クレールの傷痕

 僕は彼女をクレールと呼ぶ。もちろん、僕の中だけで。
 クレールは僕より先に今のアルバイト先のコーヒーショップで働いていた女の子だ。歳は僕の二つ下で21、ここでは3年働いており、フリーターで大学には行っていない。僕にわかるのはそれくらいのことだ。僕は彼女が淡々とホットサンドウィッチを作っている姿を見るのが好きで、いつもドリンクアップのときはこっそり横目で見ていた。
 お店に同じくらいの年の女の子は何人かいたが、男の子のこととスイーツのことしか考えていないのではないかと思うくらいに無邪気で活発な彼女らに比べて、クレールは笑顔の素敵な看板娘というタイプではなかった。むしろその正反対で、表情というものがなく、笑うことはもちろん怒ることも泣くこともなかった。
 僕は彼女の秘密を知っている。恐らくは彼女と同じくらいの歳のウェイターの女の子たちでさえ知らないことだ。彼女の手首には繊細な剃刀で傷付けた跡が、ぼやけた飛行機雲みたいに3本並んで引かれている。
 その日は水曜で雨だった。普段から決して多くない客の入りもこの日は皆無に近く、店内に流れるブルーグラスミュージックの他は何も聞こえなかった。いつものようにクレールは隣でサンドウィッチ用のトマトを切っていた。あの傷がちらりと見えた。
 僕の視線に気づいたのか、クレールはペティナイフを持ったまま、手を止めずにこちらを向いた。僕は慌てて目を逸らそうとしたがうまくいかなかった。僕の目はまるでクレールの目と糸で繋がれてしまったみたいだった。クレールが再びトマトに視線を落としたおかげで、僕の顔が紅潮するのを彼女に見られることはなかった。

「映画、みにいきませんか?」

 ブルーグラスミュージックに紛れて聴こえたその声はクレールの唇から零れたようだ。僕は一瞬驚いたが、このカウンターにいるのは僕とクレールだけだということを思い出した。

「映画ですか?」

 僕がやっとのことで絞り出して言った言葉に、彼女は頷いた。

「いいですよ、僕でよければ」
「そう、よかった」

 クレールはそう言ってうつむきながら微笑んだ。クレールの笑う顔を僕はそのとき初めて見た。クレールの笑顔は人を幸せに出来る笑顔ではないかもしれない、と思った。その笑顔は物悲しげで僕を不安にさせた。
 クレールと観た映画はフランス映画だった。スクリーンの中の夫婦は若く、女性の方は身体中にタトゥーを施していた。男性はその女性の名前を何度も呼んだ。彼女が消えてしまわないように。

 クレール、どうか行かないでくれ
 その傷に触れさせてくれ
 僕に君を守らせておくれ
 愛しいクレール

クレールが僕の手を、そっと握った。

クレールの傷痕

クレールの傷痕

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-18

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