今日の出来事・Ⅰ

山あり谷ありの人生が、いきなり谷だけに成ってしまう事は誰にでも起きうる出来事。

そんな谷間な人生でも分岐点で頑張ればまた上り坂にも行ける・・・かも。

このお話は限りなく実話です。実体験です。

1・前厄

 その日はゴールデンウイーク真っ只中、本来なら大わらわの掻き入れ時。

そんな時にも関わらずお客さんは早い時間帯にひと組、経営者はずっと不機嫌。2年程前からこの様な状態で、もろに景気の影響を感じています。

職場は割烹料理店で仕事は板前。その日だけではなくゴールデンウイーク中ずっとこんな感じ。雇われてる私は経営にはノータッチだが店の状況は良く分かる。

店の大将と女将は夫婦で板前は大将と私のみ、アルバイトの女の子は主に大学生と言う小じんまりした割烹店である。

8時前にその日唯一のお客さんが帰り閉店まで待機状態。仕込みも終わりお客さんを迎え入れる態勢は整ってる。その半面片付けも終わっている。何事も無ければこのまま閉店なので

すがその日は朝からずっと女将と大将が口論中。雰囲気は最悪で閉店時間を過ぎてもお互い知らん顔で店の端と端に別れ立っている。
 
ようやく沈黙から解放されたのは通常より30分程延長された夜の10時過ぎ。最近こんな状態で皆が皆バラバラで崩壊するのは時間の問題であろうとわたしは思っていた。そんな雰囲

気に耐えきれなく速攻着替えて店を出る。急いで帰る必要はなかった、だだ店が苦痛で仕方無かった。

 仕事を終えてバイクで帰宅。愛車にまたがりその日の事を少しだけ思い起こし考えるのをやめる。大型連休の合間で道路も空いている。サンデードライバーらしき車がちらほら。

ウインカー出してるのに曲がるのやめる車、その反対も。トロトロ走る車、その脇を猛スピードで追い越す車。

そんな状況で2車線跨ぎの迷惑な車が前方に見える。左側の飲食店に入りたい車と出たい車がにらめっこ。どんどん詰まってゆく。通れないわたしはにらめっこの最前線にいる。

そんな時隙間を猛スピードで抜けようとする車、それが間違いなくこちらに向かってくるのがわかる。案の定、真横から直角に当てられた。

当たるのが分かってて避けることすら出来ない。視界が回る、強い衝撃と共に数十メートル弾き飛ばされる。まるで温泉場や古いゲームセンターにあるアレの様に。

アレとは正式な名称はわからない玉を打つゲーム。左右のボタンを押し玉を弾くソレ。弾かれ吹き飛び叩きつけられる。

 救急車が来る、動けず路上に転がる私。ヘルメットの顎紐で首が締まる、苦痛と激痛で息が詰まる。割れたシールドの隙間から見える先には若そうな女の子が遠くで泣いている。

その脇にバンパーの折れた初心者マークの車がある。意識はあるが一向に動けない、息が苦しい。

白衣の方が話しかける。ヘルメットを外して欲しいと答える。数人の救急隊員に抱えられ担架へ移動。救急車へ移され救急搬送の準備をされている様子。

色々と質問されるもあまり覚えてない、ただ帰りを待つ嫁にだけは連絡したかった。帰りが遅いと嫁は極端に機嫌が悪く成る。隊員の方に代わりに電話してもらう。携帯は無事の様です。

 
 救急病院へ到着する、寒気と吐き気と激痛で事故に遭った事を再確認。

救急車の中での会話はあまり覚えてない、傷の応急処置の為着ていた衣類は切られパンツ一丁。手足は固定、首にはコルセット。

一応毛布は掛けてもらってた感じですが激痛で良く覚えてません。

先月、嫁にプレゼントされたライダー用のカバンが気がかりでした。

担架から移動出来る病院のストレッチャーへ移され病院内を走る。青い服着た男性に囲まれる。丁寧な言葉ではない、まるで友達の様な会話が始まる。


「うわぁこれは痛そう、これ誰?今運ばれて来たやつ?おいお前担当な、やってみ」


 以外に聞こえてると言う事をココの病院の先生は気が付いてるのであろうか?

一通り検査され処置室の外でストレッチャーのまま小1時間待たされた。

今度は緑の服の男性が今から処置しますのでとの説明をしに訪れた。この方は丁寧だ。

しばらくすると担当を押しつけられたらしい青い服の男性が現れ検査結果を読み上げ処置室へ。

寝た状態でゴソゴソされる、堅い板を充てられ足の形状に合わせ手曲げしてる。ガチガチに固定され今まで以上に動けない状態へ。そこへ嫁と義母が。

連絡して貰ってた事を思い出し二言三言会話を交わす。心配してる様子だがなんか違和感を感じた。

 緑の丁寧な男性が現れ車椅子へと促される。されるがままに移動しなぜか病院の駐車場へ。車椅子はロビーに帰しといて下さいと一言言うと去ってゆきました。

嫁に「?」と言う顔するも反応なし。嫁にいざなわれ後部座席へ。

なぜ入院無し?なんで帰された?と、聞くとアンタが「帰りたい、帰りたい」と連呼してたしやん。と。

車中でその事を聞かされ嫁の不機嫌さが理解出来ました。

その時、聞かされた状況としては全身打撲、頸椎捻挫、腰椎捻挫、右足血腫でした。

2・現実を知る

 病院を出たのは夜中の3時過ぎでした。右足は、お尻から踵まで固定され動けず這う様に車へ乗り込み自宅へ。

また這う様に車を降り部屋までの階段を登り部屋に戻ったのは5時頃だったと思います。

部屋に入り一服。半日振りのタバコが脳にまわる。クラクラする頭が余計ふらつく。徐々に落ち着きだしコーヒーを飲む。これも半日ぶりである。

嫁に経緯を話しこれからどうするか少し話すも嫁は眠気に勝てず寝てしまう。夜が明けたら店にも連絡しなくてはならない、バイク屋にも連絡しな

ければ、事情聴取は?引いたお姉さんは?・・・焦る気持ちと裏腹に鎮痛剤がきれてゆく。

痛い、苦しい・・そんな状態が朝まで継続し一睡も出来ず結局朝一でさっきまで居た病院へ。

外来の整形外科を受診、昨日運ばれた者ですがと受付で言うも痛みが増す中約4時間待たされ診察。

開口一番「入院しましょう」と、昨日装着された簡易的なギブス外しながら新たなギブスをあてがう。

この状態で家に居るより病院の方が良いでしょう。と。

嫁と顔を見合わせ、昨日入院させてくれてたら・・・。と。

けが人の戯言より症状を見てほしかった。嫁も同意見、要約和解出来ました。

その後また検査の為、ストレッチャーへ。あちこち回り大勢に上から見下ろされる。昨日から良く人に囲まれる。

マスクをした顔は良く見分けが付かないが丁寧な青い服の方は良く覚えてる。

当然自分では何も出来ない状況、入院がベストの選択でした。

事故直後より少し時間開いてから膝の痛みと圧迫感が半端無い。体のあちこち痛い。首も固定されてるが吐き気が止まらない。

事故後出来た事が今は出来ない。その後そのままストレッチャーで病室へ。

ここでも数人の看護師さんに囲まれる。シーツごと持ち上げられベットへ。痛みより驚きでした。

ここでも一通り説明があるもサッパリ頭に入ってこない。入院の手引書渡されるも今は読む気にもなれない。

全く分からない今までとは違う環境への不安がかなり大きかったに違い無いと後で思う。

すでに夕方で、嫁が入院手き終え部屋に戻り明日着替え等持ってくると言い残し帰る。

ここからいきなり入院生活が始まった。

周りは夕食時で食器のカチカチ言う音だけが聞こえてくる。持ち込みされたであろうテレビもイヤホンなので聞こえない。

テレビの灯りだけがチカチカしてる。

以外に静かなのが不思議でした。

その後看護師さんから薬を2錠貰い飲む。

その方が「これで少しは楽になると思いますのでなにかあればナースコール押してくださいね」と、言い隣へ。

隣と言うてもカーテン1枚だけで区切られた同じ部屋、わたしは5人部屋のど真ん中で、少し気使うポジションだった事を後で知りました。

8時前にも関わらず周りからは寝息と軽いいびきが聞こえてくる。

どんな人か分からない隣人に興味はあるもひたすら気配を消す事に専念してました。そうこうしてる内に消灯。

しかし入院したからと言って痛みが和らぐ訳も無く鎮痛剤と睡眠導入剤でも治まらず一睡も出来ぬまま2日目の朝を迎えました。


病院の朝は早くアチコチから声が聞こえてくる、わたくしの居る部屋は比較的皆静かで良い部屋に当たった感がありました。

痛みは当然ながらあります、事故後落ち着きだした気持ちに反して痛みは増すばかり。

朝一問診に来た看護師さんにその旨訴えると「先生に報告しときますのでお待ちください」と言い残しまた隣へ。

全てが初めてで何をどうしたらいいのかも分からずこの時は入院したのは失敗だったかも?と苛立ちを覚えました。

そうこうしてるとお茶と朝食が運ばれる。

周りは皆無言でパンの袋を開ける音だけが聞こえる。静かだが慣れない雰囲気が嫌でした。


 痛い身体を自分で確認しながら動かしてみる。あちこち痛いが折れてるとかそんな感じではない。

折れていれば分かるはず、ココは医者を信じよう。

しかしながら問題は右足。事故後そこだけは未だ見ていない事に気が付く。感覚がほぼ無いが足の親指はかろうじて動く。

昔、何かで読んだ本に指が動けば大丈夫と書いてあったのを思い出す。

自分で自分に言い聞かせる様に「大丈夫、大丈夫」と安心させる様に念じてました。

 そんな頃、主治医の先生が病室まで来てくれてその時初めて自分の右足を見ました。

3・衝撃的

 包帯が次々と外されてゆく。通常知ってる3倍はあろう大きさの包帯が右足の脇で山になってゆく。

そこから少し青色の入ったギブスが。内側のクッションが青なのでそう見えたが本来は白色。

ギブスをゆっくりと剥がすと血の付いたガーゼの下から真っ黒い足が。

血の痕を綺麗にふき取り傷を消毒し新しいガーゼを乗せる。至る所に裂傷がある。

青黒く腫れあがり太ももより膨張した膝関節、表面はデコボコで自分の足なのに自分のソレとは思えない変貌振りに驚きました。

無駄に太いサツマイモっぽい感じがしたのを覚えてます。

どうやら転倒した時車体と路面に挟まれてたらしくかなりのダメージがあるとの事。

左からぶつけられタイヤを軸に右へ転倒、その時挟まれて押しつぶされて居た様です。

後日談ですが骨が折れていたらとても厄介だったと告げられました。奇跡的とも言われました。

余談ですがわたくしカフェオレが好きで牛乳1日に1本弱飲みます、そのお陰では無いかと今でも思ってます。

 そこで携帯が鳴る。この病院は携帯は自由らしい。ベットから皆話してる。

こちらの保険会社からである。相手方の保険会社から連絡があるので対応して欲しいとの事。

承諾すると間もなく見た事ない番号から電話が掛かる。相手保険会社である。お詫びから始まり終始低姿勢で印象としては悪くは無い。

まぁ偉そうに対応してくる訳は無いであろう。どう考えてもこちらが被害者ですから。

明日、病院へ挨拶がてら来ると言う。


 翌日朝一に話し合いに来る。

一通り聞くも取り合えず身体治したいので、ある程度動ける様になるまでは話出来ないと伝える。

その時がきたら話し合いしましょうと言う事でお引き取り願いました。

手土産と言うかお見舞いとして、シャンプーとか石鹸などの簡単な詰め合わせを置いて帰っていった。


 入院直後は痛さと不慣れで時間経つのも早かった様に思えます。

朝6時に起床、起き上がるのに苦労しつつも慣れない車椅子で洗面所へ。

帰ってきて病院敷地内を車椅子で散歩。朝早いのでまだ外来患者は居ない。肌寒い。動きにくい今の状況にはモッテコイの時間帯。

病院の裏手で隠れて喫煙。まるで中学生の時の様に。早朝がこんなに気持ち良いとは思ってもみなかったです。

部屋に帰る途中、自販機で新聞とコーヒー買い病室へ。

その頃検温が始まりそして朝食、その後体に悪そうな薬を飲む。

入院当初はコレが辛かった。朝ご飯を食べる習慣の無かった私はいつもこっそり捨ててたのを思い出します。

9時より看護師さんによる検診?問診?電子カルテが書かれる。今の状態確認の様な感じ。

昼前まで待たされる事も多々あるのでベットで待機。そこで午後からの予定を聞かされる。

わたくしの場合、保存療法だったので追加検査も徳に無く夕方までゴロゴロと。

6時に夕食。その後担当医が来て膝に溜まった血腫を抜く。

つぶれた筋肉、切れた血管から出血し続けてたのもありこの処置は2~3日置きに施された。

退院まで計6回抜かれ1660cc抜けたと言われました。

その数字がどういう事なのかはわかりませんが結構抜けたと先生も少し自慢げでした。

わたくしの場合、血腫が溜まる場所は1ヶ所では無く複数あったらしくその袋のせいで足がボコボコになっていた様です。

抜くとへ込み数日で又溜まる、その繰り返しでした。関節内にも同様に溜まります。

この関節の血腫を抜くのが非常に痛い、普通より太く長い針を関節まで刺す、その後袋を探す様に針先を中で動かす。

悲鳴が出ます。涙も出ます。かなり年配の看護師さんの手でも握り締めます。

痛さに負け動いてしまうと5倍痛いので助手さんに抑えられます。


 こんな感じの毎日にも少し慣れて来た頃に首のコルセットが外れその後1週間もせず足のギブスも外れました。

まだ事故直後と大差無い感じでしたが早く外さないと膝が固まって動かなくなるとの事でした。

外された直後は支えを無くした首と右ひざの痛みで鎮痛剤漬けでした。入院2週間まではこんな感じでした。

4・開始


 ほどなくリハビリの指導が来ました、ベットで出来る簡単なリハビリが。

自分でもどの位のダメージか知りたかったので喜んで受けました。

初めは自分で少しずつ曲げる運動、足の親指から始めるも思った程曲がらない。

膝はと言うと動かそうとするだけで激痛。ダメージと筋肉の収縮のスピードに驚愕したのを覚えています。

一刻も早くどうにかしないとと強く思う様になりました。

膝の激痛は相変わらずあり頸椎捻挫のお陰で朝起き上がると首がついてこない。

両手で持ち上げる様にして起き上がる。腹筋の要領で。


この辺りから日々の訓練が開始される。

初歩の訓練が出来なく自分が情けなくなる。今の状態では何も出来ない自分が腹立たしい。そんなモヤモヤした気持ちでした。

 ベットでのリハビリ開始から数日過ぎ痛さも少しマシになった頃、器具でのリハビリが始まりました。

足と腰を固定し強引に曲げてゆくと言う殺人的な治療です。

それまでは主治医と看護師さん以外とはほぼ話もせず同部屋の患者さんとも顔合わせれば軽く挨拶する程度の毎日でした。

こちらから話しかける事も無く、相手からも。

ドラマで見る様な光景は現実とは違う事を悟りました。

と、言うか皆さんそれどころでは無い様子、そんなわたしもそうでした。


 午前中1時間、夕方1時間合計2時間、すこしずつ角度をつけてゆき膝を始点に機械で曲げてゆく方法です。

曲がらないのを曲げてゆくので相当辛いです。

そこは病室から少し離れた所にありそこまで車椅子で行くのも訓練の一環だった様です。

初日看護師さんが呼びに来てくれてリハビリ室へ。そこで使い方教えて貰い指導の下5度から開始。

ただしちゃんと固定しないと腰が浮く、浮くと曲がって無いのに角度は出る。

そこはきっちり締めときましょう。では、始めます。

 膝がちょこっと浮くだけで結構痛い。痛いが我慢してると痛みが軽くなってゆく。

夕方からは10度へ。同じく痛いがなれてくる。

スタートは幸先良い。この調子でいけばタバコ吸いに院外へ出るのも楽になりそう。

目標が出来たらそこまでは頑張れる、いや頑張らねばならぬ。

この時、主治医からは元通りになるかならないかの明確な言葉は無かった。

それだけに不安は相当であったが傷が癒えればその内元に戻るだろうと言う甘い考えもありました。

そうこうしてると1週間もしない内に90度曲がる様になりました。

早めにギブス外したから筋肉がガチガチに固まらずに済んだんだと主治医から聞かされました。

まだ30歳位で今時な感じの主治医だが心強く思えた瞬間でした。

5・順調に回復

 全く曲がらなかった膝が日ごとに少しずつ曲がってゆく。痛みはまだまだあるが相当回復した感じ。

毎日2回のリハビリが待ちどうしくより一層励んでました。そのリハビリ室は小さな部屋で横並びでベットが2つ。

大きなエアコンが部屋の5分の1程あり車椅子は入れず外で降りなくてはならない。

壁に沿って1歩1歩ゆっくり進む。足を引きずりながら痛みに耐える。たかだか2~3メートルがとてつもなく長く感じる。

表のホワイトボードに時間と名前が書かれてる。ベットは2つなんでもう一人名前がある。

一緒の時間帯に70歳後半位のおばぁちゃんが来てる。その方は人工膝関節の手術をし、そのリハビリをしてるらしいです。

初めは挨拶程度でしたが、5分もしない内に一方的に話掛けてくる様になりました。

明るい方で悪気もなさそうなので受け答えしてました。

1日2回毎日顔合わせる内次第に世間話から身内や仕事の事と色々と話してました。

何度も聞いた同じ話から始まり大体同じ感じで話が進む。ボケでは居ない、しっかりしてはるが毎回同じ。

たまに違うニュースもある。2日置きに息子さんが見舞いに来ると言う。そんな時はずっとその話。

嬉しそうに話して満足気、関係無いわたしもなんか嬉しく思ってしまう。

すこし障害持った息子さんだがとても優しい方らしい。

おばぁちゃんも同じ膝に関する症状なので次第に曲がり率を言い合う感じにになり競い励ましあい結構仲良くさせて頂ました。

1人より2人の方が効果的なんだと思いました。

そうこうしてる内にそのおばぁちゃんは退院して行かはりました。その後、外来で1度会いましたが元気そうでした。

 
 その器具である程度までは曲がる様になったのですが、90度を超えた辺りから1日頑張っても曲がり率上がらない様になり頭打ち状態

に。そこで主治医さんに話した所「そろそろ下でやりますか」と。

「下」とは、本格的にリハビリするスペースであり大勢の患者さんがいます。二つ返事で承諾しました。

器具でココまで曲がるなら人の手でするともっと曲がるのでは?と期待に胸膨らませてました。

そこには整形以外の患者さんも多数おり、重度の患者さんもいます。

植物状態でベットのまま来る患者さん、糖尿で片足無い方、脳梗塞で半身麻痺の方。結構な光景でした。

チューブで繋がれ自力で動けない患者さんもマッサージしたり会話したりと、この時は素晴らしい光景に見えました。

 本格的リハビリデビューです。担当の理学療法士さんが部屋に訪れこれからのプランとメニューを渡してくれました。

まだ腫れの引かない膝ですが青黒いのは治まり紫と黄色のマダラ模様でした。アケビやザクロの様でした。

動くと痛いがかなり落ち着いてきた感じで回復してきてる実感が出てきました。

明日から開始するので運動靴用意しといてくれと言われ気持ちは完治まで一直線でした。
 
ココでのリハビリはまず落ちた筋力を戻す、筋、筋肉をほぐすなど運動機能の回復がメインです。

まだ膝の腫れが引かぬ内のリハビリでしたが順調に曲がってくれると確信してきた所でした。

6・願望


 初日はリハビリに要求する事、その結果の目標設定から始まりました。

要求は元通りの身体で設定は正座にしました。苦痛無く正座出来たら元通りであろうと考えていたからである。

職業的に正座出来ないと困るのでそこは譲れないラインでした。
 
 軽く話しした後、初め来た担当の理学療法士さんが違う人連れて来て「彼が今日から担当します、一緒に頑張りましょう」と。

どう見ても新人さん。まぁ治して貰えるなら誰でもええかな?と思いリハビリが始まりました。

筋伸ばしから始まり筋肉をほぐし、痛くてたまらなかったが我慢出来た。

リハビリとは完治までの代償と思い指示に従い頑張れた。

 次の日は車椅子では無く松葉杖で来てくれとのリクエスト。

事故して数回しか使った事無い松葉杖、ずっとベット脇に立てかけてあるアレである。

そう言えばあまり使ってる人見た事ないな?と思いながら試してみる。これが意外に難しい。

足の出し方、杖の出し方何処から出す?どっちから出す?悩みながらもとりあえず歩いてみるも真っ直ぐ進まない。

どうも横に向いてしまう。立て直しまた進む。曲がる。その繰り返しで何とかエレベーターまでたどり着く。

距離にして10メートル。杖を支えてた脇腹が痛い。

その時ナースステーションから看護師さんが「あれぇ~歩ける様になったんやねぇ~」と言われ振り向く。

今日の担当看護師さんでした。杖付いてここまで来てくれと言われたのでムリクリ頑張って行く。

  「もう歩けるやん、その調子で歩い練習しといたらぁ~」と。

ごく普通な看護師と患者の会話だがこれが後で問題になる出来ごとの一端である。そのままリハビリ室へ向かう。

  

 今日はそのまま杖で歩いてみましょうか?と。横で支えてますし外出て回ってみませんか?と。

いきなり2日目でエエんか?とも思いましたが主任も着いてくると言うので出てみました。

さすがにいきなりアスファルトはキツかった。

普通ならあまり感じないデコボコが足に引っ掛かるり転びそうになるも。病院の外周を少し歩き帰る。

距離にして50メートル程。その後平均台持ちながらの歩行訓練。まだまだおぼつかないが支えて歩けばなんとか歩ける。

大きな進歩なのか良く分からないが疲れ果てる程の訓練でした。

その後筋肉と筋伸ばし角度計って終了。次の日も、またその次も。

段々コツが掴めてきたのか以外に歩け出す。松葉杖ではあるがなんとか1人であるけそうな感触は掴んだかに思えた。

そんな訓練が1週間、入院して1ヵ月位の事でした。

 久々に主治医がベットへ訪ねて来る。膝の調子を聞かれ今の状態を伝える。

リハビリの事、杖でボチボチ歩きだした事。しかし歩きだした頃から気になる事も出て来た事も。

めまいと吐き気、それに立ちくらみである。

それは頸椎捻挫の影響とずっとベットへ寝てたせいで平衡感覚がおかしくなってるだけで時期治ると主治医に言われる。

それとリハビリ中にいきなり痺れが発生しだした事、その痺れが両膝から下と両肩から下で特に左側に出てると。

事故当時から軽い痺れはあった事は前から伝えてあった。その痺れが増した事。

それも時期良くなるでしょうと。結構な事故でしたからねぇ~と毎回その一言がついてくる。それはどう言う意味かは後で分かる。
 
 
 翌日いつもの様にリハビリへ向かう。一通り準備運動済ませ筋トレに励む。バランスボールで足の曲げ伸ばしも終える。

担当の理学療法士が来る。今日の調子はどうか?との問いにいつもと変わらずですと答える。

リハビリがいつもと同じ感じで始まりいつもより少し早目に訓練の終わりを告げられ主任呼んで来、3人で話が始まる。

 「救急病院では松葉杖突けて歩行出来た時点で退院、膝は120度曲がれば治療完了なんです」

一応その日の計測で120度曲がってたので「そろそろ終了ですね、お疲れ様でした。」と。

   
  ん?んんんん?

 

 一応曲がってますがまだ屈伸はおろか正座なんてまだまだ出来てませんけど?

最初のリハビリ計画書に正座出来るのが目標と書いたはずですが??

しかもまだほぼ車椅子なんですけど?

そんな事など聞き入れてもらえぬまま、今後のスケジュールを渡されました。

そこには、退院後の生活の仕方がチョろっと書いてありました。

当然、未だ自力歩行が困難な身。いきなりすぎて放心状態。

すぐに病室へ戻り看護師さんへ先生と話がしたい旨伝え少しだけ落ち着きを取り戻しました。


  その日の就寝前に先生が訪ねてきました。ついでに血腫も抜かれました。

先生の見立てでは曲げると痛いのはキツイ打撲だったため組織の回復が追いついて無いのと曲がらないのはその血腫で膝が圧迫されてス

トッパーの様な状態だからと言う。

なので退院して腫れが引くの待ちましょうか。との、事でした。

今すぐとは言いませんがご家族と相談してまた教えてくださいとの事で話は終わる。

納得はしていない、提案程度に考えていました。

7・気持ちと身体

 
 昨夜の話を着替えの交換に来た嫁に話す。こちらの希望とは裏腹に退院の話が出た事。

退院する時はスキップしながら出て行くと宣言してた割にはお粗末な結果にもうちょいどうにかならんか?と詰め寄られる。

確かに今の状態ではちょっと厳しいかも?と思う。嫁に負担が丸かぶり。ちょい様子見て決めようと言う事で話は終わる。

ただ、外泊の許可も出た。少々病院の暮らしが苦痛に思えてた頃。少しで良いので家にも帰ってみたかった頃。

外泊許可は私にとっては嬉しかった。丁度明日嫁が休みやと言う事で外泊届出してその場で受理された。

主治医の思いは「出てみて自分で動いてみろ」言う事らしい。
 
   そして翌日体験外泊。
 
 体験外泊とは通常の生活がどの程度出来るか、どんな事が困難かを知る為の一時退院です。

翌朝お迎えが来る。おぼつかない松葉杖で久々の下界。タバコが吸える。そんな気分で家路へ向かう。

到着後すぐに現実を知る。案の定、部屋までの階段は難関でした。

使いこなせない松葉杖、きつい階段、ちょっとした段差、部屋に入るまでに挫けそうでした。

玄関に松葉杖を置きなんとか部屋に入る。介助なしですぐソコまでも行けない有様。

手すりも無いので歩くのも困難、部屋で松葉杖など突ける訳もなくゴロリとソファーに転がる。そして1番の難問はトイレでした。

まず病院程広くないスペース、家庭用やと曲がらない足ではカツカツでした。

リハビリで準備運動した後に強引に曲げられ120度でも自力で曲げれる範囲はそれよりかなり落ちる。

痛さで止めてしまうからである。

お風呂も病院のとは広さも設備も違う。

ウキウキしながら帰って来たが情けなさで落胆してしまう。

今日明日をココでどうしようか、退院した後どうしよう。  

不安ばかりでした。


 毛布やタオルケットを掛けるだけでも擦れる感じが痛いのでソファで寝る。

病院では足を丸ごと保護出来るモノがある。だがそんなモノは自宅には無い。

背もたれにタオルケット掛けて右足に触れない様に気をつける。

お尻からカカトまで足りる長いクッションを買い引いて寝る。なんとなくイケそうである。

お風呂とトイレが難ではあるがやってやれない事も無いかも知れないと少しだけ思えた。まだ温かい時期だっただけでも助かった。

一晩寝て起きるとやはり我が家はイイもんである。不便はあるもののココにはテレビも冷蔵庫もある。

病院には無い。個室にはあるが大部屋には何も無い。身体的には病院が楽であるが気持ち的には自宅が楽で自由。

まんまと主治医の思惑に乗せられた感は有るモノも退院にも前向きに考えれた。

 
 翌日、夕食に合わせて病院へ戻る。看護師さんに帰った事を伝える。今日の担当は松葉杖初披露した方でした。

そこで書類出し病室へ。 夕食配善と重なり少しバタ付く病棟の廊下。避ける位は出来る。それもしっかり看護師さんは見てました。

ベットへ戻るとすぐさま夕食が運ばれる、タイミングは素晴らしいの一言でした。食べ終え少しすると看護師と主治医が訪れる。

初めて主治医から話を切り出される「自宅はどうでしたか?ゆっくり出来ましたか?」と。

階段と、部屋などの段差がかなり辛い事を話す。その後お風呂とトイレの事も。

出来ん事も無いが辛いので松葉杖で階段登れる様になりたいとも伝える。

伝え終わるとすかさず看護師さんが電子カルテ開き何時いつ松葉杖突いて歩いてた、使い方も綺麗である。と。

トイレも風呂も慣れたら大丈夫と言いだす。

そして主治医がこう切り出す。
 
「MRIにも異常は見られませんし、骨にも異常ないので退院です」。イキナリ過ぎる退院命令。

リハビリの先生ももう大丈夫と言うてるし問題ありませんね。と早々の退院を告げられる。

今帰ると家族に負担掛かるしもうしばらく居たいと伝える。しかしそんな事情は知った事では無い。

明日、明後日とは言いませんので今週か来週頭で考えてください」 と告げて2人は出てゆく。

不安しか感じなかったのを覚えています。すぐ嫁に電話しその旨伝え次の休みに退院する事を承諾させた。

8・ラスト1週間

 あまりにも急な退院命令に焦る。

結構真剣にリハビリしてきたつもりだったが、この1週間はその倍気合いが入る。

退院=完治と思って居たので尋常で無い焦り。早朝から病院外周歩行練習、パワーリストを借りて来てベットで筋トレ。

理学療法士は焦る気持ちは分かるが少しセーブしてくださいと言う。

確かにオーバーワーク気味だが性格上無様な姿は晒したくない一心で励んだが、急に良くなる訳も無くさほど変わる事も無く疲れだけ蓄

積する1週間が始まる。

 そんな時、斜め前のベットで入院してる同部屋の方に話掛けられる。

入院記録更新中の部屋の主的存在の方から。退院勧められた経緯など同じ部屋なので丸聞こえ。

こちらの話も、そちらの話も。

その方からご飯一緒に食堂で食べようと誘われた。そう言えばその方は食事時いつも居ない。

上に食堂有るのは聞いていたが面倒なので部屋での配善を希望していた。

その方は両足粉砕骨折で車椅子、足からワイヤー出ててかなりの重傷。

年は60歳は軽く超えてる様に見え、お孫さんも居る。

娘夫婦がたまに孫連れて来て、キャーキャー騒ぎながら病室を走る。

軽くだが話すると意外に面白い。顔はヤクザでも普通のおじさんでした。

その日の夕方から食堂へ行く事にし、看護師さんにその旨伝える。

50人は入れる食堂にたったの5人、わたくし入れて6人。真ん中のテーブルで集合し皆で食べてる。

整形の病棟ですれ違い挨拶する程度でしたが皆さん知った顔でした。

1人知らない方が居ましたが別のテーブルで1人で食べてます。誘ったがここで良いとの事でこの構図が出来たらしいです。

 軽く自己紹介と入院理由を言い皆さんの状態も聞く。

主的存在の会長の名前は巌さん、両腕骨折後骨が育たず再手術し未だ固定はずれずいつも前開きの浴衣着てるオバQさん、歩いてて車に

引かれ足首骨折し手術された晴美さん、建設作業中に落ちて膝砕いた藤枝さんは副会長。

もう1人はガンの治療で入院してはる方で名前は分からない。
 
 おもむろに会長から問われる。
 
「とうとう退院勧告でましたね」と。

9・情報交換


 会長・巌さん、この病院での最高入院日数更新中で院内の事情通。その方が話し出す。

ここの退院命令は病状関係無く単に回転させるための追い出しだと言う。

少し乱暴な話だが思い当たる節はある。

状態の安定した重傷患者で手術何回もする上客は何時までも残し、軽い患者は追い出し新たに患者迎える。

検査も手術もせずベット占領されてたら困るので早々にお帰り願っているのでは無いかと言う。

その為、同じ患者が同じ症状で入院を繰り返するらしい。

治りきる前に放り出し回復せず、悩んだ末戻る。戻らず転院すればその患者は元の病院を良く言う筈はない。

巌会長は事故で運ばれた時すでに心臓停止状態であったらしい。重症であったがなんとか蘇生し今に至る。

手術は成功であったが骨の砕け具合が凄過ぎて今の状態が精いっぱいだと言う。
 


 膝が砕けて入院中の副会長・藤枝さんが話し出す。

建設現場で作業中に膝から落ち大腿骨と膝関節を骨折。

緊急手術でつなぎ合わす手術を施される。その後順調とまでは行かないも早々とリハビリを開始される。

丁度今のわたし位の頃やったらしいです。リハビリの話出始めた頃膝の具合が悪すぎて起き上がるのも困難と訴えるも聞いて貰えない。

関節の中の感じが相当おかしいと再三訴えようやくレントゲンを撮る。

その結果、6本入れたボルトの一番太い要が中で折れているとの診断。

すぐに摘出手術が施されるも無理に打ち込んだ周囲の骨はズレ、歪みひどい事になっていたと言う。

1万分の1の確率でしかありえない事故らしく予期せぬハプニングとの説明。

その翌月違う患者が同じ様に中でボルトが折れると言う事故が起こるも系列の病院へ転院させられたと言う。

同じ事故が同じ病院で連続する、1万分に1の事例が連続でおきる。たまたまで済む問題では無いがありそうな話だと納得した。

 そんな話を聞かされ急に不安になる。果たしてこのまま退院して良いのであろうか?

わたしの状態は重傷では無いが決して軽くも無い、だがボルト入れてる訳でも手術もしてる訳でもない。

悩んだ結果、主治医ともっともっと話し合いをしようと。

今までも幾度となく話はしたが聞けて無い事もある。この足は元にもどるのか?である。

無理なくしゃがめて正座も出来る。走れて跳べて階段も段差も。この事故が起こる前の状態へちゃんと戻るか。それが聞きたい。
 
   それが聞きたい。

10・画像が証明


 翌朝、看護師さんがいつもの様に訪れる。退院の事で話があると伝える。事務的な返事を貰い自主連を始める。

朝食が終わりリハビリへ。そこでも問う。この足は元に戻るか?と。

「僕もMRI画像見ましたが骨にも周辺組織も異常ありませんでしたし」と、この若い新人理学療法士は言う。

先生も大丈夫との見立てなので新米のわたしが口を挟む事も無いとも付け加えられた。

一通り訓練が終わり病室へ戻ると外来終わりで主治医の先生が来ますのでお待ちください。と伝えられる。

どういう感じで聞くか模索する。今まで幾度も無く聞いた結果その主治医は必ず明言を避ける。

これからの経過次第だとか何が起こるか分からないからとか。そんな言葉は望んでない事。

医師として病院の人間として確実で無い事は言えないのは分かる。その発言が元で訴訟とかになりかねないからだろうと推測もされる。

そんな事は今はどうでもよい。

 真実が聞きたい。

 夕食が終わりベットで待機、就寝前に先生が訪れた。

今まで考えた事を話す。この足は今後どうなるか、気持ち的に不安だ、正直に話して欲しいと。

 少し考えこう答える。「それはわかりません」いつもと同じだが電子カルテを見せてくれた。

そこで今までより細かい説明をされた。

血腫の袋だらけで肥大した部分を指し示しこう言う。

画像と症状照らし合わせても曲がらなくなる理由が無い、なぜなら靱帯・半月板も痛んでる様には見えないから。

なので腫れが引いたら元に戻るでしょう、大丈夫ですよ。と。

確実に治るとは言い切れません。結構な事故やったみたいですし。

時間の経過でなんとか成る範囲だと思うので後は筋力戻して行けば治ります。

いつもとやはりあまり変わらない答え。少し近付きもう1度聞く。

大丈夫と言い、その後治るとは言い切れないと言う。

凄んだ覚えは無いがそう聞くと少し間を開けこう言う。

「画像には異常ありません、元に戻ります」と。

   少し言わせた感はありましたが気持ちが楽になりました。

 その後、退院希望日を伝え書類をいただいた。

退院まではアッと言う間に経ちその日を迎えた。

11・我が家


 最後の朝食を済ませ仲良くしてもらった方々に挨拶をする。

思い起こせばこの1ヵ月ちょいの入院生活色々あった。病院の違う一面も垣間見た。

色々な人とも接した。面白い話もたくさん聞いた。

何が本当で何が違うのかは分からなかったがもう少し早く皆と仲良くなっていたらどうだったのだろうか?
 
違う結果になっていたかも知れない。

それはもう分からない。


 丁度、主治医が詰め所に居たので挨拶しいよいよ退院である。

手続きを終え昼前に出る。入院は終わったが治療はまだある。リハビリももう暫く継続と事で安心出来た。

帰りの車で色々話した。今の状態、これからの事。久しぶりに周りを気にせずタバコも吸えた。

そして今一番気になっている事は仕事の事でも治療の事でもなくましてや風呂でもトイレでも無い。

それは小さな怪獣である。

 わたしたち夫婦には子がおらず、そして動物が好きと言う事で猫が居る。

先代猫さんが亡くなり悲しくて仕方ない時に彼を見つけた。

小さな彼は雨の中震えて鳴いてた。

周りに母猫もおらずどうしようか悩むもこのままでは命の危険ありと思い連れて帰る。

綺麗に洗ってあげるも嫌がる、怖がる、噛む、引っ掻くと散々でした。

血まみれになりながらご飯をあげるが食べない。

その日は牛乳を水で薄めてスポイトで無理やり喉に流し込む。そうしなければ死んでしまいそうでしたから。

数日そんな感じが続きました。

そんな時、自分から膝に乗ってきてわたしを見上げる。手を舐めてくれる。お腹を触ると逃走するがすぐ戻ってきて膝に乗る。

私達は家族になり名前が「ちくわさん」と決まりました。


  事故後全く会えず、体験退院の時は実家へ預けられてたので久々の再会です。

 やっと自宅へ着く。荷物は嫁に任せ松葉杖で部屋へ。階段がしんどい、遠い。

前程では無いがかなりキツイ。エレベーターが欲しい。

 やっとの思いでたどり着いた時には荷物は全て運ばれ洗濯が始まっていた。

玄関に松葉杖を立てかけ部屋に上がる。家のちくわさんは犬みたいでお迎えをしてくれる。いつもの感じで名前を呼ぶ。こちらを見てる。もう1度呼ぶ。まだ見てる。

      

         遠くから。


 仕事から帰ってきたら必ずお出迎え、頭スリスリしてくる。その頭をなでるとよじ登ってくる。

喉鳴らしてまとわりついてくる。そんなちくわさんが遠くから見てる。

 明らかに警戒してる。入院中にフスマに開けた穴に逃げ込みその中から見てる。

しばらくすると寄ってくるがまだ距離があり警戒してる。

忘れてしまった訳では無いと思う、ただ自分の臭いが全くしないので警戒しているのだと思い慣れるまで我慢する事に決めた。

少し悲しい再会でした。
 
 猫ってこんな感じなんですかね。それから3日程は警戒されまくりでしたがその後は又ベッタリに戻りました。

やっと気が付いたのかそれとも様子の違う私に慣れただけなのかはわかりませんが、なんとなく元の生活がはじまりました。

12・ホンマでっか

 退院し、帰ってくるも不便なのはどうしようも無い。

仕方ないので自分も周りも少し我慢してもらう。

心機一転、退院し週2回のリハビリが始まりました。

リハビリは相変わらず軽いものでほぼ自主連、筋トレして鏡の前で平均台を支えに歩行練習。

最後に担当の理学療法士さんが角度測りにに来て終了。ほとんど放置。

入院中で終了と言われたのをムリくり入れて貰った制裁か?と、思う様なそんなかんじのリハビリでした。

そんな感じでしたがもう少しレベルあげましょうとの提案。そりゃ願ったり叶ったり。杖無し歩行練習開始です。

杖無しで歩ける距離はまだしれている。ちょっとそこまで行く程度。なぜなら右足を付くと関節が痛むから。

頭まで抜けそうな激痛である。我慢して歩くも足を上げる時に股関節から上げようとしてしまう。ふとももが上がらない。

上げようとするとこれまた痛い。膝が抜ける感じでその旨伝える。

それは打撲がキツイからやと言われ渋々納得する。納得するしか無いからである。

そんなリハビリが続きました。未だ痺れや痛みは消えません。


 リハビリ後の診察で痺れと膝の痛みを相談する。

後、吐き気とめまい・立ちくらみも。薬が山ほど出るだけであまり気に止めてくれない感じ。退院後、良くある症状だそうだ。

待ち2時間、診察3分でした。次の診察でも同じでした。

退院2週間過ぎた時、経過見る為の神経伝達検査とMRI検査されその週のリハビリで理学療法士から終了が告げられました。

その理由がまた凄かった。




 退院後までは面倒見れませんね、そこまでしてたら時間ナンボあっても足りません。患者さんは貴方だけでは無いので。

午前中外来の重傷患者さんのリハビリ、午後から入院患者さんのリハビリともう一杯一杯なんです。

たぶんこのまま生活出来るレベルまでには回復しますよ。と。
 


 

生活出来るレベルとな?そんなもんでエエ訳ないやろ。

しゃがめない、正座出来ない、走れない、階段登れない、降りれないでどこが生活レベルやねん。

と、軽いタッチで言うも「主治医の先生に聞いてみてください」との答え。

聞いたろやないけー、と次回の診察で主治医に聞くも同じ答え。そこまでは・・・・・。

ホンマかいな・・・

 じゃーない、自力でなんとかしたろやないか。と、思った矢先に退院後に膝のMRI検査と神経伝達検査の結果が出た。

次の診察でその事実が告げられた。

 あーココみてください、そうソレソレ。

ココ、ココ。前十字靱帯と言う靱帯が痛んでますね、痛んで緩んでるんで階段上り下りすると膝抜けるんですよー。

それと膝の骨と骨の間にクッション的な役割してる半月板、真半分に割れてますね。と。

今、先生言うてた症状ずっと言うてましたよね?でも、どうもない言うてましたよね?

入院当初MRIの画像見たけどどうもない言うてはりましたよね?今更ですか?

靱帯どうもないしと言うてガンガン膝引っ張ってましたよね?

靱帯がアカン時は引っ張ったらだめですよと言うてはりましたよね?と、大人の落ち着きで問うと

「事故直後の画像は血腫に隠れて見えてませんね、来月手術しましょーか」と。


 おいおい、ホンマかいな・・・

13・お前はウルトラマンか


 以外にアッサリ宣言されました。次回の診察で色々日取り決めましょうか?と。

手術?と思う間も無く診療終了。待ち時間2時間、診察3分の出来ごと。

診察室の前で待つと外来の看護師さんが書類持って来る。次回診察日に記入して持ってきてくれとの事。

簡単な手術までの流れ説明され、採決と心電図・レントゲン撮影と済ませ帰る。

 速攻帰りネットで検索。靱帯?人工靱帯に付け替え??

半月板?状態悪ければ人工関節?鼻血が出そうでした。

仕事から帰って来た嫁に報告。キレたおばはん速攻病院へ電話し次回診察日変更。

あんたは何も聞いてへんし、聞いても覚えてへんしあたしが聞く。と、恐ろしい剣幕でまくしたてられました。

 翌々日、嫁に先導され病院へ。その日は土曜日だったので外来は無い日。誰も居ない待合室へ通される。

わざわざ時間取ったらしくすぐ呼ばれた。

画像並べて見せて貰うと事故直後の画像にも同じ様に写ってるソレを発見したが取り合えず話を聞く。

嫁も発見したらしく、ココとココは違うんですか?と問う。

しかし先生は腫れてて良く分からんかったと主張。

分からんなら分かるまで何で調べんかった?と聞くと入院中は時間無かったとか言うて来る。

そんな言い争いしに来た訳では無いので嫁を黙らせる。

 「画像に写ったものが全てでは無いので開けてみてからどうするか考えます」

と言われ手術のリスク、用意する物、術日をサラリと決められ終了。

納得は行かないが受け入れるしか無い。そう思う事にした。

前、会長に聞いた話を思い出す。2週間後の手術に対する恐怖を少し感じた。


 嫁には反対された。そもそも嫁はこの病院を以前から良く思って無かったからである。

それは事故前からである。わたしは最近の病院はどこでも同じであろうと思っていたのですが、そうでは無いと懇々と話された。

事故を聞いて現場に駆け付けた時に搬送される病院を聞いた嫁、そこだけは止めてくれと救急隊に言うたらしいです。

嫁の親戚の人は病院の医療事務をしてたらしくそこでもかなりの評判を聞いていたそうです。

まぁそんな事情はさておき、既に今更なんでと納得してもらいました。

手術終わったら湯治と称して温泉行こうと約束し納めていただきました。

14・再会


 手術前日に入院し翌日午後より手術、退院は開けてみて中の具合で変わるので空白。

まぁまぁアバウトな予定を貰い看護師さんへ挨拶してきた。同じ整形病棟でも今度は真反対。

すぐさま仲良かった看護師さんが部屋に来る。今までの経緯を話す。まぁそんなんなんで又お願いします。と笑顔で別れる。

暫くし明日の手術の説明が入る。

手術は一応お昼からですがその日は12人手術あり、わたしは7番目なので午後からとしか言えないとの事。

水分制限と食事制限、明日の手術担当者の事と次々聞かされた。点滴の針も刺され明日に備え安静にする。

いよいよ明日である。普通に成功を祈るのみである。

前回同室の巌会長と藤枝副会長にも挨拶してこれまでの経緯話してきました。あぁ~やっぱり、と言う感じでした。

 会長は入院1年、高速道路で便意を催し路肩に停車。

出た所持ってた箱ティッシュをコロコロっと道路へ落としてしまい転がったソレを拾いに行き車のドアを閉めようと戻る所で転倒。

そこを車に引かれたと言う笑える方。引かれた後、後続車にも同じ個所引かれ高速道路4時間完全封鎖させたと言うつわもの。

関節部分は奇跡的にまったく無傷、大腿骨は両足粉々でしたがなんとか5回の手術でプレートとボルトで固定出来たとの事。

入院3ヵ月目に退院勧告受ける。

片足に6個ずつ計12個輪っか付けそれを砕けた骨に固定させボルトでつないでる状態、しかも車椅子すら乗れん状態で退院できるかー。

と、おもっきりキレはったらしい。その後、4回手術し少しマシになったと言う。

確かに言う通り。中途半端にやめられた患者はらたまらない。

巌会長も来週最後の手術するそうです。これで駄目なら一生車椅子らしいです。

 副会長の藤枝さんも会長の翌日手術と聞きました。

副会長も手術後ボルト折れ再手術繰り返してる口です。

今回はなんでも折れたボルト抜いて新たに入れたボルトが緩んで出て来てるらしいです。しかも2本。

折れるわ出てくるわでホンマ訴えるぞーと怒ってはりました。



 手術前には聞きたくは無かったです。

 いよいよ当日の朝が来る。

6時から点滴が始まる。点滴に繋がれ身動きは辛い。ここで私服から術着へと着替える。

オバQさんが着ていたのと同じ浴衣っぽい前開きの服である。次々と術前のお知らせと見回りが来る。

朝食の時間だが術前なのでなにも出ない。水分もそろそろストップ。意外にどうと言う事は無い待ち時間。

お昼までこんな感じで時が進む。お昼に看護師さんがきてこう言う。

「緊急手術が入りましたので手術時間が遅れますので、1時まで水分取って貰っていいですよー」と。
 
緊張が若干緩む。ペットボトルのお茶を一口飲む。

手術前に嫁が来る予定だったのでその旨連絡するも、もう病院の駐車場まで来てるとの事。

程なく嫁が登場。手術中の待ち時間にご飯食べる予定やったらしくそれなら今から食べて来ると言う。

荷物置いて出てゆく。それから10分もしない内に別の看護師さんが来てそろそろ手術なんでと浣腸持って来た。

先ほど他の看護師さん来て遅れる言うてたのを伝えるとにわかに慌ただしくなる。

最初の変更後再び変更になった事を伝え忘れて居たとの説明あり。

急いで嫁に電話する。呆れた感じで今から帰ると言う。直前のドタバタである。急いで人生初浣腸に挑む。

浣腸は良く見るイチジク的なソレでは無く、ファンタのペットボトル的な感じである。

少し細くして長くした感じです。

これはホンマに気持ち悪かったです。もう2度としたくないと思いました。

トイレを出た頃、嫁が再登場。看護師さんに「水分取ってエエ言われたんでさっき飲みましたよ?」と、伝える。

「あー、大丈夫大丈夫」と、何事も無かった様に連れ出される。

いよいよその時がきた。

15・緊張の時


 看護師さん2人の先導で、手術室へ。

前回の入院中には行かなかった所にちょっと違う大きなエレベーターがあった。かなり大き目のエレベーターでした。

下りると何回も扉を開けて手術室入口へ。ココで嫁は待機するらしく脇の小さな部屋に促される。

あっさりと「ほな、待ってるわ」と言い残しその部屋に入ってゆく。

名前を確認され手術個所の確認もされる。看護師さんに車椅子から下りて手術台に上がる様に促される。

緊張のピークである。思ったより小さな手術台。肩幅より少しだけ大きいベットへ上がる

。寝がえりなど無理な幅である。すぐさま麻酔科の先生が背骨に注射する。

これが痛い。痛いがコレをしないと次の本番極太注射が出来ないと言われる。

すぐ次の極太注射が来る。何かが当たってる感覚はあるがそれだけである。

程なく腰を中心に感覚が鈍くなる。氷を当てられ感覚チェック。もう感覚が無いと告げると主治医が登場。

いつも通りサラっと説明されソレが終わると綿棒が見えマスクされその瞬間で記憶が途絶える。



 感覚的には寝てすぐ起こされた感じ。

かなり寝ぼけた状態でまた主治医が写真らしきモノを見せられながら説明するもほとんど覚えてない。

麻酔のおかげで頭がボヤけている。起こされた時には手術台から降ろされ既にベットでした。そのままベットごと手術室を出る。

ガラガラと言う音だけが聞こえる。事故で運ばれて来た時に似ている。また数人に囲まれている。

自分の病室へ到着するもまだ良く分かって無くボーっとしてる。看護師さんが嫁の居場所を聞いて来た。

嫁は待合室に居たと思うと告げると慌てて探しに行った様子。急に静かになる。

 しばらくすると看護師さんが嫁を連れて来る。手術室出る時に声掛けずに出て来たらしく嫁が少し不機嫌そうに見えた。

看護師さんが2人になんか説明してるが頭が冴えなく、良く分からないので聞いてるフリをしていた。

頭を下げ看護師が出てゆく。しばらく嫁と会話してるとなんとなくハッキリしてきた。

明日主治医が説明しに来るとの事。食事も水分も自分で取れるならとってくれて構わないとも。

それだけ言い残し嫁は帰って行きました。

そのうち段々麻酔の範囲が狭まり元に戻ってゆく。も腰から下はまだ感覚が無い。

下半身が突っ張る感じがあるが起き上がれないので気にしない事にした。

1時に出てゆき今が4時。予定が2時間半位と聞いていたのですんなり終わったんだと一安心出来ました。
 
 そのまま何もする事無く2時間置きの点滴交換。

寝たいが寝るに寝れない。看護師さんは寝て下さいと言うが2時間置きにガチャガチャされては寝れる訳も無い。

その内就寝時間が来、消灯となる。その頃段々と麻酔が切れてゆく。

それと同時に痛みが出てくる。鎮痛剤を貰い飲む。かなり痛い。

その痛みは治まる事無くまたもや一睡も出来ず朝を迎えた。

16・ニアピン賞

 
 徹夜明けの様な疲れ切った感じでぐったりしてると看護師が来る。

6時の抗生剤の点滴である。これは6時間置きに計6回と聞いていた。この点滴の合間に2時間に1度の点滴もある。

点滴だけで太りそうな程の量である。麻酔も完全に切れ下半身の違和感も何か分かった。それは尿道カテーテルでした。

動かない様にキツくテープで張り付けてある。それを今から抜くと言う。

 たぶん整形の病棟で1番綺麗だが愛想のない看護師にパンツ下ろされ一気に抜かれる。

これまた声が出る程痛い。と言うか気持ち悪い。お腹の奥から腸を引きだされる感じがした。

悶絶しているのを横目で見ながらこれまた愛想無い感じで「これ抜けたんで動いていいですよ」との事。

点滴の棒を車椅子に取り付け表に出てみた。爽やかな早朝に少し痛みが和らぐ感じがした。

そして半日振りのタバコに火を付けた。車椅子で敷地外へ出るのは禁止だが敷地内禁煙なので裏門の脇で吸う。

ココは患者も職員もあまり通らないので静かで良い場所である。

 ゆっくり2本吸い部屋に戻る。

もう皆起きてうろうろしだす時間なので部屋でおとなしくしてると朝食が配られた。

前日の昼から何も食べて居ないが食べる気になれず牛乳だけ飲む。勿体ないが仕方ない。

 その後また点滴交換され看護師さんから指示がある。主治医が来るのでココに居ててくれとの事。

私としてもどうなったか凄く気になっていたので今すぐにでも聞きたかった。

そう告げて看護師は出てゆく。さほど待たずにその時はすぐ来た。

 

「おはようございます」声と共に主治医が現れた。

昨日はお疲れ様でした、どうですか?体調は?との問いに「痛いです、何しはりました?」と聞きなおす。

他愛もない会話から本題へ。

前十字靱帯ですが痛んでましたので切れた繊維は綺麗にシェービングしときましたと、する前と後の写真を見せられる。

痛んでいたけどこの処置で自然治癒させましょう。と。次に半月板なんですが・・と言うと少し間を明け

 「なんとも無かったです」と。

へ?なんか真っ二つなってる言うてはりませんでしたか?と尋ねる。
 
 はい、そう言いましたが開けたら綺麗でした。と、またアッサリと。

しかし半月板はどうも無かったらしいのですが半月板の周りにある軟骨がべロンとハゲていたとの事。

剥がれた軟骨を切除し再生を促す為に関節内の大腿骨側に穴を数か所開けたとの事。

これでもう痛みも引くし普通に歩けますよと笑顔で出て行きました。

また詳しい事は退院前にきますので。と言い残し出てゆく。

それが本当なら我慢して通院してた甲斐があると少し希望が持てました。
 

17・至福の時


 手術は成功したとの一報を嫁に入れる。とりあえず安心した様子でそれなら退院まで行かないしと言い渡される。

明後日には退院なのでそれで良いと伝える。

痛みの原因が取り除かれ処置されたのでもうこれで回復まで一直線であろうとホッとした。

元気が出てくる。そのまま点滴の棒を支えにしながら車椅子無しでヨロヨロ部屋を出る。

ナースステーション前で主治医に見つかり車椅子に乗せられる。

傷が開くので明日まで止めてくれと怒られる。

さっきはドンドン歩いてくれと言うたのに・・・とブツブツ言いながらも気分は相当良い

。痛いがそんな事は我慢出来る。一刻も早く歩きたかっただけであった。


 そのまま巌会長の元へ。言うてた所とは違うが成功した旨伝える。

副会長も呼び談話室で車椅子3人で語らう。 間違って左足手術されんかと心配してたらしい。

モヤモヤは吹き飛び入院生活の中では1番元気な時でした。

そのままリハビリ室まで出向いてみた。元・担当理学療法士を見つける為に。

入口付近でウロウロしてるとオバQさんがリハビリに来てました。

再入院で手術したと言うと大笑いされたが悪い気はしなかった。

この時は笑い話で終わって居たからである。後で病室行くと言われたので一先ず退散。また昼から探そうと部屋に戻る。

 
 部屋に帰ると看護師さん達の引き続ぎ。夜勤と日勤が丁度交代する時間帯。

今日の担当は1番仲が良かった看護師さん。

最年少で元ヤンキー丸出しのその子は気を使わないですむ数少ない看護師さんである。

礼儀云々は全く出来ないが愛想が良い。それだけだが滅入った気持ちの患者にはそんな愛想がありがたい。

性格もよさそうで良く病室にサボりに来てました。

「なんでおるん?もう帰って来たらアカンでぇ~て言うたやん」と笑いながら言う。

又後で来るわ~と言い残し仕事に戻って行った。台風の様に訪れ去ってゆく。

 
 そうこうしてるとオバQさんが懐かしいメンツと病室に訪れる。

最初の入院してた時良く裏口で一緒にタバコ吸ってたおっちゃんである。

元「ヤ」の付く職業で親分してはった方でした。

もう70歳は超えている。いつも行けば居る。何回も入退院繰り返してる。

肝臓が悪いらしく良くなると勝手に退院し悪くなるとまた来ると言う。

それでまた数日前から入院してたと言う。困ったおっちゃんだが面白い。

昔は相当ヤンチャだったらしく話は相当面白い。ワイワイ話せないので又談話室へ。

ココでも今までの経緯を話す。大笑いされ再び解散。

そろそろ点滴交換と検温の時間だからである。また来ると言い残し帰っていきました。

帰ると案の定看護師さんが探してた。「何しとんねん、時間にはココおりや」と、怒られる。

検温され血圧測り点滴交換。一通り終わっても帰らず座り込んで又サボる。

なんやかんやと話だす。ストレス溜まってるんやなぁ~と。飴ちゃんを渡すと喜ぶ。

今日、日勤で夕方7時まで働き一回帰って0時から又夜勤で朝10時まで働きその日の0時からまた夜勤らしい。

我々の仕事も労働基準法無視だが看護師さんも大変やねぇ~と慰める。「ほな、頑張ってくるわぁ~」と又仕事へ戻る。

 


      元気を分けて貰えた気がした。

18・再び


 お昼御飯を食べる。少し時間帯が違うので1時半位に行こうと決め少しゆっくりくつろぐ。

目指すはリハビリ室。元・担当である。時間合わせて下りてうろうろする。

室中覗くも見えない。しゃーないので裏口へ。そこで偶然遭遇する。

向こうから「どうしたんですか?」と。再入院で手術したと伝える。驚いた感じでこう言い訳を始める。



   「ホンマですかぁ、そう言えば痛い言うてはりましたもんね。僕もずっと気になっててカルテ見てたんですよぉ~」と。


ウソコケ。そんな事微塵も思って無かったやろ。



 と、思うも我慢する。言うてもしゃーないからである。しかしながらそこまで言い訳せんでも・・・・。

やっぱり認めること無いんやなぁ~と思いその場を後にする。すこし気は晴れた。
  
 昨日から寝て無かったのでこの辺りから急に睡魔が襲う。

ひと眠りする事に決め部屋に戻りベットに横になる。すぐ寝てしまった様で次の点滴まで爆睡してました。

2時間置きの点滴が夕方で終わる。抗生剤は退院の朝まで続く。この管が意外に邪魔くさい。

車椅子で移動すると車輪に巻き込みそうで怖い。気にしながら進まなくてはならない。

それに後ろに立てる点滴の棒。これも付けたり外したりが邪魔くさい。常に点滴入れてるのでトイレへ頻繁に行く。

その度に乗せ換えるのが動かない足では面倒。

 そんな事を考えてるともう夕食である。その後いつもの検温され消灯。

その日は良く動き回ったせいで点滴の交換されても爆睡でした。

 翌朝6時に抗生剤の点滴が投与される。

またいつもの元気な看護師さんが処置してくれる。

面倒なので出来るだけ早めに入れて欲しいと言う。普通2時間かかる点滴を45分で入れてもらう。どうやら問題無いようだ。

元・ヤンだが看護師さんが言うので間違いないはず。その序に手術個所が圧迫されて痛いので包帯を緩めてもらう。

この時は足首から太ももまでグルグル巻きで固めに巻かれてる。

膝に穴3つ開けただけの内視鏡での手術なのでそんなに大した事ではない。

だが中で器具動かすので内側は結構ダメージあるらしい。


その後、点滴が6時間置きになると管が無くなる。針だけ刺されて短い管だけ残っている。

それを丸めてネットで腕に巻く。繋がれてたのが無くなり自由を得た。

19・少しだけ


 明日の朝には予定では退院。今日はもう検査も無く、これ以上の治療もない。点滴だけである。

要は術後何かあったらアカンので経過観察と安静目的だけだからである。術後の説明でそんな事言うてたのを思い出す。

会長からは脅され不安だらけの今回の手術、本当に無事終わってくれて良かったと改めて思う。


 ココの整形外科には3人の医師が居た。

部長と呼ばれるその現場では一番偉い人でめったに見ない方。

週1の総回診の時来るも会話などは全くない。次は私の担当で会長・副会長の手術も施した主治医。

そう、ボルトが折れたり抜けたりの失態はこの方である。3人目は前回の退院後辞めたらしい。

この医師は前の入院の時隣のベットに居た方の主治医である。

その方は足の骨の接合手術でプレート固定の際留める個所間違え立つと足先が「L」字形になると言う失態を演じ辞めたと言う。

今は2人で外来、病棟入院患者、手術をこなしていると言う。そりゃ事故も起こるであろうと少し同情も覚える。

「あってはならない事でこれは人災だ」と言う人が大半だろうと思う。

医療報酬多い手術ばかりさせて来た病院が悪いのか医師不足をどうにも出来ない政府がわるいのかそれは分からない。

あまり気にもしなかった事を考える様になる。
 


  今まではそんな暇も無かったのかも知れない。

 


 ここで少しだけわたしの話をします。昭和47年生まれでもっとも同年代が多い辺りに生まれる。

会社員のオトンと専業主婦のオカンの両親と兄がいる。普通に育つもサラリーマンには小さい頃から成りたくはなかった。

漠然とそう思っていた。勉強も入試に必要な5科目は嫌いであったが美術と技術は好きでした。

機械関係は昔から苦手で自然は好きでした。実家は海に近い事もあり毎週の様に釣りに出かけてました。

15歳で始めたバイトがたまたま料理屋の厨房でした。バイトしてた理由はバイクが欲しかったからである。

ほぼ毎日、丸3年そこでアルバイトしてたら料理がたまらなく好きになっていました。

卒業後他の店の料理も覚えたいと思いバイト先の親方に地元の日本料理店紹介されそで働く。

その店で大阪で修業した先輩に会う。先輩は3年程で帰ってきてたが他の先輩とは何か少し違った。

最初の親方に相談し大阪へ修業に出してもらう。そしてそこの親方に「お前は京都へいけ」と言われ京都へ預けられる。

そのまま京都で20年あまり仕事してる。老舗料亭、有名旅館で修業後27歳で親方として世に出して貰う。

寝る間も無く早朝から夜中まで仕事し休みもあまり無いが充実していた。その頃から将来は自分の店持ちたいと強く思う様になる。

景気が悪くなりバタバタと老舗料理屋が倒れてゆく。わたしの勤める店でも給料引き下げ交渉が始まる。

飲むか辞めるか。わたしの給料さがるのは仕方ないが若い衆の給料は下げないでくれと言うも受け入れられず結局店を辞める。

その後その店は消し飛んだ。

昔の京都は「修業させてやってるのに給料言うな」と言う経営者と「給料は口で取るな腕で取れ」と言う板前の精神でうまくいってた。

わたしも今まで給料幾らくれとは言った事が無い。

しかし最近は少し変わってきている。

若い子は休みと給料を求め怒られるとすぐ辞めてしまう。

どの職業でもそうであろうが職人の仕事にそれを求めてはいけないと今でも思う。

 


 その後、京都の避暑地的存在の場所で働くも通勤中事故に遭う。軽い手の指の骨折だったので入院も無く通院のみ。

骨折してても仕事は出来た。無理してでも出来た。左手だった事も幸いでした。

その後、街中の料理店の料理長で招かれ店をかわる。そこの料理屋は少し変わっていた。

経営者の愛人が女将をしていた。元々、女将が愛人と言う店では無く愛人を急遽女将にした感じの店である。

完全に素人である。元は飲み屋の女の子で多少の接客はするも本質的な仕事がまるで出来ない。

割烹店なのにお客さんの横に着き料理をつまみお酒をいただく。泥酔しお客にカラム事もある。

無断で仕事に来ない事も多々あった。そんな店がたまらなく苦痛で1年キッカリで辞めた。そんな時今の店に勤める様になる。

 ココは普通の割烹店だが経営者が夫婦でしている小さな店である。

オープンしてまだ2年でわたしがこの店で働きだしたのが丁度オープン2周年の日でした。店の大将は45歳、女将は35歳。

女将はこの店が初めてで世間の大女将とは違い大柄な感じは無いが仕事は、まだまだ苦しい。

大将はあまり仕事出来るタイプではなくもっぱら口ばかり。厨房でお造り引く位で他はわたしがする。

まぁその方が仕事はやりやすかった。

そんな感じで事故で入院するまで8年あまりココで働く事になる。

 そこで働きだして3年目位から周りの古民家が次々売られ飲食店になってゆく。

わたしが来た頃はこの辺りに料理屋は2軒のみで毎日忙しかった。居酒屋さんとかも無かったが急に増えた。

立地は地下鉄がすぐで便利、周りは金融関係、着物関係とお金持ちの多いビジネス街。

街の中心地より少し離れた所だったが開発が進み中心地が少し西へ動いて来てた頃でした。

 またたく間に料理屋・居酒屋・洋食店と乱立が始まり大手チェーン店までも。独占してたのがそうでなくなる。

丁度その頃着物関係の業界で大きな問題が発生。それをきっかけに次々倒産してゆく。

発端は大阪の大手着物販売会社であったが周りに飛び火するスピードは尋常では無かった。

毎日来て大宴会していた彼等はその日を境にパタリと来なくなった。それが働き出して5年目位だったと思う。

その後は毎日ガランとした感じの日が続きたまに忙しい。

まぁ今までが良すぎたと言う事で諦めるしかなかったが大きな痛手であった事は言うまでもない。

店がある周辺の大手の着物関係の会社跡地にボンボンホテルが建つ。大きいのから小さいのまで。

観光客が利用する。自ずとお客さんも増えてくるも店の多さに分散されて期待していたよりも小さな変化であった。


 その後しばらくそんな状態が続き女将と大将が店で喧嘩をする様なる。

段々と店の雰囲気は悪くなる。店の御会計は女将がする。

伝票に出て無い飲み物が書かれてたり出してない料理が書かれてたりした事もあったがそれはわたしには関係ないと思い目を瞑る。
 
その後、産地偽装に始まり料理店の偽装も明るみにでる。

信用で商売してる所にとって小さな疑惑でも命取りである。

そうこうしてると金融業界もおかしくなり段々と回数が減り来なくなる。

天災も起きる、そんな状態では観光客も来なくなる。正に負のトライアングルに居る様な感じでした。


毎月、簡単ながら計算してみる。大体ではあるがココ数年毎月トントンである。

ひどい時は大幅赤字でした。


   そんな時の事故でした。

20・前夜祭


 2度目の退院前日の話に戻る。そこそこ元気なわたくしは車椅子を返し松葉杖で歩行練習に励む。

季節はもう夏真っ盛り。事故で入院した頃はまだまだ朝晩は寒く少し厚めの長袖でした。

今は外出るだけで日差しが痛い。早朝以外で外出るとトンデモナイ目に遭いそうなので部屋に帰る。

程なく昼ご飯が運ばれ食べた後お昼寝タイム。

 程なく夕食が運ばれるも全くお腹が空いてこない。今日は朝から食っちゃ寝くっちゃ寝の繰り返し。まだ寝れるがもう食べれない。

最後の夕食は味噌汁だけ頂いて終了。会長の所へ行くと副会長も居た。就寝まであーだこーだ話し最後の夜を迎える。

 
 部屋に戻りベットへ。その部屋の患者とは会話すらしてない。誰とも遭遇してないからである。

わざわざカーテン開けて行く事もなかったしどうせ手術で動けないのでそのままにして居た。

そんな最終日、夜中なのに向かいのベットで激しい金属音がする。すさまじい音に看護師さんが飛んでくる。

その方は首の骨が折れているらしく頭に鉄棒が刺さっていて肩で固定されている。

自分でトイレに行こうとし、ベットから落ちたらしい。看護師が怒る、ナースコール押せと。

翌朝聞いたがその方は何回言うても聞かないらしく強制退院される一歩手前の患者さんだったらしい。

 落ちた衝撃で失禁、出血で大騒ぎ。

こりゃ責任問題になるわぁ~と頭を抱える看護師。

こらー助けろと横柄な患者。あんたずっとそーしとき、私はもう知らんと怒りながら処理してる。

応援の看護師が来る。皆で抱えベットへ戻し救急のドクターを待つ。その間ずっと怒られてる。

患者も喚き散らす。もう寝てる場合では無い。

元気そうなので命に別条は無いようだ。良かったと思うが、それより面白すぎる。
 

怒られてる内容はこうだ。
 
 


 あんたなーこれで何回目やと思ってる?絶対安静や言うてるやろ?

前も落ちたやろ?なんで聞いてくれへんの?そのうちホンマ死ぬで。てか、その前に強制退院さすで?奥さんや家族困るで?

トイレ行かなくても尿器置いてるでしょ?


     そもそもあなたはオムツ履いてるでしょ。

 終始、わしゃ自分でトイレ位行けるんやーと騒いでたが段々宥められおとなしくなってゆく。
  
    


      笑った。

 そうこうしてるとドクターが来る。状態を確認しそのままベットごと運ばれてゆく。

そしてそのまま帰ってこなかった・・・・。
  
 大騒ぎで目が覚めてしまう。他の患者は慣れた感じで又寝てる様子。寝息が聞こえる。

完全にもう寝れない。仕方ないのでコーヒー飲みに下へおりるとうっすら外が明るくなってくる。もう朝がくる。

最終日にふさわしい感じでした。

21・お世話になりました


 外周を松葉杖で散歩し朝の爽やかな空気を吸う。気持ちがいい。そんな時間もそう長く無く日差しが暑くなる。

部屋に戻るとさっきまでの大騒ぎが何事も無かったかの様にいつもの光景が広がる。

 今日でこの病棟ともお別れです。毎日どこかの棟のどこかの部屋で何かが起こる。

傍から見れば楽しそうだが、働いている人は大変であろう。

担当・元ヤン看護師さんが来る。先ほどの愚痴を聞く。また笑えた。

日常生活ではまずあり得ない事を体験出来た。入院した副産物であった。

 最後の朝食が運ばれる、食べ終えて身の回りを片付ける。

最初の時の4分の1程度の荷物をまとめる。もういつでも帰れる状態だが退院証明書は10時過ぎないと発行されない。

部屋で待機してると主治医が来る。これからの治療計画書と説明を受ける。

膝意外の個所を聞くもほっとけば治る程度だと言うが痺れが全く引かないのが気になっているもソコは投薬で行きましょうと。

言う事だけ言うとサッサと他の患者さんの所へ。そんなこんなで退院の時が訪れました。

 ナースステーションに寄り挨拶する。元・ヤン看護師が「もう次来たらアカンでぇ~」と。

会長・副会長もお見送りしてくれ病院を後にした。 

 

 4日振りの我が家へ帰る。出て行く時より帰って来た時の方が痛い。

そりゃ穴開けていじくられてるのだから。

この痛みが消えれば序所に膝の具合も良くなるであろうと思い耐える事が出来た。


 愛猫ちくわさんの反応が気がかりだったが何て事もなくお出迎えされる。ホッとした。

しかし痛い足にじゃれて来る。そこは本気で怒る。いつもの様に登ろうとする。

ソファに座ってると膝に乗ろうとする。寝てる時に乗ってくる。兎に角、この甘えたな怪獣がかわいいが恐ろしい。
  
 家に帰ったら包帯外してくれて構わないと言われ術後初めて自分の右足を見る。

 
  

22・パッチン


 包帯外すとガーゼの山が現れる。クッション代わりなのかその量は、ちょっとしたバスタオル並みであった。

ごっそりのガーゼを剥がしてみると茶色い消毒液と血が滲んでる。皮膚がまた青紫へ。前みたソレより腫れている。仕方ない。

そんな状態の足を見てもコレが引けば元の足に戻るだろうと言う期待しか無かった。

ガーゼ剥がすと透明なフィルムが3枚張り付けてある。その下に穴があるはず。しかしそれを剥がす勇気はその時は無かった。

 退院から5日、術後最初の診察日が訪れる。

包帯は外してゆく。暑苦しいからである。状態を聞かれ、もう手術の痛みはほとんど無い事を伝える。

うなずきながらフィルムを剥がされる。少し痛みが走る。

「じゃ抜糸しましょう」と。

医療用ホッチキスで合計6針打ち込んである。初めてその部分を良く見る。

肉がもっこりしてる上部をパッチンされてる。

そのホッチキスの針の真ん中を器具でつまむと「スポッ」と抜ける。少しチクッとするだけである。

さほど痛みも無く消毒し傷痕にフィルム貼られ終了。少し傷口が開き出血するも、もう普通に曲げ伸ばししてくれと言われる。

言われても、そう簡単には曲がらない。では曲がる様にリハビリさせて欲しいと言うも断られる。

一杯一杯なのでうちでは出来ないのでリハビリだけどこかでして下さいとの事。

保険会社がオッケーすれば可能との事。宛名無しのリハビリの紹介状と電子カルテのコピーを頂く。

そんな事出来るなら先に教えて欲しかった。
 
 診察終わり、保険屋に電話し承諾を受ける。自宅へ帰り近所の整形外科を探す。

一杯あるので選ぶのが面倒。病院の説明読んでリハビリ施設が充実してそうな病院を選び電話してみる。

では、紹介状持って来てくれと言われ早速行ってみる。

事故のあらましを話しコピーされたカルテのCD‐ROMを渡す。

抜糸して来た所やと説明する。

そこは院長先生1人、看護師さん1人、理学療法士1人、受付2人、リハビリの助手2人と言う小さい規模。

カルテ見ながら触診される。

自分で膝を曲げてみてくれとの要求にココまでしか曲がらないと伝える。

一通り診察され先生に膝の状態を尋ねる。

 

「その病院の先生が仰ってる通り元に戻るでしょう、一緒に頑張りましょう」と。

 心強い言葉を頂いた。そう言う言葉が一番の特効薬である。

大きな病院で待たされる事を思えばココでのリハビリは天国だと思えた。

 頸椎捻挫は首の牽引・腰椎捻挫は腰の牽引。

膝は手術したばかりなのでとりあえず触らずと言う方針が決まり出来るだけ来てリハビリ受けに来てくださいと告げられる。

 翌日から通う。そんなに急には良くなる訳も無く辛いリハビリが開始された。

23 ・再開


 小さな整形外科で毎日のリハビリが始まる。

事故から3ヵ月、普通なら結構回復してても可笑しく無いがマダマダである。未だ松葉杖が外れない。

膝に付加が掛けれない。その為に筋トレが始まる。足首に重り付けて曲がる範囲で曲げ伸ばし。

とりあえず1キロから開始するも震えが止まらない。プルプルしながら運動開始する。兎に角疲労感が凄い。辛い。曲がらない。

それでも毎日してると慣れて来る。段々と筋力も回復してくるも未だ膝は腫れている。

主治医の病院で2週に1度関節内にヒアルロン酸の注射がある。それも血腫抜く時同様激痛である。 

入院してたメインの病院の治療とリハビリの病院と2つ態勢で治療される、部位別の治療である。面倒だが仕方ない。

それが1番良いと判断したからである。

 この頃、ひょっとしたら再手術あるのでは無いか?と、思って居たので主治医を替える事が出来なかった。

それに検査の器材も充実してたので変更はしなかった。

最初から症状診てもらってたので今更替えてまた次の病院で同じ説明するのが面倒やったのが1番の理由である。

 その頃、頻繁に自分の保険屋から電話がかかる。事故割合の事である。

未だ決まらないのでどうなってる?と聞くとどうやら相手がゴネて居る様子。

保険会社同士で話し合いするも全く進まない。向こうの提示は90対10である。

止まった状態で当てられているにも関わらずその割合が妥当だと言うて譲らないらしい。

こちらは大人的対応で5%までは認めると言うている。

わたし的には5%でも認めたくなかったがそこは妥協しないと話が進まないと思ったからの決断でした。

 

 怒りが抑えられず相手方保険屋に抗議する。一応聞くも譲らない。

そりゃ自分の顧客が1番大事だからである。それに大体、加害者から直接詫びが無いのが許せない。

事故後携帯に1度連絡があった。

その電話でも「詫び」が無かった。

わたしは「誠意をもって対応してくれれば文句はないし、警察にも正直に言うてくれ」と伝える。

そして「おかしな事さえしなければ穏便にすませましょう」とも付け加える。

わかりました、と答えるも入院中1度も来て居ない。そんな感じだったので気にはなって居たのだが任せたまま放置してた。

とりあえず治療に専念したかったからである。

24・交渉

 退院後なにも進まない事故割合にイライラしてた所、こちらの保険屋から電話がある。

一通りの挨拶が終わり本題へと話が移る。

どうやら加害者が最初計上した修理見積もりを2カ月以上経ってから追加してきたのだと言う。

追加した場所が事故と関係無いと判断され、こちらの保険屋に追加分を却下されたのだと言う。

その腹いせにゴネて居ると言う。

   「?・・??」


 おかしな話やと思い相手方の保険屋に聞いてみる。

今こちらの保険屋から聞きましたが事実ですか?もう1度聞いた話を聞きなおすも答えは同じ。

どうやら事実らしい。

相手方保険屋もそんな言い訳が通る事無いのを知っているが契約主がそう言うている以上そのまま伝えるしかなかったのだと言う。
 
相手方保険屋も困った様子でこう答えた。呆れてしまった私はとりあえず電話を切り自分の保険屋に連絡する。

おかしな事になってるみたいやけど引き続き交渉をお願いし、進展したら連絡くれと言い話を終える。

もやもやした気持ちが湧いてくる。

ちなみに交換個所はタイヤ4本だったと言う。



加害者の頭の具合いが少しわかってきました。



その後、全くの音信不通になったらしく相手&こちらの保険屋も困り果て最終的に当人同士で少し話してみてくれと言う事になる。

丸投げされた感じである。

加害者に連絡するも留守電で折り返しの電話も無い。八方ふさがりである。

面倒な奴に当たったと思うも選べないので仕方ない。

その頃、自分の保険屋から電話がある。

書面にて民事裁判起こすと言う書類作成し相手方に送ると言う方法である。

その前に相手方保険屋からその様な考えがあると言う意思表示すると効果倍増なんだそうである。

それで駄目な時は訴訟になるけどどうしますか?と。

面倒な事になるかもしれないリスクはあったがココで話が進まない状態打破出来ればええかな?と思いその作戦を実行した。


相手方保険屋に言う。これ以上無駄に時間かけるなら今回の事故加害者を相手に訴訟を起こすと。

その旨、書面にて送る。と。なので加害者の住所教えてくれとお願いする。

慌てた相手保険屋が少し時間欲しいと言う。

2週間欲しいと言われたのでそこまで待って無理なら訴訟に成る事良く言い聞かせてくれと伝え電話を切った。

翌々日、こちらの保険屋から95対5で話が付いたとの連絡ありこの騒動は一応納まった。

当然な結果であるがホトホト疲れる交渉でした。

25・難問


そんなこんなで物損だけだが解決。次は職場である。

事故発生翌朝連絡し、とりあえず動けない状況伝える。

体が大事やから休んでくれと言うて貰う。その日、入院が決まったのでその旨夕方連絡し退院はまだ未定と伝える。

状況は出来る限り連絡するのでよろしくお願いします、と伝えておいた。女将に週1位で連絡するもなんか様子がおかしい。

何が言いたいのか分からないが態度が常に偉そうに聞こえる。

「何が言いたいんですか?」と問う。

事故したくて事故した訳では無いのに「体が大事やから休んどき」と、言いながら休んでる事が気に入らないと言う。

それは仕方ないでしょ?と言うも聞く耳もたずといった感じである。

店の状況はバイトの子から聞いていた。相変わらず閑古鳥が鳴いていると。

どうも常連客がわたしが居ないので料理が遅い・盛り付けが雑とか文句言うてるらしい。

でもどうしようもない。料理は大将に頑張ってもらうしか無いからである。しかし大将は呑気にしてて一向に間に合わないのだと言う。

ココでも夫婦で揉めているらしい。

間に合わないなら板前の助っ人言うたらどう?と言う。暇なんでそこまでする必要も無いとの答え。

では、わたしにどうしろと?退院して仕事こいとでも?

と、こんな話が電話でやり取りされてました。

退院の日が決まりその報告を店にする。退院当日店に顔出すと言うと女将がこう切り返す。

これだけ店に迷惑かけといて急に顔出す言われても・・・と。

だそうである。

休業補償とかもあったので行かねばならない事を伝え電話をきる。

気分の悪さMaxであった。

26・思惑


 可笑しな展開に動揺するも、悪いのは自分だからと思い手土産を買い店へ。

ランチが終わって誰も居ない店に大将と女将だけ居た。今回の事故で休んだ事を詫びる。

今後どうするか話をしなければ成らない。休業の補償問題も絡んでくるからである。

長い事休んですいませんでしたと、言うもその姿を見てこう言う。


「それでは仕事できませんね」と。



当然松葉杖では無理である。その旨伝えてたはずなのにそう言われた。

辞めて欲しいならそう言うてくれたらええと言うもそうでは無いと言い張る。

店は暇なんで治るまで休んでくれと言われる。休むのが気に入らない言うたんでは?

と思うも今、この場で言うのが面倒だった。

そんな感じでしたので判子だけ貰い、店にある自分の荷物まとめ車に積み込んで貰う。



経営者夫婦の腹は読めた。



一応休業と言う事でいいですね?と念を押しす。仕事出来る状態では無いのでソコは承諾する。

では、治った頃に連絡するし判断してくれ。と言い残し店をでる。

足掛け10年居た店にお払い箱にされた気分でした。

27・経営者


ココ数年、利益が上がらず苦労してたのは分かる。

しかし、わたしが抜けると仕事が回らないので困ると言う板挟み状態だった。



前、常連のお客さんとの会話でこんな話が出た。

そろそろ自分で店したらどうなん?独立したら毎日行くで。と。

酔っぱらってるお客が言うてる事だがそんな会話が気に入らんかったらしく翌日女将にこう言われた。

そろそろ独立しはったらエエのに、と。

お金さえあれば直ぐにでも独立したいですわ、と言う。

暇な時、店の奥で頻繁にそんな会話が浮上しだす。

その頃の経営者夫婦は当たる所無く爆発寸前だったのであろう。

そんな時の事故。

最初、経営者はどうしよう?と思って居たが私が居なくとも何とか成るかも?と思いだしたのだろう。

仕事は難しいのは止めてすぐ出来るモノに変更されてた。

私が居ないので手が回らないと言い訳もしてたらしい。

店も閑古鳥鳴きまくりでしたから。

毎月わたしの給料分浮く。その分店は楽になる。


辞めてもらおう。と。



それならそうとハッキリ言えばエエ。

しかし、遠まわしに言うてくる。そんな店に嫌気がした。嫌悪感が湧いてくる。

前、こんな事を女将が言うてたのを思い出す。

こちらから辞めてくれと言うと後々面倒な話になったらアカンし絶対言わない。

実際、クビにしたパートさんに訴えられた事があるとかでそこは慎重にせなアカンとか言うてた。

あなたも店するならソコ良く考えてしなさい、と。

正に今の状態がそうであった。

なので、私は何も言わずココは手を引いた。

28・更なる難関


 店の方は実質クビ状態ではあるが一応保留と言う事で話は終わった。

次は身体の方である。入院中1度来た相手方担当が家へ来る。休業補償である。

一応書いて貰った書類を渡すもこれではアカンと言う。店の台帳が要ると言う。

店に確認の電話を入れるも忙しいので今は無理と言うわれる。忙しい時間帯では無かったが明日もう1度連絡すると言い電話を切る。

翌朝もう1度連絡し書類貰える事になった。なぜ、そこまで嫌がって居たかは、後々分かるがココでは辞めておこう。


とりあえず提出書類が出来、保険会社へ送る。数日経つも担当から連絡も入金もないので電話してみる。

あいにく担当は風邪で1週間程休んでいるらしい。それならそうと連絡欲しかったがそこまではしないだろうと諦める。

代理の方に要件を伝える。明日には入金しますのでお待ちくださいとの返事にホッとする。

翌日、休業補償の入金確認出来るも交通費が入金されておらず問い合わせてみる。

ソコは担当しか触れないとの返答。

それならそう昨日言えばエエのにと思う。

代理の代理に言うてもしゃーないと思いとりあえず担当が出てきたら連絡くれと伝言し電話を切る。

お粗末な対応にイライラしていました。

一応、そんな感じで退院後の処理が進んでいきました。

小さな整形外科でのリハビリ治療が進む。

時間の経過と共に痛みも幾分和らぐも未だ患部は腫れている。松葉杖も外して歩行出来るまで回復するも、マダマダである。

しかし明かなる進歩である。首と腰の状態も安定してくるもシビレが強い。その部分は主治医の病院でしている。

していると言うても投薬のみの治療である。この手の治療は根気が要る。飲んだからすぐに楽になると言う事もない。

取り合えず投薬されながら物理的なリハビリと併用して治療にあたっていました。

リハビリの効果か時間経過なのかは分からないが退院当時よりはマシになってきた。

喜ばしい事である。

順調だったのでレベルアップを申し出る。パワーリストが1キロから1・5キロへ。膝へ理学療法士の手技治療が始まる。

いよいよ本格的な治療が始まった。

事故から5カ月目の事である。

29・食い違う意見


 その頃主治医とリハビリ担当の院長との治療方針が食い違ってくる。

主治医は相変わらず投薬のみであまり変化無い状態でした。どんな状態なのか聞いてもハッキリ答えない。

手術が成功したので膝に関しては問題無いと言うだけ。時期痛みは消えて曲がるであろう、と。

問題はそのシビレである。膝よりシビレ取る治療優先しますとの事。

しかしリハビリの先生はこう言う。シビレはその内消えてゆくであろう、と。

膝が曲がる様に正座出来る様にしましょうと。

お互い正反対な事を言う。まぁ膝が曲がり正座出来る様になりシビレがなくなるのが1番ではあった。

それに各々が各々の分野で治してもらえれば良かったので問題ない感じでした。

その内、状況を聞かれる様になる。リハビリどうですか?とか、主治医はなんて言うてますか?とお互い気になるらしい。

それぞれに、その答えを言うと否定される様になる。わたしならそうせずこうする・・とか。

なんか面倒臭くなりつつも聞いていく。

小さな病院の方はわたくしを抱え込みたいのがモロにわかる。薬バンバン出せればもっと利益があるからに違いない。

そんな時に薬変えてみたらどう?とリハビリの病院から言われる。

その旨主治医に聞くも今の治療にその薬が必要なんで無理と言われる。確かに、勝手に変えられたら主治医のメンツ丸つぶれである。

そこはキッパリ小さな病院に告げる。そこは引いてくれたので助かりました。

でも、ちょろちょろ今でも聞いてきます。薬変えてみたらどうかな?と。

すいませんとしか答えられない。


そんなこんなで今は仲良く半々でしています。

30・更なる敵


 それから日増しに調子は上がってゆく。たまに腰が立たなくなったりはするが全体的には回復傾向で、ありがたい。

あれだけ暑かったのに、今ではかなり過ごしやすく成って来た。もう11月である。短い秋が来た。

いつまでも短パンでは寒いし格好が悪い。

事故以来長ズボンを履いていない。衝撃を受けた部分が敏感に成って居たので履けなかったのがその理由である。

サポーター巻くと少しマシだが少しでもズレると痛い。擦れる感じが気持ち悪い。そんな状態だと主治医に告げる。

入院中にもしばしばその話はしてた。そこで主治医からこう聞かれる。なんか変わった事ありませんか?と。

漠然と聞かれたので答えに困る。

いつもタオル持ってはりますよね?暑いですか?と聞かれる。

暑い事もないけどイキナリ汗が噴き出る事があるので常に持ってると伝える。それは事故後そうなったとも付け加えた。

少し考えてこう先生が告げる。

ひょっとすると「CRPS」かも知れません。と。また変なの出て来たわーと思い聞いてみる。

交感神経が事故の衝撃でバカになっているのかも知れないと。



  ピンと来ない。



それと膝表面の痛さとソレが合致しなかったからである。その時は経過を見ると言う事で薬が変わりました。

いや、増えただけでした。この時食後の薬が7錠になりました。

次の日、リハビリに行き、そう告げられたと言うもそんな大げさな事は無いので安心して下さいとの答え。

一安心し通常のリハビリをこなす。

そのリハビリ中に膝に激痛が走る。みるみる間に腫れる。

その場でリハビリ中止し帰るも翌日、翌々日になっても腫れはおさまらず1週間リハビリに行けない日が続いた。

久しぶりにリハビリ行くと、心配そうに理学療法士がこう言う「少し付加かけすぎました、すいません」と。

強めにお願いしたのはコチラなので気にせんとガンガンお願いしますと伝えリハビリが再開された。

その後痛みが増す事も無く130度まで曲がり、曲げた時お尻まで13センチと言う所まで回復しました。

後、少しである。この少しが大変なのは百も承知ではあるが喜ばしい事であった。

31・年末行事


 あっと言う間に秋が終わりもう寒い。その内、春と秋が消滅するのでは無いかと思える近年。

この年も秋を感じる間も無く冬が来る。いきなり寒くなり痛めた個所の具合が悪い。

具体的に言うといつまでたっても膝が抜ける事。筋トレはリハビリ外でもしている。

歩くとスコンと膝が抜け着地すると周りの組織を挟む。

これは痛いがもっと痛いのは関節が納まるべき所に納まらない事である。

骨同士がぶつかり合うのである。それは靱帯が伸びているからとその周りの筋肉がまだ足りないからだと推測される。

通常歩行でも多々あるが階段が辛い。特に下りるときがだ。

その旨主治医に話すと「装具つくりましょうか?」と。

二つ返事し丁度装具屋さんが居たので採寸してもらう。次回診察日には出来てるので取りに来て下さいとの事。

これで少しは楽になるかも?と、安心しました。そうこうしてるともう年末。

私達の職業は年末年始、正月も仕事である。しかし今年は時間に追われる事は無い。

嬉しい様なさびしい様な複雑な心境でした。

そんな年末に忘年会が催される。今まで足の不具合もあり断り続けていたがコレだけは外せない。

板場の親方からの集合命令である。我々の職業は完全なる縦割り世界。上が黒と言えば白いモノでも黒になる世界である。

「ヤ」の付く職業と大差ない。

そこに招かれたわけである。もうかなり先輩のわたしは親方の真横に座る。

畳貼りで座布団だけだったのでかなりしんどかった。正座は出来ないのでその旨伝える。そんなんかまへんとの返答。

一通りの挨拶が終わり宴が始まる。段々腰から足先に掛けてシビレが広がる。開始10分で下半身の感覚が無くなる。

料理に手を付ける事すら出来ず席を立つ。立つと楽になる。きついシビレはウソの様に消えて元の緩いシビレへと変わる。



 ソレを数回繰り返す内に腰が限界に達する。

1人で立てなくなる。親方へのの旨伝え一足先にお暇させて頂く。

通常なら朝までコースであったが夜が明ける前の帰宅はさびしいかぎりである。

数人の若い衆に抱えられタクシーへ。

今日の支払いの足しにしろと3万渡し家路へ。

薬のせいでアルコールの摂取制限掛かっていた為酔っては居ない。

普通の生活が出来ない自分が情けなく思えた瞬間でした。

32・終われば始まる


 年末の出来ごと以来、腰が立たない。長時間堅い床に座って居た代償であろう。

兎に角痛い。動くと電流を流された感じで苦しい。横になった態勢しかできない。

腰が張り鈍痛が走る。

その為、年始の挨拶回りが出来ないのは都合悪い。この世界は礼儀には特に厳しい。

毎年の定例行事だからである。

だが、この状態では無理と判断し年賀状にその旨付けくわえる。



 今の店はお正月は休みであった。店と同じ年の息子が居るので日曜・祝日・お盆・正月は休みであった。

予約があれば店を開ける。ココ最近は祝日と大型連休は無条件で開けて居た。

休んでいる場合では無かったからだろう。

なので、その店に行き出してからは毎年年末は自宅で親戚分のお節を作っていた。

本格的なのは出来ないので簡単に出来る範囲でしてる。

20人分位である。

黒豆・田作り・数の子・野菜の煮物・酢の物・鰤の西京漬け・鯛の柚庵焼きとその程度だがなかなか大変です。

小さな家庭用ガスコンロでは店みたいな事は出来ない。口も2つしか無い。

ちなみに黒豆は、新モノが12月頭に出る。出たら即買わなければ間に合わない。

米のとぎ汁で戻し選別。割れて無いモノだけ湯掻く。年末ぎりぎりまで毎日湯掻く。

皮まで軟らかくしなければならないからだ。

この作業は温度管理が難しく常に気にしてないとならない。極限まで膨らませ柔らかくなってから少しずつ砂糖を入れてゆく。

調味料を入れると素材が堅くなるので十分柔らかくしなければならない。

黒豆だけでなく煮物全般そうである。

そんな中、チマチマと仕込みながら通常のご飯も作る。


 我が家では日々の食事の支度はわたしの仕事である。どんなに仕事が忙しくてもそうしていた。

その為、嫁が作ったのは生涯で2品のみだった。鍋一杯の豚汁と袋開けてゆがいた冷やし中華だけである。それでも苦痛ではなかった。

自分で作った方が早いし旨いから。

その代わり洗濯・掃除は嫁の仕事。キッカリ分けていたので問題なかった。


 付き合いだした当初に2品作る。生涯作った2品がこれである。

別に不味いとかではないが作りたがらない。それならそうで別に構わない。

しかし今年はお節の依頼が来ない。多分、足の具合を心配しての事だろう。

そんなんは問題無いので言うてくれても良かったのだが、聞いても今年は大丈夫との答え。

久々にゆっくり出来た年末年始でありました。

33・賀正


 あっと言う間にお正月。体調が悪いので初詣にも行けない。

我が家と言うか嫁の実家ではお正月、毎年の恒例行事があった。

親戚・嫁の家族との旅行である。

毎年総勢20人程で行く。わたしは誘われるも毎年行かない。正月位ゆっくりしたいからである。

昔は盆も正月も無く働いていたので正月仕事が無い今の店に行き出してからはゆっくり出来る状況で出かける気になれなかったからである。

わざわざ人が多い所に疲れに行く必要もない。

義理の両親との間にはコレといったわだかまりがあった訳では無いがそうしていた。

そんな訳でいつもお留守番。

元下団体行動は嫌いだったのでちくわさんとのお留守番に満足していました。

嫁の実家にも猫と犬が居る。前は全部預かって居たのだが今はペットホテルに泊まっている。

何故かと言うと、ちくわさんと実家の猫が仲が悪いからである。

前回、預かった時ひどい事になったので預かるのを辞めた。

そんなこんなで嫁だけ行かせてる。

年末から少し風邪気味だったのが新年と同時に爆発する。熱出て咳が止まらない。結局ずっと寝ていた正月でした。正に寝正月。

3泊の旅行から帰って来た嫁に看病されるも、ピークは過ぎていて症状も安定していた。

ほっとけば治る感じだった。しかし咳のしすぎで痛めていた個所がうずく。

全て、最後は痛めた個所にたどり着く。

難儀だが仕方ないので諦め、少し窓を開け空気を入れ替える。

外は雪が降っていた。

もう完全に冬であった。

34・変化


 新年2週目まではこんな感じで寝込んでました。

その後、腰の痛みが和らいできたのでリハビリ再開。

新年1発目で角度計るも年末よりやや劣る数値。

腰のダメージのお陰で自主トレ出来ずに居たからであろう。

日々コツコツしてきた事が、こうも簡単に打ち砕かれる。

完治までマダマダ掛かりそうである。



 この頃、少し気になる事が起きる。自分では自覚がなかったのだが嫁からこう言われる。


「あんた最近少しおかしいで」と。


 良く聞くと、いつも上の空で人が話しかけても返事すら無いらしい。

わたしはそんな風になっている事など分からず、嫁の言葉で気が付く。

そう言えばテレビ見てるが、見てる内容が頭に入ってこない。

事故後の回復が思わしく無いのがとても不安。

仕事の事も。

今後の生活。

その他、事故をきっかけに失ったモノの多さ。



 知らず知らずに塞ぎ込んでいたみたいである。


常に眠たいが夜中フッと目が覚め寝れない。昼間いきなり寝てしまう。

食欲がない。孤独感と孤立感。

1番最初に思いつく言葉は「鬱」である。

ネットで調べる。鬱チェックをしてみる。

あてはまる項目が多いも、わたしの知っている鬱とは若干違う。

昔、先輩に鬱の人が居た。仕事のプレッシャーに耐えきれず崩壊してはりました。

治療の末その方は回復していったが最後まで目つきはそのままでした。

鬱特有の飛んだ目である。

わたしはそこまででは無いも、どうやら入口辺りに居るらしい。

行くも戻るも自分次第、引き返せるものならすぐにでも戻りたい。

人生の最深部辺りに居る様だが希望を持って生きていかねばならないとココでは思っていた

35・気の持ちよう


 沈んだ気持ちに気付く。

それではイケないと思い規則正しい生活を心がける。

それが脱出に近道だと思えたからである。

毎朝、6時に起き風呂に入る。浴槽に浸かりながら膝のマッサージ&曲げ伸ばし。

軽く自宅周辺を散歩する。部屋に帰り病院にリハビリへ行く。

帰ってきてちくわさんのご飯&トイレ掃除。

昼ご飯の支度をする。

その頃、嫁が帰ってくる。嫁は夜勤専門の介護師である。

ご飯を一緒に食べて録画されたテレビを見る。嫁はその後寝る。

私は嫁の弁当と夕飯を作り時間になれば嫁を起こし夕ご飯を食べさせる。

その繰り返し。

そんな時、嫁の友達が家に来る。

何気ない会話に気になる言葉が出てきた。

    
     「この家の大黒柱は私やしなぁ」「誰のお陰でご飯食べれてんねん」


冗談だと分かってても気分悪い。

急に表情の曇った私に気付いた嫁は冗談やと言うも、時既に遅し。

怒りが爆発してしまうも、友達が居る手前席を外すだけに留める。

その友達が帰った後、嫁に問う。

休業補償も出てるし、家の事もしてる。なんの文句あんねん?と、少し巻き舌でまくしたてる。

そんな事言うてないと言い訳を始める。その言い訳が許せない。

許せない気持ちが心の奥くで増幅してくるのが分かる。

その日は最悪の気分で寝る事となった。



相変わらずソファで寝るも寝れない。

ちょっとした言葉に過剰に反応してしまった自分に気が付く。

明日、嫁が仕事から帰ってきたら普通に接するよう心がけようと思った。

36・序章


 翌日、仕事から嫁が帰って来てこう言う。

「昨日はごめん」と。

こちらも言いすぎた事を詫びる。

そして、普通の日常が戻る。

事故で通院しているので普通では無いのだが一応普通としておく。

リハビリは相変わらずで、状態もソコソコ安定していた。

良くなったり悪くなったりの幅が狭まった感じがする。

このまま良くなってくれれば本当の普通の生活に戻れる気がしていた。


 年明け初めての主治医の診察の日がくる。

相変わらず満員御礼な病院である。

その日は待ち時間2時間超えても呼ばれない。

イライラしながら待っていると要約順番が来る。

新年のあいさつ後、今の状態を聞かれる。

薬のおかげか時間的な経過かは分からないが膝表面の痛みの範囲が狭まったと言う。

その代わり今まで痛かった範囲の感覚が恐ろしく鈍いとも言う。

触られているのは分かるが何十にも巻かれた包帯の上から触られている感じ。

先生がこう言う。


   やはり「CRPS」ですね。

新しい薬が認可されましたのでこのまま投薬治療しましょう、と。

またもや出てくる謎だらけの病名。

いつ終わるとも知れないその症状に不安が募る。

先生にいつまでこんな状態なんだと聞くも、お決まりのセリフ「わかりません」と。

その日の診察は少し長かった気がした。


 家に帰りいつもの用事を済ますも気になる。

この症状をネットで検索する。やはり症状が合致する。

間違いないと思えた。

入院し退院出来たら完治出来ると思ってたのがその後手術。

手術成功したから完治までもうすぐと思っていた所へきて

   「CRPS」

気持ちが崩壊しそうでした。

37・追い打ち


 どん底で這いあがる切っ掛けすら見いだせないでいた頃、更に最悪な事態が起こる。

休業補償と交通費の請求するも保険会社から入金が無い。

いつも遅いのでまた遅れているだけかと思っていた。

そんな時電話がかかってくる。

書類は頂きましたが少し気になる事が出てきましたので調査してます。との事。

今更何言うてる?と問う。既に5カ月分は貰っている。そこも調査対象だと言う。

嫌がらせともとれる行為である。休業している証拠が欲しいとか言いだしたのである。

そんな事、今更??と言うもとりあえず店に確認のため面談すると言う。

また面倒な事になる。

店に一報する。しかし協力出来んとの返事。

なぜ、協力出来なかったのかはその後わかる。


 保険会社が店に税理士を派遣し台帳見せてくれと言うも断られる。

その直ぐ後に電話が鳴る。女将からである。

なんで税務署が調べに来るのかと言われる。正当な調査やとこの前言うたと答える。

しかも税務署ではなく税理士だと言う。

もうこれ以上店に迷惑かけるなと言われる。

10年近く働いた店にそんな事言われて正直憤慨した。

その後、相手保険会社から返還請求される。

その理由が分からず、担当を呼び出す。

その店で働いて居たのは事実であろう、しかし証拠が無いと。

あなたが存在した記録が無いと言う。おそらくこの10年近くわたしはその店に存在して無かったと言われる。

居たのが事実でも存在が無い??

可笑しな話しである。

税理士の見立てはこうである。

わたくしの給料を4~5分割し架空の従業員に振り当てる。非課税にしていたんだろうと。

なので労災にも入っていなかったのでしょうと。

そう言えは思い当たる節がある。

保険も年金も無く個人で払って居た事。

その事が発覚するの恐れ切り捨てたんだと。

怒りより絶望が心を支配してゆく。

そのあと、直ぐに店に連絡入れる。


どう言う事?


あなたは正式に迎えた社員では無いと言われる。

正式もクソも無い。

10年あまり存在せんとはどう言う事?と問う。

電話ではなんやし店に行くと言うも断られる。

じゃ理由を話せと言う。

そう言う契約やったと言いだす。こちらは契約書など交わしてない。

今、この事が公になれば私達もあなたも首吊らねばならんと言う。

いきなり泣き落しである。

もう何もかもバカらしい。

その時、身体の奥で何かが壊れた感じがした。

38・思考停止


 電話を切り、保険会社へ連絡する。

事情は話さなかった。

ただ、従うと言うと手続きするので書類持って行くと言う。

 

  「もう好きにしてくれ」


と、言い電話を切る。

嫁に事情を話すも何も言わない。

言いたい事は山ほどあるだろうが何も言わなかった。

ソコは助かった。

視野が急に狭くなり、目が眩む。

自分の周りだけ暗く感じる。

呼吸が苦しい。

吐き気に襲われ洗面所へ行くも食べて無いので何も出ない。

ソファに横になる。

頭の中で状況を整理するも出来ない。

考える事が出来ない。

不思議と怒りとかは感じなかった。

ただ、切なく寂しい。

夕ご飯の支度はしてある。

今日は動けないので勝手に食べて仕事行ってくれと言う。

どうしよう、どうしよう・・・

その言葉だけが頭の中を駆け巡る。

真っ暗な長い夜がくる。

今のわたしにはテレビの明かり位でも十分すぎる。

まだ同じ事を考えてる。

39・朝が来る


 結局一睡も出来ぬまま朝が来る。

リハビリに行かねばならぬと思うも身体が思う様に動かない。

カーテンを開ける事すらしない薄暗い部屋、孤独感に苛まれる。

ちくわさんは足元で丸くなっている。

撫でてあげると目だけ開く。またその目を閉じる。

今日はリハビリ休もうと決める。まだ6時過ぎだがそう決める。

少し楽な気持ちになった。

付けっぱなしのパソコンを開ける。

「鬱」で、検索をする。

10人に1人は鬱だと書いてある。

そこまで多い訳は無いだろうと思う。

鬱の心理が書いてある。当てはまる項目が多い。

弱った心に容赦の無い文字が飛び込む。

自分は鬱では無い。ただ悪い事が重なって落ち込んでいるだけだと。

そう自分に言い聞かせた。

不安に度々襲われる。

胸が苦しくなる。

嫁が仕事から帰ってくる。

玄関が開く音と同時に涙があふれた。

嫁が驚いてこう言う。

「どした?なんかあったか?」

口を開けると大声で泣きそうだったので何も言わずにうつむく。

見てはいけないモノを見た感じで嫁は昨日の職場の事とかを話し出す。

気使われているのが分かる、でも涙は止まらない。

うつむいたままソファに寝ころび背を向ける。

寝たふりをして、その場をしのいだ。

突然で申し訳ありません。

作者は、先月亡くなりました。

ここに、この様な掲載をしてた事遺書で知り驚きました。

彼はあの事故よりあまり言葉を発しませんでした。

何を考えていたか、何をしたかったか。

少し分かった気がしました。

もう少し何とか出来無かったかと後悔ばかりです。

どうか、ここにたどり着きコレを読んでる皆さま主人の人生は終わりましたがそこに携わりかかわった人間の人生はまだまだ続くと言う事だけはご理解ください。

残された者達はより深い悲しみに苛まれています。




おとうちゃん、お疲れ様でした。

今日の出来事・Ⅰ

継続中。

今日の出来事・Ⅰ

少し前から始まった、自分と自分の周りに起こった事をなんとなく思い起こし書いたモノです。

  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • 冒険
  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1・前厄
  2. 2・現実を知る
  3. 3・衝撃的
  4. 4・開始
  5. 5・順調に回復
  6. 6・願望
  7. 7・気持ちと身体
  8. 8・ラスト1週間
  9. 9・情報交換
  10. 10・画像が証明
  11. 11・我が家
  12. 12・ホンマでっか
  13. 13・お前はウルトラマンか
  14. 14・再会
  15. 15・緊張の時
  16. 16・ニアピン賞
  17. 17・至福の時
  18. 18・再び
  19. 19・少しだけ
  20. 20・前夜祭
  21. 21・お世話になりました
  22. 22・パッチン
  23. 23 ・再開
  24. 24・交渉
  25. 25・難問
  26. 26・思惑
  27. 27・経営者
  28. 28・更なる難関
  29. 29・食い違う意見
  30. 30・更なる敵
  31. 31・年末行事
  32. 32・終われば始まる
  33. 33・賀正
  34. 34・変化
  35. 35・気の持ちよう
  36. 36・序章
  37. 37・追い打ち
  38. 38・思考停止
  39. 39・朝が来る
  40. 突然で申し訳ありません。