生き人形

生き人形


 私が生まれたとき、両親は私とそっくりの人形を買ってくれた。



 物心が付いた頃には、もう私の隣にはその子がいた。私は寝るときにはその子の手を握って、私が起きればその子も一緒に起きた。ごはんを食べるときには隣に座り、私がスプーンでその子に食べさせる。母はそれを困ったような顔で見ていた。
 何をするにも、私はその子と離れなかった。その子の名前はユウといった。私は響きのいいその音も気に入っていた。
 ユウは私が話し掛ければ笑ってくれたし、私だけは言葉を話せないユウの言葉が解った。二人はいつも一緒だった。

 私は今年、保育園に入学した。
最初に保育園に登園するとき、私はいつも出掛けるときにそうしていたようにユウの手を握った。すると、母はその私の手をそっとユウの手から離しながら云った。
「アサ、ユウは一緒にいけないのよ。」
 保育園には黄色い帽子と、紺色のスモッグと、お弁当の入った小さな鞄を持って行く。それ以外に持って行くものは、他の園児はない。けれど、私はユウを持って行きたかった。保育園にも、一緒に通いたかった。
「いやだ。アサ、ユウといっしょにいくの!」
 言い聞かせても聞かない私に、母はほとほと困り果てた様子だった。
「ユウがいっしょにいけないなら、アサもほいくえんなんかいかない!」
 ユウから私を引き離そうとする母の手に逆らって、私はユウに抱きついた。ユウはまるで生きているみたいに温かく、そっと私に微笑んでくれている。
「ユウもいっしょにほいくえん、いきたいよね?」
 その悲しげな微笑みに、私は縋る様にそう訊いた。私は確実にユウが「うん、いきたい」と云ったと思った。けれど、母は無理やり私をユウから引き離した。私の腰の辺りを抱える様にして、優しくユウに掴まっていただけの私の身体は、それだけで簡単にユウから離れて行った。
「いい加減にしなさい!」母は突然怒鳴った。
「ユウちゃんは彼方とは一緒に行けないの!
何度云ったらわかるの!」
 母は泣きそうな顔をしていた。私はそんな母を見て泣いた。なぜ、私が行ける保育園にユウが行けないのか、私には理解できなかった。
「アサ、ほら泣かないの。
ショウくんが迎えに来てくれてるわよ。」
 母の袖で涙を拭われながら、私は顔を上げた。母が云ったように、そこには居心地が悪そうに両手をぎゅっと握ったショウちゃんが玄関に立っていた。今日から同じ保育園に通う。私より少し背の低いショウちゃんは、私と一緒に保育園に通うために、開きっ放しになっていたドアから遠慮がちに顔を覗かせていたらしい。
「アサちゃん、いこう?」
 一人で私の家まで、私を迎えに来てくれたショウちゃんを見て、今まで駄々を捏ねていた自分が少し恥ずかしくなった。
 私が俯いていると、ショウちゃんは玄関に入ってきた。
「いってくるからね。まっててね」
 ショウちゃんはユウの頭をぽんと撫でて、ユウの手を握る私の手をそっと握った。まだ涙をこらえてぎゅっと口を閉じていた私の手は、不思議にすっと力が抜けて、汗をかいたショウちゃんの手に収まった。
「いってきます。」
「はい、いってらっしゃい。ショウちゃん、アサをよろしくね。」
 ショウちゃんは私の代わりに母にそう云って、私を引っ張ってくれた。
 少し振り向くと、安堵の表情を浮かべる母の隣に、羨ましそうに笑うユウがいた。



 私は小学生になった。
 小学校には、もちろんユウは連れてきていない。私は少し寂しかったけど、ユウがいなくても私には新しい友達が出来ていた。保育園の入園から一緒だったショウちゃんも同じ小学校に通うことになった。ユウがいなくても大丈夫といえば、それは嘘になるけれど、新しい友達も好きだったから大丈夫。
「アサちゃん、今日はいっしょにあそべる?」
 さようならの挨拶をして、私がランドセルを背負うと、声を掛けられた。新しい友達の一人、トモちゃんはいつもそう訊いてくれる。同じクラスだけど、ちょっと大人っぽい雰囲気のトモちゃん。
「そうだよ! アサちゃんはいつもあそべないっていうんだもん。」
 そう云って頬っぺたを膨らませるのは、小学校に入ってから仲良くなったマキちゃんだ。トモちゃんの後ろから私の机の前に抗議する様に立ちはだかった。
 二人はそう云ってくれるけれど、私は一人、今朝ユウに掛けた言葉を思い返していた。
「ううん。今日は早くかえっていっしょにあそぼうねって、ユウにやくそくしてきちゃったの。だからかえらなきゃ。」
 私が二人の誘いを断ると、二人とも残念という顔をしてくれた。二人はユウに会ったことはなかったけれど、私が毎日のようにユウの話をするから、ユウの事は知っていた。
「アサちゃん、ほんとうにユウちゃんがすきね。」
 トモちゃんが云う。でもマキちゃんはそれでも気に入らないという顔で、帰ろうと横を向いた私に云った。
「ユウちゃんって、お人形なんでしょう? やくそくしたからって、そんなのきっときこえないよ!」
 私はどきっとして息を呑んだ。ぴたりと動きを止めた私に気付いたトモちゃんは「マキちゃんっ」と、諌める様に囁いていた。けれど私は、ぐさりと胸に突き刺さったマキちゃんの言葉を振り払う様に叫んだ。
「聞こえてるもん……!」
 それきり、振り返らずに私は教室を出た。
 何かに追われているかの様に、私は急いで児童玄関に向かって、急いで靴を履きかえた。
 家に入るとユウが出迎えてくれた。私が今朝、家を出た時と同じように玄関にいてくれていた。
「ただいま……!」
 私は堪え切れずにユウに抱きつくと、ユウは間違いなく私にしか聞こえない小さな声で「おかえり」と云ってくれた。絶対、間違いなくそう云った。
「ユウ……ユウ……」
 私はユウの、私より細い身体に顔を埋めて、何度も名前を繰り返した。涙がユウの服に沁みていった。
「どうしたの?」
 ユウは優しく私に聞いてくれた。私は嗚咽の交じった聞き取りにくい声で答えた。
「あのね、ともだちが……マキちゃんが、私がやくそくしたことなんて、ユウには聞こえてないって……、い、いったの……。ユウ、ユウは、聞こえてたよね……? 私がちゃんと、かえってくるからね、っていったの……聞こえてたよね」
「うん。聞こえてたわ。アサがちゃんと、早くかえるからっていったの」
 ほら、やっぱりユウには聞こえてる。
 私は安心して、ユウから離れた。自分の手で涙を拭いて、ユウを正面から見つめた。
「ありがとう」
 鼻を啜りながら、ぐしゃぐしゃな笑顔でお礼を云った。ユウも私と同じ顔で、でも私と違ってぐちゃぐちゃじゃない、いつも通りの綺麗な笑顔で返してくれた。
 翌日から、私は学校で独りになっていた。マキちゃんは、自分たちよりもお人形の方を大切にする私に冷たい視線を送っている。トモちゃんは戸惑いながら、躊躇いながら、そんなマキちゃんに倣っていた。クラスメイトの全員が、私を変な目で見ていた。
 でも、それでもいいと私は思った。
 私には、ユウがいる。ユウだけ、ユウさえいればいいんだ。



 私は中学生になった。
 ずっとユウを大切にしてきた私は、中学生になっても独りのままだった。友達よりも人形を大事にする、そう云って、周りは私を影で嗤っていた。
 でも私は平気だった。他の誰が嗤っていても、私にはショウちゃんがいた。ショウちゃんだけは、私のことを嗤わない。
「ショウちゃん、かーえろ!」
 授業が終わると隣のクラスのショウちゃんを迎えに行くのは私の日課だ。少し前までは私と違って友達の多いショウちゃんに、他の友達と帰るから、と断られることも多かったけど、最近ではほとんど毎日一緒に帰る。少し面倒そうな顔をするけど、仕方ないな、といった調子で私と並ぶショウちゃん。私の方が高かった背はいつの間にか抜かれていて、話すときには見上げなければならなくなった。
「アサ、今日もお前の家に寄っていいか?」
「うん! ユウも喜ぶよ。」
 ショウちゃんは中学に上がった頃から、よく私の家に寄ってくれるようになった。大抵は少し玄関に上がって、玄関で出迎えてくれるユウの頭をぽんと撫でて、帰っていく。ショウちゃんの家に真っ直ぐに帰ればあと五分は早く帰れるのに。遠回りをしてくれるショウちゃんと、五分長く一緒にいれることが嬉しかった。
「ただいまー」
 私が玄関を開けると、そこにはやっぱりユウがいた。優しく、綺麗につくられた笑顔で、「おかえり」と出迎えてくれる。
「ショウちゃんも来てくれたよ、ユウ。」
「ユウ、こんにちは。」
 ショウちゃんがユウの頭にぽんと手を置く。ユウは目を細める様にして「いらっしゃい」と云っているような気がした。私はショウちゃんに頭を撫でてもらえるユウが羨ましかった。
「それじゃあな。また明日学校で。」
「ばいばい、ショウちゃん」
 私はユウの手を使って、ショウちゃんに手を振った。ユウに負けないくらい優しく笑ったショウちゃんは、手を振りかえしてドアを閉めた。
 その視線がユウの方に向かっている気がして、私は胸の中にぽつんと澱みが生まれるのを感じた。



 私は高校生になった。
 受験勉強を必死にこなして、私はショウと同じ高校に入学した。中学校までで終わりにしたくなくて、私はずっとショウの隣にいたくて、どうして自分でもこれだけ必死なのか、その時はわからなかったけれど。
 高校は電車で通う。ショウと同じ時間、同じ電車に乗って行く。また中学の時と同じように一緒に登校できるのが嬉しくて、私はショウが好きなんだと気が付いた。
 いつもと同じ、帰り道。いつもと違う自分の心臓の音を聞きながら、私は自分でもよくショウと会話ができていたなと感心している。それほど私の心臓は五月蠅くて、何度も深呼吸を繰り返した。
「ショウ、今日もうちに来る?」
「あー……そうだな、ユウに会っていくか。」
 高校生になってもショウちゃんは変わらなかった。五分の遠回り。その五分を、私は大事に大事に息をする。
「ユウ、ショウが来てくれたら喜ぶよ!」
 私も、そう云いかけて口は閉じた。想いは言葉にできずに溜まっていく。貴重な五分はあっという間で、私とショウは私の家に着いた。
「ただいま!」
 玄関を開ければユウがいる。相変わらず、ユウは私よりも少し小さくて、細い白い顔は綺麗で、笑ってる。
「こんにちは、ユウ。」
 こんにちは、とユウが笑う。その頭に優しく置かれるショウの大きな手。いつの日か覚えた胸の澱みがつきんと痛む。
「それじゃあな、アサ。」
 ユウに挨拶をして、ショウは帰ろうとした。ユウに一言云うためだけに、ショウはこの家に寄る。そして帰ってしまう。でも、今日だけはだめだ。
「待って、ショウ。」
 私はドアを閉めかけたショウの後を追って外に出た。私の後ろで閉まるドア。俯いた私を見下ろして、ショウが不思議そうな顔をしているのがわかる。
「私、ショウが好き。」
 溜まった想いは許容量を超えて、口から溢れてきた。自分でも驚くほどすっと飛び出た言葉は、目の前の人にすっと入って行ったらしい。顔を上げるのも怖い。
 私の下がった頭の上に、ショウの言葉が振ってくる。
「ごめん。俺、アサはそういう好きになれない」
 私の中に疼いていた澱みが大きく膨れ上がった。
 そのまま、ショウは帰って行った。重たいごめんを繰り返しながら、唇を噛む私の隣から離れて、ショウはもういなかった。
 暗くなって、車が目の前の道路を通る音で私は我に返った。ゆっくりと玄関を開けると、そこにユウはいた。
 どうしたの。細い首を傾げてユウが私を見る。いつもなら愛おしく、可愛く見えるユウの仕草が、私は無性にその細い白い首に手をかけたくなった。膨れ上がった黒い澱みが、私と同じくらいの大きさになって、私を覆った。
「ユウ……」
「なぁに?」
 綺麗なユウの顔。お人形の、作られた白い顔。見つめていると、ショウが浮かぶ。ショウの、ユウを見るときの顔は、私に向けられたことのない気持ちが籠った顔だった。羨ましい。ユウの何もかもが私には羨ましくて、その羨ましいはいつの間に黒く汚れていったんだろう。
私はいつものようにユウに抱きつくことができなかった。つらいときはいつもそうしていたのに。
ショウが好きなのはユウだとわかっていたから。
こんな、お人形に、私は負けたんだ。



 私は人形を抱えていた。
 私と同じ顔、同じくらいの背。でも、その身体は私なんかよりもずっとずっと軽くて、私が抱えられるほどだった。人形はほとんど動かない、真っ赤な唇でどこに行くのと私に訴えかけた。私は何も答えずに、人形を抱えていた。
 何年か前まで通っていた通学路。ユウと一緒に通えなくて、ショウと一緒に通っていた道。今はショウがいなくて、私の腕には人形がある。
 保育園は取り壊されていた。重機が私の思い出の詰まった場所を破壊している。私はそれになりたいと思っている自分に、僅かながらに残っている理性で驚いた。
 辺りは暗く、もう両親は家に帰ってきているだろう。心配しているだろうか。探し回っているかもしれない。早く済まさなければ。
 工事の止まった保育園はしんと静まり返っていた。私はユウを抱えたまま、工事現場に入って行った。保育園のあった場所には、大きな穴が空いていた。暗くて、どれだけ深いかわからない。
 私は人形を見た。
 人形は今までに見た事のない、真っ青な顔で、不安な顔で、私を見つめ返した。その目に映った私の顔は、能面を被ったように無表情で、私は自分が人形になったような気がした。
 私をどうするの、人形の目がそう語っている。
「私には、もうこんな人形はいらない」
 ふっと、腕に込めていた力を抜いた。穴は思ったよりも浅かった。どんっと音がして、また辺りは静かになった。
 すべてが壊れてしまえばいい。
私から友達も、ショウも、何もかも奪って行ったあの人形が壊れてしまえばいい。

 私はすべてを壊して、本当の独りになった。

                        終

生き人形

生き人形

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-21

Copyrighted
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