人に婚約指輪を渡すシースです。真剣に画面を見つめる糸川を見て、僕はあるいたずらを思いつきました。

糸川の左手にそっと僕の右手を添えます。

「!」

糸川は椅子から二ミリ飛び上がり、顔をぶるぶる震わせて僕を見てきました。僕は素知らぬ顔で、画面に見入っている振りを続けます。糸川も映画のクライマックスが気になるのか、何も言わず、顔を真っ赤にしたまま、画面に視線を戻します。

お化け屋敷の仕返しはどうやら成功したようです。

映画は、結婚式の鐘の音と共に終わりを迎えました。

ブザー音が鳴って幕が閉まっていきます。会場がざわつく中、糸川はかすれ声で僕に話しかけてきました。

「槌金……手、手」

「ん……うわああ」

僕は顔を赤くして、手を放しました。すりすりと手のひらを申し訳なさげにこすり、上目使いで糸川を見ます。

「ごめん、いつの間にか触ってた」

「いいよ、別に、そんなの。あたしも全然気づいてなかったし」

そう言って糸川は腕時計に目をそらします。二人の間のコーラの容器を掴むと思いっきり吸い上げました。

今度は僕がびっくりです。

「糸川……それ、僕んの」

「え……嘘っ! ごめん気づかなかった」

糸川は慌ててストローから口を外します。空になったコーラの容器の中で、氷がカラカラと虚しく音を立てます。

「あ……あぁ……か、代わりに、あたしの飲む?」

糸川は錯乱しているのかしずしずと自分の分のコーラを僕に勧めてきました。

「いいよ、いいよ、その、女子が口付けたやつだし……」

僕はどんな顔をして糸川を見たらよいか分からなくなってしまいました。とにかく頬を人指し指で擦りつつ、顔をそらします。

僕の心臓がまたもとくとくと鼓動を始めました。これはお腹がすいているからに違いありません。断じて、糸川の影響ではないはずです。

糸川は申し訳なさそうにコーラを引きました。

「だよね、間接キスになっちゃうし。本当にごめんね。槌金、ポップコーンも全然食べてないでしょ。全部槌金が買ったのに、あたしばっかり食べちゃって」

客たちが席を立ち始める中、僕と糸川の間に気まずい空気が流れます。

胃が痛くなってきました。なぜなのでしょう。麗花さんの元で汚れ仕事をする時さえ、こんな罪悪感に焼かれたことはありません。現在、僕は何も悪いことをしていないのに。

糸川の目尻にうっすらしずくが浮かびました。

まったく。世話が焼けるのです。

僕は糸川の手からコーラの容器を掴むと、蓋を開け、中身を直接口に流し込みました。糸川はぽかんとして僕を見つめています。

「僕も飲んだよ。ありがとう」

糸川のコーラはぬるくなっていました。なのに、なぜか甘みが強い気がしました。

おそらく、店員が砂糖の配分を間違えたのでしょう。

「ご飯食べよ。僕、お腹すいた」

僕はそう言って回れ右をし、糸川の泣き顔を背で隠しました。

「う、うん、そうしようね」

僕と糸川はぎこちなく前後に並んで歩きつつ、映画館を後にしました。

雨のおかげで、昼時だと言うのに飲食店はどこも比較的空いていました。僕と糸川は、「Der Prinz」という名前のドイツ料理店に入りました。顎髭を豊かに蓄え、腹の突き出たマスターが笑顔で迎えてくれました。彫りの深い顔からしてドイツ人だろうと推測できました。

「Guten Tag! (らっしゃい!) 」

「あ、はい……Guten Tag(こんにちは)」

元気のいい店主だと思いつつ、日本語喋ってくれよと願いつつ、僕は糸川と席につきました。

「Sie eunschen? (なんにするかい?)」

マスターは大きな腹をゆさゆさとゆすってお冷の入ったお盆とメニューを持ってきてくれました。

糸川が心配そうに僕を見てきました。僕とて心配です。

「あの、日本語しゃべれますか?」

「(水が欲しいのかい?)」

「駄目だ、日本語が通じてない」

「どうしよう?」

僕は糸川に、店から出ようという合図の目線を送り続けました。しかし、糸川は何を思ったのかぐずぐずしていて、店の中を見回しています。

仕方ありませんね。僕は慣れないドイツ語を使う羽目になりました。

「(主人、シュニッツェルとポトフをください。あとライムギパン。

焼き方は固めで。飲み物はハーブティーでお願いします)」

「(彼女とデートかい?)」

「(そんなんじゃないですよ)」

「(分かるぜ。今日が勝負なんだろ?)」

「(ただの友達です)」

「(飛び切りのごちそうを用意しよう。彼女も一発でメロメロだ)」

聞けよ、主人。

糸川は小首を傾げて僕の方を見てきました。

「すごいね、槌金。ドイツ語しゃべれるの?」

「ちょっと趣味でかじったことがあるんだ。あまり難しいのは聞き取れないけど、日常会話くらいならなんとかなるかな」

「へぇー」

「注文はしといたから大丈夫。おいしいといいね」

料理が出てくるまでの間、店内の絵画を見ながら、僕と糸川は談笑していました。糸川と向かい合って何か話していると、彼女の付けている香水でしょうか、甘い香りがほのかに僕の鼻をくすぐりました。

「あれはアルベルトの青騎士、あっちはコンラートの作品を真似て作ったものかな。どっちもドイツ人の有名な画家だよ」

「前々から頭はいいと思っていたけどあんた物知りでもあるのね。見直しちゃった」

「糸川も、今度、絵画とか見たりしてみない? 今の時代、ネットでいくらでも検索かけられるからさ。楽しいよ」

すると、糸川急に目を見開き、しばしば呼吸を止めました。目の前に僕がいるのに、僕の後ろを透視しているかのような目で僕を見てきます。

まあ、つまるところ、糸川は考え事をしているようです。

「なかなか、時間がないんだ」

糸川はしばらくしてそう言いました。

どうしてでしょう。そう言われると、僕の心臓はチクリと針を刺されたように痛みました。芸術の素養がない奴には嘲笑でなく、憐みを向けるべきだと常日頃から僕は思っています。一瞬、糸川と趣味を共有してみたいと思った自分がいたのです。それで胸が痛くなったのです。僕にとっては不気味な気持ちです。その出所を吟味しようと僕が顎に手をかけた時、マスターの渋い声が飛んできました。

「(おまちどおさま。うちの店自慢のコースだよ)」

店主の持ってきたプレートには色とりどりの料理が並んでいました。マスターは料理を手早く机上に並べていきます。

予想以上においしそうです。

「(これで彼女のハートもいちころだぜ、兄ちゃん)」

「ねえ、槌金、マスターは何を言っているの?」

「冷めないうちに早く食べろだって」

ほかほか湯気の出ている料理たちは、悔しいけれども旨かったのでした。

お昼も食べ終わり店から出ると、雨はすでに上がっておりました。空の雲間から日が差しています。糸川と相談し、次はホワイトスピンという回転木馬のアトラクションに行くことにしました。到着してから気付きましたが、子どもばかり遊んでいました。

ちょっと幼稚だったのかもしれません。

「ちょっと幼稚だったね。糸川、別の場所に行こうよ」

「え……」

眉根を寄せてこちらを見てきます。

「ねえねえ、あれに、一緒に乗ろうよ」

糸川は頬を少しピンクに染めながら、白馬の中の一つを指差しまし

た。

僕は必至に糸川へ笑いかけました。

「子どもがあんなにたくさん遊んでいるじゃん。僕らが乗ったら他の子が乗れなくなっちゃってかわいそうだよ。別の場所に行った方がいいと思うな」

「……だめかな?」

糸川は上目遣いで僕へにじり寄ってきます。

そんなことをされては。

そんなことをされては。

乗らないわけにはいかないではないですか!

「……乗るか」

「ありがとう」

糸川は僕の袖を掴んでぐいぐい引っ張り、回転木馬まで引いて行きました。周りの子どもたちが好奇の目で見てくる中、僕が前、糸川は後ろに乗り、回転木馬を楽しみました。

とんだ羞恥プレイです。僕は木馬に乗っている間、ひたすら数だけ数えて、他のことはまったく考えないようにしました。

「槌金……」

糸川は熱に浮かされた人間のようにときおり僕の名前を呟きつつ、僕の腰にずっと手を回していました。糸川もずっと顔を伏せて微動だにしません。きっと彼女も恥ずかしいのです。

ならしかし、どうして糸川はメリーゴーランドに乗ろうなんて提案したのでしょうか?

僕は麗花さんが時たましたり顔で言っていたことを思い出しました。

――私の行動に全て論理が伴うと思うなよ。

女性とはミステリアスなものなのかもしれません。

回転木馬で大恥をかいた後、僕は糸川に提案をして洋菓子のおいしい店、スカイキャットへ休憩に行きました。

「ああ、どれにしよっかなあ、マシュマロもエクレアもバームクウヘンもみんなおいしさそう!」

糸川はメニュー表を見ながらひとり、ふうふう息を荒げています。

喜んでもらえて何よりでした。麗花さんからの事前情報によると、糸川は洋菓子に目がありません。

遊園地エリア内にはもう一か所、「土佐犬」という有名和菓子店があります。和菓子好きの僕としてはそこに行きたかったのですが、涙を呑んで我慢しました。その甲斐もあったというものです。

「あたし、シューアイスにしようかな。槌金は?」

「僕はあんドーナツで」

「それって、あんまり洋菓子っぽくないよ。いいの、せっかくのスカイキャットなのに?」

糸川は眉根を寄せて僕を残念そうに見てきます。僕はその目を緩く見つめ返すことしかできませんでした。

僕は和菓子が食べたいのです。

せめて餡子とか食べたいのです。

「う、じゃ……じゃあ、バームクウヘン」

しかし、自分の希望はなかなか言い出せないのです。所詮これは接待デートだと思って観念するしかないのでしょう。

糸川はにこにこしながら注文していました。

「だよね、洋菓子の方が絶対いいよね。洋菓子ってすごくおいしいもん」

僕はふつふつと腹の底から湧き上がる怒りの処理に困ってしまいました。
まさかこんなところに敵対勢力がいたとは。握り締めた拳がわなわなと震えてしまうではないですか。

「和菓子って雑味が強いっていうか、芋っぽいっていうか、あんまりお菓子って感じじゃないじゃんね。やっぱり洋菓子には敵わないよ」

糸川は自慢げに洋菓子の長所、和菓子の短所を滔々と並べ立て始めました。

さすがは人との距離感が分からない糸川だ、と僕は内心毒づきます。この女はこういう風にして友達を減らしていったに違いありません。

「……それはちょっと違うんじゃないかな」

気づくと僕は反論していました。これは接待デートであり、決して糸川の機嫌を損ねてはならないはずなのに、です。

熱くたぎる和菓子への愛が僕に沈黙を許さないのです。

「和菓子は素晴らしいよ! 千年以上も日本が改良を重ねて作り上げてきた文化なんだ。高々日本に渡って数十年の歴史しかない洋菓子より、よっぽど日本人の口に合っていると思うね」

糸川はきょとんと狐につままれたような顔で僕を見てきます。

「ごめん」

一言彼女はそう言うと俯いてしまいました。

怒らせてしまったのかもしれません。僕の背筋にタラりと冷や汗が流れます。

ひゅーひゅーと冷たい木枯らしが店の外を吹いていきます。

「あ、あの、謝らなくていいんだ。その、責めるつもりはなくて……」

「少し嬉しい」

糸川は微笑しながら顔を持ち上げました。

僕はいよいよ何がなんだか分からなくなります。

「ようやく、槌金の本心が聞けたかな? 槌金、なんだか今日一日、あたしに変な遠慮をしていたでしょ? その仮面を取ってみたくて、わざと強く言ってみたんだ」

糸川はそう言うと、バッグの中からタッパーを取り出しました。中には茶色いパンケーキがいくつも詰まっています。

「今日、槌金とデートに行くんだって神無月に話したら、『槌金は和菓子が好きだ』って教えてくれたんだ。だからどら焼き作ってみたの。食べてくれない?」

僕は安堵のため息を漏らしました。額の汗を拭いながら、椅子に深く腰掛けます。怒らせてしまったわけではなくて良かったです。僕を嵌めに来るとはなかなかしたたかな奴です。

しかし、糸川がどうして麗花さんにデートのことを話すのでしょうか。二人はどんな関係なのでしょうか。

「そうだったのか……麗花さんは僕のことをなんでも知っているからなあ」

僕は早速どら焼きに手を伸ばして口に含みました。スポンジの甘柔らかい食感と餡粒のざらざらした舌触りがたまりません。噛んでいるとスポンジがほどけ、舌の上で程よく餡と絡み合います。

悔しいことに旨いどら焼きです。

「まあまあだね」

僕はそっぽを向き、旨いものを食っている興奮を気取られないようにします。

「良かった。失敗したらどうしようって思ってたんだよ」

しばらくして注文した洋菓子もテーブルに並び、卓上はだいぶ賑やかになりました。

「ああ、洋菓子最高!」

糸川は目を食いしばりながら、キンキンに冷えたシューアイスをスプーンで掬って口に運んでいます。

「糸川は洋菓子が好き。僕は和菓子が好き。結構お互い似ているかも

しれんね」

僕はもう、あまり演技をする気が起きなくなってしまいました。今までの演技はそれとなく糸川に違和感を与え、見抜かれてしまっていたのです。

旨い和菓子は心に余裕を与えてくれます。どら焼きを一つ、また一つとむしゃむしゃしていると、遊園地を糸川だけに楽しませるのがなんだか馬鹿らしくなってきました。

糸川も楽しめて僕も楽しめたなら、今日一日は実に良い日になるのではないでしょうか?

演技も何も考えず、糸川となら楽しめます。

僕はそう気づいたのです。これは大きな発見です。

「糸川って菓子作り上手だよね? どうやって勉強したの?」

「へええ、そんなにおいしかったか。菓子作りはね、童話を書くときの参考にするために学んだんだよ」

「童話?」

彼女は顔を輝かせて、自分の夢について語り始めました。

糸川の夢は童話作家になることだそうです。そのために、童話をたくさん書いたり、童話の中に出てくるお菓子を実際に作ってイメージを掴んでいると言います。

「童話って子どもの読むものって先入観があるけどね、本当におもしろい童話は大人が読んでも十分楽しめるんだよ」

「ふーん、そうか。童話なんて最後に読んだのは七年前だよ」

僕はコーヒーカップを傾けながら、糸川の話に耳を貸していました。

「あたしは大人でも子どもでも楽しめる童話を書きたいんだ。賞にも何作品か送っているんだよ。未だに入選したこともないけどね」

糸川は顔を赤くしながら恥じらいました。そんな彼女を見ているとなんだか胸が苦しくなってしまい、僕は慌てて話題を変えることにしました。

「そう言えば、糸川はどうして麗花さんを知っているの?」

「神無月のこと? あの子はあたしと幼馴染なんだ。神無月の家とあたしのアパートはすぐ近くにあるよ。小さい頃から結構遊んでた」

「へぇ、初耳だ。学校ではあんまり会ってないよね」

「近頃はたまに休日に二人でどっか行くくらいかなあ。神無月も生徒会長始めてから忙しくなったみたいだし……。しかも、あんまりいい噂聞かないし」

糸川の顔に陰りが差しました。なぜなら、神無月の唯一の手下が僕であることは周知の事実だからです。

「あまり気にしなくていいからね。僕は好きであの人に使われているんだ。どんな噂が立とうとあの人の役に立ちたい気持ちに変わりはないよ」

僕は文字通り「好き」であの人に仕えています。そのことを考えた時、目の前の糸川も視界に入り、僕の胸はざらざらと音を立てました。音を消すため、僕は静かに胸を鷲掴みます。

心臓の拍動が握りこぶしに伝わってきます。

大丈夫だ、と自分に言い聞かせます。

僕の本心は、僕の手のひらに握ったまま離していません。

糸川とは、あくまで友達として、遊園地を楽しみ、今日は帰ればいいのです。

そうすれば、僕も麗花さんもハッピーな結末になります。

糸川は? 糸川にとってそれはどういう結末になるのでしょうか? 少しだけ僕の頭にちらつきました。

麗花さんはいったい何を企んでいるのでしょうか。

「あの、槌金、大丈夫? 胸を押さえて気分でも悪いの?」

「なんでもないよ」

心配そうにこちらを見てくる糸川に微笑みかけ、僕はまた、彼女の恋人に戻りました。

「少しだけトイレに行ってくるから待ってて」

僕は鞄を糸川に見てもらっておいて、トイレに急ぎました。幸い誰もいません。個室に入り、麗花さんへ携帯で電話をかけました。

「槌金、どうした?」

透き通った鋭利な刃物のような、麗花さんの声が聞こえてきます。時間もないので、僕は早口で今日の報告をしていきます。

麗花さんとの作戦会議では、今日の最後にある場所で僕は糸川とキスをすることになっています。その場所が今回のデートに最適かどうかを麗花さんが今日の流れからもう一度チェックしているのです。

「ふむ。分かった。雨は降っていたが今は晴れていて問題ない。遊園地の閉館時間に近づいたら、予定通りの場所に向かってくれ。そこで……キスをすれば、デートはおしまいだ」

麗花さんはどこか憂えた声で、しかし、冷静に一つひとつ語っていきます。

「麗花さん、一つだけ、いいですか。麗花さんと糸川は幼馴染だって彼女に聞きました。麗花さんはどうしてそのことを黙っていたのですか。今回糸川を騙していることと何か関係があるんですか?」

「詳細は後で話す。お前はいろいろ探らずに楽しめ」

僕の耳には、電話を切られた後のプープーという音だけが残りました。

「麗花さん、なんで隠すんですか……僕を信用してくださいよ」

僕は悔しくなり、携帯の待ち受け画面にしている麗花さんの横顔を睨みました。僕は誰のために己を偽ればいいのですか。麗花さんのためですか? 麗花さんに気に入られたい自分のためですか?

なぜ僕ばかり、こんなに胸を痛めなくてはいけないのですか。

スカイキャットでお菓子を食べた後は、適当に土産物屋をぶらついてグッズを見て回りました。

「ねえねえ、これなんて素敵じゃない?」

そう言って糸川が手に取ったのは銀色のティアラです。それをそっと自分の頭に乗せると、

「お姫様っぽくない?」

と小首を傾げてきました。

僕はぷぷぷと声に出して笑いました。

「あ、何笑ってんのよ」

糸川は顔を真っ赤にしてティアラを取ると、ドスの効いた声で僕を責めました。

「笑ってない、笑ってない」

僕はにやにや笑いながら、糸川に背を向けて次のコーナーに向かいます。

「もう……待ってって」

糸川はティアラだけ置くと後ろから追いかけてきて、僕の背中をぽこぽこ殴りました。

「痛い、痛いよ、糸川」

「笑ったお前が悪い」

「あのボケにはどう返していいか分からない」

「素直にお姫さまっぽいとかって言っときゃいいんだ」

「どっちかって言うとお転婆娘だったからなあ」

脇腹に糸川の拳が飛んできます。地味に痛い。男女の体格差を感じさせない辺り、糸川は怪力なのかもしれません。

「高校生にもなってお姫様とかぷぷぷって笑っているんだろ、どうせ。知っているよ……」

半ヤケになって糸川は僕を睨んできます。若干涙目です。意外と急所だったのかもしれません。

必死に自己弁護しようとしている糸川が哀れに思えてきました。ここでサポートに回るのも紳士の務めというものでしょう。

「笑って悪かったよ。糸川の反応があまりにもかわいかったから……いじめてみたくなったんだ。ティアラは正直似合ってた」

そう言った途端、黒真珠のような糸川の目がまん丸く見開かれました。頬がみるみるうちに桜色に染まっていきます。

「あり、がと」

糸川は絞るようにそう言いました。今度は僕の心臓がドキッと強く鼓動しました。今言ったことが、自分の本心だったような気になってしまいます。

女子の恥じらい顔は、ある意味、泣き顔より卑怯だと思います。

本当に今日は不整脈の多い日だと思いつつ、僕は店の外の景色に目を逸らしました。夕日が山の端から差し込んで、遊園地の街路樹を赤く焼き始めています。

ふと、耳に、ホタルの光のメロディーが飛び込んできました。

遊園地の閉館時間が近づいているのです。

そろそろ、この楽しい一日も終わってしまうのですね。

僕は糸川の手を取ると、かねてからの策を決行することにしました。

「なあ、最後に観覧車に乗らないか?」

糸川はまだ顔を赤くしていました。それが夕日の下のせいなのか、僕には判断が難しいものでした。ただ、糸川もこくんと首肯してくれました。

閉館時間近くだったためか、大して待たされずに僕と糸川は観覧車に乗ることができました。

球状のゴンドラは心地よい音を立てながら、ごとごとと上に上っていきます。

外には鮮やかな赤の夕焼けが広がっています。雨上がりのため埃が少なく、遠くまで空気が澄みきっています。赤い薄帯が幾重にも重なり、暖かく街を包み込んでいるようです。

「わあ……」

糸川は窓にへばりついて夕焼け空に見入っています。僕は微笑ましくその様子を見ていました。

「この景色を糸川に見て欲しかったんだ」

「……なんて言ったらいいか分からない……こんな景色初めて見た」

「夕日は人を振り返らせるそうだよ。自分が何者であるか、夕日の前じゃ嘘はつけないんだ」

すると、糸川が不意に僕の方を見てきました。

「本当に嘘がつけないの?」

糸川は恐るおそるといった風に切り出します。

僕は首肯します。

これから糸川に嘘を言う僕が、首肯しました。

「糸川、今日はありがとう。楽しい一日だったよ。女の子とデートに出かけたのは初めてだったんだ。不足なく楽しんでもらえたかな?」

「あたしの方こそありがとう……。一生に一度、あるかないかってくらい幸せだった。ある意味、奇跡って言ってもいいかもしれない。童話みたいに楽しかった……だから、だから、あたし……」

糸川は急に嗚咽を上げて肩を震わせ始めました。僕は静かに糸川を抱き寄せました。糸川の肩は強く抱くと折れてしまいそうなほど脆く、弱く感じられました。

僕はずっとこの子を騙してきたのです。そう考えるだけで、胸が張り裂けそうに痛くなりました。

麗花さんと電話を終えるに至り、僕はようやく気が付きました。僕が本当に大切なのは、僕自身でも、麗花さんでもなく、糸川でした。今日一日で僕はすっかり彼女に落とされてしまったようです。

もうこれ以上、嘘を塗り固めることはできません。糸川に嘘をつい....ていた...と言い、もし糸川がそれでも僕を受け入れてくれたら、僕は正式に彼女に交際を申し込もうと思います。こんな虫の良い方法でしか、もはや、僕は納得できそうにないのです。

ごめんなさい、麗花さん。

僕も糸川を抱きしめながら、糸川と同様に涙を流しました。麗花さんを裏切ることへの涙と、糸川を裏切っていたことへの涙です。

僕は二人のヒロインに恋をし、二人のヒロインを裏切ってしまいました。

ゴンドラは静かに静かに上昇していき、観覧車のてっぺんに差し掛かります。ゴンドラの上昇が止まり、下降に移るまでの刹那、全ての音が消失し、沈黙が僕ら二人を包み込みました。

「糸川……実は……」

僕が事実を打ち明けようとしたその時、糸川が急に顔を上げました。

「あたし、槌金に黙っていたことがあるの。あたし、あたし……」

糸川の顔が必死過ぎて、僕は思わず息を止めてしまいました。

「あたし、病気で死ぬかもしれないの」

そう言われた瞬間、僕は時間が止まってしまったように感じました。

僕の手足は固く強張りました。

「健康診断で見てもらったら、血管の固くなる遺伝性の病気って言われたの。血管の壁がでこぼこしてきて、ある日、何の前触れもなくそのでこぼこが剥がれて、脳や心臓に詰まって死ぬんだって……槌金に言えるわけなかったよ……だって槌金のせっかくの初恋の相手が病気持ちだったなんて……治療しても治らないって……それで……」

僕はどうしていいやも分からず、震える糸川の背中に手を当てました。

糸川は幼子のように、必死に僕の服の裾を手繰って握り締めてきます。

「ずっと黙ってて、ごめん、ごめんね……。言い出せなくて、あたし、今日一日……」

「いいんだ。糸川、気にしなくていいんだよ」

僕は糸川の髪をできるだけ優しく撫でました。

僕はようやく会長がひた隠しにしてきた真実を知りました。糸川は死ぬかもしれない病気だったのです。それで、糸川を慰めようと、会長は僕を糸川と引き合わせたのでしょう。

糸川は、この小さい身体いっぱいに死の恐怖を溜めこんで、それでも僕に笑いかけてくれた気丈な子だったのです。僕はこの子にこれ以上まだ、残酷な現実を突きつけようというのでしょうか。それはおそらく僕のエゴです。そんなことできません。

真実も嘘も今となっては犬に食わせてやります。僕はもう、精一杯、全力で、彼女の王子様になるしかないのです。

糸川は目にいっぱい涙を含ませて、僕を見上げてきます。

「気にしろ、馬鹿! ……いいのか、死んじゃうかもしれない奴なんだぞ。そんなんでいいのか……槌金はそれでも嫌いにならないでくれるのか?」

「嫌いになるわけない……その、糸川は糸川だよ! ありのままの君

が好きだ!」

「なんてチープなセリフだ、ばかやろう。信用できるわけないだろ!」

僕は思いっきり彼女を抱きしめると、彼女のおでこにギュッとキスをしてやりました。糸川は喉から高い声を出して縮み上がりました。

僕の心臓がばくばく猛烈な音を立てて鼓動を奏でます。

「はぁっ、はぁっ、どうだ? 君が好きだ、糸川。嘘じゃない!」

「う、う、うわぁ……おでこ……こ、こ、この根性なし。信用できるか!」

糸川は泣きながら怒って顔をトマトのような赤に染めています。

僕は糸川の頭を傾けて、可愛らしい唇にそっと口づけをしました。シューアイスのほのかに甘い香りが鼻腔に届いてきます。僕にとってのファーストキスです。

糸川は浅い呼吸を繰り返しながら、驚きと恥じらいの表情で僕の目を覗き込んできます。

時間にして三秒程度のものだったでしょうが、僕にとっては一分くらいに感じられました。興奮で酸欠気味の僕は呼吸が続かなくなり、すぐさま唇を離しました。

僕は頭の血量が増えたせいか、立ちくらみがし、足がふらついてしまいました。

「あ、あ、うわぁ……ファーストキスだった……」

糸川はうなされているように、目を白黒とさせ、のぼせたように体をぐらぐら揺らしていました。

そんな彼女が愛らしく愛おしく、僕の世界もぐるぐる回ってきてしまいました。

「こ、これで、し、し、信じてよ。信用しないなら、もっともっと糸川にキスをしてやる!体中に……頭のてっぺんから、足の先まで、僕が君を愛しているって証を刻んでやる! 僕は君が大好きなんだ!」

「ヘンタイ、ヘンタイ、ヘンタイ、死ねばいい! このヘンタイ馬鹿!」

糸川がグウパンチで殴ってきたのを避け損ね、僕の鼻に拳がクリーンヒットしました。鈍痛が駆け巡ると同時にポタポタと鼻血が垂れてきます。

あとはもう、二人で抱き合ってわあわあわあと泣いていました。

久しぶりに子どものように泣きました。観覧車の係員の方はさぞ驚いたことだろうと後になっては赤面するばかりです。

(エピローグ)


この世には三種類の人間がいます。ヘンタイとキチガイと糸川ケイです。糸川は何度考えても、ヘンタイまたはキチガイに分類することができなかったのでこうなりました。糸川曰わく僕はヘンタイだそうなので、僕自身は暫定ヘンタイです。が、いずれ僕は僕を取り戻して見せましょう。

遊園地に行った数週間後、ヘンタイの僕はキチガイの麗花さんの元で山ほどの書類作りに勤しんでおりました。これは麗花さんから僕への罰です。僕は結局、糸川に嘘をばらしていないのですが、麗花さんには裏切りが見通されてしまったようです。

「槌金、次はこれを頼む」

部活動予算審議案の紙の束がどさっと机上に増やされました。

「うう……麗花さんは相変わらずのどSぶりですね……そろそろこの仕事を止めたくなってきました」

僕は真っ赤に腫れた目をしょぼしょぼさせながらパソコンをのたのた打ちました。昨日から一睡もしておらず、食べたものは麗花さん差し入れの金つばだけなので、さすがの僕も疲労が限界に達しております。これが会社だったら間違いなく労働基準法うんたらに抵触しているのでしょう。

しかし、麗花さんは会長席に座し、

「止めたいなら、止めても構わない」

と抑揚のない声で僕に言いかけてきます。目をパソコンから上げようともしません。冷たい仕打ちに僕の心は悲鳴を上げています。

思えば、麗花さんのお手伝いをする理由はもう僕にはないはずなのですが、なぜでしょう? 麗花さんの仕事を手伝っているとなぜだか嬉しくなってしまう自分がいます。

やはり、僕はヘンタイでなく、善人なのですね。人のお手伝いをするのが大好きなのです。この世の人間分類に『聖人』も新たに加えておかねば。

そんなことをのたのたと考えつつ苦しんでいると、生徒会室のドアを開けて、金髪ツインテールの少女が飛び込んできました。

「ああ、槌金、ようやく見つけた! お昼を食おう」

糸川は早速、手の風呂敷包みを開けて、お弁当を並べていきます。

「あたしの特製の手作り弁当、食え食え。味は保障しないけどね」

「じ、地獄に仏とはこのことだあ……」

空腹は最大の調味料と言いますが、糸川の料理はそれを差し引いてもおいしそうに見えました。こんがり狐色でふわふわの卵焼き、一粒一粒米が立っているおむすび、味の滲みてそうなサトイモの煮つけ。それらを並べられ、僕のお腹は切なくキュウキュウと鳴りました。

「いただきまーす!」

全部一度に口に含みました。

次の瞬間、僕の口内は灼熱の嵐に襲われました。

「ボガアァッ!」

砂糖と塩が違ったり、米から洗剤の味がしたり、サトイモが石のように固かったりするのはいったいどういうわけなのでしょう。糸川は、お菓子作りは得意ですが、料理作りは苦手なようです。

「あんまり、おいしくなかった?」

糸川は悲しそうな目で僕を覗き込み、宇宙の真理くらい当たり前なことを聞いてきます。ただ、怯えた兎のようなその目で覗きこまれると、僕はどうも嘘つきになってしまいます。

「ふまひ、ふまひよ、ひんぱひしなふてらいじょうぶ(うまい、うまいよ、心配しなくて大丈夫)」

根性で口の中の物を全てのみ込みます。飲み込んでしまえばこっちのものです。喉元すぎれば熱さを忘れる、心頭滅却せば火もまた涼し、

です。空腹もとい、愛は最高の調味料でしょう。

毒により結果的に鮮明になってきた意識で書類を選別していると、部活動予算審議案の紙が僕の目に飛び込んできました。

「あれ、麗花さん、廃部したはずの水泳部がありますよ、印刷ミスではないですか?」

すると、麗花さんはクスリと笑って、白魚のような手を顎にかけました。

「今さらあいつら必死になって練習を始めたからな。しばらく泳がせておくのも悪くないと判断した、水泳部だけにな! どうせ廃部届はこちらが握っている。うまくすれば、今季の大会で結果を残してくれるだろう。写真を見せてからは、部長も勉学に励みだしたそうだぞ」

魔女のようにくふくふ笑う麗花さんは、どうやらこの展開を読んでいたようです。まったく恐ろしい人です。僕なんて足元にも及ばないようなキチガイですね。ギャグのセンスもキチガイじみています。

久しぶりに麗花さんのテンションが上がっているように見えます。それは、おそらく、麗花さんの親友である糸川ケイもこの場にいるからなのでしょう。彼女はのんきに僕の横でお茶を飲んでいます。

麗花さんが僕と糸川の恋のキューピッドになった理由は、結局僕には分からなかったのですが、いくつか推測することはできました。麗花さんは僕に、糸川の話し相手になって欲しかったのではないかとするのが最有力候補です。

遊園地の一件以来、僕と糸川は何度も顔を合わせ、たまに相手の家に行ったりして、糸川の病気についてずっと話し合ってきました。糸川の両親とも、時には僕の両親とも、顔を合わせて話し合いました。糸川の病気はある日何の前触れもなく、糸川の命を奪うそうで、手術も薬も使えない不治の病と聞きました。

僕と糸川の出した答えは、『その現実を受け入れる』というものでした。

糸川の主治医によると、その病気はいつ命を奪うか分からない一方、一生命を奪わずに済む可能性もあるようです。また、糸川が生きていれば、近い将来、治療法が開発されて、完治する見込みもあると言います。

よって今のところの結論として、僕と糸川にできることといったら、毎日楽しく学校生活を過ごすことくらいしかないようです。現実を見つめるというと、人間は大体負の部分ばかりに目がいってしまうものですが、決して辛いことばかりではありません。僕と糸川は他のカップルより、毎日を大切に生きることができます。そして、糸川が死ぬかもしれない恐怖と同時に、糸川が助かるかもしれない希望を僕たちは見つめることができるのです。

僕と糸川が結果的に支え合う関係になるのを見越して、麗花さんが糸川に偽装ラブレターを送ったのならば、僕は素直に感心しましょう。麗花さんの目論見は見事成功しているからです。所詮は推論の範囲内ですから、真実は藪の中ですが。

「麗花さん、いい加減、教えてくださいよ。どうしてOctoの手紙で僕を釣ったんですか?」

僕は何度目とも知れない問いかけを麗花さんに向けました。

すると、彼女は、いつもと同じように、切れ長の目を意地悪く光らせてこう返しました。

「私の行動に全て論理が伴うと思うなよ」

結局、僕は黙る他ないのでしょうね。

――おしまい

著 青木一郎

「キャラ原案」

如月悠

児童安心

下柳五郎




『愛してる』 北柊トキ著


母の手は美しかった。水仕事で手が荒れていたものの、節の無い指は長く、薬指にはめた赤い指輪がよく似合っていた。

「良い子で待っていてね」

指輪をはめた母の柔らかい手が自分を撫で、額にキスをされる。

「悪いことをしていたら、妖精さんが教えてくれるからね」

それが母の口癖だった。男が母に永遠の愛とやらと共に渡したというその指輪は、一生外れることがなく、妖精の加護があるとよく語って聞かせてくれた。当時は全く信じていなかったが、今はそれがすべて本当だったことがわかる。

その指輪は今俺の指についているのだから。

「なんなんだその目は!」

奥歯をかみしめたと同時に頬を激しい痛みが襲う。次の瞬間、軽い自分の体が飛ぶ。

「やめて! この子は関係ないじゃない!」

俺をかばった母をぶつ音が聞こえる。無力な自分はただいつものように体を丸めて耐えるしかなかった。

「こんなに愛してるのに、なんでわからないんだ!」

母の帰りが遅かったとき、俺の態度が悪かったとき、男はいつもそういって母を殴った。そのたびに母は泣きながら男に謝っていた。母が何度も謝り、落ち着いた男が母にお決まりの愛の言葉を囁いて、嵐が終わる――はずだった。

「俺よりこの子の方を愛してるっていうのか!」

そう言って父は再び俺に拳をふりあげた。きつく目を閉じ衝撃を待ったがそれは訪れなかった。代わりに何か温かいものが自分を包むのが分かった。恐る恐る目を開ける。まず目に入ったのは、動揺し、目を見開いている男。そして、自分を抱きかかえたまま壁に頭をぶつけ、血を流している母だった。

「き、救急車!」

父親が慌てて、電話をかける。母の体は倒れこみ、血だまりが床に広がっていく。

「アリシア! 目を覚ましてくれ! 俺は君無しでは生きていけない!」

男が母を呼び、その体をゆすると、腕の方からかすかな音がした。音の方を見れば、あの指輪が母の指から外れ、床に転がっていた。

アレックスは目を開け、数回瞬きをした。そう広くない生徒会室に赤々とした夕日がさしこんでいたが、腕時計は先ほどからあまり時間が過ぎていないことを示している。先ほど見た夢の内容から眉間にわずかに皺をよせる。あらかた片付いた書類をまとめ、理事長のサインのみが空欄となっている書類を机の引き出しにしまう。

(アレックスが居眠りするなんて珍しいのう)

持ったままのペンから手のひらほどの老人が語りかける。それを受けて、老人より一回り小さな少女たちもくすくす笑っている。

アレックスはため息を一つついて、他の指よりも不自然に細く、わずかに歪んだ小指の絆創膏をはずす。夕日に照らされて、指輪はきらりと輝いていた。あと十分もすれば生徒の模範とは言い難いが、人望だけは厚い副会長が書類を持ってやってくる。それが終われば、今日の仕事はもう終わりだ。アレックスは背もたれに体を預け、もう一度目を閉じた。

永遠の愛とは何だったのか、男は母の葬儀が終わってすぐに新しい

女を見つけていた。酒場で知り合ったという女は、子供の俺から見ても、それはそれは美しかった。鈴のような可愛らしい声、柔らかなハニーブロンドの長い髪、宝石の様な大きなスカイブルーの瞳。俺を見るその目が明らかな嫌悪に染まっていなければ、俺もこの女を母と呼んでいたのだろう。いつも、母の指から外れた指輪をつけた俺の小指を食い入るように見ていた女は、いつのまにか、男と結婚していた。

女と男の間に子供ができたのだ。男にまったく似ていないその子は母親と同じように美しい子で、俺の可愛い妹となった。初めて出会ったその日、小さな手で俺の指を握ってくれたときは、思わず笑顔がこぼれた。

しかし、父の愛は、母の時と変わらず女と妹にもふるわれた。

「どうして俺の愛がわからないんだ!」

「うるさいわね! あんたのは愛じゃなくてただの暴力よ!」

俺はただひたすらに妹を抱いて隠れることしかできなかった。大声に驚いて泣き出そうとする妹を妖精達と必死であやして、時にはその小さな口をふさいでじっと耐えていた。

母と違い、若く美しい女は妹をおいてさっさと出て行った。女は手切れ金として俺の指輪を持ち去ろうとしたが、根元の関節が外れるほど強く引っ張られても俺の指輪が外れることはなかった。その後、女がどうなったのか全く知らない。

勢いよく生徒会室の扉が開かれ、反射的に目を開ける。視界の端で妖精たちが慌てて姿を消すのが見えた。

「会長! 書類終わったよ!」

そういって、生徒会室にずかずかと入ってきたジェシカは書類をアレックスに差し出した。

「ノックをしろ」

アレックスは先ほどより深いため息をつきながら書類を受け取り、

目を通す。

「それからそのアクセサリーを外せ」

首元に光るネックレスは、そこらの学生のものとは違い、いくらか品があるように見える、おそらく指につけているリングにはまる石もそれなりの宝石なのだろう

「お気に入りなの! 別にいいじゃない、先生たちもなにも言わないんだし」

背中を痛いくらいにたたかれ、アレックスは顔をしかめる。理事長の娘に、おいそれと注意できる教師などそうそういないだろう。

そんな豪快な態度とは異なり、書類にはミスもなく、きれいにまとめられていた。

「会長だって、指輪つけてんじゃん!」

会長の欄にサインを書き込みながら一瞥もくれずにアレックスは答えた。

「異装許可は出ている、それに外れないんだから仕方ないだろう」

ジェシカは一瞬むくれたが、すぐに笑って、後ろから椅子越しにアレックスに抱きついた。

「会長は頭良いもんねー! 成績トップの特待生! 指輪の一つくらい認められるわよ!」

ジェシカの言葉に適当に相槌をうち、書類を所定の位置に納め、荷物をまとめ始めるアレックスの目の前にジェシカは二枚のチケットをつきだした。

「ねえ、パパが来月上映の映画の試写会のチケットくれたんだけど、一緒にどう? 会長この間原作読んでたでしょ!」

アレックスは、一瞬目を輝かせたが、すぐに申し訳なさそうに微笑み、言った。

「気持ちは嬉しいが、妹と約束しているんだ。それにジェシカみたいなお嬢様が俺みたいな孤児と出歩いていたら何を言われるかわかったもんじゃない。もっと素敵な殿方を誘ってやれ」

ジェシカが何かを言おうとする前にアレックスはお疲れと一言付け加えて、生徒会室をあとにした。

「アレックスじゃないと意味ないのに……」

ジェシカの呟きは、誰にも届かずに消えた。

「ただいま帰りました」

古めかしい孤児院の門を開けると、洗濯をする老女を手伝っていた少女がはじかれるようにアレックスのもとへ駆け寄ってきた。それをしっかり受け止めて額にキスをする。

「お帰り、お兄ちゃん!」

「ただいまアリス。いい子にしてたか?」

もちろん! と胸を張る少女の肩で、妖精がにこにこ笑いながら頷いている。

「お帰りなさい、アレックス。アリスは今日もお手伝いをたくさんしてくれたのよ。今も洗濯物を一緒にとりこんでいたの」

洗濯物をとりこみ終えた、老女が言った。

「俺も着替えたら手伝いますよ」

「いいのよ、もう終わったわ。アリス、これを皆と協力して部屋に持って行ってちょうだい」

「はーい!」

元気よく返事をして、アリスと声をかけられた周囲の子供たちは、いくつもの大きな籠を協力して運んで行った。

老女はそれを手を振って、見送る。ふと、門が開いた音がして、振り返ったアレックスの目に、喪服をまとい、黒いレースの所為で顔の見えない女がこちらを見つめていた。

「アレックス? どうしたの?」

「え、あ、いや」

老女に声をかけられ、慌てて取り繕う。老女は子供達が部屋の中へ行ったことを確認すると、真剣な顔をして、アレックスに言った。

「今日の夜時間あるかしら? 大事な話があるの」

素直にはい、と返事をして、もうすぐ夕飯よ、と老女に促されるままに、自分の部屋へと戻った。玄関の扉を開ける前に、もう一度、門の方を振り返ると、女はまだアレックスを見つめていた。

「今日はね、皆でピアノを弾いたの。私が一番上手だってみんな言ってくれたの! 今度お兄ちゃんにもきかせてあげるね! それでね、」

食事と入浴を済ませ、ベッドに入ってもアリスは今日一日あったことをアレックスに聞かせる。広いベッドでほかの子供たちはもう寝入っているので、アリスの唇に人差し指をあてて、静かに、と言い聞かせる。

「明日は学校が休みだから、お手伝いが終わったらたくさん遊ぼうな、良い子にしてたらすぐに終わるから」

ささやくように言い聞かせると、アリスは本当? と何度も念を押した。アレックスはそのたびにうなずいて答えた。

「ほら、子守唄を歌ってやるからもう、寝な」

小さな声でアレックスは歌い始める。決して上手いわけではないが、

赤ん坊のときから、何度も何度も同じ歌を聞かされているアリスは条件反射のように、すんなりと眠りに落ちた。アレックスはアリスが寝息を立て始めたのを確認すると、そっとブランケットをかけなおし額にキスをして、ベッドを離れた。部屋から廊下にでると、門に居た黒い女が先ほどと変わらずアレックスを見つめていた。アレックスは極力女を見ないように通り過ぎようとした。

「あの子を愛しているのなら――」

通り過ぎる瞬間、女は言った。思わず振り返ったが、その時には女は消えていた。深呼吸をして、落ち着きを取戻し、アレックスは足早に老女の部屋へと向かった。

「失礼します」

部屋には、老女の他に孤児院には場違いな身なりの良い夫婦が居た。以前、この孤児院に養子を探しに来ていた夫婦だ。

「久しぶりだね、アレックス君」

「お久しぶりです。ルーベンスさん」

いかにも上流階級という品のある紳士が差し出した手をにこやかにとり、握手を交わした。

向かい合って座り、老女の紹介で、他愛のない世間話を少ししてから、紳士が話を切り出した。

「ところで、君は将来どうするつもりかね?」

帰宅時の老女の顔と、この場の空気で要件を察したアレックスは、慎重に言葉を選んだ。

「働きながら大学に進学するつもりです。今も貯金はわずかながらありますし。卒業後は、妹を連れて二人で暮らそうと思っています」

高校の成績も悪くないので、と付け加えて、アレックスはにっこりと微笑んだ。紳士はその笑顔が、これから話す本題への穏やかな拒絶であると察したが、それでも話を続けた。紳士は笑顔ではなく真剣な顔でアレックスを見つめる。

「私達には君と同い年の娘が一人居てね、何不自由させていないつもりでいるが、兄妹が居てはどうだと長年思っていたのだ」

紳士の隣に座る淑女の顔が陰る。

「残念ながら、妻はもう子供を宿すことができない。また私も子供だけの理由で他の女性を愛すことなどできない」

紳士はそこでいったん言葉をきる。アレックスは少し冷めた紅茶を口にする。

「私達もできる限りの愛情を与えてはいるが、やはり親と兄弟の愛情というものは違っているだろう。だからいい子はいないかと探していたのだ」

頷きながら聞いていたアレックスがそこで初めて口を開いた。それは、さきほどから顔に張り付けている笑顔とは裏腹にかなり棘を含む言葉であった。

「失礼ながら、お嬢様の遊び相手を探していらっしゃるなら、人を雇ってはいかがでしょうか? 子供を引き取るのであれば、我が子と変わらぬ愛情を注ぐ必要があります。お嬢様も僕と同じ年齢なら突然家族が増えては、動揺してしまうことでしょう」

「そんなことないわ!」

淑女が椅子から立ち上がり声を荒げる。その様子からは子供を渇望している様子がありありとみてとれた。紳士がそれをなだめていると、黙って聞いていた老女が口を開いた。

「ルーベンスさんはね、娘さんの遊び相手としてではなく、本気で子供が欲しいと思っているのよ」

両親の愛を一身に受け、何不自由なく育っているが世間からは大金持ちの娘として一歩引いてみられる一人娘。そして親もなく貧しい生

活をする幼い子供達。逆境に立ち向かっても周囲からの偏見にあえぐ青年達。それらに心を痛め、その子たちの将来を思う気持ちを語ってくれた。老女の話が終わり、淑女が落ち着いた頃、紳士が再び話始めた。

「話によると君はずいぶん優秀なようだ。いかなる逆境にもめげず、これからも一人でやっていけるだろう。しかし」

まっすぐアレックスの目を見つめて言った。

「妹さんは、そうはいくだろうか?」

アレックスはわずかに眉をひそめたが、笑顔を崩さなかった。

「君のようにどんな状況でも立ち向かえるような子供ばかりではない。妹さんは君と同じように非常に優秀で才能あふれる子だと思っている。しかしながら今の状況では、その輝くような才能を生かせない」

アレックスの顔から徐々に笑顔が消えていく。机の下では震えるほど拳を握りしめて、紳士をみつめる。

「それでしたら、僕達でなくともいいんじゃないですか? 才能があるのに環境に恵まれず嘆いている子はいくらでもいますよ」

アレックスは言葉の上で穏やかだが、もう感情は隠しきれていなかった。

「確かにそうだ。君達だけが、才能を持っているわけではない。しかし、私たちが見てきた中で、君達だけが、私達に一切媚びず、本当に純粋な笑顔を返してくれたんだ。私達なら君達をもっと幸せにすることができる」

紳士と、その妻は深々と頭を下げた。

「私達は本当の子供として君達を愛することができる、君は到底私達を親と思えないかもしれないが、それでも支援だけはさせて欲しい」

アレックスはしばらく黙っていたが、やがて静かな声で言った。

「もし、才能が芽生えなかったらどうするんですか?」

その顔にはすでに笑顔はなくなっていた、

「才能があったって、だれもがそれを生かせるわけじゃない。それに、途中であの子が諦める可能性だってある。今はいい子で、あなた方にとって理想の子供かもしれないけど、いつか道を誤ることだってあるかもしれない」

アレックスの声は震えていた。

「それでも貴方達はあの子に自分の娘と変わらないで、愛してる、って言えるんですか? 自分の全てを捨ててでも愛するって誓えるんですか!」

声を荒げ、立ち上がる。その衝撃で机の上のティーカップが転げ落ちる。老女が慌ててなだめようとするが、言葉は止まらない。

「俺はアリスのためだったら何だってする! アリスは、アリスは……」

紳士はアレックスの剣幕に押されることなく、それでいて、穏やかな静かな声で言った。

「君が今まで一生懸命彼女を愛し守ってきたことはわかっている。だからこそ私達にそれを手伝わせてほしい」

下唇を噛んで、紳士を睨み付ける。しばらくして落ちるように椅子に座り、聞こえるか聞こえないかというかすかな声で言った。

「アリスは、俺の全てなんです」

そこまで取り乱しても、アレックスは紳士と目を離さず、目を潤ませることもなかった。

「もちろん、私達は君達を娘と同様に愛すると誓う」

その言葉にアレックスはうなだれて答えた・

「少し……考えさせてください」

紳士は勤めて優しい声で言った。

「返事は、すぐでなくてもいい。私達も君達兄妹のことを想っている。

だからこそ、よく考えてから返事をくれ」

一度、うちに来てくれ、と住所の書かれたメモを机に置き、夫婦は丁寧に挨拶して帰っていった。

「アレックス、あのね、ルーベンスさんは無理に言っているわけでもないのよ。でも、貴方とアリスの二人を……」

老女の言葉にアレックスはただ首を振るだけだった。

アレックスにもわかっていた。幼いアリス一人、あるいは、まがいなりにも有名校でトップの自分一人なら引き取ってくれる人は今までもいた。アリスも自分も離れることを拒んだからこそ、この施設を出ることはなかった。そして二人まとめて引き取るとなると、非常に難しくなることを。そして、この辺で一番の富豪、しかも人格的に非常に優れた夫婦に引き取れることなどこれ以上はない話だと、それを断るのは単なる自分のエゴであると。その聡明な頭では理解していた。しかし、父親の元を離れ、この施設にくるまでたった一人で妹を守ってきたことはアレックスの誇りであり、そして生きる意味であった。それを他人に委ねることは、アレックスにとって自身を否定されることに等しかった。アレックスの頭の中に、黒い女の声が響く。自室に戻り、一人考えを巡らせたが、理性と感情の間で答えは出なかった。

「お兄ちゃん、聞いててね!」

次の日、アリスは古びて音のでない鍵盤もある孤児院のピアノを弾き始めた。楽譜もないのに、アリスはアレックスの子守唄を奏でている。その他にも、街中で聞こえてくる様々な曲をアリスは小さな手で、正確に弾いていた。ところどころ音が違うのは出ない鍵盤に合わせて別の音を弾いているのだ。

「ね! 上手でしょ!」

一曲弾くごとにこちらの反応をうかがう。

「ああ、本当に上手だな。お兄ちゃん感動したよ!」

額にキスを落とすと、そのたびにアリスは幸せそうに笑った。その笑顔を見るたびに、視界の端で黒い女がこちらを見つめていた。

天気のいい昼休み、アレックスはいつものように生徒会室でペンをとっていた。仕事はもう終わらせてしまったので、勉強をすすめる。

(アレックス、休んだ方がいいわよ)

窓際に飾られた花瓶から鮮やかなドレスをまとった妖精の言葉を無視し、ひたすらに問題を解いていく、ノートではなく、ミスした資料の裏を利用しているため、どんどんと紙が積まれていく。その様子は鬼気迫るものがあった。

不意に、生徒会室の扉が開く。

「会長! クッキー焼いてきたんだけど、どう?」

可愛らしくラッピングされたそれは少し大きめであった。

「いや、いい。今忙しいんだ」

顔を上げずに、問題集をめくる。

「あ……。そ、そうなんだ。勉強? でもテストまでまだ日があるからそんなに根つめなくてもいいじゃん! まだ昼休みだよ」

背中をたたかれると、アレックスはあからさまに顔をしかめ、荷物をまとめはじめた。

「ちょ、ちょっと待ってよ! じゃ、じゃあ勉強教えてよ。ほら、教えることで、もっとできるようになるっていうし」

裾をつかむジェシカの手をアレックスは深いため息をついてから払った。

「悪いが、集中したいんだ。一人にしてくれないか?」

アレックスの目にいつものような優しさはなかった。その目をみたジェシカは、それ以上は食い下がらなかった。

「じゃあ、せめてクッキーだけでも食べてよ! 一生懸命作ったんだから」

「ああ……、ありがとう」

アレックスはなんとか口角を釣り上げて、クッキーを受け取り、そのまま生徒会室を後にした。

「ジェシカはさぁ、会長のどこがいいの?」

大好物のホットドックも今日は全然美味しくない。その理由は分かっているけれど、自分にはどうすることもできない。事情を知る友達の一人がその核心をついて生きた

「会長ってさぁ、確かに頭良いし、仕事できるけどさ、なんかいっつも一人じゃん。付き合いも悪いし」

「んー、全部……かな?」

初めに好きになったのは声だった。新入生の代表として、演壇に立ち挨拶を始めたそのとき、ひたすらに時計を睨み付けていたのに、思わずそちらをみてしまった。凛々しく文を読む姿に思わず一目ぼれしてしまった。

ほとんど接点がなかった彼が、図書館で勉強するときお指先、足早に帰るときの背中。好きになり始めればもうとまらなかった。彼が生徒会に入ったと知って、自分も生徒会に入った。彼と仕事をするうちに、ぞんざいなように見えて、本当は優しいこと。勉強一筋に見えて、実は家庭的なところ。全部全部好きで仕方がない。

「告白しないの?」

「……ぅえ!」

別の一人の思いがけない言葉に、ホットドッグ喉に詰まらせてしまい、慌ててシェイクで流し込む。

「だってさ、会長って本が恋人でさ、二人きりでも仕事終わるとすぐ帰っちゃうんでしょ? もう告白するしかないじゃん!」

「そうそう、大体ジェシカ可愛いし、スタイルも良いんだから、あんな男がジェシカのことふれるわけないじゃん!」

「うんうん、ジェシカがふられるなんてありえないって!」

確かに自覚はある。積極的に人とかかわろうとしない、彼にとって自分は多く話をしているだろうし、彼ほどではないが、良家のお嬢様として、それなりの教養はあるつもりだ。今日もひどく不機嫌そうだったが、クッキーは受け取ってくれた。

「うん! 頑張ってみる!」

我ながら単純だとは思うが、それでもこういうのは勢いだ!

「ちょっといってくる!」

友達の声援を背にアレックスがいるであろう図書館に向かった。

図書館の奥、持ち出し禁止の資料に囲まれて、アレックスは先ほどと変わらない様子で勉強していた。もう昼休みもおわるというのに、食事をとった形跡はない。クッキーもさきほどのまま何ら変化はない。

「ねえ、アレックス」

さすがに集中が切れ始めているのか、アレックスは視線をだけをこちらに向けすぐに元に戻した。

「どうした?」

先ほどよりは、不機嫌そうではない。が、ここでどもってしまえば

また機嫌を悪くするのだろう。ジェシカはなるべく平静を装い言った。

「今日の放課後って空いてる?」

アレックスはペンをとめ、眉をひそめやっと顔をこちらに向けた。

「何かあったのか?」

ジェシカは一瞬迷ったが、それでも言葉をつづけた。

「うん、大事な話があるの」

仕事のことだとでも思ったのだろう。彼は教科書を閉じた。

「今聞くよ。昼休みが終わるのにあと少しある」

流れるような仕草で胸ポケットからメモを取り出す。

「じっくり聞いてほしいの。大切な話だから」

アレックスは眉間の皺を深くしたが、ジェシカの真剣な顔を見て、わかった、と返事をした。

午後の授業はありえないくらい長かった。休み時間中も友達が励ましてくれたが、じれったく時計の針が進むたびに心の高鳴りが高まった。

「で、どうしたんだ?」

珍しく自分より早く生徒会室にいたジェシカに一瞬目を丸くしたアレックスは、鞄を机に置きながら聞いた。几帳面な彼らしく、手にはメモとペンがある。

「あのね、仕事の話じゃないの、でも、本当に大切で、真面目な話だから真剣に聞いてほしいの」

アレックスは、その言葉に、再び眉をひそめ、ペンを置いた。

「……」

その表情にはわずかに苛立ちが感じられる。それを悟ったジェシカは、ためらうことなく言った。

「私、会長のことアレックスのこと好きなの。だから付き合って」

それを聞いた瞬間、アレックスは鼻で笑った。

「何かのジョークか? 悪いがそんなことに付き合ってる暇はない」

アレックスは時計に目をやり、ペンとメモを胸にしまうと、じゃあ

と立ち上がったアレックスの腕をジェシカは反射的につかんでいた。

「冗談じゃない! 本当に、本気なの。私は、貴方のことがずっと好きだったの!」

アレックスは眉間に皺を寄せたままジェシカを見つめた。しばらくの沈黙が流れる。その沈黙を破ったのはアレックスだった。

「ありがとう」

ジェシカの顔が一瞬希望に満ちる。

「でも、俺は誰とも付き合う気はないんだ。……多分、一生」

アレックスは優しく自分の腕からジェシカの手を外した。ジェシカの目からは今にも涙がこぼれおちそうだった。

「ありがとう、これ、返すよ」

アレックスは鞄からクッキーを取り出し、ジェシカの手へと渡した。そして、その手を放そうとしないジェシカの頬に口づけた。

「ごめん、それじゃあ」

踵を返したアレックスが、扉を開ける。そして一度立ち止まったが、振り返ることはなく扉を閉めた。その瞬間、ジェシカの頬を一滴の涙がつたった。

「何あれサイッテー!」

ジェシカの耳に聞きなれた友人達の声が届いた。その声は振り返ったジェシカが泣いていることに気が付くとより大きくなった。

「ちょっとジェシカ大丈夫?」

「一瞬期待させといて最悪だよねー」

「しかも最後のキスとか自分が悪役になりたくないだけじゃん」

ジェシカは涙をぬぐい、懸命に笑顔を作る。しかし、後から後から

涙があふれてくる。

「ジェシカ~、あんな男最低男相手にしない方が良いって! ジェシカには釣り合わないよ!」

「大丈夫私達はジェシカの味方だから!」

「でも、でも……、会長は」

違う、会長は優しい。友達の知らないアレックスの一面を語ろうとしたが、嗚咽と涙は止めることができなかった。

その為にジェシカは気が付かなかった。人望の厚い自分がふられるということに、味方と自称する友達がその涙を見て、何を考えているのかということを。

「アレックス・バーナードだな」

男達は、仕事帰りのアレックスを取り囲んだ。

「い、いえ人違いです」

アレックスは怯えたふりをして周りをうかがった。その至極自然な演技に、男達はうろたえたが、見覚えがあるような、ないような女が声をはりあげた。

「こいつだよ! 間違いない」

アレックスは心の中で舌打ちをした。真っ暗で街頭もなく月明かりだけが頼りだの中、1,2mほど離れたところにいる正面の男が振りかぶった次の瞬間、アレックスの頭に衝撃がはじまった。

「つぅ……」

再び振りかぶった男を確認すると、アレックスはすぐにその懐に潜り込んだ。

「ぐふっ」

アレックスの予想通り、闇にまぎれるよう、黒く塗られたバットを構えた男が、ボディへの一撃で沈む。

その隙に逃げようと駆け出したが、一人の男の言葉でアレックスは足を止めた。

「テメェ、妹がどうなってもいいのか?」

「何?」

その言葉に、明らかにアレックスの目つきが変わったことに、男達は気が付かなかった。

「お前、孤児院に妹がいんだろ? 知ってんだよ! 大人しくしてれば、妹にはなにもしねえ……よ……ぉ」

言葉を言い終わらないうちに、叫んでいた男の隣に立っていた奴が、顔面に蹴りを入れられて、うずくまった。そこからは本当に一瞬だった。囲まれているにも関わらず、大体の攻撃を時に受け止め、いなし、カウンターを食らわせた。体が小さい分、動きは速いが、力自体は強くない。しかしながら、人の急所に対して、なんのためらいもなく全力で攻撃を繰り出すため、ままごとのような喧嘩しかしたことのない男達には敵うはずが無かった。それに、うまく隙をついて攻撃しようとしても、まるで妖精のいたずらのように男達の攻撃は外れたり、足をすべらせたりしてアレックスには届かなかった。囲んでいた男達を次々に沈めていった。先ほどまでの勢いを失い、残っているのはあっけにとられるリーダー格の男と、やや遠くから離れてみている女のみになった。

「おい! これが目にはいらねえのか……っ」

男の取り出したナイフを蹴り上げ、そのまま壁にたたきつける。

アレックスの手には、胸ポケットに入っていたペンが握られている。そして、それを男の眼球ギリギリのとこまで近づける。男はそのとき、初めて月明かりに照らされているアレックスの顔を見た。その目は先ほどまでとは違い、顔つきまでもが別人となっていた。

「おい、これって、目に入るのか?」

そういってさらにペン先を近づける。

「妹がなんだって?」

「助けて、助けて」

瞬きすら許されず、男が泣き出す。

「もう一度聞く……、妹がなんだって?」

涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていく男の顔に対し、アレックスはあくまで無表情で、ただ目だけが不気味に輝いていた。

「し、知らない。俺らはやとわれただけなんだ! あの女に」

アレックスが視線を動かすと女の姿はもうどこにもなかった。アレックスはあからさまに顔をゆがめ、舌打ちすると、男を放した。そして、倒れこんだ男の首を踏みつけた。

「よく聞け」

徐々に体重をかけていく。男は呼吸ができず暴れだす、

「その女に伝えろ、来るなら俺に来い、妹に触れたら、どんな手をつかっても殺す、と」

「わかった、わかった、伝える! 必ず伝えるから!」

アレックスは足を放した。男はせき込みながらも、周りの仲間を見捨てて慌てて走り去っていった。

怒りに我を忘れたアレックスと、命の危険に怯えた男達が、わずかにきこえてきた音を耳にすることはなった。

近くの公園で身なりを整え、アレックスは孤児院へと戻った。そっと扉を開けたアレックスを老女は優しく出迎えた。

「あ、ただいま帰りました」

すると、眠い目をこすりながらアリスが顔を出した。

「ん~、おかえり」

「アリス? どうしてこんな時間まで起きてて」

アレックスがまだ話してるのにも気にせず、一枚の絵を差し出した。

「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう」

ふにゃっと笑って、絵を受け取ろうと屈んだアレックスの額に口づける。絵には、年の割にはしっかりとした輪郭のある絵が描かれており、そのそばにアレックスとアリスの名前があった。

「……ありがとう」

先ほど殴られた痛みが一気に吹き飛び、アレックスは涙を流して喜んだ。きつく抱きしめると、アリスは苦しそうに身をよじったが、それ以上の抵抗はしてこなかった。そのままアリスをベットに寝かしつけると、それを見守っていたシスターがためらいがちに、声をかけた。

「アレックス、今いうことではないかもしれないんだけど、結局あの話はどうするの? どちらにしてもそろそろ返事をしなくては……」

アレックスは答えずただ、受け取った絵を見るだけだった。その態度に老女もまた、それ以上促すことはなかった。

アレックスの中で一向に答えは出なかった。それは何日悩んでも同じことだった。気を紛らわすために、勉強にうちこんでも、許されるだけの本を読んでも、胸のざわめきはどうにもならなかった。見に行ったルーベンス家の屋敷は広く、よく手入れされた庭など、テレビからそのままでてきていたようなものだった。少なくとも、アレックスには一生かかっても買えないような豪邸にアレックスは、うなだれるしかなかった。ジェシカの告白も数日たつころには、アレックスにとって小さな出来事となっていた。大量に勉強したおかげでテストの成績には全くの不安もないのが唯一の救いだった。テストも終わり、周りが浮足立つころ、アレックスはいつものように、登校した。しかし、どうも周りが騒がしい。アレックスはあまり気にしていなかった。しかし、ひときわ多い人だかりを覗いた瞬間に、アレックスは、手にしていた鞄を落とした。

校門から校舎に入ってすぐの廊下の壁。普段はなにも張られていないそこを埋め尽くすほど大きな字とそしていくつかの写真が貼られていた。

「暴力生徒会長」、「女を惑わす最低男」「学園から追放せよ!」「これが人のやることか」

なかでも一際大きな文字で書かれた言葉をアレックスは見つめていた。

『アレックス・バーナードは人殺し』

先日の男にペンではなく、合成でナイフを握りしめた写真がすぐにそばに貼られていた。他にも、蹴りをいれているところや、ジェシカにキスしているシーンが貼られている。

「うわ、やっぱりあーいうやつがキレると怖いんだよなー」

「もしかしてこの間の盗難事件もあの人なんじゃないの」

「俺、ちょっと尊敬してたのになー」

周りの生徒はそれぞれに色々な憶測を口にするがそれら全て、アレックスの耳には入らなかった。

「ちょっと! これどういうことよ!」

現れたジェシカが写真をはがす。

「なんだこれは、お前ら教室に帰れ!」

騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた教師達に促され、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように散開していった。我を取り戻したアレックスは、文字や写真の中に、自分の詳細なプロフィールが貼られていることを見つけた。

アレックス・バーナード

幼い頃に父母が離婚し、父子家庭で育つ。しかしながら父と死別し、孤児院で暮らす――同じ孤児院で妹であるアリス・バーナードとは血がつながっておらず――

途中まで読んだところでアレックスはそれを乱暴に引きはがした。教室に入った生徒たちは、写真に写っていた二人のことを指さしている。ジェシカには憐みが、アレックスには蔑みの目が向けられる。

「アレックス君、ジェシカさん、此処の処理は私達がしますから、今日のところはもう帰りなさい、授業には出席したことにしておきますから」

アレックスからはすっかり顔色がなくなり唇が震えていた。それに気づいたジェシカが顔を覗き込むと、大げさにアレックスは後ずさった。

「いいから、早く」

教師に追い出されるように学校をでたアレックスは校門をでたところで走り出した。

「待ってよ、会長!」

ジェシカの声が聞こえているのか、いないのか、アレックスはそのまま走り去った。その拍子に先ほど引きはがしたプロフィールがジェシカの目に留まった。

小雨の降り始めた中、家へと急いだ。生徒会室を出る瞬間、喪服をまとった女がこちらを見つめていた。そして、同じ言葉を繰り返して

いた。

「あの子を愛しているのなら――」

アレックスは下唇を噛んだ。そんなこと、誰に言われなくても、わかっている。わかっているんだ。

「あら、アレックス?」

「お兄ちゃん、お帰り―!」

早すぎる帰宅に、老女は目をまるくしたが、アレックスの姿をみたアリスはいつものように抱きついてきた。それを受け止めると、その体をすこし強く抱きしめた。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

深い深呼吸を何度も繰り返す。それでも胸のざわつきはなくならない。その様子をアリスは心配そうに見つめている。アレックスはアリスを抱えたまま、自分の部屋へと戻った。他の子供達もいつも優しく、しっかりしている兄的存在であるアレックスの様子を見て、少しどよめいた。

「はーい! 本を読んであげるよ! 一緒に読みたい人はこっちに集まって!」

老女の言葉に、子供達は一斉に喜びの声を上げた! 老女はアレックスが出て行った扉を子供達に悟られない程度に悲しげに見つめていた。

ベッドと、勉強用の机を置いただけの狭い部屋。それでも、院の子供達にとっては贅沢といえるアレックス一人のための部屋だ。有名校に合格したアレックスのために老女が特別に与えた部屋だ。

「アリス、」

やっとアレックスが口を開いた。

「お兄ちゃんのこと好きか?」

アリスはきょとんとした顔で、小首をかしげた。

「お兄ちゃんのこと大好きか?」

「うん! 大好き! 愛してる!」

アリスは両手を広げて、愛情を表現して見せた。それを見て笑ったアレックスにアリスも安心して笑った。

「一番?」

「うん、一番!」

「ピアノよりも?」

「うん!」

「キャラメルよりも?」

「うん! クッキーよりも、オルゴールよりも、だーいすき!」

そういって、アレックスに再びギュッと抱きついた。

「俺も、」

手の中の体温を確かめるようにアレックスはつぶやいた。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら。

「ずーっと一緒だよ」

アレックスとアリスは笑った。兄妹とは思えないほど、似ているはずの二人の笑顔は違っていた。

「申し訳ないけど明日から来ないでくれないかな」

夕方まで、部屋で過ごし、明日も自宅学習ということで、休みをもらった。その後働きに出かけたアレックスに告げられたのは厳しい現実であった。

「噂は聞いたよ、申し訳ないけど、こっちとしてもそういうのは困るんだよね。それに」

声をひそめて囁くような声で告げた。

「君がたぶらかしたっていう女の子、うちの親会社の一人娘なんだよ。だからどうしても、ね」

せめてもの選別にといつもより膨らんだ封筒を渡されて、アレックスは呆然として仕事場を追い出された。小雨だった雨はいつのまにか激しさを増し、アレックスはずぶ濡れになりながら院へと戻った。

子供達はもう寝静まっていたが、タオルを抱えて、アレックスの帰りを待っていた老女はアレックスの顔に驚きを隠せなかった。

「アレックス、一体どうしたの?」

アレックスは今日一日の全てを老女に語って聞かせた。老女は、体をふきながらその話を聞いていた。そして語り終わるとアレックスを抱きしめて言った。

「それは災難だったね、でも誤解なら解けばいいじゃない、アレックスは人殺しなんかじゃない、優しい子だって私もアリスも知ってる。だから、人生は何度でもやりなおせるんだから、ね」

そう語りかける老女の言葉に、アレックスは微笑んだ。顔をあげたアレックスに老女は微笑みかけた。その笑顔に答え、アレックスは部屋に戻った。

ベッドに倒れこんだアレックスを、また喪服の女が見つめている。

「あの子を愛しているのなら――」

アレックスは微笑んだ。その笑顔は先ほど老女に向けた笑顔とは違い、本心からあふれ出たものだった。

「そうだな、それが一番だよな」

深夜、やるべきことを全て終えたアレックスは記憶の彼方にある番号へと電話を掛けた。妖精すらも寝静まった院の中で、その電話の内容を聞いたものは誰もいなかった。

再び部屋に戻り、ベッドに横たわる。目を閉じ、夢うつつのなか、アレックスはどこか懐かしい感触を額に感じた。

次の日、教師の指示を無視して学校に登校したアレックスはまっすぐ生徒会室へと向かった。そして、棚に収まったファイルを順番にチェックし、パソコンへと懸命に打ち込んでいた。そしてほかの生徒が授業をしている間に全ての作業を終え、教員室へと向かう。

「まあ、昨日のことはこちらで処理している。しかし、あの写真は――」

校長は半信半疑という様子でアレックスに話を続ける。アレックスはにっこりと笑い、言った。

「校長先生、その件についてお話があるんです」

昨日までの天気が嘘のように晴れ渡っていた。しかし、天気予報は雨を予報する。

「ジェシカ、大丈夫? 災難だったね」

「会長がまさかあんな人だったなんて、でもわかる気がするなー」

自宅学習が開けたジェシカは周囲の友達にあいまいに相槌をうっていたが、心ここにあらずという感じだった。そのとき校内放送が響いた。

「ジェシカ・ルーベンスさん、ジェシカ・ルーベンスさん。至急校長室に来てください。繰り返します――」

周りのざわめきはより大きくなった。

「ジェシカ? 大丈夫一人でいける?」

大丈夫と、笑顔を無理やり作り、ジェシカは教員室へと向かった。

校長から放たれた言葉にジェシカは声を張り上げた。

「会長が退学ってどういうことですか!」

「我々としてもあの彼があんなことをするとは思わなかったんだよ。君との関係ももちろん全くないとはいえないが、暴力にしかも凶器をつかったとなると――」

校長は仕方がないという顔で告げる。ジェシカは写真をたたきつけた。

「これは合成です。ほら、会長っていつも指輪つけてるから、右手の小指が他より細いんですよ、この写真にはそれが無いんですよ! 他のだって、印刷のずれがあるし――」

校長はその写真を見比べて確かに、と言った。

「じゃあ」

「ジェシカ君、君の気持ちもわかる」

ジェシカが笑みを見せた。しかし校長は悲しげに首を振った。

「しかし、本人が認めているんだ。暴力も君との問題も、それに、退学も彼から申し出てきたんだ」

そういって、校長は机からアレックスの署名が入った退学届と謝罪文を見せた。ジェシカは信じられないという顔でそれを見比べる。

「私も優秀な生徒を失って悲しい。君の気持もわかるが……」

ジェシカの耳に、校長の、大人の声は届かなかった。そして、後日付で、繰り上げでジェシカが会長となることが告げられた。ふらふらと校長室を出た。

すると、友達が心配そうな顔をして、ジェシカを取り囲んだ。

「大丈夫? なんて言われたの?」

先ほどと大きく変わらないことを繰り返している友達の中の一人に、確かな違和感を覚えた。

「最低な男だったもん、振られた方がよかったよ!」

「あんなのが優秀だなんて、ありえないよ」

「ざまあみろって感じだよねー」

自分を心配する言葉ではなく、ただひたすらにアレックスを貶める言葉を放つ友人をジェシカは見つけた。しかし、何の確証もなく、頭も回らない彼女はそこで思考をいったん止めた。

同じ日、朝早く起きたアレックスは老女に言った。

「ルーベンスさんのお話、もしまだ先方気持ちが変わっていないというのなら受けようと思います。ただ、二つ条件があります――」

アレックスはあくまで笑顔だった。しかし、その条件に老女は涙をこぼした。老女には見えない周りの妖精達もアレックスの周りを飛び回る。しかし、アレックスは何にも動じなかった。

「考えて決めたことなんです」

笑っているが、感情お見えない瞳と、何を言っても同時に強い意志に、子供達が目を覚ます頃、

「本当に、それでいいのね?」

老女もしぶしぶアレックスの出した条件を受け入れ、夫婦の家へと電話を掛けた。

「アリス、朝ご飯食べたらおでかけしよう」

「でも、お兄ちゃん学校は?」

アレックスはにっこりと笑った。

「今日はいかなくてもいいんだ、だから準備してきてね」

アレックスはアリスの耳に口をよせ何か囁いた。言葉の内容は全く聞こえなかったが、本当? と何度も聞いてそれに頷くアレックスと、

無邪気に喜ぶアリスの笑顔に老女だけが心を痛めた。

「それじゃあ、行ってまいります」

「いってきまーす!」

「待ちなさい」

老女はアレックスに向かってなにか言おうとしたが、アレックスの笑顔がそれを許さなかった。アリスは意味が分からず首をかしげる。

「途中でお腹が空くかもしれないから、これだけでも持っていきなさい」

老女はかろうじて作った笑顔でそれぞれに小包を渡した。

「クッキーよ」

今度は小包を受け取ったアレックスが何か言おうとしたが、老女がそれを阻んだ。アリスがお菓子を大事そうに鞄にしまう間、二人は目線だけで会話をした。そして、元気よく手をふるアリスとその手を引く、アレックスの。二度と戻ることのない二人の背中を老女は見送った。

「タクシーだ、タクシーだ!」

初めて乗ったタクシーに興奮気味のアリスをいさめながらアレックスもにこにこと笑った。

運転士も話かけこそしないが、そんな二人をほほえましく見守っている。ショッピングモールの並ぶ街中でタクシーをおりた。

「ねえねえ、お兄ちゃん、遊園地じゃないの?」

アリスは心配そうにアレックスの裾を引く。アリスは屈んでアリスの頭をなで、笑って答えた。

「もちろん、行くさ、その前にこの前の絵のお礼をしてあげようと思ってね」

そしてアレックスは離れないようにアリスの手をしっかり握って、人ごみの中を歩き、子供服の店へとやってきた。

「好きなものを買っていいよ」

「本当?」

笑顔でうなずくアレックスに、さっきまでの不安そうな顔はなくなり、アリスは満面の笑みを作った。お世辞にも身なりが良いとはいえない二人に店員は渋い顔をしたが、よってきた店員にアレックスが多めのチップを渡したために、たちまち笑顔になった。

「お嬢様は色白ですのでピンクのワンピースなどいかがでしょうか?」

店員のもってきた服をアリスは可愛い! と喜んでいたが、値札を見て一瞬顔をしかめた。それを見たアレックスは、

「試着してみな」

「でも」

何か言いたげなアリスの唇を人差し指でそっと抑え、アレックスはまた笑った。

「大丈夫、きっと似合う、アリスは可愛いから」

店員と主に試着室に入ったアリスは、靴も赤いリボンのついたものに履き替えた。院の着古した服ではなく、新品のそれもカラフルで可愛らしい服を着て、アリスはやはり嬉しそうだった。

「じゃあ、このままキャッシュで」

アレックスはアリスが鏡の自分で見とれている間に、会計を済ませた。アリスはそして財布からアリスが見たこともないような数のお札を出した。

「すみません、そっちの古い服、処分してもらってもいいですか?」

店員はその言葉に眉をひそめたが買った服の値段の所為かこころよくそれを受け入れた。

「じゃあ行こうか」

二人は再びタクシーを捕まえて、本来の目的である遊園地へと向かった。

平日であることに加え空が少々曇っていたので、遊園地はそこまで混んでいなかった。

「アリス、絶対お兄ちゃんの手を放しちゃだめだからな」

「わかってるよ! ほらお兄ちゃん、早く早く」

グイグイと腕を引っ張るアリスをアレックスが追いかけた。二人は様々なものにのり、美味しいものを食べ、ショーまで楽しんだ。

「アリスこれ好きか?」

「うん、大好き!」

小舟に乗るときも、アイスクリームを食べるときも、大好きなキャラクターに握手してもらったときもアリスは終始満面の笑顔だった。アレックスもほとんど同じだった。

「楽しいか?」

「うん、とっても楽しい!」

それはそれは可愛らしいメリーゴーランドに乗った時と、興奮したアリスがアレックスに猫耳をつけさせたときは、さすがにその笑顔がひきつった。

はしゃぎすぎたせいか、終わりのパレードが始まるころにはくたびれてしまい、眠そうに目をこすっていた。それでも、よく見えるようにとアレックスに抱えられてきらびやかなそれらをみて、目を輝かせた。

「夢みたい……」

アレックスはパレードを眺めるアリスを見つめた。

「幸せか?」

「うん!」

「そうか」

パレードを挟んだ正面に、真っ黒なワンピースをまとった女がそんな二人を見つめていたが、二人がそれに気が付くことはなかった。

一日はしゃぎまわって疲れたアリスをアレックスはおぶって歩いていた。

「アリス、遊園地好きか」

「ん……」

起きようと頑張ってはいるが、ひんやりした夜の空気の中で、暖かな背中が心地いいのか、半分眠りに落ちていた。アレックスはそんなアリスのためにいつものように子守唄を歌った。

「お兄ちゃん……」

アリスはもう目を閉じていたがきゅっと背につかまった。

「アリスね、アイスよりね、遊園地よりもね」

アレックスはいったん歌をやめ、背中のアリスを見た。

「お兄ちゃんがすき」

それだけ言うとアリスはそのまま寝息を立て始めた。妹の寝息を感じながらアレックスは起こさないように小さな声で泣いた。

なあ、アリス本当にお兄ちゃんのこと好きか?

とうとう歩くことができなくなったアレックスは立ち止まった。

甘いお菓子よりも、綺麗な服よりも、愉快なキャラクターよりも、お兄ちゃんのことが好きか。

遠くで雷の音が響く。

じゃあ、それらぜーんぶとお兄ちゃんだったら、お前はどっちを選ぶんだ?

降り始めた雨粒にアレックスは顔上げた。すると、喪服をまとった女がすぐ眼の間に立っていて同じ言葉を繰り返す。

「この子を愛しているのなら――」

その言葉にアレックスは再び歩き出した。その目にはもう涙はなかった。

昨日のうちに指定した待ち合わせ場所にはルーベンス夫妻が二人を待っていた。アレックスはアリスを背負ったままのため、会釈を返した。そして、二人の元まで行くと起こさないようにそっと背中からおろし、紳士がアリスをかかえた。アリスは一瞬眉をよせたが、またすぐに寝息を立て始めた。アレックスはその額にキスをして、夫妻の方を見ると、深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします」

凛としたその顔は、彼の優秀さとそして覚悟を示していた。

「せめて、お別れを言わなくてもいいのかい?」

紳士の言葉に、アレックスは首を横に振った。

「せめて最後くらいは笑っていてほしいんです」

夫婦はそれ以上何も言わなかった。アリスは目覚めることなく車に乗せられる。

「いつでもうちにきてくれてかまわないから。いやぜひ来てくれ」

紳士は別れ際にそう告げると、車にエンジンをかけるとそのままアレックスの元を離れて行った。アレックスは車が視界から消えるまでその姿を見つめていた。雨はあっという間にどしゃ降りになり、アレックスの頬を濡らした。

「会長!」

たたきつけるような雨の中、確かに自分の名をよぶ声があった。聞き慣れた声であったが、アレックスは振り返らずにそのまま歩き出した。

「ちょっと聞こえてるんでしょ? 会長!」

持っていた傘を捨てて、ジェシカはアレックスの腕をとった。振り向かせたアレックスの顔に、ジェシカは思わず息をのんだ。

眉間に皺を寄せたり、不機嫌そうなこともあるが、それでも優しい目をしていた彼の顔は、あの事件の日写真で見た、情のかけらもない顔をしていた。

「何故ここにいる?」

抑揚のない声でアレックスは聞いた。視線は確かにジェシカを見ていたが、その瞳にはなにも映していなかった。ジェシカが言葉をつげずにいると、アレックスはまた歩き出そうとした。

「どこに行くのよ!」

アレックスは止まったが答えなかった。

「私、院の人に聞いたの! なかなか教えてくれなかったけど……、あの人泣いてたのよ! お世話になった人なんじゃないの? それにアリスちゃんは――」

アリスという言葉にアレックスはピクリと反応した。

「もう……いない」

「どうして!」

ジェシカはアレックスの肩をつかみ揺さぶった。

「愛してるならずっと一緒にいればいいじゃない! そばにいてあげればいいじゃない。どうして自分だけ不幸になるようなことをする

のよ! あんな張り紙も写真も全部嘘よ! だって会長は」

「嘘じゃない!」

まくしたてるジェシカを雨音にまけない大声でアレックスはさえぎった。感情の無かった顔に、もう一度、何かが宿る。

「俺は……、俺は人殺しだ!」

近くに落ちたのだろうか。すさまじい音が響き、雷光が二人を照らした。

アレックスは語った。それは彼だけが知っている、幼い頃の二人の話。

継母が去った後、さらに激しさを増した父の暴力にさらされ、アレックスは生まれて間もない妹を抱いて、命からがら家を出た。なんとか雨風防げるところを探した。道行く人に助けを求めようともおもったが、もし父親に見つかったらと思うと誰かを頼ることもできなかった。

自分の分はゴミをアレックスれば手に入ったが、妹のミルクだけはどうにもならなかった。生まれ故郷から必死で離れた貧しい人々が肩を寄せ合って暮らしている、お世辞にも綺麗とはいえないような場所で、幼いアレックスは物乞い、窃盗、時には犬の真似までしてミルクを手に入れた。幸いなことに妹は人見知りをせず、それでなくとも母親に似た可愛らしい子であったので、貧しい街でもミルクをくれる人は多かった。しかしながら、アリスはないかあってもぐずるように泣くだけで、声を張り上げて泣くような元気はなかった。そのうち、ミルクを飲む量も減った。医者に見せるような大金を幼いアレックスが手に入れる術はなかった。ひにひに衰えていく妹をどうすることもできなかったのだ。

そんな中たまに通りかかる場違いな金持ちが、アレックスに声をかけた。今思えばせいぜい中流階級でそこまでの金持ちでもなかったのかもしれないが、当時の自分から見れば、明日生きるのに困らないというだけで十分な金持ちであった。金持ちは言った。二人を育てることはできない、それに妻の意見もある。しかし、赤ん坊だけならうちに引き取ってもいいと。アレックスは金持ちをまじまじと見た。物乞いをつめたくあしらう人間がほとんどの中で、貧困を極めたこの町にやってきては、パンやミルクを分け与え、時には手を握ってくれる人当りのよさそうな優しい人物。平等主義なのか、一人きりにものをくれることはなかったが、誰にでも優しかった。

文字通り目に入れても痛くない妹と離れるのは身を引き裂かれるような痛みだったが、この人なら大切に扱ってくれるだろうし、なにより妹のためになると、アレックスはうなずいた。

「この子の名前はなんというのかな?」

「ない」

そう答えたアレックスの顔を金持ちは悲しそうに見つめた。とっくに麻痺しているアレックスの表情は全く変わらないアレックスに心を痛めたのだ。

「じゃあ君の名前は?」

アレックスはすこしの沈黙の後答えた。

「アレックス」

そう名乗った小さな手は握りしめられていた。金持ちは、ならば、君と同じAのつく名にしようといった。金持ちがいくつか挙げた名の中でもっとも母親に近い名前をアレックスは選んだ。そして、すっかり弱った妹を金持ちに差し出した。金持ちは大事そうに妹を抱える。

金持ちが何度も連れていけないアレックスに詫びて、立ち去ろうとしたとき、たった今名づけられたばかりのアリスが声をあげて泣き出した。今まで聞いたことのないような大声で、周りもなにごとかと、振り返るほどだった。

その瞬間、家をでてから始めて涙がこぼれた。気が付けば、金持ちにすがっていた。

「い、妹なんです。俺の、俺の!」

なきじゃくるアレックスの言葉は支離滅裂だった。先ほどまでずっと蓋をしていた感情が一気に噴き出たように、二人の兄妹は泣きじゃくった。

「そうだね、引き離すことなんて、できないんだね」

そういって二人を抱きしめた。次の日、何もできないけれどと言って、二人を医者に連れて行ってくれた。医者はあきらかいいぶかしげな顔をしたが、それでも金持ちの人柄なのか快く二人を診てくれた。アレックスは軽い栄養失調、アリスはそれに風邪を患っており、二日ほど入院となった。アレックス顔色の良くなった妹に安堵し、金持ちに何度も何度もお礼を言った。金持ちだけでなく、そばにいた看護師までもが二人の姿に涙した。

しかし、それは新たな悲劇の始まりであった。

アリスが退院する日、アレックスはその前の日と同じようにアリスの病院を訪れ、抱きかかえた。ふと扉が開き、金持ちが首をかしげる。そこにいたのは、

「こんなところにいたのか、やっと見つけたよ、アレックス」

母を殺した、男だった。

周囲はアレックスの表情の変化に気が付かず、父親が見つかった奇跡を喜んでいた。愛が異常に歪んでいる以外は人当りの良い男に誰一人疑いをもつことなく、二人を渡した。アレックスは父とよく似た容姿の自分を心の底から呪った。隙をついたアレックスがアリスを抱えたまま逃げ出そうとした。すばっしこく、ためらいなく攻撃してくるとはいえど、所詮は子供。赤子一人抱えた状態では、大した抵抗もできなかった。そんな抵抗も周囲には動揺しているの一言で片付けられた。

車という密閉空間に乗せられてしまえば、どれだけ叫ぼうと無意味だった。エンジンをかけた車のなか、アリスが泣き出すほどにアレックスは暴れたが、狂気をはらんだ男になにもできなかった。

生まれ故郷は、車を使えばそう遠くないところであった。暴れまわって疲れの見えるアレックスを男は無造作に部屋に転がした。震えは地下室の冷たさだけではなかった。それでもアレックスはアリスを抱きしめ、決して放さなかった。

「どうしてかな、お前たちは、母親と一緒で俺の愛を否定する」

男は、そばにあった灰かき棒を手に取った。それをアリスを抱えるアレックスの腕めがけてためらいなく振り下ろした。

「ああああああぁああ!」

生まれて初めて、アレックスは自分の骨の折れる音を聞いた。ぶたれたところから先がなくなったかのように右手は動かなかった。

「お前らさえいなければ、あいつらが俺の元を去ることもなかったんだ!」

左手一本では妹を支えられず、アレックスはなんとかそっと妹を床においた。右腕をかばいながらなんとかアリスをあやそうとした瞬間、アレックスの体は吹き飛んだ。ぶつかった衝撃でかれていた花瓶が落ちて割れ、その破片がアレックスの皮膚をきりさいた。

「うぇ、ぐええぇ」

みぞおちを蹴られ、うずくまる背中を父親は容赦なく殴打した。ア

レックスは逃げることもできず体を丸めた。あばらだろうか、右腕の時と同じ音がし、体を激痛がめぐる。アレックスの悲鳴にとうとうアリスが声をあげて泣き出した。

「うるさい!」

男は今度はアリスに向かって、それを振り下ろそうとした。

(アリスが殺される)

そう思った瞬間、アレックスの体は感覚がなくなり気が付けば、左手に握った破片で男の足を切り裂いていた。そして、男の体倒れる。なにごとかと男が仰向きになった瞬間、アレックスはためらいなく、その首をかき切った。

男は口をあけて何か叫んでいるようにも見えたが、アレックスの頭にはただただアリスの泣き声だけが響いていた。

「アリス、アリス」

アレックスは破片を素手で握ったために、血まみれになった手でアリスをあやした。アリスがなきやむと、無理に動いたアレックスの体を激痛が襲った。うめきながら周りを見回すと、血だまりの中で、男は死んでいた。アレックスはその時、初めて血だらけの自分を認識し、嘔吐した。吐瀉物に血が混じっていたことを他人のようにみつめ、アレックスは気を失った。

「結局、扉から漏れた悲鳴を聞いた隣の人に発見されたんだ。俺は右腕とあばら二本の骨折に加えて内臓破裂。正当防衛が認められて無罪になった」

アレックスは淡々とした口調で語った。

「法がどうあれ、実の父親を、母親の愛した男を殺した人殺しだよ、それに生きるためならなんでもしたしな」

自嘲気味に笑ったアレックスの笑顔はかつてジェシカが好意をよせたそれとは大きく異なっていた。

「俺は罰を受けるべきだ」

アレックスはジェシカの腕をはらった。

「俺は、アリスが幸せならそれでいい」

そうつぶやきアレックスは笑った。動けないでいるジェシカを置いて、アレックスは走り去った。ジェシカが気が付くころにはもう雨は止んでいた。

その日を最後にアレックスは行方をくらました。

アリスはまぶしい朝日のために、ふかふかのベッドの上で目を覚ました。広いベッドに自分一人、あたりを見回すと見たこともない場所にいた。不安になり、眠りにおちるまで傍にいた兄を呼ぶ。

「お兄ちゃん?」

どんな真夜中でも呼べばすぐ答えてくれる兄はいない。

「お兄ちゃん!」

声を張ると。すると、部屋の扉が開いた、しかし、そこにいたのは、優しそうな紳士であった。

「目を覚ましたのかな」

アリスは首をかしげる。

「おじさん、だあれ?」

紳士は鈴をならし、メイドをよぶ、そして二言三言話すと、メイドはその場を立ち去った。「今日から私は君の父親だよ」

紳士はつとめて優しい声でいった。ちょうどその時、メイドに呼ばれ、妻が現れた。

「はじめまして、アリス……ちゃん」

彼女が君の母親だ、と紹介する紳士にアリスはさらに首をかしげた。

「アリスにはお父さんもお母さんもいないよ。ずっと前に死んじゃったってお兄ちゃんが言ってたもん」

ここどこ? と辺りを見回す幼い少女にもわかるように、紳士はゆっくりとわかりやすく事情を説明した。アリスは黙っていた。そのうち、目いっぱいに涙をためて聞いた。目覚めたときと同じ言葉だった。

「お兄ちゃんは?」

「残念だけど、誰にも行先をつげなかったそうで、どこにいるかわからないんだ」

アリスの目により涙がたまった。アリスより先にその姿をみた妻の方が涙をながした。しかしアリスは健気にも顔をあげ、そして言った。

「アリスはここの子供なの?」

「そうよ、もうなんの心配もしなくていいし、好きなことを好きなだけできるのよ」

妻はアリスを抱きしめた。

「君は今日から私達の娘なんだ。だからなにも遠慮しなくてもいいんだ」

(一番大好きなのはお兄ちゃんだよ)

アリスはのど元まで出かかった言葉を抑えた。そして、兄が自分から離れるとき、何度となく繰り返していた言葉を思い出した。

『良い子で待っているんだよ』

アリスは新しい両親に微笑んで見せた。

「はい、お父さん、お母さん」

帰ってくるのかすらはっきりしない兄の顔を思い浮かべながら。

ずぶ濡れで帰宅したジェシカはほとんど放心状態だった。帰ってきたことが奇跡だろう。

「一晩中どうしていたんだ! 心配したんだぞ、ああ、ずぶ濡れじゃないか」

なにも答えない娘に父親はため息をついた。タオルで大体をふいてやると、ややためらいがちに言った。

「ジェシカ、お前に紹介したい子がいるんだ」

ジェシカはやっと顔をあげた。すると母親に手を引かれ、あの事件の日、悪意にまみれたアレックスのプロフィールに乗っていた女の子がいた。

「アリス、今日からこの人がお前のお姉さんになるジェシカだよ」

アリスと呼ばれた女の子は微笑んで、礼儀ただしくお辞儀をしていた。写真と同じく顔は全く似ていなかったが、その美しくも悲しい笑顔は、つい数時間前にみたアレックスの笑顔を重なっていた。

あれだけ降っていた雨は嘘のようにやみ、まぶしいほどの日差しの中で、ジェシカの会長就任演説は行われた。突然の会長交代はなにかしらのトラブルが起こるかと思われたが、そういった心配は何一つ起こらず、生徒たちも、仕事や成績はともかくとして、アレックスよりも人望の厚いジェシカを迎えた。

口々に贈られる自分への賛美と、有名校の名を汚したアレックスへの罵声がジェシカを包んだ。しかしながらジェシカはそれに振り向きもせず、生徒会室へと向かった。副会長の座は空白のまま来期までもちこされるそうだ。前任者不在の為、引き継ぎに時間がかかるだろうと教師達は、ジェシカを気遣ったが、そんなことは全くなかった。

なぜならば、完璧が言っていいほど、会長の仕事内容や現在の進行状況、そしてファイルの内容などが、パソコンの中に保存されていたからだ。データの日付は、あの事件の日の翌日であり、アレックスは誰一人として迷惑をかけることが無いようにしたことが分かった。

「会長……」

そして、それは彼の妹に関しても同じであった。

「おはようございます。お姉さん」

兄と同じように行儀よく、聡明である彼女はまるで模範のような良い子であった。運動は得意ではないものの、読書やピアノをたしなみ、我がまま一つ言わず、よく手伝いをしていた。アレックスさみしがるようなことを言わず、かといって無駄に大人びることなく、大人にすかれる無邪気な良い子であった。様子を見にきた院の老女が来たときも、泣きじゃくることなどせず、幸せそうに振舞っていた。

「アリス、明日はどこかに出かけようか?」

父も母も新しい娘を可愛がり、実の娘である自分と変わらない愛情をそそいでいた。しかし、姉であり、アレックスと最も関わりの深かったジェシカだけが、少女に違和感を持った。しかしながら、その可愛らしい完璧な妹にかけるべき言葉は見つからなかった。仮に自分がアレックスと同じ言葉を言ったとしても、彼女はただ微笑んで、受け流すだけだろう。

「本当? 嬉しい! でもごめんなさい、ピアノの発表会が近くて、レッスンがたくさんあるんです」

「そう、それは残念ね」

「本当にごめんなさい」

人当りの良さならばアレックスよりもずっといいのだろう。そして、それをやってのけるのも、アレックスのことを想っての行為だと思い、ジェシカは胸を痛めた。

アレックスと別れた日からジェシカはできうる限りの情報を集めたが、それは敵わなかった。生死さえもわからぬまま、ただ、時間だけが過ぎていき、その間、アリスのまとった良い子の仮面が外れることはなかった。

* * * 数年後 * * *

きらめく社交界、経済界のトップ達がいるなか、一際若い女がいた。

「それでは、わが社とルーベンス社の未来に、乾杯」

一杯分でいくらするのかもわからないシャンパンを手に、初老の男性と、若い女性は杯を合わせた。

「いやしかしお美しい。才色兼備というやつですかな。まさかその若さであんな大企業を取り仕切っているとは」

「いえ、まだ学生の身分ですので、日々学んでおりますわ」

女は上品に微笑んだ。有名校を生徒会長として卒業したという経歴にふさわしい姿であった。

「そういえば、ニュースをみましたよ。妹君がピアノのコンクールで最年少で受賞したと。姉妹そろって美人ですなー」

女は表情を全く崩さなかったが、心の中に小さな針が刺された感覚を覚えた。

初老の男性との話が終わり、新しいグラスをウェイターにもらう。ふと、豪華な装飾のついた鏡を見た。妹に似ているといわれたが、それは単なるお世辞だと知っていた。

あれから数年、ジェシカは学生という身分でありながら、父の会社を発展させ、今ではこうして社交界にでるまでの身分となった。それは、単にジェシカの手腕だけでなく、幼くして天才ピアニストと名を馳せるアリスの存在も大きかった。

ジェシカはうつむいた。その時、人々がざわめいた。誰も指をさすわけではないが、それでも、その人物の登場で場の空気が変わった。人々は口々に囁いた。

「マダム・ブラックよ」

顔を上げてその人物をみると、その呼び名にふさわしく、華やかな夜会にふさわしくない、闇にまぎれるような真っ黒なワンピースをまとい、靴から指輪まで黒でそろえた女が人々の視線の先にいた。彼女をエスコートする青年は自分と同じくらいかそれ以上に若く見えた。

マダム・ブラックと呼ばれた女性は主催者のそばにすっと近寄ると、そのまま別室に消えた。

ジェシカはその存在が分からず、周りの声に耳を澄ませた。

「付き添いの男の子……、可愛そうに」

「いやいや、彼女は集めた青年を人形にしているのだ。自分の足で歩いているだけ幸せというもんだろう」

「しっ、聞こえたらどうするの? うちの息子がさらわれるのよ」

ジェシカはため息をついた。おそらくこの囁きのほとんどは根も葉もないうわさだろう。若い燕を二、三人囲っている変わりもののご婦人が話のタネにされているのだ。主催者に別室に通されるほどだ。人は自分より止めるもののアラを見つけるとそれに尾ひれをつけて語るものだ。ジェシカはグラスの中のシャンパンを飲みほそうとした。しかし、耳から入ってきた言葉におもわず口にしたものを吹き出しそうになった。

「聞くところによると、数年前に――校の生徒会長を買い取ったそうだ」

「まあ、あの有名校の?」

「ただの噂だろう。あそこに通うのはほとんど資産家の子だ。そこの生徒会長なんてさらったら大問題になるだろう」

ジェシカはその声の主を見つけると、動揺を隠して、あくまで淑女としてそこに近づいた。

「どうも、母校の噂が聞こえたのですけれど? なにかありまして」

人に好かれる、可愛らしい笑みだったが、声をかけられた側は不自然に咳払いし取り繕った。

「いやいや、ちょっと小耳にはさんだだけですよ。――校の生徒会長など、あこがれの的ですからな。嫉妬したものが勝手に流したのでしょう」

ジェシカは笑みを絶やさず、自然に話の流れを変えた。

「初めてお会いしましたけど、先ほどのご婦人はどなたなのかしら?」

話の流れが変わったことを幸いと思ったのか、噂好きな声の主たちはペラペラと話し出した。

マダム・ブラック。本名すらほとんど知られていない、謎の多い人物。好んで黒い服を身に着けることからそう呼ばれている。未亡人で、夫の残した莫大な財産でなに一つ不自由ない暮らしをしている。今も

なお社交界に出入りしているのは、自分の好みの男を探しているとか、いないとか。その他にも黒魔術にかかわっているなど、多くの噂が飛び交っている。

そんな話を聞いているうちに、マダム・ブラックはまた会場に戻ってきた。青年のエスコートで出口の方へと歩いていた。

ジェシカは軽く会釈して別れると、そのまままっすぐマダムの方へと近づいて行った。それに気づいた青年が眉をひそめたが、マダムはそれを制した。そして、ジェシカよりも先に声をかけた。

「はじめまして、ルーベンス嬢」

自分の名前を知っていたことにジェシカは驚いたが、グラスを持っていない方の手を握りしめ動揺をさとられないようにした。ジェシカがいうより早く、マダム言った。

「マダムでいいわ。人に名を教えるのは好きじゃないの」

「はじめまして、マダム。ジェシカ・ルーベンスですわ。お会いできて光栄です」

マダムは扇で顔を隠すようにしてジェシカに向かい合った。

「それで、何か御用かしら?」

扇の所為で顔しか見えないが、その目は何もかも見透かしているようで、わずかに見える口の端は笑っているように見えた。ジェシカはその雰囲気だけで、後ずさりした衝動に駆られたが、必死にこらえた。そして、単刀直入に言った。

「先ほど、面白い噂を耳にしましたの。私の母校で生徒会長をしていたものが、マダムのお世話になっているそうで」

周りは不自然なほど静まって、二人の会話に集中していた。

マダムは、扇をたたむと不敵に笑った。

「さあ、どうだったかしらこの年になると物忘れが激しくなってしまいまして」

ジェシカはグラスを握る手に力を込めた。その様子を見てとったマダムは先ほどまでとは違い、上流階級の淑女らしくにっこりと自然な笑顔を作った。

「ごめんなさいね、今日はもういかなければいけないの。よろしかったら遊びに来てね」

マダムは青年を促して、小さな手紙になにかを書かせている。青年はマダムに代わってその手紙をジェシカに手渡した。

ごきげんよう、と互いに会釈し、マダムは会場を去った。それにより、会場はまたにぎやかさを増した。ジェシカもまた、それから少し遅れて、会場を後にした。

夜会も終わり、迎えに来させた車の中で、ジェシカはマダムの手紙を開いた。中には、時間と、場所が記されている。その場で渡したのだから、差出人の名前は書いていないだろうと、裏面を見る。そこには、明らかに筆跡が異なっているが、数年前姿をくらました彼の名が書かれていた。

ジェシカは唇をかみしめると、携帯電話を手に取り、書かれた時刻の予定を変更させた。

指定された場所は、あの日彼と別れた遊園地であった。閉園し、遊びに来ていた人々も帰路につき、昼間の喧騒が嘘のように静まりかえっている。人っ子一人いない中、真っ黒な車がジェシカの前で止まった。やはり自分と同じくらいの運転手が出てきて深々とお辞儀をする。

「ジェシカ・ルーベンス様ですね」

主と同じく、シャツ以外はジャケットやスラックスはもちろん、靴やネクタイ、手袋まで黒ずくめの運転手を、ジェシカはまじまじと見つめたが、それは、アレックスではなかった。

ジェシカは無言のまま車に乗る。女一人で知らない車に乗り、知らない場所に行くことは危険を伴っていたが、それ以上に知りたいことが彼女にはあるのだから。車は、運転手は、それ以降一言も話すことなく、車を進ませた。

その時間は数時間にも思えたが、時計を確認すると、まだ一時間程しかたっていなかった。車は途中から私有地と表示されている森の中に入り、木々の間にぽっかりと空いた空間に出た。そこには、大量のバラに囲まれた屋敷があった。控えていた高校生ぐらいの二人の青年が門を開く。運転手や、昨日マダムをエスコートしていた青年達とは異なり、彼らの瞳は悲しみと諦めが浮かんでいた。それでも、ジェシカは彼らに声をかけることなどできなかった。

運転手は屋敷の目お前で車を止めると、執事が扉を開けてくれた。彼はジェシカよりもいくらか年上だが、それでも執事という年を考えれば若く見えた。彼はジェシカの視線にもなん表情を動かすことが無かった。行ってしまえば瞬きさえしているのか疑うほど、彼は無駄な動きをしていなかった

暗く、こころなしかひんやりする屋敷の中を、執事が手にする蝋燭の明かりだけを頼りに進んでいく。不意に扉が開き、まだ中学生くらいの少年が飛び出してきた。

少年は執事を見た瞬間に逆方向に走り出したが、すぐに後を追ってきて、別の青年達に取り押さえられる。

「助けて!」

少年はジェシカに懸命に手を伸ばしたが、ジェシカんおすぐ目の前に、執事が立ちふさがった。

「お見苦しいところをみせて申し訳ございません。今主に仕える為の指導の真っ最中でして、」

無感情で抑揚の無い声であったが、そこには有無を言わせぬ雰囲気があった。少年は泣き叫んでいたが、引きずられるように扉の中へと連れ戻され、声が聞こえなくなった。まるで、感情あるものの方が異様であるといわんばかりの青年達の態度はジェシカの背筋を凍らせた。

執事はくるりと背中を向けると、また歩き出した。そして、突き当りの扉の前に立つと、

「主がお待ちです」

と一言いい、扉を開いた。

大きな窓から月明かりがさす。その光に照らされて、マダムは、部屋の奥で服と同じように黒いソファに腰かけていた。その傍らには暗闇の空間には不釣り合いな何やら白い物が置かれている。

「どうぞ」

マダムの目の前にある椅子をすすめられて腰かけようとして、ジェシカはその白い物体が何であるか気が付いた。

「アレックス!」

ジェシカは思わず叫んだ。

髪が伸び、手足はすっかり細くなっていたが、わずかに歪んだ細い小指。そしてそこにはめられている小さな指輪。それは間違いなくアレックスのものだった。

その声に反応することもなく、アレックスは焦点の合わない瞳で虚空を見つめている。

「お探しの子はこの子でよかったかしら?」

マダムはアレックスの頬をなでる。アレックスの口から、わずかに吐息が漏れたが、それ以外反応を示すことはなかった。

「素敵でしょう、数年前に手に入れたのだけど、本当はこの子が小さい頃から目をつけていたたのよ」

ジェシカは拳を握りしめた。ありうる限りの怒りを持ってマダムを睨み付けるが、マダムはなれた手つきで執事を下がらせると、不敵な笑みを浮かべたまま言った。

「あの子たちも悪くないの。余分なものはなるべくそぎ落として、綺麗でしょ。でもね、やっぱり、自分で動けるってことはわずかでも余分なものが残ってるってことなの。でもこの子はね」

マダムはアレックスの首に手をかけ力を込めた。アレックスはピクリと体を動かしたが抵抗はしない。口がだらしなく開き何とか酸素を取り入れようとしているのは、もはや本能的な反射なのであろう。

マダムが手を放すと、アレックスはわずかにせき込んだが、すぐにまた人形のように力が抜けていた。

「食事や排せつはもちろん呼吸だって、私の許しが必要なの」

年に合わない、無邪気な笑顔をマダムは浮かべた。ジェシカは口を開いた。しかし、思考がそれに間に合わずはくはくと動かすだけだった。マダムはそっとアレックスの目に手をあて、瞳を閉じさせた。すると、アレックスは眠りに落ちたのだろうか。わずかに呼吸音が変わり、寝息を立て始めた。睡眠すらもマダムの意志によってのみ行わされているのだ。

「それで」

マダムはジェシカの瞳をまっすぐに見つめ、静かな声で言った。

「あなたはこの子になんの用があるのかしら。彼の人生をめちゃめちゃにしたあなたが」

ジェシカはやっとのことで言葉を口にした。

「どういうこと?」

まとまらない思考の中、やっとのことで口にしたその言葉をマダムは鼻で笑った。

「あら? 知らなかったの? あの事件、貴方がこの子に愛の告白をしたから起こったのよ。本当に気が付いていなかったの?」

それは至極簡単な話だった。

人望のジェシカは誰からも好かれていた。反対にアレックスは他人との接触を拒み、どちらかと言えば孤独だった。そのうえ、孤児という上流階級の出身者が多い有名校から見れば、奇異的な存在だ。そんな自分たちより下にあるべき人間が、成績や生徒会長という地位と名誉を持っていれば当然嫉妬の対象になる。そんな成り上がりの男が、女王ともいえる存在の女性の好意を無下に扱ったのだ。身の程をわきまえぬ愚民にくだされた罰こそ、あの事件だったのだ。

「知らないわ、そんなの。だって私は……」

「愛していたのよね。知っているわ」

ジェシカをさえぎるようにマダムは言った。

「こんな素敵な子ですもの。当然よね。幼い頃から誰にも頼らずたった一人で、自分と妹を守って来たんだもの。幼い頃スラムで当然のように動物を殺していた彼なんて、本当に美しかったのよ。白い肌に血がよく映えてね」

思い出話の内容に合わずマダムは楽しそうに語った。

「でもね、愛って残酷なのよ。だってこんなにも人を傷つけるもの」

「私はこの人を傷つけたりしてない!」

思わず席を立ったジェシカをマダムは冷ややかな目で見つめていた。

「気が付いていないの? 本当に? 見えないふりをしていただけじゃなくて?」

「どういうことよ」

「認めたくないわよね。自分を愛する人が、自分の愛する人を傷つけるなんて。でも、本当に気が付かなかったのかしら? あの事件の前後であなたを慕う人に何か感じなかったのかしら?」

ジェシカは押し黙った。思えばあのとき、自分の慰める人の中にまぎれて、あきらかに彼を中傷するものが友人の中にいたのだ。マダムはまた笑った。

「まあ、そのおかげで私は二十年越しの願いがかなえられたのだけどね」

マダムはアレックスに口づけた。

「初めてあったのは、彼の母親の葬儀のときだったかしら? 父親に連れらて、彼の表情、今でも思い出せるわ」

真顔のままマダムは語る。

「母親の葬儀だっていうのに、彼はずっと父親を睨み付けていてね。でもそれ以上に、彼は水面にうつる自分に嫌悪していたわ。絶望と、怒りと無力感。それらが綺麗に調和して、彼を彩っていたの。落ち着いた頃に彼にうちに来るように言ったけれど、彼は断ったわ。妹と離れるわけにはいかないからって」

そこまで言うと、マダムはもう一度ジェシカを見据えた。

「私ね、全部の色の中で黒が一番好きなの。全ての色が等しく混ざり合って、何物にも侵されない。だから、真っ黒な感情がまじりあった彼を見て本当に心が躍ったわ。この屋敷にいる他の子もそうなるようにしているんだけどね。うまれついてのこういう子っていないものなのよ」

マダムはゆるく開いたアレックスの口から涎がたれていることを発見すると、あらあら、とまるで母親のようにレースのハンカチをとりだしそれをぬぐった。アレックスはわずかに身じろいだがすぐにまた穏やかな寝息を立て始めた。

狂ってる。ジェシカはそう感じた。彼女の発言内容やここまでくるなかみた青年達、そして自発的な行動を何一つ許されていないアレックスの姿はとても愛を感じさせるものではない。しかしながら彼女の顔には確かに慈愛の感情が浮かんでいる。

「愛してる」

そういう彼女の言葉には何一つ偽りは感じられなかった。

「狂ってるわ」

気が付けば、ジェシカは無意識のうちにそう口にしていた。

「愛するというのなら、その人のことを大切に思うはずよ! こんな風に壊して人形みたいにすることが愛なんて絶対におかしいわ!」

ジェシカの大声にアレックスは薄く目を開けた。しかし、何かすることはなく、緩慢に瞬きを繰り返すだけであった。

「じゃあ、あなたの愛は人を壊さないとでもいうのかしら? 嘘よ。実際、彼をここに来るように促したのはあなたじゃない。愛を自分勝手に伝えて、結果として、彼と最愛の妹を引きはがして、彼がここにくるように仕向けたじゃない」

彼のことなんて何も知らないくせに。と、マダムは馬鹿にしたようにジェシカを笑った。反論しようとしたジェシカを、マダムはぴしゃりとさえぎった。

「何を知っているというの? 親の元でぬくぬくと育ってきたあなたが。自分の所為で母親を失い、父親を殺し、命までかけて守って来た妹を泣かせた彼の心を」

マダムは淡々と続ける。

「はした金で芸をして、泥水をすすって、ゴミを口にして、人を傷つけ、傷つけられて、尊厳もなにもかも全てを捨てた、彼の姿を見たことあるの? いえ、それ以前に」

「貴女は彼の名前を知っているの?」

ジェシカは絶句した。彼と別れたその日に、幼い頃の悲劇を聞いたが、そんな悲惨な情景は知らなかった。何故、マダムは知っているのだろうか? そして名前とはどういうことだろうか?

「アレックス・バーナードじゃないっていうの?」

マダムは声を上げて笑った。

「そうよね、しかたないわよね。彼の本名を知るのはこの世で、私と彼しかいないものね。ああ、もしかしたら、妹さんは知っているかもしれないわね」

あなたには教えていないようだけど、とマダムは笑った。

「アリス……」

あれから数年たって、それでもなお彼女が心を開いていないのかと、ジェシカは目を潤ませた。しかし、その名をつぶやいた瞬間、マダムがあからさまに顔をしかめた。その視線の方向を見ると、聞こえるか聞こえないかというくらい、いや、静まったこの屋敷でなければ絶対に気が付かないだろう声で、アレックスが何かつぶやいていたのだ。そして、少し遅れて一筋の涙が頬を伝った。

パンっと乾いた音がして、アレックスの体が崩れた。頬がわずかに赤くなったが、アレックスはそれ以上動かなかった。マダムは唇をわなわなとふるわせていた。しばらくして、大きく息を吐くと、彼の頬をさすった。そしてまるで独り言のようにぽつぽつと語りだした

「私にもね、妹がいたのよ。大人しくて、本当に良い子だったの。それがある日子供ができたって、父親がいた方が良いからって駆け落ちして、次に会ったときはもう死んでいたわ」

マダムは何一つ応えないアレックスに語りかける。

「愛しさえしなければ、不幸になることなんてなかったのよ。愛は人を不幸にするわ」

そうでしょ、とマダムはジェシカに視線を戻した。

「あの子はこの子を愛したが故に、死に、それゆえに彼を傷つけた。貴女もまたこの子を愛するが故に彼を傷つけ彼を傷つけた。彼も妹を愛するが故に、妹と離れ、妹を傷つけているのよ」

私も、とマダムは悲しげに言う。

「あの子を愛しているから、この子の願いを叶えて、結果誰よりこの子を愛した彼を壊すことであの子を苦しめているのよ」

ジェシカは黙ってきくことしかできなかった。

「葬儀の日に教えた番号を変えなかった私も悪かったのかもしれないわ。あの日、この子から電話がかかってきて、本当に嬉しかったの。あの男の所為で見守ることしかできなかった、あの子の忘れ形見がやっと帰って来たんだと思ったわ。それなのに」

マダムの頬に涙が伝った。

「ボロボロになって。あんな餓鬼の為に毎日泣いて、自分を傷つけるくらい心を狂わせて、あんな噂くらい、全員殺してでももみ消してあげたのに、誰も傷つけたくないって、本当のことだからって。自分はあの餓鬼の為にならないからって。毎日毎日嘆くのよ。一人ぼっちの部屋で。だから……」

壊したのに……。悲しみもなにもわからないように。彼から自由も意志もすべて奪って。さみしくないように同じ年頃の男の子達を同じようにして、心を砕いたのに。それでもあの餓鬼の言葉を聞けば、涙を流すのだ。いっそ耳もそぎ落としてしまおうかと思えるほどに。

マダムは涙をぬぐった。狂気と隣り合わせの愛情の深さ。名も姿も

しらぬアレックスの母親への愛。それは、アレックスがアリスを想うのと同じくらい大きなものなのだ。相手の幸せを願うが故に、自らも相手も不幸にしてしまう闇よりも深い愛なのだ。

「貴女は彼を愛しているの?」

マダムは言った。

「全てを失った彼でも愛するといえるの? 自分以外のものを愛し続ける彼を愛するといえるの? 素性を全て知らないこの子のことを愛するといえるの」

ジェシカは穏やかだが、強い意志を持って、マダムの言葉に答えた。

「はい」

ジェシカは言った。

「確かに私は彼を傷つけました。そして、私は彼の過去も、心もほとんど知りません」

それでも、とジェシカは変わり果てたアレックスを見つめて言った。

「私は彼を愛しています」

その言葉にマダムはうなだれた。気が付けば、窓の外の空は白んでいる。不意にマダムは立ち上がった。そして、窓を開け放つ。淀んだ部屋の空気を風がかき乱す。まだ登らぬ朝日を見つめ、そして言った。

「連れて行きなさい」

マダムは鈴を鳴らす。すると、音もなく扉を開いた執事が現れた。マダムは目線だけで指示を出す。執事は口を開いた。

「よろしいのですか?」

無感情で抑揚の無い言葉であったが、それは彼の意志に基づいて放たれた言葉だった。

「もし、あの子なら、こうしたはずよ」

マダムは笑った。その笑顔は先ほどまでの笑顔と違い、いつかのアレックスに似ているような気がした。

執事は無言のままアレックスを抱える。そして、ジェシカに部屋から出るように促した。扉がしまり、一人取り残されたマダムは思う。

彼女のことは知っていた。彼のことはずっと見守っていたのだから。傍に置くことは彼が望まなかったから。遠くから見ているだけだったけれど。彼は、妹と違い、本当に強い子だった。誰の助けも請わず、一人で。学を磨いて、力をつけて。もし彼女に惚れられなければ、そのまま一人で生きていったのだろう。あるいは、あの子供さえいなくて一人だったのならば彼は今もたくましく生きていったのだろう。

それでも、壊してくれと懇願するほどあの子供を愛さなければ、彼はあそこまで強くなれなかったのだろう。

最愛の妹の血を受け継いいだ、それでいて妹よりもずっとたくましい彼を傷つけたジェシカは憎かった。それでも、それでも彼を愛するといった彼女の瞳に嘘はなかった。愛が人を幸せにするのなら、愛する者と愛してくれる者の傍にいさせること。それを妹も望んだだろう。

屋敷から離れていく車を眺めながら、つぶやいた

「 」

彼の本当の名前。生きるためにすてた本名。彼がどういう思いであの日、通称であるアレックスと名乗ったのだろうか。知る術はもうない。

朝日が昇り始める。ジェシカは父母の家の近くの自分の家に車を止めさせた。同行してきた執事がアレックスを運ぶ。アレックスは完全に身を預けていて、何もしない。かろうじて目は空いているがやはり

何も見ていない。ジェシカはアレックスを客間に寝かせた。執事は一礼すると、音もなく、一度しか通っていないはずの道をまっすぐ帰っていった。

窓から去りゆく車を眺めていた。彼らがこの先どうなるのか、ジェシカには全く分からない。

ジェシカはアレックスの横たわるベッドに腰掛けた。筋肉がほとんどないのだろう。手足の太さは前と変わっていないが、力強さは感じない。焦点の合わないその目で彼は何をみているのだろうか。いや、なれも見ていないのだろう。ジェシカはアレックスの目を閉じさせる。考えなければならないことは山ほどある。それでも今だけは。

ジェシカはアレックスの口にキスをした。そして、その隣でほんの一時の間ともに眠りに落ちた。

アレックスは本当に人形と変わらなかった。生物最低限の反射はするが、手足をつねってもほとんど無反応だ。医者に見せてさまざまな検査をしたところ、体は筋力が相当おとろえている体には何も以上はないし、脳波を測定したところ、目を開けているときは意識があることもわかった。そのため、反応を示さないのは、精神的な問題なのだ。文字通り、心が壊れているために、動かないし、反応もしないのだ。

ただ唯一、アリスの名を聞いた時だけ、何かをつぶやいて、涙を流す。

ジェシカは悩んだ。世話を口の堅いメイドに任せ、仕事をしている間も頭の中はアレックスでいっぱいだった。

アレックスをアリスに会せるか否か。

会せれば、もしかしたら、アレックスに何らかの変化はあるかもしれない。しかし、会わせればアリスは最愛の兄の変貌に傷つくだろう。それはアレックスの望むものではない。

逆に会わせなえれば、アリスは一生帰らぬ兄を待ち続け、良い子の仮面をかぶり続けるのだ。そして、アレックスは人形のように、世話する人がいなくなれば静かに死んでいくのだろう。仮にアリスがアレックスを忘れてもそれは幸せといえるのだろうか。

一週間、二週間といたずらに日々だけが過ぎた。

ジェシカは珍しく母校に戻った。アリスが最年少で初等部の会長となったのだ。姉妹で会長とは名誉なことだと、周りが勝手にはやし立て、就任演説に校長じきじきに来校するように依頼されたのだ。

前日に父母の家に戻り、穏やかに眠るアリスの部屋を訪れた。よく片付けられた部屋には、勉強道具の他に、ピアノの楽譜やCD以外、親の与えた家具しかない。彼女はこの数年間、勉強とピアノ以外は人に求められたこしかやっていないのだ。

ふと机の上に目をやれば、明日の演説の原稿が置かれている。元生徒会長であった自分を紹介する節があることを見るとかなり修正を入れられているようだ。

誰も彼女が汚点を残し退学した生徒会長の妹であることは知らないのだろう。彼らをつなぐものは何一つ無いのだから。

次の日、小学生といえど、それなりの身なりをした上流階級の子息たちは、しっかりと整列し、静かに待っている。校長をはじめとし、教師陣には手の空いている中等部や高等部の教師も並んでいる。

そんな中、アリスは演壇に立ち、演説を始めた。その姿はいつか新入生代表として演壇に立った彼の姿と重なった。

背すじを伸ばし、細い体で堂々と立ち、それでいて穏やかな声で話し出した。

「みなさん、おはようございます。今期会長に就任した、アリス……」

ジェシカは昨日みた演説内容を思い出した。

今期会長に就任した、アリスルーベンスです。私は以前高等部で生徒会長を務めたジェシカ・ルーベンスの妹です。姉の様に――

しかし、アリスはそこで演説を止めた。周囲に動揺が走る。緊張したのだろうか、と教師陣がどよめく中、しばらくの沈黙の後、アリスは手元の原稿を閉じ、凛とした声でいった。重なるなんてものではない。鈴のように可愛らしい声だが、それはあの日のアレックスそのものであった。

「私はアリス・バーナード。数年前高等部で生徒会長を務めていた、アレックス・バーナードの妹です」

その言葉に、生徒たちや信任の教師達はやっとはじまった演説に胸をなでおろしていたが、当時を知る教師たちは一気にざわめきだった。アリスはかまわず演説をつづけた。

「私は孤児院の出身です。それでも今まで必死に勉強して、みなさんと一緒に学ぶことができ、そして会長という立場に立てたことを誇りに思います」

マイクの電源が切られる。そのため、アリスは地声で聞こえる様に叫んだ。

「私は、兄のような、素晴らしい会長になれるよう全力で努力します。みなさま応援よろしくお願いします!」

そうして、彼女は予定の半分もない短い時間で壇上を降りた。

教師達は、ジェシカに言い訳じみた言葉をかけるが、全く耳に入っていなかった。その演説が、その日の授業後に行われたということもあり、生徒たちは早々に帰宅を命じられた。アリスの処分は、後々決まるとされた。といっても、演説内容は本来彼女の自由であるはずだから、反省文程度のものだろう。

しかし、有名校に汚点をつくったあの生徒会長の妹というレッテルは彼女の信頼を失わせるだろう。もしかしたら、話を聞いた教師達が彼女の評定を下げるかもしれない。ジェシカと顔を合わせても、アリスは何も言わなかった。ジェシカもまた無言のまま二人は車に乗った。

車から降りたアリスの早い帰宅に母親は驚いたが、アリスはいつも通りの笑顔でただいまを良い、そのまま部屋に戻った。

ジェシカはしばらく考えたがそれでも彼女の部屋の扉をたたいた。当然のように鍵がかかっていた。メイドにマスターキーを持ってこさせ、部屋の扉をあける。すると、アリスはベッドの上にくるまっていた。

「アリス」

その言葉に身を震わせた。何度も深呼吸する音がする。そこには、いつもの完璧な妹の姿はなく、あの日自分の手を振り払ったアレックスと同じ目をした少女がそこにいた。アリスはジェシカを見たが、何も言わなかった。

「アレックスに会いたい?」

その言葉に、少女の瞳が潤んだことが分かった。しばらくの沈黙の後、アリスは口を開いた。

「もう良い子になんかしない!」

大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。

「アリスはお兄ちゃんの妹だもん! お兄ちゃんの悪口言う人と仲良くなんかしない! お兄ちゃんが良い子にしててって言ったんだもん」

聞き分けのない子供のようなことを言う姿を、見たことはなかった。いや、彼女がこんな風に泣くのを見たのも、正直初めてかもしれない。きっと泣くたびにアレックスが困った顔をするのだろう。だからこそ、いつか兄に会ったときに困らないよう泣かないように一生懸命に我慢していたのだろう。

「アリス、はアレックスのこと好き?」

ジェシカは、アリスを抱きしめた。しかし、アリスはそれをはらった。

「やめて!」

アリスは、ジェシカに敵意をむき出しにしていた。普段ピアノをひく美しい指先でシーツを皺ができるほどに握りしめていた。

「あんたがいなきゃ、お兄ちゃんはいなくならなかったんだ! 全部全部お前の所為だ! もうもう、全部知ってるんだから!」

ジェシカは青ざめた。あの事件のことをどこできいたのだろうか、いや、初等部とはいえ自分と同じ学校に通わせた時点で遅かれ早かれ知ることになったのだろう。いつ知ったのかは知らないがそれを今日まで我慢していたのは、やはりアレックスの為なのだろう。

「そう」

心の中とは裏腹に、ジェシカの声は落ち着いていた。

「アリス」

もう一度呼びかける。しかし、アリスはうなだれたまま答えようとしない。

「お兄ちゃんに会いたい?」

弾かれたように顔を上げる。そっと撫でた手は、今度は振り払われなかった。ジェシカを睨み付けたまましばらく黙っていたが、アリスはこくん、とうなずいた。

ジェシカは覚悟を決めた。

ジェシカは父母が家を空ける日に、アレックスとアリスを会わせることにした。父母が出かけるために、使用人達もそれにつきそい、残りの者も特別信頼がおけるもの以外には休暇を出した。

客間の柔らかいベッドの上にアレックスの体を横たえる。女の自分でもなんとか抱えて階段を登れるほど、アレックスの体は軽かった。そして変わらずぼんやりと目を開けたままで何の反応も示さない。この姿を見て、アリスはどう思うのか。

ジェシカは首を振った。アリスは自室で自分が呼びに来るのを待っているのだ。時間をかければかけるほど、彼女は不安にかられるだろう。そう思い部屋を出た念のために鍵をかけて。アリスを呼びに行こうと階段を上る。三階にたどりついた瞬間、後頭部に強い衝撃を受け、ジェシカは気を失った。

アリスは部屋でジェシカが来るのを待っていた。足音がして心臓が跳ねる。とうとう兄に会えるのだと。しかしその足音の多さにアリスは震えた。息を整えて、ドアに耳を当てる。

「おい、この女どうするんだよ!」

「大丈夫だ顔は見られてない、ちゃっちゃと仕事してずらかるぞ!」

聞いたことのない男達の声がする。反射的に扉から身を放す。そして震える手で扉に鍵をかけた、次の瞬間ドアノブがひねられる。

ひっ、とあげた小さな悲鳴は幸いにも男達の元には届かなかったようだ。扉の向こうで怒鳴り声が聞こえる。

「おい! この部屋鍵かかってるぞ!」

「何? 金目のものがしまってあるんじゃねえのか?」

アリスは震えた。その瞬間、閉めていたはずの窓から風が吹いてきた。アリスは窓から身を乗り出した。三階という高さから飛び降りることはためらわれたが、目に入った雨どいを伝い、二回へと降りた。途中手が滑りそうになったが、不思議なことに手元に光がさして、雨どいから手が離れるようなことはなくそれはまぬがれた。普段戸締りが徹底されているはずの二階の窓は奇跡的に空いていた。

息を切らしながら部屋の中にはいると、ベッドに誰かが横たわっている。変わり果ててはいるが、見間違うことのないその人は、

「お兄ちゃん!」

アリスはベッドへ飛び込んだ。アレックスの瞳にアリスの姿が映し出される。

「お兄ちゃん、起きて、お兄ちゃん!」

その目に光が戻り、揺さぶられたアレックスの指がぴくりと動く。

「……ぁ…………あ」

アレックスは手を伸ばしアリスを抱きしめた。頬を伝う涙がアリスにおちる。その力は昔と違い非常に弱弱しかったが、それでもアリスは胸がいっぱいになった。

「おい、今声がしたぞ!」

上から声が降ってくる。アリスは身を震わせた。

「逃げないと……行こうお兄ちゃん!」

アレックスは何とか身を起こした。しかしアリスに手を取られ、バランスを崩し、そのままベッドわきに転げ落ちた。

「お兄ちゃん?」

アレックスの足には自分の体を支えられる程の筋力はもうなかった。アレックスはもう一度身を起こしたが、立ち上がることは敵わなかった。動きそのものも緩慢でとてもではないが、三階から降りてくる男達から逃げることは敵わない。アリスは目に入ったクローゼットの扉を開けた。客間のそれには中身が入っておらず幸いにも鍵がかかるものだった。

「お兄ちゃん」

アリスはアレックスの肩をかついだ。しかし、いくら軽いといえど、人ひとり持ち上げることができるはずもなく、引きずるようにして、アレックスをクローゼットの前へと運ぶ。その間に階段を下りてきた男達がドアノブをひねる。

「声が聞こえるぞ! ここだ!」

アリスがクローゼットを開けた瞬間、前のめりになった。後ろから背中をおされたのだ。転がるようにクローゼットの中にアリスの体は収まった。驚き、兄の方を見ると、兄はいつかのように微笑んでいた。

「お兄……」

開いた口に人差し指を当てられる。

(静かに)

そして、口をつぐんだことを確認すると、兄は額にキスをした。

(良い子にしてなさい)

言葉にされなくともわかる、何十回何百回と繰り返された兄の仕草だ。

ドアはがんがんと揺さぶられている。

アリスは首をふった。頬につたう涙をアレックスはそっとぬぐった。そして、ぱたんと扉を閉じた。少し遅れてゆっくりと鍵のかかる音がする。事態が呑み込めず、アリスは全く動けなかった。わずかな隙間

から兄の姿が見えた。

意識を取り戻いたジェシカはあたりを見回した、声は下から聞こえる。携帯を手に取り、即座に警察へとかける。ジェシカの緊迫した声に、警察もすぐパトカーをよこすといった。電話を終え、次第に頭が冷静になる。

「アリス!」

アリスがいるであろうはずの扉には鍵がかけられていた。パニックになる寸前で下から声が聞こえる。

「声が聞こえるぞ! ここだ!」

クローゼットを閉じたアレックスは鍵を放り投げた。といっても、それは手から落ちたくらいしか飛ばなかった。アレックスは動かない体を叱咤し、なるべくクローゼットから離れようとした。その瞬間扉が蹴破られる。

アリスはわずかな隙間から全てを眺めていた。ずかずかと複数の男の足音が部屋に入ってくる。そして次の瞬間、兄が倒れこむ姿が見えた。

「おい! こいつどうする?」

「姿見られたんだ! やっちまうしかねえ!」

鈍い音が何度も響く。隙間越しに倒れた兄と目があった。アレックスがもう一度細めた次の瞬間、その顔は血に染まりそして動かなくなった。遠くでパトカーのサイレンが聞こえてくる。

「やべえ! ずらかるぞ!」

男達の足音は一気に消えて行った。アリスはただ口をふさいで震えていることしかできなかった。音の無くなった部屋にアリスのすすり泣く声だけが響いた。

どうしてお兄ちゃんはそんなに頭がいいの?

――それはお前に色々なことを教えてやるためだよ。

どうしてお兄ちゃんはそんなに力持ちなの?

――それはお前を守るためだよ

どうしてお兄ちゃんはそんなに優しいの?

――それはお前を愛しているからだよ

流れる血の向こうに最愛の妹がいる。なんて良い子なのだろう。俺の言いつけをちゃんと守って、何もしてやれなかった俺をもう一度抱きしめてくれた。

アレックスの視界はすぐにかすんだ。

嗚呼、アリス。愛しい俺の妹

最後に見たのは、震えて涙を流すお前の顔だったけれども

最後に聞いたのは、泣きじゃくるお前のすすり泣きだったけれども

最後に触れたのは、冷たく濡れたお前の頬だったけれども

俺の好きな、輝くような笑顔ではなかったけれども

俺の好きな、小鳥のように美しいお前の笑い声ではなかったけれども

俺の好きな、温かく柔らかいお前の頬ではなかったけれども

こんな弱くて、汚くて、馬鹿な俺だったけれども

お前を守ることができて本当に良かった

アレックスは死の直前、喪服をまとった黒い女をみた。マダム・ブラックとよく似たその人は、アレックスに口づけそして言った。

「嗚呼、アレクサンダー、愛しい私の息子」

久しく呼ばれることのなかった彼の本名。その懐かしいぬくもりにアレックスは目を細め、そしてたくさんの妖精と、母親に抱かれながら、そっと目を閉じた。

男達が去った部屋の扉をジェシカはそっと開き、思わず叫び声をあげた。

頭から血を流したアレックスの下には血だまりができ、その体はもう呼吸すらしていなかった。崩れ落ちるジェシカはふと、サイレンの音にまぎれて、すすり泣く声が聞こえた。

声はクローゼットから聞こえる。普段使われることのない、それには、鍵がかけられていた。ジェシカがあたりを見回すと、それはすぐ足元に落ちていた。ひろいあげ、クローゼットを開く。どうか彼女がいませんように。

そんなジェシカのかすかな希望はもろく崩れ、アリスは膝を抱えてうずくまっていた。

クローゼットが開けられたことに気が付いたアリスはふらふらと歩き、そしてアレックスの元へ座り込んだ。

「ねえ、お兄ちゃん、起きて」

体をゆすると、できた血だまりに波紋が広がった。しかし、その体が愛しい妹の呼びかけに答えることはない。

「ねえ、お兄ちゃん、私、ずっと良い子にしてたよ」

ジェシカは涙が止まらなかった

「ねえ、お兄ちゃん、アリスちゃんと静かに待ってたよ、ねえ、お兄ちゃん」

揺られた反動で、外れないといわれていた指輪が転がり落ちる。それすら気づかず、アリスはアレックスの体をゆする。

「ねえ、お兄ちゃん。私ピアノたくさん練習したよ。すごく難しい曲も弾けるようになったよ。聞いてくれるって言ったじゃん」

警察官たちがやってきて二人を引き離すまで、アリスは答えぬ兄に声をかけ続けていた。

葬儀が終わっても、アリスは泣かなかった。ただ呆然と棺に眠る兄を眺めていた。ジェシカは、そんなアリスに声をかける。しかしアリスは反応せず、ただ棺を眺めるだけだ。

「アリス」

両頬に手をあてて、強引にこちらを向かせる。ジェシカはアリスに小さな指輪を見せた。

「お兄ちゃんの……」

アリスの口の端がほんの少しだけ上がった。数少ないアレックスの遺品。ジェシカはそれをアリスの小さな手に握らせてやった。そしてそっと抱きしめる。

アリスはぽろぽろと涙をこぼしながらそれをアレックスと同じように小さな小指にはめた。その瞬間、アリスはなにもない空間に抱きついた。

アリスの前には手のひらほどの妖精達がアリスを慰めようと声をかけていた。しかし、それらはアリスの目にそれは入らなかった。なぜならば、真っ黒な喪服を着た男がそこに立っていたのだから。

「ずーっと一緒だよ」

遊園地で眠りに落ちたあの日から初めて、アリスは満面の笑みを浮かべた。





『少年英雄激突譚』  風観吹著


※この作品は、少年英雄追跡譚シリーズの続編となっています。この作品だけでも読めるように配慮して書いたつもりではありますが、登場人物の設定、関係性などわかりにくい箇所があるかもしれません。先にお詫びをさせていただきます。すみません。

また、シリーズの過去作はワンドライブの「個人作品」フォルダ内「風観」のフォルダにアップロードしてありますので、もしご興味がある方がいらっしゃいましたらそちらにも目を通していただけると幸いです。

深夜の商店街。月明かりは雲によって隠され、どこの商店も既にシャッターを下ろされている。灯りは道路脇に並び立つ街灯だけだ。

大きな話し声と足音が商店街の静寂を切り裂いていく。白い照明の下を歩く若者三人組が騒いでいるのだ。

「お前ー、何も出なかったらマジで明日飯おごれよー」

三人組の内の茶髪頭が大声を上げる。

茶髪頭に肩を組まれた背の低い眼鏡の男が、相手の顔を睨みつけた。その鋭い目には対抗心が表れている。

「じゃあ、何かちょっとでも起きたら、君がおごってくれよ。僕の情報じゃ、この街なら必ず怪奇現象が起こるはずなんだ」

気難しそうに眉をひそめる眼鏡男。その右を歩くいがぐり頭が情けない声を上げた。

「もう帰ろうよぉ。誰もいない商店街とかすげぇこえーよ。ほんとに都市伝説とか起きちゃいそうだよぉ」

この中では一番の怖がり屋なのだろういがぐり頭は、しきりに二人を引きとめようとしている。

この三人組は、この街に都市伝説を求めてやってきた若者たちだ。眼鏡男が都市伝説を信じており、それを茶髪男がからかいでもした結果、直接真偽を確かめに来ることになったのであろう。大方いがぐり頭はそれに巻き込まれてしまったというところか。

「うっせーなぁ、お前にゃさっきも晩飯おごってやったんだから大人しくついてこいよ」

茶髪頭がいがぐり頭を怒鳴りつける。いがぐり頭は逆らっても無駄だということを悟ったのか、悲しげに深いため息を吐き出した。

「おかしいな。そろそろ何か起きてもいい時間だと思うんだが」

肩に組みついた茶髪頭の腕を払いながら、眼鏡男は携帯電話で時間を確認していた。

時刻は午前二時過ぎ。何が起きてもおかしくない時間である。

初春の曇り空の下、まだ冷たい風が商店街を吹き抜ける。彼が身震いしたのはそのせいだけだろうか。

ぶぅん。

初めに異変に気が付いたのはいがぐり頭であった。頭上から降ってくる耳障りな音に足を止める。見上げてみると、すぐ近くの街灯が白い光を明滅させていた。明滅する度に小さく響く低音が耳につく。

照明が古くなったんだな。

背中に嫌な汗を感じながら、いがぐり頭は必死にそう思おうとしていた。怪奇現象の一つであるなどとは考えたくもなかった。

しかしその抵抗はいとも簡単に敗れ去る。

明滅していた街灯が完全に光を失った。同時に、その両隣の街灯が同じような明滅を始め、明滅現象は伝染するように他の街灯に広がっていった。

「おい、なんだよこれ!」

「やった! 俺の勝ちだ!」

「い、今そんなこと言ってる場合じゃないよぉ!」

茶髪頭といがぐり頭は慌てふためき立ちすくんだままチカチカとまだわずかな光を放つ街灯を見上げ、眼鏡男は一人拳を天に向かって突き上げて

勝利に酔いしれていた。

「貴様ら、こんなところで何をしている」

どこからともなく声が響いて来る。どすのきいた声音。男性の声のようだった。

三人はきょろきょろと周囲を見回した後、青ざめた顔を見合わせた。辺りには人などどこにもいないのである。

「だ、誰だ! どこにいやがる!」

茶髪頭が喚く。続いて眼鏡男も腕を振り上げたまま声を張り上げた。

「で、出てこい! 姿をみせろぉ!」

都市伝説にいくら興味があるといえど、いざ目の前に脅威が迫ってくると冷静さを失ってしまうのだろう。眼鏡男の両足はがたがたと震えていた。

いがぐり頭に至っては、か細い声でごめんなさいごめんなさいと呟きながら、頭を抱えて身を低くしている。

「早く帰れ。ここは貴様らの来るところじゃない」

持ち主の見えない声は、語調を強めて三人組に警告を与える。

「ふ、ふざけるんじゃねぇ、そんなもんこっちの勝手だろうが。早く出てこいよ! ぶん殴ってやる」

茶髪頭の虚勢に応えるように、ぱっと商店街中の灯りが消えた。暗闇が三人を包み込む。

小刻みに震える手で、眼鏡男が携帯電話を取り出す。ぼんやりとした液晶の灯りに照らし出されたのは、人の目であった。いがぐり頭のものでも茶髪頭ものでもない目。しかも見えるのは左目だけだ。暗闇に浮かび上がる漆黒の瞳が、眼鏡男をまっすぐに見据えていた。

「うわぁあっ」

大きな声を上げて、眼鏡男は掲げたままだった右腕をめちゃくちゃに振り回した。しかし何の手応えも得られない。腕を止めた時には、眼鏡男の目の前から目の存在は消えていた。すぐ近くにあった目なのに、移動する様子がまったくわからなかった。

「何、何が起きたの!」

続くように何も見ていないはずのいがぐり頭も悲鳴を上げる。茶髪頭は携帯電話を握りしめながら早鐘を打つ胸をおさえていた。

今の彼らにとっては些細な事でも恐怖の種となり、一人の恐怖は簡単に他の者へと伝染するのだ。

三人はその場から動けずにいた。声を押し殺し、携帯電話を様々な方向に突きつける。周囲の様子を把握するためだ。彼らの息は荒く、体はかたかたと震えていた。

そんな彼らの耳に入ってきたのは、足音だった。革靴がアスファルトと叩く小気味よい音。しかし今の彼らには恐怖の音でしかない。足音は彼らのすぐ近くから響いている。

「どこだっ、どこにいるんだ」

三人の持つ携帯電話の液晶が淡い光でわずかに道路上を照らす。しかしそこには誰もいない。音はするのに、主の姿は見えない。まるで透明人間でもいるかのようだ。

足音は鳴り止むことなく続く。革靴は三人の周囲を旋回し続ける。止まらぬカツカツという音によって、三人は頭がおかしくなりそうになっていた。

鈍い落下音が、革靴のリズムを乱した。いがぐり頭の携帯電話がアスファルトに転がる。

「ゆ、許してください! もう来ませんからぁ」

悲痛な叫び声を上げて、いがぐり頭はその場にうずくまった。

そして、足音は止まった。

流れる沈黙。彼らは自分たちが解き放たれたのか不安だった。暗闇の中で、息を殺す。

次第に、脈打つ速度が正常に戻り、彼らに安堵が訪れた。

「助かった、の……?」

いがぐり頭が弱々しい声を上げた。

「だ、だな……」

茶髪頭に賛同するように、眼鏡男が勢いよく両手を振り上げた。

「た、助かったー!」

次の瞬間、眼鏡男の右腕は何者かに掴まれていた。布を翻すような音と共に、柔らかいものが三人の顔を撫でてゆく。

あまりに突然の出来事に彼らは再び声を失った。

「二度と来るな」

ドスの効いた重低音。その出処に彼らが目を向けると、そこには目があった。いがぐり頭の落とした携帯によって照らし出されるものはその左目の他には、眼鏡男の右腕を掴む左手だけであり、それ以外には胴体も何も見えない。ただ光のない漆黒の片目と白い手袋をした片手だけが、闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。

声にならない叫び声をあげながら、茶髪頭といがぐり頭は駆け出した。少し遅れて、右腕を解放された眼鏡男がやはり絶叫を轟かせながら全力疾走で彼らを追いかけた。

その街からの帰路、茶髪頭の運転する車の中で、眼鏡男は携帯電話からインターネットの掲示板に書き込みをしていた。震える手のせいで何度も書いては消してを繰り返す。

――商店街に新たな怪人現る。

こうして都市伝説は伝わってゆく。

◆◇◆

小学校の昼休み。四年東組の教室では、熱い議論が交わされていた。

「クリムゾンマスクより、シュヴァルツネーロだって!」

親友である敬一の主張を、雄一郎は受け入れることができなかった。雄一郎にとって、最高のヒーローはクリムゾンマスクであり、最近出てきたような新参者は認められない。

「クリムゾンマスクの方が絶対に強いよ!」

雄一郎の反論に、敬一は眉をしかめた。

「でも、狐男には二人とも勝てないだろうなぁ」

狐男派の男子が口を挟んでくる。敬一をはじめとするシュヴァルツネーロ派、雄一郎を代表とするクリムゾンマスク派がそれに対し反論の言葉を叫ぶ。

クリムゾンマスク、シュヴァルツネーロ。これらはいずれも、この学校で、この街で広まっている都市伝説に出てくる者たちだ。この二人は子供たちにとって正義の味方であるが、反対に悪いことをする怪人の都市伝説の方が街には多く広まっている。深夜の商店街で犬の散歩をし、時々通行人に襲いかかるという犬顔の男――ハイカイサンポニンの話や、民家の屋根裏に住みついて家人を食べてしまうという怪人――ヤネウラヒソミンの話、数多の悪い怪人たちを統べる狐男の話など、様々な都市伝説が特に子供たちの間で流行しているのだ。

中でも、怪人たちを倒す正にヒーロー的存在であるクリムゾンマスクと、クリムゾンマスクとは敵対するが、悪の怪人の親玉であり最強の怪人であると噂されている狐男は人気が高い。さらに最近では、肝試し感覚で深夜の商店街にやってくる物好きたちを追い返すシュヴァルツネーロをいう謎の怪人が登場し、ここ四年東組では、クリムゾンマスク派、狐男派、シュヴァルツネーロ派による三すくみの戦いが繰り広げられるようになった。

午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響くまで、少年たちの戦いは続くのである。

◇◇◇

「ただいま!」

誰もいない家に帰宅すると、雄一郎はまっすぐ自分の部屋に向かい、ランドセルを放り投げた。

「いってきます!」

スケッチブックと色鉛筆が入ったナップサックを背負い、雄一郎は家を出た。

目的地は隣の斉藤家だ。

「あら、雄一郎君、おかえりなさい」

斉藤家の生垣越しに、雄一郎に声をかけたのは、うら若い女性だった。斉藤家に、住み込みで働いている吉江さんだ。

「ただいま、吉江さん。漱さんはいますか?」

雄一郎は斉藤家の主である斉藤漱を下の名前で呼んでいる。斉藤さんは雄一郎の父と同じくらいの年齢であるが、雄一郎にとっては友達のようなものだ。

「ええ。居間にいるから、行ってあげて。先生、雄一郎君のこと待ってるわよ」

吉江さんは、斉藤さんのことを先生と呼ぶ。それは、斉藤さんが作家であるからだ。雄一郎も以前、斉藤さんの著作にサインしてもらったことがある。

「ありがとう。おじゃまします」

吉江さんにきちんとお礼を言って、雄一郎は斉藤家の玄関をくぐった。脱いだ靴をきれいに揃えてから、居間に向かう。もう何回もこの家に来ている雄一郎の頭の中には、斉藤家の構造がしっかりと刻み込まれている。

「ああ、雄一郎君。いらっしゃい」

吉江さんの言う通り、斉藤さんは居間にいた。うぐいす色の和服に身を包んで、麦茶を飲んでいる。

「どうぞ、座ってください」

促されるまま、雄一郎は斉藤さんの隣に腰を下ろす。斉藤さんは湯飲み茶碗を取り出して、雄一郎に冷たい麦茶を淹れてくれた。

「何かお菓子を取ってきますから、少し待っていてください」

そう言って斉藤さんは、襖を開けて部屋の外へ出て行ってしまった。

一人残された雄一郎は、縁側のひさしに下がった風鈴の音を聞いていた。風が吹くたびにちりんちりんと小気味よい音が響く。雄一郎の家では風鈴を付けることはしないが、風鈴を見れば夏が来たのだと感じる。風鈴の下にある蚊取り線香の匂いも同様だ。

聴覚と嗅覚とでももって雄一郎が夏を感じていると、やがて襖が開いた。

「お待たせしました、雄一郎君」

かりんとうと鈴カステラの入った器を手に、斉藤さんが居間に戻ってきたのだ。

「ありがとう、斉藤さん」

背の低い机の上に器が置かれると、雄一郎は早速鈴カステラに手を伸ばした。優しい甘さが口の中に広がる。生地に奪われた口の中の水分を麦茶で補給するとそれも消えてしまうが、指についたザラメをなめとると、やはり最後に口に残るのは甘みだった。

「最近学校はいかがですか?」

麦茶を啜りながら、斉藤さんが尋ねてくる。

「最近はね、クリムゾンマスクと狐男とシュヴァルツネーロの誰が一番かっこいいかみんなで言い合ってるんだ」

斉藤さんは目を丸くした。

「なんですか、シュヴァルツネーロって」

斉藤さんは、雄一郎と同じくこの街の都市伝説を愛している人間である。クリムゾンマスクや狐男だけでなく、他の都市伝説についてもよく知っている。時々、雄一郎に都市伝説を教えてくれる程だ。そんな斉藤さんでさえ知らないくらい、シュヴァルツネーロの都市伝説は最近噂されるようになったものなのである。

「シュヴァルツネーロは、夜の商店街に来る人を追い返す怪人なんだって。帰れ、っていう声は聞こえるのに、どこにも姿が見えないらしいよ」

「それなら、いつもの悪さをする怪人たちと似ているような気がしますねぇ」

髯のない白い顎をさすりながら、斉藤さんが呟く。

「でもね、他の都市伝説の怪人と違って、人に怪我とかさせないし、そういう危険な目にあう前に追い返すようにしてるから、むしろシュヴァルツネーロはいい怪人、ヒーローなんだって敬一君は言ってたよ」

「そうですか。やっていることの割には実はいい人なのかもしれませんねぇ」

斉藤さんはそう言って笑ったが、眼鏡の奥の瞳は口元ほど笑っているようには見えなかった。

「しかし、シュヴァルツネーロとは、すごい名前ですね」

かりんとうを齧りながら、斉藤さんは呟く。

「シュヴァルツネーロって、どういう意味なのかわかるの?」

クリムゾンマスク同様カタカナでかっこいい名前だと思ってはいるが、雄一郎はその名前の意味するところは知らなかった。

「日本語で直訳するなら黒黒ってところですかね。シュヴァルツはドイツ語で、ネーロはイタリア語。どちらも黒という意味なのですよ」

漱さんはやっぱり博識だ。

すらすらと外国語の解説をしてくれる斉藤さんを、雄一郎は光り輝く眼差しで凝視した。普段はそこまで意識していなかったが、こういう時に斉藤さんの四角い眼鏡はとても知的に見える。

「シュヴァルツネーロが出てくると、周りの電気が消えちゃうんだって。それで真っ暗になるから、黒ってことなのかな」

「そうかもしれませんねぇ」

そう言ったきり、斉藤さんはしばらく黙りこんだ。齧りかけだった黒糖かりんとうとすべて口に含み、咀嚼し、麦茶で流し込む。その間、斉藤さんはじっと窓の外を見て、何事か考え事をしているようだった。

斉藤さんが何も言わないので、雄一郎も話を切り出しにくく、無言のまま鈴カステラと麦茶を交互に口に運んでいた。

「雄一郎君」

ひとしきり鈴カステラを食べ終えた雄一郎がかりんとうにも手を伸ばそうとした時、斉藤さんが雄一郎の名を呼んだ。

「シュヴァルツネーロのことを教えてくださったお礼に、私も新しく仕入れた都市伝説をお話しましょう」

雄一郎は興味津々といった表情で、斉藤さんの顔を見上げた。照明の光を反射しているのか、眼鏡の奥の目がよく見えない。

「雄一郎君は、商店街で風船を配っている人を見たことがありますか?」

問いかけられて、雄一郎はこくりと頷いた。

風船なら、商店街で何度かもらったことがある。時々薬局の前で店のおじさんが配っているのだ。ゾウのイラストがあしらわれた色とりどりの風船で、雄一郎は好んで赤い色の風船をよくもらう。家に帰る途中で紐を離してしまって空へ旅立させてしまうことも少なくない。

「薬局でよく配っていますよね。薬局の風船なら大丈夫でしょう。でもね、雄一郎君。どこのだれが配っているのかはっきりしない風船には、くれぐれも注意してください」

斉藤さんは何が言いたいのだろうか。

雄一郎は思わず唾を飲み込んだ。

「中には、不可解な風船を配っている人がいるのですよ。色を選ばせてくれる薬局のご店主とは違って、その風船配りは白い色の風船しかくれません。薬局の風船はゾウの顔が描いてありますが、その白い風船には、猫の顔が描かれているのです」

「なんだかかわいい風船だね」

雄一郎がそう言うと、斉藤さんはふっと口元を緩めた。しかし、相変わらず目尻がことはなく、どこか怪しい笑顔となる。

「かわいらしいですが、とても意地悪な風船なのですよ」

「どういうこと?」

雄一郎が尋ねると、斉藤さんは右手の人差し指を天井に向かって伸ばした。

「その風船をもらっても、必ずどこかへ飛んで行ってしまうのですよ。帰り道、どんなに気を付けて風船を持っていても、必ずどこかで手から離れてしまうのです。そしてそのまま、風船は天へ昇っていってしまうのです」

雄一郎は、心の中で安堵のため息を吐き出した。斉藤さんの語る都市伝説がいつもよりも怖くなかったからだ。以前に聞かせてくれたヤネウラヒソミンの話よりも全然凶悪ではない。確かに意地悪な風船ではあるが、ただなくなってしまうだけなら大したことはない。

「嫌がらせが好きな風船配りさんなんだね」

「そうですねぇ。風船をもらった子供たちをからかうようなひどい話ですね」

二人はくすくすと笑った。

「飛んで行った風船は、一体どうなってしまうのでしょうねぇ……」

斉藤さんは、日が陰り始めた空を見つめながらそう呟いた。

吹き込む風に、風鈴がちりんと音を鳴らす。

斉藤さんから聞いた怪人の名前を、雄一郎はフウセンクバリンと名付けた。

「そういえば、雄一郎君のクラスでは狐男も結構人気なのですね」

雄一郎の帰り際、斉藤さんはそんなことを言って微笑を浮かべた。今度はちゃんと目尻も下げて。

◆◆◆

学校が終わり、一旦帰宅すると、敬一はまっすぐ商店街へ向かった。

「おう、敬一君。お遣いかい?」

馴染みの肉屋の店主が敬一に声をかけてくれる。

特に母親からお遣いを頼まれたわけではない。自分自身のようがあって、敬一は商店街に来たのだ。

「今日は違うよ」

「じゃあ、また探偵さんに何か用かい」

「そうだよ」

敬一は肉屋を通り過ぎて行った。

目的地は肉屋の店主の言う通り、探偵事務所だ。商店街の外れにある。

買い物客が多いため、夕方の商店街は人でごった返す。敬一は汗を掻きながら人の波をぬってずんずんと進んで行く。

「ぼうや、風船いるかい?」

薬局の前で、頭髪の薄い店主が風船を配っていた。敬一が差し出されたのは紺色の風船。白色で描かれたゾウの笑顔がこちらを向いている。

「うーん、今はいいや。また今度くださいっ!」

元気よくお断りして、敬一は先を急いだ。

今風船をもらってしまったら、目的地での扱いに困るに違いない。

人の海を抜け出して、敬一はようやく探偵事務所に辿り着いた。古びたビルの二階。藤堂探偵事務所の看板が掲げてある。

「おっさん、いるかー」

砕けた口調でそう言いながら、敬一は事務所のドアを開けた。

「なんだ、敬一か。おっさんじゃなくてせめておじさんと呼んでくれ」

敬一を出迎えてくれたのは、四角い眼鏡をかけた壮年の男性だった。小さな星が散りばめられた半袖シャツを着ている。このシャツの他にも、唐草模様、水玉模様、肉球模様などなかなか見かけないシャツを着ていることが多いこの伯父のことを、敬一は時折ダサイシャツおじさんと呼んでいる。

ダサイシャツおじさん――本名藤堂洋は、敬一を来客用のソファに座ら

せてくれた。藤堂は敬一の伯父であり、いつも敬一を優しく迎えてくれるのだ。

「ちょっと待ってろ。何か持ってくるから」

「オレンジジュースがいいなぁ!」

ソファに体を投げ出してリラックスしている敬一のリクエストに、伯父はしっかりと応えてくれる。

「ちびちび飲めよ。高いやつなんだから」

敬一の前に出されたのは、濃縮還元でない百パーセントオレンジジュースとチョコチップクッキーだった。グラスの中で氷が立てるカランをいう音が心地よい。

敬一はグラスに口をつけると、中身を半分ほど飲んでしまった。伯父は顔をしかめながらもグラスにジュースを注ぎ足してくれる。

「今日はどうしたんだ?」

自分はコーヒーを啜りつつ、藤堂が尋ねる。

くせ毛の髪は、年齢の割には真っ黒だ。敬一が以前聞いた話では、白髪染めの類も使っていないという。それが嘘か本当かはわからない。

「おっさん、いつもここで寝泊まりしてるんだよね」

意外な問いかけだったのか、藤堂は甥の言葉にうろたえたようだった。気を紛らわすためか、藤堂の指がチョコチップクッキーに伸びる。商店街のケーキ屋で購入したクッキーだ。

「そ、そうだな。それがどうかしたか?」

藤堂はこの事務所の真上の部屋も賃借しており、そこを生活スペースにしている。藤堂は商店街に住んでいるのだ。この商店街に店を構える人々のほとんどが少しはなれた住宅街に自分の家を持つ中、藤堂は例外的な存在と言える。

「都市伝説の怪人とか、見たことないのかなって思ってさ」

敬一の言葉が終わらないうちに、藤堂が激しく咳き込んだ。喉につかえたクッキーを流し込もうと、コーヒーカップに口をつけるが、まだ熱いためになかなか口に含むことができない。

「大丈夫かよ、おっさん」

「あ、ああ。大丈夫……」

しかしそれは虚勢であり、藤堂は再びごほごほと咳き込んだ。

しばらくして、藤堂はようやく落ち着いた。そして話を再開する。

「すまなかったな。それで、ここで都市伝説を見なかったかだって?」

「うん。おっさんなら、一番近くで見てそうだなって思ってさ。それに、そういう依頼だってあるんでしょ」

藤堂は探偵だ。だがその仕事内容は、素行調査やペット探しから、地域のお祭りの手伝いや稲刈りの手伝いまで多岐にわたる。その中には、怪奇現象にまつわる調査も含まれている。都市伝説が広まるこの街では、そういった噂話の真偽を確かめるような依頼も多いのだ。

「まぁ、そうだな……。はっきり見たわけじゃないが、そういうものに近いのは見たことあるぞ。やたら凶暴なチワワとか」

「マジで!」

敬一の瞳が光り輝く。詳しく教えてくれといわんばかりの視線が藤堂に向けられる。

「じゃあ、シュヴァルツネーロは?」

ぴくりと藤堂の眉が動く。

「シュヴァルツネーロって、ネットでいわれてるあれか?」

敬一が激しく首を縦に振る。

敬一は多くの都市伝説のことを知っているが、その情報源の大半は姉であった。しかし時々インターネットによって情報を得ることもあるのだ。

「シュヴァルツネーロを見たことあるかって、シュヴァルツネーロは誰にも見えないって話じゃないか。見ようにも見れん」

藤堂の言葉が悔しかったのか、敬一は口に含んだ氷を噛み砕いた。

甥の様子を微笑みながら見つめ、藤堂はさらに言葉を続ける。

「でもま、いることにはいるんじゃないか。たまに外の街灯が突然消える

ことはあるしな」

再び敬一の目がらんらんと輝き始める。

「じゃあ、シュヴァルツネーロは本当にいるんだな!」

興奮する敬一を伯父はまあまあとなだめる。

「いる可能性があるってだけだ。本当にいるかはわからない」

「いや、絶対にいる!」

おぼろげだった英雄の存在は、少年の中で確信のものとなった。

「ああ、恭子か。今、敬一と一緒にいるんだが……」

都市伝説の話が盛り上がり、いつの間にか窓の外が暗くなり始めていた。もう夕食時であり、敬一はぐぅうと音を出すお腹をおさえている。

藤堂は、妹に電話をしていた。敬一の母だ。

敬一と夕食を一緒に食べることと、敬一をしっかりと送っていく旨を伝え、通話を切る。

「さて、敬一。何が食べたい?」

敬一の前に出されるチラシの数々。鰻屋や寿司屋、ラーメン屋、洋食屋。出前のチラシだ。

「うな重!」

チラシを一切吟味することなく、敬一は高らかに叫んだ。

「特上!」

続く敬一の宣言。伯父に並みと言わせる隙をつくらない。

探偵の財政状況に大打撃を与えた甥っ子は、満足気にオレンジジュースを飲み干した。

藤堂の財布をすっからかんにさせた甥っ子は、上機嫌で探偵事務所を飛び出した。

「戸締りしてから行くから、下で待っていてくれ」

そう言われていた敬一は、ビルの階段を下り、人気のない商店街に出る。

八時を過ぎれば、商店街の大体の店舗が店じまいをしてしまう。月明かりと街灯だけが、誰もいない商店街を照らし出している。いくつもの街灯の影が映るアスファルトの道をじっと見つめていると、何か出てきてもおかしくはないような気がした。まるで、終わりのない道のように見える。

静かな商店街に、敬一はなんとも言えない居心地の悪さを感じた。

おじさん、まだかな。

なかなか現れない伯父。いっそ事務所に戻ろうかと敬一が思った時だった。

「ぼうや、風船いるかい?」

突然背後から声をかけられた。

仰天して敬一が振り向くと、事務所の向かいの建物、金物店の前に風船を持った青年がいるのを見つけた。

なぜ、今まで気が付かなかったのだろうか。

法被を羽織り、真っ白い風船をいくつか手に巻きつけている青年。こんなに目立つ格好だというのに。

不思議に思うと同時に、敬一は安堵した。ひとりぼっちでないということが、少年を安心させた。

「風船、どう?」

青年はただ風船を勧めてくる。

敬一はふらりと青年に近付いた。まるで引き寄せられるように。

「あげるよ」

近付くと、青年の顔がよく見えた。長めの色素の薄い髪。照明のせいか、肌が異様に白く見える、目が開いていないのかと思うくらいの糸目が、敬一を見つめている。口角をきゅっと吊り上げながら。

「ほしいでしょ」

差し出される白い風船。あしらわれた猫の顔の三角形の目が、敬一をまっすぐ見据えていた。

にゃおん。

ただのイメージなのか、はたまたどこかに野良猫がいたのか。敬一の頭の中に猫の鳴き声が響く。

敬一は、風船に手を伸ばした。

「ほんとにくれるの?」

「うん。君にあげたいんだ」

ひとなつっこい笑みを浮かべたまま、青年は敬一の右手に風船のひもを握らせる。

「風船も、きっとよろこぶよ」

そして、敬一は白い風船を受け取った。

「敬一、またせたな」

後ろから、伯父の声が投げかけられる。

ハッとして敬一は伯父の方を振り返った。驚いた拍子に、右手から風船のひもがするりと抜ける。

「あっ」

宙に浮いた風船に必死に手を伸ばすが、届かない。

風船はあっという間に街灯を越え、暗闇の中に溶け込んでいってしまった。

「どうかしたか?」

伯父が不思議そうに敬一を見つめている。

伯父には何も見えていなかったのだろうか。

「風船が……」

「風船? どこにあるんだ」

藤堂の表情は変わらず訝しげだ。

「だってそこに……」

敬一が辺りを見回すが、周辺には藤堂以外に誰もいない。風船配りの青年はどこにもいなかった。まるで消えてしまったように。

「ううん、なんでもない……」

敬一は狐につままれたような気分になった。

「そうか。じゃあ、帰るか」

「うん」

伯父との帰り道、敬一の右手にはずっとあの風船を握っていたひもの感覚が残っていた。

にゃおん。

どこかでまた野良猫が鳴いているような気がした。

◇◇◇

「商店街に、風船配ってる人いなかった?」

食器を拭きながら、雄一郎は母――良子に尋ねた。

母はいつもパート先から商店街を通って帰ってくる。風船を配っている人がいたら、見かけたかもしれない。

「風船?」

すすぎ終わった茶碗と一緒に、良子は雄一郎に問いを投げ返す。

「そう、風船」

「うーん、薬局の人なら配ってたわね」

「そっか」

雄一郎が探しているのは、薬局の主人ではない。怪人フウセンクバリンだ。

「なに、風船欲しいの?」

母から最後のコップが渡される。

「ううん。そういうわけじゃないんだ」

お父さんにも聞いてみよう。

コップを拭き終わり、手伝いを完了させた雄一郎は、夏みかんを手に、父――勇雄のもとへ向かった。

「お父さん。これ剥いてー」

息子の声に、父はソファからむくりと体を起こした。

「ああ、みかんか」

かしてごらん、と父は夏みかんを息子の手から受け取る。

「ちょっと待ってろよ」

勇雄は夏みかんの硬めの皮をいとも簡単に剥いてゆく。雄一郎にはまだ指をみかんに突きたてることにすら時間がかかる。

もう少し大きくなったら、自分もこうやって夏みかんを楽に剥くことができるだろうか。

父に夏みかんを剥いてもらう度に、雄一郎はそう思う。

「はい」

オレンジ色の皮だけ残して、勇雄はきれいに剥けたみかんを息子の手に乗せた。雄一郎は、渡されたみかんを半分に割って、片方を父に手渡す。

「半分こね」

「母さんの分は?」

「いらないって」

「そうか」

二人はソファに並んで座り、みかんを食べた。勇雄は房ごと食べてしまうが、雄一郎は白く薄い皮をはいで果肉だけ食べる方が好きだった。オレンジ色のみずみずしい果肉を頬張る。

「ほら、垂れるぞ」

果汁がこぼれそうになると、父はティッシュをくれた。

夏みかんをあらかた食べ終えると、雄一郎は本題を切り出した。

「お父さん、今日商店街で風船配ってる人見なかった?」

母と同じく、父も商店街を通って仕事から帰宅する。風船を配っている人がいれば、見ているはずだ。

雄一郎は、薬局の店主以外の風船配りの話が出てくることを期待していた。

そして、その期待は応えられる。

「そうだなぁ。薬局の前と、金物屋の前で配ってたかな」

「ほんと!」

思わず雄一郎の声は裏返る。

もしかしたら、本当にフウセンクバリンかもしれない。

期待に胸の鼓動が早くなる。

「どんな風船配ってたの?」

急に声を大きくした息子に驚きながら、父は記憶を辿った。

「ええと、そうだな。薬局のはいつものカラフルな風船で、金物屋のはなんか白い風船だったかな」

白い風船!

本当に、本当に都市伝説の怪人かもしれない。

雄一郎は興奮を抑えられずにいた。都市伝説の真相に近付いたかもしれないということは、雄一郎の目を輝かせた。

明日、敬一と一緒に商店街に行ってみよう。

きっと、敬一も喜ぶはずだ。雄一郎の頭はもうフウセンクバリン探しの事でいっぱいになっていた。

「……金物屋の前で配ってたけど、配ってるのは店の人じゃなかったな……」

そう呟いてから、勇雄の顔色が一瞬真剣なものに変った。呟きは興奮冷めやらぬ雄一郎の耳には届いていない。

「なんでそんなこと聞いたんだ?」

「風船の都市伝説があるからだよ。斉藤さんに聞いたんだ」

父の声が今までより少し硬いことにも気が付かず、雄一郎はいつもの調子で答えた。

「そうか……。どうせ噂話なんだから、あまり間に受けるんじゃないぞ」

疑問が晴れたはずの勇雄の顔は、どこか憂いを帯びていた。そして、夜は更けてゆく。

その晩、雄一郎はフウセンクバリンの白い風船をクリムゾンマスクが割る夢を見た。赤い装束に身を包んだクリムゾンマスクが真っ赤なマントをはためかせながら、ひたすら白い風船を割り続ける夢だ。その内、風船のかわりに木の葉が舞うようになり、クリムゾンマスクが対峙している相手が、フウセンクバリンではなく、狐男にすり替わっているのだ。

夢の中で聞いたクリムゾンマスクの声は、どこか父の声に似ていた。

◆◆◆

翌朝、敬一は一番に登校班の集合場所についた。集合場所は雄一郎の家――不知火家の前だ。

「おはようございます、敬一君」

隣の家から敬一の名を呼ぶ声がする。不知火家の隣の家の斉藤さんの声だ。青々と茂った生垣の向こうから話しかけてくる。

「珍しいですね。こんなに早くに」

「今日は早起きできたんだ」

挨拶を返してから、敬一はそう答えた。

敬一は普段なら一番遅くに集合場所に着く遅刻魔だ。しかし今日はなぜか早く起きてしまった。自分では、雄一郎に昨日自分の身に起こった不思議な現象について話したいと体が訴えているからだと思っている。

「斉藤さんも、いつも早起きだよね」

「そうですねぇ。歳をとると朝が早くなるんですよ」

「へぇ」

敬一は適当に相槌を打った。自分の両親よりも少し上の年齢であろう斉藤さんの言葉にはあまり説得力がなかった。しかし、斉藤さんの頭に白髪が多いのは、他の人よりも老けるのが早いのかもしれない。それか、苦労が多いのかもしれない。そう思うと、急に敬一の心の中に申し訳なさが生じた。

「……私は散歩に行ってきますね」

薄い青色の和服を着た作家先生はどこかへ行ってしまった。

「いってきまーす」

斉藤さんと入れ違いになるようにして、雄一郎が玄関から現れた。家の前が集合場所であるため、雄一郎はいつも集合時間丁度に家から出てくる。

今日は父親と一緒に家から出てきた。

「おはようございます」

雄一郎の父には敬語で、雄一郎にはため口で挨拶をする。

二人とも、にこやかに挨拶を返してくれた。

「今日は早いね、敬一君」

雄一郎の父は、斉藤さんと同じことを言ってくる。

事実を言われているのではあるが、敬一は背中がむずがゆくなる思いだった。

「じゃあ、二人とも、気を付けて学校に行くんだよ」

「うん」

「はい」

子供たちに優しくそう言って、勇雄は先に歩いて行った。背中を向けてから、軽く右手を挙げる。それは勇雄の親しい人に向けての別れ際での癖であった。

敬一と雄一郎も、勇雄の背中に向かって手を振った。

「おはよー」

勇雄が行ってしまった直後、二人の後ろから声がかかった。

振り返ってみると、この登校班の班長であった。今日は到着が少し遅い。

「少し遅れちまった。ごめんな」

六年生の班長は、二人の近くで立ちどまってからそう謝った。

「今日、チビちゃん二人は休みだってさ」

チビちゃん二人とは、この班に所属する低学年の児童二人のことである。

班長が送れたのは、道中で二人の保護者から欠席の旨を聞いていたからだろう。

「一応これで今日は全員そろったから、行くか」

班長旗を掲げ、班長は二人の先頭に立って歩き始めた。班長の次は敬一、その後ろは副班長である雄一郎である。雄一郎も班長と同じ旗を持っている。

「昨日、変なことがあったんだよ」

歩き始めてからすぐに、敬一は雄一郎にそう話しだした。

「変なこと?」

雄一郎も敬一に言いたいことがありそうだったが、話の順番を譲ってくれた。

「昨日、夜の商店街で白い風船をもらったんだよ」

「白い風船?」

雄一郎の顔色がさっと変わった。思い当たることがあるようだ。

「もしかして、金物屋さんの前で?」

今度は敬一が目を丸くする。なぜ雄一郎がそれを知っているのか。

「そうだけど、なんで知ってるんだよ」

「昨日、お父さんが金物屋さんで白い風船を配ってる人がいるって聞いたんだ」

雄一郎の言葉は、敬一にとって少し残念なものであった。他に目撃者がいたということは、昨日風船をくれたあの青年は、本当にただの風船配りの人であったという可能性が高くなる。それでは、つまらない。

「えー、なんだよ雄一郎の父ちゃんも見てたのかよ。じゃあ、あれは普通に風船をくれただけだったのかなぁ」

「でも、お母さんは見てないって」

「え」

その目撃証言によって、敬一の中に自信が戻ってくる。

もしかしたら、あの風船配りは特別な人にしか見えないということなのかもしれない。それで、風船をもらった人は、もっと特別なんだ。

そんな漫画じみた考えが敬一の脳内を支配する。

「その白い風船、飛んで行っちゃったりしてない?」

雄一郎の突然の問い。敬一は図星だった。

「なんで、わかるんだよ」

雄一郎はなにか知っているのだろうか。それなら、もったいぶらずに教えてほしい。

「昨日、斉藤さんに新しい都市伝説を教えてもらったんだ」

得意げに、雄一郎が語る。

「怪人フウセンクバリンの話。フウセンクバリンが配った風船は、必ずどこかに飛んで行っちゃうんだって」

敬一はじっと黙って話の続きを待った。ちらちらとこちらを振り向く班長も続きが気になっているようだった。

しかし待てども待てども、雄一郎は続きを話さない。

「続きはないのかよ」

先にしびれを切らしたのは、班長であった。

「うん、そこで終わりなんだ。飛んで行った風船はどこに行くのでしょうねって言って斉藤さんは話を終わらせちゃったんだ」

申し訳なさそうに、雄一郎が言う。

「なーんだ、つまらねぇ」

敬一はそう言い放ったが、内心では得も言われぬ高揚感を抱いていた。たとえ大したことのない都市伝説であっても、その一端に触れることが出来たという自負は敬一の胸を高鳴らせた。

「じゃあ、敬一がもらった風船も、どっかに行ったままなんだなー」

班長が残念そうにそう呟いた。

「ひょっとしたら、戻って来てるかもしれないね」

雄一郎の希望的な一言。

敬一もそれを期待して、無意識に空を見上げた。そして、目を見開く。

すっきりと晴れた雲一つない青空。その中に、ぽつんと白い何かが浮かんでいる。それは雲ではない。一見すると風船のように見えた。しかし目を凝らしてみると、何か別の物の形をしている。

「猫だ」

敬一は思わず声を上げた。

猫の頭に風船のようなひもがついた未知の何かが空に浮かんでいる。白い猫の頭。敬一の脳内に、昨日自分を見つめてきた猫の顔が浮かんだ。

空に浮いた猫風船は、徐々に下降しているようだった。

三人の登校班は、丁度横断歩道に差し掛かったところで止まった。赤信号だったからだ。この横断歩道を渡り、まっすぐに歩くと学校に着く。

「猫? 猫ってどこにいるの?」

雄一郎と班長が辺りをきょろきょろと見回している。どうやら、敬一以外には見えていないらしい。

動き回る二人の目とは違って、敬一の目は一つの物をずっと追っている。

どんどん下降してゆく猫風船。

落下地点は、この場所よりずっと北であろう。このまま学校のある西に向かっては、猫風船に会うことはできない。

本当はまっすぐ学校に行かなければならない。

そのことを、敬一は重々承知していた。しかし、足は理性の言うことを聞いてはくれなかった。

信号が青に変わる。

まっすぐ歩き出す班長。だが、敬一はその後についていかず、そのまま右に曲がり、走り出した。

雄一郎の声が聞こえた気がしたが、敬一は止まらなかった。

◇◇◇

「敬一君がどっかいっちゃった!」

あまりにも突然の出来事に、雄一郎は立ちすくんだまま叫ぶことしかできなかった。

班長はすでに横断歩道を渡りきってしまい、信号はもう赤に変ろうとしている。

「雄一郎、敬一を追いかけるんだ! オレも後から追いつくから」

横断歩道の反対側で、班長が叫ぶ。

言われるまま、雄一郎は敬一が駆けた道を走った。

どこか裏道へ曲がっていってしまったのだろうか。

雄一郎がいくら走っても、敬一は見つからなかった。敬一どころか、誰も通りかからない。敬一を見かけた人がいるかどうかも聞けない状況だった。

「おーい、雄一郎」

やがて、班長が雄一郎に追いついてきた。

雄一郎は泣きそうになりながら、敬一がどこにもいないことを訴える。

「どこ行っちゃったんだろうな……」

異常事態に、班長も困り顔だ。どうしたらいいのか考えあぐねている。

二人が途方に暮れていると、裏路地から意外な人物が姿を現した。

「おや、二人とも何をしているのですか」

白髪交じりの頭髪に、四角い眼鏡。薄い青色の和服に身を包んだその人は、斉藤さんであった。

「敬一君がいなくなっちゃったんだ……」

そう訴える雄一郎は、内心安堵していた。大人の人なら何とかしてくれる。そう思ったのだ。

「敬一君が?」

「うん。急にどっかへ走って行って……」

大人の登場に班長も安心したのか、先ほどよりも声が少し大きくなっている。

しばしの間を空けてから、斉藤さんは口を開いた。

「敬一君なら、先ほどお会いしましたよ」

子供たちの顔が輝く。やはり斉藤さんは救世主だ。

斉藤さんはにっこりと笑みを浮かべて子供たちを見下ろした。背の高い斉藤さんに至近距離から見下ろさせると、若干の威圧感がある。

「まっすぐ学校に行くようにちゃんと言っておきましたから、学校に行けば会えると思いますよ」

「よかったぁ」

ほっと胸を撫で下ろす子供たち。

「だから、君たちも早く学校に行った方がいいですよ。遅刻してしまいます」

そう言って斉藤さんは懐から懐中時計を取り出して子供たちに時間を示した。本来ならもう学校に着いている時刻だ。

学校に行かなければ。

雄一郎は班長と顔を見合わせて、頷いた。

「ありがとう、斉藤さん!」

大きな声でお礼を言って、雄一郎と班長は学校へと駆け出した。

敬一と学校でちゃんと会うことができるのだと思うと、走り回った疲れなど吹っ飛ぶようだった。

実際、雄一郎と班長が学校に着くと、昇降口で敬一を見つけることができた。

「敬一君!」

勢いよく駆け寄った雄一郎に、敬一は訝しげな視線を向けた。

「あれ、雄一郎。お前どこに行ってたんだよ」

敬一の言葉に、雄一郎は目を丸くした。まさかこんな言葉をかけられるとは思わなかった。

「どこかに行っちゃったのはそっちじゃないか」

雄一郎が事情をありのままに説明しても、敬一はきょとんとしたままだった。どうやら、自分が勝手にどこかに行ったことそれ自体を覚えていないようだった。それどころか、どうやって学校に来たのか、それすらもおぼろげな記憶な様だ。

「もう、しっかりしてよ敬一君」

敬一は釈然としないようで、ぶすっとした表情でわかったよとだけ言った。

◆◆◆

ふわふわとした気分で、敬一は一日を過ごした。

授業は右耳から左耳へと流れていくし、給食をよく味わって食べることができなかったし、掃除のときにはバケツをひっくり返してしまった。友達、雄一郎との話でさえ真面目に聞くことができなかった。

今日一日、敬一の頭の中を占めているのは、あの白い猫の風船のことであった。

朝、猫風船を追いかけようとしたことは覚えているが、どう追いかけたか、どう学校まで来たかまでは覚えていなかった。雄一郎と班長を心配させてしまって申し訳ないとは思うけれど、その気持ちは漠然としていた。

敬一の頭の中で踊る猫風船。三角形の目が妖しく光っている。

それが気になって、下校中も敬一は雄一郎の話を聞いていなかった。

「敬一君、大丈夫?」

雄一郎が問いかけてくるが、敬一は全く意に介していないようで、きょろきょろと辺りを見回している。

どこかに猫風船がいないか。そればかり考えているのだ。

敬一の視界の端に白いものが移りこむ。バッと振り返るが、それは風に飛ばされたビニール袋だった。落胆のため息が漏れる。

白いワンピースを来た人が通り過ぎる時でさえ、ため息を吐き出す。

そしてついに、敬一の目は、目的の物を捕えた。

住宅街から商店街へと続く裏道。電柱の影に、それは浮かんでいた。

「あっ」

思わず声を上げると、雄一郎ばかりか猫風船も敬一の方を振り返る。

猫風船は敬一の姿を見据えると、その金色の瞳をきゅっと細めた。そして誘うようにゆらゆらと頭を揺らしながら、裏道の奥へと進んでゆく。

ためらう暇なく敬一は駆け出した。

なぜかはわからない。ただ、あの猫風船を捕まえたかった。

朝と同じように、雄一郎の叫び声が敬一の背中に投げかけられたが、敬一にはそれに応える余裕などなかった。

◇◇◇

敬一は行ってしまった。雄一郎には見えないものを追いかけて。

フウセンクバリンの仕業だ。

雄一郎は直感的にそう考えていた。敬一が昨日もらったという白い風船が原因に違いない。

そう確信をもったところで、これから何をするべきなのか雄一郎にはわかっていなかった。追いついた所で、敬一を止められるのかはわからなかい。

それでも、雄一郎にできることは敬一を追うことだけだった。

雄一郎も、人気のない裏道を走り始めた。

しばらく走っても、敬一には追いつくことが出来なかった。

やがて、雄一郎は商店街へと出た。

商店街の人ごみは、裏道とは比べ物にならないくらいだった。買い物客で溢れている。

この中から敬一を探さなければならないと思うと、雄一郎は気の遠くなる気分になった。このままずっと見つからないのではないか。その思いがよぎる度に、雄一郎の胸が締め付けられる。

「おや、雄一郎君じゃないですか」

不意に、頭上から声が降ってきた。

見上げると、斉藤さんの顔があった。今朝とは違い、灰色の帽子を被り、小さな鞄を手に提げている。

「漱さん……。また敬一君がいなくなっちゃったんだ……」

今朝に続く斉藤さんの登場。まさに救世主のような存在に思えた。

緊張から解き放たれたためか、雄一郎の目に熱いものがにじむ。

「また、ですか……」

斉藤さんは天を仰いだ。今度は敬一とは遭遇していないようで、困った表情を浮かべている。

「雄一郎君、心配しないでください」

斉藤さんの大きな手が、雄一郎の肩にぽんと置かれる。

「敬一君は、必ず私が見つけます。だから、雄一郎君はお家に戻っていてください。何かあったら……いえ、見つけたら連絡しますから」

自分も敬一を探したい。

雄一郎は何度も斉藤さんにそう訴えたが、斉藤さんは頑として聞き入れてくれなかった。捜すというのなら、無理にでもお家に送っていきます、とそこまで言われてしまった。

今までにない斉藤さんの強い態度に、雄一郎は引き下がるしかなかった。

「絶対、絶対に見つけてね、斉藤さん」

雄一郎の悲痛な叫びに対して、斉藤さんは微笑を浮かべて小指を差し出した。

「では、約束しましょう。指切りげんまんです」

こくりと頷いて、雄一郎も自分の右手の小指を差し出す。

ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーっます、ゆびきった。

「必ず約束は守りますから、安心して待っていてくださいね」

そして、斉藤さんは人ごみの中に紛れていった。

「余り大事にしたくありませんから、お家の方には言わないでくださいね。敬一君のお宅には私から連絡しますから」

秘密ですよ。

別れ際との斉藤さんとの約束を胸に、雄一郎はとぼとぼと自宅へと向かった。

◇◆◇

斉藤は、焦っていた。

まさかこんなことになるとは。

敬一が巻き込まれるのは、彼にとって予想外の出来事であった。

まずは怪人を見つけなければならない。

斉藤は人ごみを縫うように進み、先を急いでゆく。不思議と、すれ違うどんな人ともぶつからない。

誰か白い風船を配る者がいないか探すが、風船配りはおろか、風船の一つも見つからない、今日は薬局ですら風船を配っていないようだ。

もちろん、敬一の姿も見当たらない。

今朝は運よく道路をうろつく敬一を見つけられたが、今はそうもいかないらしい。敬一の姿は、周囲の人間から見えないようにされているのだ。

焦りとともに斉藤の胸に湧き上がったのは、不快感だった。

なぜ、怪人の生みの親ともあろう者がこんなにも怪人に振り回されなければならないのか。

自然と、斉藤の眉間に皺が寄る。

斉藤は、店と店との狭い隙間に身を滑り込ませた。人の目が入らないよう、奥へと進む。

白壁から突き出た銀色の排気口の下で、斉藤は立ち止る。そして、鞄から狐の面を取り出した。

そして、それを顔にはめた時、斉藤に近付く者があった。

「狐様。お呼びでしょうか」

斉藤が呼び寄せたからか、彼が斉藤の気配を感じ取ったからかはわからない。しかし、斉藤の目的の怪人が現れた。

色素の薄い長めの髪。開いているのか閉じているのかわからない糸目。法被を羽織り、白い風船を手にした青年。

雄一郎がフウセンクバリンと名付けた怪人が、そこにはいた。

「ああ、よく来てくれました」

斉藤はほっと胸を撫で下ろした。怪人が自分に逆らうわけではないと分かったからだ。

「君が捕まえた少年、どうするおつもりですか」

「敬一君のことですか」

青年がきゅっと口角を上げる。

「彼とは楽しい夢の中で遊ぶつもりですよ」

猫たちと一緒にね。

いつの間にか、青年の周囲を猫風船が漂っていた。どの猫風船も斉藤を睨みつけ、牙を剥いている。にゃおんにゃおんと鳴き声がうるさい。

一瞬で現れた得体の知れない猫風船。斉藤には、気味が悪いとしか思えなかった。顔に近づいて来る毛の塊を手で振り払う。

「その少年、解放してもらえませんかね」

「いやです」

青年の即答。

斉藤はぴくりと眉を上げた。やはり絶対服従をしてくれない怪人であった。

「でも」

青年がちろりと赤い舌を出す。一緒に鋭くとがった牙も露出した。

「今晩、チャンスを差し上げましょう」

漂う猫風船の数が増えてゆく。幾多の毛玉に包まれ、次第に青年の姿が見えなくなった。

「ただならぬ狐様のお頼みですからね」

嫌味のようなその言葉を残して、青年は猫たちと一緒に消え去った。

後に残された斉藤は、呆然とその場に立ち尽くしていた。

「あんたが狐男か」

突然の背後からの声。斉藤は我に返った。狐面で素顔を覆ったまま、振り返る。

そこには斉藤の知らない男が立っていた。黒髪で四角い眼鏡。肉球が散りばめられた変わったシャツを着た男だ。

斉藤は、無言のまま頷いた。

狐面で怪人と話す姿。それを見られたからには、否定しても仕方がない。

巷で噂されている狐男という怪人の正体。それは斉藤であった。

斉藤――狐男は、数多の怪人を生み出し、街に都市伝説を広めるきっかけを作った張本人である。

しかし狐男の能力はそれだけではない。

肉球柄のシャツの男から目を離し、店の屋根を見上げる。

「くれぐれも夜にお気をつけて。さようなら」

その言葉が言い終わらぬうちに、斉藤は妙なシャツの男の目の前から消えた。

次の瞬間には、斉藤は先ほどまで見上げていた店の屋根の上に立っていた。そして隣の屋根、また隣の屋根と移っていく。

視界に映る範囲内で瞬間移動をする。これもまた斉藤の能力の一つである。

フウセンクバリンからどう敬一を取り戻すか。

それを考えながら、斉藤は夜まで過ごすことにした。

◇◇◇

日も落ちかかった頃、不知火家に電話のコール音が鳴り響いた。

「不知火さんのお宅ですか」

電話の主は、斉藤さんだった。

待ちわびた斉藤さんからの連絡。喜びのあまり、雄一郎は子機を取り落としそうになった。リビングから階段に移動する。

「漱さん、敬一君が見つかったの?」

だが、斉藤さんがもたらした言葉は、雄一郎の期待するものではなかった。

「雄一郎君、すみません……。まだ敬一君は見つかっていないのです」

失望のあまり、雄一郎は言葉を失う。

それを予期してか、斉藤さんは素早く言葉を続けた。

「しかし、敬一君のいる場所の目星はついています。今晩中……いえ、じきに見つかりますから、心配しないでください」

「ほんと?」

敬一のいそうなところ。雄一郎でさえよくわからないその目星を、斉藤さんはどのようにつけたのだろうか。

「ええ、本当です。信じてください」

「うん」

不安ではあったが、雄一郎は頷くことしかできなかった。

「いいですか、敬一君のお家には私が連絡しておきましたから、雄一郎君はこのことを秘密にしておいてくださいね」

念を押してから、斉藤さんは電話を切った。

薄暗い階段に座り込んだまま、雄一郎は呆然と子機を見つめていた。

本当に敬一は見つかるだろうか。

不安が募る。この不安感の原因を誰にも話せないというのは、辛かった。吐き出したくてたまらない。

しかし、親に話しては事態が大きくなってしまうだろう。警察沙汰になるかもしれない。

斉藤さんはそれを望んではいない。斉藤さんを頼ってしまっている雄一

郎には、斉藤さんを裏切ることはできないのだ。

きっと斉藤さんが敬一を見つけてくれる。

そう信じるしかない。

目にこみ上げてくる熱いものを必死に我慢して、雄一郎は立ち上がった。

「誰からの電話だったんだ?」

リビングに戻ると、父が尋ねてきた。

「漱さんからだよ」

父の顔が強張る。口には出さないが、勇雄は雄一郎が斉藤さんと関わることを余り好ましく思っていない。

「斉藤さんか。何の用だったんだ?」

「……明日、遊びに来てもいいですよって」

雄一郎は父親に嘘を吐いた。罪悪感に胸が苦しくなる。

だが、幸い明日は土曜日だ。まだ信じてもらえるだろう。

「そうか。失礼がないようにな」

「うん」

子機を親機に戻し、雄一郎は珍しく早い時間に宿題に取り組んだ。気を紛らわすためだ。ノートに漢字を書きつけていくが、いくら手を動かしても、頭の中には入って来ない。考えてしまうのは、敬一の安否ばかりだ。

普段は日曜の夜にやっているはずの宿題に取り組む息子の姿を、勇雄は不思議そうな顔をして見つめていた。どこか陰のある息子の顔に、父は得も言われぬ不安感に駆られた。

キッチンから食材を炒める音が響く。息子の憂いなどいざ知らず、母が夕食の準備をしているのだ。

「雄一郎、食器運んでちょうだい」

ノートを素早く片付けて、雄一郎は母の元に向かった。父も手伝ってくれるのか、ソファから腰を上げる。

用意して、と母から差し出される醤油皿。雄一郎は受け取ろうとしたが、手を滑らせた。

「危ないっ」

皿は割れなかった。丁度雄一郎の隣にいた父が、間一髪のところで皿を受け止めていたのだ。

「おー」

雄一郎と良子は、思わず感嘆の声を上げた。

勇雄は大したことじゃないと言った様子で、雄一郎に醤油皿を手渡す。

「気を付けるんだぞ」

「うん……。ごめんなさい」

「いや、いいんだよ」

そう言うと、父はグラスと麦茶をキチンから運び出して行った。

食事中も、雄一郎は元気がないままであった。

チンジャオロースにも、味噌汁にも、白米にも橋が伸びず、ただモロヘイヤのおひたしだけと少しずつ食べていた。粘り気のある緑色の葉を口に入れてゆく。

「ちゃんとご飯食べなさい」

母に叱られたが、食欲の湧かない雄一郎は結局ご飯を半分残してしまった。下腹の辺りがもやもやとして、あまりいい気分ではなかった。

「雄一郎、一体何があったんだ」

夕食後、漢字の書き取りを再開した雄一郎に、父が問いかけてきた。

肩を震わして雄一郎は父を見上げた。真剣な顔で、雄一郎の目を見据えている。

母は風呂に入っていて、今リビングにいるのは雄一郎と勇雄だけだ。

「別に、何もないよ、お父さん」

またしても雄一郎は父に嘘を吐いた。図らずも声が震えてしまう。

「嘘だな。何か隠してるだろう」

父の目は確信を持っていた。

隠せない。雄一郎はそう悟った。

「でも、言えないんだ……」

隠していることは肯定する。だが、何を隠しているかまでは言えない。

父と斉藤さんとに板挟みにされて、雄一郎は胸が潰されるように苦しくなる。

「どうして?」

なおも問いかけてくる勇雄。

普段なら父の気持ちはありがたいものであっただろうが、今は雄一郎を苦しめることになっている。これ以上聞かないで欲しかった。

だが一方で、敬一のことを誰かに話したいという気持ちも雄一郎にはあった。

「大丈夫、母さんには言わないから」

雄一郎の気持ちが揺らぐ。父から他の人に漏れなければ大丈夫なのではないか。それに、父に話せば、父も敬一を探しに行ってくれるかもしれない。そうしたら、きっと斉藤さんの助けにもなるだろう。

父に話してもいいのではないか。

雄一郎の中で、天秤が大きく傾いた。

「本当? 誰にも言わない?」

「ああ。それに、父さんに何かできることがあるような話しだったら、力になるよ」

力強く頷く父。

話してもいいのではないか。いや、父に話したい。そして、助けてもらおう。

雄一郎は、父に話すことを決心した。

「実は、敬一君が……」

雄一郎が敬一の話を語るにつれて、父の顔がどんどん強張っていった。

「……斉藤さんが、見つけてくれるって言ってたんだけど……心配なんだ」

雄一郎が話を終えると、父の大きな手が雄一郎の頭の上に優しく置かれた。撫でられて、髪の毛がくしゃくしゃになる。

「雄一郎、よく話してくれたな。ありがとう」

そう言って、父は微笑を浮かべた。

怒られずに済み、雄一郎は胸を撫で下ろす。

「敬一君、見つかるかな……」

か細い雄一郎の呟き。

「ああ、見つかるさ。いや、見つける」

よく通る声で、勇雄はそう言い放った。

「斉藤さんの手伝いをしてくるよ。母さんには、散歩に出かけたと言っておいてくれ」

「え、え?」

雄一郎は状況が読み込めないまま、父の姿をおろおろと見ていた。

携帯電話をポケットに入れると、勇雄はリビングから出てゆく。

「お父さん?」

雄一郎は慌ててその背中を追う。父は玄関で靴を履いていた。

「敬一君を捜しに行ってくるよ。留守番を頼む。お前は来るんじゃないぞ」

母さんに伝言よろしくな。

言うだけ言って、父は玄関戸を開けて行ってしまった。

「いってきます」

戸が閉まる前に、雄一郎は父が右手を軽く挙げているのを見た。

リビングに戻った雄一郎は、バクバクと激しく脈打つ胸をおさえてソファに座り込んだ。

母になんと言ったらよいのだろうか。

雄一郎はそればかり考えた。

外から、倉庫の戸を開けて、閉める音が聞こえる。父が懐中電灯を取りに行ったのだろう。芝生を踏みしめる足音が聞こえなくなり、雄一郎は父が本当に敬一を探しに行ったことを実感した。

父は、自分のできることとして、敬一を捜しに行った。

では、自分には何が出来るだろうか。

雄一郎は考えた。

このまま留守番をして、母に父が散歩に行ったことと伝えればいいのだろうか。いや、それなら、紙切れにだってできる。書置きをしておけば済むのだから。

自分にだって敬一を捜す手伝いは出来るはずだ。

雄一郎は自分を鼓舞するようにそう考える。実際に外に出れば、自分が道迷い、帰って迷惑をかけるかもしれない。そうも思えたが、それは可能性の一つでしかない。

何より、雄一郎は自分も敬一を捜したい、助けたいという思いに駆られていた。

脱衣場の方から、ドライヤーの音が聞えてくる。それは、もうすぐ母がリビングに戻ってくることを示していた。

母が戻ってくれば、もう外には出れないだろう。

ドライヤーの音に急かされるように、雄一郎はノートのページを破った。鉛筆で、お父さんと散歩に行ってきます、書きこむ。

そして慌ただしく家を飛び出した。

道路に出ても、もう父の姿は見えなかった。月のない曇った夜空の下、街灯の少ない道を歩いて行かなければならないというのは、雄一郎の足をすくませる。だが、敬一を助けたいという思いが雄一郎を突き動かした。

懐中電灯も持たず、履物もサンダルという有様で、雄一郎は商店街の方へ駆けて行った。

◆◆◆

八時をすれば、商店街のどの店もシャッターを下ろしてしまう。だからといって、ここまで人の姿のない商店街というのは奇妙なものである。

商店街の大通りには、ふわふわと宙を浮く猫風船と、それを追いかける少年――敬一の姿しかなかった。

いつから走っているのだろうか。敬一の足取りは軽く、まったく疲れていないようだ。それは猫風船も同じようで、敬一と一定の距離を保ったまま、ペースを落とさずにふらふら宙を漂い続ける。

敬一は無我夢中で猫風船を追いかける。その虚ろな瞳には、白い毛玉しか映っていない。あのもふもふとした猫の頭を撫でたくて仕方ないのだ。

「止まれ」

突然、どこからともなく低い声が響いてきた。

声の主の見えない得体の知れない声にも、敬一は惑わされずに猫風船を追いかける。むしろ、猫風船の方が驚いているようだった。前進することをやめ、ホバリング運動をしながら周囲を見回す。

敬一が猫風船との距離を詰めてゆく。それを妨害するかのように、商店街の街灯が、一度にすべて消えた。

暗闇に包まれる商店街。猫風船を見失った敬一は、ようやくその足を止めた。だが、依然として猫風船のことしか頭にないようで、四方八方に手を伸ばして猫風船がいないか探っている。

敬一の体の触れるものがあった。それは、柔らかな猫の毛ではなく、人の腕であった。ばさばさと布がはためく音がするのと同時に、敬一の足が地面から離れる。

あっと叫んだ次の瞬間には、敬一は謎の腕に抱えられ、宙に浮かんでいた。地面を見下ろすと、金色の二つの光がこちらを見上げているのがわかる。猫風船の目だ。大きく目を見開き、けたたましい鳴き声をあげている。

敬一は必死に猫風船に手を伸ばしたが、届くはずはなかった。

猫風船の姿をまた見失ったとき、敬一は小さなビルの屋上に座っていた。屋上の照明は地上の照明のように消えてはおらず、煌々と敬一を連れ去った者の姿を映していた。

「しっかりするんだ」

敬一の肩を揺する男の姿は、まるでファンタジーにあるような怪盗もしくはマジシャンのような恰好であった。黒いタキシードの上に、黒い外套を羽織り、同じ漆黒のゾロマスクで目の周りを覆っている。白い手袋と襟の立ったシャツ以外が全身黒づくめの格好であり、頭のシルクハットも手に握った細いステッキもやはり黒色だ。

「しゅゔぁるつ、ねーろ……?」

敬一は、ぼーっとする頭で、この黒づくめの男をそう呼んだ。しばらく猫風船のことで占拠されていた敬一の頭の中に、シュヴァルツネーロへの興味が湧き起こる。

黒い男は、にっこりと笑って頷いた。

「そうだ。私がシュヴァルツネーロだ」

シュヴァルツネーロの体が霧のようになって崩れてゆく。そして完全に人の形が消え去ると、敬一の周囲は黒い霧によって覆われた。

「君が会いたかったのは、あんな猫ではなくて、私じゃなかったのかい?」

霧の中から声が響く。姿は見えないが、シュヴァルツネーロは敬一の隣に確実にいた。

シュヴァルツネーロの言葉は、敬一を我に返そうとしていた。

大好きなシュヴァルツネーロ。かっこよさならクリムゾンマスクにだって負けないヒーロー。

やっぱりシュヴァルツネーロは本当にいたんだ。ただの都市伝説なんかじゃなかった。

憧れのヒーローに出会えたこと喜びが、敬一の胸の中にふつふつと湧き上がった。シュヴァルツネーロへの情熱が甦るにつれて、虚ろだった敬一の目に輝きが宿る。

「本当にいたんだな、シュヴァルツネーロ。夢じゃないよね?」

敬一の肩に、手袋をはめた手が置かれる。

「ああ。夢じゃないさ」

微笑を浮かべるシュヴァルツネーロは、その漆黒の双眸で敬一を優しく見つめていた。

「あーあ。つまらない」

喜びも束の間、二人の目の前に今回の事件の元凶が現れた。法被を着た、青年。白い風船を大量に持っている。怪人フウセンクバリンだった。

「せっかく狐様と遊ぼうと思ったのに。こんな変人にとられちゃうなんてね」

尖った牙を覗かせながら、青年は笑った。それを合図にして、白い風船が、猫風船に姿を変えてゆく。

「うわぁ……」

敬一は自分が先ほどまでずっと追いかけていたものに、嫌悪の感情を表した。青年の腕に尾のようなひもを絡め、空中でひしめき合う毛玉の集まりは、今の敬一には不気味にとしか思えない。

「君は逃げなさい」

シュヴァルツネーロが少年の前に立つ。

自分が邪魔であることを悟った敬一は、頷いて潔く後退した。

「逃がさないよ」

フウセンクバリンは鋭い声で言い放つと、その糸目を大きく見開いた。金色に輝く目の中央に走る細長い瞳孔。それは人の物ではなく、もはや猫の目と呼べるものであった。

刹那、屋上からの出口へと向かっていた敬一の目の前に、猫風船が現れた。敬一の顔に柔らかい毛並みを押しつけ、行く手を阻む。

「やめろって」

くすぐったがる敬一。猫風船を叩き落とそうとするが、猫風船は巧みに少年の拳を避けてみせる。

そして、猫は隙だらけの少年に牙を剥いた。

猫風船の殺気を察したシュヴァルツネーロが少年の元に駆け寄ろうとしたが、異変は彼が辿り着く前に起こった。

甲高い悲鳴が闇夜を切り裂いた。

同時に、毛の焦げる臭いが辺りを漂う。敬一を襲った毛玉が燃えているのだ。

白い毛玉は、みるみる突如生じた青い炎に包まれてゆく。じたばたとのたうちまわった後、猫風船はぱん、と破裂音をさせて消滅した。元が風船なためか、猫風船は最期に破裂するらしい。

突然の猫風船の散り様に呆気にとられていた一同を正気に返したのは、意外な人物であった。

「駄目ですよ、その子においたをしては」

屋上の手すりの上に、狐面をした男は器用に立っていた。昼間とは異なり、黒いスーツで身を包んでいる。猫風船に火を放った張本人である、狐男であった。

悪の親玉の登場を目にし、敬一の胸の高鳴りはいよいよおさえきれないものになっていた。シュヴァルツネーロに狐男、クラスでの人気者がこうして自分の目の前にいる。それを思うだけで、興奮冷めやらない。

これでクリムゾンマスクがそろっていれば、もう最高なのに!

最早敬一は先ほど命の危機にさらされていたことなどすっかり忘れていた。すごいすごいとはしゃぎたくてたまらない。

「狐様まで来ちゃいましたか……」

劣勢を悟った青年は、見に纏う猫風船の数を増やした。

「他の遊び相手を見つけに行くとしますかね」

そう呟いて、ためらいなく屋上から飛び降りる。

「待て!」

シュヴァルツネーロが叫ぶも、既にフウセンクバリンの姿は灯りのない商店街の中へ消えていた。

「下に降りよう」

そう言って、シュヴァルツネーロが敬一に手を差し伸べる。シュヴァルツネーロの脚や外套は既に霧状化しており、敬一には、上半身しかしっかりと視認することができなかった。

「ゆっくりね」

そう念を押してシュヴァルツネーロの手を掴むと、敬一の体は、黒い霧に包まれた。霧の塊は、屋上の柵を越え、ゆっくりと地上へと下降してゆく。

そして地上に降り立ったとき、怪人フウセンクバリンの姿はどこにもなかった。

◇◇◇

闇の中で、雄一郎はカタカタと震えていた。

父の後を追って商店街に来たのはよかったものの、なぜか商店街の街灯がすべて消えてしまっていた。

引き返そうかとも考えたが、敬一を助けるためだと奮い立ち、商店街の暗闇の中に雄一郎は突入した。

その後闇雲に歩き回ったのがいけなかった。敬一はおろか斉藤さんや父にも会えず、ただ体力を消耗してしまった。吸い込まれてしまいそうな濃い暗闇に対する恐怖がさらに雄一郎の精神を疲弊させた。

誰もいない真っ暗な商店街。疲れ切った雄一郎の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。唯一生きている光源をもつ公衆トイレに辿り着くと、雄一郎はその前に座り込んでしまった。

涙をためた目で、周囲を見渡す。暗闇で何も見えないということも怖かったが、公衆トイレの照明でぼんやりと周りの景色が見えるようになってもそれはそれで怖かった。おぼろげに形が見える自転車、電柱、店舗。そのどこかより暗い影の中に何かが潜んでいるのではないかと考えさせるのだ。懐中電灯を持ってこなかったのは失敗であった。

闇夜の静寂も恐ろしかったが、時折それを切り裂く野良猫の鳴き声が雄一郎にとってこの上なく恐怖だった。

誰でもいいから、人に来てもらいたかった。

敬一君、漱さん、お父さん。お父さん。

雄一郎は心の中で叫んだ。

「ぼうや、風船はいかが?」

雄一郎の叫びに応えるように現れたのは、おそらく雄一郎が最も望んでいない者であった。

白い風船を大量にもった法被の青年。雄一郎を見つめる、風船の中の猫のイラスト。

「フウセンクバリンだ!」

絶叫に似た大声をあげて、雄一郎は差し出された白い風船を払いのけた。

風船はアスファルトの地面の上を跳ねると、白い毛を生やして猫風船に変貌を遂げた。雄一郎を敵と認識したのか、黄金色の目を見開き、鋭い牙を剥いている。甲高い鳴き声が、耳に痛い。

「そうか、君は僕のこと知ってるんだね」

青年の冷たい視線が雄一郎を貫く。いつの間にか、青年を取り巻いていた風船すべてが猫風船に姿を変えていた。らんらんと輝く無数の瞳が、すべて雄一郎を睨みつけている。

「じゃあ、あんまり遊んであげられないね」

フウセンクバリンの猫の目が見開かれる。同時に、払いのけられた猫風船が雄一郎に向かって襲いかかってきた。

「うわあああ」

響き渡る少年の悲鳴。

次の瞬間、雄一郎の視界を赤いものが覆った。

不思議と、雄一郎の体のどこにも痛みはない。恐怖のあまりに閉じた目を開いてみると、そこには赤いマントがはためいていた。

黒い棍杖を持ち、赤い装束に身を包んだヒーロー。それはまさしくクリムゾンマスクであった。

「怪我はないかい?」

赤い覆面を被ったクリムゾンマスクが、振り返って雄一郎に尋ねる。

雄一郎が大丈夫だよ、と頷くと、赤いヒーローは安心したように笑みを漏らした。

そして、身を屈めて自分の右腕を勢いよくアスファルトの地面に叩きつけた。炸裂音を轟かせて、クリムゾンマスクの右腕にくらいついていた猫風船が破裂する。雄一郎をかばったときに、代わりにクリムゾンマスクが牙を突きたてられていたのだ。

「敵は、あいつだな」

低く呟いてから、クリムゾンマスクは青年を一瞥した。それから、雄一郎に懐中電灯を手渡した。

「君は遠くへ行っていなさい。ここは危険だから」

敬一を捜すという使命を自分に課していた雄一郎は、素直に頷いた。

「絶対、負けないでね!」

そう叫んで、雄一郎は駆け出した。懐中電灯という心強い仲間のおかげで、敬一捜しも簡単にできるようなる気がした。

「ああ、任せてくれ」

別れ際、クリムゾンマスクは雄一郎に右手を軽く掲げてみせた。

懐中電灯で足元を照らしながら、商店街の大通りをまっすぐに走っていると、雄一郎は自分と同じくらいの歳の子供が一人で歩いている姿を見つけた。

近付いてみると、それは敬一であることがわかった。

「敬一君! 敬一君!」

喜びのあまり、雄一郎はただひたすらに親友の名を呼んだ。

敬一も雄一郎に気が付いたようで、両手をぶんぶんと振ってくれる。

「敬一君!」

「雄一郎!」

まるで長い年月を経たかのような再会であった。

少年たちは、お互いにお互いをぎゅっと抱きしめ、再び無事に出会えたことを涙を流しながら喜び合った。

「ごめんなぁ、雄一郎」

「心配したんだよぃ、敬一君」

「そうですよ。心配をかけさせないでください、二人とも」

少年たちの感動の再会。それは予期せぬ闖入者によって壊された。

驚きの余り言葉を失う少年二人。同時に闖入者を見上げる。

狐の面を見たのを最後に、二人の意識は途絶えた。

クリムゾンマスクは、終わりのない風船割りにいい加減嫌気が差していた。割っても割っても、本体が見えてこない。それどころか、際限なく増える猫風船によって取り囲まれていた。

正面の猫風船を棍杖で薙ぎ払えば、後方の猫風船に噛み付かれ、左右の毛玉たちを手から出る炎で焼き払えば、頭上から新たな毛玉が降ってくる。そして、猫風船ばかりに気を取られていると、本体の青年の強烈な蹴りを喰らって吹っ飛ばされた。

吹っ飛ばされたクリムゾンマスクは、アスファルトの地面に叩きつけられる。いくつかの毛玉をクッションにしたおかげであまり衝撃はなかったが、公衆トイレから離されてしまった。光源が遠のき、辺りが暗闇に包まれる。

取り巻く猫風船共の視認も難しくなり、最早無数の黄金色の光に囲まれているようにしか見えなくなってしまった。

二つ並んだ光の中央を突くか、適当に棍杖で薙ぐかして猫風船を割っていくしかない。

しかしなにより問題であったのは、本体のフウセンクバリンであった。糸目の彼には、瞳の輝きによって居場所を探るという手が通用しないのだ。

「ぐっ」

猫風船に気を取られている内に、胸を引っ掛かれる。猫風船の親玉であるフウセンクバリンの爪は、人間のそれよりもはるかに長く、鋭く発達していた。

背中を、腕を、脚を、クリムゾンマスクは切り裂かれ続けた。明らかにクリムゾンマスクの劣勢であった。

このままではまずい。

どうしたものか、猫風船を叩き割りながらクリムゾンマスクが考えを巡らせていた時だった。

「右だ」

耳元で声が聞こえた。青年のものではなかった。

クリムゾンマスクは、とっさに右手を突き出し、言われた方向に向かって炎を放った。常人より優れた肉体と、手から炎を放つことが彼の能力だ。

猫風船のものとは違う絶叫が轟いた。肉の焦げる臭いが漂う。

「よくもやったな……!」

唸るような声を上げ、両目を見開いたのはフウセンクバリンだった。猫風船の目よりも大きなその瞳は、金色の光の群れの中で一際輝いていた。

「毛玉は引き受ける。とどめを頼んだ」

謎の声が、再びクリムゾンマスクに囁いた。クリムゾンマスクが手を振り回してみても、何の手応えも無い。まるで、暗闇が直接彼に語りかけているかのような感覚だった。

一体何者なのか。

それを確かめる余裕はなかった。

「よくもやりやがったなぁっ!」

声を荒げて、フウセンクバリンが飛びかかってきたのだ。

周囲の毛玉どもことなど気にせず、クリムゾンマスクは大きな金色の二つの目の間に棍杖を突き出した。

同時に、後方で風が吹いたような気がした。

幾多の炸裂音が、夜空に響き渡る。眉間を突かれた青年は、あまりにもあっけなく破裂してしまった。あんなにたくさんいた猫風船も、同時に割れてなくなる。毛の一本も残らなかった。

怪人が消滅すると、街灯が灯りを取り戻す。

「あなたが助けてくれたんですね」

クリムゾンマスクは、照明によって姿を露わにした謎の声の主――シュヴァルツネーロに礼を言った。

「私にもお礼を言ってもらいたいものですねぇ」

二人の背後に闖入者が出現する。両脇に二人の少年を抱えた狐男だ。

あからさまに顔をしかめるヒーロー二人に、狐男は言い放った。

「いいんですよ、子供たちにここで起こったことをすべて現実だと思ってもらっても」

狐男は記憶操作の能力も備えている。今、この少年たちにとってヒーローたちと過ごした時間は夢となっているのだ。

狐男に半ば脅迫されるような形で、三人は一旦休戦状態をつくった。

雄一郎はクリムゾンマスクに、敬一はシュヴァルツネーロに、それぞれ背負われて商店街を後にした。

三人の画策もあり、敬一がいなくなったという件は大事にならずに済んだのであった。

◇◆◇

月曜日、雄一郎と敬一はそれぞれヒーローに助けられた夢の話をクラスメイトに語っていた。雄一郎はクリムゾンマスクに、敬一はシュヴァルツネーロに助けられた夢となっている。

「やっぱり一番かっこいいのはクリムゾンマスクだよ!」

「何言ってるんだ、シュヴァルツネーロに決まってるだろ!」

ぶつかりあう二人の主張。両者一歩も譲らない。

「いやいや、狐男も見直したよ、俺は」

二大ヒーローの間に割って入ってくる第三勢力――狐男派も主張をより強固なものとしていた。

「悪者なのに、敬一を助けてくれたんだろ。憎いじゃないか」

「でも一番は、クリムゾンマスク!」

「いや、シュヴァルツネーロ!」

自分の好きな英雄、怪人たちを巡る少年たちのぶつかり合いはこれからも続いていくことだろう。

平成26年度『楓』 夏季号 中長編小説集

平成26年度『楓』 夏季号 中長編小説集

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-17

Copyrighted
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