パブリックアート (深海 魚)

 ごみの山を登りながら、僕は背後のシオに話しかけた。
「その昔、人々はかれんだーというものを使って時間を区切っていたらしいよ。そこには七つの区切りがあって、それぞれ月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日と呼ばれていたんだそうだ。その中でも日曜日というのは大変優しい時間と決められていたんだって……笑っちゃうよな」
 現代には曜日というものはない。ひたすらに昼と夜を繰り返し正確な時間だけが延々と積み重なっていくだけだ。労働も教育もない。すべては機械化されていて、結果ほとんどの人間は無為に息をするだけの家畜に成り下がってしまった。だから僕はこうして時々ごみの山を登った。酷い悪臭やぬめる腐敗物や無数の傷に耐えながら登った。自分がちゃんとここにいて、自分の意思で生きているのだと確認する、ただそれだけのために。
背後からはシオの荒い息遣いだけが聞こえてくる。ごみを登るのに苦労しているのだろう。シオの小さな手は無秩序に積み上げられた廃棄物を掴むのには向いていない。ややあって、日曜日って、どんな風に、優しかったのかな、と聞いてきた。
「なんでも、カミサマが決めた休息の日なんだって。カイシャもガッコウもない、人々にとってはテンゴクのような時間であった、とデータにはそう書いてあったよ」
 シオはわかったのかわからないのか、ふうん、と答えただけだった。しばらくまた無言でごみの山を登る。無数の束ねられた紙や、嫌な臭いのする柔らかい袋や、あちこち凹んだ金属の塊などを踏みつけながらじりじりと前に進んでいく。今日も空は曇っている。過剰に汚された現代の空はここ数十年、ずっと太陽を隠したままだった。
「ねぇ、サト。『カミサマ』って、なぁに」
 シオがまた僕に聞いた。
「……知らない」
 かみさま、というのは古いデータにしばしば登場する言葉だった。僕はその言葉をパブリックデータバンクの中で頻繁に目にした。けれど、意味はとうとう分からない。なんでもそれは『愛』を象徴しているものらしいけれど、今の時代には『愛』という概念も存在しないから結局、理解できないのだ。
 僕は煮詰まりかけた思考を投げ捨てるように頭を振った。いま気を抜くと危険だ。ごみの山は崩れやすく、いつ転ぶかわからない。ときどき尖ったガラスの破片や鋭い針金なんかもある。ここは巨大なゴミ捨て場だ。時代に取り残された旧世代の遺物が曝されて忘れられている。読まれることのない広告、何もうつさない液晶板、食べかけのジャンクフード、どこにも繋がらない端末、止まったままの時計、なにも変えられないスイッチなどがここにある。僕とシオはそれらを特殊合成ゴムの靴底で踏みつけながら登ってゆく。頂上が近い。悪臭に潮の匂いが交じっているのを感じた。
「シオ、頑張れ。もうすぐだぞ」
シオはポリ袋から足を滑らせながらも、こちらに向かって手を振った。疲れた表情だった。僕はそれを見届けてまたゴミの山を登る。必死に、取り憑かれたように、一心に。
 やがて視界が開けた。
「シオ、見て。海が見える」
 ごみの山を登り切った先に見えてくるのは際限のない水溜りだ。僕は海が好きだった。空の色を映し出す海面はいつ見てもどんよりとした灰緑色をしていてとても綺麗とは言えないのだけれど、見ていて不思議と落ち着くのだ。データバンクによれば、昔の海は青く透き通っていたのだという。しかも、何千何万という種の生き物が棲んでいたらしい。今となっては人間に取り返しのつかないほどに汚されてしまったために、想像もできないが。
「サトは本当に、海が好きだね」
 ようやく僕に追いついたシオは、用心深く目を細めて海を眺めている。僕はシオの放射能防護グラスと光る波を交互にみて、そうだ、僕は、好きなんだと答えた。
「海は生きている。何もかも効率と安全に支配された僕らとはちがう。たとえそこが汚染物質まみれでほとんどの生物が異常進化を遂げた地獄のような世界だったとしても、海は生きているんだ。僕は海が好きだ。海で生きてみたいんだ」
 海上では数羽のウミヘビガラスが円を描いて飛んでいる。数メートルもあるそいつらは、さらに巨大な怪魚の肉をこそいでやろうと狙っているのだろう。また同時に、彼らは怪魚に狙われてもいる。互いに殺しあって、そうやって生きている。システムに生かされている僕らとは、全然、なにもかも、ちがう。
 シオは海に焦がれる僕を持て余したように言った。
「サトは人間だから、海では生きていけないよ。肉食イルカやメガダイオウイカの餌食になっちゃうんだから」
「そんなことわかりきってるさ。だから僕はここに来るんだ。僕は海では生きられないけれど、ここで確かに生きているんだって、確認できるから」
 シオは、よくわかんないよ、と言った。シオはいつも僕を理解できないと言い、変わり者と呼ぶ。そのくせ、僕がここに来るときは必ずついてくる。理由は聞いたことがない。なんとなく、僕には理解できない気がして。
 少しの間、僕とシオは静かに波の音を聞いていた。規則的なさざなみと自分の呼吸音が重なっては消え、消えては重なる。僕はそれを聴く時だけ、自分がちゃんとにここにいて、自分の意思で生きているのだと思える。
「ねぇ、今が日曜日ってことにしようよ」
 突然、シオが海を見ながらそういった。海の底を見透かすような、そんな目をしていた。
「日曜日は優しい時間なんでしょう。神様が決めた休息の日なんでしょう。だったら、きっと今が日曜日だよ。こんなに優しくて、穏やかな時間なんだから」
 僕はその言葉に、ちょっと面食らった。だって、ここはごみの山で、ひどい悪臭がして、見下ろせる海もどうしようもなく汚れていて、ついでに天気も曇っていて、正直言ってとても優しいとは言えない場所なのだ。でもシオは本気のようだった。
「シオは海、嫌いかと思ってた」
「海は好きでも嫌いでもないよ。でも、君と海を眺める時間は好きだから」
 だから、今は日曜日なんだよ。シオはそういって口を噤んだ。僕にはシオの意図はうまく理解できなかったが、シオがそういうんなら、今が日曜日であってもおかしくないのかな、と思い始めていた。
「僕は海も、シオも、日曜日も好きだ」
 ここはごみの山で、ひどい悪臭がして、見下ろせる海もどうしようもなく汚れていて、天気はいつも曇っている、地上のどこより汚れた場所だ。こんなところに来る人間なんかきっと誰もいない、僕とシオ以外には。
「今は、僕とシオだけの日曜日だ」
僕がそういうと、シオが微かに笑った。僕もつられて少しだけ笑う。そうして二人ぼっちで海を眺めていると、世界に取り残されたような気がした。それほど寂しい眺めだった。でも、それで十分だった。たとえここが忘れ去られたごみ捨て場で、見えるものが汚れた海で、そこらじゅうに放射能がまき散らされた汚い空気の中にいるのだとしても、生きているのだと思えるから。僕にとって、日曜日はたしかに安息の日だ。命の音を聴くことのできる、この上ない幸福な時間だ。
海の音が絶え間なく聴こえてくる。ウミヘビガラスが鳴いている。どこかでヒコウキウオがはねた音がした。僕とシオはまたここに来るだろう。人間が積み重ねたごみの上で、人間が破壊した海を眺めにくるだろう、二人で。
 僕らはそんなふうにしか、生きていることを実感できない。

パブリックアート (深海 魚)

パブリックアート (深海 魚)

2014-05-29 「日曜日」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-20

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