しあわせになってよ (夜久)
ケイ、と私の名を呼ぶ彼の声が好きだった。硬質で、不思議な甘さを孕んだあの声が好きだった。
その声がずっと、ずっと遠くで今、「誓います」と神父に告げた。ぐわん、と響く音。遠い。遠すぎる。この手はもう届きやしないそんな当たり前が、純白のドレスに身を包んでいるのは私ではないという事実が、どうしてこんなにも哀しいのだろう。
私と彼は一方的な恋情さえ絡まない関係だったというのに。
身体を重ねていたわけじゃない。ただ、彼の部屋で一緒に寝ていただけ。それだけだった。どうしてこんな関係を持つようになったかはよく覚えていないけれど、大学生の男女としてはひどく平凡な出会い方だったと記憶している。
それからどうしてこうなったのか。大学一年生の、丁度慣れてきた時分には週末に彼の家で一緒に寝ることが習慣になっていた。
「ケイの体温は丁度いいから好き」
冬のある日、そんなことを呟きながら彼が私を抱きしめたことを覚えている。あと胸がそんなにないとこも密着出来ていいよね。なんて笑って続けられて、(恥ずかしかったのか照れていたのかはわからないけれど、)そのせいで頬が熱くて、ばか、なんて拙く罵ったことも、全部。出会ったきっかけは覚えていないのに、彼の声や体温、私のよりも少し大きな手も、男の子にしては少し薄い身体つきも、その総てが今もリアリティのある感覚として残っている。交わした言葉のひとつひとつさえも。
私は彼が好きだったのだろうか。どこかで、期待していたのだろうか。彼女を作らず、こんな中途半端を好む彼がいつか、私を抱いてくれるのだと。私に上辺だけの甘い声だけじゃなく、胸やけがしそうなくらいの甘ったるい言葉を、まなざしを、くれるのだと。
あれよあれよという間に式は進んだ。私が思い出に浸っているその、無駄に長い彼と過ごした時間を追うにはあまりに短い十数分間の間に。次はブーケトスらしい。婚期を逃した三十路前後のおばさんたち(と形容するには少し若いのだろうが)、新婦の友人なのだろう同年代の女の子たち、それとこの手のイベントが好きな子供達は比較的前の方に居る。――私といえば、他の男性方とも変わらない場所で見物を決め込もうとしていた。
腕を組んで仲睦まじく耳打ちなんてしている新郎新婦を眺めて、少しいやになって視線を逸らす。でも逸らしきれずに視界の隅には彼らがいて、それを彩るような快晴の青が無性に憎らしい。
きゃあ、と小さく黄色い悲鳴が上がって、ブーケが些か綺麗すぎる放物線を描いて飛ぶ。青空と一瞬重なって、不覚にもきれいだと思ってしまえるのだから私の眼は都合のいいつくりをしているらしい。
一瞬時が止まったかのような心地がして、ブーケが何故か私のもとへ飛んできているような気がして。気が付けば手の届く場所に丁度来ていたブーケを、私は手にしてしまっていた。
こんな距離、わざとじゃないと飛ばせない。
どうして、と彼らを見遣ると彼はくしゃりと笑って、ケイ、と私の名前を呼ぶかのように唇を動かした。その手はまるでついさっきブーケを投げ終えたような形をしていて、私はすべてを理解した。
彼の声が鮮明に蘇って、鼓膜が震えたような錯覚。じわん、と脳髄が痺れるような心地よさが刹那、私を襲う。
――卑怯だ。こんなの、ひどい。あんまりだ。
今すぐに手にしたこれを投げ捨ててしまえたらどんなにいいだろう。どれだけ頭の中でそう思ったって、身体は正直なもので。投げるどころか、大事に大事に胸に抱いてしまう有様。情けない、きっと彼には見えている。滑稽な私の姿が。
情けなくて、悔しくて、惜しくて、愛おしくて。
俯いた視界いっぱいに広がるブーケが滲んで輪郭が曖昧になる。ぼろぼろと落ちてゆく雫。それがブーケに落ちて、光を反射してきらきらと光る。あの日々の時間がこの涙に変わって、やっとこの身体から抜けてくれているように思えた。過ぎてから眺めてみれば、なんて綺麗な日々だったのだろうと感嘆できるように。そのくらいこの都合のいい眼には容易いことだろう。
「幸せになってよ、ね」
小さく涙声で呟いた。どれだけ反復しようとしても彼の声がどんなだったか、もうわからなくなっていた。
腕の中のブーケがぐしゃりと、ひしゃげる。
もう大丈夫だ。私の時間はやっと、進み始める。
しあわせになってよ (夜久)