顔の上の舟を漕いで

明日葉いすみと飯島桜子

 明日葉いすみは辟易していた。人の醜悪さに対して辟易していた。
 どうして人は平気で嘘をつくのだろう。友人、恋人、恩師、家族と相手が誰であれ、必要に駆られたとき、人は嘘をつく。彼女にとってそれを見抜くことは容易いことであったから、嘘をつくメリットに甚だ疑問であったのだ。
 彼女は奇天烈な感性を持っていた。彼女は人の表情をほとんど見たことがない。人の顔面のどれもこれもが白紙の画用紙の様で、おでこの上に名前が書いてなければ誰が誰だか判別がつかない。その画用紙にはその人の心がありのまま書き表せられ、嘘をついていれば大きな字で鼻のてっぺんあたりに「嘘」と書かれる。その嘘が申し訳ないと思っての嘘であれば、頬のあたりに小さく「ゴメン」と書いてあったりもする。眼は口ほどにものを言うというように、もしかしたら表情の細微な変化を慧眼でもって見切り、その心情をくまなく読み取っているのかもしれない。しかし、彼女にとって理論どうこう言うまでもなく、事実として目の前にのっぺらぼうが右に左にと闊歩しているのだからどうでもよかった。

 辟易とは言ったが、彼女は人間に対して絶望しているわけではない。友人たちと談笑するのも楽しいし、時に恋の手助けをすることもある。ただ心が明々白々と理解できてしまうだけの普通の女子校生であった。


「私、水谷君に嫌われていないかなァ……」

 飯島桜子はストローから口を話すと、こぼすようにポツリとつぶやいた。明日葉いすみは学校最寄の駅前にあるファストフード店で高校生らしい相談を受けていた。飯島桜子は伝聞によるとたいそう容姿の整った女性であるらしい。制服もボタンをしっかりつけ、決して着崩したりはしない清楚可憐な様相である。当然、男子生徒からの信望も厚く、その為、恋の悩みも多かった。
 しかし明日葉いすみからするとその評価には疑問を禁じ得ない。何せ顔は見えないし、内面の蓋を開けてみれば二股三股を悪とも思わぬ随分豪快な女性である。しかもそれが悪意や欲からではなく全く天然な発想――すなわち告白されたから応えただけであるというのだからたちが悪い。ただ、不思議と彼女に対して不快感はなく、今日も今日とて新しく告白された男子に何かつまらぬことを言ってしまって傷つけてはいないか相談することを快諾した。
 
「どうだろう。ただ水谷君は結構鈍感そうというか、あまり物事を深く考えないタイプだから、多分サクに言われたこともそれほど意識していないと思うよ」

 明日葉いすみの言葉は概ね事実であった。水谷君は実際鈍感であり、飯島桜子から言われた皮肉とも取れない浅慮な発言もそのまま受け取り、次の日にはおよそ何と言われたかを忘れてしまっていた。

「そうかなァ、大丈夫かなァ。まァいすみんが言うなら大丈夫だよね。何だか安心してきた!」

「そいつは良かったよ。どうかな、このままカラオケでも行こうか」

「いいね! 行こう行こう!」

 明日葉いすみと飯島桜子は不思議と仲が良かった。

槇正村と水谷逸治

 (マキ)正村は頓着がなかった。水谷逸治(イツハル)に頭を叩かれても頓着がなかった。
 槇正村は基本表情の動かない男であり、どこか大人びた印象を受ける。またお喋りでないので、いつの間にやら良き相談役としてクラスメイトから尊ばれていた。槇正村は個人を注視することはしないが水谷逸治は元来分かり易い男であり、槇正村さえ理解できた。どうやら水谷逸治は最近恋をしているらしい。その証拠にそわそわしたり突然照れたりしている。どうやら水谷逸治は同じくクラスメイトの飯島桜子に惚れているようだ。

「ううん、大変そうだけど頑張ったら」

「もうちょいなんかアドバイスをくれよ!」

 そう言って水谷逸治は頭をぽこんと叩く。水谷逸治はお笑い番組が好きなせいか、少々行動が攻撃的である。

「仕方がないじゃないか。あの子、見る限りモテモテだよ」

「可愛いもんなァ」

「それは知らないけど。本人の気付かない所で思わせぶりな言動をしているみたいだ。そういえばイッチはどうして好きになったの?」

 その質問を皮切りに、水谷逸治はスイッチが入った。瀑布の水量を思わせる程に捲し立て、少年漫画も驚き逃げる程の擬音が飛び交う。隣の席の女が一度席を立った。後ろの真面目な見た目の男は単語帳を三回は往復している。前の席では早弁をしていた丸刈りの男がどうやら食べ終わったらしく、隣のクラスへ行ってしまった。まだまだ水谷逸治の話は終わりそうにない。

 そうして、話に終止符を打ったのは休み時間の終了を告げるチャイムであった。どこか話足らなそうな水谷逸治は、しかし次の時間が怖い数学の先生であったので、素直に自席へと戻っていった。
 授業中、彼の話を思い返す。曰く、部活の最中遠くへ飛んで行ってしまった野球ボールを拾いに行った際、飯島桜子が偶然そのボールの近くにいたので投げ返してくれたらしい。「えい!」と見た目に合わぬ力のこもった声を出して放たれたボールは、反して十メートルも飛ばずにぽてんと落ちた。その瞬間、水谷逸治も恋に落ちた。

 随分単純な理由だなァと槇正村も思わないことはなかったが、とはいえ友人の恋路を笑うような腐った性根もしていないので、何か力になれないだろうかと考えを巡らす。一度先生に問題を解くよう指名された時を除いて、とりあえず色々とプランを考えてみたのだが、何分自身が恋を知らぬので如何ともしがたい。そして達した結論は「ともかく告白させよう」ということであった。

 そして授業が終わり、その結論を話すべく水谷逸治の下へ行こうとしたのだが、どうにも見当たらない。

「まァ、いいか」

 仕方なしに、席に戻り単語帳を開く。開いてはみたが、あまり面白くないのですぐ閉じた。そして床の木目の数を数えることにした。
 ちょうど二十を過ぎたあたりだった。

「マッキ―! キャッチボールしに行こうぜ!」

 と普段の二割増しで賑やかな水谷逸治の声に呼びかけられた。走ってきたのだろう。水谷逸治は荒い息で、しかし、目をキラキラとさせて教室の入り口で手を振っていた。訝しく思いつつも槇正村は快諾した。
 槇正村はキャッチボールは好きであった。

明日葉いすみと槇正村

 ――一月ほど前のことである。それは麗らかな日差しが桃色の花弁を通り抜けて、どこか柔和な暖かさを醸していた、そんな月曜日であった。明日葉いすみは緊張の面持ちで見たこともない人間たちの横を歩いていた。受験の際に一度通っただけの道、新品の衣装の匂いがそこかしこに充満している。心臓の高鳴りは止め処なく、されどそれは決して不快ではなかった。そっと横の男子の顔を覗けば、やはり同様に緊張と期待の面持ちである。そう、今日は入学式であった。
 遅刻することなく、無事校舎に到着したことへ安堵しながら与えられた席へ着くと、鞄を床へ置いた。初日であり、荷物など殆ど入っていなかったが、その瞬間の気持ちの落ち着き様は一入であった。とはいえ、まだまだ居心地の悪さは拭えない。
 心が読める彼女であったが、やはり初対面の人間と話すというのは些か不安である。相手の感情の真贋を確かめることは容易くとも、その人が何をしてほしいか、どんな会話を求めているのか、具体的なものは分からない。あくまで相手の感情を受容する機能に長けているだけである。その為、決して彼女はコミュニケーションが円滑に行えるわけではなかった。むしろ、自分の一言が相手を不快にさせたことが手に取るようにわかってしまうため、若干対話は恐ろしいもの、苦手なものであった。
 しかし、好機というものは得てして突発的、予期せずに起こるものである。

「明日葉って凄い上品な苗字だね!」

 唐突に苗字を呼ばれ、声の主を探す。そこにいたのは緊張と、そして何より好奇心で満ち満ちた女性がいた。大人しく、どこか澄ました様に受け止められがちだった明日葉いすみに対して、苗字の物珍しさに嫌味を込めて呼ばれることは少なくなかった。しかし、そこに全くの悪意がない初対面の人間というのは滅多にいなかった。ふと、彼女となら仲良くなれそうだ、と漠然と、されどしっかりと確信する明日葉いすみであった。

「なんだかあの辺の席うるさいね」

 くすくす笑う彼女に、どこか気品のようなものを感じて、ぽうっと見とれていた明日葉いすみは「そうだね」と返した。
 すると、教室の扉が開いた。もうそろそろ始業である。初日からぎりぎりに到着するとは勇気のあるやつだと、明日葉いすみは呆れて見やる。そして見やると同時にぎょっとした。

 槇正村は始業の五分前に教室へ到着する。決して普段寝坊などしない彼であったが、どういうわけか、昨晩はあまり寝つけず、目覚ましより遅く起きてしまったのだ。「しまったなァ」とぽつりこぼす。中学生の頃も、同様に寝坊してしまい、初日のスタートダッシュを失敗してしまった彼は、以後、なかなか友人に恵まれず、侘しくさびしい半年間を過ごしていたのだ。とはいえ、持ち前の穏やかさに段々クラスメイト達も気づき、親しくしてくれたので幸いだったが、今度もそう上手くいくとは限らない。
 前方の黒板に貼られた席順を確認するに、槇正村の席はどうやら後ろから二番目らしかった。振り向いて自分の席に当たりを付けると、彼はぎょっとした。何故だかその周囲に殆どの男子が集合していたのである。
 恐る恐る席に着くと、概ね事情が分かった。集合体の中心には大層元気な青年がいた。そして彼が愉快な話をして男子陣の人気を集めているようだった。されど今更話に入れるはずもなく、集合は最早厄介でしかなかった槇正村はやはり「しまったなァ」とつぶやいた。
 しかし、好機というものは得てして突発的、予期せずに起こるものである。
 
「君が槇くんかァ!」

 後ろの会話の主は、これまでのどの発言よりも大きな声で槇正村の名前を呼んだ。「そうだけど」と驚いた様子の槇正村は声の主へ正対した。


 明日葉いすみが見かけた男子とはまさに槇正村であった。そして、入ってきた彼は、確かに表情の隅っこに不安や焦燥の感が見て取れたが、しかし、彼には二本の眉毛の下に目が二つあり、鼻はひとつついていた。口は小さく閉じられたものがちょこなんといた。そう、明日葉いすみが初めて見た顔であった。絵や写真で見た顔と同じパーツを備えた人間を初めて見たのだ。
 ゆえにぎょっとし、ゆえに少しだけ興味を持った。

 ――そして、時間軸は今に戻る。
 明日葉いすみは、時々この日の話をする。曰く、槇正村が唯一顔を隠すくらい感情をあらわにしたのはこの日だけである。水谷逸治に声を掛けられた瞬間、彼の顔には驚きの文字が大きく浮かんでいたらしい。「どんだけビビっていたのよ」と明日葉いすみは茶化していう。
 ただ、決してこの時、彼の表情に安堵の二文字も大きく浮かんでいたことは話さない。明日葉いすみは気遣いが出来る人間であった。
 また、決してこの時、彼の表情に興味をもったことは話さない。明日葉いすみは、同時に乙女であった。

顔の上の舟を漕いで

顔の上の舟を漕いで

明日葉いすみは誰より嘘を見抜くのが上手であった。眼は口ほどにものを言うというが彼女にとってそれは不適切である。明日葉いすみは眼どころか顔そのものが言葉のようであった。彼女は人の顔を顔としては認識できず、のっぺらぼうの白紙の上にたくさんの字が書いてある様に見える。おでこのところに名前があるのでそれを読んで個人を認識していた。嘘をつけば顔の真ん中に「嘘」という一文字が大きく浮かぶし、喜んでいるようであれば「喜」の文字が大きく浮かぶ。 そんな彼女が唯一顔を顔として認識する少年がいた。彼、槇正村は感情の起伏に乏しいため、たとえ喜怒哀楽の変化があってもそれは精々頬の片隅にちょこなんと現れるだけで、表情を邪魔立てするような横暴さはまるで見せない。その為顔が隠れることがなかった。 そんな二人が織りなす、一風変わった学園コメディ。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-04

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

Public Domain
  1. 明日葉いすみと飯島桜子
  2. 槇正村と水谷逸治
  3. 明日葉いすみと槇正村