俺は「義姉さん」と呼んでいた (夜久)

 俺と兄の好みは昔からよく似ていた。
 兄の好物だった梨を俺と義姉さんは無言で咀嚼していた。俺も彼女も喪服でそんなことをしているものだから、はたから見ればさぞシュールなことだろう。
兄の命日、母は決まって季節外れの梨を買っては俺たちに食わせるのである。確かに俺も兄同様、梨が好物だったが一気に食うには結構な量だ。しかし兄のことを可愛がっていた母のことを思うと閉口せざるを得ない。結婚してから数年、生活も安定してきた兄夫婦に子供が期待される時期に差し掛かっていたら、それは尚更だった。
 しゃく、しゃく。二人分の咀嚼音だけが響いていた。台所からの調理音がほんの小さく聞こえてくる以外は、たったのそれだけ。普段の俺ならどうにでもとりとめのない話をすることが出来るのだが、今に限ってはそれが出来なかった。
俺は義姉さんが苦手なのである。一人前の大人ならたとえ苦手な相手とでも上手く会話を出来て然るべきだが、彼女に関しては例外中の例外だ。実際、苦手な上司、親戚、誰が相手でも概して俺はうまくやれる。
「――雨、降りそうですね」
 えっ、と彼女が小さく声をあげる。ぬるい雨のにおいが背を向けた縁側から漂ってきていた。もうじき降り始めるだろう。俺の嗅覚は雨を察知することにおいては昔から優秀だった。
「ああ、それじゃあ帰らないと」
 義姉さんが慌てているような所作で鞄を手に取り、腰を上げる。しかしこの声音だけはぴしゃりと水を打ったように平静であるように思えた。そのアンバランスがどうしても俺は苦手だった。そこがいいんだよ、と笑ったいつかの兄のにやけ顔がなぜだか蘇る。母に帰る旨を伝えているらしい彼女の声、案の定引き留める母の声、等々がいやに遠くに聞こえた。
 金属製のフォークと皿がぶつかるいやな音がした。ほとんど無意識に食べ進めていたのだが、もう梨は終わってしまったらしい。しゃくり、と最後の大きめの塊が口内で噛み砕かれる。
「修吾。あんた、さっちゃんのこと家まで送ってってあげなさい。途中で降り始めたら困るでしょ、こんな夜も遅いんだから」
 いえそんな、と遠慮する「さっちゃん」こと彼女と、いいのいいの、と何やら俺についての失礼な文言を並べつつ押し切る母。こうなったら義姉さんが勝てるはずもないだろう。決着を見越して、俺は重い腰を上げることにした。
 玄関で黒スーツに不似合い極まりないスニーカーを履いていると、彼女がやってきた。鞄ともう一つ下げている小さな紙袋はどうやら母に持たされたものらしい。申し訳なさそうに、家を出る時にも母に一言二言投げかけていた。
 戸を開けるといつの間にやら雨は降りだすどころか本降りになっていた。傘を手渡すと、ゆっくりと彼女は俺の方を向いてちいさく微笑む。口紅の少し落ちた口角が目に入って、見てはいけないものを見てしまたような気がしてすぐに顔を逸らした。
「ごめんね、修吾くん」
「いや、いいっすよ。そんなに遠くもないし」
 二つの傘を並べて、俺たちはやはり無言で歩いていた。雨音がうるさいことが救いだったかもしれない。静かな夜道を義姉さんと二人で歩くのは正直なところ、気が滅入るものがある。
 徐に、彼女が口を開いた。
「あの人も、雨のにおいがすぐに分かる人だったの」
「……まあ、一緒に育ったから、そういうもんじゃないですか」
 突然のことで、はあ、と間抜けな声が出そうになったのを堪えたのは褒められてもいいんじゃないかと我ながら思う。兄が実際にそうだったかどうかは覚えていないが、言われてみればそうだったような気もする。
「でもやっぱり、本当によく似てるね」
 視界の端にあった彼女の傘が消えた。振り向くと、義姉さんはなぜかその場に立ち止まっているようだった。照らす外灯がすうっと通った鼻筋を際立たせている。長い黒髪の一部が雨で湿って、細い毛束を作っていた。どうして、こんなところにまで目が行く。これ以上は見てはいけない。そんな気がした。
「そうでもないっすよ。見かけはそりゃあ、兄弟だから似てるだろうけど」
 行きましょうよ、と声をかけながら前を向くと、ややあって視界に彼女の傘が戻ってきた。そうかな。納得がいっていないような声は聞こえないふりを決め込む。二年も経つと悲しさよりも寂しさが勝っているのだろう、どうせ。ただ似ているというだけで代わりにされる気は毛頭なかった。
 それからは特に話すこともなく、黙々と歩みを進めるうちに彼女の住まうマンションの前に辿りついた。何事もなかった。そう、何事も。
屋根の下で傘を閉じた彼女は俺にそれを手渡し、丁寧に礼を述べた。そして、修吾くんはあの人より男らしいかもね、と続ける。反応を返す前に義姉さんは踵を返して自動ドアの向こうに消えてしまった。いや、まともに何が返せたかと考えると、何も返せなかったような気しかしないが。
 深く考えるのは止そう。きっと命日だったからだ。命日だったから、俺も彼女もおかしかっただけ。それだけだ。悪足掻きのように、考えたくもない明日の仕事について頭を悩ませていた家までの帰り道。俺は泥濘に足をはめた。

俺は「義姉さん」と呼んでいた (夜久)

俺は「義姉さん」と呼んでいた (夜久)

2014-12-15 「お姉さん」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-20

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