恋愛先生ニューヨークに帰る

 冬垢(ふゆあか)を一掃する、札幌に限らず雪国ならどこでも春を迎えるに必要な儀式である。
 一面純白の雪景色も、解けてみれば滑り止めに撒かれた砂利や、不届き者の飼い主が処理しなかった犬の糞など、さまざまな残滓が路上に遺される。それを市役所の清掃車からご町内のボランティア隊に至るまで総動員で処理して、やっと春の到来の準備完了となるのである。それは丁度、一度終わった恋も、一定の後始末の期間を置かないと次の恋の収まりが悪いのに似ている。だが、個人的な恋の後始末には市役所の清掃車も、ご近所のボランティアも駆けつけてはくれないので、基本、自身で掃き清めるより他に方法がないのである。恋垢(こいあか)の後始末は自分で――そんなことは一度や二度の燃えるような恋とその収束とを経験した者なら高校生でも知っている。
 相川蓮生(あいかわはすお)は、自宅マンションの一一階の窓からゲレンデの雪が八割がた解けた藻岩山方面を眺めている。山々の稜線を金赤と琥珀色のまだらに溶かしながら、いままさに太陽が沈もうかという時間。これで札幌での七度目の冬を越したことになる。その市民スキー場でこの冬は一度もスキーをすることはなかった。東京からこちらに越して来たばかりの頃足しげく通ったことを考えると、その飽き性には自分でも呆れる。いや、スキーにだけ飽きたのではない、札幌での生活全般にさほどの新鮮さを感じなくなってきたのかもしれない、と蓮生は思う。同じように、大学の教壇に立つこともチャレンジングでも刺激的でもなくなっている自分がいた。
 札幌で大学に教職を得て、学生を教えながら趣味の小説を書く、それはある意味、夢のような生活であった。「北海道」と「大学教授」が具体的な目的であった訳ではないが、およそそのような漠然とした生活の理想のイメージがあったから、あの東京の灼熱の夏も乗り切れた。未明から昼下がりまで、上昇一途の温度計を横目に、一心不乱に研究論文に打ち込めた。書いては学会誌に投稿し、着実に研究業績を重ねたのが七年ほど前までのおよそ二年間。結果的に、その期間に印刷された論文の数が、採用人事を話し合う教授会での最後の説得材料になった、と後に聞かされた。
 ニューヨークのウォール街でちょっとは名の知れた外国為替ディーラーとしての職を投げ打って帰国した蓮生にはいかなる転職も収入減は織り込み済であったから、後は高収入に代わる自分自身の納得材料が必要だった。金持ちを目前にして途中で離脱した者には、後は時間持ちになるか、肩書き持ちになるかしか途はなかった。
 で、地元の北海道では一定の評価が確立した私立大学の経営学部で国際金融論の担当者としてのポストを得て、なんとか体裁を繕える肩書きとあり余る時間とを得ることが出来た。ウォール街にいた時のような高額の収入は望めないが、それでも時間給に換算すればちょっとした賃金を貰うのが大学教授という職業だということもおいおい分かった。だがしかし、ただひとつ誤算があったとすれば、大学教師とて放っておくと恋垢は随分と溜まる、ということである。電話が鳴る。
「はい、相川です」
 電話の子機を耳に当てながら、蓮生は依然、藻岩山を眺めている。
「パパ、元気?」
 娘のエツコの声がリアルに響き、一万キロ以上も離れた場所にいるとの実感は蓮生にはない。
「もちろんパパは元気だけど、そっちはまだ明けてないでしょ? どうしたの、こんな早くに?」
 こちらが夕刻五時であれば、ニューヨークは未明の四時。向こうは既に、夏時間である。外国為替の仕事が長かった蓮生にはそんな時差の置き換えは訳がない。
「へへへ、けっきょくクラブで踊り明かして家に戻ったのがほんのさっき。サヴォワの玄関でジョバンニに、エッツはだんだんダディに似てきた、って笑われたわ」
 サヴォワはエツコとその母親のリツコが、つまりは蓮生の別れた妻が住むマンハッタンの、アッパーイーストサイドの高層のコンドミニアムである。そのドアマンの一人が東欧出身で長身のジョバンニ。その街でエツコは誰彼からとなくエッツと呼ばれているのだった。
「その辺だって決して安全という訳ではない。まさか地下鉄での朝帰りじゃないだろうけど。第一、ただでさえ寝つきの悪いママの睡眠時間がますます削られる」
「やさしいのね。でも、ジュリアーニが市長になってからこっち、街には秩序と賑わいが戻ったの。この十年近く、お勉強ばかりしてきたパパには実感としては伝わらないよね。第一、ママだって、いつ帰るとも分からないご主人を寝ずに待ち続ける昔のママではないわ。ママの言いつけはひとつ、どんなに引っ越しの作業員やスーパーの配達員の汗の臭いがしても、深夜は監視カメラが付いているサービスエレベーターになさいね、ってことだけ」
「へえ、サービスエレベーターに監視カメラがついたの?」
「札幌でだって今日日ニューヨークタイムスの日曜版が読める、ぼやぼやしてると時代に置いてかれるぞ、って忠告して下さったのは誰だったかしら? 去年だったか、三階のランドリールームでレイプ未遂事件が起きたからね。捕まってみればコリアン・グロッセリーのヒスパニック系の配達員だったのよ。時間からすると、どうやらうちへの配達が終わった直後の出来事だったみたい! サービスエレベータを途中下車してランドリールームに小一時間も潜んでたみたいなの。被害者の台湾人女性の金切り声が一階のジョバンニ達にもはっきり聴こえたのが不幸中の幸い。レイプ犯がうちに立ち寄った時、最初にドア開けたのが見た目中学生の私じゃなかったらと思うとぞっとするわ」
「ママだってスキはないさ」
「随分と会ってないもんね、最近のママの艶っぽさったら女の私が見ても眩しいくらい。まさかどっかの恋愛先生のように、寸暇を惜しんで恋をしているようには思えないけど。くっくっく」
 屈託のない笑い方がリツコにとても似てきたと蓮生は思った。それにしても、エツコは「恋愛先生」という言い回しをどこで耳にしたのだろう。尋ねてみたいが、その後の質問攻めを思うと軽々には訊けないと蓮生は思った。二十歳を目前にしてエツコの目下の一番の関心事は男と女のことなのだ。
「で、何か用事があって電話してきたんでしょ?」
 蓮生はきっぱりと会話を軌道修正する。
「ママがね、ノックスヒルズで検査を受けたのは知ってるよね?」
「もちろん。外科のドクターサイムに紹介状を書いたのはパパだからね」
「そうか、そうだったのね。で、そのドクターサイムが、あの時代がかった日本語で言うには、〈検査の結果が思わしくない〉そうなの」
「何が、どう〈思わしくない〉というの?」
「それがママにもちゃんとは分からないみたいなんだけど、コロンビア大学系列の胃カメラ専門医の再診を受けることになったって。ラッキーなことに、その専門医のオフィスはサヴォワからすぐよ。パパ、ママなんか悪い病気じゃないよね?」
「それはちょっと心配だね。でも大丈夫。何かあればサイム先生がすぐに知らせてくれる。彼は僕の株指南で若くしてひと財産築いたんだからね。貸しはたっぷりとある。それに、発音はイマイチだけど、会社四季報を読むにも日本語で不自由しないくらいの日本通、日本語通だから、ママとのコミュニケーションも問題なしだ。だから、エツコは余計な心配しないで、まずは一眠りしなさい。大学は休んじゃ駄目だよ」
「パパ、こちらは明けて土曜日よ。授業はありません」
「週末は、先月から始めたばかりの病院事務のバイトがあるんだろ?」
「午後からね」
「ほらみろ。寝なさい」
「パパ?」と今日のエツコはどこまでも執拗である。
「何?」
「もし万が一ママの結果が思わしくなかったとして。たとえば余命一年とか……。それでもパパはママに会わない? 会いたくない?」
「ひとつ、ママの結果は思わしくなかったりしない……多分。ふたつ、結果が良くたって悪くたって、エツコとエツコのママがパパを必要とするなら、パパはいつだってニューヨークに飛んでくよ」
「あのママの性格でパパ来て、来てっていう訳がないじゃない……。ま、いいか。いずれにしたって、いつも以上に私たち二人はキープ・イン・タッチよ。お願いよ、恋愛先生!」
 その言い方はやめなさい、と蓮生は言おうとしたが、海の向こうでエツコはすでに受話器を置いていた。回線の遮断を知らせる電子音が微かに漏れる子機を、すっかり日が暮れた藻岩山の頂に一度かざしてから、蓮生はやおら「外線」のボタンをオフにした。

*  *  *

 札幌時間の翌日曜日、蓮生は早起きをして料理をつくった。札幌市郊外の由仁町(ゆにちょう)に住む知人が、「トウキビ」やジャガイモ、カボチャ、アスパラガスなどを適当にみつくろって、ダンボールに一箱届けてくれている。それぞれの食材を厚からず薄からずスライスして、熱した油にさっとくぐらせ、昨晩のうちに昆布を戻してつくっておいた和風だし汁に浸すと、春野菜の揚げびたしの出来上がりだ。
 かつては和食を殆ど口にしない蓮生だった。学生時代から結婚生活、そしてその後の子育てから離婚の直前まで、足かけ二〇年近くもマンハッタンに暮らした蓮生には日本食は出されれば嬉しいが、探し求めるほどの対象ではなかった。それが、久しぶりに帰国してみれば、食材の持ち味を活かした和食の食感の一つひとつに感動を覚え、やがて自分でつくるということにも関心が芽生えた。懐かしさというよりも、日本を留守にしていたそれなりの期間も、体内時計は確実に時を刻んでいた、ということなのだろうと蓮生は思う。
 インターフォンが鳴り、受話器をとる。
「先生、私です」
 ハウリングぎみで、修理人を呼ぶべきかと悩むほど、インターフォンの感度は良くない――あるいは、良すぎる?――が、歯切れのいい葉子の声は蓮生にはいっぺんで分かる。
「あ、いらっしゃい」
 ボタンを押し、施錠を解除しながら、少しはしゃぎ過ぎたトーンの「いらっしゃい」ではなかったかと蓮生は少年のように恥じた。
 受話器を置くと、蓮生はすぐに玄関に行き、サムターン錠とチェーン錠を外す。マンハッタン暮らしが長かった蓮生には、いくら札幌は大丈夫だ、と言われても帰宅後、就寝前の施錠確認は入念である。だが、葉子がやってくるからには、あなたのために扉はいつも開け放たれていますよ、との態度を装いたかった。しかして、
「ほら、先生、鍵はきちんとかけなきゃ駄目っていったのに……」
 後ろ手でサムターンとチェーンをロックする葉子。
「こんな魅惑的な女性が侵入すると分かっていたらしっかり施錠しておいたのに」
 おどけてみせる蓮生。薄水色のドレスシャツの前ボタンを上から二つほど外してはおっていることと併せ、磊落な男性という演技はいきなり佳境を迎えていた。
ローファーをまだ脱ぎ終わらない葉子を扉に押しつけながら、葉子のふっくらとした唇に、乾燥で少々荒れた唇を重ねる蓮生だった。一、ニ、三……。心のなかで三つ数えてから、
「会いたかったよ」
 蓮生はまだ目を閉じたままの葉子の右の瞼に、温かい息を吹きかける。
「私も。恋愛先生」
 葉子の抜けるように白い頬に薄っすらと赤が拡がっていく。
「入れたい」
「また始まった、恋愛先生の意地悪……。そういうはしたない言葉をわざとぶつけて、私を困らせる……」
「困らせてないよ。葉子とひとしきり談笑して、ツタヤで借りてきた新作の映画を観て、僕の料理を食べて、そして、愛し合う。ここんとこいつものパターンじゃないか。どうせやることは三つか四つに限られるんだから、どれが先に来たってかまやしない」
「だったら、今日は恋愛先生のお料理を最初に食べたい!」
 まだ蓮生の腕の中の葉子が上目遣いにおどけてみせる。
「それは二番目」
「じゃ、ビデオ」
「それは三番目。で、一番はやっぱりこれ」
 蓮生は腕の中で葉子を半回転させて、白いフレアスカートの裾を一気にまくり上げる。
「うぐ」
 葉子は自分の声を飲み込むようにして、やがてうつむく。もう順番は問わない。
「葉子のお尻の頬っぺた、冷たいね」
 下着の中を右手でさすりながら葉子の耳許で蓮生が囁く。
「もうじき五月だというのに、外はまだ寒いんだよお」
「今日は自転車だったんだ?」
「だって、もうじき五月だよ。うかうかしてるとまた雪の季節。そしたら、もう自転車乗れないじゃん」
「半年先のことを心配してるの? 葉子は気が早いな」
「気が早いのは恋愛さんの方だよお」
 すでに蓮生は葉子を後ろから突き上げている。葉子は玄関の扉に両手をついて、必死で身体のバランスを保っている。扉の向こうにかすかに業務用バキュームクリーナの音が聴こえる。砂ぼこりを巻き上げる吸引音に混じってクリーナのヘッドが時折、壁に当たる音も。
「気持ちいい?」と蓮生。
「うん、だんだん気持ちよくなってきた」と葉子。
 クリーナのノイズは途絶えることなく、むしろ音が大きくなった。鉄の扉一枚を隔てて一心不乱に掃除機をかけている男――あるいは女?――がそこにいる。日曜日の朝の掃除は一一時を過ぎてから、とのマンション理事会と清掃委託業者との約束は今朝も破られている。

*  *  *

 藻岩山を見下ろす二〇畳ほどのリビングルームに、二列に向き合って座れば八人はゆうに座れる長テーブルがひとつ。その中央で葉子はおろし金で自然薯をすっている。遅い朝食の最後の準備に余念のない蓮生が命じた葉子の今日、唯一の仕事である。するほどにぬめりを増す山芋は葉子の指を汚し作業を難しくした。
「恋愛先生、葉子、もうじきER卒業だよお」と葉子。
「そう」
 アイランドキッチンでサラダにパルメジャーノレッジャーノを削る蓮生は視線もくれない。
「あれだけ厭だったERも、離れるとなるとちょっぴり淋しいな。葉子、この華奢なからだでしょ? 患者にのっかってのシンマはさすがにつらいけど、縫わせるとちょっとしたものよ」
「シンマって?」
「心臓マッサージ。なんだと思った?」
「麻酔。だって、かかりつけの歯医者が麻酔のことそう呼ぶから。符丁にも色々あるんだね」
「符丁?」
「そう符丁。業界用語? 僕ら大学の教員がべっぴんさんの女学生のことをピンガクって呼んだりする、あれ」
「ピンガク? おい、恋愛! そういうこと、懲りずにやってる訳?」
 葉子は、チビた山芋のすり残しを蓮生に投げつける。蓮生はひょいと身を交わし、それをよける。山芋のカケラがぴちゃっ、と音を立て、冷蔵庫の扉にはりつく。
 カケラをクリネックスで拭きとりながら蓮生が言った。
「うそうそ。ピンガクなんて下品なことは言わない。そんな隠語……っていうか符丁はないない」
「ったく。往生際が悪いんだから、恋愛先生は。いくらシングル・アゲインだからといって、素行悪すぎると大学の先生クビになっちゃうよ。私んとこの大学病院にだっているんだから、研修生に膝に座れって命じて厳重注意を受けたオヤジ教授。目下の私のボスよ」
「命ぜられたのは葉子ちゃん?」
「私ではありません! 第一、私は命ぜられても座るようなオンナじゃない」
「座ったんだ、その子」
「座ったのよ、その子。だって、心臓カテーテル手術の大権威だもの、そのオヤジ教授」
「で、辞めさせられた?」
「辞めさせられない。言ったでしょ、その分野の大権威だって」
「ははーん、突き抜ければ何だってOKなのね。その点、僕は」
「その点、恋愛先生は駄目だね」
「どの分野の権威でもないから?」と蓮生は苦笑する。
「それもあるし」
「それもあるし?」
「膝にのっかった女学生がその気になるから」
「嬉しいね。褒めてくれてる?」
「褒めてなーい! まだ現役感ありありだってこと」
「ほーら、褒めてるじゃん」
「だから褒めてないってば。先生を好きになって、で、いつまでもいつまでも宙ぶらりんでいるのは私一人で沢山だから」
 一瞬、シーザーサラダを最後にペッパーをふって終わりにしようとしていた蓮生の手が止まる。二の句が継げないとはこのことだ、と蓮生は思った。
 医学部に転向したい、と初めて相談を受けた時、葉子はまだ学生で、蓮生が所属する大学の、蓮生と同じ経営学部に所属していた。ゼミの学生という訳ではなかった。だから、葉子の進路相談にのるべき教員は別にいたのだ。それでも、蓮生の受講生三百余名の学生の一人として、ある日、葉子は蓮生の研究室をアポなしで訪ねた。札幌には珍しく、残暑がまだきつい七年ほど前の九月のはじめだった。
 幸いにも、蓮生にとって数少ない札幌の友人の田村は、地元の公立医科大学で外科の教授だった。郷里・福岡の高校の同級生だったが、その後、地元の国立大学医学部を経て、アメリカ東海岸の名門医大に研究留学。請われて助手、のちに准教授としてアメリカに残った秀才だった。札幌に来たのは蓮生より数年早い。訊けば、どんなに業績を重ねても、アメリカの大学で終身在職権(テニュア)を手に入れるのは難しい。それに、
「子供の教育方針について英語で議論するのにも疲れたしな」
 と田村は言う。それなりの期間をアメリカで過ごし、その後向こうでメイン州出身の妻との別離を経験、のちに日本の、それも札幌の大学で職を得る、という不思議な共通点が二人の間にはいくつかあった。だから、
「悪いけど、僕んところの学生を、そっちの医学部に編入させてくれない?」
 と訊いた時、田村は二つ返事で、
「いいよ、うちで良ければ」
 と即答だった。折しも医学部改革が叫ばれはじめた頃で、従来型の入学試験経由で受験突破型秀才のみを受け入れてきたことの反省から、非自然科学系の学生を率先して編入学させる、という文部科学省の方針転換がなったばかりの頃だった。しかして、田村の医大でも、「人文科学・社会科学編入枠」とやらがはじまったという訳だ。
 もっとも、葉子がその医大に入れたのは、非自然科学系学生枠のお蔭というより、彼女独特の可憐さのたまものだと蓮生は思う。経営学部の一年生にとって必修の入門講義ではじめて見かけた葉子の容姿は、一目で網膜に引っかかるイガイガ感があったのである。可愛いとかきれいとかを越えた何か。その可憐だがはかない感じが一定年齢以上の男性にある種のほうっておけなさを植えつけるのだ、と蓮生はいまでは分析している。
「先生、さあ食べよ」
 葉子がキッチンタオルで両手の自然薯のぬめりを拭きとりながら蓮生に言う。
「よし、さあ食べよ」
 いつもは蓮生が座る藻岩山が望める側の特等席を葉子に譲り、蓮生もテーブルに着いた。

*  *  *

「もうじき日が暮れますよお、恋愛さん」
 葉子の声で蓮生は目覚めた。
「いけない、寝てたあ」
 葉子の背後にぴったりと張りついた蓮生が答える。答えながら、蓮生は自分自身の下半身に触れてみる。すでに半分柔らかくなっているが、まだ、葉子のなかからはこぼれ落ちてはいなかった。せいぜい三〇分程度の仮眠だったのだと一人で納得する蓮生だった。
「風が気持ちいい」
 風を孕んで、レースの薄いカーテンがこちら側に盛り上がっている。収まりきらない風がカーテンの裾からこぼれて、葉子と蓮生を撫でているのだった。
「日曜日の午後は愛し合うに限るね」と蓮生。
「恋愛先生、向き直っていい?」と葉子。
「駄目」
「先生とキスしたいの」
「駄目、駄目」
「もう三時間以上もつながっているのよ、私たち。恋愛さんったら、居眠りしながらつながっているよ」
「三時間でも五時間でも、何時間でもつながっていたい。眠ったって、死んだって離れないから」
「先生?」と、葉子は微かにかすれた声で訊く。
「何?」
「奥さんともこうして何時間も何時間もつながってた?」
 蓮生は一瞬躊躇するも、「つながってた」と、きっぱり答える。
「もう……」
「だって、訊いたのは葉子ちゃんの方な訳で……」
「もう……」
「じゃ、つながってなかった」
「何時間?」
「だから、そんなに長く愛し合うことはなかったんだって」
「だから、何時間? 恋愛! 正直に答えろ」
「半日くらい?」
「え、そんなに……」
「いや、八時間くらい?」
「もう、変わらないよお……」と吐き捨てると、葉子はひょいと腰を引く。そして、「あ、抜けちゃったねえ」と呟いた。
 蓮生は葉子のからだを飛び越えて、今度は葉子の鼻に自分の鼻を合わせて対面する。こんなに至近距離で眺めても透明感ある葉子の肌を蓮生は奇跡だ、と思う。
「恋愛先生、訊いていい?」
「質問ばっかり」
「だって、恋愛さんは存在自体が謎だから」と、葉子はいたずらっぽく笑う。
「何?」
「奥さんとのエッチでも逝かなかったの?」
「逝かないねえ」
「逝かなくて、その……不完全じゃないの?」
「不完全って?」
「達成感がない、というか、中途半端というか」
「中途半端なのがいいんだなあ。それに」
「それに?」
「それに、逝っちゃうと愛おしさが突然半減するんだよ、月並みだけど」
「それは瞬間、瞬間でその愛おしさとやらは減るでしょうよ。でもね、男の人ってその、突然減衰する愛おしさの向こうに、人生の悲哀とかを知るんじゃないの。恋愛先生は怖がりなだけよ」
「ご忠告ありがとうございます」
「茶化さないで。ね、訊いていい?」
「駄目」
「これで最後にするから。お願い」
「何?」
「恋愛さんはこの先、一生奥さんのこと許さないの?」
 蓮生は葉子をもう一度裏返しにした。張りのある葉子のお尻を下腹で感じながら、それから自分のものをいま一度ゆっくりと、しかし深くふかく葉子のなかに沈めた。
「あ」、葉子の声が漏れる。
「気持ちいい?」
「答えて、恋愛先生……」
「その前に答えて。気持ちいい?」
「気持ちいいよお。とっても気持ちいいよお。だけど、いまは恋愛先生のことをもっともっと知りたいよお」
 蓮生はいま一度腰を突き出して、また葉子とひとつになれたことを確認した。葉子と一対の入れ子細工になってみれば、いまやこちらから色々なことを話したい、そんな不思議な感覚に襲われていた。
「許すとか許さないとか、そんな段階はとっくに終わったんだと思う。リツコが――あ、僕の奥さんだった人の名前ね――僕の知らないところで、いまの僕らみたいに……こんな風に……時々どこかの誰かとつながっていた。それはね、考えてみれば素敵なことなんじゃないかと思うようにさえなった」
「素敵なこと? 嘘……」
「嘘じゃないさ。考えてもみてごらん。一度は恋に落ちて、深く激しく愛し合った相手なのに、気がついてみたらリビングのひとつのオブジェみたくなっていた。マンハッタンのコンドはね、階数こそ一四階で高くなかったんだけど、サーモンピンクの塗り壁が美しい、それはそれは可愛い部屋だったんだよ。オリーブの植栽越しにお金持ちの手入れの行き届いたタウンハウス群が見渡せて、GEのエアコンもサーモンピンクに塗り揃えられていて。猫足のコーヒーテーブルの上には馬鹿に分厚い日曜版のニューヨークタイムスが週末ごとの贅沢のように載っかっていて、ソニー製のテレビなのに、日本ではもうお目にかかれないようなレトロな代物で。サックスフィフスで買ったスペイン製の、天板が卵型のニス塗りのテーブルは頬杖をつくたびにガタピシして。見上げるとエドワード・ホッパーの「日曜日の早い朝」の複製画がかかっていて。で、振り向くとそこに奥さんがいつも微笑んでいる。完璧なまでの都市生活の、あたかも必須の一アイテムのようにしてリツコが微笑んでいる訳だ。何も失いたくない、と一度となく思ったのも事実だね。ウォール街のファンドマネージャってのはね、稼ぎも相当だけど、プレッシャーもそれ相応な訳で。でもね、この部屋のどの一アイテムも失いたくないと思ったから、必死に働いたよ。もっともっと幸せのアイテムを増やして、で、その数がそのマンハッタンの小ぶりのコンドに入り切れなくなったら、今度はどこか郊外の――グリニッジかハーツデール辺りの――瀟洒な戸建てを買って、宝物全部そっくりそのままお引越ししようくらいに考えていたのかもしれない。それが……」
「それが、一番愛すべきアイテムだった筈の奥様が先生一人のものではなかった」
「そうねえ、そもそもモノではなく、生き物だったってこと。そんなことにさえ気がつく余裕がなかった、ってのがホントのところかな」
 いつの頃だったか、リツコはリバーサイド教会に登録する、ボランティアの英語指導員となっていた。コロンビア大学の大学院でジャーナリズムの講座をぽつりぽつり聴講するようになったのと実は動機も時期も一緒で、アッパーイーストサイドの堅牢なコンドミニアムに幽閉されながら人生を終えるのではかなわない、とリツコは思うに至った。
それにしてもリツコは凄い、と蓮生は思う。渡米したばかりの頃はリツコ自身、リバーサイド教会で英語を教わる身だったのだ。英語もままならないままマンハッタンでエツコを出産。その後、子育てをしながらマンハッタンの生きた英語を身をもって習得し、いつしか生徒から先生に鞍替えしていた。もちろんネイティブのように流暢な発音ではなかったが、自身が英語で苦労した分、生徒たちの評判は良かった。生徒の多くはマンハッタンに移住したばかりの移民、それも多くは授業料を払えない、もしくは授業料を払うための稼ぎを担保する就労ビザさえ持ち得ない越境者たちだった。
「でも、どうして奥さんがモノではなく、生き物だってことが分かったことが素敵なこと?」
「それはね」と、蓮生はそこで一度言葉を区切ってから、葉子の下腹の下に、羽毛枕を二つ折にしてあてがった。枕を挟んだ分、葉子の白い尻がとんがった。そこまで一連の動作を間断なく、また、下半身を離すことなくやってのけて、蓮生はにわかに葉子を突き上げるピッチを上げた。
「あ、あ、あ」と、葉子の声が一定のリズムを刻んで漏れる。
「それはね、ほら、こんなして生きてるって実感を掴みとっていたんだね、あの頃のリツコも」
「それはそうだけど……あ、あ、あ」
「当時の僕は、眺めるだけでリツコの微笑みは永遠な気がしていたんだけど、間違いだったんだね」
「だって恋愛先生にはお仕事が」
「仕事は仕事。恋愛は恋愛」
「先生は先生?」
 意味もない葉子のその言葉に、一度沈黙があって、そして次の瞬間、二人して「ぷっ」と吹いた。吹き出してみれば、可笑しさは途方もなくて、葉子は蓮生から、蓮生は葉子から弾け飛んだ。そうして、裸のままの二人並んでうつ伏せに横たわり、脚をばたばたさせながら笑い転げた。「恋愛は恋愛?」と葉子がばたばた。
「先生は先生?」と蓮生がばたばた。
 蓮生は、一度は葉子の腰に敷いた羽毛枕をたぐりよせ、最後の笑いを押し殺すように思いっきり顔を埋めた。
「あ、葉子の匂い」
「やあだ、恋愛先生のものの臭いよ、きっと」
「違うちがう! まだ大人になりきってない葉子の肌の匂い」
「肌の匂い?」
「そう。小学生の頃、半袖からのぞいた二の腕を思いっきり吸ったことない?」
「ない」
「僕はある。そうしたら、二の腕に赤くくっきりキスマークがついて。一生消えないのではないかと心配したりした」
「馬鹿みたい」
「そんな夏休みの小学生だった僕の二の腕の匂い」
「へえ」
「汗と太陽と明るい未来が混ざり合った懐かしい匂い」
「恋愛さん、今日はなんだか大袈裟ですね」
 と言うと葉子は、一向に羽根枕から顔を上げない蓮生の背中に乗っかった。
「ドクター、シンマですか?」と蓮生。
「いえ、シンマはもう手遅れですわ」と葉子。
「だとすると、このまま恋愛は死ぬんでしょうか?」
「そうねえ、最終治療にマウス・ツー・マウスはいかがでしょう?」
「欲しいほしい!」
「瀕死の患者さんがおねだりしちゃ駄目」
 いつもとは逆に、葉子が蓮生を裏返す番だった。常に挿入するだけで果てることのない蓮生の下半身は無防備に硬く、突っ立っていた。それを葉子は自分の下半身でゆっくりくわえ込んだ。
「うぐ」
 葉子を真似て声を出してみれば、蓮生にはそれはそれでとても刺激的な体験だった。
「マウス・ツー・マウス入ります」と葉子。
「マウス・ツー・マウス願います」と蓮生。
 葉子は蓮生にそっと唇を重ねる。葉子は眼を閉じている。蓮生もゆっくりと目を閉じた。

*  *  *

 月曜日の未明、蓮生のケータイがけたたましく鳴った。しかし、ケータイが鳴るより数秒前に目が覚めた、というのが本当のところだった。その後、身にふりかかることを予測することは出来なかったが、少なくともケータイが鳴ることを予想し得たのである。
「パパ?」と、エツコの声はくぐもっていて、どこか脅えに似た儚さがある。
「うん。ママか?」
間髪を入れず蓮生が訊いた。
「そうなの、なんで分かった?」
「だって、こんな夜明け前に……。しかもケータイへの電話だし」
 蓮生はクイーンサイズのベッドの右の端で目覚めるのが常だ。大人三人が楽に川の字で眠れるベッドでその朝も右端に寝ている自分がいた。起きるとすぐに寝返るようにして右手でベッドの左半分探ったが、葉子の気配はかけらも残っていなかった。昨夜は、いつものようにつながりながら眠ってしまったのだ、と蓮生は理解した。そして、蓮生をそっとほどいた葉子は静かに帰路についたに違いなかった、いつものように自転車を漕ぎながら。
「ごめんね。時間はすっかりこちらの勘違いだけど、ケータイに電話したのは一刻も早くパパに知らせたかったから」
「うん。で、ママの検査結果のことでドクターサイムから連絡が入ったんだね?」
「そうじゃないそうじゃない。だってこちらはまだ日曜日だし。ドクターサイム、結果が分かるのは早くても今週の火曜日以降だって。それよりも……」
「それよりも?」
「ママが土曜日の午後出かけたまま戻ってないの」
「え? そちらは日曜日のお昼すぎでしょ?」
「そうよ、日曜日の午後二時を過ぎたばかり」
「ということは出かけてからら丸一日経つんだね」
「そう。パパと違って、ママ、無断で外泊なんて一度もなかったのに」
 蓮生は、パパと違っては余計だ、と心のなかで呟きながら、でも言葉にはせず、「で、土曜日はママ、どこに出かけるっていったの? 誰かと一緒だった?」と畳みかけた。
「パパにも電話したように、土曜日は私、未明の朝帰りだったでしょ? ひと眠りのつもりが起きたのは土曜の夕方近くで……。ごめん、病院事務のバイト、お休みにしちゃって。で、起きた時にはママはもういなかったの。書き置きも何もなしで、よ」
「じゃ」と蓮生は、エツコの言葉尻に質問を重ねて、「ママがでかけたのは土曜の午後とは言い切れないね」
「言い切れるもん」と、エツコがプライドを傷つけられた幼稚園生かなにかのように語尾を荒げる。
「何故?」
「ドアマンのジョバンニが出かけるママのためにサヴォワの正面玄関のドアを開けたげたのが土曜日の午後二時か二時半だったんですって。エッツのマムはいつも以上にキュートで驚いた、って言ってたわ」
「そうか、さすがエツコ。サヴォワ関係者には聞き込み済みって訳か」
「それに……」とまで言って、エツコが僅かに口籠る。
「それに?」
「ジョバンニと一緒にママを見届けたチーフコンシエルジュのビリー・オースティンさんによると、サヴォワの車回しにタイミングぴったりに海老茶色のメルセデスが滑り込んだんだって。助手席側のドアを開けたのはジョバンニよ。ママはジョバンニに一ドル紙幣を数枚チップとして握らせた。サンキュー、とジョバンニが言うと、いつもありがとう、とママは微笑んだ。それから、ママを乗せたメルセデスはダウンタウン方向に走り去った、そこまでがオースティンさんの話」
エツコが一度言い淀んだのは、奥さんに裏切られた父を日ごろから不憫に思っているせいで、反射的に言葉を取捨選択する学習効果の賜物なのだ、と蓮生は思う。事実、証言のフォーカスはリツコにばかり向けられていて、メルセデスの運転の主は不自然なまでにぼやかされている。
「それにしても、よりによって海老茶色のメルセデス。趣味が似通った男だなんて」
 蓮生は吐き捨てるように言う。
「どういうこと?」
「エツコはまだ小さくて覚えてないのかな? パパも海老茶色のメルセデスのE三二〇に乗っていた時期がある。というかマンハッタンでは比較的よく見かける色と型だったけど、サヴォワの目の前の地下駐車場からクルマを出し、車回しでママを待つたびに、巨大ガラスの玄関ドアに映る海老茶色の車体にうっとりしたものだった」
 うっとりとし過ぎて、扉の前に立つリツコとエツコにも気づかなかったことさえあったことには蓮生は触れなかった。
「パパ、警察に届けた方がいいかな?」とエツコ。
「聞いた感じではママのある種の意志みたいなものを感じるしね。少なくとも、誰かにさらわれた、というよりも自分からクルマに乗ったんだ、と。それも自身の選択として」
「無断外泊もママの意志? だとしたらひどいじゃないママ。たった一人の身内をマンハッタンのど真ん中に残して」
 海の向こうでエツコが半べそなのが蓮生には手に取るように分かった。その細いからだを抱き寄せたい、と思ったが、一万キロの電話線をすり抜ける未来型のマジックハンドを、二〇〇七年の世界は未だ持ち合わせていない。ただ、エツコに憐憫の情を表す前に、蓮生にはエツコに訊いておかなければならないことがあった。
「エツコ、これはまったくパパの予感だけど、ママは今夜もサヴォワには戻らない気がする」
「え、どうしてそんなことを言うの……」
 言うにことかいて何よパパ、という風にエツコの溜息は明らかに蓮生を責めた。
「だけれども、これまた根拠のない予想でしかないけど、事故とも違う、事件とも違う何か想像を絶するような出来事がママの身に起きたのではないだろうか? たとえていえば……」
「たとえていえば?」
「異次元にスリップしてしまったような、神隠しのような」
「パパ、そんな希望的観測はやめて!」
「希望的観測?」
「そうよ、目の前からママの存在自体が消えてなくなればいい、みたいな。パパはある時忽然とパパから気持ちが離れてしまったママが未だに許せないのよ。いつだったか、電話でパパ、僕はブルペンで恋の投球練習中だ、なんて恰好つけてたでしょ? その時はさもパパの年代の人たちが使いたがるレトリックの類いだ、と笑ってやり過ごしていたけど、いまのエツコには分かるの。パパは自分の身に降りかかった番狂わせな出来事自体を理解しようとしていないのよ。現実を直視出来ない人の傷なんて癒える訳ないじゃない……」
「エツコ」と、窘めるような口調で蓮生がエツコの言葉の暴走を制止にかかる。
「何、パパ?」と、エツコの語調はなおも喰ってかかる者のそれである。
「パパの個人的な事情に関する見解の違いは、また別の機会に議論しないか? いまは目の前で起きている事実を事実として認め、最大限集めた情報を整理して出来るだけ迅速に事態を収束すべく休戦協定を結ぼうじゃないか?」と、蓮生は努めて冷静であることを誇示するかの口調である。
「もちろんよ、パパの提案に異論はないわ。だっていまの私にとってママは絶対に戻って貰わなきゃならない大切な人。当然じゃない」
「僕はあと数時間して、夜が完全に明けたらさっそくニューヨーク行きを準備する」
「え? 来てくれるの?」
「当たり前じゃないか、エツコとエツコのママがパパを必要とするならパパはいつだってニューヨークに飛んでく、こないだも言ったじゃない」
「ありがとう、パパ」
「こちらこそ、こんなパパだからエツコには苦労かけるね」
「ぷ……」と、エツコが堪え切れずに笑い、ニューヨークの吐息が札幌のケータイを震わす。
「何が可笑しいの?」
「だって、パパ、自分の言葉に酔ってるう?」
「そんなこと言うなよ。たまには父親らしい言動と行動を示したいだけ」
「パパ、無理しなくたって、パパはいつも十分に私たちのこと……もとい、少なくとも娘の私のことは思ってくれてる。見守ってくれてるわよ。感謝してるわ、パパ」
 何も解決していない。それどころか何がリツコの身に降りかかっているのかさえ分からない。ただ、このことでエツコの変わらないやさしさと愛を感じられて幸せだ、と蓮生は思った。リツコと出会い、そして別れたことで多くのモノを失ったと常々感じてきた蓮生だったが、これからの長い時間のなかでエツコの存在がそれを帳消しにしてくれるだろうと考える蓮生であった。
「エツコ、さっきのジョバンニのことだけど、ママをメルセデスで迎えにきた人物の様子、覚えているのかな? やっぱりあれか、背は高くないががっしりとした体格のフランス系の白人男性?」
 蓮生は、大枚で雇った個人探偵が盗み撮ってきたリツコの浮気相手の写真のことをありありと思い起こしていた。
「ジャンピのことを言ってるの? やーね、パパ、違うちがう」とまで言ってから、突然思い出したようにエツコが言う、「あ、忘れてた! ジョバンニがそのことで変なこと口にしてたわ」
 エツコは触れない訳にいかない大切な事実を、いま、やっと思いだした、といった風に語りはじめる。
「変なこと? やっぱり目撃したんだね、ジョバンニ?」
「それがね、助手席越しにクルマの中を覗いたジョバンニによるとね、迎えにきたのは黒のジャケット姿のアジア系の男性」
「日本人?」
「それが……」
「それが?」
「パパ、これはジョバンニの言葉だからね」と、いつになくエツコの言葉はまどろっこしい。
「だから、どうしたの?」
「そのジャケット姿のアジア系の男性、てっきりエッツのダディだと思ったんだって」
「僕?」
「そうジャケット姿だったこと以外はパパに瓜二つだったって」
 さすが伊達に長年ドアマンをやっていないな、と蓮生は思った。日本に帰国して以来、ジョバンニとはもう十年近くも会ってはいないのだが、ジョバンニの脳裡にはいまよりずっと若かった頃の私の印象がすり込まれているのだろう、そして、ジョバンニの記憶のなかの私はきっとジーンズにTシャツ、時には小花模様のよれよれのドレスシャツを着ているに違いない、と蓮生は考えた。当時、IT企業の若手起業家たちが火つけ役を果たした職場でのドレス・カジュアリーの風潮は、蓮生の職場であるウォール街にも飛び火していた。何かと堅苦しい日系の証券会社を避けて、米国系の投資銀行に就職したのは、ペイの良さももちろん大きな理由のひとつではあったが、ヘッドハンターが口にした「服装も何もかも自由でコージーな職場です」という殺し文句が決め手であったことを蓮生は昨日のことのように思い出した。
「あ、いまのはジョバンニの言葉を正確に訳せてなかったわ」と、エツコが続けた。「より正確にはね、ジャケット姿だったことを除けばパパに間違いない、って」
「英語がネイティブのエツコの語学力を疑う訳ではないけど」と、蓮生。「ジョバンニは英語ではなんて言ったの?」
「こうよ、exactly the same as your dad, except the fancy jacket!」
「上等そうな(ファンシー)ジャケットを別にすれば……か。ジョバンニの印象のなかのパパは、いつもそんなにみすぼらしい恰好をしてたのかな?」と蓮生は苦笑する。
「パパ、こだわるべき箇所はそこではないでしょ? 現れたのよ、もう一人のパパが、ここニューヨークに」
「しかも、そのもう一人のパパとやらは未だにママと仲がいいらしい」と、蓮生は自嘲ぎみに笑った。「フランス人に嫌気がさしてパパと縒りを戻したかな? それにしても、エツコのママはさすがにモテるね」
「パパ、念のために訊いておくけど……」
「え? ああ、僕じゃない、僕じゃない。考えてもみてごらん。そちらの時間の昨日の土曜日の未明にエツコはパパに電話してきた。何時だった? 二時? 三時? どっちだっていいやね。札幌にいるパパがその半日後にママをメルセデスで迎えに行って、で、さらにその翌日に札幌に戻ってこうしてエツコと電話……なんて出来る訳ないじゃない」
「そうよね」
「もっとも時刻表至上主義推理小説の主人公としてのパパならやってのける?」
「無理無理。覚えてる? ジュニアハイの最初の夏休み。パパったら、ボストンのサマースクールから飛行機で戻ってくる娘を迎えに来てくれたはいいけど、ラガーディア空港とニューアーク空港を間違えて、でもって一三歳の私を空港のゲートで三時間も待たせちゃって」
「あん時はさすがに蒼ざめた。時間が惜しくて無許可営業の非合法リムジンに二百ドルも握らせてラガーディアまで飛んでったもの」
「あら、なんだかちゃんと責任は果たした、って口調じゃない?」
「違った?」
「ほーら、記憶力もあやふや。結局、迎えに来てくれたのはママで、自宅に戻ったママと私は、今度は慌てふためいて右往左往しているパパに連絡をとるのにひと苦労したんだから」
「で、何の話だったっけ?」
「だから、そんなパパには時刻表モノの犯罪は無理だってこと」
「不名誉ながら嫌疑は晴れたってことか」
「それはどうだか」
「とにかく出来るだけ早くそちらに行くから」と蓮生は語気を強めた。
「そんなパパでも……」とエツコは言うと一呼吸置いてから、「大切な大切なパパなんだからね」とエツコは訴えた。
「愛してるよ、エツコ」
「愛してるわ、パパ」
 カーテンの隙間から東の空が白々としてくるのが分かった。この時間、世の中はまだまだ動いてはいないが、ネットで飛行機の便を検索することくらいなら出来る。電話を切った蓮生はベッドを抜け出すと、まずはシャワーを浴びに浴室に向かった。

*  *  *

「研修医の身分で休暇をとるのは、やっぱり大変だった」
 ボトルのミネラルウォーターを一口ごくっとやると、その濡れた唇を蓮生の目の前に近づけながら葉子が言った。葉子は両手で蓮生の片方の腕をしっかりと抱いている。成田発ニューヨーク行きの〇〇六便はいまや日付変更線を越えようかという時間。機内は大方の人が眠っている。手許灯だけが照らす葉子をいまさらながらに可愛い、と蓮生は思った。
「だから言ったじゃないか。数日のことだから札幌でお利口にしててね、って」
「だって恋愛先生の身に降りかかった一大事だもの。こんな私にだって何か出来ることがあるんじゃないかと思って」
「だからって、あんなカテーテル野郎の膝に乗って懇願しなくたって」
「あれ? 先生、妬いて下さってるの?」
「のったんだ?」
「だから、のってなんかいない、しつこいぞ、恋愛……」
「結婚歴のあるオヤジ教授にはほんと気をつけろ!」
「あーら、目の前のバツイチ教授さんなら安全安心なんですか?」
 蓮生と葉子を一緒に包むブランケットに隠れて、葉子が蓮生の股間を撫でた。ジーンズと、さらにその下のトランクスに覆われてはいるが、蓮生はいまや十分な硬さを誇っていた。
「それに」と、上目遣いで葉子が蓮生に訊く。「カテーテル先生に結婚歴があるなんて私、恋愛先生に教えてませんよーだ」
「それはその……田村に訊いたから」
「あーら嬉しい! 田村先生にリサーチかけるくらい、私のこと心配して下さって」
 葉子はジーンズのファスナーを下ろしにかかる。
 腰を捩じらせながら下ろされまいと蓮生が抗う。
「いやいや、同郷の友人として田村に忠告しておいたんだ。カテーテル先生のよからぬ噂が畑違いのこちらの耳にもはいって来てるぞ、ってね」
「で、田村先生、何ていってた?」
「カテーテルも根っからのワルではないらしい。なんとある時期、アメリカの大学病院で田村と一緒の時があったそうな。田村の印象のなかのカテーテルは、からだの弱い最愛の奥さんの看病に明け暮れる苦労人ということらしい。詳しい病名はついぞ教えてくれなかったそうだけど、アメリカでの闘病生活は一〇年を越えたそうな。そもそも東京の国立医大から助教授のポストをオファーされたのがカテーテルが三〇代の最初頃だったらしいが、奥さんに最新の治療を受けさせたいがためにアメリカの病院に一介の医師として居残ったんだね」
「私、なんだかスケベ先生に同情してきちゃった」
「あれ、だからって次のお誘いを受けたらカテーテルの膝の上に乗ったりしちゃ駄目」
「あたり前じゃない。意外に真剣に妬いてくれてる? 恋愛先生のそういう大人げないとこ、好き」
 葉子は、すでに蓮生のジーンズのなかの蓮生を引っ張り出して少しきつめに握りしめながら、ゆっくりと上下に擦っている。蓮生はもう抗うことを止めている。そして、ただ二人だけの秘密の行為を覆い隠している一枚のブランケットが自分のもので汚れはしまいかと、見当違いな心配をしている。
「カテーテルがアメリカ生活にふんぎりをつけて日本に戻ったのが五年ほど前。すでに心臓カテーテル手術の分野で世界的な権威にのし上がっていた彼を東京の私立大学が大枚はたいて呼び寄せた、というもっぱらの噂が狭い医者の世界で語り草になったらしい。僕なんかが一〇年稼いでも及ばないような大金だったそうだ。もっとも、彼にしてみれば奥さんを亡くした丁度のタイミングのオファーで、渡りに舟だったのではなかったのかな」
「先生っておかしい」
 なおも蓮生の部分を握りしめ、上下の刺激を与えながら、葉子が蓮生の肩にもたれかかったまま笑う。
「なんで?」
「だって、カテーテル野郎、とかいいながら、そんな人の人生を一所懸命語っちゃって。それに」
「それに?」
「最初はカテーテルのよからぬ噂を耳にした、って言いながら、聞いてみれば意外と美談」
「違うんだよ、美談一転、怪しげな話に変わるのがここからなんだって」
「ホント?」
「本当なんだ」
「教えて、教えて」
 蓮生の下腹部を刺激する葉子の手がぴたりと止まった。葉子の手が止まってみれば、それはそれで少し淋しい感じがする蓮生だったが、だからといって握り続けた手を引っ込めたりする殺生な葉子でないことに感謝したり、喜んだりした。
「一度、すすきのの寿司屋で一緒に飲んだ田村にカテーテル、宣言したらしい。次に結婚する時はぜったいに若いオンナと結婚するって。相手は若ければ若いほどいいんだそうな。二〇代でも。場合によっては十代でも」
「きゃっ、気持ち悪い!」と叫んで、葉子が首を二度、三度横に振った。「カテーテルって私たちから見れば殆どオヤジ先生っていうより、おじいちゃん先生よ。それが一〇代や二〇代の若い子と再婚したいなんてやっぱり変」
「それがね、田村に言わせればそれもひとつのトラウマなんだって。最初は医学生同士の結婚だもの。ほぼ同い年での結婚だった訳だ。それが奥さんになった人は闘病につぐ闘病。次に結婚する人が同じ年齢なら、また苦しみながら最後を看取る可能性が高い、というのが彼の理屈らしい」
「だからって、若い女性にセクハラ行為を繰り返すことを正当化出来る理由はひとつもないでしょ?」
「ない」
「性的な行為の豊かさは想像力よね?」といって、葉子は二人の秘密を包み隠すブランケットをもう一方の手で払い除けた。
「うっ」と小さく呻いて、蓮生は左右を見渡した。幸いにも客室乗務員も全員がしばしの休息に入っているらしく、睡眠が大方を支配する暗いビジネスクラスのキャビンに人目はない、と信じたい。
「若い子を探したければお好きにどうぞ。でも、なんとか医学の世界でやっていきたい、と真摯な毎日を送る私ら若い女性の情熱に水を注さないで欲しいわ」
「葉子の言い分は理にかなっている。理にかなっているから葉子ちゃん、お願いだから膝掛け、戻して」と、蓮生の声は懇願に近い。
「先生、逝きたい?」
「うん、いつかね、いつか葉子ちゃんと逝きたい」
「私も、いつか最初に逝く時は、先生と一緒に逝きたい。だって私、先生のこと大好きだから」
「そんな日が来るかな」
「きっといつかやって来るわ。それも遠くないいつか」
 そこまで言うと葉子は話すのを止めて、蓮生の下腹部に顔を近づけた。蓮生を掴む手とは違うもう一方の手で蓮生の先っぽから染み出している粘っこい液を撫でてみる。読書灯は直接はその部分と僅かに違う部分を照らしているので、あるいは気のせいかもしれないが、はじめは透明だったその液が僅かに白濁した、と葉子には感じられた。先っぽに走るゆるやかな絶頂の予兆を感じながら、葉子をいつも以上に愛おしいと思う蓮生だった。

*  *  *

 ジャン・ピエール・バルマン。そのフランス系アメリカ人の名前を一生忘れないだろう、と蓮生は思う。探偵は彼のラストネームを「バーマン」と呼んだが、それは明らかに英語風の発音で、その人の出自を忠実に辿れば「バルマン」となるだろう。喋れる、とこそ豪語しないが、フレンチレストランでその日のお勧めを訊き、魚なのか肉なのか、肉であるなら羊なのか牛なのか、さらには牛ならば仔牛なのかそうでないのか……くらいにはフランス語が分かる蓮生だった。
 ただ、当の本人が自分自身のことを「バーマン」と呼ばない確信はない。もっといえば、妻であるリツコがそのフランス系アメリカ人を間違って(?)バーマンと呼んではいまいかと推測もする。そもそも、妻はその人の名前を苗字で呼ぶことは多くはないだろう。
「ジャン・ピエール」
「ピエール」
 あるいは、娘のエツコがそう呼ぶように、
「ジャンピ」
 妻を真似て、その人の名前を、つまりは自分のあずかり知らないところで情を交わしただろう人物の名前を妻になり切って呼んでみる。どう考えても「ジャンピ」は日本語風の省略形で、妻がそう呼ぶことを当のジャンピは好まないのではないか、と蓮生は思う。ジャンピを何通りかに呼んでみると、甘酸っぱい何かが気道を満たして、ついには蓮生の呼吸を殺してしまいそうになる。辛いのか、懐かしいのか、蓮生には判断がつかない。
 探偵が去ったミッドタウン東五〇丁目辺りのとあるコーヒーショップ。しかして、「ジャン・ピエール・バルマンに関する調査報告書」とタイプされた表書きの簡易製本ファイルがテーブルに残された。横にあるのは蓮生自身の小切手帳。いましがた、探偵から費用総額の報告を受けて、そこから頭金(ダウンペイメント)を差っ引いた金額を書き込んで探偵に渡したばかりなのだ。決して安い金額ではなかったが、その後、数カ月にも渡って相川蓮生一家の生活を圧迫するほどの金額でもなかった。
 報告の骨子は、さきほど探偵から直接聞かされたばかりだったから、あらためて丁寧に報告書を読み返す必要はない。ただ、報告を聞きながら眺めた数枚の写真だけとは、いま一度向き合う必要がある、と蓮生は考えた。報告書の表紙をめくり、本文は飛ばしてから、一番後ろにつけられたクリアファイルの中から数枚の写真を抜き取る。
 一枚は、ジャンピ自身の証明写真。手札版ほどの大きさのカラー写真ではあるが、縁の部分の退色が激しい。相応の時間が経過していることの証左だろう。もちろん、退色や手垢も含めての複写。それにしても、このようなものを一体どこで手にいれるのだろう。それが探偵本来の仕事といえば仕事であるが、ただただ感心する蓮生であった。
 証明写真のなかのジャンピは、顔の部品がいかにもフランス人といった感じを受けるナイーブさで、それとは不釣り合いに太く濃い眉毛だけを殊更に際立たせていた。明るい栗色の髪の色調に較べると、眉毛のそれはあきらかに重く暗い。あるいは髪の毛は染め直しているのかもしれない。さらにいえば実はまったくの禿髪でカツラを載せているのかもしれないが、そのような蓮生にとって好ましい事実の裏とりは、惜しいことに報告書本文のどこにもない。それどころか、二八歳という、リツコよりもほぼ六、七歳年下であるにも関わらず、自信に充ち溢れたような証明写真のジャンピの下には、「実際のバルマン氏はこの写真よりも強靭な印象を受けるはず」との絶望的なキャプションが付されているのである。
 さらに肝心のジャンピとリツコの二ショット写真が二枚。一枚はジャンピ所有の年代物のシボレーの助手席で熱く抱擁する――有り体に言えば、向き合ったまま性交する――ジャンピとリツコで、真夜中に撮られたその写真は、ジャンピの膝の上のリツコだけが上下に小刻みに振動しているらしく僅かにピントがボケていた。偶然なのか、カメラに視線をくれたジャンピの表情は虚ろで、暗視カメラのせいというよりは彼の空虚な心を映して精彩さのかけらも無い、と蓮生は思った。
 ただ、その衝撃写真に増して衝撃を受けた写真、すなわちいま一枚の二ショット写真は、背景にロックフェラーセンターの巨大クリスマスツリーを写し込んでいた。冬の一定期間、新年を迎えてもなお飾られるのが常のツリーであるから、その年と時間を判断することは写真からだけでは難しいはずだが、報告書の本文はこれが撮られた日時を前年の「一二月一九日」と特定している。イブを数日後に控えて、クリスマスギフトの買い物に余念のないニューヨーカーに紛れた二人は互いに肩を寄せ合うようにして微笑んでいる。去年のクリスマスにはコーチのバーガンディのグローブ革バッグをリツコから貰った蓮生であったが、あるいはこの日、二人して品定めをしたのかもしれない。蓮生のなかで燻っていた何かが急速に萎えて、蓮生の怒りを諦めに変えた。二人がかつての仲の良い二人に戻るために性交写真を越えるのは――容易ではないが――出来ないこともないが、クリスマスツリー前の二人の幸福な笑顔を乗り越えるのはとても難しい気がして、リツコとの別離を決意した瞬間であった。エンパイヤステートビルディング展望台の有料望遠鏡が、料金不足で唐突におしまいになるように、リツコと蓮生の幸福な景色が、突如ブラックアウトしてしまったような気がした。たとえ「コインを!」と叫んだとしても、誰も二五セント硬貨(クオーター)を恵んでくれる人はいないだろう、と蓮生は諦め気分であった。
 それで写真は全部の筈だったが、見るとさらに一枚、写真が増えている。いぶかりながらも蓮生は写真を手に取る。いつの間に盗み撮りされたのだろう。ストレートのジーンズにTシャツ姿の蓮生の背中に、生成りの夏のワンピースを着た葉子がおんぶされている。葉子はカメラ目線で大口を開けて笑っている。蓮生は伏し目勝ちで、照れ臭い、というよりはどちらかというと困惑している。見ようによっては微笑ましい二人であるが、見るからに葉子の無邪気さが蓮生には荷が重い、といった風情だ。
「葉子ちゃん、やめて」と、首に回した葉子の腕を払いのけようとした次の瞬間、蓮生は短い眠りから目覚めた。

*  *  *

「もうやめてますよーだ」と、葉子が蓮生の鼻先一〇センチの位置で笑っている。
「しまった!」と、蓮生は跳ね起きて、慌てて自身の下腹部に目をやる。
確かに葉子の手は蓮生を握っていないし、蓮生は蓮生でもう硬くはない。それどころか、トランクスの前合わせもジーンズのファスナーも元に戻されていて、葉子の執拗な戯れの痕跡はどこにもない。
「夢を見てた」と蓮生。
「知ってる」と葉子。
「葉子ちゃんの夢だった」
「うそ……」
「ほんとだって。目が覚める直前、葉子ちゃんが出てきた」
「ほらみろ、私はいつだってちょい役だ。主役はどこの誰だろう?」
「登場人物は経営学部の四七人の教授や准教授たち」
「嘘ばっかり」
「ほんとだって。場面は隔週木曜日の教授会で、僕は司会の学部長の隣に座らされ、教授陣の前で猛省を促されている」
「またなんか悪いことしたんだ。面白そうだから、その嘘続けて」
「またって言うなよ。原因の一端は葉子ちゃんにあるんだから」
「私は悪くないわよ。それに、もう恋愛先生と一緒の大学の学生じゃないんだし」
「それそれ、それが原因」
「はあ?」と、葉子は十分に背凭れを倒したリクライニングシートに反り返って、ひとつ大きく伸びをする。
「葉子ちゃんが医大に移ってしまったのは、我が経営学部にとって由々しき頭脳流出だって。でもって原因をつくったのは僕だって教授連中からつるし上げにあっている」
「なーんだ、そんなこと。可愛い教え子に手を出したって、セクハラだ、アカハラだと騒がれてるんじゃないんだ」
「反相川蓮生派の教授陣が問題にしたかったのは実はその点なんだけど、そこは堂々と僕が論破した。店の商品には一切手をつけない主義だ、ってね。ただ、売り先が決まった後のアフターメンテナンスは怠りません、と付け加えてやった」
「そうですか、そうですか、恋愛先生の私に対するやさしさはアフターサービスの一環ですか。だとしたら、保証期間があと何年かが気になるところよね」
「それは大丈夫。保証は一生だから」
「それって、恋愛先生の一生? それとも葉子の一生? 前者だとしたら、あと何年残ってるんだか……」
葉子が意地悪な目をして笑った。
「なんだったら、三年ごとにメンテナンス会社を乗り換えますか?」
蓮生が真顔で訊く。
 葉子は飛び起きて、再び蓮生にしなだれかかると蓮生の頬に自分の頬をすりすりしながら言った。
「やだやだ、会社を換えるのはやだ。ずっと恋愛さんにくっついてく。出来るだけローメンテナンスないい子でいるから、お願い、ずっと私のそばにいて。覚えてる? 研究室で先生におんぶしてってお願いしたあの日。見ず知らずの学生が突然、おんぶして下さい、だもの。随分とびっくりしたよね。でも、私はあの日のことを一生忘れない。この先、先生と私の間に何が起きても――何も起きなくてもよ――私はあの時の先生の背中のやさしさ、懐かしさを一生忘れない」
 もとはといえば学生たちの間で急速に流布した蓮生に関する噂だった。それは都市伝説のようなもので、伝説は大きくはふたつであった。ひとつは、「相川の背中におんぶされると恋愛が成就する」というもの。さらにひとつは、「別れられないで困っている恋人の前で相川にお姫様抱っこされると腐れ縁が切れる」というもの。そのおんぶと抱っこに関する都市伝説の発信源は分からない、と蓮生が考えているのだとしたら、蓮生は事実を故意に隠蔽しているか、あるいは無意識のうちにきっかけとなったある重要な出来事を忘れていることになる。蓮生が大学に就職した最初の年、はじめて受け持ったゼミの学生およそ一五名を前にして、蓮生は開口一番こう言ったのだった。
「私にはこれといった取り柄もない。研究者歴も浅いし、授業だって付け焼刃の準備で毎回毎回をなんとか乗り切っているような状態。一〇代の頃から外国の生活が長かったせいで日本人としての常識が欠落している部分も多い。だから、私のことを当てにするな。君たちの勉強のことも、日常的な悩みについても、就職のことも、将来のキャリアパスのことも大した相談相手にはなってあげられそうもない。強いていえば、恋愛の達人だから、みなさんの恋の悩みくらいならそれなりに有効なアドバイスが出来るかも」
 もちろん、最後の一文はその場を和ませる冗談のつもりで口にした蓮生であったし、事実、学生たちもそこでどっと笑った。ただ、蓮生の意図とは別に、「蓮生=恋愛の達人」は独り歩きし、やがては蓮生のおんぶと抱っこにまつわるふたつの都市伝説にまで昇華したのであった。
 また、奇妙な符合がよちよち歩きの都市伝説を補強したこともあるだろう。それは、相川の相を「あい」と呼び、蓮生の蓮を「れん」と一度呼ばせた上で、それを倒置させると「れんあい」と呼べるという他愛もない語呂合わせである。ゼミ生を震源として「れんあい先生」と呼ばれ始めた蓮生には、やがて「恋愛先生」の綴りが固定化し、そのうち畏敬の念をこめて「恋愛さん」と呼ぶ者も出てくる始末。折しも、蓮生と同じ経営学部出身の男性喜劇タレント、出目カエルが、当代一流の女性ロックスターと結婚する、というビッグニュースが流れたりしたのが恋愛先生フォークロアの最盛期とぶつかっていた。出目がたまたま蓮生のゼミ出身であったという情報から、「カエルはわざわざ札幌に恋愛さんを訪ね、恋愛の成就祈願におんぶして貰ったんだ」という根も葉もない噂が野火のように拡がったのである。実はそのような事実はないし、そもそも出目カエルが大学を卒業した年は蓮生が赴任する前年のことであり、つまりは出目が蓮生のゼミ生であったことは一度もないのだが、科学的論証を必要としないのは他の都市伝説に同じであった。
 その昼下がり、大学に付属の高校のサッカーグラウンドを見下ろす蓮生の研究室がノックされた時、蓮生は昼食後の歯磨きの最中であった。午後一番の授業をすでに終え、夜一講目の授業にはまだ間がある、という時間で、入念な歯磨きは暇潰しにうってつけの儀式だったのである。アームチェアに深々と座り、後ろに反った頭を背凭れに載せ天井を仰ぎ見ながら歯磨きをすると、口のなかで溢れそうになる白い液をこぼさない、という利点がある。
 研究室の扉はもとより半分開いていたから、研究室を訪ねる学生にとってのノックは必要に駆られての実利ある行為というよりも、研究室に棲息するらしい不思議な生き物としての「教授」の奇妙な生態に驚愕としないがための予防注射のような意味を持った。
 しかしてノックとほぼ同時に、上半身だけを覗かせた葉子は、ノックの甲斐もなく蓮生の無防備な醜態を目撃したのである。
 葉子のノックとほぼ同時、頭だけを入口の方に向けた蓮生であったが、白い液がこぼれ落ちそうになって、慌てて視線を天井に戻した。何か御用、と訊いた筈の蓮生であったが、
「ウグウググ?」
 葉子にはそう聞こえた筈である。
 蓮生は堪え切れずソファから飛び上がると、そのまま壁の一角にしつらえられた小さな流しまで走り込み、前屈みになって口のなかのものを全部吐き出した。それから、二、三度口をゆすいだあと、
「何か御用ですか?」と、あらためて訊いたのだった。
「すみません、突然訪ねたりして」と、一度身を縮めた葉子が、意外にも大胆にすっと扉のこちら側の人となる。葉子はタイトなジーンズに白いブラウスの裾を几帳面に入れ込んでいた。ブラウスはたおやかにブラウジングされている分、葉子の豊かな胸元を際立たせていた。小柄だがおっぱいが大きな子――葉子に対する蓮生の第一印象である。
 一方で、蓮生に対する葉子の第一印象が、暇さえあれば歯磨きをしている人、であることは致し方ない。
「我々大学の教員にとって学生は大切なお客さん。だから遠慮はいらないよ。僕に出来ることなら何でも言ってごらん」
蓮生はやさしく畳みかけ、磨きをかけたばかりの白い前歯を自慢げに見せて笑った。
 葉子はなおも黙ったままでいたが、やがて蚊の鳴くような声を振り絞って言った。
「先生、私をおんぶして下さい」
「え?」
「お願いです、私をおんぶして下さい」
 蓮生をめぐるおんぶと抱っこの都市伝説は依然健在であったから、蓮生にとって学生からおんぶを乞われたことはこれまでにも一度や二度ではなかった。ただ、多くの場合は蓮生が担当するゼミの学生や卒業生が、コンパやゼミの同窓会の折にアルコールの勢いに任せて頼んでくることが殆どである。それもこれほど切実というのではなくて、その場の雰囲気とある種のノリがそのような余興を求めた、といった類いのものだった。もちろん、曲がりなりにも教育者である者として軽々に学生の求めに応じる蓮生ではなかったが、温かな衆目がある時だけ、それも女性に限っておんぶをしたりすることがある。そんな蓮生を、はじめ観客はやんやとはやし立てたりするが、当のおんぶされる側は意外にも生真面目であることが多い。おんぶされた瞬間、蓮生の首にしがみつきながら蓮生の耳許で好きな男性の名を連呼しつつ「この恋が絶対に成就しますように……」と短い祈りの言葉を口にする者や、感極まって泣き出す者が出る始末。やがて野次馬たちの間に、その場に居合わせた奇妙な連帯と感動が静かに拡がっていく。そして、蓮生の背中から降りた女性は、
「よかったね」
「よかったね」
 目撃者たちに代わる代わる肩を叩かれて祝福されるのである。こうして、蓮生をめぐる都市伝説はまた一段、信憑性の階段を上るのであった。
「誰か、どうしても思いを届けたい相手がいるんですね?」と、蓮生は葉子に訊いた。
 野暮といえば野暮な質問であった、と蓮生はいまに思う。無性に男性におんぶがされたくなり在室の教授なら誰でもいいからと研究室を訪ねる学生などいないのだ。ただ、その時の蓮生にはいましばらくの時間稼ぎがどうしても必要だった。研究室という半ば密室の空間で、同じ大学に籍を置く学生とはいえ、知り合ったばかりと言っても間違いではない女性をいきなりおんぶする、ということが許されるのかどうか、蓮生は依然計りかねていた。
「ええ、いるんです、好きですきで仕方のない男性が」
 そこまでの言葉を引き出してしまえば、蓮生にはもう抗う理由は何もない気がした。それに、ほんの一瞬だったが、あの白いブラウスの下の尖った胸が自分の背中に押し当てられることに軽い眩暈を感じたのも事実であった。
「それじゃ、おんぶしようか」と、蓮生が葉子に笑った。
「お願いします」と、葉子がきっぱりと小さく頷いた。
 蓮生は葉子にひょいと背中を向けると、葉子の背丈を勘案していつもより余計にしゃがみ込んだ。蓮生からすると正面に半開きになった研究室の扉があり、次にまた誰が顔を覗かせても不思議ではなかったが、しゃがんでみるとそんなことはどうでも良いことのように思えた。
「失礼します」
礼儀正しい女性の声が背中でした次の瞬間、予想に違わず尖った葉子のふたつの乳頭が蓮生の背中に突き刺さった。次第に背中で密着の度合いを増す葉子の胸の心地良さに蓮生は不覚にも目を閉じたほどである。
「大丈夫、ちゃんとつかまりました」
子供のように葉子が言った。
我に返った蓮生は「じゃ、立ち上がります」と応えると、どこかの親子牧場の引き馬であるかのように、のっそりと立ち上がる。
蓮生の背中で葉子の重心が胸から腰の方に移っていく。葉子の尻を支えるのにしっかりとつながれた蓮生の両手は、掌が外側を向いている。さして違いはないのだろうが掌を内側に向けるのは教師として反則な気がして、女学生をおんぶする時蓮生はいつもそうするのだった。
「先生?」
 蓮生にしがみつきながら、蓮生の背中の葉子が訊いた。
「え、何?」
「先生、これっておんぶですよね?」
「うん、れっきとしたおんぶだね」
「良かった。じゃ、あとはお願い事ですね」
 蓮生はいまや、この状態がずっと続けばいいと考えるようになっていたのだが、「うん、急いでいそいで」と催促をしてみたりする、心にもなく。
「じゃ、お願い事しますね」
「どうぞ、どうぞ」と、節を付けて応えた次の瞬間、
「いつの日か恋愛先生がヨーコのことを好きになりますように」
 蓮生には葉子がそう呟いたのが確かに聞こえた。
 この場合、「恋愛先生」が自分のことであることは紛れもない事実だ、と蓮生は思った。大学に何百人の教員がいるのかカウントしたことはないが、恋愛先生などというふざけた渾名を持つ教員は自分を置いて他にない、と蓮生は確信している。問題は、「ヨーコ」であるが多分それは背中でおぶわれているこの女性自身なのだろう、と蓮生は思った。考えてみれば、この女性が何学部の女性なのか、氏名も含めて何も知らないのだ。かといって、自分に望まれたこと――葉子をおんぶすること――を見事果たしたいまとなってはいまさらな気がして、尋ねることが憚られた。
「終わりましたか?」と、蓮生が訊いた。
「終わりました」と答えると、葉子はすとんと蓮生の背中を滑り降りた。

*  *  *

「あの頃は私、勇気あったな」
 ビジネスクラス用の大きすぎるスリッパを履いた脚を、左右交互にぱたぱたさせながら、葉子が独り言ちる。飛行機がJFKに到着する前の、最後の食事がこれから配膳されようかという時間で、機内はすでにフルに照明が灯っていた。
「あの頃の僕はまったくの意気地なしで」と、蓮生が続けた。「背中の葉子ちゃんの勇気ある呪文を聞いちゃっていながら、そのあと、半年近くも連絡出来ずにいた。いまさらだけど、ごめんね」
「だって、自分とこの商品に手を付けない主義だって言ったばかりじゃない。仕方がないよ。それに、こうして二人でニューヨークに旅する仲でいられるのがとっても不思議。やっぱり恋愛さんの噂は単なる噂ではなかったのね」
「ほんとだね」
応えながらも蓮生は、懺悔室で信者の女性に「好きです」と告白されてしまった神父がこの信者と懇ろになってしまうことは大罪ではないのか、といまさらながらに思った。考えてみれば、まだエツコの進学の方針や、マンハッタンのコンドミニアムの所有権のことでリツコと揉めている頃のことで、葉子の無邪気さが当時の蓮生にとっては何よりの心の拠り所であったことを考えると、罪はさらに一ランク上のような気がした。
「先生! もしかして、あれ」
 葉子が飛行機の左翼側に拡がる半島を指して大きな声を上げた。葉子の歓声につられて何人もの乗客が眼下にあるハイライズのビルが林立する街に目を凝らした。
「そう、マンハッタン」とだけ蓮生は言い、僕とリツコとエツコが一度は仲良く暮らした街、との付加情報は喉元で堰き止めた。

*  *  *

 イースト河の川底を貫くクイーンズミッドタウントンネルを抜けると、もうそこがマンハッタンだった。蓮生と葉子を乗せ四二番街を疾走するイエローキャブはすぐに右折し、結果、誰に頼まれもしないのに眼光鋭いインド系あるいはバングラディッシュ系ドライバーは三番街を北上する経路を採った。街角に立つ標識の数字が六一丁目を示せば、その手前右角に立つコンドミニアムがかつてはリツコと蓮生の共同名義だったサヴォワである。だんだんにその全容を表してくる建物を眺めながら、サヴォワが意外にも華奢な印象の建物であったことに当惑する蓮生であった。高さこそ四〇階建とそれなりであるが、近隣に新しく建ったコンドミニアムやコーポラティブアパートメントが肉厚幅広である分、蓮生にはサヴォワが殊更貧弱で危うく見えるのであった。そのサヴォワへの格別の関心を葉子に気づかれないよう、蓮生は心のなかで下からの階数を数えてみる。一二階まで数えたところで、数をひとつ飛ばし、一四階と数えたフロアの角部屋が、いまやすっかりリツコの名義に切り替わり、いままだリツコとエツコが暮らす一四階のユニットだった。エドワード・ホッパーはまだリビングルームの壁を飾っているのだろうか、イエローキャブのなかで爪先立ちをし、気持ち尻を浮かしても、一四階の室内を覗くことは詮無いこと。やがてサヴォワが車窓の後方に置き去りにされる。蓮生はそのビルをただ眼球だけで追って惜しむだけ。
 一方、葉子はといえば、三番街の両側を行き交う人々の服装と表情の観察に余念がない。時に蓮生の膝に覆いかぶさるようにして、右に左にと車窓を流れるマンハッタンの正午少し前の光景に釘付けの様子である。
「見てみて、美味しそうなホットドック屋さん! コニーアイランドの大喰い選手権で有名なあのブランドかしら?」
「詳しいね。でも残念。ネイサンズとはまた違うお店だよ。ドッグキング。僕の大好きな飲み物がある店なの」
「どんな飲み物?」
「ハーフマンゴ・ハーフパパヤ。マンゴジュース一に対してパパヤジュース一をジューサーでミックスする。ただそれだけ」
「絞り立て?」
「いや、それが搾り立てジュースのような合成ジュースのような……。ちょっと胡散臭い」
「あ、いいねえ、ちょっと胡散臭いハーフマンゴ・ハーフパパヤ。ホットドックに合いそう。飲んでみたい!」
「そう、僕も日本に戻ってからもずっとそう願ってた。ドッグキングのハーフマンゴ・ハーフパパヤが飲みたいってね。だから手紙を書いたんだよ、ドッグキングの社長さんに。あなたの店を東京に出したい、ついては日本の独占的フランチャイジーとなる権利をくれないかってね」
「さすが先生。それで、返事は?」
「熱烈なオファーは有り難いが、うちの店もこれでニューヨーカーには結構な人気店でして。海外に総代理権を出すとなればフランチャイジング料は八万ドルを下らない。仮に東京・ニューヨーク間のファーストクラスの往復料金が一万ドルだとすると、同じお金であなたは今後八回もドッグキングのホットドックを、ここ本場ニューヨークに食べに来られる訳です。ドッグキングのホットドックの美味しさは――ハーフマンゴ・ハーフパパヤの味も――マンハッタンの喧騒のなかでこそ引き立つ、真に味が映えるのです。マンハッタンに在ってこそドッグキングなのです。――だいたいそんなことが書いてあった」
「王様、カッコいいねえ。会いたいな、王様に」
「それがちょっと無理」
「何故?」
「だって、僕に返事を寄こした直後に、社長は刑務所の塀のなかの人となったから」
「意外な展開。どうしちゃったの……王様?」
「札幌で読んだ日曜版のニューヨークタイムスによると、ドッグキングの経営者は、なんと他人様が登録している商標に抵触しながら一〇年以上もドッグキングを違法に経営していたらしい。それも元祖と同じマンハッタンで、だよ」
「え、こんなに狭そうなマンハッタンに、同じ名前の店が二軒もあって、どうしてもっと早くニセモノだって訴えられなかったの?」
「どうやらホンモノよりニセモノの方が味が上……というのがニューヨーカーの間でのもっぱらの評価だったらしい。それが証拠に、市役所(シティーホール)に対して、ドッグキングの看板に泥を塗るニセモノ店を取り締まって欲しい、と寄せられた投書の殆ど全部が元祖ドッグキングに対する苦情だったらしいよ。そもそもそこのご主人もニセモノを食べて感動のあまり、一度は訴えることを断念しかけたそうな」
「恋愛さん……」
「はい?」
「また先生の創作話ですか? 恋愛先生の話はどこまでがホントでどこからが嘘かが分からなくて」
「それはね、葉子ちゃんが信じるところまでが本当で、これ以上は無理ってとこからが嘘なんだよ」
「含蓄のあるお言葉で」
「さあ、ついた。ホテル・ガーデンガーデンへようこそ!」
 低層階の瀟洒なタウンハウスが居並ぶ一角に、目的のホテルはあった。
蓮生はドライバーに指示して、側道の常識外れな段差を避けながら、比較的緩やかなスロープが切ってある場所ぴったりにタクシーを寄せて貰う。目の前がホテル・ガーデンガーデンの横玄関である。ホテルのフロントはアールデコの装飾が美しい回転扉付きの正面玄関からより、この第二玄関からの方が格段に近いのである。リツコとの関係悪化が表面化したある時期、サヴォワから歩ける距離にあるこのホテルを独り寝の常宿として使っていた蓮生にとって、いかなる導線も織り込み済であった。
 赤みがかった褐色砂岩の外壁が美しいそのホテルを葉子はうっとりと見上げている。インド系あるいはバングラディッシュ系のドライバーはすでに後ろのトランクからすべての荷物を下ろし終えた様子で、関心はすでに蓮生が握らせるべきチップの額の多寡に移っている。蓮生はなかなか下りない葉子の腰の辺りをつんつんと突きながら下車を促し、葉子が降りたあとに続く。
「ありがとう」
蓮生は礼をいい、十分な割合のチップを足した上で端数を切り上げた額を運転手に握らせる。
「ありがとう、良い一日を」
運転手は型通りながら心のこもった挨拶をして、それから後ろトランクの扉を勢いよく閉めた。
「ありがとう」
今度はたどたどしい英語の葉子の声。見れば葉子の視線の先に、真鍮枠に色ガラスが美しい重い扉を支える若いアジア系の女性の姿がある。
「どういたしまして」
日本語で応える女性こそは蓮生の娘・エツコである。
春先の一時、急速に気温が上がるインディアンサマーにはまだ少し間があるというのに、エツコはタイトなジーンズに、胸に上品なラインストーンでDKNYの文字をあしらった白いTシャツだけ。寒くないのか、と咄嗟に訊きたくて仕方がない蓮生であったが、葉子の手前何故だかそれだけの言葉をかけることが憚られた。代わりに、
「待った?」と、蓮生。
「全然。それよりもパパ、来てくれてありがとう」
どこまでも殊勝なエツコを愛おしいと思う蓮生であった。
 葉子が一緒でなかったら、と蓮生は考えてみたりする。エツコは自分を発見するなり抱きついて、他人の目も気にせず泣きじゃくったのだろうか。いや、それは葉子の存在とは無関係な気もする。離れていた十年に近い歳月のなかで、娘は父との間にとるべき距離感を学びとったのかもしれない、と思う。国際電話でのエツコはいつも、小学生の頃の無邪気なエツコのままであるが、あれとて両親が別居、そののち離婚を選んだ子供が果たすべき理想の子供像を演じきっているのかもしれない、と蓮生は思う。
「パパ、紹介して」
 エツコが蓮生の右手を軽く引っぱる。
「そうか、そうだね。こちらは、塚本葉子さん。僕の昔の教え子で、いまは別の大学の医学部を卒業したばかりのお医者の卵」
 蓮生はバツの悪さを振り切るように事実を事実としてきっぱりと伝えた。
「塚本葉子です。はじめまして」
 葉子は落ち着いた声で名乗りながら、エツコに完璧な角度のお辞儀をした。
「相川エツコです。父がいつもお世話になっています」
 エツコの挨拶にも透明感があり、そのことが葉子の居心地の悪さをかなりの程度払拭しただろうことが、そばにいた蓮生にも手にとるように分かった。エツコが間違った育ち方をしていないことを確信し、長くふた親の役割を押しつけてきてしまったリツコに深く感謝する蓮生だった。翻って葉子に目をやりながら、こちらも間違った選択ではなかった、と葉子の態度に安堵する蓮生でもあった。

*  *  *

 サヴォワ四階のレストランにエツコ、葉子、蓮生以外に客はなかった。基本的にはアッパーイーストサイドの「パーティ・コンドミニアム」であるサヴォワがレストランを併設することのメリットが発揮されるのは、週末の夜にのみ限定されるのだろう。そもそも居住者以外の入店はお断りで、しかもこれといった名物料理がある訳ではないカフェ・サヴォワの客席に、平日の午後に座ることの意味は少ない。隣接した広さにして三〇畳ほどのジムにも、レストランの外のバルコニーに設えられた露天ジャグジーにも客は皆無で、新築当時の販売促進のためだけの刹那的な付帯設備であったことが見えみえだった。
 エツコと葉子のカフェオレと、コーヒーの飲めない蓮生の紅茶はすでにテーブルの上にあった。その丸テーブルを等間隔に囲むようにして三人は座っている。窓を背にした蓮生の横顔を傾きはじめた夕日が紅く染めている。
「一度整理しようか」と蓮生が長い沈黙を破る。「ジョバンニやオースティンさんの話を総合すれば、ママは少なくとも自分の意思で出迎えのクルマに乗り込んだ」
「うん」と今度はエツコが続ける。「そして、そのクルマのハンドルを握っていたのはパパにそっくりなアジア系の男性」
「ちょっと待って」と蓮生。「さっきジョバンニに確認したところによれば、そこのところのニュアンスがちょっと違っていて、正確には二〇年前の僕にそっくりなアジア系の男性」
「え、ジョバンニ、パパにはそんな風に説明したの?」
「二〇年前の先生といまの先生、どこがどう違っているのかしら。ちょっと興味があるわ」
 悪戯っぽく葉子が笑った。
「そうねえ……」としげしげと蓮生を眺めながらエツコが言う。「ニ〇年前は私、生まれるか生まれないかだから良くは分からないけど、こちらにいた頃よりはパパ、ひとまわり小ぶりになった気が……。パパ、痩せた?」
「自分ではそうは思わないけど。一人暮らしが長いせいか熱量が足りてないのかな。それに、ジョバンニに言わせるとメルセデスの彼は髪型が昔の僕のように短かったらしい」
「私がはじめて先生と出会った頃もいまのような耳が隠れるほどの長髪じゃなかったかも……」
 葉子がだんだん消え入るような小声になったのは、実の娘が隣にいることにやがて気づいて、個人的で密やかな思い出に耽った自分を恥入ったせいかもしれない、と蓮生は思った。
「それはつまり、二〇年前のパパのイメージにそっくりなアジア系の男性をママが追いかけ続けているということかしら。それとも、そんなにことは単純ではない、何か私たちには計り知れないことがママの身に起きているの?」
「それは僕にも分らない。ただ、ひとつ言えることは今回のことが単純な拉致や誘拐とも違う、かといって駆け落ちや逃避行とも違う何かとんでもないことがママの身に起きているらしいってこと」
「パパ、私、なんだか怖い」
「大丈夫。エツコを一人にはさせない」
 きっぱりと断言しながらも蓮生は、仮に事態の収束が長引けば自身の仕事と葉子の病院をどうすればいいのか、確かな手立てはないように思えた。
「エツコ、この際、ママとジャンピのこと、少し訊いてもいい?」
「それは構わないけど……」
 エツコは一度、葉子に目配せして、それからテーブルの上のカフェオレのボールに視線を落した。
「あ、葉子さんは概略このことを知っているから、気にすることはない」
「私、席を外すので全然平気ですよ」
 葉子はそう答えると、さっそく中腰になって席を立とうとする。真っ先に葉子の二の腕をとって、制止したのは蓮生ではなくエツコだった。
「葉子さん、いいの。ここにいらして。詳しいことは何も知らないけど、葉子さんはパパにとって大切な人でしょ? だったら、パパとママのこと、葉子さんにはきちんと聞いていただいた方がいいと思うわ」
「でも、私……」
 葉子はなおも困惑を隠せなかった。
「エツコの言う通り。むしろ一緒に聞いて貰った方が僕もいいと思う」
 蓮生の言葉を合図にするかのように、葉子の尻が椅子の上にすとんと落ちた。
「ママはジャンピとのことでは大きくは二段階に傷ついたと思うの。最初は、言うまでもなく、あんなに好きだった、大切だったパパを失ったという段階。あの頃、パパの前では強がってばかりのママだったと思うけど、失くしたものの大きさがアルバムを手繰るたびに募るわ、ってよく口にしてた」
 強く深く愛していたのは自分とて同じ、と蓮生は心のなかで呟いた。だからジャンピとの性交写真を見せつけられても、リツコは何らかの被害者に違いない、と自分自身を納得させようとした。そんな思いも、もう一枚の写真――ロックフェラーセンターのクリスマスツリーをバックに仲睦まじい二人――を見た瞬間に途切れた。リツコの表情は、年齢とは無関係に、男に忘我の恋心を抱き、妻であること、母親であることを放棄した者のそれであったから。その恋の結末はこの際どうでも良かった。そんなことは問い詰めれば問い詰めただけ、自分を惨めな存在に貶めるような気がした。
「パパとの別離にも増してママを深く傷つけたものは」とエツコが続けた。「ジャンピのひどい仕打ち、裏切りなの」
 エツコはそこで一度息つぎをした。思いがけないことではあったが、そのあとの展開は蓮生にもおおよそ予想がついた。エツコもういい、と心のなかで呟いたが、いまや涙目のエツコを制止する手立てはない気がした。
「ジャンピの裏切りとは、ママの留守中、ジャンピが今度は私に関係を迫ったこと。もちろん、ジャンピを家に上げた私に落ち度がなかったとは言い切れないけど、まだ一六歳の高校生だった私には、二番目のお父さんだと思いたい気持ちがなかったといえば嘘になる」
 プラダの小ぶりのバッグから葉子がペイズリーのハンカチを出してエツコに渡した。日本語を流暢に話すアメリカ人のエツコにはそもそもハンカチを持ち歩く習慣はない。はじめは躊躇したのかエツコのジーンズの太腿の上に置きっぱなしとなったハンカチであったが、やがてエツコは意を決したかのように葉子のハンカチを鷲づかみにすると、鼻を押さえて洟と化した涙を堰き止めた。
「エツコさん、もう話さなくてもいいよ」
 葉子はやさしくエツコの肩に手を添えた。
「ごめんね、葉子さん、これ、少しのあいだ貸してね。洗って返すから」
 エツコは葉子のハンカチを鼻に当てたままのくぐもった声でそう言うと、なおも話し続けることを決意した、というように前髪を手櫛でかき上げた。
「それからジャンピとの関係はママに知られないままに半年くらいは続いたの。もちろん、ママの恋人というのがジャンピの表向きの肩書だから、そんなに頻繁に体の関係を持った訳じゃないわよ。正直、子供ながらにもジャンピのやさしい愛撫が愛おしくなっていたのも事実。ただ……」
 エツコの涙声はそこで嗚咽に代わり、喉を詰まらせた。
「ただ?」
 と蓮生はやさしく訊いた。
「ただ、ある日、私をベッドの上でくみしきながら、エッツ、結婚しないか、って訊いてきたジャンピが許せなかった。だって、ママはあんなにも大切なパパと家庭をあなたのような人のために捨てたのよ! 私はその瞬間、弾け飛んで、床頭台の上にあったありとあらゆるモノをジャンピに投げつけた。そのうちのひとつ、東京のおばあちゃまから貰った七宝焼きの写真立てがジャンピの顔に命中して、ジャンピの額から鮮血がしゅっとほとばしった。ざまあみろ、って思ったけど、悲しかった。悲しかったけど、ざまあみろ、だった」
「許せない」と吐き捨てたのは葉子だった。
 葉子が目の前のテーブルを両手で叩いた反動で、テーブルについていた蓮生の頬杖が外れ、かくん、となった。
「葉子ちゃん、すごい剣幕だね」
 左に傾いだ体勢を整えながら蓮生が宥める。
「エツコさん、ひとつ訊いていい?」と怒りを持続したままの葉子が続けた。「エツコさんはそのジャンピとやらともう完全に切れたのよね?」
「うん」
「まだ愛してるとか、未練があるとかじゃないのね?」
「うん」
 頷きながらエツコは、昨日までは見ず知らずの葉子との間に、段々に連帯が生じるのを感じていた。
「先生? 先生はエツコさんのお父さんとして、ジャンピときちんと対峙する必要はないのかしら。エツコさんのお母さんのことはともかく、自分の娘をそこまで弄んだ男に正面切って怒りをぶつける必要はないの?」
「それはそうだけど……」
 葉子の怒りにレベルを合わせることが出来ないでいる蓮生は、何故自分の娘に起きた理不尽に鈍感であるのか計りかねていた。一度は妻を奪い、間髪を置かず今度は年端も行かない娘を辱めた男に湧くべき当然の怒りが自分には明らかに足りない気がした。それは、その後経過した十年という歳月とも関わりがあるようにも思えたのもまた事実であるが。
「先生の気持ちは分からないでもないわ。奥さんと離婚した時に、先生のなかではジャンピ、雲散霧消したのよね。というか、奥さんも一緒にジャンピはこの世にまるで存在しなかったかのように忘却されてしまったのね、希望的に」
「そんなことはない。日本に戻ってからも別れた妻のことは一度たりとも忘れたことはない。直接に話をすることは滅多になくても、エツコを通じてリツコの様子はそれとなく聞いていたし、エツコの幸せの後ろ楯としてはなくてはならない女性だから。第一、大事でも何でもない女性だとしたら、札幌からはるばるやってきて、ここにこうしている理由もないじゃない」
「それはそうよね。ごめんなさい。私、立場もわきまえず言い過ぎたかも……」
 葉子のあっけないほど突然の恩赦は、火急の解決が迫られる事態はリツコの失踪であることを理解した上での休戦協定であると同時、ジャンピに続いてエツコを苦しめようとしている者があるいは自分自身かもしれない、ということに思い至ったということでもあった。母親に突然出来た恋人としてのジャンピ、そして、飛行機で父親と一緒に唐突にやってきた自分、娘のエツコにとって理解することの難しさは五十歩百歩のような気がした。
「今回、パパがここにいれるのは最大で何日?」
 エツコは、葉子の気不味さを微妙に察知して、そのことを払拭するかのように話題を変えた。
「そうねえ、その気になればいくらでもいれるだろうけど、一週間くらいで一度札幌に戻らないとね。まともな引き継ぎもしないで学生たちのことを他の先生に預けて来てしまっているからね。それに、葉子さんは研修医として佳境を迎えているからやはり一週間以内には一度日本に戻らないとね」
「そんなこと、気にしないで下さい。空港までの行き方さえ教えていただければ私は一人ででも帰れます」と葉子は言うと、「先生はエツコさんと出来るだけ一緒にいてあげて下さい」と再びエツコの肩に軽く触れた。
「よし、こうしよう!」とエツコがジーンズの膝を叩いて、きっぱりと言った。「パパと葉子さんの滞在はひとまず一週間だとして、この間に絶対にママを見つけ出す!」
「そうと決まったら、工程表でもつくって今日から何をすべきか考えるべきね。マンハッタンにいられる時間を無駄にしたくないわ」
 葉子の眼差しが心なしか日本にいる時より輝いているように蓮生には感じられた。目を遣れば、いつの間にかガラス越しにジムの固定自転車を一心に漕ぐ中年の白人女性の後姿があった。レオタード姿の背中が三段か四段にくびれ、ペダルを漕ぐたびに腹周りの贅肉の大方が右に寄ったり左に寄ったりと大移動を繰り返している。エクササイズとは別にやるべきことも多い気がしたが、蓮生にはその無限運動が娘エツコの究極の幸せのかたちを追い求めることと同じくらい永遠に感じられて途方に暮れるのだった。

*  *  *

「ママのこんな事件が起きなければ、この部屋に再び戻ってくる機会は二度とないか、あっても、もっともっとずっとあとのことだっただろうね」
 蓮生は艶消しの黒にペイントされた扉に金色の金属文字で14Bとだけ刻印されている扉を眺めている。一枚の扉に鍵が二ケ所も三ケ所も付けられていることが珍しくないマンハッタンにあって鍵が一ケ所にしかないということは、それだけマンパワー頼りのセキュリティがしっかりとしている、ということを意味している。ドアマンのジョバンニたちが人間の楯となって、そもそも堅牢に出来たサヴォワの隅々に目を光らせてくれているのである。ただ、それでも事件は起きる、それがマンハッタンである。
「何を言ってるのよ、もとはといえばパパが一所懸命働いて買ったコンドじゃない」
 鍵穴に差し込んだキーを手粗く回しながらエツコが答える。ガチャリと大きな音がして扉が開く。かけた体重のままエツコが前のめりになりながら室内に入る。
「その辺りの教育、ママはぬかりないんだな」
 エツコの頭上で扉の反動を抑えるようにして蓮生はエツコのあとに続く。
 リビングの窓は床から天井まで全面ガラス張りで、三番街の広い道路を挟んで正面に隣のコンドミニアムが観える。私生活をカーテンやブラインドで隠す習慣はこの街には乏しく、窓越しに、自宅を事務所代わりに仕事をしている男性、ふかふかのカウチに身を沈めてテレビに夢中になっているのか眠っているのか分からない年齢性別不詳の不動の人影、奥のバスルームの扉が半開きになっていて細身のスパッツにTシャツ姿で鏡を覗きながら一心に髪を団子に結わえようとしている女性など、向かいのコンドミニアムの様子がそのまま観察出来る。同じようにして向こうの側からすれば、若い女性に招き入れられながら、不思議そうにこちらを眺めたり、見上げたりしている挙動不審の中年の東洋人が目撃されていることと蓮生は半ば確信をする。
「完成したんだね、お向かいのコンド」
 蓮生は一四階の高さからでも、ハイライズのビル群を縫うようにして、なんとかセントラルパークの一角の緑が臨めた十年前を懐かしむ。
「今頃、何を言ってるんだか。前のビルが出来てから、もう五年も六年も経つわ」
 エツコはそう言うと、広さにして四畳ほどの台所に消えた。やおら電磁調理器に独特の高周波音立てながらヤカンが急速に熱せられつつあるのが聴こえる。エドワード・ホッパーの「日曜日の早い朝」が掛かるサーモンピンクの塗り壁。猫足のコーヒーテーブルと、その上に無造作に置かれたニューヨークタイムスの束。すべてはあの頃にままだと蓮生は思う。
「葉子さん、良さそうな人だね」
 台所からエツコの声がする。
「ありがとう」
 そういうと蓮生は三連座面のカウチに腰を落とす。蓮生にとって、そこが自分が座るに一番権利の濃い場所、そんな気がした。それは蓮生自身がソーホーの一角の家具屋で一目惚れして買ったバーガンディの馬革のソファで、その上でエツコの紙おむつ(ダイパース)も替えたし、親子三人並んで踏み台にしてセントラルパーク恒例の新年の花火を見物したりもした。
「お世辞じゃないよ。さすが恋愛先生、お目が高いよ」
 なおも聞こえて来るのはエツコの声だけである。
「ねえ、その恋愛先生って呼び方、誰から仕入れた?」
 蓮生は伸びをしながら天井に訊いた。
「あ、やだった? いまの私にとっては好都合のコードネームだったんだけどな」
「やっぱりあれか、ネットとか?」
「そうそ。掲示板の書き込みとか見る限り、恋愛さん、意外と学生のウケがいいんで娘としては鼻高々」
「好都合の呼び方ってのは?」
「そろそろパパってのからは卒業すべきかなって思わなくもなくて」
 エツコがさし出すマグを見ると、色だけは十分に緑色をした日本茶がなみなみと注がれていた。ありがと、と呟くと、蓮生は反り返っていた上半身を起こして、溢さないようにマグを受け取った。
「いくつになってもリツコは娘には違いないんだから、日本でならパパ、ここでならダディやダッドだろ?」
「ダディやダッドはいいの、乾いているから」
「乾いてる?」
「そう。パパという呼び名には湿気というか、不用意な甘えがある」
「もっと甘えてくれよ」
「もちろん、私はこれからも変わりなく甘えさせて貰うわ。でも、ママの前でパパと呼ぶたびにママを傷つけてる気がして。だから恋愛先生はママと私の間では恰好のコードネーム」
「もしかして、ママもそう呼ぶ?」
「そうよ。あ、えーと、ママはもっぱら〈恋愛さん〉の方かな」
 蓮生と並んでどすん、とカウチに腰かけたエツコはそう言い切ると、自分自身のために用意したダイエット・コークを一口ごくりとやり、「あ、不味い」と独り言ちた。
「ママから恋愛さんと呼ばれているかと思うと、何だか複雑な気持ちになるね」
「恋愛の専門家はむしろママの方なのに、ね?」
 仲の良い父と子の心地よい言葉の応酬が一度そこで途絶えて、エツコはかすかにしまった、という表情をしたが後悔というほどのものではなかった。
 もっともエツコの言葉は蓮生を怒らせる、不機嫌にさせるというよりも、むしろ元の妻に対する思いがけない恋慕の念を喚起したのであった。妻は断じて恋愛の専門家なんかじゃない、永遠の恋愛のアマチュアなのだ、と声に出さずに呟く蓮生だった。
「恋愛がもっと上手だったら」と、蓮生が短い沈黙を破った。「ママはエツコにこんな淋しい思いをさせずに済んだだろうに。恋愛がもっともっと上手だったら、エツコがパパをパパと呼ぶことに躊躇なんてしなくても良かっただろうに」
 蓮生の隣でエツコはコップを傾けたままで、じっと蓮生の言葉を聞いていた。喉元を絞めつける苦味はクソ不味いダイエット・コークのせいか、それとも鼻から逆流した涙のせいかエツコは計りかねていた。
「パパの認識がその程度のものだから、ママはママで何年も何年も苦しんだのかも」
 ついに娘の口をついて出た言葉は、蓮生には十分に意外なものだった。
「どういう意味、それ?」
 蓮生のセリフは、それがテレビドラマの収録中だったら明らかにNGシーンとなってやり直しを命ぜられていただろう。それほどに蓮生の声は上ずり、小学生のそれのように疳高かった。
「ママを美化し過ぎるのはいつものパパの悪い癖。確かにママは恋愛下手かもしれないけど、常に他人様の音楽を奏でるためだけに待機状態のiPod専用スピーカーではないわ。気に喰わないiPodが刺ささったとなれば、過剰電流を通電し、本体もろとも焼け焦げたりしかねないの。パパが置かれた立場からすれば、ジャンピが加害者、ママが被害者のステロタイプな構図を信じたいのは分からないでもない。でもね、ママは愛のためなら実の娘とも闘う強い情熱を秘めた女なの」
「ジャンピを巡っては、それほどに熾烈な戦いがあった、二人の仲が悪化したってこと?」
「そうじゃない、ジャンピを引き合いに出したのは、多分それがパパが知ってる情報のすべてだと思ったから。ジャンピとのことはもう二人とも乗り越えたの。第一、ジャンピに倫理感が欠如してただけの話で、ジャンピのような男のためにママと私が闘ったりする訳がない」
 言葉にこそしなかったが、蓮生はひとつ大きく頷き、そうだその通り、と心のなかで相槌を打った。エツコが断言してくれたお蔭で、シボレー車中でのジャンピとリツコの性交写真も、ロックフェラーセンターのクリスマスツリー前でのツーショット写真も一瞬にしてどこかに吹き飛んだ気がした。
「でも、相手がジャンピではないとしたら」と蓮生は新たに湧き起こった疑問をエツコにぶつけるしかなかった。「ママが実の娘とだって闘うほどの情熱を燃やす新しい男って誰?」
「知りたい?」
 蓮生にしなだれかかりながらエツコは、蓮生の顎を右手の人差し指で突きながら訊いた。
「そうもったいぶられると尚更ってとこあるよね」
 蓮生は、エツコの指を払いながら応えた。
「仕方ないなあ」
 エツコはそうほくそ笑むと、やおらジーンズの後ろポケットからノキア製の携帯電話を取り出す。中折れになった携帯電話を開くとやがて待ち受け画面のハリウッド男優の笑顔が大映しになった。携帯画面を蓮生に示しながらエツコが言う。
「これこれ」
「これこれって、ブラット・ピット?」
「そう、ブラピ」
「ブラピ?」
「そう、ジャンピの次はブラピ」
 エツコはそう言うと、カウチの背凭れにのけ反りながら脚を交互にばたばたさせ、「かっ、かっ、かっ」と勝ち誇ったように笑った。
「ジャンピの次はブラピ」
 蓮生はそう独り言ちてみた。言葉にしてみるとジャンピとブラピに不思議な郷愁を覚えた。何故か、と蓮生は自問してみる。
「ジャンピに、プラピに、ハスッピ」
 図らずも、口をついて出た言葉に自分でも驚く蓮生だった。
「ハスッピ? 何それ?」
エツコが跳ね起きる。
「そうだ、ハスッピは僕だった」と蓮生。
「やーだ、色んなことが一度に起こり過ぎて、恋愛さん、とうとう頭ヘンになっちゃった?」
「違うってば、エツコのママとはじめて出会った日、――それはね、NYUのそばのバイオレットって名前のカフェで、デービッドという名の、ママと僕の共通の英会話の先生に紹介されたんだけどね――相川蓮生ですって自己紹介したら、ママはハスオって名前にいきなり喰いついてきてさ。あの性格でしょ、一度固執するとなかなかそこから発想が飛ばない訳よ。何故蓮生なんだ、お釈迦様と何か関係があるのか、とかね。パパが納得のいく説明が出来ずにいるとずっとそこにとどまったまま」
「ママらしいね」
「だから言ったんだ。だったらリツコさんはどうしてリツコさんなんですか? お父様は法律家ですか? それともピアノの調律かなにかがご専門?」
「私のことはいいんです」といつものリツコの口調を捉え、声色の見事なエツコ。
「そう! その通り! 私のことはいいんです、私の名前は単なる記号ですから。それよりもハスッピがハスッピであることの訳、私、知りたい!」
 蓮生のはエツコのにははるかに劣るが、蓮生が真似るリツコの言葉にはどこか深い愛情さえ感じられて、そのことがエツコを束の間幸せな気持ちにする。束の間の幸せが、そして、エツコをさらに饒舌にする。
「いきなり? いきなりハスッピ? それはないわ。絶対にあり得ない。いきなりハスッピだなんて、今日日のワカモノだって言わない」
「だろ? でも、それ以来ずっと僕はハスッピ」
「結婚したあとも?」
「そう。そのあと、バイオレットで出会ってほんの数ケ月で婚約し、結婚し、ママが東京からニューヨークに本格的に越して来た訳だけど。で、エツコが生まれて呼び名がパパに変わるまで、蓮生はずっとハスッピ」
「ハスッピかあ。やっぱりママの言語感覚はどっかズレてるのよね。私はやっぱ恋愛さんの方が好きだなあ。だってね――」
「そうだ、エツコ」
 いつ止むとも分からないエツコの個人的見解に耳を貸すのはもうここまでといった風に蓮生は立ち上がる。そして、歩いて一〇歩足らずの台所に走る。
「エツコ」
 台所から響く蓮生の声はいつもより気持ち華やいだ感じがする。
「なあに、パパ?」
「このケンモアの冷蔵庫、パパが最後にここを出た時のままかあ?」
「どうだったかな。新しい冷蔵庫が運び込まれたって記憶は私にはないから、多分そのままじゃ」
「だとしたら……」と蓮生は独り言ちると、左右に観音開きの大型冷蔵庫の、右側の重い扉を一気に手前に引いた。開いてみれば、果たして蓮生が期待した扉の内ポケットはそこにあった。内ポケットには上下にスライド式の半透明のカバーが被さっているのも昔に同じ。スライドさせるべき方向を一度で探り当てた蓮生は、結果、そこに貼られた二〇年ほど前の自身の写真と対面するのである。
 写真が撮られた日のことを蓮生はいまも昨日のことのように覚えている。その写真は、サヴォワの真下を走る地下鉄R線の一方の終点の町、クイーンズ地区フォレストヒルズで撮られた。バイオレットカフェでの出会いからほぼ二ケ月後、蓮生から誘ったデートではあったが、目的地としてフォレストヒルズを指定したのはむしろリツコの方だった。そこに、アメリカで唯一の親戚であるリツコの叔母――リツコの母の一番下の妹――が住んでいるから、というのがフォレストヒルズが選ばれた唯一の理由だったらしい。
フォレストヒルズ・ガーデン地区の由緒正しい家並みを周囲の凡庸な住宅地から隔絶する高い煉瓦の塀は、中世のお城の城壁のように堅牢かつ美しい。その煉瓦塀に寄り掛かる、いまより二〇歳ほど若い蓮生をカメラに収めたのは、当然のようにリツコである。若い頃、油絵をよくしたリツコが物したその一枚は、自然のうちに備わった構図の冴えがあった。蓮生の記憶はすでにおぼろげだが、夕刻に撮られたのだろう、変色し、全体がアンバーで覆われた写真は、しかし基調には明らかに夕焼けの仕業なる濃く深い緋色が支配している。黄土色のコーデュロイのズボンに、いま見れば少し野暮ったいが、当時は十分に時代に寄り添っていたラルフローレンのピンクのポロシャツを来た蓮生が、今日はもうこれを最後の写真にしてね、といった風にはにかんでいた。ポロシャツのピンクに重ねるようにして、白色のフェルトペンで「ハスッP」の書き込みがあるのは、もちろんリツコの仕業である。ハスッPの写真の褪色が最小限に抑えられたのは二〇年もの間、冷蔵庫のなかで冷やされ続けたから、静謐な街の感じも、蓮生の十分な若さもリツコのカメラに切り取られたすべてが冷蔵保存されたから、と半ば確信する蓮生だった。
「私、二〇年もこの家に住んでいて、こんなとこにパパが隠れていただなんて、ハスッピの写真が隠されていただなんて知らなかった」
「ママにとって秘密にするほどのものじゃなかったんだろうけどね。それに、パパだって、この部屋にこうして再び足を踏み入れなければ、こんな写真の存在思い出しもしなかった。無くすってきっと……」
「無くすってきっと?」
「無くすってきっと、忘れるってことだね。手許にあるかないかじゃなくて覚えていられるかどうか?」というと蓮生が僅かに笑う。
「忘れたってずっと……」と今度はリツコが切り返す。
「忘れたってずっと?」
「忘れたってずっと無くならないものだってあるわ」
 その具体例を知りたいとは蓮生は思わなかった。この辺りで会話を一端終了としたい蓮生の思いとは裏腹に、しかし、エツコは何らお構いなしといった風だ。エツコが続ける。
「たとえば、ニューヨークでのママと私の大切な生活、いくらパパが忘れようとしても、ずっとずっと時を刻み続けたように」
 エツコ、パパは二人のことを一日たりとも忘れたことなんてなかったよ、と蓮生は独り言ちた。朝に夕に思い出すたび、無くしたものの大きさに押し潰されそうになる蓮生だった。悲しかった。初めのうちは、声に出して大泣きしたことも一度や二度ではない。ただ、やはり時が過ぎるにしたがって、思い出すことも段々に少なくなって、つまり忘れかけたことも一度や二度ではなくて、ついにはニューヨークの街にいまも暮らし続けるという母と娘の輪郭も滲み、ぼやけ始めていたのも事実。
「ママはきっと台所に立つたびこの写真の存在を感じていながら、決して剥がしそうとはしなかったのね。そんなママの気持ちを思うとちょっぴり可愛そう」
 そういうと、エツコは内ポケットのスライド式のカバーを静かに元に戻した。
「忘れられなくても無くしてしまうってケースなのかな、これは?」
 冷蔵庫の扉を再び閉めたのは蓮生の方だった。
「違うと思うわ、私。ママが決して忘れることがなかったから、こうしてパパも私たち二人の前から忽然と、完全に消えて無くなったりしないでいてくれたんだと思う。ありがと、パパ」
「あ、何だか本当に久しぶりに、心からパパって呼ん貰えた気がする」
「来てくれて本当にありがとう。パパ、本当にありがとね」
 蓮生にしがみつくエツコの半べその泣き顔は、涙を堰き止めるべき両目蓋のダムがすでに決壊していた。止めどなく流れる涙を眺めながら、さて、リツコの病気のことをどこから話すべきかと思案し、途方にくれる蓮生だった。

*  *  *

 翌朝、宿泊先のホテル、ガーデンガーデンのキングサイズベッドで葉子を背後から抱き締めたまま目覚めた蓮生は、気づかれまいと、下半身をそっと葉子のお尻から離した。一晩中つながっているということは、いくら逝くことのない蓮生にも難しいので、あるいは朝方、どちらからともなくいま一度求めたのだろう、と蓮生は考える。蓮生のそれは、いまや葉子にとって安心と安眠を担保するための座薬のような役割を果たすのだった。一方で、葉子のそれは、蓮生にとってバッテリーの切れかかった自分をリチャージしてくれる充電器のような役割を果たすのだ、と考える。蓮生のなかの蓄電池はいまやすっかりフル。壁の時計を窺えば、直に九時になろうかという時間である。一刻も早く出かけないと、一日の予定にも差し障りが出る、と蓮生は思った。
落ち着きのない蓮生に気づいて、「何時に起きたあ?」と葉子が首から上だけ振り向いて訊いた。
「ずっと眠れなかった」と蓮生が答えた。
「恋愛先生の大嘘つき。葉子があれほど寝ちゃやーだってお願いしたのに、そのうち微動だにしなくなって。で、すぐにぐーぐー鼾までかき出して」
「ごめんね、葉子。でも、ほんのさっきお尻から剥がれるまで一晩中つながっていたでしょ?」
「違うちがう。寝息と鼾が聞こえはじめるとすぐに先生向こう向きに向き直っちゃったんだもの。本心見た思いがした。恋愛さんって意外と冷淡な人かなあ、って」
 いまや意地悪な笑顔を浮かべている葉子の言い分が正しければ、やはり夜明け頃、つながり直したのだと蓮生は思う。自分の意思か、葉子の意思か、はたまた二人ほぼ同時の意思か、で。
「恋愛先生、そろそろお出かけの時間ですよお」
「出かけるのは僕だけじゃないよ、葉子も一緒」
「あのね、先生。葉子、先生が向こう向いて鼾をかきはじめたあと、しばらく眠れなくて色々と考えたよ。いまの私がすべきことは何で、すべきでないことは何かって。で、結論を言うとね、やっぱり今日は先生と一緒に病院行くのは止めにしようと思う」
「おいおい。そのことは昨日の晩、遅くまで散々話し合ったじゃないか。僕は今日、葉子にどうしても一緒について来て欲しい、それに――」
「それに、先生の奥さんも自分の新しい彼女に会いたい筈だ、っていうんでしょ? でも、それって奥さんの真意かな? 本当に先生の奥さん、葉子なんかに会いたいかな?」
 昨晩、就寝前に蓮生が語り出した折の動揺を、葉子はいまも忘れられずにいる。シャワーから上がり、先に蓮生が陣取った布団の左側の隙間に自分のからだを潜り込ませるとほぼ同時、先に眠っているかに思えた蓮生は「まだエツコには内緒にしていて欲しいけど」といきなり切り出したのだった。
蓮生によればリツコはサヴォワからも歩いてすぐの、ノックスヒルズ病院の救急に意識不明で緊急入院しているのだという。ノックスヒルズがかかりつけであったリツコは、かねてより病院に、万が一、自分の身に喫緊の事態が生じたような場合は、そのことを娘よりは先に、別れた夫に知らせて欲しい、と話し、周到に優先順位まで記して、知り得るありとあらゆる蓮生の電話番号を一覧表にして病院に託したという。
「互いの弁護士立ち合いで、最後の話し合いを持った日にね」と蓮生が続けた。「リツコがひとつだけ約束して、って言う訳よ。そして、私には叶わなかったけど、いつか蓮生が再び誰かと幸せを掴む日と、いつか私が蓮生より先に亡くなる日には、出来たら蓮生にも立ち会って貰いたい、なーんてね」
 そんなこと聞きたかないよお、という風に葉子は蓮生の説得を振り切るべく布団のなかに潜り込んだ。二人が未練たらたらで別れたことは葉子も知らない訳ではない。羨ましくも思い、「ロマンチックねえ」と冷やかしたことも一度のみならずある。だからといって、二人の思い出の一コマを恰ものろけのようにして聞かされたくはないのだ、その辺のカンドコロが四〇を遙かに過ぎても蓮生は分かっちゃいないのだ、と葉子は思った。
布団に潜り込んでみると、ベージュの掛け布団(コンフォータ)越しに届く朝の光が蓮生の素肌を優しく照らし、そのアンジュレーションを砂丘か何かのようになだらかな曲線として際立たせた。きめ細かな肌が絹のような輝きを放っている。中年男性ならではのからだ全体を覆う薄い脂のノリが、何人か知っている過去の青年男子にはない女性のような柔らかさと艶とを与えているのだと葉子は理解し、そのいわば老いの予兆が愛おしくて肋骨の辺りに頬ずりをした。頬ずりをしながら、砂丘のはるか果ての一角にある、オアシスの黒々とした葉叢を眺めてみる。すると、どうやらそこには微かに蠢く生き物の生息があるらしい。葉子はその、小さな芋虫様の生き物を右手の親指と中指で掘り起こし、摘まみ上げる。で、掴んだ芋虫の背後から人差し指を上手に宛がって、人形劇か何かのように「こんにちは!」と声色を使いながらお辞儀させてみる。瞬間、いくらか緊張が走って硬直したように感じられる芋虫は芋虫で「こんにちは!」と可愛く挨拶を返す。もちろん、掛け布団越しに聴こえてくる、蓮生が使う声色である。「何も怖くはないわ」、今度は地声で芋虫に話かける葉子。「何も怖かないさあ」、依然芋虫の役回りを止めない蓮生。そんな蓮生が憎ったらしくて……で、可愛くて、葉子は蓮生の片割れをがぶりと齧った。
「いたっ! 痛いでちゅ」と蓮生。
「我慢でちゅ」と葉子。「苦っ! 恋愛先生のボク、今朝は苦いでちゅねえ」
 苦情を呈しながらも、葉子は蓮生の芋虫を頬張ることを止めない。
「ばっちいよお」
 地声に戻った蓮生がそう言い、葉子の頭を自分のから剥がしにかかる。葉子は外されまいと華奢な首と背筋に渾身の力を入れて抗う。
「ばっちくなんかないよお」
「だって、葉子と僕、一晩中つながっていたんだよ。きっとばっちいよお」
「それって元々は葉子のものがばっちいってこと? それとも先生のものがばっちいってこと? それともそれとも、葉子のと先生のが合わさるとばっちくなるってこと?」
「どっちでも良くないでちゅか?」
 都合が悪くなると蓮生に芋虫が憑依するらしい。
「良くないの。出会ったばかりの頃、性器にキスされるの厭で、不潔って言ったら、不潔か不潔でないかなんて人間の偏屈な理性が決めること。精神衛生は肉体衛生に常に優位する、って言ったのはどこの誰だっけ?」
「それは僕でちゅ」
 再び幼児語に戻ってみれば、もうこれ以上抵抗する理由も気力も何もないように思える蓮生だった。だから、
「ごめんね、葉子の素敵なお口をもってしても、今朝も僕には逝くことが難しいことのように思える。だから、お願いだから、適当なところで切り上げてね。遠慮は一切なしだよ」といって、蓮生は葉子の髪の毛を撫でた。
「大丈夫。葉子、恋愛先生の先っちょから滲み出てくるお汁をちょっとだけ飲むだけだから大丈夫。先生は余計なことを考えないで、のんびりとリラックスしてね」
 実のところ、こんなにも愛しい葉子をリツコの病室に連れていくことが正しい選択なのか、蓮生は依然、最後の判断に自信を持てずにいた。
 ドクターサイムから蓮生の携帯電話に日本を経由して電話が入ったのは昨夜遅く、いつもの入念な歯磨きを終え、シャワーの長い葉子を待たずにベッドに入ったばかりの時間だった。
「これはまた、珍しいお方からの電話だなあ。ビル、お久しぶり。教えもしない僕のケータイにこうして電話してくれたことを考えれば、予想し得る可能性はたったふたつ。僕の忠告を無視し、株の世界に首を突っ込み過ぎて抜き差しならない状況に陥っているか、あるいは、別れた妻の容態がとても思わしくないか。さあどっち?」
 いつもなら、皮肉は倍にして返さずには気の済まないウイリアム・サイムなのに、その晩のサイムは社交辞令ももどかしいという風に、いつもの英語混じりのいくらか古風な日本語で語り出した。
「前者の相談はいずれ改めて。投資の師匠(マイ・メンター)、今日はどうか過ぎた悲観や楽観を挟まずに、これから私が口にすることをそのまま、事実を事実として聴いて欲しい。で、出来たら要点はメモにでもとって、電話を切ったあとにでも、いま一度冴えた頭脳で整理し直して欲しい」
「分かった。一分だけ待って欲しい。メモの用意をするから」
そう言うと蓮生は、ホテルのメモ用紙と、出かける時は必ずジャケットの内ポケットに潜ませているペリカンの万年筆を揃え、万年筆のスクリュー式のキャップを外した。
「結論を先に言えば、アイク、君の奥さん、失礼、君のかつての奥さんだった方は我々の病院のなかで、検査結果――それは君に直接Eメールしたようにスキルス性の胃ガンだったんだが――を気に病んで自殺を図ったようだ。悪いニュースと良いニュースがそれぞれひとつずつ。どちらから先に聞きたい?」
 機知に富むいつものドクターサイムの言い回しだが、悪ふざけといった印象は皆無で、それだけに事の深刻さは蓮生にもひしひしと分かる。
「ビル、突然のことで判断力が働かない。君が良かれと思う順番でお願いしたいね」
 携帯電話を持ち替えた蓮生は、自然のうちに椅子の上で正座の恰好を採った。
「だったら、悪いニュース、そして良いニュースの順番で。いい?」
「良いも悪いも君が決めた方で」
「では悪い方から。残念ながら奥さん、失礼――」
「奥さんで一向に構わんよ。先を早く」
「その、君の奥さんだった方、当方の病院内で自殺を図ったんだが、残念ながら手遅れだ。自殺の手段は薬物の大量摂取だが、発見こそ遅れたものの、倒れられた場所が病院内の女性用便所であったお蔭であとの措置に万全を期すことは出来た。胃洗浄のあと、すぐに酸素吸入を開始したので今日明日にどうということはない。一見すれば昏睡状態のようにも見えるが、水差しの水を与えれば自分から吸引する能力も残っているし、時折、寝言のようなこともおっしゃる。ただ、死期は確実に迫りつつあり、僕の身立ててでは、余命四日から一週間ということかと思う。ここまでが悪いニュースだ」
 受話器を持つ右手がこわばり過ぎて、指の一本たりとも剥がれはしないのではないかと蓮生には思えた。
「そうか、何だか急な話で整理がつかんが、君がいうように要点だけはメモらせて貰ったよ。ちなみに、何という薬物を飲んだのか教えて貰えないか?」
「いわゆるクエン酸リチウムと言われる躁鬱病の治療薬。医者の処方箋無しには買えない薬だ。うちの病院では精神科への通院歴はないようだが、思い当たるふしはある? 最近塞ぎ勝ちだったとか、精神科や心療内科で定期的に薬を処方されていたとか?」
「本当に情けない話だが、別れた妻の近況を知ることが出来たのは、唯一、君を尊敬して止まない娘のエッツを通じてのみなんだ。エツコも両親の微妙な距離感が痛いほど分かるから、決して真実を語りたがらない。というよりも、時に真実を曲げてでも僕を傷つけまいとしたのではなかろうか」
「いずれにしろ、奥さんが摂取したクエン酸リチウムは速効性こそないもののターンオーバーが遅い、すなわちだらだらと効く。よって摂取の仕方を過てば、長時間の意識の昏迷を招くし、さらに今回のような一時の大量服用となれば、いっぺんで生命を危うくもする」
「ビル、そこんところまでは素人なりになんとなく分かった。少し光明が見たい。残る良いニュースの方、少し先を急いでくれないか?」
「良いニュースとは誰が言った? この僕が、か? だとしたら先に謝る。本当のところは悪いニュースと、その悪いニュースに較べればいくらか希望のある話。だから、正確にはかなり悪いニュースとちょっとだけ希望の混ざった悪いニュースだ」
「分かった。表現は何でもいい。結果、もうひとつの話も相当に悪い話だったとしても、ビル、長年の友情を信じて欲しい。君が述べたことでいきなりニューヨーク州の裁判所に医療過誤まがいの訴えを起こすような取り乱し方はしないつもりだ。大丈夫」
「なら安心して言うけど、ここからは本来は神様との裏取引の領域の話で、いくら親友だからと言っても軽々に話すようなことではないんだが、一刻を争うもんでね。僕の手許に、〈ハムレットの演者(ハムレットアクター)〉というちょっと大袈裟なニックネームの新薬がある。処方を過てば、即死亡にも繋がりかねない、それはそれは強い薬だ。で、ここからが相談だけど、ほんの先日刊行されたばかりのあるイギリスの医学専門誌で、ハムレットアクターがコウマ、すなわち昏睡状態にある患者の最後の意思確認をするため、時間限定的ながらも高い効果がある、つまり、強烈な覚醒作用があることが紹介された。僕としては、君もよーくご存じのように世俗的な出世を望まない方ではないので、出来たらこの論文の追試を成功裡に行ったという意味において、米国での第一号の栄光に与れればこれ以上の喜びはない」
「なるほど。僕の妻だった者と君とを絡めて、我々が置かれている状況はかなりの程度、正確に理解出来たつもりだ。先を急ごう。単刀直入に言えば、そのいくらか挑戦的で危険度の高い治療に着手するに先だって、親族の同意が欲しい、そういうことかな?」
「その通り。アイクの承諾さえ得られれば、アイクの到着を待って奥さんの枕元に病院の医療倫理問題の責任者と法律の専門家を呼ぶ。もちろん、必要な書類はあらかじめ周到に準備して、あとは君のサインをすればいいだけの状態にしておく。で、アイク、ノックスヒルズには最短でいつ到着出来る?」
「その気になれば明日の朝一番で行くことは可能だろう。ただし、ビル、君は肝心な点でひとつ大きな間違いを犯している。実は、もう僕とリツコとの籍は抜けたのだ。離婚協議に何年も何年も時間がかかったことは君も承知の通り。こちらも時間六百五十ドルの優秀な弁護士を味方につけたんだがね。有体に言えば、妻の側の弁護士が一枚、格上だったってこと。エッツの親権はもちろんのこと、サヴォワも、米国内で一時凍結された預金や株券等の有価証券資産の三分の二も、何かもかもが妻の手に渡った。これってありだろうか、って僕は何度も自問した。僕自身何度となく、これは自殺するに十分理由のある事案ではないか、と思わないでもなかったね。だってビル、ご存じのように、事の発端は妻の側の不貞だよ。仮に、百歩譲って僕の側にも落ち度があったとすれば、このような問題が発覚する何年も前から仕事にのめり込み過ぎて、関心が家庭に向いてなかったということだけ。それだけの不作為をさも決定的な一大事のように捲くし立てられて身ぐるみ剥がされてごらん。誰だって死にたくもなる。それが、ひとたび離婚が法律上の手続きとして成立してみれば、何というか、実にさばさばした気分。僕をがんじがらめにしていたすべてのしがらみから解き放たれた気分だった。強がり? 何で強がりでこんなことが言える? あ、要点はそこじゃなかったね。妻を治験の材料に、って話の方だね。言葉の選択に気をつけろだと? おいおい、僕ら、いつからそんな互いのスニーカーの上から親指の付け根を掻き合うような上品な間柄に成り下がったのかい? だろ? 日本語でいえば、ここは単刀直入に〈治験〉って呼ぶべきところだろうよ、ね、先生(ドック)。残念ながら、いかなる紆余曲折があったにせよ、米国の法律に照らしても、日本国の法律に照らしても、離婚は既成の事実として認められている訳であり、つまりは僕にはすでに権利者として同意書にサインする能力が欠如しているんだよ」
「となると……」
「さすがはドクターサイム。いまやこちらの事情が十二分に呑み込めていただけたようで。そうそ、そうとなるとエッツ、娘の相川エツコがサインをするより他に選択肢はありますまい」
「ならば善は急げ……」
「(善は急げ? どこでそんな都合の良い日本語を覚えたん、このおっさん……)ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれよ。何をもって善かは大局的かつ相対的に判断するしかない訳で。そんな理屈をエツコに押しつけられても到底理解が得られない。まずは僕の説得を待って、それから色々なことの判断を下すということで理解されたし」
「よーく分かった。分かりはしたが一刻の猶予もならんよ。間に合わなければ、ハムレットアクターもへったくれもない。死人に口なしだからな」
 そうだ、ハムレットアクターのこと、未だ僕は何も知らないのだ、と蓮生は心で呟いた。ずばり「ハムレットアクター」とネットでググってみれば、素人と玄人とを問わず、すでに沢山の解説が書き込まれているのだろうか。あるいは、アマゾンに入れば、専門書や入門書の一冊や二冊なら手に入れることが出来るのだろうか。そこまで考えて、蓮生は依然布団に潜ったままの専門家のことをすっかり忘れていたことに気づいた。
「葉子、ちょっとこっちに上がって来ない?」
 葉子の髪を撫でながら、蓮生がやさしく声かけをする。
「なーに恋愛さん? ごめん、葉子、先生のに頬ずりしたままですっかりまどろんでしまってたよお」
 そう言うと葉子は、校庭の雲梯(うんてい)にしがみつくお転婆娘のような仕草と目つきで「「よいしょ、よいしょ」と声に出して蓮生をよじ登り、やがて終点の蓮生の顔に到着すると、「ふっはあ」と息継ぎをした。それから強く接吻を求めた。
 一、二、三.心のなかで余裕を持って三つ数えたつもりであったが、「ハムレットアクターって知ってる?」との蓮生の質問は十分に唐突だった。
「何よ、いきなり。恋愛さん……、国際金融論の先生からいつの間に精神科の先生に宗旨替えしちゃったの?」
「そうか、研修医でも知ってるくらいなら、精神科では一定の評価を得た薬なんだな?」
「研修医で悪かったね。でも、その一定の評価を得たってのはちょっと違うかも」
「というと?」
「評価が定まらない、というのが正確なところじゃないかしら」
 なるほど、と目の前のぼさぼさ頭の新米女医にいまさらながらの畏敬の眼差しを向けながら、「続けて、続けて」と先を促す蓮生であった。
「恋愛先生、プラセボって聞いたことある?」
「偽薬、つまりはニセグスリのことだよね」
「そうそ。治験とかでよーく使う手だけど、新しい効能が期待される新薬の効き目をヒトを使って実験する時にね、これといった薬効のない偽薬、つまりはプラセボを使うことがよくあるの。ホンモノの薬を処方されるグループと、ニセの薬を処方されるグループ。両方を較べてみて新薬の効果を相対評価する訳ね」
「薬効もないのに、効果があるといわれただけで、つまりは暗示にかけられただけで病気の一定の改善を見せるケースを排除するためだね?」
「さすが先生、飲み込みが早い! そのことを総称してプラセボ効果って呼んだりするのね」
「で、ハムレットアクターは一種のプラセボ、ニセグスリってこと?」
「そこのところはちょっと違ってる……っていうか、実際のところがまだよくは解明されていない、といった方が正確かな」
「どういうこと?」
「つまりね、分かっていることはね、ハムレットアクターというのはどうやら新薬単体の呼称というよりも、新薬とそれを投与する医師の言葉掛け、あるいは患者の動機づけを併せたような概念で、いわばプラセボ効果も織り込んだような、ある特定の治療法の総称のようなものらしいの」
「難しくなってきた」
「あ、それって葉子の説明のせいだね。自分自身、よーく理解出来ていないことをあーだこーだ説明しても、説得力全然ないものね。あ、そうだ譬えればこういうこと!」
 葉子はそう言うと、いままだ十分な硬さを保持している蓮生のものを右手でぎゅっと握る。
「あ」
 あまりの不意打ちに、不覚にも蓮生は頼りない溜め息を漏らす。
「たとえば、性的に不能の人がいたとするよね。――あくまで仮定の話であり、先生のことを恨んだり蔑んだりしている訳じゃないからね、勘違いしないでよ?」
「う、うん」と蓮生は苦笑いをした。
「でね、たとえば勃起不全の人がいてね――くどいけど、先生のことじゃないわよ。先生はどちらかというと勃起安全の方だから」
 今度は葉子がへ、へ、へと笑った。
「出さない訳だから、妊娠しようがない訳だから、安全という訳だ」
「え、そういう風に聞こえた? 身体的特徴を茶化すのはよくないわね。ごめん」
「気にしない。先を続けて」
「でね、仮に勃起不全の人がいたとして、その人たちに何らかの促進剤、たとえばバイアグラのようなお薬を処方するとするよね。で、その時の医者がどのような渡し方をするかによってその効果が大きく違ってくる、ってのが、いわばハムレットアクター効果の肝ではないかしら」
「プラセボそのものではない?」
「プラセボそのものではない。薬効は薬効として一定の効果が期待出来る薬なの。ただ、それを漫然と患者に渡すか、あるいは、暗示も含めて、その効能を患者に大いに吹聴出来るかってとこにハムレットアクターというアプローチの新しさがあるの。ま、言い方を換えれば、新しいとこはそこだけ」
「まだよく分かんないなあ」
「たとえばこうよ」
 葉子は右手で蓮生のものをしっかと握ったままで、今度は左掌を自分の左乳房の下に添え、それから母親が赤ん坊にするようにして乳首を蓮生の口に宛がってから、
「良い子良い子。ほうら、お姉さんのミルク飲んでごらん。きっと次は逝けるわよ。お姉さんのなかでぜーんぶ放出出来る。今日のあなたなら出来る。きっと最後まで逝っちゃえる」
 葉子はそれから、右手に握りしめた蓮生のものを一度、自分のものの中心に持っていく。そして、一気に自分のなかに取り込むと、女性上位のままでゆっくりと往復運動を開始した。
「助けて」と蓮生が悲鳴を上げたふりをする。
「今日だけは許さない、絶対に許してあげない」と葉子が段々にピストン運動の速度を増す。
「ね、こんな風」
 一〇回も腰を動かしたところで、唐突に腰を振るのを止めにすると、葉子は蓮生に並んで仰向けになった。
「ビルのヤツ、そんな説明、おくびにも出さなかったなあ」
「そうはそうよ」
「それはそう?」
「だって、患者の親族も含めて医者の田舎芝居に付き合って貰わなければ、薬効は半減するかもしれないでしょ? 病室に居合わせた全員がいわば共演者。言ってみれば全員参加型の密室劇みたいなものだから」
「なるほど」
「私、エツコさんみたいに英語が得意じゃないから、あるいは間違って理解してるのかもしれないけど、臨床の先生の説明によるとハムレットアクターあるいはハムアクターというのは大根役者の婉曲表現なんだって。下手な役者に限ってすぐハムレットを演じたがるとか、ハムレットなら下手な役者がやってもそこそこ当たるとか諸説あるらしいけど、つまりどんなに迫真の演技でも医者は医者。所詮は大根役者の猿芝居に過ぎないってことを揶揄している訳よね」
「ハムレットの筋書き、つまりは亡霊の囁きにヒントを得た深淵な意味があるのかと思ったけど、なるほど、案外そっちの方かもしれんねえ」
 蓮生は登場人物の一人として、ドクターサイムの田舎芝居、否、一世一代の大芝居を観劇してみたい気分が大いに高まっている自分に気づいて、何だか空恐ろしさを覚えた。
「お姉ちゃん、もう一回おっぱい」
 蓮生はもう一度声色を試みる。
「駄目駄目、恋愛先生、時間時間!」
 葉子はもうのって来ない。それどころ、すでにベッドから飛び降り、身支度にかかっている。
「あれ、私は遠慮するってさっき言わなかった?」
「そうね、ついさっきまではそのつもりだったんだけど、真に医学的な関心がむくむくと擡げてきてしまって」
「理由はともかく、葉子が来てくれるのなら頼もしい」
 未だ萎えない部分を覆い隠すようにして腰にバスタオルだけを巻くと、慌ててバスルームに駆け込む蓮生だった。

*  *  *

 ノックスヒルズ病院は、マンハッタン・アッパーイーストサイドのほぼ中心に位置する、比較的規模の大きな病院である。西の一辺をパークアベニューに、東の一辺をレキシントンアベニューに接する一角に病棟の殆どを納めるが、その全部の部門は一ブロックには到底納まり切れず、新たな医療の需要が喚起されるたび、周囲の貸しビルに飛び火するようにその勢力を拡大してきたのである。地域性を反映してか、ハリウッドのセレブレティから民主党、共和党の上下院議員、そして国外からの富豪に至るまで、ここを掛かりつけとする有名人は多い。
 「ここで生まれたエツコの退院の日に、薔薇の花束持参で足を踏み入れて以来だなあ」
ノックスヒルズの主玄関に立つ蓮生は、同行の葉子に気づかれないように呟いてみる。
大規模な修繕がなったのか、二〇年前の記憶を手繰ろうにもその内装に当時の面影を偲ぶ一切の手掛かりはない。入口に佇む黒人女性のセキュリティガードの前で一端立ち止まると、「一一時半にドクターサイムとのアポイントあり」と手短な英語で訪問の用件を伝える。説明に淀みや破綻がなかったためか、セキュリティの女性は二人にフォトIDの提示を求めることはなく、突き当たり右側の階段を使って三階へ、とだけ手短かに促すのだった。口々に「ありがとう」と短くお礼を言うと、二人はセキュリティガードの指示に忠実に従った。
「ここなら廊下でばったりと」と、蓮生の背後から葉子が声をかける。「ダニー・デビートとすれ違う可能性もない訳ではないよね?」
「可能性だけなら東京や札幌の病院でだってあるよ。たとえ相手がダスティン・ホフマンやメリル・ストリープでも」
 実際、蓮生はノックスヒルズでオノ・ヨーコに遭遇したという経験を持っていた。
「メリル・ストリープなら大物過ぎちゃってリアリティに欠けるし、札幌の病院でならまずは他人の空似を疑うわ」
 五十歩百歩だろうと蓮生は思ったが、議論を吹きかけている時間と心の余裕はない。ドクターサイムの「三二五」のネームプレートは未だ視認こそ出来ないものの、マンハッタンの住居表示と同じで一方の並びに奇数の数字が、他方の並びに偶数の数字が交互に並んでいることから勘案すれば、いずれその部屋は自分たちの左側に現れるものと思われた。
 しかしてウイリアム・サイムの名札が懸かったその部屋は廊下のどん詰まりから左側ふたつ手前の部屋で、扉には京都の金閣寺および舞妓と、いくらか旧型の新幹線の独特のノーズ部分をコラージュしたと思われるシルクスクリーンのポスターが貼られ、親日家を分かり易くアピールするに十分な役割を果していた。
 扉には旧式の呼び鈴も備えてあったが、鳴らせば素っ頓狂な大音量を鳴り響かすかもしれず、廊下を支配する静寂を破るのが憚られて、右手でいくらか控え目にノックする蓮生であった。
「カモン・イン!」
 蓮生には聞き紛うことのない甲高いドクターサイムの英語がすぐに聴こえると、間髪を容れず扉は向こう側へと自動的に開くのであった。扉を抑えているのは、果して、娘のエツコである。
「エツコ……」
 蓮生は驚愕とし、二の句が継げないとは全くこのことだ、と思った。
「アイク、本当にお久しぶり」
 依然エツコに釘づけの蓮生を尻目に、長身で、額側からかなり禿髪が進行しているドクターサイムが蓮生に歩み寄り、握手を求めた。
「ビル、連絡してくれてありがとう。恩に着るよ」
 我に返った蓮生はドクターの握手の誘いに咄嗟の笑顔で応えながら、再度振り返って「何でお前がここに?」とこれだけはいま訊かねばならぬという風に娘のエツコに日本語で訊くのだった。
「私? 私はこれが仕事だから。先月からはじめた病院事務の」
 エツコの返事には淀みがなく、蓮生は恰もここが自宅リビングかといった錯覚に囚われる。
「その病院事務のバイトがドクターサイムのオフィスだなんて、一言もパパに言わなかったじゃないか?」
「ドクターサイムのオフィスじゃないとも言わなかったわ。第一、そんなこと、ママからとっくに伝わっていると思ったから」
 お前のママはいまや滅多に連絡して来ないか、して来たにしても話題は極端に言えば生き死に関わる問題に限るのだ、お前のバイト先の話など生き死の問題には分類されないので決して話題にのぼることはないのだ、とは心で呟き、言葉にはすることのない蓮生だった。
「それにしても、いまや猿芝居とも呼ぶべき一連の大騒動はどう説明する? ママは失踪したんじゃないのか? 血相変えた未明の電話、あれは一体全体どういうことだったんだ?」
 父と娘がいくら小声で口論しても、壁が硬いコンクリートで出来た狭いオフィスでのこと、口論の内容は瞬く間に全員に共有されてしまう。いかにもばつが悪いといった風に、ドクターサイムと葉子は紹介も待たずに握手を交わし始めている。
「あの時点では」とエツコは一向に謝る気配はない。「私は本当に失踪だと思い込んでいたんだもの。ジョバンニに訊けば若いパパ似の男性が運転するクルマに乗り込んだというし、それだけ聞けば何らかの事件だって誰だって思うでしょ?」
 それは確かに蓮生自身も直接に自分の口と耳で確かめたことであった。エツコと仲良しのジョバンニはまだしも、コンシエルジュ頭のビリー・オースティンまでもがエツコと口車を合わせているとは考えづらい。
「ただ」となおもエツコが続ける。「あとでママが病院のERに入ったことを黙っていたことはごめんなさい。でも、それだって恋愛さんもサイム先生から事前に連絡を貰ったってことを私に打ち明けなかったんだからおあいこよね?」
「それはごめんなさい」
 蓮生は、恰も過ぎた悪戯を窘められた子供がするように、実の娘の前でぺこりと頭を下げた。
「エツコさん」と、葉子が二人の会話に割って入る。「私もあやまらなければ。実は私もエツコさんのお母さまの居場所、先生から聞いたのは今日の今日、ホテルの朝食の席でのことだったの。それにしても、ここに来る前にエツコさんにはひと声かけるべきだったかなって。しかも、こんな大事な場面に他人の私が居合わせること自体どうなのかなって」
「そんな風に考えないで、葉子さん。私、葉子さんの立場は十分に理解出来るわ。うちの父が決めたことに口を挟む余地なんてないものね。それは、一緒に暮らしていた頃からそうだったからよーく分かる」
 自分には露骨に喰ってかかるエツコも、葉子には不思議に一定の気配りを惜しまないことが蓮生には不可思議だった。同時に、一緒に暮らしていた頃の父をそんな風に理解していたのか、ただの子供だと思っていた娘の心の屈折をいくらか垣間見る思いがした。
「さ、これで関係者は全員揃った訳で」とドクターサイムが全員を急かすように言った。「ここで話をしても何も始まらない。みんなでリツコさんが待つERに移動することにしよう」
 リツコの待つERに移動するためには、一度、一階に下りて、それから中庭を囲む回廊をぐるりと半周する必要があった。外観は近代的な病院を取り繕ったノックスヒルズも、内部は相当に古く、百年ほどの歴史を重ねた建造物を騙しだまし使っていることが火を見るより明らかで、回り廊下の壁はペンキを塗り重ね過ぎて、乾く間もなく剥離を始めるといった具合だった。また、患者にとっても医師にとっても、病院内を移動する導線に大いに問題があった。
 ひとたびER棟に足を踏み入れてみれば、しかし、そこは白っぽいグレーを基調とした無機質で清潔な空間で、不織布で出来た濃紺のオペ服を着た医師や看護師、専門技師たちがブラウン運動のように不規則に、しかしながら決してぶつかることなく忙しく立ち回っているのだった。
 医師や看護師の間を掻い潜るようにして、先頭をドクターサイムが、その後ろをエツコ、葉子、そして蓮生が遅れることなく、追い越すこともなく一列に続いた。壁一枚分扉が開け放たれた――否、そこに扉は元より無いのかもしれないが――術後の観察室が一ダースほども一列に並んでいて、それぞれに理由の異なった一刻の猶予もならない事情があるのだろうが、時折、専任で貼りつくことを命ぜられたもの、取り立ててなすべきこともない新人の看護師などが、敢えて他人に聴こえるようにして「クソ……」と毒突く以外、それぞれが静かで陰鬱な時を刻んでいるのだった。
 そうした生と死を巡る何幕物かの叙事詩を順番に垣間見ながら、半ば他律的に歩み続けることを止めないでいると、ドクターサイムの「さあ、着いた」の声がして、連隊は突然の行進の終わりを告げられた。しかしてそこに蓮生は、痩せ果てながらも、その寝顔にけれんみのない美しさ、可憐さを惜しみなく湛えたかつての妻、相川リツコを見出すのだった。誰が着替えさせたのか、無地ながら上質なフランネル生地のパジャマは僅かに乳白色を帯び、絹のような柔らかな光沢を放ち気品があった。それでも、袖口や首回りが若干黄ばんだように汚れて見えるのは、病室に運ばれて後も、何度か嘔吐を繰り返し、そのたびに混迷を深める意識のなか、吐瀉物を何とか自ら拭って体裁を整えたのだろう。
「こんな場所でだって律儀で折り目正しい、いつものリツコなのだ」
 蓮生の切れ切れの吐露を、一人娘のエツコだけが正確に聴き取り、うんうん、と頷いた。
「ママ、何も心配ないよ。恋愛さん、札幌から飛んで来てくれたよ」
 薄手のブランケット一枚羽織ったリツコを、娘のエツコがやさしく、二度三度とんとんと叩いた。血の気の失せたその表情に、僅かに赤が戻り、微笑んだかに感じたのは蓮生の希望的観測だったのかもしれない。現実は、しかし、事態は一刻の猶予もならない。ベッドを取り囲む電子機器の煩雑さ、そこから伸びたコードやチューブの複雑さがそのことを如実に物語っていた。
「葉子さんも」と、エツコは次に父の恋人の名を呼んだ。「来てくれたんだよ。ママ、言ってたよね。恋愛さんが次に結婚するとしたら、どんな綺麗な人だろうって。自分よりはちょっとだけ不美人な方が心穏やかなんだけどなって。恋愛さん、今度こそ相手をじっくり見極めて安易に妥協なんかしないで欲しいなって」
「おいおい、まだ結婚するって決まった訳ではないから」と蓮生はこの場に及んで依然往生際が悪く、「そんなこと言って、葉子さん、すっかり困っているだろう」と自分の優柔不断さを棚上げにして、煮え切らない態度を葉子のせいにした。
 当の葉子は、「エツコさんのお母さま、はじめまして」と思いのほか落ち着き払った態度で、「塚本葉子と申します。きっとエツコさんのお母さまのお眼鏡には叶わないと思いますが、私、先生を精一杯幸せにしてみせます」と、この場に乗じて地盤固めに余念がない。
「ひゅー、ひゅー」
 エツコは、そこが病室であることを弁えもせずに蓮生を囃し立てるのだった。
「おいおい、ちょっと……」
 蓮生が葉子に補足説明をするように求めたが、葉子の方はまるで意に介さないといった風で、
「エツコさん、成り行き任せでいきなり宣言しちゃったみたいで何だか申し訳ないけど、これからもよろしくね」
 落ち着き払った態度で深々とお辞儀までしてみせたのであった。
「さて、日本的な社交プロトコルは微笑ましくて、個人的にはずっとずっと観ていたいのは山々だけど、一刻の猶予もならないので、さっそく肝心のインフォームドコンセントの手続きの方に移らせて貰ってもいいでしょうか?」
 ドクターサイムが、これ以上はいかにも待ち切れない、といった風に本題を切り出す。久しぶりに寝姿で再会したリツコの存在に気を取られて周囲がまったく見えなくなっていたのだが、気がつけばその場に初老の女性と中年の男性が含まれていることにやっと気づく蓮生だった。少し想像力を働かせれば、それぞれが病院の責任者と法律の専門家であろうことは誰にも想像に難くない。間髪を容れず、ドクターサイムが、女性がドクター・マギー・スミスで病院の倫理規定委員会の副委員長であること、また、男性がアイク&マイク法律事務所のトニー・テラニシ弁護士であることを告げた。その苗字が明らかに日本語由来であることを見てとると蓮生は、「こんにちは、相川です」と男性弁護士に日本語で挨拶をし、握手の手を伸ばした。
「ハイ、アイム、トニー」
 と一切の日本語を排し、ネイティブの完璧な英語でトニー・テラシニシが蓮生に毅然たる握手で応えた。いくらかでも日本語を介したコミュニケーションがあれば理解の一助になるだろうというドクターサイムの目論見は、こうして見事に企画倒れが露呈した恰好である。
 その後、一貫してドクターサイムのリードで進められた周到でありながら、かなりの程度簡素化さえたインフォームドコンセントの手順は掻い摘んで述べれば次のようになる。
 まずはこれから行われようとしている治療が患者であるリツコに対する純粋な医療行為であるものの、通称ハムレットアクターと呼ばれる、多分に治験的な要素を含んだものであることを、意思の疎通が十全には叶わない患者本人を補強するかたちで、唯一の親族である娘のエツコ、並びにエツコの親権者の一人である蓮生が医師からの周到な説明を受け、これを十分に理解し、かつ代替治療の可能性、あるいは突然死といたった不慮の事態も含めてその副作用や失敗可能性について納得し、それぞれのサインをもってこれを合意するというものである。
「遅かれ早かれ亡くなるものを」と、まずはいくらかドライなアメリカ人の素顔を覗かせながら、エツコがドクターサイムに疑問を呈した。「ここで敢えて不慮の死の可能性を謳うことに何の意味があるのかしら?」
「それは」と、答えたのはエツコの父親としての蓮生だった。「自然の帰結としての死がすぐそこに待っていようがいまいが、直接の死因が今回の治験的な医療行為となる危険性がないとも限らない、そのことを唯一の親族としてのエツコが事前に十分に理解しているってことだね。違いますか弁護士先生?」
「まさに」と蓮生に回答を求められたトニー・テラニシが答える。「その通りでして、言い換えるならば、今回の医療措置の結果、突然の変調や死亡というような事態を迎えても、そのことをして病院は責任を取る立場にないということをここで改めて書面にて確認している次第です」
「それなら」と、今日のエツコはどこまでも執拗だった。「そのような患者の危険性や患者の家族としての権利放棄は十分に理解した上で、ドクターサイム、先生の口から、私たち素人にも分かり易い言葉でもう一回、それほどの危険を冒してまで今回の治療を甘受すべき意味を教えて欲しいわ」
「エツコさんのいう通り」と、事の成り行き上、たまたまそこに居合わせてしまったものの、気がつけば自分自身が医療従事者の一人としての気概が急に頭を擡げてきたのか、それまでいくらか寡黙な取巻きに徹していた葉子が、慣れない英語での発言を敢行したのであった。「エツコさんが知りたいのは、医療行為の正確な解説ではなくて、もちろんインフォームドコンセントにそれが必要なのは自明のこととして、もっと血の通った、普段着の言葉でのサイム先生の思いではないかしら。この治療を受けるのと受けないのとでは、遅かれ早かれ亡くなることを運命づけられたエツコさんのお母さんの人生の最期と、それでもこれからを生き続けなければならないエツコさん自身のこれからにどんな意味があるのかしら」
 まいった、とでもいうようにしばし天井を仰いで無言のドクターサイムであったが、少しの沈黙のあと、やがて観念したといった様子で、エツコと葉子の辺りにおおよその視線をくれてから、その長身にはいくらか低すぎるスツールにどっかと腰を下ろした。両方の腕は二の腕の辺りで両股に挟まれ、直立していてもどちらかといえば猫背の背中を殊更に円くする。白人にしては分厚い唇は半開きのまま閉じられることがなく、院内のエアコンで乾燥が進むのか上唇と下唇を交互に、しきりに舌舐めずりしている。
間違っても端正とは言い難いその表情に、一点の知性を付加しているものがあるとすれば、他でもなくそのつぶらな瞳に違いない、と蓮生は思った。外科医として日々の激務と不規則な生活で、すっかり干からびた甘夏蜜柑の厚皮のように変貌を遂げたその顔面の一角にあって、落ち窪み、黒ずんだ眼窩に納まりながらも、その両方の瞳だけは恰も希望そのものでも溶かし込んでいるかのようにそぼ濡れ、たおやかで暖かな光を湛えている。どれだけ多くの患者やその難しい病気、病巣と対峙して来たのだろうか、けっして大きくはない碧眼ながら、一種憂いを秘めたその両眼は見つめるだけで人々の恐れや慄きを鎮める、そんな神通力を備えている、そう蓮生は思った。
「正直、今回の治療がエツコさんのお母さまに必要なのか必要でないのか、主治医である私にも分からんのです」と、ドクターサイムがさきほどまでとは一段、トーンを落とし語り始める。「一点、不動の事実は、しかし、リツコさんには遅かれ早かれ運命のその日が来るということ。今回の自殺未遂がその直接の引き金ではありますが、仮にこの喫緊の事態を彼女が何とか乗り切ってくれたとして、しかし、次に必ずやって来るのはスキルス胃ガンという大波なのであります!」
 それが人によっては不謹慎と映ったかどうかはこの際問わないこととし、そこでドクターサイムは明らかにスツールからほんの少しだけ腰を浮かし、恰も伝説のビッグウェーブの到来に身ぶるいするサーファーであるかのような波乗りの構えを演じて見せたことを葉子は見逃さなかった。
「遠浅の浜辺に寄せては返す頃合の良い波ならば、引き潮の時分にもなれば砂浜に色鮮やかな南国の巻貝、二枚貝などを思い出として残すことも大いに期待出来ましょうが、これが狂瀾怒濤の荒波ともなれば、楽しかった思い出の残滓どころが、陸地ごとえぐり取って、その後長く遺族の心に癒えることのない傷跡を残すことも少なくないのであります」
 ドクターサイムは、いまやスツールを自身の踵で後方に蹴飛ばし、そもそもは猫背の長身を自己最高記録に後ろに反り返ると、ほぼその容貌は栄養失調の仁王様である。開いた口が塞がらないといった風にその一部始終を目撃していた蓮生は、しかし、太股の辺りを背後からつんつんと突く者がおり、ふと我に返って振り返ると、冷静沈着な葉子の優しくも毅然とした眼差しが、田舎役者(ハムレットアクター)の大芝居がいままさに始まろうとしているのだ、と語っているのであった。
「私見に過ぎませんが」との紋切り型の謙虚さとは裏腹に、ドクターサイムの反り返りぶりときたら物理の法則をもすでに凌駕し、いかなるバランスで屹立しているのかいまは誰にも理解出来ないほどである。「謙虚なる医療とは神の御意志への従属と常日頃から思っておるんです。言葉を換えれば、諦観であります。しかし諦観とは絶望の別名ではありません。それどころか、むしろコペルニクス的転換とでも呼ぶべき希望、あるいは光明の別称でもありましょう。リツコさんはいま死の深淵を彷徨っておられる。仮にも私ども医療従事者に何かが出来るとしたら、彼女に光の射す場所の在り処を指し示し、此岸から彼岸へと移る彼女が幸福のうちに新しい安寧の場を見出す、その若干の手助けをする、ということではありますまいか。私は、不遜ながらそこになら医療の余地は残される、医者の出番は在る、と自信を以って断言いたしたいのであります。そこで取り出しましたるがこの新薬!」
 蓮生はどこかで聞いた口上だ、と思った。そう思った矢先も矢先、
「これじゃまるで筑波山名物、がまの油売りね」
 と肩越しに葉子が囁くのであった。
「この瓶こそがハムレットアクターの正体でありまして、当病院の倫理問題の責任者および法律の専門家の先生を含めた衆人環視下で、実子エツコさんとその親権者であられる相川蓮生さん、通称恋愛先生の承諾がつつがなく得られましたので、これから患者・相川リツコさんに静脈注射にて投与いたす所存です」
 ドクターサイムは、一体全体どこで自分の渾名を知り得たのか、そもそもその「恋愛先生」をこの場で披露することに何の意味があるのだろうか、最大の関心事という訳ではないが仔細な細部が気にはなる蓮生だった。
「さーてさて、この場に及んでご異存のある方はおられんか?」
 今度は、歌舞伎役者が大見得を切るように、あたかも首から上だけ時計回りに二回転半するようにして、四方八方をぐるりぐるりと見渡すと、最後に照準を定めてエツコを凝視するのであった。
「おりませぬ」
 慣れない古語が口をついて出てきたところを見れば、エツコもそれなりに緊張を強いられているのだろう、と蓮生は考えた。
「であるなら、ここでお一人、リツコさんと一緒にこの注射を腕に受けていただくボランティアを募ります!」
 言うに事欠いて何を言い出すのか、とドクターサイムを非難する奇妙な連帯が拡がるのだった。そんな衆目の疑問を代弁するべきは自分だと奇妙な職業意識に背中を押されて葉子が発言する。
「ドクターサイム。そもそも先生はこれから行う注射の作用と副作用をきちんと説明されていないのではありませんか?」
「黙らっしゃい!」
逐語訳的な正確さを期すれば、そこだけ英語で「口にチャックをしやがれ!」とドクターサイムは怒鳴ると、「これだから中途半端に医者になりかけた人間は面倒だ。玄人半は口にチャックをしやがれ!」と下卑た言葉で葉子を腐すのであった。
 医師としての自尊心を大いに傷つけられ、憮然とした葉子は、それでもこの場は議論、口論をするには余りにも不向きと観念してか、「ごめんなさい」と小さく詫びると、あたかも余熱の残る敵意に蓋をするようして両目を瞑った。
 そんな大和撫子的な態度に戸惑ってか、ドクターサイムは自身の言動をいたく反省したと見え、その長身より振りかぶった右手を所在なげに葉子の肩に優しく添えてから、静かに、そしていま一度威厳を取り戻してから言うのであった。
「民の僕(しもべ)たる医者にあるまじき不遜な態度なにとぞお赦し下さい。その実、丁度これからみなさんに注射の効果と、その危険性を、また同時にボランティアとしてご参加いただく方の役回り、心得をご説明しようと思っておったものですから」
 見え透いた嘘を、と葉子は思ったが、火に油を注ぐだけでもあり、これが大根役者の大根役者たる役回りなのだと遂に思い至って、「さすがドクター、お見逸れいたしまいた」と遣り過ごす余裕をすっかり取り戻していた。
「ハムレットアクターを一言でいうなら、それは覚醒薬です。その主成分はドーパミンであり、その点で、ハムレットアクターはこれといった真新しさのない、どちらかというと古典的な薬効を持った薬ということになりましょう。もちろん、リツコさんの混濁した意識をいま一度揺り起こし、リツコさんを愛してやまない近親の方々との最期の語らいの一時を持っていただくための薬であり、さきほどサインしていただいた同意書にもあるように、治験薬であるとはいえ二度の摂取は決して当局が認めない、そういった意味では劇薬中の劇薬でもあります」
 疾うに役割を終え、あとは至極個人的な興味で居残っているという風のマギー・スミス倫理規定委員会副委員長およびトニー・テラニシ弁護士を含めて、病室に居合わせたみんなが、そこでほぼ同時に顔面蒼白になるのであった。
「しかしながら、ハムレットアクターが九〇年代の終わりから、すなわち一〇年近くも前からこの世に存在するにも拘わらず、未だ〈治験薬〉の但し書きを頭に冠され、キワモノ扱いを受けている所以は、その媚薬効果としての若干厄介な副作用のせいと言えましょう。媚薬、すなわち、うふふん!」
 ここで古色蒼然たる外科医は溜め息とも咳払いともつかない中途半端な気管支音を立てた。
「媚薬とは、すなわち惚れ薬であります。相手に強い恋慕の情を掻きたてることはもちろんのこと、ときにそれは、淫乱な……失礼、エッチな……これも失礼、過度のいわゆる欲情を催すことがあることが先例として報告が上がっておりまして。結果的には医療現場にあるまじき、男女の、その何といいましょうか、破廉恥な、くんずほぐれつの行為に至ることもあったりで、担当医としては嬉しい悲鳴、否、苦々しい悲鳴を上げたりということも正直ございます」
 マギー・スミス副委員長とトニー・テラニシ弁護士は仲良く一緒にごくりと生唾を飲み込むと、そこで一度互いに目配せをして、午後のアポイントメントを全キャンセルしてでも、ここは立ち会いを続けるべき必然性が出てきたことを確認し合うのであった。
「結果的には、その困った副作用のせいで、こうした疑うことのない医療の実現場、言葉を換えれば医療発達史の表舞台というよりは、舞台裏、すなわちアンダーグラウンドマーケットですでに名を馳せた麻薬としての不名誉なレッテルを貼られておる訳です。と同時に、医学の知識を持っておらない不見識極まりない冒険的治験者によるハムレットアクターの乱用によって、夥しい数の老若男女を死に至らしめておると言われておりますのも、正確な統計にこそ上らないものの、あながち大袈裟な表現ではありますまい。さらに厄介なことに」
 そこまで一気に息継ぎなしで捲くし立てたドクターサイムは、さすがに疲れたといった表情で、あれだけ反り返っていた背筋も、もとの猫背に戻っている。すでに疲労困憊の様相を呈し始めたドクターサイムに代わって、「さらに厄介なことに」と、その先を葉子が引き取った。
「極度の浮遊感というか、一般に幽体離脱と言われたりする一種独特の感じを味わったりするらしい。何故〈らしい〉なのかと言えば、この薬がまだちゃんと薬としての認可をFDAから貰っていないために余命いくばくもない、たとえばリツコさんのような人にしか試験的な投与が認められていないため、本当の意味での経験が蓄積されていない」
「その通り!」とドクターサイムがいくらか元気を取り戻して声を荒げる。「その通りなのであります。すなわち、ハムレットアクターの正体は依然杳として知れないのであります」
「聞けば聞くほど訳が分からない」とエツコがいった。「ただ、藁をもすがる気持ちには変わらない。ママの人生にいくらかでも彩りを添えるお薬で、しかも残される家族にも思い出深いものになると先生がおっしゃるのだったら、この場に及んで躊躇しません」
「仮にボランティアが必要だというのなら」と今度は蓮生が一歩前に出た。「これでもかつてはリツコを心から愛した者として、その役回り、見事私が果して見せましょう」
 葉子は「もう、お人好しなんだから……」と背後から蓮生の背中を右肘で思いっきりど突いたのであるが、気分が最高に高揚していた蓮生には「よっ、大統領! 頑張れ」と背中を押されたように感じられたのであった。

*  *  *

 翌朝、蓮生と葉子はホテル近くのカフェで簡単な朝食を済ますと、六番の地下鉄でダウンタウンへと出かけた。アスタープレイス駅を地上に上がれば、すみれ色一色の帆布に白でNYUと染め抜いた大きな懸垂幕を掲げたビルが――すなわち、それが大学の校舎の一つひとつであることを示している訳だが――そこここにあり、すでに大学街に足を踏み入れたことが一目で分かる。大道商人(ストリートベンダー)が畳一畳分ほどの路上を占有してステンレス製ワゴンで煎るキャラメルピーナッツの匂いが臭覚の記憶をまざまざと呼び覚まし、瞬時に大学院の学生であった二〇年ほど前の、二〇代半ばの頃の心持になる蓮生だった。
 ブロードウェイを横切ると、そこは日中でも太陽光を遮る威風堂々たる歴史的建造物が居並ぶ一角。ほぼすべてのビルの玄関ポールからあのすみれ色のNYUの懸垂幕が下がり、いまや大学の中心領域に差し掛かったことが実感として分かる。外塀で閉ざされたキャンパスを持たない大学としてのニューヨーク大学は、その長い歴史の中でオセロゲームのように勢力を拡大し、ダウンタウンそのものを文字通りスクールカラーの青紫色に塗り固めてきたのである。
「あの角のスタバを曲がると」と蓮生が葉子の肩を抱き寄せながら言った。「そこがワシントンスクエアで、木々の間から有名なワシントンアーチも見えてくるよ」
 その「角のスターバックスカフェ」が占有する場所が、しかし、二〇年前はNYUの学生の自主運営になるレストラン、バイオレットカフェであったことを蓮生は話題には上せなかった。
ニューヨーク観光とナイアガラ瀑布見学を最大の売りに、アメリカ東海岸を足早に巡る五泊七日のパックツアーに母親の瑠璃子と参加したリツコがニューヨークにやって来たのがちょうど二〇年ほど前のいま時分だった。その前年まで東京にいた友人のデービッドが「ぜひ一度会ってみてごらん。アイク、絶対に気に入ると思うから」と勧めてくれた縁でリツコに初めて待ち合わせをしたのがバイオレットカフェだったのだ。当時、NYUのビジネススクールを修了したばかりだった蓮生には、バブルに沸き返っていた日本の名だたる証券会社や大手の銀行などから引っ切りなしの採用通知が舞い込んでいたがいまひとつ決断出来ずにいた。好い気に入社などしようものなら、大手とはいえ日本の企業のこと、初級社員からの横並びの処遇に一〇年間は留め置かれるだろうことが分かりきっていたからだ。入社後しばらくは年齢ベースでしか偉くなれない日本企業の慣行が厭で、結局はウォール街に本社を構える米国資本の投資銀行への入社を決断したばかりの丁度その時期に、リツコがニューヨークにやって来たのであった。
思えば学部生だった頃から数えれば七年も八年もかけてアメリカの高等教育を追い求めてきた蓮生であった。それだけの汗と投資に相応しいウォール街での仕事に就けたとなれば、あとは努力さえ惜しまなければ収入もポジションも急カーブを描いて上がっていってくれることも期待出来るから、この辺で出来たら自分のことを心から好いてくれる可愛い女性と結婚や子育てなどに夢を描くのも拙速に過ぎまい、そう思っていた頃合に、リツコのアメリカ旅行がぴったりと重なった恰好だった。
当時は、他に気が利いた場所のひとつも知らない蓮生であったから、勝手知った大学のキャンパス内のレストランに呼びつけてしまったのであるが、結果的には、未だ学生であった当時のリツコはバイオレットカフェを殊の外気に入った様子だった。そのことも後押ししてか、二人が打ちとけ合うのにさほどの時間はかからなかった。果して、リツコはびっくりするほど可憐な日本女性で、「なんで蓮生なの?」と理不尽な質問を繰り返すその大きな瞳にいっぺんで吸いつけられてしまった蓮生だった。リツコ二二歳、ハスッピ二六歳の春であった。
「ワシントンアーチ!」
 歓声を上げて、葉子が道路に飛びだすと、イエローキャブが甲高いブレーキ音を立てて急停車した。
「ファックユー!」と罵声を浴びせる南アジア系ニューヨーカーの運転手。すかさず、
「ユー、ファックユー!」とやり返す東アジア系ニューヨーカーの蓮生。
地元民たちの野性味溢れる言葉の応酬に思わず尻込みし、茫然と立ち尽くすも、次に「恋愛先生、かっこいい」と改めて蓮生に惚れぼれとする葉子であった。
 道行く誰彼と構わず声をかけ、ワシントンアーチを背景に葉子との仲良しの証拠写真を何通りかで撮って貰うと、済ませるべきは済ませたという風に「よしっ」と蓮生が言った。
「これから先生のところに行くのよね?」
 写真のポーズ用に、蓮生の片方の腕に絡めた自分の二本の腕を依然解かずに葉子が訊いた。
「そうだね、ポアソン先生に会うのは殆ど一五年ぶりくらいになるかな。さっき話したような事情だから、お元気なうちに会っておかないと一生後悔するような気がして」
「優しいのね」と葉子が蓮生の肩にしな垂れかかった。
「そんなことはない。本当に優しい人間なら一時はあんなにお世話になった恩師を一五年間も忘却したりはしないからね」と蓮生は葉子の髪を撫でた。
ワシントンアーチから目を転じ、公園のすぐ南側に隣接する大学の巨大な図書館と新築なったばかりの学生会館の間の空間に目を遣れば、そこだけが櫛の歯のこぼれた、少々間の抜けた空間に貶められているように蓮生には感じられた。学生時代、眺めるともなく、そこにいつも在った双子のタワー、先代のワールドトレードセンターは疾うの昔に失われ、跡地に代わりのタワーがお目見えするには未だ途方もない時間が必要なように思えた。
「未来永劫、そこにずっと在ると思っていたものを突然失くすと、本当に戸惑ってしまうね」
 言ってしまってから、「しまった」と短く後悔する蓮生だった。
「まったくだわ、何がハムレットアクターよね。あれじゃ、大根役者にはやっぱり出番無しって感じよね。奥さんともう一度大切な時間が持てるかもと思った恋愛先生の期待を見事に裏切りやがって」
 案の定、蓮生の不用意な発言が、葉子の意識を昨日のノックスヒルズ病院での一件に引き戻してしまったのだ、と蓮生は思った。そもそも葉子はその少々間の抜けた空間が双子のタワーの定位置であったことなど端から知らないのだ。
「ドクターサイム、ハムレットアクターは速効性があるとは一言も言わなかったからね。あるいはこうしている間にもリツコの精神世界では何か微妙な変化が起きていないとも限らない」
 いかに話題をはぐらかすかに躍起になりながらも、その決め手となる糸口を見出せないまま、ついつい饒舌の上塗りをしてしまう。焦れば焦るほど余計なことを口走るのが蓮生の常だった。
「だけど、恋愛先生だって見たでしょ? ドクターサイムがあの注射をリツコさんの腕に打った瞬間、ぎゅっとからだを硬直させて心臓が止まったかと思ったのは周りの私たちばかりで、その実、リツコさんにはこれっぽっちの変化も起きなかったこと。同業者の私が言うのもなんだけど、あれだから時に医者は大袈裟で厭よね。だったらなんであれほど仰々しい同意書にサインを求めたのかしらね」
「それはどうかな。ドクターサイムの肩を持つ訳ではないけれど、このまま一昼夜は様子を見ましょうと彼、言っていたもの。効き目の速度は人それぞれといったとこじゃないかな」
「それよか」と葉子は、もうドクターサイムの擁護は聞き飽きたという風に蓮生を遮り、蓮生の顔を覗き込みながら続けた。「恋愛先生の方は大丈夫? 恋愛さんも打ったんだよ、あの注射」
 言われてみれば、いまも左の二の腕あたりに僅かな鈍痛が残っている。
 正直、蓮生は自分がオスの本性剥き出しにリツコに襲いかかったりはしまいかと恐れもした。医者とはいえ葉子は目下恋愛真っ只中の彼女であり、ましてやエツコは実の娘なのだ。大切な彼女たちの前での、そのような醜態だけは何としても避けたかった。と同時に、結局は別々の途を選択したものの、一時は深く愛し合い、一緒にエツコを育てたかつての妻、リツコとの情感溢れる時間が最期に訪れることを期待もした。罵り合った挙句に結局は別離を選択しはしたが、喩えていえば、上質のラブコメディー映画がその一番のクライマックスでフィルムが焼き切れ、上映が中断されるような不本意な別れではあった。私立探偵から見せつけられたあの忌々しい二枚の証拠写真さえなければ修復可能であったかもしれない関係だったのだ、といまにして思う蓮生だった。最後の最後に、慈しみ深い恋慕の思い、感謝の気持ちを言葉で表しながら、静かに妻の最期を看取りたい、という願いも思いのほか強かった。そのいずれもを、しかしながら、ハムレットアクターは連れて来なかった。こういうのを大山鳴動して鼠一匹とでも言うのだろうか、と蓮生は思う。現実は、しかし、鼠の一匹、兎の一羽も現れはしなかったのである。
「この建物かしら?」
 地図を片手に数歩先を行く葉子が一〇階建ほどのレンガ造りの建物の前で足を止め、蓮生に意見を求めた。その建物は、ワシントンスクエアを起点にセントラルパーク目がけて真っ直ぐに伸びる五番街を、ワシントンスクエア北から数えると僅か数グロックだけ行ったところを左に折れた、左側五つ目ないしは六つ目のアパートメントだった。
重い真鍮の扉を引くと、一階は必要最小限の共用スペースといった狭小な印象のロビーではあるが、中央に置かれたアールデコ調のラブチェア、アームチェアとコーヒーテーブルが一見して趣味の良さを窺わせた。廊下のアルコーブ部分に置かれた、同じくアールデコのアルミの天板に黒檀の細い三本脚の小テーブル上には、伊万里風の花器にオリエンタルハイブリッドリリィがさりげなく活けられていた。突き当たり正面の床から天井まで一枚ガラスの窓が、そこだけ輝くように明るい中庭のほぼ全景を切り取っていた。人工を最小限に留め野趣を残しながら、枝払いや水遣りなどは細やかだと一目で分かる上品な葉叢が心地良い。住まうみんなが時間と労力を少しずつ持ち寄りながら大切に自主管理しているらしい様子が微笑ましかった。
「何かご用で?」
出入りの少ない来訪者を待ち疲れた、といった風にロビーのアームチェアで小休止を決め込んでいた濃紺の制服姿のセキュリティガードが、首から上だけ振りむいて蓮生と葉子に訊いた。未だ表情に幼さが残る黒人男性だったが、突き出た腹の辺りなどを観れば中年にも差し掛かる年齢にも思える。実年齢というよりは都会に来て間もないその雰囲気がある種のあどけなさを表情に留め置いているのかもしれない、と蓮生は思った。
「ドクター・ロバート・ポアソンのご自宅はこちらで?」と蓮生が訊いた。
「そちらさん、市役所の福祉局の人? それとも新任の介護ボランティアのお方か何かで?」とセキュリティガードが訊き返した。
「いえ、こちらポアソン先生のホークドクターでして、精神科がご専門のドクターツカモト」とすかさず蓮生は答え、葉子を心持ち前方に押し出した。
「あ、そう。プロフェッサーのとこ、最近は訪れる人もめっきり減ったから、お医者(ドック)といえども大歓迎だろうよ」と葉子にウィンクすると、「プロフェッサーの部屋は六階のG。突き当たり右側のエレベーターを使うといいよ」と二人に言った。
「ありがとう」
「ありがとう」
 最初に蓮生が、半拍あって葉子がほぼ同時に礼を言うと、件のエレベーターに二人して乗り込み、数字の六のボタンをほぼ同時に押した。
「恋愛先生、そのお口からよくもいけしゃあしゃあと嘘が出てくるものね。感心した」
 葉子は、二階にさえなかなか到達出来ないでいる超低速エレベーターの階数表示板を凝視しながら、蓮生を振り向きもせずに言った。
「英会話の真髄は意味内容の厳格さより、会話のリズムだからね。ポアソン先生の突然の訪問者に相応しい、あるべき姿を語ったまでで」と蓮生は言ってから、「それに葉子は医者は医者なんだし、最低限、嘘のそしりはまぬかれる」と笑った。
「だって、さも私がポアソン先生の掛り付け医であるような口ぶりだったわよ。少なくとも玄関の警備員はそう感じた筈」
「そう思っていただけたのならそれはそれで嬉しい」
「第一、先生のご病気が精神科マターだなんて、勝手に個人情報を晒してしまって」
「その辺の医者より、あのセキュリティガードのお兄ちゃんの方がポアソン先生の現状を一番認識してるさ」
 そこでさすがのスローエレベーターもとうとう六階に到達したらしく、チンとアコースティックな音がして重い鉄の扉が最初に内側、次に外側の順で、いくらかタイミングをずらして開いた。
 エレベーターを降りてみれば不思議なことに、その廊下は二〇年以上も前に頻繁に通ったポアソン先生の研究室のあるNYUの研究棟の廊下と同じ匂いがする、と感じる蓮生だった。それぞれの住人の構成は先生以外まるで違っていると考えるのが妥当だから、それは何か多くの清掃員に支持されている洗剤や芳香剤の類いが醸し出す匂いなのか。それとも、他ならぬポアソン先生その人が歩んだあとの残り香のようなものなのか。
 蓮生の視線に促されて、葉子が六Gの扉の呼び鈴を押す。驚くべきは、その鈍い呼び鈴の余韻が消えもしないうちに、いきなり扉が向こう側に開いたことである。そこに立ち、ドアノブをホールドする白長髪で小太りの白人老人こそがポアソン先生その人であった。その右手には、いまや歩行の補助具として欠かせないというように、マホガニー製のステッキが握られていた。
するだけ無駄なような気がして事前のアポイントメントなしだった蓮生には、そのことが殊更に驚きだった。「先生、もしや我々が来ることをご存じで?」と訊いてみたい気持ちもしたが、そんな質問をしても致し方ないことのようにも思えた。
「ポアソン先生、お久しぶりです。二〇年以上前に先生の研究室にさんざん入り浸っていたアイクこと、相川蓮生です。覚えていらっしゃいますか?」
 それは、そんな古い話はちょっと分からんな、という返答を織り込み済みの、いわば駄目元の質問であった。
「ああアイク、覚えておるよ。君は実に優秀な学生だったからね」
 事もなげにポアソン先生は言ってのけたのだった。
「紹介が遅れてすみません。先生、こちら葉子。葉子、こちらポアソン先生」
「ああヨーコ! 覚えておるよ、君は実に優秀な学生だったからね」
 お見事! 完璧なまでの社交プロトコル、と蓮生は老獪な大教授に厳として備わった技倆に内心ほくそ笑んだが、葉子は事情が呑み込めないといった感じで依然きょとんして、廊下から室内に踏み込むことに戸惑っていた。
「すばらしいお部屋ですね!」
 蓮生が感嘆の声を上げたが、素晴らしく片づかないお部屋ですね、と言うべきところだと葉子は思った。事実、立錐の余地もないとはこのことだ、という一点で蓮生と葉子は以心伝心であった。財政学に直接間接に関わる研究書、教科書、論文などが厄介な津波のように迸り、食卓、サイドボード、マントルピースなど、あらゆる天板という天板を飲み込み、それぞれの持つ本来の用途を台無しにしていた。それでも老人の一人暮らしには十分過ぎる広さのリビングにはもういくらも余地は残されていない有様で、書籍の洪水は新たな調整池を求めて最後の砦とも言える先生のベッドルームにも侵入を企てているように見えた。
「何分、長年おった研究室を突如大学に返上する破目になってしまったもので」
 くしゃくしゃの長髪の巻き毛を、さらに両手でくしゃくしゃにしながら満面の笑みを浮かべるポアソン先生だった。
 蓮生は、果してその「長年おった研究室を突如大学に返上する」理由を知っていた。一昨年だったろうか、自著の『僕が金融規制緩和に反対する理由』の新書が刊行されたのを機会に、日本語とはいえ、すっかりご無沙汰となってしまったかつての恩師への献本を思い立った蓮生であった。それが、母校のホームページから先生のメールアドレスに辿り着こうにも、消しゴムで消したように先生の痕跡がない。頭脳明晰、業績沢山のポアソン先生は三〇歳代の半ばにしてすでにNYUでの終身在職権(テニュア)を獲得していたので、その気になれば文字通り死ぬまで居残ることが出来たのだ。ところが、こともあろうに先生は、その安住の地であるべき大学をニューヨーク州の裁判所に訴えた。五、六年前から札幌で定期講読を始めたニューヨークタイムスの日曜版の、「教育(エデュケーション)」の束にあった記事が、事の顛末を記者の署名入りで扱っていた。
 ニューヨークタイムスに拠れば、いまから五年ほど前、ポアソン教授がニューヨーク大学を訴えた一番の理由はその年齢差別によるものだった。より具体的には、その年、規定に拠れば正規の教授が担当すべき年間四コマの授業負担より一コマ少ない三コマの授業担当を大学院教務課から言い渡された先生は、これにひどく憤ったというものである。
「どうして? 時間数が少なければそれだけ好きな研究や、場合によっては趣味のことなどに沢山時間が割ける訳だから、喜びこそすれ怒る理由が分からない」
 朝食の折、今日の訪問の理由を掻い摘んで解説する蓮生に葉子は、聞いた者の誰でもが一様に抱く素朴な疑問を投げた。
「至極ごもっともな質問だと思う。アメリカのシステムが分かっていない人間なら誰でもがそう考えると思うよ。でもね、実際の話、授業負担数はそのまま大学から支払われるペイに直結しているからね。加えて、ポアソン先生のような財政学の大家ともなればそれはプライドが許さない。財政学関連の基幹講義を一手に独り占めにして今日までやってきた訳だ。それを、昨日や今日のぽっと出の後進に易々とは譲り渡したくはない、それは大学教員たる者、その〈ぽっと出〉の僕でもそう考える」
「なるほど」と葉子はひとつ大きく頷いた。「それにしても、話し合いとか、教授会の議題に載せるとか、もっと穏便な解決策はなかったのかしらね。いきなりの年寄り扱いではポアソン先生が怒るのも無理ないわ」
「それがね」と蓮生はひとつ大きく溜め息をついた。「ポアソン先生以外、大学の誰もがその穏便な解決策、いわば落とし所を一度となく探った訳で。実は、授業負担軽減策もいわば大学側、教授会側の温情策だったんだねえ」
 ますます分からないといった風に葉子が左右に小さくかぶりを振った。
「こういうことだ」と蓮生が構わず続けた。「大学がポアソン教授の授業負担軽減を図ったのはね、要は、先生の奇行が段々と目に余る状況になってきたってこと。授業中に女性の学生がいることを気にも留めないで卑猥なジョークを言う、突然黒板に四文字スラングを殴り書きする、挙句に、研究室に用事で入ってきた女性秘書の臀部――かなり立派なお尻だったようだけど――に噛みつく。甘噛みじゃないよ、思いっきりがぶっ、とだ。それだけじゃない、たとえば明らかに有能と分かる学生に根拠もなく〈不可〉を付ける。反対に明らかに怠惰な学生たちに気前よく〈Aプラス〉を乱発する」
「ある種の痴呆よね。認知症の初期に典型的な症状だわ」と葉子が悲しそうな目をした。
「さすがドクター、よく分かるね」と蓮生は葉子の肩を抱いてから、「一般企業ならそこでお仕舞い。残りの有給休暇を消化するかたちを採ったり、退職慰労金に割増をつけたりの、何らかの配慮はあるかもしれないけれど、いずれにしろ即お払い箱だよね」
「ところがテニュア持ちの教授先生ともなるとそうもいかない?」
 肩を抱かれた蓮生の手をさすりながら、「あなたもそう?」というように意地悪な視線をくれる葉子だった。
「アメリカと日本とでは少し事情が違う。そもそも文字通りの終身在職の権利は僕の大学には存在しないからね。葉子との色恋沙汰で、いまにも辞めさせられそうな僕だからとても他人事とは思えない話ではあるけど。――辞めさせられたら当分の間、喰わせてくれる?」
「駄目駄目。ヒモは恋愛さんの柄じゃないから」と肩に置かれた蓮生の手を振り払って、葉子が笑った。
「それに」となおも葉子が続ける。「恋愛さん、仕事ででも縛って置かないと、またどこかにすっといなくなりそうで」
 葉子はさらに口角を上げて笑ったが、蓮生には葉子が心底そう心配している風に思えた。
言われてみれば、この場所は一度、〈すっといなくなった〉ニューヨークには違いないのだ、と蓮生は思った。
 ポアソン先生はいまや窓の縁に腰をおろし、通りの向こうのモダンなコリアンレストランを眺めている。最近、マンハッタンでよく見かけるようになった若い韓国系アメリカ人が始めたような店の類いなのか、軒先にはテラス席が用意され、プラスティック製の金赤のテーブルと瑠璃紺のテーブルが交互に並んでいる。もうじきランチタイムを迎えようかという時間で、長身長髪の男性店主自らがテーブルの一つひとつに紺地のクロスを几帳面に広げている。すると、店主は窓辺に佇むポアソン先生の視線に気づき、大きく右手を振ってみせてから叫んだ。
「おはようございます、プロフェッサー! 今日のランチスペシャルはプロフェッサーお気に入りの極上ビーフ入り石焼ビビンバだよ! 何時でも降りてきて下さい! プロフェッサーがお客なら、店の誰にも売り切れとは言わせません!」
 先生は、そのたぷたぷとした腹を両手で持ち上げるようにしてうんうんと何度か頷くと、「昼時になってみなければ、自分が食べたいのか食べたくないのか、よくは分からんでね」と独り言のように囁いたが、そのコリアンレストランの店主とて先生を一人の客としてというより、一人の〈可愛い隣人〉として気遣ってくれているのだ、と蓮生と葉子は思い、先生の代理で二人して店主に手を振った。振り返って先生は二人に改めて言った。
「本当によくぞいらした。ご覧のように年老いた男の一人所帯ゆえ、大したもてなしも出来んが、若い頃からコーヒーを嗜まんので紅茶の種類だけなら星の数ほど用意がある。さ、お好きな紅茶の銘柄を言ってごらんなさい。専用のジャーのなかから、ご所望の紅茶を見事に探し出してみせるから」
 先生はそう言うと食卓のすぐ横に置いた大きな行李のようなものの上に積み上がった本を四方八方乱暴に蹴散らした。全貌が明らかになってみればそれは朱塗りのオリエンタル調の木箱で、一方が蝶つがいになった天板を開けると、果して先生の宣言通りに種々さまざまな紅茶を入れたガラスの密封式ジャーが五ダースほども出てきたのだった。
「凄い!」と葉子は子供のように歓声を上げた。「じゃあ、私はアールグレイ」
「……」
 先生は一度困ったような顔をして、次に助けを求めるような顔をして蓮生の顔を窺った。
「アールグレイのね」と蓮生が葉子に耳打ちした。「最初のEARLの発音が日本人にはなかなかに難しいんだな。僕も未だに四勝六敗。上手く聴き取って貰える確率が四で、そうじゃないのが六だ」と笑った。
「ヨーコが欲しいのは」と蓮生は先生に言うと、おもいっきり舌を喉の奥の方に円くすると、「アールグレイ」と葉子の代わりに丁寧かつ明瞭に発音して見せた。
 しかして先生はやっと意に介した様子で、「アールグレイ、アールグレイ」と呟きながら木箱に首を突っ込み、大捜査を敢行したのであったが、それでも目的のジャーは見つからない。すると悲しそうな顔で言うのだった。
「そもそもアールグレイという紅茶の名前を聞くのが初めての気がしてしようがない」
 葉子は蓮生の顔を見てぷっ笑うと、「だったら先生のご推薦の紅茶であれば何でも!」と喜んで希望を修正するのであった。
 やや時が過ぎて、街中のレストランで普通にお目にかかるリプトンの黄色いティーバックがお湯と一緒に二人の前に供されたのだった。
「ディップディップ、ディップディップ……」
 ポアソン先生は呟きながら、目の前でつまんだティーバックをお湯に浸したり出したりする動作を真似てみせた。
「ディップディップ、ディップディップ……」
 先生のやり方を真似て最初に葉子が、これに続いて蓮生が紅茶をお湯に浸したり出したりするのであった。ディップディップ、ディップディップ……静かだか満ち足りた時間が、沢山の本と一緒に、グリニッジビレッジのアパートメントの一室を満たしているのだった。
 隣なのか直下の階なのか、チェロの練習曲が聴こえてくる。見知らぬ奏者は同じ個所で何度も弓を止めると、腑に落ちないといった風に何通りかに弾き直してみるのだが、やがてやっと納得したとみえて――あるいは諦めたようで――次のパートに進むのである。未来の音楽家はそうやって、何度も何度も同じ個所を復習いながら楽譜と自分とに向き合っていた。
「私も小さい頃はね」と先生が長い沈黙を破った。「音楽家を目指した一時期があるんだよ」
 NYUの学生だった頃、ポアソン先生からはさんざん自慢話を聞かされたような記憶があるが、先生が音楽家志望だったとは蓮生にも発耳だった。
「やはり先生もチェロで?」と葉子は当てずっぽに訊いた。
「それが、私の楽器はフルートでね。こう見えて、いまからは想像もつかんぐらい当時は――中学や高校の頃だけど――痩身の美少年でね、町のアマチュアオーケストラの発表会に助っ人として加わるたび、私のソロパートで女生徒や中年のおばさんたちがきゃーきゃー黄色い声を上げるもんだから、クラシックのコンサートというよりは、そこだけポップアイドルの新曲発表会といった様相だった」
「そうかあ、モテちゃったんだ先生」といささか調子に乗って葉子が言った。
「そうなんだよ、昔はこれで少しはモテたんだね、女の子には」と先生が少し物憂げに肩を落とした。
 先生の言葉と表情とで何か腑に落ちるものがあり、その先を問い詰める理由も情熱も持ち合わせてはいない蓮生と葉子であったが、先生はそこまで言えばあとは堰き止められない、といった風に自動述懐機へと変貌を遂げたのだった。
「これでも勉強もなかなかに出来た方だから、当時はいまよりもっと盛んだった飛び級とやらで、高校に入るか入らんかの頃よりハーバードからもプリンストンからもお呼びがかかってはおったんだけどね、私はそんな人生を生き急ぐようなことに微塵も興味がなくてね、週に一度、週末のそのアマチュアオーケストラの練習が何よりもの楽しみだった。それというのもね、考えてみればあれを初恋というのだろうね。その楽団で同じ木管楽器のパートに所属しておった、で、楽器はおもにオーボエの担当だったノエルという名の男の子に淡い恋心を寄せておったんだ。年齢にして私より二つ、三つ年上のそのノエルもね、自分で言うのもなんだが、私に負けず劣らずの美男子でね。他の楽団員の女性やら、お金持ちのパトロンのご婦人やらにやたらとモテモテだったんだがね、根本的に私と大きく違う点がひとつあった。言うまでもないことだが、見た目にノーマルなそのノエルはね、身も心もストレートな異性愛者だったのだよ。そのうち、練習の合間合間に他愛もない話をするような気の置けない関係にまでなれて、ノエルが好きで好きでしようがなかった私には願ってもないような一時にも恵まれた。聴くも馬鹿馬鹿しいの一言に尽きるとお二人には思えるだろうが、たとえばソーダを回し飲みする、私の母親が持たせてくれたおやつのピーカンパイの食べ溢したかけらをね、ノエルが「おいおい」などと笑いながら指の腹で浚っては私の口に運んでくれたりする、といった他愛もない時間のことだ。嗚呼、我が栄光の青春! だが同時にね、そこまで仲良しになってくると、ノエルは私に気を許すあまり、段々と節度に欠ける、いくらか下品な話もするようになってきた。ノエルは当時、その外見が魅力的であることをこれ幸いと、寄ってくる女性、寄ってくる女性と――言葉は少々下品だけれど――懇ろになっていたんだね、本当に相手構わずという感じで。で、そのことを、本当に余計なことなんだが、面白可笑しく脚色までしてこの私に話してくれる。もちろん、私が同性愛者であることどころか、この世にそのようなユニークな性的志向を持つ人間が存在することすら、無邪気な彼は知る由もない。無知と残酷とはコインの裏表なんだな、実に。この場に及んで彼を弁護する私を哀れと思わんで欲しいのだが、しかし、アマチュアオーケストラにでも所属しないことには退屈に押し潰さそうなバーモントの田舎町のこと、真っ直ぐな性的志向を持った若い男女なら至極ありふれた会話だったのかもしれん。ただ、当時の私はそのことを理解するに余りも若過ぎた。若過ぎると同時に、純粋過ぎた。あるとき、あれほどに好きだったノエルをね、何だか無性に懲らしめたくなって一計を案ずることにしたのだ。その一計とはこうだ。当時、ノエルはその町で知らぬ者はない有力者、かつオーケストラの大パトロンの一人でもあったマイケル・カーソンという銀行家の奥さんと秘かに逢引を繰り返しておった。もともとはカーソン夫人、夫のクラシック音楽好きのお付き合いでしぶしぶ音楽会に足を運んでおった口なんだがね、そのやや時代がかった金無垢のオペラグラスで、楽団の右側後方でオーボエを吹くノエルを覗いてからというもの、いっぺんで彼の流麗な演奏の……というよりはその、控えめながらも性的な魅力に溢れる端正な容姿の熱狂的なファンになってしまった。それからというもの、月に一度の音楽会を、多い時でも二ケ月ごと、さらに間が空けば半年に一回ほどのペースでお越しになっておった富豪カーソン夫妻のお出ましの姿が毎回のように客席の最前列に認められるようになったのだね。憐れは事情を知らない夫カーソン氏! それまで不承不承音楽会の同伴を果していた妻の突然の変節を疑うこともなく、むしろ諸手を上げて喜び、そのうち「やっと念願の妻の許しが下った!」とばかり楽団の理事会のボランティア理事にまで名を連ねるや、それまでの年一千ドルの慈善寄付を、月一千ドル、すなわち年一万二千ドルまで一気に増額する太っ腹。加えて春、秋の年に二度の資金調達パーティではワイングラス片手に、地方都市における芸術文化支援の大切さ、意味深さを持ち前のウィットを交えて一席ぶつと、お決まりのように観衆の前で懐から出した小切手帳にさらさらと一万ドルと書くなりその場で臨時の寄付金の贈呈式に早変わり! 毎回、そのいささか下卑たパフォーマンスが田舎の観衆の度肝を抜いて、惜しみない拍手を浴びるのをこの上ない喜びとした純朴といえば純朴なお方だった。もっとも、楽団のボランティア理事になって二年と経たないうちにね、市役所から名誉市民の称号を得た訳で、あるいは魂胆はそちらの方だったのかもしれんね。一方で、カーソン夫人の方はといえば、そのパーティの熱狂的な空気からしばし逃れて、涼やかな夜の外気を楽しみにボールルームから一時屋外に出んと見せかけては、その実、建物を出るとすぐさま高いピンヒールを脱ぎ捨て、車まわしの植木の後ろに隠すと、すたすたすたすた素足で足早に走り去るのだった。果してカーソン夫人の目的がノエルだったことはご想像の通り。そもそもは音楽堂の改修工事のため、まちの大工が道具をしまったり、休憩をしたりするために仮拵えでつくった下小屋で、どこから仕入れたのか合鍵で先にはいったノエルがカーソン夫人との密会を楽しむために先に待ち伏せておる。そこに、あの忌々しいカーソン夫人がノックするのももどかしいという風に飛び込んでいくと、哀れノエルの細くて白い腰に跨って――ここの部分の表現は、いや実際に見た訳ではないので、たぶんに私の想像力と脚色に負うところ大ではあるけどね――僅かな愉楽の時間を貪るのだった」
「ふう……」と溜め息をついた葉子は、もうこの辺りで訊いても失礼には当たらないだろうと思い先生に訊いた。「そこで先生が案じた一計とは?」
 先生は両手をぽんと叩くと、愉快そうに笑顔まで浮かべながらその先を続けるのだった。
「そうそ、それそれ。それだった。これから私が案じた一計をお二人に話す訳だが、言うまでもなく私は根っからの悪人ではない。と同時に、一時の性愛に溺れている男女の社会的地位や家庭生活までを目茶苦茶にするような野蛮な人間でもない。当時も、そしていまも、私は自分を少しは洗練され、かつ繊細な人間だと思っているんだが、異議はござらんか?」
 ないない、という風に葉子が真顔で大きくかぶりを振った。
「良かった。とあれば、その先を掻い摘んで」というと、新しいリプトンの紙袋を乱暴に破って、別に紅茶を一杯つくると、先生は話を続けた。「計画のあらましはこうだった。よくよく考えてみれば、悪いのはカーソン夫人ではなく、ましてや我が愛しのノエルでもなく、ひと月に一度の逢瀬の場を提供するあの忌々しい下小屋が諸悪の根源とも思えてきた。考えてみれば、あの安普請の小屋は音楽堂の改修工事に携わる大工やペンキ職人らが週に五日間だけ、それも日中、まだ日の高いうちしか使わないという代物。で、そもそもその建築費はどこから捻出されたのかと考えれば、それは音楽堂の改修工事に係る付帯施設に他ならない訳だから、元はと言えば改修工事の資金調達に応じた幾人かの大口寄付者、とりわけ飛びきり高額の寄贈をなしたカーソン氏その人が捻出したお金と言い換えることも出来よう。つまり、何が悲しいって、自身が拠出したお金が周りまわって細君の情事の場の提供に充てられておるという寸法だ。そこで私は考えた。あの小屋さえこの世から消えて無くなっちまえば、ついにはカーソン夫人も自らの不徳を恥じ入るところとなり、それはつまり、ノエルの目を覚ますことになりはしまいか。そこまで考えつけば、普段どちらかといえば愚鈍な私も行動は早かった。音楽堂の改修工事が小休止する独立記念日の週に、そして言うまでもなく、オーケストラの資金調達パーティのない平日の夜九時が過ぎるのを見計らって下小屋に軽油を撒き、すぐさま火を放ったのだった。東部夏時間の夜九時といえばまだ宵の口。小屋から火の手が上がったことをその辺をたまたま通り合わせた見知らぬ誰かに発見される可能性は大ありだった。実は、しかし、そのことの方がより好都合であった訳で。案の定、出火直後にピックアップトラックで通りかかった血の気の多い地元の農家の子せがれどもが退屈しのぎに音楽堂の中庭のコガモ池からバケツリレー。火は瞬く間に消されてしもうた。と同時に、火が消えるか消えないかうちに、下半身の身支度も中途半端に、小屋から這々の体で逃げ出した、煤けた男女の姿が目撃されたのだった。繰り返すがバーモントの片田舎のこと、そのことが町中に知れ渡るに三日とはかからんかった。ましてや、男性が町一番の名士、銀行家のマイケル・カーソン名誉市民その人であり、お相手の女性がオーケストラで〈バーモント最後の処女〉とまで神聖化されていた第二バイオリニスト――ご本人の名誉のためにここでは仮にMさん四八歳とでもしておくが――ともなれば、噂はまさに野火のごとくだった。もちろん、カーソン夫人の憤り様といったらなかった。事情に通じている私などには夫も夫なら、夫人も夫人、すっかり興が醒める思いがしたもんだが、それからというもの、町唯一の高々一五〇フィートほどの目抜き通りを行ったり来たりしながら、金に飽かして買い物にうつつを抜かすカーソン夫人の後を、山ほどの買い物荷物を両手に抱えて腰巾着のようにつきまとう哀れ名誉市民の姿がたびたび目撃されてね。もっとも一番の被害者はオーケストラとも言えようか。カーソン氏はボヤ騒ぎの翌日のうちに楽団にボランティア理事の辞表を提出、その後、一万ドルを超える寄付金の向け先もオーケストラから里親支援団体を筆頭としたいくつかの非営利団体に変更され、分散されるところとなった。加えて、資金繰りに行き詰った市役所は、音楽堂の改修工事も一時の中断を決断するところとなり、しばらくはカーソン氏に代わる大口のパトロンの出現を待ったものの、その後、音楽堂の新装がなった、という話はついぞ聞かなんだ。ほどなく誰が命じたか音楽堂の八角形のセンタータワーをまだらに塗り残したまま、工事用の足場も、あのボヤ騒ぎを起こした――その実、私がその張本人あったことは今日の今日まで知られざる仕舞いだった訳だが――工事用の下小屋も一夜のうちに完全撤去されたということだ。あ。そうそ、我が愛しのノエルはといえば、カーソン夫人とあの手この手での再会を試みたんだが、不実の夫に対する嫉妬に燃える夫人にとって若すぎる火遊びの相手はもはや眼中などにはなく、結局は逢瀬どころか再会も叶わなかった。やがて失意のうちにノエルは、カーソン夫人にも、楽団員の誰にも、もちろん、私にも行く先を告げぬままその町からいなくなってしもうたんだ」
「先生は本当に正直なお方ですね」と葉子がポアソン先生の手を取り言った。「ここまでお偉くなられたのに、ちっとも偉ぶったところがなくて。正直で。私、先生を心から尊敬します」
「まだ話は終わっとらん」と先生は葉子の手にさらに自分の左手を添えて微笑んだ。「とはいえ、ここから先、残るは年寄り染みた教訓のひとつふたつだけだが、何かの参考になることがあるかもしれん」
「聴きます、先生の教え、私しっかと聴きます」
「いいかい、お嬢さん。お嬢さんのお相手はどこかいなくなってお仕舞いのようだが」
「え?」と葉子が周囲を見渡すと、そこに確かに蓮生の姿はなかった。ポアソン先生の話にどれほどの時間聴き入っていたのだろうか。そうとは気がつかなかったが、恋愛先生はトイレにでも立ったのだろうと考える葉子だった。
「お相手がおらんのなら尚更いい。今日はひとつ、お嬢さんに大切なことをお教えしよう。それはね、世の中のすべての問題は愛が足りんことに起因しておるということだ」
「愛が足りない?」と葉子は、先生の英語を日本語に翻訳してみせてから呟いた。
「ア・イ・ガ・タ・リ・ナ・イ」と先生は葉子の日本語を復唱しながら、「そう、すべては愛が足りんことに原因があるのだ」と英語で繰り返した。
 蓮生が座っていた椅子に残されたコーチのグローブ革のショルダーバックのなかで携帯電話が鳴った。普段は恋愛先生のケータイに出ることは一切ない葉子であったが、日本経由の信号がアメリカ本土まで転送されてくるせいなのか、蓮生の携帯電話はいつもと呼び出し音が明らかに違って聴こえた。そして、その初めて耳にする呼び出し音が葉子に、電話に出ろ、電話に出ろ、と囁くのだった。フラップを開くとそのまま通話状態となる。
「もしもしパパ?」
 果してエツコの声だった。
「ごめんなさい、私、葉子です」
「あ、葉子さん。突然パパのケータイに電話したりしてごめんなさい」
「私こそエツコさんのパパじゃなくてごめんなさい」
「あのね、パパに伝えて貰いたいのだけど、病院から……ノックスヒルズから突如ママが消えてしまったの」
「え?」とだけ短く驚いて、どうやら恋愛さんの方も消えてしまったらしいの、とまで言うにはいまひとつ確信のない葉子であった。

*  *  *

 生まれてこのかた、既視感(デジャブ)な思いは何度か経験してきたつもりだけれど、今回ばかりはそんじょそこらの「既視」とは明らかに違っていた。
 その時間、どうして僕があの薄暗いガレージのなかに立っていたのか、正直、いまでもよくは分からない。気がつけばそこに立っていた、としか言いようがないのである。
 もっともその場所がどこであるかは頭のなかでしっかりと把握していた。何故なら、そこは過去の一時期に足繁く通った、紛れもない馴染みの場所であったからだ。そこはアッパーイーストサイドにサヴォワを買って以来しばらく借りていた、サヴォワの正面のタウンハウスの地下一階にあるパーキングガレージに違いなかった。
 少々細かい話になるが、四〇階建てのコンドミニアムのこと、サヴォワ自体の地下にも月極のパーキングがない訳ではなかった。ただ、この部分は記憶がおぼろげで少々正確さに欠けるが、当時、サヴォワのガレージの駐車料金が月五〇〇ドルほどしたのに対し、サヴォワと資本関係にない、その対面のタウンハウスの地下ガレージなら――サヴォワのに較べればいくらかうらぶれてはいるが――月三五〇ドル程度ではなかったかと思う。ただ通りを渡るだけで一五〇ドルの節約になるのなら、と、サヴォワの住宅抵当付融資(モゲージ)を組んだばかりであっぷあっぷしていた当時の僕は迷わずそのうらぶれた方のガレージを借りることに決めたのであった。
 で、いままさに立っているのはそのサヴォワ正面の地下ガレージに違いないのだが、納得の行かないこともある。最初何かの間違いではないかと思ったが、ガレージの壁面に貼ってある、薄汚れた駐車料金表の最上段には「アーリーバード・スペシャル! 朝八時まで入庫で九ドル九九セント!」――すなわち、朝八時までにクルマを持ち込めば〈早起きは三文の得割引〉で一日停めてもそれだけの値段という意味だが――とあるそのすぐ下に、「月極なら三五五ドル」とある。二〇年に近い年月を経て、殆ど価格の見直しがなかったというのは、この間の物価の動向を専門家としてつぶさに観て来た人間にはにわかに信じがたいのであった。
 そうこうしているうちに、客から預かったクルマを屋上のエクストラの駐車スペースから地下のガレージへと運ぶ大型の無骨なエレベーターの到着音ががつんと地鳴りのように短く鳴り響いて、何だか無性に懐かしい、それでいていまもそのスタイルに決して古臭さのない海老茶色のメルセデスE三二〇がその全容を現したのであった。紛れもなく、当時あれほどまでに愛してやまなかった僕の海老茶色のメルセデス! ――とはいえ、それはもうずっとずっと前の話だ。どうして、二〇年も昔に乗っていたクルマが、しかもリツコと別れる少し前、リツコが酔っ払い運転の末、大破させ、泣くなく廃車処分にした僕のメルセデスがいま、目の前にあるのか、すぐには理解出来なかったし、それが絶対に自分のだと言い張れる自信もなかった。しかし、
「やあアイク、元気かい?」
 エレベーターから僕のらしいメルセデスを結構なスピードで出すや急ブレーキをかけ、サイドブレーキを硬く踏み込むと、勢いよくドアを開けて出てきた黒人の男性は、まさしくジェイソン・ホワイトその人に他ならなかった。
「やあジェイソン、僕は元気だ。君は?」
 と努めて平然と返答し、ジェイソンからメルセデスのキーを受け取りながらも、何故ジェイソンは二〇年前のジェイソンそのままなのかと訝った。そもそも全身からある種の強烈な生命力を発散する黒人男性の年齢を的確に推定するのは僕らアジア系には至難の業だが、それにしてもジェイソンがあれから二〇歳の年月を経てもほぼ当時の風貌のままであることに合点が行かないのだった。タンクトップと呼ぶ方がより正確なくらい袖が短いTシャツから覗くその二の腕は陸上アスリートのそれのように筋骨隆々としていて、触りたい、触ってその弾力を愛でたい、という誘惑を抑えるのに苦労するほどだった。
 懐かしい、生ジェイソンに何だか嬉しくなった僕は、ハグしたいその気持ちを少し大目のチップに込めてジェイソンの掌に押し込むと、代わりにメルセデスのキーを受け取って運転席の人に納まったのだった。
 札幌で運転するクルマは――小型の、日産のキューブだが――すでにキーレス・スターターを備えていたこともあって、はじめ鍵穴を探すのに少々てこずったが、やがて何とかその穴にキーを差し込むと後は何の問題もなかった。
 キュルキュルとセルスターターの回る音がして、バフォーンと六気筒エンジンが噴き上がると、一呼吸を置いてから今度は迷わずにそのレバーの定位置を探り当ててサイドブレーキを解除した。
「よい一日を!」とジェイソンが言い、〈指五本ちょうだい(ギブ・ミー・ファイブ)〉を求めた。
「君もね!」と僕が言い、開け放たれた助手席側の窓の方にからだを傾けて〈指五本ちょうだい(ギブ・ミー・ファイブ)〉で応えた。
 目の前のスロープを光の射す方向に上がれば、そこがもうサヴォワの正面だ。そう考えるだけで、全身に力が漲ってきて、尻と太腿の辺りにひりひりとした微かな痛みを覚えた。僕のメルセデスならアクセルをほんの少し踏み込むだけでその急な角度のスロープも易々と上り切ることが出来るのは分かり切っていたが、ステアリングを握る両腕と両肩に余分な力が籠った。その時、まさにその時、何故そんな古い流行歌の一節が口をついて出てきたのか、いまとなってはまったく分からない。分からないが、あの時口ずさんだ唄の一節を思い出すだけで、いまも可笑しくてしようがない。
「もっと素直に僕の
愛を信じて欲しい
一緒に住みたいよ
出来るものならば」
 そこからは歌詞を何行か飛ばしていきなりサビの部分となるのだった。正直、その曲を完全には覚えていなかったからだ、いつもの僕がそうであるように。
「会えない時間が
愛育てるのさ
目をつむれば君がいる」
 それは郷ひろみの「よろしく哀愁」のフレーズを自分なりに、好き勝手に切り貼りしたものだった。その歌詞が――作詞家の本意はこの際置くとして――その時の僕の気分にぴったりだったということもあるだろう。加えて、当時、その歌い手はマンハッタンに住まいを構えており、JFKの空港や、いまは潰れてもうない、ハドソン河対岸のスーパー、ヤオハンで僕も時折目撃していたということもあるだろう。
 メルセデスでスロープを上り切ると、そこは左側からの一方通行の二車線だったから、通りを横切るには左から来るクルマにだけ気を配れば良かった。渡り切って車回しを反時計回りに周ると、メルセデスをサヴォワの正面玄関前にぴたりとつけた。
 サヴォワの正面には、これ以上の大型の資材は造ることも運ぶことも不可能というほど巨大な一枚モノのガラスが嵌められている。掃除の行き届いたその鏡面が海老茶色のメルセデスとその運転席の僕をすっぽりと映し込んでいて、僕はその両方に惚れ惚れとした。どれほどの時間見惚れていたのだろう。最初は気がつかなかったのだが、やがて僕は僕自身の容姿の異変に気づいたのである。それは紛うことない、このコンドミニアムをやっとの思いで購入した当時の僕、すなわちいまよりは二〇歳前後も若い時分の相川蓮生に他ならなかった。
 サヴォワの正面のガラスに映る僕は、半ば透けていて正確には分からなかったが、サテンの白シャツの上から、当時は何着か全く同じものを替えとして常備していた黒のウールのジャケットを羽織っていた。驚いたことにおぼろげながらそのジャケットのブランド名も、買った店もいまも言える。それは、グランドセントラル駅からいくらも離れていない、マディソン街のポールスチュアートの路面店で買ったジャケットに違いなかった。当時勤めていた投資銀行はドレスコードが緩く、通常はTシャツか、せいぜいブルックスブラザーズの木綿のベージュのブレザーに、ジーンズかカーキーだったので、その日の僕はいくらかめかし込んだ恰好だった。
 半透明の僕と僕のメルセデスに二重映しになるようにして、リツコが突如浮かび上がってきたのはその時だった。リツコに背後から追いつき、リツコのために回転扉を適度な速度で回すのは長身のドアマン、ジョバンニだった。ロビーの内部が暗くて、初めはよく分からなかったのだけど、ジョバンニを視認して僕は驚いた。果してその男性はジョバンニに違いはないのだが、明らかに二十歳をほんの少し過ぎたばかりの青年で、はにかむその笑顔と白い頬をほのかに紅色に染めているのが当時のジョバンニそのままだったからだ。ジョバンニはそつなくリツコをメルセデスの助手席に沈めると、強過ぎず弱過ぎもしない力で助手席側の扉をバフッと閉めた。
「こんにちは、アイク。それではお二人、よい午後の時間を」
 依然巻き上げるのを忘れていた助手席側の窓から一度頭をすっぽりと突っ込んでジョバンニが最初僕に、次にリツコに、丁寧に、しかし慇懃過ぎない程度の気持ちの良い声かけをしたのだった。
「あなたもね、ジョバンニ」
 リツコの透き通った声は、あるいは後の半分はジョバンニには届かなかったかもしれない。メスセデスはすでに車回しを動き出していたし、遠くはない三番街の方から武骨者が信号待ちの先頭車を煽り立てる長尺のクラクション音が鳴り響いたからだ。いつもなら辟易とする短気なニューヨーカーのクラクション音も、その時ばかりはリツコと僕の幸福な時間を祝福するファンファーレのように聴こえたものだった。
 その頃にはしかし、周囲で起こりつつあるすべての事態をあるがままに受容することにも段々に慣れてきた僕がいた。実際、助手席に座るリツコも二〇年前のリツコそのままで、窓から入り込む風に乱される髪の毛をしきりに耳に引っかける仕草、カットソーのブラウスから覗く胸元のセクシーな窪みから匂い立つ香水と若い汗の入り混じった香り、スカートから覗く素足に直接履いた黒いパンプスの大人っぽさが先っぽについた黒い蝶々のリボンで相殺されているその丁度いい感じ――当時と寸分変わりのないそのすべてを僕は愛おしいと思った。
「嬉しいなあ」と傍で観ていれば恥ずかしくなるくらい素直に喜ぶ僕がいた。「こうやって二人でのドライブ、ほんとどれくらいぶりだろう?」
半分は鎌をかけるようにして僕はリツコに訊いたのだった。
「あらそう……。先週も買い出しでヤオハン行ったじゃない?」
 リツコが事も無げに応えた。
 リツコの返事で、僕はひとまずこう理解した。はっきりとした理由は定かではないが多分こうだ。一番に考えられるのは、あのドクターサイムが僕の腕に打ったハムレットアクターが本来の効果を発揮し――あるいはまったくの予期せぬ副作用でも起こして――僕は二〇年分、一気に時間を遡ったということ。不思議なことに、時間が遡り、容姿といった僕の身体的な特徴も二〇年分若返っているにも拘わらず、しかし、意識や記憶はそうはならなかった。言葉を換えれば、僕は四七歳の心持ちのままで二〇年前のマンハッタンに時間旅行に出ていることになる。
 一方でリツコの方はこれとは若干様相が違っている、と理解した方が妥当のようだ。リツコはリツコで二〇年前のリツコには違いないのだが、どうやら僕のように時間旅行をしている様子は見受けられない。つまり、リツコは二〇年前の一回目の人生を普通に生きているだけで、容姿だけでなく心持ちまでもがまだまだ新婚の部類に入るあの頃のまま。さすると、ハムレットアクターはリツコには何らの効果をもたらさなかったということなのか。あるいは、僕ともまた微妙に違う過去の一時期に舞い戻ってそこでいまこの日、この時とは違う、別の時間を生きている僕との時間を楽しんでいる、ということなのか。
 ただ、この二人の心持ちの違いは未だまったくの推測の域を出ないな、と僕は思った。何故なら、僕がそのことをリツコに告白していないように、リツコはリツコで当時のリツコを装っているだけだということも可能性としてない訳ではない。すなわち、僕がそうであるように、リツコも内心、二〇年後の高みから冷静に、あるいは狡賢く僕のことを観察している、あるいは慎重に僕との間合いを計っている、まだその過程なのかもしれないのだ。
 そのとき僕は――やはり二〇年分、脳細胞も活性化されてでもいたのだろう――リツコの心持ちを量るにうってつけの方法に思い至り、さっそく実行に移したのだった。二〇年前の僕ならやりかねない、実に稚拙なやり方で。
 まずは、手始めにリツコのうなじから攻めてみた。理由はひとつ――そこがいくつかあるリツコ最大の性感帯のひとつだったからだ。左手でメルセデスのステアリングを握ったまま、右手を離して、右側の助手席に座っているリツコのうなじをそっと撫で上げた。
「あん」
 吐息の混じったその嬌声は紛れもなく二〇年前のリツコのそれだったが、だからといってそのことをしてリツコが当時のリツコそのままだという証にはまだならない。人の性的な嗜好とはそうそう変わらない、年を取らないのかもしれないし、どこまでも穿った見方に立てば、そのことも演技の範囲かもしれないのだ(嗚呼、二〇年の歳月を経て、僕はなんと疑り深い、偏屈な人間になり果ててしまったことだろう)。
 作戦の第二段は耳の穴だった。そここそが何を隠そう、リツコ最大の、文字通り泣き所だった。うなじを撫ぜたのは偶然がなせる技だったと言って言えないこともない気がしたが、耳の穴ともなれば、二〇年前だろうが現在だろうが、リツコにとってそれは明らかに性的なアプローチを意味しているのであって、そのような不埒なことをする男はみんな確信犯、時と場所を弁えないそんな僕の態度に怒ったリツコが突然の暴力に訴えることも、可能性としては十分に考えられた。
 危険を賭して僕は、しかし、リツコの左の耳孔に自分の右手の中指をそっと差し込むと、小刻みに、しかしながらモースル信号の達人技士のような目にも止まらぬ速度で、中指のほんの先っぽ数ミリ分だけを入れたり出したりしたのである。
「あ、あ、あ、あ、あ」
 果たして、リツコのなかで一気に昂ったものがあったのか、見ればリツコは両方の目蓋を閉じたまま、垂れたこうべを僅かに左右に振りながら官能の真っ只中にいる。ここから先は、拳が飛んでくるどころの騒ぎではなく、リツコの突然の憤怒と暴力とで命をも落としかねないことをすっかり覚悟したのだが、こうしておいて、僕は二人の間で、いまや決して口にすることのない禁断の言葉を囁いたのであった。
「ジャンピ」
 僕は自分が運転していたことも忘れて、瞬間、目を閉じた。一秒にはるかに満たない時間であったことと思う。クルマは確かに路肩に僅かに寄っていたが、再び目を開いてみればこれは瞬時に修正出来た。あとはリツコのお仕置きであったが、これもどうやら大丈夫そう。リツコは興奮が止まないと言った感じで、心持ちうなじをこちらに見せてさらに挑発している風ですらあったのだ。
 どうやら、リツコは正真正銘、身も心も二〇年前のそれで、ジャンピとのことは依然、未知の出来事であることを確信した僕だった。
「で、僕たち、いまどこに向かってるんだっけ?」
 何とも頓狂な質問であることは僕だって重々承知していたのだが、〈この時代に舞い戻った僕は〉それを訊かずには随分ととんちんかんな目的地にクルマを走らせて仕舞いそうだった。
「あらいやだ、フォレストヒルズに行くっていうから、それなら一大事だってことで、私、あれほど大切なコロンビアの授業も今日ばかりはお休みにしたのよ。忘れたの?」
「忘れる訳ないさ」と平静を装ったものの、肝心のその目的が思い出せない。「僕が訊きたかったのはね、フォレストヒルズよりももっと他にリツコが本当に行きたかった場所があったんではないか、ってこと。何だか僕の都合にばかり合わせて貰っているようで気が咎めるもんでね」
「あなたっていつもそうね。肝心なことになると、いつもその当日になって急に気が重くなって。で、それをなんだかんだと他人のせいにすり替えてしまう。口実づくりの達人ね! くっくっく」
 リツコは、エツコに遺伝したあの屈託のない声で笑うと、また風になびく髪を手櫛ですくって、大きくかたちの良い耳翼にひっかけた。
 この頃のリツコはまだ、僕の欠点を指摘するにもあっけらかんとしたもので、すべて笑い飛ばしてくれたのだなあ、と僕は何だか嬉しかった。嬉しかった分、しかし、互いに離婚を決意するまでの長く辛い数年間のことが殊更苦く思い出された。その時その時の関係の機微は思いだせないが――思い出したくもないが――振り返ってみれば、ほぼその全体がアッパーイーストサイドのコンドミニアム・サヴォワのなかにすっぽりと収まる結婚生活は創造と破壊、否、購入と廃棄の日々だったと総括可能かと思う。都市生活者なら誰もが羨ましがる品々の一つひとつを順番に手に入れ、別離に至る最後の数年でその殆どを破壊してしまったのだった。
 結婚一〇周年の記念に買ったお揃いのボーム・エ・メルシエの金無垢の腕時計は、たとえば、一時の激情で僕がサヴォワのダストシュートに投げ捨てた。女物のボーム・エ・メルシエの行方は現在も杳として知れぬが、男物の方は、その後、サヴォワ専属の便利屋(ハンディマン)のジョーがその毛むくじゃらの右腕にぬけぬけとしていた。偶然にも乗り合わせたエレベーターのなかでそれを一緒に発見したときのリツコの勝ち誇った顔といったらなかった。
 結婚からほぼ二年目の夏、会社の四半期最優秀トレーダー賞のご褒美にリツコも同伴を許されたインセンティブ旅行のシンガポールは、カンクンへの正真正銘のハニームーン以上に新婚旅行らしい新婚旅行で、文字通り蜜のような甘い思い出だが、持ち帰った記念品のその後の運命はそれぞれ凄惨だった。たとえば、シンガポール高島屋で求めた実物大のニワトリの置物は表面の黒大理石様のテクスチャーが見事だったが、実は木彫りである。ジャンピとのことを争点に、リツコを投げ手として三回、僕を投げ手として二回、合計五回は空を飛んだ恰好のニワトリだが、そのたびにトサカの部分が床や壁にぶつかってもげ、何度も接着材での修復が試みられたのだったが、何回目かに遂にトサカが紛失。その後は、プラスティック製の朱色の箸置きがトサカの代用として仮接着され、どこか間の抜けたニワトリに変貌を遂げたのだった。
 そう言えば、いまこうして快適にドライブしている海老茶色のメルセデスE三二〇も、僕がサヴォワでのリツコとの生活に区切りを付ける直前に御釈迦にしてしまったではなかったか! その日、リツコは思いの外遅くに帰ってきた。しかもアルコールを一切嗜まない筈の彼女のからだ全体から強いウォッカが臭っていた。「クルマで出かけたんじゃなかったのか?」と僕は可能な限り平静を装って訊いたのだが、怒りで語尾はずり上がっていたに違いない。「そうよ、クルマよ」とリツコはぶっきらぼうに答えて、クルマのキーを投げて返した。当時としては最新のガジェットだった、メルセデスのリモコンキーの重量を想定し、鉄壁のキャッチャーの気分で身構えていた僕は、手許に納まった実際のキーの余りの軽さに驚愕とした。フォードのロゴがある鉄片の簡素なキーだった。「メルセデスは?」と訊く僕の形相は誰が見ても半べそだった筈だ。その実、舌がもつれ、あるいは「めるふぇてすふぁ?」と聴こえたかもしれない。「ぶつけた」とリツコは応えると、言うに事欠いて「ぶつけて動かなくなったから捨てて来た」と吐き捨てた。果たして、「捨てて来た」は彼女一流のレトリックであり、実際はレッカー車に牽引された僕のメルセデスはイースト河対岸の修理工場に納まったことは後になって知ったのだった。酩酊状態でクイーンズボロー橋の橋脚に正面突破を敢行したリツコは、僕のメルセデスが搭載するダイムラーベンツ社の最高級エアバックシステムに守られて無傷だった。しかも衝突後、二時間と経たないうちに修理工場が代車として貸してくれたフォードをこともなげに運転して帰って来たのだった。後になってメルセデスと再会を果たした僕は、しかし、変わり果てたその姿と、仮に修理するとなれば必要な追銭は四万ドルを下らない――新車よりはいくらか安いが――という説明に性も根も尽き果ててその場で廃車を宣言したのだった。僕のメルセデスとの別れ際、片身に外した先頭の三光星のロゴマークは、いまも札幌で買い物に使うママチャリのカゴにデンタルフロスで結わえてある。
 そうやって、一つひとつ持ち物を破壊しながら、それでも僕とリツコは最後に残った大切なもの、つまりは二人の結婚生活をサヴォワのダストシュートにダンプ出来ないでいた。二人して猫かわいがりしたエツコもいることだし、というのが最後の砦であったことは確かだが、それだけでない気持ちが僕はしたし、多分、リツコも同じような茫漠とした迷いがあったのだと思う。

*  *  *

「もう行かなきゃ」
 ベッドルームのブラインド越しに差し込む夕陽が、うつ伏せのエツコの首筋から肩の辺りを縞模様に染める時間。床頭台の目覚まし時計のデジタル表示はすでに午後六時を回っていた。
「駄目。お願い。あと三〇分このままでいて」
 エツコとひとつベッドの男、ジャン・ピエール・バルマンは背中を向けたままでそう言うと、やおら向き直ってエツコにいま一度覆いかぶさろうとするのだった。
「もう、やあだ」とエツコの言葉はそこだけ日本語だった。
「夜はまだ遠い未来」とジャンピの言葉はそこだけフランス語だった。
「ふざけないで。どうしてあなたはいつもそうなの? 二人の未来を語る気持ちも言葉ももうこれっぽっちも持ち合わせていないくせに、ベッドの上では私をその気にさせるためだけに怪しいフランス語を囁く」
 エツコは白いシーツを自分のからだに巻きつけるようにして、ジャンピの執拗な挑発を阻んだ。巻きつけてみれば、エツコの瑞々しい肉体の起伏をむしろ際立たせ、ジャンピの欲情を減退させるに逆の効果を発揮することを、しかし、あるいは未だ幼い心のどこかでエツコは的確に理解しているかにも見える。
「ほうら、ここは正直だから」
 阻み損ねたシーツの決壊個所から右手を差し込むと、エツコの部分を人差し指と薬指で開かせ、中指でぽんぽんと巧みな強弱で弾くジャンピだった。そうして、シーツの張力を維持するエツコの四肢の力が弱まったとみると、ジャンピは一気にシーツを剥がした。果たしてうつ伏せのエツコの若い背中は、突風に制御を失った凧のように飛ばされていったサテンのシーツより、はるかに機目の細かな美しい白だった。
 ジャンピが硬く反り返った性器をいま一度エツコの尻に埋めようとする。エツコはもう拒まない。拒みはしないどころか、少しだけ尻を尖らせてむしろジャンピを受け容れるのを易しくするのであった。結合した二人は、しかし、もはや二頭の獣ではない。その行為はどちらかといえば性交というよりは挨拶で、疾うの昔に失われた語彙や熱情を埋め合わせするには、これ以上のぴったりの会話法はない、とでもいった風だった。
「ジャンピ、ママが消えた」
 エツコは背中にガムのように貼りついたままで微動だにしないジャンピに言った。
「消えた? いつ?」
 ジャンピは依然体重を委せたままのエツコのうなじに訊いた。
「今日のお昼前。私も看護師さんも誰も見ちゃいないのだけど、唯一、ママの病室を時々見舞うアルツハイマーのおばあさんが、消えた、消えたと呻いていたそう。もっとも、病院からの電話でかけつけたときにはそのおばあさん、何も覚えちゃいなくてボーッとただテレビを観てたけどね」
「だったら、探さなきゃ」
「探しようがない」
「探しようがない?」
「だって、消えるべくして消えたんだもん」
「消えるべくして消えた?」
「治療の一環というか……ドクターサイムが変な注射したから」
 訊くほどに混迷を深めるエツコの答えをもどかしいという風に、ジャンピは質問の仕方を変えてみる。
「僕も一緒に探すってのは? やっぱり無理?」
「無理」
 エツコはそういうと、ぽんと尻を突き出し、ジャンピを跳ね上げると、思いのほか高く揚がったジャンピが再び落ちてくる前にくるりと身をかわして仰向けになった。
「無理って、何故?」
 着地したジャンピが、エツコの顔を覗き込んで訊いた。
「だって、日本からパパも来てるし。パパと鉢合わせなんかになったら、ジャンピ即刻殺されるよ。ママとのことは終わったことだとしても、娘の私といまもこうして切れないでいるって知ったら、いくら温厚なパパだって何をしでかすか保証の限りじゃない。あ、でもそのパパも一緒に消えちゃったんだけどね」
「え……エツコのパパも?」
「そうパパも」
 これ以上は深刻ぶってはいられない、という風に、エツコはそこでぷっ、と吹いた。
「笑ってる場合じゃないよ。エッツ、どうするの? 独りっきりになっちゃうよ……」
「大丈夫。ドクターサイムが心配いらないって。ハムレットアクターの効力は長くて丸一日。効き目の個人差を考慮に入れても、二日もすれば必ず帰って来るって」
「そんなこといって、ハムレットアクターってまだ治験の段階だってことじゃなかった? 万が一ってこともある訳だし」
「大丈夫。心配ないよ。私にはジャンピがいるから。こうなればいくら薄情者のジャンピだって奥さんと別れて私と一緒になってくれるよね?」
「え?」
「知らないとでも思ってた? ジャンピに奥さんがいることくらい私にはずっと前から分かってたよ。ママはあれでお子ちゃまだからいまも見抜けないでいるけど、私はずっと前から」
「そんな人いないっていったら?」
「いるいる。ちゃんといるもん。セントラルパークも広いようで狭いから」
「それ、どういう意味?」
「いまとなっては懐かしいけど、ジャンピにぞっこんだった五年くらい前かな。思えば私も馬鹿だったけど、ママに勝ったって有頂天だったあの頃、それでもママに内緒であなたとひとつになった後ろめたさがあって、何だか学校から真っ直ぐにお家に帰れないでいたよ。ママにしてみれば、あなたのような人のために大切なパパを失って、で、あなたのような人のために次に大事な娘まで……。だからあの頃、ママのこときちんと正視出来なくて、地下鉄をひとつ手前の五番街駅で降りて、よくセントラルバークを散歩してから帰ってた。といっても、たいがいは夕方のこと、あんまり深い森に分け入ってしまって戻れなくなっても困るし、怖いから、せいぜい回転木馬(カルーセル)のある辺りまでよね。そもそも回転木馬に会いにいくこと自体が目的だったのかも。だって、小さいときパパとママがよく連れてってくれた場所だもの。小さい子にしてみれば、あそこの木馬はびっくりするくらい背が高いし、回転も速いから、どちらかというと運動音痴だった私は木馬に乗ることより、あの音楽を聴くことの方が好きだった。レコードやテープじゃなくて、機械仕掛けでパイプオルガンを響かせている訳だから、言ってみれば一回、一回が生演奏のようなものよね。下腹部を震わすような気持ちのいい重低音だった」
「その回転木馬と何か関係が?」
 厳しい話かと思いきや一転して子供の頃の思い出話であることに弛緩して、ジャンピは気安くエツコの右の乳首をつまんでみた。
「やめてよお」と、ジャンピの手を払い除けるとエツコが続けた。「で、いつものように高校の帰りに回転木馬の柵に凭れかかってパイプオルガンの音楽を聴いてたら、ジャンピ、って呼ぶ女の人の声がする。びっくりして振り返ると、うちのママと同じくらいの年齢のアジア人の女性――コリアンかな、チャイニーズかな――がしきりに手招きをしている。手招きの先にはチョコレート色の可愛い小型犬――ポメラニアンかな、マルチーズかな――が一匹。愛犬の名前がジャンピってこと自体変だと思ったけど、そのあどけない表情は、どこかあなたに似ていて……しかも、見ようによってはあなたと同じ太くて濃い眉毛してて……とても単なる偶然では済まされない気がした。だからその人の後を、私つけたの」
「え、つけたの?」
 依然、ベッドのジャンピはそこで煙草に一本、火を点けた。
「うん、つけた」
 すでに、立ちあがっているエツコはスカートのジッパーを正面で上げ、半回転させて位置を正すと、次に後ろ手でブラジャーを着けた。いつもそうするように、背中のホックをジャンピにお願いする気にはとてもなれない今日のエツコだった。
「思った通りだったわ」と、エツコは依然身支度を止めずに続けた。「だって、首輪もリードも付けてなくて、で、わんちゃんを入れてきたカゴやカバンを持っている訳でもない。これはきっとセントラルパークからそんなに遠くないところに自宅があるんだ、ってぴんと来た。バスや地下鉄をいくつも乗り継いで連れてきた訳ではないってね。でも、あそこまで立派なアパートメントだとは想像もしなかったよ。あのダコタハウスのすぐ近くじゃない……。買ったの? 借りてるの? あなたのフランス語の個人レッスンの身入りだけじゃ管理費も払えないよね、きっと。奥さん、余程のやり手か、それともそもそものお金持ちかのどちらか、ね? そんなこと、私にはどうでもいいけど、いずれにしろ、ジャンピ、あの小柄で小太りの奥さんに凄く愛されてるんだってことは分かった。回転木馬からストロベリーフィールドを抜けてアッパーウエストサイドのアパートメントまでわんちゃん、少しも歩かせもしないで、ずーっと抱っこしてて。で、ジャンピ、ジャンピって猫なで声で頬ずりしてたもの。たとえばこうして私と一緒の時間、あなたの奥さん、あなたに会えない時間をあなたに瓜二つの愛犬を代わりにすりすりしてるのよね。ジャンピ、ジャンピって呼びながら。ね、どうして? あんなにも立派なお家があって、ママほど綺麗じゃないけど――小太りだし――自分をいっぱい好きでいてくれる奥さんらしき人がいて、それでも余計に女の人が必要なのは何故? 私と結婚したいって言ったの、一度や二度じゃないわよね? そんな重大なこと、いまよりもっともっと小娘だった私にとっては百八十度も世界観が変わってしまいそうなそんな大事なこと、何故、あーも簡単に言えちゃうの? ジャンピ、あなたって、詐欺師? 二重人格者? 健忘症? 性欲過多? それとも、タダの馬鹿? いずれにしたって最低!」
 ブラジャーの上から藍色のチュニックを直に羽織ると、それで帰宅の準備はすべてだった。エツコは、脱ぎ捨てた一方のサンダルを見つけられずにいたが、それを察するかのようにジャンピがベッドの下からサンダルのもう片方を救出すると、それを御妃様に献上するようにして、両手を添え、恭しくエツコに捧げた。
「ありがと」
 エツコはジャンピに目もくれず、陸上のバトン渡しのように後ろ手でそれを受けた。サンダルを履きながらの前のめりの恰好で、そのままドアに突進するエツコ。全身素っ裸のまま、ドアに駆け寄り、エツコのためにドアをホールドするジャンピ。いつもならそこでひとしきり抱きしめられるエツコだったが、今日のところは何とかその中年フランス男のそつの無さからするりと逃げおおせた、とエツコは思った。
「それとね」と、一度廊下に出たエツコが、上半身だけ部屋に舞い戻って、依然裸のままで突っ立っているジャンピに訊いた。「こんな部屋、何のために借りてる訳? 男の隠れ家ってヤツ? それとも、メイクラブに都合のいい連れ込み宿代わり? 不潔過ぎてもうやーだ」
「あのね」と、ジャンピがやっと重い口を開いた。「お風呂場に干したままのエッツのキャミソール、どうする? バーグドルフグッドマンでママに買って貰ったって自慢してたよね……高かったんでしょ?」
 ジャンピの口調はいつも以上に優しかったが、その内容たるや、あとはすべて処分しておくけど、勝手に処分して文句が出そうなものはあらかじめ持ち帰ってくれ、という風にエツコには聴こえた。
「今度来るときに着て帰るから、乾いたらクローゼットのなかに吊るしといて」
 答えるとエツコは今度ばかりはきちんとジャンピに視線を合わせ、「じゃあね、ジャンピ、またね」と右掌を乳房の少し下の辺りで小さく振った。
 瞬間、ジャンピの表情には安堵の波紋が広がるのがありありで、右目で微かに同意のウィンクを送ると、「チャオ」と言って扉を閉じた

*  *  *

「覚えてる? 最初のデートで遅れてきたあなたが私に言った遅刻の口実」
いまや黒のパンプスを両足脱ぎ、メルセデスのダッシュボードをオットマン代わりにすっかり寛いでいるリツコが言った。
「覚えてない」
両足の一〇本の指の白いペディキュアを、ところどころ塗り損ね、皮膚まで白くしているリツコを心から可愛いと思いながら、生半可な返事をする僕だった。
「朝起きたら血圧が少し低くて、少しの間気絶してました、って。それって言い換えれば二度寝したってことじゃない?」
 白いペディキュアの足の指をムカデ歩行のように順番になびかせながらリツコがけらけらと笑った。
「違うよ、あの時は正真正銘の気絶だったの」
「嘘、絶対に嘘。だって結婚してからもう何ケ月も経つのに、ハスッピが低血圧だなんて一度も聞いたことないもの」
「それはその……リツコを無闇に心配させたくないな、と」
「それが嘘だって。あの頃は私、いまよりももっともっと馬鹿だったから分からなかったけど、あの頃ハスッピはきっと私じゃない誰かさんと恋仲だったんだわ。だから、ぶっちゃけ、デービッドが紹介した私が並か並以下の女の子だったら、その日一日、自由の女神観光でも適当に付き合って、即刻日本に強制送還させようくらいに考えていたんだと思うの」
「おいおい、だとしたらハスッピとやらは相当に酷い男ってことになるじゃないか。なんでそんなこと確信を持って言えるの?」
「私が何にも知らないとでも言うの? 私、見たの」
「見たのって、何を?」
 そのときの僕の狼狽といったらなかった。だって、別れる原因の殆どすべてはリツコの側にあり、僕は僕自身を被害者意識ですっかり塗り固めていたからだ。
「結婚してから一度も僕はR電車でイースト河を渡ったことがないって言ってたわよね?」
「言ったっけ?」
「ほーら、ハスッピったら、この場に及んでまだ白を切る。あなたはそういう人よね」
 白を切る、と言われても、二〇年も前にそう言ったのか言ってないのか、僕には皆目見当がつかなかったのだ。人間の記憶力、否、僕の記憶力の頼りなさといったら本当に情けない。
「だから、何を見たの? 何か僕が不味いことでもしでかしたのなら、単刀直入に教えてよ。場合によっては素直に謝るのはやぶさかじゃないし」
「どうしよっかな……。せっかくの私の優位性が一気に目減りしちゃうしなあ」
「だったら、リツコがフォレストヒルズで何を見たのか、何か手掛かりになるヒントだけでも」
「よし、分かった。じゃ、そのヒント。一回しか言わないんだからね」
「うん、お願い」
「ヒントは……エディーズ・スイートショップ、ワン・スクープ、そして、ツー・スプーンズ」
 リツコが発した三つのキーワードが、瞬時に、僕の脳裏にあるひとつの出来事を想起させた。
「ごめん、お願い、もう一回だけ」
その場を取り繕うだけの目的で僕は、しかし、リツコにもう一度訊いたのだった。
「一回だけって約束したじゃん! くっくっく」と高らかに笑い飛ばしてから、しかし、次にリツコは数段抑えた声の調子で続けたのだった。「それに、あなたはもう、何のことだかちゃんと思い出してるし」
リツコの言う通りだった。エディーズ・スイートショップはフォレストヒルズの目抜き通り・メトロポリタンアベニューに面した、そのまちでおよそ一世紀続くアイスクリームショップだった。カウンターに座ってアイスクリームを注文するだけで、古き良き時代のアメリカを体現出来る僕のお気に入りの店。決して大きな店舗ではないが、カウンターの一枚板から、さり気なくアールデコなスツールまで、創業当時のまちの息遣いをいまに伝えている。骨董を商う店がそこここにあるメトロポリタンアベニューでも、店の存在そのものがいぶし銀の骨董品の店をここより他には知らない。その止まり木の人となり――それも、一人ではなく、女性と並んで二人で座り――、一盛り(ワン・スクープ)のアイスクリームを、二人一緒(ツー・スプーズ)に食べた経験が、僕には紛れもなくある。それは、リツコと結婚してまだ半年とは経たない、とある金曜日のことだったに違いない。
 何故「とある金曜日」と推定可能かといえばこうだ。リツコと知り合った頃、僕は、マンハッタン西七二丁目のコロンバス街――それはアッパーウエストサイドと呼ばれる、アッパーイーストサイドと並び称されるほどの高級住宅街の一角なのだが――の高級アパートメントに住む日本人女性、詩織との関係を断つことが出来ず、途方に暮れていた。詩織はもうじき三〇歳になろうかという、当時二〇歳代後半だった僕からすれば何歳か年上の女性で、ギリシャ系アメリカ人の歯科医のアンドロニコス氏と長く結婚生活を営んでおり、すでに、確か小学生の女の子を筆頭に、二人の女児と一人の男児の母親でもあった。
 長く僕は詩織にふたつの意味で依存していたのだといまに思う。
ひとつには経済的な依存だった。実家が博多で小さな印刷会社を営む僕は、それでもニューヨークでの学部生の頃は毎月の仕送りも他の留学生に比べどちらかと言えば潤沢な方で、日々銀行の残高を憂えることも殆どなしで安逸な生活を送っていたのだった。それが、一九九〇年を前後した日本のバブル経済破綻の余波は、実父の印刷会社にも暗い影を落とし、大学院に進学するかしないか頃には月々の送金が滞りはじめ、直に新たな入金がゼロの状態が数ヶ月続くこともあった。それだけ会社の経営、ならびに実家の家計が逼迫していたのだろう。それでも、NYUの高い授業料を心配してか、九月と一月の年に二回、学費納入の時期に合わせて、父がまとまった額の入金を怠ることはなかった。これとて、いまから考えれば、手許に残った数少ない金融資産の取り崩し――想像するに、ゴルフ会員券の売却や生命保険の解約だったことと思われるが――によって、父が精一杯足掻いてくれた結果なのだと思う。今思えば本当に有り難い。余談になるが父の印刷会社は後にITバブルのおこぼれに与り、その後、不死鳥のように一時蘇るがこれは僕が大学院を卒業して後のこと。さらにいえば、この好況も三年とは続かなかった。
話を元に戻して僕自身の苦境である。大学院生としてニューヨークで学業を継続することがいよいよ困難かと思われたその時期に、詩織は僕の前に忽然と姿を現し、どうやって工面するのか、学生の身にはびっくりするほどの金額を月に数回、現金で渡してくれるようになったのだった。
一方で、僕は詩織に性的に依存していた、とも言える。高校を卒業と同時にアメリカに渡った僕は、当時、性的な経験はほぼ皆無に等しかった。何とか大学への入学を許されたものの、英語が上手く口をついて出て来ないストレスは、性的な探求心をも萎えさせ、長く自身を実質的な童貞の状態に留め置いた。その性の空白が長かったこともあってか、僕の目の前に詩織が現れて後は、今度はしばらくの間、早漏に悩まされた。ズボンを下ろし、詩織の部分にペニスを接するか接しないかのうちに、気分が先に高揚してしまい、踏ん張りも効かず漏らしてしまうのだった。
心根はやさしく、金銭的にもこの上なく寛大な詩織は、しかし、こと僕の性の稚拙さには厳しかった。漏らした瞬間、激しく落胆し、きつく叱責することを憚らず、僕の男性としての不甲斐なさを嘆き、憤り、罵った。挙げ句には、いつの日から幅広のゴムバンドまで持ち出して来ると、再び勃起したとみるや僕の硬直し立ての性器の根元を、きつくきつく縛り上げるのだった。もちろん、その効果はてき面かつ絶大で、僕は自分自身を絶倫と見紛うほどの持続力を獲得するのであるが、そのことが結果、僕を性の愉悦や充足からすっかりと遠ざけてしまったように思う。と同時に、その一種のお仕置きが僕に〈逝く〉ということへのえも言えない恐れを厭というほど植えつけたのだった。思えば僕は、知らずしらずのうちに金で囚われの身となり、さらに、ゴムバンドで心とからだを文字通り拘束されていたのだと思う。
その頃の誰にも言えない苦渋こそ、もう遙か忘却の彼方であるが、東京市場との時差の関係で日曜日に出社する僕が休みで、かつ詩織の土日の家庭サービスを免れる唯一の曜日、それが金曜日だったことだけはいまでもはっきりと記憶している。
「ごめん、本当はR電車で何度かフォレストヒルズに行ったことがある。そうだったね、フォレストヒルズはリツコの叔母さんが住んでいるまちだったね。ばったり出くわす可能性あったんだ。すっかり忘れてた。もっともフォレストヒルズじゃなくったって見られるときは見られるんだろうけど」
 観念しました、というように僕はうなだれた。
「何だか、無理矢理白状させちゃったみたいで胸が痛むわ」とリツコは言った。「でも、本当はね、見た訳じゃないの。私、嘘つきました」
「見てない?」
「そう見てない。そうじゃなくて、あの人が自分で教えてくれたのよ、今日は蓮生とフォレストヒルズでアイスクリームを仲良く食べた、とかね。言わなかったけど、私ここのとこずっと脅されて来たの、あの詩織さんって人に。このまま蓮生と別れないなら何を仕出かすか分からない、そんな凄い剣幕で、時々電話がかかってくるの。今日もこれから何が起こるのか心配だわ。私はいいの、私の身に何が起きても、それは大した問題じゃない。でも、蓮生を失うのはいや。絶対にいや。だから、間違っても問題の所在をうやむやにしたり、解決を先延ばしにするような刹那的な発言だけは止めてね」
「問題の所在? 解決?」
 二〇年の時を遡ってみたらいきなりこの場面からか、と僕は独り言ちた。どうやらリツコと僕を載せたメルセデスE三二〇が向かう先はフォレストヒルズで待ち受ける修羅場のようだった。当時、僕は体よくあの女性から逃げ果せたと思っていたのだが、どうやらそれは間違いだったようだ。いまからでも引き返したい、との思いに苛まれたが、クイーンズボロー橋を渡り終えた僕のメルセデスは、後はフォレストヒルズへ、フォレストヒルズへと道路標識を辿るだけだった。

*  *  *

 どう形容したら良いのか、二〇年ぶりに見る詩織の表情は――もちろん、それは時系列的には二〇年前の詩織の表情そのものなのだが――阿修羅や毘沙門天の憤怒と闘争心を露わにしたそれとはほど遠く、美術の教科書でしか知らないが、喩えて言えば広隆寺の弥勒菩薩像のように柔和で、深い慈しみに満ちていて、口角には僅かながら笑みさえ湛えていた。
エディーズ・スイートシップに到着するや、まずは馴染みのカウンター席を眺めたのだが、詩織の姿はそこにはなかった。考えてみれば、リツコを挟んで三人、アイスクリーム屋のカウンターに横一列に並んで深刻な話し合いというのも上手くないだろう。昼下がりの容赦ない陽光が照りつけるメトロポリタンアベニューをクルマで来た僕とリツコの目が店内の暗さに慣れるまでにはそれ相応の時間が必要だったのだが、慣れてみれば、果たして弥勒菩薩は、奥にいくつか並ぶ四人掛けのテーブル席のひとつに、いくらか俯き加減であられた。
「詩織さん」
リツコの手前、いつもならシオリンと呼ぶ人の名を、さん付けで呼ぶ僕だった。
「ああ、ハスクン……」と顔を上げざまに僕を気安く呼ぶ詩織の態度は、せっかく離した僕と詩織の社会的距離を瞬時にぐっと近づけた。怖くてとても視線をくれることが出来なかったが、リツコはその懇ろな感じの呼称に吐き気を催し、顔全面に不快感を露わにしていたのではないか、と思う。
「びっくりした……ハスクンいきなり電話寄越して、奥さんと二人で会いたいなんていうから」
 正直、僕にはその電話をしたという記憶がまったくなかった。ましてや、済まそうと思えばマンハッタンの内側で済むような話を、よりによって何故イースト河を渡るクイーンズ下りの、しかも最後の記憶では、唐突に別れ話を切り出して詩織を泣かすだけ泣かせたエディーズ・スイートショップまで呼びつけたのかがまるで解せなかった。
「相川蓮生の妻、リツコです」とリツコが誇らしげに宣言した。
「詩織です。お電話ではいつも」と何故か詩織の紹介からは苗字のアンドロニクが抜け落ちていた。
「ご注文は?」
 普段目にする高校生の男女とは明らかに違う、ほぼ初老といっても良いような年齢の半白の男性が注文を訊いた。あるいはここの店主かもしれないが、極力人件費を節約する一環として自ら店に立っているのだろうか、と肝心な場面に及んで余計なことが気掛かりなのは、いつもの僕の悪い癖だ。
「バニラをワン・スクープ。あ、スプーンは二本で」
 先に注文するリツコは、詩織にというよりは僕に明らかに当て擦っていたのだと思う。
「私にもバニラをワン・スクープ。イチゴソースをたっぷりかけて。で、こちらもスプーンは二本で」
 詩織の注文の仕方にも、売られた喧嘩は買わずにはいられないという態度が見て取れて、僕は大波乱の予兆に怯え、一層身を縮めるのだった。
「あ、美味しい……。ハーゲンダッツほどくどくない」
 イチゴソースがけではない方のバニラを一口口にして、リツコが小さく感嘆の声を上げた。
「そうよね、意外とあっさりしてるのよね、ここのは」
 受け皿に容赦なく盛り溢したイチゴソースで鮮やかな赤に染まったバニラアイスの最初のひとすくいを口に運んで、ひとまずリツコに共感する余裕をみせる詩織だった。
 どちらかといえばイチゴソースがけの方を口にしたい僕だったが、そんな瑣末な希望を述べる場とも思えず、かといって夫として当然の権利の行使といった風にリツコのを貰うのもフェアではないという妙な気働きがして、ただコップに注がれた水道水(タップウォーター)に口をつけた。
「ところで、詩織さん、電話で何度か申し上げたことを繰り返すのもなんですが、私たち半年も前に入籍したんです」
 バニラを二口ほど口にしたところで、まずはリツコからの宣戦布告だった。
「そのことは蓮生さんから事前に聞いています」
 何の「事前」なのか。詩織の「事前」が恰も結婚するに先だって、僕がそのことの許諾を詩織に求めたように聴こえて僕としては甚だ心外だったが、リツコの解釈を直接確かめるのは時と場を弁えていないようで憚られた。
「すでにお聞き及びだったら」とリツコは少しだけ声を荒げた。「これを機会に私の夫とは会わないって約束していただきたいの」
「だって」と弥勒菩薩の眉間に僅かに皺が寄った。「会いたがったのは私だけ? ハスクン、世間がどう観ようと私はハスクンと四年間、れっきとした恋人同士としてやって来たと思ってるんだけど、ハスクンはその私たちの歴史を全否定したいの?」
 早くもこちらに振られてしまった僕は狼狽の極みにあったが、だからといって、その場から逃げ出す訳にもいかず、ただ押し黙って俯いてしまう。本当に不甲斐ない夫に代わって、リツコが毅然と反駁を試みるのだった。
「恋人同士って、詩織さん、詩織さんはれっきとした他人の奥さんじゃないですか? お子さんだって三人もいらっしゃる。他人の奥さんだからって恋人がいること自体を否定するつもりはさらさらないけど――それは詩織さんの勝手だけど――だからって、妻である私の前で高らかに恋人同士だなんて宣言されても、私困るわ」
「私、奥さんに訊いてない……」と詩織が呟いた。「ハスクン、私はハスクンの考えが聴きたいの。あなたと私の四年間は何だったの? 確かに、最初の頃は私の思いが先走りし過ぎて、ハスクンを随分と困らせたかもしれない。その意味では、片想いからスタートした関係だったってことは認めるわ。スタートしてしばらくは、私、ぶっちゃけ、ほぼハスクンのストーカーだったかもしれない。そのことも認める。でも、ハスクン覚えてる? ハスクンと初めてお泊りしたモントークの漁港町。ハスクン、灯台が観たいって言うから、ロングアイランドの突端までクルマを走らせたのよね、私の運転で。まだ一番下の子が幼稚園に上がる前のことで、色々と口実をこさえるのに難儀したけど、一緒に行けて本当に良かった。だって、灯台のある岬からは大西洋に向かって三六〇度の視界が開け、そこに二人して立った時、私は自由だって心の底から思えた。で、お互い、夕暮れの灯台をそれぞれ反対方向にぐるりと回り、再び出会ったところで思いっきりハグしよって思った。だのにハスクン、どっかで忽然と消えていなくなった。ふっふっ、ハスクン、灯台を回る途中で足許の小石に足を取られて絶壁から転げ落ち、三メートルほども下の葉叢のなかに埋もれていたのよね。取り乱した私にはそのことにすぐには思い至らなくて、で、元の位置まで一周しちゃって。――あのときはごめんなさいね。頭の打ちどころでも悪かったら、最悪の事態も考えられたのに、大した怪我もなくて本当に良かった」
 詩織の口のチャックを締め上げるべきは自分であることはリツコのみならず僕にも分かっているのだが、現実には蚊の鳴くような声も絞り出せずにいる。いつもながらの不甲斐なさに、自分でも呆れ、すっかり自己嫌悪に陥ろうかという丁度そのとき、
「あんたより遙かに年下だってだけで下手に出ればいい気になりやがって」とリツコのどすの利いた日本語がエディーズ・スイートショップの店内に木霊したのだった。「ふざけないで。いくらお医者さんの奥さんでお金持ちだからって、人の心までお金で買えると思ったら大間違い。別れ方に不満があるってんなら、出るべきところに出ようじゃないの」
「あのね、リツコさん」と、詩織の声は依然取り乱してはいなかった。「よーく世の中を見渡してごらん。お金で買えないもの、探すと意外に少ないよ。事実、あなたのご主人には身も心も私にお金で買われちゃったれっきとした過去の一時期があるの。一方の当事者である私としては、途中からそれは、真の愛情に昇華したって信じたいけど、百歩譲って私に対するハスクンの愛情はこれっぽっちもなかったってことでも事態は同じ。結婚します、はいそうですか、では済まされないの」
「つまり、それは別れるんなら貸した分は返せってこと?」
「貸してはいないの。私はハスクンに投資したの。だから、言ってみれば今回のことは投資の失敗。出資金は戻ってこないって端から織り込み済みよ。ご安心あれ」
「だったら、この上何を……」と僕はやっとのことで口を挟んだ。
「ハスクンは黙っててね」と詩織はやさしく僕の唇に人差し指を押し当てると、振り向いてリツコに続けるのだった。「投資の失敗はね、喩えていえば、手持ちの株券を市場に放出したときに初めて思い知らされること。ひと株一万円だった株券が市場価格一円に貶められたと知れば、誰だった失敗したことを思い知る。でも、仮に手持ちの株券を手放さないって決意すればどう? 事態は少し違って見えるわ。額面通りの価値はないって分かっていても、持ち続けることで万が一の期待を未来につなげる……望んでも詮無い期待かもしれないけど」
「あんた何ほざいてるの!」とリツコがわめいた。「そんな御託を並べて一体全体何様のつもり!」
「何様でもないわ、私はただ、いっぱしの愛の投資家のつもり」と、依然落ち着き払った詩織の表情には不敵な笑みさえ浮かんでいた。「私はただ、相川蓮生という不良資産は甘んじて持ち続けると言ってるの。新しく現れたオーナーさんが誰かなんて、そんなこと一切気にはならないわ。リツコさんはリツコさんで〈奥様〉として筆頭株主の権利を行使し続ければいいこと。私は私の持ち分だけ、ハスクンのこと、分担的に所有し続けるだけのこと」
 その時だった。詩織はテーブルに一度大きくがくんとうつ伏すと、恰もテーブルクロスが一方に加重が偏ってずり落ちるように、そのままへなへなと床にくずおれたのだった。最後にチリンと風鈴のような乾いた金属音がしたのは、詩織が右手で握り締めたステンレス製のスプーンが、磨き上げた床の、黒と白の市松模様のストーンタイルにぶつかる音だった。
「シオリン!」
 叫ぶと同時に僕は左手で詩織の肩をすくい上げ、後頭部が石のフロアに叩き付けられるのを寸でのところで防いだ。そのまま右手で詩織の腰を支えると、か細い詩織のからだを出来るだけ静かに、水平を保ったままで持ち上げた。そう、僕が詩織にした初めてのお姫様抱っこであった。
「シオリン……」と僕は、両手に抱いた女性に対し深い敬意と愛情を込めてその名を呼んだ。「もういいんだ、すべては終わったんだ」
「ハスクン……」
意識を取り戻した詩織はいまや涙目だった。「私、何か大きく間違ってた?」
「シオリンは何も間違ってはいない。シオリンの優しさはこの僕が一番知っている。その優しさにすっかり甘え切っていたのは僕の方。本当は、こんなかたちで言い争う前に、シオリンとはちゃんと向き合って、これまでのこと、これからのことを話し合うべきだったんだね。手続きも踏まないまま、身勝手に次の恋を始めちゃったのは僕のせい。僕はすっかり順番を間違えちゃったんだ。相川蓮生には誠実さのかけらもなかった。ごめんね、シオリン」
「ハスクン、やっぱり私間違っていた。ハスクンにこうして抱き上げられてみれば、なんか急にそんな気がしてきた。上手く言葉に出来ないけど、不思議な気分」
詩織はエディーズ・スイートショップの紙ナプキンでひとつ大きく洟をかむとそのまま丸めて殆ど食べ残っているバニラアイスのストロベリーソースかけの上に置いた。たっぷりのストロベリーソースが滲みて、くちゃくちゃの紙ナプキンがみるみる赤くなった。結局、今日は一口も食べれなかった、と僕は少しだけ悔んだ。

*  *  *

「おんぶと抱っこの都市伝説?」
 消えたまま未だ戻らないリツコのベッドを整えながらエツコが葉子に訊いた。いつ戻るとも知れず、ノックスヒルズ病院の個室の病室は、そのまま借り上げたままにしてあるのだ。
「そう、冗談に聴こえるかもしれないけど、信じる者は救われるって言葉もあるでしょ? すべて私が謀ったみたいで、実の娘のエツコさん相手では少し話しづらいけど、恋愛先生と私が結ばれたのもそう。すっごい勇気を振り絞って、先生の研究室に押し掛け、おんぶして下さいってお願いしたのがまさにきっかけだったの」
 葉子はいましがた活けたばかりの床頭台の花瓶の白いユリを、仕上げに指先でつんつんと整えながら言った。
「とてもそんな風には見えないけど、意外とやるなあ、葉子さん」
「そうよ、私だってやるときはやるんだよ。だから、エツコさんも決断するときは決断しなきゃ。そのためにはおんぶと抱っこの都市伝説よ。だって別れたいんでしょ?」
「うん、もの凄く別れたい」
「でも、そのジャンピとどうしても別れられない」
「そうね、紐とかで括られてるんだったらハサミで断ち切ればそれで済む話だけど、なんていうか、真綿のような柔らかいふわふわっとしたもので包み込まれてる分、心地良いっていうか、取り払いようがないというか……」
「それはね、言ってみれば向こうの思う壺。ジャンピが使う常套手段ってヤツじゃないかな?」
「そうなの、いつものジャンピの手口なの。そのことはよーく分かっているの、ここでは……」とエツコは自分の頭を指差して微苦笑した。
「それが、ここで考えると若干違って来ると……」と葉子はエツコの下腹部の、おおよそ子宮の辺りに掌でやさしく触れて微笑み返した。
「こんなこと、エツコさんにしか訊けないけど、オンナにも性欲ってあるのかな? ハイスクールの有象無象の男の子たちを見て、性欲はオトコの専売特許だとずっと思ってきたけど……どうやらあるらしいの、そのもやもやとした暗い気分が、私のなかにも」
「そんなもん、あるわよ、私にも。でもね、だからこそ本当に気持ちいいセックスってのはね、抱かれるセックスじゃないのよ。抱くセックスなの」
「抱くセックス?」
「そう自分から男を組み伏せてやっちゃうセックス。あ、勘違いしないでね、私はまだエツコパパを組み伏せるほどには勇気も経験もないから。言ってみれば理想というか、将来目標というか……」
「でも、いつかは組み伏せたい、と」
「うん、組み伏せられてばかりじゃ癪じゃない?」
「分かる!」とエツコはリツコの嗜好を慮ってそれだけは家から持参した羽毛枕をばんばんと空のベッドに叩きつけながら頷いた。「ジャンピ、その組み伏せるのが上手なのよ。だから私、すぐその気になっちゃって……。で、したらしたですぐいい気持ちになっちゃうから決断が鈍るというか、毅然とした態度に出れないけど。本当はこんなんじゃ駄目だといつも思う。未来がない、というか。その未来を探る共通の語彙もないというか……」
「そう、だからこそ恋愛先生が隠し持ってる凄いパワーを利用するの。噂でしかないけど、恋愛先生にお姫様抱っこをして貰うとどうにも別れられない恋人との腐れ縁が切れるって。試した訳じゃないけど、結ばれる方のおんぶの効能は身を持って実証済だからほぼ大丈夫。それにそれこそ、信じる者は救われる、よ。――なんせ目に入れても痛くない可愛い、可愛い娘のエツコさんのこと、恋愛先生、普段の何倍ものパワーを発揮しちゃうこと請け合いよ」
「問題は、でも」とエツコはリツコの羽根枕を両手で抱き締めながら言った。「どうやってアイツを恋愛さんに引き合わせるかよね。ジャンピ、必要以上に恋愛さんのこと恐れてるし――結果的にほぼ我が家のすべてをぶち壊したんだから当然といえば当然だけど――、恋愛さんは恋愛さんの方であんなヤツの顔も見たくないってのが正直なところだろうし」
「プラス、問題は、どうやってジャンピの目の前でエツコパパにお姫様抱っこして貰うかね。恋愛先生、あれで鈍感なところがあるから、自分に秘められたパワーを十全に理解しているとは言い難い。でも、恋愛先生には娘のエツコさんをしっかと抱き上げて貰った上で、ジャンピに向かって少なくとも〈失せろ!〉の一言は怒鳴って欲しいわね」
「出来るかな、恋愛さんに?」とエツコが苦笑いした。
「恋愛さんにしか出来ないことよ」と葉子がエツコの肩を抱いた。
「それにしても」とエツコが話題を変えた。「ママと恋愛さん、一体全体どこに消えたんだろう?」
「消えた事実を知ったときのドクターサイムの狼狽ぶりといったらなかったね。見てて気の毒なくらい」
「きっとハムレットアクターの威力はドクターサイムの想像を遙かに超えていたのね。でも、問題はこれから。いつまでも消えてしまったことを心配してても仕方がないわ。消えちゃったからには、もう一回、きちんと私たちの前に姿を現してくれないと。百歩譲って仮にパパが駄目でも、ママにはどうしても戻って貰いたい」
「ハムレットアクターの威力を借りなくても」と葉子がエツコにやさしく囁いた。「恋愛さんは時々消えちゃうものね」
「あ、葉子さん、ごめん」とエツコが我に帰るようにして呟いた。「いまの葉子さんには恋愛さんこそがどうしても戻って来て欲しい大切な人ね。私も思いは葉子さんと一緒よ。それに……」
「それに?」と葉子が訊いた。
「クスリのせいとはいえ、ママと二人どこかで一緒の時間を持ってると思えば、葉子さん、心穏やかじゃいられないよね。一刻も早く、現実の仲の悪いママとパパに戻って欲しいよね?」
「へえ!」と葉子は感嘆の声を上げた。「そんな風に考えるべきだったね、私。これって何だろう。恋愛先生が他の女の人と少しの時間でも一緒だと想像するだけで心乱されることがあるのに、エツコママと一緒だと思ってもちっともそうはならない」
「自信があるのね、葉子さん」
「自信? この私が? そんなのないない!」
「戻ってきたら、恋愛さんとしっかり上手くやってね。私、恋愛さんの駄目なところや弱点、裏でいくらでも葉子さんに伝授するから」
「ははは」と、病棟の隅々にまで響き渡るような大きな声でひとしきり笑うと葉子は急に真顔になって。「エツコさん、だったら私たち、協定を結ぼ。強きを挫き、弱きを助けるって」
「強きはジャンピね」
「そうそ、懲りないのがジャンピ」
「弱きはもちろん、恋愛さんね」
「そうそ、時々心が弱くてなってよろめくのが恋愛さん」
「くっくっく」と、今度はエツコが個室からこぼれるような大声で笑った。

*  *  *

 アッパーイーストサイドの六三丁目。バルビゾンホテルのスイートルームの一室にリツコと僕はすでにチェックインを済ませている。
「何もこんな広い部屋じゃなくて良かったのに……。お金、大丈夫?」
 リツコは心配するが、サヴォワを購入したばかりの当時に較べれば、いまや家計は火の車という訳ではないのだ。大学の教員に転職して収入にブレーキがかかった分、出費の方はさらに一段踏み込んでブレーキをかけている。もっとも、この部屋の精算はクレジットカードで済ませるつもりだから、その請求がいつの時代にやってくるかにはいまひとつ確信がない。上手く銀行の口座から引落しがなればそれはそれでいいし、請求書が途に(時間に?)迷えば、それはそれで有り難い。
一八階と、このホテルでは最上階に近いこの部屋にも、さきほどから路上の喧騒が登り上がって来ている。バルコニーから身を乗り出せば、レキシントンアベニューのクルマの流れを半分堰き止めるかたちで、主だったネットワーク局すべてのテレビ中継車がそこここに陣取っているのが分かる。苛立つタクシー運転手が鳴らしても詮無いクラクションをしきりに鳴らし続けるのだった。人の出入りがあるたび、三〇人は下らないだろうカメラマンのフラッシュが一斉に焚かれるのだが、そのたびにお目当ての人物ではないと分かると「ちょっと待ってよ(ギブ・ミー・ア・ブレイク)……」と悪態の合唱が起きる。
「どうやら、テレビの元有名報道記者で、最近はワシントンのロビイストとして辣腕をふるっていた何とかという男性が、小一時間前にこのホテルで逮捕されたらしいね。彼、同性愛者としても有名で、逮捕されたときもコールボーイと同室だったらしいけど、逮捕の直接の理由はコカイン所持みたい」
 受話器を置くと、大き過ぎて裾を引きずるバスローブをまとったリツコは、ドレッサーの前に腰かけ、濡れた髪にドライヤーを当てるのを再開しながら、同じく素肌にバスローブ姿で飽きずにベランダから階下の騒動を眺める僕の後ろ姿に報告するのだった。
それにしても、リツコの質問に答えたホテルのコンシエルジュがこれだけの短時間にそれだけのことを知っているということは、その辣腕ロビイストとやらはここの常連客だったのではなかったか。門外不出の筈のホテルマンのインサイダー情報が、逮捕で解禁となったのをこれ幸いと、堰を切ったように溢れ出しているのだろう。普段、宿泊客の個人情報の一切を口外することを禁じられている彼らだけに、ひとたび箍が外れれば際限なしだ、と僕は思った。
「かつては男子禁制だった清廉なイメージのこのホテルの、拭いがたい汚点になったね」
 僕はリツコの華奢なからだを背後からバスローブごと抱き締めながら言った。
「え?」とドライヤーを一端止めてリツコが振り返りざまに訊いた。「このホテルって男子禁制だったの? 知らなかった。いつ頃の話?」
「女性専用ホテルを止めてから十年は経たないと思う。おそらくは一九二〇年代か三〇年代に出来たホテルだろうから、ほぼ半世紀もの間、男子禁制を貫いたことになるね」
バルビゾンホテルには少なくない思い入れがあった。博多で高校を終え、渡米したばかりの僕の当面の宿として、一泊百ドルの特別価格で泊まったのがここだったのだ。経営難で所有権が揺れ、掃除も行き届かない当時のことで、飛び込みの旅行代理店に薦められるがままに、さして期待もせずに投宿した訳だが――もちろん、その数年前まで女性専用ホテルであったことなど知る由もなかったのだが――いっぺんでそのエレガントで清楚な雰囲気の虜になってしまったのだった。
石造りの教会と見紛うその荘厳な外観は、実は、雨風で味わいを増した黄褐色レンガと、彫刻を施した蜂蜜色砂岩の絶妙な組み合わせで出来ていた。鉄細工の造作が美しいフレンチドアのメイン玄関をくぐると、クライスラービルやエンパイヤステートビルのような豪華さこそないが、そこはれっきとしたアールデコの上質なロビー空間だった。アメリカ生活の出発点としてのバルビゾンホテルへの人並み外れた思い入れが、そこから僅か数ブロックしか離れていないサヴォワを僕に買わせた、といっても過言ではなかった。
「若き日のグレース・ケリーも一時、ここを住まいとしたらしい。殆ど下着姿のグレースがボールルームでダンスを踊ったとの目撃談も何かの雑誌に載っていたけど、ホントかな……。ま、男子禁制の当時であれば何でもありだったのだろうけど」
「私には若き日のグレース・ケリーが定宿としてたことより、若き日のハスッピがここからニューヨーク生活の一歩を踏み出したことの方が感慨深いわ」
「ニューヨーク生活の第一歩って言ったって、こんなスイートルームからじゃもちろんないよ。たぶんこのホテルで一番ちっちゃな部類の部屋だったんじゃないかな。荷を解いたスーツケースの置き場にも困ったと記憶してるもの。もっとも一泊百ドルのバーゲン価格じゃ、当時だって文句言えなかったけど」
「どんな部屋だっていいの。この先ずっと、節目節目で二人で泊まりたいわ。一年に一回でいいから」
「それはいいね」
 リツコがそう感じたかどうかは知らないが、僕の返事がいくらか上の空と感じられたとしたら、それはいずれ二人が別れることになることが分かり切っているせいでもあるが、それとは別に、やがてそのホテルがホテルとしての役割を終えることを近未来史として知っているせいでもあった。大学教員として札幌に赴任した直後に読んだ日曜版ニューヨークタイムスの「不動産」のセクションに拠れば、二〇〇〇年を前後して、バルビゾンホテルはそのホテルとしての歴史に終止符をうち、外観はそのままに新たなオーナーの下で大規模な改修が施され、その後、高級アパートメントにすっかり衣替えしたという。バルビゾンホテルは部屋一つひとつに住居機能を付加されると、それぞれのユニットごと、新しくアッパーイーストサイドを目指す住人たちによって分割統治されてしまったのであった。一度ばらばらに切り売りされてしまえば、バルビゾンホテルがホテルとしての総合機能を再び獲得することは未来永劫に渡ってないように思えた。
「それにしても」と僕はいつまでもその長く美しい髪を梳かすリツコを待ちきれないといった感じで手招きすると言った。「どうして今夜は、あれほどにバルビゾンに泊まりたがったの? 何故サヴォワじゃ駄目だったの?」
「だって今夜は特別な日でしょ?」と、驚くほど妖艶な科をつくってリツコが言った。「ハスッピはやっと詩織さんの呪縛から解き放たれたんじゃない。今夜を逃したら、私たちには一生子供が出来ないような気がするの」
 リツコに言われて僕ははっとした。これからこのスイートルームのベッドの上で行われようとしていることは、ただの夫婦間の戯れの性ではないのだ。好きとか嫌いとか、感じるとか感じないとかはこの際どうでもいいことなのだ。僕に割り振られているのは生殖行為における孕ます主体としてのオスの役割である。一方で、いまや髪の毛のブローを丁寧に終えたリツコは孕まされる客体としてのメスの役割を完遂した挙げ句に、おなかを痛め、やがて母親となることに満を持しているのだ。
「逝けるかな、今夜?」
 僕は夕暮れに長すぎる昼寝から目覚めた小学生の心許なさで、いまやバスローブを床に落とし、全裸でベッドの隣に入って来たリツコにうな垂れた。
「大丈夫よ。元々出来る子なんだから、ハスッピは」
 リツコは僕の髪の毛を母親のような包容力でくしゃくしゃにしながら満面の笑みを浮かべるのだった。
 リツコに励まされ、いやが上にも気力がみなぎる僕だったが、それでも打ち消しがたい不安はあった。僕には後にも先にもこれがワンチャンスなのだ、と思った。今夜を最後にハムレットアクターの効果は切れるだろう。あるいは、朝を待たずに僕はリツコをこの部屋に残して二〇年後の世界に舞い戻ることになるやもしれない。さすれば、僕がこれから生まれてくるエツコの素となる精子を、過不足ない分量、的外れでない部位に種付け出来るかはとても重要な問題のように思えた。本当に詩織の精神的、肉体的な呪縛から解かれたというだけで、僕は逝くことが出来るのか。瞬間、僕の頭のなかを駆け巡ったのはふたつの事実――良い事実と悪い事実――であった。
 良い方の事実は、結果としてエツコは生まれたのだ、ということ。そのことから演繹的に考えれば僕はその原因となる種付けを、男としての役割を、どこかの段階できちんと果たしたということになるではないか。
 一方で悪い方の事実とはこうだ。本当に詩織と別れることが出来たというだけで、真の意味で「シオリンの呪縛」から解き放たれたということになるのだろうか。だって、二〇年後の葉子とのデートでも、僕は逝くことが難しくて、ときにバツの悪さを照れ笑いで誤魔化したりするではないか。
 そのとき、僕はある途方もない問題に、ひとつの確信的な仮説を導き出したのであった。それはこうだ。今日、ここにこうして二〇年前のリツコとベッドを伴にしているのは、いわば相川蓮生という人生にとっての大きな試練だ。この試練を乗り切れるか乗り切れないか如何によっては、僕の過去も、未来も、その趣を大きく違ったものとするだろう。具体的に言えば、この一世一代の交尾に失敗したなら、過去の事実としてエツコはその後、この世に生を得ないということになるだろう。もっとも、相川蓮生以外の男性を父親として生まれてくる女児に、相川エツコという名前が付けられる可能性は残されるが、それは少なくとも僕が手塩にかけて育て――結果的にはリツコ共々別居の途を選ばざるを得なかったが――いまも心の底から愛して止まない相川エツコとはまったく違う生物個体としての「相川エツコ」に過ぎない。
 また、この稀代のチャンスを逃したならば、僕は一生遅漏のままで、否、「不漏」のままで人生を終えることになるだろう。決して若いとは言えない年齢に差し掛かっていることを考慮すれば、それはそれでもありのような気もするが、これから僕と寄り添って、新しい夫婦関係や、出来たらもう少し大きな単位としての家族関係を構築したいと願っている若い葉子に対し、それではあまりに失礼、あまりに不甲斐ないではないか。確信はないが、今夜この一瞬が僕の過去と未来とを大きく前に動かすブレークスルーになるような気がして、文字通り武者震いがするのだった。
「容疑者が、両脇をニューヨーク市警の警察官にしっかりとガードされて、いまバルビゾンホテルの正面玄関を出ました!」
男性リポーターが張り上げる野太い声がリビングルームのテレビから遠い昔の記憶のように聴こえる。
「一人です! 一人! 連れの男性はすでに別の場所に移送されたか、依然ホテルのなかで取り調べを受けているものと思われます!」
 別の女性リポーターの関心は、容疑者本人よりもむしろ、同宿のコールボーイにあるように聴こえた。
 オトコとオトコが同宿した挙げ句、麻薬の違法所持で検挙されるなど、一階(グランドフロア)より上の階は堅く男性お断りだった頃のバルビゾンホテルの関係者の誰が想像しただろう。「だから言わんこっちゃない。男子を上げると碌なことにはならんのだ」との、当時の経営者のうすら笑いが聴こえるようだ、と僕は思った。
 その男子としての僕は、リツコと一枚の掛け布団(コンフォーター)を共有して、小刻みに震えている。それを敢えて分析するならば、不安と期待と絶望と希望が、一対一対一対七の割合でブレンドされているのだった。そう、僕の武者震いの主たる成分は希望だった。
「肩のちから抜いてね。これじゃ、リトミック教室の女性インストラクターに裏山で辱めを受ける幼稚園児の男の子ね」とリツコは笑った。
「黙って……」
 女性インストラクターの口封じに、幼稚園児のような敏捷さを取り戻した僕は素早くも、長いながいキスをした。舌と舌を絡めるリツコの口腔からはうっすらと薔薇の花弁の香りがした。
「愛してるよ、リツコ」とリツコの耳許で囁いてから、ぺろんと耳たぶを舐めた。
「いやん」とリツコはひとつ大きく嬌声を上げてから、「私も愛してるわ、ハスッピ」とすぼめた舌の先を僕の右耳の穴に入れた。本来なら、それは僕の専売特許のヤツだ。
 僕には自分の部分が十分に充血していることが触れずとも分かった。それは、言ってみれば下半身の並々ならぬ充実、充足感であった。喩えてみれば、型枠材のコンパネとコンパネの間に流し込まれた生コンクリートがしっかり詰まり切った感じ、あるいは、砂時計の砂がいまや十分に落ち切って文字通り時が満ちた感じにも似ていた。と同時に、リツコの部分もいまや十分な受け容れ体制にあるのが、触れるでもなく分かった。それはリツコの全身の孔という孔から湧き出る分泌液の匂いのようなものがそのことを如実に僕に教えるのだった。むせ返るようなその甘い香りが、挿し入れよ、挿し入れよ、と僕に命じているのだった。
 その日、初めてのキスからものの五分、普段の僕がとかくやるように、馬鹿のひとつ覚えのように焦らしたり、辱めたりすること一切なしで、リツコの全身とその部分を正面から見据えたのだった。今度は、仰向けで、堅く目蓋を閉じたリツコが小刻みに震える番だった。
「イレテ、イレテ」
 震えるリツコが小声ながらしっかりとした口調で僕に決起を促した。
 僕は「うん」と、リツコにというよりは自分に頷くと、迷うことなくいまや刃金のような硬度を誇る僕の僕を、濡れそぼつリツコのリツコに埋めるのだった。そして、悦楽ではなく、かといって義務でもなく、リツコの深い、深い部位に確かな生命の原基を打ち込むために、精巧に出来た内燃機関のような精度と規律とでリツコの腰に自分の腰を突き当てるその繰り返し、律動運動を止めないのだった。
「大丈夫。今日のあなたは逝けるから」と目許に笑みを浮かべて、リツコが繰り返し僕を励ました。
「ありがとう。何だか今日は僕も逝けそうな気がする」と額から珠のような汗をリツコの白い胸に落としながら僕が答えた。
 その頃には、ある変化の兆しをすでに体感として得ていた。性器とその周辺の充足感に比して、それ以外のからだの所在が少々あやふやになって来たように感じられた。あれほど強烈に僕の指先を刺激した若い日のリツコの瑞々しい肌の弾力が段々に鈍ってきて、いまやリツコの肌と僕の指先の間には厚い油紙でも一枚挟まっているような微妙な距離感が生じはじめていた。いましがたまであれほどに煩かった階下の喧騒やテレビの音声も、いまは僕の耳にはすっかり聴こえなくなっていた。そして、いまや二〇年後に残してきた葉子のことが、エツコのことが、ポアソン先生のことが、そして、ドクターサイムのことまでもが無性に恋しくなっていた。そろそろ薬効が切れかかっているのだということを、僕は直感的に悟った。
 僕がいなくなれば、生命を宿すという使命感を超えて、官能に身を委ね始めているリツコはどんなに落胆するだろうかと考えた。もっとも、二〇年前の相川蓮生はいまこうしてリツコを両腕に抱いている僕とは別に存在している筈だから、それはそれで一切知覚、記憶されないか、されたとしても午睡のまどろみのなかで覚えた白昼夢のようなおぼろげな感覚としてリツコのなかに残るだけかもしれない、とも思えた。
 ただ、現実の世界ではもうすでに別れてしまった筈の妻リツコのことが、この上なく愛おしく、どうしようもなく恋しく思うこの気持ちは何だろうと考えた。それは、いまよりも遙か昔、二〇年前のハスッピが新妻に抱いていた思いの焼き直しなのか、あるいは、そこから二〇年後の高みから客観的に観察する相川リツコという幸せの原風景のかたちなのか、もう何もかもが区別できない混濁のなかにあった。そうして、白濁を深める意識のなかで、ただただ自分に、逝くんだ、逝くんだ、と言い聞かせていた。
「ハスッピ、そろそろ逝けるよ」
 生物学的必然を思い出した、という風に、少し唐突に、それでも十分に配慮のある声色でリツコが僕に言った。
「イケル、イケル」
 僕は僕に言い聞かせるように囁き、その実、その直後に「うぐ」っと小さく呻いて、逝った。
 四肢を絡めたまま、そのまましばらく二人してまどろんでいたかったのだが、その時間はいくらも残されていないように思えた。僕は僕自身の両脚が、つま先から段々に消え失せていくのを、その辺りまでのことを、自分の両方の目でしっかりと目撃したのである。その頃までは、しかし、消えるのは僕で、残されるのはリツコとの考えに疑う余地はなかったのだが、どうやらその考えは少しばかり修正を要するようだ。
「生まれるかな、赤ちゃん?」とリツコが僕を見上げながら訊いた。僕は葉子の長い髪の毛を撫ぜながら言った。
「うん、これで生まれるね、エツコ……」と思わず口を滑らせてしまった僕だったが、幸い、リツコには最後の部分は聴こえなかったのか、リツコからこれといった疑問は呈されず、「ありがとうハスッピ、ありがとうハスッピ……」と繰り返すだけだった。
 もう僕の下肢は太股の部分ほどまで消えて無くなっている。ふと目を横に遣れば、僕のが喪失するのに僅かに遅れて、リツコの細く美しい脚もだんだんに透けて無くなりつつある。――僕が比較的クリアに記憶しているは、その辺りまでだった。
「エツコとジャンピのこと、頼んだわね。しっかりね、恋愛さん」
 僕が聴いた、その夜のリツコの最後の言葉だった。
「え?」と僕は訊いたのだが、最後の最後にリツコが返事をしてくれたのかどうか、その辺りから後の記憶がない。

*  *  *

 蓮生は、病にやつれてはいるが、そのけれんみのない美しさが二〇代の頃と少しも変わらないリツコの寝顔に見入っていた。
 ママが病室に戻った、とのエツコからのケータイを貰ったのは、蓮生自身、ダウンタウンのポアソン先生のアパートメントに戻ったほんの数分後のことだった。これで、ハムレットアクターで一時的にこの世から姿をくらました者はみんな、消えた元々の場所に戻るということが実証されたことになる。後でエツコが言うには、そのことを知るや、ドクターサイムは「やっぱり!」と膝を叩いて喜んだというが、蓮生にはどうでもいいことだった。
 蓮生が再びリビングに出現したときのポアソン先生の驚きようといったらなかった。その時、ポアソン先生は西日が射すリビングのアームチェアで午睡にしては少しばかり長過ぎる眠りの中にいた。それでも、どすんと一度大きくアパートメント一棟分を揺らして、ポアソン先生のアームチェアの正面に位置するカウチに蓮生が出現したときは、さすがの先生も飛び起きずにはいられなかったのだ。
 ポアソン邸に舞い戻った蓮生がまず心配したことは自分自身の着衣だった。バスローブはおろかパンツも着けずに、素っ裸のまま元の時代に戻ったのではないか、と気掛かりでならなかったのだが、幸いにも葉子とポアソン先生宅を訪ねた折の着衣のままだった。
 ただ、下半身のすっきりとしたあの感じ、何だか腰から下が軽く、楽になった感じは、蓮生が久しく味わったことのない、有り体に言えば、逝った後の、逝き切った後の爽快感に違いなかった。
「君は誰?」
 飛び起きたポアソン先生が、悪鬼(ゴブリン)に出会した少年のような慄きの眼差しで蓮生に訊いた。その右手にはマホガニー製のステッキが水平に握られ、先端が蓮生を捕えて小刻みに揺れていた。
「もうお忘れかもしれませが」と蓮生は努めて満面の笑顔をつくると言った。「ポアソン先生、お久しぶりです。二〇年以上前に先生の研究室にさんざん入り浸っていたアイクこと、相川蓮生です。覚えていらっしゃいますか?」
「アイク?」
それから、ポアソン先生はやおら右手のステッキを、コーヒーテーブルの上に放置したままだった老眼鏡に持ち替えると、蓮生の顔をまじまじと覗き込み、一呼吸を置いてから言うのだった。
「ああアイク、覚えておるよ。君は実に優秀な学生だったからね」
 ひとしきり思い出話に浸りたいポアソン先生を自宅に残したまま、早々においとまするのは蓮生にも気が引けたが、いまや早急に確かめておくべきいくつかの気掛かりが蓮生にはあった。
「パパ!」
 リツコの病室に現れた蓮生に真っ先に抱きついたのは娘のエツコであった。
「先生……」
 しばらくは親子の抱擁を遠巻きに眺めていた葉子が、次は自分の番だ、とばかりに近寄ると、蓮生の胸元にうな垂れた。
 蓮生の右手は未だエツコの両手が占拠していたので、蓮生は残った左手で葉子の頭を抱き寄せるのだった。
「ママの様子は?」と蓮生がエツコに訊いた。
「それはパパが一番よく知ってるんじゃない? どこか、ここじゃない場所で恋愛さん、ママとデートしてたんでしょ?」
 エツコが意地悪そうな笑顔を向けて蓮生に訊いた。
「その辺のことが、僕にはまったく記憶がなくて……」と蓮生は、主には葉子に気遣って白を切った。まさか、いまさっきママとバルビゾンホテルでお前を仕込んできた、とは言えなかったのだ。ただ、気のせいかもしれないが、ベッドの上で依然昏睡のなかにあるリツコが一瞬、悪戯っぽい笑顔でにやりと笑ったように蓮生には見てとれた。
 リツコが病室に戻ったとき、やはりノックスヒルズ病院のICU病棟が一棟そのまま一度大きく揺れたのだという。丁度、ドクターサイムのオフィスで説明を受けていたエツコは短い時間だが、あまりにも大きな揺れにセスナ機か何かが病院に突っ込んだのではないかと思ったのだという。
時をほぼ同じくして、葉子は病院内のカフェにいた。そこが唯一、自前のラップトップがインターネットに接続可能な場所だったからだ。ネットをつないで新着のメールを受信していた。数日日本を留守していたうちに届いたメールは優に百件を超え、そのうちおよそ半数が研修先の大学病院からのものだった。すべてに目を通せた訳ではないが、さらに欠席が長引くようならそれ相応の理由がなければ研修終了の認定は難しくなる、と心底心配する友人からのものも含めて、葉子の火急のレスを求めていた。葉子は、なかで一通だけ、カテーテル先生のものにだけひとまず返事を書くことを思いついた。ヒエラルキー的にも下心的にも、カテーテルに媚びを売っておくのがここでは一番効果的との判断からだ。「先生こんにちは」と始めた直後にカフェが一つ大きくどすんと揺れた。葉子は咄嗟に地震を疑った。北海道瀬棚町出身の葉子は小学生のとき北海道南西沖地震の大きな揺れと、その直後の津波の恐ろしさを身を持って経験しているからだ。テレビや新聞は対岸の奥尻島で起きた津波被害ばかりを報じたが、同級生のなかにも瀬棚の津波で自宅を全壊あるいは半壊の被害に遭ったものが少なくなかった。
 エツコとドクターサイム、それに葉子がリツコの病室に駆けつけたのはほぼ同時刻、虫の知らせとでもいうのか、三者三様に胸騒ぎがしたのだった。
「それがママったら」とエツコが思い出すだけで可笑しいという風に蓮生に語った。「何事もなかったようにベッドですやすやと眠っていたんだけど、ありがとうハスッピ、ありがとうハスッピと繰り返すの。私が生まれる前、ママがパパをハスッピと呼んでたのはこないだ聞いたばかりだけど、実際にママが口にするの耳にしたのは始めてだわ」
 蓮生はお礼を言いたいのはこちらの方だと思いながら、何に対してのありがとう、だったのか心のなかでその可能性をすべて挙げ連ねてみるのだった。
「ありがとうハスッピ、逝ってくれて」
「ありがとうハスッピ、最後に私を赦してくれて」
「ありがとうハスッピ、ニューヨークに会いに来てくれて」
「ありがとうハスッピ、葉子さんを見せに来てくれて」
 どれも当たっているような、どれも違っているような心許ない感じがして、蓮生は段々に泣きたい気分になっていた。ただ、リツコが最後にいった「エツコとジャンピのこと、頼んだわね。しっかりね、恋愛さん」との言葉を心のなかで何度も反芻しながら、どうしたらいいものかと途方に暮れる蓮生だった。

*  *  *

「エツコとジャンピのこと、頼んだわね。しっかりね、恋愛さん」
 お願いしてはみたものの、我ながら私って随分と都合のいいオンナよね、って心の中で蓮生に詫びた。
 病床の私を取り囲むすべての人々が、私の生命をほぼ諦めていながら、それでいて、私のことを心から好いてくれている、そのことが、涙が出そうなくらい嬉しかった。聴こえてるわ、聴こえてるわ、みんなの声聴こえてるわ。そう叫ぼうと何度かしたけれど、いまはもう、それも諦めた。いまの私には声を出すことはおろか、目蓋をぴくりと震わすことさえ出来ないのだ。
 私は死ぬ。この数日のうちに確実に死ぬ。そのことは紛れもない事実である。クエン酸リチウムの大量摂取がこの致命的な問題の直接の原因であるが、そうでなくてもすでにスキルス性の胃ガンに侵されたこのからだを純粋に延命のための延命のような状態に貶めるのは、私自身の美意識が許さないし、そもそもエツコにかかる過大な負担のことを考えると、それは出来ない、という気持ちが強く働いた。
 いましがた交わした蓮生との最後の抱擁の記憶は私の意識とからだのなかにちゃんと在った。事実、私のなかで逝ってくれた蓮生の名残がいまも内股を伝ってお尻にまで達しているような感覚さえある。股関節が痛い。痛くていたくて嬉しい。
 一体全体何が起きたのか、初め私には皆目見当がつかなかった。気がつけば、私はあの懐かしいサヴォワのロビーから出でて、その笑顔に恥じらいを残した若きジョバンニのエスコートで蓮生のメルセデスの助手席に沈められていたのだった。蓮生がうなじを撫で、次に耳孔に性的なチャレンジをしてきた。時が過ぎて、蓮生は私の犯した過ちをすっかり許してくれたのだ、と最初は勘違いもしたが、考えてみれば、蓮生は、そしてバックビューミラーに映る私も、あの立派なドイツ車には不釣り合いなくらい若く、未成熟で、きらきらと輝いていた。事実は、しかして、時が戻り私は未だ過ちを起こしてはいないのだった。
 若い日の蓮生は――事実は、しかし、若い頃に一時戻った蓮生は――あの日のままの大人気の無さで色々と鎌をかけて来たが、私が蓮生の術中に陥ることはなかった。そんなことになれば、すぐに二人の関係は険悪なものになることは火を見るより明らかだったし、私の心とからだが考えるより先にそれを拒んだのだった。長く辛い離婚協議の思い出は私のからだの内側に、乾くことも癒えることもない瘡蓋として膠着していたのだ。
 それにしても、男の人の記憶とはどうしてこうも刹那的で調子良く出来ているのだろう。はじめはすぐには分からなかったものの、私はその場面がいつのどの場面であるのかをやがて瞬時にして、ありありと思い出したのである。一方で蓮生の方はいつまでもいつまでも何事か皆目見当がつかないといった風だった。そう、それは電話で私を脅すだけ脅した詩織さんが、ついに勘忍袋の緒が切れた、といった風に蓮生と私をフォレストヒルズに呼び出した、まさにあの日の昼下がりの光景に間違いはなかった。
二〇年前は、しかし、蓮生はそのことから逃げた。二〇年前の蓮生は、解決に一刻を争う不測の事態が起きた、とかを理由に会社に逃げ、結果、目の前の現実に目を瞑ったのだった。だから、二〇年前は私がひとりでフォレストヒルズの、エディーズ・スイートショップとかいう、あの時代がかったアイスクリーム屋さんに乗り込んでいくしかなかった。
会ってみれば、しかし、詩織さんは常識を弁えた、話せば分かる女性に見えた。だからあの日の私は、未だ大学を卒業仕立てのひよっこの私は、思いの丈を言葉一言ひとことに込めて詩織さんに語りかけた。詩織さんは黙って聞いていたが、最後に「分かった。私たちきっと分かり合える。友達にだってなれる」と言ってくれた。嬉しかった。いまから考えれば、しかしそこには、分かり合い方、友達のなり方に関する見解の大いなる相違があった。結果的に私は、その後、今日にいたるまであのお金持ちの、恋愛体質の奥さんの人生に直接間接に関わり続けることになってしまったのだから。
 だから、今回は一人でエディーズ・スイートショップに乗り込んではいけないのだ。今度こそは首に縄を付けてでも蓮生と一緒に詩織さんに会いにいかなければいけないのだ。すべてがそこからもう一回、時を刻み直すのだ。ドクターサイムのハムレットアクターの効果か何かは知らないが、およそ二〇年ぶりについに到来したこの好機を絶対に無駄にしてはならないのだ。私は必死だった。なぜなら、私の人生はともかく、何も知らないエツコの人生までこんなお金持ちの有閑な女性の手中に握られるなんて癪じゃないか。私は守る。私が産んだ子として、また、結局は結末に別れが待ってはいたが、今でも愛おしくて仕方がない蓮生との愛の確かな記憶として、エツコの人生を絶対に守る。
 とてつもない眠気が時折私を襲う。再び目覚めが来るのか、いやこれが永遠の眠りへの入り口の予兆なのか、私にはもうよくは分からない。ありがとう、ハスッピ。でも、もう少しだけお願いよ。エツコとジャンピのこと、頼んだわね。しっかりね、恋愛さん。

*  *  *

 しかして、ジャン・ピエール・バルマンは約束の時間に遅れることおよそ二〇分でやって来た。敵も逡巡しただろうに勇気を持ってやって来てくれたことを思えば時間通りの範疇だ、と蓮生は思った。リツコとエツコが住まうサヴォワに招き入れる訳にも行かず、かといって葉子と泊まるガーデンガーデンに呼びつけるのも気が引けて、結局はリツコの病室への訪問を許した蓮生だった。依然としてリツコが危篤であることに変わりなく蓮生の側には一時たりとも病室を離れたくない、という思いもあったが、エツコから病状を聞きつけたジャンピはジャンピで、リツコを見舞うことを強くつよく願ったのだった。いまやリツコの夫ではない以上、ここは怨恨を超えてリツコと少しでも親交のあった者は分け隔てなく受け容れるべきだと考える蓮生だった。もっとも、それを希望している一番の者は娘のエツコであることが、彼女の目を観ていっぺんで分かったのだった。
「遅くなってすみません」
 病室に入るなり、フランス語のアクセントをほとんど感じさせない英語でジャンピが詫びた。白人にしては小柄で、上背は蓮生とほぼ同じかいくらか低いほどだった。もうじき四〇歳になろうかという年齢を考えれば、まだまだ表情に幼さが残るが、それでも目許や口角の皺は深く、栗色の頭髪にも太い眉毛にも白いものが目立ち始めていた。それなりの歳月が過ぎ去ったのである、かつて探偵がもたらした写真の印象とは同じであろう筈がない、と蓮生は思った。
「気にしないで下さい。昨日からこうして病室にいて、僕らはみんなすでに時間の感覚がすっかり麻痺していますから」
 蓮生の会釈を真似るように、エツコと葉子もそれぞれぎこちないお辞儀をした。
「こちらが日本から一緒に来た塚本葉子さん。娘のエツコは……ご存じですよね?」との蓮生の言葉には少しも他意は感じられなかった。
「これ、お母さんに」と二〇本ほどもの赤い薔薇の花束をエツコに手渡しながらジャンピが言った。「病室に花瓶の用意があるかどうか分からなかったので、それらしきモノも一緒に買ってきたの。良かったら使ってね」
「ありがとう」とエツコは短く礼を言うと、花束と花瓶代わりのフランスガラスのピッチャーが自分に手渡されたことが嬉しいような、困ったような微妙な表情を浮かべた。エツコはその花を一刻も早く水切りをして花瓶に活けてあげたいと思ったが、そのことでこの場を少しでも離れるのも大きく躊躇を感じ、ひとまずその両方をそっとコーヒーテーブルの上に置いた。
 ジャンピには、しかし、そんなエツコの複雑な胸の内に思いを巡らす余裕はもうなかった。ジャンピの関心は持参した薔薇の花束からすでに外れ、周囲にある腫れものに触るような眼差しからも離れ、ベッドに横渡るかつての恋人、リツコに向けられていたのである。痩せ衰えながらも、何ら減じることのないその病人の気品を奇跡だ、とジャンピは思った。
「マダムアイカワ……」
 ジャンピはかつて一度もそう呼んだことのない呼称で、リツコに声掛けをすると、すぐに肩を小刻みに震わせ始め、ほどなくしておいおいとくぐもった声を上げて泣いた。号泣とまでは呼べなかったが、両眼から溢れ出る涙に嘘がないことは蓮生にも分かった。リツコがここに入って以来、その病室で泣いた初めての見舞い客はジャンピその人だった。
「ごめんなさい、マダムアイカワ」
 ジャンピはそう三度ほど繰り返したが、三度目は声というよりは嗚咽に他ならなかった。ジャンピに手渡そうとプラダから黒に白い水玉のハンカチを取り出した葉子であったが、少し逡巡して後、結局は自分の目頭に当てた。エツコの目に涙はなかったが、悲しくなかったからではない。悲し過ぎて一度泣いてしまえば止め処ないように思えたからだった。
「会いに来て下さってありがとう」
 心からお礼を言いたい、蓮生はそんな気持ちになっていた。
「こちらこそ。このような機会を与えて下さってありがとうございます」
 ぎこちないながらも、ジャンピはアジア式のお辞儀をした。それは、日本人のお辞儀というよりも、タイ人やカンボジア人のそれのようにも思えて、蓮生もエツコも葉子も、上目遣いに少しだけ笑顔を交わした。
「本当に長い時間がかかってしまいましたが、この場で僕はムッシュアイカワに改めてお詫びが言いたい。本当に申し訳ありませんでした」
「それは何に対してのお詫びだろう?」と訊くと、蓮生の表情が少しだけ強張った。
「それは……」とジャンピは少し言い淀んでから意を決したように言葉を紡いだ。「マダムアイカワとムッシュアイカワの関係を決定的に悪くしてしまったことがひとつ。そして、お嬢さんのエツコさんとのお付き合いでもご心配をおかけしていることがひとつ。――その両方に対してです」
「リツコとのことはいまさら謝られても僕からは何の言葉もないんだけど、僕も、そしていまこうして死線を彷徨っているリツコも、エツコのことは何かと気にはなっているのです」
「お父さん、こんな場所で……」とエツコが口を挟んだ。
「こんな場所もあんな場所もあるもんか」と蓮生が語気を強めてエツコに言った。「この個室病室より他に、病院のなかにはプライベートな空間なんかないんだよ。それにね、エツコ、このことはママにも聴いて貰った方がいい。涼しい顔をしていても、彼女きっと聴き耳を立てているに違いないから。自分の運命をすっかり受け容れているママも、エツコのことだけは最大の気掛かり、最後の心残りなんだから」
 その瞬間、微動だにしないリツコの寝顔が僅かに頷いたように蓮生には感じられた。
「だって」と半分涙声でエツコが声を荒げた。「周りがどんなに心配してくれたって、何がどう変わる訳じゃない。ジャンピの気持ちだって変わらない。ジャンピにはちゃんと奥さんいるし、同じジャンピという名前の仔犬だっている……どうしようもないじゃない!」
 エツコは一端はコーヒーテーブルの上に置いた薔薇の花束と花瓶の紙袋をひったくると、乱暴に扉を開けて病室を出た。
「エツコさん!」と叫ぶと葉子は、開け放たれたままの扉を出る直前、一度蓮生と目を合わせ、「私に任せてね」とでもいうように頷いてから、小走りにエツコを追った。廊下に響き渡る二人の足音が段々に小さくなっていく。
「まあ、座って下さい」と蓮生はジャンピに二人掛けのカウチに腰かけるよう促し、自分は自分で白くて簡素なスツールを壁際から手繰り寄せて腰を下ろした。
「エツコはあれで子供の頃は随分と人見知りが激しくて」と蓮生が語り始めた。「リツコが数時間買い物に出かけるのも、お隣さんに預ける、という訳にはいかなかったのです。サヴォワの隣室は、中東のカタールからの若い国連大使館員夫妻がお住まいだったんですけど。で、向こうの子供たちは昼夜となく、子供たちだけでよくうちに遊びに来ていたんですけどね」
「僕の知るエツコさんと同じ人物だというのが信じられない」というとジャンピは、蓮生の穏やかさに身構えた全身の筋肉と心が解きほぐされて、やがて自身の密やかな思い出を語り始めるのだった。「僕がエツコさんと初めて会ったのは、あなたが日本に戻られてから五年ほど経った頃ではなかったでしょうか。当時――実は恥ずかしながらいまもですが――絵描きになる夢が捨てられず、フランス語の個人レッスンがある時間以外はイーストハーレムのステューディオに籠っていた僕は、突然の訪問をてっきりお母さんのリツコさんだと思って喜んで扉を開けたんです。果たしてそこに佇んでいたのはリツコさんではなく、娘のエツコさんでした。今夜ここに泊めてというエツコさんを何とか説き伏せて、サヴォワに送り届けたのが、実質的な僕とエツコさんの最初の出会いです。それまでもエツコさんと面識がまったくなかった訳ではないけれど、リツコさんは不思議なくらい娘さんを僕に会わせるのを避けた。女性の勘というのかな……自分の娘がどのような男性に心を寄せるのか、リツコさんはよーく分かっていたのではないでしょうか。あ、自惚れたり、あるいは自己弁護がしたい訳ではありません。どんなにエツコさんの方から先に僕を好きになってくれたにしろ、結果的には年端もいかない高校生のお嬢さんと恋に落ち、やがて深い関係になってしまったのは僕の節度のなさに問題があったとの誹りはまぬかれないのです。ただ、後から考えれば、それは僕の勘違いだったのですが、エツコさんは最初から僕のことが好きだった訳ではない。ただ、お母さんに復讐がしたかったんですね」
「復讐?」と蓮生は訊いた。
「そうです、復讐。あんなにも大好きだったパパを日本に追いやったママが許せなかった。だから、僕をお母さんから奪い取って、言ってみれば仕返しがしたかっただけなのだと思います。それでも初めのうちはなかなかのってこない僕に痺れを切らして、やがてちょっとした芝居を打った。それは、リツコさんがリバーサイド教会の英語合宿とかでキャッツキルの山荘に生徒たちを連れて一泊旅行に出かけた夜のことでした。どうやって番号を知ったのか、僕のイーストハーレムのアパートに電話を寄こしたエツコさんが憔悴しきった声で、リツコさんが留守の間にサヴォワの自宅に見知らぬ男が押し入った、心とからだに深い傷を負った、と言うのです。一刻の猶予もならぬ事態だと考えた僕がサヴォワに急行したのは言うまでもないのですが、果たしてエツコさんは自室のベッドのなかでうずくまって、ただただ泣いていました。一糸纏わぬ姿のエツコさんの周辺には、彼女の衣服も散乱していました。すっかり狼狽した僕は気の利いた慰めの言葉ひとつかけることも出来ず、しばしベッドの傍らに立ち尽くすだけだったのですが、そこに謀ったように――いや、それはまさにエツコさんの謀り事だったと思うのですが――キャッツキルの合宿でその晩は帰らない筈のリツコさんが血相を変えて戻ってきた。後で訊けば、エツコさんはお母さんにも同様の電話をしていたんですね。その場の混乱はご想像の通り。リツコさんは取り乱して僕を罵倒する。エツコさんはただただ泣きわめいて僕にそこら中のモノを投げつける。挙げ句に、金属で出来た写真立ての角が僕の額に当たって流血の騒ぎですよ。リツコさんにひとまず帰宅を促された僕は、まさにレイプ魔はかくありなんというしょぼくれた出立ちで、逃げるようにしてサヴォワを後にしたのでした。まったく思い出すだけで泣けてくるような、笑うしかないような一日でした」
「それでもあなたはやがて娘と恋に落ちた?」と蓮生が訊いた。
「すみません。それでも私はお嬢さんと恋に落ちました」とジャンピが答えた。「幸いなことに、結局は後に僕の嫌疑は晴れるところとなるのですが、その事件がきっかけだったのか、あるいは原因はもっと別にあったのか、リツコさんはかなり深刻な鬱状態に陥ったようです。初め、ただあの勘違いのせいで僕を毛嫌いしているに過ぎない、だから連絡を寄こしてこないのだ、と思っていた僕は、どこかに自分は悪くないという気持ちもあってリツコさんのケアがおざなりになってしまったことが悔やまれます。加えて、その事件を機に、僕の心の小さくない部分を、あの小悪魔のようなエツコさんが占拠し始めていたんですね。あ、お嬢さんのこと〈小悪魔〉だなんてすみません。ただ、その頃から、僕とエツコさんとの間に不思議な影がちらつき出す」
「不思議な影?」と訊く蓮生の表情からは押し殺されていた怒りはいつの間にか雲散霧消していた。
「実は、いまもエツコさんが折に触れその話を持ち出すんですけど、僕には奥さんというか、パトロンというか、アッパーウエストサイドの高級アパートメントに女性がいて、僕のことを言うなれば囲っていると、その女性の跡をつけたことのあるエツコさんはそう信じ切っている。僕がどんなに二人の将来についての真剣な提案をしても、その女性の影がちらつくせいでエツコさん、心を堅く閉ざして全然聞く耳を持たないという感じなのです」
「もう少し詳しく話していただけますか?」と蓮生がジャンピの言葉尻に畳みかけるように訊いたのは、さきほどから最初はちっぽけな胸騒ぎのようだったものが段々とその輪郭を明らかにするように思えて仕方がなかったからだった。
「実は、本当に身に覚えがないことなのですが、どうやら僕のことを好いてくれているというそのアジア系の女性はジャンピという名の犬まで飼っていると言うんです。セントラルパークでエツコさんがその女性と僕と同じ名前を持つ犬とを目撃したのはたったの一度ですが、しかしその後も、どうやらお母さんのリツコさんの方が、僕にとってまったく身に覚えのない日の出来ごとについて焚きつけているというか、エツコさんの不安を繰り返し煽っているらしい、ということがエツコさんの言葉の端々で分かるのです。そこで今度は僕の方が跡をつけた」
「跡をつけた? あなたが? 誰の?」
「そうです、僕がそのジャンピとかいう犬の持ち主の跡をつけたのです。手掛かりは〈セントラルパーク〉や〈回転木馬(カルーセル)〉などいくつかしかなかったのですから、初めは本当にそんな女性がこの世に存在するのか、百歩譲ってその女性が現実に存在していたとしても、そうそう簡単に見つけ出すことが出来るものなのか、と疑問だらけでした。ただ、案ずるより産むが易い、とはこのことでしょうか。何と捜索開始二日目にして、それらしい女性をまさにセントラルパークの回転木馬周辺で発見したのです! エツコさんは日本以外のアジア出身者と理解しているようでしたが、そのしなやかな物腰や優しい表情はどう観ても僕には日本女性にしか見えなかった。ただ、少し時代遅れのストレートのロングヘヤや、化粧の仕方を勘案すれば、アメリカ人やヨーロッパ人のお金持ちをご主人に持つ日本人かもしれない。実はそんなことはどうでもいいのです。尾行してみて驚いたことには……」
 そこで喉が極度に乾燥して、呼吸さえままならない、といった様子でジャンピはペットボトルの水を飲んだ。
「尾行してみて驚いたことには女性はリツコの知り合いだった」と蓮生は堪え性のない子供のようにジャンピの言葉を引き取るのだった。
「どうして? 何故分かったのですか?」
「いや、初めから知っていた訳ではない。あなたの話を聴くうちに何となく。僕にはその女性についてちょっとした心当たりがあるものですから。やがて娘も戻ってくるでしょうから――娘にはあまり聞かせたくない話でもあり――あなたにはいずれ時が来たら改めてお話しますが、どうやら、その回転木馬の女性とやら、家内のみならず、僕にとっても旧知の人物のようで」
「いずれにせよ、尾行の結果、ふたりがアッパーウエストサイドのカフェで一緒に落ち合って、何だか親密に話をしているのを目撃した、という訳です。さらに驚いたことには、ジャンピという名の犬はどうやらリツコさん自身の飼い犬か、あるいはその女性とのいわば〈共有犬〉といった風で、何らかの事情でその謎の女性に預って貰っている……そんな感じなのです。確証はないのですが、リツコさんを目にした仔犬のジャンピの取り乱し方、あるいは尻尾の振り方がそのことを如実に物語っていました。そして、それは仔犬のジャンピと久しぶりに再会したという風のリツコさんの喜び方も一緒でした。もっとも、リツコさんの方はその犬のことをジャンピとは呼ばず、ハスピーとかハスッピとか呼んでいましたが」
 シオリンの呪縛だ、と半ば確信をもつ蓮生だった。自分を巡って初め利害が対立した詩織とリツコという二人の女性は、しかし、リツコの離婚という展開を経て、ある種の利害の一致をみたのだろう。詳しくは分からないが、要は、それはエツコという新しいプレイヤーをゲームから排除するということ。そのためなら自分たち同士の対立は後回しだ、とでもいった不思議な休戦協定。仮説に過ぎないが、ハムレットアクターの威力を借りて過去に戻ったリツコは、何よりもその辺の関係のねじれをまず是正したいと思った。それには、新婚の当時に戻って、まずは詩織を相川家から遠ざけておくのが得策と考えた。そして、自分のお姫様抱っこの威力を借りて、あらかじめ詩織をゲームから排除することに成功したのであった。となれば……。
「そのことを上手く説明出来る能力も時間も僕にはないが、そのことならもう大丈夫。リツコと二人で解決済の問題です。ジャン・ピエール・バルマン、君が娘のエツコのことを本当に心から大事だ、必要だと思うのなら、まずは一途な愛の力というものを強くつよく信じてみて下さい。二人を取り巻く負の事情、好ましくない環境なんかこの際どうでもいいのです。大切なのはエツコの不安や不信を吹き飛ばすほどのあなたの力強い愛なのです。残念ながら僕に出来ることは限られている。しかし、エツコが幸せになるためなら、いまもうじき天寿を全うしようとしているリツコに代わってエツコが愛に満ちた新しい人生を踏み出すためなら、リツコだって僕だって最大限の協力は惜しまない」
「しかし、ムッシュアイカワ」とジャンピが懇願するような表情で蓮生に言った。「この年齢になって僕にはこれといった定職がないんです。フランス・ブルターニュ地方からの移民の両親から口承で聴き覚えた、いくらか怪しげなフランス語をプライベートに教える不安定な小遣い稼ぎ以外、いまの僕には定職という定職がない。正直、四〇を目前にして、絵描きになる夢も、段々とおぼろげになっているのが実際のところでして」
「君に、ひとつ良いことを教えようか?」と蓮生は悪だくみを思いついた少年のような表情でジャンピの顔を覗き込んだ。「生粋のニューヨーカーはね、絵描きになりたい……絵描きになれたらいいな……なんてこといつまでもいつまでもつべこべとは言わないものです」
「というと?」
「僕は絵描きだ、と胸を張ることが先決なのです。そうすると、自信と実力、それに収入は自然と後からついて来る。もちろん、みんながみんなに、ではない。それだけのチャンスに恵まれさえすれば、という条件は付くんですけどね。それに……」
「それに?」
「好きな人と乗り越える貧乏は、実は恋愛の一番美味しい餡子の部分じゃないかしらん」
「餡子の部分?」
「核心というべきか……あるいは醍醐味と言うべきか……。僕も当時は分からなかったのだけど、常に爪先立ちで上を、上を目指して頑張った僕の隣にいてリツコは、自分自身の存在理由が見当たらなかったのではないかといまに思う。そんな僕の犯した過ちを今度は君が繰り返す必要ないじゃありませんか。そんなことより、いまの君には愛が足りないんだと思います」
「愛が足りない?」
「もっと正確には、ここに君を愛する僕がいるんだという表現が不足してるってことかな。いなくなって始めて気づく大切なもの、人生には意外と多いってこと、あと一〇年も経てばしみじみ思う筈。娘のエツコ、あなたにとって絶対に無くしたくないものですか?」
「ジャンピにはエツコさんへの愛、沢山あるよ」とジャンピはそこだけ怪しげな日本語で答えてから、次に英語で「僕はエッツを絶対に失いたくないんです」と真顔で言った。
「分かったわかった」と蓮生は半分吹き出しそうになりながらジャンピを宥め、しかし途中から必死に真摯な表情を取り繕いながら「だったら、この場は僕に任せて下さい」と勇気づけるのだった。
 誰かが扉を三回ノックする。蓮生には、それがエツコか葉子のいずれかであることは自明だったか、いまや蓮生の両手は塞がっていて、自身ではドアを開けに走ることは出来ない。それに、扉は二人が出て行ったときのまま半開きのままである。
「どうぞ」と蓮生。
「お邪魔します」と葉子の声。
 果たして、すっかり機嫌を取り戻したという表情のエツコは、葉子の背中におんぶされたまま、あらかじめ開け放たれた扉の向こう側に突っ立っている。
「二人ともどうしたの……」とエツコが首を傾げる。
「ごめんね、エッツ。僕は大切なものを寸でのところで失くすとこだった。まだ失くしてもいないのに、もうちっとで手を離してしまうところだった」
 そう言うジャンピはジャンピで、あろうことか蓮生の背中におんぶされている。
 おんぶされたエツコとおんぶされた蓮生が徐々に距離を近づける。畢竟、エツコをおんぶした葉子とジャンピをおんぶした蓮生も段々に距離を縮める。
「エッツ、心から愛してる。結婚したい」と上段のジャンピが上段のエツコに言う。
「葉子、心から愛してる。結婚したい」と下段の蓮生が下段の葉子に言う。
「葉子さん、お返事は?」と上のエツコが下の葉子に訊く。
「それはまずはエツコさんのお返事を聴いてからね」と下の葉子が上のエツコに悪戯っぽく答える。
「パパのおんぶのお蔭で、ジャンピ、あなたの願いは叶えられました」とエツコが正面のジャンピを見据えながら微笑んだ。
「良かった」とエツコをおんぶしたままの葉子が背中のエツコに言うと、次に正面に向き直って、「だったら、あなたの願いも叶えられました」とジャンピをおんぶしたままの蓮生に向かって微笑むのだった。

恋愛先生ニューヨークに帰る

恋愛先生ニューヨークに帰る

長くニューヨークに暮らした投資銀行員の相川蓮生は、別れた妻リツコと娘エツコをマンハッタンのコンドミニアム「サヴォワ」に残したまま帰国。やがて札幌で国際金融を教える大学教授へと転身していた。 学生の誰彼からとなく「恋愛先生」と呼ばれる蓮生。主には蓮生の「おんぶ」と「抱っこ」にまつわる噂に由来する渾名であった。ひとつは、蓮生におんぶされると恋愛が成就する、というもの。その実、研修医の葉子は、自ら願い出たおんぶによって蓮生の現在の恋人に収まっていた。さらには、別れたい恋人の前で蓮生にお姫様抱っこされると腐れ縁が切れる、というもの。こちらの真偽のほどは未だ知れない。 帰国して10年、蓮生をニューヨークに繋ぎ止めるのは僅かに娘エツコとの国際電話だけだったが、今回ばかりは恋人の葉子を伴ってニューヨークを再訪することに躊躇のない蓮生。リツコが家に戻らない、とエツコが電話してきたのだった。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted