裸の眼 (宇佐野 優介)
昔々、そのまた昔――といってもそれほど昔というわけでもなく、文明もそれほどに発達し、石炭を喰う鉄の馬が乾いた大地を走り、しかし、国と国とが互いに武器を捨てることもできなかった時代のこと、北方の一段と標高の高く緑が豊かに茂る場所に小さな王国があった。王国は岩山に囲まれ、岩山々はまた別の王国に囲まれ、国々はまた別の国々に囲まれ、その国々は海に囲まれ、山の国と海の国はそれぞれ互いに交易と抗争を繰り返し、互いに発展と衰退とを童謡のように輪唱していた。
翻って、北方の小さなその王国は、夏の日が冬に向かうにつれ少しずつ短くなるのと同様に、おもむろに、着実に、律儀に、行儀よく、衰退の一途を蟻のように辿っていた。
それには訳がある――眼鏡だ。
いつの時代からか、その王国の子供から年寄り、赤子から死人に至るまで、すべての国民がそれぞれ、色の付いた眼鏡を着用しているのである。ゆりかごから墓場まで全員が眼鏡である。眼鏡の国である。眼鏡万々歳である。
色の付いた眼鏡をつけている以上、あらゆる偏見が生まれるのは言うまでもないことであり、その王国では、雨が降るのは隣の国のせいであり、隣の国の林檎は不味く、この国の林檎こそが世界で最も美味いのである。言ってしまえば、国王からその従者、国民、奴隷の「奴」の字に至るまで、全てが偏見という名の泥でできた泥人形であり、泥人形たちは泥できた金の冠をかぶった王様の声に従い、巨大な泥船に乗って海へと航海に出ているのである。よくできた泥人形芝居である。そんな芝居を見に来る国があるはずもなく、王国は孤立し、交易は初めから廃れきっていた。
そんな国も今日までうまくやってこれたのは、その国の地の利にある。岩山々に囲まれた王国は戦を優位に進め、森や川やの自然は食料を恵んだ。とどのつまり、泥船が出航したのは海ではなく、波の立たない、静かで底の浅い、小さな池だったのである。船底が池底に着いた泥船は壊れるはずもなく、まして、誰かが溺れ死ぬこともないのである。
しかし、色眼鏡をつけた国民たちは、次第に隣人にまで偏見を持ち始め、やれ彼は愚かだ、やれ彼女は残忍だ、どいつもこいつも横柄だ、と思い込むようになってしまった。お互いがお互いを下に見る騙し絵のような偏見、互いが互いを恐れ憎み合う負の連鎖のような偏見――これが衰退の一途の始点、泥船に入った亀裂である。
そんなこともあってか、どの人もこの人も互いに想い合うことを怠り、許し合うことを捨て、愛し合うことを忘れ、国民は誰もが孤独に陥っていった。孤独な偏見ならぬ偏見の孤独である。それでも、人々は一度も眼鏡を外すことはなかった。
さて。
早朝、日が山の隙間から顔をのぞかせる少し前、レンガ造りの町の隙間を縫うように自転車を転がす青年はジムである。彼は牛乳配達をしている最中で、後部座席の籠に残った残り一本となった瓶がペダルに合わせてユラユラと揺れている。
と、目的の家まであと少しといったところである。路地裏から飛び出した黒猫がジムの前を横切り、彼はハンドルを切ってしまった。バランスを失った車体は傾き、瓶と一緒に彼も宙を舞い、砕ける鋭い音とともに、肉を殴った時のような鈍い音も辺りに広がった。
石畳の地面に投げ出されたジムは、打ち付けた背中の痛みを堪え、何とか体を起こし、辺りを見回して、絶望する。配達されるはずだった瓶が割れ、中身を全て撒き散らしていたことに絶望したのではない。その傍らで彼のかけていた眼鏡が砕けていたことに絶望したのだ。
この国では、色の付いた眼鏡は生まれた時に親から渡され、肌身離さず一生身に着け続けなければならない物だった。眼鏡を失うことは、親不幸や一家の恥さらしとされる。その上、ただでさえ偏見の多いこの国で眼鏡をかけていない人間が町をうろついていたら、どんな仕打ちをされるか分かったものではない。最悪、捕まることさえある。しかし、貧しいジムには買い替えるどころか直してもらうための金すらなかった。
柳の枝のようにうなだれたジムは、自転車を立て直すことすらできずに、壁に体を預け、膝に頬をつけ、両手で顔を覆った。
クリスマスを翌日に控えた早朝の空気は冷えきっており、ジムの体からは体温が少しずつ奪われていったが、それにすら気づかないほど彼の絶望は膨れていた。
それからどれだけ時間が流れたのだろうか、いつの間にか降り始めていた小さな雪の礫が、彼の頭に降り積もっていた。そんな彼の姿をちらちらと眺めては何かを囁き、通行人は彼の目の前を通り過ぎていく。
――そんな中。
「あの……」
一人の若い女性が、ジムに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
心配そうな彼女の声に、驚いたジムは顔を僅かに傾ける。それに合わせて頭から積もった雪が滑り落ちる。
「どうしたんですか?」
「……放っておいてください」
くぐもったこえを出し、ジムは再び顔を膝にうずめる。
「凍えているじゃないですか。一体、何があったんですか?」
「……眼鏡を壊してしまったんです」
ジムは、先ほどの不幸な事故を、虚ろに話し始めた。
「……と、こういうわけです」
「まぁ、そんなことが」
「僕にはもう、新しい眼鏡を買うお金はありません。これから僕は一体どうしたらいいのか」
すると、女性はくすりと笑った。それは蔑みや侮辱を含んだ卑しい笑いではなく、むしろ、親しみを持った好感の持てるものだった。
「こんな偶然があるのかしら」
「何がですか?」
「実は、私も今朝、階段の踊り場で転んだ時に、自分の眼鏡を壊してしまったんです」
女性の言葉に、ジムは顔を上げる。その瞬間。
『あっ』
目の合った二人は息を飲み、お互いに顔を食い入るように見つめた。
「あなたの目……青いのね」
「君の目こそ、青くて……綺麗だ」
そのままジムは立ち上がり、女性と目の高さを合わせる。眼鏡をかけたままでは見ることのできなかった、澄んだ目である。
「あなた、名前は?」
「僕はジム。君は?」
「デラよ」
「……デラ」
「寒かったでしょう? 私の家が近くにあるの。良ければココアでも飲んでいかない?」
「もちろん、喜んで」
その後、二人はめでたく結ばれ、国も誰もが見ることのできなかった世界を見ながら、仲睦まじく、幸せに、幸せに暮らしました、とさ。
めでたし、めでたし。
〆
裸の眼 (宇佐野 優介)