煉獄より愛を込めて

煉獄より愛を込めて

ロード・トゥ・ドラゴン(通称 ロードラ)と云うゲームのキャラクター、監獄王 ヴェルを主人公に添えた二次創作作品です。
謎が多いキャラクターなので、非常に好き勝手書かせて頂いて居ります。
設定は自分に都合の良い様に適宜改変してますので悪しからず。


———この世に、神は居るのだろうか。
答えは、是である。世界が存在して居ると云う事実を見れば、瞭然だ。
其の世界は、自然発生的に誕生した代物では無いのか。世界を誕生させるに足る何らかの作用———則ち、此処で神と形容される力は、ただ力としてのみ存在して居るのではなかろうか。
否。
ならば、意思を持つと云うのか。
そう。明確に、天地創世の意志を持ってこの漠々たる世界を作り上げたのだ。そして其の果てに———。
私が、生まれた。

仄昏い部屋の中央に、玉座が据えられていた。左右に燭台が二基、炎を揺らめかせ、柔らかな光は、しかし部屋の四方を囲む石壁に反射して、何処と無く殺伐とした色を帯びて部屋を満たしている。
その灯りに照らされ乍ら、何者かが玉座に座して居た。女性である。腰ほどもある灰色の髪は、蝋燭の色を照り返して薄らと橙色に染め上げられている。肌は白く、血の色が透けて頬がやや桃色を帯び、艶やかに張りがある。妖艶な魅力に満ちた眼をして居るが、右眼は眼帯で覆われて、見えない。深紅の看守服に身を包み、脚を組んで悠然と座して居る。
そして、深々と看守帽を冠った頭の、両のこめかみの辺りからふたつ、ぐるりと巻いた大きな角が生えている。異形である。
玉座に座したまま、ぴくりとも動かない。彼女は自らに問いを投げかけて居た。通常、信仰と云う曖昧なものによってしか返答し得ない問いに、彼女は明確な根拠を持って答えを与える。自身を以て、自問し、自答する。何度目かも分からない、最早習慣とさえ云えるこの問答を一頻(ひとしき)()った後で、ふ、と自嘲の笑みを漏らした。
名を、ヴェルトギリアムと云う。忌み名である。故に、ヴェルと端折って呼称されるが、其れも失われて久しい。自身の負う役目から、監獄王とも呼ばれるが、(そもそ)も彼女の事を知って居るものなどこの世に殆ど存在して居ない。
監獄王———。彼女がそう二つ名される所以。彼女が座して居る玉座の真下には、地下深く、遥かに続く監獄が存在している。罪を浄化する為の、煉獄とも云うべき、深淵で巨大な、監獄。
其の最上階に座して居る彼女は正に、王であった。
その監獄はこの世界の何処か、絶海の孤島にあるとされるが、場所を知るものは無い。連行され収監された者は、その後決して陽光に照らされる事は無く、果ての無い責め苦の後に、終わりを与えられる。其れは魂の輪廻さえ許されない、完全なる終焉である。
従って、監獄の存在を知っているもの、()してや、ヴェルの存在を知っているものは、この監獄の外には存在しない筈であった。
あの男———。
不図(ふと)、唯一彼女の名を呼び捨て、監獄を自由に出入りする男を想起して、ヴェルは其の口の端に、先とは明らかに異なる類いの笑みを灯した。炎の揺らめきに照らされて、口元に僅かに浮かんだ影が、凄艶な印象を与える。
「何時かは、殺して」
ぽつりと呟いた言葉は、誰が聞いて居るでも無く、石壁に反響し、徐々に薄れてふわりと消えた。愛しい宿敵に依って潰された右眼が幻痛を訴え、ヴェルは眼帯の上から、愛でる様にそっと撫でた。
「殺して、あげるわ」
言葉は数度(こだま)した後、右眼に吸われて痛みを消した。

神は、世界を創造した後、この世に三つの種を()いた。
一つは、竜。
一つは、獣。
一つは、人。
竜は破壊と創造を司り、魔のものに模して創られた。
獣は恵みと繁栄を司り、神の遣いを模して創られた。
人は調和と進歩を司り、神其の物を模して創られた。
三種はそれぞれに影響し合い、時に争い時に共生し、刻を廻す。やがて世界は神の手から離れ、閉じた輪の中で、完成し永遠の繁栄を刻む。
それが、神の定めた、理である。
筈であった。
(ほころ)びが生まれた。
其れは人から生まれた。神が最も苦心し注力して創り上げ、世界を廻し刻を進める役割を担った人種から綻びが生まれたと云うのは、全く皮肉と云う外無かった。
綻びは其の名を、ヴェルトギリアムと、云った。
始まりの、咎人である。

———咎人。
神によって定められし理を、外れたもの。
生まれながらに、罪を背負うもの。
存在其の物が許されぬもの。
異形のものども。
平たく云えば、化物である。
幻想に生きる亡霊、竜と人との境界を曖昧にしたもの、人と獣の血が混ざったもの、永遠の刻を生きるもの、そう云った有象無象を総じて咎人と呼ぶ。
咎人は、神の理から外れた、世界の綻びである。
神の創った世界は完全でなければならない。
神は綻びを滅すと決め、其の役目を、始まりの咎人であるヴェルに与えた。以来彼女は、神に与えられた監獄で使命を全うし続けている。

フェンリスと云う、人狼が居た。人と獣の、混血である。
神は三つの種を蒔いた時、それぞれの種が決して交わる事の無い様に、魂の所在を異にした。子を生すと云う事は則ち、魂の混合である。互いにひと欠片ずつの魂を差し出し重ね合い、肉体諸共に溶け合った果て、生命が誕生する。だから違う種族では、子を生す事は出来ない。其れが、理である。
しかし何故か、彼女は生まれた。混血の禁忌を犯した彼女は、その身に獣と人、父性と母性をそれぞれ備えた。肉体は人と獣の間で揺れ動き、精神は雄雌の狭間を漂う。魂は、混沌として居た。
混沌は同心円状にじわりと世界を浸食し、果てに滅亡を現出させる。
混沌に触れたものは狂気に侵される。
元来優しい心の持ち主であったフェンリス自身、己の魂の混沌に呑まれて、狂気の末、愛する少女の手に依って果てた。最期には少女も混沌の泥沼にどっぷりと身を沈め、狂気に狂喜して、フェンリスに死を与えた。(しか)して混沌は去るかと思われた。
少女———グリムドアは、死闘の果てに銃口をフェンリスの頭部に突きつけた。眼は狂気に染まり切って居る。歪な笑いが月明かりに照らされ、陰影を伴ってぞっとする様な美しさを醸し出していた。そして身をよじる様な快感に耐え乍ら、グリムドアは引き金を引いた。
心優しい人狼は絶命し、興奮と絶頂に少女の狂気が弥弥(いよいよ)高まった時、咎人の混沌が肉体と云う枷から解き放たれた。瞬く間に人狼と少女を飲み込み、ふたつをどろどろに溶け合わせて、そして、混沌はふたつと、抜け殻のひとつを生み出した。抜け殻は恍惚の表情を浮かべて居た。
混沌に生み出されたふたつ。肉体は少女の面影を強く残し、性質は人狼を受け継いだ、新たな咎人の誕生であった。
白色と黒色に分けられた双子の少女は、互いを殺し合った。日のある間、白き咎人は人である。黒き狼を殺す為に生きて居た。日が沈むと、記憶を失った。代わりに、黒き咎人が、白き狼を追う。永遠のいたちごっこを続ける彼女らを見つけ、ヴェルの元へと連れて行ったのは、クロノと云う名の、咎人であった。

クロノは不老である。不死である。意識を得た時には既に、今と寸分変わらぬ姿で現世に顕在して居た。それだけならば単に記憶喪失で済む話だが、それから遥かに年を経ても小皺の一つも増えないと云う事実は、矢張(やは)りクロノが不死であり、理から外れた存在である事を何よりも雄弁に物語っている。
それに彼は、意識を得たと同時に、何か得体の知れない、途方も無く大きな力と対話し、抗い得ない命令を下賜(かし)されていた。

咎人を連行せよ。

強烈に頭の中に響いた其の声に従い、クロノは咎人を求めた。人とは比べ物にならぬ程長い年月を生き、そして一人の禁忌を犯したものに出会った。アダムと云う名の青年だった。どのような禁忌かは分からないが、其れが許されざるもので有る事を直感したクロノは、二丁の拳銃で彼の四肢を撃ち抜き、すまきにして連行した。何処へ、とは考えなかった。脚の向くまま、アダムを飢えさせぬ様に気を遣い乍ら旅を重ねた。
旅の終わりに、クロノとアダムは、或る孤島の監獄に辿り着いた。中から現れた女性は、ヴェルトギリアムと名乗った。其の名を聞き姿を見た時、えも言われぬ嫌悪感と憎悪がクロノを支配し、其れと同時に、母の腕に抱かれたかの様な安らぎを覚えたのだった。
「善く、来た。歓迎するわ。咎人たち」
然う云って腕を広げ、微笑みを湛える彼女の顔を目の当たりにして、
「貴様が生まれた所為で。なのに何だ、その笑顔は」
と、一瞬の内に安らぎは掻き消され、クロノは腰の拳銃を抜いた。
銃口を突きつけるや否や、引き金を引いた。撃鉄が薬莢(やっきょう)の尻を叩き、火薬の炸裂音と共に憎しみを乗せた鉛が真直ぐに撃ち出された。衝動の侭に構えた拳銃は、左肩に抱えるアダムの重みで僅かに傾き、狙いを定めた眉間ではなく、彼女の右眼を穿った。
右の眼を撃ち抜かれても尚、彼女は微笑みを崩さなかった。それどころか、
「貴方を待っていた」
と言い放った。其の言葉を受けて、雷に打たれたかの如き衝撃を覚え、クロノは彼女に心酔した。底知れぬ慈愛に、深く深く包み込まれる感覚を抱き乍ら、
———嗚呼、このひとは、きっと凡ての咎人を我が子の様に愛しているのだ。
と、思った。その途端に、ヴェルにとって特別な存在でありたいと願ったクロノは、
「何時か、貴女を、殺す」
と、せめてもの言の葉を送った。すると彼女は満足そうに頷き、微笑みを崩して、ふふ、と笑った。

今思えばあれは、反抗期の様なものだ。気恥ずかしさ故に母親に手向かう子供と変わらない。ヴェルと初めて出会った時の事を思い出し、自嘲した。
「不老とは云え、若かったのだな」
そう呟くと、弥弥おかしくなって、くっくと肩を震わせた。
あの後、監獄に収監されたアダムは、千年もの間ヴェルの寵愛を受け、最期には愚かにも脱走を企て、ヴェルの手に依って無に帰された。クロノには其れが、少し羨ましくも思える。
あれ以来、咎人を捕らえては、度々監獄を訪れた。無論、神に与えられた役目を全うする為ではあったが、それ以上に、ヴェルに会うのが愉しみだったのだ。何れ程の年月が流れようと、彼女は会う度に美しく、妖しく、艶かしく、クロノの心を惹き付けた。
彼女もきっと、不死なのだ。
そう思う度に、愛に溢れた殺意は益々強くなった。
不死者にとっての最上の願いは、死である。だからこそクロノはヴェルを殺して遣りたいと思ったし、彼女の手に掛かって殺されたいと思った。
然う云えば、最後に監獄を訪れたのは、双子の咎人を捕らえた時だったか。あの双子で、百と七人。見た所、双子は一つの咎なる魂を共有していたから、正確には百六人だな。
等と考え乍らクロノが思いを馳せた双子———フェンリスとグリムドアの子と云える彼女らを監獄に連れて行ってから、凡そ千年の時が流れていた。

眼を覚ますと、旭日が東の野を朱に染めていた。振り返った空には夜の残滓がはためき、山々は未だ闇の中に在った。
白き咎人は、夢を見ていた。黒き狩人の様なものに駆り立てられ、必死に逃げ回る夢。尖った枝葉に頬を裂かれ乍ら、木の根に脚を取られて転んでも尚、何処迄も何処迄も遁走する。やがて夜の漆黒が弥弥深まった頃、前脚を撃ち抜かれ走る事も叶わなく成った。後ろから緩慢と、黒き狩人が近づいて来る。一歩、また一歩と、地面に脚をとられぬ様、確かな足取りで距離を縮めて居る。やがて、目の前に立った狩人は、喜色を顔一面に浮かべ、手にした猟銃を———。
猟銃を、如何した。
思い出せない。思い出そうとする傍から、つい今しがた鮮明だった光景が、霧でもかかったかの様に(ぼんやり)として覚束無く成る。
何の夢だったのだろう?唯何となく、恐ろしかったのだけは明瞭覚えて居る。
夢心地から醒め、意識が確りして来るのに合わせて、体のあちこちが悲鳴を上げ始めた。頬が、裂けて居る。右腕の銃創と思しき傷が、焼ける様だ。切創、裂創、擦過傷、挫傷、銃創、刺創と、数え上げればきりが無い。
身体の痛みが激しく、動く事が出来ない。目を覚ました体制の侭、払暁の光を浴びて居た。然うして居ると、陽光に照らされた傷は、(たちま)ちの内に治癒した。太陽が昇り切り、名残惜しげに山に残っていた宵の色を拭い去った時には、傷はすっかり癒えていた。
回復した身体を起こし、傍らに在る猟銃を手にした。
今日こそ、黒き獣を、この手で。
何故かは善く分からないが兎に角、あの黒い獣を殺さねば成らぬと確信していた。その為だけに生きて居ると云っても過言では無い。
日が昇って居る間、白き咎人は黒い獣を追い回す。如何してか、居場所が手に取る様に分かるのだ。離れていても、隠れていても、引き寄せられる様にして黒い獣の許に辿り着く。不思議だとは思うがしかし、然う云うものなのだろうと深くは考えなかった。
今日もまた、直感に任せて黒い獣を探した。さして時間も掛からずに見つける事が出来た。
木々の合間で、肉を啖らっている。口元が茂みに隠れて見えないが、恐らく鹿だろう。叢の端から僅かに角が見えている。野生を剥き出しにして啖食するのに合わせて、肩辺りの毛並みが別の生き物の様に(うごめ)き、木漏れ日を受けて艶光りして居た。
好機である。食事をして居る時、周囲への注意は散漫だ。奴は目の前の肉しか見て居ない。
さぞ美味いのだろう。肝の臓、肺腑、胃腑、心の臓、腑。それらを貪れば次は赤身である。山を駆け回り、引き締まった肉はまたとないごちそうだ。肉の味を思い浮かべて、白き咎人は垂涎(すいぜん)した。
がつり、ごつりと骨を噛み砕く音を聴き、我に帰った。目の前では、変わらずに黒い獣が獲物を貪って居る。
そうだ、この瞬間を逃す訳にはいかない。
溢れる殺気を身の内に留め押し殺し、そっと猟銃を構えた。
生憎、急所は茂みが邪魔して目視出来ない。推測で撃っても善いが、毛皮を売る訳でも無いから、確実に当てようと思った。
肩を撃って、動きを封じよう。
照準を合わせる。
それから、ゆっくりと止めを差せば善いのだ———。
其の瞬間の高揚を想像して、押し止めて居た殺気が、僅かに銃身の先から漏れ出た。
と、弾かれた様に獣が飛び退いた。それを目にした瞬間、反射的に引き金を引く。放たれた弾丸は僅かに獣の脚を(かす)めて、後ろの木の幹に飲み込まれた。次に狙いを定め乍ら、白き咎人は自身の過ちを悔いたが、最早遅かった。野生は木の陰を利用し乍ら遠ざかり、既に射程の外であった。
しくじった———。
そう思ったが直に気を取り直した。直感に従えば、また容易に見つけられる。
黒い獣の食事跡を通り過ぎ乍ら、横目でちらと肉塊を見た。血の色が鮮やかである。喰い散らかされては居るが、肉はまだ豊富に残って居た。新鮮な肉に、束の間目を奪われた。
口の中に、唾液が満ちて行く———。
呆として居た自分に気付き、咄嗟に眼を逸らして、白き咎人は獣の後を追った。

日が、暮れようとして居た。
木々深き山を、太陽が斜めに照らし、幹も葉も金色に染められて、向こう側に長く影を引いて居る。
もうすぐに、日が暮れる。
白き咎人は、僅かな焦燥を感じて居た。其れは、夜の足跡を聴いている様な気がするからであった。
夜は、嫌いだ。
何となく、然う思った。日が暮れると、抗えぬ睡魔が襲って来て、気付けば眠りに落ちている。そして、眠りに落ちて居る間に見るのは、決まって悪夢であった。何時も何時も、目覚めた時には記憶の網を()り落ちて行くが、其れは夢ではなく、紛う事無き現実である。
白き咎人がこうして黒い獣を追っている様に、夜に成れば、今度は自分が白い獣と成って、黒き咎人に追われる。毎日が其の繰り返しだが、白も黒も、気付いては居ない。記憶は一昼一夜毎に消えて居るのだから、当然であった。
もうずっと、永い間そうやって殺し合って来た。幾度と無く殺して、殺された。延々と其の繰り返しであった。
殺しても、死なない。双子が殺し合う、それだけでも異常なのに、この殺し合いに関しては、生死の概念が歪んで居た。元々、「ゆらぎ」が要の咎である。親であるフェンリスは、人と獣、父性と母性の間でゆらぎ、魂は混沌を抱えた。其の魂が、混沌が、分たれて双子に受け継がれた。また、父性は白に、母性は黒に遺伝した。分たれた混沌は、殺し合う事で共鳴し、遂には二人の生死に関してさえ、混沌に沈めて仕舞った。生も死もないまぜに成って、永遠の殺し合いに興じる事が出来た。
獣を追うのは、本能だった。其れはグリムドアから受け継がれたもので、止めの引き金を引く瞬間の、快感に堪え兼ねた様な狂おしい笑顔は、月明かりの夜、フェンリスに銃を突きつけた彼女の顔其の物だ。
さて、この日も、白き咎人は黒い獣を追い詰めた。太陽は西の端に没しようとして居る。気の早い月が、東の空に淡く浮かんで居た。刻限一杯である。既に眠気の端が見えて居た。
眠気と戦い乍ら、緩慢な動作で銃を構える。自然と笑みが零れ、そして彼女は引き金を。

———銃声が、逢魔ヵ刻の山林に谺した。(つんざ)く様な其の音の後。耳が慣れるに従って、白き咎人は両の手足に堪え難い熱を感じた。血が、吹き出して居る。銃声のした方を振り向くと、漆黒の外套を羽織った白髪の軍人が、拳銃を構えて居るのが眼に入った。
邪魔をしやがって。
憎悪が膨れ上がるのを感じたが、其れ以上に強烈な眠気が押し寄せて、意識を塗り潰した。
朧げに残る意識は、担ぎ上げられる感触を捕らえて居る。
最、あく、だ———。
絶頂を阻害され、憤怒の極地で眠りに落ちるのはひどく不快だったがしかし、気分の悪さとは裏腹に、その日、初めて悪夢に(うな)されない夜を過ごした。そして其れ以降、黒き狩人に追われる夢を見る事は無かった。

千年に一人と、決めていた。監獄の内部では時間の流れが滞っていて、昼も夜も無く、其の中では老いも死も無縁であった。
何故か。
咎人の魂を輪廻から外し、完全に抹消させるには、其れ相応の時間を掛けてじわじわとすり減らす必要が有る。其の為に要する時間が、外の単位で、千年。咎人だからと云って、皆が皆不死と云う訳では無い。中には普通の人と同じ寿命を持ち、転生を繰り返し乍ら、生まれた地に咎なる混沌を振り撒くものも居た。然う云ったものをも滅する為に、千年の間、死なれては困るからであった。
ヴェルトギリアムは元来、優しい性質である。慈愛に溢れた精神を其の身体に秘めていた。
凡ての咎人を、自身の子の様に愛し、慈しんだ。が、その方向性は、神の手に依って捩じ曲げられていた。彼女の監獄に収監された咎人は皆一様に、酸鼻を極める彼女の愛を受け切れずに精神を壊した。僅か数時間で、殺して呉れと嘆願するものも居た。そんな時、彼女は決まって
「千年経ったら、殺してあげるわ」
と、耳元で囁いた。囁かれた囚人は喉を枯らす程に叫ぶのだが、絶叫は歓喜の歌声と成って彼女の耳に届くのだった。
千年もの間、昏き監獄の底に押し込まれ、拷問にも等しいヴェルの寵愛を受けると、肉体も精神もぼろぼろに成って、剥き出しの魂が現れる。然うなって初めて、ヴェルは処刑の為に銃を手にした。
身の丈程もある、金色の装飾をあしらった、大筒の如き巨銃である。彼女はこれを軽々と扱う。神に監獄を与えられた時、同時に下賜された神具であった。咎人の魂を焼き尽くす為の、神なる炎が内に宿されている。本来、其の炎の力を惜しみ無く使えば、千年の時を待たずとも、咎人の魂魄凡てを塵芥に帰する事は可能なのだが、加減を過てば自身をも灰にする程、強力なものであった。
だから、千年の刻を掛けてじっくりと咎人を愛で、最後の最期、ほんの僅かに神の炎を遣って、彼らを解放して遣るのだった。
ヴェルの銃口に(さら)された囚人は須く安堵の表情を浮かべ、安らかに消滅していった。
一人、滅すると、刻を見計らったかの様にクロノが現れ、咎人を引き渡した。嘗て其の事を訊ねた事が有った。
「如何して、きっかり千年に一度なのかしら?」
「さあ。神の悪戯とやらじゃないか」
クロノは何時も、口数少なく、投げ遣りに話す。其れが、捻くれた愛情表現だと云う事に、ヴェルは気付かない。
「私達に限って、その冗談は冗談で済まないわね」
「其れも然うだ」
だが、不思議と、千年に一度しか、咎人を捕捉する事が出来んのだと、概ね其の様な事を、ぽつりぽつりと云ったきり、会話は途切れた。
沈黙が二人を支配したが、其れが昏い監獄の雰囲気と、非業の運命を背負う二人に妙に似合っていて、居心地が善かった。
「ねえ」
声を出そうと思った。
「早く私を殺して」
若し自分を殺せるものが居るとしたならば、この男に於いて他は無いだろうと、如何なる傷も受け付けなかった彼女の身体が、唯一記録した右眼の熱を思い出し乍ら、思った。
「私も貴方を殺してあげるから」
結局、声は出なかった。其れが何故だかは、分からない。しかし、
「約束は、守る」
とクロノが呟いた時、(たし)かなぬくもりが、胸の内に生まれた。其れを幸福と呼ぶ事を、ヴェルは知らない。
クロノは再び口を(つぐ)み、快い沈黙が、二人の間を流れていた。

眼を開けると、薄暗い、石壁の部屋の中だった。前方、部屋の中央付近に燭台が二基据えられていて、その間に玉座の様なものが設えられている。其処に真っ赤な看守服に身を包んだ女性が腰掛け、傍らに立つ黒衣の軍人と何やら話をして居た。手足を縛られていて、身動きが取れない格好の侭、二人の話に耳を傾けた。
「今回は二人か。数が合わないわね」
「あれは二人でひとつの咎だ。双子らしい」
「成る程」
「これで、最後だ」
「ええ。また、千年後に」
「嗚呼」
短く会話を終え、軍人は此方を一瞥して部屋を出た。扉を開けた時、眩い光が舞い込んだ。黒き咎人は其の時、陽光と云うものを初めて目にし、其の美しさに暫し眼を奪われていた。我を取り戻して傍らに目を遣ると、白い頭巾を被った女の子が、自分と同じ様に床に臥せっていた。
「さて、貴女達」
紅蓮の看守が声を掛ける。威圧的だが、何処か優しさに満ちた、不思議な声音だ。
「名を、教えて呉れるかしら」
名前———?
其の質問に、黒き咎人は困惑した。隣の白い少女も同様であるらしい。二人揃って答えあぐねて居ると、
「名を持たないのね」
然う云って玉座から立ち上がり、コツコツと足音を響かせ乍ら、二人に歩み寄り、目の前に屈んだ。右手を私の、左手を白い彼女の頬にそっと添えて、交互に眼を向けた。其の眼差しには、憐憫と慈しみの色がありありと浮かんで居て、其れが黒き咎人の警戒を解いた。尤も、警戒していようが関係なく、この状況では為す術は無い。真魚板(まないた)の上の鯉とは正にこの事だ。
「可哀想に。では、私が貴女達に名前をあげるわ」
然う云って暫く考え込むと、
「そうね、貴女がシロで、貴女がクロ。うん、そうしましょう」
と、何とも安易な名を与えた。二人の縄を切り乍ら、一人で満足そうにして居た。しかし何れ程安易な名であろうと、名を授かった事が素直に嬉しくて、浮かれた気持ちを抱き乍ら何気なくシロを見遣ると、彼女も満更では無い様子で、不図眼が合った瞬間、お互いにはにかんだ。
「さて、シロ、クロ」
名を呼ばれて、其方を向いた。紅の看守は丁度玉座に腰掛けるところで、伸びやかな肢体を玉座に預け、脚を組み乍ら此方を見据えて、
「私の名前は、監獄王 ヴェル。此れから千年の間、宜しくね」
と云って、微笑んだ。其の笑顔は燭台の光に照らされてゆらゆらと陰影が揺らぎ、えも言われぬ美しさを伴って、クロとシロを圧倒した。二人はすっかり虜と成った。
平伏する白黒の双子を見て、ヴェルは心の内に、溢れる愛情を感じ頬を僅かに歪めていた。

千年前、ヴェルとクロノを除いて、世界に存在する最後の咎人が、収監された。
双子の咎人で、二人でひとつの咎なる魂を共有していた。
世界には百と八人の咎人が現れるだろう。と、神はヴェルに告げていた。其処には当然自分も含まれて居り、則ちヴェルの使命とは、百七人の咎人を葬った後、自身の魂を神具でもって消滅させる事である。凡ての咎が消え去り、綻びが繕われる事で、世界は完成し、神の理の中で永遠の繁栄を歩む。其の為の必要悪として———本来現れる筈の無い存在ではあったが———ヴェル達咎人は存在し、死ぬ事にこそ意味があった。
だからヴェルにとって、咎人を(しい)する事は何よりの誉れであった。世界を真なる状態に創り変えて居るのだと自負していた。
ヴェルは何時も、新たに咎人が収監されると、先ず半生を訊き糾した。凡て、覚えている事は勿論、忘却の地平を越えて彼方にあるものでさえ、脳髄を掴んで揺さぶる様な声音と話術でもって蘇らせた。
何度も、何度も。幾度と無く、毎日繰り返した。
一月が経ち、一年が経ち、一世紀を過ぎても尚、毎日である。
其れを五百年も続けて居ると、自分と相手との精神の境界が無くなる。境目が曖昧に成って、相手の事を分かった様な気になる、と云った生半可なものではない。全く、相手の精神と同化するのである。其の頃にはもう、ヴェルも囚人も、どちらがどちらか分からなく成っている。
其の後、咎人がそれまでの人生で味わって来たものと同じ痛みを、もう一度与える。寸分違わず、肉体にも、精神にも。ヴェルには、痛みを与えているのか、受けているのか、判然としない。唯、記憶にある痛みを反芻するのみである。
そして、千年が経つ頃、苦痛から漸く解放される。
彼我の境界は消えて居るから、それは屹度(きっと)、自殺と変わらない。
然うして幾度も自分と相手を殺して、十万と六千年が経過していた。
シロとクロ。二人を処する刻が来ていた。
この二人を殺したら、弥弥、彼との約束だ。
私に、唯一、傷を与えられる男。
クロノ。
また突然、前触れも無く、監獄の重い扉を開けて、外の光を引き連れてやって来るのだろう。其の時は、最期に相応しく、出迎えなければ。
其処迄考えて、ヴェルは不図、或る思いつきをして、シロとクロの房に向かった。
手には、鍵が握られて居る。

扉が、()いて居る。
正確には扉ではなく、蝶番である。開閉の為に摺動する其の部品は、永い年月に錆び付き、潤滑性を失った。その結果、開閉の際には、まるで罪人が責め苦に耐えかね(むせ)び哭く様な音を立てる。余りの音の大きさに、扉全体が鳴動して居るかの様だ。
其の音に、ヴェルは何時も心を躍らせた。
余人を受け付けないこの監獄に於いて、件の扉を開けるのは、クロノ以外に有り得ない。過去十万と六千年の間、例外は一つとして無かった。
ヴェルにとって其の音は、彼の到来を告げる福音である。
今日もまた、扉は声高に錆の音色を歌い、福音は監獄の内部に反響した。
響き続ける音に合わせて、緩慢と、緩慢と扉が開いてゆく。
両開きの扉の中央に、一筋、金色の光が奔った。
すると次には、極彩色の光が溢れ出し、直ぐに光の洪水と成って、ヴェルの玉座を照らし、昏き煉獄と外の世界を結んだ。
福音が已み、眼も眩む程の光の中に、東の野に揺らめくかぎろひの様な影が輪郭を朧にして佇んでいる。
虹彩の収縮が追いつかず、顔は明瞭とは見えない。
だが、ヴェルはその影を視認すると、眼を細めて口角をゆったりと持ち上げ、確信に満ちた声で以て
「撃ちなさい」
と、左右に控える白黒の咎人に命じた。
果たしてシロとクロは、構えた猟銃の引き金を引き絞り、(あられ)の如く弾雨を降らせた。
轟音が獄に轟き、銃弾は鉄の扉をも抉った。
扉に、石壁。双子の眼前に在るあらゆるものが穿たれ、微塵に砕けて土煙を上げている。視界は粉塵の雲に遮られ、一寸の向こうも見えない。
常人ならば生きてはいまい。
常人ならば、だ。

巻き上がる土煙に視界を閉ざされ、シロとクロは銃を構えた侭、佇立(ちょりつ)して居た。
ヴェル様は、彼を殺せば解放する、と云った。
クロは惘と、ほんの少し前に房から出された時のヴェルの台詞を思い返していた。
けれど私は、解放されても彼女の許に居よう。
一目見た時、心を掴まれた。掴まれた心は、千年の寵愛を経てヴェルと一体に成ったと感じる。其れは又と無い幸福であった。
シロを一瞥すると眼が合った。
奇妙な、双子。白黒は其の時、ほぼ同じ様な事を考えて居たらしい。眼が合った瞬間、お互いに其れと知れて、同時にはにかんだ。前途に横たわる永劫の刻を予感して、慥かな幸福を身の内に宿した。
其の時。クロは何か鋭いものが身体を突き抜けて行くのを感じた。
光だ。
光が、突き抜けて行った。然うとしか、思えなかった。
闇に生きた私は、やはり光に依って死を迎えるのだ。
身体が、傾いて行く。視界の端には、茫然とした表情で此方を見る、シロが映っている。
———どうせ同じ光なら、シロの光が善かったな。
然う云おうとして口を動かしたが、声は出なかった。撃ち抜かれているのは、胸と喉だった。
重いものが、石畳にぶつかる鈍い音が監獄に響いた。
ひとつではなく、ふたつ。
暗闇に閉ざされ行くクロの視界が最期に捕らえた映像は、頭を正確に撃たれ、頽れるシロだった。
立ちこめていた土煙が晴れ、光が再び真直ぐに差し込んだ。
その光に包まれて、白と黒の少女が、寄り添う様に横たわっている。

「嗚呼、矢張り、然うなのね」
玉座に腰掛けたまま、一部始終を端倪(たんげい)していた監獄王が、歓喜の声を上げた。
「何の真似だ、ヴェルトギリアム」
光の方から軍靴の音を鳴らせて歩いて来た黒衣の軍人が脚を止め、偉丈高に言い放つ。
「約束の時だもの。お出迎えに、少し趣向を凝らしたのよ」
然う云い乍ら立ち上がり、数歩歩いて屈んだ其の場所には、シロとクロが並び倒れて居る。
「もう直ぐに、私も貴女達と同じに成れるのね」
指の腹で二人の瞼を撫で、閉ざした。
立ち上がると、また数歩進んで、眼帯に閉ざされた右眼を愛でてから、左腕を地面と水平に持ち上げた。
「貴方が、本当に私を殺せるのか、少し疑問だったの」
笑みを湛えて居る。差し込む光が陰を深くし、何時にも増して美麗である。肌の白さが際立っている。
「杞憂だったわ」
持ち上げた侭の左腕。其の周りの空間が、揺らいだ。
ごう。
と云って、炎が、空間の揺らぎから涌き起こり、ヴェルの左腕に絡み付く。
「久遠とも云える時の中、生殺与奪を繰り返して来た二人だもの。其れを完全に殺し切れるなんて」
時間を経るに連れて、空間から生まれる炎は大きく、紅く、灼熱の熱気を振り撒いている。やがて、弥弥その熱が極まった時、不意に弾けて閃光が部屋を満たした。外から入り込む柔らかな光を押し退け撥ね付ける。視界は、全くの白色に染まった。
「成る程、悪趣味だな」
閃光に圧し潰されそうに成り乍ら、クロノはやっと其れだけを云った。
「心外ね」
返すヴェルの声がクロノの耳に届き、其れを合図としたかの様に閃光は収束し、安穏の昏さと陽光が戻って来た。
———あれが、神具か。
視力を取り戻した時、ヴェルの左腕には、身の丈程もある巨筒が装着されていた。金の装飾が、昏がりと陽光の間で、鈍く輝きを放って居る。
———準備が、整ったな。
殺し、殺される約束を果たす準備が整い、クロノはヴェルを見た。
ヴェルもまた、クロノを見た。
ヴェルが笑った。
クロノが笑った。
お互いに相好を崩した侭、ヴェルが一歩を踏み出した。
クロノが引き金を引く。愛憎を乗せた銃弾がヴェルに届き、血が跳ねた。頭。即死である。身体が崩れる。が、体勢を立て直し、眉間から血を流してヴェルがまた一歩を重ねた。
一歩毎に、クロノは引き金を引く。
一歩歩いては眉間。
二歩歩いては肺と心臓。
三歩歩いては胃腑、肝、腑。
四歩歩いては、四肢。
傷は残る。だが、死なない。殺し切れない。
僅かな狼狽と、焦燥がクロノの表情を歪めた。
殺せない。殺して遣れない。愛しい人との約束を、果たせない。
引き金を、引く。撃鉄の下りる衝撃に依って火薬が炸裂し、急激に膨張した空気が弾丸を弾き飛ばす。込められた思いは、其の都度ヴェルの身体に撃ち込まれるが、命には届かない。
一歩、また一歩と、ヴェルが近づいて来る。服が破け、血に濡れ、それでも尚、頬に笑顔の陰影を浮かべた其の姿は、余りに凄惨で、そこはかとなく美しかった。
刹那、眼を奪われ呆とした。
転瞬し、意識を取り戻すと、既に目の前に居た。
陽の光に照らされるヴェルの姿は、再度クロノの眼を奪った。その隙を逃さず、ヴェルがクロノを抱き締めた。柔らかな肌の感触がする。鉄と、女の芳香が鼻孔をくすぐる。
耳元で、声がした。ありがとう、と云われた気がした。
体温と血の温もりを残して、ヴェルは身体を離した。
再びクロノの眼に映ったヴェルは矢張り、妖艶な笑みを浮かべて居た。

———笑っている。
だから、私も笑う。
咎人にとって、その刻は幸福の絶頂だから。
眼が合った。
優しい光を湛えて、私を凝乎(じっと)見詰めている。
彼の眼に、私はどう映っているのだろう。
不図、そんな事を考えた。
血に濡れそぼり、衣服は破れ、百と五人の同胞を屠って来た私を、彼はどう思っているのだろう。
そんな私の手に依って、百六人目と成る事を、彼は。
ほんの一瞬の、この僅かな時間は、極限まで引き延ばされて、ゆったりと二人の廻りを漂っていた。
クロノの後ろから、光が射している。
開け放たれた侭の巨大な門戸は、遥かな空を四角く切り取って、抜ける様な蒼穹には一点の翳りも無かった。
其処から差し込む光も矢張り四角く刻まれ、二人を照らしていた。
肌の温もりが、頬に残っている。
私は、最後が貴方で善かったと思うわ。
胸中を満たす感情が、眼窩の溜まりから溢れ出しそうに成るのを、必死で堪えた。
無理矢理に口の端を押し上げて、笑った。
神の炎は、魂を灼く。
だから、肉体は傷付かないし、痛みも無い。
せめて、せめて安らかに。
そして彼女は、全霊を込めて、引き金を引いた。

轟音、振動、そして———。
静寂。
人為的な音が絶えている。辺りに響く波と風の吹く音が空々しい。
しかし、善く耳を澄ますと、
ずり、ずり
と、衣が擦れる様な、這う様な音が聞こえる。
開かれた門戸から外の光が差し込み、しかし部屋を明るむには足らず、吹き込む風に蝋燭の火が揺れる、仄昏い石造りの部屋である。
その部屋の、辛うじて外の光に照らされる場所に、音の元はあった。
深紅の看守服に身を包んだ、女である。両のこめかみの辺りから、角がぐるりと巻いている。肌の色は白すぎる程に白い。肌の白さと、何より其の角の威容から、一目で異形と知れる。
其の異形が、床を這っている。
向かう先には、軍人然とした白髪の男が横たわっている。
事切れているのか、眼を瞑って仰向けに臥した侭、ぴくりとも動かない。
女は、その骸に向かって只管(ひたすら)に這っている。
僅か、一歩。
其の一歩の距離を詰めるのに、命を振り絞っている。
善く見ると、左腕が無い。其の為に、ほんの一歩の距離が、一間にも一里にも感じられる。
血は出ていないが、嘗てからの隻腕なのだろうか。
そうした疑念は、彼女の下半身の様を見れば、直ぐに得心に至った。
脚の先から、崩れて行く。
崩れた傍から、風に攫われて消えた。
肉体の崩壊は、足先から(くるぶし)、膝から(もも)へと、徐々に進行している。
此の侭彼女の凡てが灰と成るのも、時間の問題だろう。
刻は然程(さほど)も残っていまい。
崩壊が腰に迄至り、下半身の尽くが舞い散った。
其の時漸く、彼女は目的の場所に達した。
横たわる彼の傍らに肘を突き、そっと頬を撫でた。
まだ仄かに暖かく、一度だけ此の腕に搔き抱いた彼の体温を思い起こさせる。
温かな記憶に吸い寄せられる様に、彼女は屍に口づけをした。
口吻を重ねる間にも、どんどんと彼は冷たく成り、彼女の身体は宙に消えた。
———神よ。
彼女の永い永い人生の中で、彼女は初めて祈りを捧げた。
願わくば、此の完全な世界で、再び彼と目見えますよう———。
輪廻を許されぬ事は判って居た。彼の魂も、自身の魂も全くの無に帰する事も知っている。
しかしそれでも、柔らかな肌の温もりを知って仕舞った彼女は、願わずに居られなかった。
口づけた格好の侭、最早動く事は叶わず、やがて吹き込んだ風が、彼女の一切を散らせて巻き上げた。
彼女其の物である灰は、陽の光を受けてきらきらと輝き、風に乗って獄を巡った後、外の世界に蒔かれて消えた。
かくて完成された世界では、今日も白々しく風が吹き、陽の光が降り注いで居る。


—了—

煉獄より愛を込めて

煉獄より愛を込めて

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-25

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