どこにも行けない (夜久)

 自宅ではない場所に「ただいま」と帰るのは、どうにもまだむず痒いような心地がする。決して悪くはない落ち着かなさとでも言おうか。今しがた役目を済ませたばかりのキーケースを眺めていると、おかえりぃ、と桜子の少し語尾の伸びた甘い声が返ってくる。それと一緒に現れたグラス片手の彼女の姿。
 本来白いはずの頬はうっすらと紅潮して、声もどこか上機嫌だった。「清楚ぶってる」と昔から揶揄されがちだった平生の姿はすっかり解けている。グラスの中で揺れる琥珀色の液体はウィスキーか何かなのだろう。どうやら、かなりできあがってしまっているらしい。
私が会社を出る時にはもう十一時を回っていたから、ホワイトなことこの上ない彼女の会社の終業時刻から考えても、これだけ酩酊していておかしいことはない。
「ただいま」
 私の手元を見て、桜子がにんまりと口角を上げた。自宅の鍵とここの鍵だけが並ぶそのキーケース、それをくれたのは他でもない彼女だった。
「またそれ見てにやけてる」
「別にいいでしょ」
 すぐに鞄に仕舞いはしたけれど、僅かに上がった顔の温度は下がりそうになかった。ふふ、と笑われてまた熱くなる。
「いいよ。ケイちゃんのそういう顔、だぁいすきだから」
「もう、飲みすぎじゃないの」
 照れ隠しにグラスを取り上げると、ああ、と少し大げさに声を上げてそれを取り戻さんと彼女の手が伸びる。だからその前にからがらに飲み干してしまった。ぐらりと一瞬、目の前が揺らいで霞む。さほど量は残っていなかったから大丈夫だろうと思ったのだけれど、あまり薄めていなかったらしい。
 あまり感心できたことではないが、これも今に始まった話ではない。桜子は月に一、二度、どこかの土曜にきまってひどく酔っぱらうまで飲むのだ。すぐに酔いが回っても長く飲むことはできるという彼女の体質がさらにそれに拍車をかけている。今ここで私が少しの酒が入ったグラスを取り上げたところで何も変わらない。きっと、あとでまた新しい酒が――しかも度が強いのを――注がれたグラスを手にからからと楽しそうに笑うのだろう。
 飲みすぎてないよぉ、と呟いた彼女の手に空っぽのそれを戻して、ヒールを脱いでダイニングに向かった。今日も酷使された足に触れるフローリングはばかみたいにやさしい。一方、ローテーブルに置かれた酒瓶たちとおつまみの袋は視界に優しくなく、一気飲み直後から少し遅れて頭痛が来たみたいに感じてしまう。
鞄を置いて一息。ソファに腰を下ろしてしまうとそのまま眠ってしまいそうで、あえて立ったままでいた。少ししても彼女が戻ってこないから、おおかたキッチンにグラスを取りに行ったのだろう。――ああ、やっぱり。戻ってきた彼女の手にはまた違うグラスがあった。
「そういえば、今日、ご両親に会ったんだっけ?」
「うん。ふたりとも元気そうだったよ」
 この前ふたりでイタリアに行ったらしいんだけどね、と言葉を挟む間もなく次々に言葉が重ねられてゆく。特別興味もない桜子父母の旅行体験談だったけれど、話している彼女が上機嫌だったから何も問題はない。顔を曇らせることなく今日という日を私たちが終えることが出来るのなら、それに越したことはないのだ。
 突っ立っている私に何を言うでもなく、彼女はソファに腰を下ろした。新しく注がれた液体をそこそこのペースで飲み進めながら、くすくす笑いを時々挟んで話している。楽しそうだなあ、と語りかけられているのは自分だというのに、どこか他人事のようにそう思った。
「――もう、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
 嘘だ。ちっとも聞いていなかった。私の頭は桜子のお母さんがイタリアの道端でナンパされたというほんの序盤の辺りで停止していた。それを見透かしているのだろう彼女は急に立ち上がって、私の唇にアルコールくさいキスをした。熱に浮かされた唇が離れてそっぽを向くまでに見えた彼女の表情は、悲しげに翳って見えた。
 驚いている私には構わず、どうしたことか桜子がベランダに通じる戸を開けた。中秋の肌寒い風が頬を撫で、襟から胴までもをすり抜けてゆく。そのままベランダに出てしまった。これでは閉めようにも閉められない。(まあ、そもそもの話、家主は彼女なのだから私が何を言えたこともないのだけれど。)
急にどうしたの。そう尋ねるつもりで彼女に続いてベランダに出た。風にさらされて靡くセミロングの黒髪が、彼女の横顔のほとんどを隠してしまっている。
「……いい人はいないのかってお父さんから訊かれてね、今日」
 わたし、なにも答えられなかったよ。
 形の良い眉がひそめられていたような、見えもしないのにそんな気がして、そのくせ、どんな顔をしているのか全く分からないような気もした。
 沈黙が降りる。こういう時私の部屋のベランダなら外の雑音が多少なりとも聞こえるものなのだろうけれど、この部屋は高層マンションの上の方の階にあって、それも角部屋だったから尚更雑音が入り込む隙が無い。まるで、外からこの部屋だけが隔絶されているみたいだ。
 このまま外の世界の一切から離れて、この部屋でふたりきりで生きてゆけたらどれだけいいだろう。
「明日はここでゆっくりしようか」
 そうだね、と桜子が頷く。脈絡のない言葉に咄嗟に縋る私たちに、現実から少しでも逃げる以外のことは出来そうにない。
 星が見えず、道標のない、夜景ばかりがきれいな夜だった。

どこにも行けない (夜久)

どこにも行けない (夜久)

2014-11-17 「ベランダ」

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-20

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