女神へ

「このスパゲティも、しばらく食べられなくなるのね」

 ゆのはそう言って、私の作ったボロネーゼスパゲティをフォークにくるくると巻きつけ、名残惜しそうに皿の上で遊ばせた。
 ゆのは私の一つ違いの姉だ。彼女は市立の図書館で司書、私は高校で国語の教師をしている。なんとも文学に縁のある姉妹である。そんな姉が、明日この家を出ていく。

「しのがユーノーのことを教えてくれなかったらまだ食べられたかもしれないのに」
「ユーノー?」

 とぼけないでよ、といってゆのが笑った。私はそんな真剣な話をしたつもりではなかったから、ゆのがそのことを覚えていたことに驚いた。
 ユーノーはローマ神話で言うユーピテルの妻で、女性の結婚を司りそして守護する女神だ。ジューンブライドは花嫁にユーノーの加護を期待する風習に帰するということを、今から三年ほど前に大学のゼミナールで教わった。

「それで6月に決めたの?」
「だって素敵じゃない。文学部ってローマ神話のことまで勉強するのね、私今までジューンブライドなんてウェディング業界の企業戦略だと思ってた」
「国語の教師になるのに神話なんか勉強しないよ。ゼミの研究でちらっとやっただけで、オリュンポスの十二神だって全員覚えてないもの。確か参考書は一応持ってたと思うけど」

 ゆのの名前の由来がユーノーであることはまずないだろう。何かの間違いでうちの両親がラテン語に精通してたなら話は別だけど。ただ私が大学で例のユーノーの話を聞いたとき、何より先にゆののことが思い浮かんだってだけ。

「スパゲッティくらい、いつでも作りに行くよ」

 私がそう言うとゆのは笑って、ボロネーゼスパゲティをおかわりした。
 その日の夜は何故だか眠れなくて、私はベッドから起き上がりテーブルランプをつけて三年ぶりに神話事典を開いた。なんとなく絵画の聖母マリアのような姿を想像していたから、バチカンの石像のユーノーを見つけるのに思ったより時間がかかってしまった。その姿はまさにベールを被った花嫁そのものにみえた。
 私は本を閉じて眠りにつく前に、お祈りのようなものをした。キリスト教の家系でもないのに今思えば何故そんなことをしたのかわからないけれど。もちろん、私がその夜にそんなお祈りをしたことはゆのには言っていない。

 天上の女神ユーノーよ、どうか我が姉に祝福とご加護をお与えください。

 それから私は、少しだけ泣いた。

女神へ

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-18

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