声の聞こえる波間まで (宇佐野 優介)

 茜色に染まり始めた空を、砂浜に座った二人はぼんやりと眺めていた。波の音が絶えず聞こえる砂浜。そこに時折響く、突き抜けるような鳴き声はウミネコたちのものだ。そして、海の向こうでは太陽が水平線に触れ、じりじりと空と海との境目を焦がしていた。
穏やかな時の流れが潮風とともに二人の間を通り過ぎていく。
「……本当に行っちゃうんだ?」
 空を見上げたまま、彼女は不満に満ちた、しかし、どこか諦めたような声で、そっと尋ねた。
「あぁ――明日」
 明日というのは、彼が船に乗り、この島を発つ日のことだ。
今、彼の中では期待と不安が渦を巻き、黒にも白にも灰色にも染まらない、混沌とした感情が醒めることなく熱を帯びている。それでも、彼は自分の夢を迷いのない真っ直ぐな目で見据えていた。
「……そっか」
彼女の吐き出した微かなため息を、三月の風が攫っていく。いつの間にか昇っていた白い三日月が視界の隅に映り込み、空高くで微笑んでいた。それにつられ、彼女も笑う。
「医者になるんだもんね?」
「動物のだけどな」
「それでも、私はすごいと思うよ」
 本心だった。一つの確かな夢を持ち、それに向かってなりふり構わず努力を続ける幼馴染の姿を、彼女は心から尊敬していた。応援したいと心の底から思った。だから、彼の大学合格を聞いた時は、自分のことのように喜んだ。
そんな彼が明日、この島を離れようとしている。
「応援するね」
 心が引き裂かれそうになるのを我慢し、彼女はとうとう、心にしまい込んでいたその言葉を口にした。それは彼女にとってある意味彼との訣別の言葉だった。
「離れたくない」「ずっと一緒にいたい」「彼の頑張る姿を、もっと見ていたい」どれも、彼女の本心だ。それが彼への好意に直結していることに気付くまで、それほど時間はかからなかった。
しかし、それらの真っ直ぐな想いは、どれも彼の夢を妨げることに他ならなかった。それを言葉にしてしまうのは、彼の首や手足に紐を括りつけることのように思え、彼女は必死に自分の感情を押さえつけていた。
そして、今日、そんな自分の想いを断ち切るために、彼をここに呼び出した。自分勝手だとは思ったが、彼を応援したい気持ちは本物だった。
「あぁ――俺、頑張るよ。ありがとな」
「……うん」
 振り絞るような声で彼の決意に短く頷くとともに、彼女は心の中の彼が遠ざかっていくのを感じる。
「これでいい」「彼の夢を応援しないと」そう自分に言い聞かせ、涙がこぼれそうになるのを懸命に堪える。
「――どうした?」
 急に黙り込む彼女に気付き、彼は眉をひそめ、彼女の方を見る。
「……何でもない」
「でも、お前――」
「何でもないから!」
「……」
「大丈夫だから……」
 先ほどまで心地良く吹いていた潮風が唐突に凪ぎ、目が合った二人は、時間が止まってしまったような感覚に陥る。
 そこからいち早く抜け出した彼女は、さっと顔を逸らし、彼の視界から自分の表情を隠す。自分がいつもの自分でいられるか、いつもと違う自分を隠し通せるか、不安だった。
「途中で涙が零れてしまうのではないか」「声が上ずってしまうのではないか」あらゆる不安が波のように彼女の元へと押し寄せてくる。
そして何よりも、彼がもうここへ帰って来ないような気がして、自分だけがこの島に置いてけぼりにされるような気がして、それがたまらなく怖くて、恐ろしくて、そんな杞憂に悩まされている自分が悔しくて、腹立たしくて――あらゆる想いで膨れ上がった彼女の心は、触れただけで破裂してしまいそうだった。
「――泣いてるのか?」
「えっ?」
 自分がいつの間にかすすり泣いていることに気付いて、慌てて立ち上がり、涙をぬぐう。
「おい――」
「ごめん……今、一杯一杯だから」
 自分の小さな胸を両手で押さえつけ、彼に背中を向け、俯く。
遠くの空で、一羽のウミネコが寂しそうに鳴いた。
「平気だから……」
「……」
 突然、背中にぬくもりを感じ、彼女は顔を上げる。
「――大丈夫か?」
耳元で声がした。後ろから彼に抱きしめられているのだと気付いた途端、彼女の中に溜まっていたあらゆる感情が和らぎ、それが涙となって溢れ出した。
「大丈夫だ――大丈夫」
 両の手で目を抑えながら彼の声を聞き、彼女は泣きじゃくる。
「私……私……」
 震える肩を何とか鎮めようとするが、うまくいかない。涙も止め方を忘れてしまったかのように、次々と溢れ出てくる。
「盆と正月には帰る」
 囁くような、でも、はっきりとした彼の声。
「約束する」
 その紡ぎだされた小さな言葉は、空っぽになった彼女の心を少しずつ満たしていく。
「だから――」
 彼女を抱きしめる力が、少しだけ強くなる。
「気が済むまで、泣けばいいよ」
「……うん」
 何度も何度も繰り返し頷き、彼女は後ろに身を預け、泣いた。


 翌日の昼下がり、彼が乗るフェリー船が、島に到着した。
「……小さい。大丈夫なの、これ?」
 幼馴染を乗せる船を前に、彼女は冗談めいた声で彼に言った。
「これから俺が乗る船に、ケチつけんな。不安になるだろ」
 背中に大きなカバンを背負った彼は、青い顔をしながら彼女の軽口に答える。そんな彼に、彼女はポケットから何かを取り出した。
「はい、これ」
「ん?」
 差し出された銀色の小さな懐中時計を受け取り、彼は首を傾げる。
「ちゃんと返しに来てよね。私のお気に入りなんだから」
「――はいはい」
 そういうことかと頷いた彼は、小指を彼女に差し出す。
「約束――だろ?」
「うん……約束」
 お馴染みの歌に乗せ、二人は小指を切る。その直後、出航の合図が出され、次々と人が船に乗り込んでいく。
「それじゃ、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
 短く言葉を交わし、船に乗り込む。渡された懐中時計の秒針を眺めていると、針が二周ほどしたところで船が動き始めた。
 ぐんぐんと加速していく船。その姿が水平線の向こうに消えてなくなるまで、彼女は手を振り続けた。

声の聞こえる波間まで (宇佐野 優介)

声の聞こえる波間まで (宇佐野 優介)

2014-06-23 「幼馴染」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted