免許皆伝 (青木一郎)
エグニは生産ラインで働くアルバイトであった。褐色の青年であり、ラインでは褌を一枚だけ付けて歩き回っていた。よく鍛えられた筋骨がはち切れんばかりに膨らんでいるもので、彼の皮膚はいつも照り輝いていた。
彼の会社は裏世界では名の通った大麻栽培企業だ。熊本県の地下に馬鹿でかい空間を掘り抜き、照明や空調を完備して大規模栽培に精を出していた。熊本県の地下の土壌は大麻栽培に適している。地表には栄養の少ない火山灰が積もっていて農地には適さないが、地下の土はミネラルに富んだ黄土色の土であり、大麻はよく葉を伸ばした。おかげで大麻は良く取れ、人手はいくらあっても足りなかった。
「ソイダラ、コンダ、水ヤッペ」
エグニは新人教習の最中であった。訛りの強い口調で一通り大麻の栽培について話すと、新人の前で如雨露をつまみ、大麻の鉢へ水をやった。
「葉サ、濡ラス。葉、枯レル。照明、強イカラ。気ヲ付ケロ」
「了解っす」
新人は熱心にノートへ注意点をメモしていた。
新人は線の細い女子だった。年のころは十七、八で、目はくりくりと丸い。うなじの上で切りそろえられた黒髪をぶっきらぼうに払い上げ、彼女は汗を拭った。
「地下、あちぃ。バターになっちまうわい」
「オメ、化粧サ、スンナヨ。地下ジャ汗デ、全部流レチマウカラナ」
「化粧は女の命っすよ、エグニ先輩。止められないっすよ!」
「オメ、今、化粧シテネエデネエカ」
その後、二人はいくつかの部屋を転々と周り、新人は流れる汗をノートに落としながら、エグニの話を懸命に書き取っていた。
二人は最後の部屋に辿り着いた。そこは、精製した麻薬を試す実験室であった。
エグニは新人を管制室に残すと、併設された闘技場に入り、虎を放つよう彼女に命じた。
「ココデ、虎ニ麻薬サ飲マス。虎、踊ル。俺、虎、殺ス」
「エグニ先輩、死んじまいますよ」
「オラノコッタ、大丈夫ダ。イイカラ虎サ入レロ」
「もうどうなっても知りませんよ」
新人がレバーを引くと、闘技場の扉が開き、低くうなる虎が向こう側から歩み言ってきた。虎の様子はおかしかった。既に口から泡を吹いている。目は血走り、焦点が合っていなかった。
エグニはしこを踏むと、虎に向けて吠えた。虎は怒り狂い、鼻息荒く、エグニに突進してきた。
「良エ子ダ」
エグニは虎が近づくまで十分溜めて、虎の頬を思い切りぶっ叩いた。虎が少しよろける。エグニは隙を見せた首にしがみつくと、両腕で締め上げていった。息の苦しい虎が鋭い爪でエグニの腕を掻くので、エグニの前腕は見る間に血だらけになっていった。
「ンナコトジャ、オラ、死ナネゾ、ゲゲゲッ」
骨が折れる嫌な音が響くと、虎は血を吐いて倒れた。エグニは虎の首に噛み付き、血を啜って、勝利の雄叫びを上げた。
その時ふと、エグニは言い知れない背筋の寒さを感じた。
「すごいっすね、先輩、虎を殺しちまったんですか!」
新人がエグニの傍らに駆け寄ると、ガッツポーズをし、驚きに溢れる声でエグニを褒めた。
「アレ、オメサ、管制室ニ居ナギャ、駄目デネカ。ドウヤッテ中入ッタ?」
「先輩、私とも殺りましょうよ」
新人がそう呟いた瞬間、新人の姿がぐにゃりと歪んだ。すると、エグニの視界が右から左へ急速に動いた。頭蓋の右が闘技場の壁に激突し、エグニの体を中心にドーム状のひび割れが生じる。
エグニが血を吐くに至り、彼はようやく新人に体を蹴られたことに気が付いた。
頭の中で豆腐のような脳が振動しているのを感じた。いわゆる脳震盪で、彼はふらつきながら立ち上がり、新人を睨んだ。彼の瞳には小柄な女性が映っている。
百キロはある彼の巨体をどうやって新人が吹き飛ばしたのか分からなかったが、エグニはもはや戦闘態勢に入っていた。自分の胸ほどの背丈しかない女を虎と見なした。
しこを踏み、構えを取ると、エグニは彼女に向かい合った。
「オイ、オメ、ドウイウツモリダ」
「理由などいるか? 強い者が二人揃えば戦いが始まる。私たちはそういう星の元に生まれたはずだ」
女性は音もなく半身の構えをエグニに取った。全身の筋が脱力し、それでいて力が漲っている。まるで冷たい炎を纏った両刃の刀身。うかつに間合いに踏み入れば返り討ちに逢うとエグニは直観した。
「一般人ジャネエナ。何処ノ組ノモンダ。オラトコノ畑サ、荒ラス気カ」
「愚問。私はただ力を試したいだけだ」
「メンコイ新入リダ、思ッデダガラ、オラ、悲シイダ。オメサノコト、殺サンバナランクナッチマッタデ」
「今のはほんの挨拶だ。次は手加減しない。この一撃を喰らって立っていたら誉めてやろう」
「ゲゲゲッ!」
エグニは力むと筋肉を風船のように膨らませて、見る間に肉のダルマのような姿に変わった。皮膚の上に浮き出た血管が脈打ち、微細動を繰り返す。真っ赤になった体表から汗が蒸発し、薄い煙となって彼の体から揺らぎ上っていた。
エグニは口だけ笑ったように歪めながら激怒していた。背中を丸め、彼女に向かって突進の構えを作る。
「女ニ手加減サ、サレタダカ。コノ俺ガ? ナンノ冗談ダ? ソノ蹴リデ、俺ノ体サ、吹キ飛ンダカ。オメ、魔法ツケエカナンカカ。トニカク、俺、オメエ、殺ス」
「私に不意を打たれたことは悔しいだろうが、それは仕方ない。私の方が強いからな」
「ソノ減ラズ口、二度ト利ケネクサセッゾ」
「よく喋るな、肉の戦士。私がそんなに恐ろしいか?」
エグニは額に青筋を浮かべると、闘技場を揺るがすような声で吠え上げ、女性に向かって殴り掛かっていった。
エグニの拳が女性に当たる寸前、エグニの喉元へ的確に女性の突きが入った。エグニの体は闘技場の天井へと飛ばされた。彼の巨体は闘技場の硝子の照明を盛大に割ると、幾千の硝子の破片と共に地面に叩きつけられた。
既に決着はついていた。エグニの腕や足はねじ曲がり、エグニは額から赤黒い血を流していた。
しかし、それでもなおエグニは大地を押して立ち上がろうとしていた。
「うん、エグニ君、まだ死んでないんだね。良い闘志だ」
彼女はエグニの頸動脈を丹念に狙いながら、突きの構えを取った。
「今、君の時間を止めてあげよう」
放った拳はエグニの目に見えなかっただろう。音が後から付いてきて、エグニの体は地に伏した。
「君は免許皆伝だ」
彼女は闘技場から去りながら、エグニに手を振った。
「いずれ、君がもっと強くなった時、私を殺しに来るがいい。それまで君は私への憎悪で他のことが全く考えられないだろう。それこそ寝ても覚めても時間が止まったように。今この時から僕は君の全てなんだ」
エグニの頚部のツボに放った一撃により、昏倒したエグニの呼吸は次第に安定していった。その様子を見届けると、彼女は口の周りに付いた返り血を舐めながら部屋を去った。
「やっぱり、血は最高の化粧っす」
免許皆伝 (青木一郎)