World's End Cafe ――待ち合わせは世界の涯てで

World's End Cafe ――待ち合わせは世界の涯てで

 砂丘を一つ超えると、街の灯りが見えた。
ぼんやりと霞んだ弱々しいその灯りに向かって僕と由美は歩き続けた。
満月は相変わらず僕たちの背後を追いかけてくる。
まるで、キャラバン・サライの幻影に縋るみたいに。

 「ねえ、薫クンわたしたちいつまでこうやって歩き続けなきゃいけないわけ?」
「まあ、僕は運命論者じゃないけれど、こうしなきゃならないってことならこれをそっくりそのまま受け入れるしか今のところ僕らにできることはないわけだから……」
 僕らの後には僕と由美の足跡が消えかかった涙の跡みたいに点々と続いていた。
いったい、どのくらい歩き続けたのか、それすらももう思い出せない。
「相変わらず頼りないわね薫クンって」
 僕はいつからこの頼りないってレッテルを貼られるようになったんだろう、そして決まって別れ際にこう言われるんだ。
「あなたって最低ね!」
まあ、由美との関係はそこまではいってない……と思うんだけれど、正直分からない。

 「世界の終わりってきっとこんな場所なんでしょうね薫クン」
由美の言葉を僕は頭の中で反芻する。 見渡すと四方は砂だらけだ。時々その砂に見え隠れして文明の名残りが微かにその姿を見せる。例えばピラミッドの頂上だの、朽ち果てたサグラダ・ファミリアだの、エッフェル塔のてっ辺だの、アンモナイトや、シーラカンス、恐竜の頭骨だの、ネアンデルタールやクロマニョンの化石なんかがそこここに散乱している。
僕らはどこにだっていけるけれど、どこにもいけやしないんだとも思う。
だから、世界の終わりにはたどり着けないし、世界の涯てだって見ることも行き着くこともできない。
時々長い長い廊下が永遠に続くんじゃないかと思えたり、降下してるんだか上昇してるんだか分からなくなる気が遠くなるようなエレベーターに乗ってる、世界ってきっとそんな感じなんだと思う。

 ぽつんと灯りが見えた。まるで手招きしてるような灯り。
「カフェがあるよ、なんか飲んでいこうよ、喉が渇いちゃった。わたしたちもうずいぶん歩いたもの」
そのカフェの看板にはこう書いてあった。「World's End Cafeへようこそ」
僕はそのカフェの無用に重い扉を開け、由美を待った。
ゆっくりとスニーカーに付いた砂をほろいながら由美は扉をくぐる。

 そこは妙に懐かしい匂いがした。室内は僕と由美が大学の帰りに足げく通ったカフェにそっくりだった。
初めてのデートは不忍池で乗ったボートだ。
その帰りに僕たちはこれとそっくりのカフェに立ち寄ったのだ。

 同じゼミで一緒だった由美とはそれほど親しかったわけではない。ある日、それは西陽が落ち始めた頃ゼミが終わりなんとなく残っていた僕に由美がこう言った。
「薫さん、お願いがあるの、いい?」
 たまたま二人っきりだっただけだ。たまたまそこに僕がいたってだけだったのかもしれない。
ブラインド越しに西陽をいっぱいに浴びた由美の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ちよっとだけ胸貸してくれる? ええと五分でいいと思う……」
僕の言葉を待たずに由美は僕の胸に顔をうずめ泣き出した。まるで、南極大陸にたった一匹取り残されたペンギンみたいな泣きかただった。
 きっと普段は泣いたことなんてない、芯の強い女の子の泣きかたのようにも思えた。うまく泣けないそんな感じがした。それが、嗚咽に変わっても僕は由美を抱きしめることすらできなかった。
「離婚するってね、さっきパパからテルきたの……ママからもね、ママ泣いてるのよ……泣くくらいなら離婚なんてしなきゃいいのに」
 どうやら親たちの間では離婚がブームらしい。熟年離婚ってやつ。僕の両親も僕が十六の時に離婚した。僕の高校受験が済むのを待っていたんだそうだ。

 そんな日になぜ不忍池でボートに乗ったのか、今でもよく分からない。僕の両親も離婚したことを告げると、由美は堰を切ったように話し出した。どんなに両親のことが好きだったのかとか、パパとは恋人同士みたいに仲が良かっただとか、家族旅行したハワイやニューカレドニアの旅がどんなに楽しかっただとか、そんなことだ。
ボートに乗ったあと、まだ帰りたくないという由美とカフェに入った。
 扉を開けるとビートルズが流れていた。確か「A DAY IN THE LIFE」って曲……歌詞の猥雑さとサイケデリックな曲調、恐らく最高の中のひとつ、そこでも僕は聞き役に回った。由美の唇からはとめどなく言葉が溢れた。
 それは、まるで一生分の言葉を使い果たすような勢いだった。僕だって両親への恨みつらみをここぞとばかりに吐き出した。
カフェを出ると僕らは歩き続けた。ちょうど今夜みたいに……カフェでの冗長がウソみたいに押し黙ったまま、歩き続けた。なぜそうしたのか、どちらが誘ったわけでもなく歩き疲れた僕たちは池袋の駅に近いラヴホテルに入った。

 「ここ、こんなに硬くなってるね」
ホテル備え付けの趣味の悪いピンクのバスローブを来た由美の胸元から蕾のような小さな乳房が見え隠れしていた。
首筋にはシルバーのオープン・ハートが揺れていた。ティーン・エイジの最後の誕生日に父親から貰ったプレゼントなんだとついさっき由美に聞いた。
僕はそれには答えず鏡で覆われた天井を見つめていた。
天井に写った僕と由美、お互いに趣味の悪いピンクのバスローブを着て、それがこの世界の全てだ。
申し訳なさそうに由美は僕のペニスを摩り続けていた。
「ごめんね、歩いてる時にね、そのね、きたみたいなの、ドバッとね、ナニがね……」
ボクサーの上から由美の掌が僕の勃起したペニスを触っているのを、天井一面の鏡を通して見ていた。なんだか、他人事みたいだ。
「あのね、よかったらでいいんだけれど、手とかね口とかでやったげようか……別にバージンって分けでもないしね」
微かにエアコンの音が聞こえた。交じり合うようなB・G・Mは名前すら知らない安っぽいポピュラー・ソング。
「いいよ、何もしなくていい。朝までね抱きしめていてあげるから……それでいいんだよね」
そう言うのがやっとだった。成り行きでこうなったけれど、何もかもが安っぽく嘘くさかった。
由美の感情も僕の感情もどこかに置き忘れたように虚ろで、とりとめのない寂寥だけがこの場を覆っていた。
「ありがと……」そう言うと由美は唇を近づけた。
舌と舌が交じり合い、歯と歯が絡み合い、小さな音を立てた。暫く僕らは夢中で唇を重ねた。まるで明日世界の終わりが来るみたいな枯渇した井戸みたいなキス……。
そして、この日由美が僕の胸で流した涙が両親の離婚だけが原因でないことを後から知った。
その日はきっとそのことのほうが彼女が一人になりたくなかったことの大元なんだと言うことも後から分かった。
 女の子が好きでもない男とラブホテルで一夜を共にするということにはそれなりの理由が必要なのだ。

いつの間にか由美は僕の胸にしがみついて密かな寝息を立てていた。
小さく縮こまった由美の寝息は夜が明けるまで僕の胸に降り積もった。

 あの日から僕らははたから見れば恋人のような日々を過ごした。はっきり分かっていることは、僕が好きなほど由美は僕に関心がないということだ。僕にはそれが分かっていたし、一緒にいても由美の心はどこか別のところにあるような気がしていた。
 何度か由美は僕の部屋に泊まったけれど、一度も僕を受け入れようとはしなかった。
僕がどうにも我慢できないと言うと、彼女は手か口で僕をいかせた。
 彼女は寂しかっただけなのかも知れなかった。唯一つ言えることは彼女の中には間違いなく僕以外の男がいるんだということだけだった。
 それでも僕は辛抱強く待った。なぜなら僕の胸で彼女が泣きじゃくったあの日から僕は間違いなく由美に恋していたのだ。
我侭で、理不尽で、ひらぺったい胸で痩せすぎな由美に恋していたのだ。
 いつかはきっと振り向いてくれることを信じて、何も言わず、何も訊かず、ただ待ち続けた。
自分でも呆れるくらい従順に、まるでよく訓練された盲導犬のように由美の心が振り向いてくれることを待ち続けた。

 「子供堕ろしてきたの」
待ち合わせの場所で車に乗り込んですぐに由美が消え入りそうな声で言った。
「それで、一月も音信不通だったてわけ」
いたって冷静な自分に驚いていた。
「薄々は気づいてたんでしょ? 違う? ゼミの朝倉教授の子よ、彼、病院まで付いてきてくれたわ、費用も彼持ち……帰りは、責任は果たしたって顔でさっぱりしてたわ」
「頼りない僕にはなんの相談もなしなんだ。付き合ってたんじゃなかったっけ、僕ら……」
「何かできた? あなたに……」

 行くあてなどなかった。ただ闇雲に車を走らせていた。車内を重たい沈黙が支配していた。
無意識にコンポのスイッチを入れた。この沈黙に耐えられそうもなかったからだ。
偶然に由美が持ち込んだCDが流れた。オムニバスのラヴ・ソングばかり集めたCD……由美の肩が小刻みに震えていた。
僕はそんな由美に慰めの言葉すらかけることができなかった。
由美が僕を愛してなんかいないことは分かっていたつもりだった。
由美と教授の会話の中になにか特別なものがあることも薄々気付いていた。
だから、由美が中絶したと言ってもさして驚かなかった。


 どこをどう走ったのか……気が付くと一面に砂丘が見えた。夏場に旧式なミニでドライブは自殺行為に等しい。案の定、車は段々に力がなくなり砂丘の脇の駐車場までの最後の数十メートルは、ほとんど惰性だった。
 陽炎が揺らめいていた。由美と二人で灼熱のアスファルトを車を押し続けた。
「車は諦めよう。取りあえず近くの街まで行ってどうするか考えよう……」
「携帯も全然通じないわ」吐き捨てるように由美が言った。

 潮の香りがした。渚はすぐそこにあったのだ。
二人で渚を歩いた。
身体中に取り付いた汗が嘘のように引いた。
 とりとめのない足跡が波間に浮かんでは消えた。

 「さっきはごめんなさい。きついこと言って、多分、あなたがいてくれてずいぶん楽になったと思うの。わたしが辛い時、いつもあなたがいてくれる……わたしは、いつもそれに甘えてるだけなのかもしれない」
「時々ね、時々思うんだよ……僕は由美、君のなんなんだろうってね」
言葉はそこで途切れた。
 言い忘れたことがいっぱいあるような気がした。由美との会話はいつも一方通行だ。由美が一方的に切り出し、僕のことなどお構いなしに途切れるのだ。
 いや、何かを言いたかったとしてもそれは潮騒にかき消されるたぐいのものだったのかも知れない。

「いらっしゃい」
マスターらしき人がカウンターから声をかけた。チェックのボタン・ダウンを着た健康そうに日焼けした穏やかな紳士がそこにいた。
カウンターに座り、由美はカフェ・モカ、僕はエスプレッソを頼んだ。
マスターは笑みを浮かべながら丁寧にコーヒーを炒れた。
「なんだか、初めてきたような気がしないな」
店内を見回しながら由美が言った。
「そうだね、このコーヒーの香りさえ懐かしいような、デジャヴェみたいだ」
僕も言いながら相槌を打った。
店内中央には不釣合いなダルマ型の薪ストーブが鎮座し、壁には一面にビートルズのLPレコードのジャケットが飾られていた。
「マスターの趣味ですか、ビートルズ」
由美がカフェ・モカを一口啜りながら尋ねた。
「そう、今だって毎日聴いてるよ、高校ん時ねえ、Sgt.Peppersに巡り合って、感動して涙が溢れてねえ、それ以来のファンだからねえ」
「何かかけてくださいます?」由美が尋ねた。
ターン・テーブルから流れてきたのは「No where man」だった。確か邦題は「ひとりぼっちのあいつ」ってやつ。
どこにも居場所のない男の歌。
「この辺の砂丘って文明の名残がそこここに埋まってるんですね」僕はマスターに尋ねた。
「そう、ここはWorld'S Endだからね、文明ってのは儚いものなのかもしれない。宇宙の営みに比べたらちっぽけなものさ、結局残るのは砂粒だけ、永遠なんてものはこの世には一つもない……」
天井のJ・B・Lがそんな言葉におあつらえ向きに「Across The Univers」を奏でた。
♪……紙コップに降り注ぐ雨のような言葉……郵便箱の中を転げまわる思考……私の世界を変えるものなど何もない……何度も、何度も続くリフ……この世界はきっと文明という言い訳が降り積もって終焉を向かえるんだ、きっと。

 「ここもね、いつかこの一ミリにも満たない砂粒に埋まってしまうんだ。閉じ込められてるって気はしないんだが、どこにも行けないのは確かだからね」
「それは、どこにも行かないっていうマスターの意思じゃないんですか、行けないんじゃなくて……」
そう言ってから僕は由美を見詰めた。僕も由美も閉じ込められたままだ。どこにも行けやしない。
海泡石のパイプをくゆらしながらマスターは静かに語った。
「君たちはまだ若い。時間は充分とは言えないまでも確かにあるんだ。私だって十五、六の時は、時間ってのは永遠と同義語だと思っていたものさ、次に来る明日を待ち望んでいたんだよ、でもねえ、ある日を境に自らの終焉を意識し始めるんだ。人は死ぬために今を生きてるってことを実感するんだね……文明も然り、諸刃の剣だよねえ、文明を築くことによって人類はその終焉を早めてるんだ、皮肉だねえ……」

 裏口の扉が勢い良く開いた。
「あら、お客様。珍しいわね」
ショート・カットの女の子が僕たちを見て人懐っこい笑顔を向けた。
「裏庭の砂の片付けは終わったのかい?」
「ええ、取りあえずね、街の人たちが手伝ってくれたから、明日はパパの番ですからね」
身体中にこびり付いた砂を丁寧にほろいながら女の子が答えた。
 それが終わると僕たちを値踏みし、マスターを肘で小突いた。
「ああ、紹介しなきゃね。私の娘で可音(カノン)と言います。彼女の中には今、狂気とイノセンスが混在しています。十七だからね……私の自己紹介もまだだったね、小糸良平です。娘とこの砂丘で小さなカフェをやってます、まあ、見ての通りだね」
「可音です。パパのカフェはほとんど道楽って感じで、生計のほとんどは私の創作砂時計をネット・オークションで売って立ててるってのが今の現状、は、は、は……」
 可音の言葉にマスターが苦笑いを浮かべた。
まるで吸い込まれそうな大きな透き通るような瞳が素敵でコケティッシュな顔立ち、短く切った髪は、キラキラと光る砂粒が混じって漆黒の闇を思わせるほどに黒い。
「ええと、僕は薫です。こちらは由美……乗ってきたミニがこの先の砂丘でエンコしちゃって……街の灯を頼りに歩き続けて、ここにたどり着いたってわけです」
「一服したら送ってあげようか、街まではまだ相当あるからね。私の四駆なら砂丘越えでショート・カットもできるしね」
「ああ、助かります。この辺って携帯も通じないみたいだし……」
言いながら僕は冷えかかったエスプレッソを啜った。
「たまたまよ、普段は通じるのよ。時たまね、砂嵐の影響だとか、流星群の影響だとかで、通じなかったり、圏外になったりするの」
レコードが終わると、エアコンの音に混じって微かに潮騒の音が聞こえた。
由美はさきほどから興味津々と言った趣で店内を歩き回っていた。壁一面に張られたビートルズだとかストーンズのジャケットに見入っていた。そして、時折潮騒の音に耳を澄ますのだ。
「ここって、毎日砂を欠き出してるんですか、可音さんが……」
「可音でいいよ、薫さん。毎日ね、それこそ毎日砂を欠き出さないと埋まってしまうの、このカフェ」
微かな鼾が聞こえる。
マスターが右手にパイプを持ったままカウンターに突っ伏していた。
「パパどうやらおねむらしいわ、もうかなり遅いし薫さんも由美さんも泊まっていけば? パパは運転無理みたいだしね……」
その言葉に僕たちは顔を見合わせ、由美は間髪をいれずに頷いた。どうやら、ここを気に入ったらしい、由美のやつ……。
「元々、ここペンションにするつもりだったから奥にね四つ部屋があるの、一つは私、一つはパパが使ってる。なんなら、二人で一緒にね、もちろん別々でもいいし……」
 僕は躊躇っていた。僕だってここの居心地の良さにすっかりくつろいでいたのだ。でも、何かが躊躇わせた。どこにもいけやしないんだってマスターの言葉が脳裏を過ぎった。
「……先に言っておきますが、料金とかなら気にしなくていいよ、何か特別なサービスができるってわけでもないし、明日砂を運ぶ手伝いでもしてくれたら充分だから」
 可音の屈託のない笑顔に僕らは結局泊まることにした。何も急ぐ必要などない。夏季の休みは充分に残っているんだし、何より由美の傷心を癒すのが目的のドライヴだったのだから……例えばそれが2、3日になったからって不都合が起こるわけでもないんだ。
 「可音さん、可音さんが作った砂時計見てみたいんだけれどいいかしら?」
由美が尋ねた。
 カウンターに一つだけ置かれた砂時計は絶妙な藍色をしたガラスで作られ見事な一角獣の台座に固定されていた。
由美は先ほどからそれを光に翳したりして、仔細に眺めていた。
「うん、いいよ。パパを寝かしつけてくるから、まあこれでも聴いて待ってて」
言いながら可音は、手馴れた手付きでターン・テーブルにレコードを置いた。
「レーデルって知ってる? フルートの名手で指揮者なの。わたし、彼のカノンが一番好き。パパが大好きなバロックで、ママとの出会いの曲で、わたしの名前の由来でもある曲なの」
「手伝おうか?」
マスターを起こそうとしている可音に声をかけた。
「ううん、大丈夫。いつものことだから」
 寝ぼけているマスターを起こし、肩を貸した可音が裏口から消えるのを見送った。
僕と由美とパッヘルベルのカノンだけがこの部屋に残された。
ニ小節のテーマがカノンで何度も繰り返されるだけの単純なバロックがなぜこれほどまでにポピュラーになったのか、分かった気がした。
 それは、きっと、この場所とこの時間とそれらを共有する由美と叙情的に流れる旋律があって始めて分かる。そういった類のことなのかも知れない。

 


 暫くして戻ってきた可音が僕たちを手招きした。
――可音の砂時計工房[部外者は立ち入ってもいいけれど、自己責任だから――と殴り書きされたダンボールが無造作に貼り付けられた扉を開けた。
 地下室に通じる階段は薄暗く、湿っていた。所々に配置された豆電球が頼りなげな光を放っていた。
可音はかなり勾配のきつい階段をなんの躊躇もなく下ってゆく。その後ろを手すりに掴りながら僕も由美もおっかなびっくり付いてゆくしかない。
 モルタルの壁の奥からはひっきりなしに砂の流れる音が微かに聞こえた。
下るに従って周りの空気がひんやりとしてくる。やっと地下の地面がうっすらと見えた。

 「ここがわたしの工房。わたしのお城、手作りの砂時計を作るところよ」
言いながら可音は手探りで壁のスイッチを押した。天井の蛍光灯が順番に光を放つ。
薄く色の付いたなじみの形をしたガラスが四方の棚いっぱいに並んでいた。
どれ一つとして同じ形のものはなかった。どれも微妙に上下の大きさが違ったりするのだ。
部屋の真ん中には不釣合いに大きなマホガニーの机。
その上にはデルのパソコン。その隣のオール・イン・ワン・タイプのプリンターからはひっきりなしに注文書らしきものが吐き出されていた。
一方の壁には紺色の羅紗のボロボロの一人がけのソファが二つ。一目で座り心地がよさそうだと思えるような、充分に使いこなれ年季の入ったそんなソファだ。
そして、ソファの上にはバスキアの短い生涯を描いた「バスキア」って映画の特大ポスターが無造作に飾られていた。ジェフリー・ライトの快演と画家であり生前彼の友人でもあったシャナーベルの映像美が心に残る、確かWOWOWで見たんだっけ。
 この映画にひとつだけ教訓があるんだとしたら、それは善人は早死にするってことだ。僕はそう確信し、きっと僕も早死にすると思ったものだ。

 「はあ、忙しい。ネコでも犬でもペンギンでも、なんの手でも借りたいくらい」
どうやら小樽のガラス工房からの注文らしかった。可音一人でやってるらしく五個や十個の注文でも大変らしい。
「砂時計ってなんだか時を閉じ込めてるみたいでしょ、時々ね永遠を閉じ込めてる気になったりするわ」
「クロノスの怒りを買わなきゃいいけどね」
「は、は、は、こっちが悠久を切り取った三分計の棚、で、こっちが永遠を五分に詰めた棚」

 二十畳ほとのスペースに、フライス盤だの旋盤だのが所狭しと並んでいた。工房というよりも小さな町工場のようだ。
 可音は由美の質問に丁寧に答えていた。
「砂って見れば見るほど不思議なの。一粒、一粒は、地球が何十億年もかけて生んだものだからほとんど球体に近いの、だから、砂時計は成立するとも言えるんだ。球体に近い方が落ちる速度が一定だからね、砂とかは一般的に粉粒体と言われているの、つまりね、動いている時は、液体のような性質を持ち、動きが止まると瞬時に固体に変化するのね……」

 僕たちは可音に部屋に案内され、シャワーを浴び、可音が整えてくれた清潔なシーツに横たわった。もちろん、由美とは部屋を別にした。
僕たちは付き合っていたのか、おそらく由美も僕と同じ気持ちだっただろう。
 うまく眠れなかった。窓の外では蠢き続ける砂丘を風紋が横切る音が絶えず鳴っていた。耳障りなわけではなかった。
むしろ、心地よささえ憶えるような微かな音、それは、虫の羽音にも似た密かな音だった。
ドアを遠慮がちにノックする音が聞こえた。
「薫クン、もう寝た?」
「いや、起きてるよ」
「入っていい?」

 ギンガム・チェックのパジャマを着た由美がドアの隙間から覗いた。どうやら可音に借りたらしい。
「横いい? うまく眠れなくて……」

僕の言葉も待たず由美はベッドに入ってきた。
「なんだか色々なことがあったからね、僕もうまく眠れないんだ」
「最近変なのよ、わたし……泣かなくてもいい時に泣いてみたり、泣かなきゃって思ってもうまく泣けなかったり、今もうまく眠れないし……」
言いながらシーツの下で由美の腕がもそもそと緩慢に動いた。
僕のペニスはその動きに合わせてまるでパブロフの条件反射みたいに勃起する。今更ながら男の本能って単純なんだと思う。
「そ、そんなことされたら尚更眠れなくなるよ……」
「……不思議ね、あなたのペニスを触っているとなんだか落ち着くんだ。……ファザコンとかね、したり顔で言わないでね、薫クン。フロイトなんて当たるも八卦みたいなもんなんだからね。あなた時々、なんでも知ってるんだって顔してわたしをバカみたい扱うんだから、わたしの人生はファザコンって認識の上に成り立ってるんだから……と、とにかくペニスっていう突起物を触ってると妙に落ち着くのよ、安らかな眠気がやってくるんだ」
 そこまで言われると僕は結局なにも言えずに、こういう状態を耐えるしかないじゃないか、こんな拷問みたいな虐めを平気でやったりするんだ、由美は……。
 結局、由美は僕を射精に導く寸前ではぐらかし、自分が眠りにつくまで、触り続けるのだ。
 「教授と寝たのよ、あなたの父親のような年齢の教授とね、何度も、何度もね、そんな私を許せる、薫クン……そんなわたしに触られて平気? 薫クン……」

 開いたカーテンの隙間から満月の光が差し込んでいた。死んだ光は僕と由美をこの世のものとは思えないほどの優しさで包んだ。
「このまま砂に埋まってしまえば、その質問がどんなにつまらないものかってことが君にも分かるよ、きっと……」
由美はそれには答えず、勃起したペニスを暖かで神秘的なその場所へあてがった。

「砂漠はその底に脈々と水を湛えているから美しい。けれど、見ようとしなければ、見えないもの……わたしが見える? 薫クン?」
この世の中にほんとに美しいものがあるんだとしたら、それは由美、今の君だよ。押し殺した呻き声を上げ、真正面から僕を見つめ、絶頂に上りつめようとする君の苦悶の表情こそが、きっと僕が捜し求め、愛し続けた薔薇の一輪の花なのかもしれない。

 小刻みに震える由美の肢体を月の光りが妖しく包んでいた。それは、夢と現実の狭間を、どうすることもできない僕たちの関係を、一瞬でカタルシスに変える行為そのもののようにさえ思えた。
 この世界の不条理は由美という実体に包まれることで、なにもかもが明白なものとなって僕に襲い掛かるのだ。
由美は僕の背後の父親を犯し、教授を犯し、そして、自分自身を犯すのだ。

 由美の深く長い吐息の末に堪らず僕は彼女の華奢な腰を持ち上げ、射精した。
しわくちゃのシーツの波間に精液が飛び散った。
シーツに倒れこんだ由美が乱れた髪のすきまから僕を見ていた。そんな由美の視線と絡んだ。
「わたしを見ていてね、薫クン……ずっと見ていてね」
言うと寝返りを打ち、すぐに密かな寝息を立てた。
取り残された僕がいた。
 裸のままの由美のうつ伏せの肢体を暫く眺めていた。
 由美の背中からお尻までの曲線は見事に整った砂丘を思わせた。いったい、どれほどの愛を抱えたら由美は潤うんだろう。

 潤うことのない、渇き、飢餓感を抱えながら、それでも砂漠は凛としてそこにありつづけるのだ。いや、むしろ、増殖してゆくのは砂漠のほうなのだ。いつか、人も、文明も、時間すらもが、それに飲み込まれてしまうのだ。人が創造したもの、あらゆる文明は、いずれ、死を迎える。これほどはっきりとしていること、すべてのものに、必ず死は訪れる。好むと、好まざるとに関わらず、それは確かなことなのだ。
 そう、悠久の時間という概念ですらそれは免れない事実……。

                                
 その日は不思議な夢を見た。
時を切り取り砂時計に詰めてゆく可音。そして、どこまでも続く砂丘には、その時を切り取った砂時計が、まるで屍のように累々と横たわっていたのだ。その屍は世界の涯てまで続いていて、僕は汗をかきながらその延々と続く砂時計の屍を拾い続けるのだ。

 あくる日、午前中いっぱい僕は可音と表と裏口の砂を欠き出していた。皮膚がまるでジリジリと焼けていくような、そんな猛暑の中で、
可音はAcross The Universを口ずさみながら砂を欠いていた。
 昼にマスターが用意してくれたクラブハウスサンドとビールで喉を潤した。もちろん、可音はレモネードをゴクゴク飲んでいた。
四人の会話はほとんどなかったけれど、穏やかな空気が流れていた。それは、この空間に流れる悠久を思わせた。

 由美とマスターが後片付けをするというので、腹ごなしに可音と二人で砂浜を歩いた。歩くたびに砂はキュッ、キュッと小さな音を立てた。
「この辺はなきすなで有名なの」
「可音は、ここから出る気はないの」
浜風が砂丘のコリドーを渡り、刻々とその形を変化させてゆく。砂丘は、まるで生き物のように蠢き、ゆっくりとあらゆるモノを飲み込んでゆく。文明もその一つに過ぎない。

 好きなある作家の言葉を思い出した。――文明とは伝達である。何も伝えられないのであれば、いいかい、それはゼロだ――

 「人は生まれた所を離れられないって言うでしょ。死ぬ間際はみんな生まれた土地を思い出すっていうし……それに、パパ一人じゃ裏口も庭も何もかもすぐ埋まってしまうわ」
「可音のパパが寂しがるから? 可音には可音の人生があるはずだよ」
「ううん、パパだけじゃないの……ママもこの土地に眠ってるしね」
「ここから離れられないんだね。可音はそれで幸せ……?」
「薫さん、砂漠のキツネが言いました。大切なものは目には見えないんだってね……」

 僕らはあの砂漠に不時着し必死で脱出を試みる遭難者なのだろうか……。

 暫くベッドに横になり、窓外を見つめていた。昼間の疲れから眠気はすぐにやってきた。
真っ暗な空を背景にペルセウス座流星群が天空をまたいでいた。

いったいどのくらいここに留まっているんだろう。記憶すらもあやふやだ。
由美は相変わらず可音に教わった砂時計造りに夢中だ。
 僕たちはまるで出口のない迷宮に取り残されたみたいだ。
出て行こうと思えば、いつだって出ていけるんだ。マスターに街まで送ってと一言言えばいいんだ。
しかし、僕も、由美も、その一言すら言えずにここに留まっている。

 砂丘は相変わらず日ごとにその形を変えながら、物音も立てずに浸食してゆく。耳を澄ませるとマスターと可音のデュエットが聴こえてきた。 どうやらビートルズのYesterdayらしい。
 マスターは相当なギターのコレクターだ。店内にはLPレコードに混じってフェンダーやらギブソンやらオベーションやらのギターが無造作に飾ってあった。どれも手入れが行き届いた状態で、すぐ弾けるようになっている。飾っておく類のコレクターではなく、実際に弾けるギターでないと駄目なんだと言う。
 今弾いているドレッドノートのマーチンにしても創立百年だかの記念のクラップトンのサイン入りのギターとさりげなく自慢げに言っていた。
 僕も由美も砂との格闘をしばし止めて、その声色に聴き入った。
まるでこの空間だけが特別で、特別な時間がゆっくりと流れているように感じた。

 時間とはいったい何だろう……、人はそれを知ろうと悠久の時代からあらゆる手段、あらゆる知能を使って解明しようとした。
 しかし、時間も空間さえも実在するものではない。目の前にぶらさがっているのは分かっているのに、手に取ることすらできない。
 例えて言えば、神はいるかと訊ねられたり、霊や死後の世界はあるかと訊かれたりしたら、信じている人にとってそれは間違いなくいたり、あったりするようなモノなのだ。
 心ですら唯物論者にとっては実在しないし、やっかいなものでしかない。
時間とはそういうものなのだ。
 物理法則に則れば、今僕が立っているこの場所が現在だ。留めておくことはできない。なぜならその僕が立っている場所は常に過去に成り下がろうとし、好むと好まざるとに関わらず未来に向かおうとするからだ。しかし、現実の僕は一秒前の過去に戻れないし、ここから一秒先の未来にだってゆけやしない。
 砂時計に例えればあの括れの砂が落ちる瞬間が今いる僕の場所で、落ちてしまった砂は過去に成り下がり、上部の球形に残った砂が未来だ。
 その砂時計の砂を眺めながら人は苦渋に満ちた過去や、まだ形すらもない未来に思いを馳せるのだ。
 
 「ここにいろ! と、なんで言えないの!意気地なし」
分かっていたんだ。僕にはすべて分かっていた。月に何日かは音信不通の日があったり、携帯の着信が来るたびにビクっと震えてみたり、絶対に僕をベッドから遠ざけたり、でもね、僕にはどうすることもできなかった。
 僕には由美、君の未来を束縛するなにものもない、そう思っていた。

 「ねえ、お願いだから……手錠でもなんでも掛けてわたしを閉じ込めてよ! わたしのこと好きなんでしょ!
違うの! レイプでもなんでもしてここから出さないでよ!」

 由美が出て行った部屋で僕はメソメソ泣き続け、後悔するんだ。君の心の中の男に嫉妬し、君の感情をこれほどまでに弄ぶ男を憎いとさえ思う。
 でも、僕にはどうすることもできなかった。僕みたいな最低な男にいったい何ができる。
僕にできることはね、由美。待ち続けるしかなかったんだ。砂丘のように、ひっそりと、ただただ、待ち続けることしかできなかったんだ。

 なぜなら初めて会った日から、我侭で、理不尽で、ひらぺったい胸で痩せすぎな由美に恋してしまったのだ。

 朝、ベッドを這い出し、由美の部屋をノックした。応答はなかった。
「由美! 由美!」

ドアを開けると、半分ほど砂丘に埋まっていた。 空には明けの明星がくっきりと囁くように浮かんでいた。
 視界の半分を砂丘が、半分を真っ青な空が埋め尽くしていた。

 砂丘に点々と続く由美の足跡を追った。もし、もう一度逢えたならはっきりとこう言おう。
どうしても伝えなければならないんだ。
「君のそば以外に僕のいるべきところはない。君が好きだ、愛してる」
たったこれだけのことを伝えるのに僕はなんて遠回りをしたんだろう。
伝えられなければそれはゼロだ。今、やっと分かった気がする……。

 来た時には全く気づかなかったけれど、入り口のすぐ横の壁に伝言板と書かれたコルク・ボードがあった。
青春の残像のような文字でこう書かれていた。
「薫クンへ……待ち合わせは世界の涯てでね、由美」

World's End Cafe ――待ち合わせは世界の涯てで

World's End Cafe ――待ち合わせは世界の涯てで

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted