お医者さん 第2章 「クラッカー以上に恐ろしい物をオレは知らない。」

第1章は例のごとく、序章と言いますか……世界の紹介でしょうか。

主人公二人にもう一人が加わる第2章。この物語はこの三人がメインかと思います。

「今日の天気」よりもバトルは少ないですが、第1章よりは多いですね。

今後のメインとなる登場人物が文字通り「登場」する第2章です。

お医者さん 第2章 「クラッカー以上に恐ろしい物をオレは知らない。」

 目を開けるとそこは真っ暗だった。何も見えない……こころなしか呼吸がしづらい気もする。なんだ? オレは一体どこに……
「……なんだ、ただの枕か。」
 どうやらうつ伏せで寝ていたらしい。確かどっかの爺さんがうつ伏せで寝ることが健康にいいとかなんとか言ってたが……さて、あれは正しいのかね。
 オレは目覚まし時計のいらない人間だ。決まった時間に起きれる。というか起きれるように身体を設定できる。あの人の技術を扱うにはかなりの精度の体内時計が求められたから……かなり訓練して精度を上げた。オレの時間感覚はかなりすごいと自負する。
「今日はオレが料理当番だったな……」
 洗面所で顔を洗いながらそんなことを思い出す。

 『半円卓会議』からざっと二週間。国内の飛行機を全て買い取ってでもオレが帰るのを阻止しようとしたファムだったが、家族の面々に抑えられてあきらめた。オレとことねさんは無事にイングランドを脱出し、こうして甜瓜診療所に戻って来た。
 あれから……やはりというか何と言うか、結構な数の患者さんを治療した。《パンデミッカー》は派手に動いているらしい。だが幸い、オレのとこにはあの高瀬以来誰も来ていない。
「ま、治療費が入ることは良いことだが……喜んでいいのやら……」
 台所に移動し、冷蔵庫からシャケの斬り身を取り出す。今日の朝ごはんはこれだな……
「おはようございます。」
 オレが味噌を取り出していると後ろからことねさんがあいさつをする。さすがに寝るときは三つ網をほどいているから今のことねさんはだいぶ長い髪の毛をストレートにおろしている状態だ。唯一の色である赤いリボンが無く、またパジャマも上下が灰色ときているから白黒映画の登場人物みたいになっている。半目だからまだ眠いのかとも思ったが……そういえばことねさんは通常が半目だ。
「……今日でしたっけ……」
「何が?」
「その、スクールの人が来るのがです。」
「そうだね。」
 《デアウルス》が護衛だとか言ってスクールの人間をオレにつけた。そいつがここにやって来るのが今日というわけだ。

「そもそもスクールって何ですか?」と、この前ことねさんに尋ねられた。
 スクールとはつまり《お医者さん》の学校のことだ。安易なネーミングセンスだが的を射た名前だ。
 誰かが《お医者さん》になりたいと思った時、一般的にはどこかの《お医者さん》の下で学ぶことになる。弟子としてその《お医者さん》の技術を学ぶか、生徒として普通に《お医者さん》の基礎までを学ぶかは人それぞれだが。
 さて、ここで一つ問題が発生する。《お医者さん》は人手不足だからなりたいと思う奴には是非なって欲しい。だが先生となる《お医者さん》は必ずしも近所にいるわけじゃない。《お医者さん》の先生と出会い、そこで学ばせてもらえるかどうかはある程度運によって決まってしまう。
 だから、そんな「先生に出会えなかった人」のために作られたのがスクールだ。そこで現役の《お医者さん》やもう引退したが教えることはできるような《お医者さん》が先生となって集団の生徒相手に教えている。
 この話を聞いてことねさんは「ならそのスクールをもっと増やせばいいんじゃないんですか?」と言った。そりゃ確かにそうだが……《お医者さん》はできればそんな小学校や中学校みたいな感じで学んで欲しくないことだったりする。
 なにせ、治療の失敗が本人の死につながることがあるからだ。できれば個人指導できっちり学んで欲しい。しかしそうも言ってられないよなぁという感じで一応作られた学校がスクールってわけだ。
 現在、世界に三か所ある。アメリカと……ロシアか中国のどっちかと……アフリカあたりに。かなり記憶があいまいだが……
 んで、そのアメリカのスクールの優秀な生徒の中から選ばれた生徒さんがここに来るというわけだ。

「どんな人ですかね。」
 ことねさんがお味噌汁をすすりながら呟いた。
「まぁ……オレが英語しゃべれないのは《デアウルス》も知ってるし……少なくとも言葉の通じる奴ではあると思うけど……」
「そうですね。男か女かもわからないんですか?」
「えっと、この前の《デアウルス》からの電話によると……」
「え……《デアウルス》さんが電話……? どうやって……」
 ことねさんが驚愕しているがそれはとりあえず置いておき、オレは電話の際にメモったことを読み上げる。
「ん~っとねぇ……名前はライマン・フランク。性別は言ってなかったけど……名前からして男かな。腕は『新人(お医者さん)』って感じで……ランクで言えばCをギリギリ倒せるかなってくらいらしいよ。治療法は東洋と西洋の術を融合させたモノ……だって。」
「……新人さんで護衛になるんですかね……」
「正直微妙だけど……術を扱える人がいるってのは少し心強いかな。オレは肉弾戦しかできないからね……《パンデミッカー》の奇怪な症状には魔法の一つも欲しい感じだよ。」
「なるほど……」
「良い機会だよ。ことねさんもそろそろ自分の治療法を考える時期だからね。術ってのを間近で見れるのはラッキーだよ。小町坂の治療法だと日本のに特化しすぎてるからね……一般的な治療法ってのも知っとくべきだよ。」
「そんなもんですかねぇ……」
 最近はことねさんに切り離しを教えている。患者さんが増えたことで実際にやってみる機会が増えたからなかなか順調に進んでいる。
 まぁ……問題と言えば……ことねさんの左手だ。切り離しは片手でできる作業じゃないから両手を使うんだが……『エイリアンハンド』こと《オートマティスム》がことねさんの左手を動かして切り離しをサポートしてしまっている。いざって時にことねさんが自分だけでできないと困るわけだが……さて、どうしたものかね。
 《オートマティスム》……Sランクヴァンドローム。初めのころはよく暴れたものだが……最近はことねさんのすることをサポートする感じで動くようになった。基本的に左手の支配権はことねさんにあって、ことねさんが困った状況になると《オートマティスム》が左手を動かす。
 《デアウルス》は《オートマティスム》がオレを信用してきていると言っていたが……あれはマジな話かもしれない。
 ことねさんが困ることはもちろんだがオレが困ることもしなくなってきたのだ。だから小町坂のとこにことねさんを一人で見学に行かせることも出来るようになった。
 案外と、共存はもうできているのかもしれない。
「先生、今日の予定は?」
「うん……確か今日、小町坂がちょっと珍しいヴァンドロームを治療するから……ことねさんは午前中、それを見て来るといい。午後は患者さんを待ちつつ診つつ《お医者さん》の修行かな。ライマン・フランクがいつ来るかわからないからオレはここにいるよ。」
「わかりました。……珍しいって何がですか?」
「特Dランクのヴァンドロームだよ。」


 私は晴明病院にやってきた。診療所ではなくて病院。小町坂さんはそこの院長さん。お金持ち。
「モテそうだなぁ……小町坂さん。」
 と、呟いてみたけどあんな和服で異様に長い髪の毛の変な人はモテないか。
 病院の受付に行くと高木さんがいた。
「あ、溝川さん。」
「こんにちは。」
 この高木さんという人の立場が私にはよくわからない。大抵、小町坂さんと一緒にいるから助手みたいなことをしているのかと思いきや、こうやって受付をやっていたりする。
「安藤先生から聞いてますよ。いつもの場所に行って下さい。」
「わかりました。」
「あの、溝川さん。」
「はい?」
「どうでした? 『半円卓会議』。」
 すごいワクワクした表情でそう聞かれたけど……何て答えようか……
「……すごくて変な人がたくさんいました。」
「いいですねーあたしも行ってみたいなぁ。まったく、何で先生は《ヤブ医者》じゃないのかしら。」
「なんつーことを言うんだお前は……」
 小町坂さんがカランコロンという音をたてながらやってきた。相変わらず和服な格好だ。白衣は着てない。そもそもこの和服に白衣は似合わない……というか白衣のところを見たことないな。
「あら、先生。手術は終わったんですか?」
「終わったも何も……俺は別に執刀してねーからな。指導しただけだ。」
 《お医者さん》は基本的に《医者》の知識を持っている。小町坂さんは外科の《医者》だったらしいので手術室に入って新米の《医者》の指導をしたりしている。
「だけどよぉ……俺の本職は《お医者さん》だ。まったく、院長が直に指導するってなんだよ……」

 小町坂さんに連れられ、一般の患者さんは来ない階、五階に行く。つまりヴァンドローム関係の患者さんが来る階だ。一階から四階は《医者》の階。この建物は六階建なのだけど……六階に何があるかは知らない。
 前を歩く小町坂さんのなっがい髪の毛を眺めながら、ふと思ったことを聞いてみた。
「小町坂さんはなんでそんなに髪を長くしてるんですか?」
「あれ? 言ってなかったっけか。」
「はい。」
 小町坂さんの診察室に到着する。中には先生の診察室みたいにベッドと机がある。だけど甜瓜診療所のそれとは広さが違う。ざっと二倍くらいは広いんだけど……なぜか今はカーテンがかかっていて奥が見えないようになっている。
「ん~っとなぁ……」
 小町坂さんが椅子に座る。私は患者さんが座るのであろう椅子に座った。
「安藤があれだからなぁ……あんまり術に関しては教わってねーよなぁ。」
 キセルに火を入れてプハーと吐く。不思議なことに私の方に煙が来ない。
「東洋と西洋……結構違うとこがたくさんあんだけど、唯一同じ点がある。それは術の発動には代償が必要ってことだ。」
「代償?」
「ほら、神様に生贄を捧げる~みてーなの聞いたことあるだろう?」
「え……まさか小町坂さん……」
「確かに……大昔の人たちは術を一個発動すんのに複数人の生贄を使ってたよ。」
「そう……なんですか。」
「車を動かすにはガソリン。電球光らせんなら電気。何かをするには必ず消費するモノがあるってのがこの世界の常識だ。だが術が考案された頃にはそんな便利なエネルギー源はなかった。代償を命に求めるってのは当時じゃ自然な考えさ……そして術は命を代償にするってことを前提にして開発されていった。だからまったく新しい術式を考えださない限り、過去の天才が作り上げた術を使う俺らには代償を払うことが必要なんだ。」
「……それと髪の毛がどうつながるんですか……?」
「いくら命を代償にっつってもな、人を救うために誰かを殺してんじゃ意味ねーぜって思った奴が昔いたんだよ。そいつは代償を抑えるために過去の術式を解読してもっと効率のいい形ってのを研究した。次第に代償は命から……例えば腕一本とか、指一本とかになっていったんだ。」
「すごい人がいるんですね。ヒステクラ・ポーみたいに。」
「ああ、切り離しの技術の奴か。そいつには全ての《お医者さん》が感謝してるだろうな。そして術を使う《お医者さん》はこの男の名を忘れないようにする。」
「男……?」
「パラケルススっていう男だ。こいつの研究のおかげで今の《お医者さん》は成り立っている。」「ぱら……す?」
「テオフラストゥス・フィリップス・アウレオールス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムってのが本名だ。こいつは代償を最終的に髪の毛まで縮小した。」
「髪の毛……」
「平均して髪の毛三十センチ。これが術を一つ発動させるのに必要な代償。一本で三十センチでも足して三十センチでもいい。とにかくそれくらいの髪の毛を代償にすることで術は発動する。だがまぁ中にはハゲの奴もいるからな。そういう奴はスーパーとかで肉とか魚を買ってきて代償にする。死んでるから髪の毛よりは量がいるんだけどな。」
「小町坂さんが髪の毛を長くしている理由は……術の発動のためですか。」
「つーか……俺の場合は術のほとんどが拘束系だから……普通の術よりも発動時間が長い。だから代償もそれなりでな、仮にスーパーとかで買ってくるとしたら費用が馬鹿になんねーんだ。なら髪の毛を長くしといた方がいいだろうよってことだな。」
 そこまで話した所で診察室のドアが開いて三人の男の人が入って来た。
「んああ……ことねちゃん、こいつら俺の弟子だったり生徒だったりの奴ら。」
「先生……なんすかそのテキトーな紹介……」
 先生ぐらい……一人は先生より上かもしれない。私よりは確実に年上の人たちだ。
「んじゃはじめっか。ホントならことねちゃんに経験して欲しいとこだが……今日のとこは俺の教え子を優先するぜ?」
「あ、いえ、お構いなく。私は見学ですから……」
 なんだか小町坂さんの生徒さんに睨まれてしまった。
「……気合入れろよ。今日の敵はすげーからな。」
 そう言いながらカーテンを開けた小町坂さん。そこには信じられない光景があった。
 壁一面に難しい呪文みたいな文字がびっしりと書かれ、床には魔法陣みたいなものがたくさんかいてあり、ろうそくが一定の規則で並んでいる。そしてその魔法陣の中心には髪の長い女の人がいた。
 椅子に座ってぐったりとしている。そしてその身体はロープでぐるぐる巻きにされ、椅子にガッチリと固定されている。その椅子も地面に打ち付けられているから女の人はそこから動けない状態だ。
「こ……小町坂さん……?」
「特Dランク……《ミスユー》にとりつかれた患者さんだ。症状は……『禁断症状』。」
「それって……麻薬とかをやっている人がなるって言う……」

 禁断症状。たばこやアルコール、麻薬などに依存する人からそれを取り上げた時に起きる症状だ。具体的にこれという症状は決まっていないけど、手が震えたり汗が止まらなくなったりする。さらに幻覚を見たり、常識的な価値観が欠如したりすることで他人に危害を加えることもある。

「《ミスユー》は別に厄介でも何でもない。だがとりつかれた患者さんがまずいことになる。まずまともに診察なんかできねーし術をかけようとすれば大暴れする。だから特例に指定されてる。」
 ……そういう特例もいるのか。
「さらに……普通、『禁断症状』は依存してるモノを与えればおさまるもんだ。だが知っての通り、ヴァンドロームは『症状』のみを発症させる……だから……抑える方法がない。家族とかも手を出せないから大抵の場合、《お医者さん》のもとに辿りつく前に死ぬことになる。この患者さんはかなり運がいい。」
 最悪なヴァンドロームだ。《お医者さん》のもとに行こうという考えさえ患者さんにはない。そんな状態の人を救うのは難しい。こんなに厄介な症状もないだろう……
「んじゃお前、切り離しやってみろ。周りの結界でヴァンドロームは逃げらんねーようになってってから。」
 小町坂さんのお弟子さんか、生徒さんか、どちらか分からないけど三人の内の一人が頷き、前に出る。その瞬間――
「ぐぅるああああああっ!」
 椅子に座っている患者さんが叫んだ。
「よこせ! よこせ! よこせよこせヨコセヨコセェェェェェッ!!」
「こ、小町坂さん!」
「言ってるだけだ、ことねちゃん。」
 小町坂さんは冷静だ。
「言ったろ? 別に何かに依存してるわけじゃねーんだ。何を与えようとおさまらない。ほれ、早く切り離せよ。」
 前に出た人は真剣な顔になり、銃のようなもの……サーモグラフィーを患者さんに向けた。

 切り離し。ヒステクラ・ポーという《お医者さん》が確立させた技術だ。『食眠』状態に入ったヴァンドロームには触れることもできない。だから『食眠』状態をヴァンドローム自身に解かせ、戦える状況に持っていく。これが切り離しという行為だ。
 その原理は難しいモノかと思いきやそうでもない。
 まず、ヴァンドロームが患者さんとつながっている場所を探す。基本的にヴァンドロームは口にあたる部分を患者さんの身体のどこかにくっつけ、『症状』を患者さんの身体に引き起こし、放出される『元気』を食べる。
 でも口をくっつけているわけだからいくらヴァンドロームが見えなくても触れている部分がどこかはわかってしまう。だからヴァンドロームは偽の皮膚をそこにはりつけ、偽装する。その完成度は非常に高く、目や感触で判断は出来ない。唯一、偽の皮膚は普通の皮膚よりも温度が低い。だからまずはサーモグラフィーで温度が低い所を探すのだ。

「ここか……」
 サーモグラフィーで場所を特定したあと、ポケットに手を入れて小さなタッパーを取り出したお弟子さんだか生徒さん。

 場所がわかった後はどうするか。簡単に言えば異物を食べさせる。口がくっついている場所に触れようとするとヴァンドロームは口を一時的に放す。バレないように。
 仮にそのままを維持しようとしても別の場所にくっつくし、それではヴァンドロームが「バレた」と気付いて逃げてしまう。だからどうしても、バレていないと思っていてくれている状態で『食眠』状態を解かせる必要がある。逃げることよりも食事を止めることを優先してしまうくらいの緊急事態に持っていくのだ。
 それが異物を食べさせるということ。くっついている所にこっそり異物を置き、『元気』と一緒に食べさせるのだ。そしてヴァンドロームが「なんじゃこりゃ!」と感じて驚く。それが『食眠』を解くことになり、切り離しとなる。
 それでは何を食べさせるのか。先生は「まずいモノだよ。」と言っている。実際そうだからなんとも言えないのだけど……
 人間で言えば苦いモノだ。口に入れて舌に触れた瞬間に「おぇ」ってなるモノのヴァンドローム版。その名も『エイメル』。何で出来ているかは知らないけど粉末状の物体だ。どこかにこれを生産している《お医者さん》がいるらしい。
 この『エイメル』を口がくっついている場所にパッパとやるだけ。それで切り離せるわけだ。何も難しいことはない……ように見えるけど実は一点だけ難しいことがある。それが『エイメル』の量だ。
 例えば人間は普段の呼吸で空気以外にほこりとかを吸い込んでいる。だけど気にならない。でもそのほこりが舌でその存在を感じ取れる程に大きかったらどうなるか。もちろん口から出す。
 ヴァンドロームの口は極めて敏感らしく、舌に触れる前に明らかに危険なモノは口内に入れないそうだ。舌に触れて初めて「おぇ」っとなるのでそれでは意味が無い。だから問題ないと判断できるくらいでかつ効果のある量を調節しないといけない。その量はヴァンドロームによって異なるし、同じ種類でも違うことがある。だからこればかりは慣れるしかないのだ。
 ……ちなみに先生は『エイメル』を使わなくても切り離せてしまう。

「……行きます。」
 もうめんどくさいからお弟子さんAと呼ぶことにしよう。
お弟子さんAはタッパーに入った『エイメル』を患者さんの皮膚の上につけた。その数秒後、蜃気楼のように、患者さんの背後の空間が歪んだ。
「ビュルビュルビュル!?」
 変な声と共に姿を現した特Dランクヴァンドローム、《ミスユー》。簡単に表現するなら赤いヘビだ。驚く程大きくもないし、小さくもない。普通にジャングルとかに行けばいそうなヘビだ。
 宙に浮いていることを除けば。
「ビュルビュル!」
 その場から逃げようと空中を飛ぶが、見えない壁にぶつかって患者さんのとこにはね返された。たぶん、これが小町坂さんの結界だ。
「いよし。んじゃ続けて倒してみろ。そんなに強くもないからよ。」
 小町坂さんはキセルを加えて笑っている。本当にたいしたことないヴァンドロームなんだろう。私がなんとなくホッとしたその時、左手が動いた。突然廊下側の壁をパンと叩いたのだ。私と小町坂さんは首をかしげた。

ドゴォォォン!

 一瞬にして、私の左手が叩いた壁が崩壊した。手の平を中心に直径二メートルくらいの穴が空いたのだ。しかしそれで事は終わらなかった。
 穴の空いた壁一面に小町坂さんが書くような呪文がびっしりと浮かびあがったのだ。私は何が何やらという感じだが、小町坂さんはその呪文を見た瞬間に表情を変えた。
「……っ! ふざけんな!」
 小町坂さんがそう叫ぶのと同時に、患者さんを中心に描かれていた魔法陣が消滅した。そして宙に浮いていた《ミスユー》が廊下に飛び出したのだ。
「結界が破壊された!?」
 お弟子さんAがそう叫んだ。小町坂さんも廊下に飛び出す。《ミスユー》を追いかけて。
「って、ちょ……」
 私は呆然と立っていたのだけど、左手が私を引っ張り、廊下に連れ出した。そして小町坂さんのあとを追う。

 一体何が起きたんだ!? 私の左手がやったのか? 何のために? 壁に穴をあけて……変な呪文を発動させて小町坂さんの結界を壊した。そうなると私の左手はあの《ミスユー》を逃がそうとしたことになる。なんで?

「ほぇぇー。」
 小町坂さんを追って廊下を走っていたらそんな声が聞こえた。角を曲がると小町坂さんが廊下に座り込んでいて、その向こうにもう一人いた。
「あ、ことねちゃん! このじいさん頼む!」
 そう言ってさらに先へ走っていく小町坂さん。私の意思で走っていたわけではなかったのだけど左手はそこで止まってくれた。
 どうやら走って来た小町坂さんにぶつかったようだ。杖を持ったおじいさんが倒れていた。
「大丈夫ですか?」
「ほぇぇ、おいしゃぁさんがはすってきたでぇ。びっくりだぁ。」
「えっと……ちょっとありまして……」
 私が手を差し出す前におじいさんは杖で器用に立ちあがった。
「あり? 看護婦さん、ここは一階じゃぁ……」
 看護婦さんか……まぁこの年代の人ならそうなるか……今私、白衣を着てるし。
「ここは五階ですよ。」
「ほぇぇ? まつがえたぁ。」
 一階と五階を間違えるとはなかなかのボケボケおじいさんだ。とりあえず一階まで連れて行ってあげよう。
「どうぞ、一階までお連れしますよ。」
「あれまぁ、すまんのー。」
 おじいさんの手をとり、エレベーターまで誘導、一緒に乗って一階を押す。
 エレベーターのボタンは六階まである。十何階もある建物だと一階のボタンの横に六階とかのボタンがあったりするから間違えることもあるだろうけど、ここは六階までしかない建物だ。ボタンは縦一列に並んでる。だから一階と五階を間違えるというのは……かなりすごい間違いなわけだ。
「おじいさんは……何かの病気で……?」
 あんまり詮索することは良くないとも思いつつ、あまりに面白い間違いだったので聞いてしまった。
「あっひゃっひゃ。ただの風邪じゃぁよ。」
「そうですか。」

 おじいさんを一階まで連れて行き、私は五階に戻る。さっきの部屋に行くと小町坂さんがキセルから煙をもくもく出しながら穴の空いた壁を眺めていた。
「あ……すみません……その……壁……」
 私は私の左手を横目に見ながら謝った。だけど小町坂さんは意外な反応をした。
「とんでもないよことねちゃん。ことねちゃんは俺とこいつらの命の恩人だぜ?」
「……はい?」
 小町坂さんが言っていることをお弟子さんAからCも理解できていないようだ。
「この壁に浮かんだ術はな、術を書きこんだ面から強烈な光を発するっつー効果を持ってる。もちろん懐中電灯やお日様みてーな光じゃない。攻撃力のある光だ。ヴァンドロームにダメージを与えるための日本のじゃ数少ない攻撃術式だな。」
「それがなんだと言うんですか……?」
 お弟子さんBが尋ねる。
「馬鹿。いくらヴァンドロームがいないと発動しない術っつってもヴァンドロームにしか効果がないわけじゃない。火の玉があたりゃぁ火傷する。あの術は《ミスユー》がいたから発動した術だが明らかに攻撃対象は俺らだったぜ?」
「なんでそんなことわかるんですか?」
 お弟子さんC。
「言っとくがな、この術式はマネすりゃ誰でも発動させられるようなモンじゃねぇ。日本の術の中でもかなり高度なモンだ。んなベテランが部屋の中を把握しないで術を発動するわけがねぇ。少なくともヴァンドロームがいるかどうかは確認しなきゃなんねぇ。つまりこの部屋の中を見てるはずなんだよ。」
「……それが……?」
 お弟子さんA。
「アホか。俺が《ミスユー》を結界で囲ってんだぞ? 中からはもちろん、外からも干渉できねーんだよ。あの術を発動しても肝心のヴァンドロームには届かねーんだ。それでも発動させたっつーことは……狙いは俺らだろ?」
「でも小町坂さん。確か壁は光らなかったですよ……」
「それはことねちゃんが壁を壊したからだ。日本の術式は何百字っつー文字を書くような術がよくあるがその内の一文字が変わるだけで目的の効果が得られない。壁が壊れたおかげで術は本来の攻撃術式じゃなく、結界を破る術式に変化したんだ。」
「……でもそれじゃあ私が逃がしたってことに……」
「死ぬよりはましだ。」
「え……死ぬ……?」
「ああ。さっきの術がまともに発動してたら良くて失明、悪くて死んでた。」
 プハーと煙を吐いてニンマリ笑う小町坂さんだけど私やお弟子さんたちは笑いごとじゃない。
結局(ミスユー)には逃げられちまったが……問題は攻撃してきた奴だぜ。《パンデミッカー》の連中は何考えてんだ?」
 一瞬、何で知ってるんだ? と思ったけど、《デアウルス》さんが《お医者さん》に知らせたらしいから知ってて当然か。
「普通に《お医者さん》の技術も持ってんのかよ……メンドクセー。」
「うぅん……」
 そこでこの場にいたもう一人、患者さんが目を覚ました。
「ん? 起きたか。ことねちゃんは帰ってこの事を安藤に伝えといてくれ。後始末は俺らの仕事だしな。」
「は、はぁ……わかりました。」
 こうして私は、急ぎ足で晴明病院を後にした。


 オレはあんまり長く聞いていたくない声を聞いていた。
『……という感じだ。安藤よ、気をつけろ。』
「……電話してくんのはいいんだが……別の人に頼んで伝えてもらうようにしろよ。」
『何故だ? 吾が相手では不服か?』
「声が怖いんだよ、《デアウルス》。」
 絵本を読んでたらあんまり鳴らない電話がなり、るるかと思って出たら受話器から聞こえてきたのはお化けみたいな声だったわけだ。
「それで……本題はなんだ? 《パンデミッカー》のあんまりわかってない動向を改めて伝えるために電話したんじゃないんだろ?」
『ああ。本題はお主の所に送った護衛の件だ。』
「えっと……ライマン・フランクか? まだ来てないけどな。」
『少々問題があってだな……』
「?」
『お主、自分が男であると証明しろと言われたらどうする?』
「……突然なんだ……?」
『もしくは、《オートマティスム》……溝川が女であることを確かめろと言われたら何をする?』
「なぞなぞか?」
『詰まる所そういう問題なのだ。あの魔法使いに関する問題は。本人は別に困っていないが吾らが困るタイプのな。』
「……らしくないな。なんだかあやふやに終わらせようとしてないか?」
『その通り。吾は知っているが教えぬ。その方が面白いのでな。』
「楽しそうだな。」
『楽しいぞ。お主とあやつの沈黙を破る者が現れ、事態は動いた。そこに新たな騒動。停滞よりも変動だぞ、安藤よ。』
「ちょ、おい《デアウ――」
 ……電話が切れた。意味不明な言葉を残して。
 《デアウルス》はオレが《ヤブ医者》になった時から何かと気にかけてくれている。あの人とあいつと仲が良かったらしい。
「あの人は顔が広いなぁ……」
「誰の顔が広いって?」
 独り言のはずが誰かが反応した。机の方を向いてる身体をくるりと回転させて後ろを見ると、診察室の入り口にるるが立っていた。
「キョーマ。あんた受付に呼び鈴ぐらい置いたらどうなの? 受付に誰もいないんじゃ診察受けに来た人が困惑するでしょう。」
 いつものように白衣で長い黒髪。いつも機嫌が悪そうな顔をしている。
「考えておく。んで、何しに?」
「『半円卓会議』から帰ってきてもうどれだけ経ってると思ってんの? アタシへの報告はどうしたのよ!」
「ああ……忘れてた。」
 そう言えば急にヴァンドローム絡みの患者さんが増えた理由を報告する約束をしてたな。
「あんたねぇ……」
 ため息をつくるるをとりあえず椅子に座らせ、オレはお茶を用意する。
「コーヒーはないの?」
「そんなオシャレな物はない。つーかるる、お前だってコーヒー飲めるようになったの最近じゃなかったか?」
「うるさいわね。」
 お茶を受け取るとゴクリとのどを鳴らして半分程を一気に飲んだ。結構熱いはずなんだが。
「さぁ、報告をしなさい。」
「……一つ確認するが、お前は《お医者さん》の知識を持ってはいるが技術がない《医者》ってことでいいんだよな。」
「そうよ。」
 るるは《医者》だ。だが《お医者さん》の世界も重要視してかなり勉強してるからそこらの《お医者さん》よりも知識がある。
「《パンデミッカー》って知ってるか?」
「風邪をひいてるのにマスクもしないで周囲に菌をばらまくアホのことかしら?」
「あー……確かにそういう意味合いでも使う言葉だが……これはとある組織の名前だ。ヴァンドロームを捕まえてそこら辺の人にとりつかせてる。」
「それが患者が増えた原因? つまり故意の現象だったってこと?」
「そうなる。」
「ま、そいつらの目的とかはどうでもいいわ。《医者》に影響はあるの?」
「連中にとって周囲の人間は《お医者さん》かそうでないかの二パターンしかない。ヴァンドロームを使って悪だくみしてる連中だからな、《お医者さん》を敵視してる。そうでない人はその他大勢ってくくりだろうな。《医者》だからなんかされるってことは無いと思う。」
「そ。」
 そう言いながら二口目でお茶を飲みほした。
「……その危険な連中は突然現れたの?」
「突然っつーか……昔もいたんだが二十年前に壊滅してんだよ。」
「なんで復活したのよ。」
「さぁ? 組織のメンバーを全員捕まえたわけじゃないからな。リーダー格ならともかく下っ端まで全てってのは難しいからな。生き残った奴らが復活させたのかもしれない。」
「つめが甘いわねぇ……」
 三口目を飲もうとしたが既に湯飲みの中が空っぽであることに気付いたるるはオレのお茶を奪って飲む。まぁよくあることだから特に何も言わなかったが。
「……そういえばあの子は?」
「ことねさんのことか? 今小町坂のとこに治療の見学に行ってる。」
「ふぅん……」
 るるは目を細め、どこかを見ながら何かを考える。髪の毛をいじりだしたから間違いない。
「……なんだ、今日はやけにのんびりだな、るる。」
「キョーマ……あんた――」

「すみませーん。」

 るるが何かを言う前に受付の方から声がした。
「安藤先生いますかー?」
 ん? オレの名前を知ってる人……? ライマン・フランクが来たのか? それとも《パンデミッカー》か? とか思いながら受付に行くとどちらでもないがちょっとびっくりする人がいた。
「あ、いた。」
「佐藤……えっと……」
「成美です。この前はどうも。」
 《アイサイト・イーター》にとりつかれていた患者さん、佐藤成美さんがそこにいた。
「えっと……なんでここに?」
「治療して欲しい人がいるんです。たぶん……ヴァンドロームでしたっけ。あれにとりつかれているんだと思うんです。」
「つまり《医者》の診察は受けてないってことかしら?」
 奥からるるも顔を出す。るるがオレを佐藤さんに紹介したから佐藤さんとは面識がある。
「あ、白樺病院の……」
「藤木よ。で、アタシの指摘は正解?」
「はい……」
 つまり、一般人でも明らかにおかしいと思う症状ってことだ。
「なるほど。んで……その人はどこに?」
「外にいます。」
 そう言って佐藤さんは一度外に出た。そして佐藤さんに引っ張られる形で現れたのは佐藤さんより少し背の低い制服を来た女の子だった。
「この子、私の後輩なんですけど……」
 佐藤さんが大学生くらいだからその後輩となると……高校生か。ことねさんと歳が近い感じだろうな。まぁ……ことねさんは小さいから二人並ぶとそうは見えないかもだが。
「先輩……あの、この人が……?」
「そうよ。私の目も治してくれたの。」
 ん? 目「も」? そう思って顔を良く見てみたら前髪で隠してはいるけど左目に眼帯をしている。
「オレは安藤享守。よかったら話してみない?」
 オレがそう言うとその高校生は疑わしげな視線を向けつつも頷いた。
 診察室に入り、オレは机に、高校生は患者さん用の椅子に、佐藤さんはその後ろに立った。そしてなぜかるるがベッドに腰掛けた。
「……るる?」
「久しぶりに見学させてもらうわ。」
 珍しいこともあるもんだ。いつもはセカセカと忙しそうなのに。
「よし……まずはお名前を。」
「はい……川口奈菜です。」
 声のトーンが低い……明らかに元気が無いな。
「……ちょっと握手してもいいかな?」
「え……?」
 川口さんは不安そうに佐藤さんを見る。佐藤さんにも握手の意味はわからないはずだが、こくんと頷いてくれた。それを見た川口さんは手を前に出す。オレはそれを握った。

 いい身体をしている。女性としてということではない。各部の筋肉がいい付き方をしている。アルバートなら見ただけでわかっただろうがオレは触れないとわからない。そう、川口さんは明らかに何かのスポーツをしている。髪の毛もショートヘアであり、長い前髪は眼帯を隠すためだけにそうしたのだと推測できる。
 個人的なイメージだがスポーツ少女ならばもっと元気があってもいいはずだ。それがこんな、誰の目にも明らかなほどに沈んでる。
 深く侵入しないとはっきりしたことはわからないが……かなりの量の『元気』を食べられているようだ。
 軽く目の方も調べてみたが……外的な何かは無い。つまり目が痛いとかそういうわけではなく、おそらく佐藤さんと同じように視界に問題が出ている。

「ありがとう。」
「はい……」
「さて……とりあえず症状を聞こうかな。その左目なんだよね?」
「そうです……」
「眼帯を外してもらうことはできる?」
「だ、だめです!」
 そこで川口さんが声を大きくした。んまぁ色々あるだろうし、実際に見るのは話を聞いてからでも遅くないか。
「わかった。なら……どういう症状か教えてくれる?」
「は、はい……」
 川口さんはうつむいたまま話を始めた。
「さ、最初は赤色とオレンジが見分けられなくなっただけだったんです。」
「赤とオレンジ?」
「はい。何故か左目だけで見ると見分けられないんです。右目は大丈夫なのに……それでその後はだんだんと緑系の色が見分けられなくなっていきました……」
「なるほど、『色覚異常』か。」

 色覚異常。色盲や色弱とも呼ばれたりする。後天的になることもあるにはあるが多くは先天的、つまり遺伝する病気だ。パターンとしては色がまったくわからない場合、赤緑系が見分けにくい場合、青黄系が見分けにくい場合とある。
 先天性の色覚異常は、これといった治療法がない状況だ。だが川口さんの場合はヴァンドロームの『症状』だから治る。
 問題はどのヴァンドロームで現在の進行度はどのくらいかということ。『色覚異常』を引き起こすヴァンドロームは実は結構いるんだな、これが。

「そ、それで……次は青色、黄色と……見分けられない色が増えていって……」
「今は?」
「……全部同じ色に見えます……左目は。」
「何色に?」
「……白……です。なんだが古い映画を見ているような……モノクロの世界です。」

 『色覚異常』を引き起こすヴァンドロームは種類によって最終的に向かう状態が異なる。視界が白で染まっていくということは……

「ふむ。Dランクヴァンドローム、《ホワイトアウト》……だね。」
「ヴァン……ドローム……」
 川口さんは佐藤さんを見た。それ受けて佐藤さんがオレに話す。
「あの、ある程度のこと……私が先生から教えてもらったことは全部この子にも教えました。《お医者さん》やヴァンドロームのこと……」
「それはよかった。説明する手間が省けて何より。ただ、あまり嬉しくない事実が一つある。」
「え……なん、ですか?」
 川口さんが不安そうにオレに尋ねた。
「進行度のことは聞いたかな? 今の川口さんはね、限りなくレッドに近いイエローという段階なんだよ。」
「レッド!? 先生、それって……」
 オレの言葉に反応したのは佐藤さん。佐藤さんは知っている……この進行度が何を意味するのかを。そしてそれを教えてもらったという川口さんの顔も青ざめた。
「はっきり言うけど、川口さん。」
「は、はい……」
「このままだと、君はあと二週間で死ぬ。」
 オレの言葉に川口さんと佐藤さんは息を飲む。ただるるはあきれ顔で呟いた。
「あんたねぇ……もうちょっとオブラートに包んで言いなさいよ……」
「ん? 関係ないさ、今日治すんだし。」
 笑って見せたものの……オレの中には疑問が一つ。それだけは解消しなければならない。
「川口さん……一つ聞くけど……なんでこんなになるまで?」
「すいません……でも……だって……」
 ……ただ《ホワイトアウト》がとりついただけなら、『色覚異常』が出るだけだ。たぶん、それなら川口さんだって病院に行った。それを行かなかったということは……人として、いや女性として見られたくなかったということ。外から見ても異常だとわかるような……左目を。
「その左目……『色覚異常』だから隠しているわけじゃないね?」
「……!」
「川口さん。オレがさっき言ったヴァンドロームは本当に『色覚異常』を引き起こすだけなんだよ。君の『症状』からそいつがとりついていることは確かだ。でも……外見に変化を及ぼすような奴じゃないんだよ。何か起きているなら……見せて欲しい。」
「だ、だめですよ……これをとったら……」
「何か起きるの?」
「せ、先生が……火傷します。」
 ……火傷……火傷? Dランクのヴァンドロームの『症状』が……攻撃力を持っているってことか? それじゃまるで……《パンデミッカー》じゃないか……
「こっちの目で何かを見ると……視界が一気に真っ白になって……気付いたら……左目に映っていた物が全部黒く焦げるんです……」
「すごいわね、それ。」
 るるが軽い口調だが真剣な顔で言った。
「それって、目からビームでも出てるってことじゃないの?」
「そ、そんな……」
「……るるこそ、オブラートに包めよ……」
「ビームをどう包むのよ。」
 しかし……つまりどういうことなんだ? 《パンデミッカー》が本能的能力制御……連中が言うところのリミッターを解除したヴァンドロームがその辺をうろついてる……?
 いや待て。《ホワイトアウト》の進行度がここまで来るには一年ちょいかかる。てことは……活動再開前の……準備として……? リミッターを外す練習でもしてたのか……?
「先生!」
 オレが考えていると川口さんがオレの両手を握った。
「な、治せるんですよね? 今!」
 ……そうだ。何よりもまずは治療だな。
「そうだね。それじゃ始めようか。」
 とりあえず倒しはしないで生け捕りにしたいとこだが……あいにくオレはヴァンドロームを留めておく術を持ってない。小町坂がいればな……
 かと言って逃げる可能性があるからなぁ……しょうがない……あれをやるか。
「えぇっと……ちょっと特殊な状態なんで……十分くらいかかりますよ。あと佐藤さん。」
「え、は、はい?」
「ちょうど佐藤さんが立っているあたりに出現するから少し離れていて下さい。」
「え!? こ、ここにいるんですか!?」
「《ホワイトアウト》はたいてい頭の真後ろにいますからね。川口さんはオレの方を見てて下さい。るる、ちょっと手伝えよ。」
「? 何をどうしろっての?」
「オレが合図したら川口さんの眼帯をとってくれ。」
「だ、駄目ですよ先生!」
「大丈夫だから。」

 接続。開門。強制介入。侵入。反撃……クリア。抗体……クリア。展開。解析。把握。
 強制上書き。強制認識。強制実行。
 加えて、命令。拘束。

「……るる、頼む。」
「はいはい。」
 るるが眼帯をとる。そこにあったのは勿論川口さんの左目。ただし、少しおかしい。目は白い部分、ちょっと茶色っぽい、人種によっては青だったりする部分、黒い部分という感じで色分けされてるんだが……今の川口さんにはその茶色っぽい部分がない。いや、あるんだろうけど色が白い。つまり瞳の部分以外が真っ白なのだ。白目をむいた人間の目にマジックで黒い点をぽつんと描いたような……そんな目だった。

 治療を続けること七分ほど。そこで佐藤さんが小さな悲鳴をあげた。
「せ……先生……」
 さっきまで佐藤さんがいた場所、川口さんの頭から少し上の空間が歪む。歪みに段々と色がつき、やがてそこに一体のヴァンドロームの姿を描き出した。
 かなりグロテスクな姿。《デアウルス》ほどじゃないがこれを可愛いとかカッコイイとか思う人は確実に常軌を逸している。内臓に小さな手足がついたような容姿の生き物がそこにいた。そいつは一切身動きせず、浮いていた場所から落下して診察室の床に転がった。
「……ちょっと異常な『症状』だったからね……捕まえて専門家に見てもらう。」

 さらに治療すること三分。ヴァンドロームを切り離したから本来ならここで終わりだが……目に異常が残っていたら困るので調べる。

「……ふぅ。」
 治療終了。オレは川口さんの頭をポンとたたく。
「お疲れ様。鏡を見てみな。」
 未だに左目をぎゅっとつぶっている川口さんはポケットから手鏡をとりだした。さすが女の子。
 鏡に自分の顔を映し、おそるおそる左目を開いた。
「――! 治ってる!」
 今までの沈んでいた表情がうそのように消え、満面の笑みになった。
「先生! ありがとうございます!」
「うん。オレにお礼を言うのはまぁ、間違ってないかもだけど、佐藤さんにもお礼を言うんだよ。命の恩人と言っても過言じゃない。」
 オレの言葉を聞き、川口さんは佐藤さんにもお礼を言う。というか泣きながら抱きついた。

 佐藤さんと川口さんを見送り、オレは診察室に戻る。
「んで、これは?」
 るるが床に転がる《ホワイトアウト》を指差す。
「まだ生きてんでしょ? 実験でもすんの?」
「いや、死んでるよ。死んでるに等しい。」
「?」
「人間でいうところの植物状態にしたんだよ。一度こうしてしまったらもとに戻す術はない。少なくともオレには無理だ。」
「意味無いじゃない。生命器官がほとんど停止してるなら……」
「それでも灰にするよりはマシ……だ。」

 その後るるも帰り、一件落着かと思ったんだが……ことねさんがずいぶん慌てた様子で帰って来たのだった。


 私は驚きが連続しすぎて困った。小町坂さんのとこでの事を一刻も早く先生に伝えないといけないと思って走って帰ってきた。そしたら先生が診察室でガラスのケースに入った謎の物体を見つめていたのだ。
「……先生?」
「お帰りことねさん。どうしたの? 肩で息してるけど。」
「えっと……それよりもそれはなんですか……?」
 先生が見つめていた物を指差す。
「ああ……《ホワイトアウト》。ちょっと大変なことになってたから捕まえた。さっき専門家に電話したから明日には持ってってくれると思う。かなりグロいけど一日だけ我慢してね。」
「はぁ……そうですか……」
 まぁ詳しい話は後で聞くとして、今はこっちの方が大事だ。
「先生、実は小町坂さんのとこでですね……」
 私は小町坂さんのとこで起きた事の一部始終を話した。話してる間、先生はびっくりしたり困ったりと色んな顔になったけど……おじいさんの件で眉をひそめた。
「――ってことがありました。」
「……とりあえず無事でなにより。《オートマティスム》に感謝だね。」
「は、はい。」
「そして……うん、たぶんそのおじいさんが犯人だよ。」
「……え……?」
 先生は人差し指を立てて話しだした。
「小町坂の病院は一階から四階が《医者》のテリトリーとなっている。だけど風邪みたいにそこまでまずい症状でないのなら一階で診察するんだよ。一階で済む症状の人は階を間違えるどころかエレベーターに乗る必要がないんだよ。」
「……! 言われてみれば……そうですね。」
「まぁ興味本位で五階に来て見学してたら医者が来たからなんとなく嘘ついちゃったって可能性もあるけどね。この前来たカールっていう《パンデミッカー》みたいに姿を消せる敵だったのかもしれない。でも一つだけ、明らかに変なとこがある。」
「それは……?」
「小町坂を見てお医者さんと言った事だよ。」
「……? 何でですか?」
「白衣を着てるならともかく、あいつはいつも和服でしょう?」
「それはそうですけど……だって小町坂さんは院長さんなんですよ? 知っててもおかしくないですよ。」
「仮に知っているとしたらそれはそう紹介された時のみだ。例え院の中を歩いてても医者には見えないし、ましてや院長とは思わないからね。そして、小町坂を院長として知っているのなら『院長さんが走って来た』と言うはずなんだよ。」
「そうでしょうか……」
「例えばことねさんがとある小学校で大人の人を見たらそれは教師かなと思うでしょう?」
「はぁ……まぁ。突然なんですか?」
「だからとりあえず先生って呼ぶ。だけどその人が校長先生とわかったら校長先生って呼ぶでしょう?」
「……まぁ……」
 なんだかうまく丸めこまれたような気がしないでもないけど……先生の言う事が的外れとも思えない。でもあのおじいさんが犯人だとしたら……
「《パンデミッカー》も高齢化が進んでいるんですかね。」
「さぁ……そのおじいさんが見た目通りの年齢とは断言できないしね。」
「え?」
「しかしまずいねぇ。」
 私が見た目通りでないという件を質問しようとしたら先生が呟きだしたのでタイミングを逃してしまった。まぁ、あとでいいか。
「《ミスユー》が《パンデミッカー》のもとにあるとなると……何をしでかすかわかったもんじゃない。」
「そう……なんですか?」
「連中はヴァンドロームを好きな対象にとりつかせる技術を持ってる。てことは、好きな相手に『禁断症状』を発症させることができるってことだ。例えば社会的にかなりの地位にいる人にとりつかせて事件を起こさせることができちゃうし……うまくやれば殺人だって可能だよ。」
「……確かにまずいですね。」
 例えばの話、テレビでインタビューを受けている人にとりつかせれば、その人は突然異常な行動を取るわけだからイメージがガタ落ちする。各国の代表が集まる会議でとりつかせれば、戦争だって引き起こせてしまう。
「何も起きなきゃいいんだけどね。」

 チリンチリン

 先生がため息をつくと同時に、なんだか風流な音がした。
「うん? 誰か来たね。」
「何の音ですか?」
「るるがね、受付に呼び鈴ぐらい置いとけって言うもんだから……とりあえず風鈴を吊るしておいたんだよ。」
 帰って来たときは気がつかなかったけど、先生の後について玄関に行くと確かに受付に風鈴が吊るしてあった。下に『ご用の方は鳴らして下さい』と書いてある。
 そして風鈴を鳴らした人が玄関に立っている。

「こんにチハ。」

少し発音がおかしい「こんにちは」だった。彼……彼女……? 中性的な顔立ちのその人は大きな旅行カバンを床に置いてお辞儀をした。
「今日からお世話になります、ライマン・フランクデス。」
 ファムさんほどではないけど、キラキラの金髪ショートカットにきれいな青い瞳。ベレー帽をかぶり、白いシャツにネクタイをゆるめにつけている。ズボンはスーツのそれなのでパッと見、『息苦しいパーティ会場から出て上着を脱いでネクタイをゆるめてリラックスしている人』みたいな格好だ。
「えっと……安藤先生でスネ?」
「うん、そうだよ。《デアウルス》から聞いている。ライマン・フランク……くん? さん?」
「であうルス? 誰ですか、そレハ?」
「……ああ……そうか。そりゃ、あいつが直接君に連絡したってことはないよね……なんでもない。」
「?」
「ま、とりあえずあがって。いろいろな話はそれからだよ。」
 持って行ってあげようとしたのだろう、先生が大きな旅行カバンを持ち上げようとする。しかしパントマイムをしているのかと思うぐらいに持ちあがらない。
「……何が入ってるんだ……?」
「術の道具デス。僕は東洋、西洋の両方を扱うので道具がたくさんあるんデス。」
「どうやってここまで?」
「術で軽くしていマス。僕にとっては軽くなるんデス。」
 そう言うと、ライマンさんは旅行カバンをひょいと持ち上げた。
「……」
 先生がおもむろにカバンの表面をなでる。
「ああ、なるほどね。あの眼球マニア、先生をしてるって聞いたけど、アメリカのスクールにいたのか。」
 先生が何やら呟いた。
 術を発動させるにはその場にヴァンドロームがいることが絶対条件だ。となると、あのカバンには小さいヴァンドロームが入ってたりするんだろうか?
ヴァンドロームは倒せば灰になるし、とりついていない状態での発見はほぼ不可能と言われているからその生態の研究はあんまり進んでないらしい。それでも多少はわかっているという事は専門に研究している人がどこかにいるということだ。きっと先生が呟いた……眼球マニアというのはその人のことなんだろう。
 意外と先生は顔が広いのかな?
「そうデス。眼球マニアがこのカバンをくれたんデス。」
 ……眼球マニアという呼び名が定着しているらしい……

 ライマンさんを私と先生がいつもご飯を食べている和室に案内する。
「たタミ! 憧れていまシタ。」
 正座をしつつたたみの表面をさするライマンさん。
「あ、そうだ安藤先セイ。」
「うん?」
「僕、敬語は苦手なのですが……先生は敬語で話して欲しい感じでスカ?」
「別にいいよ。」
「よかッター。」
 ライマンさんはふぅと息をはく。
「安藤先生って弟子を断り続けた人だから気難しいって噂だったんだヨネ。んじゃあ、軽い感じでいいんだヨナ!」
 ライマン・フランクさんは急にフランクになった。でも相変わらず発音が少し変だ。
「改めて自己紹介すルヨ。」
 膝の上に両の手をピシッとのせ、背筋を伸ばすライマンさん。
「僕はライマン・フランク。アメリカのスクールの三年せイダ。普通は三年生の最後に実技と筆記の試験を受けて卒業だけど、僕はそれなりに優秀な成績を修めてたから安藤先生のもとで学ぶという話がキタ。だから僕にとってはここでしばらく過ごす事が卒業の条件とナル。」
 なるほど。スクールは三年制なのか。
「成績優秀者には毎年こういった現役の《お医者さん》のもとで学べる機会が与えられるから、僕は誰のもとで学べるのかとワクワクしてイタ。そしたら《ヤブ医者》の一人のもとで学べるというからビックリサ! しかも《ヤブ医者》の中じゃ最も謎に包まれている上にとんでもない技術を持っている安藤きょウマ! ありがたいことダヨ!」
「そ、そうかい……」
 先生は照れる……というよりは困った顔をする。
「そして、僕の治療法は西洋と東洋のを融合した術シキ。特に日本独特の『拘束』という効果を他の術式に取り組もうと頑張ってるンダ。」
「へぇ、『拘束』を。」
「確か日本にはコッチノサカアツイヨっていうすご腕の《お医者さん》がいると聞イタ。その人にもあってみたイナ。」
「……小町坂篤人のことかな。」
「そう、ソレ。」
「え、小町坂さん? 小町坂さんてそんなに有名なんですか?」
 和服姿、キセル、長い黒髪。そんな単語が漂う人が?
「んまぁ、日本の術式を扱う《お医者さん》の中じゃ頂点に位置するんじゃないかな。いくら《お医者さん》の治療法が上下をつけがたいと言っても、同じ派閥の術を使うなら上下は生まれるからね。」
「……先生の周りってすごい人しかいませんね……」
「類はともを呼ぶ~かね。」
「……」
「ごめんなさい。変に自慢しないからそんな冷たい目で見ないで下さい。」
「あハハ。面白いナァ。というかその話から察すると、コッチノサカアツイヨと安藤先生は知り合いなノカ?」
「まぁね。ところで一つ聞いていいかな?」
「なンダ。」
 先生は困り顔でほっぺをポリポリかきながらこう尋ねた。
「ライマン・フランク。君は男の子? 女の子?」
 私も気になっていたことを先生が聞いてくれた。その質問を聞いてライマンさんはぶすっとする。
「見るからに男ダロ! どこをどう見たら女になるんダヨ。」
 ああ……男なのか。
「ごめんごめん。気に障ったかな。」
「……慣れテル。」
「だろうね……」
 私がそう呟くとライマンさんは私を指差す。
「安藤先セイ。この子は誰なンダ? まさか弟子なノカ?」
「生徒であり、患者さんだね。」
「患者サン? とりつかれているノカ?」
 ライマンさんが私をまじまじと見る。
「ライマンくんはSランクって知ってる?」
「もちろンダ! 突然変異を起こし、生物としては規格外の能力を持ったヴァンドロームのこトダ! 大きく分けると二種類にナル。人間を遥かに凌駕する頭脳を持った天才か、知能は皆無だけどそれゆえにとんでもなく野性的なヤツ。現在確認されているのが十三タイ。いるかもしれないっていう段階のが二タイ。そんで、十三体の内の三体は《お医者さん》側にいるって聞いていルヨ。」
「三体?」
 私は首を傾げる。《デアウルス》さん以外にも二体いるのか?
「そうだね。その三体に加わるかもしれないもう一体ってのがとりついてるんだよ。」
「誰ニダ?」
「この子。」
 今度は先生が私を指差す。その瞬間、ライマンさんがザザザッと後退し、部屋の隅っこに移動した。
「ま……まさか、今騒がれてる『エイリアンハンド』!」
「その通り。溝川ことねさんだよ。」
「だ、大丈夫なノカ!?」
「別に問題ないよ。ライマンくんがことねさんの着替えとかお風呂を覗くと宇宙まで殴り飛ばされるだけだね。」
「先生……」
「き、気をつけルヨ……」

 そんな感じで軽い自己紹介は終了した。そしてその後、問題が発生。
「困ったね。ライマンくんのお部屋はどうしようかね。」
 甜瓜診療所の生活空間はそんなに広くない。先生の部屋、私の部屋(私が来る前は物置き)、和室があってその他はトイレとかお風呂だ。診療所に住み込みで働く環境としては充分な広さだけど、さすがに住人が三人となると狭くなる。
「大丈夫ダヨ。僕はこの畳にお布団をしいて寝るカラ。というかそうしタイ。」
「そう? まぁ……荷物の置き場所とかはおいおい考えていくとしようか。」
 そう言うと先生はキッチンの方に向かい、冷蔵庫を開けた。
「うーん……折角だから日本料理でおもてなししたいね。ちょっと材料を買ってくるよ。」
「あ、私行きますよ?」
「いやいや……今日、オレここから一歩も出てないからね。それに、二人は年齢近いからそっちの方が会話が盛り上がりそうだし……ライマンくんに色々教えておいて。」
 便所サンダルと白衣でスーパーに向けて出発した先生。あんな格好では警察に捕まりそうだけれど、心配はない。実はこの辺では先生は有名人だ。変な格好で出歩いていることもそうだけど、ケガした子供とかを見つけると《医者》として治療したりしているから人気があるのだ。たまにご近所さんからミカンをもらったりしてくる。
「安藤先生はいつもあの格好なノカ?」
 玄関で先生を見送ったあと、ライマンさんがそう尋ねてきた。
「そうですね。あれ以外は見た事ないです。」
「そうなノカ。ところで……年齢が近いって言ってたけど、君は何歳ナノ?」
「私は十七歳です。ライマンさんは?」
「僕は十八歳ダヨ。」
 ということは高校三年生。つまりスクールは専門学校みたいな物か。
「年しタカ。なら僕は君をことねと呼ぶことにすルヨ。」
 基本的に私は名前で呼ばれるけど……呼び捨ては初めてかもしれない。
「……一つ聞きたいんだケド。」
 言いながらライマンさんが和室に向かったので私もついていく。
「なんですか?」
「ことねは女の子だヨネ? 安藤先生は何か言わなイノ?」
 畳にあぐらをかきながらライマンさんはそう言った。

 ライマンさんが言わんとしていることはつまり、女の子なのに《お医者さん》を目指していることに対して先生が何も言わないのかということだ。
 女性は《お医者さん》に向かない。これはもはや常識だ。
 その昔、一般人からは魔法使いとか錬金術師とか言われていた《お医者さん》はそのほとんどが男性だったからそもそも女性がどうという話はなかった。
 でも、近代になって女性が《お医者さん》として活躍するようになり、ある事が頻発するようになった。切り離したヴァンドロームに取りつかれるという事件だ。
 切り離されたヴァンドロームはもちろん臨戦態勢をとるから、そこで『食べること』は考えないはずだった。だけど切り離した相手が女性の場合、ヴァンドロームはその食事の邪魔をした者を『始末したい』という考えよりも『食べたい』という考えの方が強くなってしまうのだとか。
 つまりはそれだけ、ヴァンドロームにとって女性はおいしいのだ。理由としては、女性……メスが子供を自分の身体に宿すかららしい。自分以外の命を体内に持つということは、その生き物が相応のエネルギー……『元気』を持っているという事になり、オスとメスでは『元気』の質が大きく異なるそうだ。
 そんなこんなで女性は《お医者さん》には向かないという常識が生まれたのだ。

「……私の場合、特殊ですからね。」
「といウト?」
「私の左手には《オートマティスム》……Sランクのヴァンドロームがいますから……他のヴァンドロームは私にとりつこうとは思いません。」
「アア……」
 一体の生き物に複数のヴァンドロームがとりつくことは別に珍しいことじゃない。だけど私の場合はありえない。先生に言わせれば、『世界最強の生き物の住処に土足で踏み込んだり、そいつのご飯を横取りするようなマネをする奴はいないよ。』だそうだ。
「――イナ。」
「え?」
 ライマンさんが、ここに来て初めて沈んだ顔になった。だけどすぐに楽しそうな表情に戻る。
「いや、何でもなイヨ。それよりも、この建物を案内しテヨ!」
「案内するほど広くないですけどね……」


「ポン酢戦争だ!」
 オレは近くのスーパーに入り、日本料理の候補として刺身を思いついたから魚コーナーに移動した。そこでオレは変な二人を見た。
 一人は長い黒髪に和服、下駄をはいてキセルを加えた小町坂。もう一人はなぜか白衣姿の小町坂の病院の看護師さんの一人、高木さん。
 気付かれないように遠ざかろうと思ったが、あいにくオレの白衣は目立つので……
「あ、安藤先生!」
「ぬぁ!? 安藤じゃねーか!」
 オレは軽くため息をつきながら二人のもとに移動する。
「……何してんだ、小町坂。」
「ポン酢戦争だ! 高木の奴がなぁ、カツオのたたきにしょうゆかけるとか言いだしやがったんだ。信じられるか?」
「何言ってるんですか! お刺身にはしょうゆって決まってるじゃないですか! 先生はお寿司をポン酢で食べるんですか!」
「馬鹿が! カツオのたたきだけはポン酢なんだよ!」
「何でですか! 安藤先生はどう思いますか!」
 話が飛び火した。ポン酢としょうゆ……つーかオレはポン酢自体あんま使わねーからなぁ。別にポン酢がマズイわけでもしょうゆがウマイわけでもないが……
「オレはしょうゆだなぁ……」
「ほらぁ!」
「また裏切ったか、安藤!」
「というか何でこんなとこで買い物してんだ? パーティーでもするのか?」
「そうなんですよ! この前やった戦争で先生が負けたから罰ゲームとして全額先生負担の立食パーティーするんです。」
「……カツオのたたきで?」
「いえいえ。お菓子部隊、お肉部隊、野菜部隊と色々なチームに分かれて買いに行ってるんです。あたしは魚部隊。そしたら先生が『俺も同行する!』って言いましてね。」
「この俺が和食のメインたる魚の購入に素人だけを行かせるわけないだろが。」
「またそうやって日本人キャラをアピールですかー? その格好だけで十分ですよ。」
「キャラ作りでこの格好なわけじゃねーよ!」
「え、そうなんですか?」
「え、そうなのか?」
「お前ら!」
「てか、何の戦争したんだ? ミートボールか?」
「んなのとっくに終わってる。この前やったのはデジタル戦争だ!」
「アナログ時計とデジタル時計の戦いです。」
 どーでもいい戦争が週一ぐらいで起きるのが晴明病院というところだ。

 ポン酢(しょうゆ)戦争は高木さんの勝利となった。そして、日本料理を振る舞う為に買い物にきたオレは、その専門家らしい(?)小町坂の意見を聞きながら食材を選ぶ。
「そういや、安藤。《ミスユー》の話は聞いたか?」
「ああ。」
「……そんで?」
「ああ?」
「いや、安藤よ……《パンデミッカー》に関しちゃお前の方が詳しいだろが。話を聞いてどう思った?」
「かなりまずいな。《ミスユー》の性質上……連中が良からぬ事を企むと考えるのが普通だ。」
「《お医者さん》にとりつかせるとか? 《ヤブ医者》とかよ。」
「それもあるかもだが……効率が悪いな。別に《ヤブ医者》が他の《お医者さん》を総べてるわけじゃねーし。」
「つーと……《お医者さん》全員に影響があるような奴に……?」
「そうなるかな。《お医者さん》の一番の悩みは知名度の低さだ。かといっていきなり発表しても混乱を招くだけってんでゆっくりと取り組んでる。《パンデミッカー》が突くとしたらそこだろうな。」
「どんな人が狙われるんですかね?」
 高木さんがひょっこりと会話に入ってくる。
「うん……高木さんみたいな人かな。」
「ええっ!?」
「ああ? なんでこんなチンチクリンがぼぁっ!」
 小町坂が高木さんのリバーブローを受けて悶絶する。
「なんであたしが?」
「……《お医者さん》の知名度を上げる為に動く人ってのはね、《お医者さん》に対してきちんとした理解を持っていて、その必要性を知っている《医者》なんだよ。高木さんはどっちかというと《医者》側でしょう?」
「そうですね。」
 高木さんは晴明病院でお仕事をするようになって《お医者さん》を知った人だ。小町坂とよく一緒にいるのはたまたま小町坂の仕事の補佐を任されたからだ。
「《パンデミッカー》にとっての障害ってのは《お医者さん》だけだからね。その存在を危うくする行動しかしない。そう考えると……狙われる人は、《医者》としてかなり高い地位で影響力を持っていて、かつ《お医者さん》への理解がある《医者》だね。」
 そういう《医者》が例えばその地位からおろされたりなんかしたら《お医者さん》の方に患者さんがまわってこなくなることだって起こり得る。『元気』収集のためにヴァンドロームをとりつかせてる《パンデミッカー》にとっては素晴らしい状況になるわけだ。
「となると……誰ですかね。」
「『半円卓会議』に出席してる《医者》って考えるのが妥当だね。少ないけど、《お医者さん》のことを理解してる人もいる。だけど、それくらいは誰だって考えるだろうし、そういう《医者》には常に警護する人間がいるもんだし。」
「へぇー。」
「そうなると……だいぶしぼれるんじゃないかな。オレにはそれが誰かはわかんないけどね。」


 吾はモニターの前にいる。画面に映っている人物はアルバート。
『ワシのテレビにこんな機能はなかったはずなんだがな! スイッチを入れたらいきなりその顔の登場、心臓が止まるかと思ったぞ!』
 こいつの心臓が止まるというのはかなりの衝撃だろう。吾の姿はそんなに衝撃的なのか。
『驚かせてしまったか。悪いな。だがお主のところの電話にかけるとお主の家の使用人が出るであろう?』
『なるほど。確かに電話口で聞くにはお主の声は怖すぎるなぁ、ガッハッハ!』
 ふむ。吾もアルバートも相手を『お主』と呼ぶ故、どうもおかしな会話になるな。
『安藤にこの前言われたばかりでな。それを考慮した結果、このモニターを使うことにした。』
『スッテンの奴が作ったとかいうあれか? ネットに繋がっていなくともあらゆるモニターとつなぐことのできる物だったか。ワシのテレビをテレビ電話にしてしまうのだからな、恐ろしい技術だ!』
 ガッハッハと笑うアルバートは暑苦しい姿だった。下着一枚でソファに座っており、全身に良い汗をかいている。運動だか筋肉トレーニングだかをした後、休憩もかねてテレビを見ようとした……というところか。その肉体からは湯気のようなモノが出ている。
『んんっ? どうした《デアウルス》。ワシをじっと見て。お主も筋肉を求めるか!?』
『思うに、吾の身体に筋肉という器官はないぞ。』
『ガッハッハ! 確かにな!』
 笑いながら何かをシャカシャカと振り、牛乳のような飲みモノをゴクゴクの飲むアルバート。
 どうも常に筋肉トレーニングをしているイメージだが……治療はいつしているのやら。
『……本題に入るぞ。』
『おう!』
『《パンデミッカー》に動きがあった。日本でな。』
『ふむ? 先ほど安藤の名前が出たのはその為か。何があった?』
『とある《お医者さん》が治療しようとしていた……いや、倒そうとしていたヴァンドロームが連中に強奪された。』
『ほう。』
『そのヴァンドロームは特例Dランク、《ミスユー》だ。』
『なるほど、それはまずいな。良からぬ事が起きるであろうな。ワシに何をしろと?』
『ある《医者》を護衛して欲しい。今現在、イギリスにいるのでな。』
『……『禁断症状』を発症されると面倒な立場であり、その立場でなくなるとワシら《お医者さん》に相応の影響がある《医者》……か。』
『物わかりが良くて助かるな。その通りだ。純粋な戦闘力で言えば、お主が適任であろう。』


 翌日。私は電車に乗っていた。
昨日は先生が買ってきた刺身でライマンさんの歓迎会をした。ライマンさんは刺身よりも刺身の下のツマに興味津津だった。
仕方のないこととは思うけど、フォークで刺身を食べる光景はちょっと面白かった。
今日、ライマンさんは先生の治療とかを見学するために診療所で普段私がやっていることを体験する感じになった。そこで先生は良い機会だからと言って私に詩織ちゃんの所に行く事を勧めた。
『半円卓会議』から帰ってきて一度も会ってないので、私は詩織ちゃんに会いに行くことにした。だから私は今、電車で鵜松明病院に向かっている。
「……でも私、鬼頭先生と一言も話してない……」
 いきなり行っても大丈夫なのかな。一応先生が連絡しておくって言ってたけど……
 そんな不安を抱えながら、外の景色を見ている私に誰かが話しかけてきた。
「溝川?」
 私を名字で呼ぶ人は少ない。誰だろうと思って振りかえると、そこには懐かしい……思いがけない…………誰だ?
「……?」
「おいおい、忘れたのかよ。俺だよ。」
「……?」
「だぁかぁら! 高校で同じクラスだったろーが!」
 よく見るとその人は私が通っていた高校の男子の制服を着ている。私が高校をやめたのは今から一年前、高校一年生の時だ。その時のクラスメート……なのかな。
「覚えてねーのかよ。坂本だよ。」
「坂本……」
 記憶にないなぁ。というか、男子の名前はほとんど覚えていない。
「溝川、いきなり中退すっからよ。びっくりしたんだぜ? なんでやめちゃったんだよ? 今、なにしてんの?」
 何をしていると聞かれると……治療と勉強だ。主にしているのは勉強だけれど……《お医者さん》の話を一般の人にしても信じてもらえない。信じてくれる人は実際にヴァンドロームにとりつかれた人だけだ。さて……何て言おうか。
「……」
「あ……まずいこと聞いちゃったか? わりぃ。言わなくていいぜ。」
 ……なんだか良い感じにまとまった。
「いやでも会えたのもなんかの縁だろ。メアド教えてくれよ。」
「……」
「いや、んな疑うような顔すんなよ。相変わらずだな。」
 疑うような顔になって当然だ。私はこの人を知らないのだから。会ったばかりの人に連絡先を教えるというのは少し抵抗がある。
 どうしようかなと考えていると、ケータイを取り出した坂本さんがびっくり顔になった。
「うぇ!? ケータイ、電池切れてんじゃん! なんだよ、くっそー……」
 坂本さんは、メアドはまた今度教えてくれと言ってケータイをしまった。どうしても知りたいのであったなら、紙に書くなり方法はあったと思うけど……そこまでして私の連絡先を知りたいわけではないのだろう。
「……ところで……」
「うん?」
 私は少々疑問に感じていることを坂本さんに尋ねた。
「こんな時間に通学って大遅刻ですよね。」
 現在の時間は十一時手前。学校では既に一時間目の授業がスタートしているはずだ。いや、二時間目かな。
「んぁあ。俺、昨日まで風邪ひいててな。さっき病院行って来て、治りましたねって言われたとこなんだ。だからこれから学校行くんだ。」
 そこまで行って、坂本さんが声のボリュームを下げてこう言った。
「俺はただの風邪だったけどよ、最近は変な病気が流行ってるみたいだぜ。」
「変な?」
「ああ。これっていう病気があるわけじゃないんだけどよ、学校で多いんだよ。突然耳鳴りが止まらなくなったり、肩こりがハンパなくなったり、腹が痛くなったり……意味不明だろ?」
 残念ながら、私にとっては意味不明じゃない。ヴァンドロームだ。たぶん、《パンデミッカー》の仕業。
「……その病気になった人って、女の子が多いんじゃないですか?」
「なんだよ、知ってんのか? 別に女子だけってわけじゃないけど、割合は女子が多いな。」
 やっぱりだ。ヴァンドロームが人間にとりつく時、好む対象は女の子で、学生くらいの年齢だ。学校という所は良い……えさ場だ。
 《パンデミッカー》は『元気』を収集するためにヴァンドロームをたくさんの人にとりつかせている。学校を選ぶことは充分ありえることだ。先生に報告しないと……
「ん、俺はここで降りるぜ。」
 坂本さんは以前私も利用していた駅で降りた。しかし、降りた瞬間に不思議なことが起きた。
「? 電話だ……」
 さっき電池が切れたと言っていたケータイに電話がかかってきたのだ。坂本さんは不思議そうな顔で電話に出た。どうやら相手は友人だったらしく、楽しそうに話しながら駅のホームを歩いて行った。
「……」
 ドアが閉まって再び電車が動き出した。私は左手を見ていた。


 鵜松明病院。藤木さんがいる白樺病院と同等の大きな病院だ。私はとりあえず受付に行く。
「すみません。」
「はい。どうしました。」
「えっと……」
 うっかり詩織ちゃんの名前を出しそうになったけれど、詩織ちゃんは別にここで働いてるわけじゃない。となると言うべき名前は……
「鬼頭先生に会いたいのですが……」
 受付の人は首を傾げ、いくつかの資料をパラパラとめくる。
「キトウ……キトウ……」
 聞き慣れない名前を聞いたような顔だ。もしかして、《お医者さん》はそれ専用の受付があるのだろうか。
 私と受付の人が困り顔でいると、受付の人の肩にポンと手が置かれた。
「わたしがやります。」
 受付の人よりも年上の……ベテランという感じの人が後ろから登場した。受付の人は「はぁ」と言って後ろに下がった。
「えっと……あなた。」
「は、はい。」
「あなた……《医者》? 《お医者さん》?」
 その質問に、後ろに下がった受付の人は意味がわからないという顔になったが、私にはわかる。
「《お医者さん》です。まだ卵ですけど。」
「そ。こちらへどうぞ。」
 ベテランらしき人がついてくるように促したので、私はその人のあとを追った。エレベーターに乗り、ベテランらしき人は地下一階を押し――地下一階?
「ごめんなさいね。」
 ベテランらしき人はそう呟いた。
「ここ、《お医者さん》の部署ができて五年しか経ってないのよ。だからイマイチ《お医者さん》関係の方の案内が整っていなくてね。」
「そうなんですか。……ここには何人の《お医者さん》が……?」
「三人よ。」
 地下一階に到着。少し暗い廊下を進み、一つの扉の前で止まる。
「鬼頭先生、お客さんです。」
「んー。」
 ベテランらしき人が扉を開け、私に入るように促す。
 広い部屋だった。ヘタすれば甜瓜診療所の総面積くらいある。だだっ広い部屋の隅っこに机とベッドがあり、反対側の壁に本棚と……大きな冷蔵庫がある。あれは業務用じゃないか?
「では。」
 ベテランらしき人は扉を閉める。私は隅っこの机にいる人物の方へ移動する。
「んー……『エイリアンハンド』か。さっき安藤から連絡があった。」
 椅子をくるりと回してこちらを向いた人は《ヤブ医者》、鬼頭先生。癖っ毛が目立つ……たぶん染めたんだろう、金髪に悪そうな目つき。白衣を羽織っているけどその下にはドクロのTシャツとチェーンのついたズボン。パッと見、ものすごい不良だ。
 というか白衣もなんか変だ。『半円卓会議』で見た時は普通だった気がするけど、今目の前にいる鬼頭先生が羽織ってる白衣は……なんかすごい。襟がドラキュラみたいにとんがって立っているのだ。横から見れば鳥のくちばしに見えるかもしれない。改造制服ならぬ改造白衣か。
 『半円卓会議』はあれで正式な会議だから……着て来なかっただけかもしれない。普段はこっちの白衣なんだろうなぁ。
だけど、そんな悪い印象の鬼頭先生が口にくわえている物はタバコではなかった。
「んー、んぐんぐ。」
 今回くわえている物は板チョコだった。
「えっと……」
 とりあえず、あいさつしないと。
「突然すみません。今日は……えっと……」
「んー、気にすんな。俺にもメリットがある。」
 鬼頭先生はコーヒーを飲みながらチョコをかじる。
「《ヤブ医者》とは言え、俺と安藤は別に友達じゃねーからな。知り合いって程度だ。だが俺はあいつの奇妙な技術に大いに興味がある。色々おしゃべりしてぇわけだ。そんな時に詩織と『エイリアンハンド』が仲良しになったときた。安藤とそれなりの接点を持てたわけだ。さっきの電話も初めての電話だったしな!」
 くっくっくと笑いながらチョコを飲みこみ、キャラメルを口に放り込む。
「っつーことで改めて自己紹介だ。俺は鬼頭新一郎。《ヤブ医者》だ。」
「え、あ、はい。私は溝川ことねです。先生……安藤先生のところで《お医者さん》の勉強をしています。」
『んで、その左手がー?』
「えっと……《オートマティスム》です……ってあれ?」
 鬼頭先生の声じゃない、なんだか高い声が天井から聞こえた。
「んー、今のは……俺のダチだ。」
 鬼頭先生が上を指差した。つられて見上げた私は、思わず尻もちをつくほど驚いた。
 いつの間にかだだっ広い部屋の天井いっぱいに巨大なモノが出現していたのだ。
 例えるなら巨大な蜘蛛だ。脚と眼がついている部分としっぽのような部分。実際の蜘蛛と同じ身体をしており、八本の脚が出ている。ただ、良く見ると八本の脚の内、後ろについている二本の脚の長さが他の六本よりも短い。それを踏まえて全ての脚を見ると、前の六本の先っぽは三本の爪がついている……いわゆる「手」だ。そして短い二本の先っぽは五本の爪がついている「足」だ。
 蜘蛛のように天井にへばり付いているからそう見えるけれど、おそらくこの生き物は六本の腕と二本の脚を持つ生き物なのだ。
 先生が前に言っていた、「腕が六本あってその一つ一つの長さが五メートルはある」生き物……その名は《トリプルC・LX》。特Aランクのヴァンドロームだ。
『おおー。お嬢ちゃんがびびっちゃったぜー。』
 笑いながら私を見る《トリプルC・LX》。蜘蛛のようだけど眼の数は八つでなくて二つだ。まるでロボットのように、しゃべると眼が赤く点滅する。
「んー、お前は見た目怖いからな。でけーし。」
『いやいやー。うちとしてはあんまり怖がられるとまずいんだぜー。お嬢ちゃんの感情が乱れると《オートマティスム》がうちを消してしまいそうだぜー?』
「んー? そうなのか?」
 鬼頭先生が私を見る。
「えっと……確かに前はそうでした。私が怖がるモノとかを吹き飛ばしたりしていましたけど……今は大丈夫です。」
 それをやるとさらに私が困る状況になるということを先生との生活で《オートマティスム》が学んだから……と、先生は言っていた。
『ほらなー。まずいだろー?』
 《トリプルC・LX》がケケケと笑った。
 ……本当に……鬼頭先生と《トリプルC・LX》は長年の親友のように話している。これが鬼頭先生の目指す共存の形……なんだろうか。
「んー? 不思議か? 俺とこいつの関係。」
「ええ……そうなんですけど……その……」
 ヴァンドロームとの共存を目指している《お医者さん》。それだけなら純粋にすごいと思ったのだけど……『半円卓会議』で、私は鬼頭先生の戦う姿を見た。あれは対人のモノではなくて……対ヴァンドロームの技術だ。仲良くなろうとしている人が倒す技術も身に付けている。
「……刀で戦う姿と今の仲のいい姿が……ちょっと。」
「んー、なるほどな。」
 鬼頭先生は手帳を開く。
「んー、詩織は午前授業で終わりだけど来るまではもうちょいかかるな。よし、それまで俺の話をしてやろう。」
 鬼頭先生はスタスタと業務用冷蔵庫に近づき、それを開けた。中には大量の……チョコレート菓子が入っていた。世界中の「名称:チョコレート菓子」と書いてある物は全て揃っているのではないかというくらいにたくさん。そこから新たな板チョコを持ってきて再び椅子に座った。
「んー、俺が目指すのは確かにヴァンドロームとの共存さ。だがな、共存っつー言葉に惑わされちゃいけねーぜ。『エイリアンハンド』……溝川は共存っつー言葉からどんな光景を想像する?」
 共存……たぶん、根本的に違う生き物が一緒に暮らすこと……だ。私の頭に浮かんだのはライオンとシマウマが仲良く踊る光景。
「えっと……みんな仲良く……ですか?」
「んー、なるほど。だがな、それは不可能だ。」
「へ?」
 共存を目指している人がそれを不可能だと言った。どういうことだ?
「んー……例えば人間。歴史を見ろよ。共存以前に、生き物としちゃ同じなのに戦争とかしてんだろ? もっと身近に学校とかでもよ、クラスメート全員と仲良くなれるか? いるだろう、一人や二人相容れない奴が。」
「はぁ……まぁ。」
「んー、つまりな、同じ生き物でもみんな仲良くすんのは無理なのに違う生き物でそれが出来るわけないって話なんだよ。結局、仲良くなれる奴とは仲良く、嫌いな奴とは関わらずっつーのが限界だ。」
 鬼頭先生の意見に反論したい気持ちもあった。だけど私が知りたい事はその議論の結論じゃない。
 そもそも、《お医者さん》っていうのはそれぞれがそれぞれの考え、アイデアを持って治療を行っている。どれが良いとか悪いとかは言えない世界だ。だから、鬼頭先生の意見を否定した所で何も起きないし、意味がない。
 これは、私が先生から教わった《お医者さん》としての心得の一つだ。誰かの考えを否定することはやらない方が良い。ヴァンドローム自体、まだまだ謎の多い生き物だ。だからどの治療法が良いかなんて誰にもわからない。私が否定したいと思ったそれが特効薬かもしれないのだから。
 だから私はとりあえず頷いて、私が知りたい事を聞いてみることにした。
「そう……ですか。えっと、鬼頭先生は……そういう考えのもと、ヴァンドロームとはどんな風に接するんですか?」
「んー、基本な、俺は出会うヴァンドローム全てに仲良くなろうぜって歩み寄る。だがそれが叶わなければ戦闘になる。要するに俺とは相容れない奴とは戦わなきゃならんわけだ。そういう時の為の……戦闘技術さ。」
 たぶん、大抵のヴァンドロームが鬼頭先生の申し出を断るだろう。だって、ヴァンドロームにとって人間はえさで《お医者さん》は唯一の天敵だ。
 だけど……そもそもその申し出の意味がわかるかどうかが問題だ。ヴァンドロームの全てが人間の言葉を理解しているわけじゃない。
「……Bランク以上は……その、言葉が通じますから仲良くなれるとかなれないっていうことがわかると思いますが……Cランク以下は……」
「んー、確かにしゃべれる奴よりは難しい。だが、犬や猫を家族と呼ぶ奴がいるだろう? 主人のために動く動物ってのも結構いるだろ? そんな感じに、仲良くなれる可能性は充分ある。とりあえず、初めて会った時には敵意を見せずにウェルカムする。それで警戒しながらも寄り沿うようなら仲良くしようと思う。家族と呼べる関係を築いていこうとする。だが噛みついてくるなら戦う。頑張れば仲良くなれるかもしれないが、時間がかかるし、それで確実に仲良くなれるとは限らない。それだけだ。」
 鬼頭先生はにやりと笑いながらそう言い、《トリプルC・LX》もケケケと笑った。
『要するに、申し出を受ければ生かし、断れば殺すってことだよー。最悪だなー。』
「んー、わかってねーな。いつの時代、どんな所でも、異なる文化、思想を持つ者同士の最初の接触は片方が一方的なんだよ。」
 一言で言えば、鬼頭先生はかなり厳しい考えの持ち主だ。とても現実的で効率的。
 でも……たぶん、この人も最初はこうじゃなかったと思う。最初は私が言った共存を目指していたと思う。それを本気で目指したから……こういう結論に辿り着いたんだと思う。
そして、現在そういう結論に辿り着いている鬼頭先生が目指す共存とは一体……
「……鬼頭先生が目指す……最終目標はなんなんですか?」
「んー、ヴァンドロームの国を作ることだ。」
「え……国ですか?」
「んー、例えば日本を見ろよ。日本はアメリカとかとまぁまぁ仲良くやってるだろ? だが中国とかはたまに衝突してくるだろ? 国と言えど、仲良い奴も嫌いな奴もいる。ヴァンドロームの国を良いと考える奴もいれば、何を馬鹿なと言う奴もいるだろう。だがそれでいい。良いと考える奴と仲良くやってけばそれでいい。俺はそういう形を目指す。」
『ケケケー。うちはその国の大統領になるんだぜー。すげーだろー。』
 きっと……私が《オートマティスム》を左手に住まわせているからこそ……なるほどと思うんだろう。普通の人が聞いたらとり合いもしないと思う。それほどのことを鬼頭先生は話している。
 こういう人が……《ヤブ医者》と呼ばれる人か。きっと技術だけじゃないんだな。
「……鬼頭先生が《ヤブ医者》として認められたのはそういう考えが理由ですか?」
「んー、違うと思うぜ。俺が《ヤブ医者》って呼ばれる所以はこれだ。」
 鬼頭先生は机の引き出しから一冊のノートを取り出した。三百五十五と番号が書いてある。
「それは?」
「んー……有り体に言えば研究ノートだな。これで三百五十五冊目。」
「三百……何を研究してるんですか?」
「んー……ヴァンドロームの趣味……かな。」
「趣味?」
「んー、つまりな。仲良くなるにはきっかけがいるだろ? 人間でも、同じ趣味とかだと仲良くなりやすい。要は仲良くなろうとしてるヴァンドロームの好きな食べ物とか、好きな遊びなんかを話題に出して、仲良くなるきっかけを作りてーんだよ。このノートには現在確認されているヴァンドロームの趣味嗜好を調べた結果が書いてあんだ。まだ全部はやってねーけどな。」
「すごいですね……」
 今知られているヴァンドロームは数百種類いるはずだ。それを全部調べようとしているっていうのか。
「んー、別にすごかねーよ。内容はちげーけど、ある事柄に関して全てのヴァンドロームを調べた《お医者さん》はいるしな。」
「へぇ……」
 まだまだ私の知らない……偉人がいるんだなぁ。


 ことねさんが鬼頭のとこに出発した後、オレはライマンくんの技術を見せてもらうことにした。彼の治療法は東洋・西洋の術式を融合した物ってことなんだけど……
「……ライマンくん、これは?」
「レモンダ。」
「これは?」
「おもちゃのロボットダ。」
「これは?」
「風せンダ。」
 とりあえず診察室に術式を作ってもらったんだが……何かの法則で並べてはいるんだろうけど散らかった子供部屋にしか見えない。
 まぁ、《お医者さん》なんてこんなもんか。
「あっちのスプーンがこっちの紙ヒコーキに繋がって、そこの歯ブラシと反応して積み木にパワーがこめられて、そのクレヨンからこの赤い風船に来マス。」
「全然わかんない。」
「だヨネ。だけど内容は問題じゃないんダヨ。効果は確かだから見てクレ!」
 ライマンくんはそう言って例のバカみたいに重いカバンからお札みたいな物を取り出し、術式の真ん中に置いた。
「あれは眼球マニアが作ったダミーダヨ。これで一応発動するンダ。」
「なるほど……どれどれ。」
 オレはライマンくんから一歩下がり、術の発動を見守る。
「おホン。ではデハ。」
 ライマンくんが両手を術式にかざす。
「バット東西、グット南ボク。魔の理に落下せよ、舞い上げられし訪問しャヨ。」

 術式を発動させる時に呟く言葉……呪文はただの飾りじゃあない。昔の人が確立させた術式という技術は代償、象徴、呪文の三つで成立する。代償は文字通り代償。昔は人の命だったりしたようだが、最近は髪の毛が使われる。象徴は小町坂とかが床とか壁に描く模様や言葉のことだ。呪文は今ライマンくんが呟いたようなモノ。
 この三つを簡単に言えば電卓だと小町坂は言っていた。電卓を起動させる為に必要な電気が代償。計算で使われる数字や記号が象徴。そして、電卓が導いた答えに意味を与えるための理解が呪文なのだとか。代償と象徴はともかく、呪文の概念は少し分かりづらい。
 電卓が出した答え、それはただ単に電卓が与えられた数字と記号から導いた数字だ。その数字を例えば代金の計算の結果とするのか、時間の計算の結果とするのか。その答えの数字に何かしらの意味があるからこそ、人は電卓を使う。
 つまり、発動した術式にどのような意味……効果を持たせるのか。それを決めるのが呪文だ。

「彼が望むは踏み出すちカラ。されどその力は彼の草原にあるだロウ。さもなくば、彼はその力を失ってなどいナイ。」
 ライマンくんがそう言うと、術式の中心に光が出現した。その光は徐々に形を変え、最終的には動物の姿になった。
「フー。見てくれ、安藤先セイ。これが僕の術しキダ。」
 現れた動物は……ライオンだった。ただし、後ろ脚がない。別にランプの魔人のように下半身が蛇みたいにニョロニョロしているわけではない。動物図鑑に載っているライオンの写真から後ろの脚二本を切りとったような姿だった。
「こいつは主に敵の動きを止めるのに使うンダ。このライオンの咆哮には日本術式の拘束の力があるカラ。まー……まだ拘束力は弱いけドナ。」

 呪文はその術式の効果を決定するモノだ。だけどどんな風にも効果を変えられるということではない。
術式は代償、象徴、呪文で成立する。代償は別に何でもいい。だが象徴と呪文にはそれなりの繋がりが求められる。ヴァンドロームを『攻撃する』術式に『防御』の効果は持たせられないわけだ。
では呪文は何を決めるのか。簡単に言えば形だ。
例えば、敵を攻撃する術式を発動させたとする。代償を変換して象徴が生み出した攻撃するためのエネルギー。このエネルギーをどういう形で敵にぶつけるかは自由だ。
炎をイメージすれば火の球になり、剣をイメージすれば光の剣になる。火で攻撃するなら、敵が負うダメージは火傷とかだ。対して剣なら切り傷になる。呪文が効果を決めるとはそういうことだ。
だから、発動させる人によっては同じ術式でも少し効果が変わることがある。《お医者さん》一人一人に個性が出るのはこういう理由もある。
 ライマンくんは、東洋……日本の拘束系の術式と他の術式をくっつけた術式を発動させ、それにさっきの呪文で後ろ脚のないライオンの形をとらせた……というわけだ。

「……オレは術のことを知ってはいても理解はしてないから……なんとも言えないけど……」
「ウン?」
「運のいい事に、日本の拘束系でトップクラスの実力者が近くにいるからね。そいつから色々学ぶといいよ。」
「もちろん、そのつもリダ。」

 チリンチリン

 風鈴の音がした。誰か来たようだ。
「はいはい、ただいまー。」
 玄関へ行くと、そこにはメガネの女性が立っていた。
「度々……すみません。」
 佐藤成美さんがぺこりと頭を下げる。
「いや……別にいつ来てもいいんですけどね。今日はどうしたんですか? また身近な誰かがとりつかれました?」
「いえ……今日は、この前伝え忘れた事を言いに来たんです。」
 ひどく申し訳なさそうな佐藤さん。思うに、二度手間になったことを気にしてるんだな。まじめな人だ。
「伝え忘れ……? まぁ、立ち話もあれだからね。どうぞ入って下さい。」
「あ、はい。」
 オレは佐藤さんを居間に案内する。すると佐藤さんが目をパチクリさせて尋ねた。
「えっと……あっちの部屋じゃないんですか?」
 そう言って佐藤さんが指差したのは診察室。
「とりつかれたわけでもなく、何か病気なわけでもないんでしょう? なら佐藤さんは普通のお客さん。居間に案内するのが自然かと思って。」
「はぁ……」
「それに、診察室は今……散らかってるから。」
 テーブルをはさんで二人とも居間に座った……ところで気付く。いつもならことねさんがお茶をいれてくれるんだが今はいない。
「オオ? 安藤先生、その人はだレダ?」
 ライマンくんがひょっこりと顔を出す。そしてオレと佐藤さんを交互に見てポンと手をたたいた。
「わかッタ! 僕は飲み物を出せばいいんダナ!」
 スタターと台所へ姿を消すライマンくん。どうやら彼は心が読めるらしい。
「えっと……」
 佐藤さんが困り顔でオレを見る。
「ああ……あれはライマン・フランクくん。まぁ……研修医みたいなモノ……かな。」
「そうですか……」
「さてそれじゃ……話を聞きましょうか。伝え忘れたことって?」
「あ、はい。えぇっとですね……」
 どこから話そうか考えている感じでしばらく沈黙した佐藤さん。そのわずかな沈黙の間に、オレと佐藤さんの目の前に牛乳の入ったコップが置かれた。
「よっこいショ。」
 おじいさんみたいなセリフを言いながらライマンくんも座る。畳だからか、正座をしようとするんだけど身体がぐらつくライマンくんだった。
「その……安藤先生に会いたいっていう人がいるんです。」
「オレに?」
「私が通ってる大学には医学部があってですね、そこの教授の……並木教授っていう人です。」
「教授さんか。」
「実はですね、ヴァンドロームにとりつかれたとき、私が最初に行ったのは白樺病院じゃなくて、うちの大学なんです。キャンパスが同じだったんで……折角あるんだしってことで。」
「なンダ。患者さんだったノカ。てっきり安藤先生の……えっと……オイラン? かと思っタヨ。」
「日本語が変とかそういうレベルじゃないな……花魁なんて現代日本で使われることはほぼないよ?」
「エエ!? 僕に日本語教えてくれた人が言ってたんだケド。」
 誰が教えたんだか……そして佐藤さんも微妙な表情だ。
「ああ、ごめんね。続きをどうぞ。」
「はい……えっと、大学にある……小さい医療センター……とでも言えばいいんですかね。そこで診察してもらったんですけど、私が症状を説明すると「なんだそりゃ」って感じの反応が返ってきまして……適当にあしらわれちゃったんです。」
「だろうね。」
 視界が食べられていくなんて……ふざけてるようにしか思えないもんな。
「でも私、その反応にちょっとムッとしちゃいまして……うちの大学の医学部の教授に片っ端から相談したんですよ……」
 片手を頭のうしろに持って行って照れる佐藤さん。治療した時はわからなかったけど、意外とアグレッシブな人のようだ。
 まぁ……診療所とか病院に来る人ってのは総じて元気がないからなぁ……その人の性格を知るには向かない場所だよな。来る人全員の第一印象が「沈んでる」なんて……よく考えたらすごい所だな……病院って。
「最初は……眼科なんでしょうか、眼の専門の人に話をしたんですけど笑われました。その後、専門外の教授にも話していったんですけど……怒られたり、笑われたり。でも一人だけ私の説明を真剣に聞いてくれた教授がいまして、それが並木教授だったんです。」
「ふむふむ。」
「並木教授の専門は……骨? らしいんですけど眼に関する資料とかを引っ張り出して相談にのってくれたんです。でもやっぱり並木教授にもわからなくて……それで大きな病院で診てもらう方がいいって白樺病院を教えてくれたんです。そうして藤木先生に診てもらって、安藤先生の所に来たんです。」
「そうなると、その並木さんは佐藤さんにとっては結構な恩人だね。元を辿ると。」
「そうなんです。だから安藤先生に治してもらった後、すぐに報告に行ったんです。治りましたって。その時のことなんですけどね――」

『治ったのかい。それはよかった。』
『はい。並木教授にはお世話になりました。』
『いやいや。それで……もし良ければだけど、結局どんな病気だったのか……聞いてもいいかい?』
『あ、はい……えっと……ちょっと特殊な病気だったみたいでして。白樺病院で専門の人を紹介してもらって、その人に治してもらいました。』

「ヴァンドロームとか《お医者さん》のことを説明すると長くなるので……そう言ったんですけど、その時、並木教授はすごいびっくりした顔をしたんです。」

『……専門の人……か。白樺病院は結構大きな病院だよ。優秀な医者が揃っているはず……そんな白樺病院でも治せないほど特殊な病気か……』
『あ、はい……そんな……感じです。』
『佐藤くん、変な事を聞くけど……』
『?』
『その、君の病気を治した専門家は……自分のことを《お医者さん》って言わなかった?』

「ん? その並木さんは《お医者さん》を知ってたのか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」

『え、知ってるんですか? 《お医者さん》のこと。』
『いや……知っているというか……わたしの推測だ。何度かね、偉い人が同席する……ま、パーティーみたいなのに出席したことがあるんだ。そこで偉い人が《お医者さん》って単語を口にしていたんだよ。最初は医者の呼び方程度にしか思ってなかったんだけど……あんな偉い人たちが自分たちをそんな……子供をあやす母親が言うような言い方で呼ぶかなと不思議に感じていたんだ。』
『はぁ……』
『そこである時思った。《お医者さん》と呼ばれる存在がいるとするなら、あの偉い人たちの会話が成立するんじゃないかってね。それで調べてみたんだけど……医者って言う集団の、上層部だけが知る特殊な医者がいるってことがわかったんだ。佐藤くんがかかったその病気は……きっとその特殊な医者だけが治せる病気だったんだね……《お医者さん》と呼ばれる医者だけが。』
『……そうです。病気と言うよりは……症状なんですけど。』
『……興味深いな。まさか本当にいたなんて。なぁ、佐藤くん。わたしをその医者に紹介してくれないか?』

「――ということがありまして、私は並木教授を安藤先生に紹介する……みたいな約束をしたんです。だけどあの後すぐに川口の目のことがあって……忘れてたんです。」
「なるほどね。」
 佐藤さんは牛乳を一口飲んでふぅと息を吐いた。
 しかしなかなか熱心な《医者》がいたものだ。《お医者さん》の存在に自分で気がつくとはね。そういう《医者》は大抵、《お医者さん》を認め、理解してくれる人だ。……《パンデミッカー》に狙われるような……《医者》だ。
「うん……わかった。別に会う事は構わないよ。ただ、オレは診療所があるから、ここから離れるのはちょっとね。並木さんに来てもらうことにはなるけど。」
「わかりました。というか、並木教授の連絡先をあずかっていますので……」
 そう言って佐藤さんは電話番号が書いてあるメモをオレに渡した。
「……逆の方がいいかもね。」
「はい?」
「オレの方から連絡するよりは……並木さんからの方がいいかもってことだよ。」
 オレは立ちあがって診察室に行き、電話の横に置いてあるメモを一枚切り、そこに甜瓜診療所の電話番号を書いて佐藤さんに渡した。
「《医者》が《お医者さん》の存在を知るっていうのは……結構大変なことなんだよ。」
「……?」
「ンン? なんデダ?」
 ライマンくんも不思議そうな顔をする。
「《医者》の性格にもよるけどね……考えてしまうんだよ。自分が今まで診てきた患者さんの中に、《お医者さん》が治療するべき患者さんがいたんじゃないか、自分は間違った処置を施したんじゃないかってね。」
 あくまで可能性の問題だし、しょうがないと言えばそれまでだが、命に関わることだ。特にヴァンドロームにとりつかれた場合、どんな症状だろうと行きつくのは患者さんの死だ。その事実を知って、自分のせいで死なせてしまった患者さんが実はいるんじゃないかと考えてしまう優しい《医者》は確かにいる。
「佐藤さんには悪いけど……並木さんにそのメモを渡して……こう伝えて。」
「はい……」
「あなたの日常が百八十度向きを変える程の事実かもしれません。それでも知りたいなら連絡して下さいって。」

 佐藤さんが帰った後、コップを洗いながらライマンくんがオレに聞いてきた。
「あの人は何にとりつかれたンダ?」
「《アイサイト・イーター》だよ。」
「ああ……Eランクノ。それは危なかったナァ。」
 コップを水切りに置いて診察室に向かうライマンくんについていきながら尋ねる。
「……どうしてそう思うんだい?」
「だってEランクダロ? スクールではこう教わったンダ。《お医者さん》にとって危険なのはSとかAランクだけれど、患者さんにとって危険なのはEランクだッテ。」
 散らかったロボットやクレヨンをカバンにしまうライマンくん。
「その理由は?」
「Eランクの『症状』は……大抵かルイ。Aランクとかだと結構深刻な『症状』だから患者さんはすぐに病院にイク。そして《お医者さん》の所に辿り着いて、治してもらエル。だけどEランクだと……気にしなければ普通に生活できちゃうような『症状』があるかラナ。ほっとけば治るだろうみたいな考えになりがチダ。だけどヴァンドロームがとりついたら、そのランク、『症状』に関係なく、最終的に辿り着くのは死ダロ? だからEランクが一番危ない……そう教わッタ。」
 ああ……そうか。そういやライマンくんは優秀な生徒なんだったな。それを真に理解しているかは別として知っていることが素晴らしいな。スクールはきっちり仕事してるようだ。
「うんうん。そうだね。」
 オレはなんとなくライマンくんの頭……の上にのってるベレー帽をポンポンと叩いた。
「……なにするンダ。」
 下から上目づかいでオレを見るライマンくんは……なんだか可愛い。女の子みたいだ。
その時、オレの脳裏に《デアウルス》の言葉がよぎる。

『お主、自分が男であると証明しろと言われたらどうする?』

「……安藤先セイ?」
 ライマンくんが不思議そうな顔をする。
「……ま……いいか。」
「?」
「いや、こっちの話だよ。ところでライマンくんは白衣を着ないの?」
「持ってはいルゾ。でも着るのは治療する時だケダ。逆に安藤先生はなんでいつも白衣なンダ? そのサンダルモ。」
「これはねぇ、オレの先生がいつもこの格好だったからだよ。白衣は違うけどこの便所サンダルは先生のなんだよ。」
「安藤先生の先セイ? そウカ。そりゃいルカ。今はどこにいるンダ?」
「あの人は死んだよ。そろそろ五年かな……」
「そうなノカ。んじゃあその格好をするのは先生を忘れないためとカカ?」
「そんなところかな。」
「ふゥン。」
 そこまで聞いてライマンくんは興味を無くしたのか、片付けに勤しむ。
「……深くは聞かないんだね。」
 ぼそりと、なんとなく呟いたオレ。それに対し、ライマンくんは背中を向けたまま答える。
「興味が無いンダ。きっとその先生っていうのは安藤先生を形作った大事なパーツなんだろウネ。だけど僕の前にいるのは安藤先生なンダ。注目するべきものは、安藤先生が安藤先生になった過程じゃナイ。未来の僕を形作るこの『安藤先生との出会い』なンダ。結局、安藤先生と安藤先生の先生は別人なんだから、今の僕に安藤先生の先生が関わってくることはないンダ。間接的な人間関係なんて存在しナイ。顔を合わせた相手こそが自分に影響を与える存在なンダ。」
 ライマンくんは少し真剣な表情でオレを見た。
「その人がどの家に生まれて、どんな出会いをして、どんな風に成長したノカ。そんなことはどうでもいいンダ。僕と対面しているのは家でも出会いでも成長の過程でもナイ。その全てを経て成った一人の人物なンダ。見るべきは今ダヨ。」
 なんだか……ライマン・フランクという人物の奥深くを垣間見た気がする。
 ま、人はそれぞれ……他人がその大きさを測れない何かを背負っているもんだ。オレはそれを知っている。そんなことを知ったってどうしようもないってことも。
 オレは……そんなこともあの人から学んだ。
「うん。同感だね。ごめんごめん。」
「……」
 ライマンくんが少し驚いた顔をした。

 チリンチリン

「ん? また佐藤さん?」
 ライマンくんと玄関に行くと白樺病院の文字が入った封筒を手にした高校生の女の子がいた。
 なぜ高校生とわかったかというと、ことねさんが前に来ていた制服と同じモノを着ていたからだ。つまりことねさんが通ってた高校の生徒さんなわけだな。
「えっと……ここなら不思議な病気を治してくれるって……」
「そうですよ。どうぞ。」


 鬼頭先生としゃべっていると部屋のドアが開き、詩織ちゃんが入って来た。
「せ、先生。遅くなりま――」
 私がぺこりと頭を下げると詩織ちゃんがものすごくワタワタした。
「こここここ、ことねちゃん!? な、なんで、こ、ここに、いる、んです、か!?」
「ちょっと手が空いたから来たんです。」
「ほぇぇ!? こ、こころの準備ができて、ない……」
 そんなオドオドワタワタの詩織ちゃんを見て鬼頭先生が笑いだす。
「おいおい、友達と会うのに準備も何もねーだろーがよ!」
『面白いなー。』
 《トリプルC・LX》もゲラゲラ笑ってる。
「んー、知ってるか溝川。こんな詩織でもよ、《ノーバディ》になると人格全然違うんだぜ。」
「せ、先生~」
 『夢遊病』だから……詩織ちゃんが寝ないとそれは見れないんだな。
「きょ、今日は、こ、ことねちゃんも一緒に、勉強する、んです、か?」
「んー……そうだな。」
 鬼頭先生は口にくわえたポッキーをゆらしながら考える。
「んーよし。折角来たんだからな、ためになることを学んで帰ってもらいてーしな。詩織は軽く復習になっけど、共存について教えてやる。」
 鬼頭先生がパチンと指を鳴らすと、《トリプルC・LX》の長い腕が天井から降りてきて、部屋の隅っこに置いてあったホワイトボードと折りたたみ椅子を私たちの近くに持ってきた。
 私と詩織ちゃんはホワイトボードの前に座り、鬼頭先生はマジックを持ってホワイトボードの横に立つ。
「んー、まずは確認だな。詩織にはなんか知らんが小さくなった《ノーバディ》が頭の中にいて、溝川は左手にSランクの《オートマティスム》。片や切り離せないような場所にとりつき、片や切り離したら死ぬ程の痛みが走る。つまり共存しか道はないわけだ。」
 私と詩織ちゃんは目を合わせる。
「んー、共存つってもな……実はある段階までは進んでんだよ。お前らは。」
「……どういうことですか?」
「んーっとな、共存っつーと必要なのは互いの理解だろ? お前ら二人はヴァンドロームのことを知らんかもしれねーが、ヴァンドロームの方はそうじゃねーって話だ。ほい、詩織、どーゆーことかわかるか?」
「え、えっと、わ、わたしの場合は、《ノーバディ》が、頭……脳にとりついている、から、わ、わたしの身体のことは、もちろん、考えてること、とかも把握、しているから、です。」
「んーその通り。例えば詩織がなんかの病気にかかったなら、《ノーバディ》にはその病気の進行度とか治療法とかもわかるわけだ。んで、何が好きで何が嫌いなのか。どんな時にどんな風に感じるのか。そーゆーことを全部知ってるわけだ。」
 鬼頭先生はマジックで私のことを指す。
「溝川はさっき言ってたな、お前が怖がったりすると《オートマティスム》が反応するってよ。脳にとりついてるわけじゃねーが……Sランクってのは『何でもあり』の代名詞みてーなもんだしな。溝川の趣味、思考、大抵のことを知っているはずだ。」
 鬼頭先生はホワイトボードに人と……なんかスライムみたいな物を描き、スライムから人へ向けて矢印を描いた。
「んーつまり、こっち向きの理解は既にできてんだ。あとはこっち向き。お前らからヴァンドロームへの理解だ。そこでまず知るべきは……ヴァンドロームにとって人間ってのは何なのかだ。これについては本人に語ってもらおーか。」
 そういって鬼頭先生は上を見た。
『そーだなー。うちらにとっての人間ってのはなー……』
 《トリプルC・LX》が語る。
『鶏だなー。』
 鶏? 鶏肉って言いたいのかな……
『『元気』を卵とするとそうなるんだー。要するに、うちらは卵が食べたいのであって鶏を食べたいわけじゃないんだー。美味しい卵を出してもらう為に『症状』ってゆーエサを鶏に与えて育てていくんだなー。』
「んー、つまりな。ヴァンドロームにとって俺たちは卵を産むだけの……いわばマシーンなわけだ。美味しい卵を出して欲しいからメンテナンスとかには気を使うが……マシーンに対して何らかの感情を抱く事なんてねーだろ?」
「そんなもんですか……」
「んー、でもだからつってまったく興味を持たないわけでもねぇ。例えばの話、卵を産んでた鶏がバク転をしたらどうよ、マシーンがしゃべったらどうよっつーことだ。」
『さすがにそうなったら興味を持たざるを得ないさー。もしかしたら話しかけちゃったりもするさー。』
「でも逆に言えば……ヴァンドロームが人間を『元気』を生むだけの存在以上に見るには鶏がバク転するくらいの何かがないと駄目ってことですよね……」
『そーだー。』
 そうすると……私の場合は、《オートマティスム》という作業員が常に『元気』を作り出すマシーンの前で寝泊まりしている感じなのだろうか。マシーンとしての性能だとか、欠点だとかを知りつくしてはいるけど……マシーンだから、それ以上の対象としては見ない……ということだろうか。
 なんとなく私が沈んだ顔をしていると鬼頭先生が笑ってこう言った。
「んーま、今のはあくまで普通ならって話だ。言っとくがお前らは違う。」
「え?」
「んー、今してる話の主役は詩織と溝川だろ? 一般論なんかあてはまんねーよ。ここで議論を進める……ヴァンドロームにとっての人間から、《ノーバディ》にとっての詩織、《オートマティスム》にとっての溝川ってな具合にな。」
「何か……違うんですか。」
「んー……大違いだ。甘くて美味いミルクチョコとカカオ九十パーセントのビターチョコくらい違う。」
 すごい例えだな。
「んー、連中からすりゃお前ら二人は家だぜ? 『元気』を生み出すだけの存在よりかなり上の存在さ。ホテルを渡り歩く奴と家を持ってる奴とじゃ住む場所に対する思い入れが違う。特に《オートマティスム》からしたら溝川は何百年……ヘタすりゃ何千年とかけてようやく見つけ出した安住の地だぜ? 溝川自身とは末長く、良い関係を築いていきたいと考えているはずだ。だから……最初の頃よりは暴れなくなったんだろ?」
 なるほど……でもそうかもしれない。結局、私が困るから暴れなくなったということは私と良好な関係でいたいという考えがあるからじゃないだろうか。
「現在の……連中とお前ら二人の状態は……そうだな。例えるなら同じクラスなんだが親しいわけでもない……だが嫌ってもいない……少なくとも迷惑をかけるようなことはしないクラスメイト同士ってとこか。話しかければ反応はしてくれる。ちょっと違うのは相手がお前らのことを知りつくしてるってことくらいだ。」
「……話しかけるってどうやって……」
「あ、あの、です、ね。」
 詩織ちゃんがわたわたしながら声を出す。
「わ、わたしは寝る、前とかに枕、もとに手紙を置いておき、ます。時々お返事、あり、ます。」
「へぇ、すごいですね。」
 手紙……でもそれは人格が交代するから出来ることだなぁ。私は……
「《オートマティスム》、さんは、しゃべったこと、ないん、です、か?」
「……一度だけ……」
「んー? あんのか。」
「えっと……《パンデミッカー》が来た時に……先生、安藤先生がその……捕まった感じになったんですけど、その時に……」
「んーだそれ! 聞いてねーぞ。んなことあったのか。」
「そ、それでなんて、言ってたん、ですか?」
「安藤先生は私にとって……なんだって……」
『それでー?』
「こ、答えたら……力をかしてくれました。」
「な、なななななな、なんて答えたん、ですか!!」
 詩織ちゃんが乗りだしてきた。
「…………恥ずかしいので秘密です……」
「ここここここここ小町ちゃんとことね、ちゃんと安藤先生、の三角関係!!」
 あー……またこの状態になった。というか小町坂さんは男だといったはずなんだけどなぁ。
「んー、一回会話をしたことあんなら……まぁ……とりあえず話しかけてみたらどうだ? その左手に。」
「え……自分の左手に話しかけるんですか……」
 変な人じゃないか。
「んー、別におかしいことじゃねーぞ。確か『エイリアンハンド』……普通の病気としての『エイリアンハンド』の治療法の中には勝手に動く手に話しかけるってのもあるぜ? 実際それで暴走が和らぐらしいしな。」
「初耳ですね……」
 結構大事なことなのに……先生は教えてくれなかったな。

 その後、色々な事を……学んだのかな? 途中からチョコレートの話になった気がするけど……
「……なんだか疲れたな。」
 甜瓜診療所に帰って来た私。なぜか玄関の所に先生が立っていた。
「おかえり、ことねさん。」
「……私の帰りを待ってたんですか?」
「いや……心配でなんとなくここにいるんだよね。」
「何の心配ですか?」
「……ライマンくんのおつかい。」
「……何のおつかいですか。」
「……今日の晩ご飯。」
「……そうですか……」
 なんの料理かわからないけど……今日の夜ごはんは面白いことになりそうだなぁ……
 私は先生の横に並んで先生が見ている方向を眺める。そして横目で先生を見る。
 ……今日、私が会ってきた鬼頭先生は《ヤブ医者》だ。実際、《ヤブ医者》の称号を得ている理由を垣間見た気がする。すごい研究をしていた。誰にでもできることじゃない。
 そして、今私の横に立つ人はその鬼頭先生が興味深いと言った《ヤブ医者》だ。
 私はすごい人に《お医者さん》を教わっている……のだろうか。この年中白衣で便所サンダルしか靴がない人に……
 謎が多い人だ。謎を知るための足がかりであるノートの解読はしている。スッテンさんのくれた辞書のおかげだ。
 もう一つの手掛かり……というか……これは単に聞くタイミングがなくて聞けてないのだけど……金属バットに書いてあった「きゃめろん」の意味……
「? ことねさん?」
「あ、はい……?」
「どうしたの、ボケっとして。」
 ああ……こんがらがってきた。私は頭をこつんと一回叩き、私の個人的な空気を変える為に先生に質問した。
「えっとですね……鬼頭先生と話をして思ったんですけど……《ヤブ医者》ってどうやって決まるんですか? 投票とかあるんですか?」
「昔はそういう方法もあったらしいね。けど今はオバケ電話がかかってくる。」
「……なんですかそれ?」
「ある日突然、『お主、《ヤブ医者》の称号を得る気はないか?』って電話がかかってくるんだよ。オバケみたいな声のね。」
「《デアウルス》さんじゃないですか。」
「そう。《デアウルス》はさ……移動速度はカタツムリ並だし《オートマティスム》みたいな念力みたいのも使えないけど確かにSランク……人智を超えた存在でね。あいつ、《お医者さん》やその卵は全員見てるんだよ。」
「……監視してるってことですか?」
「うーん……人間の感覚と同じで考えるとたぶんややこしいんだけど……把握してるって言った方がいいのかな。なんかすごいことをしてる奴はすぐに察知できる……みたいな。」
「怖いですね。」
「そうだね……そうやってはっきり言うことねさんもなかなかだけどね。」
「そうですか? あ、そういえば今日、高校時代の……クラスメートに会いました。」
「んん? 片想いしてた人とか?」
「……」
「ごめんなさい。」
「名前も覚えてない……あれ、もう思い出せませんね。まぁ、それはどうでも良くてですね。」
「ことねさん……」
「最近、学校でちょっと変わった病気にかかる人が増えてるそうです。割合的には女の子が多い感じで。」
「悪いニュースだね。るるあたりの力で《お医者さん》による健康診断みたいなのを行えたりしないかね。」
「……全員をサーモグラフィーで見るんですか?」
「うん……そうなるかなぁ。でもね、今は冗談みたく聞こえるけど現実になる日も近いかもよ?」
「?」
「オレに会いたいっていう《医者》がいてね。ちょっと脅しみたいなことを言ったけどたぶんその人は全てを知りにここに来るだろうね。」
「何の話ですか?」
「ご飯の時にでも話すよ。」
「オーイ。」
 ふと前を見ると、買い物袋……と壊れた傘をもったライマンさんがこっちに向かって歩いているのが見えた。
「いいもの拾っタゾ! こんなモノが道に落ちてるなんて、ここは良い国ダナ。」
「ライマンくん、それは……?」
「これと鉛筆削りをつなげればコンパスと連動できるンダ! これで木こりを作りやすくなッタ。」
「なんのことやらわからないけど……嬉しそうでなによりだね。おつかいはちゃんと出来た?」
「オウ! にんじんとジャガイモを買ってきタゾ。」
 ライマンさんが突き出した買い物袋の中を除いて先生はにっこりと笑った。
「うん、大根と里芋だね。今日の晩ご飯は煮物かな。」
「やッタ! 和風ダナ!」
 最初、先生は何を作ろうとしていたんだろうか。


 晩ご飯が大根と里芋の煮物だった日の翌日、朝早くに先生に電話がかかってきた。先生は何度か「本当にいいのか」ということを確かめた後、「了解」と言って電話を切った。
 その日のお昼頃、一人の男性が甜瓜診療所にやってきた。
 並木と名乗ったその人は、あの《アイサイト・イーター》にとりつかれた佐藤さんが通う大学の教授だという。
 《医者》という身ではあるけど《お医者さん》の存在に気付き、佐藤さんを通して先生に会いにきたのだそうだ。たぶん、《お医者さん》とはなんぞやということを聞きにきたのだろう。
 先生と並木教授は診察室で話を始めたので、私とライマンさんは和室に移動する。
「ことね、僕達は何をしていよウカ。」
「そうですね……」
 《お医者さん》の勉強……は先生の指導のもとでやるべきだし、教わった事を復習するって言っても道具は診察室だ。
「よし、お話しヨウ!」
「話……」

 ここ数日でライマンさんがどういう人なのかはなんとなくわかってきた。簡単に言えば、「日本好きの外国人がちょっとずれた知識を持ってやってきた」……そんな感じだ。
 この前のある夜、私はお風呂に入ろうと思い、脱衣所というか洗面所というか……とにかくそこの扉を開けた。すると中にはライマンさんがいた。ノックもせずに扉を開けた私はかなり失礼だとは思うが、先生が入ってないなら誰もいないという考えが染みついてしまっているのだ。
 ライマンさんはお風呂から出たばかりの姿……タオル一枚をまとっているだけだった。
 男の人の裸というモノに私が慣れているわけもなく、普通だったら悲鳴の一つもあげていただろう。だけどそうはならなかった。
 ライマンさんはタオルを女の人がするように巻いていたのだ。つまり、胸のあたりまで隠れるような巻き方だ。ライマンさんは男と言われれば男で女と言われれば女に見える顔をしているので、その時の姿は女の子にしか見えなかった。
「ンン? ことネカ。ちょっと待ってくれよ、すぐに出るカラ。」
「はぁ……ライマンさん、そのタオル……」
 私が指をさしながら尋ねるとライマンさんは待ってましたと言わんばかりの顔で答えた。
「気付いタカ! そう、日本の伝統的なお風呂上がりの姿ダヨ! 温泉に入った後などに、日本人はたった一枚の布を身体に縛り付けるそうじゃなイカ。しかもそのまま外にも出てしマウ! バスローブとは全く異なる新しい服そウダ!」
「一枚の布……温泉……それってもしかして浴衣のことですか?」
「そう、ゆタカ。」
「えぇっと……ライマンさん。浴衣はバスタオルでできてるわけじゃないですよ? 確かにあれは……一枚の布と言われればまぁ……袖のある布ですけど。」
「違うノカ!? 一枚の布でどうやって全身を隠すのか色々試してこういう形になったノニ。この格好は間違イカ!?」
「そうですね。」
「じゃぁ、正かイハ!? 僕もゆたかを着たいンダ!」
「ゆかたです。」
「そう、ゆタカ。」
 その後、先生にライマンさんをまかせてお風呂に入った私。出てきた時に見たモノは、普通のパジャマの上にハッピを着て楽しそうにしているライマンさんとそれを眺める先生だった。

「ライマンさん。」
「ンン?」
「えっと……スクールってどんな所なんですか?」
 ライマンさん自身のことはきっとその内わかってくる。だから聞かなければ知る事のできない事を聞くことにした。
「軽く先生からは聞いたんですけど……詳しく知りたいなぁと思いまして。」
「て言ってもナァ。みんなで教室に集まって黒板を使いながら先生が色々教えてくれるっていう形は、たぶんことねも知ってるダロ?」
「例えば……どんな授業があるんですか?」
「えっと……ヴァンドローム学、魔術学、人体学トカ。」
「すごい名前の授業ですね……怪しい事この上ない。」
「あ、みんなが大好きな授業があっタナ。」
「何ですか?」
「《お医者さん》ガク。今現在、もしくは昔にどんな治療法を持つ《お医者さん》がいるのかいたのかを学ぶンダ。術じゃない独特の治療法ヲナ。特に現在も活躍している人の治療法を学ぶ時はドキュメンタリーみたいなビデオを観るンダ。色んな《お医者さん》がいて面白かったナァ。」
「《ヤブ医者》も紹介されたりするんですか?」
「ウン。三人紹介されタヨ。爆弾を使う人とかいタゾ。」
「爆弾……」
 とんでもない《お医者さん》がいるものだ。
 でも……どんな治療法だろうとやっていることは同じだ。患者さんを救う。まぁ、ファムさんみたいに最初から《お医者さん》を目指していたわけじゃない人もいるけど、大体は人を助ける為に《お医者さん》になったはずだ。
「……ライマンさんは……どうして《お医者さん》に?」
 私がそう尋ねるとライマンさんはニンマリと笑って答えた。
「魔法使いになりたかったンダ。」
「魔法使い……ですか。」
「ことネハ?」
「私は……」
 少し考えてから私は答える。
「キッカケは左手に《オートマティスム》がとりついたことです。お父さんが《医者》だったので、私もそっちの道に進もうとしていたんです。まぁ……獣医さんですけど。そんなある日、私はとりつかれて……」
 私はあの日のことを思い出す。


 その日、私は家族といっしょにドライブに出かけていた。お父さんが運転する車で、お母さんとお兄ちゃんと私でちょっとした遠足だった。
 その頃私は左手に違和感を覚えていた。気付かない内に左手で何かを掴んでいることが何度かあった。だけどその時は、私の気のせいだろうと思っていた。今思えば、その時すでにとりつかれていたのだ。

 私たちはある橋にさしかかった。片側二車線で歩道も完備された大きな橋だ。下にはすぐそこにある海に合流する河が流れている。
 海を遠目に眺めつつ橋の上を走る車。
 橋の真ん中あたりに来た時、大きな音がした。
 私たちとは反対方向に走るとなりの車線で、一台の車が壁にぶつかったのだ。酔っ払いか居眠りか……とにかく壁に衝突した車はそこで停止した。その車の後ろを走っていた車は突然のことに対応できず、急ブレーキをかけたものの前の車に衝突し、乗り上げた。
 その乗り上げた方向やタイミングが最悪だった。その車は中央分離帯を越え、私たちが走る車線に飛んできたのだ。その軌道の先には私たちがいた。
 時間にすれば数秒なのだろうけど、五分くらいに感じた。ゆっくりと迫って来る車。私たちは全員が飛んでくるそれを呆然と眺めていた。
 ぶつかる。死ぬ。そんな言葉が脳裏をよぎった瞬間、とんでもないことが起きた。
 飛んできたその車が、何かに弾かれたように吹っ飛ばされたのだ。私たちがいる方とは真反対の方向に弾きとんだ車は、橋から数十メートル離れた先で河の中に落下した。
 《オートマティスム》が私を守ったのだろうけど、その時の私には何が起きたのかわからなかった。ただゆっくりと時間が流れていた。
 そして、事故はそれで終わらなかった。
 最初に壁に衝突した車をよけきれず、大きなトレーラーが横倒しになった。まるで映画のように、トレーラーは橋を支えている柱みたいな物を次々と破壊しながら滑って行った。
 車が揺れた。ビキビキというすごい音がした。
 そう……橋が崩れ出したのだ。ちょうど私たちがいる真ん中あたりに大きな亀裂が入り、横から見れば、ポッキリと折れた形で崩壊を始めたのだ。
 一瞬の無重力。私たちが乗っている車が亀裂の中に引き込まれていく。
 直前の現象のせいで私の時間感覚はゆっくりになっていた。だから落下していく時もゆっくりだった。
 怖かった。もしもあの時、私の時間感覚が普通の状態だったなら、一瞬のことにわけがわからず気付いたら水の中にいた……くらいのことで終わっていたと思う。だけど、実際はそうじゃなかった。
 ゆっくりと車が傾いていく。真っ逆さまに河へ向かって落ちていく。さっきの飛んできた車のこともあって、私の頭の中は死への恐怖で埋め尽くされた。
 その時、左手が脈打った。自分の心臓が左手に移ったのかと思ったくらいに大きな鼓動だった。そして間髪いれず、私の家族は車内から弾き飛ばされた。
 今ならわかる。あれは、《オートマティスム》が私の家族を助けたのだと。あのまま落ちていたら後ろから落ちてくる瓦礫とか他の車に潰される可能性があった。実際、私の家族は色々な物が落下していく水面からかなり離れた所に着水し、ケガ一つなかった。
 たぶん、あの時点で既に《オートマティスム》は私にとって家族がどういう存在なのかを知っていたんだろう。道行く他人はともかく、家族に何かあったら私の心にどういうダメージが与えられるのかを理解していたからこそ、家族を助けたんだ。
 でも、あの時の私はそんなこと知らない。私の視界から家族が突然消えたのだ。
 頭の中が真っ白になる中、私は変な浮遊感を覚えていた。いつの間にか車の屋根はなくなっていて、私は自分の左手に引っ張られる形で宙に浮いていたのだ。そのまま少し上昇して、橋の上から十メートルくらいの上空で停止した。
 目に映るのは落下していく車や人。耳に入って来るのは崩れる音と悲鳴。
 落下していく人の一人と目が合った。絶望の表情を見た。何かを叫ぶ口を見た。
 私は反射的に目をつぶり、耳をふさいだ。
 悲鳴に混じって……どこからか、妙にはっきりと声が聞こえた。
『怖いのか?』
 それが誰なのか、何なのか。そんなことは考えられなかった。ただ、質問の意味は理解できた。私はわけもわからず、その質問に答えた。
 怖い……と。
『見たくないのか? 聞きたくないのか?』
 私は答えた。見たくない……聞きたくない……と。
『わかった……』
 そこで謎の声との会話は終わった。同時に、私は左手に熱を感じた。
 火傷するような温度ではなかったけれど、何かが……左手に集まるのを感じた。
 あれはきっと、破壊を引き起こす力だったんだろう。私が怖いと感じた落ちていく人や車、崩れる橋を……消そうとしたのだ。あのまま左手に集まった力が放たれていたら、きっとあの場所からは全てが無くなっていたと思う。宙に浮く私を残して。
 だけどそうはならなかった。
 上空十メートルに静止する私のさらに上から、一人の男性が落ちてきたのだ。
 その人は私の左手を掴み、浮いている私にぶらさがった。そして何かを叫んだ。すると左手の熱が引き、糸が切れたように私とその人は落下した。
 私が悲鳴を上げた瞬間、その人は素早く私を抱きかかえ、そのまま……着地した。骨が折れて当然の衝撃だったのに、その人は平然と立ちあがり、私をその場におろした。
 その人は若い男の人だった。少し汚れが目立つ白衣と、古いトイレにありそうな便所サンダルをはいた……変な人だった。


「それでその後、先生からヴァンドロームのこととか《お医者さん》のことを教わって……今に至ります。」
「安藤先生、かっこいイナ。でも大変だったんじゃないノカ?」
「何がですか?」
「ことねのお父さんダヨ。《医者》は《お医者さん》をすぐには受け入れられないだロウ?」
「そうですね。最初の頃はゴタゴタしてましたけど……今は先生のことを信頼してるみたいですよ?」
「ふゥン。ことねのお父さんは……有名な《医者》なノカ?」
「いえ、普通の《医者》ですよ。外でお父さんの名前を聞いたことはないですし。」
「名前か……なんていうンダ? ことねと同じで名前は平仮名なノカ?」
「漢字ですよ。名前は――」

「――溝川吾朗――」

「そうです。溝川吾朗です――ってなんで知ってるんですか?」
「ことね、今言ったのは僕じゃなイゾ。」
 ライマンさんが診察室の方を指差した。先生が言ったのか? 確かに先生はお父さんの名前を知ってはいるけど……何で?
 私は診察室を覗いた。すると並木さんが私を見てこう言った。
「ほぅ……溝川先生の娘さんですか……」
「?」
 私はイマイチ状況がわからなくて先生を見た。先生は……何故か深刻そうな顔をしていた。
「先生?」
「ことねさん……ちょっとまずいことになったよ。」


 診察室にあるベッドの上に、私とライマンさんは座った。
「並木教授はね、《お医者さん》のことを調べる為にお偉いさんに聞いて回ったりしたんだって。その時にね……」
 先生が視線を並木さんに送る、並木さんはこくりと頷いて話しだす。
「わたしが《お医者さん》について質問するとね、まぁ大抵は『何を言っているんだこの男は』って顔をされるんだけど……時々知っているような反応をする人がいるんだよ。でもそういう人に詳しく聞こうとするとなんだかんだ理由をつけてはぐらかされるんだ。ま、今その理由がわかったけどね。《お医者さん》の世界の話は確かに《医者》にとって嬉しいものじゃないから。喜々と話せる内容じゃないんだね。」
 先生が言うには、プライドだとかがそういう反応をさせるらしい。
「それでもしつこく食い下がるとね……最終的に一人の《医者》の名前が出るんだよ。その《医者》に聞いてくれってね。それが溝川吾朗先生なんだ。」
「え? 《お医者さん》のことを知りたければ私のお父さんに聞けってことですか? なんでまた。」
 だってお父さんは《医者》だ。《お医者さん》に精通してるわけじゃないし……たぶん、知り合いの《お医者さん》は先生くらいだろうし。
「溝川先生はね……ここ最近、《お医者さん》の現状改善にすごい力を入れているんだ。」
「現状……改善?」
 私が先生の方に視線を移すと先生は腕組みをしながら答えた。
「つまり、《お医者さん》の知名度の低さだよ。」
「それの改善を……どうしてお父さんが?」
「きっかけはことねさんだろうね。」
「え?」
「よく考えたら当然の行動なんだよ。自分の娘がヴァンドロームとかいうのにとりつかれて、その謎の生き物とずっと戦ってきた《お医者さん》という存在を知った。ことねさんのお父さんは正義感とか責任感とか強い人だったからね。ヴァンドロームがあまり知られていない現状を危険視したんだよ。それで……行動を起こした。」
「溝川先生は、今や日本における《お医者さん》と《医者》のかけ橋になりつつある。」
「お父さんが……?」
 知らなかった。最初の頃はともかく、今では週に一、二回メールをする程度だからそんなことになってるなんて気付きもしなかった。
 お父さんもお父さんで何も言わないし……
「なぁ、安藤先セイ。」
 ライマンさんが足をぶらぶらさせながら尋ねた。
「今の話からは全然……マズイ部分を感じなかっタゾ? さっきマズイことになったって言ってなかっタカ?」
 そういえばそうだった。何がまずいんだ?
「……《医者》の身でありながら、《お医者さん》に対して理解を示し、一年足らずで有名になるほどに活動に力を入れている。そんな人が日本にいるっていうのを聞いたある人物がね、ことねさんのお父さんに会う為に近々来日するんだって。」
「ある人物?」
 その問いには並木さんが答えた。
「その人物の名はニック・フラスコ。《医者》の世界では《お医者さん》について最も詳しく……互いが協力して患者を救っていける世界を目指している人物です。」
「要するにね、ことねさん。《お医者さん》の世界に最も影響力を持つ《医者》ってことだよ。」
「! それじゃぁ……」
「まず間違いなく……《パンデミッカー》が狙うとしたらこの人だ。《ミスユー》を奪ったのはここ、日本だし、近々日本に来るっていうなら……ね。」
「なんだ……安藤先生はそのニックっていうのを知らなかったノカ?」
「うん……《ヤブ医者》って言ってもオレはまだまだ新人だからね。『半円卓会議』に出席する《医者》とか、長年(ヤブ医者)をやってる連中じゃないと知らないんじゃないかなぁ。言うなれば上の方での有名人。」
「なるホド。そんでやばいっていうのはつまり……そのニックってのが会いにいく相手がことねのお父さんってこトカ。」
「そういうこと。」
 私はイマイチわからなくてキョトンとしていた。
「つまりね、ことねさん。ターゲットであるニック・フラスコが会おうとしてることねさんのお父さんもまた、今後世界的に《医者》と《お医者さん》の関係を良くしていく立場になる可能性があるってことだよ。《パンデミッカー》からすれば……ことねさんのお父さんも邪魔な存在なんだ。その二人が一度に揃う場……同時に狙われてもおかしくない。」
「……お父さんが危ないってことですか……」
 血の気がひいていくのを感じた。心臓の音がやけに大きく聞こえる。
 頭に浮かんだのはこの前ここに来た高瀬や、『半円卓会議』に現れたブランドー。あんな……超能力者みたいな危険な人達が……お父さんを襲う……?
「《ミスユー》にとりつかせて何かをさせるかもしれな――ことねさん!?」
 私は走り出した。自分の部屋に行き、机の上に置いてある携帯電話を手に取って電話をかけた。もちろん……お父さんに。
『もしもし。』
「お父さん!」
『んん? どうしたんだことね。電話なんて珍しい。』
「お父さん! えっと……えっと……」
 私は焦りながら、確認しなければいけないことを聞いた。
「お父さん、……近々外国の《医者》と会う予定とか……ある?」
『? なんで知ってるんだ? 来週、大きなパーティーがあってな。《医者》と《お医者さん》の今後を真剣に考える人に大勢会うよ。中でもフラスコ医師という方がな――』
「お父さん、そのパーティーには行っち――」
『なんだ? ああ。わかった。あ、すまんことね。ちょっと急用が入った。また後でな。』
「お父――」
 そこで電話が切れた。私は急いでかけなおそうとしたけど、横から伸びてきた手が私の携帯電話をひょいととりあげた。
「!……先生。」
「ことねさん、落ち着いて。」
「返して下さい! お父さんが!」
 携帯電話を奪う為、私が手を伸ばすと先生はそれをするりとかわした。
「てい。」
「!?」
 そして何故か私の頭に軽くチョップした。
「ことねさんらしくないよ? 落ち着いて。まぁ、こういう時に落ち着き過ぎるのもなんだが嫌だけどね。」
「……」
「いいかいことねさん。確かにオレは言ったよ。まずいことになったってね。ことねさんのお父さんがニック・フラスコ共々襲われる可能性は高い。だけど……そう、パーティーって言ってたかな? それに出席しないのはもっとまずいんだよ。」
「……どういうことですか……」
「仮に欠席した場合……対処がし難くなるんだよ。カールみたいに姿を消せる奴もいるんだから、《パンデミッカー》はいつどこでだって襲えるだろうね。でもそうなった場合、一度に二人を襲うことはできなくなる。それにパーティーっていうんだから、たぶんことねさんのお父さんと同じ考えの《医者》が揃うんだろうね。なら《パンデミッカー》からすれば、そのパーティーに来た人間を全員始末したいわけだ。個別に狙うなんて手間は省きたいだろうしね。」
「……何が言いたいんですか……」
「パーティーに出席すればかなりの確率でパーティーで襲われる。でも欠席した場合、どこでいつ襲われるかわからない。出席する事は危険に飛び込むことだけど……それは守る側からすれば守りやすい状況だよ。そこで敵が来るとわかっているんだから。」
「だからって……!」
「気持ちはわかるけどね。最善はたぶん、この方法だよ。」
「……じゃあここでじっとしてるんですか……」
「……じっとしてるつもりなの?」
 先生は……ひどく無表情で淡々とそう聞いてきた。
「だって私は……まだ《お医者さん》の卵だし……《パンデミッカー》からお父さんを守るなんてできませんし……」
「……」
「それに……私が行くって言ったら先生も来ますよね……そしたらこの診療所が空いちゃいます……今は《パンデミッカー》のせいで患者さんが多いですし……それは良くないことですよね……」
「……」
「だから……だから! お父さんを行かせないことが! 私にできる……こと……なんです。」
「確かにね……《オートマティスム》がいるって言ってもことねさんはその力をコントロールできるわけじゃない。そして、そんなことねさんが行くと言うならオレも行くよ。ライマンくんも連れていくよ。診療所は空っぽだね。その間に進行度レッドの患者さんが来るかもね。」
 先生はそこまで言うと、私の頭にポンと手を置いた。
「でもね、自分の力不足だとか、他人の命だとかを理由にして家族の危機に傍に行かないなんてことはオレが許さないよ?」
「え……」
「まぁ……ことねさんのお父さんを危険な状態にしろって言ってるのはオレだけどさ。ことねさんのお父さんを守る面々の中にことねさんがいないなんてあり得ないよ。力量なんて関係ないさ。それに……他の患者さん? そんなモノは無視だよ。」
「無視……ですか。患者さんを……」
「オレは、他人を救う為に家族を無視するような奴に治療して欲しいとは思わないよ。」
 私はうつむいたまま、いつもよりトーンの低い先生の言葉を聞く。
「家族の危機は即ち自分の危機なんだよ。家族を失った時の一番の被害者は自分さ。極端な話、自分の行動が原因で赤の他人が死ぬのと家族が死ぬの……どっちが自分の心により深い傷を残す? これはかなり酷な選択だよ。どっちが正解かなんてきっとない。でも一人一人の中には確かな答えがあるんだよ。少なくとも、この場合のオレの答えは他人を無視して家族を救う道だ。そうしないと、結果として自分を救えない。」
 先生は私の頭から手を離す。顔をあげると、先生はにっこりと笑っていた。
「なんて……柄にも無く暗いこと言っちゃったね。大丈夫だよ、ことねさん。るると小町坂に協力してもらって、パーティーの日は患者さんがうちに来ないようにするよ。それに、ことねさんのお父さんはともかく、《デアウルス》がニック・フラスコのことを知らないわけはないから、対策をうっているはず。守りは万全に近いと思うよ。そこにオレ達が行く……これはマイナスにはならないさ。」
「じゃぁ……」
「その日はオレ達も現場に行こう。ことねさんのお父さんを守って、《パンデミッカー》をとっ捕まえよう。」
「……はい!」
「おーい、大丈ブカ?」
 ライマンさんが私の部屋にやってきた。
「うん、大丈夫だよ。」
 先生がにっこりしながら答えた。
「……先生。」
「うん?」
 先生はいつもの表情で私を見る。
「……いえ、なんでもないです。」
 ……今、私が聞きたかったことは……『先生のその考えは先生自身の考えなんですか?』ということだ。
 今の私と先生の会話にはまったく関係のない疑問ではある。私は今の先生の言葉を理解したし、共感する部分だってたくさんある。でも、その言葉を言っている時の先生がいつもの先生じゃないところが問題なんだ。
 先生は……基本的にのんびりとした人だ。熱血なわけじゃないし、冷徹なわけじゃない。だけど時々信念みたいなモノを見せる。暗い顔にもなるし、何かを思い出すような顔にもなる。
 だけど、普段私が見ている先生からはそういう先生は想像できない。
 きっと、そういう時……先生の心の中には『あの人』がいるのだと思う。先生という人に大きな影響を与えた……『あの人』。
 先生がいつもの先生で無くなる時にすること、言う事は……信条のような、個々が持つ独自の事柄であることが多い気がする。その人をその人とする大切なモノだ。
その内容をいつもの先生が言うなら問題はないんだ。だけど実際はいつもの先生じゃない。こういう言い方はあれだけど……『あの人』に支配された状態で言っている気がする。
 そんな風に考えた時、一つの疑問が私の中には生まれる。
 診療所、治療法、格好、信念とかの行動原理……それらが全部『あの人』のモノを受け継いだモノとするなら……先生は……『安藤享守』は一体どこにいるんだろうか……と。


 並木教授がやってきた日の夜、オレとことねさんとライマンくんはなんとも場違いな場所にいた。いや……ことねさんとライマンくんはどうかわからないが、少なくともオレはこんな所に来たことない。というか来れない……
「高級そうなお店ですね、先生。」
「オオ! 日本料理専門テン!」
 ことねさんのお父さん、溝川吾朗が危ないとわかり、例のパーティーがある日に甜瓜診療所に来る患者さんを任せたいと小町坂に連絡したところ、小町坂の奴が『飯食いながら話そうぜ』と言ってきた。そうして小町坂が指定した店に到着したところなわけだ。
「先生、お店の人が明らかに先生を不審がってますけど。」
「そうだね……」
 小町坂の名前を出したら中に入れてくれたが、店員さんの視線がなんだか痛い。
 店のかなり奥の方まで歩き、なんちゃらの間とか書いてある部屋に通された。
「来たか……って、やっぱりその格好か。」
「お前だって和服じゃねーか。」
「この店じゃあ正装さ。」
 鯛の尾頭付きってやつだろうか。魚が机の上にうようよ。高そうな刺身が並んでいる。片側にオレたち三人が座り、反対側に小町坂が座る。
「……バランスの悪いことだ。つかそのベレー帽のお嬢ちゃんは誰だ?」
「ライマン・フランクくん。スクールから来た……男の子だ。」
「ああ? 男? マジか……」
「安藤先生……この人は誰なンダ?」
 軽くほっぺたを膨らませてライマンくんが聞いてきた。
「小町坂篤人。君が会いたがってた日本系術式の頂点だよ。」
「オオ!」
「……? まぁ、とにかく本題を話しちまうか。」
「別に電話でもよかったんだが……」
「いや……《ミスユー》絡みとなると俺にも責任があっからよ。詳しく聞いときたいんだ。」
 そんなこんなで、現状を小町坂に説明するオレ。その間に運ばれてきた料理を楽しむライマンくん。ことねさんは魚の骨を取ってあげたりしていた。

「……ふむ。」
 小町坂は全ての話しを聞き、こんなことを言った。
「安藤、思うにお前らだけじゃ無理だぞ。」
「? どういうことだ?」
「いや……あー、語弊があるな。ある状況になった時にどうしようもなくなるって意味だ。」
「?」
「ヴァンドロームがとりついた状態でないと俺達(お医者さん)は何もできない。切り離しをして、戦う。《お医者さん》はヴァンドロームの専門家のようでいて実はこれしかできない。とりついていない状態のヴァンドロームがどう生活しているか……これは長年の謎だ。見つけることすら不可能とされているだろ?」
 ヴァンドロームが何かにとりつく前やとりつく瞬間を記録できた《お医者さん》は存在しない。時たまに、雪男が出ただの、エイリアンに遭遇しただのと世間で騒がれることがあるが、それの大半は奇跡的な確率でヴァンドロームに出会ったのだと言われている。
 普段のヴァンドロームは例えるならゴキブリだ。あいつらは確かに家の中に住んでいるのに、その家の主である人間があいつらに出会うのは稀だ。生きているのだから、家の中を歩き回っているはずなのに遭遇する確率は低い。透明なわけでもないのにそうなっているのは、人間の死角や物陰を巧みに利用しているからだ。
 ヴァンドロームはそんなゴキブリたちを遥かに超えるテクニックを持っていて、《お医者さん》たちの目から逃れていると言われている。
「つまり、《パンデミッカー》がそのニック・フラスコだかに《ミスユー》をとりつかせようとしている時、それを防ぐ方法は『《ミスユー》を放たれる前に《パンデミッカー》を捕まえる』か、『とりついた《ミスユー》を切り離す』かの二択だ。」
「まぁ……そうなるな。」
「で、問題はとりつかれてしまった場合の話だ。どうやって切り離す?」
「え……先生が普通に切り離せばいいんじゃないんですか……?」
 ことねさんが会話に加わった。
「俺は一度切り離しを行う段階まで準備したからわかるんだが……いくら安藤の切り離しがサーモグラフィーや『エイメル』を使う方法よりも遥かに速いっつっても……《ミスユー》の患者には無理だ。『禁断症状』の患者の暴れっぷりをなめちゃいけねー。この俺でさえ、拘束系の術式を四重にしてやっとだ。」
 小町坂は拘束系の術式使いでは頂点と言って過言じゃない。その小町坂が四つも術を重ねないと大人しくできないということは相当の暴れ具合というわけだ。
「……確かに、大暴れされちゃぁいくらオレでも切り離しに集中できない。」
「かと言って、この場合はとりつかれた状態が長ければ長いほど危ない。とりつかれた奴が周りの《お医者さん》を片っ端から殺してもおかしくない。それを止めようとするのを《パンデミッカー》が邪魔するとなったらもう無理だ。」
 つまり、とりつかれてしまった場合、速攻で切り離す必要があるということ。そして、オレたちにはその術がないということだ。
「……何かアイデアあるか?」
「ある。一応な。」
「あ、わかっタゾ!」
 そこでライマンくんが茶碗蒸しを食べながら会話に参戦。
「欲求使いを使うんダナ!」
「欲求使い……? 何ですか、それ。」
 ことねさんが首を傾げた。そういや教えてないな。
「えっとね、ことねさん。欲求使いってのは要するに欲求を使って治療を行う《お医者さん》のことだよ。割合で言えば術式を使う《お医者さん》の次に多いね。」
「え、そんなに?」
「術式よりも原理が単純で、効果も抜群だからね。」
「そんなにすごいのに……主流じゃないんですか?」
「患者さんに負担を強いるからね。ことねさん、三大欲求って知ってる?」
「はい……食欲、睡眠欲、性欲の三つですよね。」
「そう。それを使ってヴァンドロームを切り離すんだ。」
「どうやって……」
「うーんとね……じゃあ、ライマンくん。説明してみて。」
 オレがどうぞという感じで促すとライマンくんはオホンとせきをしてから説明を始めた。
「そもそも、欲求を使った治療の目的は『患者に元気を放出させない』というこトダ。まず食欲は患者さんが何かを食べることを禁止スル。」
「断食ですか。」
「うん、つまりお腹ぺこぺこにさせるンダ。そうすると患者さんは何かが食べたくてしょうがなくナル。ヴァンドロームは『症状』を引き起こして患者さんをちょっとブルーな気分にさせることで『元気』を放出さセル。でも、お腹ぺこぺこの時はどうなルカ。変な病気にかかっちゃったとかそんなことどうでもいいから何か食べたいってなるンダ。」
「どうでもいいって……そんなになりますかね。」
「例えば……普段なら衛生上の問題とかを気にするけど、餓死寸前の時、目の前に泥だらけの野菜があったらどうスル? 泥なんか気にせずに口に放り込むヨナ。」
「なったことありませんけど……そうかもしれませんね。」
「食欲がマックスになった時、人は病気なんか気にしなくナル。食べ物を食べる方法を考えまくるンダ。『お腹すいちゃっタナー』程度なら『元気』は放出されルヨ? お腹が空いて元気がないわけだカラ。でもそれが極限状態になったら落ち込んでる場合じゃないんダヨ。食欲っていう欲求にかられて元気になるんだ。だから『元気』を放出しなくなるんだよ。」
「そうなると……どうなるんですか?」
「とりついた相手が『症状』を引き起こしても『元気』を出さないとなれば、ヴァンドロームは『こいつは駄メダ』と思って自分から離れるンダ。」
「ああ……それはすごいですね。」
「睡眠欲の場合は患者さんにとにかく起きててもらうンダ。身体をゆらすなり大きな音を出すなりしテナ。そうすると何がなんでも寝たくナル。寝るための方法を必死で考エル。自分の欲求を満たすために全力で行動スル。『眠たいナァ』なんてダルダルして元気を無くしてる場合じゃナイ。だから『元気』が出なくなるというわケダ。」
「……欲求の使い方はわかりましたけど……でもこの方法じゃ……」
 ことねさんがオレを見る。
「そうだね。食欲と睡眠欲の場合、患者さんを追いこまないといけないから時間がかかる。普通の切り離しの方が速いくらいだね。メリットとして切り離しの際の痛みがないって点があるからAランクの治療なんかでたまに使うんだけど……Aランクとかだと知能が高いからこの治療の限界を理解してしまって離れないことがほとんどだね。」
「治療の限界……?」
「食べさせない、寝かさないって言っても限界があるンダ。命に関わるラインっていうのがアル。それを超えられないっていうのをヴァンドロームが理解してると……この方法は使えないンダ。」
「全然いいとこないですね……」
「でもなこトネ。性欲だけは別なンダ。」
「?」
 そこでライマンくんが少し顔を赤らめてオレを見た。この先はオレが説明しろと……
「えっと……ことねさん、Aランクとかには効果がないのは同じなんだけどね、性欲だけは切り離しの速さがダントツに速いんだよ。だから、特Dランクの《ミスユー》が相手となる今回の状況では使える方法となるんだ。」
「速い?」
「食欲と睡眠欲は患者さんを追い込まないとその欲求は大きくならない。でも性欲は違う。爆発的に大きくなる。例えばだけどね、ことねさん。この場でオレが突然裸になったらことねさんはどう思う?」
「セクハラですか。」
「いや……ごめんなさい。」
 ことねさんは軽くため息をついて答えた。
「それはまぁ……ドキッとすると思いますけど……」
「そこが他の欲求と違う点だよ、ことねさん。異性の裸とかを見た時、人は爆発的に欲求……性欲を大きくする。」
「わ、私……別に先生のこと……その……」
 ことねさんが顔を赤くしてそっぽ向いてしまった。
「あー……ごめんごめん。そういう意味じゃなくて……えっとね、例えばだけど……ある人が普通に道を歩いている時にさ、その人の理想そのものの異性が突然目の前に現れて、艶めかしい声と格好で誘惑してきたらっていう話なんだ。例えそこが人目の多い場所であろうと、胸の高鳴りや体温の上昇は止められないよね。そしてもしその場所が人目のない所だったら? その理想の異性が服を脱ぎ出したら? そのある人は性欲、つまりその異性とエッチなことをしたいという欲求に抗えるかということなんだ。」
 ことねさんは下を向きながら呟いた。
「つ……つまり、そういう状態になった時、病気のことなんて気にしなくなって……とにかく……その、エッチなことがしたいっていう……欲求に支配されるから……『元気』が放出されなくなる……ということですか……」
「そういうこと。性欲を使う《お医者さん》は患者さんの趣味嗜好を徹底的に分析して、性欲が最も大きくなる『何か』を目の前に用意するんだ。すると急速で膨れ上がった性欲のせいで『元気』の放出が瞬時に止まる。すると……ヴァンドロームが自分で離れる……ということだね。」
 そこまで話して小町坂が真面目な顔で補足した。
「ただ、これは患者のあんまり人には言いたくないことを根掘り葉掘り聞いて分析して行うものだ。《お医者さん》からすれば素晴らしい方法なんだが、患者からすれば最悪の方法だ。だから欲求使いの中でも性欲を専門とする奴は少ない。」
 キセルを口から離し、プハーと煙を吐く小町坂。
「だが、相手が《ミスユー》っつー速い切り離しが重要なヴァンドロームとなると……これしかない。」
 空気が変な感じになる話だったので、ちょっと落ち着こうとオレはお茶を飲む。ことねさんも少しオレから目をそらしながらお茶を飲む。ライマンくんもドギマギしながらお茶を飲む。小町坂はキセルをふかす。
 ズズズ……
 プハー
「……それで……小町坂、性欲使いに心当たりはいるか?」
 小町坂は腕を組み、キセルを上下させながらしばらく黙った後、首を横に振った。
「いないな。つか、俺の知り合いつったら全部日本人だからな。知り合いの知り合いって感じに辿ったとしてもいないと思うぜ。」
「? なんで日本人だといないンダ?」
 ライマンくんが不思議そうに尋ねる。小町坂はライマンくんを二秒くらい見て答えた。
「お嬢ちゃ――おっとわりぃ。お前がどこの国の人か知らねーが、日本はそこまで性に寛容じゃない。世界でもトップクラスで厳しい国だ。だから性欲を使って治療なんていう考えを否定的に見る。」
「なるホド。勉強になるナァ。」
 ライマンくんは心底感心している。
「んで、安藤、お前は?」
「オレは……わかんないな。知り合いの《お医者さん》つったらお前か《ヤブ医者》くらいだ。もしかしたら《ヤブ医者》のツテで見つけられるかもしれないが。」
「ああ? 《ヤブ医者》の知り合いの《お医者さん》ってことか? あの《ヤブ医者》連中の知り合いっつったら変人しかいないんじゃねーのか?」
「小町坂、それ、自虐だってことわかってるか? オレも《ヤブ医者》だぞ。」


 さて、小町坂のおごりで豪華な日本料理を食べて甜瓜診療所に戻った後、ことねさんがお風呂に入り、ライマンくんがテレビを観ている間に、オレは知り合いの《ヤブ医者》に電話した。
 もちろんアルバート、スッテン、ファムの三人だ。鬼頭もいるが……小町坂の理論でいくとそういう知り合いがいるとは考えにくい。ということで、海外の三人から連絡をする。
 海外に電話するのだから、時差とかを考えてやるべきとは思うのだが……なんかあの三人はいつ電話しても出てくれそうだ。
 まずはアルバートから。

 プルルル……

『○×□▽。』
 しまった、英語だ。
「あー……アイアム……」
『日本語でございますね。こちらはユルゲンですが。』
 おお……日本語でしゃべってくれた。というかこの声は誰だ? アルバートの声ではない。もっと歳が上の……おじいさんという感じの声だ。
「えっと、安藤享守という者ですが……アルバート・ユルゲンさんはいますか?」
『安藤享守様ですね。アルバート様からお名前は聞いております。ですが、念の為に確認をさせていただきます。』
「はぁ……?」
『質問でございます。安藤享守様は『半円卓会議』にご出席されていますね。この会議の司会者の名前をフルネームでお願いします。』
「フルネーム? そんなのがあるのかわかりませんけど……《デアウルス》です。」
『正解でございます。ではもう一問。会議の際、アルバート様はどこにお座りになられますか?』
「どこって……オレが『真ん中が割れている円卓』から数えて五段目の席に座ってますから、アルバートは四段目です……どこの席かはいつもランダムですけど。」
『結構。まことに失礼致しました。非礼をお許し下さい。』
「あー……構いません。」
『して、ご用件は。』
「アルバートと話がしたいんですけど……」
『現在、アルバート様は外出なさっています。しばらく帰らないとのことです。いつ御戻りになられるかは伺っておりません。』
「そうですか……」
『伝言を?』
「あ、頼めます?」
 オレはアルバートの……執事か何かだろう。電話口の人に伝言を頼んだ。もしかしたら性欲使いの知り合いがいるかもしれないからな。
『確かに。』
「よろしくお願いします。」

 ガチャン

 さて……次はスッテンだ。

 プルルル……

『ナンダキョーマ。』
「……何でオレと……」
『アッハッハ。デンワカイセンヲギャクタンチスルコトデニホンカラノハッシントワカッタノダ。ゥワァタシニデンワシテクルニホンニイルジンブツハキョーマダケダ。』
 なんか……電話でスッテンとしゃべると機械としゃべってるような錯覚を覚えるな。
『ソレデヨウハナンダ? ゥワァタシトシテハカイギイガイデユウジントハナスノハシンセンダカラドンナヨウケンデモウレシイノダガナ。』
「ん? そのセリフの通りだとするとスッテンには他に友人がいないことになるぞ。」
『アッハッハ。イナイトモ。ゥワァタシガユウジントヨベルアイテハキョーマトアルバートトファムダケダ。』
「そう……なのか?」
『ソモソモ、ゥワァタシガ《オイシャサン》ニナッタリユウモソンナトコロニアルノダヨ。ゥワァタシノカガクリョクハアマリニススミスギテイルヨウデナ、リカイシヨウトスルモノガイナイノダヨ。イットキキョウミヲイダクニンゲンガイタトシテモスグニアタマノコウゾウガチガウトイッテハナレテイク。アリテイニイエバゥワァタシハトモダチガホシカッタンダヨ。ダカラキッカイナレンチュウガアツマルセカイ、《オイシャサン》ノセカイニハイッタ。ソシテソンナレンチュウノナカデモイジョウトイワレル《ヤブイシャ》ニナッテヤット……モクテキヲハタセタ。』
 思いがけず、スッテンが《お医者さん》になった理由を聞いてしまった。だが……なんだろうな、この嬉しい感じは。
「そうか。なんだ、言ってくれればよかったのに。」
『ナニヲダ?』
「いや、話すくらいならいつでもいいって話さ。」
『……ソウカ。』
「そっちに留まる理由がなければオレかアルバートかファムか……誰かが住む国に引っ越しするのもありだと思うしな。」
 確かスッテンはロシアに住んでるんじゃなかったか。ロシア人かどうかは怪しいが。あの甲冑姿でよくもまああんな寒い場所に住んでると関心した覚えがある。
『カンガエテミルヨ。ソレデ……キョーマハナンデゥワァタシニデンワヲシタンダ?』
「あー実はな……」
 今さっき友人がいないと言ったスッテンに聞くのはなんかあれだったが、知ってる人物がいるかもしれないので一応聞く。
『ゥワァタシガシル《オイシャサン》ノナカニセイヨクヲツカウモノハイナイナ。シラベルコトハカノウダガ……タブン、ファムナラココロアタリガアルトオモウゾ。』
「ファムが? 何で。」
『ファムハオンナトシテノウツクシサヲモトメテイル。ソノカテイニオトコトノカンケイ、ツマリハセイヨクガカラムノハトウゼンダロウ。アノファムノコトダ、セイヨクガウツクシサニアタエルエイキョウトカヲシラベタニチガイナイ。スルト……ヒトリカフタリ、セイヨクツカイヲタズネテイルカノウセイガタカイ。』
「なるほど。それはそうだな。聞いてみよう。」
『ダガ……キヲツケロ、キョーマ。』
「?」
『キョーマガファムニデンワヲカケルトイウコトノイミヲヨクカンガエルンダ。アッハッハ。』

 ガチャン

 何のことやら……よし、ファムに電話だ。

 プルルル……

『○×□▽。』
 ああ……英語だ……
「えっと……アイアム……」
『♪□◇○△……×⇔←。』
「キョーマ……アンドー……デス?」
『! キョーマ!』
「イ、イエス……」
『キョーマだ! えへへー、キョーマだ!』
 んん? この声は……ファムのお孫さんの……
「アリスちゃん?」
『そうだよー。アリスだよー。』
「やっぱり。えっとね、アリスちゃん。ファム……おばあちゃんに代わってくれるかな。」
『わかったー。』
 たぶん受話器をその辺に置いたんだろう、アリスちゃんがパタパタと走っていく音がした。
 それから二分くらい経っただろうか。誰かが受話器を持つ音がした。
『もしもし? あら、これでいいのよねぇ? 確か日本では電話する時こうやって……』
「その声はファムだな。」
『享守! わたくしに電話をかけるなんて……嬉しいわ。ハネムーンはどこがいいかしら?』
「話が一気に飛んだぞ!?」
『冗談よ。式はいつ挙げるのかしら? わたくし、和服も着てみたいわ。』
「ちょ……」
『安心してね、享守。わたくし、高価な指輪は求めないから。あなたがくれる物ならなんだっていいのよ。』
「ファム……ちょっといいか……」
『なにかしら。』
「ちょっと聞きたい事があって電話したんだが……」
『わたくしの指のサイズかしら。』
「いや……えっと……」
『あら、いきなり本題は恥ずかしいから先に世間話をしようというのかしら?』
「……あー、じゃあそんな感じで。」
『ふふふ。それで、なにかしら?』
 ファムとのこの会話は……冗談なのか本気なのか……いや、あとで考えよう。
「実は……」
 オレはちょっとドキドキしながら用件を伝えた。
『享守……』
「……なんだ。」
『わたくしはいつでも享守に捧げる準備ができているわよ?』
「……そうか。」
『ふぅん……性欲使いね。いるわよ、一人。知り合い。』
「ホントか!」
『彼以外に性欲使いがいなければ確実に《ヤブ医者》となっているくらいのスペシャリスト。』
「おお!」
『紹介することは構わないわ。ただ、彼はアメリカにいるのだけれど?』
「ア、アメリカ……」
 英語……今はライマンくんがいるから通訳とかは問題ないと思う。だけどアメリカに行くだけの旅費なんかあったかな……
『享守。』
「ん?」
『もしよければ、わたくしが同伴するけれど?』
「?」
『享守を飛行機で迎えに行って、そのままアメリカに連れて行ってあげるということよ。』
「いいのか?」
『いいのよ。何かと理由をつけて享守に会いたいのだから。』
「……」
『それじゃあ明日。』
「え、明日!?」
『心配いらないわ。享守の診療所まで行くから。』
「ちょ!」

 ガチャン


 オレはしばらく受話器を持ったまま呆然とし、その後ライマンくんがテレビを見ている和室に行く。
「安藤先セイ。誰と電話してたンダ?」
「友達だよ。《ヤブ医者》仲間の。」
「エェ!? なんだかすごイナ! じゃあさっきの電話の向こうには他の《ヤブ医者》がいたノカ!」
「もう一つおまけにビックリさせるとね、明日、その内の一人がここに来るってさ……」
「オオ! どんな人なンダ?」
「……絶世の美女。」
「オオ! 安藤先生の周りには女の人が多イナ!」
「? そう?」
「ことねとコマチチャンとルールト……」
「……小町坂は男で、ルールじゃなくてるるだね。」
「そう、ソレ。」
 ライマンくんはにっこり笑った。どーもライマンくんは聞き間違いというか覚え違いが多いな。
「先生。」
 そこでパジャマ姿のことねさん登場。灰色の上下にリボン無しの白い髪。色の無いことだ。
「お風呂、お先にいただきました。」
「エェ! お風呂食べちゃったノカ!?」
 驚愕するライマンくん。
「ライマンくん、お風呂はちゃんとあるから、入ってきな。」
「はァイ。」
 小走りで和室から出ていくライマンくん。ことねさんは冷蔵庫からお茶を持ってきて座った。
「先生。」
「なんだい?」
「その……性欲を使う《お医者さん》って……患者さんの色んな事を調べるって……」
「うん。患者さんの性欲を最も爆発させる『何か』を知る必要があるからね。……もしかして、お父さんのそういうことを調べられるのかなって心配?」
「はぁ……まぁ……」
「そうだねぇ……同じ性欲使いでも色々あるからね。人が性欲を覚える『何か』って人それぞれでしょう? だから《お医者さん》もね、単純に患者さんの異性の好みを調べる人やフェティシズムを調べる人がいる。ファムの知り合いがどういう部類かはわかんないけど……」
「ファムさん? それじゃあ、見つかったんですか。その……性欲使いが。」
「うん……明日、ファムがここに来て……その人に会わせてくれる。」
「ここって……日本に来るんですか。」
「正確には甜瓜診療所に……だね。」
「?」
「いや、オレもよくわかんないんだよね。飛行機で来て……クルマでここに来て、それですぐに空港に行ってって感じなのかな。その性欲使いはアメリカにいるらしいから。」
「……なんだが忙しくなりますね。アメリカに行くんだったら……ここは誰が?」
「そうなんだよね。それを伝える前に電話を切られちゃった。」
「かけなおした方がいいんじゃ……」
「いや……あのファムがオレの診療所の現状を理解してないわけはないから。何かしらの対策を持ってくるんじゃないかなぁ。伊達に半世紀以上生きてないよ。スッテンとは違う方向に、頭いいんだよ。ファムは。」
「おばあちゃんの知恵袋ですね。」
「うん……うん?」
 なんか違うような気がするが……いいか。


 翌日。オレはとんでもない方法で起こされた。
「――守。」
「んん……」
「享守。」
「ん……」
「ふぅー。」
「んぎゃあ!?」
 突如耳の中に吹き込んだ柔らかい風にオレは跳び起きた。
「おはよう、享守。」
 ふとんの横に、床に長い金髪を広げているドレス姿の美女が座っていた。
「……ファム?」
「そうよ。」
「ファム!?」
「そんなに呼ばなくても、わたくし、耳は遠くないのだけれど。」
 ここは間違いなく甜瓜診療所のオレの部屋だ。そこになんでイギリス在住の《ヤブ医者》、ファム・ヘロディアがいるんだ?
「それにしても享守……大丈夫なのかしら。」
 オレの驚きをよそに、ファムがオレの部屋を見まわしながらそう呟いた。
「……何がだ。」
「昨日、性欲という言葉を聞いてふと思ったのよ。そういえば享守はわたくしの水着姿を見ても表情一つ変えないわ。享守にはきちんと性欲はあるのかしら、と。」
「いや……それは……」
「それでこの部屋を調べたのだけれど、出てくるのは絵本ばかり。肌色の多い本が出て来なかったわ。」
「調べたって……」
「別にそれが悪いことだとは言わないわ。三大欲求の一つとは言っても、性欲だけは生きる事に関係しないものだから。子孫を残さないで良いと思うのであれば無くても問題はないわ。だけれどね享守。わたくしを見ても何も感じないというのはショックな話よ? わたくしの美しさは周囲の男を虜にしても、最も愛する人を虜にできないということになるのだから。」
「愛……」
 オレは内心かなりドキドキしながらも、普通に振る舞う。
「ファム、今オレが問題にするべきは何でファムがここにいるかということなんだが。」
「昨日行くと言ったじゃない。」
「……朝の六時にか……」
「ふふ。今までも何度か享守の家を訪ねようとは思っていたのだけれど、約束も無しというのは品が無いでしょう? だから今回のようにきちんと約束をとったのなら気兼ねなく会えるのだから、わたくしは一刻でも早く会いたいと思うのよ。」
「自家用飛行機でもトバしてきたのか?」
「そんなところね。さあ、起きて享守。いっしょに朝食を食べましょう。」

「オオ! こんなに美味しいパンケーキは初めて食べタゾ!」
 ライマンくんがパンケーキをもりもり食べている。オレとことねさんはやけに美味しいご飯と素晴らしい焼き加減のシャケと意味がわからない深みのある味噌汁を食べている。
「すごいですね、先生。全然ゆれませんよ。」
 ことねさんが味噌汁をじっと見つめながらそう言った。
「通常航行の時は大丈夫だけれど、気流にぶつかったりするとそうもいかないわ。今度スッテンにもっと良い物を作ってもらおうかしら。」

 オレ達がいる場所は……甜瓜診療所ではない。パッと見、超高級ホテルのスウィートルームと言ったところか。だがその実、ここはファムの自家用飛行機の中だ。
 ファムが朝食を食べようとオレを引っ張って行った場所は和室でも台所でもなく、玄関だった。そして外には何故かエレベーターのような箱があり、その箱の上部には御釈迦様が垂らした蜘蛛の糸のごとく、遥か上空へと続くワイヤーがついていた。
 エレベーターの中には服を着替えたことねさんとライマンくんが困惑顔で乗っていた。ファムに連れられてオレもそれに乗ると、エレベーターは上昇し、気付くとファムの自家用飛行機の中にいた。
 空中で停止できる飛行機って一体なんなんだよ……ヘリコプターじゃないんだから……

「アメリカにはあと一時間程で到着するわ。」
 ファムはいかにも健康に良さそうな、肌に良さそうな朝食を食べている。
「なあ、ファム……」
「診療所のことなら心配はいらないわ。わたくしの下で《お医者さん》として活躍している者を置いてきたから。彼女たちの腕はわたくしが保証するわ。」
「そうじゃなくて……いや、そっちはありがたいんだが……いいのか? 昨日の今日で突然訪ねて。その……性欲使いに。」
「大丈夫よ。彼はわたくしの頼みなら何でも聞くから。むしろ心配は享守よ。彼が享守に嫉妬して何かするかもしれないのだから。」
「え?」
「彼はわたくしに言い寄っているということよ。」
「彼氏……なのか?」
「いいえ。わたくしは彼に興味を持っていないわ。アルバートのように、男としてあるべき姿を追求している点では尊敬しているけれど。」
「ムキムキなのか?」
「エロエロなのよ。」
 ファムがいたずらっ子のようにふふふと笑った。
「なんじゃそりゃ……一応、名前とか聞いといていいか?」
「いいわよ。彼の名前はサイグマンド・フリュード。大抵フリュードと呼ばれているわ。名前が呼びにくいから。性欲と美しさの関係を調べる上で知り合った人物よ。」
 スッテンの予想通りだな。
「さっきも言ったけれど、わたくしに心底惚れているわ。だから頼みを聞いてくれる。」
「おいおい……」
「享守。わたくしは美しいのよ? わたくしの虜となった男が何人いることか。別にわたくしは女王様になりたいわけではないけれど、美しさを求めるとはそういうことよ。言わば副産物。だから特に気にはしないし、頼みを聞いてくれるというのであれば聞いてもらうわ。けれどね、享守。」
 ファムは自分が座っていた場所から移動し、オレの横に座った。オレが座ってる席は一人掛けなん……だが……
 ファムの髪の毛が肌に触れてくすぐったい。そしてファムの顔が近い……
「わたくしから言い寄っている相手は享守ただ一人。だからわたくしはわたくしの美しさの追求の副産物から、享守を守る必要がある。女の美しさに対して、追い風にも向かい風にもなるモノが嫉妬なのだから。」
 ファムの青色の眼にオレが映っているのが見える。鼻と鼻が触れ、ファムの吐息が肌をなでる。
「フリュードには手は出させない。享守は何も心配することはないのよ。」
「いや……別に何かされることを心配してるわけじゃないが……ありがとう……」
 そんなオレとファムを顔を真っ赤にしてことねさんとライマンくんが見ている。
「それより享守、わたくしも質問するわ。このベレー帽の子は誰かしら。」
 ファムはライマンくんをちらりと見る。
「ライマン・フランク。《デアウルス》が言ってた護衛だ。アメリカのスクールから来た。」
「あら、思いがけず里帰りなのね。ファム・ヘロディア、《ヤブ医者》よ。よろしく。」
 ファムがにっこり笑いかけるとライマンくんはその場で起立してあいさつした。
「ラ、ライマン・フランクデス! スクールの三年生デス! こここ、こちらこそよろしくお願いしマス!」
 その後しばらく、ファムを膝の上に座らせたまま一時間程雑談していると、飛行機が目的地に到着した……らしい。窓の外を見るとまたもやこの飛行機は空中で静止している。
「ふふ、これはスッテンの発明なのよ。」
「スッテンの?」
「スッテンが書いた論文があるのだけれど、実現するには莫大なお金がかかる代物だったのよ。だから誰も作っていなかっただけ。」
 つまり莫大なお金が出せるわけだ……ヘロディア家は。
「さ、乗った時と同じように、エレベーターで降りるわよ。」
 エレベーターに乗り込み、一分くらい降下する。扉が開くと、そこは一軒家の前だった。なぜかその家の周りには他に家が無い。かといってここが何もない空き地の真ん中というわけでもない。住宅街の一部分にだけ家がない……そんな感じだ。見るからに、この一軒家を周りの人が避けていることがわかる。
 時刻は時差の関係で夕方。五時とかそこらだろう。
「ここがフリュードの家よ。」
 ファムはスタスタと玄関まで行き、チャイムを鳴らした。
『……○×□←』
 インターホンから声が聞こえた。英語だったが……渋めの低い声だ。
「わたくしよ、フリュード。」
『! ヘロディア嬢か! 今開ける!』
 家の中でどたどたと音がし、ドアが勢いよく開いた。
「ヘロディア嬢!」
「久しぶり、フリュード。今日はちょっと頼みがあって来たわ。」
「それは嬉し――ヘロディア嬢……その男は……」
 フリュードは……一言で言えばちょい悪オヤジ……みたいな感じだ。どこかのロックバンドみたいな髪型にサングラス。サンタクロースとまではいかないがかなり伸びたひげ。口には煙草をくわえ、派手な色のシャツに所々傷の入ったジーパン。歳は四十代といったところか。
 そんな見た目のフリュードがサングラス越しでも感じ取れるほどの敵意をむき出しにしてオレを見た。
「安藤享守。わたくしが身と心を捧げる男よ。」
「なんつー紹介の仕方を!?」
「ヘロディア嬢が……こんな……もやしを……」
 一瞬ふらっとしたが次の瞬間、フリュードはオレの胸倉をつかんでいた。
「貴様のような男がヘロディア嬢と――」
 ファムが目にも止まらぬスピードでフリュードの首へ手刀を振り下ろす。だが、それは途中で止まった。フリュードの身体が震えているのだ。そしてオレを見ながら信じられないという表情をしていた。
「な……なんだこれは。こんな目……まさか、あり得ない。あっていいはずがない……」
 フリュードはオレを離し、一歩下がった。それを見たファムは目を細めた。
「フリュード……あなた、何を見たの?」
「ヘロディア嬢……」
 フリュードは何かに脅えるように頭をかかえた。
「おれにもわからない。求めているようで求めていない……? 欲求を持たないことを欲求としている……? 何を体験したら、何を見たらそうなる……初めてだ……このおれが……仮にヴァンドロームにとりつかれても治療できないと感じる人間は……」
「……」
 ファムがいつもとは違う鋭い目でオレを見た。
 フリュードが何を言っているのか、何を言いたいのかはオレにはわかる。だが……ここで話すべき事じゃない。
「ま……まあまあ。オレは安藤享守。よろしくな。」
「…………サイグマンド・フリュードだ。」

 フリュードはぶつぶつ何かを言いながらも、オレたちを家の中に入れ、リビングに案内した。大きなソファーがあったのでとりあえずそこに座ろうとしたらフリュードが止めた。
「ちょっとまて。」
 言いながらフリュードは花見の場所取りにつかうようなシートをソファーにかぶせた。
「座っていいぞ。」
 オレとことねさんとライマンくんは不思議そうに、ファムはやれやれという顔で各々座った。フリュードはキャスターがついてる椅子をどこからか持ってきてオレたちの正面に置いた。
「今飲みモノを用意する。」
 ファムには赤ワインが、オレとことねさんとライマンくんにはコーラが渡され、フリュード本人は缶ビールを開けた。
「まさか……いや、当然と言えば当然なのか。ヘロディア嬢ほどの方となれば男には苦労せんもんな。であれば、自分の美しさでも落とせない相手に心を奪われるのはわかる。落とせない女であればあるほど、おれも燃えるしな。」
 フリュードは缶ビールをオレの方に突き出しながらこう言った。
「認めよう。お前ならば釣り合う。おれにはわからないが……お前には奥底に何かある。この世の誰もが驚愕し、世界を変えてしまえるような……何かが。」
「……それは言い過ぎだ。オレは平凡な男だよ。」
 性欲のスペシャリスト……三大欲求の一つを極めた男。欲求とはその人間の個性が最も出る所だ。それを極めたということは、出会った人間の本質を見極めることに長けているということだ。わかる人にはわかるらしいな……
 オレはフリュードの缶ビールにグラスをコツンとぶつけ、コーラをグイッと飲んだ。フリュードも喉を鳴らしてビールを飲む。
「良い女を手に入れたな……安藤と言ったか。うらやましいかぎりだ……ああちくしょう。」
 そこでライマンくんがはいと手をあげて尋ねた。
「なんだぁ?」
「ファムさんのどこに惚れたンダ?」
「そんなもん決まってんだろーが。その美しさにだ。」
「……美人な人ならたくさんいると思うケド……」
「ただ美しいってだけじゃ駄目なんだよ。いいか、女に限らず、全ての生き物は相反する美しさを持っている。身体は若い時が美しいが、心は老いた時が美しい。ピチピチの肌とシワシワの肌ならピチピチだろ? いつまでもピーピー喚くガキよりは凛とした大人だろう? だが現実はどうだ……両方が同時にピークに達することはない。」
 フリュードはプハーと息を吐きながら、ファムを見る。
「しかし、ここにそれを実現した女がいる! 最高に美しい身体と成熟した心! 気品のある性格! 全ての男にとって高嶺の花! 最高の女とはヘロディア嬢のことを指す!」
「タカネノハナ?」
「誰も触れてはいけない絶対的な美しさだ!」
「ンン? 誰も触れてないってことは、ファムさんはまだ処女なノカ? 確か年齢的にはおばあちゃんじゃなかっタカ?」
 ライマンくんがなにやらとんでもない質問をした。それに対し、ファムは笑顔で答えた。
「そうよ。捧げても良いと感じる人に会わなかったから。今はいるけれど。」
 ファムと目が合った。捧げるって……いやいやまずいぞ。話の方向を変えるんだ!
「フ、フリュード……あんたは何で普通に日本語でしゃべってんだ。」
 インターホンに出た時は英語だったはず。何で今は日本語なんだ?
「ヘロディア嬢が日本語で話しかけてきたからだ。」
「……何でしゃべれるんだよ。」
「おれは性欲の専門家だぞ。あそこまで性に対して禁欲的な日本に興味を抱かないわけがないだろ。現地で調査するにはそこでの言語がしゃべれないと意味が無い。だから勉強した。」
 フリュードは酒臭くなってきた息を吐きながら腕を組んで語りだす。
「どうもな、若いうちにヤることが当たり前みてーになってんのがおれは気に食わないんだ。まるでそれが大人になるための一歩みたいに勘違いしてる連中が多すぎる。身体は勝手に大人になる。ならなきゃいけないのは心だ。経験する事は大事だが、早すぎるのも問題だ。醍醐味を理解できないのに経験したってしょうがないだろ?」
 言ってる内容はあれだが……要するに小学生が修学旅行で文化遺産を巡ってどうするんだって感じだな。そんな歳で歴史を感じ取れるかよって話だ。
「だから日本はなかなかいいとおれは思ってる。経済力の問題もあるだろうけどよ、国によっちゃ昼間っから若い奴が腰振ってるなんてことがあるが……ありゃ駄目だ。世界からはよく日本が馬鹿にされるがな、勤勉、真面目、大いに結構。性の経験なんざ大人になってからでいいんだよ。そう思わないか?」
 ……おかしいな。さすが性欲の使い手……話がだんだんそっちになっていく……
「だいたい、男がイチモツぶっ込んでる時に楽しめるのは女の声だろ? 十代二十代の喘ぎ声なんかうるせぇだけだろうが。四十、五十くらいの女が、初めての感覚にドギマギしつつも、『もうこんな歳なんだから』と恥ずかしがりながらも押し殺せない声を出すのがいーんじゃねーか。処女を守って来た女……艶のある声と恥じらい……たまんねーなーおい! 想像するだけで息子が立ちあがるってもんだ!」
 フリュードが座った体勢で腰を振る。そして「くーっ!」ってな感じの顔をした。ことねさんとライマンくんは軽く目をそらしている。
「フリュード……若い二人が居辛そうにしているわよ。」
 ファムがくすくす笑いながらそう言った。
「大丈夫だヘロディア嬢。おれ、少なくとも三十は超えないと女として見ないから。一応誤解の無いように言っとくが、ガキは胸が小さいからって理由じゃないぞ。おれは貧乳でも巨乳でもどっちでも……いや、でかいほうがプレイに幅が出るのは確かだが……」
 何を言ってるんだこいつは……
「昨日ヤッた女も巨乳でなー。良い感じだった……」
「昨日!?」
 オレがびっくりすると不思議そうな顔でフリュードはオレを見た。
「? ああ。そのソファーでな。」
 それを聞いたことねさんとライマンくんは立ちあがって部屋の隅に移動した。
「まさか女とヤッたソファーにヘロディア嬢を座らせるわけにはいかないからな。シートを被せた。」
「ふふふ。フリュードは研究と自分の性欲のために毎日とっかえひっかえ誰かとヤっているのよ。お盛んなことよね。」
「満たされることはないがな。最高の女を知ってしまったからには。」
 なんて会話だ。片や性欲の専門家で片や七十八歳。こういう内容にドギマギする段階を既に通り過ぎている。オレたちには重すぎるこの内容に。
「……本題に入っていいか?」


 こんな人に任せていいのかな……と、私は感じていた。だけど先生が本題を話し始めると、フリュードさんはものすごい真剣な顔になった。その格好でその表情になるとちょっとヤクザか何かにしか見えないけれど……
「はぁん……つか、お(ヤブ医者)だったのかよ。ヘロディア嬢以外で会うのは初めてだぜ。」
「そうか……」
「……さて、今の件だが……引き受けてもいいぜ。ヘロディア嬢の未来の旦那の頼みとあっちゃあな。」
「嬉しい事を言うわね、フリュード。」
 ファムさんがうっとりしている。先生は半目になっている。半目の先生が「ありがとう」と言ったあと、フリュードさんに尋ねる。
「それじゃあ……どうすればいい? あんたがニック・フラスコとかから《ミスユー》を性欲によって切り離さなければならなくなった時、それはすぐにできる事なのか? それとも準備がいるのか?」
 確か使い手によっては調べることも違うと先生は言っていた。この人が治療する際には何が必要なのだろうか。
「そのパーティーが始まる前に一度面と向かって会わせてもらえばそれでいい。どういう風に性欲を爆発させるかは見ればわかる。」
 見るだけで……さすがはファムさんが認める専門家。アルバートさんといい、何かを極めた専門家は見ただけでわかってしまうらしい。
「エェ!? そ……それじゃあ、僕たちのこともわかっちゃってるノカ?」
 ライマンさんが恥ずかしそうに聞いた。私もライマンさんの質問の意味を理解して少しドキッとなった。
「あ……いや……」
 だけどフリュードさんはため息交じりにこう答えた。
「……自信なくすんだがよ、今おれの前にいる四人の人間の性欲は……見ただけじゃわからないんだよな。」
「そうなノカ?」
「ヘロディア嬢は今まで会ったことのない完璧な女ってこともあっておれが今まで積み上げてきた経験がまるで通じないから調べないと断定できない。安藤はそもそも調べてもわからなそうだ。そこの白い子は……なんか違う感情が混ざってて読めない。ベレー帽の子は何かが矛盾しててわからない。」
 どういう感覚なのかわからないけれど……どうもフリュードさんは私の左手にいる《オートマティスム》の存在を感じ取っているようだ。だから「混ざっている」と言ったんだろう。先生は……もう謎だらけだから今さら驚かないけれど……ライマンさんはどういうことだろう。矛盾ってなんのことだろうか。もしかして男か女かわからないってことかな?
「あら、大丈夫なのフリュード?」
「いや……うーん……会えばわかるもんなんだが……そのフラスコだとかもわからないってことは……たぶん……ない……はず。」
 わからない人が四人も目の前にいるからか、言葉通り自信をなくしているフリュードさん。
「ふふ。それじゃ、わたくしからある程度の情報を渡しておくわ。一流の情報屋に調べさせるから。それをもとに性欲を調べて。」
「すまない……いや、普通なら見てわかるんだよ……」
「わかっているわ。あなたの実力は。」


 アメリカから帰って来た私たちは診療所の和室にいた。時刻は十二時。朝が早かったから午前中で終わったのだけれど……あまりにあっという間の出来事すぎて、私は本当にアメリカに行ったのかも怪しく思えてきた。確か日本からアメリカって片道十時間くらいかかるんじゃなかったっけ。ファムさんの飛行機はどんだけ速く飛んでたんだろう。
 フリュードさんは当日にファムさんが日本に連れて来てくれることになった。
 これで、当日はこんな感じになる。まず、先生が言うに《デアウルス》さんが今回のことに気付かないわけはないので、護衛はバッチリだろうということ。そこに私と先生とライマンさんが加わり、いざという時のためにフリュードさんがいる。そしてフリュードさんを連れてくるファムさんももしかしたら加わるかもしれない。
 でも、そこまで考えてふと思った。《お医者さん》の将来に大きく影響するかもしれないこの事件に、なんでこんなに関わる人が少ないんだろうか。《ヤブ医者》が全員招集されてもいいんじゃないのか……そんなことを先生に聞いてみた。
「うーん……《ヤブ医者》って言っても別に戦闘集団じゃないからね。治療と言う場面においては確かに全員がすご腕だろうけど、《パンデミッカー》とやるのは戦闘だから、向き不向きがあるんだよ。」
「それはそうですね……」
「大丈夫だよ。《デアウルス》に抜かりはない。オレたちが行くのだって計算に入ってる可能性があるくらいさ。」
 先生は……《デアウルス》さんならこの事にとっくに気付いてるはずだと言っている。護衛をつけているはずだと言っている。どれも確証はないのに結構安心している。
どうしてそこまで《デアウルス》さんを信頼しているんだろうか。逆に、《デアウルス》さんはどうしてそこまで信頼されているんだろう。
「納得できないって感じだね。」
「……少し。」
「《デアウルス》は《お医者さん》のトップではない。だけど、《ヤブ医者》のトップであることは《ヤブ医者》全員が認めている。トップというよりは……司令に近いけど。」
「司令ですか。」
「オレも二回、《デアウルス》の指示で事件を担当したことがある。ヴァンドローム絡みの事件をね。一つはアルバートと一緒に作戦をたてて動いた。もう一つは……たまたま近くにいたから走ってそこに行けって言われた。」
 たまたま近くにいたから走って……?
「! ……まさか……」
「オレにあの崩れる橋に行けって言ったのは《デアウルス》なんだよ、ことねさん。だからことねさんを救えた。《デアウルス》は知らない所で《ヤブ医者》に頼んでヴァンドロームの事件を解決してる。今回のことも見逃さずに対応しているさ。」
「……《デアウルス》さんはどうしてそんなに《お医者さん》の味方をしてくれるんでしょうか。」
「そうねぇ。」
 正座してお茶を飲んでいるファムさんが呟いた。
「《デアウルス》は一定量の『元気』の供給を条件に人間と契約したと聞くわ。だけれど、その契約が成されたのはわたくしが生まれるよりも遥かに昔。」
「そんなに昔……」
「契約したということは《デアウルス》と契約をした人間はそれなりの地位にいたということだけれど、今現在(デアウルス)と同等の権限を持つ《お医者さん》がいるかしら。答えはノー。享守が言うように、《デアウルス》は《お医者さん》のトップではないわ。だけれども、《ヤブ医者》を統括していることは事実。そして、《お医者さん》の世界に重要な決定は『半円卓会議』で成される。全ての《お医者さん》は正体不明の人物によって統括されているのよ。その人物を、《ヤブ医者》は《デアウルス》と呼ぶのだけれど。」
「ファム……」
「自分と同等の存在がいないのにも関わらず、《デアウルス》はトップで在り続けているわ。その理由こそが、わたくしたちを助けてくれる理由だと思うのだけれど……全ては本人のみぞ知るというところね。」
「ファム……なんでここにいるんだ? 飛行機行っちゃったぞ。」
 説明してくれたのは有難いけど……何故かファムさんはまだここにいる。自家用飛行機はもう行ってしまった。
「折角来たのだから、パーティーの時までいるわ。フリュードは別の者が連れてくることにしたから心配はいらないわ。」
 先生をちらりと見る。みるみる表情が「まさか」という言葉で埋まっていく。
「……どこで寝泊まりを……」
「ここ以外にないと思うのだけれど?」
 にっこり笑うファムさん。
どうでもいいけどものすごく場違いな感じがする。こんな小さな和室で高そうなドレスの絶世の美女がお茶を飲んでいるのだから。
「でも……着替えとかは……」
「そこにあるわ。」
 部屋の隅っこにいつのまにか旅行カバンが置いてあった。初めからそのつもりだったようだ。
「お、お客さん用の部屋とかないんだが……」
「享守の部屋で寝るわ。」
「ふ、二つも布団は敷けないんだが……」
「享守の布団で寝るわ。」
 こうして、ニック・フラスコがやってくるまでの間、ファムさんが甜瓜診療所で寝泊まりすることになった。


 ……わたしは……夢を見ていました。とても懐かしい、あの頃を。
 彼は一人用の丸いテーブルにチェス盤を置き、一人でチェスをさしていました。
 彼女はアイマスクをつけ、ソファで寝ていました。
 とても……とても頼りになるお二人です。お二人が揃うと、出来ない事ありはしませんでした。
 だけど――

「……今になってこの夢とは。まいりますね。」
 わたしは椅子で眠っていたようです。頭を軽く振り、目を開けるとちょうどわたしがいるこの部屋に誰かが入ってきました。
「集まりました。みな、待っています。」
「ええ。行きますよ。すぐに。」
 わたしは呼びに来てくれた人にそう言い、緩慢な動作で立ちあがりました。
 その人の先導で、わたしはいつもの部屋に向かいます。
「次は……どんな計画を? まだ上の方にしか今回の事は……」
「大きな仕事です。実に。あの人を何とかしてしまえば連中は動きづらくなります。かなり。しかし同時にリスクを伴います。とても大きな……ね。」
「それ故の……あの面子ですか。」
 いつもの部屋につき、その人が扉を開けてくれました。
 中には長いテーブル。そして座っている数名の同志。
「おぉ……やっときたぞ。」
「遅くなってすみません。では……始めましょうか。」
 彼と彼女……いえ、彼の意思はわたしが継ぎました。わたしが皆さんをさらに先へと進めます。
「ニック・フラスコ襲撃の作戦会議を……」
 わたしたち、《パンデミッカー》の目標へ。


 翌日の朝、私が着替えて和室に行くと先生とファムさんがいた。ファムさんが畳の上に正座していて、先生がファムさんの髪をくしでとかしている。
「おはよう、ことねさん……」
 先生はなんだか眠そうだ。
「どうしたんですか、先生。徹夜明けの人みたいな顔ですよ。」
「事実その通りなんだよ。」
「何をしてたんですか。」
「あハハ! ことね、そんなのわかりきってるじゃなイカ!」
 ライマンさんがやってきた。
「そこの美人さんと……きっとイチャイチャしてたンダ! 一晩じュウ!」
 ライマンさんはニヤニヤと楽しそうだ。私は先生を見た。
「ことねさん、そんな『私、この人の生徒で大丈夫かな』って顔しないで下さい。」
「じゃあなんでそんなになってるんですか?」
「眠れるわけがないじゃない。となりで……同じ布団の中にファムが寝てるんだよ?」
 あ……ほんとに一緒に寝たのか……
「何かいい香りはするし、さらさらの髪の毛が手に触れるし、吐息が……首のあたりにかかるし……」
 吐息が首にかかるってことは……二人揃って天井を見上げて寝たわけじゃないってことだけど……
「えロイ! 安藤先生がえろイゾ! どんな感じで寝てたンダ? 抱き合ってなノカ!」
 ライマンさんが朝からフィーバーしている。先生の話をすると輝きだす詩織ちゃんみたいだ。
「……オレは上を向いて……ファムがオレの方を向いてた……」
「それは……大変……だったんですか?」
「結構ね……」
 それはまぁ、先生にとってはそうだろうけど……きっとファムさんにとってはステキな一夜だったんだろう。そう思ってファムさんを見たんだけど……
「……」
 ファムさんは何故か不機嫌そうだった。
「ファムさん?」
「……ことね。」
「はい。」
「あなた……享守にその三つ編みを編んでもらったことあるかしら?」
「いえ……ないですけど。」
「そう……」
 ファムさんの表情が何だが……怖い。
「享守。」
「ん?」
 先生は眠そうに返事をした。先生の位置からはファムさんの表情は見えない。
「どういうことなのかしら。」
「何が……?」
「どうしてそんなに……女性の髪をとかすのが上手なのかしら?」
 私は先生を見る。そう言えば……ファムさんの長い金髪を随分と手慣れた感じでとかしている。もちろん私はとかしてもらったことない。つまり――
「なるホド! つまり安藤先生には髪をとかす程の関係にある女の人がいるというこトカ!」
「ライマンさん……」
「おット。火に水を注いじゃっタナ。」
「……?」
「あれ、焼け石にあブラ?」
 ああ……ごっちゃになってるのか。
「! まさかあの本屋の店員かしら!?」
「ファム、とりあえず落ち着いてくれ。」
 この修羅場一歩手前みたいな和室の中、先生はいつも通りだった。
「ライマンくんの言った事は正解だ。あー、ことわざは間違いだけど。」
 先生はファムさんの髪から手を離し、ファムさんの正面に座った。ファムさんは怖い顔から……なんだか嫉妬する人みたいな顔になっている。困ったなぁ、同性の私もドキッとしてしまう。対して先生はのんびりしている。
「正解っつってもそういう女の人が『いた』って方が正しいが。」
「そ、それは誰なのかしら?」
「二人いる。」
「おオウ! これが噂の二股ってやつダナ!」
「違うよ。彼氏彼女っていう間柄じゃない。まず一人はるるだ。」
「誰かしら、それは。」
「オレの幼馴染だ。(医者)をやってて、ヴァンドローム関係の患者さんにここを紹介してくれてる。小さい時からるるは髪を長くしててな。走り回った後なんかに、オレに髪をとかせって言ってくるんだ。」
「……二人目は?」
「オレの先生。」
 先生の先生……『あの人』か。というか女の人だったのか。
「あの人はファムとは正反対でな、髪の手入れなんかしない、オシャレする気なし、いつも適当な服装っていう人だったんだ。なのに髪は長くのばしててな。そのボッサボサのゴワゴワになった髪をとかすのがオレの役目だったんだよ。」
「そう……」
 ファムさんが心底ほっとしたような表情になった。うわ、ファムさんがなんだか可愛い。
「まったく、心配してしまったわ。世間には浮気だとか愛人だとかを男なら仕方の無い事と言って黙認してしまう女性がいるのだけれど、わたくしはそうではないから。」
「そ、そうか……」
 ファムさんの思わずドキッとして顔が赤くなってしまう熱い視線を受けた先生はあわてて立ちあがった。
「さーて、朝飯を作るかな。」


 はしを上手に使いこなし、ウインクしてくるファムと一緒に朝飯を食べたあと、オレとことねさんとライマンくんは診療所を開ける準備をした。ニック・フラスコが来るパーティーまではまだ日があるし、それまでは正直あまりやることがない。まぁ、パーティーの会場の下見くらいはできるが……
 ともかく、あまり普段と変わらないので、準備をした後は患者さんが来るまで暇となる。そんな中、ファムは甜瓜診療所を探検し始めた。
「あら、あまり女の子の部屋という感じではないわね。」
「よく言われます……」
 ファムはオレの部屋を隅々まで調べて満足した後、ことねさんの部屋に入って行った。
「これはこの間のパズルね?」
「はい。結構難しかったです。本場は違いますね。」
「そう? わたくし、こういうモノはやったことがないのだけれど。」
 そう言いながらファムはくるりと向きを変えてドアのところに立っているオレを見た。
「……なぜ享守はそこでわたくしたちを眺めているのかしら?」
「いやぁ……暇だし……」
「あらそう。ことねの部屋に見られたら困るモノでも隠しているのかと思ったのだけれど。」
「そんなのないが……仮にあったとしてもなんでことねさんの部屋に隠すんだよ……」
「とうだいもとくらしダナ!」
 ライマンくんがひょっこりと顔を出す。
「少し意味が違うわね。」
 ファムがふふふと笑う。
「ん? ファムは日本のことわざまで勉強したのか?」
「もちろんよ。将来どちらに住むかはわからないけれど、知っておいた方が会話は楽しくなるわ。」
「どちら?」
「日本かイギリスかということよ。わたくしは享守さえいればどちらでもいいのだけれど。」
 目を細め、にっこりとほほ笑みながらオレを見るファム。
「そ、そうか……」

 チリンチリン

 なんだか微妙な空気になったその時、診療所の入口に吊るしてある風鈴が鳴った。要するに、誰か来た。
「患者さンカ!?」
 ライマンくんが小走りで入口の方に向かう。オレとことねさんとファムもそれに続いた。
「あ。」
 やってきた人を見て、ことねさんがそう言った。
 入口にいたのはめんどくさそうな顔をした一人の男性。黒い髪の毛をテキトーな髪型にまとめ、深い緑色のジャケットをはおり、さらに濃い緑色のズボンをはいた大学生くらいの男だった。
 ……いや、というか……
「お兄ちゃん、どうしたの?」
 ことねさんがそう言った。
 そう、彼はことねさんのお兄さんだ。オレはことねさんをあずかる際、ことねさんの家に言って家族の方にあいさつをした。その時にことねさんの家族とは全員顔を合わせているので、もちろんお兄さんの顔も知っている。
「よう、ことね。久しぶりだな。」
 軽くため息をつきながら筝太くんはそう言った。
「ことねのお兄サン! 名前はなんてゆーンダ?」
「お兄ちゃんの名前は筝太です。溝川筝太。」
「ソータ? なんだかかっこいイナ!」
「そうですか……?」
 そんなやりとりを眺めていた筝太くんはオレを見る。
「……こんにちは、安藤先生。」
「こんにちは、筝太くん。久しぶりだね。今日はどうしたんだい?」
「野暮用です。父さんが忙しいってんで俺が。」
「? んまぁ、とりあえずあがって。」
 オレは和室に筝太くんを促す。筝太くんは黙って頷き、和室へ歩き出す。その際、ファムが視界に入り、筝太くんは顔を真っ赤にして驚いた。
「……!? んなっ……!?」
「……」
 ファムは特に興味もなさそうに筝太くんを見る。そしてにっこりと笑ってオレを見た。
「これが普通の反応というモノよ、享守?」
「……そうだろうな……」


 筝太くんが和室に座り、ことねさんがその正面に座った。そうなると、お茶を出すのはオレの役目となるので、オレは台所に向かう。
「お茶お茶……」
「享守。」
 オレがお茶のカンカンを探していると、後ろからファムが話しかけてきた。
「なんだ?」
「わたくし、しばらく享守の部屋にいていいかしら?」
「? 別にいいが……そんな気を使わなくてもいいと思うぞ?」
「気を使う? いいえ享守、別に何か大事な話をしそうだから席を外そうというつもりで言っているわけではないのだけれど。」
「じゃあ……」
「あの男と一緒の空間にいるということが嫌でたまらないということよ。」
 正直、かなり驚いた。だが奇妙な話というわけでもない。オレは今まで『半円卓会議』でしかファムに会ったことがなかった。周りにいるのは《ヤブ医者》か《医者》か《デアウルス》。つまり、極々一般的な人物……たとえば小さな子供と話すとき、ファムがどんな感情を抱くのかなどということは知らない。
 生理的に合わない人というのは誰にだっているだろう。ファムにとってのそれが筝太くん……なのかもしれない。
「わかった。じゃあオレの部屋にいてくれ。あんまり荒らさないでくれよ……」
「……理由を聞かないのかしら?」
「聞いていいなら聞くが……」
「ふふふ、享守は優しい人ね。」
 ものすごくいい顔……ドキッとしてしまう笑顔でそう言われてしまった。
「わたくし、普通というのが嫌いなのよ。」
「普通が嫌い?」
「わたくしは、女は美しくあるべきだと思うわ。この考えはたぶん一生変わらない、わたくしの信念。そしてこの信念があるからこそ、わたくしは高みを目指せている。アルバートもそう……男とは筋肉を持つべきだという信念。それがあるからこそ、あの美しい肉体を得た。」
「そうだな。」
「具体的な言葉で聞いたわけではないけれど、スッテンからも科学に対する信念を感じるわ。そして、享守……あなたからも、何かを果たそうとする強い信念を感じる。」
 ……見ただけで「この人いい人」だとか、「この人悪い人」ということを感じる時がある。それはその人が積み上げてきた数々の経験から導かれる経験則。ファムほどに人生を歩んできた人物なら、その人が信念を持つか否かということはなんとなくわかるのかもしれないな。
「会議で会う《医者》もそう……人を救いたい、権力を手にしたい……どんなものであれ、あの場に来る《医者》からは信念を感じる。わたくしはそういう人間が好きなのよ。人ってそうあるべきだと思うのよ。」
「……それはまぁ、同感だ。」
「けれどね、享守。世の中には何の信念も持たず、平均から出ることを恐れて高みを目指さない普通の人間というのが存在しているのよ。普通を目指したのではなく、何も目指さないゆえに普通になったどうしようもない人間が。」
 ファムは目を細め、汚らしいモノを見るかのような目で筝太くんのいる方をにらむ。
「あれはそれなのよ、享守。わたくしが最も嫌う人間。」
「……そっか。」
 オレがそう言うと、ファムは「ごめんなさい。」と言ってオレの部屋に入って行った。
 ……別にファムが誰を嫌いであろうと、オレは何も感じない。ただ、オレの友人のことを深く知ることができたという喜びはあった。
 この前のスッテンとの電話でもその喜びがあった。
「……ああ……そうか。」
 もしかしたら、オレがまだ語っていないあの人との話をファムやスッテン、アルバートが聞いたら……嬉しく思ってくれるのかもしれないな……

『かかっ。残るは、お前の勇気だけということだな。』

「ああ……そうだな。」


 私はずいぶん久しぶりに見るお兄ちゃんをまじまじと見た。相変わらず、緑色が好きなんだな。
「それで……野暮用ってなんなの?」
「ああ……」
 お兄ちゃんはちらりと和室の隅っこで楽しそうに私たちを眺めているライマンさんを見た。
「オオ? 気にしないでクレ。僕は熊の置物かなにかだと思うンダ!」
 サケを加えた熊の置物のようなポーズをするライマンさん。
「えっと……気にしないで、お兄ちゃん。」
「ま、いっか。えっとな、ことね。お前、この前父さんに電話したろ?」
 私は内心ギクリとした。
「う……うん。」
「父さん、ことねが珍しく電話してきたってのに忙しくてゆっくり話を出来なかったって言ってた。けど今思うと、その時のことねがかなり慌ててたから気になったらしくてな。本当なら自分がここに来たかったけど、なんか近々大きい会議だか何かがあるとかで会いに行けない……だから俺がこうしてやってきたわけだ。」
 お兄ちゃんがそこまで話したところで、先生がお茶を持ってきた。
「はい、どうぞ。」
「アレ? 安藤先生、僕のぶンハ?」
 テーブルに並んだ二つの湯呑を見てライマンさんが先生を上目遣いで見た。そういう動作をすると本当に女の子にしか見えない……
「ライマンくんはこっちおいで。お茶は診察室だよ。」
 そう言って先生は和室からライマンさんを連れ出した。和室には私とお兄ちゃんだけ。どうやらみんな気を使ってくれたみたいだ。
「……んで、ことね。父さんにした電話はなんだったんだ?」
 私は考えた。ここでお父さんが危ないとか話したらどうなるか。もしかしたらお父さんは出席をやめるかもしれない。私はそれが一番安心だけど……先生が言ったように、逆にパーティー以外で《パンデミッカー》に襲われたら守りにくくなる……
「えっとね……ちょっとびっくりしたんだよ。」
「何に?」
「お父さんが《医者》と《お医者さん》の架け橋みたいな活動をしてるってことに。」
「え、父さんそんなことしてんの?」
 お兄ちゃんも知らなかったみたいだ。
「私もつい最近聞いたばっかりで……つい電話して確認しちゃったの。」
「そっか。別に緊急事態ってわけじゃないんだな。」
 お兄ちゃんはふぅと息を吐く。別にものすごく仲の良い兄妹というわけではないけど、家族として心配してたみたいだ。
「というかお兄ちゃん。今日平日だけど……大学はいいの?」
「授業は午後からだからな。」
 お兄ちゃんは文系の大学に通っている。だからかどうかはよくわからないけど、朝から夕方までみっちり授業というわけではないらしい。
お兄ちゃんは《医者》を目指してはいないし、まして《お医者さん》になろうともしてない。
「お兄ちゃんは……将来何になるの?」
 ふと思った疑問をぶつけてみた。
「さぁ? 適当になんかなるさ。」
「え、それで大丈夫なの?」
「大丈夫だと思うけどな。」


 要件をすませたお兄ちゃんはさっさと帰ってしまった。まぁ、ここにいてもそんなにやることないし……
「お早い帰りダナ!」
「筝太くんは学生だからね。色々と忙しいんだよ、きっと。」
 先生とライマンさんが診察室から湯呑を持って出てきた。
「すいません、気を使わせて。」
「別にいいよ。」
「……? ファムさんは……」
 私がそう尋ねると同時に、先生の部屋からファムさんが出てきた。
「享守。」
 ファムさんはいつも先生に見せる笑顔ではなく、真剣な顔で先生に一冊の本を見せた。
「これはどういうことなのかしら?」
 ファムさんが手にしている本の表紙には「癌」という文字が見えた。読み方は「ガン」。死因の上位に色々な形で食い込んでくる病気だ。
「こんな感じの癌の専門書が享守の部屋にたくさんあったのだけど? しかも、床下の絵本に混ざって。」
「絵本と一緒に癌の本ですか。すごいですね。」
「ガン? 安藤先生は癌の研究をしているノカ!?」
 私たちが先生を見ると、先生は困ったように笑いながらこう言った。
「近いうちに話すよ。」
「今ではダメなのかしら?」
「ダメってわけじゃないが、どうせアルバートやスッテンとかにも話すことだからな。一度で済ませたいんだ。」
「……! あら……ついに話してくれるというのね? 享守の色々な謎を。」
「ああ。ファムのおかげでな。」
「あら、わたくし何かしたかしら?」
「ちょっとな……」



 ファムさんを入れて合計四人になった甜瓜診療所での生活は色々と騒がしく、その日はあっという間に来た。
 ニック・フラスコという《医者》がお父さんに会いにやってくる日。《医者》と《お医者さん》の未来を真剣に考える人が大勢集まるパーティーの日。《お医者さん》にとって大事な日。《パンデミッカー》の襲撃が予測される……日。
 私、先生、ライマンさん、それとファムさんと朝早くにアメリカから連れてこられたフリュードさんは甜瓜診療所を小町坂さんと藤木さんに任せ、都心のとある大きなビルにやってきた。よく知らないけれど、政治家さんとかが講演をする時とかに使われることのあるビルだそうだ。
「でっかいビルだナァ。」
「え、アメリカの方がでっかいビルとかって多いイメージですけど……」
「あのなー、こトネ。別にアメリカに住んでる人全員があんな都会に住んでるわけじゃないんダゾ。例えば僕が、日本でよく報道されるアメリカの大都会に行けば、そこでも僕は「でっかいビルだナァ。」って呟くのダヨ。」
「そんなもんですか。」
「日本人が全員着物姿でないのと同じようなもンダ。」
 私とライマンさんがそんな話をしている隣では、先生とファムさんがフリュードさんを加えて相変わらずの会話をしていた。
「あらあら享守。わたくし、別にこんな立派な所で式を挙げたいとは思っていないのだけれど。」
「結婚式の下見に来たわけじゃないんだが……」
「ほぅ? その言い方だと、お前はヘロディア嬢と結婚する気満々なんだな?」
「へ? あ、いやいや……」
「享守ったら……らしいと言えばらしいけれど、わたくし、あなたのプロポーズは聞きたいと思うのだけれど。」
「プロ……」
「がっはっは! なんなら、おれがアドバイスをやろうか? 女を口説くのには自信がある。んま、それがヘロディア嬢に通じるかはわからねーがな。」
 そんな会話をしながら、私たちはビルの入口にやってきた。
「ウワ。すごいナァ。」
 真っ黒な服を着た「いかにも」という人が入口の両脇に立っていた。
「やっぱり、警備は厳重だね。」
 先生が少し安心した顔になった。

 そもそも、お父さんからパーティーがあるという情報を聞いただけの私たちがどうやってその日と場所を突き止めたのか。
 ファムさんが先生の部屋で寝泊まりすると言ったその日の夜に、ライマンさんが思い出したように呟いた。
「そういえば、そのパーティーっていつなンダ?」
 その一言に私と先生はびっくりした。お父さんを助けるだとか、性欲使いを探すだとか、色々したような気がするのに、肝心のそれを調べてなかったのだ。
「あらあら。間の抜けた話ねぇ、享守。」
「おおぅ、言ってよかっタゾ。」
 ファムさんはくすくすと、ライマンさんはあははと笑った。
「とりあえずネットで調べてみるか。」
「? ことねのお父さんに聞けばいいじゃなイカ。」
「それだと理由をしゃべらなきゃいけなくなるかもしれないからね。」
「おお、なるホド。でもこの診療所にはパソコンなイゾ?」
「……ファム、持ってないか?」
「スマートフォンならあるけれど。」
 そう言いながら、ファムさんはスマートフォンを取り出した。オレンジ色の素敵なスマートフォンで、アクセサリーがついていた。ドラマや映画で出てくるハート型のロケットペンダントだ。
 ファムさんはそのペンダントと先生を交互に見て、ふふふと笑った。
「ファム?」
「なんでもないわ。それで、何を調べればいいのかしら?」
「ニック・フラスコが来るパーティー……かな。」
 慣れた手つきでファムさんが調べ始めた。だけど二~三分の後、ファムさんはため息をついた。
「……ふぅん……特に無いわね。」
「そうか……」
 先生が腕を組んで何やら思案顔になる。
「ニック・フラスコって有名人なんダロ? ことねのお父さんはともかく、そっちの名前で調べればパーティーが開かれる場所くらいわかりそうなノニ。」
「お父さんはともかくって……」
 その通りではあるけれど、なんだか……なんだかだ。
「……ああ……もしかしたら……」
「どうしたのかしら?」
「《パンデミッカー》が来るかもしれないパーティーだし……《デアウルス》が情報に規制をかけているのかもと……」
「あり得る話ね。でも……それを何とかできる人物を知っているでしょう?」
「……この前電話したばっかりなんだが……」
「? 誰ですか?」
「スッテンだよ。」
 その後、何やら機械みたいな声が聞こえる電話を数分した後、先生は疲れた顔で結果を話した。
「難しい話はわからないけど、スッテンによると神がかったプログラムが邪魔をしててネットからパーティーの情報を得るのは困難な状態らしい。まぁ……スッテンが普通にそれを突破して情報を得てくれたんだけど……」
「スッテンって誰なンダ?」
「《ヤブ医者》の一人だよ。」
「おオウ! 《ヤブ医者》の名前がポンポン出てくルナ! すごイゾ!」
「それで? 結局いつにどこなのかしら?」
「三日後のお昼に都心のとあるビルで行われるそうだ。地図はこれ。」
「あら、スッテンも気が利くわね。」
「ああ。……うちの電話はファックスじゃないんだがな……」
「え、それじゃあその地図はどこから出てきたんですか……」
「気づいたら机の上にあった……」
「ホラーですね。」

 そんな感じで突き止めたパーティー会場だったので、警備も万全だろうと思っていた。だから真っ黒な服の人が立っていても驚きはしなかった。
「今更だけど……オレたちって入れるのかな……」
「そういえばそうですね。あ、でも《ヤブ医者》の証明書みたいなのを出せばいいんじゃないですか?」
 『半円卓会議』に行くときに見せてもらった証明書。知っている人に見せれば身分証になると思う。
 とりあえず先生がてくてくと入口に立っている真っ黒な服の人のとこに行く。その人と少し話した後、首を横に振りながら帰ってきた。
「《ヤブ医者》とか抜きにして、招待されていない人はダメだって。」
「おいおい、んじゃあ、何のためにおれはここに?」
 フリュードさんがため息をついた。
「さて、どうする――ん? あれって……」
 先生がビルの入口の前の道を見て呟いた。見ると、丁度一台の車が入ってきたところだった。その車がビルの前で止まったかと思うと、どこから出てきたのかわからないが、その車をたくさんの真っ黒な服の人が取り囲んだのだ。取り囲むと言っても、全員が車の方に背を向けているから、護衛のために囲んだのだろう。
 それを見ていたファムさんが呟いた。
「あの警備……あれがニック・フラスコだと思うのだけれど。」
 真っ黒な服の人が扉を開け、後部座席から出てきたのは一人のおばあさんだった。五十か六十か……それくらいの年齢だろう。でも腰の曲がった「老人」という感じではなく、元気に山登りとかしてそうな感じの人だった。
「あら……なかなか美しいわね。年齢に比例した落ち着きと気品ある動き……それと同時に感じられる活力。良い年の取り方をしているわ、彼女。」
 見た目があれだからなんだか変だけど……下手すればファムさんはあのおばあさんよりも年上か……
「ヘー。ニックっていう名前だからてっきり男だと思ってタヨ。」
「そう……なんですか?」
「ニックはニコラスとかの略称で、男の名前なンダ。ニコラスって名前の女って可能性もあるけど……それならニックじゃなくてニッキーが普つウダ。」
「んまぁ、日本にも男の子みたいな名前の女の子とか、その逆とかいるしね。というか、あの人がニック・フラスコかどうかもまだわか――」
 そこで先生の言葉は止まった。見ると先生は目を真ん丸にして驚いている。
「……なぁ、ファム。あれって……」
 先生が見ているモノを見て、ファムさんはなんだか楽しそうに笑った。
「ふふふ。あんな美しい身体、見間違えはしないわ。」
 二人が見ている先に視線を移すとすごい人が見えた。
 おばあさんが出てきた車の中から、どうやって入っていたのやら、周りの真っ黒な服の人よりも一回りほど大きい人が出てきたのだ。
 今にも破れそうなスーツを身にまとい、英国紳士みたいなひげをはやし、身長で言えば二メートルくらいなのに、その身体の大きさ……服の内側からその存在を存分に主張する筋肉のせいでさらに倍くらいの大きさに見える人物。
「なんでここにアルバートがいるんだ……?」
 先生の《ヤブ医者》友達の一人、アルバートさんがそこにいたのだ。
「む? そこにいるのは安藤とファムではないか!」
 アルバートさんも私たちに気づいたようで、ニカッと笑いながら近づいてきた。やはり歩き方にはどこか気品が感じられる。
「お主らも《デアウルス》から頼まれたのか?」
「《デアウルス》? いや、違うが……アルバートはそうなのか?」
「うむ。《ミスユー》が《パンデミッカー》の手に渡った事件と今回のフラスコ氏の来日……《デアウルス》が危惧してな。ワシにフラスコ氏の護衛を頼んできたのだ。」
 先生が言っていた《デアウルス》さんの対策……つまりアルバートさんを護衛につけることがそれだったんだ。先生の予想通り、《デアウルス》さんは今回の出来事を十分に把握しているみたいだ。
「それで……安藤とファムはなぜここにおるのだ? それにことねと……見知らぬ顔と性欲使い。」
 あれ? なんで今フリュードさんが性欲使いだってわかったんだろう?
「ああ。実はニック・フラスコが今回のパーティーで会う《医者》の中にことねさんのお父さんがいるんだ。《ミスユー》の件から《パンデミッカー》の襲撃を考えて……んまぁ、ことねさんのお父さんを含む《医者》とニック・フラスコを守りに来たってとこだ。」
「ほう! 目的は同じということだな! 心強い!」
 アルバートは後ろをちらりと見て、こう言った。
「一応、あの黒服の連中は《デアウルス》が用意した護衛たちなのだが……《パンデミッカー》と戦えるかと言うと正直微妙でな。護衛という行為には慣れとるらしいが少し不安だったのだ。だが《ヤブ医者》が二人と性欲使いが加われば安心というものだ。」
「ふふふ。初めから、《デアウルス》には享守とわたくしが来ることがわかっていたのかもしれないわね。」
「ガッハッハ! かもしれぬな!」
「あー……」
 そこでフリュードさんが控えめに手を挙げた。
「む、なんだ。」
「あんたも……《ヤブ医者》か?」
「いかにも。アルバート・ユルゲンだ。」
「まじか……ヘロディア嬢しか知らなかった《ヤブ医者》をこんな短い間にさらに二人知ることになるたぁなぁ……」
 フリュードさんが驚く隣で、ライマンさんが目をキラキラさせていた。私はそもそも先生が《ヤブ医者》だから、《ヤブ医者》のすごさというのがよくわかっていないのだと思う。でもライマンさんはスクールで勉強してきた人だ。《ヤブ医者》のすごさというのを今までの勉強で理解しているのだろう。先生、ファムさんに続いてアルバートさん。合計三人の《ヤブ医者》に出会うということ……これはきっとすごい体験なんだろうなぁ……
「ふむ。見たところ安藤の知り合いというわけではなさそうだな。そもそも日本には性欲使いが少ないはず……ファムの知り合いであろう? 腕の方はどうなのだ?」
「あらあら、アルバート。わたくしは享守に頼まれてこの性欲使い、サイグマンド・フリュードを紹介したのよ? 腕の無い《お医者さん》をわたくしが享守に紹介するわけがないでしょう?」
「ガッハッハ! 確かにな! すまなかった! 良い妻を持ったなぁ、安藤よ!」
 アルバートさんが笑いながら先生の背中を叩いた。
「アルバート……」
「もぅ……アルバートったら。」
 先生とファムさんが正反対の反応をする中、再びフリュードさんが手を挙げた。
「あー……アルバートって言ったか? あんた、なんでおれが性欲使いだってわかったんだ?」
 私も気になっていた質問をフリュードさん本人がしてくれた。
「む? 安藤とファム、それとことねという組み合わせの中におるのだから、お主が《お医者さん》であることは推測できるであろう? そしてお主は男女が性行為を行う際、男が主に使うであろう部位の筋肉が発達しておる。それと今回の《ミスユー》というヴァンドロームの性質を考慮すれば、おのずとお主が性欲使いであることが想像できる。」
「……すごいな……」
 フリュードさんが呟いた。確かにすごい。というか、なんでもかんでも筋肉からわかるのか……
「おっといかん。フラスコ氏を待たせてしまった。」
 見ると、車から降りてきたあのおばあさんがじっとこちらを見ている。やっぱり、あの人がニック・フラスコなんだ。
「お主たちのことを話して、中に入れるようにしてもらう。」
 そう言いながらニック・フラスコのとこに行こうとしたアルバートさんはふと立ち止まって先生を見た。
「またお主と一緒に仕事ができるとはな。ワシは嬉しいぞ、安藤。」
「……ああ。」


 私たちはアルバートさんのおかげで無事にパーティー会場に入ることができた。パーティー自体はまだ始まっていないようだ。
「……しっかしまぁ、一人だけとんでもなく目立つことになりそうだな?」
 フリュードさんが先生を見ながらそうつぶやいた。
 パーティーということで、一応私はパーティードレスを着ている。……いや……着せられた。ファムさんがなぜか私の分のドレスを持ってきていたのだ。白の落ち着いたドレス……らしいのだけど、なんにせよこんな服着たことないのでドギマギしてしまう。
 ファムさんはなんかとんでもないドレスを着ている。真っ赤で……胸元とか背中とか……とにかくなんかもうすごいドレスだ。会場にいた警備の人とかがそろって見とれてしまう状態だ。まぁ、見とれるのはドレスのせいではないだろうけど。
 ライマンさんは普段通りの服装だ。シャツにネクタイ、スーツのズボン。それとベレー帽。いつもと違う部分は、ネクタイをしっかりとしめていることくらいだ。パーティーに出席する人としてはギリギリセーフな格好ではある。
 フリュードさんはビシッとしたスーツ……いや、タキシードと言うべきなのだろうか。どこかのバーで一人でお酒を飲んでいそうな中年……みたいな感じだ。
 そして先生は……Tシャツとぶかっとしたズボン。白衣と便所サンダル。まったくぶれることなく、いつもの格好だ。
「安藤よ。お主はそれ以外の服を持っておらぬのか?」
「……残念ながら、パーティーに出席するためのおめかしは持ってないな……」
「靴もか?」
「いや……普通の靴は持ってる。今回が本当にただ出席するだけなら履いて来ただろうが……《ヤブ医者》として来てるからな。これは必要なことなんだ。」
「え、先生の便所サンダルに意味があったんですか!?」
「一応……」
 初耳だ。あー、でも診療所の下駄箱には確かにちゃんとした靴も入っていたような気がする。
「まぁ、構わぬがな。安藤が言うように、お主らがここにいる理由は出席することではないのでな。」
そう言いながら、アルバートさんが一枚の紙を先生に渡した。
「このパーティーの出席者だ。」
私は先生の手元をのぞき込む。紙の上から下までたくさんの名前がある。……見慣れた名前も。
「……本当にお父さんの名前がある……」
「結構出席者が多いんだな、アルバート。」
「ああ。だがさすがの《パンデミッカー》もこのリスト全員分の《ミスユー》は捕まえていないだろう。」
「そうなると……《お医者さん》の今後に与える影響の大きい人物から順番に狙われるのでしょうね。わたくし、そういうのには疎いのだけれど。」
「心配ない。《デアウルス》から《パンデミッカー》に狙われる確率の高い人物をリストアップしてもらってある。」
 リストを見ると、十人ほどの名前が並んでいた。そしてリストの一番上にはニック・フラスコの名前があって……二番目にお父さんがいた。
「ワシもまだ漢字は完璧ではなくてな……これがことねの父親か?」
「あ、はい……」
 そうか。日本語ができる人が漢字を読めるとは限らないのか。
「ふむ。ワシを入れて《ヤブ医者》が三人……いざという時には上位三人を守ることになりそうだな……」
「いざというトキ? それはどんな時なンダ? 全員守るんじゃないノカ?」
 ……どうでもいいことだけど、もはやライマンさんは誰に対してもフランクにしゃべるなぁ。
「《パンデミッカー》にとって《ヤブ医者》は最大の敵であるからな。その顔は把握している可能性が高い。いざ会場に来てワシらがいるとわかれば、出席者を全員始末するなどということは諦めるであろう。そうなった場合、とりあえず優先度の高い人物を狙うことが考えられるのだ。何らかの手段でさらって行くかもしれぬ…………というかお主は……?」
 ここでアルバートさんの視線がライマンさんに向いた。
「この子はライマン・フランク。《デアウルス》が言ってた……スクールからのあれだ。」
「ほう! ではこう見えて中々の使い手ということか?」
「成績優秀だ。術式にも独特のモノがある。一般的なやつじゃないから、《パンデミッカー》もすぐには対応できないだろう。活躍できると思う。」
 さらりと先生がライマンさんを……褒めた。
「いやー、照れルナ! というか、安藤先生はそんなに僕のことを評価してくれてたんダナ!」
 ライマンさんが顔を赤くして「でへへ」という顔になる。
 …………なんだか……なんだか……
「痛っ!」
 私の左手が先生の背中をバチンと叩いた。
「?? ことねさん?」
「違います。今のは私の左手です。」
「おオウ! 『エイリアンハンド』!」
 ライマンさんが私の左手を興味深そうに眺める。そういえば、ライマンさんの前で左手が動いたのは初めてか?
「さて……フリュードといったか。性欲を使うための準備などをしておいて欲しいのだが……何か手伝えることはあるか?」
「いや……直に会って二、三個質問をさせてもらえば十分だ。色々用意してきたんだがな、あれくらいの年齢ならすぐわかる。」
 そう言って、フリュードさんはアルバートさんと一緒にニック・フラスコのところに行った。
「……先生。」
「なんだい、ことねさん。」
「ニック・フラスコっておばあさんですけど……その、性欲を使った切り離しってできるんですか?」
「ああ……あれくらいの年齢になったら性欲なんてないだろうに……ってことかな?」
「はい……」
「えっとねぇ、ことねさん。若い人が性欲たくさんでおじいさんおばあさんにはないってのは間違ってるんだ。正確には、年を取ることで、性欲を感じるモノが少なくなるんだ。」
「少なくなる?」
「性欲使いの説明の時に言ったように、彼らは、患者さんが最も性欲を感じるモノを調べて切り離しを行うんだけど、その最も性欲を感じるモノってのがカギなんだ。」
 先生の説明を、私だけでなくライマンさんも真剣に聞いている。ファムさんは……説明している先生をほほ笑みながら見つめている。
「若い時ってのは色々なモノに興味を持つでしょ? 流行のモノに惹かれるし、テレビに出ているイケメンさん、美人さんが身に着けているモノを欲しがる。とにかく若い時ってのは琴線がゆるいというか何というか……でも年を取ると、流行りモノには興味がなくなっていく。それは性欲も同じでね……」
 そこで先生がちょっと顔を赤らめて、話しにくそうにした。
「だから……えっと……」
「ふふふ。わたくしが説明してあげるわ。」
 そこでファムさんが先生の代わりに話をする。
「仮に享守に、わたくしの身体のどこでも好きな所を触って良いと言ったとき、享守がわたくしの胸を触ったとするわね。」
「なんつー例えを!」
「つまり、享守の最も性欲を感じるモノが女性の胸ということ。裸の女性を見たらまず目が行く箇所が胸……けれど享守はまだまだ若いから、ほかの箇所にも興味津々なのよ。お尻や脚……どの部分であろうとも興奮してしまうの。」
「ファ、ファム、その例え話はちょっとやめないか……」
「けれど享守が年を取ってわたくしくらいの年齢になると、もう胸だけにしか目が行かなくなってしまうのよ。本当に興味のある部分にしかね。」
 ファムさんが流し目で先生を見た。先生はため息をついて続きを話す。
「…………要するにね、性欲を使った切り離しを行う時、年を取った患者さん相手はやりにくいかと思いきや、一番やりやすいんだよ。好きなものがたくさんある人と、一つしかない人……本当に好きなものを言い当てるのだとしたら、後者の方が楽でしょう?」
「なるほど……」
「おお、授業で習った通リダ。それで、やっぱり先生は胸なノカ?」
「……ファムが変な例え話をするから……」
「あら、わたくしも興味あるのだけれど。」
「……ノーコメントで……」
「わたくしの水着姿を見てもダメということは……」
「考えるなー!」
「む? 何やら楽しそうであるな。」
 そこでアルバートさんとフリュードさんが戻ってきた。
「どうだったかしら? フリュード。」
「ああ、ばっちりだぜ、ヘロディア嬢。あの婆さん、なかなかいい趣味してやがる。ちょっと外に出てくる。」
 ……最も性欲を感じるモノを買いに行くんだろうか……
「? 安藤、なぜ顔が赤いのだ?」
「ファムのせいだ……そういえばアルバート、パーティーの最中、オレらはどこにいるべきだ?」
「会場内にいてくれて構わぬが……」
「あー……それだとことねさんのお父さんに出くわすな。何も起きないに越したことはないわけだし、変な不安を与えてもなぁ……」
 お父さんは私たちがここにいることを知らない。ここで出会うと、何かあると思ってしまう。別に《パンデミッカー》の襲撃が百パーセントあるというわけではないし……
「安藤よ。」
 何もないことを願っていると、アルバートさんが先生に……いや、私たちにこう言った。
「ワシにこの仕事を与えたのは《デアウルス》だ。無論、ワシとて何も起きないことを望んでおらぬわけではないが……人知を超えた頭脳が出した可能性だ。ワシは、襲撃が確実であると考えておる。」
「……そうだな。隅っこにいるとするよ。」
「ああ、頼む。」


 パーティーの開始時刻が近づいてきた。会場にはすでにかなりの数の出席者が来ている。先生の白衣は目立つかと思っていたけど……何も出席者が全員黒いスーツというわけではない。女性も多いし、会場内はかなりカラフルなことになっているのだ。だから先生の服装は「よく見たら白衣」という程度だ。
「なぁ、こトネ。」
 先生がファムさんとアルバートさんと何か話している時、ライマンさんが私にこそこそと聞いてきた。
「さっきから出てくる「であうるす」ってなんなンダ? 安藤先生に最初に会った時も聞いた気がするケド……」
 ライマンさんは《お医者さん》側にSランクのヴァンドロームが三体いるって言ってたけど……その名前は聞いてないのかな。いるということだけ教えて名前を教えないとはスクールの先生はなかなか意地悪だ。
「えっと……ライマンさんは『半円卓会議』って知ってますか?」
「年に一回の《ヤブ医者》と《医者》の会議ダロ? なんだ、いきナリ。」
「それの司会をしているのが、Sランクのヴァンドロームで、その名前が《デアウルス》なんです。」
「Sランク!? へー、そうだったノカ。ここに来てから驚いてばっかりダナ……」
 そこでライマンさんがふと思いついたように聞いてきた。
「ことねは……『半円卓会議』に行ったことあるノカ!?」
「……この前……」
「いいナァ! じゃあ《ヤブ医者》全員に会ったんダナ!?」
「会ったというか……見はしましたけど、名前を聞いたのは四人だけです。」
「四にンモ!」
「先生の友達のファムさんとアルバートさん、それとスッテンさん。あと鬼頭先生です。」
「すってんときトウ! 安藤先生のとこにいれば会えるかナァ……」
「……ライマンさんは……《ヤブ医者》になりたいんですか?」
「うーん、ちょっと違ウナ。単純に、《ヤブ医者》と呼ばれる人たちみたいなすごい《お医者さん》になりたいんだ。自分の治療法に自信を持って、周りから何と言われよーとも曲げずに突き進んだ人たち……結果、誰もたどり着けない段階まで上り詰メタ! かっこいいじゃなイカ!」
「そうですね……」
 ファムさんもアルバートさんもスッテンさんも鬼頭先生も……何か強い信念というか……軸があると思う。
 でも……先生には……
「お、そろそろ始まるみたいダナ。」


 パーティーが始まった。私たちは会場に広がるようにわかれていざという時に備える。壇上にお父さんがあがってスピーチしたりしているので、見つからないように隅っこで先生とライマンさんとこそこそしている。
 いや、ライマンさんはこそこそしていないか。堂々と料理をお皿に盛りに行っている。
 ……改めて考えるとお父さんはいつの間にかすごい人になってたんだなぁ。ドラマや映画でしか見ない偉い人の演説というのを自分の父親がしている光景を見るのはなんだか変な気分だ。他人事のようだけど……お父さんってあんな人だったっけか。
 そういえば……
「先生。」
「なんだい、ことねさん。」
「先生のご両親は何をしてる人なんですか?」
「うん? 言ってなかったっけ。オレの両親は《医者》だよ。」
「そうなんですか。えっと……それじゃあ今もどこかの病院で?」
「いや、病院にはいないね。研究所にいるよ。」
「研究所?」
 そこで先生が手をあごにあてて私を見た。
「……ついでだから教えておこうか。ライマンくんも知ってるみたいだったしね。」
「はい?」
「オレの両親はどっちとも《医者》でどっちとも……『医療技術研究所』にいるんだよ。」
「『医療技術研究所』……」
 まともな名前だ。でも今の先生の反応からするに、《お医者さん》絡みの話だと思ったけど……
「そこは新しい治療法や薬なんかを研究してるとこでね。優秀な人が集まるとこなんだ。だけどそこで患者さんを治療することはしないんだ。」
「研究専門ってことですね。でも、優秀な人がそこに行っちゃったら患者さんが……」
「もちろん、いざって時は研究所の一員でも手術に参加したりするよ。でも基本は研究してるって感じだね。」
「先生のご両親は……何を研究してるんですか?」
「癌だね。」
「! それで先生の部屋に癌の本が……?」
「うーん……そうと言えばそうだけど……ちょっと違う。んまぁ、この話をまたするとして、本題はここからなんだよ。」
「?」
「『医療技術研究所』はね、《お医者さん》の研究所でもあるんだよ。」
「……もしかして『エイメル』とかを作ってるとこですか?」
「そうだね。他にも色々作ったり研究したりしてる。『医療技術研究所』はね、建物は一つだけど中で二つに分かれてるんだ。《医者》側と《お医者さん》側に。」
「『半円卓会議』みたいな感じですか……やっぱり仲が悪いんですか?」
「いや、仲はいいらしいよ。研究の見せ合いっこもするらしいし。ただ、やってることがまったくと言っていいほど違うからね。どうしても分けざるを得なかったらしい。」
「へぇ……どこにあるんですか?」
「残念だけど、オレは知らないんだ。」
「え?」
 ご両親が働いている場所……それ以前に、《ヤブ医者》である先生も知らない?
「知ってるのはそこで働いている人だけって言われるくらいに秘密にされてるんだよ。結構大事な研究してるから。でもそこで働くある人物がちょっとした有名人なんだな。」
「有名人?」
「『医療技術研究所』は中で二つに分かれるから、《医者》側と《お医者さん》側、それぞれに所長がいるんだけど、《お医者さん》側の所長がそうなんだよ。その名も眼球マニア。」
 眼球マニア……ああ、ライマンさんが来た時に出た名前だ。いや、名前じゃないな。あだ名?
「術を使う《お医者さん》なら一度は聞く名前だね。んでもってそいつは《ヤブ医者》の一人だから、一番有名な《ヤブ医者》ってことになる。」
「《ヤブ医者》なんですか。なら、私もあの会議で見たんですかね。」
「いや、あの場にはいなかったよ。というか、眼球マニアはいつも来ないんだ。」
「え、いいんですかそれ。」
「一応代理の人が来るし、《デアウルス》もそれを認めてる。結構多忙らしくてね。本人が来たのは眼球マニアが《ヤブ医者》になった年の会議。つまり、眼球マニアにとっての最初の会議だけなんだ。だからオレは会ったことないんだ。」
「さすが《ヤブ医者》ですね……」
「……なにがさすがかわからないけど……まぁでも、眼球マニアはスクールで先生をしてるしね。ライマンくんによればアメリカにいるみたいだ。」
「ということは……ライマンさんは会ったことあるんですかね。」
「だと思うよ。」
「なんだなンダ? 僕がどうかしたノカ?」
 ライマンさんが料理を山盛りにして帰ってきた。
「スクールの……眼球マニア……さん? の話をしてたんです。」
「眼球マニアカ。あの人には色々お世話になっタヨ。」
「あ、そうだライマンくん。」
「なンダ?」
「眼球マニアの名前って教えてもらったかい?」
「え、先生、知らないんですか!?」
 私がびっくりしてそう言うと先生は頭をポリポリかきながら言った。
「なんかね、眼球マニアが言うには、自分の本名が公になると色々面倒なことになるらしいんだ。だから誰も知らないんだよ。《ヤブ医者》の中にも知ってる人はいない。ただ、色んな生物の眼球をコレクションしてるからみんな眼球マニアって呼んでるんだよ。」
「それはまた……独特な趣味ですね……」
「たまに授業にコレクションしてる眼球を持ってくルゾ。それで「いいだろー」って自慢してくるンダ。」
 共感できる人が一人もいないだろうに……
「僕も本名は知らなイゾ。でも本人が言うには、聞けば誰でも知ってる名前らしいケド。」
「そんなすごい人なんですか。ますます本名が気にな――」

 ブツン

 ……? ……!?
 え? あれ? 真っ暗?
 突然視界が真っ暗になった。誰かに目隠しされたわけじゃない……ということは会場の電気が消えた……?
「うワワ! 真っ暗ダゾ!」
 隣でライマンさんの声が聞こえた。次第に会場もざわついていく。
「先生!」
「……うん。敵が来たね。」
 敵……《パンデミッカー》!
「お父さんは! こんなに暗くちゃ何も見えませんよ!」
 私がかなり慌ててそう言ったのに対して、先生は落ち着いた声でこう言った。
「……正確には、暗くないんだけどね……」
「? それってどういう……」

「あんだお前は。」

 聞きなれない声がした。同時に、誰かが私の手を掴んだ。一瞬ドキッとしたけど、私の左手……《オートマティスム》が動かないということは、きっと先生だ。
「ことねさん、ライマンくん、オレの近くにいてね。」
「おいおいまじかまじか。お前、今その二人の腕を迷いなく掴みやがったな。」
 二人の腕……つまり、今先生は私とライマンさんの腕を掴んでいるということだ。真っ暗な中、敵が来たこの状況ではぐれるのはかなり危ないからだと思うけど……聞きなれない声が言ったことが気になる。
 こんな真っ暗な中で、どうやって私の腕の位置を……?
「まさか視えて……? ……いや……視えてないな。お前の目は俺を捉えてない。」
 先生の目がこの声の主を捉えてない……? いや、でも……そもそもこんな真っ暗な中じゃ声の主だって何も見えてないはず……
「なるほどな。お(ヤブ医者)か。あのババアとオヤジを追いかけてこっから出てった奴が二人いたが……そうか、三人いたのか。ヘロディアとユルゲンは有名だからわかったが……お前は別に有名じゃない《ヤブ医者》か。」
「追いかける……か。アルバートの予想通り、さらうことにしたのか。」
 さらう……この声の主が言ったババアとオヤジというのはもしかしてニック・フラスコとお父さんのことか。その二人がさらわれて……今、ファムさんとアルバートさんが追いかけているんだ。
「他の《ヤブ医者》ならともかく、ユルゲンはやばいんでな。どっか遠いとこに運んでゆっくりと始末することにしたんだよ。聞きたい情報もあるしな。それに《ミスユー》も使いたいし……他はまぁ……雑な方法になっちまうな。」
「随分おしゃべりなんだな。」
「そりゃあな。お前には俺が視えてないんだ。勝負にもならねーだろ? 人間、余裕になるとおしゃべりになんだよ。」
 どういう仕組みかわからないけど、この声の主には私たちが見えているみたいだ。対して私たちは相手がどこに立っているかもよくわからない状況。
 ……ちょっと前なら、こんな状況になった瞬間、私の左手が動いて何かをしてた。でも何もしない。先生がいるから大丈夫だと思っているんだろうか……
「まぁ……確かにお前は視えないが……どんな奴かはわかる。」
「あに?」
 先生はそんなことを言うとすぅっと息を吸い込み、ぶつぶつと独り言のように呟きはじめた。
「身長は……オレよりちょっと低いか。ちゃっかりと右手に料理を持ってるってことは、最初からこの会場にいたのか? 服装も身体にフィットした感じだし……スーツを着てるんだろ? そのせいか、上着の内ポケットに忍ばせてる……これはなんだ? もしかして拳銃か? ずいぶん目立つ感じになってるぞ?」
「な!?」
 驚いた声。声の主はもちろんそうだろうけど、私もびっくりだ。こんな暗い中で……
 ……あれ? なんか変だ。普通、暗い部屋に長くいたら目が慣れてくるはずだ。もちろん、完全完璧に真っ暗な中にいたらどちらにしたって見えないけど……多少、見え方が変わるはずだ。それにこんなに人がいる会場なのに携帯電話を取り出す人がいない。少しの明かりも見えないのだ。
「そんなバカな! 《ステイルイメージ》は確実にお前にも……」
 《ステイルイメージ》……知ってる名前だ。Bランクのヴァンドロームで……確か症状は……
「『失明』……」
「うん、よくできました。さすがことねさん。」
 私の呟きに先生が反応した。
「別にこの会場の電気が消えたわけじゃないんだ。今もしっかりと電気はついてる。けれどこの会場にいる人全員が同時に視力を失った。だから何も見えなくなったんだ。」
 電気はついたまま……だから声の主には私たちが見えて、私たちには見えないのか。でも……それならなおさら先生はどうやって……?
「お前は厄介だな! 始末しとくぜ!」
「悪いがそうはいかない。」
「ぬかせ! 何をしたか知らねーが、結局視えてない――っっ!?」
 声の主が変な声をあげた。
「あ――が――お前っ! ぐあっ! ああっ! 何を――!?」
 ガチャンと何かが床に落ちる。たぶんお皿が割れた音だ。声の主が持っていたお皿を落としたらしい。そしてバタリと倒れる音。バタバタと脚を動かして床を蹴る音。
「や、やめろ! 黙れ! がぁっ! うる――せぇっ! ああああああぁぁああぁっ!!」

 パチン

 急に明るくなった。正確には……視力が戻った。周りには突然の出来事に対応できずに右往左往しているパーティーの参加者。私の腕を掴んでいる先生。同様に腕を掴まれているライマンさん。
 そして……割れたお皿の横で白目をむき、泡をふいて倒れているスーツの男。
「おオウ!? これ、安藤先生がやったノカ!?」
「まぁ……ね。それより、二人を追いかけるよ。」
 そう言うと先生はポケットからスマートフォンのようなモノを取り出した。
「アルバートから渡されてね。これでニック・フラスコとことねさんのお父さん、ファムとアルバートが今どこにいるかわかるんだ。」
 画面を見ると、この建物の地図が写っていて、そこを二つの赤い点が移動している。そしてその点を青い点が追いかけている。
 ちなみに、この会場に位置する場所にはたくさんの赤い点がある。たぶん、《デアウルス》さんがくれたリストの人物全員の居場所がわかるんだ。
「《パンデミッカー》は二手に分かれてるね。ニック・フラスコをファムが、ことねさんのお父さんをアルバートが追ってる。」
「追いかけるんですか? ここはほっといていいんですか……?」
「大丈夫だよ、ほら。」
 見ると、すでに真っ黒な服の人たちが会場の人たちを外に誘導している。
「さっきの奴が言ってた雑な方法ってのが気になりはするけど……《パンデミッカー》からすれば重要度が高いのはやっぱりあの二人。ファムとアルバートの方に敵が何人も来る可能性があるからね。援護に行かないと。」
 すると先生がスマートフォンのようなモノを私に渡してこう言った。
「ことねさんとライマンくんはアルバートの所に行ってあげて。さっきの奴によれば、《パンデミッカー》はアルバートを相当警戒してるから、強力な敵が来るかもしれない。お父さんを助けるってことなら《オートマティスム》も力をかしてくれるだろうし、ライマンくんの術も役に立つと思う。」
「じゃあ、先生は……」
「オレはファムの方に行く。正直、アルバートの強さは知ってるけど、ファムのはわからないんだ。具体的な治療法も見せてもらったことないしね。ファムの身体はよく知ってるし、いざって時にも対処できる。」
「身体をよく知っテル!? 安藤先生がエロイゾ!」
「いやいやライマンくん。そういうことじゃないよ……」
 先生は困ったように笑いながら、「じゃあ、またあとでね。」と言って走り出した。
 ……あれ? この機械を私が持ってたらファムさんの位置がわからないんじゃ……



 オレは建物の階段を全力で駆け降りる。もしかしたらエレベーターで行った方が速かったかもしれないな……
『かかっ。いや、お前がお前の脚で走った方が断然速い。』
「それはよかった。次は?」
『かかっ。左だ。その先を二階降りて右に行けば挟み撃ちに出来る。』
「便利なもんだな。」
『かかっ。《デアウルス》ほどなんでも見えるわけではないがな。』
 言われたとおりに走り、廊下に出たところでこっちに向かって走ってくる男が見えた。男の肩にはニック・フラスコ。
「っ!」
 男は立ち止まり、後ろを見る。そこには長いブロンドをなびかせて走ってくるファム。真っ赤なドレスを乱すことなく、流れるように立ち止まる。
「あら享守。夫婦初めての共同作業が敵の挟み撃ちというのはかなり嫌なのだけれど。」
「そ、そうだな……」
 敵を前にしても相変わらずだ。
「……何が悲しくてお婆さんを担ぎながら美女に追いかけられなきゃいけないんだと思ってたら……その美女には彼氏……いや夫がいたとは。やれやれ。」
 男は担いでいたニック・フラスコを優しくおろし、壁に寄りかからせた。どうやらニック・フラスコは気絶してるみたいだな。
「やっぱりホルストくん、しくじったか。症状的に使えるから連れてきたけど……やっぱ新米はダメだったか。《ヤブ医者》を相手にするには力不足だったようだ。」
 男はオレを見ながらそう言った。何故かニコニコしている変な男だった。年齢的にはオレと同じくらいか……年下か。柔らかい物腰と笑顔。それなりの場所でそれなりの服を着ていればなかなかにモテる男だろうに、なぜかそいつは半そで短パンという虫取り少年の格好をしていた。
「どうも初めまして。ファム・ヘロディアに安藤享守。ボクの名前はノルター、どうぞよろしく。」
 ノルターと名乗ったこの男はオレのことを知っているようだ。だがさっきの奴……ホルストは知らなかった。情報の共有ってのをしないのか? 《パンデミッカー》は。
「あら、礼儀正しいわね。けれど残念。あなたはここでお終いなのだけれど。」
「それはどうかな。ホルストくんとは違い、ボクの症状は完全に実戦向けだ。」
 そこでノルターはオレに訪ねてきた。
「実戦向けではないにせよ、ホルストくんの症状は厄介だったはず……どうやって切り抜けたので?」
「……わざわざ言うとでも……?」
「それもそうだ。しかし……ボクらのリーダーはあなたにご執心だ。(パンデミッカー)のメンバーだった人たちはあなたの価値を理解しているようだが、ボクのような新規のメンバーにはイマイチあなたの価値がわからない。リーダーも説明してくれないし……」
「《パンデミッカー》のリーダーが享守に……ふぅん?」
 ファムが一瞬鋭い目でオレを見たが、すぐにいつもの表情になった。
「まぁいいわ。今度説明してくれると言うのだから、わたくしはそれを待つとするわ。代わりと言ってはなんだけれど……享守、この坊やの相手はわたくしがしたいのだけれど?」
 坊やと言われたノルターは微妙な表情をしたが、実際ファムからしたら坊やだからしかたない。
「それは……まぁいいけど……大丈夫なのか?」
「ふふふ。好意を寄せる異性の前では良いところを見せたいのよ。それに――」
 ファムは壁に寄りかかっているニック・フラスコを見て言った。
「こんなに美しい女性を肩に担いで連れていくなんて……そんな酷い男にはお仕置きが必要なのよ。」
「おや。ではどのように運べばよかったやら。」
 ノルターはオレに背を向け、ファムの方を向く。両手に拳を作り、見るからに戦闘態勢となる。
「男が女をさらう時にするべきことは決まっているわ。その辺り、きっちりと教えてあげようと思ったのだけれど……」
 ファムの目が鋭くノルターを射抜く。

「今あなた、「運ぶ」と言ったのかしら?」

 ファムが左腕をゆっくりとあげ、パチンと指を鳴らした。
「……!」
 ノルターは……というかオレもだが、何か起きるのかと身構えた。しかし何も起きない。そしてファムは再び指を鳴らし、一歩ずつ、ゆっくりと歩き始めた。
「……なんのつもりなのやら……脅しもハッタリもボクには効果がない。」
 指を鳴らしながら、ゆっくりと歩きながら、次にファムは……
「――――」
 歌を歌った。いや、歌というよりはメロディーか。綺麗な歌声が廊下に響く。
 ……響く? そういえば……なんだこの変な感覚。
 歌声はもちろんだが、そんな中でも指を鳴らす音が異様にはっきりと聞こえる。しまいには歩く音……足音ですらクリアに耳に届く。
「独特なリズム。指。足音。どうやらあなたはボクに催眠でもかけるつもりのようだ。」
 ノルターがため息をついた。
「ボクと戦うことを後悔するといい。ボクに力をくれるヴァンドロームの名は《ラインレス》。症状は『無痛症』だ。」

 無痛症。正確には先天性無痛無汗症。遺伝的な要因で神経系に異常が生じ、痛みを感じず、汗をかかなくなる病気だ。一般的には痛みを感じなくなる病気として名が知れている。
 健常者からすると羨ましいと言われることもあるが、それは大きな間違いだ。例えば、毒を持ったヘビに噛まれるとする。健常者なら噛まれたときに痛みを感じるので、噛まれたことを認識でき、毒への対応をすぐにとれる。だが無痛症では噛まれた時の痛みを感じることがないので、知らぬ間に毒に侵されるということになる。料理中、いつの間にか指を切っていた。スポーツをしている時にいつの間にか骨を折っていた。普通ならすぐに気づいて対処できる傷、怪我も、気づかなければ、最悪、致命傷になりかねない。
 さらに、感覚がないために自身と周囲との境界があいまいになってしまったり、危険なモノを危険だと感じる能力が低下したり、汗をかかないために運動の制限を受けたりと日常生活に影響が出る。
 先天的な病気なので、後天的に、ある日突然なるような病気ではない。しかしヴァンドロームは全ての症状を後天的に引き起こす。加えて《パンデミッカー》には本能的能力制御を外す技術がある。その結果どういうことになるかは未知数だ。

「今、ボクは何の痛みも感じない。加えて、リミッター解除した《ラインレス》は痛み……つまりは触覚以外の感覚も遮断できる。あなたが音で催眠をかけようとするなら、聴覚を遮断するまで。」
 ……おそらく、ノルターは今、聴覚を遮断した。ファムの歌声、指を鳴らす音、足音、全てが聞こえてないだろう。
 ……そこらの催眠術師がやるような催眠術ならそれでいいと思うが……ファムの、《ヤブ医者》の一人であるファムの技術がそんなことで防げる代物だとは思えない。
「……指を鳴らすのも歩くのも止めないか……」
 ノルターはぼそりと呟き、両腕を構える。その瞬間、腕の中からメスのような物が生えてきた。まるでサボテンのように両腕から銀色に光る刃が何本も突き出てきたのだ。しかも、ただ突き出ているわけではない。一つ一つが指のように動いている。
「……この刃は腕の中で筋肉と筋肉の間に割り込ませている。筋肉に損傷を与えない場所を選び、腕を伸ばしたり、指を曲げたりすることでそれに連動した動きをする。『無痛症』だからこそできる技だ。」
……というか、ノルター……自分の声も聞こえないはずなんだが……よくしゃべるなぁ。
「これで細切れだ!」
 ノルターが走り出す。別に走る速さは普通だが、ファムとの距離はそんなにない。一瞬でファムの正面に移動し、右腕を突き出した。
そのまま行けばファムの胸辺りに銀色の刃が突き刺さっていただろう。だがファムはそれを難なく避けた。まるで風に吹かれた紙がひらりと揺れるように、歩く速度を一切変えずに最小限の動作でノルターの横……いや、懐に移動した。
「……!」
 緩急のない、あまりに自然な動きで回避されたノルターは驚きながらも追撃の態勢に入ろうとする。だがそれよりも速く、ファムの両手が流れるように動いた。
 左手でノルターの腕を引きながら、右手でノルターの身体の前面に十数発の指による突きを食らわせ、その後ノルターのほっぺたにビンタをお見舞いした。
 ファムの腕の筋力は年相応……ああいや、外見の年相応程度だ。だがあの左手の動きは合気道のそれに近い。勢いに逆らわず、ノルターの身体を最適な角度に誘導した。そして最高のタイミングで放たれた右手からのビンタはノルターを空中で一回転させ、地面に叩きつけた。
「ふぅ。」
 ファムは倒れたノルターを一瞥すると、オレの方に向かって歩き出す。
「さて享守、終わったのだけれど。」
「え?」
 終わった? 今ので?
「いやいやファム、確かにすごいカウンターだったけど、そいつは『無痛症』だぞ……」
 見ると、案の定ノルターは何事もなかったかのようにむくりと起き上が――
「なっ!?」
 オレはノルターの表情を見て驚いた。
「あ、あぁぁ……ああ……あああぁぁ……」
 目の焦点が合っていない。のどを押さえて喘いでいる。四肢がガクガクと震えている。
 生まれたての小鹿のような……というのはああいうことを言うのかもしれない。まるで腕や脚の動かし方を忘れてしまったかのようにおかしな挙動をし、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように声を出す。
 身体に対するダメージはゼロに近いはず……なら一体……
 オレが驚いているとそれを見たファムがこんなことを言った。
「大丈夫よ。一時的に精神が壊れているだけだから。」
「精神!?」
「心と言ってもいいわ。大丈夫、一週間もすれば正気に戻るわ。」
「な……一体何をしたんだ……?」
「そうねぇ……」
 ファムは壁に寄りかかっているニック・フラスコをきちんと座らせながら呟く。
「彼女を安全な場所にとは思うけれど……あんまり動き回って敵の罠にはまるというのもあり得るわね……あの黒服のボディガード達を指揮しているのはアルバートだし……アルバートからの連絡を待とうかしらね。」
 ファムはニック・フラスコの隣にペタンと座り込み、隣の床をポンポンと叩いた。
「立っていてもしょうがないわ。座りなさい、享守。わたくしが何をしたか、教えるわ。」
「んあぁ……」
 オレはファムの隣に座った。ファムが自分の身体を少しオレに寄せてくるのにドギマギしながら、オレはファムの話を聞く。
「日本だと……走馬灯だったかしら?」
「なんだ、いきなり。」
「死の直前……交通事故とかに遭った人間が体験する、周囲の光景がスローモーションになる現象があるわよね。もしくは、今までの人生を一瞬で振り返ったりする現象。」
「……死の危険から逃れるために、脳が普段違うことに使っている部位も総動員して視覚の処理能力を向上させ、かつ危険から逃れる方法を過去の経験から見つけるために記憶を引っ張り出す……確かに日本じゃ走馬灯って言うが……それが?」
「わたくしがあの男にしたのはそれに近いわ。あの男はわたくしのビンタを受けてから地面に叩きつけられるまでの時間を……そうね、ざっと二日くらいに感じたはずよ。」
「……え?」
「? だから、あの一秒にも満たない一瞬をわたくしが二日に引き延ばしたと言っているのだけれど。」
「……つまり……ファムはあいつの時間感覚を狂わせたってことか?」
「そうよ。あの男は二日間も空中に留まってゆっくりと一回転して地面に叩きつけられたのよ。」
それが事実なら……そりゃあ精神も壊れる。周囲の光景ははっきりと見えるし、意識もある。なのに身体はまったく動かない。しかも身体的には問題ないが普段の感覚的には呼吸してなきゃおかしいのにそれもできない。誰だって頭がおかしくなる。
「……どうやってそんなこと……人為的に走馬灯を引き起こすのか……?」
「あら、走馬灯を例にしたのは間違いだったかしら。走馬灯はあくまで脳が引き起こす死への……生命として当然の反応だけれど、わたくしがしたのは時間感覚という心的なモノのコントロールよ。」
「ますますわからん。心的なモノなら、ファムが何をしたってそれはあいつ次第じゃないか。」
「ふふふ。享守、心的なモノであっても外部刺激の影響は十分に受けるのよ。」
 ファムは得意げに、まるで生徒に授業をする先生のようにオレに説明した。
「確かに、時間感覚は心的なモノよ。分野で言えば心理学になるのかしらね。身体を動かす楽しいスポーツの授業はあっという間に終わるものだけれど、運動が嫌いな子にとっては辛くて長い授業。楽しい、辛い、好き、嫌い。そういった感情によって時間感覚は変わるわね。けれど……そうね、こういう場合はどうかしら。」
「うん?」
「例えば享守が真っ白で何もない部屋に放り込まれて、そこで一時間じっとしていろと言われたとするわね。」
「……ああ。」
「その時、本当に何もない状況で過ごす場合と、享守の目の前に時計が置かれて過ごす場合……どちらが一時間を長く感じるかしら?」
「……時計がある場合だな。」
 学生時代に誰しも経験があると思う。つまらない授業が早く終わらないかと何度も時計を見るが、結構時間が経ったと思ったら前に見た時から五分しか経ってないといった経験が。
 もしくは、誰かと待ち合わせて自分が先に来てしまった時、相手が早く来ないかと時計を見ながら過ごす五分をとても長く感じるといった経験。
「時計があろうとなかろうと、部屋の中にいる享守がつまらない、退屈だと感じることには変わりないでしょう? けれど視覚から入ってくる時間という情報によって時間感覚が変わってしまう。」
「それが外部刺激による時間感覚の変化……ってわけか?」
「まぁ、これはひどく極端な例なのだけれど。フリュードが相手の性欲が最も大きくなるモノを二、三個の質問から用意できるように、わたくしは相手の……いえ、人間の時間感覚を狂わせる外部刺激を理解しているのよ。」
「時間感覚を狂わせる刺激か……」
「もっと詳しく言えば、人間の五感のどこに、どんな刺激、情報をどのように与えると人間の時間感覚がどのように狂ってしまうのか……長くなるのか短くなるのか、その度合いはどの程度なのか。それらを熟知しているのよ。」
 五感……おもしろい偶然もあるもんだ。
「ちなみにあいつには何をしたんだ? あいつの触覚と聴覚は『無痛症』で遮断されていただろう?」
 ファムの歌や指を鳴らす音、さらには指による突きも全て効果がなかったはずだ。
「あの男に与えたのは視覚からの刺激よ。」
「視覚? あの歌とかは……」
「フェイクよ。すれ違いざまの突きもフェイク。」
「え? それじゃあ……」
「本命はこれよ。」
 そういってファムは右手をあげて指を開く。するとジャランと音を立てて懐中時計が出てきた。普通のそれと比べると一回り小さい、ギュッと握れば手の中に隠れてしまうサイズだ。
「ビンタの時にはこうやって手の甲にまわしたのだけれど。」
 器用に指を動かし、手品師のように時計を手の甲にまわすファム。
「その時計が……?」
「よく見てちょうだい? ほら。」
「! 文字盤がバラバラじゃないか。それに時間があってないどころか……秒針の動きも一定じゃない。」
「この時計をあの男に突きをしながら見せたのよ。タイミングとか角度とか……まぁ色々あるのだけれど。最後にビンタで脳に衝撃を与えて……あの男の時間感覚を狂わせたのよ。コツは、相手に『時計を見ている』という認識をさせないことなのだけれど。一応言っておくのだけれど、これは催眠じゃないわ。熱いモノに触れた時にとっさに手を引っ込めるくらいの、人間の身体には当然の反応の一つよ。」

 ……つまり……歌や指を鳴らすことは単なるフェイクで手の中に隠した時計に気づかれないようにするためのもの。そしてすれ違いざまに指による突きを食らわせる際に時計を見せた。視界に入ってはいるものの、おそらく『無痛症』ゆえにただの指による突きだと分かった時点でそこまて注意してファムの攻撃を見なかった。だから無意識に視界に入ってくる時計に気づかず……時間感覚を狂わされ、最後のビンタでそれが発動したと……
 文字盤バラバラのおかしな時計をどう見せれば時間感覚が狂うかはわからないが……たぶんここで聞いたところでオレには理解できないだろう。フリュードが見ただけで相手の性欲のことを理解してしまう仕組みがわからないのと同じだから、そこは別にいいんだが……

「……人間の身体には当然の反応……仕組みを言われてもピンとこないんだろうけど……」
「どうしたのかしら?」
「なんでそんな技術をファムが……?」
 オレがそう言った瞬間、ファムはきょとんとした顔になり、そして笑った。
「享守ったら、ふふふ。」
「な、なんだよ。」
「ふふ、わたくしを誰だと思っているのかしら?」
「?」
「わたくしは自分の時間を止めることに半世紀以上の時間をかけた女なのだけれど?」
 その言葉に、オレはハッとした。
 ファムの目的は美しさの維持、向上にある。運動能力や肌の状態……普通に思いつくような事柄はもちろんだが、それ以外にも美しさと関係があるかもしれない事柄に対してたくさんの研究を行ったはずだ。
「美しさと年齢は切り離せない関係にあるわ。肉体的にも精神的にもね。例えば、年を取ると性欲が小さくなると聞いたから、その関係を知るためにフリュードという専門家を訪ねたわ。」
「ああ……フリュードとはそういうつながりなのか。」
 スッテンが言っていた予想……女性の美しさを求めるなら性欲使いとつながりを持つ可能性は高い……あれはこういう意味だったわけだ。
「そして……よく聞くことだけれど、若いころは二、三年が長く感じたけれど、年を取ると十年が一瞬だということ。これの逆を言う人もいるけれど、要するに年齢と時間感覚には何かつながりがあるということ。だから研究したのよ。」
 美しさと年齢。美しさに対する研究が身体や肌とかに関する研究で、年齢に対する研究が性欲や時間感覚ということか。それだけの研究をたった半世紀でとんでもないレベルまで行ってしまったファムは……さすがというべきか。
 ファムは懐中時計を揺らしながら思い出すように続ける。
「そしてヴァンドロームという生き物を知り、彼らの特異な力に希望を見て研究し、ヴァンドロームの時間感覚もコントロールできるようになったわ。そして……《お医者さん》として、一秒を数百年単位に引き延ばしてヴァンドロームの心を殺すという治療法を《デアウルス》に認められて《ヤブ医者》となったのよ。」
「い、一秒が数百年……」
「人間に対してはさすがにそこまでの引き延ばしはできないのだけれど。」
 ニッコリと笑うファム。初めてファムの治療法を聞いたが……どんな治療法よりも残酷な方法かもしれないな……要するに、ヴァンドロームを廃人に追い込むわけか……
「そんなこんなで半世紀。わたくしはついに……あなたに出会ったのよ。」
 じっとオレを見つめるファム。いつもならドキドキして終わるんだが……今のオレには一つの興味があった。
「なぁファム。」
「なにかしら。」
「ファムはさっき……人間の五感と時間感覚について説明してたが……五感にも詳しいのか?」
 オレの質問にファムは戸惑いながら答える。
「えぇ……まあ。とはいっても、わたくしは身体の運動機能、肌、髪の毛とかも専門であるし、同時に時間感覚という心理的なものの専門でもあるわ……あくまでいくつかある専門分野の一つということだけれど……」
「そうか。」
「まぁ、それでも五感に関しては《お医者さん》としての治療で何度も扱っているから中でも詳しい部類には入るわね……それがどうかしたのかしら?」
「いや……まぁ……」
 そこでオレは後先考えずにとんでもない言葉を口にする。

「オレとファムは相性がいいなって。いいパートナーになれる。」

 何か意味があるわけでもない、ふと口から出た言葉だった。だが……
「!!」
 ファムが目を真ん丸にした。ファムのこういう表情はかなり珍しいが一度だけ見たことがある。初めて会った時、オレがファムに対して時間が止まっているようだと言った時の表情もこんな感じだった。
 ただその時とちょっと違うのは……ファムの顔が真っ赤ということだ。
「パ、パ、パートナー…!?」
「? ファム?」
「きょ、享守……」
「ん?」
「わ、わたくしは確かに……あなたより年上で……そろそろ八十……なのだけれど……」
 ファムがオレから目をそらし、ボソボソとつぶやく。
「さっきもい、言ったように……半世紀以上、自分の事で手いっぱいで……その、れ、恋愛に関しては……そこらの学生以下なのよ……だから……」
 顔を真っ赤にし、上目遣いでオレをにらんでこう言った。

「あまりドキドキさせないでちょうだい……」

 理解した。オレが何を言ったかを、顔が赤くなるのを感じながら理解した。
 いつもファムが言ってくることと大差のない言葉のはずだ。だけど……なんでファム自身がこんなに……顔を真っ赤にして……
「……わ、わるい……」
「……べ、別にいいわ……」
 見たことのないファムの表情にムズムズしながらオレはそっぽを向く。ファムもまた、片手で顔を押さえながら廊下の向こうに視線を移す。
 き、気まずい……


 ……ファムじゃないが、数分が数時間に感じられた。そしてそんな長い沈黙を破ったのはファムだった。
「……享守。」
「ほぇっ!? はい!」
 テンパるオレに対し、ファムはいつもの感じに戻っていた。
「五感に詳しいと相性が良いということは……あなたの治療法というのは……」
「……ファムに対してやってるのも、普段の治療も、主に使ってるのは触覚だけどな……」
「……!」
「あとでちゃんと話すよ……」
「そう。」

 ピーッ、ピーッ

 そこでアルバートからの連絡が来た。
「あっちも片付いたみたいだな。」
「そうね。行きましょうか。」
 ファムが立ち上がり、オレはニック・フラスコを持ち上げる。
「ふふふ、わかっているじゃない。」
「……ファムが言ってたことだからな……」
 ファムが走り出し、オレも後を追う。
 ニック・フラスコをお姫様抱っこしながら。



「ふむ。あちらも無事なようだ。ま、安藤がいる時点で万事問題ないのだがな。」
 無線機のような物を耳から離し、アルバートさんがニッと笑った。
 すごい光景が私の目の前に広がっている。上半身裸のアルバートさんと、その肩に担がれている私のお父さん。私の隣で目をキラキラさせているライマンさん。そして、廊下の床に走るいくつかの亀裂と……壁にあいた巨大な穴。

 今からほんの十分前……

「おぉ……来たか。」
「ふん、またお主か。」
 私とライマンさんがさらわれたお父さんを追うアルバートさんに追いつくのと、アルバートさんがお父さんに追いつくのは同じくらいだった。何せ先生から渡された機械が音声で最短ルートを指示してくれるのだ。なんとなく音声がスッテンさんに似ている気がするけど……
 廊下のど真ん中に仁王立ちしているのはこの前の『半円卓会議』に現れた人物。工事現場で働く人がはくようなダボッとしたズボンを黒い帯でしめている上半身裸の男……ブランドーがアルートさんの前に立ちはだかっていた。ブランドーの後ろにはお父さんが転がっている。転がっているというとなんだか変だけど、本当に、放り出されたかのように床に寝転がっているのだ。あんな態勢で寝ていたら起きた時身体が痛いに違いない。
「リベンジ……ということか?」
「おぉ……話が早いな。おれさまを追ってくるのがあんたっつー可能性は五分五分だったんだけどな。運がいいぜ。」
 ブランドーが肩を鳴らして構えた。するとミシミシという音がブランドーの身体から聞こえた。
「おぉ……いい感じだ。正直、前回は《ヤブ医者》を甘く見ていた。だが今のおれさまは違う。本気も本気よ。ここに来る前にたらふく食べてきたからな……エネルギーは満タンだ!」
「ふん……懲りぬ男だな。また《ツァラトゥストラ》の筋肉肥大か……」

 筋肉肥大。正確にはミオスタチン関連筋肉肥大。《ツァラトゥストラ》というヴァンドロームが引き起こす症状だ。
 筋肉には生き物によって適正量というのが決まっている。ミオスタチンというのは筋肉の成長を抑制する物質のことで、これにより筋肉の量が調節されている。だけどそのミオスタチンを生み出す遺伝子になんらかの異常が起きた場合、もしくは筋肉の方がミオスタチンを受け付けないような状態になった場合、量の調節ができなくなって通常の数倍の筋肉量になってしまう。これがミオスタチン関連筋肉肥大という病気だ。
 遺伝的な病気ではあるのだけれど、症状が筋肉量の増加ということで、病気であるということに気が付かないケースが多い。通常の数倍の筋肉量ということはそれだけ身体がエネルギーを必要とするということだけど、気づかずに普通の食事をとっていて餓死してしまうということが起こり得る。
 ブランドーは《ツァラトゥストラ》をとりつかせることでミオスタチン関連筋肉肥大を起こし、筋肉量を一瞬で増加させる。ただし、その瞬間から体内ではものすごい勢いでエネルギーが消費されていく。制限時間付の超人なのだ。

「前にも言ったがな、力のみを出力するだけの『物体』がワシの『筋肉』と力比べなど片腹痛いぞ?」
「おぉ……相変わらずの自信だな? 試してみるか?」
 やっぱりブランドーの身体はあまり変化しない。けれどその身体の中にある筋肉は常人を遥かに超えるパワーを持っている。
「やれやれ。」
 アルバートさんが上着を脱いだ。
「持っていてくれ。」
 ヒョイと投げられた上着をキャッチする。上着一着だけかと思っていたのだけど、ふと前を見るとシャツとかネクタイとかも飛んできていた。
「ホッ!」
 その全てをキャッチするライマンさん。
「オオ! 安藤先生のシャツの二倍くらい大きイゾ!」
 ……シャツまで飛んできたということは……
「……すごい光景だ……」
 私の視界には上半身裸の男性が二人いる。特にアルバートさんは意味が分からない。ごつごつした岩のような筋肉が上半身を覆っている。個々の筋肉が尋常じゃない大きさになっているせいで、人の身体のどこにどんな筋肉があるのかよくわかる。
「おぉ……いい身体してるな。んじゃま、行くぜ!」
 ブランドーが駆け出し、アルバートさんに迫る。ボッという音と共に繰り出されるブランドーのキック。それを片腕で受け流してアルバートさんがブランドーの胸のあたりに拳を叩きこむ。
「ほう。」
 一体どんな威力なのやら、拳を受けたブランドーはそのまま後ろに二メートルくらい後退させられた。だけどブランドーは余裕の表情。
「以前よりも筋密度が高いな。防御力も上がっているというわけか。」
「言っただろ。前とは違う!」
 ブランドーがアルバートさんに急接近し、拳のラッシュ。それを受け止めたり弾いたりするアルバートさん。そして両者の両手がバチンと合わさってこの前みたいな力比べの態勢になった。
「はっはっは! どうしたどうした!」
 アルバートさんの身体が徐々に後ろに傾いていく。
「なるほど。この状態ではお主の力が純粋にワシの技術を上回るか。」
「技術? 力比べに技術も何もねーだろう!」
「ふん。わかっておらんな。」
 次の瞬間、アルバートさんは両腕を交差させた。互いの両手を合わせている状態で片方がそんなことをすれば、当然相手は――
「!」
 ブランドーが両腕を軸にぐるりと回転。そして頭が床に、足が天井に向いた瞬間、アルバートさんの拳が再び叩き込まれた。さっきとは違う、足の踏ん張りができない状態で拳を受けたブランドーは軽く五メートルは飛んでいった。
「ちっ!」
 それでもブランドーはアクションスターみたいに華麗に着地する。
「小賢しい技使いやがって!」
 駆け出し、怒りを露わにしながらブランドーの猛攻撃。キックやパンチの猛襲がアルバートさんに襲い掛かる。ブランドーが踏み込むたびに床に亀裂が走り、アルバートさんがパンチをかわすたびに避けられた拳が壁を砕く。コンクリートを素手で破壊できてしまう今のブランドーの攻撃はきっとその全てが一撃必殺なのだと思う。だけど――
「くそ! くそ! くそ! なんで当たらねぇ!」
 アルバートさんはブランドーの攻撃を全てさばいている。腕や脚で受け流し、時には上体を大きく傾けてブランドーの猛攻撃をかわしているのだ。
「以前からまったく成長しておらんな、お主。」
 そう言うと同時に、アルバートさんが低い回し蹴りをしてブランドーの両脚を床から離した。
「うおっ!?」
 前のめりにふわりと宙に浮いたブランドーの背中に、アルバートさんが上から下へ向けて裏拳を叩き込む。
「がはぁっ!」
 大きな亀裂を走らせて、ブランドーは床に叩きつけられた。床にクレーターができるほどのとんでもない威力。普通の人だったらぺしゃんこになっててもおかしくないと思う。
「……ワシは筋肉に関して多くの研究を行ってきた。お主の筋肉を見れば、次にどんな動きをしようとしているかなど、手に取るようにわかる。お主の力がワシに届くことはない。」
「おぉ……それが……あんたの言う技術か?」
 バッと起き上がり、そのままの勢いで後方に跳んで着地するブランドー。
「それもあるがな。だが……お主がワシに勝てないと言っているのはワシに技術があるからではない。お主に技術がないからだ。」
「なに?」
「例えばであるがな、合気道の達人が正面から来る重量五トンのトラックを受け流せると思うか?」
「何の話だ……」
「誰が考えても不可能であろう? 相手の力を利用する合気道とは言っても、そこには限界がある。それをふまえて……ワシがお主の攻撃を受け流せていることを考えてみるがいい。」
「!」
 ……そうか。ブランドーの力が本当にアルバートさんを圧倒的に超えているなら、相手の動きがわかろうとわかるまいと受け流すなんてことがそもそもできないはずなんだ。
「純粋に力比べをすればお主が圧倒的であることは認めよう。だが攻撃をする時、その圧倒的な力は本来の半分以下の力しか出せておらんのだ。」
「なん……だと……」
 アルバートさんはやれやれという風に肩を落とす。
「ワシとお主は……例えるのであれば、『そこらで売っている武器を手にした武器の達人』と『世界最強の武器を手にした素人』なのだ。」
「素人? このおれさまがか!」
「そうだ。」
「ふざけるな! おれさまは多くの武術を――」
「そういう話ではない。お主が今その身にまとっている筋肉の素人だと言っているのだ。」
「筋肉の素人だと?」
 ブランドーがまゆをひそめる。対してアルバートさんは右腕に力をこめ、力こぶを作る。
「ワシは……この筋肉と共に今までの人生を歩んできておる。無論、これからもな。日々のトレーニングの中で成長していくワシの筋肉……その全てをワシは知っている。どの態勢、どの向きで動かせば最も力を発揮するのか……ワシの体調や全身のバランスで日々変化する最適条件を理解しておる。すべてはこの筋肉と常に共にある故に成せること。」
 そしてアルバートさんは鋭くブランドーを射抜く。
「だがお主は? お主のその力……筋肉はどうなのだ? 《ツァラトゥストラ》がとりついた時にしかその身に宿ることのない筋肉……お主はその全てを理解しておるのか? 全身のどこに、どれだけの筋肉がプラスされたのか。その筋肉の最大の力を引き出すためにはどのような態勢がベストなのか……知っているのか?」
「……関係ないだろう。知っていようと知っていまいと!」
「否。関係ある。力は使い方を知って初めて力となる。どんなに切れ味の良い剣であろうと、剣の腹を相手にぶつけていては何も切れぬだろう? どんなに威力のある銃であろうと、銃口が敵の方を向いていないのであれば敵は倒せぬだろう?」
 アルバートさんがゆっくりと身を低くする。身体をひねり、右の拳を後ろにさげる。
「お主はな、《ツァラトゥストラ》がくれる筋肉という『物体』を身にまとっただけでいい気になっている素人なのだ。そのお主が……常にワシと共にあり、ワシと共に成長してきたワシの一部たる『筋肉』に挑む? ワシを笑い死にさせようと言うのであればもう少しましな冗談を用意するのだな。」
「だまれぇぇっ!」
 そう叫んだ瞬間、ブランドーの両脚が一気に膨らんだ。アルバートさんのようにごつごつした筋肉を隆起させた両脚でダンッと踏み込んだブランドーは砲弾のような勢いでアルバートさんに迫った。
「ぶっつぶす! 最大出力だっ!」
 アルバートさんの目の前に来た瞬間、今度は腕……しかも右腕だけが異様な太さになった。大木のような太い腕に岩のような筋肉をつけ、アルバートさんに殴りかかるブランドーだったが……
「馬鹿者がぁああああああああああああっっ!!!」
 アルバートさんが殴った。
『半円卓会議』で見たのとは段違いの速さで放たれたアルバートさんの拳は空気を潰して爆散させながらブランドーの胸部にめり込む。一瞬時間が止まったかと思うと次の瞬間、廊下の壁に大穴を開けてブランドーが超スピードで視界から消えた。
 そして一拍の後、廊下に衝撃波が走る。床、壁、天井に亀裂が走り、砕けていった。
 不思議なことに、私とライマンさん、そしてお父さんにはそよ風一つ来なかった。
「……ふむ……」
 ブランドーを殴り飛ばした態勢から普通の「立ち」の態勢に戻るアルバートさん。
「……壁を五、六枚破壊してしまったか。」
「……! アルバートさん、手が!」
 私はアルバートさんの右手を見てそう叫んだ。右の拳から白い煙が出ている。なんと右手が焼けているのだ。
「ガッハッハ!、心配はいらん。」
 そう言うとアルバートさんはズボンのポケットから包帯を取り出し、慣れた手つきで右手をぐるぐる巻きにした。
「久しぶりに空気の壁を越えた一撃を放った。いくら筋肉があっても、皮膚の強さはそんなに変わらないのでな。」
 空気の壁……? まさか……音速を……?
「まったく……」
 アルバートさんは壁に開いた穴を見ながら呟いた。
「パンチという行為は腕の筋肉だけで成せることではない。脚、大幹、あらゆる筋肉を使う……だというのに腕だけ強化してもまるで意味がない。症状の割には筋肉をまったく理解しておらん奴だったな……」
「す、すゴイ!」
 ライマンさんが目をキラキラさせている。
「んもー何がなんだかわからなかったけどすごい戦いだッタ! これが《ヤブ医者》の実力なんダナ!」
 ……あれ?
 いや……普通そうだ。
 何がなんだかわからない……それが普通だ。だけど私には……ブランドーが繰り出す攻撃やアルバートさんの身のこなしがはっきりと見えていた。
 さっきの衝撃波も私たちには来なかった……
「……」
 私は私の左手を見た。


「ふむ。あちらも無事なようだ。ま、安藤がいる時点で万事問題ないのだがな。」
 アルバートさんが軽々とお父さんを担ぐ。
「む、他の《医者》や《ヤブ医者》も全員外に出たようだな。」
 アルバートさんがスマートフォンのような機械を見て呟いた。
「ではワシらも外に出るとするか。」
 私とライマンさんから上着を受け取りながらアルバートさんはそう言った。すると……
「……すまん、二人とも。」
「え?」
 聞き返した瞬間、私とライマンさんは片手でつかまれてヒョイと数メートル投げられた。
「いタイ! 何するンダ!」
「少々暴れすぎた。お主ら、その機械の案内に従って降りるのだぞ。」
 アルバートさんがそう言うや否や、アルバートさんが立っているところが崩れた。
「な!?」
「あとで会おう。」
 まるでコントのように、アルバートさんはニカッと笑いながら床に開いた穴に落ちていった。
「ゆ、床が崩レタ……」
「……お父さん大丈夫かな。」
 廊下に残されたのは私とライマンさん。
「と、とりあえず下に向かいましょうか。」
「そうダナ……」
 私とライマンさんは地図を見ながら下に向かった。なんとなくエレベーターは使わずに。
「しかしすごかったナァ。ああやってヴァンドロームも倒すんだろウナ。」
「同じ人間とは思えませんね……」
「おオウ。ことねは意外と毒舌なんダナ。」
「そうですか?」
 そこでライマンさんは、走りながら口をとがらせた。
「やっぱり羨ましイナ。安藤先生のとこで勉強していろんな《ヤブ医者》に会エテ! ずるイゾー!」
「そう言われましても……」
「そんな羨ましいことねはどんな治療法なンダ?」
「治療法ですか……まだ決めてませんよ。」
「え、そうなノカ。」
「まだ切り離しの勉強中で……そう言うライマンさんのは? 私はまだ見せてもらったことないんですけど……」
「そうだッケ? ぼクハ……」
 そこで私とライマンさんは立ち止まった。

「迷ったとはどういうことですか?」
「うっせーなー、言葉通りだよ。」

 私たちが走っている通路の先に二人の女性が立っていた。
「そもそも貴女が、地図は頭の中に入っているなどと言うから……」
 一人は長い黒髪に黒いドレス。かかとを合わせてかなり姿勢よく立っているところと言葉遣いからとても上品なイメージの女性だ。ただ、表情はものすごく嫌そうな顔をしている。
「てめぇだって人任せじゃねーか。責任はアタシだけか?」
 もう一人は髪を……なんて言えばいいのか、なんだかゴージャスな感じに結んでいる茶髪に金ぴかのドレスの女性。ネックレスもイヤリングも金ぴかの感じの悪い人だ。
「これでは叱られてしまいますね。私たちの任務、それなりに重要なはずですから……」
「だいたいてめぇの症状は射程が短すぎんだよ! アタシだけなら下の階からでもイケんだぜ?」
「貴女だけではなんの意味もないでしょうに。」
 任務、症状……そして何より、こんなところにいるということからすると……
「こトネ!」
「……《パンデミッカー》……!」
 私とライマンさんは身構えた。よりにもよって私たち二人だけの時に遭遇するなんて……
「あん? あんだぁ、あの二人?」
「……ストロザー……見てわかりませんか?」
「は?」
「今日、このビルの中でパーティーが行われているのはあの会場だけです。服装から察するに、二人はパーティーの出席者。ですが《医者》にも《お医者さん》にもあんな若い出席者はいません。」
「テレビの探偵かよ。理屈はいいから結論言えよ、プレザンス。」
「出席者として来ているわけではない出席者……私たちから《医者》たちを守るためにやってきた《ヤブ医者》の関係者と見てまず間違いありません。」
 黒い方……プレザンスが嫌そうな顔でじっとこちらを見る。もしかしてあの嫌そうな顔は素なのかな……?
「んなどーでもいーことを言うためにうだうだと語ったのかよ……」
「どうでも良いということはないと思いますが……」
「どーでもいーだろ。見ろよあの二人……」
 金ぴかの方……ストロザーがにやりと笑う。
「すでに臨戦態勢じゃねーか。」
 こうして、私とライマンさんは《パンデミッカー》であろう二人、ストロザーとプレザンスと相対した。
「……すみませんね。別に《お医者さん》は見つけ次第殺せなどという命令は受けていませんが……私たちは今、任務を失敗してしまったところでして……」
「よーするにむしゃくしゃしてるっつーことで。」
 二人の女性の片腕がゆっくりとあがり――
「「八つ当たりに付き合って下さい(もらうぜ)」」
 ――!?
「か……こ、これは……」
 私はとっさに喉を押さえた。
 息ができない!?
「……! 吐けるケド……吸えナイ……!」
 ライマンさんも同じ状況になっている。正面では二人の女性がそれぞれ片腕を私たちに向けて立っている。
 おそらく、二人の操るヴァンドロームの何らかの症状を今、私たちは受けているんだ。さっき突然視力を失ったのと同じように……!
「ほんとーなら、これでフラスコと溝川以外は始末する予定だったんだけどな。ったく、プレザンスのまぬけのせいで……」
「私のせいですか……」
 かなりまずい状況だ。だけど私の左手は動かない。以前なら問答無用であの二人をぺしゃんこにしていたと思う。でも今は……動いて欲しいとさえ思っているこの時も動かない。
 もしかして……私の左手はライマンさんも信じているのか……?
「……!」
 そう思いながらライマンさんを見ると、ズボンのポケットから何かを取り出していた。あれは……ガチャガチャの容器?
「こトネ……走るじゅンビ!」
 言いながらライマンさんはガチャガチャの容器を二人に向かって投げつけた。すると容器が内側から破裂して中からビー玉やビーズやら、キラキラしたものが大量に出てきた。
「略シキ!」
 そのまま床に散らばるかと思われたビー玉などはライマンさんがそう叫ぶと空中で停止し、一つ一つが光り出した。そしてそれぞれが光の線でつながり、空中に魔法陣のような物が描かれる。
 まるで星をつなげて星座を作るように。
「! 略式ですって!」
「くっそ! いっちょまえに!」
 魔法陣の中心に光が集まり、それが次第に形を帯びていく。
「拘ソク! ブレイブレス!」
 最終的に光がとった形は……ライオンの頭だった。
「ォオオオオオオーンッ!!」
 通路に響くライオンの咆哮。
「! 息が!」
「行くぞ、こトネ!」
 ライオンの咆哮が耳に響くと同時に息ができるようになり、ライマンさんが私の手を掴んでもと来た道を走り出した。

「くそが! んだこりゃ!」
「大丈夫です。省略術式は長くもちません。追いますよ。」

 通路を逆走し、私たちはさっきとは違うルートで下を目指して全力疾走する。
「ラ、ライマンさん! さっきのは!」
「僕の術式ダヨ! ヴァンドロームの動きを止める力があるンダ!」
「だから息ができるように……」
「でも省略術式だから効果は二十秒くライ! この間に逃げるンダ! 安藤先生たちと合流スル!」
 省略術式……名前からすると、術式の色々な工程を省略するやり方なんだろう。でも省略したモノだから効果は短い……
「……! はナガ……!?」
 ライマンさんが鼻を押さえた。どうしたんだろうと思うのもつかの間、私にも異変が起こった。
「鼻で息が吸えない……!?」
 いや、息を出すこともできてない。鼻の穴にふたをされたような感覚だ。
「そウカ……あの二人、二人いて初めて相手の呼きゅウヲ……」
「! 射程ってまさか……」
 走りながら、私とライマンさんはあの二人の力を推測する。
「たぶん、あの金ぴかの方がハナ。黒いのが口なンダ。」
「だけどプレザンス……口呼吸を封じる方は射程が短い……」
「黒いのの射程に入ったら終わリダ! 急ぐぞ、こトネ!」
 階段を駆け下り、私たちはようやく二階にたどり着いた。そして最後の廊下を走りぬける。
階段は二階までで、一階に行くにはビルの真ん中にある大きな階段を降りる必要がある。だけどそこに行けばロビーが視界に入る。きっと先生たちもい――
「! 息が……!」
振り返ると長い廊下の先にあの二人が走ってくるのが見えた。
「うっしゃ! やっと追いついたぜ!」
「これでも私たちはそれなりに鍛えていますからね。」
 息ができない状態で走るのは困難だ。私とライマンさんの脚は次第に遅くなる。
「……! ……! くるシイ……」
 全力疾走していたところで突然息ができなくなった。私たちはさっきとは比べ物にならない苦しさを感じていた。
 あ……まずい……もう……
「!」
 意識がとぶかとばないかというところで、私の視界にあるモノが写った。
 両腕を振らず、身を低くして、まるで忍者のような走り方で廊下の先から先生が走ってくるところが。
「先……せ……」
 日頃からは想像できないほどの……いや、もはや人間離れした速度で先生は廊下を走り、私たちを軽く跳び越してあの二人に向かっていった。
「! あれは!」
「《ヤブ医者》じゃねーか! プレザンス!」
 ストロザーが叫ぶと同時に私たちは苦しみから解放される。ライマンさんと二人で大きく息を吸いながら先生を見た。
「全力だ! アタシらの症状を全部あいつに集中させる!」
「あれだけの速さで走っているのですからね。呼吸を止めたらさぞ苦しいでしょう!」
 二人が片腕を先生に向けた。だけど……
「……!? おい、プレザンス!」
「ちゃんとやっています! まさか、効いていない!?」
 二人が困惑している中、先生は速度を保ったままスライディングキック。それを受けた二人は同時に宙に舞う。だけど二人は猫のようにきれいに着地した。
「あめぇぜ!」
「これだけ近距離であれば!」
 二人が再び腕をあげようとするが、その前に先生が二人に向けて何かを突きだした。
「……!?」
 二人の動きが止まる。だけどそれは何か怖いモノを向けられて止まったというよりは、困惑で止まったという感じだった。
「安藤先生が持ってるあれ……クラッカーカ?」
「そう……ですね。」
 パーティーでよく使われる、ひもを引っ張るとパァンという大きな音と共にリボン状のカラフルな紙が飛び出るあれだ。先生は左手でクラッカーを持ち、右手でひもを握っている。
「……なんのつもりですか? それで私たちがどうにかなるとでも?」
「んま確かによー、後ろからいきなりやられたらびっくりすっけどさ。こんな状況じゃそのびっくりもねーと思うぜ? ただ音が鳴るだけだ。」
 二人が笑うのを別に怒るでもなく焦るでもなく、いつも見る顔で先生は呟いた。

「クラッカー以上に恐ろしい物をオレは知らない。」

 パァン

 おなじみの乾いた音が響いた。色とりどりの紙が二人にかかる。何が起こるでもなく、二人は再び両腕をあげるかと思いきや……
「え……」
 バタバタと、糸の切れた操り人形のようにストロザーとプレザンスは先生の前に倒れた。
「?? なンダ? 何が起きたンダ?」
 倒れた二人を一瞥し、先生は私たちの方に歩いて来た。
「二人とも大丈夫だった?」
 いつもと変わらない先生。
「だ……大丈夫です。」
「よかった。例の機械見てたらいきなりアルバートとことねさんのお父さんだけが下の階に移動したからね。びっくりして二人のとこに走ってきたんだけど……結構危なかったね。」
「安藤先セイ! あのふたリハ!」
「大丈夫。気絶してるだけだから。クラッカーの音って大きいからね。」
「それだけであんな風になるとは思えないんですが……」
「んまぁ、あとで説明するよ。とりあえずロビーに行こう。みんないるから。」
 すたすたと先生が便所サンダルをパカパカさせながら歩き出すので私とライマンさんはそれについていく。
「ニック・フラスコもことねさんのお父さんも無事に助けられたよ。二人とも今ロビーにいる。他の出席者はあの黒服の人たちが安全なとこに避難させたってさ。もちろん、ファムとアルバートも無事だ。」
「フリュードさんは……」
「ファムたちと一緒にロビーにいるよ。結局何もしなかったって文句言ってる。」
 あははと先生が笑うとライマンさんが質問した。
「安藤先生、さっきの二人はどんなヴァンドロームを使ってたかわかルカ?」
 ……いくら先生でも触っていない相手のことはわからないはずだ。まぁ、スライディングした時に脚に触れただろうけどそんなんじゃ……
「《ノーズアーゾン》と《ノットパフ》だね。」
「え? よくわかりましたね。」
 私は驚いて思わずそう言った。
「んまぁ……あの二人の症状を食らったからね。」
 食らった? じゃあ、あの二人が腕をあげたとき、先生は呼吸できなくなっていたということか。それなのにまったく速度を落とさずに……? どういうことだ?
「《ノーズアーゾン》は『鼻炎』だっタカ。《ノットパフ》はなんだっケカ。」
 ライマンさんが私を見たので思い出して答える。
「『拒食症』ですね。」

 鼻炎。鼻の中、詳しく言えば鼻の穴の粘膜に発生した炎症だ。一口に鼻炎と言ってもいくつか種類があって、味覚に影響を与える場合もあるけど《ノーズアーゾン》の鼻炎は鼻水、鼻づまりとかを引き起こす。
 そして拒食症。正確には神経性無食欲症と呼ばれる精神疾患の一つだ。心理的、生物学的、社会的要因によって生じるモノだけど、主に心理的要因によって起こる病気だ。太ってしまうことに対する恐怖や体重が減ることの快感などから食欲が無くなって食事を摂らなくなってしまう。これによって栄養が足りなくなって感染症などを発症する。精神疾患の中では致死率の高い疾患の一つになっていて、うつによる自殺ということも起こり得る。
食べれば治るようなモノではなく、無理に食べようとすると吐いてしまったりする。治療は精神療法が中心になる。

「そうだそうだ『拒食症』だッタ。でもなんでいキガ?」
 その質問には先生が答えた。
「まず『鼻炎』は鼻づまりだね。《パンデミッカー》の言うリミッター解除状態の鼻づまりだから……鼻を完全に塞いでしまうわけだ。これで鼻呼吸は封じられる。」
「それはわかるけど……『拒食症』はどうシテ?」
「『拒食症』は文字通り、食べることを拒む症状だ。リミッター解除することで食べ物を口に入れることすら拒み……終いには口に何かが入ることを身体が拒むわけだ。空気も含めてね。」
 空気を口に入れることを拒否する……だから吐くことはできても吸うことができなかったのか。
「しかし……なんでことねさんたちがあの二人に遭遇したんだ? あの二人の役割はわからないけど、会場から離れすぎてる……」
 先生がそう呟いたので私は本人たちが言っていたことを話す。
「なんだか道に迷ったって言ってましたよ。あと、二人の役割は……ニック・フラスコとお父さん以外の人を……その、始末することみたいでした。」
「なるほど。『失明』の奴が言ってた雑な方法ってのはつまり全員を窒息させることだったわけか……にしても……迷う……か。」
 先生は難しい顔で続ける。
「オレのことを知っている奴と知らない奴。加えて迷う奴……なんだか連中にやる気を感じないな。」
「やる気?」
「今回の行動がニック・フラスコを含んだたくさんの《お医者さん》の始末にあるなら……もっとちゃんとするでしょう? 情報を全員にしっかり渡してさ。今思えば《ミスユー》の奪い方もかなり雑だった。」
 言われてみれば……そうかもしれない。あの時、堂々と小町坂さんの病院に乗り込んできてあの場にいた全員に攻撃を仕掛けてきた……別に治療するときに奪わなくても、患者さんが一人の時を狙うことだってできたはずだ。
「そもそも《デアウルス》の実力を知らないわけじゃないだろうに。今回の作戦がバレないとでも思ってたのかな……」
「《パンデミッカー》の目的は別にあったってこトカ?」
「うーん……さっぱりだね。」
 そんな会話をしているうちに私たちはロビーについた。
「おお安藤。片付いたか。」
「ああ。……ことねさんのお父さん、まだ担いでんのか?」
 お父さんはまだアルバートさんの肩の上にいた。
「うむ。今起こしてもこんな場所で詳細は話せんしな。安全なところで起こすとしよう。」
「そうか。」
「なら、早く出ましょうか。」
 ファムさんの一声で、みんなが出口に向かって歩き出した。
「フリュード、わざわざ来てもらったのに悪かったな。」
 先生がそう言うとフリュードさんは軽くため息をついた。なぜかニック・フラスコをお姫様抱っこしている。
「まー……何も無いにこしたこたぁない。今回はヘロディア嬢からのご指名を受けられただけで満足とするかな。」
結局(ミスユー)は使われなかったからな……」
「それでも、《ミスユー》が連中の手にあるのは変わらねーんだろう? また活躍の機会もあるだろうぜ。」

「いえ、その予定はありませんよ。まったく。」

 みんなが正面の入口を出て、アルバートさんと会ったあたりに来たところでその声は聞こえてきた。
「出てきてくれましたね。やっと。待ちぼうけというのはこういうことを言うのですね。きっと。」
 私たちの正面、ニック・フラスコの車が止まったあたりに一人の男性が立っていた。
 サラサラの茶色い髪の毛で右目が隠れている長身の男性だった。青いYシャツにジーパン。そしてぼろぼろのスニーカーをはいている。
「うん? 見知らぬ顔がいますね。この人は誰なのでしょう。」
 フリュードさんをじーっと見つめる男性。なんだか口調と声が合わさって学校の先生のような印象を受ける。
「まあいいでしょう。それはそれとして……当たり前のように動きますね。実に。」
 男性の視線が私に移った。
「『エイリアンハンド』ですか。さすがと言うべきなのでしょう。」
 一人で頷く男性。当たり前のようにとは……どういうことだろうか。
「おや。自分の状況に気づいていませんか。もしや。」
「え……」
「周りをご覧なさい。」
 私は横を見た。そこには先生がいる。いるにはいるのだが……
「先生……?」
 嫌な予感がした。返事も何もない。私は一歩下がって先生を見た。
「……!」
 止まっている。立ち止まるとかそういうことではなく、まったく動かないのだ。まるで人形のように、歩いている途中で固まったかのように先生は静止していた。
 ほかのみんなも同じようになっていた。ライマンさん、ファムさん、アルバートさん、フリュードさん……もちろんお父さんもニック・フラスコも。私以外の全員が凍り付いたように止まっているのだ。
「ふふふ。ビデオを……おっと、今はDVDですか? 一時停止したような光景でしょう。まるで。ご心配なく。みなさん生きていますからね。」
「……!」
 私はとっさに身構えた。
「おや、わたしとしたことが。自己紹介ですよね。まずは。」
 男性は右手を胸に当ててこう言った。
「わたしの名前はアリベルト・ヘイム。(パンデミッカー)のナンバー1……リーダーをしております。」
 ……!! 《パンデミッカー》の……リーダー!?
「ふふふ。よい表情ですね。驚いていただいたようで。あなたは《お医者さん》の卵ですね。見たところ。ふむ……まだ動くつもりはないようですね。どうやら。あなたと一つ授業と行きましょうか。ならば。」
 男性……アリベルトはピッと人差し指を立てて話し始めた。
「わたしが使用している症状を当ててみてください。まずは。」
「症状……」
 ……なぜかわからないけど、今動けるのは私だけ。それでもどんな症状かがわかれば先生たちを助けられるかもしれない……!

 身体が動かなくなる……そういう症状はたくさんあるけど、先生たちはそのどれにも当てはまらないと思う。なぜなら本当に、みんな「歩いている途中で止まっている」からだ。先生はまだ違和感のない方だけど、例えばライマンさんなんかはあまりに不自然だ。片方の足が浮いている状態で止まっている。あの態勢なら横に倒れるのが自然だけどピクリとも動かない。
 アリベルトが言ったように……まるで一時停止。

「……時間が止まっている……?」
 思わずそう呟いた私にアリベルトは応える。
「ふふふ。いくらなんでも時間を止める症状はありませんよ。着眼点は良いですよ。しかし。」
 そう言いながらアリベルトは私の後ろの方を指さした。
「ヒントはそれですね。」
 見ると、そこにはビルの入口があった。ドアは自動だから私たちが通ったあとは閉じているはずなのだけど……
「……止まってる?」
 自動ドアは閉じる途中で止まっていた。
「まさか……」
 私は横で止まっている先生の白衣に注目した。
「……やっぱり。」
 先生の白衣は風になびいた状態で静止していた。

 ヴァンドロームが引き起こす症状というのはもちろん、身体に作用するモノだ。なのに先生の白衣や自動ドアまで止まっている。つまり、身体以外のモノまでも止まっているのだ。
 私はアリベルトの方を見た。アリベルトの後ろには道路があり、少し離れたところには公道が見える。そこを走る車は普通に動いている。
 ……アリベルトが立っている所を境にして人と物、関係なしに静止している。正確には……アリベルトの前と後ろで。つまり……

「……あなたの視界に入ったモノ、全ての動きが止まっている……」
「その通りです。優秀ですね。」
 アリベルトが拍手をする。
「細かく見ていきますか。では。止まるということはどういうことなのでしょう。わたしは言いましたね。さっき。みなさんは生きていると。」
 止まっているという表現がたぶん適切じゃない。生きているということは……動けるはずなのに動けないということか。それにライマンさんのような不自然な止まり方を考えると……
「……動けないようにする……のではなく、自分から動くのも外からの力で動くのも全部含めて……動かないようにしている……」
 私がそう言うとアリベルトはさらに大きな拍手をした。
「正解です。種明かしと行きますか。それでは。」
 頑張った生徒を嬉しそうに見る学校の先生のような笑顔でアリベルトはしゃべりだす。
「この力は、わたしの視界に入ったモノに「動く」ということを許可しないのです。あなたが言ったように、能動的にも受動的にもね。「動く」と言いましてもわたしが認識できる動きです。ただし。その証拠に、あなたの周囲の空気は止まっていませんね? 空気なんて透明なので見えませんから。呼吸の際の微妙な胸の動き、まばたきもこの距離では認識できませんので止めることはできません。さらに。」

 ……つまり、今先生たちにはこの光景も見えているし、私とアリベルトの会話も聞こえている。息ができずに苦しいということもなく、まばたきできないから目が痛いということもない。本当に身体を動かせないだけなのだ。
 加えて……試しに先生を押してみるけど、銅像か何かのような感触で腕一本も動かせない。
 自分でも他人でも自然の力でも動かせない。先生たちはそういう状態なんだ。

「わたしの視界ですからね。ちなみに。わたしがまばたきをするその一瞬だけ、みなさん動けているのですよ。実は。」
 ……砂でも投げつけて目をつぶらせればそれで終わりということか。
「……結構弱点が多いですね。」
「ふふふ。そうですか? わたしの前では迫りくる大津波も崩壊する建物も……火山の噴火だってその動きを止めるのですよ? いけませんね。なまじ動けてしまっているからわたしの恐ろしさを理解しきれていないようです。」
 小さな子供を怖がらせるように両手をわらわらさせていたずらっ子のような顔で笑うアリベルト。
「わたしがここから一歩二歩と近づけば、みなさんの動きはより制限されます。胸の動きを認識できる距離に行けば窒息させることも可能となります。わたしがここから銃で一人一人撃ち殺してもよいのですよ? もしくは。わたしには放たれた銃弾を認識できるほど高性能な目はついていませんので銃弾はいつものようにまっすぐに進んでいきますから。」
 私はそれを聞いてひやりとしたが、すぐに反論する。
「……確かに銃弾は見えないでしょうけど、銃弾が当たる人は見えます。穴があくとか血が出るとかは見えるはずです。なら、銃弾はみんなの直前で止まるはずです。それ以上進めないんですから。」
 要するに……今の先生たちは外からの刺激に対しては無敵なんだ。アリベルトが刃物を突き立ててもまったく刺さらないはずだ。
「ええ、その通りです。ですから……銃弾が当たる時は目をつぶりましょう。」
「……!」
「ふふふ。あなた以外のみなさんの現状を理解出来たようですね。ご安心を。でも。ここでみなさんを殺すことはありません。目的はそれではないので。」
 ……目的が違う? ここにはニック・フラスコとお父さんがいるのに殺さないと言った。これが目的じゃなかったのか? じゃあさっきライマンさんが言ってたみたいに、何か別の目的があったということか。
「最後に答え合わせです。ではでは。わたしに力を与えてくれているヴァンドロームの名前は《ゼロスピード》です。ちなみに。症状はご存知ですか?」
 《ゼロスピード》……知らない名前だ。
「おや。教わっていませんか。まだ。そろそろあなたに動いてもらいますか。では。」
 アリベルトの視線の先は……先生だった。
「《ゼロスピード》は特Aランクです。先ほど言ったように自然現象ですら止めてしまいます。ヴァンドロームは突然変異によって人知を超えたSランクになります。その大元である普通のヴァンドロームは、リミッターを解除すればそれに近い力を持つのです。止められないモノはあります。しかし。それはずばりSランク。無理やり引き出したモノと純正の力では後者が圧倒的でしてね。わたしもSランクだけは止められないのです。」
 ……私が動けているのは……私の左手にSランクのヴァンドローム、《オートマティスム》がいるから……
 え……じゃあ先生に動いてもらうっていうのは……

「ことねさん。」

 横から声がした。
「《ゼロスピード》の症状は……『運動盲』だよ。」
 ついさっきまで、人形のように固まっていた。でもおそるおそる横に目をやると、そこには私に《お医者さん》を教えてくれる時のニコッとした先生がいた。
「先……生……?」
 だけどその笑顔はなんだか残念そうだった。
「神経系の症状でね。動いているモノが見えなくなるんだ。『運動盲』の人にとって、世界は常に静止したもの……人でにぎわう大都会も『運動盲』の世界では人のいない無人都市になる。」
 先生は淡々と説明を続ける。
「あいつがやっていることは『運動盲』の世界を相手に強制させるってことだ。動いているモノの無い世界を強要する……そういうタイプの《パンデミッカー》なんだね。」
 軽くため息をつき、先生は私の頭に手をのせた。
「こんな形で……ね。ちゃんと話そうとした矢先にこれか。まったく……」
「先生……それ、じゃあ……先生にも……」
「あの人との約束だったんだ。あっち側に関わらないために、あっち側のことは話さないようにってね。でもあっちから話しかけられてしまった。話さずにはいられなくなった。」
「先せ――」

「あ、あなたはもうお静かに。」

「!」
 突然、私の口が開かなくなった。接着剤でくっつけられてしまったようにまったく開かない。
「Sランクと言えど、どこか一か所だけというのであればなんとかなるのです。すみませんね。大事な話をするのですよ。」
「……『運動盲』はかなり脳に負担をかけるはずだ。そう長くは止めてられないだろう。」
 先生が低い声でそう言った。
「ええ。要件を済ませてしまいましょう。なので。」
 アリベルトは私に挨拶した時とは違い、深く頭を下げてこう言った。

「安藤享守様。あなたを《パンデミッカー》に迎え入れたい。」

 先生が!? 《パンデミッカー》に!?

「……よくわからないな。」

 先生はひどく興味なさそうに応えた。

「あなたは彼女の弟子です。」
「だからわからないと言っているんだ。あの人の弟子をどうして迎え入れる。」
「確かに……《パンデミッカー》の中でも反対する者は多いです。なぜあんな裏切り者の弟子を……とね。」

 裏切り者? あの人……先生の先生が? 《パンデミッカー》の裏切り者?

「それはそうだろう。むしろ真っ先に倒すべき相手じゃないのか? オレは。」
「御冗談を。勝てるわけがないではありませんか。」

 アリベルトは顔を上げ、目を細めてこう言った。

「当時の《パンデミッカー》最強にして、たった一人で我々を壊滅させた人物の……愛弟子に。」

 !! 最強!? 壊滅させた!?

「弟子が師匠並に強いとは限らないだろう……」
「調べはついております。彼女のその後を調査し、なぜあなたを選んだのかを……あなたは確実に彼女を超えている。なぜならあなたは……」

 アリベルトが今でも信じられない、言うのがはばかられるといった表情で告げた。

「《イクシード》のパーフェクトマッチなのですから。」

 《イクシード》……前に先生が言っていた、先生が会ったことのあるSランクの一体だ。アリベルトの……『運動盲』だったか。アリベルトの話によれば、その視界の中で動けるということはSランクをその身に宿すということ……先生の身体には《イクシード》が? それに、パーフェクトマッチって一体……?

「……っつ!?」

 突然、アリベルトが頭を押さえた。

「ぐ……なんとかなるとは言いましたが……想像以上の負担ですね。やはり。Sランクを止めるのは例え身体の一部でも重労働です……」
「ならもう帰れよ……オレの返事はノーだ。今後も変わらない。」
「……いえ、わたしは必ずあなたを手に入れる。神の復活は近いのです。世界の愚者から神を守るにはあなたの力が必須。彼が言っていた事ですから間違いない……」
「そうかい。」
「以前がそうであったように、わたしが最強ではありません……またいずれ……近いうちに。」

 アリベルトが指を鳴らす。するとアリベルトの真横に突然一人の女性が現れた。

「わわっ! 安藤様だ! やばいわ! 安藤様だ!」
 その女性は先生を見るや否や急にテンションが上がった。
「ジャック……お願いします。」
「わかってるわよ。失敗したときは……わかってるわよ。」

 女性が先生をじっと見つめてウインクした瞬間、二人の姿はパッと消えた。同時に、私の口もみんなも動けるようになった。
「むギャ!」
 不自然に止まっていたライマンさんとかが転んだ。
「安藤。」
 そしてアルバートさんが先生を呼ぶ。
「聞かせてもらえるのであろうな……?」
「……ああ。今回の事の後にでも話そうと思ってたところだ。単純に、その始まりが最悪の形で幕開けしただけさ。」
 先生の苦笑いを見て、アルバートさんはいつものようにニカッと笑った。
「そうか! ガッハッハ! ならば良い!」
「スッテンも呼んで……みんなに聞いてもらう。ことねさんにも、ライマンくんにもね。」
「安藤先生の秘ミツ? ……前にも言ったけど、僕は今の安藤先生にこそ興味があって、過去のことはどうでもいいんダヨ。」
「それでも、だよ。こんな人もいるのだと知ってほしいんだ。ライマンくんがライマンくんとしてやっていくためにもね。」
「!!」
 先生のその言葉にライマンさんはひどく驚いた顔をした。
「どこかゆっくりできるところで話を始めよう……結構長いから。」
「別にどこでも構わないのだけれど。あなたの話を聞けるのならね。」
 ファムさんはなんとなく嬉しそうにそう言った。
「そうか。嬉しいよ。それじゃあ、まー……全部聞いてもらうさ。」
 先生が困ったように笑いながら呟いた。

「泣き虫キョーマと……キャメロン・グラントの物語を。」



                                        つづく

お医者さん 第2章 「クラッカー以上に恐ろしい物をオレは知らない。」

《お医者さん》と《パンデミッカー》の戦いが本格的になりました。

ちょっと敵が強すぎてどう倒そうかと私も迷っております。

そんな中で紐解かれる安藤の技術の謎。
次は全編過去編です。

お医者さん 第2章 「クラッカー以上に恐ろしい物をオレは知らない。」

色々と、色々な感じに個性的な《お医者さん》に出会ったことねさん。 深まった安藤の謎。 そんな中、診療所には新たなメンバーが加わります。 そして起こる一つの事件。現れる敵。 《お医者さん》の世界を脅かす敵との邂逅。そんな感じの第2章です。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-01

Copyrighted
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