平成26年度『楓』 夏季号 短篇小説集
信州大学文藝部楓機関紙『楓』の平成26年度『楓』夏季号短編小説集です。
収録作品
『記憶の図書館』 夢槻記著
『落日』 夜久著
『答え合わせをしよう』 みちを著
『私のポケットにはいつもあめ玉が入っています』 ゆういち著
『平穏な21時の平穏』 海映著
『大切なもの』 辺掴深遁著
『ドーナツの自由』 蔦屋著
『どうでもいい話』 如月☆英雄著
『世界をピン留め』 佐藤吹雪著
『スカー・コレクションSS ~Her ordinary holiday~』 井伊著
『今日も昨日も日曜日の夜』 茶子先輩著
『変な女』 志乃山こう著
『スパークリングサマー』 深海著
『記憶の図書館』 夢槻記著
私には、空白の一日というものが時々ある。寝て、次の朝に起きたと思ったら二日後になっているのだ。母親にそれとなくその記憶のない日の自分の行動について聞いてみたこともあったが、いつも通り、部屋に籠ってゲームやら読書やらをしていたらしい。一度病院にも行ってみたが、特に異常はないらしく、あきらめて普通に生活している
「千歳―。早く降りてこないと遅刻するわよー。」
「あっ、はーい。今行くー。」
時計を見たらもう七時四五分を過ぎている。今日は高校の入学式で、いつも以上にちゃんと髪を整えていたら時間を取りすぎたみたいだ。同中の子が一人もいない学校になっちゃったけど、友達、ちゃんとできるといいな。
「準備よしっ。お母さーん、早くいこー!」
病気のことなんて考えてもしょうがないもんね。兎に角、今日はクラスメイトの顔と名前を覚えるの頑張らなきゃ。
入試の時にも来たけど、やっぱり桜城高校の校舎はきれいだな。桜城高校自体は歴史のある学校だけど、つい最近校舎全体が建て替えられて、見た目がオシャレになったらしい。しかも、元々図書室は校舎の隅にこっそりとあったらしいが、今では図書館として独立しており、蔵書数は下手な公立図書館よりもあるそうだ。図書館には今話題の小説から論文、学術書まで多岐にわたって収められており、それ目当てで入学を決めた人も多いらしい。私も読書は好きだからここを受ける決め手の一つにもなった。
「それでは、これから入場します。名簿順に席に座ってください。」
私たちを並ばせていた先生がそう声をかけた。
*
入学式も無事終わり、今はクラス内で自己紹介タイム。次は私の番だから心臓がばっくばくだ。
「神代千歳です。よろしくお願いします。」
一礼をして椅子に座る。話そうと思っていたことはたくさんあったけれど、いざ自分の番になると頭から吹っ飛んでしまった。そのあとも、特にスベるような人もなく普通に自己紹介の時間は終わって、すぐに放課となった。今日は本当に入学式のみで、オリエンテーションなどは次の登校日から始めるそうだ。
「神代さん、さっき聞いてたと思うけど、うちは葛城有希。よろしくね。千歳ちゃんって呼んでいい?」
話しかけてきたのは隣の席に座っていた女の子。 染めたわけではなさそうな、少し色素の薄いショートヘアで、運動の得意そうな雰囲気をしている。
「いいよ。私も有希ちゃんって呼ぶね。」
それから少しおしゃべりをして、家に帰った。お母さんは今日、午後から仕事があるから入学式だけ見て帰ったので、一人で帰った。そのまま適当にいろいろとやって、気づくと十一時過ぎになっていた。
「明日は土曜日かぁ。どうせなら月曜日に入学式やってくれれば連続で顔を合わせるからクラスメイトを覚えやすくなるのに。」
そんな独り言を呟きながら、眠りに落ちていった。
*
「んっ。」
次の日、目を覚ますとおかしな場所にいた。真っ暗なのだ。しか
し、自分の体だけは発光しているかのように見えている。どこだろう、ここ。少なくとも私はこんなところを知らないし、昨日はベッドで寝たはずだ。取りあえず、ここがどこなのか知りたいが、黒以外の色が自分の体しか見えないので、動こうにもどっちに向かって動けばいいのかわからない。
行動に迷っていると、突然後ろからヒュンっと音が聞こえた。振り返ると、真っ白なスクリーンがいつの間にか現れている。
「何でこんなものが……さっきまで無かったよね?」
しばらく見ていると、スクリーンに映像が映った。目で見た光景をそのまま映しだしたような映像だ。眺めていると映像が動き出し、周りの風景が分かった。どうやら私の部屋のようだ。机の上に私の名前が書かれたノートが置きっぱなしになっている。
この視点の持ち主は、私が普段使っていない引き出しを開け、本を取り出す。その本は私が普段読むようなものと違い、何枚もの白い紙を重ねた上下に少し厚手の紙を置き、喉側を糸で括ってとめた、このご時世めったにお目にかからない装丁をしている。私はあんな本を持ってなんかいなかったはずだ。でもこの映像は私の部屋を映し出しているようだし私の机から本を取り出した。なぜ私の部屋にいるのか、などこの視点の持ち主に聞きたいことはたくさんあるのだが、私にはスクリーンの向こうに干渉する力を持っていない。出来ることと言えば映像を大人しく見ていることだけだ。
スクリーンでは、何やら本に文章を書き始めた様子が映し出されている。ここ最近にあった事件、社会情勢などを書いているようだ。政治家の失言が何項目も並んでおり、その隣に日本と近隣諸国との関係などが書かれている。今はW杯の試合結果や、それに関連したニュースを執筆している。
「なんでこんなものを……」
しばらく見ていると、本への書き込みは終了した。最後のページまでつらつらと情勢などを書いていた。この視点の人は本を閉じると、それを私の鞄に入れて、鞄ごともって部屋を出た。本当にこれは何者なのだろう? 不法侵入の上窃盗をして、堂々と廊下を歩いている。玄関にたどり着いたところでお母さんに声を掛けられたが、その言葉で私は混乱してしまった。
「千歳、出かけるの? この後雨が降るらしいから折り畳み傘持って行ったほうがいいわよ。」
「いつも鞄に入れてるから大丈夫。それにずっと外にいる気もないし。いってきます。」
「行ってらっしゃい。」
これが私? 私はこんな良く解らないところにいて見てるだけだから身体を動かしているわけではないのに。知らないうちに体が動いているとかなのか? 玄関にあったカレンダーがさっきちらっと見えて、今日が入学式の翌日だってことはわかった。でもそれが分かったところでどうにもできない。本当にこれが私の見た光景だとして、なんでこんな訳の分からない状態になっているのだろう。もし一日中このままだったら……。
1日中? もしかして記憶がなくなっているのはこの状態の時に意識としては寝ていたってこと? なら、これからわたしが何をするのかしっかりと目に焼き付けなきゃ。
気づくとわたしは目的地まで行っていたようで見覚えのある建物の前に立っていた。昨日見に来たばかりの、蔵書数が異常なほど多い図書館だ。昨日配られたパンフレットでは、図書館は基本的に毎日開いているが、今日明日は蔵書整理のために休館になっていたはず。閉まっているのに何の用があるのだろう?
わたしは、図書館の裏側に回り、壁を叩き始める。コンコンとリ
ズミカルな音をしばらく鳴らし、次に掌を壁に置くと、突然壁に穴が開き、人一人が丁度通れるようなスペースができる。穴の中は地下へ続く階段になっており、進んでいくと巨大な書庫へとたどり着いた。
書庫は普通の教室と同じくらいの大きさなようだが、天井までそびえる本棚が所狭しと並び、人がすれ違うのも難しいくらいだろう。本棚には持ってきた本と同じような装丁の本がずらっと並んでいる。わたしは奥の方にある、あまり本で埋まっていない棚に持ってきた本を並べると、隣に置いてあった本を手に取る。この部屋に置いてある本と同じような装丁の本だ。
「ホントに〈執筆者〉なんだねぇ。唯の言い伝えだと思ってたのに。」
話しかけてきたのは有希ちゃんだった。〈執筆者〉ってなんのことだろう? しかも此処のこととか私のこと、知っているような口ぶりだ。わたしは有希ちゃんに向き直ると口を開く。
「あら、貴方たちも似たり寄ったりの存在だったはずでは? わざわざこのような施設を建てるくらいですし。」
「そういうことは大人に聞いてくれないかな~。うちはよく知らないし~。今日は見に来ただけだよ、千歳ちゃん。」
そう言うと、にっこりと笑いながら有希ちゃんは踵を返す。結局何も分からなかった……。いま私の身体を動かしている人にも話しかけられないみたいだし、今度有希ちゃんに聞くしかないかな。
わたしはそのまま家に帰り、普段通りに生活して眠りについた。私も、一日中暗い部屋の中にいて疲れてもいないはずなのに、いつもよりすんなりと寝てしまった。
*
今日は月曜日。入学式後、初めての登校日だ。昨日は何事もなく目覚めることができたが、いつもと違って記憶がなくなっていることはなかった。だからこそ、おそらく私について知っているであろう有希ちゃんに今日聞いてみる予定でいた。しかし、いつ話そうかとタイミングをうかがっている内に放課後になってしまった。不自然な話しかけ方になるけど、もう待っている時間はない。
「ゆ、有希ちゃん。あのさ、土曜日に私と会ってたよね?」
聞くと、有希ちゃんは驚いた顔をする。私にそんなことを言われるとは思っていなかったということだろう。しかし、すぐに真顔になって、その話は場所を変えてしようと言い教室を移動した。
有希ちゃんについていった先は会議室だった。中には誰もおらず、しっかりとドアを閉じておけば秘密話にはぴったりな場所だろう。有希ちゃんは窓を背にして椅子に座り、私に何を聞きたいのか尋ねた。
「私について知っていることを知りたいな。〈執筆者〉とか何の事だかさっぱりだし。」
「ああ、千歳ちゃんは何にも知らないんだ。じゃあうちに伝わってる伝説を教えてあげる。たぶんこれ聞けば大体わかるから。」
他の人にこの話を教えちゃだめだからね、と前置きしてから、有希ちゃんは私に話し始めた。
*
はるか昔、日本にクニと呼ばれる人間の集団ができ始めたころ。奇妙な二人組が突如として当時もっとも勢力の強かったクニへ現れた。その二人はクニの者たちへと告げた。
「我等は争いに参ったわけではない。」
「我らは歴史を後世へ残すために存在するのだ。」
その言葉の通り、彼らは誰も知らないような文字で紙に起こったことを記していき、争い事には極力関わらなかった。人間が寿命で死んでいく中、年をとらず、病にもかからなかった二人は『化け物』と呼ばれるようになっていった。時の権力者は化け物の力を手に入れるために軍を送り込んだが、二人は悉く退けた。何度か同じことを繰り返した末に、彼らは権力者たちに干渉を受けないよう、各地を転々としながら暮らすようになった。
しかし、永き時と生きた二人にも死ぬ時がきた。二人は、自分が死んでも歴史の事実は残さなければならない、と考え、彼らが信用した二人へと仕事を託していった。託された二人は、〈執筆者〉と〈保管者〉に役割分担をし、自らの血に呪を掛けた。それぞれの一族の中で選ばれた一人はその役目を否が応でも受け継ぎ、絶やすことなく記録を付け続けるように。また、関係者以外の者にその存在を知られ、悪用されたり燃やされたりしないように。
そのため、二人の血を受け継いだ者のほとんどは何も知らずに一生を終えるが、役目を受けたものは二人が血に呪を掛けた土地に縛り付けられることとなった。そのものが自覚していようといまいと……。
*
「で、保管するために作った部屋を隠すためにこの学校や図書館があるってわけ。今代はうちらなんだよ~。」
話し終えると有希ちゃんは「どう思った?」と言っているような顔で私をにこにこと見てくる。事実、と言うには少し信じられないような話だけど、何故だかこれは正しいことだ、と直感で思った。
「じゃあ、私の記憶が時々なくなってたのって、その呪のせい?」
「そうじゃないかな? 〈執筆者〉は記録に個人的な感情を込めちゃいけないって、ご先祖様たちがいろいろと細工したって伝わってるよ。疑似人格を付ける、だとか。だから覚えてるはずがなかったんだけど。なんで土曜日にうちと会ってたことを覚えてるのかな?」
有希ちゃんはニコニコ顔から一変して、私を探るような目つきでこちらを見つめる。なんでそんな目で私を見るのさ。私はただ、自分に起こってることを知りたかっただけなのに。有希ちゃんは知らないでしょ? 自分の記憶が次に起きたら消えてるかもしれないっていう恐怖とか。
「一昨日、起きたら映画みたいにその日にやってた行動が見れたの。多分そんな状態になったのは初めてで、次の日も記憶に残ってた。図書館の地下に行ってたのも知ってるよ。行き方とか、何があるのかも含めて……ね?」
もやもやした気持ちのまま喋ったら、なんだか意味深な言い方をしていた。これ以上有希ちゃんと話していると思ってもいなかったことを話し出してしまうかもしれない。今聞いた話をきちんと自分の中で整理するためにも、一度家に帰って考えよう。挨拶をして、私はさっさと帰ることにした。後ろから有希ちゃんが何かを言っていたが、それもどうせ挨拶だろうと無視をして。
千歳の去った教室では、有希が一人で物思いに耽っていた。なぜ、彼女は知ることができたのだろうか、と。有希は幼いころから自らの役目を自覚していたので、伝説も事実だと実感できたため、早くから書庫を探し出し、内部の文献を読み漁ってきた。昔の物に
は自分たちに関する文献も多かったため、〈執筆者〉や〈保管者〉への影響も知識として頭にあった。両者とも、死ねばその一生が本に記述され、一人一冊ずつ書庫へと並べられていく。そちらもしっかりと呼んだが、過去の〈執筆者〉の中で記憶をなくさずに、自らの行動について知ることのできたものは居なかった。では、なぜ千歳だけが知る機会を得たのか? 考えても疑問は解けない。何しろ、このような事例は初めてなのだ。何にせよ、千歳への監視をしっかりと行い、危険な目には合わせないように守っておくしかないだろう。そうやって考えることを打ち切ると、有希も会議室から出て帰路に就いた。
*
私は繁華街を歩く。有希ちゃんとの会話の後、まっすぐ家に帰る気にもならなくて、普段はあまり来ないところまで来てしまった。もう七時も回って、暗くなってきた時間帯だが、辺りは街灯やネオンサイン、車のヘッドライトのおかげで昼間のように明るい。そろそろ帰ろうかとも思うが、このあたりの地理には詳しくないために帰り道が分からない。
「すみません。桜城高校までの行き方を教えてくださいませんか?」
道行く人はなんだかけばけばしい人が多くて聞きずらかったが、背に腹は代えられないので一年分くらいの勇気を振り絞って桜城高校までの道のりを聞き出した。案外行き方は難しくなかったようで、大した時間もかからずに校門前まで到着できた。
「何してるんだろう、あの人たち?」
学校の敷地内に光が見えたため、気になって中を柵越しに除くと、どう控えめに見ても学生には見えない人たちが歩き回っているのが見えた。皆一様に黒いスーツを着ている。一瞬セキュリティ会社の人が何かの点検をしているのかもしれない、とも考えたが、地面や壁を殴っているので、それはあり得ないだろう。話し合っているような声もするが、少し距離があるために断片的にしか聞こえず、何を話しているのかまでは解らない。
「おい、何を見ている。」
後ろから突然声を掛けられ、思わず飛び上がってしまった。振り返ると、そこには敷地内での黒服の人たちと同じ格好をした男性が立っていた。同じ服装な上、そんな質問をしてきたということは中の人たちの仲間だろう。学校内のことなど気にせずにさっさと帰ってしまえばよかった。信じたくもない話を聞いたその日にまた違うことに巻き込まれるだなんて。今日、お母さんは日付が変わるくらいの時に帰ってくるっていたからまだ余裕があるけど、もうお風呂に入りたい。有希ちゃんと話した時に冷や汗をいっぱいかいていたから。
「いえ、何でもありません。偶々通っただけですよ。」
それだけ言って男性の横を通り抜けようとするが、男性は私の進路に立ち塞がってくる。抗議しようと顔を上げたところで、腹部に強い痛みを感じると同時に意識が遠ざかっていった。
*
「うっ……痛い……。」
腹部に感じる鈍い痛みで目が覚めた。身体が、土曜日とは違った意味で動かせない。何とか手足の方を見てみると、縄で縛られている。口にも猿轡的なものがつけられているようだ。部屋も自分の部
屋ではなく、三畳の小さな畳敷きの部屋で、窓は高いところに一つ、扉は部屋に似合わず金属製の重そうなものが窓と反対側についている。人を閉じ込めておくには都合のよい部屋だな、というのがパッと見の感想だ。しかし、私にはこんなところに閉じ込められる原因になるようなことの心当たりはない。どうにかして脱出したいが、あいにくと私はどこかの小説のキャラのようなすごいスキルを持っているわけではないし、ここが何処だかわからない以上、いつ出してもらえるかも解らない。出来ることと言えば考えることと寝ることだけだ。
「気が付いたか。こちらの質問にきっちり答えてくれれば悪いようにはしない。家に帰りたければ素直に答えることだな。」
いきなり扉から私を気絶させた男が入ってきて、そんなことをのたまう。マジで意味が解らないのですが。まず猿轡のせいで話せる状態じゃない上に、私は別に何かの秘密を知っているような大層な人間じゃない。大体何を知りたいっていうんだよ! そんな気持ちを込めて睨み付けていると男は不愉快そうにフンッと鼻を鳴らしてその質問を口に出す。
「『本』の在り処とたどり着き方だ。それさえわかればお前に用はない。直ぐに家に帰してやろう。」
「はい? 本なんて図書館に行けばいくらでもあるでしょう? わざわざ人を攫ってまで聞くようなものじゃないですよね。」
私に質問してきた後で猿轡を外し、発言を促してきたので心なしか馬鹿にしたように言う。本がある場所とか図書館に決まってるじゃんか。そんなのもわからないなんて馬鹿なのかな? 今がいつなのかわからないけど、絶対お母さんは心配してるから本当に早く帰りたいんだけど。
「ふざけるな! 我らは知っているのだ。あの地のどこかに歴史書が眠っていることを! 貴様は守り人と話していたのだから当然在り処ぐらい解るだろう!」
唾を飛ばしながら興奮して叫ばれた。『守り人』って今の話からすると有希ちゃんのことだよね? ってことはこいつが知りたいのは土曜日に行ったあの場所のことか。
頭がすうっと冷えていく。今までは拉致されて、こんなところに閉じ込められて脅されているってことで恐怖くらい感じていたけれど、なぜ連れてこられたのかが分かったら急にどうでもよくなった。こんな手荒な真似を取ったということは、その情報に拉致をするリスク以上のメリットがあったということだ。つまり、あの部屋の存在を知っている人は何人もいて、そんなのに関わってしまったがためにこんな目に遭っているのだ。
「ふふっ。」
「あ? 何がおかしい。」
「いいや? ただ、世界は本当に理不尽にできてるなってね。私はあなたの言う本なんて知らないし守り人っていうのが何のことかもわからない。何も知らないのだから早く家に帰らせてくれないかな。お風呂にも入りたいし。」
「てめぇふざけたこと抜かしてんじゃねーぞオルァ。こちとらいつでもてめぇの命くらいど――――。」
私は知らんふりをすることに決めた。自分でも信じたくないようなことなのに、ここで「図書館の地下に秘密の書庫がありますよ~。」などと言えばそれは受け入れることと同義だから。その結果、男は解りやすいくらいにキレて殴られそうになった。しかし、実際に殴られることもなく、男が最後までセリフを言い切ることもなかった。なぜなら、部屋の扉が破壊されると同時に男は気絶させられたから。今やってきた人は私を助けに来たのだろうか? 今来た人
は中性的な顔立ちに執事服を着用していて、手際よく縄を外してくれている。すべて外し終わると私を安心させるようににっこりと笑うと、私の手を引いて走り出す。周囲を見渡すと廊下に高そうな調度品が置いてあるうえにその廊下がとても長いので、金持ちの屋敷の中だと解った。
「あなたはどうして助けてくれたんですか? 助けに来るような理由なんて一つもなかったと思うのですが。」
なんとか屋敷の警備を掻い潜って脱出し、彼の運転する車に乗っている時に私はそう聞いた。正直助けてくれたから恩人ではあるけれど、その理由が解らないのでその執事服も相まり怪しさが溢れている。
「これは失礼いたしました。私、葛城有希様の専属執事の城之内と申します。此度はこちらの不手際により危険に晒してしまい、申し訳ありません。有希様より、神代様を無事に救出し、家へ送り届けるようにとの命を預かり、こうして連れ出した次第でございます。気になることはおありだと思われますが、また日を改めてばを設ける、と有希様はおっしゃっておりました。」
「そうですか。ありがとうございます。有希ちゃんにはその時にじっくりと話を聞かせてほしい、と伝えておいてください。」
話し終えると同時に車は私の住むマンションの前に止まった。
*
それから、どうしたのかはあまりよく覚えていない。ただ、お母さんが私を見て「よかった、よかった。」と繰り返しつぶやいていたことが耳の奥に残っている。
有希ちゃんに今日のことについて説明をもらうなど、やることは目の前に山積している。片付ける気力を取り戻すためにも、今はゆっくりと眠ろう。
この時、まだ私は気づいていなかった。今までの、退屈だが平和な日常は崩れてきており、もうそこには戻れないことを。
『落日』 夜久著
恋の幸せが十だとしたら、恋の苦しみはどれほどなのだろう。
そんなこと、付き合い始めるまで思ってもみなかった。両想いになれば絶対に幸せになれるものだと私は信じて疑っていなかったし、私の恋人である彼がそれを崩すようなことをする人ではないとと長い付き合いの中で分かっているつもりだった。実際、彼は浮気をしなかった。私にいつも優しくしてくれる。ありったけのものを注いでくれている。
私は、それに応えることが出来ているのだろうか。
私は、彼にふさわしい人なのだろうか。
そんなことを私はずっと考えていた。氷を入れたふたつの同じ形をしたグラスにまだ生ぬるい麦茶を注ぐ。からん、と氷が音を立てた。それらを両手に狭い台所から戻ると、彼は眺めていたスマートフォンの画面から顔を上げて私を見た。
グラスを渡すとありがと、と言われたけれど、彼の手がグラスを掴む私の手に添えられたままで止まる。
「どうしたの」
返事はない。ただスマートフォンを床に置いたもう片手がまた近づいて、グラスを私の手から奪う。私の手に最初から触れていた方はそのままに。そうして簡単に絡め取られる私の手。抵抗する理由はなかったからそのままにしていたけれど、どう反応すればいいかわからなくて黙り込むしかなくなる。まじまじと視線を注がれているのが分かった。そこで気が付く、――駄目、見られたくない。
小さく息を詰めて今更手を引こうとする。しかし案の定上手くいかない。ほんの少し、自分用のグラスの水面が揺らいだ程度で。
「怪我してる」
独り言のような素朴さで落とされた言葉だから、尚更に羞恥心がくすぐられる。人差し指に巻かれた絆創膏にそっと指が這わされて、その内側の、血が小さく染みを作っているガーゼが透けている場所まで触れられた。
「こんなの、怪我のうちに入らないよ。ちょっと包丁で切っちゃっただけだから」
半ば無理やりに手をひっこめて、軽く揺らす。大丈夫と言う代わりに。要らない心配はさせたくなかった。それを口実に甘えるほどあざとくはなれなかった。ただ、心配をさせないことが今まで心配させ通しだった私なりの、優しさであり思いやりだった。
料理の練習を本格的に始めたのは彼と付き合い始めてからだった。一人暮らしだったからもちろん多少はしていたけれど簡単なものばかりだったから、恋人に胸を張って出せるほどのものは作れなかった。だから、彼に作りたいと思って少しずつ練習していて、たまたまその途中に少し深めに切ってしまっただけ。それだけのこと。心配されるほどのことじゃない。逃げるように視線を外した。
そっか、と返す穏やかな音も、彼の柔らかなまなざしも、咎めているのではなく純粋に心配しているのだと分かる。いやというほど分かっている。それなのに、居心地が悪かった。
私だけに注がれてほしいと付き合う前まではあれほど思っていた彼の優しさ。それがいつのまにか私の器から溢れて、気が付けばどうしようもなくなっていた。
昔の私はなんて傲慢だったのだろう。英雄という名前だからと子供の頃からヒーローなんてからかわれている、本当に私にとってはヒーローみたいだった彼の優しさは私が独り占めしていいものじゃなかったのだ。彼は変わらず他の人と接していたけれど、恋人が出来たから優先順位が出来てしまった。私みたいな、浅ましくてずるい女のために。
独り占めしたいと願ったのは、他でもない私だった。それなのに、
こんなにも今は彼の優しさを突っ返してしまいたくなっている。面倒だ面倒だとぼやきながらも、いつも面倒臭い私に付き合ってくれる彼の優しさが、苦しくてたまらない。大切な壊れ物を扱うように私に触れるその掌が、いたい。彼というぬるま湯の中に浸かりすぎて、ふやけてやぶけてしまいそうになってしまう。彼の優しいところが一番好きなのに、その優しさに一番苦しめられるだなんて、ひどすぎる。
めくるめく思考で泣きそうになりながら、震えかけた声をぐっと抑え込む。私がうんと頷いたきり、会話は自然と途切れた。それをいいことに私は居心地のいい沈黙に逃げた。彼との沈黙は心地良いから好きなんだ、と言い訳をしながら。そのくせ、DVDで映画を観る準備をしながら。
夢を見た。私が彼と掴み合いの喧嘩の挙句に別れる夢を。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。少し身じろぐと何かが肩にかかっていた。彼のカーディガンだ。隣に座って今度は本を読んでいるらしい。もうじき終盤だ。テレビ画面では、序盤で喧嘩ばかりだった男女が甘酸っぱいやりとりを繰り広げている。
好きな人に優しくしたいっていう当たり前の感情から生まれた優しさを拒むことは、殴るよりも暴力的だ。そう言っていた友だちの声がふと、蘇った。私は彼に暴力よりもひどいことをしたいと、願っているのだろうか。
目立った喧嘩をしたことがない私たちは、お互いに優しさを注ぐばかりの私たちは、喧嘩ばかりのカップルよりも、DVが日常のカップルよりも、相性が悪いのかもしれない。そんなことをいやでも考えてしまう。はっきりとした根拠よりもあてになる直感が、そんなことを告げているように思った。
思考回路の導線を断ち切るようにDVDを止めてテレビの電源を落とすと彼は自分の世界から戻ってきたようで、私のことをちらりと見て小さく笑った。
「爆睡してたけど、疲れてんの?」
「そんなことないよ。観たことがあったやつだったから、飽きちゃって。それよりこれ、ありがとう」
「……どういたしまして」
肩にかかったカーディガンを彼に渡した。きっとお互い、曖昧に、他でもない自分自身を誤魔化すような笑い方をしているのだろう。やわらかな不和。優しい音色の不協和音。それを誰よりも私たちが一番よく分かっていた。
ねえ、ヒデ君、と脈絡無く呼びかけた。指先が震えて、それを隠すために軽く握りこむ。きっとヒデ君にはわかっているのだろうけど。
「ただの幼馴染に、戻ってくれませんか」
どうしようもなく声が震えた。それでもこの恋に引導を渡すのは私じゃないと駄目だと思った。悪いのは私じゃないといけない。彼はなにひとつ、悪くはないのだから。そんなことは自己満足でしかなくて、かえって彼を傷つけてしまうかもしれないのに。
彼は泣きそうにくしゃりと顔を歪ませて、そうだな、と呟いた。彼がゆっくりと立ち上がってカーディガンを羽織った。響くのは衣擦れの僅かな音ばかり。耐え切れない沈黙はまたね、と声をかけて破った。ん、と彼の声が聞こえて、液体がぱたり、とフローリングの床を叩く音が続く。そこから世界に音が戻ったように、彼が立ち上がってフローリングの床を歩く音、靴を履いてトントン、と爪先で床を叩く音、扉を開ける音が流れてゆく。
見たくはない。そう思って床の筋を数えるように見つめていたのに、最後の最後で玄関へと顔を向けてしまった。そこに一瞬見えたのは、
きっとコンマ数秒前にはこちらを見ていたのだろう角度の彼の顔。表情は分からない。これから先も、きっとあの一瞬彼が何を思ったのかを知ることはできないのだろう。
アパートの扉と彼の背中の曖昧な輪郭によって切り取られた空は、とうに日が落ちてしまって薄暗かった。
『答え合わせをしよう』 みちを著
彼女の話をしようと思うんだ。まあそんな固くならずに、気楽に聞いてくれればいい。大した話じゃないんだ。ただ、どうしても君に聞いてほしくて。
そう言って、先輩はもともと細い目をさらに細めるいつもの笑い方をした。ちょっと困った風な、人の好さそうな笑み。そのわりに口元は笑ってなくて、『彼女』というワードからも真剣な話なんだろうなあというのを感じた。蒸し暑い資料室は相変わらずうだるような温度で私たちを苦しめた。じわり、嫌な感じの汗がにじむ。慣れているとはいえ、夏場にこの部屋を、しかも長時間利用するのはあまり好ましくないように思った。しかし先輩はこの、古びてほこりくさい資料室を選んだ。
「ごめんね、暑いでしょう」
汗をかいたペットボトルを私に差し出して、先輩も勢いよくペットボトルの中身に口をつけた。うっすら汗を刷いたすべらかに綺麗な首筋が二度、三度大きく動く。ありがとうございます、小さく頭を下げて私も同じ水分をとる。旨みと宣伝される濁り成分だろうか、やけに苦くのどに張り付いた。
今年も当然のように夏はやってくる。夏の光線は室内まで届かず窓際でわだかまり、だというのに熱をまき散らす。窓際に置きっぱなしの紙は日の色に汚らしく染められていた。
奇妙なほど暗い部屋で、先輩の声だけが響いた。
彼女、って言って誰かわかるかな。ああ、その顔じゃ分かってるみたいだね。正直あまり名前も出したくないって感じ? はは、思ったことがかなり顔に出るんだね。二年間一緒に部活やってたのに知らなかったや。
じゃあ、彼女の話をするね。有名だよね、彼女。まず見た目がすごいよね。細面の吊り目、しかも長い黒髪っていう日本人形顔っていうか。なんだろう、美人ってわけでも、可愛いかんじでもないんだけど、なんだか人目を引くっていうか。でも、そう感じてたのはわりと少数だったみたい。だってうちのクラスの人で彼女のこと知らなかったって人が半分以上いたもん。あの一件以来みんな知ってるだろうけどね。
私は彼女とは高校で知り合ったんだ。小学校から同じだった友達と今の部活入って、その時に彼女を知ったの。いやあ、びっくりしたね。だってすごく引力をもっている、っていうか。目が離せなくなっちゃったもん。失礼だったと反省してるんだけど、その時にじーっと見つめてたんだ。そしたら仏頂面で私を見て
「何」
って! すごく愛想がない人なんだなあって思った。でももしかしたら先輩かもって思って、すぐに謝ったんだよ。そしたら、無言でどっか行ってしまったから、ああ先輩だったのかしかもすごく怖い先輩、どうしようって思った。そしたら一年生だったから、今度はこの人と三年間やっていけるのかなと心配になった。
それは杞憂で終わってくれなかったよ! もう、思い返すだけで胃が痛くなるわー。何の因果か同じパートになっちゃうし、先輩はいい人だったんだけど彼女は愛想なくて先輩怒らせるし、私は中間管理職かってかんじだった。あの時は本当にストレスでハゲるんじゃないかと思ってた。
でもさ、話してみると彼女はすごくいいやつだった。そりゃ、愛想はなかったしいっつも無表情で怒ってるみたいだったけど。話してみれば頭の回転早くてちょっと毒舌ぎみな面白いやつだった。他のパートで彼女のことよく知らない人に「あいつとよく話せるよね」って言われてたけど、声を大にして言いたかったね、お前ら見る目なさすぎ! って。ちゃんと話せばよかったのになあと勿体なく感じてた。でも
「こんな風に毒吐けるのはあんたの前だけだわ」
って彼女言ってたから、部活の人間関係になじんでる彼女は想像できない。あはは。
そんな感じだったから、彼女の友達は私くらいだったわけさ。それは一年たって、二年目の夏も同じだった。その頃には君もいたでしょう。彼女のこと、どう思ってた? とっつきにくい先輩、そうだろうね。パート違うとそもそも話さないしね。彼女自身、交友関係を広げるのがとても苦手と言って
いたし、最低限のコミュニケーションはとれてたからいいかなって楽観視してた。
その半年後だ、彼女が校内で消えたのは。
ジイジイという蝉の声がふいに耳に飛び込み、私ははっと息を吸った。知らず知らずのうちに息を止めていたらしい。話の間中、時間が止まったように感じていた。というか、時間という概念自体が消えていたというのが近いのか。それが、話の切れ目に急に流れ出して、私は時間の流れに押し流されそうになる。胸に手を当てて、暴れる心臓を抑えた。
「どうしたの、大丈夫?」
「はい」
先輩に変化はなかった。まだ、ちょっと困ったような笑みで、しかし本当はおかしくもなんともないのに。細く流れた風で、色の変わった紙がかさりと鳴った。埃くささがむっと鼻についた。ぽたり、汗がしたたる。
「水分補給はちゃんとしてね。保健室とか洒落にならない」
そういう先輩が保健室通いをしていることを、私はとうに知っている。受験生に多いらしい。ストレスとか、同級生のひがみとか、あせりとかで。
「はい」
私は頷いた。何も知らない顔で。私が知っていることを知っているだろう先輩もほほ笑んだ。ちょっと困ったような顔で。
どこまで話したっけ、ああ、彼女が消えたってとこまでだね。校内でものすごい話題になったから君も覚えてるでしょう。もう何年かは噂になるだろうね。
でもその噂ってすごく尾ひれついてるからさ、本当のことを話しておこうと思うんだ。
たしか、あと数日で冬休みになるかなあってころだった。休みの日で、午前中に部活の練習が入ってて、早めに終わったんだ。私も友達の家行こうか買い物に行こうかって他のパートの子と話してた。そしたら彼女に呼び止められてさ。
「少し話があるから、残って」
突然そうしたのかって思ったんだけど、ちょっと練習したいのかもしれないと思ったんだわ。だから友達の誘いを断って、ケータイいじりながら部室に人がいなくなるのを待ってたの。彼女はぼんやり窓の近くに立ってて、心ここにあらずって風で、もしかしたら練習とかじゃなくて相談したいことがあるのかなと思った。
「こっちに、来て」
人がいなくなったのを執拗に確認してから、彼女は私の手を引いて歩き出した。
「どうしたの」
って聞いても返事はかえってこなくて。雪が降りそうなくらい寒くて、乾燥してる日だった。ぐちゃぐちゃに踏まれた霜柱がいっぱい残ってる、薄曇りだったなあ。そんなことはよく覚えてるんだけどね、彼女のことがいまいち記憶にないんだ。掴まれた腕が痛いとか、マフラーしてままだったとか、どうでもいいことばっかり覚えてて、彼女の表情とかど,こに向かうのかなんで聞かなかったのか、今だったら普通に聞きそうなのにと思うんだけど、その時は本当に全然疑問に思わなかった。彼女がすごく切羽詰ってるかんじだったからかな。
ようやく足を止めたのは、ここの前だった。そう、この資料室。今にもまして人気がなかった。そもそも休日だから、校内自体に人が少なかったんだけど。黒いカーディガンのポケットに入ってた鍵で扉を開けて、せかされるように部屋に入った。彼女の顔はいつにも増して真っ白で、白を通りこして青かった。
「あんたに話さなきゃいけないことがある」
だから彼女にそういわれた時はそうだろうなって思ったよ、いかにもトラブルに巻き込まれてますって顔だったもの。
「あんたを巻き込むのは本当に心苦しいし話したところで何の解決にもならないってわかってる」
「そう」
「だけど聞いてほしい」
それきり黙ってしまった彼女は、まだ何かを迷ってるみたいだった。そのころになって、ようやくさっきみたいなことに気付いた。何でここに連れてきたのか、とか早く話せとか。だから聞いたんだ。何でここなのって。
「話せない」
じゃあ、何を話したいの。
「……すぐには話せない」
それから何を聞いても、「話せない」の一点張りだ。さすがに私も腹が立ったの。聞いてって言われて寒いなかきたのに、話せないってどういうことなの。しかも彼女はすっごいしかめつらのまま。友達との休日をあきらめたしうちがこれなのかと、すごく腹が立ったから
「もう帰る」
って、持ったままの鞄を持ち直して、彼女に背をむけた。そしたら引き止める言葉もないから、本当に帰ってしまったんだ。だから彼女がどんな顔をしていたのかわからない。もちろん、それが彼女を最後に見たなんて思いもしなかった。
次の日学校行ったら彼女がいなくなったって、大騒ぎになってた。
靴も鞄も校内にあるのに、彼女がいない。家にも帰ってないし、校門を出た形跡もない。うちの高校、門に監視カメラついてるらしいよ、私も彼女が失踪するまで知らなかった。
本当に、彼女の姿だけ、消えてたんだ。
もちろん、大問題になった。全国紙に載ったんじゃなかったかな。二日たっても一週間たっても、ひと月たっても彼女は帰ってこなくて、あれだけ話題になってたのにいつしか誰も話さなくなって、何となく彼女について話すことがタブーみたいになった。今の一年生にいたっては、学校の怪談みたいな認識だ。笑っちゃうよね。だって本当に友人が一人消えたっていうのにさ! はは、はははははははは。
「先輩は、私に何をおっしゃりたいのですか」
けたたましく笑いだした先輩は異様な雰囲気で、私は思わず口を挟んでしまった。けらけらと楽しそうに笑っていた先輩は、笑いを止め、代わりににいと口の端を釣り上げた。笑みににたそれは、ぞっと背を凍らせた。
「だって、君、『彼女』でしょう」
その顔のまま、平然とのたまった。
「そうとしか思えないんだ、だって去年のきみは丸顔で可愛い普通の子だったのに今は彼女と同じ顔なんだもの、生き写しだ。整形しなきゃそんな正反対にはならないって。何となく先輩方からのあたりきついと思わなかった? だって同じ顔なんだもの、そりゃあ怖いわ。ああ彼女を見ているとしか思えない、その細面に釣り目! どうしたの、あの時なにがあったの、私がちゃんと聞いていればあなたは消えなかったの、ごめんなさい、ごめんなさい、あなたのことをちゃんと見てあげられなくて、あなたを孤独に追い込んでいて、だってあなたが他の誰かと話すなんて耐えられない、だからあなたのデマを流した、陰であなたを嫌う人を煽動したわ、ああごめんなさい」
まず、私の顔は変わっていない。丸顔、たれ目ぎみの普通の顔だ。『あの』先輩のように、まるで日本人形のような顔立ちではない。一部だけ冷静なまま、私はそう言おうとした。しかしそれは言葉にならなかった。口をふさいだのは強烈な吐き気。
先輩は壊れたように「ごめんなさい」を繰り返した。セミの合唱と暑さとまざり、ひどく気持ち悪い、頭痛を催すような不協和音だ。ぐわんぐわんと視界が揺れて吐き気がして足が震えて立ってられない。膝をついた私を先輩はぐわんぐあんとゆする。視界の端に長い、長い黒髪が揺れる。私のもの
ではない、先輩のものもない、誰かの髪。
「じゃあ、あの日の答え合わせをしようか」
黄ばんだ紙が、ぼうと音をたてて燃え上がった。
『私のポケットにはいつもあめ玉が入っています』 ゆういち著
あの日、私は部活を早くに切り上げ、郊外の電車に乗りました。かなり空いて、私は車両の一番端の席に座りました。そして小さな子供とおかあさんも私の隣に座りました。すると、
「この電車、○○駅に行きますか。」
とお母さんは私に尋ねました。
「ああ、行きますよ。」
私は答えました。
電車は動きだすと、テストが近かったので英語の参考書を開きました。その時です。
「はい。」
男の子は突然何かを私に渡しました。それは、一粒のハイチュウでした。
「ありがとう。」
お礼を言ってそれをもらいました。私は二年近く電車通学をしていたけれど誰かに何かをもらった記憶がなかったのでこんなこともあるんだなあと思いました。ずっと昔、十年くらい前におばさんに何か、小さいお菓子をもらったような記憶があるような、ないようなという感じです。私はハイチュウを口の中でころがしながら英語の参考書を読みました。ふと辺りを見渡すと、車内を夕日が赤く照らしていました。
何かちょっとでもお返しをしたいなあと思い、バックの中のものをごそごそ探りましたがいいものが何も入っていないということに気付きました。二人が○○駅で降りるときにもう一度ありがとうございました、とお礼を言いました。
それ以来、私のポケットにはいつもあめ玉が入っています。不意に出会う誰かの親切のために。
なぜあめ玉かというとハイチュウやチョコレートだとすぐに自分が食べてしまうからです。またあめ玉は子供でも大人でもあげられるような気がするからです。
それから、あめ玉はお返しをするためだけに持っているのではありません。駅で偶然あった中学、高校の友達や、バスの中でたまたま何かの話をした人などに
「あっ、そうだった。」
と言って
「はい。」
と渡すのです。
突然、誰かの親切に出会うことがあります。偶然、懐かしい友達に会うことがあります。見知らぬ人からもどこへ行くのと聞かれたり、荷物重たそうだね、と話しかけられて打ち解けて話すことがあります。そんな人へ、私の気持ちを伝えるために。私のポケットにはいつもあめ玉が入っています。
『平穏な21時の平穏』 海映著
「月がミラーボールになったら、幽霊とかどうでもよくなると思わない?」
陽がどっぷりと沈み切った暗闇の中。川のせせらぎのみが静かに響くコンビニの帰り道。美月は中学二年生にしては小柄な身体を弾ませて、楽しげに尋ねた。
「そうだね。うん、まさに美月の言う通りだと思うよ。さすが美月。こんなに正しい美月を妹に持てた僕は世界一の幸せ者だ」
美月の言葉に棒読みの答えを返したのは、三つ上の兄である秀介だ。
そんな気のない反応をする秀介を、美月はふくれっ面でにらみつけた。
「もー、お兄ちゃん真面目に聞いてよ! 月がミラーボールになるんだよ? 毎晩お祭り騒ぎで楽しいじゃん!」
へへ、と笑って両手を広げる美月。
秀介は美月の楽しそうな声色を受けて、珍しく口元に手をやって、真面目に返答を考え出した。
「美月はバカでいいね」
考えた結果が答えに生かされないのは、秀介の性格である。
「失礼な! バカじゃないよ!」
美月の、むぅ、というむくれた声
秀介は穏やかな目で美月をみやり、その頭へ手をやる。くしゃりと頭をなでた。
「バカな子ほど可愛いっていうからね。褒め言葉だよ」
「全然褒められた感じしない! 私バカじゃないし、もう複雑怪奇な大人だよ!」
精いっぱい背伸びをして、フフンと薄い胸を張る。
「ふーん、それじゃあ複雑怪奇な美月ちゃんに質問。もし僕が今死んで、明日幽霊になって出てきたら、どうする?」
「びっくりする」
「びっくりするくらい単純だね」
秀介の、思わず漏れる苦笑い。
「単純じゃないもん! 複雑な話だっていっぱい知ってるよ!」
「ほう。聞くだけ聞こうか」
秀介の疑わしげな視線に、美月は得意げに人差し指を立てて、語り始めた。
「最近の幽霊に足がちゃんとあるのって、人権保護団体が『足のない幽霊は身体障碍者をバカにしてる』って主張したからなんだってさ。トモちゃんが言ってた。まったく、困ったもんだよね」
「トモちゃんがね!」
とんだデタラメを信じこまされたものである。
「あと、幽霊に生気が感じられないのは、人の少ない夜にしか外に出られないからなんだって。引きこもりニートと同じ現象になってるらしいよ」
「お兄ちゃん、トモちゃんとやらを引きこもらせた方が良いと思うな」
「そういえばトモちゃん、この前男の幽霊に襲われかけたとき、お
っぱい見せたら許してくれたんだってさ。勇気あるよね」
「幽霊だぞー」
「めっ!」
美月はぺしっと、秀介の額を軽くたたいた。
はは、と秀介は額を抑えながら、軽く笑う。
「それで美月、幽霊怖いのは紛れた?」
秀介の質問。美月は、「もー!」と頬を膨らませ、ぷんすかという擬音語が聞こえてきそうな勢いで文句を言った。
「もー、言っちゃダメだって! せっかく忘れかけてたのに!」
「忘れたいなら、そもそも幽霊を話題にしちゃいけないと思うよ」
「いいなお兄ちゃんは。幽霊が怖くないなんて。絶対人生得してるよ」
ふくれっ面で呟く美月。しかし、秀介は得意げになるわけでもなく、少しだけ悲しげに苦笑いを浮かべた。
「僕は、美月がうらやましいけどね」
「えー、なんでさ。幽霊が怖いって、恥ずかしいじゃん」
「そんな、恥ずかしいことじゃあないって」
「でもクラスのみんなも、幽霊なんて怖くないって、怖いのは子供だけだって言ってるよ」
「いやいや。幽霊が怖いのは正しいことだし、良いことなんだよ」
美月の頭上に、大量のはてなマークが浮かぶ。
秀介はそんな美月を諭すような穏やかな笑顔で、言った。
「だって、考えてもみなよ、美月。……幽霊って、死の象徴なんだよ。死を恐れない人間なんて、ただの欠陥品だよ」
僕みたいに。付け足しかけた言葉を飲み込み、秀介は笑ってみせた。
しかし、美月の口は引き結ばれたまま、開こうとしない。街灯のない暗闇の中に、川を流れる水のせせらぎと二人の足音のみが響く。
「クラスのみんなだって、幽霊を怖がることが正しいことだって知らないから、強がってるだけなんだよ。Hなことに興味がない、とか、好きな子がいない、みたいに。そういえば、美月は好きな子いるの?」
つとめて明るく、話題転換を図る。
普段の美月ならば「いないよ」と素知らぬそぶりを貫き通すところである。
ところが、今の彼女からは言葉が発せられない。
美月は先からずっと、引き結んだ口元に手をやって悩むそぶりを見せている。
どうしたのだろう。彼女の様子に秀介が首を傾げたところで、美月はその小さく柔らかな唇を震わせた。
「バカな子ほど、可愛い。だよ」
今度は、秀介が頭上に疑問符を浮かべる番だった。じとーっと、冷たい目を向ける。
「なんか知らないけど罵倒されてる?」
「ち、ちがうよっ」
ぶんぶんと手をふって、秀介の疑いを否定する。
「バカっていうわけじゃないの。さっき、お兄ちゃん、自分のことを欠陥品だって言ってたでしょ」
秀介は、目を丸くした。あえてそこは口にせず飲み込んだのだが、美月には伝わってしまっていたらしい。兄妹という極端に近しい関係は、侮れないものである。
そんな風に感心している秀介の横で、美月はにっこりと笑って言った。
「バカな子ほどかわいいっていうように、お兄ちゃんも、欠陥があった方が、私は好きだな」
瞬間、秀介は目を丸くし、思わず口をつぐんだ。
沈黙。
やがて、嬉しそうに苦笑いを浮かべて、口を開いた。
「……今初めて気づいたよ。バカな子ほど可愛いって言葉、褒め言葉じゃあないね」
「ほらー、だから言ったじゃん」
不満げな目を秀介に向けて言って、ツンと視線を反らす美月。
秀介は、そんな美月の頭へポンと手をやり、柔らかい手つきでなでた。
そして、自分の耳にだけ届く音量で、「ありがとう」と呟くのだった。
『大切なもの』 辺掴深遁著
この世で最も大切なものは何か。富、名誉、命。そんなことを言う人は今の時代一人もいないだろう。愛、と答える人はまだいくらかいるかもしれないが、そんな人も昔ほど多くはない。では何か、と問う人も今の時代にはほとんどいないだろう。そんなもの決まりきっている。
紐だ。
いつの時代からか、人が生まれながらに持っている長さ一〇センチほどの一本の紐。それはその人にとって唯一のかけがえのないものであり、それを失うことは死を意味するも同然である。また紐を少し切り取れば何だって手に入るし、どこへだって行ける。このご時世、必要不可欠と言える情報さえも紐があれば手に入るのだ。だから最も大切なものは紐。僕は常々そう思っている。
人は生まれながらに紐を一本しか持っていない。過去には二本以上の紐を手にするために詐欺や強盗、殺人などが横行していた時代もあったようだ。それを防ぐために政府が打ち立てた打開策が『賭け』というシステム。現在国内に二六〇ほどある政府公認の『賭場』と呼ばれる場所でのみ『賭け』をすることができ、『賭け』の前に交わされた条件は絶対遵守、賭けにおいてイカサマも禁止、破れば即死刑。そんな物騒なシステムを導入した当時の政府もどうかと思うが、それだけ切羽詰っていたのだろう。そして僕は当時の政府に、今も存続している『賭け』のシステムに心から感謝している。
「おい、きたぞ……」
『賭場』を歩く僕を見て誰かが呟く。
「あれが噂の……」
「また来たぞ……」
「ぎ、犠牲にはなりたくねえっ」
あちこちから様々な囁きが聞こえる。それはどれも僕を恐れたり敬遠したりする声ばかりだ。
「しょっ、勝負だ、キング」
僕の行く先に一人の中年男性が出てくる。よれたスーツに眼鏡をかけた、少々やつれ気味の男。その手には四センチほどの紐が一本握られている。おおかた会社からリストラでもされて為す術なく泣く泣くここへやってきたのだろう。だがそんな使い古した紐では誰にも相手してもらえず、噂で僕のことを聞き、王と呼ばれる者なら違う対応をするとでも思ったのだろうか。実際僕は他のやつらとは違う対応をするつもりだが。
周りからは「あいつ終わったな」などと声が上がっている。
僕はニコリと微笑み
「お言葉ですが、ここでその紐を賭けるよりもその紐を家族に充てた方がよろしいのではないでしょうか」
と優しく告げる。口ではそう言いつつも、この男性はそうしないことは分かっていた。
「お、俺は家族と共に暮らすんだ。こんなところで終わるつもりは、ないっ」
男性は震えた声で言う。そう、ここに初めて来るのは大抵こういう人間だ。絶望に突き落とされても僅かな希望があると信じて、縋り付くようにここへ来る。それこそが大きな過ちだと知らずに。
「そうですか。分かりました。それでは『賭け』の内容を決めさせていただきますね」
『賭け』で行われるのは一般にゲームである。ゲームは『賭場』内で行えるものなら何でも良く、『賭場』にはビリヤード、ダーツ、チェスなどの設備、道具も整っている。また道具を使わずとも、じゃんけ
んなどでも構わない。そのゲームを何にするか決めるのは挑まれた側、つまりこの場合は僕だ。
「……とその前に賭けるものの確認をしましょうか」
『賭け』で賭けるものは何も紐に限ったことではない。何を賭けても構わないのだ。だから一応確認しておく必要がある。もっとも、ここへ来るような輩は皆紐を賭けるが。
「お、俺はこの『一の紐』を賭ける」
男性は手に握っていたベージュの紐を突き出す。自分自身が生まれながらに持っている紐のことを『一の紐』と呼ぶ。対して他人の紐のことを『他の紐』と呼ぶ。
「では僕は……」
持っていた鞄の中に手を突っ込んで
「これで」
適当に掴んだ色とりどりの『他の紐』の束を取り出す。
「うおお、何だあれ!」
「す、すげぇ……」
その数およそ五〇本。これだけの紐があればそこらの富豪よりよっぽど贅沢な生活ができるだろう。周りからは破格の賭けに驚きの声が上がる。男性も目を丸くしている。ここまでのことをするとは思わなかったのだろう。
「それからゲームはルーレットにしようと思いますが如何でしょう」
男性はコクリと頷き
「わ、分かった」
と言った。
「ではこれはいただいていきますね」
そう言って自分の賭けた紐の束と男性の紐を手に取る。
「あ……あっ……」
男性は動揺してまともな発声もできないでいる。目の焦点も定まっていない。控えめに見ても、もう彼はまともな生活を送れないだろう。絶望の底に突き落とされたような顔のその男性を尻目に、僕はその場から立ち去る。一連の出来事を傍観していた人々の声が聞こえる。
「あーあ、やっぱりか」
「キング強すぎだぜ」
「しかしキングも容赦ないな。十八番のルーレットだなんて」
生まれながらに強運と才能に恵まれた僕は『賭け』に勝ち続け、今やこの『賭場』ではキングと呼ばれるまでになった。
歩きながら周りを見渡す。困ったことに王の座に着いてしまうと誰からも恐れられ『賭け』をしてもらえなくなる。挑まれることは少なく、先程のようなことは貴重な機会だったのだ。こちらから挑むにも人を選ばなくてはならない。相手をしてくれるのは大抵、今のようなギリギリの奴か紐のストックがある好戦的な奴かのどちらかだ。
「ご一緒してもよろしいですか」
そう言いながら三人が席に着いていた麻雀の卓へ着く。
「賭けるのはこれで」
と言いながら先程の『賭け』で賭けた紐の束と手に入れた紐を示す。
僕が席に着いた途端二人が席を離れようとしたが、一人は僕が賭けたものを見てその場に留まった。しばらくすると
「じゃあ俺が入るぜ」
と強面の男性が空いた席に着いた。これでメンツは揃った。
「始めようか」
と最初からいた男が少し上擦った声で言う。緊張しているのだろうか。僕が相手だから仕方が無いのかもしれないが。
『賭場』内では政府から派遣された黒服の男たちがあちこちで監視をしているためイカサマは非常に困難である。しかもバレたら即死刑であるためそんな命知らずはそうそういない。
そしてイカサマの入らないギャンブルなら強運の僕に負けはない。そのことを思い僕は人知れず口の端を上げた。
何故お前は紐を集めるのか、と訊かれたことがある。僕は迷わず答えた。「美しいから」と。紐は美しいのだ。人は紐と共に生まれてくる。人がそれぞれ個性を持つように、紐もまた一本一本が違うのだ。その違いを僕は美しく感じる。そしてもっと違いを、美しさを見てみたいと思うのだ。
僕が今まで手に入れてきた中で、僕の心を大きく揺さぶるほどに美しいと思わせた紐がいくつかある。橙色、緑、青、藍色、そして僕が生まれながらに持っていた赤。それらは僕にとって「本物」の色であるような気がした。そして僕はそこに残る二色を加えて紐で虹を作りたいと思っていた。揃えたからと言ってどうにかなる訳じゃない。だが僕が「本物」だと思う色で七色を揃えることができたなら、それはとても美しいだろう。
だから為す術なく狼狽えている女性がいても、その人が「本物」の黄色の紐を持っているから、僕はどうしてもそれを手に入れたいと思うのだ。
今日は運の良い日だ。六本目の「本物」を手に入れた。残るは「本物」の紫。それを手にしたとき僕は何を思うのだろう。そして目的の達成の先に何があるのだろう。それを思うととても楽しみで鼓動の高鳴りを抑えられない。
だから「それ」を見たとき僕はすぐに声を掛けた。声を掛けたのは小さな少年。声を掛けた理由は「本物」の紫を持っていたから。
「ねえ君、『賭け』しないかい?」
どうしてこんな小さな子がここにいるのかなどいう疑問は湧かなかった。湧いてきたのは少年の紐への欲望だけ。少年が
「『おーるおあなっしんぐ』ならいいよ」
と無邪気に言った時も何も関心がなかった。
『オール・オア・ナッシング』とは『賭け』における条件の一つ。挑む側、挑まれる側の双方共に自分の『一の紐』を賭けなくてはならない。たとえどれだけストックがあったとしてもだ。自分そのものとさえ言える『一の紐』をお互いに賭けるということは決闘ということでもある。これは僕のような荒稼ぎをしている者を一回の勝負で沈めるための条件だが使われることは少ない。決闘同然ということもありだいたいは運任せの一発勝負なのだが、自分にかかるリスクが大きい上に、実際自分に戻ってくるリターンが少なく、荒稼ぎをしている者を倒してもその食いぶちにされていた人が喜ぶだけであるから。
それを申し込まれても僕にはどうでもよかった。少年が何を考えているのかも興味がなかった。それにそもそも僕に敗北はない。
近くのテーブルに僕の『一の紐』である赤い紐を置く。少年も紫の紐を置く。
ああ、欲しい。欲しい欲しい欲しい。いや、欲しいじゃない。直に手に入るのだ。喉の奥から笑いが込み上げてくるのを必死にこらえる。遂に、遂に揃うのだ。七色全てが。待ちに待ったこの時がきたのだ。まさか一日で二本の「本物」に出会うとは思わなかった。今日は最高の一日だ。
少年はポケットから小さな石ころを取り出し僕に一度見せてから
両手を背に回す。しばらくして
「どーっちだ」
と言って両の手を突き出す。
やはり運勝負か、と思っていると
「しつもんとかない?」
と聞いてきたので大丈夫と答える。少年は「それじゃげーむすたーと」と言った直後に
「みぎてにはいってるよ」
と言う。幼いながらの心理的揺さぶり。普通ならここで戸惑うところかもしれないが僕には関係ない。
「右手だ」
僕の直感はそう告げていた。そして僕の直感は外れたことがない。
「ほんとにいーの?」
少年は首を傾げるが問題ない。僕が首肯すると少年は両の手を開き
「バカめ」
と真っ黒な笑みを浮かべた。
「……!」
僕は驚愕を禁じ得ない。何故なら石ころはどちらの手にも入っていなかったのだから。
少年は後ろを向きしゃがみこみ、すぐにまた立ち上がる。こちらを向いた少年は石ころを持っている。後ろに落としてあったのを拾い上げたのだろう。
「は、反則……」
「反則じゃないさ」
糾弾しようとすると少年は先程までの無邪気さはどこへやら、やたらと大人びた口調で語りだす。
「このゲームは『石ころがどちらかの手に入っているか、いないか』を問うものだ。それをお前は勝手に『石ころがどちらの手に入っているか』というゲームだと思い込んだ。質問はないのかと親切に聞いてやったのに、ゲーム前にルールの確認をしなかったお前に過失がある」
そういうと少年は年不相応にほくそ笑む。
「まあ右手に入ってるというのは嘘だったわけだが、嘘自体がルール違反になるわけでもないしな……と聞いちゃいないか」
そんな、嘘だ、僕が、この僕が負けるなんて、嘘だ嘘だ嘘だありえないありえない嘘だ嘘だ……!
少年は僕を一瞥すると嘲笑うように鼻を鳴らし
「大したことないな、キング」
と言い、自分の紫と、僕の赤を、持って行った。
「あ……ああ……」
人生初の敗北と共に、僕の全ては奪われていく。
どれだけストックがあろうとも、自分の紐がなくては生きていけない。生きる価値など無い。
僕の視界は黒く塗り潰されていった。
『ドーナツの自由』 蔦屋著
こってりと青いペンキで書かれた店名がかすれて板の上に載っている。隣には雑な、一見するとただの茶色い丸にしか見えないがよく見ると白いつぶつぶが描きこまれているので、きっと粉砂糖のかかったドーナツなのだろうと推測することができるイラストが添えてある。五番街に唯一あるドーナツ屋は街を横切る線路の南側に建っていた。
五番街どころかこの辺一帯にはこの線路沿いにある一件しかドーナツを専門的に供する店はなかったので、住民はドーナツ屋といえばこの青ペンキの看板がかすれた店にくるほかはなかった。飲み口がぽってりと厚いマグカップに注がれるのは珈琲か紅茶、カフェオレのみで、店の看板に似た青色のエプロンを巻いた店の娘が無愛想に運んでくるドーナツをかじり、数少ない選択肢の中からしぶしぶ選んだ珈琲を啜る客の耳に入るのは、かつて何百年も前に流行ったというケニー・ロギンスの歌声だった。今流行りの、月と火星を繋ぐ航路の途中で生まれた、ドラマチックな経歴が話題の歌手が軽やかに歌うポップ音楽はこの店のスピーカーから出てくることは無い。
「ねえちょっと」
カフェオレがテーブルに叩きつけられるように置かれる音に店員である娘の不機嫌を感じ取った牟礼は眠りに落ちかけていた顔を慌ててあげた。
「なに」
「足。うちの店のテーブルに足のせるのやめてって前も言ったでしょ」
牟礼は自分が悠々とテーブルに乗せ組んでいた足を動かした。お世辞にもきれいではないスニーカーのつま先はおどけているように見えた。しかしおろしはしなかった。代わりに牟礼は店の天井に備え付けられたスピーカーを指さす。
「ほら、ケニー・ロギンスが歌ってる」
「なにを」
「足を自由にしろって」
青エプロンを身に着けたイトカヤが呆れたように天を仰いだ。やってられない、というときに彼女がする癖だった。苛々を隠さない手がトレイからドーナツが乗った皿をテーブルに置く。荒い手つきにドーナツが跳ねたのではないかと思うほどの音がした。今度こそ牟礼は足をテーブルから下し、足早に店の奥に引っ込もうとするイトカヤの波打つ髪を追いすがるように声をかけた。
「ごめんってば」
「思ってないくせに、もううちの店に来るのやめたらどうなの」
「だって好きなんだもん」
「ケニー・ロギンスが? フットルースが?」
「ねえ、ごめんてば、怒らないで。ここのドーナツが好きなんだよ」
すっかり店のカウンターの奥にある厨房に引っ込んでしまったイトカヤを、イトカヤァ、と情けない声で牟礼が呼ぶ。ドーナツの上にかかった粉砂糖は見る間に湿気る。牟礼のほかに客のいない店内に響く音楽は足を自由にしろ! と叫ぶのをやめ、明るい調子で自分の恋人はどうしようもないけれども可愛いの、とうたい出していた。
イトカヤも牟礼も見たことがない古いふるい映画のサウンドトラックが店内に流れているのはイトカヤの祖父の趣味だった。
「本当だってば」
言い訳めいた言葉はカフェオレのカップにくちびるをつけたせいで語尾が有耶無耶になり、消えた。
ミルクキャンディを引き延ばしたようなふくよかなつやのある皿の上に、ままごとめいた様子でドーナツは鎮座していた。狐色に膨らみ焦げた生地が正円というよりやや楕円の形を作り、真ん中にぽっかりと空いた穴から皿の白地とプリントされた大昔のメーカーロゴと、剥げて読めなくなったなにごとかの文章が覗いていた。メイド、イン、チャイナと目につく部分を口にしてみれば、牟礼の先祖を辿れば出てくる国の名前の一つであるだけの文字列がそこにあった。チープな色味でプリントされた国旗はアメリカとかいう国のものだった。アメリゴ・ヴェスプッチが見つけたとかいう国だからアメリカだが、このドーナツ屋のある五番街は火星史上五番目に造られたから五番街である。情緒もへったくれもないこの街の名称を牟礼は生まれたときから好きになれなかった。
「あんたのおじいさんが地球からドーナツのレシピを持ってきてくれてほんとよかった」
姿を現さないイトカヤに聞かせるつもりもそれほどなく、ほとんど独り言として牟礼は呟いた。ドーナツの穴を覗けば、大人たちが騒ぐ地球とか言う、彼らにしてみれば懐かしいらしい星の記憶のかけらが見えた。望郷の名前は牟礼にしてみれば未知の大陸だった。イトカヤの祖父の、祖父だって本当は知らないであろう故郷への郷愁趣味が作り上げた店内のアメリカに出入りし、音楽を耳にし、ドーナツをかじりドーナツの穴からアメリカを覗く。店のドアは宇宙と惑星との間の濃淡である成層圏だった。イトカヤがモップをかける床は踏んだことのないアメリカ大陸の大地と言ってもよかった。ケニー・ロギンスは宇宙の果ての歌を歌う。足を自由にするんだと叫ぶ。彼らが重たがっていた重力だけは、牟礼の足も同じように感じていた。牟礼にとってこれはちょっとした冒険だった。たとえそれが狭いせまい店内に限った話であっても、外に一歩出ればそこは自分が生まれた愛しいいとしい人口太陽の日差しが降り注ぎ、天井はるか高い空はガラスに映った映像である愛しいいとしい故郷であっても。
見た目に反してずっしりと重い生地を一口かじるとドーナツの穴は途端に消えた。牟礼が二口、三口と進むうちに円は半分になり、やがてミルク色の皿の上には零れたカスが散るだけになった。
「そんなにドーナツ好き?」
いつのまに店の奥から出て来たのか、エプロンを外しながらイトカヤが牟礼の目の前の椅子を引いた。頬杖をついたためにもちあがったイトカヤの頬の色は店の皿に似ていると牟礼は思った。黄味のないぽってりとした白だった。
「好き」
「どこが」
「穴からいろんなものが見えるとこ」
「お行儀悪い」
もう一個食べる? とイトカヤが言うので牟礼は素直に頷いた。
「イトカヤのこともすき」
「やなひと」
次にイトカヤがドーナツをテーブルに運ぶときはきっと丁寧に置いてくれるだろうと牟礼は思った。火星五番街のドーナツ屋の店内を静かに満たす歌声は、まるで楽園にいるようだと歌っていた。
『どうでもいい話』 如月☆英雄著
「傘が、ない」
先週置いて帰ったはずの傘が、無くなっていた。
梅雨に入ったせいか、今朝の天気から一変して今は雨が降っている。そのため、雨が降るとは思っていなかった生徒も多かったことだろう。きっとその中に、魔が差した奴がいたのだ。傘立てにおいてある傘なら、盗んでもばれないだろうと。その気持ちは分かるし、同じ立場であったなら僕も同じことをしていたかも知れない。けれど実際に盗まれたのは僕の傘で、濡れて帰るのも僕だ。理解できても、怒らずにはいられない。
「雨、止みそうにないなぁ」
けれど幾ら怒って見せたところで、雨が止むわけでもない。僕は渋々、なるべく濡れないよう、雨の中を走った。
###
どのくらい走っただろうか。とりあえず下着にまで雨水が浸透してくる程度に走った頃には、僕の息は上がっていた。少し休もう。もう濡れるのは構わないけれど、流石に疲れた。
僕は、近場のコンビニの軒先で少し雨宿りをすることにした。
「あざっしたー」
店員のやる気のない挨拶と共に、一人の女の子が店内から出てきた。とても綺麗な子で、思わず眺めてしまう。制服から考えるに、僕と同じ高校だろう。黒の長髪で、毛先が肩甲骨の下にまで伸びている。目鼻立ちはシッカリしているが目じりは垂れていて、穏やかそうな印象を抱かせる顔だ。高校生にしては発育が良く、仄かに自己主張をする胸部に思わず目線がいってしまう。僕は慌てて視線を逸らし、そうしてようやくあることに気づいた。
彼女が手に提げている傘。それにどうにも見覚えがあるのだ。
というか、僕の傘だ。
僕の母には美術の心得があるのだが、そのせいで僕の私物には母の手による改造が施されている物が多い。傘もその内の一つで、傍目には普通のビニール傘だが、骨組みに沿って少しだけ金色の装飾が施されている。世界広しと言えど、あんな傘は僕の傘以外ないだろう。
「あのー」
「はい? あ、え、大丈夫ですか? すごく濡れてますけど」
声を掛ける。僕の姿を認めると彼女は、少し怪訝そうな顔をしつつも気遣ってくれた。ちょっとだけ良心の呵責を覚えたが、僕に非はない。というかそもそも、この状況は目の前のこの人が招いたものだ。責任を取れとは言わないが、傘ぐらいは返してもらおう。
「ええまあ、大丈夫です。その、多分、西高のひとですよね? 僕も西高の二年で、名前は相沢って言います」
「はあ。確かに、私も西高です。一年ですけど名前は、その……」
怪訝そうな顔色が益々濃くなる。制服から、僕が西高であることは信じてもらえているだろうが、意図を測りかねているようだ。
「あ、ナンパとかではないんで」
「あ、ですよね。すみません。名前は小磯です」
小磯さんか。近くで見ると益々可愛いな。自分より背丈の小さい女の子に見上げられるのって、ちょっと快感。そんなことを考えている場合でもないか。
「えと、小磯さん。申し訳ないのだけれど、その傘どこで買ったものか教えてもらえないかな?」
出来る限り慎重に。何気ない会話の延長線上に位置するように、本題を切り出した。けれど、小磯さんの方にはどうやらそう上手く伝わらな
かったようだ。表情は強張り、目線は泳いでいる。手足も落ち着かず、全身で罪を認めるかのようにそわそわしている。怪し過ぎる。
押し黙る小磯さんを、いつまでも眺めているわけにもいかない。傘を返してもらうことにしよう。
「あの――」
「こ、これはこのコンビニで今買った傘です」
「は?」
思わず声が出てしまった。いくらなんでもその言い訳には、無理がある!
「でも、小磯さん。濡れてないよね?」
「あ、雨脚が弱いときに、ここまで走ってきましたから」
「昼過ぎには大雨だったけど、早退でもしたのかな?」
「――えと、あの、家屋の屋根の下を通るように走ったから」
「僕もだよ」
「先輩より、走るのが上手かったんです!」
「話を変えよう。このビニール傘、骨組みに沿って金色に縁取りしてあるよね。店内の傘にはないみたいだけど?」
「そ、それは」
「この傘、このコンビニで君に売ったものか、聞いてこようか?」
「や、あの、えと」
案外粘るので、攻め立てているような問答になってしまったが、これで詰みだ。これ以上は何も言えまい。何か言っても、本当に確認しに行けばいいだけだ。
小磯さんは再び黙り込む。今度は体全身で、申し訳なさを表現している。あまりにも露骨に落ち込んでいて、見ているこっちが悪いことをした気分にさせられる。流石に、可哀そうに思えてきた。
「小磯さん。家はどこかな?」
「え……」
親に傘を盗んだと告げ口されると思ったのか、小磯さんは一層体を強張らせる。けれど諦めたように、住所をボソボソと呟いた。好都合なことに、僕の家からそう遠くはない。
「僕が学校の傘立てに置いておいた傘も、金色に縁どられたビニール傘でね。小磯さんの持っている傘があまりにも、似てて」
「…………」
「疑う様な事を言ってしまった。申し訳ない」
「――え」
「迷惑をかけておいて図々しいのだけれど、小磯さんにお願いがあるんだ。良いかな?」
「は、はい。なんでしょう?」
「見ての通り濡れ鼠でね。僕の家、小磯さんの家からそう遠くないから、君の家の前まで傘の中に入れていってくれないかな?」
「あ、相合傘……」
「だめかな?」
「……いいですよ。」
「ありがとう。じゃあ行こうか」
先を促し、傘を代わりに持つ。
傘一つで、女の子と相合傘が出来るなら安いものだ。
ことここに至り気づいたけれど、これが僕の人生で初めての女の子との相合傘だった。
『世界をピン留め』 佐藤吹雪著
植物学者の叔父は、植物の死骸と共に生きていた。
新聞の間に集めた植物を挟み込み、形を整え、水分を抜き、丹念に保存する。叔父が集めた植物標本は、樟脳の匂いにつつまれて静かに戸棚に仕舞われていた。叔父が作ったのではないものもあった。百年前の日付の新聞に挟まれたものもあった。その数えきれない標本は、食物連鎖という制度から一旦引き離されて、百年前の繊維をも、幻のように保っていた。
写真家の叔父は、人物を撮るのは苦手だった。
記念写真のようなものを撮ろうとすると妙に間の抜けた変な写真が出来てしまう。逆に勝手気ままに撮ったものは美しかった。写真は撮る人の心惹かれたものを写すのだ。叔父の暗室で現像された写真は、間違いなくいつかこの世にあった一瞬である。シャッターに選ばれた瞬間だけが未来にいる私の目に触れている。その前後の瞬間を置き去りに、私の目の前に現れる、奇跡のような一瞬が、写真というものであるらしい。
「ふわふわとあいまいな世の中を、結晶分化させるのがぼくらの仕事です」と叔父たちは言う。
叔父たちはたぶん、高速で移り変わる世界を、ピン留めする作業をしているのだ。
『スカー・コレクションSS ~Her ordinary holiday~』 井伊著
0
ある町に、棺桶屋を営む男がいた。決して繁盛していたわけではなかったが、日々人は死んでいく。だから、なんとか口に糊する程度には収入を得ることができていた。それに、男が棺桶屋をやっているのは単に生活のためだけではない。男は棺というものが好きだった。しかし棺といっても、男が売っているような空の棺ではなく、その内側に人間を内包した状態の棺のみに男は魅力を感じていた。以前、どうしてそこにこだわっているのかという質問をされた時、男はこう答えた。
「棺の中に入るのは、その生涯を終えた人間だ。そして、棺とはそんな人たちの終着点になる。だから、死者を抱えた棺というのは、人一人の一生分の価値を持っているんだ。どうかな、素晴らしいとは思わないかい?」
人当たりが良く、仕事に対して激しい情熱を持っている男への人々の評価は上々だった。だが、男の棺への情熱は人々の思っているものをはるかに凌駕していた。初めのうちは、人々が自分の作り出した最高の棺に入ってそれを完成させてくれるだけでよかった。しかし、次第に棺へのこだわりは強まっていき、男は自分で作った棺の中でも特に傑作と呼べるものには、最もふさわしい人物が入らなければならないと考えるようになった。そこで彼がとった方法は、その人物を自分で探すというものだった。
「よし……出来た」
漆黒に白のラインと十字架が刻まれた棺を前に、男は満足げな表情を浮かべる。
「悪くない。芸術に昇華させてもいいレベルの仕上がりだ」
そう言って男はクローゼットを開けた。クローゼットの中には様々な衣装が入っている。
「どれがいいかなあ。喪服……いや、ゴシックロリータかな」
レースとフリルに飾られた黒地のドレスを慎重に取り出す。男はそれを棺の横に広げた。
「さて……最後の材料を調達にいかなきゃ」
1
その日、少女は学校を休んだ。学校に行きたくなかったから休んだのではなく、ただ町を散策したい、そんな気分だったからだ。
昼過ぎの日に照らされた古めかしい街並みを眺めつつ、少女は石畳の道を優雅に歩いていく。
「普通ね。いつ見ても普通の町だわ」
そんな普通な町だが、少女は嫌いではなかった。
普通。
それは彼女にはないもの。だからこそ、彼女は普通を望んでいた。その思いは平凡であることの穏やかさを愛するが故か、はたまた一種の憧れから来るものか。いずれにせよ、少女は普通が好きだった。
ぼんやりと普通を満喫していた彼女だったが、ふとある店の前でその足を止めた。
「せっかくの気分が台無しね。常々思っていたけれど、一体なんなのかしら、この店は」
少女は店の看板を睨み付ける。
「なぜ放置されているかわからないくらい、普通ではないのだけれど
……。不協和音とはこのことね。まあ、気持ちの悪い同類の手によって、いずれは消されることでしょう」
冷やかに全体を一瞥し、店を去ろうとした時、ちょうど店の中から一人の男が出てきた。男は扉の前できょろきょろと辺りを見回し、少女の姿を目に捉えると棒立ちとなった。が、すぐに立ち直り少女の元へと歩み寄る。そして、男は少女に話しかけてきた。
「あの、ちょっといいかな」
少女は先ほど店を見ていた時にした、刺すような目つきで男を睨む。
「何かしら」
「いきなり変なことを聞いて悪いんだけど……君、棺は好きかな?」
それを聞いて、少女の表情はより険しくなった。具体的には、嫌悪に憎悪が加わった表情、といったところだろうか。
「大嫌いよ。それも――死ぬほどね」
そこで、少女は気づいた。店だけでなく、この男も普通から外れた存在だということに。
少女のもつ特異性は、その目で自分以外の異常な存在を見分けることができる、という点にあった。それは、彼女が『同類』と呼ぶ者たちにも備わっていない、彼女だけの能力だった。
(面倒なことになったわね……。店だけなら関わらなくとも済んだっていうのに)
少しのやり取りの後、少女は半ば強引に男に案内され、店中へ入ることとなった。
「さっきは棺が大嫌いだと言ってたけど、棺の美しさと素晴らしさがわかればきっと好きになれると思うんだ」
前を歩く男がそう言っているのを聞き流し、少女は男のズレを探るべく話しかける。
「あなた、自分が他とは違うと感じたことはあるかしら」
「違うって?」
「世間が思う一般人と大きく離れたところとか無い?」
「うーん、そういうのはあまり意識したことないなあ。ずっと棺のことしか考えてなかったし」
やはりそこか。少女はうんざりした顔になる。よりによって棺とは運の悪い。なんとか話だけで終わらせたいところだけれど――。
そううまくはいかないだろうと、彼女はどこかでわかっていた。
2
「ここだよ、入って」
男に通された部屋で少女が見たのは、ショーケースに飾られたたくさんの棺。少女の顔が一層苦々しいものとなる。
「どうだい、僕の芸術作品は」
「芸術作品? さっき店頭に並んでいたものと大差ないように見えるのだけど、それらと何か違っていて?」
「全然違う‼」
急に男は激昂した。それを見ても、少女は特に何の反応もしなかったが、男はその勢いのまま少女にまくしたてる。
「全然違うよ‼ どうしてこの素晴らしさに気づかない⁉ これは――この子達は、完成した棺なんだ‼」
「完成した棺……?」
男の言葉の意味が分からず、少女は聞き返す。
「完成した棺とは、どういう意味なのかしら」
「棺は、空っぽの状態じゃ不完全なんだ……。それじゃあ、ただの容器でしかない。その体内に人を飲み込まなくては、棺は完成したと言えないんだ‼」
ということは。
そこに並ぶ棺の中は満たされているというわけで。
「誰が……入っているの?」
「そりゃあ、君のような少女たちさ。僕は、自分の棺に入るのに最もふさわしいのは誰かってずっと考えていたんだけど、そこで一つ思い至ったことがあってね。この仕事を始めてからというもの、町を歩いていると時々、普通とは違った女の子を見かけるようになったんだ」
その能力に、少女は思い当る節があった。というよりも、恐らくズバリそのものなのだろう。ただ、男の場合、対象は少女に限定されるようだったが。
(私以外に初めて見た……全然嬉しくないけど。むしろ嫌)
そんな少女の思いなど知る由もなく、男は続ける。
「そして、繋がった。わかったんだよ。そういう特別な少女たちこそが、棺に収まるべきなんだって。少女は、他の何よりも棺を美しく彩ってくれる最高の材料なんだよ」
「あら、そう。それで? その少女たちはどういった理由で棺に入ったのかしら」
仮に男の言い分通り、少女たちが棺に最もふさわしい存在だったとして、彼女らが自分から棺に入るとは考えにくい。棺に入った少女たちはその後――いや、今現在どうなっているのだろう。
「僕がお願いしたのさ。ま、大抵聞き入れてもらえなかったから、結局手荒なことになっちゃったけど。君みたいな特別な子ばかりを選んでいたから、入ってもらうまで苦労したよ」
「私みたいな……ね」
「もちろん、君のも用意してあるよ。ほら、あの黒い棺を見て」
男は嬉しそうに出来たての棺とゴシックロリータの服を指さす。その様子は無邪気であり、純粋であった。だからといって、男の行為が許されるわけではないのだが。
「君にぴったりだと思うんだ。だから、あの棺に入って僕の作品を完成させてくれよ」
「お断りさせてもらうわ」
少女はぴしゃりと言い放った。
拒絶された男の顔がわずかに歪む。
「そんなこと言わずにさ。僕の手を煩わせないでくれ」
それを無視して、少女は男から距離をとった。
「そうか、それなら仕方ないな……。僕が自分の手で入れてあげることとしよう」
その言葉を合図とするかのように、突然男の隣に巨大な穴が現れた。
男は右手を横に突き出し、その中へと腕を突っ込む。そこから取り
出したのは、大きな糸鋸だった。それを見た少女は少し驚いたような表情を浮かべる。
「てっきり棺なのかと思っていたのだけど……そう、あなたプラスなのね。良かったわ、まだやりやすそうなもので」
男はその場で糸鋸を横薙ぎに振るった。鋸の軌道上に風の刃が生みだされ、それは少女に襲い掛かる。
「四肢を落とすくらいいいよね。最終的に繋ぎあわせて棺に入れるんだからさあ‼」
何も言わないまま、少女は軽々と刃を避ける。
「大した威力もスピードも無い、こんな程度のものになぜやられてしまったのかしらね、その子たちは」
ため息交じりに男の方に向き直る。そのまま何気なく糸鋸へと視線を向けると、ある変化に気が付いた。
「そういうことね……」
男の持つ糸鋸の刃は、いつの間にか二本に増えていた。
再び男は糸鋸を振るう。
今度は二本の刃が少女を狙う。先ほど同様、少女はその攻撃を潜り抜ける。そこへ、間髪入れずに四本の風の刃が飛来した。
「くっ……‼」
少女は咄嗟に身を捻り、なんとか刃を躱し切った。
「すごい、よく今のを躱したね。流石は僕が目を付けた子だ。これまでの子達は大体四本目までが限界だったんだよね」
刃が八本となった糸鋸をくるくると回しながら、男は素直に感心を口にする。
「この糸鋸は不思議でね。風のカッターが出るだけじゃなくて、カッターを作る度に刃の数が倍増していくんだ。さあ、次は八本だよ。そろそろおとなしくなってもらおうか――な‼」
八本の刃を光らせ、糸鋸が振るわれる。
生まれた八本の風の刃は、ランダムな軌道を描き、少女に向かって飛んでいった。
凄まじい炸裂音が起こり、視界を塞ぐほどの粉塵が舞い上がる。
「あー、しまった、切り刻んじゃうと縫い合わせるのが面倒なんだった」
ぼやきながら、男は少女のいた方へと歩いていく。
「まあ、いいか。時間はあるわけだし」
「その心配は要らないわ」
その声に、男の足が止まった。
「……素晴らしい、素晴らしいよ‼ まさか、八本の刃でさえ避けられるなんて‼」
男は、驚きと感嘆の混じった声をあげる。
粉塵の中から再び少女の声。
「残念だけど、私に八本の刃を避けきる能力はないわ。だから――」
粉塵が晴れ始め、少女の姿が次第に見えるようになってくる。
「だから、防がせてもらったわ」
そう言って姿を現した少女の隣には、人の姿がかたどられた、巨大な鋼鉄の塊が鎮座していた。
人はその塊のことを、鉄の処女アイアン・メイデンと呼ぶ。
「まったく、正直こんなものなんか出したくないし、見たくもないんだけど……。そうも言ってられないわよね」
うんざりした顔で、少女は言う。
「かなり恥ずかしいけど、ジョーカー曰く規則らしいし、名乗らせてもらうわ」
そう言って、彼女は一歩前へ出た。
「均衡維持委員の№06、『人喰らいの銀棺ブラッディ・インブレイス』、エリス=ユーイング」
鉄の塊に手を置き、男の顔を見据えて少女は宣言する。
「世界の歪みを修正します」
ガタガタと音を立てながら、『人喰らいの銀棺』はエリスの前へと移動した。それと同時に、男が十六の刃を繰り出す。だが、刃は『人喰らいの銀棺』にことごとく弾かれ、消滅した。
「な、何なんだ、そいつは……」
「あら、この子もあなたの大好きな棺の一種よ? だって、死人を抱える箱のことを棺というのでしょう?」
エリスは冷やかな微笑みを男へと向ける。
「一線を越えてしまったあなたに救済はない。私も今日は非番だし、面倒だからさっさと終えさせてもらうわね」
その言葉を合図とするかのように『人喰らいの銀棺』の腹部がゆっくりと開かれ、硬質な棘の山があらわとなる。しかし、扉部分の大量の鉄棘は確認できるが、腹の中は真っ暗で何も見えない。
エリスが指を鳴らすと、『人喰らいの銀棺』から十数本の鎖が勢いよく射出され、男を雁字搦めに縛り上げた。思わず、その手から糸鋸を取り落とす。
「や、やめろ……僕はまだ死にたくない……」
「至って普通の命乞いね。そこは好感が持てるわ」
エリスの言葉を聞き、男の顔に安堵の色が一瞬よぎる。
「ま、断罪には関係ないけどね。それじゃあ、さようなら」
鎖がジャラジャラと真っ暗な体内へ戻っていき、絶叫する男を飲み込んで、轟音と共に『人喰らいの銀棺』の扉は閉ざされた。
3
「……そうよ、その棺桶屋。……え? いやよ。どうして私が。そんなのそっち専門の№05にでも頼みなさい。……ええ、それだけよ。あとはよろしく」
本部への連絡を終え、エリスは外に出た。
せっかく仕事がない日を楽しんでいたのに、あの男のせいで結局仕事をすることになってしまった。まあ、だからといってこの仕事をしていることを後悔するつもりはないし、元々納得したうえで始めたものだ。
それに、仕事が入るということは、この世界にある歪みを一つ正すことができることを意味する。そう考えるとどうだろう、案外仕事が入るのも悪くないのかもしれない。後始末は本部に任せておけばいいし、私は私のやりたいように、歪みをもって歪みを正す。
――そうだ、それでいい。そうするだけで、明日も明後日もいつもと変わらない普通の日が続くのだから。
ふと、時計を見た。針は一時半を指している。
「いい時間ね。もう少ししたらお茶にしましょう」
エリスはそう言って、日差し降り注ぐ午後の街を歩き始めた。
『変な女』 志乃山こう著
その女は、「わたし、あなたのことが好きよ」と言った。
大して美人ではないが、それでもおしゃれな服装と、漂ってくる香水の香りは、紛れも無く女性のものだった。
だまされないぞ、と心の中で呟く。
いい加減付き纏うのを諦めて帰ってくれないかと思い、その女に背中を向けて歩き出す。そのまま青信号になって雪崩れる人ごみの中に紛れようとしたが、シャツの背中部分をギュッと掴まれた。
咄嗟に振り向きざまに振り払ってしまった。力が思いのほか入ってしまった。女は小さく悲鳴を上げ、バランスを崩して地面に横に倒れ込んだ。
しまった、と思った時には遅く、女は肩を震わせてしくしく泣き始め、周りの人々は足を止めて俺と女を見ている。大勢の視線に当てられて、俺は背中に冷や汗をかくのを感じた。
――こういうとき、どうすればいい?
俺は必死に頭を働かせたが、脳みそが答えを出す前に、行動が先に出た。俺はいつの間にか、女に歩み寄って、手を差し出していた。
「立てよ」
言い方がきつくなってしまい、素直に手を取ってくれるか不安だったが、果たして女はそっと俺の手を握った。柔らかい、女の手だった。
女は小声で「ありがとう」と言うと、涙の痕、もしくはぐしゃぐしゃになった口元を隠すように顔にもう片手を当てながら、立ち上がった。
困ったことに、立ち上がった後も女は手を離そうとしなかった。振り払う度胸もなかったから、仕方なく、俺はそのまま女と一緒に予定通り自宅への帰路についた。
今は大学も休みの、八月の半ばだ。大学三年生の、多分遊べる最後の二か月。俺はバイトもせずにふらふらと書店めぐりをしていただけなのに、街で変な女に絡まれてしまった。
面倒にならないよう、切に祈る。
※
自宅の鍵を開けると、女は何も言って無いのにドアを開け、俺のアパートに入った。
続いて俺も入り、とりあえず冷蔵庫の茶を普段俺が使っているマグに入れて、居間で布団をかけてない炬燵机の前に正座している女の前に置いた。
無言で動いている自分に奴隷根性の欠片を感じたが、とりあえず俺も炬燵机を挟んで女の正面に座った。溜息をつく。
狂ってる。生まれて初めて、俺の部屋に母親以外の女が入った。しかも茶を飲んでる。どういう状況だ。
そう思っているうちに、女が小さく咳払いをして、口を開いた。
「はじめまして、と言うべきかしら。それでもわたしはあなたの事を良く知ってるし、愛してもいる」
なんだなんだ。妙に勿体ぶって話しやがって。
「わたしの名前は小松涼子。聞き覚えない?」
ねえよ。記憶をたどっても、女の知り合いにそんな名前のやつはいない。いたとしても、とっくに忘れている。
「いいえ、女の知り合いじゃなくて、コ・マ・ツ・リョ・ウ・コ。この名前の響きに心当たりがあるはずだわ」
コマツリョウコ。確かに、何となくその響きを憶えている。というか、
それに似た名前の人間なら、よく知っている奴が一人いる。
「――小松亮。中学校時代の友人だ」
女は満足げに頷いた。嫌な予感がした。
「そう、私は、元・小松亮よ。今は性転換して、小松涼子になっている」
思考が固まった。
女? 男? ……は?
「これから同棲させてね。よろしく♪」
俺は急速に現実感が遠のいていく音を感じた。
※
にわかに信じがたいが、どうやら俺の中学校時代の友人が、性転換をして女になったらしい。今現在、鼻歌を歌いながら上機嫌で俺の夕飯を用意している。
小松涼子を名乗る女は、俺がした小松に関する質問に全て答えた。二人で書いた秘密の小説の内容まで、完璧にだ。
どうすればいいか分からないので、ひたすら読書をして現実逃避をしている。ふと、むしろこの状況こそが小説の世界にふさわしいのに気付いた。今読んでいるクソラノベの十倍面白い。面白すぎて涙出そう。
小松亮。その名前を聞いたのは中学校以来だが、単なる友人と言うには違和感があるような、親友といっても差し支えないだろう存在だった。
中学の図書館に居着くやつ。休み時間も一緒に外で遊ぶ気力も友人もいないから、冷暖房のきいた図書館でだらだら本を読むやつ。それが俺たちだった。ただし、小松は俺と違って、病的に線の細い中世的なやつだった。確かに女っぽかったといえば、そんな気もする。
中学一年生の時点で、クラスで図書委員に立候補したのも俺たちだったし、クラスが離れてもどうせ図書館で毎日会っていた。高校生になると同時に俺は家族と県外へ引っ越してしまったが、手紙はおろか、結局電話すらしていなかった。一緒にやったことといえば、本やアニメやマンガの話と、どちらかの家でゲームをすることくらい。二人で小説を書いて、交換し合ったこともある。小松と一緒にいる時間は楽しかった。
それが、どうして女になってやがるんだ。
確かに、ろくに友人がいなかった俺にとって、小松は親友といえるだろう。しかし、俺に対してそんな感情持ってたなんて……。
ああ、クソ。こういうときにどうすればいいのか分からない。断る?いや、今の小松は女だ。しかも俺が好きだときてる。おそらく、というか、普通にこのまま生活してたら一生女に告白される機会などなさそうな俺にとって、ひょっとすると良い話なんじゃないか?
――……いや、冷静になれ。そもそもこの女、ほんとに小松なのか?
そうだ。今日会ったばかりの女に踊らされているということもありうる。最近は美人局だとか結婚詐欺だとか、知らない女に騙されて痛い目にあう事件が多発している。この女もその口ではないのか?
疑惑の種が成長しているところに、関心の女――便宜的に涼子と呼ぶ――が湯気の立つお盆を抱えて居間に入ってきた。
「はい、どうぞ。おかわりもあるからね」
机の上に展開されるメニューは、冷奴、茄子の味噌汁、ご飯、市販のタクアン、ニジマスのムニエルと千切ったレタス。心惹かれない、といったら嘘になる。というか、絶対おかわり欲しい。
「急ごしらえだから、大したものじゃないけど」
明日は煮付けか唐揚げ作るわね、と微笑む。胃袋を掴まれる感覚とは、
こういう感覚を言うのだろう。
いやいや、いくら見た目が綺麗だからって、味まで良いとは限らない――とすでにおいしい匂いで半分麻痺した頭で考え、おもむろに箸を取っていた。
「いただきます」
机の反対側に座った涼子も、自分用に盛り付けたメシの前で復唱した。涼子が使っている食器は、今日買ってきたものだ。
まずは茄子の味噌汁、なんといっても季節の料理は外せない。だしの取り方で味噌汁の味はほとんど決まっている。一口すすると、夏の味が口いっぱいに広がり、にぼしのうまみがじわりと染み渡る。
そのまま箸を休めず、ムニエルを皿から取り上げ、行儀悪く齧りつく。食いちぎって噛み続け、焦がしバターの香りと程よい塩加減の川魚が、小麦粉の薄いコロモと混ざり合って、たまらずご飯をかきこんでいた。
一口、もう一口と箸を進めている間に、気付けば味噌汁がなくなっていた。正面を向くと、涼子が、ふっ、と不敵に笑っていた。
「おかわり、いるでしょ?」
悔しかったがその通りなので、適当な返事と一緒に木椀を差し出した。
※
お腹が満たされると、何も考えられなくなっていた。体の中に幸福感が満ち満ちている。面倒なことはしたくない。風呂は食事の前に近くの銭湯で済ませてきたので、後は寝るだけだ。
涼子の正体が何だろうと、もう気にしない。もし俺を騙して引っかけるつもりなら、カネや契約といった話にだけ注意していれば大丈夫。いざというときは、警察とか相談所とかが何とかしてくれるだろう。
今日はもう寝たい。精神的な疲れと満腹感が、眠気を誘う。歯磨きをし始めると、涼子も自前の歯ブラシを咥えて隣にやってきた。
肩が触れ合う距離。まるで、バカなカップルのようだ、と思ったら緊張してきた。紛らわすように手を動かすと、それを見た涼子が、余計に面白がって肩を当ててくる。
逃げたい。ここから逃げたい。ここが俺の部屋だけど。
歯磨きを早々に終わらせ、洗面台で口をゆすぎに行く。ただし涼子も後ろをついてくる。ついてくんな。悪意を持ってやってる分、ピクミンよりたちが悪い。
いざ寝る段になった。寝巻に着替えようとして上を脱いだところで、そういえば涼子がいるのを忘れていた。涼子はこっちを向いて顔を赤らめている。
「……」
俺は無言で寝巻を持ってキッチンに出た。すると、居間の方でも涼子がごそごそと音を立てて着替えはじめた。
そういえば、女が部屋で寝るのか。俺の部屋で。
やばい。何かあったりしたら、どうするとか全く知らないぞ。何も起こらないのを願うが、もし何かあったとしたら……。
着替えを終え、恐る恐る居間の戸を叩いてみる。「どうぞ」という声が聞こえたので、戸を開けた。そこには、なんとピンクのパジャマ(!)を着た涼子が立っていた。
だが、脇に、緑色の布の塊がある。キャンプ用のシュラフだ。
「さ、寝よっか」
「……そうだな」
同じ布団で寝ることも覚悟していたが、少しほっとした。そして少しがっかりした。
まあ、何事も無い方が良いに決まってるしな。
自分の布団を敷くと、涼子もその隣にシュラフを敷いた。そんなに良い物ではなさそうな、薄い安っぽそうな生地だった。
「電気は?」
「真っ暗にする派ー」
言われたとおり、真っ暗にした。いつもと同じだ。
暗くなってしまったら、隣に女がいることも関係ない。しかも、眠気が良い気分にさせてくれる。
とはいえ、何か声をかけないといけない気がする。隣でモゾモゾと音がする状態で、何も会話がないのは、何か心苦しい。
どうする、おやすみくらい言おうか?
「……」
「……」
「…………」
「…………。えーい」
暗闇から俺の上に乗りかかる者がいた。ゴソゴソとシュラフを脱ぎ捨てた涼子だった。突然のことに、間抜けな声が出る。
「おっ」
その晩、普通に襲われた。
※
お天道様が真上に上る。
電気も点けない部屋の隅で、全裸で転がっているダメ人間だーれだ。
俺だった。
疲労感が全身を支配している。隣から話しかけてくる同じく全裸の女・涼子に対し、「あー」とか「うん」とかで返答している。
どうしようもない屑だった。自分で自分にとどめを刺して殺したい。
何時間も前から、寝てるんだか寝てないんだか分からない状態で、しかもずっと全裸だ。
喉が乾いたら、全裸のまま水道で水を飲む。お腹がすいたら、涼子が昨日用意していたおにぎり(まさかこれを見越したのか?)を、全裸のまま頬張る。用を足したくなったら、全裸のままトイレに行く。
残りの時間は、布団の上に二人で寝転がるか、破廉恥行為を行うか。
俺、このまま怠い感じで死ぬのか。
ぼんやり考える。何の為に生きている。そんなの分かるわけない。自分の存在意義なんてとうの昔に考えるのをあきらめた。答えが出ないからだ。哲学の本を読めば分かるのかも知れないが、学術書はわざと難しく書いてあるから嫌いだ。小説が良い。生きる意味は教えてくれないが、読んでいて面白い。いや待てよ。小説のキャラクターに生きる意味は無い。それなら、俺の生きる意味も無いんじゃないか? 人間って何だ。小説の登場人物と何か違うか。物語を進めるにあたって、邪魔なら作者から消されるし、見せ場を作るためにも消される。何の情けもない。人類の遺伝子という偉大な作者様の計らいで俺は生きているのであり、ただの遺伝子の乗り物だ。虚しい。どうせ消費物で代わりもいる。「私が死んでも代わりがいるでしょ?」その通り。俺一人の死では世界は終わらない。ならばこんな考え事すら無駄だ。やめちまえ。意味のないことを
もっともらしく考えるな。徹底的に無意味なことを考えろ。あーいーうーえーおーあーおー。たーけーやーぶーやーけーたー。あはは、なんかにほんごって、ひらがなひょうきにするとおもしろいな。がきどもがあんなにたのしそうにじをかいているりゆうもわかる。あ、書道だ。多分、書道もあれは文字を書いているんじゃなくて、文字を一つの絵として描いているんだ、きっと。それなら言葉を意味のない音の連続として考えると面白いかもな。確か日本語で遊ぼうだかいう番組で、そんな遊びをしていたっけ。そうすると、あの番組は文明破壊の可能性を秘めていた恐ろしい内容だったわけだ。国営放送のくせになかなかやるな。おっと、少し意味のあることを考えてしまった。再び意味のないことを考える作業に戻ろう。試しに「無意味」と心の中で千回唱えてみよう。無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味無意味……あ、回数数えるの忘れてた。
もう一回やり直すか、と考えたとき、俺の背中がゾクリと強張った。
無意味なまま、死ぬということ。
人生に意味を見つけることなく、死ぬということ。
いつか自分が言っていた言葉を思い出す。
『童貞捨てるまで死んでたまるか』
違う。
その理由は、自分で意識的に呼吸を止めて自殺する人間がいないことに似ている。もっともリーズナブルお手頃に死ぬのなら、自分で呼吸を止める方法をなぜ誰もやらないのか。縄も睡眠薬も、全てそのために使われる。
童貞を捨てたとしても、死ねない。なぜか。
――なぜなら、意味なく死ぬことは怖いからだ……!
何か道具や病に後押ししてもらわなければ、人は死ねない。
恐怖が、襲ってくる。自分が無に帰するのが、どうしようもなく怖いのだ。
その内容を扱った小説なら読んだことがある。
『イワン・イリイチの死』だ――
「……ちょっとトイレ」
「あ、いってらっしゃい」
帰ってきたら五回戦ね、と涼子は付け足した。
俺は適当な返事をしながら、なるべく自然な動きで、脱ぎ捨てた服を持って、トイレに入った。一抹の罪悪感を抱きつつも、急いで服を着る。足元がふらつき冷や汗が滲み出てきたが、歯を食いしばって我慢する。
最後にベルトをしめると、意を決する。ポケットに財布が入っていることを確認する。自分のだらしなさが初めて役に立った。
トイレのドアを開ける。
そのまま、どたどたと音を立てつつ、玄関に突進する。靴を足に引っかけるようにして、外に出た。
やや傾き始めている太陽が、目に染みた。
俺は外に出た。
急いで自分の自転車に飛び乗って、駅目指して必死に漕ぎ始める。
そもそも、小松が女になるとか、あり得るわけない。小松と家で発見したエロ本を交換した思い出がちゃんとある。その後親父に超怒られたことも。
向かう先は一つ。昔自分が住んでいた町。
小松の家だ。
※
「……え」
呆気にとられ、何も言葉が出なかった。
部屋に漂う線香の香り。黒い仏壇。その中に、小松はいた。
最後に見たときとは見違えるような、それでも面影を残した顔で、白黒の写真になって、仏壇に飾られていた。
電車の乗り継ぎやバスの待ち時間で、結局地元に着いたのは、夜の八時ごろだった。そこから歩いて小松の家まで行った。途中の移動費で、財布の中身は空になった。
夜に突然訪ねてきた俺を、小松のお母さんは「お久しぶりです」と出迎えてくれた。そして、真っ先に仏間に案内してくれた。
「亮は、あなたが訪ねてきてくれることを、なぜか知っていました。余計な心配をかけたくないと、あなたには何も言わないように言われていたので……ごめんなさい」
虚ろな声で、いいえ、と答えるのが精一杯だった。
俺の親友の小松亮は死んでいた。一年前から入院していたらしいが、ちょうど二週間前、病院で息を引き取った。癌が体中に転移していた。もう助からない覚悟はしていて、身の回りの整理は綺麗に済ませてから逝った――そうお母さんが語っていた。
そうして、棚から大切そうにしまってある手紙を、俺に差し出した。
「これを、あなたに、と」
俺はそれを開けた。中からは、びっしりと細かい字が書かれた二枚の便箋が出てきた。
『お久しぶりです。この手紙を読んでいるということは、きっと君は僕に何らかの連絡をつけようとした。ということは、もう彼女が君の所に来たのでしょう。』
彼女、という言葉に嫌な予感がした。
『彼女の名前は武田涼子。僕は、たまたま駐輪場で自転車をドミノ式に倒して慌てている彼女に出会いました。そこを助けたのが僕です。それから僕らは付き合い始め、たまには喧嘩をしつつ仲を深め合い、一年間が経ちました。』
死ねリア充。いや……もう死んでいた。
『しかし僕が入院し、病気が治らないことが発覚して、彼女にそれを伝えたところ、彼女は私も一緒に死ぬと言い始めました。彼女は愛に飢えていましたし、僕がいなくなったらダメになると思いました。』
言いたい放題だな。
『そこで、僕は仕方が無く、君の名前を出しました。僕の生涯一番仲が良かった友人はこの人だ、僕の心残りは彼だけだから、出来れば愛してやってくれ、と言いました』
余計すぎるお世話だ。死にそうなやつに心配される覚えはない。
『そして涼子には、面白い提案をしました。性転換した僕のフリをする、というものです。手術をした、でも、朝気が付くと女になってた、でも、そんな感じで(笑)。そこで覚えていることを全て教えました』
(笑)じゃねえよ。
『大変一方的だとは思いますが、涼子のことをどうかよろしくお願いします。君のことを生涯で一番の親友だと思っていることは本当です。出
来れば元気なうちに再開したかったのですが、会いたいと思った時はもう入院していました。心配はして欲しくないので、黙っていました。すいません。もし許してくれるなら、これからも友達でいて下さい。
それでは、もう会うことはないでしょう。くれぐれも涼子の事を頼みます。たまにはこの土地に帰ってきて下さい。
小松亮』
手紙が終わった。
「亮はあなたのことをよく話していました。社会人になったら、もう一度会いたいといっていましたが……本当に残念でした。それと、これもあなたに渡すよう言われていたものです」
小松のお母さんが、そう言ってもう一つの封筒を取り出した。今度は、何か厚みがある。開けてみると、一万円札が数枚入っていた。そして小さな紙も入っていた。こう書かれている。
『バイトで溜めたお金です。移動費として受け取って下さい。それと、もし彼女を一人にしてきたなら、すぐに帰ってあげて下さい。最後のお願いです。』
俺はお母さんに、向き直った。
「ありがとうございました。あの、また近いうち、今度はゆっくりと立ち寄りたいと思います。でも……今は帰らせて下さい」
お母さんは何も追求せずに「こちらこそ、ありがとうございました」と言った。
俺は、無礼を承知でもう一つだけお願いをした。もう、今の時間では、田舎のバスは全部走ってない。
「あの、すいません、一番近いタクシーを呼んで下さいませんか」
俺には、待たせてる人間がいる。
※
駅前に置いておいたチャリは、どこかへ移動されていた。
今、俺は走っている。
タクシーと電車の残っている線を繋いで、何とか俺の家の近くまで来たのに、最後の最後で自転車がポリ公にパクられた。死ね公僕。
――クソ、有料駐輪場でもケチらず使えばよかった!
ついさっきまで載せてもらっていたタクシーで確認した時間は、午前二時過ぎ。深夜もいいところだ。まさかこの時間にランニングすることになるとは。
頭が痛い。脇腹も痛い。心臓もかなりの負担をかけている。
だが、俺は急いで帰らなければならない。俺の部屋にはウサギ並みにさびしがり屋で、面倒くさい奴がいるから。しかも友人の頼みとあれば、がんばるしかないだろ。
数十分は走っただろうか、やっと家が見えてきた。自転車で漕ぐときは大した距離でないのに、俺の体力では絶望的に遠く思えた。
がんばれ俺。睡眠時間なら、電車で取ったじゃないか。
アパートに着いた。最後のラスボス・階段が異様に辛い。だがしかし気合で駆け上る!
俺の部屋のドアの前まで来た。ここで一旦深呼吸……をしたら、余計に気持ち悪くなってきた。
ゆっくりと扉を開ける。鍵は開いていた。
明かりが点いてない暗闇の中で、人影が動いた。
窓から差し込む月明かりで照らされたその横顔は、涙でボロボロにな
っていた。
思わず、下駄箱の前で立ち止まる。
何て言えばいい? ただいま、これは違う。待たせたな、これはキャラじゃない。ごめん待たせた、よしこれでいこう。
俺は思い切って腹の底から声を出そうと息を吸い込んで吐き出した結果、
「ごめ――」
喉から胃の中身が逆流して、玄関付近にぶちまけた。
そこから意識はふっと無くなり、その汚物の中に倒れ込んだことを最後に理解した。
※
気が付くと、俺は涼子に膝枕され、団扇で仰がれていた。
また裸になっていたが、どうやらこれはゲロの後始末をしてくれたようだった。シャワー室を使ったのか、髪の毛が軽く濡れている。おそらく床掃除もやってくれたのだろう。裸でも文句は言うまい。
しかし、ズボンの後ろポケットに、手紙を入れていたのを思い出した。あれを洗濯されてはいけない。イガイガする喉から声を出した。
「うう……ズボン、の、後ろ……ポケット」
しかし、目の前にすっとその手紙が差し出された。
「大丈夫、少し折り目がついたけど、まだ読めるわよ」
それは……良かった。
安心から少し気持ちが軽くなった。俺は帰ってこれたのだ。
涼子の膝から上体を起こす。そして、倒れないように気をつけながらも、洗面所に行った。水を口の中に入れて、うがいをする。二度三度。
やっと喉がすっきりした。水を一口飲んでから、呼吸を落ち着けた。
居間に戻って、後ろを向いている涼子の隣に腰を下ろす。
さて、何から話しはじめたら良いだろうか。そう思っていたら、涼子から口を開いた。
「ごめんなさい。許してもらえないかもしれないけど、私、淋しくて、だから、亮のことを一番知ってるあなたのところへ来てしまって……」
「気にすんな。全部分かったから」
小松に言われて俺のところに来る時点で、彼女も被害者のようなもんだ。全部、小松が悪い。
まあ、親友のよしみで許してやるが。
隣の女は、しくしくと泣き始めた。頼むからやめてくれ。泣いている女性には、どう対処していいか分からない。
むしろ、俺は涼子に話してほしいことがいくつもある。小松のことだ。
「あー、ちょっといいか」
「……なあに?」
「あいつ、俺の事どう言ってた」
涼子は少しだけ泣くのをやめて、思い出すように語る。
「どうせコミュ障でモテないから、彼女もいないだろうって。女性に対しても免疫無いから、色仕掛けで落とせるだろうとも言ってた」
「あの野郎……」
「でも、すごく純粋で、優しい人だって言ってた。あなたの話はよく聞いたよ。懐かしそうに話してたから、大切な人なんだなって思った」
そうか。
結局俺は生きている間の小松に、何もしてやれなかった。だから、小
松のことをもっと知りたい。知らなければいけない気がする。
「小松、死んだんだよな」
涼子が無言で頷く。
「俺の事、親友って言ってくれてたのに……何で俺、忘れていたんだろ、俺は馬鹿だ」
少しだけ、俺は俯いた。涼子に泣いていることを悟られたくなかった。
涼子はもう、しゃくり声を上げずに黙っていた。
「……」
「頼む。もっとあいつのこと、話してくれ。せめてそれだけでも、心が軽くなる気がするから、頼む」
涼子は、話してくれた。初めての馴れ初めのこと、喧嘩をしたこと、入院してからのこと、そして最期のこと。
「亮は、やり残したことはもうないって言って、とても安らかに逝った。最後まであなたに連絡しなかったのは、心配かけたくないっていうのと、やっぱり、弱ったところを見せて悲劇の主人公を気取るのが嫌だったからだと思うわ。そういうところ、頑固だったから」
俺の記憶の中の小松亮も、そういうヤツだった。二人で創作小説をした際には、いつも俺の設定を甘いと批判していた。言うだけの能力ももちろんあったが。
そろそろ涙も収まってきた。俺も口を開く番だ。
「よし、今度は俺が中学時代の小松のことを話す。あいつが話さなかった恥ずかしい出来事まで、全部言ってやる」
「うん。お願い」
朝が来るまで、小松亮についてお互いに話した。話が通じるところが多くあって、とてもあいつのことを身近に感じた。
俺は明日にでも墓参りに行くつもりだ。お母さんに約束したし、何よりあいつの死を受け入れた状態で、もう一度墓前に行きたい。
死んでしまった人間に対して何が出来るかは分からない。
それでも、自分の死を契機に、変な出会いを設定してくるあたり、とても優秀な作家であった。それを感謝することが、あいつも一番喜ぶと思う。
正直、涼子と今後どうするかも分からない。いや、さすがに亡くなった親友の彼女と付き合うとか、誰だって気分悪いわ。
彼女にしても、小松のことに決着つけたら、さすがに俺なんかよりいい相手を見つけると思う。うまい料理を食えなくなるのは辛いが、それが彼女のためだ。てか、彼女も大学生なら、夏休み終わったら帰るだろうし。
それでも。
全部未来の話だ。今はあまり関係のない話だ。俺は考えるのが好きじゃない。そんな暇があったら、友人を悼んだり、目の前の料理をおいしく頂きたい。
だから、月並みな言葉だが、心の中で言う。
ありがとう。お前のことは忘れない。
俺は、お前の分まで、強く生きるよ。
ふと、涼子が話をやめた。
「あ、そうだ」
「なに?」
「五回戦目、まだだったね」
「えっ」
夜は、まだ長いようだった。
(終)
『スパークリングサマー』 深海著
宇藤さんの汗は、クリームソーダで出来ている。
どうしてかは誰も知らない。原因も理由も構造も一切不明。最新の医療技術をもってしても、膨大な化学式を当てはめても、はたまた霊媒師に前世を聞いてみたって、宇藤さんの秘密を解き明かすことはできなかった……らしい(あくまで伝聞でしかない)。結局、それは人類を脅かすわけでも、地球環境に害を及ぼすわけでもない無害な不思議だということで、彼女は特にこれといったハンデもなく女子高生をやれている。ただ一つ、体育を毎回見学するということ除いては。
「隣、いい?」
私は隣の宇藤さんに声をかけてから、校庭の隅にあるベンチに腰掛けた。火曜二時間目の体育、私は捻挫で見学することになっていた。私たちの外側では、サッカーの試合が始まろうとしている。
「暑いね、今日も」
私はひび割れた地面と、綿菓子みたく膨らんだ積乱雲を視認してから、宇藤さんに喋り掛けた。彼女はいつも通り、穏やかな顔で校庭を見ていた。
「夏が来た、って感じがするね」
宇藤さんは涼しげな声で夏の到来を告げた。ほんのりと甘い香りが漂っている。青くて、爽やかで、夏めいた香り。私は宇藤さんが身にまとう、その香りが気に入っていた。クリームソーダはいつだって、子供時代の記憶を掻き立てるのだ。
「宇藤さんは夏、好き?」
そう尋ねると、宇藤さんは首を横に振った。高く結われたポニーテールが、それに合わせてさらさらと揺れる。甘い香りが広がって、乾ききった空気がすこし潤んだ。
「あんまり好きじゃない。汗をかくから」
「そっか。いい匂いなのに」
「ありがと。でもこれって結構、べたべたするの」
服も髪も貼りつくから、ほんと、サイアク。宇藤さんはそう言って笑った。その言葉には、日焼け止めを塗り忘れたことを愚痴る女子と同程度の深刻さしか含まれていなかった。言うならばそれは日常的不満。
私は宇藤さんの、こういうところ、すごく好きだ。彼女はいつだって、特別不幸でも、特別幸せでもないって顔をしている。誰もが特別になりたがるこの時代にあって。しかも、その気になれば彼女は世界で唯一の特別な存在になれるっていうのに。
私は尊敬と感動をもって、宇藤さんの横顔を眺めた。
「私は夏、好きだな。それから、クリームソーダも」
思わずそう言うと、宇藤さんは嬉しそうに笑った。
「ありがと。照れるな、なんか」
髪型を褒められたってぐらいの、ありふれた笑顔だった。どこにでもいる、普通の、可愛い女の子の顔。彼女はあくまで女子高生なのだ。たとえ彼女がクリームソーダの汗をかき、一度も体育を受けられない特別なこどもなのだとしても。
緩やかに沈黙した私たちを、蝉の声とグラウンドの喧騒が包み込んでいた。微炭酸を含む初夏の風が流れ、ふわりと甘い香りをかきまぜていく。
宇藤さんが不意に言った。
「舐めてみる?」
まるで昨日の小テストの話でもするみたいな調子だった。ちょっと片手を持ち上げて、私の鼻先で細い指を振って見せるのは、ありきたりとさえ形容できそうなくらい、日常的だった。
「味も、ちゃんと甘いんだよ」
「…………」
私は不思議に穏やかな気持ちで、宇藤さんの涼しげな顔を見返した。その黒目があまりに落ち着いていたせいかもしれなかった。私は少し顔を近づけて、その指先の匂いを嗅いでみる。青くて、爽やかで、夏めいた香り。ささやかな奇跡。懐かしい記憶を呼び起こすこの匂いを、もっと、もっと胸いっぱいに吸い込んでしまえば――引き寄せられるように、私の鼻先と、宇藤さんの指先が、ぶつかる。
「あ、」
走った電流の強さは、例えるなら微炭酸。一瞬弾けてはすぐに消えるスパークリングが、どうにかなりかけていた私の理性を呼び覚ました。慌てて顔を離す。
「……ありがとう。でも、舐めるのは遠慮しとく」
「そう」
宇藤さんは、いつもどおりの顔で、自然に手をひっこめた。特別なことは何もなかった。空気が動いて、また少し香りが撹拌された。
ゆっくりと沈黙が降りてくる。
――いったぞ、そっちだ!
――いけ!
校庭の方から誰かしらの声が聞こえてきた。私も宇藤さんも、どちらともなく校庭の方に目を向ける。手前のコートでは男子の試合が行われている。晴れ渡った空の下、容赦ない日光を全身に浴びながら、みんな夢中でボールを追いかけていた。赤色のゼッケンチームのエース、黒墨くんが、華麗にシュートを決めるのが見えた。28℃の校庭に生徒の歓声とホイッスルの音が響く。
夏だね、と宇藤さんが呟いた。彼女の声はやはり涼しげだった。グラウンドでは後半戦が始まろうとしている。みんなが太陽に浮かされているなか、私たちだけが、日陰に取り残されていた。ここは快適な場所なのに、せっかく体育をさぼれたっていうのに、なぜだかすこし、寂しい。それでも私はいずれ、みんなの中に戻れる。夏の日差しの中で声を張り上げることも、ボールを追いかけることもできる。でも、宇藤さんは、ずっとこのままだ。この校庭の片隅のベンチに座って見学するだけ。これまでも、この先も、ずっと。
それってなんだか、すごく――
「…………」
宇藤さんが、私を振り向く気配がした。それから多分、僅かに重なった指先を見た。
「……ごめん」
私はあくまで校庭を見ている。私は卑怯だ。勝手に羨んで、勝手に同情して。宇藤さんの気持ちなんか、これっぽちも理解できやしないくせに。それでも指を離さない、私は卑怯。
「いいの。……そのままで」
ずるい私を、宇藤さんは静かに許した。それから、その甘い指先を微かに寄せて、私の小指を絡めとった。そこから流れ込む微かな痺れが私たちを、繋ぐ。
夏が来たんだ。熱狂的な歓声と、真っ白に膨らんだ入道雲と、スパークリングな指先が、それを私に教えている。
夏が、来た。
平成26年度『楓』 夏季号 短篇小説集