赤い靴

 瞼に明るい光を感じて、ゆるゆると眠りから覚めていく。頭の中はまだふわり、とした眠気が支配している。
 部屋の中は薄暗く、それでも柔らかい光を感じて、あさ、朝になった、とぼんやりとした頭で思う。ふわふわとして何時もの目覚めとは違う、良くは分からない、でも奇妙な感覚に囚われた。
 疲れているのかな。そんなことを思う。
 昨日も、何よりも大切なバレエの、バレコンと、来月ある公演の稽古で、家へ帰ったのは二十二時を過ぎていた。それから夕食、課題をこなしてお風呂に入って、ストレッチをして結局、ベットに入ったのは夜中の一時を過ぎて。
 体力的には公演が終わる迄、厳しい日々が続く。でも、努力して掴み取った主役の座のことを思うと、気は引き締まる思いがする。バレエのクラスの子、皆がなりたがったジゼルの役。
 今日も厳しいお稽古は続く。でも、本当は寝ぼけた頭で思った。あんな大役わたしに勤まるのか、な。
 いや、やってみせる。慌てて小さく頭を横へ振った。弱気が何よりの敵だって、正志先生だって言っていたじゃない。こういうときはイメージトレーニングをしよう、と決めていた。
 目をそっと閉じて、誰よりも優雅に美しく踊る自分を思い浮かべる。優雅に、美しく。

 ふう、と息を吐き目を開けると、気持ちは落ち着いた。ふわふわとした気持ちで思う。起きて学校に行く準備、しなくっちゃ。起きあがろうとして、少しだけ頭を枕から上げて、気がついた。下腹部は、何故か、重い。
「な……なに」
 そっ、とお腹に触れる。胸の下辺りから手を滑らせて行くと、温かくて張りがあり、大きな丸みを感じる。
 慌てて掛け布団を捲ると、ゆったりとした可愛らしい、でも見たこともない部屋着に包まれた、大きな丸みのある、膨らんだお腹が目に入った。どうして、何故。
 はっ、と顔を上げて、周りを見渡して、目に入った光景は到底信じられない。わたしの部屋じゃ、ない。
 大きな茶色の扉のクローゼット、その手前には、サイドテーブルが置かれていて、その上には銀色のお洒落な小さい時計は七時二十三分を示している。
 訳が分からなくて、どうにか状況を知ろうとそっと横向きで寝ていた所から、起き上がろうとした。でも、お腹は重たくて、中々起き上がれない。身体は恐怖に怯えて、心臓は早鐘のように打ち始めた。
 ここは、どこだ。ここは、わたしは、どうしちゃったんだ。

 その時、背中から寝返りを打つシーツのかわいた音が響いて、追い打ちをかけるように心泊数は上がった。
 だれかがわたしのうしろにいる。こわい。こわいよ。そう思っていたら二の腕を暖かな、それでいて大きな手が優しくさするように触れられた。
「…………有希」
 恐ろしさでひっ、と喉の奥から高い音は鳴った。寝ぼけた、優しい、わたしを呼ぶ、低い、男の声。だれ、だれなの。
「どうした、腹、痛いのか」
 そう聞かれて、後ろに誰か知らない男の人がいるのは、確実になった。横たわったまま、身体は固くなっていく。恐ろしくて、返事なんて出来るわけはない。身体は小刻みに震え出した。
「有希、具合悪いのか」
 がばり、と後ろにいるひとが起き上がる気配がして、目をぎゅう、と瞑った。覗き込まれている気配がする。ちかい。息は乱れて、どんどん身体は大きく震え出した。
「寒いのか、おい」
 こわい、それでも、振り絞るようにして、声を出した。
「だ、れ」

「……エイプリルフールには、まだ早いだろうが」
 呆れたような、そんな声音に少し気は緩んだ。目を開けて、肩ごしにそっと相手を見やると、思っていたよりも近づいていた、切れ長で漆黒の瞳にかち合った。
「こ、小林、せんせ」
 声に出してから、実感が湧いて来た。そうだ、小林先生だ。毎日見ている様子とは全然違う、心配そうなそれでいて柔らかな表情と、あと少しの違和感はするけれど。
「……何で先生呼びなんだ。朝っぱらから学校プレイは御免だ」
 そう言いながらも、小林先生は優しい目でじっと見る。まるでわたしが大切な存在だ、と言わんばかりの触れ方で頭を撫でられた。
「せ、先生、やめてください」
「あー分かった分かった。しかし、懐かしい呼び方だなーそういや、そんな感じで呼んでたよな」
 そう言うと小林先生は慣れた様子で、そっと頬も撫でた。甘さがどこにも見つからない、戦士みたいな顔をしたひとなのに、見たこともない目の優しさと、少しからかうような、そんな表情。
 何故ここにいるの、訳がわからない。彼は何を言っているのか、さっぱり理解出来ない。
「そうだ、具合はどうなんだ」
「え?」
「具合だよ、ぐあい」
 子どもを諭すような、優しい声が耳に響く。混乱した頭で思う。どうしてそんなに心配、なの。なんで、なんで?
「お腹、が重いです」
 時間を掛けて、震える唇から何とか言葉を励まして出した。お腹は暖かいのに重かった。仰向けになりたくてもどうすればいいのか、分からない。
「そりゃそうだ」
「は?」
「検診で順調って、言われたんだろ?」
 けんしん、じゅんちょう。意味は理解出来なくて、ひとつひとつの言葉を繰り返した。検診って、この大きなお腹って、もしかして、もしかすると。
「わっ、わたし、なんで」
「なんでって、なんだよ」
 思い当たったひとつの事実に、動揺は抑えられなくて、血の気が引く気がした。不機嫌な口調で返事を返して来た小林先生は、眉間に皺を寄せた。なんだよ?なんだよって、それはこっちの台詞だ。
「担任の先生と、こっ、こ、子どもとかっ」
「あ?」
 そうだあり得ない、あり得ないことが起きている。一緒のお布団に眠っていた。そしてこのお腹の丸み。小林先生の優し過ぎる態度。まさか、そんな、あり得ない。何よりもジゼルはどうなるの。
「まだ十六歳なのにっ、あぁバレエ、来月公演なのに、おっ、踊れない!」
 上ずった口調でまくし立てるように言うと、途端にぽかんとした顔で小林先生は言った。
「お前、二十六歳になるところだろ」
「…………は?」
「だから、お前は今、二十五歳だろうが。何を言ってるんだ」
「違います、十六歳で高校生で、先生は担任の先生です。一年D組の。出席番号は二十九番で、先週は週番で、それから、えっと、えっと」
 混乱した頭で言い募る。みるみる内に小林先生は心配そうな、苦しそうな表情になった。
「有希、大丈夫か。ずっと調子良かったのにな、来い」
 そう言うと、小林先生は直ぐにわたしの身体を、引き寄せた。後ろから抱きしめられて、温もりと自分とは違う硬い筋肉質に感じられるひとに、包まれるように抱きしめられた。
「い、いやぁ、やだっ、やめて!」
「有希」
 もがこうとして暴れたいのに、お腹がつかえて実際に動けたのは腕くらいだった。頭をいやいやと振る。そんなわたしの様子に、先生は傷ついたような表情を浮かべて、また覗き込んで来た。
 わたしは怯えている。パニックになっている真っ最中なのに、そんなことを冷静に分析している自分もいる。
「息を、大きく吸え。いいか、大きく大きく、吸え」
 そう言われて、小林先生を見た。震えながらも、息を少しずつ、吸った。最大限まで。
「吐いて、今度は吐いて吐き切れ。出来る、有希なら出来る」
 今度は息を吐く。覗き込まれて促されて、何度か息を止めながらも吐き切った。
 小林先生は励ましながら、冷静な声で息を吸う、吐くを繰り返させる。
 少しずつ、気持ちは落ち着いて行った。まだ、混乱はしている。それでも。
「起き上がれるか、有希」
 背中をさすられて、起き上がるよう促された。お腹は重たくて、なかなか起き上がれない。そんな様子に、小林先生は慣れた様子で手を貸してくれた。座ると重心がずれるのか、お腹の重さは直に腰へ来る。思わずお腹をさすった。暖かくて、優しい丸み。
「これ、羽織っておけ、寒いから」
 あっという間にグレーの大きいカーディガンを、肩から掛けられた。見たことの無い部屋。大きなベットと、部屋の端にシンプルな小さめのチェストだけの。部屋を見回していたら、小林先生はカーテンを開けた。そして、チェストの上から手鏡を持ってきた。
「自分の目で確認してみるといい、俺には、昨日の有希と変わらずに見えているから」
 そっと手渡された大きめの手鏡を、恐る恐る覗き込む。そこには、わたしに似た、大人の女性がいた。
 すっぴんなのに満ち足りた幸せそうな印象で、なのに、表情は不安そう。
「これ、わたし、なの」
「凝ったエイプリルフールだな。もういいだろうが」
 信じられない気持ちで、小林先生を見上げると呆れたように腰に手を当てて、そう言われた。
「せんせい」
 もう、泣きそうだ。どうしてこんなことになっちゃったの。こちらを射るように見つめ出した小林先生は、少しだけ頷いた。
「信じて、ください。わたし、十六歳なんです。そう、来週からは期末テストで、先月の二十二日は、福岡でバレエのワークショップがあって、台風で帰りの飛行機が飛ばなくて、次の日お休みをもらって、先生は数学の授業の時間数が足りなくなってしまうから、補講しようってこの間言ってました。それから、えっと、夏休みはバレエコンクールに出て、来月は初めてプレ公演で主役を。わたしやっと掴んだんです。やっと、主役を、それなのに」
「有希」
 大きめなのに、人を惹きつけるのに訓練されて慣れた、といった様子が分かる低い声に、遮られた。真剣な表情で、そして真剣な目で、小林先生はまるでテストに絶対出す公式を繰り返す時のように、センテンスを区切って、ゆっくりと言った。
「有希は、俺の、妻だ」
「つ、ま」
「そうだ。結婚して、有希の腹の中には子どもがいる。俺と有希の」
「結婚、ですか」
「そうだ」
 けっこん。わたしが小林先生と。
「ええええええーっないないないない、ないです。そんなのあり得ない、あり得ないです。だって先生ですよね。え、先生独身だったんですか?」
 そう言った途端、小林先生はわしゃわしゃと短い黒髪を掻いた。そして、ため息をつくと、何かをきょろきょろしながら探している。
「なんだ、これ」
 反対側に置かれたサイドテーブルに置いてある眼鏡を小林先生は探していたようで、すぐさま眼鏡をかけると、その下にあった薄いピンクの封筒をひらひらと振った。そのまま封を切って、読み進めている。
 そういえば、眼鏡をかけているところなんて、初めて見た。
 寝起きでボサボサの髪も、うっすら伸びてる髭も、ちょっとよれたスウェット姿も、初めて、見た。
 本当に、結婚しているんだ。結婚。

 正直に言うと、小林先生のことはよく知らない。
 朝と帰りのホームルームに現れて、注意事項とか連絡を伝えてくれて、数学の授業を受け持ってくれていて、個人的にはバレエの話くらいしか、した覚えはない。バレエ頑張ってるかーとか、コンクールで休む時の相談、とか。男のひととして意識したことなんか、ない。
 担任の先生、それ以上でもそれ以下でもない。それなのに、結婚。あり得ない。
「この手紙は、有希からだった」
 手紙を読み終えた小林先生は、眉間に皺を寄せながら言った。
「有希、から、って」
「昨日までその身体にいた、二十五歳の有希から、と言うことだ」
 二十五歳のわたし。そうか、そうだ。小林先生と結婚している、ということは、昨日までの大人なわたしが居たんだ。さっきから一つ一つの事実に驚いて、戸惑って、受け入れるのに精一杯。
「つまり、こうだ。あー、昨日までいた二十五歳の有希と、夏休みを控えた十六歳の有希は、入れ替わったらしい」
「らしい、って」
「明日にはちゃんと、十六歳の世界に帰ることが出来るそうだ」
 そう言うと、小林先生は薄いピンクの封筒をぴらぴらと振った。授業の時に見せるような、無表情で。
「なんでそんなこと、分かるんですか?」
「二十五歳の有希が十六歳の時、そうだったと書いてある。一日だけタイムトリップした、と」
 一日だけ、一日だけなの。ややこしいけれど、理解は出来る。本当に、でもそれなら、どれだけいいか。
 何故か希望が湧いて来た。一日だけ、それだけなら。でも本当なのかも、気になる。
「手紙、見せてもらえませんか?」
「ふーん。未来の自分が書いた、俺宛てのラブレター見たいか?」
 小林先生はそう言うとにやり、と笑った。確かにそれは、どんな気持ちがするのか、分からないかも。それにラブレターだったら余計に恥ずかしくなるかもしれない。
「まあ、嘘は言わないから。とにかく、焦ってもしゃあない。飯にするか」
 そう、小林先生はのんびりと言った。確かにお腹は空いている感じがする。空腹には慣れっこなのに、この身体は空腹には耐えられない、そう言われているような。
 赤ちゃんが、いるから、なのかな。実感は、無いけれど。
「あの、ご飯、わたし、作れません。」
 正直にそう告げると、小林先生は何かを考えるようにして、部屋にあるクローゼットへ歩いて行った。
「あー、ま、なんか台所にあるだろ、心配するな」
 クローゼットを開けると、小林先生はきっちり並んでいる衣装ケースから、女性物の服を放り投げて来た。
 セーターにカーディガン、薄手のニット、コーデュロイのロングスカート、タイツ、シャツ、挙句ブラジャーまで放り投げられて、頬は赤くなる。
「寒いからな、それ、全部着て、履け。分かったか」
「は、はい」
「俺は居間を暖めるから、あと飯の支度をしているからゆっくり着替えろ」
 そう言うと小林先生は、部屋の外へ扉を開けて出て行った。
 そういえば部屋の中は寒い、今は冬なんだ。

 何が何やら本当にわからない。ひとりになると、途端に肩の辺りへどっと疲れを感じた。知らず知らずの内に緊張して、身体に力が入っていたようだった。
 もう一度、服の下に埋れていた手鏡で、自分の顔を見てみる。

 一日入れ替わったってなぜ、二十五歳の自分は十六歳の時、知ったのかな。
 結婚、いつしたんだろう。あの小林先生が旦那さんって、うん、あり得ない。あり得なさ過ぎる。
 それより、なにより、わたしの夢はどうなったんだろう。わたしの、夢。

 手鏡の中には、困り顏をした大人のわたしがこちらを見ていた。


 着替えをして恐る恐る寝室の扉を開けると、そこは居間だった。そっと出ていくと、そこに人影はなかった。
 濃茶で纏まられた、ソファーと大きな、見たこともないデザインのパソコンが置かれたデスクと、ダイニングテーブルが置かれた、シンプルな居間。わたしの趣味じゃない。なんていうか、無個性というか。
 色々なことを知って混乱はしていても、こうやって目の前の現実をみれば、起こっていることを受け入れざるを得ない。何もかも、違うのだから。
「先生?」
「あー、ここだ。台所にいる」
 声は右から聞こえた。どうやら寝室の隣が独立したキッチンになっているらしく、そっと覗くと薄暗い中、鍋を睨みながら手を腰に掛け、立っている小林先生がいた。
「服、着たか。随分薄着だな。全部着ろって言っただろうが」
「いえ、着てみたら暑くて、息苦しくなりました」
 真面目に全部着てみたけれど、暑くてのぼせそうになった。だからシャツにカーディガン、あとはお腹周りがゆったりと作られたコーデュロイのスカートだけ。あれで一日いたら、絶対倒れて救急車で運ばれることは間違いないよ。
「靴下、履けよ。寒いから」
「お腹で見えなくて、無理矢理履こうとしたら、()りました」
「あー、履かせてやるから持ってこい」
「過保護ですよね。暑いからいいです」
「冷えは足元から来るんだよ。二人分暖めないと駄目だろうが」
 何だろう、その理屈。この部屋は床がほんわかと暖かい。靴下は履かなくてもいいくらい。大体大きなお腹があんなにつかえて、足を曲げても上手く履けないなんて思わなかった。特にタイツだし。
 何度やっても、ころりん、ころりんとベットに転がってしまい、起き上がるのは大変だったのに。
 そんな感じで困惑しているうちに、小林先生はわたしの横をするりと抜け、何処かへ行ってしまった。

 ふとガスコンロを見ると、白い土鍋が蒸気で蓋をがたがたと鳴らし始めた。慌てて火を止めると、側にあったパッチワークの鍋つかみで土鍋の蓋を開けた。
「わぁ、鍋焼きうどんだ」
 一気に蒸気が視界に広がって、その中には小葱と玉子が落とされた、美味しそうな鍋焼きうどんがグツグツしている。美味しそう、先生、こんなの作れるんだ。凄いなぁ。
「有希、ちょっと来い」
 戻って来たらしい先生は、キッチンの入り口でふわふわした靴下を手に持って、わたしに手招きしている。
「いえ、あのう、暖かいので、いいです」
「そこに座れ」
 全然わたしの言った言葉は無視して、小林先生はこちらに来るとわたしの手を取った。思わず引っ込めようとしたら、握る力は強くなる。
「いえ、暑いんですって」
 動揺して、ブンブンと頭を振った。何でそんな、触れようとしてくるの。お父さんとお母さんは夫婦仲がいいけれど、こんなことしていないよ。
「靴下履かないと、俺が落ち着かないから」
 そう小林先生は優しく言うと、そっと手を引いて行き、居間にあるダイニングテーブルの椅子に座らされ、素早く跪いた先生はわたしの足をその膝の上へ乗せた。そして、ゆっくりと靴下を履かせてくれる。

 頬へ、みるみる間に熱は集まっていく。
 跪いた小林先生の寝癖のついた頭頂部から、目は離せなくなって。
 いつもこんな、なの。こんなのは耐えられない。心臓が、痛い。どくどくして、胸がぎゅう、となる。
「ほら、これで暖かい」
 優しい微笑みを浮かべて見上げてきた先生の顔を、わたしはまともに見ることは出来ず、目を逸らした。


「まあ、喰え。腹減ってるだろう」
 朝ご飯の用意が出来て、ダイニングテーブルへ向かい合わせになって座った。
 何と無く、さっきの出来事を意識してしまい、返事は頷くだけになる。確かにお腹は空いている。
 小林先生はパッチワークの鍋つかみで蓋を開けると、わたしの前にある大きめなお椀を取って、よそって渡してくれた。
「あ、ありがとう、ございます」
 受け取ってからあっ、と気がついた。わたし、何から何まで全部先生のお世話になっていて、何もお手伝いしていない。
「すみません、全部やってもらっちゃって。あの、お皿洗い、しますから」
「あー気にすんな。それより沢山喰え。二人分喰わないとな」
 小林先生は自分のお椀にも鍋焼きうどんをよそいながら、優しい顔で笑う。見たこともない位、優しい顔で。
「よし、喰うか。頂きます」
「いただき、ます」
 先生が手を合わせたのにつられて、わたしも手を合わせた。
 ふうふうと掬い上げた沢山のうどんを冷まして、小林先生は大きな一口であっという間にもぐもぐと食べている。唖然としていると、有希も喰え、と促がされて慌ててうどんを少しだけ口に入れた。
「そうか、その食べ方、な」
「え?」
「いや、何でもない」
 先生は何か言いたげにして、止めた。何か、それはあまりいい事じゃないのは感じられる。でもあまり沢山カロリーは取れないのだから、少しずつ、ゆっくりと咀嚼して食べるようにはしている。満腹感と満足度はそれだけで全然違うから。
「美味しい、です。あの、お料理出来るんですね、先生」
「昨日、鍋だったんだよ。その残り物にうどんと卵を入れただけだ。それでコンロで煮ただけだが、褒めてくれてありがとうな」
 にやり、と先生は笑う。
「なんて言うか、イメージが違います、よね」
「何が」
「結婚とか、家庭的とか、そういうことに縁が無さそうです」
「あーそうだったかもな」
 あまり話したことのない小林先生の印象は、お世辞にもいい、とは言い難い。
 クラスの男子や、顧問をしている水泳部の子たちーー中等部からの親友の紗英は水泳部だーーに接している様子を見ていたら、すぐに皮肉を繰り出して、相手をやり込めようとするし、何事にも飄々とした掴め無い感じがする。そして究極に面倒臭がりだ。
 クラスの男子を色々な場面でこき使って、ニヤニヤしているのをよく見かけた。使われてる男子も嬉しそうに文句を言っていて、わたしにはどうでもいいことだから黙っていたけれど。
 それなのに、親切で優しくて、気持ち悪い。わたしが大切なんだ、って言われているみたいに感じられる。

「まぁ変わったのは誓ったからだな、お前に」
 小林先生は優しい目で、わたしを見て、穏やかに言う。
「誓い?」
「一生大切にする、喜びも苦しみも悲しみも、共に助け合い、分かち合いたいから」
 じっとわたしの目を見つめて、真剣な口調と、優しい表情に頬が熱くなる。一体何を言い出すんだ、寝癖ついてるくせにそんなクサイ台詞。まるで口説かれているんじゃないか、と勘違いしてしまいそうに、なる。

 その時、お腹の中がくにょりと動きだした。思わず下を見る。
「ん、あ?」
「あー、お目覚めか」
 気がついたら無意識にお腹に触れていた。なんて気持ちのいい丸みなんだろう。
「赤ちゃん、何ヶ月ですか」
「八ヶ月に入るところだったかな」
 ふより、くにょり、なんとも言えない感覚。わたし嫌じゃない。むしろ嬉しい。お腹の中で動いて、その存在を教えてくれる、いのち。
 思わず笑みがこぼれる。暖かい幸せの感触がした。

「手伝わせて、悪いな。家でも手伝いしてるのか」
「はあ、まあ、少しだけ、ですけれど」
 先生が食べ終わったお椀を洗って、わたしが受け取り、拭く。本当は余り手伝いしていない。バレエが忙しいのもあるけれど。
「その分だとやってないな。もうちょっと手伝ったらどうだ」
「はあ、そうですね」
 ニヤニヤしだした先生に、思わずムッとなった。分かっている、でもバレエで何時も夜遅いし。食べ終わったらシンクへ運ぶくらいしかしていない。バレエを言い訳にしてはいけないけれど。
「あの、わたし、バレエやっているんですか」
「んー赤ん坊がいるから、今、は無いって分かるだろ」
「そう、ですけれど、未来のわたしって、何を」
「そんなに口尖らせて焦ってるが、落ち着けよ。その内分かるだろう」
「はあ」
 そう言うと先生はこれで終わり、とお玉を目の前に差し出してきた。
「まだ、これが終わっていませんから」
「何だよ急げよ、おっそいぞ。ほれ、ほれほれ」
 ゆっくりとお椀を拭いていたのに、お玉をグイグイ押し付けられて慌てて受け取る。何なんだ、一体。
「お玉持ったまま、お椀拭いてみろーほい、よーい、どん」
「えっ、何、ちょっと、無理です!」
 勢い良くぱん、と手を叩かれて、よく分からない無茶ぶりをされて慌てていると、小林先生はわはは、と笑った。
「そうか、無理か。そうだよな」
 そう言うと先生はキッチンから出て行った。そうだった、ああいう意味のない意地悪も良くするひとだったっけ。そういえば。

「そういえば、先生、今日は学校休みですか?」
「ああ、土曜日だからな。部活も休みだし、まあ、でも少しだけ仕事を持ち帰って来ている。悪いが午前中ここで仕事させてくれ」
「どうぞ、先生の家ですし」
 何処からかノートパソコンを片手で持って来た先生は、ダイニングテーブルの上に置くと、わたしをじっと見てきた。
「……まあ、ソファーに座っていてくれ。腹でかくて立ってたら辛いだろ。お前の家なんだから自由に寛いでくれ」
「はぁ、ま、そうですね」
 わたしがソファーに座ると、小林先生もこちらを見ながらダイニングテーブルの椅子へ座り、パソコンを開いて何か打ち込み出した。
「仕事が終わったら、外に飯、喰いに行くか」
 先生はパソコンの画面から目を離さず、話しかけてくる。
「はあ」
「待たせて悪いな。疲れたらソファに横になってろ」
 そんな、待ってはいないけれど。そう思いながらも、だるさを感じてクッションを座面に置くと横向きに寝て部屋を見回した。
 お腹の中の赤ちゃんにエネルギーを取られているのかな、とてもぼんやりして疲れやすい。
 先生は立ち上がり寝室へ行くと、大きめのフリースの可愛い模様のついた膝掛けを持ってきた。
「これ、掛けておけ」
 そっと膝掛けを先生はわたしに掛ける。そんなこと、最近お母さんにもされていない。優し過ぎるっていうか、これじゃあそれを通り越して過保護じゃないの。
「寒くないですし、欲しかったら自分で言います」
「寒いって感じた時には遅いだろうが。暖めておけよ」
「過保護過ぎですよね。いつもこうなんですか?」
「柄じゃない、とか言いたいんだろ。お前が大事で心配なんだよ。悪いか」
 だめだこりゃ、何を言っても平行線な気がする。本気で相手にされていない、そんな気がして。
「テレビ、ないんですね」
「あー、あんまり見ないんだよ。映画なら見れるが見るか?」
 そう言うと、小林先生はデスクトップのパソコンを立ち上げて、その傍にあった薄くて文芸書より少し大きいサイズの四角い、機械っぽいものを持ってきた。なんだろう、未来っぽいものに、やっと出会った。
「バレエの映画がいいか?あんまりないが」
 小林先生はわたしの枕元の床に座ると、その機械の画面をこちら側に見えるように見せてくれて、直接指を使って操作する。
 その機械に画面が出ると、一月十一日土曜日と大きな表示が見えた。今日は、一月十一日、土曜日。
 二十五歳のわたしが、何故手紙を残せたか分かった。今、わたしが知ったからだ。

「うーん、これか、これ、だな」
「あ、この映画は知ってます。春に公開してて見たいと思っていたやつ」
「そうか。見るか?」
「じゃ、それでお願いします」
 先生はそのまま指を画面に滑るように動かして、何かをしている。凄い、よく分からないけれど画面全体が触れられる仕組みになっているみたいだ。そんなことを思っていたら、いきなりデスクトップのパソコンに映画が映し出されて、始まった。
「え、どうして、どうなってるの」
「未来の旦那は、教師と魔法使いをやってるんだ。それは覚えておけ」
 そう言うと、先生は操作していた機械の画面を消して、デスクトップのパソコンの側に置くと、白い小さな機械を差し出してきた。
「これ、リモコンだ。使い方は分かるだろう」
 ふ、と笑いながら先生は手に、白い小さな機械を握らせた。未来の旦那。じゃあ、未来のわたしは?
「わたしは、未来で何をしてるんですか」
 ダイニングテーブルに行きかけた先生の背中へ、疑問を投げかける。振り返った先生の表情は、一転して無表情だった。
「何って…… 俺の奥さんで、妊婦さんだな」
「そうじゃなくて、あのバレエは」
「それは、教えられない」
 きっぱりと話を切るように、先生は言った。有無は言わさない、と言いたげに。
 そして、ふうっ、と優しい顔になると、今迄に聞いたことのない甘さが含まれた声で、言われた。

「知りたいかもしれないけど、知っている人生なんて、つまらないだろう。この話は、お終いだ」


 映画は小さな頃から親友だった女の子二人と、先輩の男の子の三角関係を、美しい映像と音楽に乗せて映し出したものだった。
 先輩に恋をしている女の子と、その親友の女の子。二人とも小さいころからバレエを続けている。
 お教室でのたわいのない会話。レオタード。チュチュ。そしてトゥーシューズ。

 今日は踊れない。そう思うと、無性に悲しくなって、苦しい気持ちになる。今日は、なのに。


 わたしがバレエを始めたのは六歳、きっかけは四つ離れた兄の友達が男の子だけどバレエを習っていて、バレエ団の公演の招待券を貰ったのだ。
 母と兄と三人で、何時もよりいいお洋服を着て、小さな花束を持って、くるみ割り人形を見に行った。
 客席から初めて観たバレエは、この世のものとは思えないほど美しかった。今でも覚えている。まばゆいライトの下、美しい衣装を着た、美しい動きをする沢山のダンサーが舞台の上を完璧な動きで踊り、物語を紡いでいた。
 今でも母には言われる『隣で見ていたら、瞬きしないで、身を乗り出して、もーそれはそれは凄かったわ』と。
 公演が終わった途端、ここに入ってバレリーナになりたい、そうロビーで叫んだことは、未だにバレエの先生方に繰り返し言われる。
 それまでは、お転婆じゃじゃ馬、怖いもの無しの子、育て方、間違えたわって言われていたのに、両親にしつこくせがんで始めたバレエはわたしを変えた。
 バレエはどこまでやっても、何回踊ってもこれが正解、というものは無くて、次から次へ課題は難しくなって行きそれを出来た、という快感はたまらなかった。
 あっという間にバレエの虜になって、小学校の間はお稽古のある日が楽しみで仕方がなくて。誰よりも早くスタジオに行って、誰よりも遅くまで踊っていた。何をしても楽しくて、仕方がなくて。
 中学に入る頃、バレエ団の付属のスクールのエリートクラスに入れることになって、ほぼ毎日スクールへ行き、バレエコンテストでは入賞が続くようになれた。
 本番になると、わくわくして、嬉しくて、楽しくて。あの夢の舞台へ立っている。それだけでいつもテンションは上がる。怖いもの無しの有希ちゃん、そうバレエクラスでも言われるほど。

 世界に通用するダンサーになりたい。いつしかそんな夢を抱いていた。そのためなら、どんな努力も惜しまない。難しいピルエットのダブルだって、グランジュテだって美しく優雅に決めたい。
 いつも心を占めているのは、バレエのことばかり。

 この映画の子たちみたいに、切ない恋なんて、恋自体したことはない。


「丁度こっちも終わった。昼も過ぎたから、飯に行くか」
「先生は、この映画、見たことはありますか」
 エンドロールが画面に映し出されると、近づいてきてわたしの手から白い小さなリモコンを受け取った、小林先生にそう尋ねた。
「いや、ないな。それが、どうした」
「………いえ、なら、いいんです」
「……有希、暖かい格好した方がいい。今セーター持ってきてやるから着ろよ」
「いえ、あの、寒くない、って聞いてないっ」
 先生はあっという間に寝室へ消えていった。本当に過保護すぎる。まさかこれ、毎日されているんじゃないよね。ゆっくりと起き上がり、ソファーに座って唖然としていたら、朝放り投げられて着なかった服を先生は持ってきてくれた。
「本当に寒くないんです。こんなに着たらのぼせます。お腹はポカポカしているし、要りません」
「家の中は暖かくても、外は寒いんだ。風邪引いたらどうするんだよ」
「引きません。逆に暑くてのぼせて具合悪くなります」
「馬鹿か、自分だけの身体じゃないんだぞ。暖かくしないと駄目だろうが」
 そう言い合いを始めた途端、お腹の赤ちゃんは激しく動きだした。ふよん、ふよよん、まるで揉めないで、って言っているみたいに。
「い、いたっ」
「大丈夫か、有希!」
 赤ちゃんに肋骨を蹴られて、思わず手をお腹に当てた。大人しいんだこの子、と思っていたのに意外に大胆だ。うう、と呻いていたら、先生は隣に座って、慣れた手つきで大きなお腹をさすった。大きくて、ちょっとだけ不器用な動きをする、優しい手。
「こら、お母さんを蹴ったら駄目だろうが」
「先生、もう、大丈夫、ですから」
 そう言うと、わたしを見下ろしている目線はすっ、と細まった。
「毎日、毎日、腹がでかくなっていくのを見て、撫でているのが楽しみなんだ。少しだけ撫でさせてくれないか」
 そう言われて、さっき俺と有希の子だ、そう言われたことを思い出した。
 俺と有希の子。生まれる前なのに、そんな風に思えるなんて、すごい。先生には赤ちゃんは見えないし、感じられないのに。
「………どうぞ」
「ありがとうな」
 お腹の中の赤ちゃんは、元気よく動いている。その内に先生が手を当てているところを、ぐっ、と内側から蹴っている気配がした。
「お、蹴ってる。おーい、父さんだぞー」
 そんなに嬉しそうな声を、聞いたことはない。嬉しそうな顔も。幸せそうな、そう感じられるのにわたしはこの中で置いてけぼりな気分。
「もう、いいですか。くすぐったくて」
「あ、ああ、そうだな。よし、飯に行くか」
 少しだけ戸惑ったような小林先生は、最後に名残り惜しそうにそっと一度、撫でた。

 玄関でもう一度服装で揉めて、強引に玄関にあったコート一枚で外へ出た。油断していると全身モコモコになる。先生は黒のスプリングコート一枚なのに、わたしには過保護すぎる。
 確かに外は冷えていて寒い。でも日差しが柔らかくて、風も無くて気持ちのいい日だな。
「本当に寒くないのか、風邪引いたら薬飲めないんだからな、おい」
「……奥さんは、いつもそんなに厚着なんですか」
 もういい加減うんざりして言うと、小林先生はじっとりとした目線でこちらを見てくる。何なんだ、一体。
「奥さんは、お前だ。他人事のように言うな。分かったか」
「で、厚着は、してるんですか」
「………していない。けどな」
 じゃあ、いいじゃないか。そう思って車寄せから門の方へ歩き出した。そしてたった今出てきた建物を見上げる。四階建てのマンションの二階の真ん中辺りの部屋が、先生の家だった。家の中は新しい感じだったけれど、外から見る建物は古びて感じられる。リフォームしてあるんだ。
 そのまま門を出てみると、脇の道は坂道になっていて下った先には、キラキラと日の光が眩しい水色の海があった。あれ、海って、ここはどこなんだろう。てっきり高校の近くだと思っていたのに。
「先生、転職したんですか」
「いや、転勤しただけだ。それ以上は言わん」
 後ろから歩いてきた小林先生は、そう言うと手を差し出してきた。何だろう、この手。
「ほら、手、繋いで行こう」
「どうして繋がないといけないんですか」
「転んだら困るだろうが」
「いいです、歩けます。過保護すぎです。」
 まさか、そう思っていたら手を繋ごう、なんて、もう一々過保護すぎる。一日中まさかこんな調子なんだろうか、いくらなんでも甘やかしすぎだ。お腹は大きくても普通に歩けるよ。
「敬語やめろよ、有希」
 すぐ慣れたようにするりと手を取られて、繋がれた。人の話を聞いてない、このひと。
「じゃ、手離してください」
「やめてないだろうが」
 小林先生はニヤリと笑うと、そんなことを言って歩き出した。手はがっちりと、固く繋がれたまま。

 どこが良かったの、このひとのどこが。全く分からない。未来のわたしって本当、趣味悪い。このひとと結婚なんて。なんで結婚したんだろう。飄々としていて意地悪で、マイペースなのに。世の中には理解不能なことがある。
「いい天気だな、風は冷たいけれどな」
 そう言われたけれど、答える気になんてなれない。それでも繋がれている手は、包まれているようで暖かい。先生は坂道をゆっくりと手を引いて下っていく。

 わたしの通っているのは、東京の中高一貫の私立高校だ。偏差値もそれなりに高いけれどスポーツや芸術の分野にも力が入っていて、コンクールの前乗りで半日休んだり、とそういう融通も効きやすい。
 何より高校受験の期間、受験勉強でバレエから離れてしまうと、ブランクを取り戻せなくて結局才能があっても挫折してしまうお教室の先輩達を見てきて、バレエの先生方からも勧められて、バレエに打ち込みたいわたしは、中学校受験を頑張った。
 それは正解だった。中学から高校になる頃、一番体型が変わりやすくなると言われていて、その時期を上手くバランスを取りながら練習を重ねないと、プロのバレエダンサーとして世界に通用する身体にはならないと言われている。身長だって、そう。世界に出て行くのなら少しでも高い方がいい、って言われる。
 高一の今、百六十四センチまで伸びた。もう、伸びは止まったから、あとはどれだけ体型を整えられるか、なんだ。
 二十五歳のわたしの身体は、それなりだと思った。足はプロのダンサーのように使い込んだ感じはするけれど、身体の筋肉の感じは十六歳の方がずっと上。でも妊娠していたら、そんなものかもしれないし。
 だからこそ、気になる。この十年、この身体はどんな道を歩んできたのか。

 坂を下りきったら、海沿いの道を小林先生に手を引かれて歩いていく。
 そういえば、転勤っていっていたけれど、そんなことってあるんだ。先生にも、色々あったんだ。
 その色々の究極なのが、結婚なのかもしれないけれど。
 そっと先生を見上げると、すぐに気がついたようでどうした、と呟くように問われた。
「わたし、バレエダンサーになれたんですか」
「………なりたいのか、有希は」
「なりたいです。世界に通用するバレエダンサーに」
「そうか。なりたいか」
 そう言うと先生は黙った。答えが返ってくる気配は無くて、もう一度聞こうとしたら、赤ちゃんはまたもにょもにょ動き始めた。
 何だか話し掛けられているみたいに感じる。ねえ、ねえ、って。かわいいな、妊娠しているおかあさんは、こんな幸せな気持ちにになるんだ。
 左手でお腹に触れる。また動いた。

 妊婦さんになっているせいなのかは分からないけれど、何時もよりふわふわした物の考え方をしているのに気がつく。
 本当は、こんなあり得ない出来事が起こっていて、もっとパニックになっていてもおかしくないのに、意外と自分は冷静だ。
 未来のわたしの身体だ、と言われて何故、信じているんだろう。
 このひとは、本当にわたしの未来の旦那さま、なの?
 そう、思う。そう思うのに、それが当たり前だと、そう感じている。上手く言えないけれど、どうしてなのかは分からないけれど。
 よく、未来のわたしのことを分かっていて、守ろうとしてくれている存在。それは感じている。
 その人に手を引かれて歩いていた。確かな足取りで。

 でも、その全てのことが、さっき見た映画のように、別の世界の出来事で、まるで作り事のように思える。

「たまに散歩しながらここに、飯喰いに来るんだ」
 小林先生は、少し先にあるシックな、それでいてお洒落な建物を指差した。
「レストラン、ですか」
「カフェ、だな。ケーキとかも評判がいいみたいだが、喰うか?」
「いえ、要りません」
 はっきりと断ると、小林先生は眉間に皺を寄せ、黙った。

 店内は天井が高く、薄茶の漆喰にセンスのいい小物が飾られた、寛げる空間に思えた。
 落ち着いた優しい笑顔の店員さんに、海の見える席へ案内され、メニューを開く。
「オムライスが絶品なんだ。美味いぞ」
 わたしが見ている二つ折りのメニューの中程にあるオムライスを、小林先生は指差す。確かにオムライスは大好き。でもカロリーコントロールをしているから、あまり口にはできないけれど。
「じゃあ、それで」
 水を持ってきてくれた店員さんに、小林先生は二人分の注文を素早く済ませた。
「あの、わたしの両親と、兄は、元気にしているんでしょうか」
「あー、元気だよ。孫を心待ちにしてるな」
 そう言うと、小林先生は少しだけ笑う。未来のことは教えられない、って言っていたけれど、こういう絡め手には乗って来てくれるのかな。
「わたしの家から、ここいら辺って近いんですか」
「どういう意味だ。わたしの家って」
「え、父と母と、兄がいる家です」
「お前の家は、俺と暮らしている、あのマンションだ。間違えるな」
 答えた途端、小林先生は不機嫌になってそう言った。どうしよう、知りたいことだらけなのに、こんなことで聞けなくなるかもしれないなんて。焦った気持ちで言い募る。
「ここは、どこなんですか。教えてください」
「カフェだ」
「そういうことじゃなくて」
「有希が十六歳でいた所とは、まあ違うところだ」
「誤魔化してますよね」
 淡々と答え、窓の外を見ていた小林先生はこちらに向き直った。眉間のシワは深い。
「まだ半信半疑なんだよ、俺だって。本当に有希は十六歳の有希なのか?エイプリルフールだ、って今言われたらどれだけ安心するか、分からないだろうが」
 信じていないんだ。わたしが十六歳だってことは。

「わたしが、十六歳の高校生だって確信できたら、教えてもらえますか。バレエのこと」

「…………いや、教えられない、だろうな」
 返事は、低く響く声色と、ぞっとするような暗い笑みだった。


 すぐ、オムライスはやってきたけれど、あまり食欲が湧かない。美味しいんだろうけれど、よく噛んで飲み込むのに時間は掛かった。
 ランチプレートを頼んだ小林先生は、黙って皿の中のものを口の中へ入れて飲み込んでいく。いい食べっぷりとは、このことかも。
 早くに先生は食べ終わって、わたしの様子を伺うようにじっ、と見ている。
 ほんの少し、口に入れて、噛んで、飲み込む。その繰り返しに三分の一、食べ終わった所でスプーンを置いた。
「もう、喰わないのか。もう少し、喰えよ」
「もう、お腹いっぱい、です」
 じっとりとした目で睨んで来た先生へ、頭を下げた。赤ちゃんの為、もう少し食べたいとは思うけれど、もう入りそうにない。
「本当に、お前は」
 そう言いかけて小林先生は黙った。少しだけ眉間に皺を寄せたまま見られて、オムライスのお皿を先生は自分の方へ引き寄せた。そして、一口食べる。
「美味いぞ。ほら」
 ほんの少し、スプーンへオムライスを乗せると、口元へ差し出してきた。
「あ、の、お腹、一杯で」
 断ると先生は、優しい顔で笑った。ずい、ずいとスプーンを口元へ近づけられて、そっと口を開くと、ゆっくりとスプーンの中身を入れられて。
「どうだ、美味いか」
「………はい」
 その言葉に、小林先生は目を細めて大きめの一口をスプーンで掬い、食べ、そしてまた少しだけ掬うとわたしの口元へ差し出す、を繰り返した。ゆっくりと。
「食べ切れたな。残さず」
 お皿の中身が無くなると、そう言って先生は笑った。ほとんど食べてもらったような、そんな状況なのに、まるで全部わたしが食べ切って喜んでいるような。先生を見つめると、何だ、と言って見つめ返された。
「どうしてそんなに、優しいんですか」
「……どうしてなのか、分からないのか」
「分かっていたら、聞かないと思います」
「大切、なんだよ。有希のことが」
「そう、ですか」
 それは嘘じゃないとは感じる。でもそれだけじゃない、何か、がある。

 何時も、ありがとうございます、と声を掛けてきてくれた店員さんに笑顔で見送られて、外へ出た。
 少しだけ風が出てきたようで、乾燥して冷えた空気は頬を撫でつけて、後ろへ去って行く。
 無言で並んで、歩き出す。先生と積極的に話したいことは、なかった。

 話せることと話せないことを、小林先生は注意深くより分けて話している。
 未来を知ることは悪いことなんだろうか、来てしまって見てしまった今では、やっぱり知りたい。夢は叶うのかどうか。でもこの分だと望み薄だな。
 プロのダンサーになって、主役級の役を貰えるのは一握りの人間だけ。
 特に海外に出ると、骨格もスタイルも違うダンサーと競わなければならない。わたしくらいのレベルの子は、世界に沢山いる。
 何とか留学出来ても、バレエだけで食べて行けなくって、辞めていってしまうひとは沢山いる。
 ならーやっぱり知りたい。この先、どういう未来が待っているのか。

「浜に降りてみるか?」
 考えごとをしていたら、いつの間にか先生に手を引かれていた。素早い、本当にいつの間に。
「寄り道して、腹ごなしして行こう。気も晴れるだろ」
 先生はぐい、と手を引くと、信号が変わった横断歩道を渡って、砂浜への階段を降りた。強引、過ぎる。抗議の意味もあって、刺々しい声が出た。
「砂浜で、足がもつれたらどうするんだ、とか言うと思っていました」
「適度な運動は、必要だろう」
 そう言いながら小林先生は、嬉しそうにわたしの方へ振り返ってきた。睨まれて嬉しそう、ってどうなんだ。何考えているんだろう、この人。
「あの、手を離して下さい。一人で歩けますし」
「それこそ、足がもつれて転びでもしたら、俺は一生後悔するな」
 どうしてそこで、そういう過保護が出るの。そして、呆れるくらい強引というか、マイペースというか。
 振りほどこうとしたら、逆にきつく握り返されて呻き声が出た。腹が立ってきて、睨みながら思わず本音が出た。
「本当に、どこが良かったんだろ、このひとの」
 わたしがそう言った途端、手の力は弱まり、先生はとても嬉しそうな顔で笑った。どうして。その反応が分からない。もう、分からないことだらけだ。
「いい傾向だな」
 先生は気持ち悪いニヤニヤ笑いをし始めた。嫌だ、この人。睨みつけると小林先生は鼻歌を歌いながら、わたしの手を引いて再び歩き出した。
 ついに手は、振りほどけなかった。

「気持ちいいな、なあ」
 嬉しそうに話しかけられるけれど、無言を貫く。それでも目の前を歩くひとは上機嫌だ。一体何がしたいんだろう。
 先生はわざとわたしを波打ち際の方へ、繋いだ手を振って行かせようとしたり、そうかと思えば指と指を絡ませる、いわゆる恋人繋ぎをしてきたり。
 怒ると笑って、顔を覗き込んで来て、どうしたって問われるけれど、どうしたじゃない。
 幾つなのかは知らないけれど、いい年の大人がすることじゃないよ。

「あれー、せんせーっ」
 怒っていたらさっき歩いてきた海沿いの道から、黒いウィンドブレーカーの集団が大きく手を振りながら近づいてきた。
「ちっ、見つかった。サッカー部か」
 集団はわらわらと浜辺に降りてきた。男子ばっかりだ。
「黙ってろ」
 小林先生は小さな声で囁いて、後ろ手にするとわたしを背中に隠すようにした。
「せんせー奥さんとデート?部活サボっちゃってさ。水泳部の奴らに言っちゃおー」
 あっという間に黒いウィンドブレーカーの集団から横にも囲まれ、キラキラした目の男の子達は小林先生へ視線を集めている。
「いいんだよ、家族サービスしないと嫁に捨てられるだろうが。お前らも肝に命じておけ、将来嫁さん貰ったらサービスしろよ」
 ぎゃはははと集団が笑う。小林先生は先生としての態度になっている。それがよく分かった。さっきまでとはまるっきり違う、じゃあ、わたしに対する顔は、誰に向けた態度だったんだろう。
「奥さん、きゃわゆーいっす」
 横にいた男子が、先生の背中にいるわたしを覗き込んできて、照れ笑いしながら言った。
「おい、見んなよ、減るだろうが」
 先生は握る力を強くして、不機嫌そうに言うと、また集団からは笑いが弾ける。
「やらしー、せんせー奥さんと手繋いでるぜ!」
 そう反対側の男子が言うと、おおお、と言いながら集団はわたしの方へ回り込んできた。
「こ、こんにちは」
 じっくり沢山の目に見られて、たどたどしくなりながらも挨拶すると、黒いウィンドブレーカーの集団は、こんにちわーっすと揃って挨拶した。迫力がある。
「お前ら、見るなっ。こいつは俺んだ」
「うおー言ってみてーそんなセリフ!」
 先生は振り返ると、わたしを横へ並ばせた。手を繋いだまま、ぴったりと体が寄り添うように。
「おら、とっととロードワークに行きやがれ、てめーら」
「冷えなー先生。俺ら奥さんともっと話したいっす」
「挨拶しかしてねえだろが」
 小林先生はしっ、しっと追い払うような仕草をするけれど、集団は怯まなかった。
「せんせー、奥さんとは何て呼びあってるんすか?」
 おおーっと野太い声が上がる。ダーリン、ハニーじゃね?と後ろの方から声がして、どっと場が湧いた。
「奥さん、こばこばのこと、呼んでみて欲しいっす。」
 そんなことを言われても、どう先生を呼んでいるのかなんて知らない。先生って、言っていいのかな。見上げると小林先生は、意外にもさみしげにこちらを見ていた。
 そんな顔をされても、こっちだって困る。そう思っていたら繋いだ手はぐっと握られた。先生は集団に向き直るとニヤリと笑って言った。
「名前で呼んでるよ、羨ましいか、この童貞どもが」
 唖然とするようなことを言い放った先生の顔を驚いて見つめていると、集団の子達はうをををを、と叫んで一斉に股間を抑えて、前屈みになった。
 何だこのコント。思わずぷっ、と吹き出した。男子って、こんなに面白いの?クスクス笑っていたら男の子達は途端にワキャワキャ騒ぎ出した。
「奥さんが笑ったぞー!」
 男の子達はお互いにイエーイと叫びながらハイタッチしている。嬉しそうに。
「お前らもう行けよっ、ほら早く!」
 小林先生はわたしと目が合うと、途端に不機嫌になって声を張り上げた。
「わーこばこばがおこったー、こえー、こえーよ」
 そう叫ぶと、一斉に集団は蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。後ろを振り返りつつ手を振りながら。囲まれて暖かかったのに、一気に冷たい風がびゅう、と私たちの間を吹き抜ける。
「おい、あいつらに気を許すな」
 その声に先生の顔を見上げると、明らかに膨れて拗ねている。アレ、どうして。ちょっとこのひと、かわいいな。思わずもう一度吹き出した。


「有希、名前で呼んでいいんだからな。先生はやめろよ」
 帰りの坂道を、また先生と手を繋ぎながら登っていく。手は離される気配はなくて、そのことを一々揉めるのも面倒になってきた。慣れてきたとはいえ、少しだけ照れくさい。
「えっ、何ですか。いきなりですね」
「俺の名前は、知ってるよな?」
「ええと、あーんと、えっ」
 そう来るとは思わなくて、挙動不審に狼狽えると、小林先生はすぐに不機嫌になった。
「名前、覚えられてなかったのか」
 長い溜息をつかれて、じっとりとした目線で睨まれる。興味、なかったから。そんなことを言ったら、怒られそうな雰囲気がする。睨まれ続けて、苦し紛れに言った。
「ええと、こばこば?」「それはやめろ」
 すかさず返された。思い出さなければ許されないような、そんな空気を感じる。でも、出てこない。名前、小林先生の名前、分からない。

「っていうか、どうして担任の先生を名前呼びしなきゃ、ならないんですか?」
「誤魔化すなよ、今は俺の妻だろう」

 射るように先生は、歩きながらもわたしを見ていた。そんなことを言われても、心はついていかない。
 妻だ、有希は俺の妻。そう朝から何度言われたんだろう。事ある毎に妻扱いを先生は止めない。
 不安な違和感を感じる。何故、そんなに頑なに妻扱いして、優しくするのか。
 ある予感が閃いた。まさか、帰れないんじゃ。
 不安はポタリポタリと胸の中に落とされ、インクのように染みを作って、広がっていく。

「奥さんからの手紙、見せてもらえませんか」
 ピタリ、と小林先生の足は止まった。背の高い、そのひとのその顔を見上げても、表情は見えない。
「俺が、嘘を言っていると」冷たく硬い声は、低く低く、響く。
「いえ」
「じゃ、何故、見たいんだ」
 繋いでいた手は、解かれた。それが思っていたよりもショックで、途端にこの世界へ、置いてけぼりになった、そんな気がした。

「何で、こんなに優しくして、甘やかすのか分からない、んです。もしかして明日、戻れないんじゃないかって、ずっとこのままかもって、なんでって」

 体は震えて、声も震えて、どんどん鼻の奥はジン、とし始めた。泣かない、泣いたら駄目だ。
 いつだって涙は堪えると、苦しい、辛い、色々なことは乗り越えることが出来た。だから泣かない。
 そう自分に言い聞かせる。呪文のように。
 なくな、わらえ、なくな。笑うんだ。
 どんなに悲しいことがあっても、笑え。

「不安な時は、苦しい時は、泣いていいんだ」
 後ろから抱きしめられていた。ぴったりと隙間なく。そして囁かれる。優しい、優しい声で。

「昔からいつもそうだ、泣いたっていいじゃないか。そうやって気持ちを押さえつけたら、駄目だ」
 暖かい温もりを背中いっぱいに感じる。わたしの全てを守り、優しく包み込み、暖かくしようとしている、頑健で屈強な身体を、受け入れてしまいたく、なった。
 気が抜けそう、このまま全て、墜ちていきそう。駄目、駄目だ。

 強気に、一人ぼっちでも自分を見失わず、強い心で踊り続ける。そうしないとわたしは生きてはいけない。
 優しさは、甘えを呼ぶ。なのに、この人は何を言い出すの。甘やかされて、腕の中に閉じ込められて、わたしは駄目になる。
 駄目になる未来なんて、要らない。

「離して、ください。わたしはあなたの妻じゃない」
 掠れた声で、やっとのことで呟いた。
 そっと体は、離される。惜しいと思う気持ちを慌てて、心の奥底へ沈めた。


 小林先生は、無言でわたしの手をまた、引いて歩き出した。
 ここに放って置かれても、おかしくはないことを言ったのに。
 先生の気持ちを、打ち砕くようなことを、言って拒否したのに。
 しっかりと離されず、手を引かれて、歩いた。

「少し、休ませて、ください」
「ああ」
 先生の顔を見ることは出来ず、帰り着いた家の居間で、そう小さな声で願うと、低い声で了承され、わたしは寝室のドアを閉めた。
 すぐに広いベットに腰掛け、長く息を吐き出す。再び頭の中は、混乱してきていた。
 何故、何故この世界へ来てしまったの。わたしは、どうなってしまったの。
 先生が、過保護にして、妻だ、とわたしへ言い続ける、その理由は、何。
 難問を、一度に同時に解答していかなければならないような、そんな気持ちになる。
 難しく、複雑なアンシェヌマンだって、一つ一つを忘れずに紐解いていけば、必ず出来るようになる。だから、この問題も一つずつ分けて、考えて、解いていかなければ。
 そのためには、冷静にならなくっちゃ、冷静に。

 その時、ふより、とお腹の中の赤ちゃんは動き出した。ふよ、ふよ、と優しい動きで。
 ごめんね、こんな不安な気持ちでいたら、いけないよね。
 バレエのことばかりで、世間に疎くても、母体が不安定ならばお腹の中の子に影響がある、ってわたしだって分かっている。今日は動揺したり、泣きそうになったりを繰り返しているし。
 赤ちゃんもきっと、気が気じゃないよね。不安になるよね。

「あなたのお母さんは、どんな人生を、過ごしてきたのかな」
 お腹をさすりながら尋ねると、ぽこん、と返事のように当てた掌を蹴られた気がした。
 思わず笑みが零れる。優しい答えを、何も求めないものを、そっと返されたような気がして。
 嬉しいな、そして、何だか疲れちゃった。感じたことの無いだるさは、わたしの両肩へ乗るように、襲ってきた。
 ゆっくりとベットへ横たわり、お腹を撫でる。この子に癒されているような気がして、何度も、何度も撫でた。


 気が付くといつの間にか、部屋の中は薄暗くなっていた。一瞬、元の自分の部屋へ戻れたんじゃ、と期待したけれど、お腹は重いままだ。
 はあ、と溜息が漏れた。まだ、帰れない。本当に明日、元の世界に戻れるのかな。
 そっと起き上がると体には、毛布が掛けられている。いつの間に。先生が掛けたんだろう。
 あんなことを言ったのに、それでもこんなに優しいなんて。

 何故、何故なの。そう思っていたら、はっ、と気がついた。先生の妻は、二十五歳の、わたし。
 この身体を守ろうと、そうしているのは、わたしの為じゃ、ない。
 よく考えたら、当たり前なんだ。わたしに優しいんじゃない。わたしの身体に優しいんだ。
 全ては、明日帰ってくる、先生が愛している、先生の妻の為。
 目の前は、くらり、と揺れたような気がした。

 そのことを、ショックだと、思うなんて。おかしいよ。

 ショックだと、思うなんて。


 随分長い間、暗くなっていく寝室で、遣る瀬無い気持ちを抱えていた。窓の外の街灯のあかりが少しずつ、その存在を増していくのを、眺めて。
 居間の方からは、いつの間にか扉の形に沿って、暖かい、オレンジ色の光の枠が形作られていた。
 いきなりがしゃん、と、何がが割れる高い音が、した。あーっ、と、くぐもった声も聞こえる。
 ベットを降りて、そうっと寝室の扉を開けた。明るいオレンジ色の間接照明に、目は慣れなくて瞬きを繰り返して。
 小林先生は、ダイニングテーブルの側で、落としたらしい皿の欠片を、一つ一つ拾い集め、わたしの姿を見つけると照れ臭そうに、笑った。

「あの、何か手伝うことは」
「あー、危ないから、まずは近づかないでくれ」
 落ち込んだ表情と、とても情けなさそうな声。初めて、見る。
「割っちゃったんですか」
「普段し慣れないことは駄目だな。そこから入ってくるなよ」
 先生は苦笑しながら目配せをして言うと、そのまま居間から出て行った。近づくな、そう言われていたのに何だか焦げ臭い。そおっと硝子を迂回して、キッチンに入るとフライパンの中から白い煙が上がっていて、慌てて火を止めた。急いで換気扇も回す。焦げた醤油の匂い、何を作ろうとしていたんだろう。

「焦げたか、俺、料理の才能ないな」
 ふっ、とキッチンの入り口へ向くと、小林先生は小さな掃除機を抱えて立っていた。
「何を作ろうと思っていたんですか」
「生姜焼き。それしか作り方、知らんから」そう言うと先生ははあ、と溜息をついた。
「冷蔵庫、開けてもいいですか?」
「あ、ああ、どうぞ」
 冷蔵庫の一つずつの扉を、そっ、と開けた。野菜室には、人参、ジャガイモなどの根菜類と葉物が少し、冷凍庫には細切りの豚肉や、白身の魚が綺麗に小分けに入れられていた。
 冷蔵庫には常備菜がタッパーや保存瓶に入れられていて、調味料は、分かりやすく一纏めになっている。
 見回すと、キッチンは整然としていて、とても清潔だった。

 初めて、未来の自分の存在を感じた。丁寧に毎日を生きている、そんな姿が想像、出来る。
 未来の自分は、きっと、小林先生をとても大切に想っている。この冷蔵庫や、キッチンを見ると、そう感じる。どうして、って上手くは言えない。でもそう感じる。
 先生が朝、言ったように二人は一緒に生きている。笑い合いながら、苦しみや悲しみは分け合いながら。そうやって、日々を過ごしている。そう、いるんだ。

「有希」
 気が付くと、先生の顔をまじまじと見つめていた。その人のことを考えていると、つい見つめ続けてしまう、わたしの悪い癖。恥ずかしくなって、それでも何とか言葉を繋げた。
「あの、シチューなら作れます。わたしでも」
 材料は全て冷蔵庫の中に入っていた。唯一、わたしが作ることの出来る手料理。
 わたしの母の誕生日は十二月で、その日位はゆっくりして欲しい、と思い、毎年、夕食を作っている。
 兄は、こんなの食えねぇぞ、と悪態をつくが、両親は喜んでくれる。

「手伝うよ、やれることがあれば」先生はほっ、としたような笑顔を見せた。
「じゃあ、まず硝子を」
「あ、ああ、そうだったー」
 先生はとぼけた調子で言うと、慌ててガラスの片付けをし始めた。わたしは再び冷蔵庫の中を覗く。
 野菜室から、玉ねぎと人参、ジャガイモ、冷凍庫からは鶏肉と、茹でて小分けにされただろうブロッコリーを取り出した。
 先生が掃除機をかけている音が、居間から響く。お鍋を探す。でも、見付からない、どこだろう。ガスコンロの下かな、と思い開けたけれど、そこはからっぽだった。
「何、探しているんだ」
「あ、先生。お鍋ってどこですか」
「あーちょっと、待て」
 先生は焦った様子で、キッチンのあちこちの扉を開け始めた。一緒に覗き込み、鍋を探す。でも中々見付からない。上の扉にも、ない。
「どこに仕舞ってるんだ、あいつ」はぁ、と先生は溜息を付く。
「先生は、料理しないんですか」
「俺が美味い物作れるように見えるか?」
 おどけた表情をした先生に、少しだけ頬は緩んだ。そうすると先生も優しく笑う。少しだけ和やかな雰囲気になって、ほっとした。
「もしかして、ここかも」
 電子レンジも置かれた、背の高い食器棚の一番下にある、大きな引き出しを引いてみると、そこには可愛らしいシートの上に大小様々な鍋とボウルが入っていた。
「どうして、分かった?」
 先生は驚いて切れ長の目を見開いた。どうして、って、それは。
「母は、ここに鍋やボウルを仕舞っているので、もしかしたらここにあるかも、ってそう、思いました」
「成る程、な」
 小さめの鍋を取りだそうとすると、小林先生はそれより大きい鍋を出してきた。
「沢山喰うから、沢山作ろう」
「先生、料理、出来ないんですよね」
「一人じゃ何も出来ないだけだ。手伝い位ならやってるが」
 すました様子でそんな情けないことを告白した、その先生の様子に顔はにやけてしまう。
「じゃ、一緒に作りましょう」
 そうして先生とジャガイモを剥き、人参を剥き、玉ねぎに涙しながらシチューを作った。
 切り分ける時、二人とも包丁の使い方は下手くそで、ついへっぴり腰になってしまい、思わず顔を見合わせて笑った。
 先生が笑うと、切れ長の目はとても細まった。一度も見たことの無い、優しい笑顔に心臓は脈打つ。
 どうして、そんな、ドキドキするなんて。

「うん、美味い」
「そうですか、よかった」
 一口食べて先生は、頷きながら言った。ほっとした気持ちで、一口食べてみる。う、ん、何か、足りないような………気がする。可もなく不可もなし、といったところかもしれない。
「シチューだけでも作れるのなら、大したものだな。調理実習とかでか?」
「え、いえ。母の誕生日に作ったことがあるだけです」
「ああ、十二月のか」
「ど、どうして知っているんですか」
「どうして、って、なあ。義理のお母さんの誕生日だから、だな」
 そうか、そうだった。思わずはっ、として見ると、先生は何故か神妙な顔をしていた。言い出そうか、どうか迷っているような。そして、黙ってシチューを食べ出した。
「あの、どうか……しました?」
「あー、まあ、いいんだ。気にしないでくれ」
 先生はそう言って、また黙ってシチューを食べ出した。

「風呂、沸いたから先に入れ」
 食後、キッチンで茶碗洗いをしていたら、バスルームへ行っていた小林先生が戻ってきて、キッチンの入り口で促すように言った。
「いいですよ、先生お先にどうぞ」
 深皿の泡を流しながら答えると、先生は少しだけおどけたような声を出した。
「お父さんの風呂の後はいやっ、って年頃だろうが、おっさんの後は嫌だろう。後は俺がやるから」

 先生は、先生は。

「……別に、嫌じゃないです」茶碗から目を離さず答える。水を流す音だけがキッチンに響いた。

「じゃ、先に入るからな」
「はい」
 ついに、あちら側を見ることは、出来なかった。


「有希も、風呂入ってきたらいい。温まるから」
 スウェット姿で頭を拭きながら戻ってきた先生は、困ったようにわたしを促した。
「はい、ありがとうございます」
 そう、返事をして、クローゼットを漁り、着替えを手にバスルームへ向かった。
 ひとりになると、ほっとする。先生の優しい視線を感じると、胸はつくり、と小さな棘が刺さった気持ちになった。

 服は着にくく、また脱ぎにくかった。お腹が大きいとひとつひとつの動きがゆっくりになる。大きなお腹が邪魔して足元も見えにくい。
 おかあさんになるのは大変
だったんだ。こんなに不自由なんて。
 これから出会うおかあさんが困っていたら、優しくしてあげたいな。出来ることがあれば。
 軽く畳んだ服を洗濯カゴにいれる。

 浴槽にはいい香りのバスボムが入っていた。
 わたしのお気に入りの店に置いている。ラベンダーのバスボム、だよね。湯船に浸かりながら少しだけ湯を掬い上げた。
 このバスボムは高いので、大事な公演やコンクールの前にしか使えない。未来でも使っているんだ。ちゃんとお店が続いているんだな。

 考えることは纏まりがなくて、バラバラだ。
 それだけまるっきり違うこの身体から、学んで感じることも多い。でも。
 先生からは、自分の未来を聞き出すことは出来なかった。
 家へ電話を掛けて、聞こうとも思って探した。でも家の中に固定電話は見つからない。ランチに出た街並みにも、公衆電話は見当たらなかった。この世界には電話という手段は失われてしまったの、かな。

 知りたい、どんな道をこの身体は歩んできたのか。夢は叶ったの、それとも駄目だったの、この身体のわたしは、そんな日々をどう受け止めたの。焦る気持ちがある半面、諦めの気持ちも出てくる。
 先生と結婚して穏やかに暮らしている様子に、それでもいいのかも知れない、そうも思う。
 戸惑うけれど、大切にされて、それでいてこのひとは愛されている。
 でも、それじゃ、嫌だ!そう叫んでいる自分も、いる。

 湯船からこわごわと上がると、バスルーム用の椅子に座ってシャワーを手に取った。頭を洗ってから、身体を洗う。素肌で触れたお腹は、心地よい丸み。

「え?」
 たっぷりと泡立てたスポンジを身体へ滑らせていると、右足の膝にミミズ腫れのような傷跡が、目に入る。手術の跡。父親の盲腸の跡にそっくり……だから、間違いない。

 これ、って。
 どっ、どっ、と脈打つ、速い心臓の鼓動しか、感じられなくなった。


「あ、あのっ、右の足の膝の手術した傷って、どうしてついたんですか?」
 頭もそこそこに拭いて、水気の残る身体を無理矢理、ゆったりとした部屋着へ押し込めて、急ぎ足で居間に入るとソファーに座って本を読んでいた先生へ詰め寄った。
「……まあ、まず、座れ」
 パタン、と本を閉じた先生は、心配そうな表情を浮かべ、空いている隣へわたしを促す。
「教えて、ください」
「座れ」
 強い口調で、そう促された。多くのひとの心を掴んで、号令を出すのに慣れた、そんな口調で。
 ゆっくり座ると、先生は入れ違いに居なくなり、フェイスタオルとコップに水を入れて持ってきた。
「湯上りに興奮すると、ひっくり返るぞ、少し落ち着け」
 そう言われてコップを渡されて、先生はわたしの濡れた髪を拭きだした。
「やめて、ください」
「水も飲め」
 遮るようにゆっくりとした口調と静かな目線で促されて、少しだけ飲む。先生はわたしがため息と共にコッブを下げると、また黙って濡れた髪を拭き出した。
「先生、傷は」
 ぴたり、と止まった髪の水分を拭う手は、降ろされた。
「答えられない」
 そう呟いた先生の顔は、あまりにも静かで絶望的な気持ちになる。何を考えているのか読み取れないようにされている、そう感じてしまう。
「知りたいんです、お願いです。教えて下さい!」
「嫌だ」
「どうしてですか……怪我を避けることだって、出来るのに!」
「駄目だ、未来を知ることになる」
「知っちゃ、どうして、いけないんですか?」
 長い長い沈黙に包まれた。答えて、お願い。縋り付き懇願しているような気持ちで、先生を見たけれどその表情は静かだった。
「お願いします、教えてください」そう願うと先生は目線を逸らし、仄暗い笑みを、浮かべた。

「俺のことは、どうでもいいんだな」暗い、暗い、絶望を身に纏った声は、静かに響いた。
「なっ!」
 なにを、と言いかけると、強く腕首を掴まれた。じわじわと力は強まって行き、ぐっと引き寄せられた。
 とても近い距離から強い視線は、射抜くように突き刺さる。見たことのない男の顔をした、先生が目の前にいる。

「未来を知って、有希は過去に戻ったとする。今日知った怪我や、これから起こることに気をつけて過ごした。そうしたら、どうなると思う?」
 仄暗い視線は、何かを訴え掛けるようにわたしを見ていた。どうなると思う、そう問われても、その質問の答えは持っていない。想像もしていなかった。

「俺は、お前にバレエのことを聞かれるのは怖かった。高校生の頃、お前は自分の全身全霊をかけて、バレエへ向き合っていたのを俺は知っている。
 今日、十六歳だというお前が目の前に来て、焦ったよ。もしかして今、この時は変わってしまうのかもしれないと」

 今は、変わる。その言葉のみが、抜き出されたように、浮かびあがる。

「有希がこれから未来を変えて、俺とは関わりがない人生になってしまった時、明日、目を覚ましたらお前は消えているんだ。お前も、俺たちの子も」
 くしゃりと目の前の先生の顔は歪んだ。苦しそうに、悲しそうに。
 いつしか身体は震え出した。そんな未来は、ほんの少しも考えていなかった。

「頼む、お願いだ。俺からお前と、この子を奪わないでくれ」
 こちらに訴え掛ける真剣な瞳から、もう目を離すことはできなくなった。掴まれた腕首の痛さは、気にならない程の衝撃。

 わたしが未来を変えてしまったら。


 盛り上がった涙は視界を歪ませて、頬を伝い、落ちていった。はた、はたと布地へ降り注ぐ音だけが耳に聞こえて。先生は遣る瀬なさそうな、不安な表情でこちらを見ていた。
 泣きたくないのに、泣きたくなんか、なかったのに。

「ごめん」

 謝罪の言葉を、先生は小さく呟いた。ゆっくりと首を横へ振る。

 何がショックなのか、分かっていた。先生は、わたしを好きじゃ、ない。

 大切なのは、二十五歳の先生の妻のわたしで、そんなこと分かり切っていたのに。それなのに。
 先生にとって、未来を知りたいと迫られて、変えてしまうかもしれないわたしは、困った存在だった。

 きっとそう。そんなことを、考えもしない存在。それがわたし。

「ごめんな」

「もう、ききません、から。ごめんなさい」
 涙ははらはらと落ちて、止められなかった。

 諦めよう。このひとは、わたしを必要として、大切に想ってくれている。未来のわたしを。
 バレエは、精一杯やって、行ける所まで、頑張れるところまで、やる。
 そう、思うのにこころは悲鳴を上げる。

 知りたくなかった、知らなければよかった。未来なんて。


「もう、寝ます、お騒がせして、すみませんでした」
 いつしか緩められていた手を、そっと引こうとした。
 眠ってしまえば、明日には自分の世界へ帰れる筈なんだ。そう、これは夢だった。そう思っていく。

 じゃないと、生きて行けない。

 立ち上がり掛けたわたしの腕を、先生はもう一度引き寄せ、あっという間に抱え込みようにして抱き締められた。その温もりに、身体は反応して、更に涙は溢れ出した。嫌なのに、心地いい。涙は先生のスウェットの布地へ吸い込まれるように黒々とした跡を残す。
「いつ怪我したか知りたいか?」耳元に残る暗い声、わたしがさせている。
「もう、いいんです、ごめんなさい」
 抗いたくて、身をよじろうとしたら、腕の力はもっともっと強くなった。
「いつでもいい、俺を選んでくれ。それが条件だ。それだけは譲れない。未来で、俺を選んでくれ。形が変わってもいい。
 必ず俺はお前に恋して、お前を愛する。だからお願いだ、明日消えるな」

 強く抱きしめてる腕は、震えている。負けた。完敗だ。

 わたしはこの人に恋をした。たった今。

「名前、教えて下さい、下の」
「……何故」
「知りたいの、忘れない、ように」
「……健人だ、けんと。呼んで、有希」
「けんと」
「有希、愛してる。今のきみを」その言葉に強く縋り付いた。


 軽々と抱き上げられて、寝室の扉は開かれて、そっと柔らかなところへ横たえるように、降ろされた。
 覆うように、わたしを求める男の身体は、近づいてくる。耳元へ柔らかな破裂音が響いて、目を閉じた。

「有希、呼んで、俺を」
 ゾクゾクと背筋を何かが駆け抜けていくような、甘美な感覚は初めてなのに、この身体は戸惑うことなく受け入れた。
 初めてされることなのに、身体は緩みはじめて、素肌をはだけさせて触れてきている大きな手を待ちわびていた。滑るように肌を撫で、感覚を残して行く温もりは甘い痺れを巻き起こす。
 そっと上を向くように促された、その瞬間、唇は柔らかく塞がれた。

 初めてする、あたたかく柔らかな、したを絡ませあわせた、とろけてしまいそうなその快感に、全てを委ねて、身体の力は抜けた。

 ただ横たわっていただけなのに、けんとはわたしへ少しずつ痺れるような、悶えるような、ねだらせるような感覚を落として行く。
 全て、手慣れていて、知り尽くしていて、声を甘く上げさせるのも、小刻みな呼吸をさせるのも、躊躇わず、次の快感をわざと焦らして長引かせようとするときも、的確で。
 やわやわと小さい膨らみを、長い指を使って形を歪に変えて、もう片方の膨らみにある、立ち上がってじんじんと待ちわびていたそれを、けんとは吸い付いて、隠す。
 薄暗い寝室で起こっている出来事を、わたしは震えながら、快感に浸りながら受け入れている。
 何も、考えられない、そんな時があるのを、今、教わって、いるの。
 唇はわなないて意味の無い言葉ばかり、行儀悪く零しているのに、けんとは目を細めて喜んでいる。そうして、優しく甘い声で、余裕のある男の声で、わたしを促す。

「もっと、もっと声を出せ、そして、俺を、呼んでくれ」
 もう一方にはさっきとは違って、何度も周りをゆっくりと舐め取られた。同じように吸い付かれたいと、期待してしまうのに、焦らすように舌先は動く。
 羞恥で、心臓は潰れそう。

「呼んで、有希」そう促がされ、舌先が掠めていく感覚に、抗えなくて。

「あ、あ、っ、け、んと」
 堕ちた瞬間、ご褒美のようにじゅう、と卑猥な音を響かせて、先から胸元まで大きな甘い痺れは、何度も走り抜けていった。
 繰り返されているうちに身体の中心がとろとろと蕩けだして、ずんとお腹が重くなるような快感を覚えた瞬間、そこへ長い指は躊躇いもなく入りこんできた。待っていたと言わんばかりに。
 高くて甘く鳴く声を上げたわたしに、気をよくしたような様子だったのに、触れて欲しがっている所は避けるように、指は音を立てて動いている。
 そこじゃ、ない、そこじゃ、なくて。
 快感を拾い出したくて、そんなはしたないことを考えて、浅い呼吸を繰り返す。

「気持ち良く、なりたいか」
 嗤ったような声は、耳元へ落とされた。浅い呼吸と響く、卑猥な音と、そんな言葉にぶるり、と身体は震える。かくかくと、頭を縦に振った。もう全てこの身体は支配されて、さらに墜とされるのを待っていて。

「ねだるんだ。そういう時は、触って、と」
 そう言うと、絶妙に触れて欲しがっている際を、その長い指は掠めていった。
 高い声を上げて鳴いたわたしに、尚も囁いてくる甘い声。

「さあ、ねだれ」
「……んぅ……あぁ、っ、さわ、って!」
 抗えなくて叫ぶと、直ぐに打ち震える快感はやってきて、穏やかに目の前は白く弾け飛んた。

 気がついたら、横たわり後ろから抱き締められて、脚は割いられるように開かれて、蕩け切った所へ硬い先があてがわれていた。

「苦しかったら、すぐに言え」
 そう言うと、躊躇いもなく硬いものがわたしの中へ入りこんできた。痛みなんて何もなくピッタリと合わされるように、硬いけんとを受け入れていた。
 気持ちいい。初めてなのに、こんなに気持ち良くて、おかしくなりそう。
 声が漏れる、気持ちいい、もっとってねだるように。
 こんなのおかしい、でももう拒否、出来ない。
 ゆっくりとわたしの内側を擦り、浅いところを探られて、奥はきゅう、きゅうと手招くように呼んでいるのを感じる。もっと奥へ来て、って。

「気持ち、いいのか」
 そう尋ねられながら、膨らみにある立ち上がった所を強く摘ままれた。びく、びくと自然に身体は震える。
 ぐっ、と腰を入れられて、奥の奥まで、待ちわびていたものがやってきて、全てを埋められた、そんな気持ちになった。

 嬉しい、嬉しいの。優しく揺さぶられながら、蕩けた頭で思う。そのことで、けんとでこころと身体はいっぱいになった。
 穏やかに快感を上げられていって、もう一度白く目の前が弾け飛んだ時、けんともまたわたしで快感を得たんだと、それがわたしにも感じられるんだと、初めて、知った。

 深く深く口づけられている。気がついたら。
 もうだめ、眠りそうだ、深い深い眠りの気配は、もうすぐ、そこまできている。

「有希、俺を選んで」
 うっすらと目を開けると、不安そうな切れ長の目はわたしを覗きこんでいた。少しだけ、頷く。
 わたしは、これから長い間、今の健人には会えない。
 そう思う、でも、もう、恋したの。この、わがままで、じぶんかってで、じこちゅうで、ーでも、誰よりやさしいひとに。

「有希、愛してる」
 その言葉をわたしは手に掴んで、眠りへ落ちて行った。

・・

 目を開けて、どこにいるのか、分からなかった。ずっとずっと見慣れた、自分の部屋、そうなのに。

「有希ーっ、もう起きなさいよー」
 階段の下から、叫ぶ声が聞こえた。いつもの朝の光景。なのに、なのに。

 覚えている。何が起こったのか。


「有希っ、もう起きなさい、って起き上がってるんじゃないのよーもぅ、いつまでもあると思うな親と金っていうでしょ。朝くらい自分で起きなさい、わかったのっ」
 ノックもなしに、母はわたしの部屋へ入って来た。懐かしい、懐かしいお母さん。
「おかーさん」
「何、って有希、どうしたの、悲しいの」
 涙が、出ていた。静かに。
 母は慌てた様子で、わたしを覗きこんでいた。何を、どう言っていいかなんて分からない。
 何が起こったのかなんて、上手く説明、出来ない。でも。
 わたし、恋をした。だけど、そのひとには、長いこと、逢えない。
「おかーさん」
「有希、よしよし、嫌なことあったの、それとも怖い夢でも見たの、大丈夫、大丈夫」
 そう言うと、母はわたしを抱き締めた。小さな子どもを慰めるように、宥めるように。

 まるで、健人がする、みたいに。

 おかあさん、怖い夢じゃない、でも胸が甘く苦しくなる夢だった。

「おかーさん」
 そのまま抱きついて、泣き続けた。母は泣き止むまで、そっと背中を撫でていてくれた。


「有希、無理しなくていいのよ。辛かったらバレエ休んでいいし、ね」
「うん、もう大丈夫。ごめんね、心配掛けて」
 玄関先へ、母は追い掛けるように見送りへ来てくれた。黒のローファーを履きながらそう答えると、母は少しだけ笑った。
「無理だけはしちゃ駄目よ、ね、有希」
「分かってる、あ、もう行かないと、行って来まーす」
 玄関先の靴箱の上にある置き時計を見ると、時間ギリギリだった。まずい、遅刻だ。
「気をつけてねー」
 母のその声に見送られて、わたしは家を勢い良く飛び出した。

 車が一台通れる位の狭い路地を、駅に向かって早足で進んだ。お寺の竹垣が道なりに続いている、そんないつもの道を。
 暑い、日差しがもうジリジリと頭に痛い。シニョンに結い上げた髪は、熱を吸収して籠らせている気がした。ずり落ちてくるアームウォーマーを上げつつ、日陰を選んで歩く。本当は日傘にサングラスをして歩きたい。でもそこまでやっちゃうと、目立って良くないだろうし。

 蒸し暑いホームへ駆け降りると、丁度準急が長い列を連ねて入って来ている所だった。
 高校はここから三駅先。下りなのでこの時間帯は殆ど誰もいない車両へ乗り込んだ。
 中学受験をする時に何より重視したのは、英語のカリキュラムが充実していることと、もし海外にバレエ留学になっても、通信課程に移って高校の卒業資格が得られる、ということ。
 卒業生にはスポーツで国際的に活躍している人も多いと聞くし、芸術分野そう、バレエに対しての理解は深い学校だった。
 でも反面、活躍している子への風当たりが厳しいことも影では、ある。でもそんなことを気にしていたら、世界には出て行けない。
 準急はスピードを上げて、次の駅へ向けて大きなレールのひずみの音を響かせて走っている。ドアが開いたら、小走りにならないと間に合わないかも。扉の前で、焦る気持ちを落ち着かせようと、息を吐いた。

「有希っ、超ギリギリ。珍しいね」
「紗英ちゃん、おはよう。焦ったー」
 騒がしい教室に急ぎ足で飛び込んで、息を整えて鞄を机の上に置いた。バレエグッズを入れたトートバックを、後ろのロッカーへいれる暇は、ないな。
 斜め前の席の紗英は、椅子を横向きにして座りながら、ふーんとあっさりと声を上げた。
「ちょっと、寝坊しちゃって」
「バレエ忙しーの?最近ギリギリ多いからさー」
「うーん、まあね。夏休みもびっちりだし。紗英ちゃーん、朝練の時起こして」
「やーちゃっかりじゃん。有希らしい」

 紗英ちゃんとは中等部の頃から何故か気が合って、もう三年一緒のクラス。今年で四年目だ。
 彼女は小さい頃から泳ぐのが好きで、中等部、高等部と水泳部に入って、良い成績を残していた。
 そのせいなのかとてもさっぱりとした感じで、裏表がない。小さい頃からバレエ教室で女の子達との友達関係に少々疲れることが多いわたしは、紗英ちゃんのさっぱりとした明るさに結構助けられている、そう思う。

「おー出欠取るぞー座れー」
 ざわついた教室を縫うように、先生の声が響いた。ガタガタと椅子が鳴らされる音と、話し声。
 こころは、跳ねた。急いで鞄とトートバックを机の脇へ掛けて、そっと席に着く。そうだった担任だった、ただの担任だった。

 苦しい、これから長い間こんな想いをする。それをまざまざと思い知らされた気がした。顔を上げられない。小林先生は淡々とひとりひとりの名前を呼んでいく。

「中村」
「はい」
 距離は、今、こんなにも遠い。返事は掠れた声に、なった。
 淡々と出欠は続けられて、連絡事項はない、以上という声に、教室の中は一気に動き出した。
 次は選択授業、急いで鞄から教科書を出して、机の中へしまい必要な物だけを上に残した。
「有希ー行こう」
 紗英ちゃんはもう用意が出来たようで、声を掛けてくれる。
「あ、うん。これロッカーに入れてからでも、いい?」
「じゃ、先行って席取ってる」
「ありがとー今行くから」
 ひらひらと手を振ってロッカーへ行き掛けたら、教壇から声を、掛けられた。

「中村ーちょっといいか」

 そっと見ると、先生は出欠簿に何かを書き込んでいた。返事は出来ず、その場に固まっているわたしに少ししてから顔を上げて、手招きしてくる。
「はい」
 声は小さく、それでいて震えた。俯き加減についなって、それでも静かに近づいた。
 顔を上げられない、絶対顔は赤い。それでも向き合わないと、いけない。

「この前の台風で飛行機飛ばなかった時の振り替え、来週の金曜日の午後から野球部の連中と一緒にはなるが、出られるか?」
 煩い位にどっ、どっと鳴っていた心臓は、話し掛けられただけで止まりそうだった。
 分かっている、このひとじゃない。それでも、このひとなの。
 冷静になろう、なって考えなきゃ、そっと長い息を吐く。
 金曜日は試験明けで午前中で学校は終わる。バレエは夕方からだから、問題はない。

「はい、ご迷惑をお掛けします。よろしくお願いします。」
 ゆっくりと掠れた声で答え、静かに頭を下げた。顔は、見ることが出来ない。
「そうか、じゃ、ここの教室で、十三時からな」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
 俯いたまま、少し早口で話した。この時をすぐに終わらせてしまいたくて。

「昨日は、色々とありがとうな。バレエの公演、楽しみにしてる」

 思いもよらぬ言葉に、思わず顔を上げた。そこには無表情なのに、優しい目の奥をこちらへ真っ直ぐ向けてくれている先生が、いた。
 何を言われたのか、わからない。どういう、こと?
 その答えを導き出すことは出来なくて、返事も出来なくて、ただ呆然としていたら小林先生は、そっと肩を叩くと傍をすり抜けていった。

 混乱した頭で呆然としていると、誰もいない教室に授業の始まりを告げるチャイムは、響いた。


「紗英ちゃん、わたし、昨日何してた?」
 ずっとずっと授業中、考え続けてやっと思い当たることを突き止めた時、わたしの顔は真っ青になっていたと思う。もしかして、まさか。でも、自分で一杯一杯でそんなこと思いもしなかった。探りを入れるためにお弁当を鞄から出しながら、紗英ちゃんに聞く。

「昨日……えー、何でそんなこと聞くの」
 同じくお弁当を広げていた紗英ちゃんは、パックの牛乳を手に持つと、軽く降りだした。
「なんでもいいから、教えて」
「うーん、どうだったっけ……」
「なんか、朝は有希、超ハイテンションだったわよ」
 いつの間にか、教室の外からお弁当を持って現れた泉が言った。泉も中等部の時からの友達だ。華道の大きな家で、跡継ぎの一人娘で、箱入りのお嬢様。なのに中々の毒舌家で、冷静で、思っていることはズバズバ言う。でも本当に人を思いやってのことが多いと感じるし、そんな泉を羨ましく、素敵に思う。
 いつも学校では三人で一緒にいた。

「そうだっ、有希に朝っぱらから抱きつかれて、キャーキャー言われた」
 晴れ晴れとした顔をした紗英ちゃんは、昨日の出来事を思い出したらしい。朝っぱらから抱きついた……って、何やってんだ自分。頭が痛い。
「有希らしくなかったけど、なにかあったの」
 空いている席から椅子を持ってきた泉は、座るとじっとわたしを見つめて来る。まずい、泉は妙に勘がいい所があるし、まさか、言えないよ、未来に行って未来の旦那さまに口説かれて堕とされたなんて。
「うーん、なんかハイテンションな、気分?」
 嘘が上手くないのは分かっているけれど、なんとか笑って言うと、二人はふーん、と流したようだ。良かった。でも気になることはまだ、ある。
「小林先生にもお礼を言われて、バレエの公演、楽しみにしてるって言われたけれど、何があったか分からなくって」
 他に言いようは無くて、素直に困っていることを口に出した。すると目の前の二人は、驚いたように顔を見合わせた。
「こばけんが、ねぇ」
「あり得ないわね」

「あのね、こばけんって、なに?」意味は分からず二人に聞くと泉は、有希終わってる、と呟いた。


「こばけんはねーダンスとか、ミュージカルとかそういう系が苦手らしいよ。去年、文化祭のダンスコンテストの審査員を生徒会から頼まれても、採点基準がさっぱり分からんからあみだでテキトーにつけるぞ、って無責任なこと言って、生徒会を撃退したらしい、って有名な話じゃん」
 そう言うと紗英ちゃんはお弁当箱の中に入っていた卵焼きを、ぐさっとフォークで刺した。
「この間の能、狂言鑑賞の時だって、ぐうぐう寝てて教頭先生に頭叩かれていたわよ」
「そ、そうだったんだ」
 何をやっているんだろう。というかそんなこと、していたんだ………。
「体育祭のフォークダンスだって、男子足りないから入ってって体育委員に頼まれたらしいけれど、音響やってるから絶対行かねーって頑なに拒否だよ?フォークダンスもか、って部活で話題になったもん」
「筋金入り、ってやつよね。それなのにバレエは楽しみにしてるなんて、おかしいよね」
 じっ、と泉はわたしのことを見てくる。そんなことを言われても。

「実は、公演のこと、身に覚えが、ないんだよね」

 こうなったら正直に話すしかない。そうわたしが呟くと、二人は呆れたように言った。
「昨日、言ってたよ。こばけんにバレエのチケット渡すって」
「やめなさいよって言ってたのに、それでも渡したのね。チャレンジャーよねー」
「えええっ」
 これで確実になった。昨日、入れ替わってこの世界にやってきた二十五歳の自分は、どうやら先生へ余計なことをしていったらしい。本当、何してくれちゃってるの、自分!
「有希呆けてんの?昨日言ったことすら、忘れちゃったなんて」
「あー、んー、大会と公演近くて、忙しくて、なんていうか物忘れが、ねぇ」
「それ、物忘れのレベルじゃないわよ。どっかに頭打って意識飛んだレベル」
 冷や汗をかきながら弁解したけれど、泉は紙パックのウーロン茶を飲みながら、こちらを伺っている。
「と、飛んだら、こう、グランジュテ飛んだら、ね、昨日意識も飛んだみたい。あはは」
「まあ、有希の呆けは、今始まったことじゃないしね」
「それは、そうだけれど」
 しらーっとした視線で泉はやっぱりこちらを見てきた。これ以上はどうやら聞き出せなさそうだ。もっと余計な事してなければいいけれど。二十五歳の自分……。

「っていうかこばけんのこと、興味ないんだね。有希は」
 紗英ちゃんの言葉に、考え込んだ。興味、そうだ、いままではこれっぽっちも持っていなかった。
「……そう、だった、かも」
 でも、今は知りたい。何でもいい。だけど、それは言い出せない。
「自分の担任の基本情報も知らないってどうなのよ。何歳なのかも知らないの、もしかして」
「……うん」
 知らない。本当に興味は無かったんだ。でも、今は違う。どんな些細な事でもいい。知りたい。
 先生の名前すら覚えていなかった自分。絶対あの時呆れてた。風が頬を撫でて行った海辺の風景と、繋いだ優しい温もりが瞼の裏に蘇る。

「まあ知らないなら、知ればいいんじゃん?」
 紗英ちゃんは、呆れたように助け舟を出してくれた。
「まあ、そうね……っていうか、まずいわよ。喋っていたら昼休み残り少ないわ!」
 教室の時計を見た泉の言葉に、わたしと紗英ちゃんも慌ててお弁当の残りを食べた。

 その日、一日は二十五歳の自分のせいで、びくびくして過ごす羽目になった。
 帰りのホームルームでは、何事もなく胸を撫で下ろしたけれど、バレエのお稽古では、昨日のジゼルの方が断然よかったわ!手を抜いてるのっ、有希ちゃんっと正志先生にスパルタで怒られた。
 そんなことを言われたって。本当に何してくれちゃったの、自分。

 大人で、あのひとにあんなに愛されて、バレエも自分よりいい。
 もやもやした、今迄に抱えたことのない、よく分からないものを、ちょっと、ううんかなり黒い気持ちをわたしは胸に抱えて、途方に暮れた。


 バレエ以外の時間は、勉強と週一回の英会話で忙しい日々が戻ってきて、少しずつあの海辺の風景は色褪せていくような気がした。
 でも決定的に変わったことは、先生の声や姿を、その存在を感じてしまうと意識してしまう、ということ。
 同じひと、でも違う。
 そう分かっているのに、意識してしまう。

 週明けから定期テストは始まり、気持ちは切り替えて臨んだつもりだった。でも出来た、という手応えはあまりなかった。気持ちはフラフラとしていて、モヤモヤもしていて、落ち着きがない。

 知らなければ、良かった。でも、もう知ってしまった。
 好きだとこころから想ったひとと、深く触れ合う心地よさも、優しく熱い眼を向けられて、身を委ねる喜びも、恋をした、その瞬間に与えられた焦れるような切ない気持ちも。


 金曜日の午後、指定された時間を過ぎているのに、野球部の子も、小林先生も姿を見せない。
 ひとり、教室で不安な気持ちで待っていた。間違えたかな、今日じゃなかったっけ。でも昨日、先生は帰り際、『中村、明日野球部の連中と補講だから忘れんなよ。栗田も、野球部の連中に忘れんな、って言っておけ』って、野球部の栗田くんとわたしに念押ししていた。だから、間違ってはいない筈、なんだ。

 教室が違うのかもしれない、そう思って前の扉へ向かい開けようとした時、廊下から来た小林先生と鉢合わせになった。
「ああ、済まん。待たせたな。さあ、やるか」
「えっ、あの、野球部のひとたちは」
「あーこの後、明日からの大会に前乗りに行く予定だったんだが、高速道路で玉突きの衝突事故が起きてな。何時着くか分からんから早めに出たいって話になって、今、急いでバスで出た所だ」
 なんだ、そうだったんだ。間違ってはいなかった。安堵の気持ちで胸は一杯になった。
「じゃ、あの、延期、ですよね」
「あ?やるぞ。まあ座れ」
「えっ、でも、ひ、ひとりですし、先生の手を煩わせては」
「野球部とは後日、夏休み中にでもやる、心配するな。中村は夏休み中大会やら短期留学やらで学校来ないだろうが。今日やっておいたほうがいい。だから座れ」
 そう言えば、随分と前に夏休みのスケジュールを聞かれた。さらっとした、こちらに興味を持っていないような聞き方だったのに、先生はよく覚えていた。でも、今はそんなことに苦しめられる羽目になった。
「……はい」渋々自分の席へつくと、先生はいきなり前の席の椅子を目一杯引いて、跨るように座り向かい合わせになった。

 近い、近すぎる。

 ばくばくと心臓の音は煩く鳴り響く。先生はお構いなしに小脇に抱えていた、大きい茶封筒を開けるとほい、と言いながら一枚の紙を渡して来た。わたしの数学の定期テストの答案、採点は終わっていて、名前の横に七十一という点数も書き込まれていた。
「あの、授業、するんですよね」
「いや、一体一ならテストの出来ていない所をもう一度さらってみたほうが早い。中村はなんつうかここでそのミスするか、っていう凡ミスが多いんだよな。テストってな、今迄教えてきたことを万遍なく出してんだ。それなら出来ていない所を教えた方が、中村の身につくだろう」
「……はい」
「じゃ、数学のノートも出せ」
 顔は上げることは出来なくて、どうしてこうなるの、そんなことを思う。
 そっと机の中から数1の教科書とノートを出すと、さっ、とノートは奪われた。
「ちょっと見せてみろ」
 かろうじて頷く。先生はパラパラと音を響かせてノートをめくっている気配がする。一応ちゃんと纏めているつもりだ。でも何か言われるかもと思うと、不安になる。
「あー成る程、大体分かった」
 そう言うと、先生はノートを返してくれた。空いているページを開いたまま。
「そうしたら、問五から解いてみろ」
 半袖のワイシャツの胸ポケットから赤ペンを出した先生は、コツ、コツとわたしの答案用紙にレ点がつけられた問五を示した。


「だから、どうしてそこで凡ミスするんだ。最後まで気を抜くな」
「………すみません」
 ずっと見守られて数式を解くのは、とても気が重い作業になるか、と思いきや、先生は同じ机の上で何か書類のようなものを書き始めた。避難計画原案、と書かれていたので手持ちの仕事なんだろう。
 時々解いている手順を確認して、間違っているとヒントを出し、分からなくて悩んでいたら、解説をしてくれた。
「あの、これって、家でも出来るような気も、するんですが」
 最後まで解き終わり、もう一度新しい答案用紙を与えられて最初から解くように、と言われ、内心悲鳴を上げた。一時間位で終わり、と思っていたのにこの分だと余裕で超える。早く帰りたかった。
「中村」
「……はい」
「百点取れたら、帰っていい。分かったか」
「………はい」
 結局、問題へ向かいあうことになってしまった。わたしのシャープペンシルと、先生のボールペンと、エアコンの稼働音だけが教室に響く。


 ここ一週間で、こばけんという言葉が誰かの口から漏れる度、耳をそばだてるようになった。
 それで知ったのは、先生は結構な割合で生徒の噂の的だということ。
 知ろうとしていなかった、というよりは本当に興味はなかったんだ。わたしの興味はバレエに集中していた。でも、先生のことを知りたいと思っていたら、想像以上に知ることになり、それはそれとして苦しい気持ちにもなった。
 この間、階段にけつまずいていた、制服をミニスカに改造した女子に説教して、半泣きにさせた、焼きそばパンを食べ過ぎて胸焼け、そして、二年の女子に告白されて『悪いが、生徒とは恋愛出来ない。ごめんな』と断った、ことも。

 生徒とは恋愛出来ない。そう聞いた時、胸に棘は刺さった。でも納得もしていた。

 教師と生徒では、恋愛にはならない。というかわたしの中では先生、というひとたちは恋愛の対象外だと思っていた。
 なのに、好きになってしまったのは、未来の旦那様で、今は担任の先生。
 このひとは今時点でわたしのことなんて、何とも思っていないだろう。
 それなら、今はこのままでいい。今は。

「いつでもいい、俺を選んでくれ。それが条件だ。それだけは譲れない。未来で、俺を選んでくれ。形が変わってもいい。
 必ず俺はお前に恋して、お前を愛する。だからお願いだ、明日消えるな」

 そんな楔のような、それでいて熱を帯びた言葉に、縋り付いている自分。
 どうしたらいいのか、分からなくて、とにかく今、ここにいる先生からは逃げ出してしまいたくなっている。
 そんなこと、今迄一度も思ったことは、なかったのに。

「出来ました」
 小さな声で呟くと、小林先生が顔を上げた気配がした。どれ、と言われて答案用紙は先生の手へ渡り、赤ペンで次々と丸を付けられていく。
 最後に百の数字を名前の隣に、勢いよく小林先生は赤ペンで記した。

「やれば出来るじゃないか。中村は基礎が出来てるんだ、凡ミスに気をつけて、視点を変えればどんな問題だって解ける」
 先生に明るい声でそう言われて、そのことを嬉しく感じてしまう。
「はい」
 返事は少しだけ弾んだものになった。小林先生は厳しいけれど、ちゃんと出来たり努力したことは認めてくれる。それは感じていた。今、そうされてこころは浮き足立つ、どうしても。
「次このテストが出たら、中村は百点取れる」
「出るんですか」
「そんな訳ないだろうが」
 そう言われて、百点の答案用紙を渡された。
「こっちの定期テストの方は、来週の数学の時間に返すからな。こっちは持って行っていい」
「ありがとう、ございました」
 そのわたしの声に、先生は書類を纏めはじめた。やっと終わり。ほっとして筆記用具をペンケースへ入れていく。早く帰りたい、早く、早く。

 急ぐように身の回りの物をまとめた。先生はゆっくりとした動きで教室のエアコンを消して、そのまま大きく窓を開けた。外からは蒸した熱波と、グラウンドの部活動のざわついた声が入ってきた。
「先生、ありがとうございました。今日は失礼します」
 鞄とトートバックをそれぞれ持って、自分の席から先生へ向けて頭を下げた。

「中村、あの後は何事も無いか。何かあれば、言え」

 思わず顔を上げた。一週間前に、バレエの公演を楽しみにしている、と言われた時以来、目を合わせていなかったのに。
 あの日と同じように、先生は優しい目の奥をわたしに向けてきていた。

 まるで、健人の、ように。

「何も、ありません」
 言われた言葉は、全くといっていい程、理解が出来ない。事実この一週間、何も変わったことはなかった。
 だから、そう答える。心臓は煩く鳴り響き、回らない頭で二十五歳の自分は、何をしたのか、そう考えた。

「そうか、ならいい」
 先生はほっとしたように、少しだけ笑った。その顔に心臓は止まりそうになった。もう目を離せない。ずっと、ずっと見つめていたい、そしてもっと一緒に居たい。そんなことは、出来ないのに。
 そんな想いを引き剥がしたくて、意を決してもう一度頭を下げた。そして、教室の扉へ向かう。

「中村」

 まだ、何かあるの!ほっとしていたところに、もう一度声が掛かって、身体は情けない程に震えた。そっと振り返ると、小林先生は窓から降り注ぐ熱い光を身に纏って立っていた。

「中村は、誰かを愛したことがあるのか」

 その問いに、世界から、全ての音は消え去って、辺りは静かに、なった。
 それを、あなたが問うの。どうして、何故。
 先生は真剣な顔をしていた。ふざけたりしていない、どうしても知りたいのだ、とその表情から伝わってきた。唇はわなないて、思わず発した声は掠れ、震えた。

「恋に堕とされたことなら、あります」

 反射的に、口をついて出た言葉。もう取り戻せない。未来のあなたに、恋をした。その言葉は何とか飲み込む。

「苦しいか」

 何故先生はそれを聞くの。身体はガタガタと震えている気がした。音は何時の間にか戻ってきていた。グラウンドから、活気のある、部活動の掛け声。

「分からない、始まったばかりだから。でも、きっと、そうなる」

 苦しい声で、何とか絞り出すように答えた。今、答えられる最大限の、それでいて精一杯の返事を先生へ返したくて。先生は苦い顔になって、一言だけ、教室の中へ落とした。

「そうか」

 そう言うと、窓を閉めて小林先生は無言で教室を出て行った。
 残されて、目を伏せたわたしは、ただ、奥歯をぐっ、と噛み締めた。


 夏休みに入ってすぐに東京の隣県で行われたコンクールの結果は、何とか入賞したものの、それまでとは違い、低い順位になった。
 金平糖のヴァリエーションは大好きで、何度も踊っていたのにも関わらず予選でミスをして、決戦に出られるかも危うく、一分間の出番が終わった後、ポアントのカバーをつけるのも忘れ、廊下の隅に少しだけうずくまった。
 ミスなんか、したこと、なかったのに。
 いつも自信満々に決戦へ出られるのを確信して、こころは決戦へ向けてワクワクしていたのに、次の日の夜に発表される決戦出場者の発表まで、憂鬱な、それでいて不安な時を過ごした。
 次の日のバレコンの付き添いで行っていた美紀子先生から、携帯へ『有希ちゃん、決戦決まったわよ。でもあのミスは良くなかった。決戦は気持ちを入れ替えて、ね』と連絡を頂き、ほっと胸を撫で下ろした。

 分かっていた。何が原因なのか。

 バレエのことにばかり夢中で、楽しくて、それだけだったのに、恋はいきなりやってきた。
 今、この恋は心の何処へ収めておけばいいのか、分からないままで。
 複雑で、難解な恋をしてしまって、今、遅過ぎる初恋を抱えたわたしは、ただオロオロと情けないまでに狼狽えている。それがバレエに集中し切れない原因だった。

 そこまでは分かっている。でも、どうしていいのか、分からない。

「あ、有希ちゃん、バレコン入賞おめでとう」
 レオタードに着替えて、廊下を下向きで歩いていたら、男子エリートクラスの終わりの時間と重なってしまい、汗を拭きながら出てきた柚木くんに声を掛けられた。
「………ありがとう。柚木くんの方が凄いよね。第三位の一だもん。おめでとう」
「ありがとう、僕さ、初めてバレコン入賞したからさー嬉し過ぎて鼻血出るかと思った。こんな気分を有希ちゃんはいっつも味わってるんだって、思ったら次も頑張ろうって、すんげー思ったよ」
「………そう、良かったね……」
 無邪気な顔して笑った柚木くんの顔を、もやもやした気持ちで見つめた。柚木くんは同じ年の高校一年生で、バレエは小三の頃から習い始め、あっという間に上達してわたしと同じく、中学からはこのバレエ団の本部にある、エリートクラスへ来るようになった。でも上がり症の柚木くんは実力があるのにここぞ、という時、公演やコンクールの大事なところで失敗してしまう。
 そうだったのに、今回のバレコンは予選の時から落ち着いていて、しっかりと決戦まで実力を出し切っていた。わたしとは正反対だ。
「もう、負けないから、有希ちゃんには」
 はっ、と顔を上げるとそこには、自信に満ち溢れた柚木くんの顔があった。いきなりの宣戦布告に思わず眉根を寄せた。悔しい、自分が今のベストだと思えるバレエを舞台の上で出来ていれば、例え低い順位でもこんなに悔しくはなかった。
「……結音(ゆのん)ちゃんには、報告したの?第三位の一のこと」
「うん、メールでね。凄い!やったじゃないって、喜んでいた」
 話を逸らしてみると、柚木くんは凄く明るい、優しい笑顔になった。高二の河原結音ちゃんは柚木くんと同じバレエ研究所でずっと、一緒だった。
 結音ちゃんが本部エリートクラスになると、柚木くんも追いかけるように男子エリートクラスに入って、二人はいつも一緒だった。でも結音ちゃんは今年の冬、スイスで行われた国際コンクールで、決戦まで進み、入賞は逃したものの、奨学金(スカラシップ)のオファーを貰い、イギリスにある由緒正しいバレエ学校へこの春から留学している。
 そこから柚木くんは変わった。皆、何も言わないけれど、何と無く感づいている。

 結音ちゃんと、同じバレエ学校を目指している、って。

「そっか、結音ちゃん、元気?」
「うん、メールしかしてないけれど。夏なのに天気悪いっ、っていつも書いて来る」
「そ、っか」

 どう返事をしていいのか、分からなくて曖昧になる。薄く笑って、言葉を切り出した。
「じゃ、わたし、行くね」
「あ、うん、じゃね」
 手を振って別れてから、後悔が押し寄せてきた。もっと心から祝福出来ない自分、いつもは柚木くんにおめでとうってちゃんと祝福されて、コンクールのことを話したりして、そうしていたのに、反対の立場になってそれが出来ない。そんな自分がもどかしい、というか情けない。

「何うじゃうじゃ悩んでいるのよっ、レッスン始めるわよっ」
「いたっ、正志先生っ、何するんですかっ」
 後ろからCDのケースで頭にかなり痛くチョップされた。頭を抑えて後ろを振り返ると、正志先生はため息をついて言った。
「全く、ねぇ。孝介が上り調子になってきて一安心かと思ったら、今度は有希ちゃんが不調。もう青春真っ只中は厄介だわあ。何が原因なのよ、こら」
「いたっ、痛いですっ、やめてください」
「痛くしてるのよっ、全くアンタって子は、あんなつまらないミスをしてっ」
「ごっ、ごめんなさい」
 そう言いながらも正志先生は、わたしをCDのケースでチョップし続けた。
 正志先生は、このバレエ団の振り付け、演出、も手がけるバレエの先生。昔は海外の有名バレエ団で主役級を第一線で踊っていた、そんな凄い先生だ。
 まあ、話し方には特徴があるけれど、正志先生は美しい人ならば性別はこだわりなく愛で、美しい物は自分のものにしたくなってしまう性質、らしい。その辺の線引きはきっちり正志先生の中にあるらしく、バレエに関しては美しくない、と判断されると容赦ない攻撃を食らう。
 年齢の割にスラリとした筋肉質の、その美しい立ち姿に見惚れている子も多い。でも今はその肉体美がお怒りで、迫力があって、怖い。
「結音ちゃんが抜けて、次のエースがここで転んでいてどうするのよっ、孝介にまで発破かけられてもしょぼくれているのなら、ジゼル踊らせないわよ」
「い、嫌ですっ、ちゃんと、やります、やらせてくださいっ」
「出来るの?ジゼルやりたい子は沢山いるのよ。有希ちゃんにはしょぼくれている暇はないの、何があったかは知らないけれど、最近の有希ちゃんは不安定過ぎるわ、全く、恋でもしたの?」
 ズバリ言い当てられて、わたしは黙った。恋、そうかも。
 でも、言えない恋だ。未来へ行って自分の旦那様を好きになったなんて、誰が信じるんだろう。自分でさえ信じられないのに。
「………まあ、いいわ。とにかく今はバレエに集中なさい、でないと」
「がっ、頑張りますっ」
 CDのケースを高く振り上げた正志先生にお辞儀して、レッスン室へ逃げ出した。これ以上チョップされたら頭の形は変わってしまう。


「有希ちゃん、もっとしっかり軸足開いて!」
 今日のレッスンのアンシェヌマンは、猛烈に正志先生からしごかれて、疲れてきた。ストレッチとバーの後広いレッスン室では四人ずつ、即興でテクニックを組み合わせていくアンシェヌマンをしている。正志先生、これ、かなり怒っているんだよね。笑顔で踊りながらも、内心はまずい、と思っていた。

 気持ちを、切り替えなきゃ。恋にうつつをぬかしている暇なんて、今のわたしにはない筈。まずはジゼルをしっかりと踊って、それが終わってからは、コンクールとワークショップに忙しくて、小林先生のことを考えている余裕なんてない。無心で、踊らなくっちゃ、無心で。複雑なアンシェヌマンを、一つずつ丁寧に。そう思っているのに、身体の動きは冴えない。自分でも、分かる。

「ダメ!有希っ、もっと指先まで集中なさい!」
 ついに呼び捨てで怒られた。正志先生はその子が駄目な時、気持ちが弱くて厳しくしたい子には呼び捨てになる。
 これじゃあ、ダメだ。主役を踊るのに、主役なのに。
 フワフワ浮ついた気持ちでいたら、降ろされてしまう。代わりになれる子はこのクラスの子、全員だ。
 他の子たちの、突き刺さるような視線が痛い。主役に選ばれたからには、皆を納得させられるようなバレエをしなければならないのに、わたしは何をしているんだろう。
 奥歯をぐっ、と噛み締めた。もっと、ちゃんとやらなきゃ。もっと。
 腹筋に程よい力を掛けて、丁寧に、丁寧に。
 バレエピアニストの濱さんの音をよく聞いて、ブリゼカトル、ブリゼパッセ、複雑なアレグロだって、きちんと丁寧に。

「いいわ、次!」
 自分の番が終わってどっ、と肩に疲れが来た。何とかやり遂げた、でも完璧とは言い難い。落ち込む。

 有希、愛している。今の君を。

 そんな言葉が耳の奥で優しく響いて、縋りついてあの腕の中にずっと居たいと思ってしまう。でも。
 振り切りたくて、レッスン中なのにブンブン頭を振った。何度も。

「では、今日はここまで。有希ちゃんは残ってね」
 ありがとうございました、とお辞儀して、思い思いに皆、解散になった。正志先生からのお呼び出し、怖いな。言われた瞬間、びくっ、と体は震えた。
「正志先生、今日はすみませんでした」
 皆が明るい顔でレッスン室から出て行くのを鏡越しに眺めながら、正志先生へ声を掛けた。汗の引かない身体を、居心地悪く思いながら。
「すまないって分っているのね、有希ちゃん」
 美しい肉体美は更にお怒りだった。項垂れて何も言えず、黙った。
「何があったかは知らないわ、でもね、今、有希ちゃんが抱えている気持ちを否定してはいけないわ。思ってしまったんだもの、受け入れる努力をなさい」
 その言葉に顔を上げた。正志先生は真っ直ぐわたしを見ている。受け入れる、努力。
「正しい、だけでは良いバレエは踊れない。醜いところも汚いところも、ひとの感情を飲み込んでそして表すの。それがバレエなのよ。分かるかしら」

 正志先生はとても深いことを言っていた。でも、こんな気持ちをバレエに入れていいの。
 あの人を、健人を好きで、恋い焦がれて、でも、会えない。
 二十五歳の自分を羨んで、でも夢を諦められない。

 ポロリと涙は零れ落ちた。一つ落ちると、それは次から次へと頬を伝っていった。
「せんせい、それで、いいんでしょうか」
「いいのよ、それで」
 正志先生は、そう言い切った。きっぱりと、有無を言わせない、といったように。
「これだけは忘れてはならないわ。苦しんで、もがいたことはその人の糧になる。でも有希ちゃんに悠長に悩んでいる暇はないのよ。それはプロになったら益々そうなって行く。
 泣くのは今日迄よ。明日からは今以上にビシバシやるからね、分かったわね」
「……はい、ありがとうございます」
 そう言うと正志先生はレッスン室から出て行った。はーっとため息が出る。少しだけ持っていたフェイスタオルで腕やデコルテの汗、そして涙を拭い、その場にしゃがみ込んだ。

・・・

 正志先生の言葉は、初めての恋にがんじがらめになっていたわたしの手足を滑らかに動かした。捌け口のない想いをバレエに、ジゼルに乗せていい。それは涙が出るほど嬉しかった。
 ジゼルは、身体が弱いけれど純粋で、無垢な女の子。身分を隠して村を訪れたアルブレヒトと恋に落ちる。アルブレヒトを愛する喜びを表現したジゼルのヴァリエーションは、わたしの出演する一幕目最大の山場だ。なのに毎日練習するヴァリエーションの出来は、まちまちだった。ハマって決められた時には正志先生はただ黙って頷くだけ、だったし、良くない時は怒号が容赦無く飛んだ。
 気持ちを安定させなきゃ、そう焦ると更にスパルタは加速した。どうしよう、二幕目のジゼルの美夏さんはとても安定して仕上げてきている。
 主役交代を言い渡されても、おかしくはない。なのに、そうはされなかった。

 ざわついた本番前の楽屋が並ぶ廊下に備え付けられた、会場やロビーを映し出すモニターをただ、じっと眺めていた。開場は二十分前に始まっていて列を作っていたお客様がホールに入り、ロビーもホール内もそれなりに落ちついて来ている。
「有希ちゃん、本番よろしく」
「あっ、はい、よろしくお願いします」
 今日のアルブレヒト役の、手嶋さんが通り過ぎながら声を掛けてくれた。衣装も身につけて、お化粧も終わって、お互い役になり切った格好なのに、掛け合う声は明るくて何だか間抜け。エリートクラス選抜と若手のバレエ団員の育成の為のプレ公演は、自分の存在をアピールする最高の場。だけど毎年、本番前に緊張感は無くてのんびりした感じがする。個々にリラックスしながらおしゃべりをしたり、何か食べているひともいるし、ひとそれぞれだ。若手、とはいえバレエ団の歴とした一員のひとたちが作り上げる雰囲気に、驚かされる。これがプロなんだ、って。
「誰か待っているの」
 後ろから、二幕目の主役の美夏さんに声を掛けられて、身体はびくっと震えた。
「あ、うーん。友達、です」
「ふーん。すっごい熱心に見てたから、そっか」
 美夏さんはそう言うと、楽屋へ入って行った。ひとが行き交う廊下でじっとしているなんてわたしくらい。でも。
「あ」
 思わず声は漏れた。ロビーのモニターに映し出された、不鮮明だけれど黒のジャケットを着た背の高い、そのひとを見つめた。茶色の紙袋をぶら下げながらゆっくりと辺りを見回して、お花やプレゼントを楽屋まで届けてくれる受付へ健人は向かって行った。どうしよう、そんなこと期待もしていなかったのに、まさか。
 すぐに出て行って、そして、抱きつきたい衝動に駆られた。先生として応援の意味を込めて、なんだろう。それは分かっているのに、それでも。モニターの中に小さくなった健人は、受付で送付票を書いているようで、背を向けて丸めている。
「コラッ、ジゼルがこんな所で何やってんのよ。邪魔だからどきなさい」
「ゔ、ぁ、っ、正志先生っ」
 ビシッと黒のスーツを着こなした正志先生は、金髪碧眼の背の高い男性達を案内していたようで、しっ、しっと手で払われた。端に寄って、膝を折り挨拶をする。
「身体冷えるから、ウロウロしないで大人しくなさいよ、わかったの」
 通り過ぎながら怒られた。顔を上げると、すでに一行は通り過ぎて行った後だ。確かにウォームアップをした後に、エアコンで冷やされた廊下に居続けていた。でも、身体は、熱い。
 もう一度モニターを見上げた。もう、受付に健人の姿は無い。客席は自由席だから、ホールの中へ入ってしまったらもう豆粒みたいな全体からは探せない。

 でも、来てくれた。あんな答えを言って健人を幻滅させたかも、答えられなかったかも、と思っていたのに、来てくれた。
 嬉しい。この客席の何処かで見ていてくれると思ったら、胸の中にじんわりと暖かいものが湧いた。そんなのは、初めて。

 有希、愛してる。今のきみを。

 身体に刻み込まれた言葉は、わたしを困らせて、気恥ずかしくさせて、溶かして、柔らかくする。



「-以上で本日の公演は終了いたします。ご鑑賞誠にありがとうございました。団員一同御礼申し上げます。-」カーテンコールを終えた幕の向こう側で、公演の終了を告げるアナウンスは続いている。
 始まってしまえば何時もあっという間に時間は過ぎていった。
 ただ、胸の中は暖かい喜びに溢れていた。舞台に出て、こんなに広いホールの満員に近い観客の中から、直ぐにわたしを見つめていた優しい切れ長の目と合うなんて。
 こんなことはいけないのかもしれない、そう思ったけれど止められなかった。
 今日のバレエは、恋するわたしだけのアルブレヒトへ想いを込めた。あなたが、すき、って。

「有希ちゃん、よかった、よかったよ」
「ありがとう、ございます」
 すれ違うひと、ひとに笑顔で声を掛けられた。拍手されて、肩を叩かれて、興奮した様子で抱きつかれたりしながらも、ひとでごった返す廊下を楽屋へ向かって急いだ。
 二幕目は舞台袖で美夏さんのジゼルを観ていた。楽屋には始まってから戻ってはいない。
 扉を開けて、自分の名前が書かれたコーナーを目指す。棚の上には大きな花束やぬいぐるみが置かれていたけれど、探しているのは。
「あった」
 送付票の癖のある右上がりの文字、わたしの名前と『小林健人』が並んでいる。そっと茶色の紙袋を開けるとそこには、白い薔薇と、ピンクが薄く入ったダリアのふんわりとした可愛らしくも、立派なブーケが入っていた。フラワーショップに備え付けの、ほんの小さなメッセージカードが添えられてある。

 ー券をありがとう。楽しみにしてるー

「何にやけてるのよ。そんなそわそわして、もじもじして、恋する女の子そのものじゃない」
「ふぁあ、っ。み、見ましたかっ」
 慌てて声を掛けられた方を向くと、正志先生は晴れやかにそして、くすくすと笑っていた。
「有希ちゃん、よくやった。本当に良かったわ。今迄で一番のジゼルだった」
「ありがとう、ございます」
「来月から専科に移りなさい。今の有希ちゃんならもう大丈夫」
「専科、いいんですかっ」
「栗田先生からお許しが出たわ。有希ちゃんは良いものを手に入れて、自分の力に変えられた、って仰ってた」
 このバレエ団の創始者の娘である栗田先生は、この国のバレエ界をかつて背負っていた凄いひと。未だ現役で繊細で打ち震えるような世界を栗田先生が表現するのを見るたびに、心は震える。そんなひとに認められる、なんて。
 専科と呼ばれている専攻科はエリートクラスのひとつ上、どこのバレエ団に出してもその実力を保証出来ると言われている、プロ予備軍。ずっと行きたかった。ずっと憧れていた世界。
「誰のおかげなのかしらん。ねぇ、有希ちゃん」
 ふふふんと鼻を鳴らしながら、正志先生は上から目線でニヤニヤしている。やだな、喜んでいたのに水を差された。
「やっぱり、さっき見ましたよね」
「いいひとが出来たんでしょ、熱心に会場モニター見ていたしねぇ。カレシ?」
「……わたしの彼氏はバレエですから」
「ふーん、まだ片想い、ってところね。でも観にきてくれたのね、甘酸っぱあい」
 何が甘酸っぱあい、なんだろ。もうヤダ。片想い、その通りだけどそんなこと指摘して何になるの。
「ご挨拶に行ってらっしゃい。今日の有希ちゃんのバレエを見ていて、ご挨拶したらカレだって有希ちゃんに堕ちるわ」そう言うと正志先生はウインクした。おっさんのウインク、ちょっと気持ちワルイ。一礼だけすると、楽屋を急いで出た。


 豪華なロビーへ降りて行くと、そこは帰りを急ぐ人、出演者と会っている人、パンフレットを購入している人などでごったがえしていた。もう、帰っちゃったかな。
 左右を見る度に青のチュールスカートが揺れる。遠くから有希っ、と呼ぶ声がして見上げると、いつもより可愛いワンピースを着た紗英ちゃんと、お洒落な泉とそしてー
 今、降りて来たばかりの階段をまた急いで登った。胸をぎゅう、とさせながら。
「有希っ、すっっっっっごいよかった」紗英ちゃんは直ぐに抱きついてきた。ありがとう、小声で言うと背中をさすられた。嬉しい。水泳で鍛えているけれど、それでも紗英ちゃんは、ふわふわ。
 目線を動かすとにまーっ、と笑っている泉の隣に、苦虫を潰したような顔をした健人がいる。
「中村、公演成功おめでとう」
 それだけ言うと目を逸らされた。そんなに嫌だったんだ、観に来るの。でも来てくれた。
「本日はお越しくださり、ありがとうございました」
 紗英ちゃんからそっと離れると村娘の青い衣装のまま、スカートの裾をもち、足を折って一番丁寧な礼をとる。
 わたしには、これしか持ちあわせていないの。たったひとつだけの、素敵な自分を見せたい。今精一杯の。未来で選ばれたいから、あなたに。
「有希、凄かったよね、先生」
「まあ、な」
「先生、バレエは観ることが出来るんですね」
「あー、まあ、途中寝たけれどな」
「有希が重要なんだから、一幕目はガン見してたじゃん」
「招待券貰って来たのに、寝ていたら駄目だろうが」
「あれ、能、狂言鑑賞の時は、寝てましたよね」
「うるせーな、お前ら。中村が笑ってるだろうが」
 紗英ちゃんと泉に質問攻めに合った健人は、耐えきれないように叫んだ。嬉しい、観ていてくれた、それだけで涙が出そう。
「中村、受付に花、預けたから。ちっこいけどな、安月給だから」
「ありがとう、ございます」
 目線を合わせずにそういった健人へ微笑みながら、掌に軽く握りしめていたメッセージカードをそっと持ち直した。


 健人から贈られた可愛らしい花束を枯らせてしまうことは、どうしても躊躇われて次の日、本公演が始まる前までの時間、わたしは兄の部屋にあるパソコンの前へ無理矢理陣取った。
「どんなこと検索したいのか、ちゃんと考えてから来いよ」
「哲さま、これ、日本語にならない」
 キーボードを打っても出てくるのは英語ばかり、憎々しげな顔をして溜息を吐いた兄は何やら操作してほら、と画面を示した。どうやら基礎も分かっていない妹に任せていたら、時間の無駄だと思ったらしい。
「んで、調べたいことは何だよ」
「んとね、ドライフラワーの美しい作り方」
 哲兄は素早くキーボードを打って、検索結果を画面に出した。マウスを使ってスクロールすると、勝手に一つのページを開いた。二人で覗きこんで見るけれど、望んでいたものではない。どれもセピア色になっているけれど、出来るだけ色味が残る方法はないのか、と呟くと哲兄は唸って言った。
「どっかで、あー、なんつったかな、生きているように見えるドライフラワーをどっかの研究室でキャッキャしながらやってたわ。何処だったっけ、ちょい待ち」
 哲兄の大学での専攻は生命科学で、よく分からないけれど遺伝子が何とか、細胞がとか色々やっているらしい。聞くと理解不能な呪文が口から飛び出して来るし、すぐにそんなんも知らねーのかと馬鹿にされるので、聞かないようにしている。
「あ、俺。あのさー第十辺りで、色褪せないドライフラワーみたいなのやってたの、知らん?」
 携帯で哲兄は何処かへ電話し始めた。それは何件か続き、最後の電話で哲兄はニヤッとすると、分かった、聞いてみるわ、といって電話を切った。
「プリザーブドフラワーって言うらしい。これ、これだ」
 言いながらネットで検索された画像には、生花としか思えない花束が写し出されていた。凄い綺麗だ。
「これ?」
「二、三年前にフランスで開発されたみたいだ。長期保存出来るってんで、金儲けの匂いがしたからやってみたら、こんなのマジで出来ちゃったらしい。頼んだらやってくれるって話だけど、どーする?」
「え、やって欲しい」
「じゃ、一つ一万な」
「高っ!」
 嬉しくて話に飛びついたら、やっぱり落とし穴が待っていた。高校生に一万は高すぎる。
「高くねーよ。まだ日本じゃあんま、やってるとこないんだぜ。格安だよ」
「哲兄、何割懐に入れるつもり」
「やんの、やんないの」
「妹から金儲けするなんて、さいってー」
 何時もなら我儘言って気も強く押し通す所だけど、それは出来ずにどもりながら悪態をついた。
「……わー、有希が、キショいわ」
「うっさいよ!いい、もう一万でいいからやってよ。見ないでこっち」
「いやいいって、掛かった分だけ請求するって言ってた。一万も掛からんて。そんな顔真っ赤にするようなことかって。しっかし、何でそんな照れてんのさ」
 うわぁ、我が兄は鈍い、鈍すぎる。だから女の子に告白されても、付き合って一週間でやっぱり別れたいって言われるんだよ。
「……いや、あのね、また乙女趣味だって言われるかなって思った」
「あー、有希の部屋、目、チカチカする。白とピンクしか無くてさー」
「うっさいよ」
 兄が鈍くて良かった。そうして花束は哲兄に運ばれて行き、あっという間に瑞々しい姿を保ったまま手元に戻って来た。

 公演が終わったからといって、わたしに休みは無い。すぐに成田からイギリスへサマースクールを受けるために狭いエコノミーに身体を押し込んで、ぐっすりと眠り降り立った異国の地は思っていたよりも寒かった。
「有希ちゃん、孝介っ、こっち、こっちだよ!」
「結音ちゃーん、久し振り」
 ヒースロー空港第五ターミナルの到着ロビーには懐かしい、少しだけ大人びた結音ちゃんが片手を振って待っていた。
「あははっ、肩から掛けてるの何それ、大荷物!」
「バレエに関するものは、肌身離さずトイレにだって持って歩けーって言ってたのは、結音ちゃんだもん」
「そーだよ。絶対トランクになんて入れたら駄目だよ。ロストしたら一巻の終わり」
 語尾を跳ねるように留めた結音ちゃんの変わらない口調に、ほっと胸を撫で下ろした。明日から二週間の予定で、結音ちゃんの通うバレエスクールのサマースクールへ柚木くんと一緒に参加する。ホテルが中々取れなくてロンドンにいる結音ちゃんへあまり知られていないホテルが近所にあるか相談したら、うちに泊まりなよ、と言ってくれた。
 結音ちゃんのお家はお父さんが世界的に有名なチェロ奏者で、丁度拠点をヨーロッパに移そうとしていた所にバレエ留学が決まって、一家でロンドンへ引っ越しをした。家はスクールからほど近い場所にあって、結音ちゃんのご両親はわたし達が来ることを歓迎、と仰ってくださった。正直、助かる。移動の負担も少ないし、食事もお願い出来た。何より友達価格にしてくれた宿泊代がとても助かった。ハイシーズンのロンドン行き航空チケットは、格安を探してもいいお値段だったから。
「こーすけ、バレコン凄いじゃん」
「イエーイ」
 ハイタッチの後、二人は拳と拳を合わせた。柚木くんの嬉しそうな顔。結音ちゃんのキラキラした笑顔。ずっと一緒だった二人は今、磁石のようにお互いを引き寄せあっていた。結音ちゃんが柚木くんのことを、弟分にしか見ていないことは誰もが知っている。でも、二人がそれだけで幸せなんだ。
 柚木くんの報告は手短に、それでも熱心になった。ずっと、地下鉄に乗っても、古めかしい駅に降り立っても荷物を握りしめながら、会えない時間を埋めるかのように、話続けていた。

 結音ちゃんの大きな街を思わせるアパートメントに荷物を置いて、久しぶりに会う結音ちゃんのお母さんへ挨拶するとすぐにまた地下鉄へ乗ってコヴェント・ガーデンを目指す。お世辞にも綺麗とは言いがたい埃っぽい地下鉄の車内で、結音ちゃんは繰り返し私達へ注意事項を話して聞かせた。そうしてたどり着いた先は石畳の道に半円の美しいホールを持つ歌劇場だった。
「このホールでオペラが始まる迄の間、着飾った紳士と女性がシャンパンを交わして開演を待つんだ」
 通りの向こう側から見上げた建物に圧倒された。ここに立つのは一握りの選ばれたダンサーだ。しなやかな肉体と強靭な精神を持った、美しい存在達。
「結音ちゃん、やったことある?」
「ある訳ないじゃん」
 飲酒年齢に達してないし、と言いながら笑いどついてきた結音ちゃんに、柚木くんは嬉しそうに微笑んだ。
「でも」
 不自然な程真面目な顔になって、しらないひとの顔になって、切った先の言葉は。
「この、舞台には、立った。全身が痺れるような快感だった」
 もうひとりで立っているダンサーの顔だった。その言葉にわたしは奥歯を噛み締めた。

「有希ちゃん、世界に出なよ。これからダンサーとしてやっていきたいなら、絶対出た方がいいよ」
「その為には、奨学金、なんだよね」
「やっぱ、ヨーロッパ狙い?」
「うーん、クラッシックもコンテもがっちりやらせてくれるとこなら、アメリカもいいな」
 ここ数年、アメリカのバレエスクールのレベルはぐん、と上がった。時差ぼけで灯りを落としても眠れないのを見て、外の暗い木々が優しく葉を揺する影を見やりながら結音ちゃんは話しかけてきた。
 これからの事、これからの未来の話。
「アメリカかぁー悪くないけど、やっぱり観客がこっちとは違うよ。こっちの人は良くない出来ならはっきりと態度で示してくるもん。目が肥えてる」
 小さな天蓋のついた結音ちゃんのベッドから、寝返りの乾いた音がする。ふ、とあの海辺の風景を思い出した。海外に出ても、いつかはあの景色の中へ戻っていくのは決まっていること。束の間バレエを取り上げられても、わたしは健人との新しい命をいつか抱く。それなら今は精一杯、バレエを生きたい。
「うん、良く、考える。これからのこと。まずはサマー、楽しみたい」
 結音ちゃんがくすりと笑った気配がした。何?と聞き返すと素直じゃんと、返ってくる。下らないじゃれあいのような言い合いをしながらも、わたしのこころにはあの海辺の景色がただ、あった。

 次の日の午前九時半から、サマースクールは始まった。
 ずらりと並んだその多くが黒のレオタードの、美しい立ち姿でわたしとは全く違っている頭身の子達に、いつだって圧倒されそうになる。
 どの子も、その子も、あの子だって、遙かに自分より上手で才能があって光輝いているように思える。
『私はセシル。フォンテーヌブローから来たの。あなたは?』
『ユキだよ。トウキョウから昨日着いたばかり』
『トウキョウって、ジャポネ?』
『Yes、そっちはフランス?』
『パリに近いよ』
 少しでも英語の環境に慣れようと、日本語の通訳さんが説明してくれる前に、先生の話を集中し過ぎでなんとか聞き取った午前中の授業が終わって、暖かいミールが食堂にて各自に配られた。五グループに分かれての授業になり、柚木くんとはグループが離れてしまった。おまけに微妙に食事の時間帯も違う。
 一人で寂しいかと思っていたら、隣に座った背の高い、濃いブルネットの女の子が話しかけてきた。お互い片言の英語でなんとか会話を繋げる。セシルは日本のマンガが大好きなのだそうだ。それも恋愛がメインの少女マンガが。
『カゼワタリがユリカを無視するとこで十八巻が終わった。ジャポネは二十巻まであるー行きたい』
『そこでストップは辛いね』
『ユキに教えてって言いたい。でも読みたいー』
 今、大人気の少女マンガはどうやらフランスでも遅れて発売されているらしい。この間発売されたばかりの新刊は、紗英ちゃんが読み終わった後わたしにも貸してくれて、夏休み前に泉へ回した。
『日本語の十九巻と二十巻、フランスに送るよ』
 辛い練習の毎日で、マンガはセシルの癒しなんだなと表情で知れた。ミールを食べながらうっとりと、彼女にとっては異世界の少女マンガの話をするセシルを見ていると、なんだかプレゼントしたくなってきたんだ。
 きゃあ、と叫んだセシルはいきなり力強くハグしてきた。苦しい。鳥のグリル焼きが口から出そう。早口の多分フランス語でお礼を言っているようだったけれど、さっぱり分からない。
『うるさい!』
 黙々とミールを片付けていた南米系の顔立ちの男の子から一喝された。セシルは首を竦める。睨むようにしてこちらを見つつ、男の子は席を立った。
『彼は完璧が好きな人間』
『知っているの?』
『コンテストでよく見る。思ったダンスが出来ない時は大荒れ』
 やれやれ、といったジェスチャーをセシルはする。
『他に知り合いはいる?』
『あっちのブロンドはブラックとイエローが嫌い。あいつは性的倒錯者』
『性的倒錯者?』
「ヘンタイ」
 何時間か振りに聞いた日本語が変態、だなんて。

「それってさ、警告だと思ったらいいんじゃね」
「でも、うるさくしたのはこっちなんだよ。なのにセシルはなんでもない事みたいにしてて、他人を批判してる」
 帰りの地下鉄の中で今日の出来事を柚木くんに話すと、軽く受け流された。
「周りを気遣うのも大切だけれどさ、この世界弱肉強食だし、謝るほどのことでもないし、逆に大切なこと言ってんじゃん」
「大切なこと?」
「人種差別するやつと変態はヤバイって。関わりあいにならない方がいいし」
「うーん」
 唸っているうちに結音ちゃんのアパートがある最寄り駅に着いた。柚木くんは何もなかったかのように軽やかな足取りで降りた。早く結音ちゃんに会いたいんだろう。もやっとした気持ちを抱えながらも、汗の吸ったレオタードが入った大きな肩掛けバッグを持ち直した。

 レッスンは毎日順調に消化されていった。何かにつけ大人数で盛り上がっている柚木くんのグループとは違い、わたしたちのグループはクールな子が多いせいなのか、一人でいる子や少人数でいる子ばかり。
 セシルとカナダから来た小顔のミヒャエルの三人で自然と会話するようになって、土曜の午後、誘われてロンドンの街へ出た。
 前日からロンドンは気温が上がり、湿気はないさらりとした暑さに包まれていた。二人とも嬉しそうに川沿いの道を歩く。
 日焼けするのが好き、らしく何時間でも外にいることが出来るらしい。顰めっ面をすると首を竦めたセシルは澄ました顔で言う。
『ユキ、肌、白過ぎじゃない?』
『日本ではバレエするなら、日焼けはダメって言われるよ』
『日を浴びると、生きてる気がするよ』
 川辺には芝生に水着で横たわり、日焼けを楽しんでいる人達が沢山いた。ミヒャエルは大きな木の下に座ろうと促してくれ、セシルと一緒にわたしを挟むような形で腰を下ろした。
『これでユキは日焼けしない。僕達はビタミンDを楽しめる。頭イイ』
『風、気持ちいい』
 セシルは伸びをする。乾いた風は日陰にいると鳥肌が立つほど涼しく感じる。そっと日向に腕を出すとジリジリと日差しが肌を打った。
『ユキはコンテンポラリーとキャラクターダンスが得意?』
『好きだよ』
『ここのサマーに来る子は得意なことがはっきりしている奴が多いよな。羨ましいよ』
 川辺を見ながら彫りの深い横顔のミヒャエルは眉間に皺を寄せた。彼はそのしなやかな姿形を持っているにも関わらず、コンプレックスが多いように思えた。自分の小さい顔が嫌い、高い鼻が嫌い、すらりとした背も嫌いとネガティヴ。セシルに言わせると『彼はそう言い続けることで慰めて欲しがりなのよ』と首を竦めた。それを聞いたミヒャエルは『フランス女はこれだから』と怒る。
『ミヒャエルはオールラウンダーだよね』
『それってどれも出来ていないってこと』
『ストイックだね』
 何とか元気になって欲しくて声を掛け続けるけれど、ミヒャエルはネガティヴな発言を続けていた。聞きながら青い空を見上げる。健人、今何しているのかな。東京は蒸し暑いのかな。
 ふと、包まれるように後ろから抱き締められたことを思い出した。守るようにして暖められた、あの寒かった日。
『ユキ、聞いてる?』
 ミヒャエルの声ではっ、と我に返った。
『ごめん、聞いていなかった』
『私もよ』
 間髪入れずに続けたセシルの言葉にミヒャエルは怒った。思わず吹き出すとセシルもケタケタ笑う。更に怒ったミヒャエルへセシルは、『移動遊園地へ行きましょう』と促してきた。ずっと向こうにある沢山の遊具を指差して。トークンを買って片っ端から乗り物を楽しんでいるうちに、ミヒャエルの気分も上がったようだった。そうして毎日ミヒャエルのネガティヴな発言を聞きながらサマースクールを終える頃、何人かそのままバレエスクールへの奨学金付き留学生が決まったことを知らされた。
 あんなにネガティヴな発言を繰り返していたミヒャエルは見事に選ばれ、セシルは肩を竦めながら言った。『ああやってライバルを潰しにかかる奴もいるってことよ、ユキ』

赤い靴

赤い靴

バレエダンサーを志す高校生の有希がある日目が醒めると、同じベットの中に居たのは彼女の担任教師だった。彼は言う-有希は、俺の、妻だ。 十年後の世界へ一日だけタイムトリップしてしまった少女と教師の、長いお話。 連載中です。

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  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2015-01-01

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