ミスター・レインドロップ (さのすけ)


 雨が降っていた。


 その部屋に天井は無く、四角く切り取られた空からは、雨粒がポツリポツリと入り込む。
 充分広い部屋だったが、家具がテーブルと二つの椅子としかないため、余計、広い。天井が無い分、更に、広い。
 広く何もない空間を、雨水は下から少しずつ埋めていく。
 床にできた水面の上では、新たに入ってきた雨粒たちが踊りのように飛び跳ね、波紋を押し広げてあっている。波紋と共に広がるピチピチという音は一定のリズムを刻み、一つの音楽のようだった。
 雨の降るこの奇妙な部屋は、あらゆる広がりを見せ、音を奏でていた。


 二人はその部屋にいた。
 テーブルを挟んで、向かい合わせに座っている。
一人は背もたれの高い椅子に座り、退屈そうに空を見上げている。雨粒が時折彼の目に入ったが、気にする様子もなく、灰色に淀んだ空を見つめている。そんな彼の目からは、涙がこぼれていた。
もう一人は背もたれの低い椅子に座り、山のように積み重なった書類から一枚を手に取り、丁寧に読み上げ、隣の書類の山へと積み上げる。そういった一連の作業を、黙々とこなしていた。書類はすでに水浸しになっていたが、紙が破けることも文字が滲むこともなかった。
二人は裸足だった。行き場を失いたむろっていた雨粒が、二人の足をくるぶしの辺りまで浸している。


「・・・・・・ねぇ、イミル君」
 空を見ていた彼は、おもむろに部下の名を呼んだ。依然として彼は分厚い雲を見据え、目からは涙を流している。
「何でしょう?」
 こちらも手にした書類から目を離すことなく、上司に聞き返す。
「知ってるかい? この世界の半分以上は水で覆われているんだ」
「・・・・・・それは、『海』のことですか?」
「そう、それ。しょっぱいやつ」
 イミルはその抽象的な表現に、少し顔を歪ませる。彼は海を見たことはあったが、その味については知らなかった。まして、海水を舐めてみる気など、少しも起こらなかった。


 そんなことは露知らず、彼は楽しそうに言葉を続ける。
「この空を覆っている雲だって、元を辿れば水だ。それに地面の下では鉄の水がぐるぐると渦を巻いているんだ」
「『マントル』、ですか?」
 今度は間髪いれずに、イミルは尋ねる。
「そうそう、それそれ。熱いやつ」
「・・・・・・」
 当然、マントルがどれくらい熱いのか、イミルは知らない。しかし、彼の口振りを聞く限りでは「それほど熱くないのではないか」と心のどこかで思ってしまう。


 と、ここで彼が姿勢を正し、イミルの方に体を向ける。
「そして何よりだ」
 少しだけ声色が変わっているのに、イミルは気付く。
「人間や動物は血がないと生きていけない」
 人間、という言葉に、イミルは一瞬、手を止める。
「・・・・・・それがどうかしたんですか?」
 イミルの目はすでに書類から離れ、正面に座る上司の姿を捉えていた。
「つまりさ」
 少し間を置いてから、彼は親指以外の指を折りたたみ、そのまま指が自分の方を向くように腕を曲げる。
「この僕が一番偉いってことになるんだよね」
「くだらないこと言ってないで、仕事をしてください」
 そう言って、イミルはまた、自分の作業へと取り掛かる。
「・・・・・・言ってみただけだよ」
 その呟きは恐らく、雨の音に紛れて、どこかへ消えてしまったのだろう。その後の二人に、会話はなかった。
そして、彼はまた、空を見上げては、涙を流していた。


 昼下がり、雨の量が増えてきたときだった。彼は再び、部下に尋ねた。
「イミル君。ちょっと休憩していい?」
「駄目です」
 間髪入れずに答える。その目は休むことなく文字の列を追い、頭に情報を書き込んでいく。そんな彼の背後には『優秀』『エリート』の文字が優雅にワルツを踊っている。
 一方、その上司はというと、背もたれに体を預け、両手をダラリと垂らし、無気力に欲求と不満を吐いていた。『ダメ』『できそこない』の文字が、彼と川の字で寝転がっている。
「もう目がパンパンなんだけど」
「それでも駄目です・・・・・・というか、あなたの方が立場が上なんですから、休憩するかどうか、自分で判断してください」
「・・・・・・苦手なんだよね~、自分で決めるの」
 そう言って、大きく伸びをし、目を細める。
「んん~」
 そんな上司の姿を見て、イミルはひとまず、自分の仕事から手を離す。
「雨を降らすのも、波を立てるのも、あなたの仕事でしょう?」
「付け加えると、今、北の方では雪を降らせてるよ」
「とにかく、いつ休むかくらい自分で決められるようになってください」
「ムリムリ」
 手をヒラヒラ振りながら、彼はそう呟く。その手にあわせて、指先から雫が垂れ、新たな波紋を作る。
「今どの辺がどうなっているのか・・・・・・なんて言うんだっけ?」
「・・・・・・現状把握?」
「そう、それ」
 人差し指をピシッとイミルのほうに向ける。
「それができないから、困ってるんだよね」
「・・・・・・はぁ」
 雨雲よりも濃いため息をつき、再び書類を手にする。濡れた書類の山は紙同士がピッタリと張り付いていたが、イミルはそれを破くこともなく剥がし、次々と読み上げていく。


「なんか、僕の前の上司がね、『お前はあれだ。できるバカの典型だ。バカには指示するやつが必要だ』って言ったんだ」
 口をヘの字に曲げ、唐突に彼は話し始めた。
「的を射てるじゃないですか」
「・・・・・・それ、遠まわしに僕をバカ呼ばわりしてるよね?」
「してませんよ。心でそう思ってるだけです」
「・・・・・・」
 本心でそう思ってるんじゃないか! という彼の心の叫びは、イミルには届かなかった。
 はぁ、と肺から空気を押し出し、また飲み込む。一通り落ち込んだ彼は、目を瞑った。
「つまり・・・・・・」
 最後の一枚を元の高さまで積み重なった書類の山に載せ、イミルは彼の方を見る。
「私があなたに指示を出せ、と」
「そゆこと」
 今度は逆のへの字に口を曲げ、彼はうれしそうに言った。
「嫌ですよ」
定規で引いた線よりも真っ直ぐな目で、イミルは答えた。
「そうかい」
 怒った様子も、寂しがる様子も見せず、彼はまた、目を開く。
 彼が見る空の色は、また一層、濃くなっていた。
 雨は更に激しさを増しそうだ。


「視察に行きたい」
 そう彼が言い出したのは、夜になってからだった。
 雨は依然、降り続いている。
「視察って、どこへ行く気ですか?」
 テーブルの上のランプを点けたイミルは、上司に聞き返す。オレンジ色の温かみのある光が、一面に広がる。
「ここ」
 そう言って、自分の前に広がっている世界地図の一点を指差す。
そこは黒い線で囲まれ、黄色で色分けされていた。イミルはその地図を覗き込み、そこに書かれている文字に目を通す。
「・・・・・・エジプト、ですか」
「そうだよ」
 隣で地図を眺めるイミルに、彼は楽しそうに声をかける。
「僕の覚えている限り、そこに雨を降らせたことは一度もないはずだよ」
「エジプトでも、稀に雨は降りますよ?」
「だとしたらそれは僕じゃなく、この世界が勝手にやったことだよ。僕は関与してない」
「・・・・・・そうですか」
 彼の子供のような言い方に、イミルはまた、顔を歪ませる。


 と、ここでふと浮かんだ疑問を、イミルは口にする。
「この色分けは何ですか?」
 そう言って、広げられた地図を指差す。
「国ごとに塗り分けられていませんし」
「ああ、それ?」
 と、彼は何かを思い出すかのように、顎をさする。
「君、その地図見るの、初めてだっけ?」
「はい。私は先月、ここへ異動してきたばかりなので」
 イミルの言葉に、無駄は言葉はない。彼は意識せずに必要な言葉だけを選び、他を切り捨てている。それは、彼が生まれたときから身に付けている癖のようなものだった。
「そっか。君はここに来たばかりか・・・・・・」
 空を見上げている彼の目が、一段と遠くなる。
「何故かここの人たちは、すぐに辞めたがるんだよね。最近の若者は覚悟が足りないというか、根性がないというか・・・・・・ん? 何か言いたそうだね」
「ええ、思ってませんよ。上司がこんな人でかわいそうだなぁ、なんて」
「・・・・・・」
 それ以上、彼は何も言わなかった。イミルのその言葉だけで、彼が何を言わんとしてるかが、はっきりと伝わったためだ。
それと同時に、何故イミルが自分の部下に選ばれたのかを、彼は何となく理解した。


「それで、この色分けは何なんですか?」
 上司の顔が引きつっているのに気付いてないのか、あるいは敢えて気づかないでいるのか、イミルは質問者の立ち位置に戻った。
「君は、なんというか・・・・・・たくましいね」
「よく言われます」
「だろうね」
 二度目のガッカリから早急に立ち直り、彼は説明を始めた。
「これは、雨をどれくらい降らすかの色分けだよ。青いとこはよく降らせて、水色のところはたまに降らすんだ」
「白いところは・・・・・・雪ですか?」
「そう。たまに氷になっちゃったり、雨といっしょになっちゃうけどね。で、降らせないところが黄色で、黒いところは・・・・・・」
 と、ここで言葉を詰まらせる。彼は言葉を探すとき、本棚から本を選ぶときのように目を泳がせる。
「人間次第ってことですか?」
 大体の予想を立て、イミルは確認するように尋ねた。
「まぁ、そんなところ、かな?」
「ヨーロッパ、真っ黒ですもんね」
「最近ではアジア方面も結構きてるね」
 イミルは一瞬、自業自得という言葉を思い浮かべたが、それは喉の奥へと仕舞いこむことにした。
「・・・・・・人間も大変ですね」
「そだね」
 短くそう呟くと、哀れんでいるような、悲しんでいるような目を地図に向けた。
 雨はまだ、上がりそうにない。


「ところで、どういった経緯でエジプトへの視察を?」
「あぁ、そうだった、そうだった」
 思い出したかのように手をポンと打ち、イミルの方へと体を向ける。髪からは雨水が放射状に飛び散る。
「風の噂で聞いたところによると、そこの昼は燃えるように暑く、夜は凍りそうになるほど寒いんだ」
「えぇ。確か、私も聞いたことがあります」
 以前、どこかで見た砂漠の映像を、鮮明な映像として頭に浮かび上がらせる。何故、そんな乾燥した土地を視察に行くんだ、と、イミルの頭にはまた、疑問が浮かんだ。
「でね。そこには『さばく』という角砂糖でできた丘が果てしなく広がっていて、近くでは『ないる』っていうコーヒーの川が流れているらしいんだ。甘いコーヒーが飲み放題だね」
「・・・・・・」
「人間はそこで年中『びぃちばれぇ』という戦いを繰り広げ、血と汗と涙を流しているらしいんだ。更にはその戦いで無敗だったという人の像が建てられているんだ。名前は確か・・・・・・なんだっけ?」
「・・・・・・『スフィンクス』、ですか?」
 頼むから違ってくれ、と心の中で懸命に祈りながら、イミルは尋ねてみた。
「そう、それ! よく知っているね、イミル君」
 祈りは届かなかったようだ。
「その隣には、優勝トロフィーの形をした巨大な建造物が建てられているらしいんだ。どうだい、イミル君? 行ってみたいと思わないかい?」
 笑顔で尋ねてくる上司を見て、あぁ、と、イミルはただひたすら後悔の念に駆られた。


 イミルは迷った。どこから訂正していくべきなのかを。
 さらに思った。こいつは一体、どこからこんな情報を仕入れてきたんだ、と。
 考え込んだ末、イミルには一つ、思い当たる節があった。
「えぇと・・・・・・その誤ったエジプト情報を、誰から吹き込まれましたか?」
「ん? セファイド君からだよ」
「・・・・・・やはり、そうでしたか」
 イミルの上司は『水』を管理している。それと同じように、『風』を管理しているのがセファイドだ。
「いいですか。アレのおっしゃることは、あまり信じないようにしてください」
「どうして?」
「アレはただの大ホラ吹きだからです」
「じゃあ、このエジプトの話も?」
「九割が嘘です」
 うーんと首をひねり、腕を組んで、彼は質問を続ける。
「ナマコを食べる人間がいるっていうのは?」
「それは・・・・・・確かに事実ですが」
「サンタクロースは?」
「・・・・・・とにかく! 私が今から本当の砂漠を説明しますから、黙って聞いててください!」
 イミルの性分は真面目だ。当然、損をすることも多い。
 結局、イミルの説明は時計の針がてっぺんで重なるまで続いた。


「なるほど」
 説明を受け、首を上下に動かし、納得したという合図をイミルへ送る。
「ぜんっぜん違うね、僕のイメージしてたエジプトと」
「かすりもしませんでしたね」
 イミルの言葉に、彼はうっすらと笑みを浮かべる。
「でも、ますます行きたくなったよ」
「・・・・・・本気ですか?」
 このとき、イミルは「あぁ、この方は死ぬ気なんだ」と心の中で呟いた。
 というのも彼の上司は、体が水に浸かっているか、雨に打たれていないと死んでしまうことを、イミルは知っていたのだ。
「死にますよ?」
「大丈夫だよ。砂漠に雨を降らすくらい、わけないって」
「・・・・・・あぁ」
 このとき、イミルは自分が少し勘違いしていたことに気が付いた。
「そうでした。あなたが行く先では、必ず雨が降るんでしたよね」
「そういうこと」
 つまりはそういうことなのだ。
 彼が死なない限りは雨が降り、呼吸をするのに合わせて波は打ち寄せあい、脈を打つたびに血が体を巡るように川は流れる。
「ま、正確には、僕が涙を流しているときに、雨が降るんだけどね」
「悲しい雨男ですね」
「・・・・・・そだね」
 ポケットからびしょ濡れのハンカチを取り出し、一度絞ってから顔を拭く。彼はもう、涙を流してはいなかった。
 空を見上げると、すでに雨の勢いは弱まり、ポツリと小さな雨粒が彼の顔を濡らしただけだった。


 朝、目覚めた二人は、入り込む光に目を細めた。本日は快晴だ。
「さぁ、行こうか、イミル君」
「嫌です」
「・・・・・・君は私の何が不満なんだ?」
「色々ありますが、今は、水でいっぱいになったバケツに両足を突っ込んでいるところです」
 イミルの指摘どおり、彼の格好は『滑稽』を絵に書いたようなものだった。
「仕方ないだろ。僕の涙腺は別の意味で崩壊寸前なんだ」
「えぇ、それは分かっています。ですが、今のあなたとだけは一緒に空港へ向かいたくありません」
「君は僕が死んでもいいっていうのかい?」
「青い制服を着た人間に捕まるくらいなら、その方がマシかと」
「僕がマシでは済まされないんだけど」


結局、涙腺が回復するまでエジプト行きは延期になった。
「君が僕を休ませないからだよ、まったく」
「以前ここに勤めていた方の話によると、休んでいた分の雨を一気に降らせたせいで、ある国の工場を一つ潰したらしいですね」
「・・・・・・」
「被害はどれくらいなんでしょうね?」
「さ、さぁね」
「それに、この前は雪でも同じことをしたそうじゃないですか」
「ギクッ」
「雪かき、大変だったでしょうね」
「・・・・・・えぇと。とりあえず、僕は誰に謝罪すればいいんだ?」
「さぁ? とりあえず、大地に接吻することから始めてみてはいかがでしょうか?」
「・・・・・・」
 彼の心の奥底に溜まっていったものがやわらぎ、どっと涙が溢れ出した。
 その日の午後は、土砂降りの大雨だった。


「良かったですね、エジプトに着いて」
「・・・・・・そだね」
「どうしたんですか?」
「いや・・・・・・別にいいんだけどさ。いくら機内では雨が降っていないからって、僕に何度も飲み物をかけなくたっていいじゃないか」
「そうしないとあなた、死んじゃうじゃないですか」
「それくらい、自分でできるよ。それに、あれ、どこからどう見てもいじめられてるようにしか見えなかったんだけど」
「まあまあ。たまたま機内にいた占い師にも言われたじゃないですか。『水難の相がはっきりくっきりでとる。合羽を着てれば大丈V』って」
「・・・・・・いや、着たら死ぬから、僕」


 二人は今、砂漠を歩いている。
 一人は涙を流しながら、もう一人はそれを眺めながら、だ。
「涙、ちゃんと出てますね」
「うん。なんか、昨日の君のおかげで涙腺に溜められる涙の量が増えた気がするんだ」
「それは良かったですね」
「決して喜べるようなことではないけどね」
「雨も少量ですが、降っていますし」
「あれ? いじめ、まだ続いてるの? ねぇ、聞いてる? イミル君?」
 そんな会話、のようなものを淡々と続けながら、二人は砂漠の砂を踏みしめていく。


 砂漠の砂は次々と雨粒を飲み込み、雨粒は砂漠を潤していった。
「すごいね、ここは」
「そうですね」
「僕が雨を降らせなかったら、地球はこうなるんだね」
「あなたが死んだ場合もこうなりますけどね」
「・・・・・・」
 心の底で「生きよう」と、彼はイミルの目を見て、思った。


 二人がまだ、砂漠の真ん中を歩いていたときだった。
「・・・・・・あっ」
「どうしました?」
「人がいる」
 そう言って、彼は指を前に向けた。その先で少年が一人、うずくまるように倒れていた。
「・・・・・・助ける気ですか?」
「そのつもりだけど・・・・・・君はあまり乗り気じゃないみたいだね」
「えぇ」
 極寒の地で吐く白い息のように、イミルの答えは冷えていた。
「人の子を助けたなんて聞いたら、上が黙ってませんよ?」
「そだねー。ちょっと、いや、かなり面倒くさいことになるね。メンドーなのはヤだなー」
 このときだけ、上司の言葉が乱雑なものになっていたことに、イミルは気付いた。
「見捨てるんですね?」
「・・・・・・何で君はそう、意地悪な聞き方をするかな?」
「性分です。仕方ありませんよ」
「・・・・・・ふぅ」
 熱気と雨で湿り始めた空気を肺に押し込め、彼は少年の倒れてる方へと向かった。
「君はそこで待ってて」
「助けちゃうんですね?」
「そーだよ。バレないよう、こっそりやるからダイジョーブ」
 子供が描く地図のような、ぶっきらぼうな答えを部下に返す。
 と、途中、何か思いついたのか、手を打ってから後ろを振り返る。
「そだ。万一バレたら、僕の独断って事にしといて」
「・・・・・・実際、独断でしょうが」
「まぁまぁ。そう言っとかないと、上が君に何するか分かったもんじゃないからね」
「・・・・・・」
 イミルが目を見開いたのは、彼の上司が再び少年の方へと向かい始めた後だった。


「さてと。君、意識は・・・・・・ないね」
 少年の肩を軽く叩き、反応がないのを確認すると、すたすたと場所を移動する。
「・・・・・・この辺でいっか」
「何するつもりですか?」
 いつの間にか、彼の後ろにはイミルが立っていた。
「離れてて。多分、この辺に水脈があると思うんだ」
「分かるんですか?」
「匂うんだよ」
「犬みたいな嗅覚ですね」
「・・・・・・」
 部下の軽口は無視することに決め、彼は両手を砂中へと入れる。
 透き通るような水が砂の中から湧き出てきたのは、それから数分後のことだ。
「ま、こんなもんか」


 そんな彼のもとへ、子供を背負ったイミルがやって来た。
「やりますね」
「まぁね」
 両手を腰につけ、どうだと言わんばかりに笑顔を向ける。
「っていうか、君、手伝う側になったの?」
「ただの気まぐれですよ」
 そう答えるのに一瞬、間が空いたが、彼は気にした様子もなかった。
「バレても知らないよ?」
「構いませんよ」
 今度はさらりと答える。
「これはあくまで『あなたの独断』ってことになってますから」
「あぁ・・・・・・そーだね」
「さぁ、この人間を助けましょうか」
 そう言って少年を下ろすと、鞄からコップを取り出し、先ほど湧かせた水をゆっくり少年の口元まで運ぶ。
「あー、独断かー。いい響きだねー」
 一方、その上司の方は、空を見上げながら呪文のようにその言葉を唱えていた。


「えっと・・・・・・この度は助けていただいて、本当にありがとうございました」
 目を覚ました少年は、ペコリと頭を下げた。
 湧き水は、少年が目覚める前に砂漠が全て吸い取ってしまい、今はその痕跡すら残っていない。
「あー、いいよ、いいよ。そんなに頭下げなくても」
「えっと・・・・・・すいません。お金、持ってなくて」
 少年は申し訳なさそうに声を出す。
 健気なその姿に、彼らはブンブンと手を左右に振る。
「いいの、いいの、そんなもの」
「そうですよ。こんな人に感謝することありませんって」
「・・・・・・あのねぇ」
 と、少年が不思議そうにこちらを見ていることに気付く。
「どしたの?」
「いや、その・・・・・・なんで泣いてるのかなって」
「・・・・・・あぁ」
 涙を流すのを止めるわけにも、説明をするわけにもいかず、彼は困ったように隣の部下を見る。
(何とかしてよ、イミル君)
 と、目で合図を送るも、肝心の部下は、
(自業自得ですよ)
 という冷めた視線を送り返していた。
 すると、少年はズボンのポケットから、汚れた布切れを彼に差し出した。
「これで拭いて」
「えっ」
「涙、もったいないから。ここ、水が少ないんだ」
 少年の声は真剣そのものだった。砂漠の過酷な世界で生きている分、水の大切さは二人よりも熟知しているのだろう。
 困ったことになったのは彼の方で、もらった善意を跳ね除けるわけにもいかず、かといって涙を拭うと雨が上がってしまう。
「今日、珍しく雨なんだ。長く続いてくれるといいんだけどな」
「うん、そうだね」
 ホコリをかぶったような返事をすることしかできず、助けを求めて隣を見ると、彼の部下は笑いをこらえるのに必死になっていた。
「君・・・・・・私の部下だよね?」
「フフッ・・・・・・は、はい・・・・・・フッ、そ、そのつもりですけど」
「上司をあざ笑ってるよね、それ?」
「はい・・・・・・ここまで自業自得が綺麗にはまるなんて、思いもしませんでしたから」
「・・・・・・はぁ」
 そんな二人のやり取りを、少年は再び不思議そうに見ていた。


「よし。こうしよう」
 そう言っておもむろに立ち上がると、少年の渡した布切れをイミルの頭に巻きつける。当然、目は完全に覆われてしまっている。
(・・・・・・どういうつもりですか?)
 小声でイミルが尋ねてくるが、仕返しと言わんばかりに彼の言葉を無視する。
「少年。君の名前は?」
「・・・・・・アルだよ」
「アルか。いい名前だ」
「・・・・・・あの人の目、塞がれてるけど、何するの?」
「フフフ。実はね、僕らは通りすがりのマジシャンなんだ」
「・・・・・・?」
「簡単に言うと、奇跡を起こす人だよ」
「奇跡って?」
「まぁ、見てて」
 そう言って、イミルの元へと駆け寄ると小声で何かを囁く。
 こくんと頷くと、イミルは前が見えないまま走り出す。
「彼は今、水の匂いを嗅いだんだ」
「水の匂い?」
「そう」
「犬みたいだね」
 アルの言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「そうだね」


 一通り走った後、イミルは立ち止まった。
「・・・・・・止まったね」
「そこかい? イミル君?」
「はい」
 足で砂の上にバツを書くと、巻かれていた布を解く。
「いいですか、アル君」
「・・・・・・何?」
「明日からでもいいです。このバツ印をつけたところを彫り続けてください。何ヶ月、何年かけてもいいです。そうすれば、ここから湧き水が出てきます」
「・・・・・・ホントに?」
「はい。本当です」
「証拠は?」
「・・・・・・えぇと」
 上司の顔を見るが、予想通り、ニヤついた笑顔を浮かべていた。
「・・・・・・私の鼻を信じてもらうしかないですね」
 顔を伏せながら、イミルは答えた。耳が火照っているのが遠くからでも分かる。
「・・・・・・ふーん」
 しばらくの間、思いつめた顔をしていたが、不意に顔を上げると少年は風のように走り出していった。


 しばらくそこで雨に打たれていると、小さなスコップを手にしたアルが帰ってきた。
「おおー、帰ってきたね」
「うん。今日から彫ることにしたよ」
「信じてくれるんだ?」
「このお兄ちゃんは『キセキ』を起してくれるんでしょ?」
 スコップでイミルを差し、ニコッと微笑む。
「うん。そうだよ」
「じゃ、僕、今日から頑張るね!」
「うん。がんばってね・・・・・・ほら、君も応援してよ」
 先程から顔を上げようとしない部下に、上司らしく声をかける。
「・・・・・・ちゃんと休憩は取ってくださいね」
「分かった!」
 と、ここでアルが三度目の不思議そうな顔をする。
「あっちのお兄ちゃんの名前は、イミルだったよね。じゃあ、泣いてるお兄ちゃんの名前は?」
「あぁ。そういえば」
 顎に手を置き、しばらく悩んだあと、彼は少年の目を見ながら答えた。
「僕の名前は、レインドロップだよ」
「・・・・・・変な名前だね」
 少年の真っ直ぐな声に、苦笑いを浮かべる。
「変で結構! それじゃあね」
 そこで二人は少年と別れた。


 天井が四角く切り抜かれた部屋。
 そこに二人は帰ってきた。
「なんとか帰って来れたね、イミル君」
「そうですね」
「なんとなくだけど、行くときよりも、機内でかける水の量が増えてなかった?」
「気のせいですよ」
 さらりと答える。茹で過ぎたパスタのように、その言葉には芯が無かった。
「そんなことより、あの少年。アルは大丈夫なんですか?」
「なんで?」
「私に水脈の位置なんか分かるはずないのに、あなたが『適当に走って水脈を探す振りして』と言ったからです」
「あっ。イミル君、人間の心配してるんだ?」
「・・・・・・少し、気になっただけです」
 囁くように言うと、イミルはまた、顔を伏せる。
「ふぅ・・・・・・僕は君に『振りをして』って言ったでしょ? 大丈夫だよ。水脈の位置くらい、君のたどり着いたところに簡単に動かせる・・・・・・多分、子供の力だったら一週間ちょっとで当てられるはずだよ」
 空気の抜けたボールのような声で、彼は答えた。
「普通にすごいですね、それ」
「だから言ったでしょ? 僕は偉いんだって」
「・・・・・・」
 たまには褒めてみようかと思ったが、その考えは風船が破裂するよりも早く消えてなくなってしまった。
「ところで、本当の名前、教えなくて良かったんですか?」
「本当の名前って?」
「あなたには『ケルビン』という名前があるでしょう? 何故、レインドップなんて名前を」
「いいじゃん。実際、僕は雨男なんだし」
 言い訳をする子供のような口振りで、彼は答える。
「アルはあなたを本物の『レインドロップ』だと思っていますよ」
「あー、それはちょっと・・・・・・申し訳ないことをしたね」
「・・・・・・」
「ま、いいさ。そんなのは・・・・・・あれだよ」
「・・・・・・些細なこと?」
「そう、それ」
 そう言って、彼・・・・・・ケルビンは空を見上げた。
 その部屋には相変わらず、雨が降り注いでいる。
                            〈了〉

ミスター・レインドロップ (さのすけ)

ミスター・レインドロップ (さのすけ)

2014-05-08 「水」

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted