囚われの末裔

囚われの末裔

アニメにもなった「氷菓」の二次創作です。自分で勝手にオリジナルキャラも出すし、オリジナルの地名も出すし、そして勝手にオリジナルの事件も起こしました。
「氷菓」では日常の謎を描いてますが、今回はちょいと非日常な謎「誘拐」を描きました。まぁ楽しめる人と楽しめない人といるでしょうが、自己満足ですので(・ω・)
※ちなみに作品内で原作の方に触れますが、ネタバレは含んでいませんのでご安心ください

出会いと別れの季節

出会いと別れの季節

 春は別れの季節と同時に出会いの季節でもある。4月と言う節目の月に学校、あるいは職場といった環境が変わるタイミングでもある。去る者、来る者、はたまた立場が変わるもの様々である。
例えそれがちょうど1年前に中学校卒業と高校入学という別れと出会いを同時に体験したばかりの俺にとっても例外ではない。俺はこの数日のあいだで、そんな劇的な別れと出会いを体験したわけで。
 時は4月に入り数日過ぎたある日の出来頃。高校の春休みと言う生徒にとっては1年間を通して数少ない長期休暇の、その終わりに近い日だった。
残り数日の春休みを謳歌するべく、ある者は遊び、またある者は勉学に励む。そしてまたある者はのんべんだらりと日を送る。俺はもちろん最後の選択肢の過ごし方・・・、を送りたかった。
しかし現実はそう優しくはなかった。別に補習があったわけではない。しかし3学期の最後、提出しなくてはいけない課題が残っていたのだ。高校1年の成績はつけ終わっているのだしそのくらい良いではないかと思った。のだが担任が「それを出さなかったらお前を進級させない」と脅迫まがいめいたことを言い出すもんだから、渋々それを出しに来たのだ。省エネを何よりも尊び、「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」を信条としている俺にとっては、この小冊子1つをただ届けなくてはいけないことにひどく苦痛を感じていた。
 貴重にして儚い春休みを何とか有意義に過ごしたいと思っていた俺にとっては幾分迷惑な話である。幸いにして、新学期が始まるのは土日を挟んで3日後だ。それまでなんとか長期休業日を有効に使いたいものだ。
 無事、課題の小冊子を担任に手渡し、これで神山高校2年生への進級が確実になった。担任は「もっと早く来れなかったのか」と眉間に皺を寄せていたが、こちらにも事情というものがある。まあ主に二度寝というひどく個人的な事情であるが。ともかく登校時間が遅れたらその分下校時刻が遅くなるだけだ。特にこれといった支障はない。よきかなよきかな。その帰り道だ。
隣を自転車を押しながら少女が並んで歩く。
 このお嬢さんは、神山市の名家、「豪農」で知られる千反田家の一人娘。漆を流したようなその艶めく髪は腰まで伸び、楚々とした印象を受ける。制服から伸びた細い首に小さな顔、そしてその顔に似合わず好奇心の塊と言わんばかりの大きな瞳。それらを兼ね備えたのが千反田えるであり、われらが古典部の部長だ。
 学校の帰り道。千反田の家の方向が途中まで同じということで、時間さえ合えば途中まで並んで帰るのが希にだがあった。
 と言っても千反田は俺と違い、忘れもので学校に来ていたわけではない。このお嬢様は成績優秀、見たもの聞いたものを忘れないという抜群の記憶力をお持ちなのだ。瞬間記憶能力ほどではないにしても、出すべき課題をすっかり忘れてしまう俺にとっては何とも恨まやましいスペックである。なんでも千反田は新2年生の新学期の抱負を全校生徒の前で読まなくてはいけなくなったらしい。その原稿の添削で高校を訪れたんだとか。
 「そんなもの適当で良いじゃないか」と言ったら、「全校生徒の前で読む以上恥ずかしいものは書けません」と鼻息を荒くしながら語っていた。
 ふむ、そういうものなのか。「省エネ」主義の俺には理解できんが、まあ頑張ってくれ。
 ふと、一枚の花びらが俺の鼻元をかすめる。思わずくしゃみが出てしまう。

「風邪はまだ治っていらっしゃらないんですか?」

千反田は心配そうな顔でこちらを見てくる。数日前まで春先の寒さで風邪をひいてしまったのだ。

「大丈夫だ。ただ、桜の花がくすぐったかっただけだ」

「そうですか。なら良いのですが」

そう言って千反田は立ち止まる。

「桜の季節ももう終わりですね」

 時刻は午後6時を回る。太陽は山の向こうに息を潜める。街頭の無機質な明かりは、役目を追え宙を舞う桜を、ふんわりと浮かび上がらせる。
 右から左から、舞って回って落ちて、それをずっと繰りかえす。まるで花びらに意志が付いているように。
 そうか、もう桜の季節は終わりなのか。
 狂い咲きの桜の樹の下を千反田が生雛に扮し、ゆっくりと練り歩く。そうあのこの世のものとは思えない幻想的な光景から何日も経つのか。

「そうだな。入学式には葉桜だな」

「このまま行けばそうですね。でも・・・」

「ん、どうした?」

「卒業式は桜が散っていると言うイメージがありましたけど、入学式は桜が満開なイメージがあります。どうしてでしょう。時間が逆戻りでもしたんでしょうか」

「そう言われてみれば、確かにそうだな」

 よくテレビでも雑誌でも、卒業式=桜が舞う校庭で先輩と後輩の甘い話で持ち切りになる。入学式=何故か散ったはずの桜が満開で新入生は襟を正し希望に満ちてやってくる。
 先輩と後輩とか、希望にあふれた新入生とかはこの際どうでも良い。確かに時間が遡らない限りこんな現象は起こらないはずだ。人間のイメージとは難しいものだ。

「気になるか」

 俺の意地悪な問いかけに、

「ええ。少し」

と千反田は笑顔で返した。

 アーケードの交差点まで到着した。ここでお別れだ。俺はまっすぐ、千反田は右折しなくてはいけない。あたりは更に加速度をまし暗くなっていき、夜の帳が降りる。向こうの山際が朱色っぽく赤いだけで、この一帯は闇だ。

「来年・・・、あぁもう今年でしたね、今年は同じクラスに慣れるといいですね」

 千反田の好奇心の爆発した時とは違う。目を細め、口角を僅かにあげ、首をかしげる。そして小声でうふふと呟いてくる。
 いかんと思いすぐに千反田から目をそらす。

「お前はあれだろ、理系進学希望出したんだろ。俺は文系だ、同じクラスにはならない」

「・・・そうですか。そうでよね」

 千反田のすこし落胆した声が聞こえた。
 周りを見る。ここはまだ良い。比較的交通量も人の行き来も多い。交差点を渡っても俺の家までは10mおきに街灯がある。そもそも俺は男の子だ、そんな心配はしてない。
 しかし、と1本脇に入った道を見る。そこは街灯も少なく闇が吹き溜りになっている。千反田が帰る道は非常に暗い。

「なあ・・・」

「はい、なんでしょう」

 千反田が小さな顔を少し傾ける。
 俺は、いやなんでもと言葉を濁す。あることを思い出した。
 今年の初めのこと。千反田と荒楠神社というところに初詣に出かけた。別に世に言うデートといった類のものではなく、千反田家の挨拶回りだ。それに付き合わされる形となった。そこで詳しい理由は省くが、俺と千反田は寒空の下、新年早々納屋に閉じ込められてしまった。大声を出して助けを求めれば何と言うことはなかったが、千反田はそれを嫌がった。
 自分たちのことを何も知らない人が、現在誰も使っていない納屋で、それも高校生の男女が一緒にいるところを見たらどう思うか。そう言った理由で躊躇った。俺はそれが良く分からなかった。しかし千反田曰く、その日は名代としてきた身、あらぬ誤解を与えてしまうのは父親にも迷惑がかかるそうだ。
 千反田家には千反田家の体裁がある。それを何も知らない俺が土足で荒らして良いものではないな、とそう感じた。だから今回も一緒だ。4月の春休み中とは言え、男子高校生と女子高生が夜遅く並んで歩いているところを見られるのは、もしかしたら都合の良くないことかもしれない。

「気をつけて帰れよ」

「はい。折木さんもお風邪などを引かないように気をつけてくださいね」

千反田は手を振りながら道を折れていった。淀む闇に姿が消えていくのを見届けると、さて俺もと呟いて目の前の歩行者用信号が青に変わるのを待っていた。
ここまではいつもとなんら変わらない日常だった。
そう、翌日、あの電話がかかってくるまでは

働かない頭脳

働かない頭脳

 4月8日 07:00 タイムリミットまであと34時間 


 目覚ましの音が聞こえた。俺は反射的に手を伸ばす。いつもの場所にいつものように置いてある目覚まし時計のボタンを押す。時刻は午前7時。
 まどろむ意識の中で俺は舌打ちした。しまった、いつものように目覚まし時計をかけてしまった。昨日学校に課題を届けに行こうと思ってセットして勢いでまたセットしてしまった。
 昨日はここから怒涛の4度寝を繰り出してしまったが。今日は目が冴えてしまった。何の予定もない。窓の外からは早起きを促すほど大量の光量が降り注ぐ。こういう日こそ自然と目が覚めるまで思う存分寝てしまいたいのだが、覚めてしまったものはしょうがない。ゆっくりと身体を起こす。

 1階に降りてくるが誰の気配もない。そりゃそうだ。大人は普通に平日だし、姉貴は姉貴で南紀から帰ってきたと思ったらまたどこかに遊びに出かけた。今、この家にいるのは俺ひとりなのだ。
 郵便受けの新聞を取り出し、なんの気なしにテレビをつける。特に見たいニュース番組もないのだが、高校2年生になったし社会情勢にも目を向けないと、と思ったわけでもないわけでもない。

『円高が進み、日経平均株価が・・・』

 ほう、それはたいへんだ。

『昨夜、東京都千代田区で誘拐事件が・・・』

 そりゃまた。

『中国で軍事拡張が勧められ空軍の・・・』

 ご苦労様です。

 特に目を引く事件もないな。今日も日本は平和だな。コップ一杯の牛乳を飲み干す。
 さぁ、今日はどうしよう。補習はないが、新学年に向けた課題はある。昨日学校に持っていったのは出し忘れたものであって、これから出さなくてはいけない課題は存在する。そしてそれはまだ半分以上終わっていない。
 よし。
 このままのんべんだらりと一日無為に過ごそう。そうしよう。
 そう自分自身に誓った時だった。電話が鳴ったのだ。

「もしもし。折木さんのお宅ですか?」

「そうですけど」

「あの、奉太郎様はご在宅でしょうか?」

俺の名前だ。しかし相手の声はどう聞いても初老を過ぎた男性の声だ。そんな年の離れた知り合いもいない。

「奉太郎は僕ですが」

そう答えると電話口の向こうのから安堵の溜息が聞こえる。

「奉太郎様でしたか。申し遅れました。私、千反田家の雑務一般を取り仕切っております長宗我部と申します」

 俺は思わず唸る。千反田家というのは俺の知っている千反田家であろう。そこに雑務一般を取り仕切る人物なるものがいるのか。世間ではそれを執事というのではないか。それが世間一般的かはさておき。
 そう言えば以前千反田の家に行ったとき、その豪奢な佇まいから里志が「使用人が出迎えてくれるみたいだ」と言っていたが、本当にいたとは。はて、そんな執事さんがなんの用だろう。

「今、お忙しいでしょうか?」

 ここで、はい今日一日はのんべんだらりと過ごすので忙しいです、とは言えない。

「いえ、特に予定はありませんが」

 それを聞いてさらに向こうは安堵する。

「折木様。大変不躾で身勝手なお願いとは重々承知ではございますが、これから我が千反田家に足を運んではいただけないでしょうか」

「俺が? 今からですか?」

「左様でございます。実はお嬢様、える様についてお話したいことがございますので・・・」

 それを聞いたときはてと思った。
 どういう事だ。千反田について俺に言っておきたいことがある?
 俺に?
 わざわざ?
 そもそも千反田本人はどうした。つい先日の生雛の傘持ちの件にしろ、もし用事があるなら本人が電話してくれば良いこと。それなのに今日に限ってなんでまた執事が電話してくるんだ。テーブルからリモコンを取り上げテレビの電源を消す。

「えっと・・・、長宗我部さんでしたっけ。千反田は、あいつはどうしたんですか? 用があるなら本人が直接・・・」

 向こうの長宗我部さんが言い淀むのがわかる。少なくとも何かあったということは、鈍い俺でも察することができた。

「それを今、電話でお話することは適いません。是非とも我が千反田家にお越しいただいて、その際にはご説明させていただきます・・・」

 迷いに迷った言葉だった。嫌な予感しかしない。俺の嫌な予感は当たっているだろう。まあ良い。取り敢えず事態が事態のようだ。
 時計を見る。現在時刻は午前7時30分を回ったあたりだ。今から着替えて、自転車で飛ばしても1時間はかかる。

「分かりました。すぐに準備します。えっと・・・今から支度をするので急いでも8時30分ごろになりますが、それでも?」

「いえ。無理を言ってお招きするのはこちらですのでお迎えにあがります。あと15分ほどでそちらに参ろうと思いますが宜しいですか?」

「え、迎えに? いえそんなわざわざ迎えに来ていただくなくとも」

「事態は急を要しますので、時間がもったいないこともあります。では15分後にそちらにお迎えに参ります。重ね重ねご無礼をお許し下さい」

 そう言って電話は切られた。俺は無機質な通話音を聞きながら昨日の千反田の姿を思い出した。
 宵闇に消えていく千反田の姿を。


※  ※  ※

 ぴったり15分後。迎の車が家の前に到着した。黒塗りのリムジン、とまではいかなかったがそれでも大型の高級セダンと言うのは分かった。
 停車するなり、運転席から男性が降りてきた。オールバックの白髪に小さな鼻髭を拵えた齢60ほどの老人。スリーピースのスーツを皺1つなく着こなし、俺の前に立った。

「折木様ですね。お迎えにあがりました。どうぞ」

 しかし見た目の年齢とは裏腹にその動きには無駄がなく、助手席のドアを開けてくれた。何とも場違いな乗客だなと思いながら身をかがめて中に乗り込む。すると後部座席に先客がいることに気づく。

「やあおはよう。ホータロー、今朝は早起きだね」

 我が悪友であり数少ない気の置けない友、福部里志だ。そしてその隣には同じく腐れ縁の伊原摩耶花も同席していた。この2人も俺と千反田同様古典部の部員なのである。
 高級セダンは発車した。

「里志に伊原、お前らも呼ばれたのか?」

「そうよ、文句あるの折木」

こうやって喧嘩腰の対応しかできないのが小学校から中学校までずっと同じクラス同じ高校に進んだ伊原摩耶花の喋り方だ。もっともこんな喋り方をするのは俺に対してだけだが。

「申し訳ございません折木様、福部様、そして伊原様。お休みのところ無理を言ってしまいまして」

 ハンドルを握りながら運転手は謝る。

「ご紹介が遅れました。私は、千反田家で雑務一般を仕切らせていただいております長宗我部です。先ほどは電話で失礼いたしました。」

 やはりそうか。この人が先ほどうちに電話してきた千反田家の執事の長宗我部さんか。動き一つとっても無駄がなく身のこなしは軽い、話し方も慇懃な印象を受ける。

「いえいえ良いんですよ。僕たちは補習もやり残している課題もないのでやることがなかったんですよ。迷惑なんてとんでもない」

後 部座席の里志から軽口が飛ぶ。嘘つけ。少なくとも一番補習の時間と残りの課題の数が多いのはこいつだ。こいつは自分の興味のあることは徹底してあるあ、興味のないことに関しては徹底的にない、そんな人種なのだ。こいつが学校の課題や補修に興味があるはずもなく、つまりは何一つ手をつけていないという結論に達する。

「そのように行って頂けるとこちらも助かります」

「長宗我部さん。千反田はどうしたんですか。何があったんですか」

「・・・・・・」

 俺の問いに明らかに顔色を悪くする。口元が引き締まり目が幾分細くなる。

「申し訳ございません。私が今ここでお話することはできません。屋敷につきましたら当主の千反田鉄語様からお話がお聞かせ願い得ると思います」

 当主。それは一家の主のこと。つまり千反田家の主。千反田えるの父親であり、神山市北東部の大部分を収める豪農千反田家の当主。俺は一度もあったことは無い。おそらく里志も摩耶花もあるまい。一度もあったことが無いという事は、それが俺たちが謁見に値する人間ではないということだ。

「ただ折木様、福部様、伊原様、これから千反田家当主がお話することは決して嬉しい楽しいものではございません。何卒、お覚悟の上、お聞きくださるようお願いします」

 『嬉しい』『楽しい』ものではない、という事は何となく予想はしていた。しかし『お覚悟の上』とまでは予想できなかった。どういう意味なのだろうか。不安に不安が上塗りされていく。

「見えてまいりましたね。あと数分で到着いたしますので」

 道の路側帯が小さく細くなっていく。家屋やビルや商店街といったものがどんどん姿を消し、ついには右も左も一面水田だらけになった。まだ田植えの時期には早いだろう。茶色いテーブルクロスを一面に引いたようなそんな光景だった。その光景の真正面。重厚な門構えに純和風な屋根と壁。その大きさを測るのに「東京ドーム○○個分」と言った表現が適切な広さを持つ、千反田家が見えてきた。

 千反田家に到着した俺たちは、長宗我部さんの先導のもとある一室の前まで通される。
 以前来た時に通された客間とは異なり、建物の位置的に最深部とも言える場所だ。障子で閉ざされた部屋の前まで来ると長宗我部さんは片膝を付いた

「旦那さま、お召付け通り折木さま、福部さま、伊原さまのお迎えに行ってまいりました。」

 中から返事が返ってくる。

「ご苦労。中へ」

 低く渋い男性の声。長宗我部さん以上にバリトンのかかった声だった。その声に合わせて長宗我部さんは障子を横に開ける。
 20畳ほどの和室であった。客間に比べると幾分狭いが、簡単に開放されされないであろう厳かな雰囲気も感じさせられた。その部屋の奥にさきほどの声の主であろう男性が正座していた。その前には3人分の座布団。ここに座れという意味であろうか。長宗我部さんに促され部屋の中に移動していく。

「どうぞお座りください」

 障子越しで聞いた声以上に胸を震わせる声だった。
 年齢で言うと40代中頃であろうその男性は、その特徴的な声以上に若々しく見えた。服装は濃い藍色をした紋付の袴。頬が少し張っているが全体的にシャープな印象を受けた。。鼻は日本人離れしたほど高くつり上がっている。そして真一文字に結ばれた口元。多少白髪の混じった頭髪はしかししっかり整えられ威厳すら感じる。そして中でも一番印象的なのがその目であろう。少し窪んではいるがその顔に比べると非常に大きく、見るものを射抜くほどの双眸。その目はあいつを思わせた。
 男性の真一文字に結ばれた口が開いた。

「本日は、朝も早い時間から足をお運びいただきありがとうございます。いつも娘が3人にご迷惑をおかけしていると伺っております。お世話になります」

 『娘』。
 という事はこの男性は・・・。

「千反田えるの父親の、千反田鉄吾です」

 男は頭を下げた。
 この人が千反田えるの父親、千反田鉄吾。そして神山市の北東部に屋敷を構える名家にして豪農。

「本日お越しいただいたのは他でもありません。娘の、えるについてです」

 千反田鉄吾は脇にいる長宗我部さんに目をくれた。彼は顔を横に振る。

「折木さま、福部さま、そして伊原さま、あなた方に娘を、えるを助けるために協力していただきたいと思い今日はお越しいただいたのです」

 『助ける』?
 その言葉に反応した。それは里志も伊原も同じだった。まずは伊原だった。

「あの、ちょっと待ってください。ちーちゃ・・・、えるさんを助けるってどういうことですか。えるさんは今どこにいるんですか」

 そして里志だ。

「あの、話が急すぎて僕たちはなにがなんだか。何があったのか説明してもらわないと、何も出来ません」

 俺は黙ることにした。里志の少々非難がましい言葉に千反田鉄吾はその両目を閉じため息を1つ漏らす。

「勿論です。皆さんには現在の状況をご説明いたします。しかし・・・」

 千反田鉄吾の目が変わった。空の王者の鷹を思わせるほどの鋭さを持った。

「他言は無用にしていただきたい。よろしいですかな」

 有無を言わせない凄みがある。これが千反田家を、そしてこの地一帯を治める者の力か。しかし他言無用とは、一体何が起きているのか分からない。でもなにか起きていることはわかる。とてつもなくでかい事が、それも悪い予感が当たりそうなでかい事が。俺も里志も伊原も黙ってその言葉に頷く。

「長宗我部、例のものを」

 そう言うと彼は頷き、風呂敷を取り出す。藤色をしたそれは何か小さなものを包んでいるように見えた。手紙?
 風呂敷を俺たちの目の前に置いた。ゆっくりとした手つきでそれを解いていく。そこから出てきたのは、どこにでも売ってそうな1枚の茶封筒だった。

「中に手紙が入っております。それをご覧ください」

 茶封筒はちょうど俺の前に置かれている。促されるまま、俺はその封筒の中身を取り出す。幾重にも折られた1枚のA4サイズの紙だった。
 開いてみる。そこには万年筆やボールペンと言った類の書かれた文字ではなかった。一目でわかる。新聞や雑誌の切り抜きだ。字体やサイズが全てまちまちな文字でそこにはこう書いてあった。


―――取引をしよう。お前の娘は預かった。我々は神山市の『北部領域』を欲する。もし無事に娘を返して欲しければ、『北部領域』の土地の権利書と権利者の実印と身分証明書の3つ全てを用意しろ。期間は4月9日の17:00までとする。使いのものを寄越すのでそのものに指定されたものを袋に入れて渡せ。使いのものに何を聞いても無駄だ。使いのものは自分が何に利用されているか全く知らないのだ。3点を確認でき次第、娘は必ず返す。 注意:くれぐれも警察に知らせるような真似はよせ。もし警察の動きを察知したら、その時点で取引は中止とする。私は『北部領域』を手に入れることはできないが、同時にお前も娘を永遠に取り返すことが出来なくなる。せいぜい気をつけることだ。良い返事を期待している―――

 一通り読んでみた。
 最初意味が分からなかった。この文面の内容もそうだが、千反田鉄吾がこれを俺たちに見せてきたことも理解が及ばない。

「千反田さん。これは一体・・・」

「脅迫状です。娘を誘拐した人間からの、身代金要求の文章です」

「身代金・・・、誘拐・・・?」

 非日常的な単語だった。
 誘拐と言うのは、身代金などの目的で子どもを連れ去る、あれのことか。だとしたら少なくともここ数年のあいだでその言葉を使ったことがない。
 非現実的な響きは消えず耳の中にいつまでも残る。

「そうです。娘は昨晩、誘拐されました」

 担がれているのか?

「何者かが無理やり連れ去ったと思われます」

 千反田鉄吾の話を遮って、俺は少し声を荒らげた。

「ちょ、ちょっと待った。何なんですか。一体何の話をしているんですか」

「話も何も、娘の話です。先程も申し上げたとおり、娘が昨夜、誘拐されたのです」

 千反田鉄吾の淡々とした口調も癪に障った。
 いきなり何を言い出すんだこの男は。千反田の父親かもしれないが、話している内容はややファンタジーめいているぞ。
 人の休日を割いておいて、口にしたのが娘の誘拐?
 くだらない!
 そのうちその襖が開いて、「ドッキリ大成功」なんて書かれたプラカードを持った千反田が出てくるんじゃないか。
 そしたら俺はそれに対し、仰々しく「うわー、騙された」と驚いて見せなくてはいけないのか。
 もしかしたら里志や伊原も共犯なのかもしれない。しかしちらりと盗み見た2人はこちらの様子を伺ってくることもない。それにどことなく顔色も悪い。

「急にこのような話で混乱されていることでしょう。しかし今私が申し上げたことは全て事実であり、その脅迫文も昨夜、確かに私の元に届いたのです」

 いつまでたっても、プラカードを持った千反田も出てこない。その後、千反田鉄吾はおろか、長宗我部さんも、里志も、そして伊原も何一つ言葉を発しない。
 その異様なまでの沈黙の意味が分かってきた。少しずつ針で刺すような痛みすら湧いてきた。

「もう一度申し上げましょう。私の娘、千反田えるは誘拐されました」

 後頭部をハンマーで殴りつけられたような感覚だった。
 誘拐?
 誰が?
 千反田えるが?
 本当か。
 だから顔を出さなかったのか。
 本当なのか。
 本当に千反田が誘拐されたのか。
 そこの襖の裏でタイミングを見計らっているじゃないか。
 しかし一向に姿を現さないぞ。
 ネタばらしにしては遅すぎる。
 じゃあ違うのか。
 なら今どこにいる。
 テーブルの陰か、座布団の下か。
 違う。
 ならあいつは、こんな時にどこで何をしている。
 本当に誘拐されているのか。
 だとしたらどこにいる。
 分からない。
 いつ、どこで誘拐された。
 何故、何のために。

 脳内で洪水のように問が湧いてきた。止めようにも止め方が分からない。後から後から勝手に湧き出してくる。
 その問に応えてくれる人間などいやしない。

 千反田鉄吾は昨晩、と言っていた。昨日の夜、俺が最後に顔を見たのが交差点の手前だ。千反田が右に、俺は横断歩道を渡って帰って、それっきりだが・・・。

「状況をお話しましょう。事件が起こったのは4月7日、昨晩です。春休みでしたが娘は学校に用事があって出かけました。時間は午後の1時か2時くらいだったでしょうか。6時頃には帰ると言って家を出ました。しかし7時になっても娘は帰ってきませんでした。学校にまだ残っているのかと思い電話してみましたが既に下校したと担当の教員が話しました。携帯電話も持っていない以上、連絡がつきません。家にいるもの総出で探しました。娘の行きそうな場所、あるいはどこか怪我をしているのなら怪我のしそうな場所、徹底的に探しました。すると大通りから1本脇に入った道に娘の自転車が転がっているのをこの長宗我部が見つけました」

 大通りから1本脇に入った道?

「すいません。大通りから1本脇に入った道と言うのは、交差点の手前のあの道ですか?」

「その通りでございます。あの道は人通りも少なく街灯も無いので。私がお嬢様の自転車を見つけたのも角を曲がって100~200mほど行った場所で、乱暴に投げ捨てられていました」

 長曾我部の言葉を聞いて絶望した。
 角を曲がって100~200mだと?
 ほんの眼と鼻の先じゃないか。
 そこで千反田が誘拐されただと。
 馬鹿な。
 もし俺があの時、千反田家の体裁やなんやらを考えずに素直に帰り道を送ってやれば良かったのか。
 そうすれば千反田は誘拐されずに済んだかもしれなかったのか。
 もし、もしそうだとすれば、俺のせいだ。
 俺のせいで千反田は誘拐されたことになる。
 俺のせいで。

 よっぽど顔色が悪かったのだろう。里志が心配そうに声をかけてきた。

「ホータロー、大丈夫かい。かなり具合悪そうだけど」

「いや・・・。なんでもない」

 そう返すのが精一杯だった。

「長曾我部が自転車を見つけたのが7時30分頃。それと時を同じくして我が家の郵便受けに切手も消印も無い茶封筒が発見されました」

「それがさっきの手紙ですね」

 伊原はその茶封筒を睨みながら言う。

「左様。それを見て我々は初めて娘が、千反田えるが何者かに誘拐されたのだということに気がつきました。」

 千反田鉄吾の目の色から疲労の色、そして自虐的な色が見て取れた。

「あの、警察にはもう知らせたんですか」

 里志の質問に千反田鉄吾はかぶりを振る。

「いえ。警察にはまだ」

「えっ!」

 里志が声を上げた。

「と言うのも私には娘のことを考えると、どうしても警察に連絡することができなかったんです。もちろん、日本の警察が優秀なのは知っています。マスコミが蔑むような組織ではないと知っています。しかしそれでも私は、娘に万が一のことを考えると二の足を踏んでしまうのです」

「それじゃあ。千反田をどうやって助けるって言うんですか。そもそも何故俺たちを?」

「折木さま、福部さま、伊原さま、御三方の話は予々娘から聞かせていただいています。中学校卒業までそれほど活発ではなかった娘が、高校入学を機に、正確には古典部入部を機に変わりました。毎日楽しそうにその日あったことを話すのです。特に折木さま」

「お、俺ですか」

 千反田鉄吾の強張っていた表情が和らぐ。

「娘は折木さまの話をするときが一番嬉しそうでした。古典部の文集作成のときや文化祭での事件などを、それこそ快刀乱麻のごとく解き明かしたと、まるで自分のことのように喜んで話していました。私はそれを聞いてあなたがたは信用に値する人物だと確信しております」

 何てことだ。自分の娘の話を一から十まで鵜呑みにするのか。
 それこそ俺たちはどこにでもいる普通の高校生だ。そんな俺たちに何ができる。

「俺たちは警察のような誘拐の捜査なんてできません。普通の高校生ですよ。そんな誘拐事件に力を貸せなんて、無茶にも程がある」

「重々承知しております」

「なら何故?」

「別に私は皆さんに誘拐の捜査をして欲しいわけではありません。娘のことで協力して欲しいと申し上げたのは、『北部領域』の交渉をお願いしたいのです」

 『北部領域』の交渉?
 そもそもさっきから出てくる『北部領域』とはなんなんだ。名前からしてどこかの場所の名前か?

「私は、犯人の要求を飲もうと思います」

「犯人の要求・・・。それってつまり」

 千反田鉄吾は大きく頷く。

「ええ。『北部領域』を解放、つまり犯人に渡そうと、そう思っています。そのための交渉で皆さんに御力添えを、と思います」

 今一度千反田鉄吾が頭を下げた。神山市の名家にして豪農。この地をまとめあげる存在で、今なお市内に大きな影響力を持つであろう千反田家当主の度重なる土下座。その意味の大きさは神山市の平々凡々な一高校生でも充分すぎるほど分かった。
 冷たく乾いた空気中に、何か鋭利な刃物が飛び回っているような錯覚さえ感じた。千反田鉄吾は頭を上げ、俺たちに訪ねた。

「そもそも皆さん。『北部領域』と言うものをご存知ですか?」

 聞いたことがない。俺は今回の脅迫文で名前を初めてその単語を聞いた。『北方領土』なら聞いたことがある。日本とロシアで問題になっている北海道北東部の島のことだ。けれども今回はその話ではないだろう。
 3人で互の顔を見回す。伊原は困惑したような表情だったが、里志は何か思うところがあったようだ。

「名前、だけなら」

 しかしその声に張りはない。いつもなら自分の知っていることを嬉々として話すこいつが何か言いよどんでいる。

「神山市の北東部にある広陵地帯の別名ですよね。確かこの千反田家のさらに北側にあるあの・・・」

 里志は北を指差す。
 そう言われて思い出す。5日ほど前のことを。俺は千反田に急遽、傘持ちの代役を依頼された。本来傘持ちをするはずだった人が来れなくなり俺にお鉢が回ってきたのだった。
 神山市北東部の広陵地帯は以前は独立した村だった。そこでは毎年旧暦のひな祭りに「生き雛祭り」が水梨神社というところで行われていた。今年は千反田が生き雛に扮し街を練り歩くということで俺は傘持ちとしてで参加した。
 あれ。でもこの周囲一体を含め地名を『陣出』と呼ばれていたはず。決して『北部領域』などと言う大層な名前ではなかったはずだが。
 そもそも陣出もそうだが、あくまで過去の話で今現在は全てひっくるめて神山市になっているはず。その神山市に暮らしているのに名前すら聞いたことがない。
 そこのところを里志に聞いてみた。しかし芳しいものではなく、

「生憎、僕もそれ以上のことは何も知らないんだ」

 と肩をすぼめた。

「そうでしょうな。神山市でもその単語を知っているものはごく限られてきます。なにしろ『北部領域』という言葉は正式名称ではなく俗称、使う人間もその地に住む住人くらい。
 少し長くなりますが説明させて頂けたらと思います。
 そもそも我が千反田家の歴史は江戸時代まで遡ります。当時、ここ一帯は千反田家が庄屋として治めていました。村の代表として、お上の役人との交渉、農地改革の指揮、簡単な裁判の見届け人、そして分限者として祭祀の代表も務めたそうです。しかし戦後、日本の農地改革で他の庄屋同様持っていた土地の大部分を失いました。ですが私の祖父、えるにとっては曽祖父になりますな、千反田庄之助には商才がありました。手元に残った僅かな資金を元手に、残った農地の近代化を進め富を増やしていきました。失った土地も大部分を取り戻しました。そして今に至るというわけです。その名残と言いましょうか、隣り合う土地どうしの揉め事の仲裁や重要な決定事項の決議など、今でもこの一帯の指導的立場を勤めていると自負しております。時に折木さま」

 再び自分の名前を呼ばれた。

「なんでしょう」

「あなたは確か陣出の生き雛祭りで急遽傘持ち役を引き受けてくれたらしいですな。娘が無理を言ったそうで」

「いえそんなことは」

「なんでも祭り直前、ちょっとしたトラブルが起きたそうですね」

 ああ、と思い出す。
 里志と伊原は不思議そうにこちらを見てくる。この2人は生き雛祭りは見に来たが、そのトラブルのことは知らない。
 俺が傘持ちの役を仰せつかっていざ現場に行ってみると、本来予定していたルートが使えなくなっていた。生き雛が渡るはずだった橋が工事で通行できなくなったのだ。役員たちは上を下への大騒ぎだった。別の橋を渡ればトラブルは難なく収束するはずだったのだが、いざその提案がなされるとその場にいた役員たちは回答に困った。

「陣出の領地問題ですね。元々あった『長久橋』を使わずに『遠路橋』を渡ろうとすると、相手の陣地に勝手に入ることになり躊躇っていました」

「ええ。全くその通りです。その節は折木さまに尽力していただき解決できたそうで。千反田家を代表してお礼を申し上げます」

「俺はただ伝言を頼まれただけです。大したことはしていません」

 なんでも千反田曰く、川の南と北で別の村だったそうだ。その昔は土地争いや水争いが頻発していたらしい。だから神山市に1つにまとまったとしても、地域住民にとっては気持ちの良いものではないようだ。

「折木さまはご覧になったでしょう。現在でも過去の土地の問題は非常に複雑でデリケートです。『神山市で一つになったから』の一言で片付く問題ではありません。それの最たるものが今回の『北部領域』につながってくるのです」

「結局、『北部領域』と言うのは神山市のとある土地の事なんですね。それも千反田家の治めていた土地だと・・・」

 今まで静かに聞いていた里志が当主に訪ねた。それに対し当主はまゆに縦皺を刻みながら応える。

「過去は、ですね。先ほど申し上げたとおり戦後の土地改革で失った場所です。現在でこそ神山市の北東部に位置する場所ですが、元々は1つの山あいの小さな村でした。生き雛祭りが行われた場所のさらに北に位置する10平方kmにも満たない小さな土地で、現在は別のものが所有しています」

 伊原が顎に手を当てて訝しむ。

「ちょっと待ってください。陣出のさらに北側って言ったら、ほとんど山じゃないですか。そんな所に村が?」

 伊原の言うとおりだ。そもそも陣出地域自体かなり山あいに近い場所だ。その北となると神垣内連峰が聳える日本でも有数の山岳地帯だ。そんな場所にそもそも村なんてものが存在したのか。

「正しくそうなのです。『北部領域』はその大半が山で覆われていて、人が暮らせる場所はほんのひと握りなのです。人口も50人に満たないとか。斜面ばかりで作物も満足に植えることができなく、ちょっとした雨ですぐに水害が起きる場所とも聞いております。
現在でも街灯はおろか、舗装された道も無い始末。ほとんど、陸の孤島と化している、そんな場所です」

「そんな。神山市はそんな村をなんとかしようと思わなかったんですか?」

 伊原の怒りは神山市にも向いていた。

「もちろん神山市も動きました。公共事業を進めて住みやすい場所にしたらどうだ、多少は税金で整備するぞ、少しは他の地域と交流を持ったらどうかと、散々忠告してきました。既に手を離れているとは言え、元は千反田家の領土、それこそ私もあいだを取り持ちましたが向こうは頑として嫌がり素直に耳を傾けません。彼らはこと千反田家と接することを嫌います。昔はお前たちの土地だったかもしれないが今は違う、口を出すな、とでも言いたいんだと思います。いかんせん現在は一個人の持ち物、言わば私有地のようなものですから勝手に施すわけにはいきません。それが『北部領域』でして、千反田家にとっても悩みの種なんです」

 千反田鉄吾はやれやれと辟易してみせた。
 里志も伊原もようやく話が見えたようだ。詰まるところ、現在神山市の一部で元々千反田家の土地だった地域が、今はほかの地域との交流を無くし孤立していると。千反田家もそこまで面倒を見る義理はないが、何とか解決をはかりたい場所、それが『北部領域』と言うわけか。
 ここまで聞いてふと疑問に思った。何でまた誘拐犯はそんな土地を欲しがるのか。聞くところによるとそこまで魅力的な場所とも思えない。そもそも誘拐で金品でなく土地を要求するなんて聞いたことがない。

「3人の眼には馬鹿な内輪問題、と映るかもしれません。ですが娘を助けるためにはこの『北部領域』を譲ってもらうしかないんです。もし交渉がまとまったら当然、『北部領域』の住人は移動が余儀なくされます。我々も、そして神山市もそれにできる限り応えようと考えています。新しい住居、仕事先だって世話をしようとも考えております。皆さんにはこの『北部領域』の領主と交渉していただき、何とか土地の権利を譲ってもらえないかと思います」

 今日3度目の土下座だ。
 千反田鉄吾の哀願に里志と伊原は眉をひそめた。それはそうだろう。事件の被害者が千反田えるであり、その解決に力を貸してくれというのだ。今までの神山高校の歴史や、文化祭の小さな盗難事件とは訳が違う。人一人の命が俺たちの双肩にかかっているんだ。おいそれと首を縦に降るわけには行かない。
 それでも目の前で頭を深く垂れている千反田鉄吾を見るとそう簡単に拒絶はできない。2人は困った顔で俺を見る。
 俺に判断を委ねるというのか。
 何故俺が・・・
 くそ!
 なんとか考えろ、折木奉太郎。今回は俺でも里志でも伊原でもない、千反田の命がかかっているんだ。
 考えろ、どうすれば良い?
 俺はどうしたら良い?
 交渉といっても、何をどうすれば良い。
 相手の条件を聞くのか?
 聞いてどうすればよい?
 それが無茶苦茶な要求ならどうする。それでも無理にこちらが呑まなくてはいけないのか。
 その判断も俺たちがするのか。
 交渉が決裂したらどうする。
 謝れば何とかなるのか。
 なんとかならない場合はどうなる。
 死ぬのか。
 千反田が死ぬのか。
 あの千反田が?
 もう放課後に無理やり謎解きを迫られることがないのか?
 もう二度と千反田の「わたし、気になります」が聞けないのか?
 もう、あいつの目を見ることができないのか・・・?

 その時だった。何も喋らず、ただ己の膝ばかりを見つめる友人に業を煮やしたのか、里志が千反田鉄吾に質問を投げかけた。

「千反田さん、2つお聞きしたいことがあります」

 千反田鉄吾は顔を上げる。

「何でしょう。我々が知っていることならば何でも」

 そこでようやく我に返った。気がつけば呼吸が荒くなっている。手足の指先が冷たく氷のようになっていることに気づく。

「まず1つ目です。話を聞く限りやはり交渉は僕たちではなく、ちゃんとその能力に秀でた人間がやるべきではないでしょうか。こう言ってはなんですがやはり僕たちは普通の高校生です。歴史も何も知らない他所の土地の人間が交渉の場に現れても、それこそ向こうは良い顔をしないのでは?」

「確かに一理あります。ですがその件ですが、やはり私たちよりも皆さんの方が適任かと思います。と言いますのも、実は相手方の領主は皆さんと同じよう16歳、今度高校2年生の少年です」

「16歳!? 領主なのに?」

「領主に年齢は関係ありません。それに『北部領域』の代々の領主の家系の人間です。名を『天重 剛真(あましげ ごうま)』と申します。そうそう、確か皆さんと同じ神山高校に在籍中ですよ」

 里志に言われはっとした。確かに交渉相手の領主の名前すら聞いていなかったのだ。そうだ俺も千反田鉄吾に聞かなくてはいけないことが山ほどあるはずだ。

「天重、剛真、かあ。聞いたことないわね。少なくとも私のクラスにはいないわ。フクちゃん知ってる?」

「僕も聞いたことないな。ほかのクラスだと思う」

「変に交渉術に長けた大人よりも、むしろ同い年、同じ学校に通う者どおしのほうが意外と上手くいくかもしれません」

 千反田鉄後のその言葉には何処か楽観的な色が含まれて言えなくもない。ただ単に同じ学校の同じ学年になっただけだ。こっちが向こうを知らない分、向こうだってこっちを知らない。
 ほとんど赤の他人どうしじゃないか。果たして交渉が成立するのかどうか。
 しかし、今はこんなことを考えていてもしょうがない。千反田家が交渉できないのでは、俺たちが交渉しなくてはいけない。そして交渉が成立しなければ千反田は帰ってこない。やらなくては。
 あとはなんだ。何を聞くべきだ。
 くそ。いつもなら集中できるのに、なぜ今回は頭が働かないんだ!

「では2つ目。あなたは先ほどおっしゃいましたね、『新しい住居、仕事先だって世話をしようと考えている』と。何故ですか。何故そこまでするんですか?」

「それは先程も申し上げました。今は千反田家の手を離れていますが元々は収めていた土地、面倒をみようと思うのが普通なのでは・・・」

「本当にそれだけですか?」

 里志の語尾が強まる。

「僕は理由がそれだけだとは思えません。千反田家は戦後に失った土地を全て取り戻したわけではないのでしょう。『北部領域』以外にも取り戻すことが叶わなかった土地があるはずです。それら全てに同じことをされるおつもりですか?」

 千反田鉄吾は何も答えない。表情すら変えないが、しかしその場の空気が変わったことは察知した。里志は続ける。

「他に理由があるならお教えください。少なくとも僕たちは今回の誘拐事件でその『北部領域』の領主と交渉に臨むのでしょう。知る権利はあると思います。たとえどんな些細なことでも包み隠さずお話していただきたい」

「・・・嫌だと言ったら?」

「今回の要求を断ります」

 千反田鉄吾の表情が変わった。唯でさえ大きかった目はさらに大きくなり、こちらを射抜くように見詰めてくる。しかしそれは千反田えるが好奇心を爆発させる時のものとは異なる。明らかな敵意がこちらに向けられている。しかしそれも束の間、千反田鉄後の表情は元に戻る。むしろさっきよりも柔らかく綻ぶ。

「ご明察。流石は娘が絶賛するだけはありますね。気分を害したのなら謝ります。実は『北部領域』の面々が今まで市や我々の要求を突っぱねるのには他の理由が大いに考えれるということです。それは『神山市再開発計画』です」

「旦那様! それは機密事項なのでは!」

 今まで黒子に徹していた長宗我部さんが明らかに動揺しその主人に制止を呼びかける。

「良い。この方々はそれに勘づいておられる。今更隠す必要もなかろう」

 そう言われると彼は再び影となり黒子に徹した。

「神山市では県をあげて大規模な再開発計画が打ち上げられています。商業都市と言うよりも研究学術都市としてですな。ちょうど茨城の筑波のようなものです。県は日本全国、あるいは世界から研究施設を誘致しようと躍起になっています。そのためにも人口密度の高く密集した土地の値段が高い場所よりも、少々開拓に費用がかかっても安く広い土地が必要だ、と言うになりました。そこで目を付けたのが神山市の『北部領域』です。まとまった大きな土地があり、しかし大都市からはそれほど離れていない、鉄道などのインフラを少し整備してやれば充分魅力的な土地になるわけです」

「なるほど。確かにそれほどの大掛かりな計画が進められているとなれば、今更土地の所有者が納得しないからといって簡単に引き下がるわけにも行かないと言う訳ですね」

「その通りです。県はその収入を年数十億とも数百億とも試算しています。それほどの計画ですので再開発が決定するまでは一般人にはおろか、その・・・」

 千反田鉄吾は渋面を浮かべ言葉につまる。その先、何を言おうとしているかはおおよその見当はついたのか里志が代わりに応える。

「一般人はおろか、当の『北部領域』の住民にも知らせていなかったと、そういうことですか?」

「・・・・・・まあそんなところです。しかし、噂はどこから漏れたのか住人の知るところとなります。彼ら住人は領主の天重剛真を中心に猛烈に反対しています。このままゴネればもっと良い条件を出してくるに違いない、そう考えています。我々の財源も無限でない上、今回の1件があります。私は何とかこの問題に終止符を打ち、千反田家と『北部領域』の関係修復の一歩にしたいと思う所存です。そこで折木さま、福部さま、伊原さま、私に力を貸してください」

 慇懃とも思えるような言葉だった。
 問題は千反田救出だけでなく、領土問題まで発展するのか。しかしそんなことはどうでも良い。千反田の命には変えられない。確かに話を聞く限りでは、あいつを救うにはこれしかないんだ。
 里志の次は私だと言わんばかりに、伊原が口火を切る。

「分かりました。私は協力します。フクちゃんとついでに折木も一緒に協力させます」

「おお!」

 千反田鉄吾は破顔する。

「ただし条件があります。1つ。私たちはあくまでちーちゃん救出のために『北部領域』領主と交渉します。けど解決するのはあくまでちーちゃんの救出だけです。領土問題に関しては私たちの解決できる範疇ではありません。期待しないでください。
 2つ。そのためにもし交渉が難航し、土地の権利を譲渡してもらう際の見返りについてもめたとき、その時は私たちに決定権をください。交渉でなんとか成立にこぎつけても、その後『そんな話は呑めない』と拒否されては元も子もありません。もちろん私たちも向こうにそんな無理な要求はさせないつもりですが、ちーちゃんの命最優先ということで条件を呑む場合があります。この2つです。宜しいですか?」

 伊原の啖呵に気圧されたのか、千反田鉄吾はたじろいだがすぐさま姿勢を整えた。

「承知しました。2つの条件を呑みます。ですので、なんとか娘をよろしくお願いします」

 千反田鉄吾はその頭を再び下ろす。
 しかし俺の脳は一向に働いてくれない。

抵抗する集落

抵抗する集落

 4月8日 12:00 タイムリミットまであと29時間



 「折木、大丈夫? まだ顔色悪いよ」

 伊原の問いかけに、大丈夫だと返した。
 しかし実際のところ大丈夫ではない。俺が一番分かっている。だからこそ「大丈夫か」と聞かれた時に「顔色悪いか」ではなく「大丈夫」と返してしまうのだ。

 俺たちはバスに揺られている。
 千反田誘拐事件の顛末を聞いて、その足で『北部領域』に向かおうという事になった。そしてそこで『北部領域』領主の『天重剛真』にあって話をしようと、そう決まった。何といっても時間が惜しかった。約束の期限まで2日とない。明日の夕方までにかたを付けないといけない。つまりそれまでに『北部領域』の権利を譲ってもらわなくてはいけない。
 時間との勝負だった。
 千反田鉄吾が、「うちの長曾我部に送らせよう」と言ってもらったが、それでは相手を刺激するようなものだと里志が断った。幸い神山市内であり、近くまでバスが出ているとのこと。そのバスで移動するという事になった。
 ならばせめて、と千反田鉄吾は先方に電話を入れてくれたようだ。正直俺は助かったと思った。早くあの特殊な空間から逃げ出したいと思った。

 千反田邸で誘拐事件を聞いてから確かに俺の状態は頗る悪い。体調不良という訳ではない。熱がある訳でもないし、咳も出ない。何というか頭が回らないのだ。何も考えないようにしても何か考えてしまう、でも何か考えようとしてもそれは霧散する。濃霧の中で行き先も分からず走り回るように脳が空転ばかりする。
 こんな事はなかった。今まで古典部ではいろんな事件に携わってきたがこんな事は初めてだ。神山高校文化祭の過去を紐解いた「氷菓」事件、未完の映画の結末を作った「女帝」事件、文化祭に盗人が出た「十文字」事件、その他多くの謎とであってきた。
 その全てを俺が解決してきたわけではない。むしろ俺が解決できた事件なんてたかが知れている。
 それでもだ。
 「頭が全く使い物にならない」ことは無かった。
 不本意ながら事件に関わったこともあった。
 良いように掌で転がされ使われたこともあった。
 自分の誤った推理に酔ってそれを咎められたこともあった。
 それでも自分なりに思考回路を働かせた結果があった。
 それがどうだろう、全くないのだ。今回は全く働かない。自分の頭が自分の頭でないような不思議な感覚だった。

「ホータローも気が動転しちゃったんだよ。確かに僕も千反田さんが誘拐されたって聞いたときはびっくりしたもの」

 里志のせめてもの慰めが、俺の耳には届かない。本当にそれだけなのか。それだけの理由で俺は頭が錆び付いてしまったのだろうか。

「見てみなよホータロー、景色がどんどん変わっていく。さっきまで田んぼばっかりだったのに、それも少なくなってきたよ。ほら摩耶花も見てみなよ」

「ホントだ。こう見ると神垣内連峰ってすごい険しくて高い山なんだね。あんなところに本当に村なんてあるのかな」

 2人は揃って、特に俺たち以外客がいないバスの座席に膝を立てて、過ぎ行く背景に眼を凝らす。窓の外の光景は右から左、右から左と規則的に飛んでいく。それを見たところでこっちの気持ちは全然晴れない。むしろこんな俺に気を使ってわざわざテンションを上げてくれている友人2人に、「悪いな」と呟きたくなる。

 バスを降りると、そこは長閑な牧歌的な風景が広がっていた。一面の緑が網膜を刺激した。雄大な神垣内連峰とそれを覆う木々、そして青々とした水田が視界の大部分を占めた。そしてバス停からその神垣内連峰のふもとまで伸びる未舗装の道。
 看板はないが、その道の先に目的地があることは明白だった。俺たちはゆっくりとその道を進むことにした。

 どのくらい歩いたことだろう。春先とはいえこれだけ歩けば汗が出てくる。ハンカチを持ってきていて良かった。道を進むにつれ、風景はどんどん変化していった。長閑で牧歌的な風景はいつしか鬱蒼とした風景へと変わっていった。道もどんどん幅を短くしていき、きれいな木々というよりも手付かずで荒れ放題なジャングルと言った感じだ。
 今まで周囲を囲んでいた水田も姿を消し、瑞々しい青から濁ったドブ水に似た葉の植物が覆うようになった。もちろん民家など何処にも見えない。
 来る道を間違ったのか、そう思った。
 さらに進んでいくと看板が立っていた。舗装された道路の脇に立っているような代物ではない。何十年も前に人の手で丸太を削って拵えたと思われる非常に原始的なものだった。表面は多量の雨風で腐り削られたようだったが、目を細めてなんとか読み取る。

「この先『北部領域』也、か・・・」

 里志が呟くよう答える。
 3人はその先に視線を送る。しかしそこに見えるのはおよそ人間の住むような場所には見えなかった。山の斜面がきつくなり、その表面は好き勝手に繁茂した植物と、崖崩れでも起きたのかと言わんばかりのむき出しの土。ところどころ見える黒い点は、辛うじて民家だということがわかる。しかし日頃住宅地で見かけるようなものではなく、むしろ山小屋に近い印象を受けた。
 まるで文明から拒絶されているようだった。平成に入って何年も経つのに、この地だけ時間が止まっているのかとさえ思った。

「まるで牢獄みたいだね・・・」

 里志の呟きは的を得ていた。ここは人間の住む場所じゃない。閉じ込められている場所だ。


※  ※  ※

 俺たちはさらに歩を進めた。道は既に獣道と化しており、しっかり確認しないといつの間にかその姿を見失う。
 なんとか道なき道を進んでいく。途中途中、山小屋のようなトタン屋根に、ペンキが剥げ壁の素材がぼろぼろな、家と読んで良いのかわからない建物を何件か見てきた。そしてその奥に一件の建物が見えた。その建物はまだ、風雨や暑さ寒さを凌ぐと言う家本来の機能を維持したものだった。表札には「天重」と書かれている。ここで間違いない。

 ドアベルを探すが何処にもない。手で叩けということであろうか。先頭を歩いてきた里志がドアをノックする。家自体が非常に小さいためであろう、ノック音がすぐに家全体に響いた。すぐにドアの向こうから返事が返ってきた。
 ドアが開く。そこには一人の少年が立っていた。

「いらっしゃい。どちら様かな」

 とても落ち着いた声の持ち主だった。
 身長は小柄な里志よりひと回り大きいくらいだった。おそらく俺と同じくらいの背丈、そして年齢だ。
 しかしかれの身体はその身長にそぐわないほどの痩躯だった。まるで針金細工を思わせた。それに身につけているものもボロボロのハーフパンツに色落ちしたパーカー、足元は擦り切れたビーチサンダル。とても領主の家系の人間とは思えなかった。

「初めまして。福部里志といいます」

 里志の快活な声に続くように、「伊原摩耶花です」と伊原も自己紹介する。俺も続けて「折木です」と頭を下げる。

「ああさっき千反田鉄吾から連絡があったよ。君たちか。どうぞ入ってくれ」

 少年は柔和そうに微笑むと家の中に入っていく。それに里志たちは続いた。
 通されたのは小さな部屋だった。部屋の真ん中にあるコタツ机。部屋の隅にたたんであるお煎餅のような布団、そして大きな本棚。それだけだった。テレビやパソコンといった文明の利器は存在しない。

「どうぞ座ってください。いま飲み物用意しますから」

 そう言って手で促されたのは、先ほどのコタツ机だ。どうやらここが客間のようだ。途中の廊下も見たが、風呂とトイレ、そして申し訳程度にある台所、そしてこの部屋で家は構成されているようだった。
 俺はこの部屋の大部分を占める本棚を見る。そこに沢山の書籍が並んでいた。しかしそのほとんどが農業や工業に関する専門書だったり、あるいは裁判の過去の判例集や六法全書であった。特に法律に関するものが多く、漫画や雑誌といった類の書誌は見当たらなかった。
 その中でとりわけ分厚いファイルを見つけた。ほかの書物に比べとりわけ手垢のついているものだ。俺は手を伸ばし、中を覗いてみる。
 新聞の切り抜きや、過去の裁判の判例、地図、メモなどが時間系列的にまとめられているものだった。一番過去のものとなると1940年代となっている。そこには「光クラブ事件」と書かれた新聞記事に赤ペンで様々な書き込みがなされていた。素人の自分が見ても理解できないがおそらく法律に関する単語が幾重にも並んでいたのだろう。またそのあともページを捲っていく。ごく最近のものになれば神山市北東部の精巧な地図だ。この『北部領域』一帯をマーカーで囲んでいる。なんだろうと目を凝らしてみる。そのすぐ横には「AL203」と言った記号も書かれている。

「なあ里志、『エーエル203』って何か知ってるか?」

「『エーエル203』? さあ聞いたことないけど。それよりもホータロー、人のものを勝手に読むのはよくないよ」

 俺もああ、と頷いてファイルを元の場所に戻した。するとすぐに家主が姿を現した。

「お待たせしました。と言ってもこんなものしか用意できないけど」

 そう言って彼が出してくれたのは紙コップに入ったインスタントコーヒーだった。
 客人の前にコップを配ると、家主はようやく腰を下ろした。

「自己紹介がまだだったかな。俺は天重剛真。一応、この一帯の領主だ。えっと、福部くんと伊原さんと、そして折木くんだったかな」

 俺は正面に座った少年を見る。千反田鉄吾の話では、俺たちと同じ神山高校の新2年生だと言う。確かに背丈を見ても、雰囲気を見ても俺と同じくらいの年齢だろう。しかしやはり目を見張るのはその痩躯だ。骨と皮だけほどではないにしろどこか頼りない、 それこそ風が吹けば飛んでいってしまいそうな少年に見えた。そして俺たちと齢を同じくして、この一帯『北部領域』の領主。この人物が土地を収める長、それが信じられなかった。

 まず里志が先陣を切った。

「天重さんって神山高校なんですよね。それも今度2年生なるって。僕たちも神山高校の新2年生なんです」

「ほう、そうか。しかしすまないな、同じ学校同じ学年とは言え300人近くいるからね、全員の顔と名前を把握しきれてないんだ。申し訳ない」

「いえ良いんですよ。僕たちだってそうなんですから。でもすごいですね、僕たちと同い年でこの土地の領主だなんて」

「そんなことはない。親から引き継がれだだけさ。ただそう言う家系に生まれてしまっただけに過ぎない」

「親から引き継がれたって、ご両親は?」

 天重は一旦言葉を切った。

「5年前に両方とも亡くなった。だからひとり息子だった俺に領主の座が回ってきた」

 里志は表情を歪める。聞いてはいけない場所を突いてしまったか。

「別に気にしないでくれ。そのことを今でも引きずっているわけではない。両親が亡くなったというのも不慮の事故だ。致し方がない」

 そう言って彼はインスタントコーヒーをすする。5年前といえば12歳、小学生だ。小学生の時に両親を失っている計算になる。

「そうそう、それで俺に話とは何かな。千反田鉄吾から連絡は受けた。しかし詳しい話は君たちから聞いてくれ、と言われた。話とは一体何であろう。なんでもこの地についてのことらしいが」

「実はこの『北部領域』なんですが・・・」

伊原の言葉を天重が掌を見せ止めた。

「申し訳ないが、ここで『北部領域』と言う言葉を使わないでいただきたい」

「すいません。何か気に障ることでも」

「その言葉は向こうの人間が使っているだけで、『阿良城』と言う立派な地名がある。これからはその名前で呼んでもらいたいな」

 里志は先陣に切って出たものの失敗し、その援護射撃と打って出た伊原は出鼻を挫かれた。
 深呼吸をする。肺に取り入れられた酸素がゆっくりと脳に溶けていく。いつもの3分の1も思考回路が噛み合ってないが、それでも先ほどよりは幾分ましだ。よし、と無言で頷く。

「気分を害されたのなら謝ります。我々はこの土地の領主であるあなたに、天重剛真殿にお願いがあって来ました」

「それは?」

「この土地を、我々に譲ってくれないでしょうか」

 天重と視線が空中でぶつかる。一瞬火花がはじけたようにさえ思えた。
 全くもってとんでもないことをお願いするな、と正直思った。初対面の相手にいきなり「土地をよこせ」と言われたら誰だって一笑に付すか、あるいは呆れて怒り出すだろう。しかし天重は冷静に聞き返してくる。

「・・・訳を聞こう」

「実は昨日、ある人物が何者かに誘拐されました。誘拐されたのは千反田家の一人娘、千反田えると言います」

「千反田える?」

「ええ。彼女も我々と同じく神山高校の新2年生です。そして古典部の仲間でもあります」

「なるほど古典部か。カンヤ祭のときの窃盗事件のあの古典部か。で、その子の誘拐と、この土地と何の関係があるんだい」

 里志に目配せする。里志は頷いて、いつも持ち歩いている巾着から例の脅迫文を取り出し龍見に手渡した。千反田鉄吾から預かっていたものだ。天重はそれを無言で読んでいく。途中から明らかに表情が曇り始める。

「ご理解いただけましたか」

「なんだいこれ」

 もっともな質問だ。しかし俺にその理想的な解答を用意することはできない。

「その文の通りです。千反田えると言う少女が誘拐され、その代わりに犯人はこの地、『阿良城』の土地の権利を要求してきました。彼女を救いたいんです。どうかお願いです。この土地を譲っては頂けないでしょうか」

 頭を下げる。それに合わせて里志と伊原も頭を下げる。天重はどんな顔をしているだろうか。鼻で笑っているのだろうか、はたまた呆れているのだろうか。おそらく両方だろう。

「話は何となくではあるが理解した。しかしおいそれとこの要求を飲むわけには行かない。君たちはこの『阿良城』に住む俺たちにここから出て行けと言うのかい。そもそもなぜ君たちがこれを持っている。これは千反田家に送られたものじゃないのか?」

「今朝我々が千反田鉄吾氏に呼ばれました。そしてそこで自分の代わりに我々3人に窓口になって天重剛真氏と交渉してくれと頼まれました」

「千反田鉄吾に頼まれた?」

 天重は明らかに敵意のある渋面を浮かべた。

「なぜ? なぜあいつ自身が来ない。自分の娘の話だろ」

「千反田鉄吾氏本人が来ると、交渉がまとまらないからと言っていました。なんでも千反田家と天重家とでは、その・・・」

 言葉を必死で選ぶ。

「・・・交渉が難航してしまうと。そこで第三者であり、天重剛真氏と同じ年齢、同じ高校に通う我々が窓口に選ばれた、という訳です」

「それで君たちは二つ返事で交渉役を買って出たというわけかい」

「・・・買って出たというわけではありません。ただ同じ古典部の一員として、一人の失い難い友人として千反田えるを救いたいんです」

 天重はしばし黙った。こちらの言葉になんと返答するかす逡巡しているのだろうか。彼はふむ、と口を開いた。

「君たちが誘拐された友人を救いたいという気持ちはわかった。しかし話はそれで片付くほど単純じゃない。折木くんだったかな、君の言う通りなら千反田えるを助けるにはその代償として、この『阿良城』の住人47人、俺を含めれば48人の生活が脅かされることとなる。領主である私がそれを良しとするわけにはいかない。分かってくれ」

 伊原がたまらず反論する。

「そんな待ってください! こっちはちーちゃんの、人ひとりの命がかかっているんですよ」

 そんな言葉を予期していたのか、天重は眉一つ動かさず返す。

「ならばこちらは47人の命がかかっている」

 遠まわしに、千反田えるを見殺しにしろと言っているのと同じだった。それはあまりにも俺たちには非情な宣告だった。
 しかし天重の言うことも分からなくもない。結局は立場が違うだけで守るべきものとそうでないものがあるだけだ。

「そもそも気に食わないな。もしこの交渉がうまく運ばれたとしたら、千反田家は何も失うことなく娘を取り返すことができる。しかし俺たちはこの土地を失って得るものは何一つない。明らかな不公平だ。こんな状況で交渉をしようとする神経を疑う。千反田鉄吾も、そして君たちもだ」

 神経を疑う。
 確かにその通りだ。俺たちが今提案していることは、ノーリスク・ハイリターンだ。我々が失うものは最初から存在しない。それを被害者面してお涙頂戴で話をすれば当然の反応だ。
 里志が姿勢を正し天重と相対する。

「千反田鉄吾氏はただでこの土地を譲って貰おうとは思っていません。土地の権利を譲ってもらう代わりにそちらの要求を飲むと言ってました。なんなら新しい住居や仕事先を世話するとも言ってました」

 そうだ里志。すっかり忘れていた。千反田鉄吾は言っていたじゃないか。神山市と協力し、移動を余儀なくされた『北部領域』もとい、『阿良城』の住人の住居や仕事先を工面するとも。千反田家は47人の新しい生活を保障する代わりに、娘を返してもらう。天重家は土地を失う代わりに、新しい生活を得ることができる。
 ノーリスク・ハイリターンではない。互の状況は平等のはず。これなら交渉は上手く進めることができる、そう思った矢先だった。

「断る」

 どこまでも冷徹で、そして赤く怒りの色を帯びた声だった。

「新しい住居と仕事を世話するからこの土地を譲れ? それで我々に恩を売っているつもりか。もしそんな条件で俺が首を縦に振ると思っているとしたらとんだ甘ちゃんだな、千反田鉄吾は」

 それまで動かさなかった眉は鋭角になり、眼力が増した。里志の譲歩の話の何が気に食わなかったのかさっぱりわからない。それでも譲歩の話が天重の琴線に触れたことは確かだった。

「何故です。千反田鉄吾氏は自分の娘が誘拐され、その身代としてこの土地が指名されたことを大層気に揉んでいました。今いる場所を追い出されてしまうあなたたちのことを考えてくれています。それに他に条件があるなら耳を傾けると、そう約束もしてくれました。それなのに何故」

「その考え方自体が気に食わない。我々の新しい住居や仕事を世話する? いつから俺たちは千反田家の下民層に成り下がったのだ」

「え?」

「福部くんだったね君はこの地の、『阿良城』の信条と言うものが何かご存知かね」

「信条、ですか・・・。すいません、分かりません」

「覚えておく必要もないが、一応頭の片隅にでも留めておいてくれ。我々の信条は『権力には徹底的に抗え』だ。国家権力に始まり、ありとあらゆる権力、武力、暴力、そういったものに一切媚びず屈っせずがこの土地の信条であり、唯一の掟だ。この地に住む者なら誰でも知っている太古の昔から伝わる鉄の掟。今回の譲歩の話もそうだ。一見すると我々の生活水準が向上し豊かな生活を保障してくれる、そういうふうに聞こえる」

「そのつもりで言ってます」

 里志は唾の飲み込む。一歩も引かないという姿勢だろう。

「これは見方を変えれば我々が千反田家と言う権力の支配下に置かれることを意味する。どんな美辞麗句を並べても千反田家のおかげで生き延びることになり、引越しをする、仕事を変えるにしても千反田家の顔色を伺う生活に成り下がる。そんなのはごめんだ」

「そんな考え方は間違っています」

「少なくともここの住人は同じことを考える。権力の、それも千反田家に屈するくらいなら死ぬまでこの地に留まることを選ぶ」

 伊原の反論も鎧袖一触だった。
 俺は思った。なぜ天重はここまで権力というものに反応するのだろう。それも過剰なまでに。そして「千反田家」というものが一つの琴線にもなっているのも不思議だ。

「何故です。どうしてそこまで千反田家にこだわるんですか。何か千反田家に恨みか何かでもあるんですか」

 その言葉は天重には予想外だったようだ。目が少し膨らんだかと思ったが、それもすぐに元に戻った。

「・・・君たちはこの土地のことを千反田家からなんと聞かされている?」

 この土地のことをなんと聞いている・・・?
 俺たちは互いに目配せをする。千反田鉄吾からは千反田家と『北部領域』の歴史や再開発のことしか聞いていない。ほかに何かあるのだろうか。何と答えたら良いものか、適当な言葉が見当たらない。それを察したのか天重は続ける。

「おおかた、再開発候補地をネタに意地でも居座っている集団、とでも紹介されたかい」

 何も返答することができない。それを肯定と捉えたのか天重は口元を緩める。彼は先ほどとはうって代わり、遠い目で窓越しに『阿良城』を眺める。

「君たちはこの土地を見て最初どう思った。長閑な山間の村、だと思ったかい?」

「・・・文明に見放された、それこそ牢獄に近いものを感じました。少なくとも人の住むような場所じゃないと」

「正直だ。それは正しい。電気も通っていなければガスもない。それぞれの家が自家発電機を持っていてガソリンを使って電気を得ている。きれいな水は流れているが、いちいち川に汲みにいかなくてはいけない。およそ世界に誇る技術大国の一部とは思えない有様だ。こんなところに好きこのんで住むやつはいないよ。再開発の立ち退き料なんて微々たるもんさ。それも本当に出るかどうかすら分かんない。もし俺が領主じゃなかったらいの一番に出ていってるね」

「領主だから、この地を収めなくてはいけないから残っていると?」

「それ以外に何がある。知っているかな、この『阿良城』に人が住み始めたのがいつごろか」

「さあ、わかりません」

「言い伝えでは約300年前から先祖が住んでいたようだ」

 里志が腕組みをしながら考える。今から300年前となると・・・。

「ちょうど江戸時代だね。千反田家が庄屋としてこのあたりを収め始めた時期と重なります」

「そのとおり。千反田家がこの地を収治め始めるとともに、今まで誰も住んでいなかった場所に人が住むようになった。なぜだと思う」

 そういう事か。俺は頭の中で合点がいった

「強制的に住まわされた、ですか」

「そうだ。千反田家によってね。千反田家が治め始めたころ、まだ千反田家にそれほどの求心力がなかったころだ。協力的なものもいれば逆に反抗的なものもいた。反抗的な住人をそのままにしておくと危険だ。悪貨は良貨を駆逐すると言ってね、それまで協力的だった住人までも取り込み仲間にしていく。では千反田家はどうしたか。簡単だ、隔離してしまえば良い。適当な罪名をつけて、仕事や住処を奪うんだ。住人は行き場を失いこの地にたどり着く。作物もろくにできない土、ちょっと雨が降ればたちまち氾濫する川、寒さをろくに防げない家屋。言葉の綾ではない。本当にその日その日を生きれるかどうかの環境にだったのさ」

「・・・逃げてほかの地に移り住もうという人間はいなかったんですか」

「いたみたいだよ。でもそのほとんどが成功しなかった。四方八方を険しい山と深い谷が囲んでいる、自然の要塞さだからね。唯一の出入り口にの小径には関所があったからね、勝手に出ることができない」

「関所?」

「看板見ただろ、あの少し開けた場所さ。あそこには門番がいて出入りする人間を管理していたのさ。許可なくこの地から出ようとする人間は、即刻打ち首、その家族も同罪。看板の立っていたその広場で観衆の面前で首をはねた。見せしめだね」

 天重の口から語られるその歴史に耳を疑いたくなった。本当にそんなことがあったのかと疑問さえ湧いてくる。ひりつく喉を我慢しながら聞いてみる。

「本当に・・・、本当に当時の千反田家はそんなことを?」

 俺の質問に龍見は肩をすぼめてみせる。

「さあ。本当にあったかどうかはわからない。そういう言い伝えがあるってだけだ。何しろ300年も前の話だし、そもそも記録を残そうにも千反田家がそれを許すはずがない」

「なら・・・」

「真実かどうかはわからない。でもこの地に住む人間はそう信じている。自分たちが先祖代々この地に縛り付けられているのは千反田家のせいだ、とね。知っているかな。この地に住む人間は例外無くまず悪しき歴史を聞かされる、それも何度も何度も。それこそ子どもが歌を歌ったり数を数えたりするよりも早くから言い聞かせられる。するとね不思議なことにみんなそれを真実だと思うわけだよ」

「その聞かされた話がおかしいと、真実とは異なるのでは、とは思わなかったんですか」

「思うかい? 俺はちっとも疑わなかったね。むしろ学校の先生は何故本当のことを話さないのだろうとまで思ったさ。両親や祖母、曾祖母、近所の人間から何度も何度も刷り込まれれば、それがどんな内容でも真実だと思う。そして真実だと疑わない子どもは成長し、次の世代へと引き継いでいく。これの繰り返しさ。事実、戦後の農地改革で千反田家がその土地の大半が失われた時だってそうだ。いくら千反田家から解放されたとは言え、この地を離れようにも世間からは偏見に満ちた目でしか見られない。ろくに住む場所も働き口も見つけられず結局戻ってくるのさ。そりゃ言い伝えを信じなきゃやってられない」

 何も返すことができない。
 ただ風の吹く音と遠くの鳥の歌声しか聞こえない。

「分かったかな。この地に住む者は千反田家に嫌悪を抱く者はいても、奴らを助けようと考える人間はいない。申し訳ないが君たちの願いを聞くわけにもいかない、領主としてね」

 ずっと膝を睨みつけていた。内臓と言う内臓が怒りで押しつぶされ呼吸すらまともにできない。握りこぶしに力を込め振り上げようとも、どこに振り下ろして良いか分からない。
 俺は千反田を助けたい。そのためにも『北部領域』の権利を譲ってもらうしか道はない。
 しかし目の前の領主に食って掛かるわけにもいかない。

 自分は愚かで無力だ。考えろ、考えるんだ。
 俺はここに何をしに来た。ここで何も喋らなかったら来た意味がない。

「どうしても、だめですか」

「だめだ。少なくとも住民が納得しない」

 くそっ。
 今のままでは天重は同じ交渉の場に立ってすらいない。
 なんとかして天重を交渉の場に立たせなくては。
 思い返せ。天重は何と言った。
 何かヒントがあるはずだ。
 天重が納得する妥協案が。

「君たちはどこまで千反田鉄吾を信じているんだ?」

 交渉に行き詰まった俺を見てなのか、予期せぬ天重の質問だった。

「・・・どこまで、と言うのは?」

「千反田鉄吾が本気で娘を助けようと、そう信じているのかという意味だ」

 そこまで聞いても天重の質問の趣旨が分からなかった。

「質問を変えよう。君たちは千反田鉄吾をどう思う。優しい恵比寿のような人間だと感じたかい?」

 俺はかぶりを振る。

「恵比寿、とは違いますね。目に力を感じましたし、どちらかというと毘沙門天に近いかと」

「ふん、なら君たちはすでに騙されている。あいつは恵比寿でもなければ毘沙門天でもない。あいつが今一番気にしていることはなんだと思う?」

「それはもちろん娘、千反田えるのことでしょう」

 天重はまた鼻で笑う。

「世間体さ」

「世間体・・・?」

「もっと正確に言えば『世論』、『社会的立場』だね。自分が社会からどんな目で見られているか、社会に何を求められているか、あいつが常に気にかけていることはそれだ。」

「そんな馬鹿な。血を分けた娘よりも、自分の社会的地位を守ることのほうが大切だと考える親がいるわけがない」

「それがいるのさ、現に。君たちもあと数回も会えばあいつの本性が垣間見えるだろうさ」

「・・・天重さんは、千反田鉄吾さんと何度も会っているのですか?」

「俺はあの千反田鉄吾と何回も顔を合わせている。年に4回、市長も交えて定例会を開き土地や過去の歴史の問題の解決を目指している会議に出席している。しかし定例会とは名ばかりで、毎回向こうが無理やりこちらを丸めこもうとするだけの会だ。二言目三言目には『常識的に考えれば』と言ってくる。やつらが考えているのは平和的解決じゃない、それこそ侵略だな」

 天重の言葉に喉が詰まる。ここまで聞いて思い描いていた『北部領域』、そして『天重剛真』の印象がだいぶ変わってきた。少なくとも立ち退き料の増加を狙った人物とは到底思えない。もし千反田鉄吾の話した言葉よりも、天重剛真の口にした言葉のほうが真実に近いなら・・・。
 俺は頭の中で仮説を組み立てる。
 もし本当に千反田鉄吾が「娘の救出」よりも「社会的立場」を取ったのだとしたら。
 もし千反田鉄吾が俺たちを交渉役に立てたことに別の目的があったとしたら。
 もし俺が千反田鉄吾の立場だったら。
 前髪を摘んでいた指先が止まる。
 
 もし、「これ」が千反田鉄吾の本当の目的だったとしたら・・・。

「・・・この交渉は千反田家は得るものしかない、あなたがたは失うものしかない、不公平だとおっしゃいましたよね」

これしかない。これで天重を俺たちの土俵に上げる。

「ん? ああ、言ったが」

「ではもし千反田家が何かを失うのであれば、納得していただけますか?」

「当主」対「領主」

「当主」対「領主」

 4月8日  15:15 タイムリミットまであと25時間45分



 俺たちが『北部領域』を後にしたのは、午後3時頃だった。
 来た小径をそのまま戻り、バス停でバスを待った。来た時と違うのはメンバーとして天重が加わっていることだった。一日に数本しかないバスだったが天重の「もうすぐバスが来る」の一言のおかげで乗り遅れることは無かった。

 利用客は俺たち以外いなく、車内はとても静かだった。車窓はゆっくりと流れていった。
 少しずつ風景が明るくなり、文明の色を帯びていった。

 このまま家に帰り布団に身体を埋めたいところだが、そうはいかない。交渉の内容を千反田鉄吾に報告しなければいけない。
 そう、交渉はまだ終わっていないのだ。
 確かに天重剛真との交渉は破談しただろう。しかし代わりに天重に「ある提案」をつけた。
 天重の千反田家に対する提案。これを呑めば『北部領域』の権利について考えると言った。
 あとはその提案を千反田鉄吾が飲んでくれるかどうかだ。それを今度は千反田鉄吾と交渉する。この交渉を成功させたい。いやさせなくてはいけない。さもなければ千反田を取り戻すことができない。

 車内アナウンスが千反田家の最寄りのバス停の名を告げた。
 握りしめていた拳に大きく爪の跡が残っていた。


※  ※  ※


 3人で千反田邸に戻ってくると長宗我部さんが出迎えてくれた。最初、俺たちの他に天重も加わっていることに目を見開いたが、すぐに執務に忠実な執事へと戻った。その場で詳しいことは何一つ聞かず、ただ当主の元に案内してくれるだけだった。朝と同じ部屋に通された。そこには朝と同じような千反田鉄吾の姿があった。

「お待ちしておりました。これはこれは天重殿もご一緒でしたか」

「年始の定例会以来だな」

 千反田の睨みつけるような視線と、天重の睥睨するかのような視線が空中でぶつかりあった。
 急遽、龍見の分の座布団も用意されそこに座る。
 さて、と千反田鉄吾が始める。

「時間が惜しい。率直にお聞きしましょう。土地は譲ってもらえるのでしょうか」

「いや」

 天重は座布団の上で胡座をかき頬杖をつき、いかにもだるそうな生返事を返す。

「住む場所や仕事はなんとか面倒を見ると、お伝えしたはずですが?」

「鉄吾さんよう」

 それまでの普通の高校生だった天重の声色が一気に変化する。低くドスの効いた声になる。

「もう長い付き合いだろ。分かれよ」

 千反田鉄吾は今度は俺と視線を合わせてくる。

「折木さま、どういうことですかな。交渉の方はどうなりましたか」

「申し訳ございません。天重氏との交渉については芳しくございません」

「なんとっ」

 千反田鉄吾が声を上げ膝を叩いた。しかし俺はその仕草に違和感を感じずにはいられなかった。
 思った通りだ。頬も紅潮していない。どこか千反田鉄吾もこうなることを予想していたのではないかと思わせるような、そんな予定調和な雰囲気を感じた。

「話が違うではないですか。娘は、うちの娘はどうなるんですか」

 千反田鉄吾の声を聞けば聞くほど、脳内の熱は放出され本来の冷静さを取り戻すことができた。
 今度はこちらから攻める番だ。

「千反田鉄吾殿。お聞きしたいことがあります。千反田殿は我々に隠していることはありませんか。事前のお約束では何事も包み隠さずお話下さるとのことでしたが」

「何を言うか、この後に及んで・・・」

「千反田殿! お芝居はお止めください。あなたの本当の目的は誘拐事件の解決でも、娘の救出でもない。本当の目的は、誘拐事件の解決を利用した『北部領域』問題の解決ではなかったですか」

 千反田鉄吾の動きがピタリと止まり顔色がみるみるうちに青ざめて行く。それを見て俺は確信した。

「あなたは心の底から娘を助けたいと願ったわけじゃない。娘の誘拐事件に託けて『北部領域』問題を引き合いに出し、それを解決しようと考えたのではないですか。あなたは朝おっしゃった。『北部領域』の権利を譲ってもらえるなら、新しい住居も、仕事先も世話をすると。そもそもそれがまずおかしい。長年定例会を開いてきて天重氏と相対してきたあなたが、こんなもので彼が納得するわけがないと当然思うはずだ。ではなぜ袖にされると分かっていてこんな条件を出すのか。答えは簡単だ。今回の交渉を破談させたかったんだ」

「・・・おっしゃっている意味がわかりかねますな」

「正確に言えば、交渉が破談になったと言う事実が欲しかった。長年抱えてきた『北部領域』問題をあなたはなんとしても解決したかった。しかし領主である天重氏とはどうしても折り合いがつかない。強硬手段を使おうにも、向こうは個人の所有地。無理やりなことをすれば世間から叩かれ自らの社会的地位が脅かされる。そこで逆に世論を味方につけることを思いついた。世論を味方に付け、『北部領域』の問題を解決しなくてはもしょうがない、と言う空気を作り出すことを考えた。そこで娘の誘拐事件だ。娘が誘拐さたとなれば世論は少なからず同情する。そして身代金として『北部領域』の土地の権利が要求されたのであれば世論も納得するはず。そこで人の命が掛かっているのにも関わらず、かたくなに土地の権利を渡さない天重氏が悪者として描かれるとあなたは踏んだ。新しい住居や仕事先を世話するという条件がついているのに断るのであれば尚更だ。そしていざ交渉がうまくいかなくなったら、ますます世論は加速し、合法的かつ社会的に『北部領域』問題を解決に導くことができる。そもそも娘の誘拐に関する交渉に、見ず知らずの高校生を抜擢すること自体おかしい。あなたはなんだかんだと最もらしい理由をつけたが、本当は第三者を挟み込みたかっただけじゃないんですか。土地の権利をかけた交渉を千反田氏と天重氏だけで行えば圧力が働いたのではと言ったあらぬ憶測を生む。あなたはそれを恐れた。そこで今回の『北部領域』問題にとっては無関係な我々3人を使ってそんな憶測が生まれないようにした。交渉のプロフェッショナルを用いるのではなく我々を指名したのも、交渉をより確実に失敗してもらうためだったと考えれば辻褄はあう。そう、あなたは『北部領域』解決のために娘を売った」

「・・・父親が愛娘をダシに使ったという訳ですか。愚の骨頂ですな。娘を大切にしない父親がこの世に存在するわけがない」

「俺もそう思っています。むしろ今回の誘拐事件は狂言誘拐ではないかと考えました。つまり最初から千反田えるは誘拐なんかされていない。今頃どこかでぐっすりと寝ているのかもしれないとさえ思いました」

「馬鹿なことを申すな。誰が狂言誘拐など」

「では、『北部領域』問題に関してはお認めになるんですね」

「・・・そんなことはない。私はそんなことはしていない」

「千反田えるは本当に誘拐されたのであり、それを使って『北部領域』問題を解決しようと思ってすらいない、という事ですね」

「自明の理だ」

「分かりました。ではここで交渉です。天重氏は、今から私が述べる条件を呑んでくれさえすれば土地の権利を受け渡す、と申しております。呑んでいただけますね」

「なんだ」

「千反田鉄吾は今回の誘拐事件を利用して世論を操作し『北部領域』を分解・吸収しようと企んだ、という内容の書面を作成していただき、そして謝罪をしていただくことです」

「なにを・・・!」

 千反田鉄吾の顔が明らかに歪む。

「・・・私に、ありもしない疑惑を認めろと。そしてあろうことかそれについて謝罪しろというのか」

 今まで喋らなかった天重が口を開いた。

「今回の件だけじゃない。我々の先祖が受けてきた仕打ち全てに対してだ」

「少なくとも『北部領域』の住人は千反田家に酷い仕打ちを受けてきたと本気で信じています。今のままでは土地の権利を譲ってくれといっても許してれくれません。千反田家は失うものがないのに、天重家は失うばかりでは釣り合いが取れません。そこで千反田家にも失ってもらうものを作りました」

「つまりそれが千反田家の名誉、という訳か。それがあなたがたの交渉かな」

 俺は小さく頷く。

「しかし娘の命のことを考えれば安いものではないですか。千反田家は何も金銭を失うわけではない。例え天重家に対するそれが事実で無かったとしても、今後の問題解決の大きな一歩になると思えば損ではない。お願いします」

 深々と頭を下げる。

「僕からもお願いします」

「私からも」

 里志と伊原の声も続いた。千反田鉄吾のしばしの逡巡が続いたあと、吐くように声を絞りだした。

「・・・残念ながら期待にはお応えできませんな」

 我が耳を疑った。

「えっ!?」

「残念ながら期待には応えられない、と申したまでです。確かに折木殿の言葉は最もです。天重家を始め住民たちの怒りを鎮め、問題解決に導く大きな一歩になることに疑う余地はありません。なにより、娘の命を助ける唯一の方法がそれなのですから、父親としてこれ以上の選択肢はありません」

 なら、と必死で返そうとする俺の言葉を千反田鉄吾は無理やり切り落とす。

「けれども私は千反田えるの父親である以上に、千反田家主でもある。その当主が易々と、それも史実とは異なる内容に頭を下げるわけにはいきません。沽券に係わる」

 沽券に係わる。
 その言葉を聞いたとき、脳が沸点に達したようだった。身体がバネ細工のように畳を蹴り千反田鉄吾に襲いかかろうとさえした。
 しかし、それに誰よりも早く反応したのが天重だった。すぐ隣の天重が服の裾を引っ張ってくれたおかげでなんとか我に返った。もし彼がいなかったら千反田鉄吾の襟首を掴んでいたところだった。

「折木さま、ご理解ください。私も神山市の指導的立場にあるものの端くれです。己の都合でその他何万人の住民を振り回すわけにはいかないのです」

 この後に及んでなにをぬけぬけと!。腹の底から湧き上がるどす黒い感情が頭を支配する。

「・・・例え、それで娘の命がなくなってもか」

「だとしてもです」

 潔いまでの返答だった。千反田鉄吾はそれ以上多くは語らない。雄弁だった。
天重も天重でやつがそう答えるであろうと予測していたのであろう。特段、狼狽する様子もない。

「・・・やれやれ。千反田鉄吾がそういった以上、あとは誘拐犯を直接捕まえるしか方法が無いってことかな。ああそれじゃあ用も済んだことだし、俺は帰らせてもらうよ」

 さっきまで俺の服の裾を掴んでいた手を離し、天重は立ち上がる。まるで何事も無かったかのように、我々にかける言葉もなくそのまま彼は部屋を出ていった。
 しんと静まり返った客室。千反田鉄吾は小さくため息を漏らす。

「折木さま、福部さま、伊原さま、御足労いただきありがとうございました。今日はお疲れでしょう、早めに休まれた方が良い。おい長宗我部、送って差し上げなさい」

 口を開かない俺に代わって里志が聞く。

「千反田さん。えるさんはどうなるんですか。天重さんとの交渉が決裂した今、誘拐犯の要求を聞くことができませんよ」

「・・・なんとかします」

「なんとかって、どうするんですか」

「警察に知らせるか、あるいは・・・」

 言葉を濁した。
 もう良い。これ以上聞く必要も無いし、聞きたくない。
 気がつくと横にいた長宗我部さんが「少ないですが当主からのお気持ちです」と少し分厚い封筒を差し出してきた。
 俺はそれを全力で叩きつけ部屋を出た。


※  ※  ※


 底冷えがした。4月だと言うのに全身を包む冷気は容赦が無かった。午後5時を少し回る。さっきまで明るかった夕空は少しずつ夜に浸食されていった。浸食が進むにつれ駅の周辺の明かりは増して行く。
 ふと顔を上げれば、寒風に吹かれ宙を舞う最後の桜の花びらが目につく。
 このまま交差点をまっすぐ行けば自宅に着く。しかしと、足を止める。今来た道を振り返る。ついさっき自分が歩いていた場所は墨を零したように深い黒に覆われている。

 何度目であろう。昨日俺がここで千反田を一緒に送っていれば、そう思ってしまうのは。


―――卒業式は桜が散っていると言うイメージがありましたけど、入学式は桜が満開なイメージがあります。どうしてでしょう。時間が逆戻りでもしたんでしょうか


 ああそうだな。もし1度だけ時間を逆戻しできるなら、迷わず俺は24時間前に戻る。そしてここに立っていただろう俺に向かって、全力のグーパンチを喰らわせる。
 無意識で出した右手が空を切る。そこには何もなく、何もつかめない。右手をポケットに戻す。
 目の前の歩行者用信号が青になった。俺の足はゆるりと動き出した。

 無事に自宅に着く。家に明かりは付いていない。姉貴はいないし、父親は今日も遅くなるようだ。
 荷物を力無くソファの上に投げる。荷物はソファに届かず失速してフローリングの床に落ちる。テレビの電源を入れてみる。どのニュースも神山市の誘拐事件など扱ってはいない。

「本当に誘拐事件なんてあったのか」

 独り言が白々しく聞こえる。今日一日千反田えるに会っていないのは事実だし、天重や千反田鉄吾とやりあったのも紛れもない事実だ。
 そして結果として千反田を救えなかったのもまた事実だった。

 疲れた。確かに今日は疲れた。千反田鉄吾の言う通り早く寝た方がよさそうだ。
 そんな時だった。電話が鳴った。鉛の様に重くなった身体を何とか動かし受話器を取る。

「やっと出た。あんた今まで何処ほっつき歩いてたのよ!」

 開口一番騒がしい姉貴だった。

「・・・なんだ、どうかしたのか」

「どうかしたのかじゃないわよ。昼間何度電話したと思ってるの。こっちは大変だったのよ。ねえあんたの周りに私の財布落ちてない!?」

 電話の周りを眺めてみる。テーブルの上に置かれている新聞紙や大きな招き猫を移動させる。何もない。念のため床を見てみる。すると壁の隙間になにやら女物の財布が落ちているのが見える。姉貴の財布だ。

「あったぞ」

「ホント! ああ良かった。まさか旅先で落としたのかと思ってた。でも家にあるなら全然問題ないわ。って言っても旅先で財布無ないのに全然問題が無いって言うのも変な話よね!」

「・・・飲んでるのか?」

「ちょこっとだけよ。ったくあんたも家に居たのなら早く出なさいよね」

「ああ悪かった。今度は気を付けるよ」

「・・・」

「・・・どうした?」

「・・・奉太郎、あんたさあ」

「ん?」

「なんかあったの? いつもと様子が違う、なんか疲れてそうだけど」

 流石は俺の姉貴だ。伊達に17年近くも折木供恵をやっていない。
 どうせ電話の先の相手はアルコールが入っている状態だ。多少なら事件の事を話しても構わないだろう。

「別に俺は普通だけど。今日は朝から家に居なかったんだ。ちょっと野暮用でね。『阿良城』ってところだ」

「『阿良城』・・・、聞いたこと無いわね。神山市内なの?」

「一応ね。北東の方だ」

「北東部? そんな場所あったっけ。私は知らないな。あんた、そんなところに何しに行ったのよ。まさか女の子と『でーと』?」

「いや交渉にさ」

「こうしょう? ああ、『鉱床』ね。『なんたらサイト』の鉱床でも探しに行ったのあんた」

 ふとここで気になる言葉がでてきた。
 『なんたらサイト』?

「なに春休みの宿題? フィールドワークみたいな奴?  高校生は大変ねえ」

「姉貴、今何て言った? 『なんたらサイト』って何だ」

「あんた、それも知らないの? ちゃんと化学の授業出てるんでしょ? 全く最近の若いもんは。私もニュースや新聞で聞いた訳じゃないのよ。たまたま同級生にそこら辺から通っている友達がいてその子から聞いたの。だから噂は噂で・・・」

 それっきり電話の向こうからは声が聞こえなくなった。耳を澄ませば姉貴の静かな寝息が聞こえるだけだった。俺は静かに電話を切った。
 酔っ払いの相手をしたせいか、疲労が輪を掛けて増してくる。目を開けているのも精一杯で、頭の中も高熱を出した時の様に靄が掛かって来る。
 2階の自分の部屋に戻るのは億劫だ。ソファの上に横になろう。重力に任せて己の身体を放り投げる。
 柔らかいソファの生地に、自分の身体と意識が溶けていくのが解る。
 ああ、こんな状態で考え事をするのは苦痛だ。早く寝てしまいたい。
 それでも俺の脳が意識を失うその最後まで働くことをやめなかった。


 誰が、千反田えるを誘拐したのか。

 なぜ、誘拐犯は千反田を誘拐し身代金として『北部領域』を要求したのか、

 姉貴の言った「なんたらサイト」とは、何なのか


―――やれやれ。あとは誘拐犯を直接捕まえるしか方法が無いってことかな。


途切れる意識の中で最後に思い返したのが、天重の言葉だった。

善意の第三者

善意の第三者

 4月9日 05:55 タイムリミットまであと11時間5分 



 身を翻すようにソファから身体を起こした。時計に目をやる。まだ6時前だった。

「嫌な夢を見た・・・」

 誰が聞かれた訳ではないが呟いた。夢に出て来たのは千反田だった。詳細は覚えていない。しかし目が覚める直前のあの光景は網膜に焼けついている。
 俺が千反田を崖から突き落とした。
 千反田は体勢を崩して崩れ落ちる。その時何かを叫んでいるように見えた。何を叫んでいたかは分からない。俺は千反田を確かに突き落とした。しかし次の瞬間には突き落とした千反田を助けようと手を伸ばしていた。でもその時には千反田は崖の奥底まで落ちていた。
 そこで目が覚めた。流行病に侵されたように全身がべえっとりとした汗で覆われている。それに胸のあたりにどす黒いヘドロのようなものがこびり付いて離れない。

―――俺が千反田を

 いや、頭を切り替えろ折木奉太郎。
 昨夜に比べて身体の疲労もいくぶん楽で頭も多少は動く。そうだ、天重が言っていたじゃないか。『あとは誘拐犯を直接捕まえるしか方法が無い』と。
 千反田鉄吾が知らせていないなら警察は動けない。『北部領域』の土地の権利も手に入れられない。
 なら俺たちが出来ることはただ1つ。誘拐犯を突きとめて千反田を救出することだ。
 待ってろ千反田。
 俺が助けてやる。
 早速起き上がる。まずは全身汗まみれの着替えからだ。念のため新聞に目を通す。

―――県議会議員、セクハラ発言疑惑・・・

―――いじめ、県教育委員会は否定・・・

―――中国、軍事費増大で東アジアに緊張・・・

 神山市の誘拐事件など載っていない。やはり警察には伏せられている。となるとやはり警察は当てにできない。
 昨日の夜、姉貴からかかってきた電話の内容を思い出す。

―――『阿良城』・・・、聞いたこと無いわね

―――北東部? そんな場所あったっけ。私は知らないな。

 姉貴は俺よりも神山市に住んでいたのが長い。それなのに『北部領域』、『阿良城』に関しては何も知らなかったようだ。それは良い。問題は次だ。

―――『なんたらサイト』の鉱床でも探しに行ったのあんた


 『なんたらサイト』?
 『北部領域』以外でまた聞いたことが無い単語が出て来た。

―――あんた、それも知らないの? ちゃんと化学の授業出てるんでしょ? 全く最近の若いもんは。私もニュースや新聞で聞いた訳じゃないのよ。たまたま同級生にそこら辺から通っている友達がいてその子から聞いたの。だから噂は噂で・・・

 そう言って電話が切れた。確かに有益な情報では無かったかもしれない。しかし今現在、この問題を解決する手掛かりは無いに等しい。だとしたら姉貴のこの言葉はもしかしたら天啓かもしれない。家に置いてある姉貴のお下がりのパソコンを立ち上げる。
 『なんたらサイト』の情報を手に入れようと思ったのだ。検索エンジンで「なんたらサイト」なる単語を並べてみた。しかし検索しようにも情報が少なすぎる。どこの検索エンジンを用いても真っ先に出てくるのは出会い系サイトや、ゲーム攻略サイトと言ったどこかのホームページの「サイト」だけであった。肝心の情報には到達しない。
 気がつけば時計は8時を迎えようとしている。このままでは時間の無駄だ。
 しかし手掛かりは潰えてない。姉貴は何て言った。「化学の授業に出てくるでしょ」。俺はそのなんたらサイトは知らないが、化学の授業で出てくる以上化学を良く知る人間に聞けばよい。なら身近にいる科学を良く知る人間は誰だ。
 教員だ。
 この時期は生徒は休みでも教員は公務員である以上勤務日であるはず。9時前には学校に着く。よしと気合をいれ、急いで空気の抜けかかった自転車の舵を切る。

 8時30分。予想以上に早く着いた。駐車場に目をやる。やはり少ないが何台か車も止まっている。俺はその足で、理科教員の職員室に向かった。ドアを開ければコーヒーの香りが漂ってくる。

「失礼します。1年B組の折木です。鹿沼先生はいらっしゃいますか?」

 すると俺の声に反応したのか、正面のデスクからひょこっと顔を出した男性教員がいる。元1年B組の化学の担当だった鹿沼だ。年齢は確か30代に届くか届かないかくらいだった。高校の教員としては比較的年齢が近く、男子生徒はよく雑談相手にしている。確かに教え方は悪くないのだが、教師としての威厳は無いに等しい。白衣を着たことが無いのは有名だが、プラス授業中の話が脱線しやすく1時間まるまる自分の趣味の話で盛り上がることも珍しくない。そのため良く女子生徒からはからかいの対象になる教員でもある。
 鹿沼はメガネの向こうに垂れ下がった眠そうでしかも赤く充血している目を擦りながら招いきれてくれた。無精ひげにこけた頬がここ数日の激務を物語っている。

「おお、折木。朝早くどうした。授業も無いのに」



※   ※   ※


 俺は職員室を出る。聞きたかったことが大体聞けたこともあったが、ほかの教員が続々やってきたこともあった。今回の話を聞かれて誘拐事件に気づかれるとまずいと思ったのだ。鹿沼は鹿沼で体調も悪そうだったし、そもそも生徒の話に思考回路を割く余裕はないだろう。おかげで収入はあった。今回の誘拐事件の解決の糸口が見つかった、そんな気がした。
 そして今度は図書室に向かう。図書室にはその日の新聞が閲覧可能で申請さえすれば持ち出しが可能だ。今日の新聞をいくつか手に取り、目的の記事が書かれている事を確認する。
 俺は早足で古典部の部室に向かう。里志と伊原がいるはずだ。2人に今回の事件の推理を聞いてもらう。そして、足りない部分を補足してもらい、矛盾点はないか指摘してもらう。里志のデータベースは目を見張るもの上がるし、伊原の冷静さはここぞという時にとても役に立つ。誘拐のの約束の時間まであと僅か。少しの遺漏もあってはならない。


 ようやく部室に到着しドアを開ける。するとそこには里志と伊原と、そして

「やあ折木くん」

天重も一緒だった。昨日とは姿が一変し第一ボタンまできっちり閉めた制服を着て、インスタントコーヒーをうまそうに飲んでいた。

「忘れものだ」

 そう言って龍見はハンカチを手渡した。どうやら昨日天重宅を訪れた時、忘れて行ったようだ。やれやれ姉貴のことを言えないな。俺はそれを受け取る。

「これを届けにわざわざ?」

「それもある。あと君には謝る暇が無かったからね。昨日は申し訳なかった。力にもなれなかったし・・・」

 インスタントコーヒーをすすりながら天重は言う。別にこちらも申し訳ないことをされたとも思ってはいない。いきなりあんたの土地を全て譲ってくれ、なんて厚かましいお願いをしに行った俺たちのほうが謝るべきだ。

「ホータローどうしたんだい、こんな朝早く」

「ああ、化学の鹿沼のところに行っててな。聞きたいことがあったんだ」

「聞きたいこと? 化学の鹿沼先生に?」

 伊原は怪訝な表情を浮かべる。確かに何も知らなければいきなり化学の教員の名前が出てくるか意味が分からないだろう。

「少し考えたんだ、今回の誘拐事件について。お前たちの意見を聞きたい。そして・・・」

 再び天重と目があう。

「あんたにも聞きたいことがある。協力してくれるか?」

 天重は少々不思議そうにしながらも表情を変えず小さく頷く。

「もちろん。俺としてもこんな事件は早く解決したい」

「なら俺は3つ質問する、それには正直に答えてくれ」

 天重はまたインスタントコーヒーをうまそうにすする。俺は里志と伊原の方を向き直し始める。

「今回の誘拐事件は特殊だ。誘拐されたのは千反田で、その身代金として要求されたものは千反田家の所有物ではなく別の人間の所有するものだ。しかもそれは金品といった類のものではなく、『阿良城』と言う土地であった。ここまでは良いな」

 里志も伊原も頷く。俺はよし、と続ける。

「ここまででまず気になるのが、『なぜ犯人は土地を要求したのか』だ。なぜ金品などを直接要求しなかったのか」

「それは『阿良城』の土地が必要だったからだろ、ホータロー」

「そうだ。ではなぜその土地が必要だったのだろう。もっと言えばその土地を手に入れて犯人側にどんなメリットがあるのだろう。俺は考えた。まず土地そのものが高く売れるからじゃないだろうか。土地の権利書を手に入れてそれを転売すれば利益が上がる、犯人はそう考えたんじゃないか」

「折木、それはないでしょ。土地の権利書を持っていたからって、そう簡単に売れないわ。それに転売したらそこから足がついてすぐに犯人は捕まる」

「ああそうだ。じゃあ売るのでなければ、そのまま利用するために手に入れようとしたのか。これは違う。昨日話したが『阿良城』は神山市再開発の候補地だ。ここの住民が立ち退かなかったら再開発自体が進まない。そこで再開発を進めたい市議や県議やあるいはそれに近い人間が誘拐をしたのではと考えた。でもこれも無理がある。そもそも再開発が進められたとして市議や県議の懐が直接潤うわけではない。もしかしたらそのリベートを取ることができるかもしれないが、それでもリスクが高いことには変わりない。市議や県議は自分の手を汚してまで誘拐なんてことをやるとは思えない。この案は却下だ。なら、直接的ではなく間接的に利益を得る人間はいるか。そこで考えられたのが・・・」

「千反田鉄吾だね」

 天重が呟くように応える。

「そうだ。土地を手に入れることができなくても良い、その代わりこの話を世論の後押しとして千反田家が『阿良城』問題を有利に進めることは充分可能だった。長年抱えていた火種を解決できるのであれば千反田鉄吾にはメリットがあると考えることができる。では千反田鉄吾が自分の娘が誘拐されたと自作自演をでっち上げたのか。里志どうだ?」

「う~~ん、やっぱり無いと思うね。自分の娘をダシに使ってこんな大掛かりのことをしたのかってのもあるけど、それだけじゃない。もし千反田鉄吾が『阿良城』問題解決のために自作自演の誘拐事件を起こしたなら、昨日の時点で終わっているはず。千反田家に僕たちと天重さんが訪れたとき、ホータローの交渉でうまく纏まって話は終わりだ。なのにそれを拒否した。もし『阿良城』問題の解決が第一目的ならどんな理由であれあそこで受け入れているはずだよ」

「そう。千反田鉄吾が要求を飲まなかった以上、『阿良城』問題の解決のために娘を使ったのでは無いと言える。じゃあ話は最初に戻る。犯人はなぜその土地を手に入れようと思ったのか。俺はある1つの仮説を思いついた。まあ思いついたのは今朝、鹿沼のところに行ったあとなんだが。天重?」

「ふむ?」

「質問1つ目。『阿良城』で『ボーキサイト』が取れるかもしれないという噂があったな?」

 天重の眉がぴくりと動く。

「折木、なに『ボーキサイト』って」

 そこは里志に任せる。あいつのデータベースならわけないだろう。里志もそれが自分の役目だと把握してくれたのだろう、進んで説明してくれた。

「アルミニウムの原料のことだよ、摩耶花。正確に言えば酸化アルミニウムを52~57%含む鉱物の事さ。これを熱で溶かして純度の高いアルミニウムを精製するんだ。『溶解塩分解』って言うんだっけ」

「そう。実は昨日天重、お前の家に行ったとき分厚いファイルを少し見せてもらったんだ」

「あれを見たのかい」

「最近の日付で神山市北東部一帯の地図があった。そこに『AL203』と書いてあった。最初俺は『エーエル203』と読んだが違うな、あれは『エーエルツー・オースリー』と読むんだ。『Al2O3』、酸化アルミニウムの化学式だ」

 姉貴が言っていた『なんたらサイト』とは『ボーキサイト』のことで間違いないはず。
 そして流石は高校化学の教員だ。鹿沼は「なんたらサイト? ボーキサイトのことか」とすぐ教えてくれた。人間の頭脳は向こう30年はまだコンピューターには負けないな。俺は続けた。

「そんな噂があったんだって、天重?」

 インスタントコーヒーを飲み終わったのか、龍見がコップを起き顔を完全に起き上がらせる。その表情はあまり知られたくない秘密を知られてしまったという渋面と、そこまで嗅ぎつけたのかと言う賞賛の表情が入り混じっていた。

「あったよ。確か5年ほど前になるかな。東京のどこかの大学の地質学を研究している教授だったな。ここ一帯にはボーキサイトが埋まっている可能性が高いって息を巻いて現れた。それは確かだ。それにしても、あの地図を見ただけでそこまで気づくとは大したものだな」

「まあね。鹿沼に聞いたよ、ボーキサイトは地球上では熱帯雨林か、過去に熱帯雨林だった場所、あるいはそれに近い気候の場所でしかとれない。日本じゃボーキサイトはほとんど取れないらしいな。それが神山市で取れることになれば金になる。犯人はそのボーキサイトを狙っているんじゃないか」

 天重はその表情は何を考えているかはわからない鉄面皮だが、俺と視線を外さない。もしかしたら既に俺の言わんとしていることが伝わっているのかもしれない。

「・・・確かにボーキサイトの鉱床が存在するかもしれないという噂はあった。しかしボーキサイト自体は大して高く売れない。福部くんはその理由はわかるだろう?」

 里志は頷く。

「ボーキサイトはさっきも言ったように高温に溶かしてからじゃないと純度の高いアルミニウムに精製ができない。でもそれには莫大なエネルギーが必要になる。ごく少量集めてアルミニウムに精製しようと思ったらコストの方が高くついてしまう。だから日本でも海外から精製し終わったアルミニウムを輸入している。ボーキサイトのままじゃ何処も買ってくれないよ。それに摩耶花が言ったのと同じように売るとなると転売するルートで足がつく」

「だそうだ。犯人はそんなものを無理やり手に入れようと思ったのかな」

「思ったんだろう。少なくともアルミニウムが不足していて、それこそボーキサイトでも良いから欲しいってところに売ろうと思ったのさ」

「どこだい、それは」

「中国さ」

 俺は図書室で借りてきた今朝の新聞の一面を広げた。そこには

―――中国軍備拡大 戦闘機100機追加製造 東アジアの緊張感高まる

とデカデカと書かれていた。そう言えば昨日も一昨日も、連日このニュースでもちきりだった。
 千反田鉄吾に呼ばれた日の朝もテレビのニュース番組でやっていた。昨日だって新聞の一面を飾っていた。

「中国は今現在、軍備の拡張を進めている。特にここに書かれているとおり戦闘機、空軍に力を注いでいる。戦闘機の主な材料はジュラルミン。ジュラルミンはアルミニウムからできている。中国はアルミニウムを欲している状態だ」

 天重は黙ったまま腕を組み、視線を紙面上に這わせる。

「アルミニウムが慢性的に不足すれば、ボーキサイトでも良いから欲しい、高値で買うと言う国外の業者も出てくるだろう。犯人はそれを知ってボーキサイトを手に入れようとした。だからそれが埋まっている『阿良城』を奪おうとした」

 伊原が質問してきた。

「ちょっと待って。確かに中国のニュースは私も知ってるし、それでボーキサイトが必要になってくるのは何となくわかった。でももともと『北部領域』自体は天重さんのものなんでしょ。勝手にボーキサイトを手に入れたら窃盗で警察も動く。それに『阿良城』で張り込んでいれば犯人はいずれボーキサイトを堀りにやって来る、その時に不法侵入で捕まえられる。犯人はそんなこと考えなかったの?」

 里志もこの意見に賛同する。

「摩耶花の言うとおりだよホータロー。確かにボーキサイトを手に入れようと思ったら犯人グループは『阿良城』内に入り込んで、しかも重機やらなんやら運び込んで、それこそおおがかりなボーキサイト堀りをしなくてはいけない。バレバレだ。それに仮に手に入れたとしても普通の人間が中国の空軍にボーキサイトを売ることは難しいよ」

 ああ、そうだろうとも。そう反論されるのは予測の範疇内だ。
 ここでもう1つ天重に質問しなくてはいけない。これは高校教師では答えられる者はいないかもしれないと思ったからだ。

「そこで質問2つ目だ。天重、誘拐はもちろん違法行為、不法行為ではある。でもそれで入手したものを合法的に自分のものにできる法律は存在しないか?」

 里志と伊原と不思議そうな顔をする。

「法律?」

「さっきのファイルの他にも過去の裁判の判例集や六法全書があった。領主ともなれば土地争いなどでそう言った類の法律を調べてるんじゃないかと思ってね。」

 天重は何も言わない。

「犯人はボーキサイトを掘りたい。でも普通に掘れば時間もかかるし警察に捕まる可能性もある。でもその土地の所有者ならどうだ。自分の土地ならどうしようと勝手だ。所有者としてボーキサイトを掘れば警察は手出しできない」

「ホータロー、さすがにそれは無理だよ・・・」

「ある」

 天重は静かに応える。やはりそうか。

「民法第94条。第1項、相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。第2項、前項の規定による意思表示の無効は、『善意の第三者』に対抗することができない」

「・・・簡単に言うとどうなる?」

「AさんとBさんがいたとする。Aさんは高価な美術品を持っていた。BさんはAさんを言葉巧みに騙しその美術品を手に入れる。Bさんがやったことは詐欺行為であり違法行為だ。福部くん問題だ。このとき美術品はどうなる?」

「え・・・、Aさんの手に戻るんじゃないの」

 天重は頷く。

「正解。違法行為を行ったBさんに美術品の所有権はなく、最初に所有権を有していたAさんのもとに戻ることとなる。では次だ。同じようにBさんがAさんを騙し、美術品を不当に所持していたとしよう。これを別のCさんに売ったらどうなると思う、伊原さん」

「そりゃもともとAさんの物なんだから、当然Aさんのもとに返ってくるでしょ」

「半分正解。もしCさんがその美術品を『Bさんが不当に入手したもの』と認識して買った場合ならばそうなる。しかし問題『Cさんが『何も知らない』で美術品を買った場合だ。この場合、所有権はCさんに移り、AさんはCさんに返してくれとは言えなくなる。このときCさんの立場が民法94条で定められている『善意の第三者』に該当する。善意の第三者なんて言い方しているが、日常的に使う言葉と法律用語は必ずしも一致しない。今回は、『何も知らない第三者』程度で考えてくれ」

 2人は目をパチクリさせている。里志も流石に法律までは網羅しきれていないのか、未だにその法律文の意味が分かっていないようだ。しかし俺はおおかたそんな法律があるのだろうと踏んでいた。さして衝撃もない。

「Aさんを騙したBさんは詐欺で逮捕される。これは良い。もしCさんがそれを知っていてそれでも入手したとなると共犯だ、Cさんも逮捕される。しかし今回の様な場合Cさんは何一つ落ち度はない。Bさんの持っている美術品を対価を払うという正式な手続きを持って入手したのだから。それを返せとは言えない。Aさんは被害者のように見えるが、実際はCさんも被害者なわけで、法律はCさんの立場を守るために作られている」

「ちょ、ちょっと待って。ってことは・・・、どうなるんだ?」

 天重はもう一杯インスタントコーヒーをもらおうと電気ポッドに向かう。あとの説明は自分でしてくれ、と言っているようだ。

「天重の立場がA、今回の誘拐犯がB、そしてBは善意の第三者であるCに『阿良城』の土地を譲る。そうすれば土地の所有権はAである天重ではなく、Cである第三者へと移動する。これは法律に基づく合法的なやり方だ。警察は手出しできない」

 伊原はさらに反論する

「おかしいよ。そこまでしといてCが何も知らない訳ないじゃん」

 そう、伊原の言うことは最もだ。善意の第三者ってやつが通用するのは、あくまで『Cが何も知らない立場』ならの話だ。しかしボーキサイトを掘るとなるとCが何も知らないはずがない。だとすると共犯となりBとCはめでたく逮捕、事件は解決する。
 ところが話はそううまくはいかない。この話は法律を学んでいなくても中学校の時に聞いたことがあった。

「伊原、残念ながらそれは難しい。なぜなら『証明』できないからだ。おそらく裁判にかけるさいも警察も躊躇するはずだ」

「正しくは裁判にかけるのは警察ではなく、検察だけどね」

 天重だ。話は聞いているようだ。

「証明? なにそれ」

「確か『推定無罪の原理』だっけ。日本の裁判では『原告(訴える)側=検察』と、『被告(訴えられる)側=犯人』に分かれる。このとき、『被告が犯罪を犯した』と証明する必要はあるが、『被告は犯罪を犯していない』と証明する必要はない。
つまり検察側が犯人側の犯罪を立証できなければ、犯人側の勝利となる。疑わしきは罰せずってやつだな。となると今回の場合、検察は『CはBが持っている土地が不当な行為で手に入れたものだと知っていたのに土地を受け取った』と証明する必要がある。この証明は骨が折れる。テープで録音してあったり、文面が残っていれば別だがそんなものはない。検察側はCの共犯を立証できない。できなければ『善意の第三者』が成立する。もし仮に検察側の類まれなる努力のおかげで犯罪が立証されたとしても、それは何ヶ月も後のことだ。そんなに時間があっていればボーキサイトはとっくに掘り出しているだろう。ボーキサイトさえ掘り出せばあとは土地はどうでも良い、ってことかな。
 それに天重本人ではなく無関係の千反田を誘拐した理由も、善意の第三者を成立しやすくするためだとも言える。もし天重本人を誘拐し本人から無理やり権利書一式を奪っても、その後多かれ少なかれ騒ぎが起きる。領主不在が長く続いたり、急に土地の所有者が代われば住人が黙ってはいない。もし警察に知られれば世間一般で話題となり、黒幕も『そんな事件知りませんでした』が通用しない。でも犯人の頭が良いところはここだ。千反田が誘拐されて身代金として要求されるのが天重家のもの、昨日の話でもあったように千反田家自体は何一つ失うものがない。自分の娘が誘拐されても警察に届けるリスクよりも、土地の所有者と交渉し穏便にすませようとすると犯人は読んだ。そして実際その通りになった。これなら警察も事件を知ることができないし、世間一般でも話題にならず、結果的に『そんな事件知りませんでした』が通用しやすくなるってわけだ」

「でもホータロー、なんで犯人はわざわざそんな回りくどいことを? 誘拐事件なんか起こすより、天重さんの家に侵入して権利書なんかを盗んじゃえば同じことでしょ。そっちのほうが楽なのになんで誘拐事件なんて起こしたのかな?」

「それは・・・」

 天重を見る。天重も気づいたのか不承不承と応える。

「善意の第三者は窃盗では成り立たない。もし俺の家から権利書一式が盗まれたとしても、その場合は2年間経過しなければ善意の第三者が成り立たない。まあやっていることは暴力団のような反社会的組織と変わらんな。折木くんの言う通りならBは組の下っ端構成員、Cは組の幹部ってところだろ。何かあっても切られるのは下っ端のBだけで全てを手に入れるCは無罪放免だ。」

 後味の悪い沈黙だ。トカゲの尻尾切りと一緒だ。本体が生き延びるために、いくらでも代替のきく部位はその都度捨てられる。そして時間が経てばまた代わりの部位が手に入る。言わば身内を売って成り立っている組織だ。そんな組織に天重が良い感情が沸くわけがない。

「ふむ、という事はあれだな、今回の誘拐事件の犯人はやり口からみて反社会的組織の連中ってわけだ。それも中国の軍にパイプを持っている人間ということか。探すのが大変だが、あとは頑張ってくれ」

 天重はコップを洗い、ごちそうさまと礼を言うとそのまま部室から出ようと立ち上がった、その時だ。俺は天重の細い腕を掴んだ。奴は怪訝そうな顔でこっちを睨んで来くる。それも構わず俺は続ける。

「3つ目の質問がまだだ。答えてくれ」

「何を質問することがある。もう話はかたがついただろ。千反田鉄吾を説得し警察を動かして捜索すれば千反田さんも見つかる。早くしたほうが良い」

「まだ話は終わってない。反社会的組織だけで今回の誘拐事件を最初から立ち上げるのは無理だ。やつらは『阿良城』にボーキサイトがあるという噂を聞くことができないからだ。天重、お前はもうわかってるんだろ。今回の誘拐事件はボーキサイトが埋まっているかもしれないという噂を知っている人物も一緒でなくては起こりえないんだ。そしてボーキサイトのことも知っているとなったら・・・」

 これ以上俺に言わせるな。

「『阿良城』以外の人間はいない。今回の誘拐事件は『阿良城』の中に協力者がいる」

 天重は天井をゆっくりと仰ぎ見る。

「お前の言った47人の住人の中に、反社会的組織と協力して誘拐事件を起こした人物がいる。恐らくそいつは地中のボーキサイトを掘るため重機などの装備も一式持っている可能性が非常に高い。教えてくれ天重、あんたは知っているだろう。心当たりのある人物を」

「俺の土地に粗暴な奴や、ずぼらなや奴はいるが、暴力団の構成員なんかいない」

「何も暴力団の構成員じゃなくても良いんだ。例えば博打が好きでいつも金に困っている奴でも良い。街のサラ金や消費者金融に通っている奴でも良い。借金で首が回らない奴が暴力団に無理やり手伝わされている可能性もある。頼む!」

「・・・俺自身が誘拐犯だとは、思わないのか」

「『阿良城』はあんたの土地だ。自分の土地に埋まっているものを掘るだけなら、誘拐事件なんて起こさなくて良い。今回の共謀者は噂は聞けるが土地の所有権を持たないものに限られる」

 俺は部室を出ていこうとする天重の前に立ちふさがる。ここで部室を出て行かれては困る。俺たちは、犯人を今日中に追い詰めなくてはいけない。俺たちは『阿良城』について何も知らない。だからこそ知っている人物からの情報提供がなくては解決できない。天重の力を借りるしか手立てがないのだ。両膝を地面に付ける。木製の床の冷たさが制服越しに伝わってくる。そして両手をその冷たい床に貼り付ける。
 一度下げてしまった頭を上げることはできない。あとは天重が納得してくれるまで待つだけだ。
 長い。それでもその長さを苦痛と思わなかった。

「・・・身内を売るわけには行かん」

「それは該当する人間がいるという意味か?」

「どう解釈しても構わん。しかし身内は売れない。従ってお前に教えるわけにもいかない」

「相手が犯罪の片棒を担いでいるとしてもか」

「千反田の言葉を借りよう。だとしてもだ。俺は千反田鉄吾みたいに身内を売りたくはない」

 千反田鉄吾。
 その言葉が出てきたか。昨日の千反田家でのやりとりのことを言っているのであろう。千反田鉄吾は自分の娘を助けることができる方法があったにも関わらず、今ある土地を取った。自分の身内である娘を売ってでも、自分の土地を、自分の権力を守ったと見てもおかしくはない。だとしたら、もうこの言葉しかない。

「その身内が、『阿良城』の信条を破ったとしてもか」

「・・・」

「『阿良城』の信条は、権力には徹底的に抗え、だったな。お前が今守ろうとしている人間はその信条を破ったんじゃないのか。権力や武力に抵抗するはずが、金に困りあろうことか暴力団、反社会的組織と言う大きな暴力の前に屈したんじゃないのか。天重、お前はそれでもまだ、そいつを庇うつもりか!」

 俺の声は目の前の床に反射し、部室どころか廊下まで行き渡った。それでも天重は何も答えない。

「頼む! 千反田を助けてやってくれ!」

 小さく、「ホータロー」、「折木」、とつぶやく声が聞こえた。
 さあこれで俺が出来ることは全てやった。もう刀が折れ矢も尽きた。天重の小さな溜息が漏れた音がした。

「・・・コーヒーご馳走になったな。失礼する」

 そう残すと、俺の横を通り過ぎ廊下に出ていった。乾いたひと組の足音がゆっくりと遠ざかっていった。

囚われの末裔

囚われの末裔

 4月9日 13:00 タイムリミットまであと4時間


 あのあと、家に帰った。しかしやることはなかった。やることはあったが、何もやる気にはなれなかった。
 すべてが意味のないことだと、そう思った。ああ、死刑囚はこんな気持ちで自らの刑が執行されるのを待っているのだろうか。そんなことを考えながら一人でベットの上で横になっていた。
 体中が異様に重い。昨日は身体が鉛でできているのかと思ったが、今日は血液の代わりに水銀が流れているのではないかと思うくらいだ。ただひたすら、千反田の顔が浮かんできていた。
 最初にあったのがちょうど1年ほど前。部室に閉じ込められていた千反田えるを見たときのことを思い出した。

 俺はその時まで、楚々とか清楚といった語彙のイメージがどうもつかめなかった。その女を形容するには楚々や清楚と言えば形容できることはすぐに分かった。黒髪が背まで伸びていて、セーラー服がよく似合っていた。背は女にしては高い方で、多分里志よりも高いほうだと思われた。女で高校生なのだから女子高生だが、くちびるの薄さや頼りない線の細さに、おれはむしろ女学生と言う古風な肩書きをあたえたいような気分になった。だがそれら全体の印象から離れて瞳が大きく、それだけが清楚から離れて活発な印象を残していた。

 ああ。あれから1年なのか。
 1年のあいだにいろいろあったな。勧誘メモ探し、千反田謎の憤怒事件、文集作り、温泉での幽霊事件、校内放送事件、映画の結末作成、文集誤発注、文化祭の怪盗、元旦の幽閉事件、そして生き雛事件。
 たった1年間でいろいろあった。面倒くさいこともたくさんあったけど、今思い返してみたらどうだろうな。なんだかんだ言ってあいつがほとんどの気まぐれで起きたんだよな。
 省エネを掲げる俺にとっては、迷惑この上なかったな。

 まあ、もう1回くらいならその気まぐれに付き合ってやっても良かったかな・・・。

 そんな時だった。
 家の電話が鳴った。今家には俺しかいない。俺が出なければ電話はずっと鳴りっぱなしだ。
 もう良い。
 疲れた。
 何もする気が起きない。電話の相手もずっと出なければ留守だと思うだろう。
 布団を頭からかぶり、やりすごす。しかしいつまでたっても電話は一向に鳴り止む気配がなく、2分3分と延々に鳴り続ける。しょうがなく俺は重い足取りで電話を取る。

「はい折木ですが」

「ホータロー! 僕だよ里志!」

 里志だ。午前中別れて以来だがもう随分と会ってないように思えた。そしてその声には風雲急を告げる感じがあった。

「よく聞いてね。ついさっき龍見さんから電話があったんだ。すぐに『北部領域』に来て欲しいって」

 俺はその言葉を聞いてすぐに飛び上がった。さっきまでの体の重さが消し飛んだ。急いで家を出る。鍵もかける暇なんてない。今一度自転車のペダルに力を込める。


 俺は『北部領域』の入口で待っている里志と伊原、そして天重と再びあった。天重は説明もなく、「着いてこい」とだけ残して歩き出した。
 俺たちはそれに着いていくしかなかった。舗装もされてないあれ放題の轍の路。両側に見えるのは手つかずの自然。田んぼと木々がその視界の大多数を占める辺境の地。
 天重は途中一度も振り向かず、どんどん山道に入っていく。
時計を見る。午後4時を過ぎていた。千反田誘拐の約束の時間まで1時間を切った。しかし俺は『北部領域』の土地の権利書を手に入れることはできなかった。あとは成り行きに身を任せるしかなかない。
 しばらく進むと、目の前に久しぶりに人工物が見えてきた。民家だ。周りを木々と田んぼで囲まれたぽつんと建てられた家だった。トタン屋根に、表面のペンキが剥がれている粗末な壁、しかしその向こう側にはそれと同じくらい大きな物置が建てられていた。半分しまっているシャッターの隙間からキャタピラのようなものが見える。
 表札には「辻井」と霞んでいる文字が見えた。ドアベルやチャイムといったものは見られない。天重は玄関のドアを拳で叩く。誰も出てこない。しかしドアの向こう側で誰かの話し声が聞こえる。
 低く、押し殺しているような声だった。
 天重は再び拳で叩く。誰も出てこない。もう一度叩く。まだ出てこない。4、5回叩くと向こう側も諦めたのか、チッと小さく舌打ちするのが聞こえ家主がドア越しに見えた。

「ったく誰だうるせいな・・・」

 毒づくようにして家主はドアを開ける。顔や腕に深い皺が刻まれた初老の男だった。目はくぼみ、口元がたるみ、皮膚にシミが目立っていた。この男が辻井であろうか。彼は天重と目があると途端に柔和そうな顔になった。

「ああ、これはこれは天重の坊ちゃん、こんばんは。あれ、後ろの方は?」

 さっきの舌打ちした人物と同じ人間とは思えない身の変わりようだ。天重は気にせず続ける。

「高校の同級生さ。近くに寄ったものだからあいさつをね。大丈夫かい辻井、なんか電話で話して忙しそうだったけど」

 天重も龍見で学校とは声の張りが違う。朝よりも快活で穏やかな声だった。

「ああ、いえ、なんでもないんですよ。ちょっと仕事の取引先とトラブルになりましてね、へへへ・・・」

「なに、仕事先のトラブル? それは大変だ。『阿良城』の住人は私の家族だ、困ったことがあったらなんでも言ってくれ。なんならあいだに私が入って仲を取り持とうか」

 辻井は顔色を変えた。

「い、い、いえいえ滅相もございません。元はといえば自分のミスが原因でのトラブルなので、へへ、天重の坊ちゃんの手を煩わせることはありませんよ。それでなにかありましたか?」

 その額に脂汗が浮いてきているのを俺は見逃さなかった。

「うん。実はなここだけの話なんだが、2日前に神山市で誘拐事件が起こったんだ。知っていたか?」

「・・・誘拐事件ですか?」

「そう。なんでも誘拐されたのはあの千反田家の一人娘らしいんだ」

「へえ・・・」

「千反田のやつは警察には知らせていないんだとか。不思議だろう。しかもさらに不思議なことにその身代金としてこの『阿良城』の土地の権利を丸々よこせと言うんだよ。面白いと思わないか。なんでまた犯人は千反田家の人間を誘拐しながら、この土地を要求するんだろうな。相手はこの土地がまだ千反田家の所有地だと思ってるのかな。笑えるだろ?」

「・・・へえ確かにそうですね」

「それにこんな土地もらってどうするんだろうな。大して価値のある土地だとも思えないし。まあ領主がそんなこといったらおしまいだがな」

 天重の笑顔に優しさはない。口元だけ歪んでいて目は氷柱のような冷たさと鋭さを帯びている。辻井も愛想笑いを浮かべているが表情筋がひきつり笑えていない。

「坊ちゃん、お言葉を返すようですがこの土地は何年か前に東京のお偉い先生が、確かボーキサイトか何かが取れると申しておりませんでしたっけ?」

「ん。そう言えばそんなこともあったかもしれんな」

「もしかしたらですけど、犯人はそのボーキサイトが欲しくてこの土地を貰おうとしたんではないですか」

「犯人が? ボーキサイトを?」

「ええ。まあ単なる可能性ですけどね・・・」

「ふむ、ボーキサイトねえ。どちらにしろ、俺がこの土地の権利を誘拐犯くれてやつるもりはこれっぽっちもないがね」

 辻井の眉がかすかに釣り上がる。

「え、坊ちゃん、身代金にこの土地を渡さないんですか。だって千反田の娘が誘拐されたんでしょう?」

「何を馬鹿なことを言っている。なぜ俺がわざわざ千反田家のためにこの土地を譲らなくてはいけない。他の者ならいざ知らず、千反田家に義理立てする必要はない。お前もそう思うだろ」

 辻井はさっきまで蒼白だった頬を紅潮させ、目を見開き天重を睨みつける。

「ほ、本気ですか。だって誘拐事件でひ、人の命がかかってるんですよ」

「くどいな。譲らんもんは譲らん。それにあれだ。そもそもこの土地にボーキサイトなどありはせんのだからな。誘拐犯にくれてやっても意味がない」

「坊ちゃん、今何と?」

「ん。この土地にボーキサイトなど最初っからないのだ。大学の教授の勘違いだったそうだ。だからどっちみち、この土地をやっても犯人は一銭も儲からんのだ」

 辻井の細く痩せた腕が天重の襟元に素早く伸びた。天重の黒い制服のカラーの部分を弱々しいながら掴みかかる。

「天重坊ちゃん、今お話されたことは本気でございますか」

 態度を豹変させた辻井に対し、天重は毛虫の類を見下すように睥睨する。明らかに攻撃している側の辻井と、攻撃されている側の天重。
 しかし見ている俺たちにはその立場が逆に見えた。

「何をしている。そんなことをすれば首が締まる。刑法第208条の暴行罪にあたるぞ」

「お答えください・・・。先ほどの言葉は事実でございますか」

「そもそも領主の首元に掴みかかるとは何事だ。それとも何か。この土地にボーキサイトがあるか無いかが、そんなに重要か」

 辻井は喉をクツクツと鳴らしながら、殺気立った目で天重を睨みつける。皮と骨だけの腕が細かく振動している。

「時に辻井よ。300万近い借金は返済する目処は立っているのか?」

 その言葉で辻井の腕の震えが止まった。目は睨みつけているが、それは怒りというよりも驚きに近い目だった。口をパクパクさせながら、何か言葉にしようにもできないようだった。

「お前は競馬が大好きだったからな。以前からほどほどにしておけよと忠告していたはずだ。それがまさか、消費者金融に手を出して利息で首が回らなくなっているとはな」

「・・・貴様、どこでそれを」

「言葉を慎め。こう見えてもこの土地の領主だぞ。資金繰りが大変でな、そっち方面には多少のツテやコネがある。辻井行雄、お前の名前で調べたら一発だったよ。しかも返せなくなるとほかの場所から借りるという始末・・・」

 天重は首元の辻井の手を払いのける。辻井は一瞬何事かと硬直する。その隙に今度は自らの右手首の骨の部分を奴の喉元に勢いよく押し付ける。辻井もたまらずそのまま背後のドアに身体をぶつける。派手な音がしたあとは一瞬の静寂だった。

「辻井、『阿良城』の信条を言ってみろ」

「が・・・は、く、苦しいんだよ」

 天重の右手首は辻井の喉元を完全に捉えて抑えていた。満足に呼吸もできないだろう。見ている方も呼吸が苦しくなりそうだ。

「どうやら忘れているようだな、教えてやろう。『権力には徹底的に抗え』だ。『阿良城』の信条は法律よりも重い。お前はそれを破った」

「や・・・、破ったっ・・・て、そんな、俺は、な、なにも・・・」

「お前は権力に屈した。金に困り暴力団や消費者金融に手を出した。それは良い。問題はそのあとだ。その後、借金が返せなくなったらお前は奴らに唆されて誘拐事件を起こしやがった。権力や暴力に屈して事件の片棒を担いだ。これは間違いなく権力への従順だ。」

「・・・そ、そんな・・・」

「最後の質問だ。娘はどこにいる」

「・・・娘、なんの・・・、ことです、さっきから・・・、坊ちゃんも、焼きが、回りましたか・・・」

 天重は右手にさらに力を込める。辻井の喉が無理やり絞られる音がする。

「もう1度聞く。心して答えろ。娘はどこだ」

 辻井は観念したのか弱々しく右手で家の裏側を指す。

「裏の納屋で寝てます」

「・・・だそうだ。折木くん、あとは頼むね」

 俺たちは「はい」と頷くと駆け足でその納屋に向かう。

「俺はこいつと話がある。だから3人で先に行ってくれ」


 指の刺された方向には大きな先ほど見えた車庫より少し小さい物置のような場所だった。鍵はかかっている。しかし里志が曲がりくねった針金を持参してくれていた。

「ちょっと待ってね」

 その言葉に嘘はなく、里志はその細く曲がった鉢金を針穴に入れると回しただけだった。本当にちょっとしか待たずともシャッターが開いた。真っ暗な空間にようやく日の光が立ち込める。
 目の前のぼろぼろな廃棄品のソファの上に手足と口がロープで巻かれていた千反田がいた。俺はすぐに千反田に飛びつき、急いで手足のロープを外して回る。伊原も手伝ってくれた。多少硬かったが力をこめればなんてことはない、すぐ取れる。
 それでも千反田はまだ意識がない。千反田の身体を揺らす。
 しかし反応はない。
 頬を試しに叩いても反応は変わらない。

「おい、千反田、起きろよ」

 その小さく、細い身体をいくら揺すっても千反田は目を覚まさない。
 嘘だろ。
 無意識に小さく呟いていた。
 俺の体の中の心臓が、肺が、胃が、肝臓が、すい臓が、腎臓が、爆発しそうに膨らんだ。
 もう1回くらい、
 もう1回くらいお前のワガママに付き合ってやろうと思ったのに
 もう1回くらいお前の好奇心に振り回されても良いと思ったのに

「・・・おれき、さん?」

 目の前の少女がゆっくりと目を開けた。とても弱々しく虚ろで無機質な目だった。

「どうしたんですか・・・おれきさん」

 張りも力強さも強引さも無い声だった。

「あの・・・、ここは・・・」

 両腕の中で横たわるその身体はひどく不健康そうで歪で華奢だった。

「・・・あれ、どうして、福部さんや、摩耶花さんも・・・」

 ぼやけた輪郭でものが二重三重になって見えるがどうでも良い。極限まで膨らんだ内蔵が急にしぼんだのが分かる。

「あの、体に、力が入らないんですけど・・・えっと、私・・・」

 力が入らないのは俺の方だよ。
 まあ良い。俺の顎を千反田の肩で支えてもらいながら、ようやく俺は息をする。

「折木さん、私、気になります」

 里志が呼んでくれた救急車の音だろう、遠くの方からサイレンの音がする。ああ、やっと終わったんだ。俺は千反田に3日ぶりに出会うことが出来た。
 
 このあと、千反田はすぐさま救急車で市内の恋合病院に搬送された。
 衰弱がひどいものの、命の別状はなく数日休めば体調はすぐ戻ると診断された。恋合病院の理事長は千反田家と親交がある。今回の一件も内々に処理され警察はおろか、病院内職員でさえその真実を知ることはないだろう。千反田本人も2~3日の検査入院で済むそうなので、ぎりぎり新学期に間に合う見込みだそうだ。
 こうして、誰にも知らることなく始まった誘拐事件は、誰にも知られることなく幕を閉じたのだった。

始まる新学期

始まる新学期

 ドタバタ劇の翌日、俺はというと勉強机の上に山脈のごとく聳える課題を前に腕を組んでいた。この課題を最も効率よく終わらせるにはどうしたら良いかなどと考えているわけではない。そんな思考回路がそもそも非効率的だ。
 なんと言い訳をすれば良いのか、それに全神経を集中させる。始業式の日は「課題を家に忘れてきました」、次の日は「課題をやり忘れたところがあったのでそれをやってたら、机の上に忘れました」、そしてその次の日は「課題はやったけどなくしちゃいました」・・・。
 まあ3日は持つかな。問題は4日目以降だ。もうその次の言い訳が思いつかない。そもそもいつまで言い訳を使えばゴールなのだろう。夏休みまでか。前途多難だなこりゃ。
 これ以上課題を視界に入れるのは精神衛生上良くない。取り敢えず喉の渇きを癒すために、1階の冷蔵庫から適当に飲み物でも漁るか。重い腰を上げながら、緩慢な動きで階段を下りる。1階のリビングからはテレビの音。ニュースキャスターが日本全国津々浦々の出来事を熱っぽく語っていた。

「○○議員の汚職疑惑!」

「経済指数の下方修正!」

「必見節約テクニック!」

 そうですかそうですか。日本も忙しいことですなあ。そんなテレビの前に陣取っている人物がいた。
 姉貴だ。つい先日、帰宅したところだった。
 姉貴は俺の存在に気づくと、こちらに顔を向けた。

「おや、我が弟。明日から新学期だね、新しいクラスが楽しみかい」

 何を呑気なことを。こっちは言い訳の無限マラソンを考えなくてはいけないというのに。

「こっちは課題が半分以上終わってないんだ。楽しみもクソもないよ」

「ふ~~ん・・・」

 姉貴は珍しそうな顔で俺の眺めてくる。

「なんだよ」

「いやさ。てっきり課題が終わったのかなと思って」

「なんでまた」

「だって、なんだか楽しそうだから」

 楽しそう?
 まったく、姉貴はなにを根拠にそんなことを言うのか。

「別に。何にも無いさ」

 さて明日から憂鬱な新学期が始まる。やれやれ。



―――了

囚われの末裔

いかがでしたかな(・◇・)。
駄作でしたか?
でしょうね(・◇・)!

長宗我部さんや天重は完全オリジナルキャラですし、千反田鉄吾も名前だけしか出てないので外見に触れているという意味ではオリジナルですね。すいまsねんえ、かなり悪者になりましたが・・・。ちなみに「阿良城」という地名が出てきますが、これも折着なるです。ただ実際のチリ関係で「荒城」という地名があるので少し使わせていただきました。もっと言うと「長宗我部」さんは綾辻行人さんの奇面館の殺人に出てくる執事を、「天重剛真」はモンスターハンターの鎧玉から取らせていただきました。勝手に使用させていただいてすいません(・◇・)
原作の米澤さんは人物の内面をテンポよく描くのが売り(と思っている)ので自分もそれを倣って書かせていただきました。原作には程遠い作品ですが、でもまぁ自己満足ですからね。これからも、もしかしたら「氷菓」シリーズの二次創作は書くかもしれませんし、書かないかもしれません。自己満足ですから(・◇・)
もし書くとしても原作と矛盾の生じないように書きますので、どうぞよろしくお願いします。

囚われの末裔

神山高校の2年生に進級した4月、千反田えるが何者かに誘拐されてしまう。その身代金として要求されたのは『北部領域』と言う聞いたこともない土地の権利だった。古典部の折木奉太郎、福部里志、伊原摩耶花は無事千反田えるを救出することができるのか。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 出会いと別れの季節
  2. 働かない頭脳
  3. 抵抗する集落
  4. 「当主」対「領主」
  5. 善意の第三者
  6. 囚われの末裔
  7. 始まる新学期