停滞する雪華 (水柿匠)

 風のない冬の夜はとても静かだ。雪が降っているならなおのこと。それが田舎ならもはや言うまでもない。あらゆるものがひっそりと眠りにつき、動く影などは当然見当たるはずもなく物音一つしない。日はすっかり沈んでいたが、少しだけ積もった雪のせいか辺りはほんのりと明るかった。今も続く雪はいつもよりゆっくりと降ってくるような気がする。
 ハルはしばらく足を止めていたが、やがてふっと息を吐くと再び足を動かし出した。吐き出された白い息が緩やかに姿を消していく。静寂が支配する空間の中で雪を踏む足音だけが辺りに波紋を広げていた。その揺れもすぐに宵の闇への中に溶けていく。まるでここだけ時間の流れが違うかのような錯覚を彼女は感じていた。
 それは日帰りということで来た実家からの帰り道のことだ。家からバス停までは少し距離があって、送ろうかと親に言われたが彼女はそれを断った。寒いだろうし、知らない場所でもないんだからと。それだけが理由ではなかったが彼女はそうして一人この道を歩いている。
 バス停までの道ももう半分となったころ、ハルの足音とは異なる、新たな音が生まれた。
「もうかえるの?」
 ハルは歩きながらそっと音の発生源である隣を見る。そこには一人の少女がいた。長い艶やかな黒髪。華奢な体躯。まだあどけなさの残る顔立ち。そのどれもがもう見慣れたもの。やわらかな笑みはどこか凛とした雰囲気を纏い、そのうえ今ではどこか達観したような佇まいさえ感じさせる少女であったが、その姿は未だ高校生の時のままであった。
「明日にはまた講義があるから……」
「そっか」
「まあね」
「もう大学生なんだね……」
「うん」
「私も後二年だったのにな」
「ユキ……」
 そう言って笑うユキの顔は穏やかなものではあったが、その中にどうしようもないほどの感情が混ざっていることにハルは気がついていた。とはいえ、それはどうすることもできないもので、ハルは少し俯いて顔を歪ませた。
「あ、ごめん。気を使わせたね。私は大丈夫。暇なことも多いけどいろいろやれることもあるんだし」
 ユキはハルの表情に気づくと努めて明るく言った。それは別に無理をしているというわけではないとはわかっている。それが言えるのはもうすべてを受け入れてしまったからだということも。そして、そうでありながら時折ふと淋しさに囚われていることがあるということも。ハルはそれが悲しかった。だがそれを見せるわけにはいかない。ハルはユキに喜んでもらいたいのだ。それなのにユキに気を使われているようでは意味がない。ハルは表情も少し和らげると、そうだねと小さく笑った。
「そんなことより、新しい生活のことでも話してよ。それが私の一番の楽しみなんだから」
 ユキはどうなのと言うように首を傾げて話を促す。ハルはその仕草を見て胸が少しだけ暖かくなったように感じた。ハルはユキのその仕草が好きだった。小さい頃から話を聞くときは必ずこうしていたように思う。そうして優しげな眼差しで尋ねられると、何でも話したくなってしまうので不思議だった。
「? どうしたの?」
「いや、なんでもない。そうね。なにがいいかな」
「なんでもいいわ」
「そういわれると逆に思いつきにくいんだけど」
「そう? いろいろあるでしょ? サークルとか勉強とか、他には……うーん、恋とか?」
「そうだね。最後のは置いておくとして、じゃあ……」
 それからハルはいろいろなことを話した。面白い講義やつまらない講義のこと。新しい友達ができたこと。その友達と遊びに行ったこと。勉強は専門的だけど、今はまだ高校ほど大変ではないということ。サークルは吹奏楽部に入って頑張っていること。ユキはそれを、目を輝かせながら聞きいていた。時の止まった静かな夜道に二人の話声と笑い声が溶けていく。
 ユキの声は鈴を転がすようなという表現がぴったりだとハルは思った。笑い声もどこか品がある。ずっと前から、それはちょっとした自慢でもあったが、同時に羨望の的でもあった。ハルは決してそういう風にはなれない。それが少しだけ残念で僅かに気がめいる気がする。それでも、その声が好きだったし、ずっと聞いていたいと思った。
 だが終わりは必ずやってくるものだ。楽しいひと時はもう幕を下ろす時間となっていた。はじめはハルの話に質問を繰り返していたユキだったが、やがて何も言わず微笑むだけとなっている。それに気づいたハルは話を止めた。
「もう時間?」
 ハルが尋ねると、ユキは頷いた。
「そう……」
「ハル。今日は楽しかった。毎年毎年ありがとね」
「いや、毎年毎年って、一年に一回だけじゃない。それにまだ五回だよ」
「ううん。それでも」
 ユキはそう言って微笑んだ。
「毎年この日に来てくれるだけでもほんとに嬉しい。ハルは忙しいんだから無理して来なくてもいいのに」
「無理はしてない。私が来たいから来てるだけ」
「……そう」
 ハルは少し俯く。それからゆっくりと言葉を紡いだ。
「いつまでこっちにいるの?」
 ユキは少しだけ目を見開くと、そうねと言って空を見上げた。ハルもつられて上を向く。暗い空からはとめどなく雪が降りつづいている。ゆっくりだと思っていた雪は思っていたよりも随分と速い。それがハルのそばをいくつもいくつも流れていった。時折、舞い落ちてくる重みのない雪がハルの顔に当たって溶ける。
「わからない」
「そっか……」
「でも、ハルが結婚するまではいようかな」
「なにそれ。おばさんみたい。まだそんなでもないでしょ?」
 隣にいるユキがふっと笑う。
「冗談よ。でもね、そういう目標みたいなものがあった方が何かと楽な時もあるの」
 ユキは相変わらず穏やかな表情を浮かべている。そんなことは見なくても分かった。だがその表情はユキが初めに笑った時、後二年で自分も大学に入れたと言った時に浮かべたそれと全く同じであることも分かっていた。長い間、生活を共にしてきたハルにとって、それくらいのことは造作もない。
 それでもわからないことはある。どういう風にしているかはわかっても、ユキの本当の気持ちはずっとわからないままだ。ハルがわかっているのはユキが話してくれたこと、ユキがよくすることなどに限られている。それを知りたいと思っても結局いつも言い出せないままなのだ。
 しばらく、二人は言葉を交わさなかった。白い雪はハルの上だけに積もっていく。辺りに、動くものはなく、静けさが二人をやさしく包み込んでいた。
「ねえ、また来年も来てくれる?」
 初めに口を開いたのはユキだった。
「うん」
「よかった」
「来年も、再来年も来るよ。…………会えなくなるまで」
「ありがとう」
 ハルはユキが笑うのを感じた。その笑みは今までとは明らかに違うもの。ハルは横を向こうとして、突然、一陣の風が二人の間に割って入った。ハルは咄嗟に目を瞑り髪を押さえる。その一瞬のことだ。耳元でユキがそっと囁くのをハルは聞いた。
「またね、ハル」
 風はすぐに去っていき、そこには一人だけが残されていた。隣にいたはずのユキはもういない。ハルはそっと来た道を振り返った。おぼろげな明かりのもと、雪道に残った足跡は一人分。ハルはそれをしばらく見つめていた。辺りは僅かであったが風のささやきが聞えてくる。
しばらくして、遠くで大きな音が迫ってくるのに気が付いた。ハルの乗るバスがもう近くまで来ている。ハルはバス停へ向かう道に戻ろうとしてもう一度だけ振り返った。
「またね、ユキお姉ちゃん……」
 言葉は闇に溶けて消えていく。ハルはそれだけ言うとバス停へと走り出した。バスは静寂を切り裂いてやってくる。時間はもう止まってはいない。

停滞する雪華 (水柿匠)

停滞する雪華 (水柿匠)

2014-12-22 「雪」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-23

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