暗闇の牙 炎の爪

前篇

 [〇一]


 「佑司ぃ、いつまでもノンビリしてないで、仕事始めちゃったらぁ? 」
 キッチンで洗い物をしていた妻の曉燕(シャオイェン)が、夕食を済ませた後もグズグズと食卓を離れようとしない夫を、少し怒ったような口調で追い立てようとする。
 「ああ、そろそろ始めるから急かすなって。」
 丸一日忙しく働き、疲れて帰宅した夫を大して労ることもせず、食後の僅かな寛ぎを許そうともしない曉燕の冷淡な態度に腹を立てながら、佑司はわざと逆らうように食卓に居座り続けていた。
 わざわざ急かされなくとも、さっさと仕事に取り掛かった方が良いことぐらいは承知している。自宅に持ち帰ってきた仕事は徹夜を覚悟しなければならないほどの量だった。
 だが、どうせ今夜は徹夜仕事になるのだから、いつもより一〇分か二〇分ほど余分に寛いでいたところで大差無いと思う。
 (だいたい、お前の親父が我が儘だから、俺の仕事が増えちまうんだろうがよ! )
 曉燕の後ろ姿を見ていると、徹夜の元凶となった姑に対する怒りが込み上げてきた。


 札幌市で不動産業を営む高島佑司(たかしまゆうじ)の姑である曉燕の父はマカオに住む中国人実業家であり、日本国内に於いては電力会社を経営している。
 一〇数年ほど前から、姑は北海道内の彼方此方に点在する消滅自治体や無人化した集落の土地をメガソーラーシステムの用地として再開発すべく、その買収を積極的に手掛けていたのだが、佑司はその手助けをしていた。
 自然再生エネルギーとして二一世紀始めには持て囃されたメガソーラーシステムだが、多数の業者が参入し、見境のない用地の開発が自然環境や農業環境の破壊に繋がったことで、現在は日本国内の企業は自粛の状態にある。未だに開発を続けているのは、日本国内の環境や世論を顧みる必要の無い一部の外資系企業ばかりだった。
 現在のところメガソーラーシステムの開発に対する法的な規制は無いが、地方では電力会社の用地買収に反対する住民は多く、時には自治体ぐるみで阻止行動を取る地域もあったりした。特に、ここ北海道は自然環境と農業生産力を基盤として育ってきた土地柄であり、全国一位の消滅自治体数を抱えながらも、道内各地で行われる土地の競争入札に際しては、その自然環境に対する容赦の無い姿勢を警戒して特定国の電力系企業や土地の再開発を手掛ける企業の参加を除外する場合が多かった。
 ちなみに、姑の電力会社はその特定国の企業に当たるわけで、あらゆる周辺環境に容赦が無いという典型的な企業であり、その評判は非常によろしくなかった。
 よって、本来ならば土地の買収には関われないはずなのだが、佑司の不動産会社が抜け道を与えていた。つまり、姑が目を付けた不動産を代わりに購入し、後に転売するという役目を果たしていたのである。
 正しく詐欺紛いの土地転がしなのだが、日本人の良心とかいうものを捨ててしまえるならば、これほど実入りの良い商売はなかった。
 本国ではカジノやホテルの経営にも携わっているという姑から提供される資金は潤沢だし、身内同士の取引では中国系企業に有りがちな契約不履行や不払いなどのリスクを心配する必要もないわけで、地方のちっぽけな中小企業でしかない佑司の不動産会社など、姑のおかげで成り立っているようなものだった。
 (しかし、あいつは厄介なジジイだ! )
 自分よりも目上に当たる身内の会社を取引先とする場合、それなりの気苦労を覚悟しなければならない。どんなに理不尽な扱われ方をしても我慢するしかないし、不平や不満が積み重なったとしても縁を切るわけにもいかない。
 しかも、姑の場合は自分の持つ影響力の大きさを十分に承知しているから、佑司に対しては常に高圧的な態度で接したし、自社の都合や我が儘を強引に押し付けてくる。
 今日も、大して急ぐ必要がないはずの買収予定地の資料を明朝までに英文に直してメール送信するようにと命令してきた。
 (どうせ気まぐれだろう。もしくは嫌がらせ。)
 そう察していながらも佑司は姑に意見することができず、命ぜられるがまま徹夜で書類と格闘しなければならない。
 (あーあ、面倒臭ぇ! )
 しかし、姑の態度に一々腹を立て、これに逆らうのが無益な行為であることは承知しているし、毎度のことなので既に慣れてしまっていたこともある。
 しかし、どうにも腹に据えかねるのは妻、曉燕の態度だった。
 佑司が曉燕と結婚したのは五年前のこと。
 その半年前に札幌で行われた異業種交流会の場で知人に紹介されて出会ったのだが、彼女の父親がマカオの実業家と知り、佑司は打算尽くで口説いて何とか結婚に漕ぎ着けた。
 商売の面から見れば、この結婚は大成功だったわけだが、曉燕は妻としては到底満足のいく相手ではなかった。裕福な家庭で甘やかされて育ったせいか我が儘で気が強く、実家の力関係を笠に着て佑司を尻に敷こうとしたし、結婚当初は家事をするのも嫌がって、毎日を贅沢に遊び暮らすことばかり考えていた。
 三年前に子供ができてから、生活態度も漸く落ち着いてきて、人並みの母親らしく子育てや家事もこなすようになったが、その性格までは直っていない。
 相変わらず、事あるごとに実家の威光を持ち出してきては仕事に平気で口出しするし、社長である佑司の面目を社員の前で潰すようなこともする。
 姑のスパイ役を務めてもいるようで、佑司の会社の内部情報は殆ど筒抜け状態にされてしまっていたが、彼の仕事ぶりから生活態度まで逐一報告されているらしく、些細な夫婦喧嘩の翌日に姑からの一方的なお叱りが届くことまであった。
 今も、曉燕は姑に命ぜられた仕事になかなか取り掛かろうとしない佑司にイライラしているので、このまま逆らい続けたら、明日あたりに散々悪態を盛られた告げ口がマカオに届けられることだろう。
 (まったく、腹の立つブタだよ。)
 知り合った当時、曉燕の容姿はなかなかに魅力的だと思っていた。
 際立った美人というわけでもないが、化粧映えする顔立ちと金の掛かったメイクのおかげで随分と男の目を惹き付ける女だったし、細身だがメリハリのあるプロポーションはモデル並みに美しく、その抱き心地は最高だった。
 曉燕の性格の悪さについては知り合って直に分かっていたが、佑司は曉燕を裸にして、その胸や尻を思いのままに弄べるということだけで、その欠点が相殺できているような気がしていたほどだった。
 しかし、今は見る影も無い。
 まだ三〇歳前だというのに、子供を生んでからブクブクと太り始め、ろくに化粧もしなくなり、髪の手入れも怠るようになった。
 (ブタめ! )
 いつの頃からか佑司は内心で妻を蔑むようになっており、夫婦の夜の営みは義務を超えて苦痛でさえあり、曉燕に求められることを恐れるようになってもいた。
 だが、今日は幸い仕事を持ち帰ってきているので相手をさせられる心配は無い。
 姑が突き付けてくる要求は常に面倒が多く手間の掛かる仕事だが、曉燕と寝なくて済むという点に関して言えば彼の我が儘に感謝しなければならないと思っていた。
 「パーパァ。」
 曉燕の小言も聞き飽きてきたし、ぼちぼち仕事に取り掛かろうかと重い腰を上げかけた時、今までベランダに面したリビングの窓に張り付いて何やら熱心に表を眺めていた三歳になる一人息子の寿樹(としき)が駆け寄ってきて佑司の片足に縋り付いてきた。
 「おっとっとぉ! 」
 佑司は寿樹の大して強くもない力に抗いもせず、わざと押し負けたような格好を見せながら、立ち上がり掛けた食卓の椅子に微笑みながら押し戻されてやった。
 曉燕に対する愛情が薄れた分、佑司は寿樹を溺愛している。
 元々子供好きだが、曉燕との間に二人目を作る気になれない以上、これから先も唯一の我が子となるに違いない寿樹に愛情の全てを注ぎ込むことにしていた。
 この後の仕事さえなければ、せっかく跳び付いてきてくれた寿樹とこのまま遊んでやりたいところだったのだが、さすがにそこまでの余裕は持てなかった。
 「パーパァ、クマちゃん、クマちゃん連れてきてぇ。」
 寿樹は、その愛くるしい瞳で真っ直ぐに佑司を見上げ、彼の仕事の都合などお構い無しに絡んでくる。その誘惑に耐えて、この場をやり過ごさなければならないことに、佑司は軽い息苦しさを感じていた。
 「クマちゃんは自分で連れておいでぇ。ほら、さっきまでトシちゃんのお部屋のベットの上にいたっしょ。」
 昨年のクリスマスに大きなテディベアのヌイグルミをプレゼントしたのだが、寿樹はたいへん気に入ってくれた。しかし、子供のことなので家中を持ち歩いては忘れて置き去りにしてしまう。
 「クマちゃんねぇ、トシちゃんが構ってくれないから、今頃、寂しいようって泣いてっかもしんないぞぉ。」
 佑司は自分の片足を抱きかかえて離さない息子の頭を撫でてやった。
 「ちぃがーうぅ、ホントのクマちゃん。ホントのクマちゃん連れてきてぇ。」
 寿樹はテディベアの話をしているわけではないらしい。
 「ホントのクマちゃんって? 」
 図鑑かインターネットの画像でも見て憶えたのだろうか?
 そういえば先週、ペットショップの前で子猫が欲しいと言って駄々をこねたことがあったが、曉燕がアレルギー体質なので代わりにヌイグルミで我慢するようにと諭したら、ホントの子猫じゃなければ駄目だと言い張って、諦めさせるのに苦労した。
 子供も三歳にもなれば、ヌイグルミと本物の違いぐらい分かってくるので誤摩化しが効かなくなるのだが、さすがに本物のクマちゃんを要求されても困る。
 「ええーっ、ホントのクマちゃんは動物園に行かなきゃいないしょ。パーパはこれからお仕事だから動物園はまた今度行こうねぇ。」
 無下に突き放すのは可哀想なので、近々市内の動物園にでも連れて行ってやろうと持ち掛けてやったのだが、いつもは聞き分けの良い寿樹が、どういうわけか今でなければ駄目だと言い張った。
 「どうぶつえんじゃないのぉ。おんもにいるクマちゃんのぉ。」
 おそらく「おんもにいるクマちゃん」とは野生の熊のことだろう。
 あんまり無茶言ったら駄目だよと言いながら、佑司は「よいしょ! 」と、大きな掛け声をかけてから寿樹を抱き上げた。頭の上まで持ち上げて二、三度揺すってやると嬉しそうな悲鳴を上げる。
 「動物園じゃないクマちゃんは、もう少し暖かくなるまで寝んねしてるからねぇ。来月ぐらいに暖かくなったらお山にピクニックに行こう。そしたら会えるかもねぇ。」
 適当なことを言って寿樹をあやしながら佑司は苦笑した。寿樹には悪いが、本物のクマちゃんと山で遭遇するような目には遭いたくない。
 リビングのソファの上にゆっくりと着地させられながら、寿樹が首を傾げた。
 「ねんねぇ? してないよぉ? おっきしてるよぉ。」
 と、納得できていない様子だった。
 (まあ、熊が冬眠するなんて知らないかぁ。)
 せっかくだから冬眠する生き物について教えてやろうかと思ったのだが、今は時間を掛けていられそうもないので、また今度にすることにした。
 (そういや、熊って何月まで冬眠してるんだ? )
 そういう細かなところは自分も良く分かっていない。
 もう三月も末なので、ここ北海道でも春が来たと言えないこともなかった。
 未だ夜は暖房器具が必要なほど寒いが、日中はプラス二桁の気温が続いているので実は冬眠という季節ではないのかもしれない。
 (子供に曖昧なことを教えちゃうのも不味いしなぁ。)
 自分がキチンと勉強してからでないと寿樹に教えてやるわけにはいかないなどと思いながら仕事部屋へ向かおうとする佑司を、洗い物を終えてキッチンから顔を出した曉燕が呼び止めた。
 「ちょっと佑司ぃ、ベランダのカーテン閉めてくれる? 」
 家中の窓のカーテンは日が暮れた際に全て閉めてしまっていたのだが、寿樹が表を見るのだと言い出して、いつの間にかベランダに面したリビングの窓のカーテンは全開にされてしまっている。
 「ああ。」
 佑司は無愛想に応えながら窓のカーテンを閉めに向かおうとした。
 「マーマァ、しめちゃ、ダメぇ! 」
 寿樹はソファから飛び降りると、佑司を押し退けてベランダの窓に駆け寄った。
 「お部屋明るいんだからカーテン開けっ放しにしてちゃ、お外から丸見えでしょ! 」
 「いいのぉ! 」
 曉燕が叱ったのだが、窓に張り付いた寿樹は言うことを聞かない。
 「うちを覗いてる奴なんていないから大丈夫だよ。好きにさせてやりな。」
 佑司は曉燕に一声掛けると、さっさとカーテンを諦めてリビングの隣にある仕事部屋へと向かった。
 そもそも、ここはマンションの二階なのでカーテンを開けっ放しにしていても通行人に覗かれる心配は無い。向かいに並んだマンションからなら覗けるだろうが、寿樹が飽きるまでの短い時間ならば、それほど神経質になるほどのことではないと思う。
 「でも、トシちゃん。いつまでもお外覗いてたらダメよぉ。」
 曉燕も寿樹の機嫌を損ねたくなかったようで、今直ぐカーテンを閉めるのは諦めたようだった。
 「さてと、仕事を始めるか。」
 佑司は仕事部屋として使っている三畳の洋室に入り、ワーキングデスクに置かれたデスクトップPCの電源を入れて、その起動を待っていた。
 「くぅーまぁーちゃーん。」
 唐突に、リビングから寿樹の間の抜けた大きな声が聞こえてきたので思わず吹き出してしまった。
 続いて、小さな手がバンバンとガラス窓を叩く音がする。
 「トシちゃん、やめなさいって! ガラス割れたらどうすんの! 」
 寿樹は曉燕の言うことを、なかなか聞こうとしないらしい。
 (いいそ! もっと頑張れ! )
 佑司は、寿樹を内心で応援していた。
 間もなくPCが起動したので、引き続き書類の保存されたメディアカードをスロットに差し込んでダウンロードを始めたのだが、
 「こらっ! よーしきーっ! 寒いんだから窓開けちゃダメっ! 」
 今度はリビングでバチンと窓のロックが外れる音が鳴り、ガラガラとアルミサッシを開ける音が聞こえてきた。
 (うっるせーなぁ。)
 寿樹が曉燕を困らせるのは楽しいが、もう少し静かにしてくれないと気が散って仕事を始められない。
 「ちょっとぉ、裸足でベランダに出ちゃダメでしょーっ! 」
 曉燕が悲鳴のような声をあげて寿樹を叱りながら、大慌ててベランダに駆け付けたようである。
 「クマちゃんとぉ、あそぶのぉ! 」
 寿樹の抵抗は尚も続いている。
 (それにしても、あいつ、未だクマちゃん言ってんのか? )
 いつに無い頑固さが少し気になったのだが、
 (ん? )
 妙な音がする。
 ガリガリと何かを引っ掻くような音と共に、ミシミシと床や壁が振動し始めた。
 さらには、フゴフゴとまるで獣が鼻を鳴らすような音もする。
 (なっ、なんなんだ? )
 佑司が身動きを止め、耳を澄ませた途端、
 ブウォーッ!
 心胆を震え上がらせるほどの凄まじい咆哮が聞こえたと同時に、隣のリビングで窓ガラスが一斉に爆発してしまったかのような騒音が轟き渡った。
 「ギャーッ! お願い! やめてぇ! 」
 これは曉燕の悲鳴?
 佑司は、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
 「どうした曉燕! 今のは何だっ? 」
 そう叫びながら大急ぎで仕事部屋を飛び出し、リビングに戻ってみると、ホンの数分前まで平和な食後の団らん風景があったはずの空間は恐ろしい惨状に変わっていた。
 窓際に並んでいた家具や電化製品は全て薙ぎ倒され、床には粉々に飛び散ったガラスと千切れたアルミサッシの残骸が散乱していた。
 「なんだ、こりゃ? 」
 何が起こったのか分からずに呆然と立ち尽くす佑司の耳に、弱々しい曉燕の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
 「うぐぅ、たぁ・・・す・・・けぇてぇ・・・ぐふぅ・・・ 」
 恐る恐る声がする方向に目を向けると、そこに妻の姿は見えず、代わりに軽乗用車ほどの大きさをした黒い塊があった。
 (な! なんだこれ? 動物? )
 破壊されたベランダの窓から侵入してきたと思われるその塊は、LEDの室内照明に照らされたリビングの中央で、モゾモゾと蠢きながら何やら不気味な音を立てていた。
 ブツブツと布を引き裂くような音、ペキパキと小枝が折れるような音、そしてペチャペチャと湿った咀嚼音・・・
 「ううっ・・・ぐうっ・・・ 」
 それは曉燕の激しい苦痛に喘ぐ声だった。
 「シャ、曉燕・・・? 」
 佑司は黒い塊の下敷きになっている妻の姿を見つけた。
 曉燕は髪を振り乱して腹這いになり、身動きできないほどの途轍も無く強い力で床に押さえつけられている。
 時々、黒い塊が曉燕の身体に覆い被さるようにしては彼女の一部を引き千切っていた。
 肉が引き剥がされ、骨を砕かれ、内蔵を毟られ、その度に曉燕の口から苦しげな呻き声が漏れ聞こえてくる。
 床のフローリングには、彼女の身体から吹き出した赤黒い血の溜まりがジワジワと広がっていた。
 「どっ、どういうこと? な、なんなのこれ? 曉燕・・・トシちゃん・・・ 」
 喉の奥から絞り出す佑司の声が震えていた。
 「ゆ・・・じぃ・・・たすけ・・・ 」
 曉燕の呻き声を聞いているうちに佑司の頭の中が真っ白になってしまった。
 (ま・・・待ってろ・・・助けてやる・・・ )
 無意識に背後を探っていた手が固い棒状の物体を掴んだ。
 「このやろぉ、離せっ! 曉燕を離せって言ってんだよぉ! 」
 大嫌いだったはずの妻を助けるため、必死の佑司が振りかぶったのは、細くて華奢なゴルフのパタークラブ。
 それを力一杯握りしめると黒い塊目掛けて振り下ろした。
 ボン!
 鈍く空しい音がして、パタークラブは固くて弾力のある手応えによって弾き飛ばされてしまった。
 佑司の放った一撃は黒い塊に何のダメージも与えられなかった。
 しかし、怒りを覚えさせる役目だけは十分に果たしていたらしい。
 黒い塊は佑司の目の前でゆっくりと上体を起こした。
 半立ちになっただけで天井を突き破るほどの高さを持つ巨体。左右に大きく広げた電柱ほどに太く見える強靭な前足と、その先に見える五本の獰猛な鉤爪。そして、曉燕の血に塗れた鋭い牙の並んだ口。
 佑司は、その巨体が発する圧倒的な恐怖を前にして足が竦み動けなくなっていた。
 (どうして? 逃げれば良かったのに・・・ )
 曉燕を置き去りにして、自分だけが助かろうと思ったのなら逃げられたかもしれない。
 (あんな最低なブタ女のために、何で俺が死ななきゃならん? )
 そう思っているはずなのに、何故か身体が勝手に動いて、大嫌いなはずの女を助けようとしてしまった。
 (わけが分からん! )
 もはや後悔しても遅すぎるのだが、
 (トシちゃんは? 寿樹はどこにいるっ? )
 愛する息子の姿は何処にも見えなかった。
 小さく非力な寿樹は、既に蹂躙されてしまったに違いない。
 (寿樹がいないなら、もう俺なんかが助かっても意味が無いや・・・ )
 自らの死を前にして涙が止めども無く溢れてきた。
 ブヴォーッ!
 巨大な蒸気機関が発する音に似た咆哮がマンション中を震わせ、鉤爪が一閃した。
 佑司の意識は途絶え、彼の肉と血がリビングに飛び散っていた。


 [〇二]


 三月二七日、木曜日、時刻は午後一一時半過ぎ。
 札幌市中央区、ススキノにほど近い路地の中にある小さなラーメン屋のカウンター席に腰掛け、吉良義人(きらよしと)は一人で餃子と搾菜を摘みにしながらビールのジョッキを抱えていた。
 ガイドブックにも載っておらず、あまり立地条件も良くなさそうで、一見して薄汚れた地味な店であるにも関わらず、ここは割と繁盛しているラーメン屋らしい。
 一杯帰りのサラリーマンや水商売風の女性が引っ切りなしに出入りしているので、義人が訪れてからの小一時間、十五席ほどしかない狭い店内は、ずっと満席が続いていた。
 共に六〇代と思われる旦那さんと奥さんの二人で切り回している店のようだが、調理はもっぱら旦那さんが一人で担当しており、奥さんはそのお手伝いという感じだった。
 只今の時間は二人とも大忙しなのだが、共に客遇いが上手であり、義人のようにダラダラと長居する客にも愛想良くしてくれて、決して席を空けたいからと追い出すような真似はしないので大層居心地が良かった。
 店の奥の壁には年代物の液晶テレビが嵌め込まれていたが、その油で茶色く変色した画面でローカルニュースが流れている。
 『今日、午後七時頃、札幌市白石区南郷にあるマンション二階、高島佑司さん宅が何モノかによって襲われ、高島佑司さん三七歳と妻の曉燕さん二九歳の二人が死亡いたしました。ベランダから転落したと思われる三歳になる息子の寿樹ちゃんは病院に運ばれたところ幸い軽傷とのことです。同じマンションの住人から、大きな物音と羆のような動物を目撃したとの証言がありましたが通報を受けた白石警察署員が到着した時には既に・・・ 』
 先ほどからテレビを見ている客は義人だけ。他の客は連れと雑談したり、タブレットPCや携帯通信端末を弄っている。
 義人も別にローカルニュースなどに興味は無いのだが、他にすることも無いので漠然と眺めているだけだった。
 「札幌ってさぁ、街ん中でも羆出るんだね。」
 空になったビールのおかわりを頼みながら、目の前で餃子の餡を捏ねていた奥さんに話し掛けると、
 「なーに馬鹿なこと言ってるの! 羆なんて街中に出るわけ無いっしょ! 」
 と、思い切り否定された。
 「んじゃ、白石区って山ん中にあるの? 」
 「冗談! あたしらも白石だけど普通に街だってぇ。山なんて何処にも無いべさ。きっと、何かと見間違えたんだぁ。」
 いったい羆と見間違えられる何かって何だろう? と首を傾げながら、手元に置きっぱなしになっていた自分のタブレット型携帯通信端末を取り上げ、試しに札幌市の地図を開いてみた。
 「あ、ホントだ。白石って街の中なんだねぇ。」
 「でしょう。西区や南区の方なら出るかも知んないけど、白石まで羆がやってくるには街のど真ん中通って来なきゃなんないから無理だよぉ。ねぇ、お父さん。」
 隣で丼を並べていた旦那さんに話を振ると、
 「当たり前だ! 」
 と、笑って返された。
 「お兄さん、こっちの人じゃないね。何処から来たの? 」
 大きな柄杓で並べた丼にスープを注ぎながら旦那さんが訪ねてきた。
 「東京。」
 「ああ、東京から来たのかい。仕事で? 」
 「いや、旅行。俺、学生だから。」
 「大学生? 何年生? 」
 「うん、この春で三年生。」
 「したっけ春休みだぁ。そっかぁ、いいねぇ。でさぁ・・・ 」
 さらに旦那さんが会話を続けようとしたら、
 「はーい、中ジョッキおかわりねぇ。」
 奥さんがビールのおかわりを運んできた。
 お礼を言って受け取っていたら、いつの間にか旦那さんは他の客と談笑を始めており、義人の会話の相手は速やかに奥さんにバトンタッチされてしまった。
 ラーメンを作る合間の客足来も大忙しである。
 だからと言って、こちらがぞんざいに扱われた気もしないし嫌みも感じないのは二人の人当たりの良い性格のおかげだろう。
 「兄さん、スキーかい? 」
 奥さんは再び餃子の餡を捏ねながら聞いてきた。
 義人が椅子に引っ掛けていたスキーウェアのジャケットを見て、そう思ったのだろう。
 確かに、今回の旅行はスキーが目的である。
 荷物がかさ張っては嫌なので防寒具を持ってきておらず、市内を歩く際にはスキーウェアを上着代わりに着ていたのだが、
 「いやぁ、スキーのつもりだったんだけどねぇ。」
 義人が困ったように苦笑いしたら、そのわけは奥さんが直に察したようである。
 「あはは、今頃は雪なんて何処にも無いべさぁ。」
 「そうなんだよねぇ。」
 札幌やその近郊には有名なスキー場が沢山あると聞き、仲間に誘われるがまま訪れてみたら、三月半ば以降の道内スキー場は札幌近郊どころかニセコまで積雪無しの滑降不可。ホテルで滑れるスキー場は無いのかと訪ねたら大雪山の朝日岳まで行けと言われたが、そこはとても札幌から日帰りできる距離ではなかった。
 「本州の人は、今でも北海道は年中寒いと思ってるかも知んないけど、そんなのは今世紀の始め頃までの話だってぇ。私らが子供の時分は、今ぐらいの季節でも札幌市内には未だ雪が残ってたほどだけどねぇ。今じゃ市内で雪が積もるのは一月と二月ぐらい、それも時々薄らとだよ。何てったって冬でも大雨振るぐらいだからねぇ。」
 よくよく考えてみれば当たり前のことだった。
 今は二一世紀も半ば、温暖化が進んだ北海道では冬に天気予報を見ても雪マークなど滅多に見なくなっていたし、札幌などの都市部では真冬に大雨洪水警報が出されているニュースを度々見たことがある。夏にはミカンやお茶の栽培が始まっている北海道を昔からの既成概念で捉えてはいけなかった。
 「よく調べないで企画した奴がいるんだよねぇ。」
 今回の「北海道スキー旅行? 」を企画したのは、大学で同じ学部に所属する義人の友人たち男子チームだった。
 (あいつら、事前取材が甘いんだよ。)
 何も考えずに友人たちの企画に乗っかってしまった義人には何も言う権利など無いのだが、近場にスキー場が無くなってしまった東京では滅多にできなくなったウィンタースポーツを楽しみにしていただけに結構悔しい。
 (奴らにとっちゃ、スキーなんて二の次だったんだろうけどさ・・・ )
 男子チームのお目当ては、旅行に参加する女子チームの勧誘にあったわけだ。
 現地に到着してから直にスキーは無理と分かっても、彼らは一切凹むことが無い。観光と称して、毎日女子チームを引き連れて親睦を深める活動に励んでいる。することが無いので義人もこれに付き合ってはいたが、不満たらたらだった。
 (そもそも、最初から彼らはスキーをする気があったのか? )
 板を持参してきた男子チームは七人中で義人だけ、あとは女子チームで六人中二人。
 (馬鹿馬鹿しい、最初からナンパ目的だったんじゃねぇの! )
 義人は、心中で何度も舌打ちし、嘆息していた。
 「なーに言ってんのよ! 大学生としちゃ、あんたよりも友達の方が健全だわ。」
 これは昨夜の東京の実家に宛てた音声通信で愚痴をこぼした際の姉、恵子の反応。
 「せっかくのチャンスなんだから、彼女の一人ぐらい作ってきなさいよっ! 」
 「彼女なんて要らねーし・・・ 」
 義人は姉のお節介な発言に不貞腐れた声で返した。
 「いつまでも、そんなことばっかり言ってちゃダメでしょ。そのうち三次元の女子を相手にできなくなって、二次元に走っちゃったりするんじゃないの? そうなったら姉ちゃんは姉弟の縁きっちゃうからね! 」
 「そんなんじゃねぇよ・・・だって、俺は! 」
 そこで、義人は言葉を飲んだ。
 その後、姉は義人の愚痴を笑い飛ばし、一方的に自分が言いたいことだけを言ってから通話を切った。
 (ちぇっ、姉ちゃんは何も分かってないし。)
 分かるはずが無いし、分かってもらいたくも無いことがある。
 姉は気づいているのかどうか知らないが、親しい友人たちの間では義人は重度のシスコンと認識されている。
 義人は、それについて指摘されることがあっても決して否定はしない。
 (だって、実際に惚れてるっぽいし。)
 十分に自覚しているのだ。
 義人は子供の頃からいつも一つ年上の姉、恵子の後ろを追い掛けていた。
 惚れたのは思春期以降のことだと思うが、それ以前には尊敬し、憧れの対象だった。
 義人の実家である吉良家は、江戸時代から続く由緒ある剣道場を経営している。
 現在の道場主は祖父だが、既に還暦を過ぎた高齢であり、警察や国防軍の指導に携わったり、剣道協会やら日本文化の保存協会やらの役員などを務めているので、自分の道場で指導に関わる暇が少なく、次代の主を求めていた。
 本来ならば、次の道場主は義人と恵子の父がなるべきなのだが、この父が親不孝であり師範代まで務めながら道場を継ぐのを嫌がって外務省に就職し、数年前に妻を伴って子供二人を祖父母のもとに置き去りにして海外へ逃亡してしまった。今はパリの大使館で勤務しているというが、祖父によって勘当状態にされてしまっている。
 当然、お鉢は孫に回ってくる。
 姉弟には幼い頃から徹底した剣道の英才教育が与えられた。
 その結果、義人は英才教育の甲斐も無く、人並みに毛が生えたほどしか成長しなかったのだが、姉には元々センスがあったのだろう。祖父の指導のもとで剣道の腕はメキメキと上達して、中学を卒業した頃には道場内で大人の男性を相手にしても全く引けを取らないほどの腕前になっていた。さらには、祖父が剣道の片手間に教えていた合気道の方でも優れた素質を見せ、いつの間にか祖父以上の実力を発揮するまでに至っていた。
 そういうわけで、道場の跡取りは姉に決定済みである。
 (しかも、美人ときてるから、爺ちゃんにとっちゃ目の中に入れても痛く無いほどの自慢の孫娘だよねぇ。)
 まったく、姉は厄介なほどの美人だった。
 身長一七三センチ、スリムでモデル並みの体型をしている。目は大きく切れ長、スッキリと通った鼻筋、形の良い唇と多少上がり気味の口角、ショートカットの似合う小顔。
 その美しさと言ったら、傍で一緒にいると姉弟であるにも関わらず義人がときめきを感じてしまうことも屢々で、うっかり寝顔でも見てしまおうものなら、後先考えずに抱きしめてキスしてしまいたい誘惑に駆られるほどだった。
 あえて難点を挙げるならばAカップの胸と子供っぽく小さなお尻ぐらいだろうが、これは人それぞれの好みの問題である。
 (でもねぇ、闘争心を育て過ぎた挙げ句に、ベタ可愛がりするから性格だけは残念に育っちゃってるよねぇ。)
 弟の義人にとっては気になるほどでもないことだが、姉の性格についての世間の評価は芳しく無い。
 その気の強さはハンパ無く、超が付くほどの負けず嫌いである。
 自己主張が強過ぎて相手構わず持論を盾にやり込めてしまおうとするが、人の欠点を見抜く目が鋭すぎて、本能的に攻撃したくなるのだろう。近頃は自粛しているようだが、かつては口で負けそうになったら最後には暴力で解決しようとすることもあった。
 義人は子供の頃から、姉の前に屈する特に男子を大勢見せられてきたが、中には告ってきた相手を打ちのめしてしまったという可哀想なケースもあったと聞く。
 そんなわけなので、姉の容姿に釣られて寄ってくる男は数多くいるが、その性格に直面した途端、皆が逃げ去ってしまうらしい。
 (まったく、俺に彼女がいないとか、よく言うよ。)
 反面、人情家であり世話好き、長幼の序はキチンと守るし、何事にも几帳面な性格のおかげで先生や目上の者の評価は非常に高く、同性の受けは非常に良好である。
 こうした姉を一言で形容するならば、「お侍さん」という言葉が相応しいと思う。
 「ヨッシーは、どんな女が好き? 」
 こんな会話が友人と交わされる時、高校生ぐらいまでの義人は、
 「理想のタイプは姉ちゃん。但し性格は除く。」
 恥ずかしげも無く、そんなことを口にしていた。
 近頃は、さすがにシスコンが世間的に低評価であるということを知りつつあるので、
 「千葉佐奈子。」
 と、答えるようにしている。
 北辰一刀流の創始者である千葉周作の姪「千葉佐奈子」は、幕末から明治に掛けての有名な女性剣士であり、北辰一刀流免許皆伝、長刀師範、しかも「千葉の鬼小町」と呼ばれるほどの美人だったという女傑である。
 義人にとって「千葉佐奈子」は、姉のイメージをそのまま置き換えたような女性だったので、シスコンのカムフラージュをするつもりで答えるのだが、普通に同級生女子やアイドルの名前を意図した友人ならば「千葉佐奈子」などというお堅い答えを聞いた途端に引いてしまう。
 まあ、義人を良く知っている友人ならば爆笑した挙げ句に、
 「それって、お前の姉ちゃんだろ。このシスコン野郎め! 」
 と、簡単にカムフラージュを見破ってしまう。
 (まあ、良いんだけどさ。)
 シスコンとは言われ慣れてるので、別に心が痛むとかは無い。
 (いくらなんでも、俺だって姉ちゃんと結婚したいとか、エッチしたいとか恐ろしいこと考えてるわけじゃないし、そのうちに姉ちゃんよりも良い女の子が見つかればシスコンだって治るさ。)
 義人は、自分が設けたハードルの高さが如何程のものかキチンと自覚できていなかったかもしれない。今回の旅行で六人も集まった女子チームの中には、ハードルを越えてきそうな子は一人もいなかった。そこそこ可愛い子はいたのに残念なことである。
 義人の見た目は悪く無い。
 姉が美人なのだから弟もそれなりの容姿であり、身長180センチの引き締まった体格は女子にモテる十分な素質を備えている。
 だが、その性格というか女性に対する志向が残念なのだからどうしようもない。
 始めは寄ってきた女子チームのメンバーも、自分がお呼びでないという雰囲気を察して早々に離れてしまっていた。
 (別に関係無いし。)
 それが、何の痛手にも感じられなかった。
 義人たちが札幌市内のビジネスホテルに宿泊して既に三日目。
 今夜も友人たちはススキノの夜を満喫している。
 門限無しの終電無し。
 旅行先でガードの下がった女子を熱心に口説いていることだろう。
 「俺、体調悪いから先に帰って寝るわぁ。」
 今夜の一件目に皆で入った居酒屋を出てから二件目に移動しようというところで、義人は友人たちのテンションに付き合いきれなくなって失礼することにした。
 友人たちは、そんな義人を快く見送ってくれた。
 (それにしても、メンツが男七人の女六人って、あいつら最初っから俺を計算に入れてなかったんだろうな。)
 心得たものである。
 今回の男子チームは、皆が義人のシスコンを知っている者ばかりである。
 義人を仲間外れにするつもりで女子を六人しか集めなかったわけでもないだろうが、女子が六人しか集まらなくとも義人を数に入れなければ問題ないぐらいには考えていたはずである。
 (俺は構わんよ。)
 テンションの上がった男女と同じ空間に長居するよりも、一人でビールを飲んでいた方が落ち着いて良い。
 それに、明日は東京に帰るのだ。
 友人たちはラストスパートが掛かっているだろうから、ここで一人だけテンションの違う義人が気を利かせて抜けてやるのも友情だと思っていた。
 「はい、味噌チャーシューの大盛り、お待ちっ! 」
 少しの間、ボンヤリとしていた義人の目の前に、旦那さんの元気の良い掛け声とともに美味そうな匂いをさせる大きな丼が置かれた。
 「チャーシューは厚切りでオマケしといたから! 」
 そう旦那さんに言われて、お礼を言った義人だが、
 (モヤシがテンコ盛りになってるから、チャーシューや麺が見えないぞ。)
 とても寝る前に食べる量では無いかもしれないと焦った。
 (でも、めちゃくちゃ美味そうじゃん! )
 義人はレンゲをモヤシの下に差し込んでスープを一口啜り、同じくモヤシの下から麺を引き出して口に運んだ。
 「美味しい! 」
 繁盛しているわけだった。
 濃い味に仕立てた味噌のスープ、コシのある縮れた太麺。これを食べられただけで札幌に来て良かったと思えるほどの味だった。


 [〇三]


 三月二八日、金曜日、〇時半過ぎ。
 ラーメン屋を後にした義人は、あても無いままに夜の散歩中である。
 今夜、飲み過ぎてはいなかったが食べ過ぎていたので、これは腹ごなしの散歩である。
 (すごい量だったなぁ、あのラーメン・・・美味しかったけど。)
 何となく大盛りを頼んだのだが、出てきたのは麺にして二玉以上もある倍盛り。さらには、五枚乗っかっていた掌ほどの大きさのチャーシューは全て厚切りで、極め付きは大量のモヤシ。とても夜食と言えるようなレベルではなかった。
 既に友人たちと居酒屋で飲み食いしていた後だったし、ラーメン屋に入ってからも餃子を二皿と搾菜、ビールの中ジョッキを五杯ほど腹に入れていたので、かなりの食べ過ぎ状態である。
 (このまま寝ちゃったらブタ間違い無し! )
 腹が落ち着くまでブラブラしていた方が良いと思った。
 (・・・寒いけどね。)
 三月と言えば暦の上では春。
 既に本州では青森まで桜も咲き終わっているが、ここ札幌では未だ冬の余韻を残しており、空は雲に厚く覆われ、風が冷たい。街頭温度計には八度と表示されている。
 酒が入っているから良いようなものの、ネルシャツの上にスキーウェアのジャケットを羽織っただけという軽装で街を歩くのは、寒さに慣れていない東京人にとっては厳しい気温である。
 (ちょっと一休み。)
 おそらく宿泊先のホテルからは四、五丁ほども離れているだろうか。
 札幌駅からススキノを通り越して中島公園まで一直線に続く大きな通りの途中に小さな川が流れているが、そこに掛かった橋の鉄製の欄干に凭れて一息つくことにした。
 背負っていた全財産入りのリュックサックを一旦足下に置き、辺りを見回す。
 (カモカモ川なんて、変な名前。)
 橋のたもとに川名のプレートが貼り付けてあったが、京都の鴨川を悪戯したような冗談みたいな名前だと思った。
 (北海道って妙な語感の地名が多いから、今更驚くことも無いかぁ。)
 欄干から橋の下を見下ろすと、カモカモ川の流れは穏やかで、暗くて良く分からないが水量はそれほど多くは無さそうである。時々、水面に赤い色をした魚の背が薄らと浮かんでは消えていたが、緋鯉でも放しているのだろう。
 (みんな、未だ遊んでんのかな? )
 別行動になった友人たちのことが少しだけ気になった。
 始めは気にしていなかったが、こうして一人になって知らない街の橋の上などに佇んでいると多少寂しくはある。
 (まあ、いいけどさぁ。)
 義人は、ぼんやりと川沿いの風景に目を移した。
 ホテルにマンション、病院にヘアサロン、統一感の無い建物が川の両側に並んでいた。
 人通りは無く、街灯も少ない。ホテルの電飾看板とマンションのエントランスの照明が建物の存在を黒く浮かび上がらせている静かな風景だった。
 義人は川沿いを視線で辿っていたのだが、その動きがふと止まった。
 (なんだ、あれ? )
 義人から見て川の右岸、三〇メートルほど離れた位置にあるホテルの手前に大きな黒い塊が見えた。軽乗用車ほどもある丸くて大きなそれは、よく見ると動いている。
 (ここからじゃ、何なのか分かんないな。)
 車でもないし、もちろん人でもない。謎の黒い物体である。
 正直言って、どうでも良いことなのだが、何となく気になった。
 どうせ散歩中なのだから、確かめに行くぐらいしても良いと思った。
 義人は足下に置いていたリュックサックを再び背負い、カモカモ川沿いの道を黒い塊のある方向へと歩いて行った。
 (え? でかっ! )
 一〇メートルほどの近距離まで近づいてみて分かったのだが、その黒い塊は軽乗用車ではなく軽ワゴン車ほどのボリュームがあった。
 そして、それは巨大な生き物が、こちらに尻を向けた姿であることも分かった。
 (・・・何の音だ? )
 その生き物が立てている音のようだが、ブツブツと布のようなモノを裂く音、ペキパキと小枝を折るような音、ペチャペチャと湿った音もする。
 その場で足を止め、暗闇に目を凝らすようにして生き物の陰を覗き込んだ義人は、
 「ぐうっ! 」
 と、呻き声を漏らした。
 義人の目に飛び込んできたのは長い髪を振り乱し、横倒しになった人間の頭だった。
 その頭に身体は付いていない。
 頭だけが切り離されて転がっていたのである。
 一瞬、マネキンの頭部ではないかとも思ったが、首から繋がった剥き出しの頸椎が見えたので、それが間違いなく生首であると確信した。
 しかも、その頭と周囲の地面は、ホテルの電飾看板の光を反射してドロリと黒く光る液体に塗れていた。
 (血だ! 血だ! こいつ、人を喰ってる! )
 義人は、瞬時に目の前にいるモノの正体に思い当たり、同時に全身の血が音を立てて引いて行くほどの恐怖に襲われていた。
 「ひっ、羆ぁーっ! 」
 思わず声に出てしまった。
 人通りの無い深夜の川沿いで、義人の声は数丁先まで響き渡るほどの大きさだった。
 ブフッ、ブフォッ!
 まるで、壊れたチューバを無理矢理吹き鳴らすような鈍い鳴き声をあげながら、羆はその巨体を半回転させて、義人を振り返った。
 (しまった! )
 慌てて口を押さえたが遅かった。
 どうやら羆は、義人を食事中に突然現れた排除すべき侵入者と理解したらしい。
 ブウォーッ!
 腹の底を振動させるほど低く大きな咆哮を轟かせると、羆は後ろ足で立ち上がった。
 (でかいっ! )
 義人は動物園で羆を見たことはあったが、せいぜい二メートル前後の体長だったとの記憶が残っている。だが、目の前に立ち上がった羆は頭の天辺まで有に三メートルを越える高さがありそうだった。
 「怪獣! 」
 そんな言葉が相応しく思えるほどの巨大羆だった。
 今、義人と羆の間には一〇メートルほどの距離がある。
 (走ったら、逃げ切れるか? )
 無理だろう。
 羆は時速四〇キロメートルの速度で走るそうだ。
 (どこか逃げ込める避難場所はないか? )
 周囲の建物はヘアサロンと病院だけなので夜間に開いているわけが無いし、街路樹も低くて細い木ばかりなので攀じ登ることはできない。傍にはコンクリート製の電柱が一本立っていたが、これには足場がない。
 (それじゃ、川に飛び込んで逃げたら? )
 飛び込むのは簡単だが、川の両側はコンクリートの高い壁である。
 羆が後を追って飛び込んできたら、そこから先に逃げ場はない。
 「絶体絶命! 」
 義人は死を予感した。
 ブフッ、ブフォッ!
 四つん這いに戻った羆が唸りながら向かってくる。
 「ウギャーッ! 」
 山で羆に遭遇したときは背を向けて逃げてはいけないとか、北海道の観光ガイドに乗っていたような気がするが、恐慌状態に陥った人間がマニュアルどおりの行動など取れるはずがない。
 もはや義人は何も考えられず、羆に背を向けて、全てを運に任せ、悲鳴をあげながら走り出していた。
 ブゥフォッ!
 直ぐ背後で羆が息を吐く音が聞こえた。
 逃げ出してからホンの数秒で追いつかれてしまったらしい。
 突然、義人の後頭部に堅くて重い鈍器で殴られたような衝撃が走った。
 続いて、背負っていたリュックサックに凄まじい加重を感じて、その場に尻餅を突く。
 「ヒィィッ! 」
 生まれて此の方一度も発したことがないような情けない悲鳴、というより殆ど泣き喚いているような奇声を発しながら、義人は背後を振り返りもせずに四つん這いになって再び逃げ出した。
 後で気付いたのだが、この時リュックサックは捥ぎ取られていた。
 羆が放った一撃は義人の後頭部にダメージを与えたが、リュックサックのおかげで背中はガードされ致命傷を負わずに済んだらしい。
 「たっ、た、助けてぇ! 」
 途切れ途切れの掠れ声を発しながら、どれだけの距離を四つん這いで移動したのか分からなかった。
 「・・・? 」
 どういうわけか、羆は義人の後を追って来なかった。


 [〇四]


 目覚めて直、見慣れない白い天井とLEDの室内照明が見えた。
 微かに消毒薬の臭いがして、それが自分の頭の辺りから漂ってくるのだと感じ、額に柔らかな包帯の感触を覚えたところで、何となく現在置かれている状況が理解できた。
 どうやら、自分は何処かの病院の病室でベッドに横たわっているらしい。
 「あら、目が覚めたわね。」
 傍にいた若い女性看護士が話し掛けてきた。
 「あ? ええっと・・・ 」
 身体を起こそうとしたら止められた。
 「大した怪我じゃないけど、暫く安静にしてた方が良いわよ。」
 義人は、黙って看護師の言葉に従うことにした。
 (怪我したんだ、俺? )
 麻酔が効いているのか身体の何処にも痛みは無いが、少し怠さを感じる。
 それから一分ほど経過して、漸く怪我の原因が思い浮かんできた。
 カモカモ川沿いの通りで羆と遭遇し、逃げ出すまでの記憶が断片的に蘇ってきた。
 「今、何時ですか? あれから、どれぐらい経ったんだろ? 」
 羆に追い付かれそうになったところで、記憶はプッツリと途切れてしまっており、気付いたらベッドの上だった。おかげで時間の感覚が奪われてしまっている。
 あれから「既に数日を経過しています」などという嫌なオチを心配しながら、看護師の答えを待ったのだが、
 「三時四〇分ね。君が病院に運ばれてきてから二時間ちょっとってとこかしら。」
 看護師は腕時計を確認しながら答えた。
 「そうなんだぁ。」
 ホッとした。
 羆に遭遇したのは〇時半頃だったから、三時間程度しか経過していないようである。
 それにしても、羆に襲われて逃げたのは憶えているが、どうやって逃げ切ったのか憶えていない。生きているからには、どうにかして逃げ切ったのだろうが、よく無事に逃げ切れたものだと思う。
 (え、無事? )
 咄嗟に不安に駆られて手足のチェックをした。腹や背中も触ってみた。
 (あ、ホントに無事だ・・・ )
 手足は無事に繋がっているし、何処も食べられてはいなかった。
 義人は再びホッとした。
 「そういえば、表で友達が待ってるから、呼んできましょ。」
 そう言って看護師は病室を出て行った。
 間もなく、
 「ヨッシー、大丈夫? 」
 見慣れた友人男子一名と連れの女子一名が現れた。
 他のメンバーの姿が見えないようだが、おそらく急な連絡が取れたのは二人だけで、他のメンバーはバラバラに別れたまま、未だススキノの何処かで遊んでいるということなのかもしれない。
 「羆に襲われたんだってぇ? 」
 「街の中なのに、マジ怖いよねぇ! 」
 「でも、さすが北海道って感じ? 」
 「ホント、ホント! 」
 「何にしても食べられなくて良かったじゃん! 」
 病室に入ってくるなり早口で色々喋っていたが、二人が義人のことを随分心配していることと、無事だと知って安心している気持ちだけは何となくだが伝わってきた。
 但し、至ってシビアな話も付け加えられた。
 「でさぁ、ヨッシー。この病院、完全看護だって言うし、大した怪我じゃないから、うちら残ってても意味無いじゃん。飛行機はツアーチケットだから変更効かないし、先に東京帰ってヨッシーのお家の人に報告しとくからさぁ。」
 そう言えば帰りの飛行機は今日の一一時に新千歳空港発の予定だったはず。
 どうやら、怪我をして病院に運ばれてしまった自分は、札幌に置き去りにされてしまうらしいということを漠然と理解した。
 (まあ、状況が状況だから、しょうがないことなんだよね? )
 まさか「一人は嫌だ! 」とか「置き去りにしないで! 」などと縋り付いて、友人たちを困らせるほどのことでもないと思うので、深く考えもせずに頷いておいた。
 義人の聞き分けの良さに安堵した友人たちは、その後三〇分ほど病室で喋りまくってからホテルに戻って行った。
 (それにしても、なんかなぁ、実感無いなぁ。)
 羆に襲われたこと、病院のベッドで目覚めてから友人たちと暫く話したこと、全てが夢の中で起きた出来事のようで曖昧な感じがしている。
 「可哀想に、お友達は東京に帰っちゃうのねぇ。」
 いつの間にか戻ってきていた看護師は義人に同情してくれたが、友人たちに置き去りにされるということについても未だ実感が無いので、
 (俺って可哀想なの? )
 首を傾げたくなった。
 大した怪我ではないと言っておきながら、こうして看護師が様子見をしてくれているというのは事件後の心をケアされているのかもしれない。
 決して夜勤は暇だからなどと言う理由ではないだろう。
 看護師にそんな気遣いをされているならば、やはり義人は可哀想な状況に置かれているのかもしれない。
 「そう言えば、あいつらにどうやって連絡したんですか? 」
 たぶん、義人の所持品から連絡先を見つけたに違いないのだが、携帯通信端末を調べたところで一緒に旅行しているメンバーに印を付けているわけでもない。
 「君のジャケットの胸ポケットに、ホテルのカードキーが入ってたから、病院からホテルに連絡して一緒に予約して泊まってるお友達に繋げてもらったのよ。」
 なるほどと納得した。
 「他の荷物って、どうなりました? リュックサックとか? 」
 リュックサックの中には財布に携帯通信端末、学生証、保険証、帰りの航空券など、旅行中の殆ど全財産と貴重品が入っていたはずだ。
 「リュックサック? 病院に運ばれてきたときは無かったわよ。」
 看護師は首を傾げた。
 もしかしたら、羆に襲われた現場に残ったままになっているのかもしれない。
 「それなら、今は警察が現場検証してるみたいだから、君の荷物が残っていたら後で必ず届くわよ。安心しなさい。」
 「警察? 」
 看護師が口にした警察という単語が今ひとつピンと来なかったのだが、
 「ああ、そうか。やっぱり警察って出てきますよねぇ。」
 街の中で羆が暴れたのだから、これは事件に違いない。
 ラーメン屋のテレビで見たニュースのような事件である。
 (んじゃ、俺もニュースになっちゃうのかぁ? )
 義人は、「警察」とか「事件」とか「ニュース」など、単語を並べて意味を考えているうちに段々重苦しい実感が湧いてきて、いつの間にか目覚めてからずっと続いていた曖昧な感じも消えていた。
 もしかしたら、自分はとんでもなく厄介で、面倒臭くて、厳しい状況に置かれているのではないかという危機感も生じてきて、気分も悪くなってきた。
 「ところで、俺はいつ退院できるんですか? 」
 できるだけ早く逃げ出したい気持ちで一杯になった。
 「直にでもと言いたいところだけど、傷が頭だから大事を取って明日の朝に専門の先生が来てからスキャンしてみるのよ。それで何でも無ければ即退院ね。」
 後頭部に感じた衝撃の記憶が蘇ってきて不安になった。
 「傷深いのかなぁ? 」
 そう呟いたら、看護師が笑った。
 「全然深くないってぇ。羆の手が擦って三センチぐらいの傷が残った程度だよ。ちょっと禿げちゃうかもしれないけど、髪伸ばせば隠れるから。」
 「はぁ? 」
 義人は、信じられないという顔をした。
 自分を襲った羆の姿を思い浮かべてみたが、
 (超でかかったよな・・・ )
 立ち上がった時の高さは有に三メートル以上もある巨大羆だった。
 そんな羆に後頭部を殴られたなら首が吹っ飛んでも不思議は無いのに、意外にも軽傷とは運が良かったと考えるべきなのか?
 (いや、羆と出会っちゃったという時点で運が悪かったんじゃない? )
 首が繋がっているのは不幸中の幸いということなのだろう。
 ところで、首と言えば・・・
 「俺、人が殺されてるの見ちゃったはずなんですけど・・・? 」
 恐る恐る確かめてみた。
 「うん。」
 と、返事をしてから看護師は、さすがに神妙な顔をした。
 「二人も殺されちゃったみたい。」
 「二人? 」
 義人が見たのは頭が一つだけ。もう一人の被害者は見ていない。
 「女性が一人と男性が一人。女性は食べられて身体の一部しか残ってなかったって。男性は、この病院に運ばれて来た時点で心肺停止状態だったの。その後死亡が確認されたけど首の骨を折られて即死だったみたい。」
 「・・・。」
 義人は、凄まじく悲惨な話の内容に絶句した。
 自分も被害者の一人に加えられる可能性があったことを思うと、ゾッとして全身に鳥肌が立った。
 「ああ、それと今日の午前中に警察が事情聴取したいって言ってたわよ。」
 「事情聴取? 」
 「君が襲われた状況が知りたいんだと思うわ。多分、マスコミも取材に来るかも。」
 警察の事情聴取はやむを得ないが、マスコミの取材は嫌だなぁと思った。
 「それと、朝までには東京のお家に連絡しといた方が良いわね。先にニュースとかで知っちゃったらご両親とか心配するでしょ。」
 「そうですね。」
 現時刻で祖父母や姉は起きていないだろう。
 吉良家は道場の朝稽古があるので皆が早起きだが、普段なら起床時刻は五時半頃。もう少し待たなければならない。
 「それなら、ちょっと寝ときなさい。疲れてるでしょうから。」
 「それも、そうですね。」
 義人は一つ大きな溜め息を吐いてから、軽く目を閉じた。
 酒も抜け切っていないので眠くて当たり前の時刻なのだが、朝になってからの警察やらマスコミ、その他の対応を考えれば気が重くなって安眠できそうな気がしなかった。
 (キツいなぁ。とんだ旅行になっちゃったよ。)


 [〇五]


 二時間ほどの浅い睡眠を取った後、義人は病院の事務局に置かれた固定電話を借りて東京の実家に連絡を入れた。
 朝稽古を終えて、ひと風呂浴びたばかりのタイミングだったらしい姉の恵子が出てくれたので、昨夜の事情を詳しく話したのだが、
 「ちょっと待って! 」
 中途で義人の説明を遮った姉が、通信端末を放り出してドタバタと走り回る音が聞こえてきた。
 そして、間もなく、
 「うわーっ! ホントだ! あんたのことがニュースに出てる! 」
 テレビのオンデマンドニュースかインターネットのニュースを観ているのだと思うが、楽しげな歓声をあげていた。
 「でも、名前と東京の大学生としか出てないじゃん。もっと、顔写真とかインタビューとか無いの? 」
 「んな、俺は未だインタビューなんてしてないし、写真も撮られてないから。」
 「それじゃ、マスコミの取材受けたら直に連絡して! チェックするから! 」
 義人は、一方的にはしゃいでいる姉の態度に腹を立て、
 「姉ちゃん、何やってんだよ! 」
 怒鳴ったのだが、そこは簡単に無視されてしまった。
 「凄いねぇ、札幌って街中に羆出るんだねぇ。良いなぁ、私も見てみたいなぁ。さっすが大自然だねぇ。あんた、良い経験したわぁ。」
 「なーにを感心してんだかっ! こっちは殺されかけたってのに! 」
 「だってぇ、ニュースじゃ軽傷って出てるわよ? 大袈裟じゃない? 」
 「軽傷だけど、もう少しで殺されるかもしれなかったってことだよっ! 」
 「ところで、どんな羆だった? でかかった? 」
 「・・・でかかった。三メートルはあった。」
 「いやぁ、すごーい! 今日大学行ったら皆に、あんたのこと自慢しとくわ。」
 「自慢って、何じゃそりゃ? 」
 「羆に弟が喰われたなんて凄くない? 」
 「いや、喰われてないし! 」
 「ああ、そっか。」
 怪我をした弟が病院から連絡しているというのに、姉に緊張感は全く無かった。
 「姉ちゃん、そんな野次馬みたいに喜んでるけどさぁ、マジでヤバかったんだからな! 二人も人殺した超でかい羆に追い掛けられて、頭引っ掻かれたんだぜ! 俺が無事に逃げ切れたのなんて奇跡的なんだからなっ! 奇跡っ! 分かったぁ? 」
 実は大変深刻な問題だったのだと強く訴えてみたのだが、
 「ふーん、そうなの? もしかして、それって自慢? 」
 義人は腰掛けていた事務用椅子からズリ落ちそうになった。
 何やら姉はムッとしているようだが、いったい何が気に入らなかったのか義人にはさっぱり理解できない。
 「もう良いよ。姉ちゃんに心配してもらおうと思った俺が間違いだった。」
 義人が嘆息すると、
 「ああ! 」
 と、今更ながら、弟の身を心配するのを忘れていたことに気付いたらしい。
 「何処怪我したの? 大丈夫なの? ちゃんと病院で見てもらわないとダメよ。」
 などと、取って付けたような心の籠っていない労りの言葉が返ってきた。
 もう一度、姉に聞こえるように嘆息すると、
 「仮にも私の弟が羆なんかに負けるわけないじゃない! 信じてんのよ! 」
 無茶なことを言う姉だった。そんな風に信じて欲しくない。
 だが、この姉ならば羆と遭遇したら戦うぐらいしてしまうかもしれないと思った。
 ところで、
 「取り敢えず、俺の用件を聞いて。」
 義人は疲れた声で力なく本題に入った。
 「羆に荷物取られちゃったみたい。」
 この少し前、義人は札幌中央警察署の担当者から同じ固定電話で午前中に行われる事情聴取のアポイントを受けたのだが、その際に現場に残してしまったリュックサックの話をした。ところが、付近一帯の現場検証に於いては、リュックサックのようなモノは発見されていないとのことであった。
 電話で話した警察官は羆の生態に詳しい人ということだったが、彼の話によると、
 「もし犯人が羆だとしたら、多分リュックサックは戦利品として持ち去ってしまったのでしょう。羆は物欲が強い動物ですから。」
 義人は全財産を羆によって強奪されてしまったのである。
 「でも、あなたが荷物に執着しないで逃げ出して良かったですよ。もし、奪い返そうとしたら間違いなく殺られちゃってますね。」
 奪い返す余裕なんて無く、何も考えずに逃げ出しただけなのだが、それが良かったのだと言う。リュックサックを奪い取った羆は、それで満足して義人を追わなかったのだろうとのことだった。
 まるで引っ手繰り強盗犯に襲われたような状況である。
 「完全に無一文になっちゃったんだけど。どうしよう? 」
 旅行先の身内も知人もいない見知らぬ土地で孤立してしまった。
 「どうしようったって、どうすれば良いのよ? 」
 これには姉も困ったような声を出した。
 「爺ちゃんか婆ちゃん、金もって迎えにきたりしないかな? 」
 孫が遭難したのだから保護者に引き取りにきて欲しいと思ったのだが、
 「爺ちゃん、国際剣道連盟主催の大会審判するって婆ちゃん連れてハワイに行っちゃってるから無理よ。」
 「ええっ! 知らんかった! 」
 「先月から言ってたわよ。聞いてなかったの? 」
 「・・・聞いたような気もするけど。」
 剣道関係の仕事で一年中頻繁に日本から海外まで忙しく飛び回っている祖父のスケジュールなど一々チェックしたことは無いし、自分の旅行中に重なった祖父の不在など小耳に挟んだとしても全く気にしてはいなかった。
 「姉ちゃん、代わりに来てくれたりしないよね? 」
 弟のピンチに際して、姉の好意に期待して提案したのだが、
 「私は無理! 」
 あっさりと却下されてしまった。
 「そんな、弟に対して冷たくない? 」
 「何言ってんの! 私は爺ちゃんの留守中、道場を守る義務があるの。」
 「道場は姉ちゃんの他にも師範代がいるじゃん! 」
 「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ! 次期道場主が、道場主に留守を預かりながら、身内の情に負けて道場を空けるなんて有り得ないわ! それに、見知らぬ土地で危機に陥っても、それを乗り越えるのが吉良家の男だって爺ちゃんなら言うわよ。」
 確かに祖父なら言うかもしれない。時代掛かった使命感で道場を離れられないなどという姉と、基本的に同じ性格をしているのだ。
 でも、
 「姉ちゃん、そんな立派なこと言ってるけどさ。もしかして、今日から神宮でプロ野球開幕戦じゃない? 」
 「・・・え? 」
 姉は幼い頃から筋金入りのスワローズファンだった。これまで神宮球場で開幕戦が行われる年には、必ずチケットを予約して応援に駆け付けていたことを知っている。
 「確か三連戦だよな。」
 「三連戦よ。しかも、その後はドームに移動して三連戦よ。」
 「それ、全部チケット買ってんの? 」
 「そうよ! 悪いっての! 」
 この姉にとって、弟のピンチはスワローズの観戦よりも軽かった。
 「もう良いよ。せめて俺の口座に金だけでも振り込んでくれないかな? 」
 最も現実的で手っ取り早い提案をすることにしたのだが、
 「そんなこと言ったって、あんた携帯も無くしちゃったんでしょ。どうやってお金引き出すのよ? 」
 義人は事態を把握するのに数秒を要したが、
 「おおっ! 」
 奪われたリュックサックには現金の入った財布はもとより、銀行ATMで現金を引き出す際の口座認証に必要な携帯通信端末も入っていた。
 「なんてこった! ヤバい! 」
 「友達そっちにいるんでしょ? お金ぐらい借りなさいよ。」
 それは頼んでみるが、散々札幌で遊んで飲み食いした学生が帰り際にどれだけの現金を所持しているか期待できそうな気がしない。
 「現金書留とかは? 」
 「何処宛てに送るのよ? 」
 「・・・局留めにできるんじゃない? 」
 「引き取りに行く際の身分証は? 」
 「・・・ 」
 現状は思いの外、ピンチかもしれなかった。
 「くっそう! 羆の野郎! 姉ちゃん、どうしよう。」
 病院代も清算しなければならないだろうし、直に東京に帰れないならば今夜の宿泊代も必要になる。そのうち腹も減ってくるに違いない。
 「一円も持ってないわけ? 」
 そう言われてズボンのポケットに手を突っ込んでみた。
 「小銭で八〇〇円入ってた。」
 昨夜のラーメン屋で貰った釣り銭である。
 「それだけあれば、パンか弁当ぐらい買って食べられそうね。後は、友達から少しでも多く掻き集めなさい。その間に、こっちで手を考えるわ。」
 「よろしくお願いします。」
 義人は姉の限られた尽力に期待しながら通話を切り、ヨロヨロと立ち上がった。
 いつもなら嬉しい姉との会話なのに、今日は言いようの無い脱力感しか与えてもらえなかった。
 (困ったなぁ・・・ )
 近くにいた事務局員に電話のお礼を言って一旦病室に戻ろうとしたら、事務室の入り口の傍に立っていたグレーのパンツスーツ姿の女性と目が合った。
 「ん? 」
 その女性は義人に向かってお辞儀した。
 「あれ、俺に? 」
 左右を振り返って見たが、自分以外に該当者はいなさそうだった。
 (誰だろう? )
 モジモジしたお辞儀を返しながら、義人は女性の傍に歩み寄った。
 (うわっ、綺麗な人! 姉ちゃんほどじゃないけど。)
 義人は女性を見る度に姉と比較してしまう悪い癖がある。せっかく目の前に美人が現れたというのに素直に感動することもできない。そんな女性を物差しを以て計るような真似をする奴には、彼女など絶対にできるはずが無いのである。
 「札幌中央警察署から参りました増田と申します。」
 女性は名刺を差し出した。
 「あ、警察の人? 」
 札幌中央警察署生活安全企画課、増田恵理(ますだえり)、警部補。
 受け取った名刺の情報を素早く頭の中にインプットした。深い意味は無いが、警察官のような国家権力系の職業の人を相手にすると身構えてしまう一般市民の小心さ故である。
 「吉良義人です。」
 義人は名刺入れも羆に奪われてしまっているので、口頭で名乗って頭を下げた。
 「先ほど同じ課の者がアポイントを取ったら、いつでも良いとのことでしたので早速お伺いしてしまいましたが、よろしかったでしょうか? 」
 時計を見たら八時少し前である。
 「九時過ぎから頭の検査するって言ってたんで、それまでなら構いません。でも、警察の方って随分早くから仕事されてるんですね。」
 「そういう仕事ですから。」
 増田さんは、そう言ってニッコリと笑った。
 それが、実に優しそうで柔らかい笑顔に見えて、今し方落ち込んでいた気持ちが少しだけ癒されたような気がした。
 (警察官って、こんな笑顔見せたりするんだ。)
 義人は感心しながら、胸の奥で一瞬だけ動悸が早まったのを感じた。
 「それじゃ、待合室にでも行きましょうか? 」
 増田さんが先に立って事務室を出て行く。
 待合室に向かう途中で、
 「お体の方は大丈夫ですか? 」
 と、気遣われたことが嬉しかった。
 (やっぱ、普通は最初にそれを言うよねぇ。)
 義人の中の姉に対する評価が一時的に一ランク下がった。
 待合室に着いてみたら、そろそろ診療開始の時刻が近付いており、そこは外来の患者で混み始めていた。落ち着いて話のできる席など見当たらなさそうである。
 「これじゃ、ダメですねぇ。」
 増田さんが、顎に人差し指を当てて困った風に首を傾げた。
 その時、バレッタで後ろに纏めていたセミロングの髪がフワリと揺れ、直ぐ後ろに立っていた義人の鼻を甘く心地良い香りがくすぐった。
 (・・・! )
 滅多に無い心の疼きを覚えながらも義人は平静を装い、
 「それじゃ俺の病室の方へ行きましょうか。四人部屋ですけど俺以外に入院患者はいないし、食事とか検温とかは終わってますから検査の時間までは誰も来ないと思います。」
 と、提案した。
 「それは助かります。」
 義人は増田さんを伴って病室へ向かった。
 病室は五階にあるので途中エレベーターを使ったのだが、狭い箱の中で増田さんの隣に立った義人は、さり気なく彼女を観察していた。それは女性に興味を持つことなど滅多に無い義人にとっては慣れない行為であり、少し緊張していた。
 身長は義人よりも頭一つほど低く、細身だがスーツの上から見ても分かるほど引き締まった体型をしており、それは警察官としての職業柄だと思った。
 年齢は二〇代半ばに見えるが、警部補という階級を考えれば三〇歳前後かもしれない。
 顔の輪郭は少しだけ面長で顎が細い卵形。目は奥二重で切れ長。鼻筋は通っているがそれほど高くはなく、唇は小さめ。北国の女性らしく驚くほどに肌が白かった。
 所謂ところの和風美人であり、全体的に派手派手しい作りをした姉の逆方向を行くタイプだと思った。
 エレベーターが五階に到着したところで義人の観察作業は終了。
 そのまま廊下に出て病室の前に移動した。
 「ここです。」
 病室のドアを開けて、増田さんを先に案内した。
 「失礼します。」
 と、一声掛けて入室した増田さんを追い越して、義人は部屋の隅に寄せてあった見舞客用の丸椅子を持ち出して勧めた。
 「ありがとうございます。」
 再びニッコリと微笑まれて、義人は思春期の中学生のようにときめいている自分に気付いた。
 (はあ、姉ちゃん以外の女の人を相手にして、こんなことってあるんだなぁ。)
 意外な自分を発見して感動してしまった。
 さて、義人がベッドに腰掛けて、互いに向かい合ったところで、早速の事情聴取が始まった。
 「東京大学の学生さんなんですってね。優秀なんですね。」
 「いや、別に優秀ってわけじゃ・・・ 」
 確かに義人は東京大学の学生である。
 優秀と言われれば、確かに高校は進学校だったし成績も良かったと思う。
 だが、それだけである。
 学歴は持ってて邪魔になるものではないとの祖父の勧めもあって進学しただけで、何か明確な志望動機を以て選んだ大学ではない。日本の最高学府で学んでいるのだとは良く言われるが、無目的に通っていると、そんなプライドは全然育たなかった。
 (たぶん、普通に卒業して就職するんだろう。)
 と、漠然と考えて過ごしているので、他の大学に通っている学生との違いは見出せていなかった。
 まあ、それは余談として、
 さすが社会人だけあって、仕事が始まった途端、増田さんからは柔らかさが消えて、増田警部補になった。
 タブレットPC片手にメモを取る姿が気持ち良いほどキビキビして見える。
 「まず、昨夜の状況を詳しくお聞かせ願えますか? 」
 義人が誰かに昨夜の状況を説明するのは初めてだった。
 せっかくなので、ついでに自分の記憶の整理もするつもりで、憶えていることは細大漏らさず増田警部補に伝えた。
 「なるほど。」
 増田警部補はタブレットPCを一旦膝の上において、顎に手を当てて首を傾げた。
 「どうかしました? 」
 義人が問うと、
 「肝心なところが分からないですね。」
 そう言って溜め息を吐いた。
 「白石の時もそうですけど、『そもそも羆は何処から現れたのか? 』ってところが見当もつかないんですよ。」
 「そりゃ、山の動物ですから山から降りて来たんじゃないんですか? 」
 増田警部補が、首を左右に振ってからフフッと笑った。
 「地元の人じゃないから地理的なことは分かりませんよね。」
 そう言われて、昨夜ラーメン屋の奥さんに教えられたことを思い出した。
 「そっか、近くに山なんて無いんでしたっけ? 」
 「ええ、あなたが襲われたのは、殆ど繁華街の中と言っても良い場所なんです。白石区南郷通りもそうですね。近くに羆が生息している山なんてありません。」
 「こそこそ隠れながら移動して来たとか? 」
 「それは無いでしょう。あなたの証言では一般的な羆よりも大きいみたいですし、どんなに隠れたって国道を渡ったりする時に見つかっちゃいますよ。それに人間を襲うなら、わざわざ街の中まで出て来なくったって途中に沢山いますから。」
 単純な野生動物の襲撃事件だと思っていたが、どうやら謎を伴った複雑な事件らしい。
 「街頭のカメラとかにも映ってないんですか? 」
 「羆が映ってた映像はありますけど、何処から現れたのかについての確認はできませんでしたね。」
 増田さんの話では、まるで羆が事件の現場にテレポートでもしてきたように思えるとのことだった。
 「俺が、もう少し早く現場を見ていたら何か分かったんでしょうけどねぇ。」
 義人は大して役に立つ証言ができなかったことを済まなく感じた。
 「いえいえ。それはタイミングですから。」
 そう言ってから、増田警部補が増田さんに戻って微笑んでくれた。
 「そろそろ九時ですね。私は失礼します。」
 増田さんが立ちかけた時、思わず、
 「え? もう行っちゃうんですか? 」
 馬鹿なことを聞いてしまった。
 仕事が終われば帰るに決まっているではないか。
 義人の言葉をどう受け取ったのかは知らないが、
 「また、伺いたいことがあったら連絡しますから。」
 と、増田さんは言ってくれた。
 しかし、
 「俺、荷物を羆に奪われちゃって、携帯も無いんですよね。」
 今のところ、連絡してもらう術が無いのだ。
 「ああ、そうなんですか。それは災難ですね。」
 増田さんは、どうしたものかと考えていた。
 「東京の方へは直にお帰りになる予定ですか? そちらの連絡先でも預かっておきましょうか? 」
 「まあ、帰れるなら直にでも帰りたいですが・・・ 」
 金が手に入ったならということなのだが、増田さんは違う意味に受け取ったようだ。
 「見た感じ大丈夫そうですから、検査は多分問題ないですよ。退院できますよ。」
 身体を気遣ってくれるのは本当に嬉しい。
 軽傷であったことが申し訳なく思われてしまうほどだった。
 「いや、その、ありがとうございます。」
 お礼を言いながら、どうにも複雑な溜め息が出た。


  [〇六]


 三月二八日、金曜日、一二時五〇分。
 札幌市西区発寒にある、とある中学校。
 今は春休みなので、校地内にいるのは教職員と各種部活動に参加する生徒だけ。その部活動は午前中の日程を終えて、現在は午後の日程が始まる前の休憩時間中である。
 この時間、生徒たちは校地内の彼方此方に分散していて、仲の良い者同士で昼食を取っていたり、力を持て余している者はさっさと食事を済ませて体育館や校庭、グラウンドなどで元気良く走り回っていた。
 そんな長閑な生徒たちの様子を眺めながら、教頭のナオミ・ワイルドマンは日課になっている昼休み中の校舎内巡回を続けていた。
 ナオミが通り掛かると生徒たちは顔を上げ、この穏やかな性格で親しまれている女性教頭に対して、それぞれが思い思いの挨拶を投げ掛けてきてくれる。
 生徒たちの言葉遣いは様々で「こんにちは」とか「ちーっす」とか好き勝手だが、中にはオーストラリア人であるナオミに配慮してか、「ハロー ミセス ナオミ」とか、「ハウ ドゥー ユー ドゥー? 」などと、拙い英語で挨拶してくる者もいる。
 ナオミはそれらの全てを微笑ましく感じており、言葉使いなどどうでも良いと思っている。生徒たちがキチンと挨拶をする習慣を身につけることを目的として、日頃の教員たちが努力している、その成果さえ見られれば良いと思っていた。
 この日もナオミは校舎内を巡り、体育館を通り抜け、その間に何人もの生徒と挨拶や言葉を交わし、次はグラウンドを覗いてみようと昇降口を目指していたのだが、その途中にある保健室の扉が突然開いて、中から養護教諭のベシアが飛び出して来たので思わず衝突しそうになった。
 「ちょっとベシア先生、どうしたんですか? 」
 ナオミは驚いて一歩退きながら、不注意にも勢い余って尻餅をついてしまっている養護教諭の顔を覗き込んだ。
 「あっ、きょっ、教頭先生! 」
 ベシアは、そう言ったきり口をパクパクさせてナオミに何かを伝えようとしていたのだが、よほど慌てているとみえて言葉が出て来ない。
 スーダン出身のヌピア人である彼は、浅黒い肌に良く似合う大きな丸い目を落ち着き無く上下左右に動かし続けているが、それが全く焦点を結んでいない。
 彼は明らかに恐慌状態にあるらしい。
 「ちょっと先生、落ち着いてください! 」
 ナオミに叱りつけられて、ベシアは漸く我に返ったようである。途切れ途切れだが、言葉を発し始めた。
 「ひっ、くまっ! 羆っ! 」
 「え? なんです? 羆ですか? 」
 ナオミがベシアに聞き返そうとした時、保健室の中で沢山のガラスが割れ、什器が倒れる音がした。
 「なんですか? 今のは? 」
 ナオミが保健室の中を確認しようとドアに向かったら、
 「やめてください! ダメです教頭先生! 」
 と、叫んでベシアが腰にしがみついてきた。
 「ベシア先生、何するんですか! 離してください! 」
 もうすぐ五〇歳になるとはいえナオミも女性である。いきなり若い男の先生に抱きつかれては慌ててしまう。
 「そうじゃないんだ! 羆ですって! 危ないって! 」
 ベシアは、真っ赤な顔で主張するナオミの女性らしい羞恥心など気にもせず、振り解かれそうになる手を必死で放さずに叫び続けていた。
 その時、
 ドドーン!
 校舎を揺るがすような轟音がして、保健室と廊下を隔てる木製の壁がくの字に折れ曲がって廊下側に飛び出してきた。
 さらには、メキメキ、ゴリゴリと鈍い音を立てながら壁の中央を保健室の側から何かが突き破って出て来ようとしている。
 数秒の後、壁の中央が破裂した!
 粉々になった合板の破片が廊下に飛び散ったと思ったら、壁に人の頭が入るぐらいの大きさの穴が開き、そこから黒い剛毛に覆われた生き物の鼻先が飛び出してきた。
 ブフォッ! ブォッ!
 その生き物は鼻から湿った荒々しい息を吐き出し、半開きになった鋭い牙の並んだ口からは涎が滴り落ちている。
 「「ンギャーッ! 」」
 ナオミの羞恥心は瞬時に吹き飛んでしまった。
 今まで引き離そうとしていたベシアと抱き合って絶叫していた。
 二人の悲鳴を聞きつけて、数名の男性教員と近くにいた男女の生徒数名が急いで駆け付けてきた。不審者が乱入したと思ったのか、非常時には必ず持ち出すように心掛けているのか、駆け付けた教員の中に指叉を抱えている者が二人いたのだが、彼らは自分たちが手にした得物が何の役にも立たないということを直ちに理解した。
 彼らが保健室前の廊下で腰を抜かしているナオミとベシアを見つけた時には、壁の穴は数倍の大きさに広げられ、巨大な羆の頭部が廊下にはみ出すほどになっていたのである。
 その状況を目にした途端、駆け付けてきた教員も生徒も、皆が一斉に悲鳴を上げた。
 その悲鳴に驚いたのか、羆は一旦頭を保健室の中に戻したが直に再び穴に頭を突っ込み壁に全体重を乗せてきた。
 バキバキーッ!
 羆の体重に負け、壁を支える柱は完全に折れて、穴も羆の上半身が飛び出すほどに広がった。
 「みんな、立って逃げるんだ! 二階に上がれ! 」
 一人の男性教員が、その場にいる者たちを叱咤した。
 その叱咤のおかげで他の教員と男子生徒の一部が正気に戻った。
 「動けーっ! 」
 さらなる掛け声とともに、正気の者たちが一斉に動いた。
 ナオミとベシアを抱き起こす者、腰を抜かして泣きじゃくっている女子生徒を抱え上げて走る者、消化器を持ち出して二酸化炭素の冷気を浴びせて羆を足止めしようとする者、火災報知器を鳴らす者、全く統一感の無いバラバラの行動だったが、教員と生徒たちは協力して、その場にいた全員が二階に避難し、階段は重い金属製の防火扉で塞がれた。
 校庭にいた生徒たちには、緊急の校内放送で体育館に閉じ籠るよう指示が出された。
 それから暫くの間、閉ざされた校舎内では恐怖に苛まれながら啜り泣く声や、小声で不安を囁き合う者たちの声が彼方此方で聞こえていた。


 中学校の前には警察車両以外に、消防車両や近くの駐屯地から駆け付けたと思われる国防軍陸上部隊の軽車両まで停まっている。
 しかし、彼らが中学校からの連絡を受けて駆け付けた時には、既に羆の姿は何処にも無く、荒らされた校舎一階の惨状だけが残されていた。
 「まったく、逃げ足の早い奴ですよ。こっちは毎度、奴の後始末に駆け付けているようなもんですね。」
 愚痴を零しながら校舎一階の現場検証を続ける警察官たちの中に、増田恵理警部補の姿もあった。
 札幌中央警察署に所属する彼女にとって西区は管轄外なのだが、先に二件連続して起こった同様の羆事件との関連性を考え、現場検証の立ち会いに派遣されていた。
 「ここも羆の仕業だってことで間違いないですね。たぶん、同じ奴です。」
 一緒に中央警察署から派遣されてきた部下の男性警察官が、そう断言してからファスナー付きの透明なビニール袋に入れた黒っぽい剛毛の塊を恵理に差し出した。
 恵理はビニール袋を人差し指と親指で摘まみ上げて、窓に向かって翳した。
 「ふーん。専門家じゃないから分からないけど、確かに白石や中央区の羆と同じ色をしてるみたいね。もっとも、羆の毛なんて皆が同じ色をしてるのかもしれないけど。」
 そう言って男性警察官にビニール袋を返したら、
 「いやぁ、個体によって毛の色や太さは結構違いますよ。それが羆の外見上の特徴になりますから、これは大事な証拠です。」
 羆の毛の見方について甘さを嗜められてしまった。
 部下の意見に軽く肩を竦めて見せた恵理だったが、
 (そんな猟師の勘みたいなモノに頼らなくったって、DNA鑑定すれば分かることでしょうに。)
 と、内心で嘆息していた。
 ちなみに、この男性警察官は狩猟免許を持っており、北海道内の野生動物の生体に詳しいということで今回の事件の担当に加えられていたが、他にも似たような理由で駆り出された警察官が現場に幾人か出ている。
 野生動物の襲撃事件なのだから当然の布陣だとは思うが、
 (これって、そういう事件なのかしら? )
 恵理は異なる角度で事件を見るべきではないかと考えていた。
 昨夜から札幌市内で唐突に始まった羆の襲撃事件だが、既に連続して三件。事件の発生場所は中央区の繁華街、白石区と西区は住宅街である。これらは野生動物が徘徊するような環境ではなかった。
 (この三件とも同じ羆の仕業だったとしたら、ちょっと厄介な事件になるかもしれないわねぇ。)
 羆が現れた三カ所について、距離と事件の発生時刻に違和感が生じている。
 最初に事件が起きた白石区南郷から中央区のススキノ近辺を経由して西区発寒の事件現場までは、道路を移動した場合で約二〇キロほど。事件が発生した間隔は五時間と一一時間。羆の移動速度と行動半径を考えれば十分に有り得ることだという者もいたが、これは三カ所の間には札幌の市街地が挟まれているという条件を無視した場合のことである。
 近年は人口が大幅に減少したとはいえ、未だ一五〇万人以上の人口を抱える政令指定都市の中心部を、巨大な羆が人目につかずに移動することなどできるはずが無い。
 (野生動物の襲撃の足取りが線で繋げないなんて変でしょう。)
 三カ所は、完全に切り離され、事件は点で発生しているように見える。
 「それについて、警部補はどうお考えですか? 」
 校舎内部の検証作業中に、同じく事件に違和感を感じていたらしい西警察署員の一人に意見を求められたが、
 「さあ、私には未だ良く分からないです。」
 と、恵理は答えた。
 実は、根拠の薄い勘を基にした推理を抱えていたのだが、他者に伝えられるほどの確信を得ていなかった。
 (被害者に気になる点があるのよねぇ。)
 白石区南郷の被害者は不動産業者であり、北海道内の土地を買収しては中国の電力会社に転売するという土地転がしを頻繁に行っていた。そして、中央区の被害者も香港から出張中の不動産業者とその愛人。
 (どちらも不動産絡みだけど・・・それって、偶然? )
 今、現場検証中の西区の中学校は、この条件に当てはまらず、幸いにも死傷者は出ていなかったが、
 (でも、調査してみないと分からないけど、関連業種に携わっている親を持つ生徒がいるのかもしれないわよね? )
 試しに、現在判明している被害者の共通点に、先ほどの事件の発生場所に関する違和感を重ね会わせてみる。
 その上で、単純に推理してみると、
 (これって、殺人事件? )
 そんな考えが頭を過った。
 少々突飛な話だが、羆を飼いならして凶器に使った殺人事件という可能性は無いだろうかと思ったのだ。
 昨今、北海道ブランドを目当てにした中国系外資の土地開発は様々な摩擦を生じさせている。メガソーラー、森林資源の伐採、水源地の独占、リゾート施設や別荘地の開発など火種は豊富であり、地元住民との文化的な衝突や利権争いなどの他、非常識とも言えるほどの自然環境の破壊ぶりは全国ニュースや海外の自然保護団体の間でも問題にされているほどだった。
 (エコテロリストの連中が道内に多数入り込んでいるってゆうし、彼らのサボタージュと考えられなくもないんじゃ無いかしら? )
 自然を破壊するような連中は自然によって制裁を受けさせるなど、狂信的なエコ集団なら考えるかも知れないと思った。
 例えば、羆を檻に入れてトラックで運び、目的の場所で下ろして被害者を襲わせた後で呼び戻して回収する。この方法が使えるならば、羆の襲撃が点で発生している状況の説明はつけられる。
 (羆は頭が良い動物だって言うし、訓練したら可能じゃないかしらね? )
 恵理は、この突飛な推理を半分ぐらい本気で考えていたが、現段階で口にすべきではないと思ったので部下にも同僚にも、もちろん上司にも話していない。
 但し、捨ててしまうには惜しいと思える推理だったので、一つの可能性として調べてみることにした。
 こういうことは、専門家の意見を聞いてみるのが一番だろう。
 「専門家って言えば、先ほど署からの無線で言われたんですが、羆襲撃事件の担当者と話したいって人から電話があったそうですよ。」
 現場検証から離れ、校地の外で待たせていたパトカーに戻ってきた恵理に部下がメモを渡した。
 「中川博さん? って誰? 」
 「羆の専門家じゃないですかね? 」
 「市民の情報提供者かしら? 」
 「たぶん、そうだと思いますけど、電話を受けたオペレータの話じゃ、もし聞きたいことがあったなら、いつでも連絡して下さいってことらしいです。」
 「何それ? 何か話したいことがあるとかじゃなくて? 」
 「アドバイスを求めて欲しくてウズウズしてる学者さんじゃないですかね? 」
 「ああ、なるほど売り込みねぇ。」
 北海道に羆の研究者は沢山いるし、そのための大学や研究施設も札幌市内に数カ所あるので、飛び込みのアドバイザーなどに頼らなくても情報源は足りている。
 恵理はメモを折り畳んでポケットに押し込んだ。
 (確か南区の外れに、そんなような専門施設があったはず。)
 既に、有力な取材先の一つが浮かんでいた。
 (あとは、頼りになる目撃者がいればねぇ。)
 中学校の襲撃は白昼の出来事だったので羆の目撃者は大勢いたが、羆が何処から現れたのかを目撃した者は一人もいなかった。最初に羆を見たのは保健室の養護教諭ということだったが、彼は仕事をしている最中に開け放していた窓から羆が侵入してきたと言うだけだった。
 (それじゃあ、中央区の時の男の子と一緒だわ。)
 恵理は、今朝病院で事情聴取した大学生の男の子の顔を思い浮かべた。
 (あの子、ちょっとカッコ良かったかも。)
 女性慣れしていないのか、恵理が笑顔を向けるたびに面白いぐらい緊張しているのが分かった。今時珍しいウブな大学生の姿は可笑しかったが、好感も覚えていた。
 (今頃、もう東京に帰ったかしら? )
 実家のアドレスは聞いていたが、必要な事情聴取は今朝終えてしまったので、今後は特に連絡をする必要などない。
 (もう、会うことも無いのよねぇ・・・って、あれ? )
 何となく寂しさを感じている自分に少し戸惑った。


  [〇七]


 札幌市の中心部、大通公園。
 赤や青の電飾をぶら下げ、東京タワーのミニチュア版みたいな形をしたテレビ塔の真ん中辺に設置された大きなデジタル時計が二二時を表示していた。
 (寒いわぁ、身体も心も。)
 義人は公園のベンチに座り、むず痒くなってきた後頭部の傷を包帯の上から摩るように掻きながら、今夜一晩をどうやって過ごすべきか悩んでいた。
 (先立つモノが無いってのが致命的だよなぁ。)
 今日の午前中、病院で検査の結果待ちをしている最中、これから新千歳空港に向かうという友人たちが皆で見舞いに立ち寄ってくれた。
 彼らに事情を話すと、六人全員が快く現金を貸してくれたのだが、所詮は学生の懐だった。絞り出すようにして集まった総額は、二万八〇〇〇円。
 持っていた小銭を足して、今朝のスタート時点での全財産は二万八八〇〇円だった。
 それでも、一時は心が豊かになるほどの金額だと思っていたのだが甘かった。
 検査後に問題無しとされて退院する際に、一泊の入院費と検査代、薬代を清算したら二万五五〇〇円が消えてしまった。
 その後、ホテルに戻ってみたら、友人たちが義人の分のチェックアウトを済ませてくれており、スキーの板や靴は彼らが気を利かせて持ち帰ってくれていたが、着替えの入ったバックを保管していたロッカーの借り賃ということで一〇〇〇円が消えてしまった。
 昼飯に牛丼屋で並盛りを食べ、コンビニで飲み物とティッシュと緊急携帯食としてチョコレートを買い、これらで締めて一一〇〇円丁度。
 一日も終わりに近付いた現在、所持金は一二〇〇円まで減ってしまっていた。
 (どうしよう・・・ )
 街灯温度計によると、気温は一〇度を切った。
 いずれ、もっと寒くなるので野宿などしたら命に関わるかもしれない。
 先ほど一泊一二〇〇円の看板を出したサウナ付きカプセルホテルを見た。これは超格安だと思うが、利用すれば明日は無一文になってしまう。
 無一文では公衆インターネットや電話機も使えなくなるわけで、当てになるかどうかはともかくとして唯一の頼みの綱である姉との連絡手段を失うことになる。
 それは避けなければならない。
 (あーあ、今頃姉ちゃんは神宮球場かぁ。)
 スワローズに恨みは無いが、今晩は大差でボロ負けして欲しいと思った。
 プロ野球観戦と引き換えに遠く離れた北の大地でホームレスになってしまった弟の恨みの念を伝えてやりたかった。
 (こうなったら、厚着をして一晩中街をほっつき歩くしかないかなぁ。)
 そうすれば凍え死には避けられるが、問題は動き回れば腹が減るということだろう。
 (腹が減って行き倒れたら、誰か親切な人が助けてくれるかもしれないかな? )
 そんな無茶なことを考えつつ、大通公園を横切って市営地下鉄駅に潜る階段の入り口に向かう人の列を眺めていたら、
 「あ。」
 見覚えのある女性の顔を見付けた。
 グレーのパンツスーツにダウンジャケットを羽織り、セミロングの髪をバレッタで後ろの束ねた、如何にも活動的なビジネスウーマンスタイルの和風美人。
 「あれ、あなたは。」
 向こうも、義人に気付いて近寄ってきた。
 「ま、増田さん! 」
 「えっと、こんばんは。吉良さんですよね。」
 何気ない挨拶をして微笑む増田さんの顔を見た途端、何だか良く分からない感情が溢れてきて、義人の目にじわりと涙が浮かんできた。
 (なっ! な、な、なんで泣いてんの俺? )
 見知らぬ街の中で行き場も無く、心細さがピークに達し掛けている状況で、多少なりとも面識のある人に出会ったことが嬉しかったのだと思う。しかも、それが今朝方の自分をときめかせた女性であったことで感動は一入だったのだろう。
 義人が急に涙ぐんだので増田さんは驚いたようだった。
 「どうしたんですか? 東京に帰ったんじゃなかったんですか? 」
 「いや、それがですね・・・ 」
 何と言ったら良いのか、自分の現状が情けなくて話すのが憚られてしまった。
 そんな義人の様子を眺めているうちに、増田さん、いや恵理は事情聴取の際に義人が全財産入りのリュックサックを羆に奪われてしまったと話していたことを思い出した。
 「あの、もしかしたら、行くとこ無いの? 」
 義人は、弱々しい笑顔を恵理に向けながら、
 「実は、そうなんです。」
 そう言って、小さく頷いた。


 大通公園から南に数丁歩いたところにあるファミレス。
 義人はラージサイズのチーズハンバーグに猛然と齧り付いていた。
 昼に牛丼の並盛りを食べただけで札幌市内を放浪していたのだから、二〇歳男子の胃袋は限界に達していたようである。
 「ホントに助かりました! いやぁ美味しいです! 俺、増田さんと出会えなかったらヤバかったです! 」
 落ち着いて食べたら良いのに、一口二口食べては、向かい合って座っている恵理に対してお礼の言葉を繰り返し、さらには半泣きでいる。
 そんな義人の食べっぷりを見ながら恵理は今にも吹き出しそうになるのを我慢して、自分はパスタの皿をつついていたのだが、
 「もう、食べながら話してるから、ポロポロこぼれちゃってたいへん。」
 自分より一回りも大きな男子が、まるで小さな子供のように見えてしまい、ついついペーパーナフキンを取って義人の口元を拭ってしまった。
 「うわっ! 」
 慌てて義人が身を引いた。
 それはそうだろう。
 今日初めて出会った見ず知らずの女性に恥を忍んで食事をごちそうになっただけでも、どれだけ緊張して恐縮しているか察するに余りあるというのに、口元の汚れを吹いてもらうなど衝撃の失態でしかない。
 恵理も、自分が余計なことをしてしまったのに気付いて慌ててしまった。
 「ご、ごめんなさい。」
 思わずクシャクシャに握りしめたペーパーナフキンをテーブルの上に放り出し、両膝に手をついて頭を下げた。
 「あ、いや、いえ、こっちこそ、みっともない食べ方しちゃってすみません。」
 義人も一旦箸を置いて頭を下げた。
 ホンの少しだけ二人の間に気まずい空気が流れたような気がする。
 だが、直ぐに義人が、
 「でも俺、増田さんに感謝してるのはホントですからね。」
 そう断ってから再び箸を取り、勢い良くチーズハンバーグに食らい付いたことで、そんな空気は一瞬で霧散してしまった。
 「そっか、うん。」
 恵理も笑って頷いて、自分のパスタを食べ始めた。
 それから一〇数分経って、無事に食事が終わってみれば、恐縮していたはずの義人はラージサイズのチーズハンバーグセットだけでは足りず、恵理に勧められるままサイドディッシュのフライドチキン&ポテトのバスケットまで一人で完食してしまった。
 (なんか俺、すっごく恥ずかしいことしちゃった? )
 そういうわけで食後の義人は、借りてきた猫状態だった。
 恵理がドリンクバーから食後のコーヒーを取って来ようとしたら、義人がすかさず立ち上がって、
 「俺が行きます。増田さんは座っててください。」
 そう言ってスタスタとドリンクバーに向かって行った。
 せめて、この程度の気遣いはさせてもらわなければ気が済まないという感じである。
 恵理はドリンクバーでコーヒーをセットしている義人の姿を見ながら、
 (そんなに気を使わなくって良いのにって言っても、やっぱ無理よねぇ。)
 と、溜め息をついた。
 恵理にとっては、たかがファミレスの食事である。高価な食事をごちそうしたわけでもないので、そんなに恐縮されても困ると思っていた。
 しかし、たとえ学生であっても、他人から同情を受けることには抵抗を感じるに違いない。人間誰しも年齢や職業に関係無くプライドを持って生きているのだから当然である。
 だから、人は他人の同情を受け取るためには勇気がいる。
 同情によって救われるピンチが大きければ大きいほど覚悟が必要になる。
 恵理は、おそらく自分が義人と同じ立場に立たされたら、恥ずかしさに耐えきれず、差し伸べられた救いの手を振り切って逃げ出してしまっていたに違いないと思った。
 その結果、プライドは守れるかもしれないが空腹を抱えて路頭に迷い、運が悪ければ自滅してしまうだろう。
 最悪の結果を避けるため、一時の恥を覚悟した義人は潔いと思う。
 たかがファミレスの食事、窮地を乗り切りさえすれば後々に恩を返すのは簡単なことなのである。たぶん、義人はそう思っているに違いない。
 (そういうとこ、けっこう好きかも。)
 ふと過った自分の思い掛けない感情に戸惑った。
 (今日、初めて会った男の子相手に何を考えてんだかぁ。)
 恥ずかしさを隠すように、そっと俯いて苦笑した。


 間もなく、義人がトレーの上に二人分のホットコーヒー、スティックシュガーとコーヒーフレッシュを乗せて戻ってきた。
 「ありがと。」
 「いえ、増田さん、ミルクと砂糖は? 」
 「うん、私は使わないわ。」
 「そうなんですか。俺も使わないから必要なかったかな。」
 義人はトレーの上に転がったスティックシュガーとコーヒーフレッシュを見ながら、お店の人に済まなそうな顔をしていた。
 「ところで吉良さんは、この後どうするつもりなの? 」
 恵理がコーヒーを一口啜ってから心配そうに聞いた。
 義人は安心感を与えるべき材料を答え返さなければならないと思ったのだが、何も思い浮かばなかった。
 だが、散々お世話になった相手に、これ以上の心配を掛けるわけにはいかないと思ったので、今できる精一杯のこと、つまり強がって見せることにした。
 「そうですねぇ。取り敢えず泊まれるとこ探そうかなって感じですけど、ダメなら朝までやってるお店を見付けて暇つぶしてますよ。」
 そんな義人の強がりを見透かしたように、
 「所持金一二〇〇円で泊まれるとこ探すの? 朝までやってるお店って居酒屋、カラオケ、ファミレス、メディアカフェとかでしょ。一二〇〇円じゃ難しいかもよ? 」
 恵理は、痛いところを突いてきた。
 そう言えば、出会って直ぐに所持金の額を聞かれて、素直に答えてしまっていたのだ。
 それでも義人は、ここで負けるわけにはいかないと思った。
 「さっき、一二〇〇円で泊まれるカプセルホテルを見付けたんです。まずはそこを考えようかなぁなんて。」
 大通公園のベンチに一人でいる時に自分で却下した案を再び持ち出してみたのだが、
 「そしたら、所持金ゼロになっちゃうじゃない? 」
 義人もそこを考えて却下していたのだから、これは当たり前の意見だった。
 (うーん、困った。)
 安心感を与えられるような材料が全く見つからない。
 「それじゃ、うちに来ます? 」
 「え? 」
 義人は固まった。
 唐突に恵理の口が発した言葉の意味を捉えかねていた。
 そのまま受け取ったならば、
 『私の家に泊めてあげる』
 と、いう意味になってしまうのだが、まさかそれはないだろう。
 他の意味があるか、聞き違いをしたのだと思った。
 しかし、
 「私の家に泊めてあげましょうか? 」
 「・・・ 」
 これは、聞き間違いではないような気がする。
 義人は、目の前の女性が自分を、
 『自宅に泊めてあげようか? 』
 そう提案しているのだということをハッキリと認識した。
 「私は一人暮らしだし、部屋は余ってるから大丈夫よ。」
 大丈夫の意味が分からない。
 ここで、もちろん驚くに決まっている。
 「えっ、ええーっ! 」
 ついつい大声を出してしまった。
 近くのボックスにいた客やホールスタッフたちが、何事が起きたのかと一斉に振り返ったが、義人はそれを気にしているどころではなかった。
 「そっ、それは不味いんじゃないですか? 見ず知らずの、何処の馬の骨かも分からない男ですよ。ちょっと非常識過ぎやしないですか? 」
 これは正論である。反論の余地などないはずだった。
 ところが、恵理はニッコリ微笑んで意外なことを言う。
 「見ず知らずってわけでも無いみたいなのよ。何処の誰なのかってのは分かってるし。あなた、吉良和史先生のお孫さんなんでしょ? 」
 唐突に祖父の名前が出てきた。
 「今朝は気付かなかったけど、夕方、署に帰って書類整理してたら、ふと気になって、あなたから貰った東京の連絡先を確認したの。そしたら、署に登録されてた吉良和史先生の連絡先と一緒だったの。ビックリしちゃった。」
 その理由は直に分かった。
 祖父は東京都以外の道府県警察署に剣道の出稽古をすることが度々ある。
 祖父の出張先に興味が無かったのでチェックはしていなかったが、北海道を訪れる回数は他の府県よりも多めだったような気がする。出張先を聞いていなくとも、帰宅時にカニやシャケ、イクラなど海産物のご贈答品が付属しているので祖父の北海道出張は実に分かりやすかった。
 「私は、年に何度か吉良先生のご指導を受けているの。」
 それならば、確かに見ず知らずというわけではないようだ。
 海産物目当てで北海道出張を多めにしていた祖父に感謝しなければならない。
 義人は次期道場主である姉と立場を区別するため一道場生であり、祖父の弟子ということになっているので恵理とは相弟子ということになるわけだ。
 まず、そうした事情は分かった。
 分かったのだが、
 「それでも、やっぱり一人暮らしの女性の家に泊めてもらうなんて不味いですよ。増田さん警察官なのに、そんな不道徳なことしたらスキャンダルになっちゃいますよ。彼氏さんとかにも悪いですよ! 」
 「スキャンダルなんて大袈裟。それに彼氏なんていないわよ。」
 事も無げに笑ってみせる恵理に、義人は大人の女の余裕を見た。
 (この人、俺を男だって見てないんだよな。)
 それは、それで寂しいことだと思う。
 「まあ、警察官として不謹慎かもって思うところもあるけれど、行き場のない知り合いのお孫さんを寒空に放置するってのも警察官として問題あると思うの。だから、良いんじゃない? 」
 正直言って、ここまで親切に誘われたら義人も嬉しくないわけがなかった。
 だが、果たして恵理の誘いに甘えるのが正しい選択なのか?
 他に適切な選択肢はないのか?
 「ホテルに泊まれるよう、お金を貸してあげるって選択肢も考えてみたんだけど、意外にこの時期に予約無しで当日宿泊できるホテルは市の中心部に無いのよね。これは警察情報だから確かなことよ。あなたが言ってた格安のカプセルホテルだって、たぶん満室だと思うわ。空き室があるとしたらラブホテルぐらいかもしれないけど、それだって何軒か探し歩かなきゃならないでしょうし、確実じゃないと思うの。」
 恵理は筋の通った事情を話し、義人を諭した。
 もはや、これ以上断り続けていたら、返ってみっともない態度に感じられ、気を悪くされるかもしれないと義人は思い始めていた。
 既に覚悟を決めて夕食一飯の世話になってしまっているわけだが、そこに一宿が加わっても五十歩百歩のような気もしてきた。
 「ホントに迷惑じゃないんですか? 」
 「全然迷惑じゃないから、うちにおいで、ねっ。」
 恵理が優しく言ってから、義人に向かって小首を傾げるような仕草をしてみせた。
 そのビジュアルはインパクトがあった。
 (かっ、可愛いし・・・ )
 義人の最後の頑張りは、度重なるときめきに負けた。
 「それじゃ、あの、お言葉に甘えて、お邪魔させていただきます。」
 「よし、決まりね。はい、握手っと。」
 そう言って恵理が差し出した右手を、義人は遠慮がちに握り返した。
 恵理の手は一見指が細くて華奢に見えるが、意外に皮膚が堅くて逞しさが感じられる。
 (あ、竹刀ダコ。)
 恵理の手の小指と薬指の付け根に竹刀ダコが感じられたが、それは義人の竹刀ダコと同じ位置にあった。
 (そっか、相弟子なんだよな。)
 その時、義人は恵理が身近な存在に感じられたような気がしたが、同時に彼女は自分の竹刀ダコを感じてくれたのかどうかが気になっていた。


  [〇八]


 恵理の自宅は札幌市中心部を横切る豊平川の傍に立つマンションの七階にあった。
 最寄りの地下鉄駅からは徒歩五分程度で、立地条件は非常に良い。
 間取りは三室で、広々としたリビングも付いている。
 川に面したベランダもあり、一人暮らしにしては贅沢な住まいである。
 「築が古いから、中古で買った時の値段は大したことないんだけどね。」
 札幌の相場は知らないが、東京で同じような条件の物件を探したら、中古でも大した値段になってしまうだろう。
 「まあ、二、三日なら泊まってもらって全然構わないわよ。色々と今後の目処が立つまでって言ったら、そのくらい掛かるでしょ? 」
 恵理は、そう言って義人に六畳の和室を宛てがってくれたが、その申し出は本当に有り難かった。
 姉に現金書留を送ってもらう宛先ができたので直にでも段取りするつもりでいるが、それでも現金を入手するまでには二、三日掛かる。その間の居場所を与えてもらえたことに対し、義人はどうやって恩返しをするか頭を抱えなければならなくなった。
 緊張しながらも日中の疲れが溜まっていたので、意外にぐっすり眠れてしまった翌朝。
 「おはようございます。」
 挨拶をしながら義人がリビングに顔を出した時には、既に恵理は起きておりキッチンで朝食の支度をしていた。
 「おはようございます、もうすぐ朝食ができるから顔洗ってらっしゃいね。」
 一瞬、夫婦の挨拶のような気がしてドキリとしたが、
 (どちらかって言うと、親子の挨拶に近かったかな。)
 そう思って、少し残念な気持ちになった。
 それにしても、明らかにイレギュラーな宿泊者であるにも関わらず、恵理は昨夜から義人をごく自然な態度で持て成そうとしてくれている。
 (すごく新鮮・・・ )
 リビングに漂っているのは卵とソーセージの焼ける有り触れた匂いなのだが、義人には生まれて初めて体験する未知の香りに感じられていた。
 実家にいたならば、朝食の支度はもっぱら祖母と義人の役目だった。
 祖父や姉の分だけではなく、朝稽古に参加してくれている師範代や高弟の分も合わせて一〇人分くらい用意するのが恒例になっているので、吉良家の朝食支度は祖母と二人掛かりの慌ただしい共同作業になっていた。
 そのおかげで義人は気の進まない道場の朝稽古を免除されているとの事情もあったが、たまにはドラマや映画で見るような女性の手作り朝食を二人で向かい合って食べてみたいと思っていた。
 もっとも、その願望の対象はこれまで姉の恵子であったわけだが・・・
 (いや、でも増田さんの方が・・・ )
 セミロングの黒髪をクリップで持ち上げ、ノースリーブにジャージというラフなスタイルでキッチンに立つ恵理の姿は義人の心をくすぐるに十分な魅力を漂わせていたが、そのおかげで唯一無二の女性であり続けていた姉の存在が薄れたような気がする。
 (ちょっと待ってよ! )
 罪悪感のようなものが込み上げてきた。
 長年シスコンを貫いてきた身としては、姉を裏切ってしまったような気がした。
 それは姉には何の関わり合いも無い一方的な感情なので、心の内に留めておけば何の問題も無いことなのだが、義人は他の女性に魅かれるなどの経験に乏しく、こうした感情を如何に処理すべきか不慣れだった。
 「顔洗ったら、俺手伝いますから! 」
 そう言って義人は、逃げるように洗面所に向かった。
 一旦、恵理の傍を離れて気持ちを落ち着けたかった。
 (これって、良い感情? それとも悪い感情? )
 決して悪い感情であるはずが無いのに、答えの分かりきった自問自答をしている。
 (馬鹿みたいだな。)
 思わず自嘲して、水道の蛇口からすくった冷たい水を顔に浴びせた。


 食卓に並んだスクランブルエッグ、ソーセージ、レタスのサラダ、トースト、コーンスープという極々普通の朝食メニューに甚く感動しながら食べている義人の向かい側で、恵理が心無しか落ち着きの無い素振りを見せているような気がした。
 「どうしたんですか? 」
 義人が気になって問い掛けると、
 「なんとなく、人前でスッピンでいるの滅多に無いって言うか・・・ 」
 少し顔を赤くして、そんなことを言う。
 「え? っていうか全然気付かなかったけど。」
 別に義人が鈍感というわけではない。恵理の素顔は化粧していないからと言って魅力を失ったりはしないと純粋に思っている。きめ細やかな色白の肌は化粧品の助けなど必要無さそうな気がする。
 「増田さん、素顔でも綺麗だし。」
 感想がストレート過ぎたのだろうか?
 「何、言ってるの。もうオバさんなんだから、そんなお世辞受け付けないわよ。」
 恵理が拗ねたような言い方をして頬を膨らませた。
 「お世辞じゃないですよ。オバさんじゃないでしょう。まだ全然若いのに。」
 恵理の見た目は二五歳前後。昨日出会って直ぐの時もそう思ったし、素顔を見ていてもイメージは変わらない。
 「もうすぐ三〇歳になるんだから、もうオバさんよ。」
 恵理は食卓に頬杖を突き、義人から視線を反らして投げやりな言い方をした。
 若く見えても階級が警部補なのだから、キャリアでもない限り実年齢は三〇歳前後だろうと予測していたが、それは当たっていたようだ。
 「見た目がお姉さんなんだから良いじゃないですか。」
 「年齢はオバさんですけど。」
 義人は男女ともに実年齢よりも見た目年齢や健康年齢の方が大切だと思っているが、女心というものは理屈と道理で済ませられるような単純なものでは無いらしい。
 「増田さんなら、俺は三〇歳でも全然気にしないのに・・・ 」
 義人は溜め息を突きながら、そんなセリフをボソリと口にした。
 独り言のつもりで、聞かせるつもりではなかったのだが、うっかり声のボリュームを間違えてしまった。
 「え? 」
 「あっ! すみません、そうじゃなくって! 」
 打ち解けた食卓の会話の雰囲気に油断して、心の声が不意に口から出てしまった義人だったが、それが失礼なセリフであることぐらい理解できる。
 哀れなホームレス大学生を好意で拾ってくれた恩人に対して口にすべきセリフではないだろうし、そもそも出会って一日しか経っていない女性に対して軽率だと思う。
 ところが、
 (あれ? 機嫌治ってる。)
 つい今し方、年齢を気にして拗ねていたというのに、今はニコニコしている。
 (気を悪くされなかったなら良いんだけど。)
 結局、恵理は義人の失言について何の言及もせず、話題は別な方向に流れて行ってしまった。それは大人の対応と言うべきなのかもしれない。
 義人はホッとしたが、恵理が何の反応も見せずにいたことは少し残念に思えていた。
 朝食の後、
 「はい、これ。無いと不便でしょう? 」
 そう言って、恵理は食卓の上に一万円札を一枚置いた。
 義人は即座に深々と頭を下げた。
 頭を下げるだけでは足りず、土下座をしても良いと思った。
 「借用書を書かせていただきます! 」
 そこまでしなくて良いからと言う恵理を制して、無理矢理に紙とペンを借りて借用書を作り、拇印を押して渡した。
 「律儀ですねぇ。」
 恵理は笑っていたが、義人は大真面目だった。
 実力が無い以上、感謝の気持ちは態度で示すしか無いのである。


 「それじゃ、私は仕事だから、後は好きにしてて良いからね。」
 身支度を済ませた恵理は、義人に留守中の注意事項を伝えてから出勤していった。
 「はい、ありがとうございます。いってらっしゃい。」
 義人は玄関に立って見送った。
 今日は土曜日なのに恵理は休みではないらしい。
 私服で警部補なのだから本来は日勤のはずだが、仕事が立て込んでいると休日は簡単に返上されてしまうところが警察官という職業の辛いところだろう。
 三月二九日。只今の時刻は七時半。
 義人は朝食の後片付けを任せてもらったので、まずはその仕事を始めた。
 次に、後頭部の怪我に医者から貰った薬を塗ってから包帯を巻き直した。
 その後で固定電話を借りて姉に現状の報告をし、現金の送付をお願いした。
 その際に、
 「あんた、やればできんじゃん! 」
 と、わけの分からない褒め言葉と冷やかしの言葉を戴いたが、これは無視した。
 以上で、義人の本日すべきことは終わってしまった。
 そして、時刻は八時半になった。
 (これからどうする? )
 窓の外を見ると天気は快晴だった。
 特にすることも無いので、
 (近場を散策でもしてみようか? )
 そんな感じで過ごすことにした。
 ドアのパスワードとカードキーは預かっているので外出は可能である。
 (どういうわけか、完全に信用されちゃってるみたいだなぁ。)
 もちろん嬉しいが、不思議さと半々だった。
 (信頼にはキチンと応えるつもりだけど、恩返しって何が良いんだろ? )
 いまいち、こういう場合の大人の付き合いというのが分からない。
 (食事は食事で返すべきだろうか? それじゃ泊めて貰ったお礼は? 借りたお金って利子を付けた方が良いの? )
 外出する準備をしながら色々考えてみたのだが全く良い案が浮かばないので、姉に知恵を借りようかとも思った。
 (こういうことは姉ちゃんよりも爺ちゃんとか婆ちゃんに聞くべきなんだろうけど、二人とも海外じゃなぁ。)
 まあ、そういうことは後々ゆっくり考えれば良いことにして、取り敢えずは散策に出掛けることにした。
 義人はマンションを出て、窓から見えていた豊平川の河川敷に向かった。
 土曜日の午前中ということもあり、河川敷にはジョギング中の若者から、ウォーキング中のお年寄りまで少なくない人出があった。川に並行してサイクリングロードが延びているので自転車も多く、小さなグラウンドでフットサルを楽しんでいる子供たちもいる。
 そんな明るく長閑で健康的な風景を眺めながら、義人は遊歩道を川の上流に向かって歩いて行った。
 それにしても、天気は快晴だが、日差しの明るさのわりには随分と肌寒い朝だった。
 周囲に障害物の無い河川敷では、風も強く冷たく感じられる。
 義人は、ヒートテックの上に長袖のフリースを着て、その上にスキージャケットを羽織り、マフラーにニット帽まで冠っているのに、もう一枚着込んで出てくれば良かったと後悔していた。
 (雲が少ないから、放射冷却ってやつかもな。)
 こういうところが北海道らしい春の朝なのだろうと空を見上げながら思った。
 取り敢えず、マンションに戻るのも面倒なので我慢することにした。
 (歩いてりゃ、そのうち暖かくなるさ。)
 義人は河川敷から見える札幌の風景を眺めながらユルユルと歩いた。
 (ホント、山って意外に街から離れてんだな。)
 ラーメン屋の奥さんや恵理にも言われたが、確かに山は近くない。
 遥か南と西の方向に見える山々は薄青く霞んで見えるほど遠いし、それ以外の方向には何処までも街が続いているだけで山など何処にも見えない。
 (それじゃ、どうして羆が街に出没してんだろ? )
 改めて、その奇妙さを実感した。
 キタキツネが街中に出没してゴミを漁っているという話は良く聞くが、それはキタキツネのような小動物だからこそ可能な話である。
 カモカモ川添いの通りで遭遇した羆の大きさを思い出してみた。
 (あんなバケモノを見過ごしたりはしないだろう。)
 増田さんや病院まで取材に来たマスコミ関係者には三メートル超の羆と伝えたが、
 「恐怖のため大きく見えたんじゃないですか? 」
 などと、失礼なことを言う記者がいた。
 確かに恐ろしかったし恐慌状態に陥ってはいたが、立ち上がった羆の頭が、その背後に見えたホテルの入り口に突き出した庇の高さを越えていたのを憶えている。
 そんな巨大な生き物が、札幌の市街地を人目に触れず移動するなど有り得ないということが、義人にも漸く分かってきた。
 (増田さんは、どう考えているんだろう? )
 捜査を担当する警察官であるからには、何らかの推測を立て動いているに違いない。
 (聞いたところで、民間人には教えてくれないだろうけどね。)
 自分も関わった事件であり興味もあるが、警察の捜査状況など知ったところで素人にはどうしようもない。恵理の仕事が順調であるように祈りながら、事件が明らかになるのを待つべきだろう。
 (っと、そろそろ暖かくなってきたぞ。)
 三〇分以上も歩き続けていたので身体は十分に暖まっていた。寒さが気にならなくなっただけではなく、マフラーを巻いた首筋に汗が浮かんでいたほどだった。
 気付けば喉も乾いており、前方に掛かった大きな橋の袂にドリンクの自動販売機が見えたので、そこまで歩いてから水分を補給することにした。
 (けっこう遠くまで来たみたいだね。)
 来た道を振り返ってみると、蛇行する川に沿って歩いてきたので出発地点は隠れて見えなくなってしまっていた。
 (帰りは橋を渡って対岸から戻ってみるか。)
 そんな風に考えながら、辺りを見回していたら、気になるモノが目に飛び込んできた。
 義人が歩いている遊歩道から土手を下った少し先の川岸にキラキラと陽の光を反射する小さな板状の物体が落ちている。
 (タブレット型携帯? )
 それには見覚えのある大きめのストラップが付いていた。
 (って、俺んだろ! )
 ストラップは姉に無理矢理付けられたスワローズのマスコットキャラクター。東京ならともかく、北海道でそんなモノを付ける人はいないと思う。
 大急ぎで土手を滑り降りて川岸を走り、タブレットを拾い上げた。
 (やっぱり! )
 間違いなく義人のタブレット型携帯通信端末である。
 液晶画面の一部が割れて変色しており、壊れてしまっているのか、それともバッテリー切れなのか分からないが電源は入らない。
 (リュックのポケットに入ったまま羆に奪われてしまったのに何故ここにある? )
 浮かんだ疑問とともに背筋に悪寒が走った。
 (まさか! )
 義人は周囲に素早く目を配った。近くに羆がいるのではないかと思ったのだ。
 しかし、羆の姿は何処にも見えなかった。木や草むらの陰に潜んでいる気配もない。
 その代わり、同じく川岸に新たな気になるモノを見付けた。
 茶色いビニール製のパスケース。拾って確かめてみると東京大学の学生証である。
 それも間違いなく義人のものだった。
 学生証も携帯通信端末と一緒にリュックサックのポケットに入れていたのだが、それらは羆に運ばれる途中にこぼれ落ちたのかもしれない。
 (そうだとすれば、ここは羆の通り道ってことじゃないか! 増田さんに教えてあげなくちゃ! )
 これは、たいへんな発見だと思ったのだが、運の悪いことに恵理の連絡先が書かれた名刺はマンションに置きっ放しにしてしまっていた。
 (くそっ、走って戻って連絡するか? )
 この場を離れる前に、他に落ちているものはないか探しておくことにした。
 義人は這うようにして付近の川岸を探ったが、早々に三つ目を見付けた。
 (実家の鍵じゃん。)
 キーホルダーにぶら下がった古臭いシリンダー錠のキーである。
 続いて、
 (このグシャグシャになったポケットテッシュも、たぶん俺のだ。)
 さらには、リュックサック本体から剥がれてしまったポケットの一部分が落ちていた。
 (上流に向かって、点々とって感じだな。)
 もしくは下流に向かって点々とかもしれない。
 (おっと、あれはハンカチだ。)
 今度は河原の上流に向かう行く手を遮るように密生する冬枯れした雑木の枝に引っ掛かっていたハンカチを見付け、それを手に取ったのだが、
 (おや? )
 辺りに川の流れとは異質な、別の水音が聞こえていた。チョロチョロと水が細く流れる音のようだったが、それは風の鳴るような反響音を伴っていた。
 (この向こうからだよな? )
 折り重なった雑木の枝の隙間から何かが見える。
 (人工物だ。)
 それは土手を垂直に抉って設置された大きなコンクリート製の壁だった。
 その壁の真ん中には、
 (トンネルか? )
 と、思えるほどに大きな丸い横穴が開いていた。
 その穴の長径は義人の身長の二倍もありそうだったが、中からは染み出すような細い水が流れ出し、河原を横切って豊平川に注いでいる。
 (音の出所はこれか。)
 義人は雑木を掻き分けて穴に近付くと、その中を覗いてみた。
 (かなり深そうだな。)
 穴は水平に真っ直ぐに延びており、ある程度から先は陽の光が届かないので何処まで続いているのか見当も付かない。
 穴の入り口には小さな金属プレートが貼り付けてあった。
 『札幌市水道局 第七号雨水誘導管』


  [〇九]


 義人はマンションまで引き返すのを止めて近所に見付けた交番に駆け込み、そこにいた警察官に事情を説明し、中央警察署の羆襲撃事件担当者に連絡をしてもらった。
 数分後、駆け付けてきた中央警察署員の中に恵理の姿が無かったので少し残念な気持ちになったのだが、事件の担当者が一人というわけではないので、これはやむを得ないことと我慢した。
 (できれば、増田さんに直接連絡したかったけど・・・ )
 至急調べてみたいことができたので、できるだけ時間を節約したかった。
 現場検証の立ち会いには三〇分ほど掛かったが、それが終わり次第に義人は徒歩で市街地へ移動した。
 (図書館があれば良いんだが、無ければメディアカフェでも良いや。)
 義人は、もしかしたら自分は大きな手掛かりを発見してしまったのかもしれないと思っていたが、その確証を得るためには裏付けになる情報が必要だった。
 そのことを、先ほどまで一緒に現場検証していた警察官たちには話してはいない。
 確証のない素人推理を笑われたくなかったということもあるが、これを最初に話すなら恵理だと思っていた。
 市街地への移動途中、見覚えのある街並みを横目で見た。
 (こんなに近かったんだカモカモ川。)
 義人が羆に遭遇した地点とリュックサックの中身を拾った場所は意外なほど近かったようである。
 (うん、これも俺の推理の裏付けになるぞ! )
 そう意気込んだ義人の目に、紺地に真っ赤な太字で大書きされた店頭立て看板が飛び込んできた。
 『インターネット&カラオケ&オンデマンド使い放題! マンガデータ一〇万三〇〇〇タイトル! フリータイム二〇〇〇円! 』
 一番最初に辿り着いたメディアカフェである。
 (二〇〇〇円かぁ、図書館なら無料なのに。)
 土地勘が無く、地図も持たない義人が数の限られる図書館を探すのは難しいだろう。他に安いメディアカフェを見付けるのに掛ける時間も惜しいと思う。
 恵理から借りた貴重な現金の一部を消費するのに躊躇はするが、
 (えーい! 今は緊急事態だから良いことにするっ! )
 もしかしたら恵理の手助けにもなる有意義なことに使うのだからと納得して、義人は店のドアを開けた。
 「ん、らっしゃいっせぇー。」
 アルバイトらしき男性店員のやる気の無い挨拶。
 土曜の午前中からメディアカフェを利用する客は少ない。パーティールームも個室も殆どが空室を表す赤ランプが点灯している。僅かに緑色のランプが点灯している個室はあるが、それらは宿泊利用者だろう。
 そんな時間帯には、最もやる気の無い無愛想なアルバイトがシフトに入っているのも頷ける。
 義人はカウンターの中に突っ立ったままニコリともしない商売っけ無しのアルバイトに二〇〇〇円を支払い、
 「ごゆっくりぃ、どっぞー。」
 と、全く心の籠らないおもてなしを聞き流し、カードキーとウェルカムドリンクサービスでコーラのペットボトルを受け取り、指定された個室に入った。
 そこは二畳半ほどの広さで作られたシンプルで清潔な空間。
 室内に用意された家具というか設備は、中央に置かれたリクライニング付きの多機能チェアと、それに接続されたオペレーション装置、荷物置き用に設けられたカラーボックスだけである」。
 ごちゃごちゃと場所を取る機材で狭苦しい空間が埋められていた一昔前のインターネットカフェなどに比べれば、あらゆるメディアを統合して活用できるよう設備が整えられたメディアカフェは居心地の良い贅沢な環境と言える。個室は個人用カラオケルームでもあるので、防音も万全でプライベート空間としても有効活用できる作りになっていた。
 義人は多機能チェアに座るとニット帽を脱ぎ、左側の肘掛けに付いたフックにぶら下がっているデバイスの中からヘッドマウントディスプレイを取り上げて装着した。次に右側の肘掛けに並んでいるボタンの一つを押すと、目の前の空中に体感五〇インチほどのデスクトップ画面が浮かんだ。
 (さーてっと。)
 ペットボトルのキャップを外して、コーラを一口飲んでから、ボイスコマンドを起動させた。
 「ブラウザ起動。検索サイト。」
 と、指示を与えると、インターネットのブラウザが開き、幾つかの検索サイトのアイコンが表示された。義人は、その中から使い慣れたサイトを選択して検索ワードを与える。
 「札幌市、水道局、雨水処理設備。」
 義人は豊平川で見た雨水誘導管が羆襲撃事件の重要な鍵になるのではと考えていた。
 大量の雨水を付近の河川に誘導するための地下運河は、東京ならば網の目のように配置整備されている。温暖化し全国的に降雨量の増加した二一世紀半ばの日本では、都市の多くが同様のインフラを整備していると聞いたことがある。
 (それなら、ここ札幌にもあるはずだ。)
 今回の事件の中で謎とされているのは、羆の移動経路と移動方法である。
 巨大な羆が人目を避けて市街地を移動するのは不可能であることから、出没現場が不自然だと言われているのだ。
 (しかし、移動経路が地上でなければどうよ? 地下だったら人目に付かずに移動できるんじゃないか? )
 豊平川にあった『第七号雨水誘導管』は、羆が出入りするには十分な大きさがあった。
 その可能性を確かめるには、札幌市の雨水処理設備の規模を知らなければならない。
 何度か検索ワードを変更し、漸く札幌市役所の都市計画に関するサイトで雨水誘導管の配置図が掲載された資料を見付けた。
 「画像データをポップアップ。グリッドセンターを拡大。」
 義人の指示で札幌市のモノクロ地図の上にカラーで雨水誘導管の配置を書き込んだ図がディスプレイ画面一杯に広がった。
 その図によると、東京ほどではないが雨水管は市内全域に通じており、配管の太さは細いところで二一〇センチ、太いところで三八〇センチとなっている。
 (羆が潜り込むには十分な太さだな。)
 資料の記載によると雨水誘導管の工事は二〇三一年に完成しており、現在は工事中の箇所が無い。
 (一〇年も前に工事が終わってるなら、羆が配管の中をウロウロしても人間と出っ会すことは滅多に無いってわけだ。)
 義人の推理を肯定する材料が重なってきたようだが、最も重要なポイントは次にある。
 雨水を誘導する先は市内を流れる四つの河川であり、そのうちの一つが豊平川。
 義人は第七号を含む、豊平川に通じた何本かの雨水誘導管が、それぞれ何処に通じているのかを調べ始めた。
 雨水誘導管は複雑に交差しているので通じる先は一カ所ではないのだが、
 (取り敢えず、二カ所に通じて入ればビンゴさ。)
 西区発寒と白石区南郷にまで通じていれば良いのである。
 (行ける! )
 最初に羆が出没した南郷までは、豊平川から第一一号の雨水誘導管を通って白石区を流れる月寒川に出ることで移動可能。発寒へは第七号から第四号雨水誘導管に乗り換えて発寒川に出ることで到達できる。
 (なるほど、羆が出没した場所は全て川の近くってわけだ。)
 ちなみに義人が襲われた現場の傍を流れているカモカモ川は第七号雨水誘導管によって豊平川と繋がっていた。
 (これって、かなり可能性の高い推理じゃない? )
 自分的にはそう思うのだが、プロの目から見てはどうなのか?
 先ほど話した警察官たちの様子では、羆が地下の配管を利用して移動しているなどと考えている様子は無かった。一応は中を覗いて羆が潜んでいないかどうか近い所を調べていたようだが、彼らが羆の移動経路として見ているのは豊平川そのものであるらしかった。
 警察官たちが言うには、夜間の川沿いならば人目に付かずに移動することは可能とのことだったが、それだけでは南郷と発寒への移動に関しては説明つかないと思う。
 「画像データをプリントアウト。品質は高解像度で。」
 プリンターが起動して雨水誘導管の配置図を印刷している間に、義人は画面を札幌市全域の地図に切り替えて、そもそも羆は何処からやって来たのかについて考えてみることにした。
 (豊平川を上流に辿れば途中から南区に入る。定山渓から豊平峡辺りの山奥ならば羆はいるだろうし、そこから出発したら・・・ )
 だが、札幌市街地に近付くに連れ、豊平川の両岸には背の高い建物が多くなり、河川敷にはグラウンドやテニスコート、サイクリングロードなどのスポーツやレクリエーション施設が点在しているため、よほど時間を選ばなければ人通りが少なくならないような気がする。河原を歩こうが川の中を泳いで来ようが、何れにしても市街地に到達するまでに人目を避けるのは難しそうだ。
 (それじゃ、雨水管って、一番遠いところは何処まで延びてんだ? )
 もう一度、画面を雨水誘導管の配置図に戻してみた。
 定山渓や豊平峡など羆が住んでいそうな札幌市南区の山奥まで雨水誘導管が延びているならば、羆はこれを利用して市街地までやってくることができると思ったのだが、
 (さすがに、そんな遠くまでは延びてないや。)
 そもそも雨水誘導管は水捌けの悪い市街地の雨水対策用なので、山間部には無用な設備である。
 (一番遠いところで、第九号が南区の中ほどまでね。)
 その第九号雨水誘導管の終点は、山からはほど遠い位置にあった。
 (それにしても、南区って『行政管理地』が多いんだな。)
 『行政管理地』とは、過疎化して無人になった地域であり、自治体が管理している土地という意味である。全国に点在する無人化した自治体や地域では、土地や建物を個人管理に任せると治安の悪化や土地の荒廃に繋がるので、都道府県が預かって管理地とする場合が多い。
 東京でも西多摩郡の殆どが一〇数年前に『行政管理地』になっているが、人口減少が著しい札幌市では特に南区に『行政管理地』が多いようだ。
 (ところで、これは未だ生きてる施設だよな? )
 義人は、南区の『行政管理地』に囲まれた一画にある施設の名称に目を止めた。
 『北海道羆研究センター』
 雨水誘導管の終点からさほど遠く無い位置にあり、妙に思わせ振りな名称である。
 (まさか、ここが羆の出所じゃ無いよな? )
 ホームページを確認してみたら、この施設では羆の実物を飼育しており一般に公開もしているとのことであった。元々はNPOが運営していた施設だったらしいが、二年前に北海道が買い取って以降は道立の研究施設になっている。
 (飼育してた羆の一頭が逃げ出して雨水誘導管に潜り込んでたりして・・・ )
 映画やドラマでは良くあるシチュエーションである。
 (せっかくだから、ちょっと出掛けてみようか。)
 どうせ暇なのだし、近くの停留所からバスに乗れば二〇分ほどで到着するらしい。


  [一〇]


 北海道の開拓が始まって以来、羆が人間を襲った例は多いらしい。
 恵理は、その事例について『北海道羆研究センター』の中にあるプレゼンテーションルームで、同行した部下一名とセンター長からの詳しい説明を受けていた。
 松浦と名乗る六〇代後半に見えるセンター長は羆研究の第一人者であり、今回の羆襲撃事件においては重要なアドバイザーになるだろうということで足を運んだのだが、約一時間も続いた講義の中で事件のヒントになるような事柄は一つも無かったように思う。
 明治に死者三名を出した『オカダマ事件』、大正時代に死者七名を出した『サンケベツ事件』など、幾つかの事例について事細かに説明されたが、どれも今回の羆襲撃事件とは状況が違い過ぎて、参考になるような気がしない。
 (専門家の情報って言っても定説を語られるだけじゃあねぇ・・・ )
 そう言えば署を出る直前に、昨日も連絡があったという「中川博」という方から電話を受けた。羆の研究者で大学の先生ということだったが、
 (どうせ、今聞いているような羆の生態について勉強させてくれるだけでしょ。)
 専門家の意見は大切だが一人から聞ければ十分だと思っていた。
 (だって、何か話したそうにモジモジしてるわりには、自分から進んで話そうとか、協力しようって感じが無かったのよね。)
 この忙しい状況下で、敢えてこちらから協力を求めるような相手ではないと思った。
 恵理が気を逸らしている最中も、松浦センター長の羆に関する講義はお経のように淡々と続いていた。
 我慢して聞いている中で唯一興味を持ったのは、羆に襲われた場合は荷物を置き去りにして時間稼ぎをするのが有効な場合もあるという指摘である。
 その対処方法が常に確実というわけでは無いらしいが、
 (あの子が助かったのは、そういうわけなのよね。)
 昨夜から自宅に保護している、羆に全財産を奪われて途方に暮れていた大学生の男の子の顔を思い出した。
 そう言えばセンターに到着して直ぐ、その男の子が豊平川の河川敷で羆に奪われた荷物の一部を発見したので、羆の足取りに関する手掛かりになるのではとの連絡が中央署から入っていた。
 (まさか、あの子、自分も羆を探してやろうなんて馬鹿なことを考えちゃいないでしょうね? )
 素人が妙な敵愾心を抱き、個人の思いつきで行動してみたところで有効な捜査などできるはずが無い。今回の羆は行動が予測不能であり神出鬼没なのだから、中途半端に後を追ったりしていると、うっかり遭遇してしまう危険性が無いとも言えない。
 (たまたま、荷物を見付けたられたのだから、それだけで喜んで引き上げてくれていたら良いんだけど。)
 松浦センター長の話にはとっくに飽きていた恵理は、先ほどから頭の中で別なことばかり考えている。
 隣に座っている部下も同様のようで、時折姿勢を崩して船を漕いでいた。
 「・・・以上で私の説明は終わりますが、これで羆の生体は十分にお分かりいただけましたでしょうか? 」
 唐突に松浦センター長の話が終わった。
 唐突と感じたのは恵理が後半を聞き流していたからであり、話の流れとしては終わるべくして終わったのだと思うが、
 「あ、ありがとうござます。」
 恵理は慌ててお礼を言いながら、隣でウトウトしている部下を肘で突ついた。
 そんな無礼な態度に、松浦センター長は一切お構い無しの様子だった。
 徐に眼鏡を外して、ポケットから取り出したハンカチで汚れを拭き取りながら、
 「質問などありましたら、お受けいたしますが? 」
 と、事務的な流れで対応してくれた。
 「それじゃ、一つ伺います。」
 恵理は、膝の上に抱えていた『北海道羆研究センター』のパンフレットやら、セミナーの案内チラシやらを、未だ目が覚めきっていない部下に無理矢理押し付けて一番下になっていたタブレットPCを取り上げてメモの準備をした。
 「あの、羆という動物は人間が飼い馴らせるものなんでしょうか? 」
 これは、もちろん昨日から気になっていた「羆を使って殺人を行っている者がいるのではないか? 」という持論に基づいた質問だった。
 松浦センター長は汚れを拭き終わった眼鏡を再び掛けてから恵理の質問に答えた。
 「ええ、飼い馴らせますよ。実際、動物園や温泉地の施設などで飼われている事例があるでしょう。」
 恵理は、そういう意味ではないと言った。
 「例えば、警察犬のように特殊な訓練を施して、人間の命令に従わせるということはどうですか? 」
 「サーカスなどでは羆に芸を仕込んだりしているわけですから、ある程度は可能だと思いますよ、でも、警察犬のように人間に絶対服従させるとなると、それはどうでしょう。」
 松浦センター長は恵理の質問の意図が図りかねているようで、
 「何かお考えがあっての質問ですか? 」
 と、訝しげな顔で聞いた。
 「えっと・・・ 」
 恵理は根拠の甘い素人考えを専門家相手に持ち出すことに少し躊躇したが、せっかくの機会なので昨日から頭にこびり付いている可能性について意見を伺ってみることにした。
 「あの、これは羆については全く素人の私が思い付いた推理ですから、一笑に付されても構いませんので聞くだけ聞いてください。実は、今回の羆は人間に操られているのではないかと思ったんです。」
 松浦センター長は笑い飛ばしたりはしなかったが、
 「これは、奇妙な意見ですな。」
 と、少し驚いたように言って眼鏡の奥の目が不自然に瞬いた。
 「羆が出没した現場は間に市街地を挟んで三カ所。それぞれ人目の多い地域です。その間を野生の羆が誰にも目撃されずに移動できるはずが無いと思うんです。そこで私は、羆が人の手によって輸送され、事後に回収されたという可能性を考えたのですが、いかがでしょうか? 」
 「・・・なるほど。」
 松浦センター長は二、三度頷いた。
 ついでに米神の辺りもピクピクしていたが、恵理は松浦センター長が素人の突拍子も無い意見に応えるのを煩わしく感じているらしいと察した。
 「その羆、目撃された際は傍に飼い主や調教する人間が付き添っていたりはしていませんでしたか? 」
 「いえ、そのような証言はありませんでした。発寒の中学校を襲った時は多くの目撃者がいましたが、羆は単独で行動していたようです。」
 「それならば、無理でしょう。」
 恵理の考えは、あっさりと否定されてしまった。
 「おそらく、あなたは警察犬や鷹匠が扱う鷹のように笛や号令などで遠隔操作できる動物をイメージされていると思いますが、羆相手にそれは無理ですね。確かに羆は飼い慣らせはします。生まれて間もなく目の開かないうちに親から引き離せば人間を親だと思って慕ってくれるでしょう。でも、羆という生き物はどんなに懐いても犬や鷹のように人間の自由になったりはしないんです。簡単に言えば強過ぎるんですな。それに野生の本能を消すことも難しい。トラやライオンと一緒ですよ。飼い主が殺されたり怪我を追った事例など沢山あります。専門の調教師が上下関係を叩き込んで芸をしこんだところで、一旦その手を離れて自由になったら、再び檻の中に戻すことは非常に難しいでしょう。しかも、人を襲って、その弱さと味を覚えさせてしまったら、再び調教師の意のままにできるかどうか疑問ですね。しかも三度も連続しているのでしょう。ちょっと、有り得ませんねぇ。」
 「そうなんですか? 可能性は全くありませんか? 」
 「全くとは申しませんが、万が一程度の可能性しかないです。」
 松浦センター長の口調は穏やかだったが、その否定の仕方には素人に有無を言わせない強さが感じられた。もちろん、恵理の考えを頭から否定して嘲笑うようなことはせずに、キチンと筋道立てて説明した上での否定なので無理に抗いようは無い。
 (そ、そうなのか・・・ )
 自分の中でも肯定と否定が半々状態であり、荒唐無稽な推理のような気もしていて上司や部下に話すのを躊躇っていたわけなので、早々に専門家によって否定されたのは拘りを断つためには良かったのかもしれない。
 (不動産業者を狙ったエコテロリストの仕業じゃないってことか。)
 しかし、それならば羆の出没に関する謎はそのままになってしまったわけで、今後の捜査における手掛かりは何も無いということになる。
 当分は頭を抱え続けていなければならないらしい。
 プレゼンテーションルームを出てから、松浦センター長は恵理たちを羆の飼育施設に案内してくれた。
 施設で飼われている羆の数は六頭。
 耳に何らかの装置の付いた黄色いタグを取り付けられて、人間に寄る完全管理の状態にある羆たちである。どの羆も長閑そうな顔を並べて、ノンビリと寛いでおり、ガラス越しに覗き込む恵理たちに面倒臭そうな視線を向けていた。
 但し、一見無害そうに見える羆たちの全てが、人間を遥かに越える体格と鋭い爪を持っている事実を見逃しようはなかった。
 飼い馴らされているという意味は、こういうことなのだろうと恵理は理解した。
 彼らは徹底的に牙を抜き、大人しく、穏やかで、平和的に躾けなければならないのである。凶暴に育て、殺人を仕込み、遠隔操作をするような芸当はできそうにないと実感せざるを得なかった。
 「まあ、私も不思議に思ってはいるんですよ。基本的に羆は人間を恐れて避けようとしますから、食べ物を探して人里に降りてくることはあっても、街中を長時間移動して人間を襲うなんて、普通は考えられませんからね。」
 その点に関してアドバイスできないことを松浦センター長は頻りに詫びながら、
 「事件が三カ所に別れているなら、いっそ羆が三頭いると考えた方が自然かな? 」
 などと口にして、それが安易な考えであると直に思い直したらしく、
 「いや、これは冗談。失礼しました。」
 そう言って苦笑した。
 「先ほどDNA検査の結果が届きましたが、三件とも同一の羆だったということですからねぇ。」
 恵理も困ったような愛想笑いを返した。
 せっかくの推理を完全否定されてしまった恵理に気遣っているのか、施設の案内を始めてからの松浦センター長は口数が多くなった。
 (でも、全然役に立つ情報が無いのよねぇ。)
 今日の『北海道羆研究センター』訪問における収穫は、自分の甘い推理を否定してもらったことだけのようである。
 「おやおや、珍しい。お客のようだ。」
 松浦センター長が飼育施設入り口のドアが開き、ガイドに伴われて入って来た一人の青年に気付いた。
 吊られて振り返った恵理だったが、
 「あ、増田さん! 」
 こちらに気付いて驚いている顔見知りの男の子が声を掛けて来た。


 「同じ札幌市内でも随分違うもんだなぁ。」
 義人は、札幌市南区の奥にある定山渓温泉行きのガラガラに空いた路線バスの中で窓の外を眺めながら溜め息を漏らしていた。
 (廃墟だらけじゃないか。)
 入り口や窓を板で封鎖された大型ショッピングセンターやパチンコ店などが道路添いに頻繁に現れ、その広々とした駐車場のアスファルトは罅割れて、雑草や雑木が生えるままに放置されている。それと、目につく限りの住宅の半分ぐらいは人の住んでいる気配がしなかった。
 (政令指定都市でも、こんなことあるんだな。)
 事前に下調べしておいたが、二〇四〇年の人口調査によると南区の人口は約六万人。六六〇平方キロメートルという、義人が住む東京都武蔵野市の六倍以上もある広大な面積の中に住む人口としては非常に少ない。
 『次は石山通り第五。石山通り第五です。北海道羆研究センターにお越しのお客様は、こちらでお降り下さい。』
 通りの名前に番号を付けただけの田舎に有りがちな停留所名を伝える音声アナウンスに従って、義人は降車ボタンを押した。
 札幌市の中心部からバスに乗車して二〇分少々。道が空いているせいかバスは少しも遅れずに定刻どおりに到着した。
 (はあ、何にも無いとこだな。)
 周囲に見えるのは山と川。それと住宅の跡地と廃墟。
 バスの去って行った方向を見ると、付近で唯一の大きめな建物である『北海道羆研究センター』が、一〇〇メートルほど離れた位置にポツンと建っていた。
 (探しまわる必要がなくて良かったな。)
 バス停から一分も歩かないうちに、義人はレンガ造り二階建ての『北海道羆研究センター』正面入り口の自動ドアを通り、小綺麗で広々としたエントランスに立っていた。
 よほど訪れるものが少ない施設らしく、見学者用の受付窓口に座っていた女性が少しだけ驚いていた。
 「大人、お一人様六〇〇円です。」
 なんと、施設見学は有料。しかも、学生割引は高校生までである。
 せっかく取り戻した学生証を提示したのに意味は無かった。
 (ぐうぅっ! バス代と合わせて一〇〇〇円超の出費・・・ )
 貴重な現金が簡単に失われていく。
 (どうせ一本道だし、帰りは歩こう。)
 悲しい決断をしながら、どうせ見学料を払わされてしまったからには、羆事件の手掛かり探しは別として、できる限り楽しんでやるつもりになった。元々、科学館とか博物館とかいう類いの見学は大好きな質だったので、この施設自体にも魅力は感じている。
 そして、見学を初めて直に思った。
 (割と面白いじゃん。六〇〇円は安いかも。)
 北海道の自然と羆をテーマにした穏やかな展示から始まり、開拓が始まって以降に起きた不幸な事件の展示も見た。おそらく今回の事件も、そのうち展示に連なることになるのだろう。
 展示室の最後、ビデオルームに入って羆の生態を記録した映像を鑑賞していたら、先ほど受付にいた女性が声を掛けて来た。
 「これから、羆の飼育施設をご覧になるなら、案内させていただきますよ。」
 土曜日だというのにセンター内には義人の他に客は誰もいない。スタッフは暇を持て余しているのか、唯一の見学者にサービスしてあげたくなったのかもしれない。
 「ぜひ、お願いします。」
 義人は、喜んでこれに応じた。
 「それじゃぁ、まず小羆の飼育施設からご覧戴きますね。」
 そう言って、案内された見学先は生後三ヶ月という二頭の小羆が飼育されているゲージだった。強化ガラス越しに見る小羆の姿は実に可愛らしかった。
 「この冬に施設で誕生したんですよ。今は、やんちゃな盛りですねぇ。」
 忙しなく不安定な足取りでドタドタとゲージの中を歩き回る小羆たちの体長は五〇センチ前後しかなく、義人が目撃した巨大な人食い羆のイメージには全く繋がらなかった。
 「ここの羆は冬眠してないんですか? 」
 「その必要は無くなるんですよ。」
 動物園の羆と一緒で、普通に餌が与えられる環境では冬眠はしないそうである。
 「それにしても、可愛いですね。どのぐらいで大人になるんですか? 」
 「親元を離れるまでには二年。成獣になるまでには四年ぐらい掛かります。」
 兄弟同士で戯れ、遊具で遊ぶ小羆たちの様子を見ながら自然と顔を綻ばせていた義人だったが、一つの遊具をじっと見ているうちに、あることに気付いた。
 「あの奥にある遊具って、何するものなんですか? 」
 「え? どれですか? 」
 「あの、大きなブロックに穴の開いてるやつですけど。」
 それは、プラスチック製の四角く大きなブロックに直径五〇センチほどの穴が開いている遊具だった。
 「ああ、トンネル遊び用の遊具ですね。」
 「トンネル? 」
 その言葉を聞いて、義人の顔から笑みが消えた。
 「小羆たちが潜って遊ぶんですけど、何か? 」
 義人が、いきなり険しい表情を見せたので女性は怪訝そうに首を傾げた。
 「あれって、いつ頃から設置されてるんです? 」
 「いつ頃? えっと、ここが道の施設になる前からあったから、たぶん最初からあったんじゃないかな? 」
 「最初からですか? この施設って、できてから何年目なんでしょう? 」
 「NPOが管理してた時と合わせて、もう一五年ぐらいになるんじゃないかしら。」
 その答えを聞いた後、暫く黙ったままで小羆たちの動き回る姿をガラス越しに見つめていたが、今、義人の目にはスケールの全く違う遊具の穴が、豊平川の第七号雨水誘導管と重なって見えていた。
 「羆って、穴に潜る習性ってあるんですか? 」
 「冬眠する時は穴に潜りますよ。」
 「いや、そういうんじゃなくて、例えば地下のトンネル、下水道とかに生息するとかいう感じで・・・ 」
 それは無いと言って、女性は手を左右に振った。
 「基本的に森林地帯とか広々とした大自然に住む生き物ですからねぇ。ネズミなんかと違って地面の下を徘徊するなんて有り得ませんよ。」
 「でも、本来は川や海に棲息するはずのワニが下水道の中で生息するなんて話もあるでしょう? 」
 ここで女性は、自身が獣医学を学んでいる大学生院生であるという前提を提示した上で義人の考えを一笑に付した。
 「下水道ワニは有名な都市伝説だけど有り得ないわ。そもそも下水道に流れる汚水って有害物質だらけなのよ。栄養も酸素も殆ど無いし、大きな生き物が生息できる環境に無いわ。今時の下水道の中って、人間が入る場合も防毒マスクが必要なほどだって知ってます? 」
 「うーん、そうなのか・・・ 」
 専門家に言いきられてしまうと、ここまで重ねて来た推理が壁に突き当たってしまったような気がする。
 しかし、
 (でも、雨水管って下水と繋がってないんじゃないか? 雨水は川に流れ込むようになってるし、下水は汚水処理施設に繋がるはず・・・? )
 その点を確かめてみなければ、未だ自分の考えを捨てるのは早いような気がした。
 「そろそろ次に進みましょうね。」
 親羆のゲージを見ましょうと促されながら次のコーナーに移動した義人は、突然順路の逆方向からやってきた先客を見て驚いた。
 「あ、増田さん! 」


  [一一]


 「意外ですねぇ。吉良さんが、お料理上手だったなんて。」
 この日の夕食、義人は世話になりっぱなしの恵理に対して、せめてもの恩返し第一弾として手料理を振る舞った。
 まったく、僅か一日で義人は恵理にどれだけ世話を掛けたか、全て思い出して順に並べてみると恥ずかしくなる。
 『北海道羆研究センター』で出会った際も、公務中だというのに義人を市街地まで車で送ってくれたし、ついでにお茶までごちそうしてくれた。
 「増田さんのために、晩ご飯用意して待ってますからっ! 」
 そんなことを口走るぐらいしか恩返しの術を思い付かない現状が悔しかった。
 但し、材料代は恵理が全て立て替えという形で出資しているので、果たして恩返しと言えるかどうかは疑問である。後日必ず材料代は返すつもりでいるのだが、恵理が受け取ってくれるかどうかは分からない。
 悩んでいてもしょうがないので、取り敢えずは食卓に並べた料理を恵理が喜んでくれたことに満足して、お金の問題は後々にまわすことにした。
 ちなみに、メニューは恵理が好きだと言うのでイタリアン。彼女は特にナスとトマトのスパゲッティがお好みだったようだ。
 「美味しかったぁ。ごちそうさま。でも、こんな夜遅くに沢山食べちゃって、太ったら嫌だなぁ。」
 恵理が帰宅したのは二二時半頃。
 食事が終わった現在は、既に日が変わってしまっていた。
 「一日くらい平気ですよ。疲れて帰って来たんですからキチンと食べるべきです。」
 後片付けを終えてリビングの食卓に戻った義人は、食後のワインを楽しんでいる恵理に気にすることは無いと言った。
 「そんなこと言いながら、またまた私を誘惑しようと思ってるのね。」
 ワインの肴になればと、冷蔵庫の中にあったモノプリのラベルが付いたコンテチーズとクラコットを並べた皿を持って来たら恨めしそうな顔をされた。
 「いいじゃないですか。美味しいですよね、このコンテ。」
 義人は、目の前で一口大に切ったコンテを食べてみせた。
 「良いわねぇ、若者は夜中のカロリーなんか気にしなくって良くって。」
 むくれて見せながらも、恵理に我慢する気はないようで無造作にコンテを取り上げて口に放り込んでいた。
 (それにしても、可愛いよなぁ。)
 ワインの苦手な義人はビールで酒盛りに付き合っているが、ほろ酔い加減の恵理を見ていられるのは嬉しかった。
 だが、今まで姉以外の女性を見て可愛いと感じたり、見蕩れたりすることが殆ど無かったので、いったい自分が恵理の何処に魅力を感じているのかが気になってもいた。
 (姉ちゃんに似ているとこあるのかな? )
 どう見ても、外見は全く違うタイプである。その性格も、男勝りで気の強さ丸出しな姉に比べ、恵理は物腰も穏やかで口調は優しい。
 似ている所があるとしたら、
 (恵理さんは警察官なんだから、身体は鍛えてるだろうし、強そうなイメージは姉ちゃんと一緒かな? )
 その点で、「千葉佐奈子」的なイメージは共通するかもしれない。
 そのぐらいしか似てるところが思い付かないのだが、それだけで魅力的に感じるはずが無いと思っていた。
 (分っかんないなぁ? 他に理由は無いの? )
 そもそも、恋愛経験の少ない義人に分かるはずが無かった。
 男が女を好きになることは理屈ではない。些細な切っ掛けと置かれている状況次第で不意に心に火がつくものなのだ。
 「どうして? 」
 などと頭を捻っていること自体が間抜けであり無粋なことなのだと気付かないのではどうしようもないが、現状では姉以外の女性に惚れつつあるのだという自覚を持つだけで義人には精一杯で上出来だったのかもしれない。
 (でも、この完全無警戒ってところが、自分が男に見られてないってことを実感させられちゃって辛いなぁ。)
 出会ったばかりの若い男を自宅に泊め、その前でほろ酔いでいられるというのがどうにも納得できなかったが、第一印象で義人を人畜無害と判断し、それで安心してしまっているのだろうと思った。
 (何か、空しい・・・ )
 せっかく自分が惚れていても、相手が同じ気持ちでいるとは限らないことぐらい覚悟しているが、そこを考えると義人もむくれてしまいたくなった。
 もっとも、恵理は義人を男として見ていないことは無かった。
 歳が離れ過ぎているので自分が女に見られてはいないのだろうと思い、諦めて開き直ってしまっているだけだった。
 お互い、自虐的なすれ違いを起こしていたのである。
 「若者と違ってオバさんは気にし過ぎておかなきゃダメなのよねぇ。でも、美味しいものは食べたいしぃ、いつも困ってるのよぉ。」
 恵理は度々いじけたセリフを吐く。
 「増田さんはオバさんじゃないって、何度も言ってるじゃないですか。」
 義人は本気で言っているのだが、恵理はお世辞と受け止める。
 「吉良さんが、そう言ってくれるのは嬉しいですよぉ。でもね、現実は分かっちゃってるから良いんですっ! 」
 そう言ってグラスに残っていたワインを一気に飲み干した。
 空になったグラスを差し出されたので、義人はボトルを取ってワインを注いだ。
 (もう、歳の話題をするのは面倒臭いや。)
 そこで、話題を変えてしまうことにした。
 「ちょっと、提案なんですけど。」
 「ん? 何かな? 」
 義人は一つ咳払いをして、
 「吉良さんて呼ぶの止めません? なんか、名字で呼ばれるの慣れてないんで。」
 このまま名字で呼ばれ続けていたら、距離を取って接しられているようで、あまり気持ち良くない。
 「なんて呼ぶの? 」
 「友達はヨッシーって呼んでますけど。」
 恵理は少し考えてから、
 「いきなりヨッシーは抵抗あるから、義人君でどう? 」
 と、提案した。
 「じゃあ、それでお願いします。」
 吉良さんと呼ばれるよりは、遥かに距離が縮んだような気がする。
 「それじゃ、私も増田さんは無しにしてよ。」
 「何て呼びましょう? 」
 「うーん。」
 恵理は難しい顔をした。
 (まさか、友達が呼んでるみたくエリリンとかエリーは無いわよね。)
 一応年上なのだから、そこまで柔らかくしたら返って引かれるかもしれない。
 「下の名前で良いわ。」
 それが妥当だろうと思う。
 「じゃあ、恵理さんで。」
 呼び名が纏まっただけのことなのだが、互いの内心では少しだけ距離が縮まったことを喜んでいた。
 「ところで、義人君って彼女いるの? 」
 「いません! 」
 間髪入れない義人の歯切れ良過ぎる答え。
 「そこまでズバッと言われると、そんなこと無いでしょうとか、切り返してあげる余地は無いわぁ。」
 「そんな、切り返しは必要ありません。」
 毅然とした答えに、恵理は目を丸くした。
 「でも、モテるでしょ? 背高いし、東大生だし・・・ 」
 「モテません! 」
 「そっ、そうなの? 」
 またしてもフォローの切り返しができない義人の潔さだった。
 「ちょっと、義人君って今時の大学生とは随分雰囲気違う。少しも見栄はったりしないのねぇ。さすが吉良先生のお孫さんって感じかな。」
 恵理は、感心と呆れが半々に混じった溜め息を吐いた。
 「でも、好きな子ぐらいはいるんでしょ? 」
 「はい、います。」
 それは、そうだろうと恵理は苦笑した。
 義人は現役大学生だし若いのだから、身近に好きな女の子の一人や二人いても不思議は無い。そのうち、そんな子の中の一人と付き合ったりするに違いない。
 結局、自分とは関わり合いにならない男の子なのだろうと思うと、恵理は年甲斐も無く遣る瀬ない気持ちになるのが分かった。
 ところが、義人が妙なことを口走り始めた。
 「子供の頃から姉のことが好きでした。」
 殆ど爆弾発言である。
 「え、シスコンなの? 」
 「友人たちは、そう言います。」
 本来なら憚るべきことなのに、全く澱みのない答えである。
 「はあ、お姉さんが好きねぇ。」
 「はい、姉は理想の女性です。」
 とても恥ずかしいことを臆面も無く口にするので、それが不思議と面白く感じられる。
 「まあ、人それぞれだから良いんだけど。」
 図体は大きいのに未だ子供なのだと思って吹き出しそうになったが、同世代の若い子が好きと言われるよりも良かったと安心している自分も可笑しかった。
 (シスコンなら、年上ってありかな? )
 ついでに、少し期待してしまっていた。
 「でも、」
 義人が言葉を続ける。
 「恋愛的な対象と言うことならば、それはいませんでした。」
 少し引っ掛かる言葉のニュアンスを感じた。
 「・・・でした? 」
 何故過去形がくっ付くのかと思い、グラスに口を付けたまま首を傾げた。
 すると、義人は姿勢を正し、恵理の目を真っ直ぐに見つめながら、
 「実は昨夜から、恋愛対照的に好きな人ができました! 」
 と、これまでで一番歯切れの良い、一番毅然とした、潔い一言。
 「えぇっ? 」
 驚きの声を発した瞬間、喉の奥に流れ込もうとしていたワインが、いきなり方向を変えて器官に侵入した。
 「ゲェッ! ゲホッ! ゴホッ! ウゥッ! 」
 「大丈夫ですか? 」
 向かいに座っていた義人が立ち上がり、恵理の隣に移動して背中をさすってくれた。
 「大丈夫っ、大丈夫だから、ゲホッ! 」
 咳き込みながらも背中に回された義人の手を取り上げて、そのまま引き下ろすようにして自分の隣の椅子に腰掛けさせた。
 義人にさすってもらった背中の感触が何となく気持ち良かったので慌ててしまった。
 だから、その手を引き離すのは惜しいような気もしたが、
 (だってノーブラだし、背中でも恥ずかしいわよっ! )
 帰宅して直ぐシャワーを浴び、そのまま部屋着のスウェットに着替えていたので、下着は薄手のノースリーブしか身に付けていなかった。
 義人の予期せぬ発言とスキンシップのおかげで、今の自分の顔は真っ赤になっているに違いない。スッピンだから隠しようは無いが、酔っているので顔は元々赤かったし、気付かれたりはしていないと思うが・・・
 「ふぃーっ! 」
 漸く喉の調子が治った恵理は、微かに残った違和感をワインで押し流した。
 チラリと隣に目を向けると、そこには何事も無かったようにコンテ片手にビールを飲んでいる義人がいる。
 (何なのよ、この子? )
 自分の中の大人の女心が掻き乱されたのは悔しかったが、今し方義人が漏らした一言は大いに気になった。
 「さっ、昨夜好きな人ができたって、また急な話よね。その、あの、できたばかりの好きな人って誰なのかしら? 」
 昨夜、義人が出会った女性と言ったら、どう考えても自分しかいないではないかと強く思いながら、彼が何と答えるのかをドキドキしながら待った。
 すると、義人は相変わらずの口調で、キッチリと答えた。
 「それは言えません。内緒です! 」
 「はあ? 」
 好きな相手は恵理では無いと言われてしまったような気もしたのだが、
 「恵理さんには、散々迷惑を掛けてしまってますから、まずはキチンと恩を返してから気持ちを伝えようと思ってますっ! 待ってて下さい! 」
 などと付け加えられてしまったので混乱してしまった。
 「んん? 恵理さんに? 気持ちを伝える? 待ってて下さい? 」
 それなら、義人が好きなのは自分ということではないのか?
 いや、好きな相手の話とは繋がっていないような気もするけど?
 もう、何だか良く分からなくなって来た。
 「・・・で、結局は何が内緒なのよ? 」
 「好きな人が誰かってことです。」
 「そうなの? 大変ね。」
 「そうなんですよ! 恵理さん、どうして俺を男としてみてくれないんですか? 」
 「あれ? 今、告られた? 」
 「内緒です! 」
 「もう、何が内緒なのか分からないわよ? 」
 顎をあげ、無駄に格好良い姿勢で不可解な発言を繰り返す義人の横顔を恵理は不思議そうに覗き込んだ。
 すると、
 「教えられません! あしからず。」
 そう言って、いきなり振り向いた義人の顔が不意打ち気味に近過ぎた。
 それは、互いの吐息と肌の暖かさを交わし合うほどの近さだった。
 「あ、ごめん! 」
 瞬間的に身を引いてしまった恵理だったが、少し後悔した。
 ホンの少しだけ、義人の肩に顔を埋めるぐらいしても良かったのではないか?
 その後で酔った弾みの冗談だよと笑ってみるぐらいしても良かったのではないか?
 そのぐらい、大人の女なら許されるのではないか?
 咄嗟に、そんなことを思った。
 ところが、
 「あれ? 」
 義人の様子が変だった。
 (この子、酔ってるわけ? )
 義人が飲んだビールの缶を数えてみたら結構な数だった。
 (あらら。)
 そう言えば、食事の時にはワインを飲めないというので、代わりに日本酒をグラスで三杯ほど飲ませたことも思い出した。
 (昨日から散々ひどい目に遭ってるし、疲れてたら酔っぱらいもするわよねぇ。)
 そんな風に同情していたら、義人の頭がフラフラしながら恵理の肩に倒れ込んで来た。
 「ちょっ、危ない! 」
 思わず押さえ損ねた義人の上半身が恵理の肩に当たって、そのまま薄い布に包まれただけの彼女の胸を撫でるようにして膝の上までズリ落ちていった。
 「んふ・・・まったくもう。」
 ふと、胸の先に感じた心地良さに戸惑いながら、恵理は膝の上で寝息を立て始めた大きな子供の頭をそっと撫でた。
 (たった二日で、もう包帯取れたんだね。)
 義人が今朝まで巻いていた頭の包帯は不要になったようだ。傷には薬を塗っていたようだが、髪が厚いので何処を怪我しているのかは分からない。
 (ところで、結局、私はこの子に告られたのかしら? )
 良く分からなかったが、それは大して気にすることでもないような気がしていた。


 すっかり熟睡してしまった義人の大きな身体を客間に運ぶのは無理だったので、何とかリビングのソファに寝かせてタオルケットと毛布と掛けておいた。
 (さぁて、こっちも寝るとするか。)
 恵理は明日も仕事である。
 羆襲撃事件が一段落するまでは休みを取りようが無かった。
 (手掛かりってもんが無いからねぇ。)
 心中で愚痴をこぼしながら寝室に入り、鏡に向かって髪を直していた時、唐突に『北海道羆研究センター』で、義人が松浦センター長を相手に力説していた話の内容を思い出した。
 「羆が雨水誘導管を通って、札幌市の地下を徘徊しているかもしれません。」
 最初に義人の意見を聞いた時、恵理は彼が並べた根拠は十分に理に適っており、的を得ているような気がした。
 ところが、
 「それは無いよ。羆の生態を考えたら有り得ないことだ。」
 松浦センター長はハッキリと否定した。
 一緒にいた獣医学を学んでいるという大学院生も問題外であると否定した。
 野生動物には、それぞれ生存に適した環境というものがあり、そこから外れては生きられない脆さがあるのだと彼らは言う。大自然の森林地帯の中で生きられなくなったからと言って、他の環境に引っ越せるならば羆は絶滅危惧種になどならないとも言った。
 その時の松浦センター長の語調は、恵理の推理を否定した時よりも強かった。
 しかし、それでも義人は簡単に諦めなかった。
 「羆は頭が良い動物なんですよね? だったら、自らが生き残るために工夫したりすることもあるんじゃないですか? 異なる環境に適応しながら進化を模索する生き物もいたりするんでしょう? 」
 義人の強引な意見は、それまで穏やかだった松浦センター長を苛つかせていた。
 「それでは何かい? 君は羆が進化して知恵を付けて、人間社会に挑戦するまでになったなんて思ってたりするのかい? 馬鹿なことを言うんじゃないよ! 羆がどんなに頭が良くたって、学習能力や問題解決能力に優れていたって、それは直面した物事に対してのみ発揮される力なんだよ。彼らには、人間のように先を見越して行動する力やビジョンってものを考えられるだけの知恵は無いんだ! 」
 この時、恵理は感情的になりつつあった松浦センター長の様子を心配して、義人を止めるべきかと迷ったほどだった。
 「そんな究極の進化を言ってるんじゃないです。ホンの少しの学習能力さえあれば、動物は自分に取って有益な行動を取り得るんじゃないかって話です。例えば、籠の中のインコは人が毎日の餌やりや水替えのためにシャッターを開け閉めする様子を見て、同じことをすれば外に出られると判断して実行します。動物園を脱走するサルやペンギン、アリクイなどは飼育員の行動を見ながら、脱走の方法を見付けます。その程度の記憶力と実行力さえあれば羆は地下に潜れるかもしれないと思うんです。それに、元々は山間部に住む鳥だったはずのカラスが街を徘徊するようになったのは、人間の傍にいた方が安全で餌が手に入りやすいと判断したからでしょう? 地下に潜ったら安全で獲物が捕まえやすいと羆が思っても、不思議は無いんじゃないですか? 」
 義人は、驚くほど真剣に食い下がっていたが、よほど持論に執着があったのだろう。
 恵理は義人の意外な一面を見たような気がしていた。
 だが、結局その考えは入れられず、
 「もっと、勉強してから意見は言いたまえ。東大生だからって専門外のことに軽はずみに口出しするんじゃないよ。」
 との、キツい指導を受けてから帰途に付くことになったが、松浦センター長の最後の一言は恵理が意外に感じるほどの剣幕だった。
 素人の大学生を相手にするには、些か大人げない態度に思えた。
 その後、市街地に戻る車中でも義人は持論に対する執着を無くしていなかった。
 「あの施設の羆、子供の頃からトンネルを潜って遊ぶ遊具に親しんでいるんですよね。そういう環境で育った羆なら穴を見付けたら潜ったりしませんかね? 」
 そんなことをブツブツと愚痴のように繰り返しており、
 「でもねぇ、吉良君だっけ? 大人になった羆は警戒心が強い動物だってセンター長も言ってただろう。小羆と違って不用意に雨水管なんかに潜り込んだりはしないんじゃないかなぁ。」
 などと、恵理に同行していた部下にまで嗜められていた。
 「一応、吉良君が午前中に豊平川で見付けた羆の移動経路だけどさ、雨水管の中も調べたらしいよ。羆はいなかったらしいけどね。」
 「雨水管の、どれだけ奥深くまで調べたんですか? 俺は雨水管に羆が住んでるって言ってるんじゃないんです。雨水管の中を移動しているって言ってるんですよ! 」
 部下は肩を竦めながら義人の強情さに呆れていた。
 その様子が印象に残っていたので、恵理は念のため署に帰ってから羆の生態に詳しいという同僚数名に義人の意見を伝えてみたのだが、皆が馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばした。
 (所詮は、専門知識の無い素人考えかぁ。)
 自分も、人間が羆を遠隔操作しているのではないかと、今にして思えば荒唐無稽な推理をしてしまった。
 (専門家さんには敵わないわよねぇ。)
 そう思いながら部屋の灯りを消してベッドに潜り込んだ恵理だったが、一分ほどしてムクリと起き上がった。
 (専門家さんにも、色々な人がいるかも? )
 恵理は部屋の灯りを付け直してベッドを降りた。
 (確か、スーツのポケットに入れっぱなしだったはず・・・ )
 ハンガーに掛けた上着のポケットから折り畳んだメモ用紙を取り出した。
 (中川博・・・ )
 そのままワーキングデスクの前に座るとPCを起動した。
 (大学の先生なら検索に引っ掛かるはずだわ。)
 検索サイトを開き、『中川博』と入力してエンターを押した。
 (あらら、多過ぎ・・・ )
 名前が有り触れていたので、検索結果が膨大な量になってしまった。
 (やり直さなきゃ。)
 今度は『中川博、札幌、羆』と入力した。
 すると、
 (あった・・・ )
 おそらく該当するであろう中川博のデータを見付けたが、
 (この人、『北海道羆研究センター』の前センター長なの? )
 センターがNPOだった二年前までのセンター長を務めていたらしい。
 何やら、単なるお節介な情報提供者では無さそうな予感がしてきた。
 (二度も警察に電話してきたってことは、何か大事な話をしたいのかしら? でも、進んで話をしようって態度が見えなかったのよね? )
 電話で話した際には、「話を聞いて欲しい」ではなくて「話が聞きたいならどうぞ」と、いう感じだった。
 (あの、『北海道羆研究センター』とかに関わる話なのかな? )
 別に怪しい施設には見えなかったし、義人はセンターが人喰い羆の出所じゃないかと疑っていたようだが、それはいくらなんでも飛躍し過ぎだと思っている。
 前センター長だからといって、センターに関わる話をするとは限らない。普通に羆の専門家として意見を持っているだけなのかもしれない。
 (でも、中川って人の態度、思わせ振りだったな。普通、専門家が意見を伝えたいならハッキリ言うわよね? )
 『北海道羆研究センター』に関係あろうが無かろうが、今回の羆襲撃事件のヒントぐらい持っているのかもしれない。それが何らかの事情で口にし辛い内容であり、電話では思わせ振りな言い方で濁したのかもしれない。
 (気になることは、キチンと処理して行かなきゃダメだわ。)
 明日にでも、中川博前センター長に連絡してみようと思った。
 (気になることと言えば・・・ )
 義人が主張していた、『羆が雨水管を移動している』という意見。
 松浦センター長を始め、羆の生態に関する知識を多少以上持っている者なら皆が否定していたし、下水ワニの都市伝説みたいだと笑う者もいた。
 だが、そこまで否定されるような推理なのだろうか?
 一理あるのではないかと思ってしまった自分は所詮素人なのだろうか?
 恵理は、松浦センター長に食い下がっていた義人の顔を思い出した。
 (ちょっと圧倒されるくらい真剣だった・・・ )
 義人なりに情報を積み重ねて真剣に推理していたわけで、決して単なる思い付きではなかったと思う。それを専門的ではないと一蹴して良いのだろうか?
 (それに、羆が雨水管を使ってたら襲撃現場の不自然さが解消されるんじゃない? )
 恵理は、引き続き検索を開始した。
 今度の検察ワードは『札幌市、水道局、雨水処理施設』である。


  [一二]


 他所の家のリビングで迎えた朝には、重苦しい気まずさが伴うものだ。
 酔っ払ってリビングで寝てしまったという事実そのものが大失態なわけだが、そこに至るまでには必ず迷惑な行為を積み重ねているはずであり、それを覚えていない当人は取り返しのつかない罪の意識に苛まれることになる。
 昨夜、飲み過ぎたことについては身体が覚えている。
 だが、記憶は途中からプッツリと途切れてしまい、覚えているのは互いの呼び名を決めたあたりまでか・・・
 この日の朝、若さと体力のおかげで二日酔いにはならずに済んだ義人の目覚めは早く、体調もすこぶる良好だったが、心は灰色に曇っていた。
 (何か、しでかしたのかな? したんだろうな? しないわけないな? )
 密かに恋心を覚えている女性と二人きりで酒を飲み、その場で記憶を失ってしまったのだ。長年シスコンを続けて来たとはいえ、義人も男なのだから、何もせず、何も言わずは考えられない。
 裁判で判決を待つ被告人の気持ちになりながら、リビングに正座して寝室から出て来た恵理を迎えた。
 「おはようございます。」
 顔を合わせるなり吹き出されてしまった。
 間違いなく、やらかしてしまったらしい。
 その後の義人は、とにかく小さくなって只管に謝り続けるしかなかった。そして、昨夜自分が犯してしまった失態がどのようなモノだったのか、後生だから教えて欲しいと恵理に縋った。
 「内緒です! 」
 取り付く島も無い突き放され方だった。
 但し、恵理の言葉に怒りや蔑みは無く、愉快で堪らないと言った風な陽気さが感じられたことが救いではあったのだが、
 「私が一人で思い出しながら笑うネタにするの。」
 大それた失態ではなかったらしいが、笑われるべき恥ずかしい粗相ではあったようだ。
 (まったく、俺は何をやってんだ! )
 恵理と親しくなりたいが、そのためには互いの距離を詰めなければならない。差し当たっての難関は義人が学生であり恵理が大人であるという年齢と立場の差。恵理が子供になるわけにはいかないので、義人が背伸びして大人にならなければならない。
 (それなのに・・・ )
 酔い潰れて、自分が犯した失態を覚えていないなどという学生に有りがちな無様を晒してしまった。
 (落ち込むなぁ。)
 出勤する恵理を見送ろうと玄関先に立った時も、義人の心は冴えなかった。
 「男の子がクヨクヨするんじゃない! 」
 義人の胸を恵理が軽く握った拳骨で小突いた。
 「そりゃ、まあ。」
 ボソボソと答えながら、痒くもない頬を指で引っ掻きながら目を反らそうとしたら、恵理が右手の人差し指で耳を貸せと手招きした。
 「何ですか? 」
 自分よりも頭一つほど背の低い恵理に耳を貸すため前屈みになった義人だったが、その首の周りに、不意打ちのように細くしなやかな腕の感触が巻き付いた。
 驚いた義人の鼻先を、甘い香りを漂わせる恵理の髪がかすめた。
 思い掛けない恵理の抱擁。
 ホンの数秒、義人の時間が止まった。
 「あ・・・ 」
 耳元に恵理の唇が近付いて、温かな吐息が感じられた。
 「今夜は中華が良いな。八宝菜とか。」
 仄かな笑みの混じった、心地良い言葉の響きだった。
 「まっ、任せて下さいっ! 」
 ぎこちない答えを返しながらも、義人は自らの願望を堪えきれなくなった。
 それが自分に許された行為であるような気がして、両手を恵理の背に回しかけた。
 しかし、義人の想いを揶揄うかのように、恵理の身体は彼の手を擦り抜けてしまった。
 「じゃ、行ってきます! 」
 玄関のドアが開き、朝の陽射しが飛び込んで来た。
 束の間の陽射しはホンの一瞬、義人の目を眩ませてから閉じたドアの向こうに消えてしまった。


 「えーっと・・・ 」
 義人は玄関先に突っ立ったまま惚けていた。
 ホンの少し前まで失意の中にいたはずなのに、今は心がフワフワとしていて、まるで夢の中で遊んでいるようだった。
 (頬を抓ってみたくなる気持ちって、ホントにあるんだね。)
 マンガじゃないので実際に抓ったりはしないが、現実感に乏しい出来事だと思った。
 (恵理さんにハグされた。)
 それは、歓喜すべき事実である。
 (でも、何故? )
 考えるまでもない結論を、義人は大真面目に分析しようとしてしまう。
 (愛情表現と思えないこともないけど。)
 昨夜の出来事を覚えていない義人には、それは短絡的過ぎる考え方のように思える。
 キスでもされたというのなら確実だが、ハグだけでは愛情表現とは言い切れない。今時は日本でも身内や友人同士、犬や猫相手にハグぐらいはする。
 (いや、俺は誰ともハグなんてしないけど・・・ )
 世間一般ではするらしい。
 (んじゃ、深い意味は無かったのか? )
 今朝、ソファで目覚めたてしまった落ち度が、義人の思考の方向性をマイナスに定めてしまっていた。不幸なことに、考えれば考えるほど恵理の行為を素直に喜べる心の余裕は減じていった。
 マイナス思考は、さらに続く。
 (中華が食べたいって言ってたっけ? )
 そのリクエストは、恵理の義人に対する甘えなのだとは思わない。
 (何かの罰なのか? )
 そうに違いないと思った。
 恵理が聞いたなら脱力してしまうだろう。
 (昨夜、俺は恵理さんに不埒な行為を働いてしまい、その罪滅ぼしを求められたんだ。)
 マイナス思考の積み重ねで、フワフワしていた心が忽ち萎んでしまった。
 (汚名を返上しなければっ! )
 逆境を跳ね返してやろうという気構えだけは失っていないらしい。
 実は、自分で勝手に作った有りもしない逆境なのだが、諦めずに立ち向かおうとするところが義人の長所ではある。
 (最高に美味しい八宝菜を作らなきゃ! )
 夕食の支度には早すぎるのだが、イメージトレーニングをしなければならない。
 (八宝菜って、どうやって作るのさ? )
 材料はイメージできるが、調理の工程は分からない。
 朝食の後片付けを終え、リビングに掃除機を掛けてから、
 (ネットでレシピを調べてみるか。)
 そう思って、客間のコンセントに繋いでいたタブレット型携帯通信端末を外して持って来た。羆のおかげでボロボロになっていたが、微妙に生きているようだったので試しに一晩中充電をしておいたのだ。
 その成果を今から見てみなければならない。
 (おっ! 音声通話は大丈夫! )
 電源をオンにしてテスト通話を行ってみたら、音声の送受信は問題なく行えた。
 次に、インターネットだが、
 (繋がっちゃいるけど、画面が痛んでて何も見えないや。)
 外部構造がイカレてしまっているらしく、センサー機能も働かない。
 (この壊れ方じゃ、銀行ATMやクレジット機能なんて絶対使えっこないし。)
 せっかく再会できた義人のタブレット型携帯通信端末は、ボイスコマンドで動かす単なる電話機に成り下がっていた。
 (そう言えば、PCを使いたければ、どうぞご自由にって恵理さん言ってたよなぁ。)
 恵理のPCは寝室にある。
 (入っちゃって良いのか? )
 たぶん、恵理は気にしない。
 昨日も今日も寝室のドアは開けっ放しであり、廊下を通れば中は丸見えだった。
 日頃、閉め切ったり鍵を掛ける習慣が無いのだろう。
 (普段は一人暮らしだから良いんだろうけど、昨日っから男がいるんだぞ? )
 義人に魔が差して、下着を漁ったりしたらどうするつもりなのだろう。
 (いやいや俺は紳士だし、そもそも女性警察官の下着を漁る勇気は無い! )
 そこら辺を見透した上で信頼というよりは安心されているのだろう。
 (んじゃ、お言葉に甘えて入室させていただきます。)
 恵理の寝室に足を踏み入れると、そこは意外にシンプルな佇まいの部屋である。
 昨日から廊下を通り過ぎる度にチラ見して、
 (ピンクのレースとは言わないけど、もう少し女性的な部屋の方が嬉しいな。)
 などと思っていた。
 ベージュの壁紙、渋茶色のカーテン、フローリングの上に敷かれたカーペットは薄いグリーン。家具は、ベッド、本棚、ワーキングデスクだけだが、備え付けのクローゼットも含めて色は全て木目調。そして、一切の貼りモノや装飾品は無い。
 (姉ちゃんの部屋だって、貼りモノぐらいは有るぞ。)
 整理整頓は大好きな姉の恵子だったが、壁はスワローズグッズの展示用になっていた。
 まあ、色気が無いという点に関しては、同じ種類の部屋かも知れない。
 (・・・良い匂いがする。)
 佇まいはシンプルでも女性特有の香りは満ちている。
 義人は無意識に息を深く吸い込みながら深呼吸している自分に気付いた。
 (ここんところの俺、思春期の中学生ぐらいまで退行しちゃってるなぁ。)
 呆れて溜め息が出た。
 (さてと、八宝菜、八宝菜っと! )
 気を取り直してPCの電源を入れる。
 起動後、ゲストでログインして暫く待っていたら、
 (ゴミ箱が一杯だな。)
 ワーキングデスクの足下に置かれた円筒形のプラスチック製ゴミ箱は、丸めた上質紙で一杯になっていた。
 (捨てといてあげた方が良いかな。)
 そう思ってゴミ箱に手を掛けた時、丸まった上質紙の一部に目が行った。
 そこに見覚えのある図版が印刷されていたのだ。
 (雨水管の配置図? )
 上質紙を抜き出して広げてみた。
 そこには、義人がメディアカフェで見付けた図よりも遥かに詳細な情報が掲載されていた。おそらく、雨水誘導設備の設置後、メンテナンスや追加工事が発生した際に用いる為に作成された図面である。専門業者の手によるものらしく、主たる配管だけではなく、マンホールや通水口、地下の貯水プールや工事用通路の位置も記されている。
 (ネット上の公開情報なんだろうけど。俺は見付けられなかったな。)
 警察官であり公務員である恵理ならば、この手の資料の引き出し方は心得ているに違いない。
 (だけど恵理さん、なんでこんなもの? )
 雨水管の中を羆が徘徊しているのではないかという義人の考えは、昨日『北海道羆研究センター』に於いて、恵理ともう一人の警察官の前で専門家たちにより完全否定されてしまっていた。
 正直言って、未だ持論に対する心残りはある。
 義人が基にした根拠や裏付けは物理的、地理的な条件にも適っていたと思う。
 それを、羆の生態に合わないとの一点により素人の思い付きであるとされ、否定されたことが悔しくて、帰りの車中や中央警察署の近くで恵理とお茶を飲んだ時にも愚痴ってしまった。
 (恵理さん、何も言わなかったな。)
 もう一人の警察官は専門家たちの意見が尤もであるとして義人の意見を否定したが、恵理は否定しなかった。それどころか、義人の愚痴を聞いていた恵理の様子を思い出してみると、興味深げであったかもしれない。
 (署に帰ってから、羆の生態に詳しい狩猟経験のある警察官にも意見を聞いてみたって言ってたぐらいだし。)
 だが、そこでも義人の意見は否定されたということで、この件は決着してしまったものと思っていた。
 (でも、恵理さんは捨てずにいてくれたんだ。)
 専門家たちの意見だけで一方的に否定することをせず、義人の考えを素人の意見として聞き流さずにキチンと捉えていてくれたのだ。
 そうした恵理の姿勢は素直に嬉しかった。
 別に、義人に対する情が絡んでのことではないと承知している。警察官として、僅かな可能性も捨てるべきではないとの判断が働いてのことだろう。
 それでも義人は、胸の奥に温かな感動が込み上げてくるのを感じた。
 「恵理さん、ありがとう。」
 図面の印刷された上質紙を握りしめながら、お礼を口にした。
 だが、
 (同僚にも否定されてしまった意見をどうしようって言うんだ? )
 捜査の担当者たちに改めて捩じ込もうとしているのだろうか?
 そのためには、新たな証拠でも見付けられないと無理だろう。現状の手掛かりだけでは完全否定されてしまっているのだから。
 (それじゃあ、いったい? )
 義人は嫌な予感がして、ゴミ箱を抱えて中身を探り始めた。
 雨水管に関係した印刷物は数枚あったが、その中に赤のボールペンで手書きのメモが加えられた図面があった。
 (豊平川の第七号から発寒川の第四号までの移動経路を赤で辿ってる? )
 迷路のパズルを解く要領で行った作業らしく、手書きの線は所々で行き先を誤って後戻りを繰り返し、図面を汚してしまっていた。おそらく書き込み過ぎて見辛くなったので、別の図面にキチンと転記した後に捨ててしまったのだろう。
 (こんなものを作る理由なんて一つだよな? )
 義人は手書きの加わった図面だけを手に取り、他はゴミ箱に戻してワーキングデスクの元あった位置に戻した。
 義人は、時間にして一分ほど図面を睨みながら状況を整理していたが、徐に電話機に成り下がったタブレット型携帯通信端末を取り上げて、恵理の携帯通信端末に向けて音声通話を発信した。
 呼び出し音は鳴らなかった。
 ピピッと警告音がして通信は切れてしまった。
 画面が壊れているのでメッセージを確認することはできないが、これは通信先が圏外にある場合に起こる反応だった。
 札幌市や近郊にいる限り圏外は有り得ない。あらゆる建物の中、地下鉄や地下街でさえも電波が途切れることは無い。
 だが、分厚いコンクリートで囲まれた、人間が活動することを前提としていない地下深くならばどうだろうか?
 義人は恵理の名刺を取り出して、今度は中央警察署に連絡してみた。
 「お忙しいところ恐れ入ります。私、吉良と申しますが、生活安全企画課の増田さんをお願いします。」
 オペレーターから少々待つようにとの指示を受けた後、二分ほど経ってから、
 「増田警部補は外出中とのことです。伝言があればお伝えしますが? 」
 との返事が返って来た。
 「どちらへ行かれたか分かりませんか? 携帯も通じませんし、急用なんです。」
 すると、再び待つように言われた。そして、イライラしながら待つこと一分。
 「取材中とありましたが、お一人で出掛けられているようで、行く先は分からないとのことです。」
 義人は了解して通話を切った。
 (恵理さんは雨水管に入ったんだ! )
 それは義人の意見を確かめるため、僅かな可能性を確認するためである。
 それが警察官として適切な行動だと判断してのことだろう。
 その姿勢は正しいと思うし、尊敬すべき資質だと思う。
 (だが、一人でなんて無茶だ! )
 おそらく、他に義人の意見に同意する者が誰もいなかったから一人で行かざるを得なかったに違いない。同意する者を増やすには新たな証拠が必要と考え、それを入手するためには、まず自分が行動しなければならないと思ったのだろう。
 (それでも、絶対に無茶だ! )
 義人は雨水管の中に羆がいる可能性は非常に高いと思っている。
 どんなに専門家に否定されても、その考えを変えていない。
 だから、恵理が一人で雨水管の調査に赴くことが、とんでもなく危険な行為であると確信していた。
 (恵理さんは知らない! )
 恵理は羆を見ていないが、義人は未だに目に焼き付いている。
 立ち上がった身の丈は三メートルを越える巨大な羆だった。
 『北海道羆研究センター』で飼育されていた羆など、最大でも二メートル程度しか無かったが、それでも大物だとの説明を受けた。
 恵理が、あの程度の大きさの羆をイメージしているとしたら大誤算が生じてしまう。
 (人間が単独で太刀打ちできる相手じゃない! )
 恵理も警察官である以上、拳銃ぐらいは携帯しているだろうが、
 (威力の弱い拳銃なんかじゃ役に立たないぞ! )
 拳銃は羆よりも遥かにひ弱な肉体を持つ人間を相手するために作られた武器である。小型の動物ならばともかく、羆相手に通用するとは思えない。
 羆の身体は堅い剛毛で覆われ、肉は厚く強靭である。至近距離で急所を狙わない限り、直径九ミリの拳銃弾が数発突き刺さったところで致命傷になることはないだろう。
 義人はソワソワと立ち上がり、
 (どうする? 俺はどうしたら良い? )
 と、自分に問い掛けながら、身体は無意識に動いていた。
 いつの間にか外出の準備を整え、靴を履き、玄関のドアの前に立っていた。
 今朝方、この場所で恵理が義人の首に手を回し、今夜は中華が食べたいなどと耳打ちしてから出掛けていった。
 そして、義人は任せてくれと返事をした。
 (冗談じゃないぞ! 聞きようによっちゃ死亡フラグみたいじゃないか! )
 そのことに腹を立てながら表に飛び出した義人の背後で、カチッとドアの自動ロックが作動する音がした。義人は慌てて飛び出したので、カードキーを部屋の中に置き忘れてきてしまっていた。
 (いいさ! 帰ってくるときは恵理さんと一緒なんだからっ! )
 目指すのは第七号雨水誘導管だったのだが、
 (その前に寄り道! )
 義人は豊平川から離れて逆の方向に走っていった。


  [一三]


 雨水誘導管の中は下水管と違って、そんなに汚い所ではないような気がしていたのだが大間違いだった。
 ハンディライトに照らし出される管の内部は、精神の病んだ前衛画家にでも描かせたのではないかと思えるほどに不気味で、複雑で、グロテスクな形状と色彩に覆われており、本来のコンクリート地は半分も見えていない。しかも、壁も足下も何処を触ってもヌルヌルしていて気持ち悪いし、何よりも鼻の粘膜に纏わり付くような濃いカビ臭が堪らなく不快だった。
 恵理は、上下一体型のビニールカッパをスーツの上から着込み、手には軍手、足には長靴、一応マスクもしているが、そんなもので防げるような悪臭ではなかった。
 (花粉症用マスクなんかじゃなくって、ガスマスクでも持ってくれば良かった。)
 今頃気付いても遅い。
 雨水管の中を三〇分以上も進んでしまったので、今から後戻りをする気にはなれなかった。我慢して先に進み、さっさと仕事を済ませてしまうしかない。
 豊平川の第七号から発寒川の第四号雨水誘導管まで、図面上の計算では約一〇キロメートル。徒歩で三時間もあれば移動できるはずだった。
 その間に羆の痕跡を見付けられたら義人の持論が正しいと照明できる。何も見付けられなければ専門家が正しかったのだと納得できるだろう。いずれの結果を見るとしても、そのためには雨水管の中を実際に歩いて調べてみるしかなかった。
 (一人ってのは心細いけど・・・ )
 専門家に却下されてしまった義人の意見に未だ拘っているのは自分だけなので、他に人手は借りられない。上司の許可が出なくては水道局に加勢を求めることもできない。
 (結局、一人でやるしかないじゃん! )
 イライラしながら乱暴に足を運んでいたら、深めの水溜りを踏みしめてしまい、汚れた水が刎ねて顔に掛かってしまった。
 ブフッ! ペッ!
 (もう病気になりそう! こんなとこ、人間が入る場所じゃないわよっ! どうして監視カメラとか、動体センサーとか取り付けてないのよっ! )
 それは、まさしく人間が入るべき場所ではないので必要としないからなのだが、先ほどから一足進む毎に恵理は心の中で愚痴をこぼしてばかりいた。
 それでも決して足を止めたりはせず、前へ進むことだけを考えていたし、現状を後悔する気持ちも無かった。
 大学を卒業して直に警察官になってから七年。昨年、昇進試験を一発でクリアして警部補になり、この春からは係長として中間管理職を務めるはずの自分が、新人研修時代にもやらされなかったような文字通り汚らしい作業に、誰に強制されたわけでもないのにわざわざ好き好んで嵌ってしまっている。
 (警察官なんだから、事件の解決に必要なことは何でもやるわよ。)
 だが、それは建前のような気がしていた。
 昨日の『北海道羆研究センター』で、松浦センター長相手に必死に持論を訴えながら食い下がり、それを完全否定されながら尚も拘り続けていた義人に心を動かされ、せめて自分だけは味方をしてあげたいなどと思ったのではないだろうか?
 (警察官が職務に私情を絡めるなんてダメでしょ! )
 一応、それだけが行動の動機ではない。
 義人の持論について、否定しきれない点があると感じたからなのだ。
 だが、やはり専門家の意見の方が重みは感じられるような気もしていた。
 義人が何かを述べる度に松浦センター長に押さえ込まれてしまうという昨日のやり取りを見ながら、専門家の指摘は至極もっともなことだと納得し掛けたりもした。
 それなのに、今こうして不潔で真っ暗な雨水管の中を一人で歩いている理由は、やはり義人に対する情のせいなのかもしれない。
 (なんか、あの子と出会ってから完全にやられちゃってるわ。)
 これまでの恵理の人生は仕事を中心に回っていた。警察官の仕事は好きだったし、やり甲斐もあったから、それが不自然だとは少しも考えたことはなかった。
 これまでに恋愛対象として付き合った男性は数人いたが、夢中になった相手は一人もいなかった。仕事に差し障りのないような付き合い方をしようと心掛けていたら、いつの間にか彼らは自分の傍を去っていってしまっていた。
 おそらく、彼らは自分が蔑ろにされてしまったと思ったのだろう。
 恵理に恋愛を拒んでいるつもりはないのだが、それが自分の人生の中で優先すべきことだとは思っていなかったので、つい扱いがぞんざいになってしまったようだ。
 もちろん、恵理に振られてしまったのだという自覚はあった。しかし、そのことについて全然心が痛まなかったので、失恋したつもりは無い。
 そんなだから、自分を振った相手に対する不満は覚えても、自分の態度を省みるようなことはせず、失敗したとも思わずにいた。
 三〇手前になった今まで、恵理はそんな恋愛に対する姿勢を変えたことはない。
 だから、出会って間も無い九つも年下の男の子が気なって仕方が無いなどということは本来なら有り得ることではなかった。
 恵理に一目惚れの経験は無い。
 一目惚れどころか、自分から男性に惚れたという経験も無かったような気がする。
 思い起こせば、自分の男性経験は好きだと告白され、その気持ちに流されるようにして付き合ったことばかりだった。
 同性の友人たちは、恵理を男性に対して淡白過ぎると言った。
 恵理は、心を動かされる男性に出会えてないだけだと言い返していたが、
 (それが、今回は出会ってしまったというの? )
 わざわざ問うようなことではない。
 出会ってしまったということは、自分が一番良く分かっているはずだった。
 (でも、あの子のことを何も知らないのに? )
 義人と出会って未だ二日しか経っていない。
 それなのに、こんな不潔で真っ暗な場所をウンザリしながら歩いていても、ふと気付けば彼のことを考えていた。
 そもそも恵理は、義人を援護したいがためにこんな場所に潜り込んでいる。
 署を出るとき、「中川前センター長への連絡」と「雨水管の調査」、どちらを優先させるべきか迷ったが、義人を優先してしまった。
 自分は、随分と健気な女になってしまったものだと呆れた。
 (どうして、好きになっちゃったのかな? )
 そこに理由を求める必要は無い。
 付き合いが長くても恋愛感情は芽生えないし、出会ったばかりで大した理由が無くとも好きになることはあるのだ。
 こんな無粋なことを考える辺りは義人と同じである。
 (はぁ、参ったわぁ。)
 どうやら、義人は自分を好いてくれているらしい。
 昨夜の義人が口にしたセリフは、酔っぱらいの戯れ言では無かったと思う。ホンネがうっかり口に出てしまったのだと知っている。支離滅裂で分かり難いセリフだったが、気持ちは十分に通じていた。
 もちろん、嬉しいに決まっている。
 両想いらしいのだから当たり前だった。
 しかし、義人の気持ちを受け入れるには躊躇してしまう。
 彼は未だ若い。自分が大学生の頃を思い出してみれば分かる。周囲の男女は恋愛真っ盛りだった。好きだと言っては嫌いになり、付き合ったと思ったら直に別れて、また別な相手と付き合い始める。
 若者の恋愛なんて、そんなものだと思っている。
 義人だって、そうに違いない。
 移り変わりの激しい若者の恋愛環境に、もうすぐ三〇歳になる自分が再び足を踏み入れるなど、絶対にご免だと思った。
 (今は感謝の気持ちで一杯になってるから好きだって言ってくれてるけど、東京に戻ったら私のことなんて直に忘れちゃうわよ。若者なんて軽々としたもんなのよ。)
 そんな風に義人を理解してやることが、人生経験の長い大人の女性が取るべき余裕を持った態度なのだと納得しようとしているのだが、
 (寂しい・・・やっぱ辛い。)
 胸の中が苦しいし、胃がシュクシュクと痛くなった。
 このままでは、馬鹿みたいに思考が空転し続けてしまう。
 恵理は頑張って頭の中身を仕事に向けようとした。
 (考え事するために地面の下を歩いてるわけじゃないわ! 仕事中なのよっ! )
 自分に向かって精一杯の強がりを言って聞かせながら先を急ぐことにした。
 それから、さらに三〇分ほど雨水管の中を進んだ恵理だったが、彼女の行動目的であり探し求めていた結論は唐突に現れた。
 そこは、管の中で珍しく水の溜まっていない一画である。
 床のコンクリートが乾いており、壁面をグロテスクに彩るカビやコケ、水垢などの汚れも少なかった。
 恵理は、そこを通り掛かった瞬間、
 (臭いっ! )
 と、感じた。
 カビ臭などではない。生臭く汚物を連想させる臭いだった。
 それは知らない臭いではなかった。
 かつては動物園を訪れた時に嗅いだ覚えがあったし、昨日も『北海道羆研究センター』の飼育施設で、これと似た臭いを嗅いだ。
 但し、それらとは同じ種類の臭いであっても、比較にならないほどの強く生々しい臭気を発している。
 所謂、ケモノ臭というやつである。
 (吐きそう。)
 恵理は口を押さえながら、ハンディライトを回して周囲を照らした。
 すると、
 (義人君、ビンゴだったわね。)
 コンクリートの壁、床の彼方此方に焦げ茶色の異物が散らばっていた。
 (誰が何と言っても羆の毛って感じ。しかも一杯! )
 昨日、発寒の中学校で行われた現場検証の際に、手に取って確認しているのだから見間違えたりはしない。
 通りすがりに落とした毛ではないだろう。羆が寝転がって、その巨体を擦り付けた跡に違いない。広範囲に渡って抜け毛が散乱していた。
 (結局、素人の無知な発想が、専門家の既成概念を破ったということね。)
 腰に装備していたウェストバッグからファスナー付きのビニール袋を一枚取り出して口を開くと、その場にしゃがんで足下に落ちていた羆の毛を一摘み拾って中に入れた。続いて警察備品の小型超高感度カメラを取り出して辺りの撮影を行った。
 (これで良し。)
 その短い簡単な作業を終えたことで、恵理は目的を達成した。
 (あれ? 私、微笑んじゃってる? )
 目的達成の喜びだけで微笑んでいるわけではない。好きな男の子の手助けをしてあげられたことに対する感激の微笑みだったろう。
 (何にせよ、良かったわぁ。)
 もはや、この不快な空間に用は無い。
 さっさと雨水管を出てから、署に連絡して応援を呼べば良い。
 その後に、全ての雨水管を封鎖して、武装した警官隊による羆狩りが行われれば事件はあっという間に解決してしまう。
 (めでたし、めでたし。)
 発寒に向かう必要も無くなったので、後戻りをして豊平川の出水口から地上に出ることにした。河川敷に署の車を止めっぱなしにしてあるので、その方が都合良かった。
 そう思って立ち上がった時だった。
 突如として全身を悪寒が襲った!
 喉の奥が引き攣ったようになり、呼吸が荒くなった。
 徐々に高まる心臓の鼓動が、身に迫った危険を知らせる警告音のように感じられた。
 気付かぬうちに、恵理の右手は懐から取り出した自動拳銃を握りしめている。
 (羆だ! )
 そう確信した。
 姿が見えたわけではないし、物音が聞こえてもいない。
 だが、突然空気が動き、恵理はそれを察知した。
 雨水管に足を踏み入れた時から、その可能性は頭の中にあったが、羆の痕跡を目にしたことで、それは必然の出来事に変わっていたことに今気付いた。
 羆は何処にいる? 前方なのか? それとも後方なのか?
 恵理はハンディライトを前後に代わる代わる向けながら、自動拳銃の引き金に指を添えて接近する脅威を見定めようとした。
 (きっ、来たっ! )
 恵理が歩いてきた方向から、羆はその巨大な姿を現した。
 コンクリートの床を爪でガチガチと引っ掻きながら、ゆっくりと近付いてくる。
 (まさか、つけられてたっていうの? )
 どの辺りからかは分からないが、羆は恵理の後を追って来たらしい。
 それが、狩りの獲物を追うための行為であることは疑う余地が無い。
 ブフォッ! ブウォーッ!
 恵理を視認できる位置に立ち、羆は一旦歩みを止めてから威嚇するように吠えた。
 鼓膜を破りそうなほどの凄まじい咆哮が雨水管の壁や床に反響し、幾重にも重なり合って広がっていった。
 (くっ! )
 少しでも気を抜いたら挫けてしまいそうなほどの恐怖に耐えながら、恵理は必死で現状の打開策を見付けようとしていた。
 豊平川方面の道は塞がれてしまった。
 撤退するならば逆の方向に走るしか無い。
 しかし、人間の足では羆の速度に敵うはずが無かった。
 では、戦えるのか?
 恵理の右手の中にあるのは三八口径のスイス製自動拳銃。弾丸は九ミリ、装弾数は八発で予備弾は無い。対人攻撃には十分な威力を発揮するが、羆を相手にして果たして有効な武器となり得るのかどうか?
 (少しでもダメージを与えて、怯んだ隙に退却するしかないでしょう。)
 羆は首を振りながら再び前進を始めた。
 既に、恵理との距離は一〇メートルを切っている。
 恵理の指が自動拳銃の引き金に掛かった。
 炸裂する銃声が、羆の咆哮をしのぐほどの反響音を轟かせた。
 銃弾は羆の上半身に命中した。
 九ミリ弾が皮膚を破り、肉に突き刺さったはずだった。
 しかし、次の瞬間、羆は何のダメージも見せずに上体を起こした。
 銃弾の威力は、羆の怒りを買う役目を果たしたに過ぎなかった。
 (なんて、大きな! )
 絶句する恵理の眼前で立ち上がった羆の頭部は、四メートル近くもある雨水誘導管の天井に届きそうに見えた。
 恵理は躊躇うこと無く再び引き金に指を掛け、連続した三発の銃声が轟いた。
 しかし、後に続いた羆の咆哮が銃声を忽ち掻き消してしまった。


 豊平川添いの堤防道路脇に停まっていたRV車は警察の車両だった。
 フロントガラスの内側に、
 『現在作業中 中央警察署』
 と、印字されたパネルが貼り付けてある。
 義人は、このRV車を停めたのは恵理に違いないと思った。
 堤防道路の直ぐ下の河川敷には、第七号雨水誘導管の出水口が開いている。
 (無茶なんだって、まったくもうっ! )
 近場のホームセンターで買い揃えた間に合わせの装備品を地面に広げて、恵理の後を追って地下に潜るための身支度を始めた。
  装備と言っても資金に限界があったので、手には軍手、足には防水加工されたゴム長靴を履き、ニット帽の上からLEDヘッドライトを装備しただけである。
 (恵理さん、ごめんなさい! もう八宝菜の材料を買うお金がありません。今晩の中華は、もう少し借金しなければ無理です。よって、今朝の死亡フラグは帳消しになりましたから安心して下さい! )
 万が一、羆に遭遇した時のために武器が欲しかったので、刃渡り六〇センチほどのマチェットも買っていたので、今は完全に無一文に戻ってしまっていた。
 (これが実家なら、爺ちゃんの居合い刀を持ち出すとこなんだが。)
 マチェットの威力では日本刀に到底及ばないし、できればこんな接近戦用の武器を使うような事態に陥りたくないと思った。
 (でも、羆はいる! )
 専門家が何と言おうと、その考えは捨てられない。
 義人なりに掴んだ根拠は、決して説得力が無いわけではないと思っている。
 否定された根拠は、『羆は本来こうあるべき』という既存の専門知識だった。
 (これは専門知識の問題じゃない! 発想力の問題さ! )
 専門家たちは並の羆を想定して意見していたが、あの場で実際に件の羆を目撃したのは義人だけである。その大きさからして既存の知識が通用する相手とは思えなかったし、なんでも中学校を襲撃した時には、体当たりで木の柱を圧し折り、壁を突き破ったと言うではないか。そんな猛烈な羆など聞いたことも無い。
 (あいつはバケモノだよ! 普通の羆と同じく考えるのは間違いなんだ! )
 バケモノならば、本来の生態に反した行動を取っても不思議は無いだろう。
 あの巨体を維持しようと思ったら山の恵みだけでは足りないだろうから、獲物が沢山ウロウロしてる市街地を狩り場にするための工夫ぐらいするかもしれない。
 義人だって、決して羆にいて欲しいと思っているわけではない。
 いなけりゃ、いないに越したことは無い。しかし、いたとしたなら今後も被害に遭う人が出るわけで、現在雨水管の中を歩き回っている恵理は危険の真っ只中に置かれていることになる。
 だから、何を置いても、今最優先すべきことは、
 (恵理さんを見付ける。そして無事に連れて帰る。)
 そこなのである。
 「よーし、準備完了! 」
 義人は堤防の土手を掛け下りようとして、忘れ物に気付いた。
 (おっと、大事な切り札を忘れちゃいかんな。)
 地面に置きっぱなしになっていたホームセンターのレジ袋の一つを腰に結わえ付けた。これも間に合わせには違いないが、レジ袋の中には羆と遭遇した時には欠かせない道具が入っていた。
 再度の忘れ物確認を終えた後、義人は一気に第七号雨水誘導管へと駆け込んでいった。
 「うぉーっ! 臭ぇーっ! 」
 薄く汚れた水の溜まった雨水管の中を一〇〇メートルほど走った所で、カビと苔と藻類と水垢、その他の入り交じった悪臭が鼻を突いた。
 (マスクが必要だった! )
 準備に見落としがあったことに後悔したが、後退している時間は無い。
 おそらく、恵理は一時間以上も前に雨水管に潜っている。その差を少しでも縮めなければならない。
 義人は走りながら、マフラーで口と鼻を覆ってキツく縛ったが、目の粗いウールのマフラーでは気休めにもならなかった。
 (たまんねーな、くそっ! )
 走り続けているうちに、跳ね返った水でジーンズを履いた下半身はあっという間にびしょ濡れになっていた。上着や顔も無事ではなく、かなり濡れてしまっている。時折、深めの水溜まりに足を突っ込むこともあったので、水はゴム長にも侵入してきていた。
 汚れた水を浴び続けながら、義人を走らせるのは恵理の無事を願う一心である。
 恵理の無事な笑顔を見るためならば、臭くて真っ暗な雨水管の中を走るのに何の躊躇いも起きなかった。
 (俺、めちゃめちゃ惚れてんじゃねぇ? )
 出会って二日しか経っていない女性に強い恋愛感情を覚えている自分に戸惑うのは恵理だけではない。義人も同様である。
 これまで姉以外の女性に見向きもせず、女性と出会う度に姉と比較して失格の判断を繰り返してきた義人の方が、恵理よりも遥かに強い驚きを自分に感じていたと思う。
 義人は恵理に惚れている。
 (でも、俺は恵理さんのことを殆ど何も知らないんだよな。)
 二日程度で理解した情報など、恵理の全ての一パーセントにも満たないだろう。
 (それなのに惚れるって、有り得んのか? )
 普通の感覚を持つ男なら、そんなことも有り得るのだと知っているが、恋愛経験不足な義人は直に納得できずにいた。
 (でも、恵理さんが好きだってことは間違いないと分かった。だから、恵理さんを振り向かせるためには、どんな努力だってする! )
 今、走り続けているのも恵理を振り向かせるための努力の一つ。無事な恵理に会いたいという強い感情に後押しされての行動である。
 間抜けな義人は、恵理が既に九割方自分を振り向いてくれているという事実が分かっていないから只管走っているのである。
 ところで、
 (羆に出っ会したら死んじゃうかも? )
 自分が羆に遭遇して殺されてしまう想像をしてみたが、恵理が殺される想像をするよりもマシな気がした。
 (恋愛感情ってすげぇ! )
 たぶん、姉が羆に殺されても辛いと思うが、そこに生じる感情の質の違いは義人にも良く分かった。
 身内に対する情と、好きな女性に対する情の違いは明らかだった。
 (逃してたまるか! )
 二〇歳にもなって、初めて覚えた激しい恋愛感情の向け先を絶対に失いたくないと思って、義人の足は一層早まった。
 義人の体力と持久力は常人以上だと思う。
 幼い頃からの祖父に受けた厳しい剣道英才教育の賜物だった。
 剣道自体は、何とか有段者まで漕ぎ着けたが上達はそこで止まってしまい、残念な結果に終わったが、その過程で身に付けた能力には自信があった。
 一度決心すれば、並の者なら尻込みするような不潔で真っ暗で不気味な雨水管の中でも無心に走り続けられる精神力も身に付けていた。
 そんな、義人の足が急に止まった。
 (臭いが加わってきた。)
 相変わらずの悪臭は続いていたが、新たに別の臭いが漂い始めているのを感じた。
 (これって、ケモノ臭! )
 但し、近い臭いではない。
 壁や床に微かに染み込んだ、ある程度の時間が経過した残留臭である。
 義人はマスクを付けていなかったことが幸いし、明らかな痕跡を目の前にするまで羆の存在に気付かずにいた恵理よりも早めに察知することができた。
 (この臭い、羆以外に考えられないだろ! )
 昨日、専門知識を振り回して義人の意見を却下した連中の顔を思い出し、ざまぁ見ろと思った。
 だが、自分の考えが的中したことを喜ぼうとする気持ちは少しも起きなかった。
 持論が誤っていた方が嬉しかった。
 (絶対にやべーぞ! 恵理さん! )
 その時、真っ暗な雨水管の中を一発の銃声が伝わってきた。
 数秒の間をおいて、さらに連続する三発の銃声。
 それに重なるように轟く獣の咆哮。
 間違いない! 
 雨水管の先で、恵理と羆が遭遇したのだ!
 最悪の事態が発生している!
 鼓膜の奥まで震わせる反響音に義人の勇気は一瞬だけ怯んだが、直に立ち直っていた。
 カモカモ川の時は心の準備ができていなかったこともあり、腰を抜かして無様に這い回ってしまったが、今は状況が異なる。
 義人の勇気を後押しする強い感情の支えがあった。
 「んのやろーっ! ふざけんなよーっ! 」
 義人は腰にぶら下げていたレジ袋の中から幾つかの品を取り出した。
 そのうちの一つは塗装用揮発油の入った一リットル缶だった。
 次に義人は、レジ袋に残った品はそのままにして、上着やジーンズのポケットから取り出したハンカチやティッシュペーパーを片っ端から中に放り込んだ。さらに缶のキャップを外して揮発油を全てレジ袋の中に流し込み、袋の口をキツく縛った。
 作業の終わった義人は、
 「恵理さん、無事でいて。」
 一言呟くと銃声のした方に向かって駆け出した。


  [一四]


 羆に向けて放った三発の銃弾のうちのどれかによって、僅か一〇数秒程度の足止めに成功した。
 羆が自らの前足を気にするようにして一時横を向いた隙を狙い、恵理は後ずさりを始めた。そうやって一定以上の距離を確保した後に、意を決し羆に背を向けて駆け出した。
 果たして何処まで逃げ切れるのか?
 羆が本気で追い掛けてきたら直に追い付かれてしまうに決まっているが、少しでも距離と時間を稼いだらチャンスが訪れるかもしれない。
 恵理に興味を失ってくれたら有り難いのだが、それは望み薄だろう。
 羆は執着心が強い生き物であり、一度狙った獲物を追い続ける習性があると聞いた。しかも、恵理は合計四発の銃弾で手負いにしてしまっている。羆の怒りと復讐心は恵理に向けられてしまっているに違いない。
 この先、唯一の打開策は雨水管から早々に脱出することだった。
 (メンテナンスハッチがあるはず! )
 図面上にもマンホールは多数記載されていた。
 走りながらでは正確な位置を確認することはできないが、だからと言って図面を取り出して検討していられる余裕は無い。運を天に任せて走り続けて、羆に追い付かれる前に進行方向の何処でも良いからメンテナンスハッチを見付けて、地上に出られる幸運を祈るしか無かった。恵理は全速力で走り続けながらハンディライトを前方に向けて、メンテナンスハッチを探した。
 (あった! )
 壁面に固定された金属の梯子が見えた。梯子の先の天井には直径一メートル未満の丸い穴が開いている。その穴の先には地上へ出るための救いの扉となるはずのマンホールがあるはずだった。
 恵理は梯子の下に辿り着くと後ろを振り返りもせずに床を蹴り、二段、三段飛ばしで登った。巡査時代には消防署のレスキュー訓練に志願参加したこともある恵理は身軽さには自信がある。図面にあった記載によると、おそらくマンホールは梯子を七メートルほども登った先にあると思うが、その高さも苦にならなかった。
 羆の脅威から逃れられるならば、それは救いの高さである。
 「あっ! 」
 天井の穴に身体の半分ほどが入った時、着ていたビニール製カッパのポケットが梯子の支柱から飛び出していたボルトに引っ掛かってしまった。
 使い捨てのつもりで用意したカッパを惜しむ気持ちなど無かったので、そのまま構わずに登り続けたのだが、ポケットに拳銃を入れていたのを失念していた。
 引き裂かれたポケットからこぼれ落ちた自動拳銃が四メートル下のコンクリートの床を打つ音が聞こえた。
 (やばっ! )
 恵理は反射的に拳銃を拾いに戻ろうと梯子を下りかけた。
 日頃、装備品の保管や管理に厳重な警察官の習性が、差し迫っている危機を一瞬忘れさせてしまったらしい。
 ブウォーッ!
 間近で轟く咆哮!
 ハンディライトを向けた梯子の真下に床は見えなかった。
 そこには、獰猛な牙を剥く羆の巨体があった。
 「キャーッ! 」
 悲鳴をあげながら慌てて梯子を駆け上ろうとした恵理の足下を羆の鋭い爪が一閃する。
 正に間一髪! 
 恵理の素早い切り返しによって羆の一撃は躱された。爪の先が長靴の踵をホンの少し擦っただけで済んだらしい。
 しかし、その僅かな接触により恵理の右足は凄まじい衝撃に襲われていた。
 バランスを崩しかけ、ハンディライトを取り落とし、梯子から引き離されそうになりながらも必死に耐え切って、恵理は左足と両手の力だけで何とか穴の中に潜り込むことに成功した。
 恵理の後を追って飛び上がった羆が、穴の入り口に激突して床に転倒する音がした。直径一メートルに満たない穴の大きさでは、羆の巨体が入ってくることはないだろう。
 恵理は羆の手が届かないぐらいの高さまで梯子を登り、そこで乱れた精神状態と呼吸を整えたのだが、何とか命拾いできたと実感した途端、右足に激痛が襲ってきた。
 痛みに顔を歪めながら、恵理は自らの足の状態を手探りで確かめた。
 (足? 私の右足は? )
 羆の一撃で捥ぎ取られてしまったのではないかと思って恐怖したが、右足は失われること無く残っていた。羆の爪は長靴の底を剥ぎ取ってしまっていたが、運良く足にまでは達していなかったようだ。
 だが、ホッとすることはできなかった。
 羆の力で大きく煽られてしまった恵理の右足は、激しい痛みのために歩行はもちろん梯子に乗せておくこともできなくなってしまっていた。梯子から外して宙にぶら下げたままにしておくのが精一杯の状態だったのである。
 骨が折れた感じはしなかったが、どうやら筋か関節を痛めてしまっているらしい。
 だが、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。
 (片足だって、梯子くらい大丈夫! )
 恵理は羆から逃れたい一心に後押しされ、頭上にあるはずのマンホールを目指した。
 それにしても、足の痛みに耐えながら登る梯子は、マンホールまで僅か一メートル少々のはずなのに十数メートルもあるように感じられた。真っ暗闇の中、さんを一本毎に手探りしながら握りしめる両手には汗が滲み、全体重を支えている左足は長靴の底に残っている泥や苔のせいで何度も滑りそうになった。
 梯子を登り続けた時間は数十秒だったのか、それとも数分なのか? 恵理には数十分も掛かったような気がしていたが、それでも漸く頭の天辺に障害物が突き当たり、それがマンホールの金属製の蓋であることを確かめることができた。
 (もう一息! )
 この重たい金属の蓋を開けさえすれば、無事に窮地を脱することができるのだ。
 恵理は頭を下げてマンホールの蓋の裏側に肩と背中を密着させ、全身に残されていた力の全て振り絞って押し上げた。
 ゴリッ! と音がして蓋が数センチほど持ち上がったような気がした。
 しかし、それ以上は持ち上がらず、恵理の身体は蓋の重みで押し戻されてしまった。
 (なっ、何で? )
 もう一度試してみたが同じだった。
 (なんで、開かないのっ! )
 恵理は梯子から身を離さないよう左腕を支柱に絡ませ、慎重に右手だけを外して頭上にある物体がマンホールの蓋であることを再確認するために触れてみた。
 手で蓋の彼方此方を探ってみたら、それが開かない理由は直に分かった。
 恵理の右手が触れている金属は、確かに作業員が出入りするために設けられたメンテナンスハッチ、マンホールの蓋だったが、
 (ロックされている! )
 洪水の際、水圧でマンホールの蓋が開かないように対策されているのだ。
 蓋の裏側中央にある四角い突起から鉄の丸い棒が十字に延びており、その先はマンホールを一周する金属製の縁に空いた四カ所の小穴に突き刺さっている。
 蓋を外すには、鉄の棒を小穴から抜かなければならないのだが、
 (裏側からじゃ、開けられない! )
 蓋の裏側にロックを解除するための仕掛けは無かった。鉄の棒を小穴から抜くには地上側からロックを解除するしか無い。
 (そんな、助かったと思ったのに・・・ )
 出口を目の前にしながら外に出ることができないという残酷な事実に直面してしまったことで、それまでは精一杯の気丈さで押さえ込んでいた涙が止めども無く溢れてきた。
 逃げ道を断たれ、武器も灯りも失って、遂には窮地を脱することができなかったことに対する失望が絶望に変わろうとしていた。
 梯子の下では、僅かな差で獲物を取り逃がしてしまった羆の悔しげな唸り声と壁を引っ掻く爪の音が聞こえている。光を失ってしまったので、その恐ろしい姿を見ることはできないが、決して獲物を諦めない獰猛な敵意と殺気は、穴の奥で梯子にしがみついている恵理に向けられているのがハッキリと分かった。
 現状では、羆が精一杯の背伸びをしたところで穴の中にいる恵理を傷つけることはできないが、片方の足を怪我し、体力と気力が限界に近付いている状態で、いつまでも梯子にしがみついていられるわけがなかった。
 羆は、恵理が穴の奥に留まったまま動かずにいることを察知した違いない。穴を通って逃げたのではなく、穴に籠ったままの状態にあることを知っているのだろう。
 いつかは力尽きて落ちてくるだろうと思い、待ち構えているのかもしれない。
 (嫌だ! 羆の餌食なんかになりたくない! )
 恵理はマンホールの蓋に口を付けて叫んだ。
 「誰かっ! 誰か助けてーっ! 」
 今、自分がいる場所は札幌市の何処なのか見当も付かないが、ここが街中であり歩道だったならば、近くを通り掛かった人が恵理の叫びを聞きつけてくれるかもしれない。
 もはや、叫ぶ以外に何の脱出手段も思い付かなかった。
 だから何度も叫んだのに、恵理の叫びに応えてくれる地上からの声は無かった。
 「誰か・・・助けて・・・助けてよ・・・ 」
 恵理の叫びは、徐々に嗚咽の混じったか細い呟きに変わっていった。
 「・・・死にたくない。」
 警察官という職業に就いた時から、公務執行中の殉職は有り得ることとされており、そのための覚悟もしていたつもりだった。恵理の所属する生活安全企画課は、市民の安全を守るために防犯や治安維持に携わる部署だったから、不意の危険と遭遇する機会も少なくなく、実際に殉職した同僚もいた。
 それなのに、今の自分は必死に生にしがみつく未練の塊になってしまっている。
 その一番の理由が何であるかは明らかだった。
 「義人君に会いたいよ・・・ 」
 出会って間も無いからとか、若者の恋愛に付き合っていられないとか、大人の女として余裕のある対応をしなければならないとか、散々自分の感情に抵抗してきてみたが、全く無意味だったらしい。絶体絶命の状況におかれながら真っ先に頭を過ったのは、義人を愛おしいと思う気持ち、もう一度会いたいという切ない気持ちばかりだった。
 一応は警察官として、せっかく羆を発見したというのに、その報告もせずに無駄死にしたくないとの気持ちもあるにはあるが、それを未練の理由に挙げるのは卑怯なことに思えた。誰に聞かせるわけでもないが、死を前にして自分を偽るような醜い真似はしたくなかった。
 (生きて会えたら良いのにな・・・ )
 それが難しいらしいということは、梯子の支柱にしがみついている両腕の力が急激に失われ、体重を支えていた左足が小刻みに震えだしたことで分かった。
 (キスぐらい、しとけば良かったよ。)
 今朝の玄関先で、義人に抱きついただけで終わりにしてしまったことを後悔していた。
 だが、あの時の自分にキスをする勇気など無かっただろう。義人の手が自分の背に回り掛けていたのに、それを咄嗟に擦り抜けてしまったのは怖かったからに違いない。
 (あーあ、今ならできるのになぁ。)
 いつの間にか支柱に巻き付けていた両腕が外れかけていた。
 痙攣しながら体重を支えていた左足も既に限界のようだった。
 (もうダメ・・・ )
 恵理の身体が斜めに傾き、宙に浮きかけたその時、
 ピィーッ!
 と、甲高い音が梯子の下の真っ暗な空間で鳴り響いた。
 羆が発した音ではない。
 恵理は、それが口笛ではないかと思った。
 (え? 下に誰かいるの? )
 それまで低く唸り続けていただけの羆が、何者かが発した音に応えるようにして凄まじい咆哮を響かせ、移動を始める気配がした。
 (何が起こってるの? )
 恵理は外れかけていた腕をもう一度支柱に回して、何も見えないはずの足下を覗こうと目を凝らした。
 すると次の瞬間、それまで真っ暗だった空間に眩い閃光が走り、重く低い爆発音が空気を振動させるとともに、穴の中に熱風が吹き込んできた。
 さらには、耳をつんざくような数十の炸裂音が一斉に連続して鳴り響き、瞬く間に足下の空間は眩い光の洪水状態と化していた。
 光に照らし出された穴の真下に羆の姿は見えなかったが、間近で声はする。
 ブヒッ! ヒィッ! ブヒッーッ!
 その声からは、先ほどまで恵理を震え上がらせていた圧倒的な迫力が失せていた。
 まるで、怯え、苦しみ、もがきながら発している悲鳴のようであった。
 ブッヒーッ!
 一段と大きな羆の悲鳴が轟いたと思ったら、恵理が覗いている穴の真下を羆の巨体が横切って駆けてゆくのが見えた。
 (・・・? )
 羆は炎を背負っていた。
 その頭から背中に掛けてを橙色の炎に包まれながら駆け去ってしまった。
 羆は駆けながら悲鳴をあげ続けていたが、それはあっという間に遠ざかり、間も無くして聞こえなくなった。
 (え? 羆はいなくなったの? どうして? 安全になったの? )
 恵理は混乱していた。
 穴の中からでは何が起きたのか確認できないので、状況が全く把握できない。
 足下の光は未だ消えていないし、周囲の温度は急激に上昇したままである。炸裂音も止まずに続いており、羆がそれらに驚かされ、さらには燃えながら逃げていったということは分かった。だが、それが何者による仕業なのか、これによって恵理が救われたことになるのかどうかが分からないので、どう判断して良いのか分からずにいた。
 恵理は梯子を下りてみるべきか迷っていた。
 残された体力と右足の怪我を考えれば、一度梯子を下りたら二度と登ることはできないだろうから、その決断は命懸けだった。
 しかし!
 梯子の下に現れた者の姿を見た途端、恵理は何も考えられなくなっていた。
 羆の脅威も、足の怪我の痛みも一斉に忘れてしまった。
 急いで梯子を下りなければということ以外に、何も考える必要が無くなってしまった。
 だが、力を失いかけている両腕は、慌てて梯子を下りようとした動きに付いてこれるはずが無く、身体を支える足も疲れきった左足一本きりでは無事に梯子を踏んで床に着けるはずが無かった。
 「危なっ! 」
 穴の中から梯子を伝って落ちてきた恵理を受け止めながら尻餅を突いてしまっていた義人に、恵理は先ほどまで力が尽きかけていたとは思えないほどの強さで抱き付いていた。
 鏡が無いので分からないが、自分の顔は泥と埃と涙と鼻水でグシャグシャになっているに違いない。
 だから、たぶん凄く迷惑なことをしているのかもしれないと思っている。
 それでも恵理は義人の胸に夢中で顔を押し付けながら、もはや大人の女らしさなど何処かに放り捨ててしまったようで、只管声を上げて泣きじゃくっていた。
 おそらく、大声をあげて泣き喚くのなど、小学校低学年以来のことだとだと思う。
 「ううっ、どして、うえっえっ・・・あぐっ・・・こんなとこ・・・るのよっ! 」
 義人と話しをしたいのだが、嗚咽が混じって口がマトモに動いてくれない。
 大人として、警察官として、女として、とても恥ずかしい状況に陥っていると思う。
 しかし、恵理ほどではないが義人もすっかり泣き声になっていた。
 「恵理さん、よ、良かったぁ! 恵理さん、良かったよ! 」
 羆を撃退し、恵理を救うことに成功して、感極まってしまっているらしい。
 恵理と違って呂律は回っているようだが、同じセリフをリピートしている。
 (あ・・・ )
 恵理は泣きじゃくりながら、いつの間にか自分の背に回されている温かで力強い腕の感触に気付いていた。
 もちろん、擦り抜けたりはしない。
 今、義人の腕に抱かれて、恵理は素直に嬉しいと思っていたし、その優しい心地良さを全身で味わっていた。
 (どうして今朝の私は逃げたりしちゃったんだろう? )
 それは、とても勿体ないことをしてしまったのだと思う。


  [一五]


 雨水誘導管の中を赤く染めていた炎は既に収まっていた。
 梯子のさんにぶら下げた義人のヘッドライトが照らし出す僅かな範囲以外は再び闇に包まれている。
 「あのバケモノは、そのうちに戻ってくるから。」
 急いで、この場を離れなければならないと義人は言った。
 「うん。」
 コンクリートの壁に凭れて座る恵理は、義人の言葉に頷きながら二枚重ねのティッシュで思い切り鼻をかんだ。
 携帯用のティッシュパックを二つ丸々消費して漸く鼻水は落ち着いたが、おかげで鼻の頭が真っ赤になっていることは見なくても分かった。顔中の汗と汚れをタオルで拭き取った際に化粧もすっかり落ちてしまっているだろうし、バレッタが壊れてしまったので髪の毛も乱れ放題である。
 現状で身だしなみを気にしてる場合ではないのだが、恵理は少々拗ね気味だった。
 そんな恵理のご機嫌斜めな様子を右足の応急手当をしながらチラ見していた義人が、もう我慢しきれないと言った感じでプッと吹き出した。
 「ちょっ、どうして笑うのよっ! っていうか見ないで! 」
 恵理が頬を膨らませた。
 「すんません! でも、見てたっていいじゃないですか。」
 「嫌っ! だって、汚いもの! 」
 恵理は頬を膨らませたままソッポを向いた。
 「取り敢えず、骨が折れてるわけじゃないので、固定しとけば暫く大丈夫でしょう。」
 義人は恵理の膝下に堅くて軽い棒状の金属を充てがい、その上から自分が着ていたTシャツを引き裂いて作った臨時の包帯を巻き付けてしっかりと固定してくれた。
 「この堅いのは何? 」
 恵理は包帯の上から足を摩りながら聞いた。
 「マチェットです。羆と遭遇した時の武器にしようと買ってきたんですけど、ハッキリ言って無理でした。俺、短剣道は得意なんで、小太刀みたいに扱えるかと思ったんですけど、刃の切れ味は悪そうですし軽過ぎました。まあ、添え木の役には立ったから良かったのかなって感じです。」
 そう言いながら義人は苦笑したが、恵理は驚いて目を丸くしていた。
 (あの羆と格闘するつもりだったの? )
 とんでもなく無謀な試みであるが、義人がそれを決心したのは自分のためだということに気付きハッとした。
 実際、取っ組み合いにこそならなかったが、義人はホームセンターで購入した揮発油と花火とカセットガスボンベで作った手製の火炎爆弾で羆を一時的に撃退した。手製爆弾の件は警察官の立場として感心し辛いのだが、それもこれも恵理の窮地を救うためだった。
 (この子、そんなまでして私を? )
 恵理の身を心配して雨水管に飛び込んできてくれたというだけで、既に義人の行動は勇敢であり感動的でさえあった。それに加えて、自らの危険を省みず羆に立ち向かうつもりで準備までしていたなど、並大抵な覚悟でできることではない。
 その覚悟の動機が、恵理に対する想いなのだとしたら、
 (もう、観念するしか無いじゃない! )
 胸の奥から熱いものが込み上げてくる感じがした。
 もう止まっていたはずの涙が再び滲んできた。
 「ありがと。」
 恵理は涙を見せまいと顔を俯き加減にしながら、小さくお礼を言った。
 「いいえ、どういたしまして。」
 さり気ない笑顔で応える義人は素直に格好良いと思ったが、子供みたいに泣きじゃくった後に拗ねて膨れている自分に比べて、その笑顔には余裕が有りそうに見えて少しだけ癪にさわった。
 恵理は義人に悪戯してやりたい、驚かせてやりたいと思ったが、そんなことを思うこと自体が子供っぽい甘えなのかもしれないとは考えもしなかった。
 (だって、悔しいもの。)
 恵理は、何か大事なことにでも気付いたような難しい顔をしながら、右手の人差し指で義人を手招きした。
 今朝、同じ手で油断させ不意打ちを掛けてやったので、同じ手には引っ掛からないかなと思ったのだが、意外に義人は素直だった。
 「え? なんです? 」
 心配そうな顔をして不用意に近付いてきた義人の首に、今朝の玄関先と同じように恵理の両腕が素早く絡んだ。
 「うわっ! またぁ・・・ 」
 恵理が再び泣きじゃくるつもりだと思ったのだろうか? 
 さすがに困った顔をした義人だったのだが、口に出しかけたセリフは温かく柔らかな感触によって遮られた。
 「「ん! 」」
 恵理は義人の身体を強引に引き寄せると、目を閉じて自らの唇を彼の唇に重ねていた。
 義人を驚かせてやりたいという悪戯心、助けてもらったことへの感謝、切っ掛けはそんなつもりだったはずだったが、
 「ふぁ・・・ 」
 唇の隙間から思い掛けない吐息が漏れた。
 義人の唇に触れた瞬間、恵理は痺れるような快感が全身にゆっくりと広がってゆくのを感じていた。
 (そっか、私は義人君とキスしたかったんだ。)
 梯子の上で震えていた時も、そんなことを考えていたではないか。
 (また、言い分けしちゃった。)
 悪戯でも感謝でもない。恵理は義人とキスをしたかったからしてしまったのだ。
 だから、一旦唇を重ねてしまえば後は只管に自らの想いを遂げたいという気持ちに駆られ、夢中で義人を抱きしめてしまう自分がいた。
 義人の身体が微かに震えているのを感じた。
 (戸惑っているの? )
 震えが伝わってきた時、恵理は自らの衝動的で一方的過ぎた行為に、今更ながら怯んでしまった。
 (いきなりキスするような女は嫌い? )
 多少の堅さが伴った義人の唇を感じながら、そんな不安が頭の片隅を過っていた。
 しかし、それは杞憂だったと直に分かった。
 (・・・? )
 義人は恵理の肩を両手で強く掴んで引き寄せたが、その腕には振り解きようが無いほどの強い力が込められていた。
 そして、まるで先に仕掛けてられてしまったことを悔しがっているような、それが取り返さなければならない失態であるかように、自ら進んで恵理の唇を求め、激しく舌を絡ませてきた。
 「ふぅ、ふぁ・・・ 」
 恵理は義人の腕の中で全身の力が抜けてしまい、そのまま意識を失ってしまいたくなる欲求に必死で抗っていた。
 いつの間にか最初に仕掛けたはずの恵理が、義人を受け止める側に回ってしまっていたようである。


 それは瞬く間に起きた夢のような出来事だった。
 恵理にとっても、義人にとっても、それまで互いの認識不足のおかげで不自然に押さえ込まれていた感情を一気に解き放つことができたのだから、素晴らしく感動的な出来事だっただろう。
 しかし、過ぎてしまえば記憶は遠ざかってしまう。
 唇を離し、腕を解いた後にも、二人の間には余韻が残されてはいたが、それに浸って安閑としていられる状況ではなかった。
 現実に戻った瞬間から直に脱出のための行動に移らざるを得なかったので、せっかく互いの愛情を確かめることができたにも拘らず、それは一旦棚上げとするしかなかったのである。
 恋愛が成熟する過程の一部を棚上げにしてしまうと、その後に再開するタイミングを掴むのは意外に難しい。読み掛けの本に栞を挟んだり、一日の仕事に区切りを着けるのとは分けが違う。時には気持ちが後戻りしてしまったり、冷静になった途端に後悔してしまったりすることもあるからだ。単に相手を意識し過ぎて、再開を言い出せないほど照れてしまったりすることもある。
 こういう場合、人は相手を信じているとかいないとかには関係無く、先を急ぎ過ぎて無性に焦ってしまうことがあり、それが時には失敗に繋がる。
 義人もせっかく手に入れた恵理の愛情を棚上げするにあたって、堪えがたい焦りを感じていたわけなのだが、
 「外に出られたら、この続きは絶対にさせてくださいねっ! 」
 などとストレートな発言を、うっかり口にしてしまった自分には引いた。
 まあ、ハッキリ言って若さ故の暴言なのだが、
 (そりゃ、ねーだろ! もっと気の利いたセリフは思い付かないのかよ! )
 恵理とキスして抱き合って、そこから先に進みたいという気持ちを我慢するのは現状では仕方が無いことだと思ってはいるが、棚上げにされたまま有耶無耶になってしまったら困るので、何か栞になるようなものを挟んでおきたかったのだが、これは生々し過ぎる一言だったと思う。
 (そもそも続きって何さ? )
 自分にツッコミを入れながら恵理の顔を見たら真っ赤だった。
 当然、義人の発言に対する返答などあるはずが無い。
 (やっばーい! )
 義人は慌ててしまった。
 「いやっ、続きって言うのは、そのなんて言うか、もっと親しくしましょうとか、そんな感じの話であって、決して嫌らしい意味では・・・ 」
 自らの不用意な発言を慌てて取り繕いながら、ジタバタと荷物を纏めながら出発の準備を進めた。
 (デリカシーの無い奴だって、怒っちゃったりしたかなぁ? )
 大した荷物があるわけでもないので準備は直に終わり、義人は恵理から預かったウェストバッグを腰に装備しながら深々と溜め息を吐いた。
 「さあ、出発しましょうか。」
 義人が声を掛けると、恵理は黙って両手を差し出した。
 引っ張って立たせてくれと言いたいらしい。
 (無言ってのは、怒ってるってこと? )
 義人はシュンとしながらも、恵理の両手を取って慎重に引き起こしてから、腰に手を添えながら肩を貸して立たせてやった。
 (立つのも辛いって感じだな。)
 恵理の右足は長時間の歩行には耐えられそうになかったので、先ほど話し合って義人が背負って運ぶということにしていた。
 義人に負担を掛けたくないから自力で歩きたいと恵理は言い張ったのだが、怪我人を支えて歩くより、背負った方が明らかに移動速度が早くなるということで納得させた。
 義人の体力ならば女性一人背負ったぐらいで大した負担にはならないし、走ることだってできるだろう。
 それでも恵理は、義人に悪いと思う気持ちが収まらなかったようで、
 「私を置いていった方が・・・ 」
 などと、ボソリと口にしかけたので、義人は透かさず小さな子供なら泣き出してしまいそうな大魔神並みの憤怒の表情を見せて、恵理の暴言を迫力で押さえ込んでしまった。
 まあ、ホンの少し前までの義人は強気だったのである。
 決して楽観できない状況に於いて、少しでも恵理が明るくいられるよう頼もしい男を心掛けていたのだが、
 (欲求不満のガキに思われたかもなぁ。)
 そう反省しながら、顔を赤くして黙ったきりの恵理を背負った。
 (あ、なんか背中の感触が気持ち良い。)
 スーツとビニール製のカッパを間に挟んでいながらも、恵理の胸や二の腕の感触が伝わってきて、ついつい表情が緩んでしまう。
 どうやら、ホントに欲求不満のガキであるらしいと知り、自分にガッカリした。
 「んじゃ、行きます。」
 義人は羆が逃げていった反対方向に向かって歩き出した。
 図面は持っていたのだが、二人とも途中からデタラメに走ってしまっていたので、現在地が分からなかった。
 だから、取り敢えず羆から距離を取ることだけを考えて出発することにしたのだ。
 歩き始めてから少しして、恵理が義人の耳の傍で小さく呟いた。
 「義人君。」
 「は、はい! 」
 小言を頂戴するかもしれないと思って、義人は緊張した。
 しかし、恵理が耳打ちしてきたのは意外な一言だった。
 「良いよ、続き。」
 それは恥ずかしさを堪えながら発した小さな呟きだったが、意を決して想いを込めた強さの感じられる一言だった。
 その呟きを耳にした途端、義人の心臓の鼓動が急激に早まり、そして高まり、顔中が火照ってきた。期待や照れ、喜びや感動など、一時鳴りを潜めていたポジティブな感情が息を吹き返してきた。
 「あの・・・続きって、良いんですか? 」
 「うん。」
 恵理は返事をしてから、義人の首筋に顔を埋めた。
 (で、続きって何? )
 意思の疎通にすれ違いがあったら不味いので、続く発言はキチンと確かめてからにしようと思ったのだが、
 「地上に出て、署に報告をして、病院に行って、それから家に帰って、お風呂に入って、それからだね・・・続きは。」
 家に帰って、風呂に入ってからする続きとは、もう誤解のしようがない続きだと思う。
 (やたっ! やったーっ! )
 今し方まで失言に反省し悩んでいたのに、義人は性懲りも無く舞い上がってしまった。
 恵理が義人を求めてくれるなら、失言など無かったことにして構わないのである。
 無意識だが足取りが早まったような気がする。
 少しでも早く、地上に戻りたいというウキウキした気持ちが身を軽くさせてしまっているらしい。
 その心情は、思春期の中学生以外のナニモノでもなかったのだが、
 「あ! でも、恵理さんは足怪我してるんですから、家に帰ったら安静にしなくちゃダメなんじゃないですか? たぶん、病院でも言われちゃいますよ。」
 すんでのところで、大人の心が踏み止まったようだ。
 怪我人が安静にすべきなのは常識で、恵理の身を労るならば当たり前のことである。続きなど期待して良い状況ではない。
 義人は内心ガッカリしながらも理性と良心を最優先させて恵理を気遣ったのだが、
 「・・・そっか。」
 そう言って溜め息を吐いた恵理の方が、義人よりも落ち込んでいたように思えたのは気のせいだろうか?
 「恵理さん? 」
 気遣いをしたはずなのに、意地悪な、突き放すようなことを言ってしまった気がして、何だか申し訳ない気持ちになってしまった。
 義人は、恵理を元気づける楽しい話題を探した。
 「そうだ! ご飯作りますよ、中華! 美味しい八宝菜作りますから! 」
 それは今朝交わした約束である。これは守らなければならない。
 「そだね。買い物して帰んなきゃ。」
 義人が約束を覚えていてくれたことが嬉しかったのだろう。
 恵理が気を取り直して、元気な声を出してくれたので安心した。
 ところで、晩ご飯の件には問題がある。
 「晩ご飯の件についてですが、実はホームセンターで無計画に買い物をした結果、資金が底を着いちゃってまして・・・ 」
 恵理と出会って以来、お金に関する弱点ばかり見せているような気がする。おかげで甲斐性無しの学生と認識されてしまっているのだとしたら、こんな辛いことは無い。
 申しわけ無さそうな態度で謝った義人の頭を、恵理が指で小突いた。
 「もうお金のことは気にしないでって言ってるでしょ。今回は、義人君がホームセンターで買い物してくれたおかげで私は命拾いしたのよ。」
 だが、義人は首を横に振って、お金に関してはケジメが大切だと言い張った。
 「実家からお金が届き次第、キチンと清算します。」
 「もう、学生の癖に堅物! 」
 「これでも一応東大生ですから、結構お金になるバイトも抱えてます。学生だからって見くびらないで下さい。」
 「もうっ・・・! 」
 応えるのが面倒になったのか、恵理は義人の頬を抓った。
 「ひぃやっ、てててっ! 」
 けっこう本気で、捻りまで加えて抓られたので、かなり痛かった。
 「ふん! 」
 恵理がソッポを向いた直後、唐突に義人の歩みが止まった。
 そして沈黙。
 それまで恵理との会話を楽しんでいた義人が、一転して口をキツく閉じ、一切の身動きを止めて耳を澄ましていた。
 「・・・ 」
 「義人君? 」
 異常を察した恵理が心配そうに声を掛けると、義人は振り返って自分の唇に人差し指をあてた。
 小声で恵理に静かにするようにと指示した義人の表情は明らかに険しかった。
 (来たな、バケモノ! )
 獲物を狙う羆は、一度撃退されたぐらいで諦めるような簡単な獣ではなかったということである。少し前から羆が二人の後をつけて来ているのは間違いないようだった。
 (だが、こっちを警戒しているのか、意外に急接近はして来ないな。)
 微かな羆の唸り声と気配は漂ってくるのだが、その位置は未だ遠い。
 今歩いている雨水管は大きく湾曲しているので、背後にヘッドライトを向けても見通し範囲内に羆の姿は見えなかった。義人は見通し距離を目測し、少なくとも四〇〇メートル以内に羆はいないと判断した。
 (それならば、わざわざ立ち止まって距離を詰めてやる必要は無いな。)
 義人は再び歩き始めたが、今までよりはできるだけ速度を早めることにした。
 「ところで恵理さん、いざと言う時には拳銃用意して下さいね。」
 梯子の下に落ちていた自動拳銃は義人が拾って恵理に渡しておいた。ハンディライトも落ちていたが、こちらは落下の衝撃で壊れてしまっていた。
 「うん、でも拳銃は役に立たなかったわよ。」
 四発も撃って、羆には擦り傷程度のダメージしか与えられなかったとのことである。
 「いえいえ、至近距離で目や鼻、口の中に当たれば、それなりの効果は有りますよ。だから、拳銃は万が一の最終手段です。」
 拳銃を使わなければならないほどの至近距離で羆と対面したら、おそらく負けだろうと義人は思っていた。
 目の前で襲いかかってくる羆に狙いを定めて発砲するなど不可能である。猛獣の殺意を前に冷静さを保てるはずが無いし、羆の攻撃速度に人が対応できるはずがない。
 おそらく、接近戦ならば拳銃よりも刀や槍の方が遥かに役に立つと思うが、その手の武器はこの場に無い。
 だから、恵理には気休めを言っただけだった。
 せっかく持っている武器なのだから、端から無力だと思い込む必要は無い。それが多少の役には立つだろうと信じていたなら、現実に直面するまでの間は心強くいられる。
 羆に襲われ、恐ろしい思いをしたばかりの恵理は精神的にかなり弱っていると思う。現在の状態で再び羆が接近してくる恐怖を味わい続けていたら、殺される前に心が壊れてしまうかもしれない。
 そうならないためのお守りが必要だと思ったのだ。
 義人は、恵理がお尻のポケットに差していた拳銃を取り出して安全装置の確認をする様子を横目で見ながら、自分の上着のポケットから小さなビニール袋を取り出した。
 (これも、お守りだ。)
 ビニール袋の中には灰色をした丸い小石のような物体が五個入っており、義人は一個を取り出して手に持つと、今度はジーンズのポケットからライターを取り出した。
 それから暫く進むと二本の雨水管が交わる交差点があったが、そこで義人は、
 (役に立ちますように。)
 そう心の中で祈りながら、灰色の物体にライターで着火し、傍の床の乾いている場所を選んで放った。
 その物体は火がつくと同時に、シューシューと息を吐くような音を立ててながら火柱をたて、床の上で曲がりくねった太く黒い紐のような燃えかすを伸ばし始めたが、それと同時に大量の黄色く濁った煙も吹き出した。
 「よーしよし。」
 義人は頷きながら残りの四個も点火して放ったので、忽ち辺りは煙幕でも張ったかのような状態になった。
 「何なの? 」
 恵理が、辺りに立ち込めた煙の濃さと、鼻を突く強い異臭に驚いていた。
 「知りませんか? ヘビダマってやつですよ。全然綺麗じゃないんですけど花火の一種なんです。」
 義人はヘビダマの煙と臭いの濃さに満足すると、三つに分岐した雨水管のうち適当に一つを選び、その中を進んでいった。現在地が分からない以上、ここで迷っていても意味が無いと素早く判断したのである。
 「ヘビダマは煙幕にしたの? 」
 「ええ、煙だけじゃなく臭いも凄いですからね。獣は臭いで獲物を追うって言うじゃないですか。それならヘビダマは、こっちの臭いを眩ませるには良いアイテムだと思ったんですよ。」
 「そっか、なるほどねぇ。」
 義人が、羆と戦ったり、追い払うことだけではなく、撤退の手段まで考えていたことに恵理は感心しているようだった。
 「それに、奴は火で痛い目に遭ってるから、煙に警戒して離れてくれると助かるんですがね。野生の動物が火を怖がるってのは迷信らしいですけど、さすがに火の点いたシンナーを一リットルも頭から被ったら嫌になるんじゃないですかね。」
 恵理が梯子の上で窮地に陥っていた時、義人は手製の火炎爆弾を羆にお見舞いしてやったが、それが見事に顔面を直撃してくれたのは幸運だったと思う。正直、あの場では焦っていたし、身が強張るほどの恐怖を覚えていたので外す可能性も高かったのだ。
 命中したのは奇跡に近い。
 (人間なら大やけどなんだが。)
 分厚い毛皮に覆われた羆ならば、早めの消火に成功すれば大した火傷にはならないだろう。暫くしてから改めて二人の後をつけ始めたところを見ると、少々熱い思いをして驚いただけだったのかもしれない。
 (まったく、厄介なバケモノだ。)
 義人は内心で舌打ちした。
 その後、一定距離を進む度、雨水管の交差点を通過する度に、義人はポケットからヘビ玉を取り出しては着火して放り投げた。
 既に五〇個以上も放ったと思うが、ホームセンターで季節外れの安売り商品を纏め買いし、全てポケットに詰め込んでおいたので未だ十分な手持ち分があった。
 途中でヘビダマの効果を確認しようと振り返ってみたら、吐き出された煙は雨水管の中に霧が漂っているほどに立ち込めているようで、硝酸と火薬の混じった異臭も簡単に消えないほどの濃さで漂っていた。屋外と違い煙や臭いの逃げ道が無いことが効果的だったのだろう。
 「羆、来てるかな? 」
 義人の背に揺られながら恵理が心配そうに呟いた。
 「少し前から気配が消えてます。未だ安心して良いかどうかは分かりませんけど。」
 気休めなどではなく、実際に羆の気配は感じなくなっていた。地上へ出るまでは決して楽観はできないが、ヘビダマが期待通りの効果をあげてくれたのだとしたら、羆は二人を見失ったのかもしれない。
 義人はさらにヘビダマを撒き続けながら、背後の様子に気を配りつつ、さらに先へと進む。雨水管は札幌市内に限定された施設だし、環状構造にもなっていないので、歩き続けていれば、必ず出口に辿り着けるはずだった。
 さらに幾つかの交差点を通り過ぎ、恵理と合流してからは約一時間が経過していた。
 その変化に最初に気付いたのは恵理だった。
 「あれ、光よね? 」
 湾曲した進行方向の遥か先に見える雨水管の壁面に白い輝きが見えていた。
 その白い輝きは雨水管の奥の方から入り込んできているようだった。
 「どれどれ。」
 義人は歩きながら試しにヘッドライトを消してみた。
 二人の周囲は忽ち真っ暗になってしまったが、遠くにある白い輝きは消えなかった。
 「光だよ! たぶん表からの! 」
 それを確信した途端、義人の足取りは駆け足に変わっていた。
 一分一秒でも早く地上を目指したいと思ったのだ。
 雨水管を先に進むにつれ壁面の輝きは徐々に広がっていき、その光は強い眩しさを伴ってきた。
 そして、遂には前方に光の壁が覗いてきた。
 「あれ出口? 出口でしょ? 」
 恵理が泣き出しそうな声で叫んだ。
 「間違いなく出口です! 」
 そう義人が答えると、恵理が歓喜の悲鳴をあげ、義人の首を夢中で抱きしめながら頬に何度も口づけしきた。
 ここからはラストスパートである。
 最後に、もう一度羆の接近が無いか確かめたが、その気配は全く感じられなかった。
 「うっしゃーっ! 」
 一つ大きな気合い入れた義人は、最後の一〇〇メートルほどの距離を恵理を背負ったまま全力疾走で駆け抜けた。

後篇

  [一六]


 義人と恵理が雨水管を脱出した先は、南区を流れる豊平川の支流の一つだった。
 随分遠くまで歩いてきたらしく、川の土手を攀じ登った所で見たのは、昨日も目にした廃墟と無人の住宅が立ち並んだ『行政管理地』が点在する寂しい風景だった。
 「まずは、一休みして助けを呼びましょう。」
 義人は手近にあった無人の住宅の一軒を選び、その鉄製の門にかけられた南京錠を壊して敷地内に入った。その住宅は鉄筋コンクリート製の三階建てであり、人の背丈よりも高いブロック塀で囲まれており、もし羆が追ってきたとしても立て篭って時間を稼げそうに見えた。
 空き家とはいえ、鍵を壊して門を開けるなど不法侵入に当たる行為かもしれないが、今は緊急避難として許されるだろう。
 「恵理さん、連絡してもらえます? 」
 義人は預かっていたウェストバッグから、恵理の携帯通信端末を取り出して手渡した。
 「うん。」
 恵理はピロティに腰をおろして痛めている右足を伸ばして摩っていたが、携帯通信端末を受け取ると直に中央警察署に連絡した。
 おそらく、数分以内には警察の迎えがやって来てくれることだろう。
 その間、義人は門の強度を調べていたが、もし羆が追ってきても暫くは持ち堪えてくれそうな強度があることを確認してから漸く一安心した。
 「何とか切り抜けられたみたいですね。」
 義人が隣に腰を下ろすと、
 「うん。未だ信じられないけどね。」
 そう言って恵理は義人の肩に頭を乗せた。
 そっと肩を抱いてやると、恵理の身体が小刻みに震えていた。
 (そりゃ、そうだよな。)
 この数時間の間に二人が経験した出来事は、普通に日常を送っていたら絶対に味わうことのできない窮地と緊張の連続だった。
 義人でさえ疲労困憊の状態にあるのだから、羆に襲われ右足を負傷し、一時は死を覚悟した恵理は、肉体的にも精神的に疲労困憊の状態にあるに違いない。
 たとえ警察官であっても、滅多に出会うことの無いほどの異常事態を経験してしまったのだから、震えがとまらないぐらい当たり前のことだと思う。
 それにしても、よくぞ助かったものだと思う。
 運が良かったの一言に尽きるが、多少の準備が功を奏したことで、義人には自分の手際を誇る気持ちもあった。
 その結果、恵理を助け出すことができたのは、義人にとって最善であり最高の首尾だったわけで、その感激は数時間分の疲労を全て忘れさせてくれるほどだった。
 「ねえ、義人君。」
 「はい、なんでしょう? 」
 義人が肩を抱いているうちに恵理の震えも大分収まってきており、その声の調子も幾分元気を取り戻していた。
 「私の実家、たぶん近くにあるんだよねぇ。」
 どうやら恵理はこの家にも周辺の景色にも見覚えがあるようで、いかにも懐かしそうにしながら、そんなことを口にした。
 「恵理さん、札幌の南区出身なんですか? 」
 恵理の実家があると言われれば、もちろん気にならないわけが無いので、義人は顔をあげてブロック塀の向こうに見える風景に目を移したのだが、
 「塀越しに見上げてちゃ、残念ながら山しか見えませんね。」
 そもそも、二人が現在いる場所は南区の中でも三方を山に囲まれた小さな集落とでもいうべき場所であり、山の斜面に人家は見えず、人工物は高圧送電線の鉄塔ぐらいだった。
 この家の周りに関して言えば、元々は区画整理された住宅街だったようだが、今は道路に沿って空き家が点々と残るぐらいで、殆どが更地だった。
 「まあ、実家って言っても両親は市街地に引っ越しちゃってるし、今じゃ空き家が残っているだけなんだけどねぇ。ここから自転車で一〇分くらいの所に中学の頃まで住んでたのよ。」
 それならば、子供の頃の思い出の故郷と言ったところだろうか。
 「自分が育った場所が、無人になっちゃうのって寂しいですよね。」
 人口密度では全国有数の東京都武蔵野市なんかに住んでいると、過疎の実態が今ひとつ理解しきれていなかったが、地方では政令指定都市でさえもこうした有様になっているということは、かなり深刻な状況にあるらしい。
 「でもまあ、元々山を切り開いて住宅を建てたんだから、人が住まなくなったなら山に戻るってのは悪いことじゃないと思うんだけどねぇ。」
 恵理は大したことでは無さそうに言うが、そういう風に割り切るしかないのだろう。
 「ところで、この家に入る前にね、山の麓から斜面に掛けてソーラーパネルが沢山並んでいたの見えたかしら? 」
 「ああ、そう言えばありましたね。」
 今時、珍しい風景だなと思って見ていた。
 二一世紀の始め頃、太陽光はクリーンエネルギーということで散々持て囃され、日本の各地では大規模なメガソーラーシステムが稼働していた時期があったらしい。だが、今では埋め立て地や建物の屋上に設置されていることがあるぐらいで、殆ど見掛けなくなってしまっていた。
 そもそも、電力を発生させるプロセスに関しては原子力発電や火力発電よりもクリーンなのだが、広大な土地を利用するメガソーラーシステムは、本来地上に降り注ぐはずの太陽光を殆ど奪ってしまう。光と熱を失えば土地は微生物が減少し、植物も消えて荒廃するに決まっていた。
 そんなリスクを覚悟の上で、一時期は未使用の平原や耕作放棄地があれば片っ端からメガソーラーシステムが設置されていたらしいが、その影響が周辺の水質や土壌に及ばないはずが無く、いつの間にかメガソーラーシステムは自然環境破壊の元凶と言われるようになり、その数を減らしたと聞いている。
 だから、一見して近くに自然の山々が残る環境の真っ只中に、大規模なメガソーラーシステムが設置されている風景には違和感を覚える。
 「北海道内は、けっこうメガソーラーシステムが設置され続けているわよ。」
 「そうなんですか? 」
 北海道と言えば自然豊かなイメージで、環境保護の聖地のような気がしていた。
 「現在の北海道はね、未使用の平地の多さと、山間部の消滅自治体の多さじゃ全国有数なの。そういうところにソーラーパネルを立てちゃうわけ。」
 人が住まなくなって管理者が不在になった土地の有効利用ということなのだろうが、
 「でも、消滅自治体って、俺の知る限りじゃ農業とか林業とか第一次産業中心に携わっていた町や村が多かったと思うけど、そういうとこは基本的に自然のど真ん中って感じですよね? 」
 「そうなのよ。近くに豊かな農地があったり、水源があったりもするわ。」
 「この辺も、農地は少ないけど緑豊かな感じですよね? もう少し奥に入ったら国定公園だし。でも、山の途中までソーラー立っちゃってるんですね。」
 北海道の行政は何を考えているのだろうか?
 「別に行政が推進しているわけじゃないわ。行政は設置を抑えたい側なのよ。」
 「はぁ? それは妙な話ですね。」
 何か複雑な事情があるようだ。
 「道も市も、自然や農業や観光地を守るためには無計画なメガソーラー発電なんて止めさせたいだろうし、付近の住民は土地が荒れたら死活問題だって反対しているわ。」
 「それなら何故? 」
 「道内っていうか、国内の自然環境に興味の無い企業ってあるのよ。例えば一部の電力系外資ね。過疎が進んだ自治体の土地を買収して、そこにメガソーラーシステムを設置しちゃうの。彼らは発電さえできれば、自然環境なんて何の利害も無いから容赦ないわ。」
 それならば、外資の土地買収を防げば良いのではないかと思った。自治体が主催する土地の競売なら、入札の際に外国企業を閉め出すことぐらいできるだろう。
 「それがね、外資を閉め出して日本の企業や不動産屋に売却したはずなのに、いつの間にか短期間で外資に転売されちゃってる例が後を断たないの。その結果の一つが、さっき見たあれよ。」
 「あれって、この付近に設置されてるやつですか? あれも外資のメガソーラーシステムなんですか? 」
 「そうよ。元々個人の住宅や農地が並んでいる場所だったんだけど、その周辺の山の中にも個人所有の土地が沢山あったみたいで、それらが最初は札幌市内の不動産屋に全部買収されたんだけど、気がついたら外資のメガソーラーができちゃってたってわけ。」
 困ったものよねと言って、恵理が溜め息を吐いた。
 「おそらく、あのメガソーラーのおかげで南区の自然環境や生態系は色々と厄介な変化を起こしちゃってるでしょう。あの羆だって、山が住み辛くなったから生活圏を変えようとしたのかもね。」
 そこで羆の話しに繋がった途端、義人はムカムカと腹が立ってきた。
 「それじゃ、今回の羆事件って、外資の電力会社と土地の転売業者のせいってことじゃないですか! しかも、転売業者ってのは日本人なんでしょ? とんでもない非国民の悪党じゃないですか。そんな奴ら、罰が当たれば良いのに! 」
 義人と恵理が雨水管の中を逃げ回らなければならなかったのも、そいつらのおかげだと思うと腸が煮えくり返る。
 「でも、罰が当たった人もいたみたい。」
 「え? それって、どういうことですか? 」
 義人は首を傾げた。
 「白石で殺されたのは転売業者。義人君がカモカモ川添いで羆を目撃した時に殺されてたのも中国の不動産関係者なのよ。」
 「そうなんですか? 」
 罰が当れば良いのにとは言ったものの、本当に殺されてしまっていたとは、さすがに気まずい失言だった。
 「そういう繋がりがあるって分かったから、始めは羆を操って不動産転売業者や外資系電力会社の関係者を狙ったエコテロリストの仕業じゃないかって思っちゃったの。人間が羆を連れ回してるなら、事件現場が市内を転々とするのも有り得るかなってね。まあ、これに関しては大間違いだったわけだけど、メガソーラーのせいで生活圏を奪われた羆が市街地に降りてきて、そいつらを襲ったってのなら構図は同じかな。」
 「確かに、人為的じゃないですけど構図は一緒ですね。」
 義人は、それに頷いた。
 「あ、そろそろお迎えが来たみたいよ。」
 恵理が義人の肩から頭を離した。
 「ホントだ。」
 遠くの方から警察車両のサイレンが聞こえてきた。
 「俺、門のとこまで出て待ってます。」
 そう言って、義人は立ち上がった。
 (いったい、何台で駆け付けたんだろう? )
 多数のサイレンが重なって聞こえていたが、それらが纏まって近付いてくると、今まで人気が無く静かだった『行政管理地』の中では、かなり騒々しく感じられた。
 (取り敢えず、これで一段落したって気持ちにはなるよな。)
 まさに激動の半日だったが、この後は恵理を病院に連れて行って、警察の事情聴取に付き合えば二度と羆には関わらずに済むだろう。
 (めでたし、めでたし。)
 安心したら腹が鳴った。
 時刻は一四時半。
 昼食抜きで走り回っていたのだから空腹なのは当たり前のことだった。


  [一七]


 増田恵理警部補による報告と証拠品の提出。それだけで大掛かりな羆退治に取り掛かるほど、警察は単純な組織ではなかった。
 『警部補の行動は個人の一方的な判断に基づいた不適切な捜査である可能性が高い。そのため、まずは報告内容の真偽を確かめなければならない。』
 羆の専門家や署内の有識者が揃って否定した意見に従って、しかも上司に無断で行った捜査であるという点が問題視されてしまったのである。
 「でもまあ、それが組織ってものよ。」
 散々苦労して手に入れた結果を簡単に受け入れてもらえないことに対して、もっと反発したり悔しがったりするかと思ったのだが、意外に恵理はサバサバした口調で聞き分けの良いことを言う。
 「部下が個人の意見に基づいてスタンドプレーばかりしていたら、組織なんて成り立たなくなっちゃうでしょう。」
 「そりゃあ、そうなんでしょうけど。」
 気にするほどのことじゃないと言いながら八宝菜を口に運ぶ恵理の様子に、義人は歯痒さを感じていた。
 「恵理さんは証拠も提出したし、地下での状況もキチンと説明したんだから、直にでも羆退治に取り掛かってくれて良いと思うんですけど。」
 警察がノンビリ構えていたら、羆による被害は拡大してしまうかもしれない。
 「個人の目撃証言や少ない証拠をその場で鵜呑みにして即行動なんて安易な対応はできないのよ。日頃の様々な捜査の中で、不確かな証拠や情報提供は多いわ。オオカミ少年みたいな連中もいるし、それを毎回信じて振り回されちゃったら警察は大変なことになるでしょう。だから、証拠や情報を手に入れたら、本格的に動き出す前に裏付けを取らなきゃならないの。」
 警察官である恵理はその論で納得できているのだろうが、民間人である義人はかなり釈然としていない。二人が文字通り命懸けで手に入れてきた羆の証拠を無下に扱われたような気がしてならなかったのだ。
 (そもそも、警察の俺に対する態度が気に入らない! )
 義人は中央警察署での事情聴取が終わってから、ずっと腹立ちが収まらずにいる。
 (あいつら、人を犯罪者みたいに扱いやがって! )
 義人に対する担当者の扱いは想定外のものだった。
 別に褒めてもらえるとは思っていなかったし、その無謀な行動を嗜められたりはするだろうと思っていたのだが、まさか犯罪行為の疑いを掛けられるとは想定していなかった。
 事情聴取の大半が、『無断で雨水誘導管に不法侵入した行為』に対する取り調べと厳重注意に終わった。肝心の羆に関する情報提供は全く求められなかったし、それについての言及自体が殆ど無かった。どうにも焦れったかったので、こちらから羆と遭遇し、撃退し、脱出に至った経緯を強引に語ったら、手製爆弾が問題視されて、公共物損壊の疑いがあるとの指摘を受けてしまった。
 「まあ、警察もお役所なんだから、そういう融通の利かないとこあるのよね。私も市街地で発砲した件と薬莢の未回収で始末書を書かされることになるみたい。」
 「んな、馬鹿な! 」
 市街地と言っても人気の無い雨水管の中である。それに発砲は自分の身を守るためにやむを得ない行為だったし、あの真っ暗な中で小さな薬莢を探してグズグズ留まっていたら羆の逆襲に会ってしまっただろう。
 「いったい、どうなってるんですか? 警察って、そんなに頭が堅い人ばっかいるんですか? 堪んないですよまったく! 」
 義人は今にも泣き出しそうな顔をしながら頬を膨らませた。
 「ねぇ、義人君? 」
 食卓に肩肘をついた行儀の悪い姿勢で食事の手を止めてしまった義人を、恵理が心配して声を掛けた。
 「よーしーとーくん。ご飯冷めちゃうわよー? 」
 話し掛けても返事をしてくれない義人に恵理は溜め息をついた。
 義人の憤りは十分に察しているが、恵理にとっては今回のような警察側の対応は毎度のことであり、慣れっこになってしまっているので、一々腹を立てるのも面倒なことだと割り切ってしまっている。義人に自分と同じ割り切りを求めるの無理だと思うが、ご機嫌だけは直して欲しいと思っていた。
 「えい! 」
 いきなり恵理の手が延びて、その指が義人の右頬を抓った。
 「ひぃっ! ひぃてててて! 」
 思い掛けない奇襲に義人は悲鳴をあげた。
 「機嫌直しなさい! 直さないとこうだ! 」
 恵理はグリグリと義人の頬を捻る。
 「ふっ、ふいまへん! なおひまふっ! 」
 「ホントに直す? 」
 「ほんと、ほんとになおひまふっ! 」
 「よしっ! 」
 恵理は義人の頬から指を離して、ニッコリと微笑んだ。
 「恵理さん、酷いですよぉ。」
 義人はヒリヒリする頬を摩りながらこぼした。
 そういえば、雨水管の中でも義人がお金の話しで堅物なことを言い張ったら頬を思い切り抓られてしまった。恵理は、口で反論したり、言い聞かせるのが面倒になったら手を出してしまう質なのかもしれない。
 (姉ちゃんと同じだ。)
 外見は全く違うタイプだが中身は似ているところが多いのかもしれないと思った。
 もしかしたら、義人は姉が好きとか言う以前に、気が強くて行動力があって多少乱暴な女性が好みだったのかもしれない。
 「せっかく義人君が作ってくれた中華なんだからさぁ、美味しくいただかなけりゃダメなのよ。」
 そう言って恵理は、義人の取り皿に八宝菜を山盛りにしてくれた。
 今夜の夕食は、メインが八宝菜。サイドに手作り餃子と唐揚げ(恵理に言わせればザンギ)、野菜も必要だと思ったのでグリーンサラダを並べてみた。餃子と唐揚げは手慣れたものだったが、初めて作った割には八宝菜の出来も上々だと思った。
 「あーあ、ホンモノのお酒飲みたい。」
 今夜の恵理はノンアルコールのビールを飲んでいる。
 もちろん、義人も付き合ってノンアルコールである。
 「今日はお酒はダメです! 医者に言われたでしょ。」
 恵理の右足は足首の捻挫と脹脛の肉離れ。合わせて全治一ヶ月という診断だが、一週間もすれば歩くのに支障がない程度には回復するだろうとのことだった。
 「意外に大した怪我じゃなくて良かったんですけど無茶はダメです。絶対にっ! 」
 「はーい! 」
 恵理は悪戯を注意された子供のようなシュンとした上目遣いを義人に送りながら、ノンアルビールの缶に口を付けた。
 「・・・続きもできないのかなぁ? 」
 義人は口の中の八宝菜を吹き出しそうになった。
 「だっ! ダメに決まってるじゃないですか! 」
 「でも、お医者さんはダメって言ってないよ。」
 「普通、言いませんよ! 」
 医者が、わざわざ怪我をしてるんだからセックスはしないで下さいなどと言うわけがないだろう。安静にしなければならないのだから、ダメに決まっている。
 義人は動揺しながら、口から少しだけ飛び出してしまった八宝菜の餡をティッシュで拭った。
 「でも、怪我までしたご褒美は貰えたんだよ。」
 「ご褒美? 何か貰ったんですか? 」
 恵理が教えてやるから耳を貸せと手招きした。
 「はい? 」
 義人が立ち上がって食卓の上に身を乗り出した途端、恵理が飛び上がるようにして唇を押し付けてきた。
 恵理の手招きによる奇襲は三度目。義人には学習能力と記憶力が掛けているのかもしれない。
 「「んふ・・・ 」」
 雨水誘導管の中で初めて交わした時のような濃厚で感動的なキスではなかった。唇が一瞬触れ合っただけの簡単なキスだったが、二人の想いが通い合った後に交わす穏やかなキスは、甘くて心の芯が暖まるような幸せが伴っていた。
 唇を離してから椅子に座り直した義人は、少し照れながら、
 「で、ご褒美って何なんです? 」
 と、聞き直した。
 「お休み貰えたんだから、義人君とゆっくりできるなって思ったの。」
 そう言って嬉しそうに微笑んだ恵理は、ハッキリ言って無茶苦茶に可愛いかった。
 思わず席を立って、恵理に駆け寄り抱きしめてしまいたくなるほどだった。
 (でも、恵理さんって昨日までよりも幼くなってない? )
 かなり甘ったれになっているような気もする。
 まあ、散々な目に会って疲れてるだろうし、今は気も緩んでいるのだろうから、そういうこともあるだろうと思った。
 (ずっと、このままでも良いんだけど。)
 義人は、そんな恵理の様子を見ていたら、昼間の警察で受けた不愉快な思いが徐々に薄らいでいく感じがしていた。


 真っ暗な雨水誘導管の中を、ヘッドライトを翳し、低濃度用の有機ガスフィルターとゴーグル付き防護マスクを被った三人の男が歩いていた。
 そのうちの二人は警察官、もう一人は札幌市の水道局員である。
 只今の時刻は二〇時。表はすっかり陽が暮れてしまっている時刻である。
 雨水管の中は夜も昼も関係無く常に暗いのだから時刻は関係無いのだが、夜間の残業で地下の穴の中を歩かされる気分は決して良いものではない。
 「堪んないっすね先輩。」
 マスクのせいで外見は分からないが、おそらく警察官に成りたてらしい巡査が前を歩く先輩巡査に愚痴をこぼした。
 「しょーがねぇだろ。これも仕事なんだから。黙って付いてこい! 」
 先輩巡査は後輩の不用意な愚痴を、先導する水道局員に聞かれては困ると思った。
 おそらく、水道局員は彼ら以上に不満を抱えて地下に潜っているに違いない。
 警察官はイレギュラーな仕事の発生や夜間の残業にも慣れているし、劣悪な環境で職務を遂行することも珍しくないので納得できる。
 だが、同じ公務員でも水道局の職員が勤務時間外に駆り出されて、雨水管の中を歩かされることなど滅多に無い。水道設備の事故やトラブルが発生したとしても、現場で作業に当たるのは外注業者の役目であり、彼らが直接関わったりはしない。
 この水道局員、警察からの協力要請があった時に運悪く居合わせてしまった事務担当職員だった。これまで汚れ仕事に関わるような部署の経験など無いし、本来なら定時で帰宅し、今頃は夕食も終えて寛いでいられる時刻のはずだった。
 それが、他に代わってくれる職員もいないので渋々図面片手に雨水管の案内役を努めているのだから、不満を抱えているというより、腹を立てている。
 (俺が渋々でも、協力してやってるのに、警官がぼやいてどうすんだ! )
 若い巡査の愚痴はしっかり聞こえていた。
 「すみませんねぇ、こんな時間に仕事に付き合わせちゃって。」
 先輩巡査がフォローするので、
 「まあ、お巡りさんたちも頑張ってるんですから、同じ公務員として協力するのは吝かじゃありませんよ。」
 などと、心にも無いことを言って笑って見せた。
 「それにしても、こんな管の中に羆がいるなんてホントなんですかね? 」
 「うちの上司が出会ったらしいんですよ。」
 「キツネやネズミが巣をつくることがあるんで時々駆除しますから、他の動物が入り込むこともあるでしょうけど・・・そう言えば、ここまで来る間にキツネと出会わなかったなぁ。毎年、この季節は中で子供産んでるって聞いてたんだけど。」
 水道局員が何やら不思議そうに首を傾げていた。
 「まあ、我々も正直言って半信半疑なんですけど、目撃者がいるんじゃ確かめるしかないですし。」
 「昔から下水にワニが住んでいるなんて都市伝説は聞いたことありますけど、今度は羆が都市伝説になりますかなぁ。あっはははーっ!」
 ヤケクソ気味の水道局員が漏らす笑いが雨水誘導管の中で空しく響いた。
 「それにしても姐さん、よくこんなとこに一人で潜りましたよね。気味悪くなかったんでしょうか? 」
 後輩巡査がヘッドライトに照らし出される不気味に汚れた壁面を見ながら、ウンザリした口調で漏らした。
 「姐さんは思い込んだら突っ走るタイプだからな。普段は冷静だけど、即断即決の行動力は署内でも定評があるんだ。」
 姐さんとは、普段から恵理は部下たちにそう呼ばれているのだろう。それなりの親しみと敬意を込めた愛称のようである。
 「それにな、聞いた話じゃ一人じゃなかったってよ。」
 先輩巡査が悪戯っぽく言った。
 「誰か一緒に潜ったんですか? 」
 「ああ、この中で足を怪我してさ、若い男の子に背負われて出てきたって話だ。」
 「ええっ! 若い男ぉ? いったい誰なんですか? 」
 まるで意表を突かれたように驚いた後輩巡査が、思わず前を歩いている先輩の上着の袖を掴んだ。
 「カモカモ川の時に羆を目撃した東大生で、年に何度か剣道の出稽古に来てる吉良先生のお孫さんってことらしいって、おい! お前ちょっと驚き過ぎだぞ! 」
 後輩巡査は慌てて袖を掴んだ手を離しながら、
 「姐さんって、男には無縁な人生歩むんだと思ってたんで、ちょっとビックリです。」
 と、寂しげに呟いた。
 「無縁ってのは酷いぞ。」
 上司に向かって失礼なことを言うなよと後輩を嗜めながら、
 「別に背負われて出てきたからって、付き合ってるとか彼氏とか、そんなんじゃ無いと思うが、見た奴の話しじゃ、けっこう良い雰囲気出してたってさ。今後の進展に期待ってとこじゃないのか? 」
 先輩巡査はマスクの下でニヤニヤしながら言った。
 「良い雰囲気ですか・・・残念です。それにしても、東大生ですかぁ・・・ 」
 後輩巡査が溜め息を吐いた。
 「なんだ? お前、姐さんに惚れてたのか? 」
 「俺だけないっすよ。たぶん、署内の独身男の半分ぐらいは姐さんに惚れてんじゃないですかね。」
 それは面白いことを聞いたと言って、先輩巡査は楽しそうに笑った。
 「まあ、姐さんは可愛いからなぁ。しかし、そんだけ惚れてる奴がいて、誰かモノにしようって動く奴はいないのか? 」
 「いると思います? 」
 先輩巡査は少し考えてから、
 「いや、いないだろうな。」
 と、言った。
 「まあ、告ったところであの性格だ。軽くあしらわれるか、蹴散らされるのが関の山だろうからな。」
 「さすが先輩、良くお分かりでいらっしゃる。」
 そう言って後輩巡査は苦笑した。
 「お二人さん、ちょっと良いですか? 」
 先導していた水道局員が足を止めた。
 「どうしました? 」
 問い掛けられた水道局員が、二人の警察官に辺りの床を見るように指差した。
 「これって、動物の毛でしょ? 」
 水道局員が指し示した先には、まるでブラシやハケから毟り取ったような黒っぽい剛毛がコンクリートの床に薄く張った水溜りの上で沢山浮いていた。
 透かさず先輩巡査がその場にしゃがみ込み、剛毛を一掴み手に取ってから目の前に翳してヘッドライトを当てた。
 「羆ですか? 」
 後輩巡査が横から問うと黙って頷いた。
 「俺は羆撃ちの経験者だから一目見りゃ分かる。こいつは成熟した羆の毛だ。地下の排水管の中に羆がいるなんて話を聞いた時には俺含めて皆が馬鹿にして笑ったけど、姐さんは自分の目で確かめるために一人で潜って、そして見付けたんだ。」
 先輩巡査は恵理の行動力に敬服したように唸った。
 「さすが、姐さんですね。」
 後輩巡査は頷きながら、自分も近くに落ちていた羆の毛を拾ってライトを当ててみた。
 「なんか、焼けてますね。」
 「そういや、焦げた毛だらけだな。吉良先生のお孫さんってのが、シンナーに火を点けて羆の頭から浴びせたって言ってたらしいから、そのせいじゃないか? 」
 「そりゃ凄い! 豪傑ですね。」
 警察官たちが羆の毛を熱心に拾い集めながら写真の撮影などしている間、水道局員は手持ち無沙汰にしていた。
 一緒に汚い水溜りを掻き回すなんてご免だし、しゃがみ込むのも嫌なので突っ立ったまま適当に周囲を調べる振りをしていたのだが、ふと水溜りの中で黄色く反射する物体に目が止まった。
 (なんだ? )
 拾って手に取ってみると、それはプラスチック製の短いベルトの一部分だった。
 単なるゴミかと思ったのだが、羆の毛と同じように所々焼け焦げており、両端には熱で溶けて千切れてしまったような跡が見受けられた。
 一応警察管に渡しておくべきと判断し、作業中の二人に声を掛けようとしたのだが、
 「ひぃっ! 」
 水道局員が一点を見つめながら引き攣るような悲鳴をあげた。
 「「えっ? 」」
 警察官たちは何事かと思い、立ち上がって水道局員の視線の先を追った。
 すると!
 三人分のヘッドライトが交わった中には、いつの間に近付いてきたのか巨大な羆の姿があった。
 しかも、その距離は絶望的なほどに近い。
 ブウォーッ!
 僅か二メートルほどの至近距離から発せられた凄まじい咆哮は、三人の男の精神を瞬時に破壊してしまった。
 絶句し思考力を失った男たちは、その場で棒立ちになった。
 もはや死を覚悟する以外に何もできなくなってしまった男たちの周囲で、どういう分けか羆は襲い掛かってくるようなことはせず、フンフンと鼻を鳴らして臭いを嗅ぎながらモソモソと歩き回っていた。
 そして、暫くしてから、
 ブフッ!
 と、嚔のような息を一つ吐いた後に雨水管の闇の中に何もせずに消えて行った。
 ガチガチとコンクリーを引っ掻く爪の音が遠ざかって行った。
 後に残された男たちは、自分たちの身に何が起きたのか分からないまま互いの顔を見合わせていた。
 三人とも生きているのが不思議だったのだ。
 最初に口を開いたのは先輩巡査だった。
 「見た? 」
 その声は震えていた。
 「「見た! 」」
 応える二人の声も震えていた。
 「私・・・漏らしちゃったみたいです。」
 そう言って俯いたのは水道局員である。


  [一八]


 雨水管の中で、三人の男たちは命拾いをした。
 しかし、この夜は一連の羆襲撃事件の中でも最悪の被害を出す一夜となってしまった。
 夜が開けるまでの間、羆は札幌市街地の数カ所に出現し、そのうちの三カ所において複数の人命が失われたのである。
 まずは二二時。
 札幌市の中心部を縦断する創成川沿いに整備された公園に羆が出現した。
 羆は公園内の遊歩道を散策中の男性一名と、ジョギング中の男性二名を次々に襲い、そのうちの二名を殺害した。さらに羆は自転車で公園を横切ろうとしていた帰宅途中の女性会社員をも殺害し、その遺体を持ち去ってしまった。
 現場は人通りの多い場所だったので事件の目撃者は多く、女性の遺体を咥えたまま創成川に降りた羆が下流に向かって移動して行く様子を、その場に居合わせた多くの市民が目撃している。
 次は二三時半。
 最初の事件現場から創成川を一キロほど北に移動した羆は、そこでハザードランプを点灯させて路上に停車中の乗用車を襲った。
 乗車していた会社員の男性は羆を追い払おうと再三クラクションを鳴らしたが、これが返って怒りを買ったらしく、逆上した羆はフロントガラスを破壊して男性を車外に引きずり出し殺害してしまった。
 日が変わって三時。
 札幌市北区の新川通り沿いを歩行中の大学生男女六名が羆に遭遇した。
 六名のうち四名は走って逃げ延びたが、羆は逃げ後れた男子大学生一名を殺害し、女子大学生一名をその場で補食した。
 付近の派出所で勤務中の警察官が、事件後三〇分ほどしてから通報を受け現場に駆け付けたが、その時には既に羆の姿は無く、女子大学生の遺体は無惨にも頭と手足の一部を残すだけになっていた。
 この三つの事件の間にも羆は市街地の数カ所で街灯監視カメラにその姿を晒し、通りがかった市民に目撃されていたが、その出没した場所の全てが川や運河の付近という明らかな共通点があった。
 一夜にして六名の命が羆によって奪われ、延べの犠牲者数は一〇名に達した。
 もはや疑う余地は無くなっていた。
 札幌市の地下には、巨大な羆が生息している。その羆は雨水誘導管と川や運河を伝って市内を自在に移動し、人間を襲うのである。
 三月三一日、月曜日の早朝、この事実は警察により緊急発表された。
 『札幌市の地下に潜む巨大ヒグマ! 』
 『巨大なヒグマが札幌の地下を徘徊! 』
 『地下の人食いヒグマ! 既に犠牲は一〇名超! 』
 マスコミメディアの一斉報道は、些か恐怖を煽り過ぎたのかもしれない。
 センセーショナルな見出しが多数並ぶことによって、却って市民の現実感は薄れ、差し迫った脅威を感じなくなってしまったらしい。
 『所詮は一匹の羆による騒動であり、マスコミは大袈裟に騒ぎ過ぎ。』
 『羆が人を襲うなど珍しくことではない。単に場所が変わっただけのこと。』
 『札幌は広いから羆と出会う可能性は低い。一々気にしていたら仕事にならない。』
 『警察が出動すれば、簡単に片付くだろう。』
 市民の大方は、このような反応を示していた。
 『わざわざ人間から近寄ろうとしない限り、羆に襲われることは無い。』
 つまり、北海道内の山間部で度々起きている野生の羆との不慮の遭遇事件と、今回の事件を同列に捉えている者が多かったのである。
 ソーシャルメディアに於いても、
 『みんなで羆を見に行こう! 』
 『カッコイイ羆の画像下さい! 』
 などの気楽な書き込みが多く見られたし、自然保護団体や動物愛護団体などは、インターネット上や警察への投書メールによって羆の助命嘆願運動を起こそうとしていた。
 市民生活への影響も限定的だった。
 一部の小中学校が臨時休校になり、川や運河近くの土地や道路が立ち入り禁止又は監視区域になったということ以外には、町の中に警察官の姿を多く見掛けたことと、札幌市の上空を飛び回るヘリコプターの数が多くなったことぐらいが目立った変化だった。
 商業施設が閉じられることは無かったし、企業や公的機関も通常通りに機能していたので、身近に脅威が潜んでいるような緊迫感は感じられなかったのである。
 警察は、報道後の札幌市内で多少の混乱が起こることを予想していたが、意外に市民は冷静であり、それについてはホッと胸を撫で下ろしていたらしい。
 警察は、この日の午前中から市内の川や運河に開いた雨水管の出水口をバリケードで封鎖し、十数カ所のマンホール直下に赤外線監視カメラと動体センサーを設置する作業を行った。
 これらの作業は順調に行われ、その間も市民生活に乱れはなかった。
 しかし!
 こうした平穏な日常は長続きしなかった。
 一四時過ぎ、中央区にある中島公園で清掃作業員が花壇の土の乱れに気付き掘り返してみたところ、複数の人間の一部白骨化した部分遺体を発見した。
 さらにその約一時間後、JR札幌駅付近にある廃ビルの一階フロアで、同ビルを管理していた不動産会社社員が食い荒らされた複数の女性の遺体を発見した。
 いずれの遺体も、死後半月近くを経過しているものと思われ、警察が発表した事件以外にも羆による被害が発生していることが判明した。
 多くの市民の目の前で立て続けに確認された新たな事実は、今回の羆襲撃事件が決して遠い山間部の出来事ではないこと、人通りの多い街の中を歩いていても羆と遭遇する可能性があることなどを改めて認識させることになった。
 留めは夕方の四時半頃、封鎖作業の遅れていた南区の豊平川沿い、真駒内付近の緑地を悠々と闊歩する巨大な羆の姿を一〇〇人近くの市民が目撃したことである。この様子は多数の市民たちに撮影され、様々な動画投稿サイトに掲載されたことで、報道を待つまでもなく忽ち市民の間に情報は広がった。
 この夜、札幌市内は静かな恐慌状態に陥っていた。
 市街地から人の姿は消え、飲食店やコンビニまでもが夜間の営業を取りやめた。
 こうした市民の緊張と警戒感は、日が変わって四月一日の未明になってから行われた警察の記者会見で、
 『羆は雨水誘導管の中に潜んでおり、その出水口は全て封鎖を完了しましたので、市民の皆様方の安全は確保されました。そして、本日午前九時より、羆の駆除作戦が実施されます。』
 との発表がされるまで続いた。


 「これだけ本格的に出動したら、後は時間の問題ね。」
 恵理はベランダの手摺りに凭れ、双眼鏡を構えて眼下の豊平川を見下ろしていた。
 その隣には、同じく双眼鏡を使いながらも、未だ足を引き摺っている恵理を心配して、転びそうになった時のためにガードを固めている義人がいた。
 恵理の自宅は豊平川に面して建つマンションの七階。そのベランダからは豊平川の上流から下流までかなり広範囲に見渡せたが、今二人が注目しているのは二キロほど上流に見える第七号雨水誘導管の出水口である。
 「警察の人、札幌市全体で何人ぐらい羆狩りに参加してるんですかね? 」
 第七号雨水誘導管の出水口付近には一二人の警察官が見える。
 雨水管の出水口は全部で三六カ所あるので、それに一二人を掛け算したら四三二人にもなるのだが、
 「さすがに、それは無いわ。石狩管内の全署から人手は借りてると思うけど、そこまで動員したら他の警察業務が立ち行かなくなっちゃうでしょ。第七号は突入口だから、そのための要員が待機してるの。突入口以外は三、四人で固めてるだけだと思うわよ。」
 恵理は一部の警察官の装備を見てみるように言った。
 「おお、フル装備ですねぇ。」
 義人が双眼鏡で確認したのは、八人の警察官である。
 八人とも暗視スコープの付いたヘルメットと防護マスクを被り、頑丈そうな防護服を着て、腰には拳銃、腿には散弾銃のグリップが覗く大きめのホルスターを装備していた。
 「他には高出力スタンガンと閃光発音筒も装備してるわ。ああ、閃光発音筒ってスタングレネードのことね。」
 「ああ、光と音が凄いやつですね。羆に効きますか? 」
 「あれで逃げ出さない動物はいないでしょ。」
 「なるほど、ホント凄い装備ですねぇ。怪獣退治にも行けそうだ。」
 一昨日の事情聴取時の悪印象が未だ抜けていないが、いよいよ羆狩りに向かおうとしている警察官たちの姿は頼もしく見える。さすがの巨大羆も、フル装備の警察官に敵うはずがないので、事件は今日中に落着するだろう。
 「恵理さんも、あんな凄い格好したりするんですか? 」
 義人は恵理が着たら、何となく似合いそうだと思った。
 無骨な装備のおかげで可愛さが引き立って、コスプレっぽく見えるかも知れないと想像してしまった。
 「巡査時代に訓練で着たことがあるけど、そういう部署にいないし、今は防弾ベストを着けるぐらいよ。」
 「なんだぁ、残念だな。見てみたかったのに。」
 義人は残念そうに口を尖らせた。
 「あんなの着たって、見て楽しいもんじゃないわよ。」
 「いえいえ、恵理さんならバトル系のアニメキャラみたいな感じになりそうだなって思っちゃって。でも、ちょっと露出が少ないのが難点ですがね。」
 そう言って義人はヘラヘラと笑った。
 「へっ、ヘンタイ! 」
 「ヘンタイじゃないです。ロマンですよ。」
 恵理は呆れ顔をしたが、義人は意にも介さなかった。
 アニメファンでもコスプレファンでもなかったが、恵理がコスプレするなら是非見てみたいと素直に思っていただけだった。
 「あ、そろそろ始まりそうですよ。」
 再び双眼鏡を構えた義人に言われて、恵理も双眼鏡を覗いた。
 丁度、フル装備の八人が第七号雨水誘導管に突入して行くところだった。
 「あとは結果待ちね。」
 「そうですね。ちょっと寒くなってきたから中に入りません?」
 二人とも厚手の格好はしていたが、マンション七階に吹き付ける風は冷たく、ベランダに長居したら風邪を引きそうだった。
 「それもそうね。入りましょうか。」
 足を引き摺りながら室内に戻る恵理を、義人はリビングのソファに腰掛けるまでの間、後ろに付いてガードした。
 「たった二日で、けっこう回復しましたよね。」
 「一応警察官だから、日頃の鍛え方が違うのよ。」
 そう言って恵理は膝下を二、三度持ち上げて見せた。
 「そうですか? たぶん、俺が無理矢理安静にさせたのが良かったんですよ。」
 恵理は義人が目を離すと、直に彼方此方動き回ろうとした。
 じっとしていられない性格らしく、せっかく義人が世話をしようとしているのに、身の回りのことは自分で何とかすると言い張るので、諭すのに苦労した。
 「あ、メール着てる。」
 食卓に置きっぱなしになっていた恵理の携帯通信端末にメールの着信ランプが点滅していたが、これまた自分で取りに行こうとする。
 「だーかーらぁ、俺が取って来ますって。」
 義人は恵理の肩を掴んでソファに押し戻し、食卓まで行って携帯通信端末を持って来てあげた。
 「このぐらい、一人でできるのに! 」
 タブレット型携帯通信端末の画面をタップしながら、恵理は頬を膨らませていた。
 「んじゃ、何か飲み物持って来ますか? 」
 恵理の膨れっ面は、この二日間で慣れてしまったので義人は気にもしない。
 「コーラ。」
 「はい、コーラね。」
 義人がキッチンでコーラの用意をしている間、恵理はメールを開きながら携帯通信端末の画面に見入っていた。
 少し厄介そうな顔をしている。
 「仕事メールですか? 」
 義人は恵理に声を掛けながら、ソファの前のローテーブルにコーラの入ったグラスを二つ置いた。
 「署からのメール。うちの若いのからの報告書なんだけど、ちょっとこれ見て。」
 恵理が携帯通信端末をローテーブルの上で義人に向けて置き、代わりにコーラのグラスを手に取った。
 「俺が見ても良いメールなんですか? 」
 念のため確認してから隣に座って覗き込むと、画面には写真画像が表示されていた。
 「これ、何ですか? 」
 千切れた黄色いベルトのようなものが写っている。
 「地下で焦げた羆の毛と一緒に落ちてたんだって。」
 焦げた羆の毛というのは、義人が火炎爆弾をを浴びせてやった後で抜け落ちた毛のことだろう。
 「これも焼けてますね。」
 「そうなの。だから羆から落ちたんじゃないかって。で、何だと思う? 」
 「ストラップの一部みたいですけど・・・羆からおちたんだとしたら・・・? 」
 義人は直に思い出した。
 「これ、羆から焼けて落っこちたんだとしたら発信器付きのタグをぶら下げるベルトでしょう。『北海道羆研究センター』の羆の耳に同じ色のが付いてましたよね? 」
 「ああ、そう言えば黄色だったっけ? 」
 センターで使用されている発信器付きタグは、小型で壊れ難く、長期間の使用に耐える優れモノであるとの説明があった。
 松浦センター長の話では、万が一羆が逃亡した時の追跡用と野生に戻さなければならなくなった時の観察用として、センターの羆が二歳になったら必ず耳に装着するのだと言っていたが、
 「やっぱり、あの羆、センターで育った奴じゃないですか? 」
 タグの一部を見せられて置き去りにしていた疑念が再び湧いて来た。
 「義人君が言うから、あの後でセンターが羆を野生に還した記録があるか確かめてみたんだけど、それは無かったわよ。あそこの羆は生まれてから死ぬまでセンターで飼育されるみたいだったわ。野生の羆を引き受けた記録も無かったし。」
 「それって、北海道の施設になる前からの記録もあるんですか? 」
 「それ以前の記録もあったわよ。NPOの時代の資料はフォーマットが違うんで、ちょっと分かり辛かったけど、羆を放した記録は無いわ。」
 「本当にそうかな? 」
 義人はセンターの飼育施設に関して思い出していた。
 松浦センター長は羆は大自然の中で生きる動物であり、主に森林地帯に生息する動物だと言った。だから、雨水管の中に羆はいないのだと言い張っていた。
 (でも、あそこの羆は生まれたときから、あの人工的な飼育施設の中で暮らしてるんだよな? 大自然じゃなくて? )
 施設ができてから延べで一五年経っているというからには、おそらくセンター生まれの二代目か三代目に当たる羆もいるのではないだろうか?
 (あの羆たちって、既に大自然よりも人工環境の方が住みやすく身に付いちゃってるんじゃないか? )
 コンクリートの壁に囲まれて、人工的なアップダウンが設けられたコンクリートの床の上で暮らしている羆たち。それに一見して以来どうにも気になっていた小羆たちが遊んでいたトンネル遊具。
 (トンネルって言えば、檻と檻の間を繋ぐトンネルもあったよな? )
 それは動物園などで良く見掛ける設備であり、二つの檻の間をトンネル通路で結び、動物が行き来できるようにしたものである。
 別に『北海道羆研究センター』ならではの設備ではないが、トンネルの用途としては、別々の檻で飼育していたオスとメスをお見合いさせるためだったり、猛獣の檻を清掃する際に一方の檻に追いやって通路を遮断するためとか、生活の場と餌を与える場を別々にするためなどだが、センターの場合この三つ全てのために使用しているらしかった。
 (もしかして、あそこの羆たちってトンネル慣れしてんじゃないか? 例えば羆を誘導するためにトンネル抜けた先に餌を置くような真似をしてたら、トンネルに潜るのが好きになったりもするんじゃないかな? )
 雨水管と飼育施設のトンネルでは規模が違い過ぎるが、穴の中に入ることに抵抗が無くなり、それが当たり前の行動になるよう躾けられたりはするのではないだろうか?
 そんな性質の羆なら、雨水管の中にいる羆と十分に重なると思う。
 「義人君の言うことが正しいなら、過去にセンターが羆を還したことがあるってことになるんだけど、そんな記録は本当に無かったわよ? 」
 義人はそれだけじゃないと首を振り、
 「放した記録は無いけど、生き死にの記録はあるんじゃないですか? 」
 と、意味深な言い方をした。
 この言葉の意味は恵理には直に伝わったようで、少し嫌な顔をした。
 「確かにNPO時代には死亡した記録もあったけど。義人君は何が言いたいの? 」
 聞き返してはいるが、義人の言わんとするところは察しているらしい。
 「もしかしたら死んだことにして、センターが羆を一頭野放しにしたんじゃないかって思ったりしました。」
 「あーあ、ズバリ言っちゃったわねぇ。」
 恵理がヤレヤレと溜め息を吐いた。
 「どーです? このタグの写真を良く調べて、センターのタグと比べてみたら分かっちゃいますよ。」
 義人は自信有りげに言った。
 「その可能性は有るかもしれないけど、どうかなぁ? 警察官としては迂闊に頷くわけにはいかないわね。もし義人君の言うことが本当だったなら、これは犯罪だもの。」
 公的な許可を受けて飼育している危険動物を無許可で遺棄した場合、それが悪質と認められたなら懲役刑も有り得る立派な犯罪である。
 「それじゃあ、義人君は羆を遺棄する動機は何だと思う? 」
 「動機ですか? 」
 動機までは考えていなかったが、取り敢えず思い付くままに答えてみた。
 「短絡的ですけど、例えばNPOの時代って資金難だったらしいですから、単純に口減らしのためとか? 」
 「うーん、いまいち。」
 深く考えずに口にした動機は、あっさりとダメ出しされてしまった。
 「羆を遺棄するからには大それた事情がなきゃダメなんでしょうけど、さすがに思い浮かびません。そもそも、動機を探すにはセンターのことを知らなさ過ぎるんですよね。」
 義人がギブアップすると、恵理は良くできましたと言って小さく拍手した。
 「推理を語るには、キチンとした裏付けが必要なのよ。動機を推理するなら相手の事情を知る必要があるわ。勘だけで推理してピタリと当てるなんて、そんなのフィクションの中の名探偵だけだからね。」
 なるほど参りましたと言って義人が頭を下げた時、
 「あっ! 」
 突然、恵理が何かを思い出したような声をあげた。
 「何? どうしたんですか? 」
 「忘れてた! 」
 恵理が立ち上がって何処かへ行こうとするので義人は制した。
 「いきなり立ち上がっちゃ危ないですって! 」
 「上着のポケットに大事なものが入ってるの! 」
 「上着ですか? それなら俺が取ってきますから座ってて下さい。」
 義人は恵理をソファに押し戻した。
 「もう、過保護! 」
 「当然です! 」
 義人は恵理の自室に入ってハンガーに掛かっていたスーツの上着を持ってきてやった。
 「色々あって、すっかり忘れてたわぁ。」
 恵理は上着を受け取ると内ポケットの中から折り畳んだメモ用紙を取り出した。
 そして、暫し開いたメモ用紙と睨めっこをしていた。
 「恵理さん? 」
 難しい顔をしている恵理が、また突然何かを思い付いて立ち上がろうとするのではないかと義人は警戒していたのだが、
 「んじゃ、せっかくだからドライブに行こっかぁ! 」
 何だか、一瞬にして楽しげな笑顔に変わっていた恵理が、全く前後の繋がらない提案をしてきた。
 「はぁ? 」
 当然、義人はポカンとしてしまう。
 いきなり恵理は何を言い出すのか?
 唐突に「んじゃ」とか「せっかくだから」と、会話が繋がらず意味が分からない。
 「義人君が気になってることを調べに行こうって言うのよ。」
 「気になってること? 」
 恵理はメモを義人に渡した。
 「えっと、中川博 現住所、札幌市南区常磐・・・? 」
 「ほらっ、NPO時代のセンター長さんの住所よ。警察に話したいことがあったみたいで、この二、三日で何度か羆襲撃事件の担当者宛に連絡が来てたの。私の印象では何か進んで口にできないような情報を持ってる感じだったわ。それがセンターに関わる情報なのかどうかは知らないけど、義人君が羆の出何処が気になるなら、この人がヒントぐらい持ってるかもしれないわよ。」
 「前センター長ですか。またまた専門家さんなんですねぇ。」
 専門家と言われて、つい松浦センター長のことを思い出して嫌な気持ちになってしまう義人だった。
 「また、羆の生態の講義を聞かされるんじゃないですか? 」
 「まあ、その可能性はあるけど前センター長ってとこが気になるでしょ? タグの件もあるし、松浦センター長とは違う話が聞けそうな気がしない? 」
 「違う話ねぇ、また俺の意見を頭ごなしに否定されるようなことになったら嫌だなぁ。」
 先日のセンターでの嫌な記憶が残っているので、義人はあまり気が進まない。
 「それは無いでしょ。雨水管の件は義人君が正しかったわけだし、もう松浦センター長だって何も言えないと思うわ。」
 そう言えば、恵理の話では昨日『北海道羆研究センター』に状況報告をするために電話したら、松浦センター長は忙しいとか言って出てくれなかったそうである。
 自分が強く否定した義人の推理が当たってしまったことで、気を悪くしているのだろうと恵理は言っていた。
 (小さい奴だなぁ! )
 それも含めて、どうにも松浦センター長は気に入らない。
 自分の推理が勝ったから特に思うのかもしれないが、先日の口論の際に松浦センター長が義人の意見を否定した根拠は、単に素人に口出しされるのが気に入らないという感情論が主体だったような気がしていた。「黙って専門家の意見に従っていろ」と、言わんばかりに聞こえたので、こちらも突っ掛かってしまったのだが、
 (それもあって、あの羆はセンターが逃がしたんじゃないかって思ったんだよ。)
 その考えは、先ほどタブの一部らしい画像を見せられたことで膨らんできている。
 (羆を放した動機なんて考えなくとも、逃げられたって考えても良いんじゃない? )
 もしセンターが飼育していた羆に逃げられれば、管理不行き届きとしてセンター長の落ち度になる。それを隠すために逃げた羆を死んだと誤摩化すことは、おそらくスタッフの協力があれば可能だろう。
 「どう? 前センター長の話を聞いてみたくない? 」
 恵理は隣に座っている義人の腕を掴んで揺すった。
 「恵理さんは聞いてみた方が良いと思うの?」
 「もし、義人君が考えてるように今回の羆の出所がセンターだとしたら、その事情を知るってのは大切なことだと思うわよ。現スタッフからは今ある以上の情報を引き出すことはできないでしょうから。旧スタッフに手掛かりを求めるのは当然かも。それに、私もそうだけど、義人君って浮かんだ疑問はさっさと解決したいタイプでしょ。」
 確かに恵理の言うとおりである。随分と羆襲撃事件に深く関わりあってしまったので、できれば解決まで付き合ってみたいと思っている。
 「羆が雨水管の中にいるかもって話してた時もそうだったけど、義人君は素人君なのに妙に気になることばかり言うのよね。それで、実際に雨水管の件はズバリ当てちゃったわけじゃない。無下に聞き捨てるのは心残りになっちゃいそう。」
 だから、恵理は義人の推理に手を貸してみたいのだと言った。
 「そうですねぇ。恵理さんが聞いた方が良いというなら、前センター長に合ってみるべきかなぁ・・・」
 肩入れしてくれる恵理の気持ちを素直に喜ぼうとした時、
 「あれ? 」
 義人の腕を掴んで、キラキラした目で見上げている恵理に気付いた。
 (これって、何か変じゃないの? )
 どうやら恵理に下心があるらしいことに今気付いた。
 「恵理さん! 右足引き摺ってんのにドライブなんてダメに決まってんじゃないですか! ブレーキやアクセル踏んでたら足の怪我が悪化しちゃいますよ! 」
 恵理が二日も家に閉じ籠ったままで飽きているのは見れば分かる。だから、義人の推理を手伝うことを理由にして、強引に外出しようと企んでいるのかもしれない。
 「運転は義人君がすれば良いじゃないの。運転免許は持ってるんでしょ? 私はナビするからさ。」
 あっさりと切り返されてしまった。
 義人の運転免許証は羆に奪われてしまった荷物の中に入っていたが、今時の運転免許は情報登録管理されており、オンラインで免許証番号を入力するか、指紋認証すれば所持の確認はできるシステムなので、昔のように免許不携帯の違反は無くなっている。
 だから、免許証が無いなどと言い分けはしようがない。
 「リハビリよ。リハビリ。松葉杖持ってるから歩くだけなら問題ないし、あまりじっとし過ぎてると怪我した以外の筋肉が弱っちゃうから適度に動いた方が良いってお医者さんも言ってたしね。ねっ! ねっ! 」
 恵理の勢いを見るに、取材とかリハビリとか言いつつ、結局は遊びに行きたいだけのような気がする。それに、医者も日常生活の範囲内で動けと言っているようで、遊びに出歩けと言っている分けでは無いと思うのだが、
 「ねぇ、義人君とお出掛けしたい。ダメ? 」
 恵理は小首を傾げて義人に向かって上目遣いをしてきた。
 その可愛らしい綺麗な瞳がマスカラ要らずの長い睫を瞬かせながら義人の心にグサリと突き刺さる。
 「うぐっ! 」
 その破壊力は、本来ならば正しいはずの義人の判断を簡単に打ち砕いてしまった。
 (ズルいよ恵理さん! 年上なのにっ! こんなして甘えられたら断れる分けないじゃないですかっ! )
 義人の心の叫びは、鼻歌まじりに松葉杖をついて、お出掛け準備を始めてしまった恵理によって掻き消されてしまった。


  [一九]


 札幌市街地から支笏湖方面に向かう真駒内通り、その平日の交通量は少ない。
 この通り沿いも南区の他地域同様に過疎が進んでいるので当然のことなのだが、観光シーズンならば支笏湖見物や山歩きの愛好家が車列を作ることもあるし、もう少し暖かくなればゴルフ場に通う車も行き来するという。秋は紅葉見物客も往来するようだが、現在は中途半端な時期なので休日でも交通量は多くないらしい。
 かつては太平洋側の苫小牧に通じる主要道路の一つだったらしいが、今は複数の高速道路が別ルートを走っているので、路線上に目的地が無い限りは遠回りになるので利用する必要の無い道路になってしまったようだ。
 今、義人は恵理の愛車フィアットのハンドルを握り、NPO時代の『北海道羆研究センター』所長が住む南区の常磐を目指して真駒内通りを下っていた。
 助手席でナビゲーターを務めくれている恵理は二日ぶりの外出にご機嫌である。
 愛車でドライブすることなど滅多に無いらしく、自分が助手席に座るのも初めてなので新鮮だと喜んでいた、
 そもそも、仕事では警察車両を使ってばかりの恵理は、たまの休日に遠出の買い物をするぐらいにしか愛車を走らすことが無いようで、せっかく新車で購入したというフィアットにも関わらず満足に充電もされずに半月近くも放置されてしまっていたらしい。
 だから、「さあドライブに出発! 」と、車に乗り込んでから、真っ先に目指したのは近所の充電スタンドであり、フル充電を待つまでの間はファーストフードで早めの昼食を取り、結局ドライブに出発できたのは一二時を過ぎた頃だった。
 ところで、今時分、警察の羆退治が順調なのかどうかは分からない。
 出掛けに、第七号雨水誘導管の出水口で待機している警察官たちの様子を遠目で見たのだが、特に緊迫した様子も無く暇そうに見えた。
 無事に駆除作戦が終了したなら、恵理の携帯通信端末に連絡が入るらしいので未だ結果には至っていないのだろう。
 「警察無線とか聞けたら良いんですけど。」
 「義人君、警察無線のスクランブル解除したら、それ犯罪だから。」
 まあ、警察官を助手席に乗せて言うようなセリフではなかった。
 「ところで俺、前センター長だけじゃなく、やっぱり松浦センター長にもあってみたいですね。」
 羆は大自然の生き物であるとか、森林に住む生き物であるとか、図鑑や百科事典に書いてあるような凝り固まった知識を盾に義人の持論を頭ごなしに否定してくれたのだから、こちらが正しいと分かった以上、一言ぐらい詫びを入れさせてやりたい。
 義人が意地悪そうな笑みを口元に浮かべると、
 「気持ちは分かるけど、完全に悪人顔になってるわよ。」
 恵理に頬を突つかれてしまった。
 「やれやれ、前センター長相手には喧嘩とか止めてよ。穏やかに接しないと正しい取材はできないんだからね。」
 恵理は、先日の『北海道羆研究センター』で義人と松浦センター長が半分感情的になりながら言い争っていたのを思い出して、相手が変わっても同じことをしないようにと釘を刺した。
 「でも、向こうが仕掛けてきたらどうします? 」
 「それでも、笑って受け流すのが大人の対応。」
 「いやぁ、大人ってストレス堪りますねぇ。俺、今回は子供で良いかも。」
 「おいおい、頬っぺた抓られたいか? 」
 恵理と言い合いをする度、勝とうが負けようが最後には頬を抓られるのがパターン化しそうな気がして焦った。
 「今抓られたら事故っちゃうからダメですって! 」
 義人は恵理の右手を警戒しながら身体を窓側に寄せた。
 それにしても、なんだかんだ言って楽しいドライブかもしれない。
 今日は四月一日、火曜日。天気は良好で、渋滞は無い。
 真駒内通りの前方に見える山々に緑は疎らだが、北海道の春を感じることはできる。
 「ドライブに出て来て良かったでしょう? 」
 恵理が自慢げに言う。
 「そうですね。恵理さんが無茶しないか心配ですけど、まあ良しとします。」
 「義人君、始めて会った時よりも随分生意気になったわね。」
 「恵理さんは、初めてあった時に比べて随分甘ったれになりっ、ひぃててて! 」
 義人が自分のセリフを言い終わる前に、恵理の右手に頬を掴まれていた。
 
 
 壁面にツタの絡まった築八〇年以上も経つという古い洋館が、NPO時代の『北海道羆研究センター』所長、中川博の住む家だった。
 ここ常磐は近くに市立の大学もあるので、同じ南区でも廃墟だらけの石山通り沿いに比べれば多少人の臭いがする地域ではあった。
 しかし、恵理の話では若者が定着せずに高齢化が著しい地域とのことである。
 何でも、交通機関が一時間に数本のバスだけという不便さは高齢者世帯が暮らすには辛いらしく、近くに大型の店舗が無いので生活必需品を買い求めるにも札幌市街地に出る必要があるため、ここも無人化するのは時間の問題とのことであった。
 中川家も高齢者世帯である。
 前センター長の中川博は、『北海道羆研究センター』が北海道に売却された二年前に七〇歳で退職し、現在は市内の複数の大学で非常勤講師をしながら、婦人と二人で常磐の自宅で暮らしていた。
 来客は滅多に無いらしい。
 息子や娘は本州に住んでおり、親しい友人たちも高齢化しているので南区の僻地まで遊びにくる者は少ないという。近所付き合いも殆ど無いため、普段は夫婦以外に会話をする相手もいないということである。
 恵理が訪問前にアポイントを取った時、警察を名乗ったにも関わらず、前センター長は随分明るい口調で応対してくれたと言うが、たぶん人が恋しいのかもしれないと思った。
 実際に訪れてみても夫婦共に応対は和やかで、こちらは楽しい話をしにきたわけではないので却って面食らってしまうほどだった。
 「まあ、私は暇人ですからね。誰が来ても嬉しいんですよ。」
 中川前センター長は、もともと人当たりの良さそうな人物らしい。
 義人はこれなら松浦センター長と違って、喧嘩をせずに済みそうだと感じた。
 玄関先での挨拶を終え、二人は多量の書籍と新旧様々な記録メディアで壁面が埋め尽くされた書斎に案内され、アンティークな拵えの応接セットのソファに前センター長と向かい合って腰掛けた。
 「何度も連絡を頂いたにも関わらず、お伺いするのが遅くなってすみませんでした。」
 羆襲撃事件が初めて報道された翌日から前センター長は何度も警察に連絡していたにも関わらず、これまで置きっぱなしにされてしまっていたので気を悪くしているのではないかと恵理は心配していたのだが、それは杞憂だった。
 前センター長は気にしないで下さいと手を振り、
 「私も心の準備というものが必要だったんで、その時間を頂けて助かりました。」
 と、意味深なことを言った。
 これから話す内容が、軽々しいものではないと事前に示したかったようである。
 「心の準備ですか? 」
 「ええ、警察に電話してからも話すべきか迷っていましてね。いずれ警察の方が訪れるのではないかと思いながらも悩んでました。」
 そこで、恵理と義人は少しだけ顔を見合わせた。
 前センター長が話す前に悩むとは、どのような内容なのだろう?
 「私の前職場に関わる話なので、一存で話して良いものかと考えていました。ですが、これは一存でなければ話せない内容でもあるので・・・ 」
 「前職場と言いますと、『北海道羆研究センター』のことですか? 」
 「ええ、そうです。」
 そう答えると前センター長は嘆息した。
 「今、世間を騒がせている人喰い羆の正体に関するお話をするべきではないかと思ったのです。」
 「人喰い羆の正体・・・ですか? 」
 もう一度、二人は顔を見合わせてしまった。
 どうやら、前センター長の話とは、センターと人喰い羆を結びつける内容らしい。
 それならば、義人の推理にダイレクトに関わってくる話ではないか?
 (いきなりか、それなのか? )
 今日の訪問は義人の推理を裏付けるネタ探しのつもりだったので、前センター長からNPO時代の話を聞き、タグの画像の確認をしてもらい、当時の経営状態と羆の管理状況を窺うことができれば一先ず十分だと思っていた。
 だから、恵理も気軽なドライブ気分で出掛けようと思い立ち、義人もその程度ならと思ってハンドルを握ったのである。
 人喰い羆がセンターで育った個体ではないかと疑ってはいたが、それについて前センター長からの言及があるなどとは想定していなかった。
 「警察なら、いずれ羆の手掛かりを見付けると思ってましたが、その際には必ず私のところへもお見えになると思ってたんです。それならば、予め話すべきことは話して、ご協力すべきではないかと決心しましてね。」
 現段階で警察は羆を駆除するために追い掛けているだけで、その正体を調査しているような状況にはない。今日の訪問は恵理が義人の推理に基づいて聞き取り調査をするために訪れたと言う格好である。
 だが、恵理は義人に目配せして、警察の現状については伝えるつもりが無いことを示した。せっかく前センター長が協力を申し出ようとしてくれているのに、警察が人喰い羆の正体を調べてはいないなどと言って、開きかけている口を閉じさせる必要は無いということである。
 警察の状況はともかくとして、義人にしてみれば自分の推理を肯定する材料を前センター長が持っているのか無性に気になったので、話を聞く気は満々である。
 訪問前、前センター長とのやり取りは警察官である恵理に任せることにしていたのだが、義人は我慢しきれなくなっていた。
 「中川さんは人喰い羆の正体をご存知なんですか? 」
 恵理は義人のフライングを止めず、自分も同じことを口にしようとしていたらしく隣で頷いていた。
 「私には確たる証拠があるわけではないので、このまま想像で申し上げて良いのか迷うところです。警察の方で何か手掛かりのようなモノを得ているのならば見せていただきたいと思いますが、いかがでしょう。」
 恵理が、それならばと言ってタブレットPCを取り出し、今朝方メールで送られてきた画像を提示した。
 「これをご覧下さい。雨水管の中で見付かったものです。センターで使用されているタグではないかという者がおりますがいかがでしょう? 」
 「どれどれ、拝見しましょう。」
 前センター長は胸ポケットに刺していた老眼鏡を取り出して掛け、タブレットPCを受け取った。
 そして、
 「間違いなくセンターのタグでしょう。」
 ホンの数秒眺めただけで、前センター長は断定した。
 「これは羆の耳の部分に穴を開けて固定するベルトの一部ですよ。発信器部分は付いていなかったようですね? 」
 「ここにいる吉良さんが羆を撃退するために火を用いたので、その際に発信器は焼け落ちてしまったのだと思います。」
 義人が羆と戦って撃退したと聞き、前センター長は驚いていた。
 「凄い人ですね。」
 そう溜め息混じりに漏らしたが、感心したり褒めているわけではなかった。
 「事情があってのこととは思いますが、そんなことは二度とお止めなさい。命が幾つあっても足りません。」
 不意の遭遇ならともかく、羆という猛獣は自ら進んで挑むべき相手ではないのだと意外に厳しい口調で諭されてしまった。
 松浦センター長と口論した時のように、義人が反発するのではないかと恵理が心配そうな顔をしていたが、義人は頭を掻きながら小さくお辞儀をしただけだった。
 持論のぶつけ合いとは違い、自分の身を案じて言ってくれている前センター長の厳しい言葉に対しては反発する気は起こらなかったのである。
 義人の素直な態度に頷いてから、前センター長はタグの話に戻った、
 「そのベルトに付いていた発信器は焼け落ちたのではなく、最初から付いていなかったのですよ。発信器は金属ですから多少の火では燃え尽きないですし、周囲に落ちていなかったのなら最初から羆に付いていたのはベルトだけだったのではないですかな? 」
 画像を見ただけで何故そのようなことが分かるのかと恵理が質問すると、
 「付いていなかったというよりも、外されてしまったということですね。」
 前センター長は思いがけず物騒な示唆をした。
 「それについて、詳しく説明していただけますか? 」
 恵理は、ここから先の話は重要であると判断したようで、携帯通信端末の録音機能をオンにすることを了承して欲しいと言った。
 「どうぞ。」
 前センター長は簡単に頷いた。
 「さてと、」
 前センター長はタブレットPCを操作して、タグの画像の一部を画面一杯に拡大してから恵理に戻した。
 「そこにシリアルナンバーが見えるでしょう。今から三年前にセットされた発信器のものですよ。」
 恵理が受け取ったタブレットPCを義人も横から覗き込んだら、確かに拡大された黄色いベルトの一部に黒いゴシック体で印字された数字らしきものが並んでいる。
 「確かにシリアルが印字されているようですが、」
 見えるのは、画像を五〇〇倍に拡大して漸く一センチ角ほどの大きさになる一〇数桁の小さな数字だが、後半は磨り減っているので読めるのは前半の五桁だけである。
 「前半四桁だけ読めれば十分ですよ。タグの取り付け日の西暦下二桁と月はそれで分かりますからね。」
 前センター長の指示どおりに読むと、三年前の二月に取り付けられたタグのベルトということになる。
 「そのベルトは、センターが北海道の施設になる約一年と二ヶ月前にセットされた発信器のタグのものということです。」
 確かに『北海道羆研究センター』が、道立の施設になったのは二年前の四月である。
 「中川さんがセンター長をお辞めになる一年前ということにもなりますね。」
 「そうです。」
 「確か、タグは二歳になった羆に取り付けると現センター長に聞きましたが? 」
 「ええ、その方針は私がセンター長だった頃から変わってませんよ。」
 「・・・ 」
 恵理の質問に前センター長は躊躇うこと無く回答を続けていた。
 内容が際どい方向に進み始めているにも関わらず、やりとりがスムーズ過ぎて違和感を感じたのだろう。恵理は一旦質問を止めて前センター長の表情を伺った。
 「私は嘘偽りは言いませんから、聞きたいことがあったら遠慮なくどうぞ。」
 そう言って前センター長が次の質問を促した。
 「それでは、続けさせていただきますか。」
 恵理は、前センター長に隠し事をしたり偽りを言うつもりは無いと判断したようだ。
 「中川さんは、この写真画像のベルトが付いた発信器を三年前に取り付けた羆をご存知なのでしょうか? 」
 恵理が慎重に口にした質問に対する前センター長の答えは、やはり明快だった。
 「ええ、知っています。三年前に二歳になった羆は一頭だけ。ヌイと名付けられたオスの個体です。ちなみにヌイとはアイヌ語で炎と言う意味です。」
 恵理は次の質問を口にする前に、一呼吸置いて自分の気持ちを落ち着けようとした
 おそらく次の質問の答えが、今回の羆襲撃事件の根幹に当たるかもしれない重大な情報を引き出すことになるだろう。
 「中川さんは、世間を騒がせている羆が、そのヌイという個体だと思いますか? 」
 身構えて答えを待つ義人と恵理を前にして、前センター長は初めて即答を避けた。
 「そう断定するには情報が必要です。まずは私から質問をしてよろしいですか? 」
 「ええ、どうぞ。」
 恵理が返事をすると、前センター長は義人を向いた。
 「貴方は羆を二度も目撃していらっしゃるのですよね? 」
 それまでと違った真剣な眼差しに、義人は一瞬たじろいだが、
 「はい。」
 と、直に返事をした。
 「それでは単純な質問ですが、羆の大きさはどのくらいありました? 」
 「立ち上がって三メートル半ほどです。」
 「確かですか? 恐怖で誇張されたと言う可能性はありませんか? 」
 「ええ、目撃した時には周囲にホテルの庇とか雨水管の天井とか、比較になるような人工物がありましたから。」
 義人の答えを聞いて、前センター長は二、三度頷いた。
 「それはヌイですね。間違いないでしょう。」
 他に特徴を聞くことも無く、大きさを聞いただけで断言してしまったので、これには恵理も義人も首を傾げた。
 「そんな、簡単に断言できるものなのですか? 」
 もっと情報を積み重ねてから結論付けるべきではないかと恵理は言ったが、
 「大きさだけで十分ですよ。」
 前センター長はヤレヤレといった感じで首を左右に振った。
 「ヌイは特殊な個体でしてね。一種の畸形なんです。」
 「畸形? 」
 「原因が食料なのか、環境なのか分かりませんが、本来の生態に反した成長を遂げた異常な羆だったんですよ。あんな個体は、そうそう生まれるものじゃありません。」
 ヌイの話をしながら、前センター長は自分が現役だった当時の事を思い出していたらしく、視線を遠くに漂わせながら懐かしそうにしていた。
 「ヌイは私にとって想い出深い個体でしてね。そもそも、エゾヒグマは大きめのオスで体重が二〇〇から三〇〇キロ、稀に四〇〇キロや五〇〇キロの個体も認められますが、いずれにしても四歳以上の成熟した大きさです。ところがヌイの場合、成長途中である三歳時の身体測定で既に体重は五五〇キロもあったんです。決して肥満じゃありませんよ。体長も二六〇センチに達していましたしね。あんな常識外れな羆にお目にかかったことは一度もありません。おそらく成長しきったらホッキョクグマより大きくなったでしょう。羆本来の生態に反した大きさは正に怪物というべきです。」
 「怪物ですか? 」
 「ええ怪物です。吉良さんが目撃したと言う羆も怪物です。そんな巨大な羆は自然環境では生まれないでしょうし、もし生まれたとしても巨体を維持するための食料の確保が難しいので大人になるまで生き延びることは無いでしょう。つまり、センターの人工環境である程度まで育ったヌイ以外には考えられないということです。」
 だから、大きさだけで人喰い羆の正体がヌイであると断言したのだと言った。
 しかし、前センター長の話が本当だとしたなら問い質さなければならない重要な事柄がある。
 「何故、ヌイは施設にいないのですか? どうして、札幌の街中を徘徊して人を襲っているのですか? 」
 そこで前センター長はソファから腰を上げた。
 「ちょっと、待って下さい。資料がありますから。」
 書斎の窓際に置かれたワーキングデスクデスクの袖の引き出しを開け、A四版のファイルケースを取り出してからソファに戻ってきた。
 「まずは、これをご覧下さい。」
 前センター長がファイルケースを開いて差し出したのは、『NPO北海道羆研究センターの飼育頭数管理記録』だった。
 「元データはセンターに保管されているでしょうが、今は紙の資料で我慢して下さい。」
 そう言って手渡された資料は数百ページ分のプリント用紙の束。
 受け取った恵理が取り落としそうになるほどの厚みだった。
 ちなみに、『北海道羆研究センター』のNPO時代は約一三年。資料には、その間の飼育頭数の増減が細かに記されていたが、さすがに一三年分ともなると枚数が多くて一度に目を通すのは困難だったが、
 「全てをここでご覧にならなくとも、見たいところは一つじゃないですか? 」
 前センター長は一旦書類を自分に戻してもらってから、それをパラパラと捲り、プリント用紙の中の一枚を選んで取り出した。
 「これは、施設が北海道に引き渡される直前の頭数管理表です。」
 そのプリント用紙に印刷された表組には、NPOが解散する直前の三ヶ月分が記録されていたが、表の中の数字を目で追って行くと、
 「三ヶ月前に一頭死んでますね。」
 恵理がマイナス一と赤字で記された箇所に気付いた。
 「ええ、それはヌイですよ。」
 「「はあ? 」」
 思わずハモってしまったが、二人は前センター長の言葉に驚いたわけではない。
 恵理は義人に驚いていたし、義人は自分に驚いていた。
 今朝、恵理のマンションで義人が薄っぺらな根拠で雑談っぽく口にした推理が、唐突に真実味を帯びたのである。もちろん、たまたまの紛れの偶然に決まっているが、その偶然に驚かされてしまった。
 「どうしました? 」
 前センター長が二人の様子が変なので首を傾げていたが、
 「「いえいえ、気にせずに説明を続けて下さい。」」
 と、二人して先を促した。
 「それでは続けますけど、ヌイが死亡した頃、私は前年に七〇歳を超えて半リタイヤ状態でしてね、松浦さんに引き継ぎをしていた期間なんです。だからセンターに顔を出していたのも週に一度か二度なんで、所々に推測や憶測が混じりますので勘弁して下さい。」
 「松浦さんとは、現センター長のですか? 」
 「ええ。当時の松浦さんは勤務されていた大学を定年退職されたばかりで、『北海道羆研究センター』が正式に北海道に引き渡された後のセンター長就任が決まって第二の人生を楽しみにしていらっしゃいました。羆研究の第一人者であるというだけではなく、羆や北海道の自然に強い愛着を持っている方でしてね。本人の達ての希望もあり、既に前年の暮れから実質センター長として通っていただいてたんです。」
 「それじゃあ、この記録は? 」
 「松浦さんが記録して、私がハンコを押したものです。」
 「ヌイの死亡を中川さんは確認してるのですか? 」
 「私が見たのは事後報告の書類だけです。死後、速やかに火葬されたとのことで、残念ながら死骸も見ていません。死因が悪性の伝染病ということで、感染を防ぐための処置だったと言われました。」
 「「・・・! 」」
 世間を騒がせている人喰い羆はセンターで育ったヌイであると前センター長は言った。
 ところが、ヌイは二年前に死んだと記録されている。
 その記録を作成したのが松浦センター長である。
 この時点で、既に真実が見えていたような気がするが、恵理はその詳細と結論を前センター長の口から聞きたいと言った。
 それを、前センター長は了承したが、
 「お話しする前に申し上げておきますが、私は松浦センター長に対して何の悪意も持っておりません。彼の羆研究に対する実績と熱意には敬服していますし、彼のような人物にセンター長を引き継げたのは幸運だったと思っています。ですが、私は当時から、ある疑惑を抱えていました。それを今からお話しするわけです。確かな証拠があるわけではないので今までは黙っていましたが、今回のような事件が発生している状況の中では、単なる疑惑だからと口を噤んでいられなくなりました。」
 と、前置きした。
 それまで明快な回答を続けてきた前センター長の口調が言葉を絞り出すように変わっていたが、彼にとって自らが二年前に抱いていた疑惑を警察に話すということは苦渋の決断だったらしい。自分の話す内容が前職場を貶めることになるかもしれないのだから、その気持ちは当然のことだと思う。
 眉間に縦じわを寄せ、奥歯に力の入った悔しそうな前センター長の表情を見ながら、義人は思わずゴクリと音を立てて唾を飲み込んだ。
 ふと恵理を振り返ってみたら、さすがに民間人の義人とは違って、警察官らしく自然体を崩していなかったが、いよいよ結論が見えてきたのだから内心では緊張しているに違いなかった。
 話の核心に入ろうとする前センター長もかなり緊張しているらしく、手汗をズボンの上で拭いながら最後の念押しをした。
 「これは当時の状況を踏まえた上での私の考えです。諄いようですが、これは一つの推理、一つの可能性として聞いて下さい。これを聞いた警察が、どのように判断し調査するかはお任せします。そういうことで、よろしいですかな? 」
 「わかりました。今の中川さんの言葉も記録されていますから大丈夫ですよ。」
 恵理の返事を聞いて、漸く前センター長は話を始めることにした。
 「さて、センターが道に移管されたのは二年前の四月。そのための手続きや作業は一年ほど前から行われていましたが、正式に発表されたのはギリギリのタイミングで二月末。こちらは既に決まっていた話として前年から準備を進めており、既に時期センター長の松浦さんが通い始めているというのに、いつまでも仮決定のままなので妙だなと思っていました。でもね、そういう状況になってしまったのには事情があったんです。」
 「それを、わざわざお話になるからには、単なる事務手続き上の事情というわけでは無さそうですね? 」
 前センター長は頷いた。
 「まあ、長い話になりますが聞いて下さい。ご存知ですか? センターを取り囲む土地の殆どは当時から外資企業のものなんです。買収が進められていたのは一〇年以上も前からですけど、ある日気付いたら周囲がお隣の国になっていたという具合でした。」
 前センター長によると、支笏洞爺国立公園に隣接した札幌側の地域は広範囲に渡って中国系の外資に買収されてしまっているという。
 「お隣の国の企業の目的は土地の再開発ですが、メガソーラーシステムの用地、森林資源の確保、水源地の確保など色々なプランを考えていたようです。まあ、自然破壊の権化みたいな連中と考えて下さい。そんな状況下で、センターだけは北海道に買収されたわけですが、外国のど真ん中にポッカリと日本が残ってしまったという感じですね。当然、メガソーラーなんてものを作ろうとしている連中にとっちゃセンターは邪魔ですよ。なんとか道への移管を反古にさせて、潰してしまいたいと思うでしょう。そこで、お隣の国の手先になっている不動産業者が地元の代議士に働き掛けて、道への買収が決まった後も随分食い下がってたって話です。ギリギリまで粘っていたらしく、それで正式発表が遅れたらしいですね。もしかしたら土壇場で逆転の可能性はあったのかもしれないですよ。」
 「まあ、近頃は道内で良く聞く話ですけど、嫌ですねぇ。」
 南区出身者である恵理にとって、この手の話は聞くと切なくなるらしい。
 南区が外資系企業に侵略されているという話は、恵理に先日話してもらったばかりなので地元人ではない義人も多少の興味を持っていたが、今はこの話がどのようにして羆に繋がるのかの方が気になっていて、早く先に進めて欲しいと思っていた。
 しかし、外資による土地買収の話は、もう暫く続く。
 「もともと、お隣の国の外資のやり口は評判悪いですし、国立公園の環境に影響を与えるような土地開発を防ぎたいという意向もあって、センターは計画通りに北海道が引き継ぐと言う形になったんですけど、その決定前後に様々な騒動が起きたんです。その騒動の全ての中心になったのはセンターに立ち退きを迫るための嫌がらせですね。例えば、センター周辺に工事関係者を居座らせて昼夜構わず騒音を出したり、石山通りから出入りする一本道を大型車両で長時間塞いだりとか色々してました。これは生き物を飼育する施設にとっては大打撃ですよ。羆は睡眠不足でストレスが堪りますし、車両の出入りを塞がれたら食料の搬入もできませんからね。私も手伝いましたが、松浦さんを筆頭に当時のスタッフは頑張って嫌がらせに抵抗していました。センターが無くなったら羆たちの居場所は無くなっちゃいますからスタッフは皆が必死でした。もちろん、松浦さんにしてみれば、春からセンター長に内定している就職先が無くなったら堪るって気持ちも当然あったと思います。」
 「この話って、警察は聞いてなかったんですか? 」
 あまりに酷い話なので、義人はつい口を挟んでしまった。
 「うーん、私は二年前は帯広で勤務してたから札幌の話は耳に入ってないですねぇ。でも、この手の民事に警察は介入し難いでしょう。いかがでした? 」
 前センター長は、恵理の指摘のとおりだと言った。
 「警察が定期的に巡回してくれてたらしいですけど、嫌がらせの連中は警察の目を躱してましたからね。奴らの方が上手だったようです。」
 警察官としての責任を感じたのか恵理がバツの悪そうな顔をしていた。
 「それでも、最後には皆さんが頑張った甲斐があったということですか? 」
 最終的に北海道の施設になったのだから、外資の嫌がらせに耐えきったということなのだと思ったが、
 「いや・・・まだ、続きがあります。」
 前センター長は言葉を濁した。
 「嫌がらせがピークだった時期に、道が買収を撤回したというデマが流れたんです。もちろん、デマを流したのはお隣の国の手先になっている不動産業者だったんですけどね、当時はそれがデマだってことは誰にも分かりませんでしたから、皆がデマを本気にして絶望したり、センターの存続を諦め掛けたりもしました。正直、実は私も諦めた者の一人です。もう退職することが決まってましたし、気持ちが弱ってたんでしょうな。お恥ずかしい限りです。」
 前センター長は当時の責任者の一人として済まなそうな顔をしているが、緊張状態が続く中でそのようなデマが流れたら誰でも心は折れてしまうかもしれない。
 「ところで、嫌がらせやらデマやらで騒然としていたセンターを、私が一週間ぶりぐらいに訪れた時ですが・・・スタッフたちからヌイが突然死んだって聞かされたんです。」
 ここで、漸く前センター長の話は羆に繋がり、義人は若干身を乗り出した。
 「あの時は驚きましたね。最後に見た時は元気でしたし、そもそも羆は三〇年以上も生きますから三歳のヌイが死ぬなんて考えてもみませんでした。あのまま成長すればギネス記録間違い無しでしたから、非常に残念に思いました。」
 ヌイは当時のセンタースタッフ一同の希望の星だったと言う。ゆくゆくはセンターの目玉になるべき個体であり、その集客力にも期待していたらしい。
 「センターの存続が掛かっていた大変な時期ですから、それは特にガッカリされたでしょう? 」
 「そりゃあ私はガッカリしましたよ。ガッカリするに決まってます。ですが・・・ 」
 前センター長は腕組みをして首を傾げた。
 「・・・ガッカリしていなかった人もいたな。」
 「誰です? 」
 「松浦さんと数名のスタッフは、ヌイの死を重く捉えていなかったようだ。口では残念だと言っていたが、そんなにガッカリしているようには見えなかった。私は松浦さんはセンターにきて日が浅いからヌイに対する思い入れが少ないんだなぁと始めは思ってたんですけどね・・・。うーん、吉良さんは地元の人じゃないから分からんだろうが、増田さんなら覚えているかもしれないな? 」
 「え、何をですか? 」
 「二年前、南区に大きな羆が頻繁に出没したってニュースを覚えていませんか? 」
 「二年前・・・? 」
 恵理は思い出そうとしてみたようだが無理だった。
 今回のように市街地で起きた羆襲撃事件ならば、誰の記憶にも残るほどの大ニュースになるが、そもそも北海道内では羆による事件など珍しくもない。札幌市近郊では毎年羆の目撃情報を受けて警察が出動する回数は頻繁であり、面積の大半が山と森林で占められる南区ならば羆が出没しても記憶に残るのは直接被害を被った者だけである。
 「そうですか、覚えてませんか。まあ、人的な被害は無かったから、大したニュースにはならなかったですからね。でも、季節は冬でしたから妙な出没事件だったんですよ。」
 「冬にですか? 羆は冬眠してるんじゃ? 」
 「まあ、最近は暖冬ですし雪も少ないですから冬眠し損ねてウロウロする羆もたまにはいるようですけど、珍しいことではあるんです。ところで、その羆は妙に人慣れしてたようで、センターの界隈に暫く居座ったんですよ。春になったら何処かへ行っちゃったみたいですけど、冬の間にセンターの周辺で嫌がらせしていた連中や、少し離れた場所にあったメガソーラーの設置工事現場が何度も襲撃を受けたと聞きます。一応、札幌市内の猟友会が駆除に向かいましたが、羆を見付けることができなくて、その後も羆の襲撃は続きました。そんなわけでセンターを取り囲んで嫌がらせをしていた連中が恐れをなしちゃって逃げてしまったんですよ。メガソーラーの工事業者も同様で、センター買収に見通しが立たない状況で、付近には大きな羆がウロウロしてるって言うんじゃねぇ、おちおち作業も嫌がらせもしてられなかったんでしょう。その結果、メガソーラーの規模は縮小し、センターは無事に嫌がらせを乗り越えたんです。当時のスタッフは皆が救いの神だって言ってました。羆の罰が当たったってね。」
 「それって、つまり・・・ 」
 前センター長は頷いた。
 「私はヌイだろうと思ってます。」
 「松浦センター長やスタッフの一部が、センターの買収を企てていた連中を追い払うためにヌイを使ったって言いたいんですね? 」
 「そうではないかと思っています。ヌイをセンターの飼育施設から人知れず逃がすために記録が改竄されたのではないでしょうか。松浦さんと限られたスタッフの手によりヌイは密かに連れ出され、野に放たれたんです。その際に発信器は取り外されたんでしょう。発信器が残っていたらヌイが死んでいないことがバレてしまいますからね。しかし、何らかの手違いで耳にベルトだけが残ってしまったんですよ。」
 前センター長は開きっぱなしになっていたタブレットPCの画像を指差して言った。
 「おそらく、彼らなりの戦い方だったんでしょう。そうと考えなければ納得できないことが多くてね。例えば、猟友会が駆除に向かったけれど羆を発見できなかったという話、割と出没範囲の狭い羆だったようですし、しかも季節は冬でしょう。山に緑は少ないですし、見付けられなかったというのはおかしな話でしてね。当時のセンタースタッフがヌイを隠す手段まで考えていたというならば頷けることだと思います。」
 「まさか、ヌイを隠していた場所は雨水管だって言うんじゃ? 」
 「そこまでは分かりません。センターの近くには雨水管なんてありませんし。でも、似たような場所に隠れるよう誘導していた可能性はあります。」
 前センター長の話が事実ならば、今回の羆襲撃事件は人為的に引き起こされた犯罪の大き過ぎる余波と考えられる。
 その始まりは二年前の『危険生物の遺棄』だが、それが人を殺傷したり世間を混乱させる目的で行われ、その影響が二年後の現在にまで繋がっているのだとしたなら、首謀者たちには様々な種類の罪状が上乗せされるだろう。
 (なるほどね・・・ )
 義人は、松浦センター長が何故自分の推理を強く否定したのか分かったような気がしていた。あの時、世間を騒がせている人喰い羆がヌイである可能性が彼の頭の中を過っていたのだ。三メートル以上もある大羆だったという義人の証言で、今日の前センター長のようにヌイだと確信していたのかもしれない。もしかしたら、センターの人工環境で育った羆ならば自然に返ること無く、市街地に住み着いて雨水管に潜ることも想定できていたのかもしれない。
 そして、今日の悲劇は自分が撒いた種であるかもしれないと思い、それを罪に問われたくない一心で、疑惑をセンターから逸らすべく、義人の推理を徹底的に否定してしまおうとしたのだ・・・
 (くそっ! あの野郎! )
 専門知識とやらを振り回して義人を押さえ込もうとした松浦センター長の顔と態度を思い出したら、それまでの腹立ちを通り越して激しい怒りが込み上げてきた。
 恵理が無言で義人の肩に手を置いた。
 (恵理さん? )
 恵理は、当然あるべき義人の怒りを察して、それをこの場では表に出さないようにと嗜めたのだろう。
 それが場違いであることは義人も直に察し、恵理に向かって苦笑しながら頷いた。
 「お話は以上ですか? 」
 前センター長は最後に一つだけ言わせてくれと言った。
 「松浦さんたちを擁護するわけじゃないが、彼らは今日の惨劇までもは予測してなかったと思います。先に言ったとおりヌイは畸形です。あの大き過ぎる巨体を維持して生き続けるのは自然では不可能だと誰もが思っていました。人間にとっては脅威になりますが、餌になる小動物や魚を捕らえるのは不可能でしょうし、木に登ることもできません。アップダウンの多い山の中では移動するだけでも体力の消耗が激しいでしょう。だから、松浦さんたちはヌイが役目を果たした後、早々に飢え死にしてしまうと考えたんですよ。あれから二年も生き延びているとは考えもしなかったんだと思います。」
 おそらく、前センター長は当時の苦境の中で松浦センター長たちが如何に苦労したかを知っているので感情移入しているのだろう。
 しかし、それは考慮されるべきではない。
 今日の惨劇が意図されたものでなかったとしても、それは言い分けにはならない。
 前センター長の話が正しいと証明され、多数の人命が失われた原因を作ったのが松浦センター長たちの行為であるならば、その罪は必ず裁かれなければならない。
 「今日明日中に、再度警察の者がお伺いすることになると思いますが、その際も同じ話をしていただけますね。」
 恵理の申し出に、
 「もちろんです。」
 と、前センター長が応えた。
 帰り際、
 中川前センター長は二人に少し待つように言って携帯通信端末用のメモリカードに書斎のPCから幾つかのデータをコピーして渡してくれた。
 「私がセンター長をしていた当時の個人日誌の一部です。」
 「日誌、ですか? 」
 前センター長が言うには、それはヌイに関する記録の抜粋であるらしい。
 「今更ですが、ヌイという羆がどのような性質を持った個体であったかについての資料としてお渡ししておきます。」


  [二〇]


 「恵理さん、大丈夫? 」
 ハンドルを握りながら、義人は頻りに恵理の様子を気にしていた。
 「あんま大丈夫じゃないけど、大丈夫かも。」
 恵理は思い切り不機嫌そうに口を尖らせ、助手席に身を投げ出すようにしてだらしなく座っていた。だが、そんな格好をしながらも中川前センター長から預かったメモリーカードをタブレットPCに差し込んで、中身の確認作業をしているのは警察官としての使命感からなのだろう。
 「でもさ、恵理さんって暫くお休み中なんだから、署の誰かにメモリーカード渡すだけで良いんじゃない? 」
 あまりに疲れきった顔をしている恵理が心配だった。
 「預かった責任上、渡す前に中身を知らないわけにはいかないでしょう。」
 確かにそれはそうなのだが、恵理の体調は決して万全ではないわけで、だから休みをもらっているわけで、できれば無理は一切して欲しくない。
 「しょうがないよ、警察官だもの。」
 こんなことになるなら、どんなにせがまれてもドライブなんか連れてくるんじゃなかったと思った義人だったが、
 (でも今日、前センター長に会わなきゃ、ヌイの話は聞けなかったんだよなぁ。)
 ヌイの話、松浦センター長の話、義人にだってその重要性は理解できる。
 今世間を騒がせている羆の正体が明らかになるかもしれない情報を得たのだから、これは今日のドライブの成果というべきなのか?
 (いーや、違う! 別に俺たちが前センター長の話を聞かなくったって、誰か他の警察官が聞きに行けば良かったんだよ! )
 やはり、ドライブなんかに連れてかないで、家で大人しく映画でも見てれば良かったと思う義人だった。
 「まあまあ、そんなに心配しないで。結構元気だよ。頭も働いてるし。」
 恵理が義人の肩をポンポンと叩きながら、明らかに力の入らない作り笑いをしてみせる。
 (ダメだぁ、弱ってんじゃん! )
 義人は、早めに恵理から仕事を取り上げて、頭の中身をプライベートに戻さなければならないと決めた。
 「なんか、お腹減った。」
 視線をタブレットPCに向けたまま、恵理が空腹を訴えた。
 「そう言えば、俺も小腹が空いたかな? 」
 今日は出掛ける準備に手間取ったついでに昼食を早めに取っていた。確か一一時前頃に二人でハンバーガーのセットを食べたが、あれから四時間以上経っている。
 「三時のおやつにしますか? 」
 「良いねぇ、賛成! 」
 「俺、おごります! 何でも言って下さい! 」
 昨日、待ちに待った実家からの送金が届いていた。
 それも一〇万円という学生の手には予想外の大金だったので、恵理に借金を返して、帰りの航空券代を取り置いても、かなりの余裕を残していた。
 スポンサーはもちろん祖父だが、送金の段取りと金額決定は姉の恵子だったらしい。
 義人は昨晩のうちに送金のお礼と金額の確認のため実家に連絡した。
 先に祖父と話して丁重に感謝の意を伝え、その次に姉と話した。
 「姉ちゃん、ありがとう。でも、金額見てビックリなんですけど。」
 「当然でしょ。あんた、暫く帰って来ないんでしょ? 」
 「はぁ? 」
 「年上の女をモノにするには、資金が必要なのよ! 」
 「なっ? 」
 「どうせ大学は春休みなんだし、童貞捨てるまでそっちに・・・ 」
 殆ど反射的に速攻で通話を切った。
 (なんてことを言いだすんだ、あの女! )
 姉の声は大きいので通常ボリュームに設定していたらスピーカーから漏れまくる。それなのに、傍には恵理がいるリビングで通話してしまったのは失敗だった。聞かれて困る会話になるなどとは思っていなかったのだ。
 素早く通話を切ったので、不審な会話が恵理に筒抜けになるのは避けられたと思うが、今後は姉の性格と暴言を予期しなければならないと心に刻んだ。
 通話が終わった後、ソファで寛いでいた恵理の隣に座ったら、どうゆうわけか愉快そうに笑われた。
 「義人君はぁ、お姉さんと仲良いんだねぇ。」
 ニヤニヤと笑いながら恵理が発した言葉の意味を義人は知らない。先日、酔って自分がシスコンであることをカミングアウトしたことは全く記憶にない義人だった。
 含みのある笑いが気になったが、それについて追求したら墓穴を掘りそうな気がしたので止めた。
 とにかく、そういうわけで義人の懐は一転して暖かくなっていたのである。
 「今、しっかり食べちゃったら夕食に差し支えるから通りすがりのコンビニでお菓子買うぐらいで良いかも。」
 「そうですね。それじゃ、そうしますか。」
 もっとも、近場に飲食店など見当たらなかった。元は飲食店だったらしい廃墟はあったが、営業中の店はコンビニぐらいだった。
 「あそこに入ろ。」
 恵理の指示で、義人はオレンジ色の看板を出したローカルブランドのコンビニ店の駐車場に車を入れた。
 コンビニでの買い物は義人が担当することにして、その間に恵理は中川前センター長から得た情報を上司に報告し、音声記録と個人日誌の送信もしていた。
 (ドライブに出たはずが、しっかり仕事してるんだもんなぁ。せめて、おやつでも食べてリラックスしてもらわなきゃ。)
 義人は買い物かごをぶら下げて、コンビニの店内を一回りした。
 小規模のコンビニだったが品揃えはまずまずと言ったところで、義人は恵理のリクエストに従いブルーベリーソースたっぷりのワッフルと生クリームがはみ出したクレープ、さらにはエクレアとチョコレートも買った。
 糖分補給のフルコースといった感じである。
 (まるっきり疲れてる人のリクエストじゃん! )
 甘いものばかりで口の中がドロドロしそうだと思ったので、ドリンクは独断で選ぶことにしてペットボトルのお茶とブラックコーヒーにした。
 「お待たせ。」
 「わーい、ありがとう! 」
 コンビニスイーツで一杯のレジ袋を受け取りながらも、恵理は未だタブレットPCを開きっぱなしである。
 「上司の方からは何て言われました? 」
 「後はこっちで五体満足な奴を動かすから余計なことしないで大人しくしてろっ! だってさ。怪我の回復に専念しないと有給取り消すって脅されたわよ。まったく、少しは労ったらどうなの? 」
 恵理は剥れていたが、それは当然のお叱りだと思った。
 (有り難いご指導です。)
 思い立ったら即行動という恵理の性格を押さえつけるのは難しそうだが、暫くは上司のお叱りが効力を発揮してくれるだろう。
 「ちょっと、休憩しましょうよ。」
 義人の提案に疲れ丸出しの恵理も同意したが、
 「どうせなら、ちょっとレジャーっぽい所で食べたいかも。」
 職務に押し流されてしまったドライブに未練があるようだ。
 「良いですよ。何処か車停めて寄り道できそうなとこありますか? 」
 「うーん、レジャーって感じじゃないけど、南区ん中ブラブラする機会なんて滅多に無いから私の実家の辺りに行ってみたい。ちょっと高台になってるから意外に見晴らし良いんだよ。ダメかな? 」
 恵理が子供の頃に過ごしたという環境なら義人も興味が無いわけが無い。恵理に関することなら、何でも知っておきたいと思う。
 「是非、行きましょう。」
 現在増田家は両親ともに札幌市街地に引っ越してしまっているというので、旧実家には恵理も敢えて足を運ばないと言う。たぶん、この機会を逃したら義人が目にする機会は当分無さそうである。
 義人は早速コンビニの駐車場から車を出し、恵理のナビに従って真駒内通りから石山通りに合流し、札幌とは反対方向に少し走ってから脇道に入った。
 脇道に入って暫く進むと、見覚えのある風景に差し掛かった。
 「私たちが地上に出た雨水管の出水口の近くを通るのよ。」
 「ああ、あの時、恵理さんの実家が近くにあるって言ってましたもんね。」
 間もなく二人が命拾いしてから警察の迎えが来るまでの間、休憩所にした三階建ての家の屋根が遠目に見えてきた。
 「ここも、警察が封鎖してるんですよね? 」
 「ええ、突入口じゃないからバリケードで固めてるだけね。ほら、パトカーが停まってるじゃない。」
 前方に見えてきた雨水管の出水口がある付近の川縁に二台のパトカーが回転灯を回したまま停まっている。
 「ちょっと寄って、挨拶とかします? 」
 一応、同じ事件に携わる警察官同士の作法でもあるのかと思ったのだが、
 「絶対に嫌っ! 」
 今は、ドライブの時間でプライベートなのだと恵理は断言した。
 「んじゃ、無視しまーす。」
 義人は車の速度を落とすこと無くパトカーの横を通り過ぎた。


 恵理と義人を乗せたファイアットが取り過ぎた後の豊平川支流の川縁周辺は、幹線道路からも遠く、人の住まない空き家ばかりである。
 本来ならば、穏やかな川のせせらぎと木々の枝が風で揺らぐ音以外には、人工的な騒音とは無縁な地域である。
 しかし、今は違っていた。
 車の窓を閉め切ったままでいた恵理と義人は、この異常に気付かず通り過ぎてしまったが、辺りにはパトカーの無線機から流れる緊迫したオペレーターの声が騒然と鳴り響いていたのである。
 「第一一封鎖班、応答願います! 第一一封鎖班! 第一一封鎖班! 」
 それは、雨水誘導管内に潜む羆の駆除作戦に当たる全警察官を指揮する指令センターからの緊急無線なのだが、応答する者はいなかった。
 二台のパトカーはいずれも無人だったが、そのうちの一台はサイドウィンドウが開いていた。運転席と助手席双方の窓が開いているため、無線の音は車外に大きく漏れていたのである。
 よく見るとウィンドウの開き方は不自然だった。窓枠の下の方にガラスの一部が残っているのだが、それは開ききっていないガラスの一部が覗いているというわけではない。
 窓ガラスは割れていた!
 パトカーのサイドウィンドウは運転席と助手席双方とも割れて、いや、突き破られてしまっているらしい。
 パトカーの異常はそれだけではない!
 車体の屋根には大きな歪みがあり、助手席側のドアミラーが不自然な方向に曲がっている。塗装の其処彼処に大きな引っ搔き傷が見られ、突き破られてはいないがフロントとリアウィンドウにも大きな罅が入っていた。車内を覗いてみると、粉々になった沢山のガラスの破片と共に、シートや床の上には赤黒い液体が溜まり、その中に警察官の制服の切れ端も落ちていた。
 この状況、正しく惨状であった!
 異常を察知した警察官が駆け付けてくれば、この場で何が起こったのかは一目瞭然である。パトカーが停車する川縁の直ぐ下にある雨水管の出水口の状況を見れば、何モノによる仕業なのかも明らかだった。
 出水口には、木材と鋼材を組み合わせて太い針金と有刺鉄線で頑丈に固定したバリケードが組まれていたが、現在、それらは出水口内部から発揮されたと思われる強い圧力により完全に薙ぎ倒されてしまっていた。
 これらが羆の仕業であることは間違いなかった。
 駆除作戦に当たった警察の突入部隊から逃れた羆が、雨水管からの脱出を試みてバリケードを突破した痕だった。
 土手の周辺には、バリケードを見張っていた四名の警察官が予期せぬ羆の出現に混乱しながらも勇敢に立ち向かった形跡が残されていた。土手の斜面は人と羆の足跡で踏み荒らされており、付近に散らばる壊れたバリケードの材料には彼らが発砲した散弾によって傷つけられた跡が多数残されていたし、血痕も其処彼処に見られた。
 警察官たちの抵抗がどの程度まで効果を発揮したのか分からないが、結局、彼らは羆を撃退又は阻止できなかったようである。その事実を指令センターに報告することもできなかったらしい。
 出水口を中心に繰り広げられた激しい攻防の跡地には三名の警察官の無惨に傷付けられた遺体が転がっていた。
 四人目の遺体は見当たらなかったが、おそらく最後の一人になった警察官は緊急の応援要請をすべくパトカーに向かったのだろう。そこで追い掛けてきた羆により無線機を操作する暇も無く惨殺されてしまったに違いない。
 その遺体は羆によって、いずれかへ持ち去られてしまったのだろう。


 背後に砥石山という名の山を背負った高台に位置する恵理の実家は、空き家にしておくのが惜しいと感じられるほどに大きく広く立派な一軒家だった。外観は木造モルタル構造の二階建て、その建坪は二〇〇坪近くもありそうである。隣接する物置や車庫の敷地も含めれば、義人の実家の住居に道場を足した以上の面積があった。
 「一時期は祖父母と両親の二世帯が暮らしてたからねぇ。」
 恵理はそれが当たり前のようなことを言うが、人口が過密化した前世紀以来引き摺り続けている首都圏の手狭な宅地事情の中で生きてきた義人にとっては、大豪邸を見るような気がしていた。
 「田舎の家なんてこんなものよ。この辺の地価なんて呆れるほど安いから。」
 それは確かにそうなのだろうが、これほどの住宅が不便だからという理由で放棄されてしまう田舎の事情を勿体なく感じてしまう義人だった。
 恵理は家の隣にある空き地に車を停めるように言った。
 「良いんですか? こんな所に車停めて? 」
 気兼ねする相手など何処にもいないのだが、思わず首都圏の感覚で聞いてしまった。
 東京ならば、一見所有者の目の届かなさそうな空き地に見えていても、不動産業者の管理地だったり月極駐車場だったりして、無断駐車は監視カメラとセンサーで忽ち警備会社に通報されてしまう。
 「大丈夫。だって、ここも私の実家の土地だし。」
 「ええっ、ここも? 」
 恵理の実家から隣の家(こちらも空き家らしいが)まで一〇〇メートル以上もありそうな隙間を埋める広々とした空き地では、祖父母の代にラベンダー畑を営んでいたという。
 「誰も畑を構わなくなったから、今じゃラベンダーが勝手に自生してるらしいの。季節になったら、結構咲いてるんじゃないかな? 」
 義人は、先ほどから感嘆の溜め息と「勿体ない」を連発しながら、恵理の説明を聞いていた。
 「せっかくだから、一休みしたら実家の中、探検する? 」
 「中に入れるんですか? 」
 「合鍵は玄関脇の植木鉢の中に隠してあるから、いつでも入れるのよ。」
 四、五年ぶりに訪れたと言う恵理は始めから中に入る気満々だったが、松葉杖を突きながら歩き回るのは大変そうな気がしたので義人が躊躇った。
 「勝手知った場所だから大丈夫よ。別に長距離を歩き回ろうって言うんじゃないから疲れたら戻ってくるし。」
 滅多に無い機会だからと恵理がせがんだので、義人も自分が補助すれば大丈夫だろうと判断し、それならば是非案内して下さいと言った。
 義人にしてみれば、もちろん田舎の豪邸にも興味はあるが、何よりも恵理の想い出にふれてみたかったのである。
 「でも、まずは、おやつ食べてからね。」
 恵理はお腹が減って堪らないと言いながら、コンビニのレジ袋を開いた。
 「義人君、何食べる? 」
 「えっと、ワッフルかな。」
 「私は、生クリームが美味しそうだからフレープだな。」
 恵理は義人にワッフルを渡し、自分はクレープを取り出すと直に齧り付いた。
 「美味しいわぁ! やっぱ疲れてる時には甘いモノね! 特に心が疲労してる時には最高だわ! 」
 義人も、まったくですねと言いながらワッフルを齧った。
 「天気が良い日に田舎の風景眺めながらおやつ食べてると、漸くレジャーしてる気持ちになれるわね。」
 時刻は三時半。春の日差しは若干西に傾きかけていたが、まだまだ十分に明るい時刻である。それに、朝から好天が続いているので田舎の空は青々としていて、ボンヤリ見上げているだけで心が癒された。
 「ところで恵理さん、随分熱心に読んでましたけど、その日誌って気になることいっぱい書かれてたんですか? 」
 せっかくの休憩中に仕事の話をするのは申し訳ないような気もしたが、恵理が嬉しそうにクレープの生クリームを舐めながらも、膝の上にタブレットPCを抱えっぱなしなのが気になっていた。
 「うん、ヌイに関するちょっとヤバい情報がいっぱいだった。あーあ、見ちゃったなぁって感じ。」
 どれだけ「ヤバい情報」なのか、そんなことを言われたら聞きたくなってしまう。
 「俺にも教えてって言ったらダメですか? 」
 捜査中の資料を民間人に軽々しく見せて良いものかどうか恵理は迷っていたが、
 「義人君には、さっきの中川さんの話で殆ど情報が伝わっちゃってるから、今更秘密にしといても意味無さそうね。絶対に口外しちゃダメって言ったら守れる? 」
 「守りますよ! 恵理さんに迷惑なんて絶対に掛けません! 」
 その点に関しては絶対に自信があった。どんなにインパクトのある情報を耳にしたとしても、恵理のためならば義人は拷問でもされない限り自分の胸の中に留めておける。
 「んじゃ、教えて上げよっか。」
 恵理はクレープを片手に持ったまま、もう片方の手で膝の上に置いたタブレットPCの操作を始め、
 「日誌の中で、ヌイが二歳になって以降の肝心なところを読むから聞いてね。」
 そう言って、前センター長の個人日誌の中から探し出した、注目すべき部分を選んで読み上げた。


 二〇×一年、二月×日
 本日、二歳となったヌイの身体測定を終え、イヤリング(発信器)をセットした。
 ヌイの体重は既に四〇〇キロを超えており、未だ成長途中であるにも拘らずセンターで飼育している他の成熟したオスを遥かに凌ぐ体格となった。このまま順調に成長したならばエゾヒグマとしてだけではなく、北米のハイイログマやシベリアのホッキョクグマをも超える記録的な大羆となるだろう。
 このこと、スタッフたちは皆が喜んでいるが、何故このように巨大な個体が生まれたのかを考えてみる必要がある。ヌイの両親は並の体格を持つ羆であり遺伝的な影響は考えられない。突然変異であることは間違いないが、その原因が単なる偶然ではなく人為的なものである可能性を私は危惧している。
 実験や病気予防のために投与した各種薬剤、合成飼料、栄養剤、ホルモン剤など、ヌイは母親の胎内にいた時点から大量に接種している。それらがヌイの成長に何の影響も与えていないと断言することはできない。

 二〇×一年、八月×日
 北海道庁の担当者を飼育施設に案内した。
 彼らは我々が予想したとおり、ヌイの巨体に驚き、感動していた。ここ数ヶ月の測定はしていないが、現在のヌイの体重は推定六〇〇キロにも達しようとしているのだから驚くのは当然のことと思う。ヌイのおかげでセンターは好印象を与えられたようなので、移管がスムーズに行われる助けになって欲しいと願っている。
 だが、私はヌイを見る度に思う。
 これは自然が生み出した生物ではないし、自然で生きる機能を有した生物ではない。
 ヌイは明らかに人工の飼育環境の中でのみ生きられる特殊な個体なのである。
 先日、完全に成熟しきった四歳時点での体格を算出してみたところ、体重は一〇〇〇キロ超、体長は三七〇センチとの馬鹿げた数値が飛び出した。このような桁外れの個体を養ってくれるような自然環境は北海道内には有り得ないし、ヌイの腹を満たすほどの餌は自然では確保できない。センターのような飼育施設でのみ成立する存在なのだ。
 もっとも、ヌイは自然の羆たちのように広大な森林の中に縄張りを築き、獣の王として君臨する術を知らないし、そこに価値を見いだすことも無いだろう。それは、我々がヌイから羆本来の資質を奪い、人工環境で一生を送るよう仕向けてきたのだから当然のことだと思っていた。
 だが、最近は私の考え方が少し変わってきた。
 ヌイはセンターで生まれた三代目の羆である。彼の両親はセンター生まれであり、祖父母に当たる羆たちも他の研究施設で生まれセンターで引き取った羆である。もちろん、曽祖父母に当たる羆の中にも人工的な環境で生まれ育った個体がいただろう。つまり、ヌイの血の中に自然の記憶は殆ど存在しないのである。そんなヌイに、我々が奪わなければならなかった自然の羆の資質が残されているだろうか? 我々が奪う以前に、そんな資質は最初から備えていなかったのではないだろうか? 
 我々は、ヌイに人工環境を押し付けたつもりになっているが、ヌイは端から人工環境に適正を持った羆として誕生し、人工環境の恩恵を受けることを前提として成長しているのではないだろうか?

 二〇×一年、九月×日。
 ヌイは非常に賢い羆であり、興味深い個体である。
 その飼育環境に対する適応力は他の個体に比べて群を抜いており、目を見張るべき点が多々あったが、特筆すべきは観察力と研究熱心さについてである。
 私は、ヌイは街のカラスと同じであると考えている。
 一日の大半を餌を捕ることに費やさなければならない野生動物と違い、自由な時間が沢山あるので、それを観察と研究による知識の蓄積に使うことで野生の羆では有り得ないほどの賢さを得たのだと思う。
 その結果、いつの頃からかヌイを観察する側だったセンターのスタッフが、ヌイに観察されていたという逆転状況が生まれていた。ヌイは飼育施設の構造と人間たちの行動パターンをほぼ理解してしまっていたのである。
 例えば、ヌイは檻に付いた数カ所の扉が其々どのようにして、どのようなタイミングで開閉するのかについて興味を持っていたようである。中でも餌が差し入れられる扉が何時頃に何秒間開くのか? 扉の向こうにいる者は誰なのか? 扉に自らの身体を差し入れることは可能なのか? など、遊んでいる振りをしながら熱心に探っていたらしい。
 そんなヌイの恐ろしさを我々が思い知らされたのは先日の檻内の清掃時である。
 ヌイは週に一度行われる清掃作業の段取りまでも把握していたのである。清掃の際、自分を隣の檻に移動させるためのトンネルの扉の仕組みを理解し、その強度を弱め、開閉する手段も見付けてしまっていた。何も知らずにヌイの移動を確認してから檻の清掃に取り掛かった作業員たちは突然トンネルを戻ってきたヌイに驚き、大急ぎで退避した。
 ヌイは作業員たちの後を追い掛けたが、彼らが逃げ出した扉のドアノブを抑えることにより施錠ができなくなるという構造にまで気付いていた節があり、扉を挟んで飼育員たちとヌイの攻防が行われたと聞いている。
 これは私見だが、ヌイは飼育施設を脱走するために前記の行動を取ったわけではないと思う。おそらくヌイは、現在置かれている人工環境の中で有効な狩りを試みたのである。ヌイは人間の死角や注意力の限界、さらには体力や敏捷性、肉体の脆さまでを知り尽くしていたに違いない。
 ヌイは自らが蓄えた知恵と有り余る力を人間相手に試してみたかったのだろう。ヌイにとって人間は自らの知識の中にある唯一の生き物であり、その人間を獲物として捉えたのは、如何に人工環境に適していたとはいえ失われなかった猛獣としての本能の発露だったと思う。
 それにしても、まったく恐ろしい個体である。
 このままセンターで成長したなら、ヌイは我々の手に負えない怪物に成長してしまうかもしれない。

 二〇×二年、二月×日。
 ヌイが死亡したとの報告を受けた。
 三歳時の身体測定で体重六五〇キロ、体長三〇〇センチ。このような異常成長を遂げた個体が長生きできないのはやむを得ないことと思う。死因は伝染病ということだが、免疫機能に脆弱な点があったとも考えられるので納得した。火葬の手際が良過ぎたという点は引っ掛かるが、松浦さんの報告書に不自然を感じてはいないし認印も押した。
 だから、以下に記す内容を誰かが読む可能性を考え、念のために断っておく。
 これは私の勝手な空想であり、ヌイという個体に対する興味が書かせた作文である。
 さて、以前にも記したがヌイは非常に頭の良い個体だった。
 飼育施設の構造を熟知し、人間の習性や機能をも理解していた。
 いつの間にか飼育員たちはヌイを恐れるようになり、研究者たちは強化ガラス越しにいてもヌイの視線が薄気味悪いと口にしていたほどだった。
 かく言う私も同じ思いに駆られたことは多々ある。
 「ヌイは人工環境に慣れ過ぎていて、施設を出たら生きては行けない」
 これはセンター内での定説となっていたが、私はヌイを常識で捉えるのを止めた。
 ヌイほどの知恵があれば、施設を出ても生き延びる術を見付けられるのではないかと思っている。
 「ヌイは自然環境では生きられない」
 それは正しい。
 ヌイの巨体では、山野を駆け回って鹿やウサギを補食するのは不可能だし、川で魚を捕ることもできない。木の皮や落ちている木の実を拾って食べるだけでは生命を維持できないし、そもそもヌイはそのようなものを食物と認識できるかどうか怪しい。だから、ヌイを山や森に連れて行き、そこに放したならば一年もせずに餓死するに違いない。
 しかし、
 何かの拍子にヌイがセンターを逃げ出した場合はどうだろう?
 ヌイは自らの生活圏を何処に求めるだろうか?
 山や森が自らの生きる場所と考えるだろうか?
 どうも、それは違うような気がする。
 ヌイはコンクリートで囲まれた人工環境を自らの住処と認識し、人間という生物が多数存在する環境を求めるような気がする。その方が、これまで蓄えた知識を有効に活用し、長く生き延びられると考えるのではないだろうか?
 見たことも無い自然環境を理解するよりも、人工の環境や仕組みの方がヌイには理解しやすいだろうし、動きの素早い鹿やウサギを捕らえるのは難しくとも鈍間な人間ならば捕らえるのは簡単に違いない。
 私は、そのことを考えるとゾッとせずにはいられない。
 ヌイは死んでしまったのだから、こんな想定をする必要が無いことは分かっている。
 だが、万が一ヌイが生きていて、センターの外に逃れ出ていたとしたら?
 センターから放たれた場合、ヌイは必然的に人喰い羆となるだろう。


 「ってな感じ。」
 以上を義人に読み聞かせた後、恵理はタブレットPCから手を離すと残っていたクレープを口に運んだ。
 「どう思う? 」
 「いやはや驚きましたよ。モロに真相を突く日誌ですね。人工的な環境に適応して人間狩りの知恵を磨いた人食い羆なんて、まるでSFです。」
 ヌイは極めて特殊な素質を持つ羆であり、その生態と習性は普通の羆を以て物差しとはできないようである。
 義人も「件の羆はその巨体故に自然で生きることは難しく、必然的に市街地で人喰い羆にならざるを得なかったのではないか」と考えていたが、事実は義人の推理の斜め上を行っていた。ヌイには最初から自然で生きるという選択肢は無かったと言うのである。
 どうやら、ヌイと付き合いの長かった中川前センター長は、ヌイが市街地を狩り場にして人喰い羆になる可能性を考えていたようである。
 だが、ヌイを良く知らない松浦センター長は人の手を離れた後は羆本来の本能に従って生きると思った。最終的に付近の山中に住処を求め、そこに適応できずに早々に死んでしまうと想定したのだろう。ヌイがセンターに嫌がらせする連中を追い払った後、周辺地域に被害を及ぼしたとしても短期的なものになると判断したに違いない。
 しかし、ヌイにとってセンターから放たれた後に自然に返って暮らすという選択肢は有り得ず、鹿や小動物を捕まえるという食料確保の方法も論外だった。
 ヌイは人間以外の生き物を知らないのだから、その狩猟本能や食欲が向けられる対象は人間なのであり、獲物と定めた人間が多く暮らす市街地を縄張りとしたのは当然の成り行きだったのだ。
 そして、ヌイが日誌通りの賢い羆だったというのなら、雨水管の構造を理解し、それを有効に活用して人間を狩る方法を身に付けたことも頷けるのである。
 「まあ、予想外の展開だったけど今回の羆襲撃事件の根本が分かって良かったわ。これから羆退治とは別に松浦センター長の取り調べが始まるでしょう。それで事件は完全解決ね。これで私もゆっくりとお休みを満喫できるわぁ。」
 そんな感想を述べて、恵理は前センター長の個人日誌に関する話を一区切りとした。
 「ああ、クレープ美味しかった。次は何にしようかな。」
 恵理はレジ袋の中からエクレアの包みを取り出した。
 義人は日誌の内容の重さに胸焼けしてしまったようで、半分ほど残っていたワッフルが喉を通り難くなっていた。
 この辺りは民間人と警察官のメンタル強度の違いなのだろうか?


  [二一]


 「さあ、探検だよ! 」
 おやつを食べ終わった頃、恵理はすっかり元気になっていた。
 疲れ丸出しのウンザリ顔がスッキリしたハリキリ顔に変わり、義人を先導して実家の探検に向かおうとしている。
 「さすがに何年も来てないから懐かしいよ。」
 元はラベンダー畑だったという空き地を出て、実家の敷地を取り囲む背の低いブロック塀に沿って歩きながら、恵理は嬉しそうに付近のガイドをしていた。
 予想外の収穫があったおかげで楽しいドライブとは行かなくなった一日だったが、漸く職務から離れて二人きりの散歩を楽しめているので恵理は満足そうだった。義人も、恵理が自分と一緒にいられることを心から喜んでくれているのが嬉しかった。
 「でも、気をつけて下さいね。急いじゃダメですよ。」
 松葉杖で歩く恵理が、ガイドに夢中になり過ぎて足下の注意が疎かになったら危ないので、義人はいつでも支えられるようにと横にピッタリとくっ付いていた。
 「大丈夫だってば。」
 義人の心配性を笑いながらも恵理は嬉しそうだった。
 「誰かを、こんなして実家に案内するのなんて初めてなんだよ。」
 「へぇ、そうなんですか? 」
 「うん、自分の想い出を見て欲しいと思う相手なんて、義人君が初めてだから。」
 「いやぁ、そう言われると何か照れちゃいます。」
 義人は、不意の初めて宣言に思わずデレ顔を赤くして頭を掻いた。
 その脇腹を肘で軽く突ついた恵理も、よく見ると顔が少し赤くなっていた。
 「私が東京に行ったら、義人君も何処か連れてってくれる? 」
 「もちろんですよ。恵理さんが希望する所なら何処でも連れて行きます。」
 義人が恵理と一緒に歩きたい場所は沢山ある。
 でも、まずは最初に行くべきは、
 「実家に連れて行きたいですね。うちの連中に紹介したいなぁ。」
 恵理を実家に連れて行ったなら、さぞかし野次馬が煩いだろうなと思った。
 祖父母も姉も、二〇歳になるまで女っ気の無かった義人の異変に驚き、興味本位で食い付いてくるに違いなかった。
 面倒臭そうだが、それはそれで楽しいことなのかもしれない。
 「あははっ、行けたら良いねぇ。その時はよろしくねぇ。」
 義人が恵理を実家に連れて行きたいのは混じりっけ無しの本気なのだが、これを恵理はさり気なく受け流そうとした。
 いきなり家族に紹介したいなどと言われても現実感が伴わないし、歳の割に恋愛慣れしていない恵理は、こういう会話の適切な反応の仕方など身に付いていなかった。
 それに、九つも年上の自分を見た義人の家族が、どのような反応をするか想像したら怖くなってしまうではないか。
 「恵理さん! 俺、絶対連れて行きますよ! 」
 義人は、恵理が笑ってごまかそうとしているのを瞬間的に察知したようで、その逃げ道を塞ごうとした。
 (こういうことは、後々のためにハッキリと意思表示をしておいた方が良い。)
 ここ数日で恵理とはかなり親密になれている。
 二人きりでいると互いにじゃれ合ったり甘えたりするのも自然な感じになっていた。
 だが、時々恵理は義人との年齢差にこだわる素振りを見せる。
 キスしている時、肩を抱いている時、他愛も無い会話をしている時、恵理は突然我に返ったような顔をして義人から身を離そうとすることがあった。
 そんな恵理の様子に気付かないほど義人は鈍くない。
 (怖いんだろうなぁ。)
 恵理が九つも年下の大学生と恋愛関係になってしまったことに後ろめたさを感じているのは間違いない。
 確かに、九つという歳の差は世間的にはインパクトがあるのかもしれない。
 だが、歳の差というものは、上の側から見れば大事に感じるかもしれないが、下の側から見ると大したことではないように思えてしまうものだ。
 例えば、義人が九つ下の女の子を見れば一一歳なので、さすがにそれは無いだろうと思ってしまう。だが、自分が一一歳ならば二〇歳の女性を好きになったとしても不思議は無いような気がする。
 そんな程度の問題だと思う。
 だから、二人の関係をリードするのは、必然的に年下である義人の役目になるだろう。
 恵理が自分の年齢に引け目を感じているように、義人も年下であり学生であるという未熟な立場の自分に引け目を感じている。恵理との恋愛を怖いとは思わないが、経済面も含めて大人になりきれていない自分に比べて、恵理には出会って以来ずっと大人としての余裕が感じられてならなかった。
 但し、
 (現状では俺の引け目は恵理さんのそれよりも遥かに小さいらしい。)
 恋愛初心者な義人が言うと笑われそうだが、
 (俺が積極的にならないでどうする! )
 と、密かに決意していたのである。
 「俺、恵理さんのこと本気で好きですからね。忘れないで下さい。」
 そう言って義人は立ち止まり、恵理の肩を掴んで引き寄せた。
 松葉杖を突いている恵理には少し乱暴な扱いだったかもしれないが、恵理は黙って義人に身を寄せ、その胸に顔を埋めた。
 「松葉杖さえなかったら、手繋いで歩きたかったな。」
 義人の胸の中で恵理が甘えるような声で呟く。
 「足が治ったら、手繋いだり腕組んだりなんてし放題ですよ。」
 「そうだけど、今繋いで歩きたい気分だったんだ・・・残念。」
 時折見せる恵理の甘えた仕草に、義人はいつも抗いがたい魅力を感じてしまう。
 (こんなに可愛いんだから、歳の差なんて何の意味も無いじゃん! )
 義人は恵理の足を労りながら、静かに抱き寄せて唇を重ねた。
 初めて唇を重ねて以来、二人は幾度もキスを交わしているはずなのに、恵理の唇はいつも義人の心に新鮮な感動を与えてくれる。
 
 
 恵理の実家の敷地内には子供用の遊具が幾つか設置されていた。
 門から家の玄関まで続いた石畳の両側に、鉄棒や一人用のブランコ、シーソーにジャングルジムまであり、小さな児童公園の趣きがあった。
 「ここの遊具は父親が子供の頃、祖父に買ってもらったんだって。私も子供の頃に遊んだのよ。近所に住んでる子もたまに遊びにきてたわ。」
 手入れをする者がいなくなって久しいという想い出の遊具は、どれも塗装が剥げ落ちていて雑草に覆われた庭の中で寂しげに佇んでいた。
 「これ、ちょっと登ってみて良いですか? 」
 義人は自分の背より少し高いぐらいのジャングルジムを見上げていたら、無性に登ってみたくなった。
 恵理が子供の頃に登ったというジャングルジムの上からなら、彼女の想い出の中にある風景が眺められるのではないかと思ったのだ。
 過去の恵理と視線を同じくすることで、彼女の心の中にある懐かしい想い出をホンの少しでも共有できそうな気がしていた。
 「大丈夫かな? 壊れたりしないかな? 」
 恵理は古くなったジャングルジムの強度を心配していたが、
 「大丈夫そうですよ。ほら! 」
 義人は子供サイズの梯子に足を掛けてスルスルと天辺まで登ってしまった。
 「うん、全然しっかりしたもんですよ。」
 多少揺すってみてもジャングルジムは微動だにしないし、ジョイントが軋んだりもしていない。梯子を握った手が錆臭くなる以外に問題は無さそうである。
 「でも、気をつけてね。」
 恵理は心配そうに見上げていたが、天辺に腰掛けて遠くを眺めている義人が羨ましそうでもあった。
 「子供用の遊具だけど、見晴らし良いんですね。」
 ジャングルジムの高さは二メートルと少しぐらい。その天辺に座っている義人の座高を合わせたら三メートルほどの視点から風景を眺めていることになる。
 (子供の頃の恵理さんの視点なら、もう少し下かも。)
 同じ風景を見るには一段下がらなければならなかったが、子供用のサイズのジャングルジムでは大人の身体が潜り込むのは無理なので諦めた。
 「どうかな? 私は子供の頃にジャングルジムの天辺に登って眺める風景が大好きだったのよ。」
 「ええ、なかなか壮観ですね。遠くに札幌の市街、豊平川も見えるじゃないですか。」
 恵理の実家は高台にあるので、そもそもが札幌の街を見下ろせる位置にある。地面に立っているだけなら周囲を囲む背の高い雑草や雑木に遮られて、ここが高台であることも忘れてしまうが、ジャングルジム程度の高さに登っただけで視界は大きく開ける。
 「私が小学校低学年だったぐらいまでは、夏になれば豊平川沿いで南区の花火大会やってたんだけど、そこから見えたんだよ。仲の良い友達が遊びに来てね、一緒にジャングルジムの上で花火見物したの。」
 「良いですねぇ。花火が見える家なんて羨ましいなぁ。」
 義人は子供の頃の恵理の姿を想像し、一応浴衣を着せ、団扇を持たせてジャングルジムに座らせてみた。
 (良い感じに可愛い・・・ )
 少々変態じみた妄想に思えたので直に止めた。
 「でも、花火大会なんて今じゃやってないけどね。」
 子供の頃の楽しかった想い出と人気の無い現在の風景が重なってしまったのだろう。
 「人が住まなくなったからしょうがないんだよ。もう一度、この家に誰かが住むことなんて無いだろうし、いずれ建物も遊具も全部自然に返るんだよ。それはそれで良いことなのかもしれないね。」
 恵理は寂しそうな顔で、ボンヤリと空を見上げていた。
 「恵理さん・・・ 」
 義人まで、しんみりとさせてしまったことに気付いて恵理は直に明るい顔に戻って話題を変えた。
 「ねえねえ、ここまで登ってきた道見えるでしょう。クネクネ曲がって凄い坂道なんだけど、ここを中学生の時に自転車で上り下りしてたんだよ。凄いでしょう! 」
 恵理は車で登ってきた道を見下ろしてと言ったのだが、
 「ええっ! 中学生の恵理さんですか? 見てみたーい! 制服姿なんですか? 写真無いんですか? 」
 義人の頭の中は、坂道なんかより中学生時代の恵理の姿で一杯になってしまっていた。
 「おいおい、自転車で坂道の上り下り下が凄いでしょって言ってるのに、食い付くとこは制服ですか? 」
 「恵理さんが制服姿で自転車乗ってる写真なら見たいです。中学生だけじゃなく、できれば高校生の頃の写真も見たいですね。アルバムでも良いですけど。」
 「ヘンタイ! 」
 「前にも言ったじゃないですか。これはロマンなんですって。」
 義人にコスプレ趣味は無いが、これまでは無かったと訂正すべきかもしれない。
 その対象になるのは一人だけのようだが、あまり感心できない趣味が見え隠れしているようで、恵理は少しだけ困った顔をしていた。
 「そろそろ降りておいでよ。家の中入るよ。」
 「はーい! 」
 ジャングルジムを降りようとした義人だったが、
 「あれ? 」
 視界の端で動くものに気付いた。
 それは家と物置の間、一メートルほどの隙間の向こうにいた。
 (人だ・・・ )
 濃紺の服を着てバイザー付きのヘルメットを被った誰かの右半身が家の陰からのぞいており、義人に向かって頻りに手を振っているように見えた。
 (警察の制服だよな? )
 今朝、恵理のマンションのベランダから見た羆狩りに参加していた警察官と似たような格好をしている。
 「どうしたの? 」
 「お巡りさんいますよ。恵理さん家の裏の方。」
 「え? 何処? 」
 義人に言われて隙間の方を向いた恵理だったが、ジャングルジムの下からでは手前に農機具の残骸や雑木などの障害物があって見えなかったらしい。
 「あれ、行っちゃった? 」
 その警察官らしき誰かは、そそくさと家の陰に隠れてしまった。
 「なんか俺に手招きしてたみたいだから、ちょっと見てきます。」
 そう言って、義人はジャングルジムを飛び降りた。
 「私も行こうか? 」
 「恵理さんは、あまり動き回らない方が良いです。家の周囲は雑草も多いから松葉杖じゃ歩き難そうですし。」
 「それじゃあ、私は先に家の中に入ってるから何かあったら声掛けてね。」
 「了解です。」
 恵理が玄関の脇にある植木鉢の中にある合鍵を取りに向かうのを横目で見ながら、義人は家と物置の隙間に向かった。
 (何故、こんな所にお巡りさんがいるんだろ? )
 奇妙に思ったが、事情は会って聞けば分かるだろうと思った。
 (でも、声を掛ければ良いのに、手招きしてたのは何故? )
 母屋の裏に隠れて何かの作業をしていたのかもしれないが、ここは空き家とはいえ私有地である。例え警察官でも勝手に立ち入って良いはずが無い。
 (コソコソしちゃって、何か怪しいぞ。)
 義人に手招きした人物は母屋と物置の隙間に右半身が見えていただけだったが、警察官の制服を来ていたのは確かだった。ジャングルジムの位置からは遠かったので人相までは見えなかったが、
 (警察の制服を着た不審者だったら嫌だな。怪我してる恵理さんを連れて来なくて正解だったかも。)
 何となく嫌な予感がしたので、義人は隙間に入る前にシャッターが開きっぱなしになっている物置の中を覗いて護身用の武器になりそうな道具を探した。
 (恵理さんの実家は、冬に暖炉か薪ストーブを使ってたんだな。)
 義人は物置の壁に何本もぶら下がっていた火搔き棒の中から、アンティークな拵えの一本を手に取った。
 (この前ホームセンターで買ったマチェットなんかよりも重くて頑丈そうだ。)
 そのアンティークな火搔き棒は木製グリップの付いた鉄製で長さは一メートルほど。二股に割れた片方の先端は鋭く尖り、もう片方は鉤状に曲がっていた。錆びてはいたが武器としては使い勝手が良さそうである。
 (あの時はマチェットなんかより、火搔き棒を買うべきだったかな? )
 今更そんな意味の無いことを考えた。
 雨水管の中では火炎爆弾が予想外の威力を発揮してくれたので、持っていたのがマチェットでも火搔き棒でも、結局は恵理の添え木になっただけだと思う。
 (そんじゃ、行ってみますか。)
 義人は不審者対策用の火搔き棒で雑草を薙ぎ払いながら、隙間を抜けて警察官らしき誰かがいた家の裏手に向かった。
 (何処行ったんだろ? )
 隙間を抜けてはみたものの、そこには警察官の姿は見えなかった。
 「お巡りさーん。」
 呼んでみたが返事は無い。
 (こんな所で何してたんだよ? )
 そこは一面の雑草畑だった。
 家の正面と違って塀は無く、真っ直ぐに裏山の斜面に続いている。
 (山に向かったってわけじゃないよな? )
 ますます怪しくなってきたので、義人は火搔き棒をいつでも武器として使えるように握り直した。
 義人の剣道の腕は人並みであり、大会に出ても予選で早々に敗退する程度の実力だったが、幼い頃からの英才教育のおかげで早くから有段者にはなっていた。一芸に特化してはいけないとの祖父の方針により短剣道や居合道、銃剣道も学んでいたので、長い得物を用いた護身術には多少の自信がある。相手がよほどの実力者か飛び道具を用いてこない限り引けを取らない自信があった。
 (あそこか? )
 家の裏口が見えたが、その傍に義人の肩の高さほどのトタン屋根が掛かった小さな小屋がある。おそらく、プロパンガスのボンベか灯油タンクが置かれている場所だろうと思いながら義人は慎重にゆっくりと近付いてみた。
 ガタッ、ガタン!
 突然、小屋の向こう側から警察官の制服を着た上半身が屋根の上に跳ね上がるようにして現れた。
 「うわーっ! 」
 驚いた義人は、小屋の二メートルほど手前で思わず声を上げ、火搔き棒を構えて飛び退ってしまった。
 「おっ! お巡りさん! びっくりさせないでくださいよ! 」
 こっちが明らかに緊張している時に、わざわざ飛び出して驚かすなんて悪趣味な奴だと思いながら声を掛けたのだが、
 「・・・? 」
 警察官の様子が変だった。
 小屋に凭れ掛かった上半身は左右にだらしなく揺れており、だらりと伸ばした両手がバタバタとトタン屋根を叩いている。ヘルメットから長めの黒髪がはみ出しているので女性警察官らしいが、顔を伏せたままで声を掛けている義人を向こうとはしない。
 「なっ、なんだこれ? 」
 その時、義人の耳に聞き覚えのある嫌な音が聞こえてきた。
 ブフォッ! ブフッ! 
 荒々しく息を吐き出す音。
 ペチャペチャと湿った咀嚼音、ペキパキと小枝を折るような音も聞こえる。
 (・・・! 羆だ! )
 義人は咄嗟に姿勢を低くして小屋を盾に身を隠した。
 (こっ、この警察官、喰われてんのかよっ? )
 今、小屋の直ぐ裏側では明らかに一頭の羆が食事の真っ最中である。
 余程腹が減っているのか食事に夢中であり、間近に迫っていたにも拘らず素早く身を隠した義人の存在には気付いていないらしい。
 (こいつ、ヌイなのか? どうしてこんな所にいる? )
 ヌイは封鎖された雨水管の中で、重装備の突入部隊に追いつめられ、そろそろ退治されているはずではないのか? 
 (まさか、警察は駆除作戦に失敗したのか? )
 恵理から聞いていた警察による駆除作戦の陣容では、万が一にも失敗する可能性など絶対に無いと思っていたのだが、
 (でも、ヌイが日誌に書いてあった通りの賢さだったとしたなら? )
 ヌイは雨水管の内部を熟知していただろうから、突入部隊をかわす逃げ道や方法も心得ていたのかもしれない。
 (ヌイは突入部隊の裏をかいて雨水管からの脱出に成功したのか? )
 今、喰われている女性警察官が、ヌイが警察の封鎖を突破した証拠ではないのか?
 (なってこった! 最悪だ! )
 それにしても、ヌイが雨水管からの脱出に成功していたとして、どうして再び、いや義人の場合は三度か、遭遇しなければならないのか? どうして遠く無関係な所で事件は起きていてくれないのか? これでは、あまりにも運が悪過ぎる。
 (恵理さんが危ない! 恵理さんを逃がさなきゃ! )
 今は義人の方が明らかに危機的な状況にあるはずなのに、真っ先に浮かんだのは恵理を如何にして逃がすかということであった。
 自分が如何にして助かるかということには、どういうわけか頭が回らなかった。
 そう言えば、義人は恵理の後を追って雨水管に飛び込んだ時やヌイに火炎爆弾で立ち向かった時も、自分の危険は無意識に置き捨ててしまっていた。
 特に今は五体満足な自分よりも、足が不自由な恵理が心配で堪らなかった。
 しかも!
 義人は、ヌイの習性について前センター長の個人日誌にも無かった嫌悪感と耐えきれない怒りが伴う事実に思い至っていた。
 (こいつ、女喰いだ! )
 過去の羆による人喰い事件において、一度女を喰ったら女を好んで襲うようになるという話があった。
 ホントか嘘かはともかく、男は殺しても喰わず、女だけを喰うという羆の映画も見たことがある。
 ヌイは今回の襲撃事件で一〇名以上の人間の命を奪ったが、遺体を喰ったり持ち去ったりしたのは全て女性である。
 今、小屋の向こう側で喰われているのも女性警察官だった。
 義人は『北海道羆研究センター』の展示にあった、羆に喰われると言うことがどういうことなのか覚えている。
 奴らはライオンやトラなど他のネコ科の肉食獣と違い、獲物に止めを刺すようなことをしない。その強靭な力で押さえつけ生きたまま喰うのである。
 (ダメだ! 恵理さんをそんな目に遭わせて堪るか! )
 今、ヌイは食事に夢中である。
 (この場を脱出して、おそらく家の中にいる恵理さんに危険を知らせることはできないのか? )
 義人は、物置と母屋の隙間まで戻ることはできないだろうかと振り返ってみた。
 その距離は一〇メートルも無いが、もし移動中に気付かれたら恵理のいる所に辿り着く前に羆に追い付かれてしまうに違いない。先ほどヌイに気付かれずに接近できたのは偶然以外の何ものでもなく、おそらく二度目は無いだろう。
 (じゃあ、どうする? )
 義人は暴挙に出ようとしていた。
 この場で大声を出して恵理に危険を知らせるのだ。
 そうすれば、羆が義人に気を取られているうちに恵理は車に戻ることは無理でも、家の中で自らの安全を確保する手段が見付けられるかもしれない。
 (俺は、そう簡単に殺られないし! )
 義人は両手で火搔き棒を強く握りしめた。
 それが巨大な羆を相手に通用する武器とは思えないが、自爆覚悟の特攻ならば多少の痛手ぐらいは与えてやれるだろう。
 (それで、恵理さんが助かるなら良いじゃん! )
 義人が意を決して息を深く吸い込んだ、その時、
 「ねぇーっ、義人くーん! 何処で何してるのーっ? 」
 それは恵理の声だった。
 外で何が起きているのかを知らずに、なかなか戻って来ない義人を心配して呼ぶ声。
 「義人くーん? 」
 義人は呆然としてしまった。
 あまりのタイミング悪さに、頭の中が真っ白になり、自分が声を出してヌイを引き付けるはずだったのに恐慌状態に陥ってしまった。
 ブウォッ!
 ヌイが恵理の声に気付いた。
 小屋の裏にいる義人からは見えなかったが、ヌイは食事を止めて新たな獲物の声がする方に向かって歩き出したらしい。巨体が雑草を踏みしめるミシミシと言う音が義人が隠れている反対方向に遠ざかって行った。
 (この、くそったれ! パニクってる場合かよ! )
 義人は、恵理を救いたい一心で自分の頬を引っ叩き、強引に正気を取り戻した。
 そして絶叫した!
 「恵理さーん! 危なーい! 羆だーっ! 逃げてーっ!」
 叫ぶだけではない。
 ヌイを呼び戻そうと小屋のトタン屋根を火搔き棒で連打した。
 しかし、ヌイは戻って来ず、義人の叫びを打ち消すようなガラスの割れる音、そして恵理の悲鳴が家の正面から聞こえてきた。
 「くそっ! 絶対に恵理さんを助ける! 絶対! 絶対! 絶対! 」
 自分に暗示を掛けるように唱え続けながら、義人はヌイの後を追って駆け出したのだが、
 「うわっち! 」
 ヌイが喰い散らかした女性警官の遺体の一部に躓いて転びかけてしまった。
 膝を突きそうになったが何とか持ち堪えたので、そのまま駆け出そうとしたのだが、
 「何だ? この堅いモノ? 」
 躓いた遺体の一部が人体にしては堅過ぎた。
 (もしや武器では? )
 そう直感したからと言って、血塗れの人体の一部など正気ならば絶対に触れられなかったと思う。だが、今の義人は半分狂気に取り憑かれていたので気にならなかった。
 「これは足なのか? 足に何か付いてるな? 」
 捥ぎ取られた女性警察官の足に革製の大きなホルスターがぶら下がっていた。
 「拳銃か? いや、散弾銃だ! 」
 義人は思わぬ発見に狂喜し、足ごと持ち上げたホルスターのボタンを毟り取って、散弾銃を抜き取った。
 「警察及び軍用散弾銃。こいつの使い方ならデモ映像で見て知ってるぞ! 」
 全長一メートルほどのポンプアクション式の散弾銃である。小型軽量に作られた銃のはずなのだが、生まれて初めて銃を持つ手にはずっしりと重く感じられた。
 もちろん義人は銃など撃ったことは一度も無いが、散弾銃ならば適当に狙っても近距離なら外れないだろうとイメージした。
 装弾は満タンで五発丸ごと残っていたが、ヌイに襲われたとき女性警察官はこれを使う余裕も無いままに殺されてしまったのだろう。せっかく、羆対策として装備されていた散弾銃だったろうに残念なことである。
 義人は女性警官の遺体に心の中で手を合わせた。
 そして、一声雄叫びをあげると、散弾銃と火搔き棒を抱えて再び猛然と駆け出した。


  [二二]


 「もう、完全に雑草の館ね。」
 実家の敷地一帯が種類も分からない雑草の楽園になってしまっており、玄関先の植木鉢の中も例外ではなかった。置きっぱなしの鍵を取り出すには植木鉢の雑草抜きをしなければならない。
 (水道が止まってるから、手が洗えないのよねぇ。)
 車の中にウェットティッシュがあったが、松葉杖を突いて取りに戻るのは面倒臭い。
 しょうがないので、草を抜き終わった後の汚れた手はポケットに入っていた普通のティッシュで拭き取るだけで我慢した。
 (未だ四月になったばかりだってのに、雑草って元気が良いのね。何の断りも無く人の家に種巻いて住み着くなんて迷惑だわ。)
 世の中には「雑草のように逞しく生きる」なんて言葉があるが、「雑草のように図々しく生きる」の方が言い得ていると思う。
 (まあ、手入れしない家主の責任なんだけどね。)
 両親も恵理と同じくらい実家には寄り付いていないので、誰も管理していない家がどうなろうと文句を言えるような筋合いは無かった。
 (もう、管理なんて無理だから、早めに手放しとけばねぇ。)
 数年前までは実家を売却する話もあったが、当時名乗りをあげていた売却先が中国系の外資に繋がる不動産会社であり、付近の不動産を買い占めて再開発し、例のメガソーラーシステムと関連施設を設置するという計画が明らかだったので、殆どの住民が土地を売り渋った結果、外資の目論みは妨げたが、その後は不便なので誰も欲しがらない空き家の集落が丸ごと残ってしまった。
 住民たちは、
 「いずれ自然に還るから良いんだよ」
 と、言いながら皆が引っ越して行ってしまった。
 本当は家も土地も売り払って引っ越しの資金にできれば良いと思っていただろうに、最終的には全てを置き捨てざるを得なくなった住民にとって、それは空しい慰めの言葉だったに違いない。
 (ダメね。ここに来る度に感傷的になっちゃうわ。義人君が戻ってくる前に窓ぐらい開けとかなきゃ。)
 恵理は植木鉢の中から取り出した、近頃ではあまり見掛けなくなったシリンダーキー用のステンレス製の合鍵で玄関のドアを開けた。
 (うん、かなり埃っぽい。) 
 ずっと閉め切っているのに、どういう分けか空き家には土埃が溜まってしまう。
 北海道の現代住宅は保温効果を高めるために密閉度は高いはずなので、人が頻繁に出入りしているのならともかく、土埃が何処から侵入してくるのか、さっぱり分からない。
 そんなことに不満を覚えながらも、既に埃に塗れた床を裸足で歩くわけにはいかないので恵理も土足で玄関の段差を越え、新たな土埃を持ち込んだ。
 床一面にブルーシートが敷いてあるので、直に床板を土足で踏んでいないことがせめてもの気休めである。
 (せっかく来たんだから、掃除したほうが良いんだろうけど。)
 現在の足の状態では掃除は無理なので諦めるしか無かった。
 せめて空気の入れ替えでもしてあげようと、恵理は一階の大きな窓を全て解放した。二階の窓も開けたかったのだが、ヨタヨタしながら一人で階段を登ったら義人に怒られそうなので、戻ってくるのを待つことにして階段に腰を下ろした。
 (でも、意外にしっかりした家よね。)
 恵理は、家の中の状態を観察しながら思っていた。
 彼方此方汚れているしクモの巣も見えるが、一〇年以上も空き家になっている割には痛みも少なく、キチンと掃除さえすれば最低限のリフォームで居住が可能になりそうな気がした。
 だが、ノスタルジーだけでこの家に住みたいかと自分に問えば、
 (ちょっと、それは無理かな。)
 最近の北海道は暖かくなったとはいえ、一月と二月に限っては積雪もあり、最高気温が〇度を下回る真冬日も訪れる。ましてや、ここは高台という名の山の中腹である。同じ札幌市内でも平地とは違い一軒家の維持管理は優しくない。
 六〇代後半の両親は絶対に戻る気はないだろうから、今後に住む可能性が残されているとしたら自分だが、雪かきと凍結路面の上り下りに苦労しながらの通勤は考えられない。
 (でも、二人なら? )
 恵理の頭の中に、義人と一緒に実家で暮らすホノボノとした絵が浮かんでいた。
 リフォームされ新築並みに生まれ変わった家のリビングで、温かな暖炉の火に癒されながら義人に肩を抱かれている自分。
 (義人君は若いから体力ありそうだけど、東京の人だから、こんなとこに住むのは嫌だよねぇ。もっと便利なとこじゃないと・・・? )
 そこまで考えてから、ハッと我に返った。
 (なっ! なーに、考えてんのよ! )
 恵理はドロドロに甘い妄想を慌てて打ち消した。
 (どう考えたって二人で真冬に汗水流しながら雪かきしてる風景でしょ! って、そもそも義人君が一緒にいるって前提はどうなのよっ! )
 未だ大学を卒業していない義人と結婚生活を送っている風景など、まったく現実的でない。そもそも東大まで卒業して、義人が北海道で就職する意味が無い。
 (義人君は東京の人か・・・ )
 札幌と東京。
 飛行機なら僅か一時間半の移動距離だが、社会人にとっては決して近くはない。
 警察官である恵理の仕事は休みが不安定である。私服警察官なので基本的に日勤だが、今回の羆襲撃事件のようなことがあれば代わってくれる人がいるわけではないので休日は容赦無く潰されてしまう。義人も就職してサラリーマンになれば、勤め先の都合に従わざるを得なくなるだろう。
 頻繁に札幌と東京を行き来する暇など、お互いにあるはずが無い。
 会う機会が少なければ、どんなに好きでも気持ちは離れてしまうかもしれない。
 そこのところを考えると歳の差以上に気持ちがシュンとしてしまう。
 (あーあ、私が東京に行っちゃおうかなぁ。確か、埼玉県警とか千葉県警で交換派遣の希望者を募ってたっけ。)
 警部補の自分が派遣の対象になるか不明だが、義人が喜んでくれるなら本気で考えてみようかと思った。
 (それにしても遅いわね。)
 義人は家の裏側を見てくると言ったきり、なかなか戻って来ない。
 (お巡りさんがいたって言ってたけど・・・? )
 どうして、こんな誰も人の住んでいない場所に警察官が足を運ぶのか?
 (近くにパトカーも普通の自動車だって停まってなかったけど、警察官が徒歩で登ってきたって言うの? そんな用事ってある? )
 義人は見間違えたのかも知れない。
 (警察官と見間違えるって何よ? それに手招きしてるって言ってたっけ? )
 様子を見に行ってみようかと思ったが、
 (松葉杖でウロウロしたら、また心配するし。)
 もう少し待つことにした。
 それにしても、一人で黙って階段に腰掛けているだけだと、ホンの僅かな時間も長く感じられた。自分の実家とはいえ人里離れた空き家などでじっとしていると、静か過ぎて気味が悪くなる。
 (でも・・・何か変な音するわね。)
 ガタガタとトタンを叩くような音と、家の壁に何かがぶつかるような音だった。
 付近に人気が無く幹線道路からも離れた高台の空き家で物音がすると言ったら、迷い込んだ動物の仕業か、もしくは幽霊ぐらい?
 (幽霊は勘弁して! )
 一人ぼっちで空き家の階段に腰掛けて想像すべき話ではない。
 物音は家の裏側から聞こえるので、たぶん出所は義人だろうと思った。もし警察官がいたのだとしたら、一緒に何かの作業を手伝っているのかもしれない。
 (この家の裏で作業って何よ? )
 恵理は不思議に思って首を傾げた。
 (やっぱ、見に行ってみようか? )
 立ち上がり掛けたが、直に考え直した。
 わざわざ義人を心配させに行かなくても、この場で大声を出したら聞こえるだろう。
 これだけ静かなら少し大きめの声を出しただけで、辺り一帯に響き渡るかもしれない。
 そこで、早速大きな声を出してみた。
 「ねぇーっ、義人くーん! 何処で何してるのーっ? 」
 直に返事は聞こえないので、もう一度呼んだ。
 「義人くーん? 」
 すると、物音が止んだ。
 (気付いたのかな? )
 そのまま、耳を澄ませていた。
 間もなく、家の外で雑草と砂利を踏む足音が聞こえてきた。
 (あ、戻ってきた。)
 返事ぐらいすれば良いのにと思いながら、恵理は階段に座ったままでいた。階段は玄関を入ったら直ぐ目の前にあるので、大人しく座って待っていれば義人がやってくるはずだった。
 (でも、来ないな? )
 玄関の場所が分からないということはないだろう。
 (変だ・・・ )
 恵理は、いつの間にか鳥肌を立てている自分に気付いた。
 何やら、得体の知れない不安に襲われているらしい。
 (この感じ、雨水管の中でもあったような? )
 その時、壁一枚挟んだ隣にあるリビングで、アルミサッシを乱暴に叩く音がした。
 「あれ? 」
 恵理は義人が自分を呼んでいるのだと思った。
 義人の他に窓を叩く者がいるなどとは考えもしない。
 用事なら玄関に回ってきて言えば良いのにとか、窓を叩かなくとも声を掛けてくれれば良いのにとか、当たり前の疑問も湧いて来なかった。
 呼ばれたのだから行ってやらなければならないし、妙な不安は義人の顔を見て吹き飛ばすに限るなどと思っていた。
 恵理は松葉杖を突いてゆっくりと立ち上がり、
 「はーい! 」
 と、返事をしながら階段の横にあるリビングへ通じるドアを開けた。
 「う・・・え? 」
 恵理は自分の目がドアの向こうに見たモノが何であるか、直には理解できなかった。
 何か大きな茶色い毛の塊がリビングの窓から侵入しようとしていた。よく見ると、その毛の塊には小さな黒い目とヒクヒクと動く鼻、尖った白い歯がズラリと並んだ大きな口が付いている。しかも、その口の周りは真新しい赤黒い血で湿っていた。
 「そ・・・そんな! そんな! 義人君? 」
 恵理は、毛の塊が羆の頭部であることを理解した。尋常ではない大きさと、顔の半分に治りきっていない火傷の跡があることから、その羆がヌイであることも直感した。
 「あ・・・ああ。」
 リビングのドアからぎこちなく後退りしながら、激しい絶望に襲われていた。
 「義人君? 義人君は殺されちゃったの? 」
 ヌイの口の周りを湿らせているのが誰の血であるのか、恵理には義人以外に思い付かなかった。この辺りに人はいない。誰かが通りがかることだって殆ど無い。そんな場所でヌイが真新しい血を滴らせていたら、義人以外の誰の血だとも思いようが無い。警察官がいたかもしれないなどと、都合の良いことは考えもしなかった。
 「ダメ! ダメだよ、嫌だよ! そんなの嫌だ! 」
 涙が溢れてきて止まらない。
 込み上げてくる悲しみと怒りで全身が震えていた。
 フゴッ! ブフッ!
 以前にも聞いたことのある荒く息を吐き出すような唸り声をあげながら、ヌイの視線はリビングのドアの向こうで後退りをする恵理の姿を捉えた。
 ブウォーッ!
 ヌイは獲物を圧倒する獰猛な咆哮を轟かせると、その全身を強引に窓枠に突き入れた。
 忽ちガラスが粉砕され、アルミサッシが床に落ちる。
 恵理は悲鳴をあげながらリビングのドアを叩き付けるように締めた。
 だが、薄っぺらなドア一枚で羆を防げるわけが無い。
 おそらく一撃で破壊されてしまうだろう。
 (二階へ! )
 恵理は階段を登った。四つん這いで段にしがみつくようにして登った。
 松葉杖を使うのは忘れてしまっていた。
 足の怪我を構っている余裕は無かった。
 (痛い! )
 身体の芯を突き抜けるような激しい痛みが襲ってきた。
 かなり回復してきていたとはいえ、全治一ヶ月と診断された怪我である。真面に動かしたら激痛が襲ってくるに決まっていた。
 (でも、動く! )
 骨が折れていたり、筋が切れていたりするわけではないので、痛みを我慢すれば動かすことはできる。
 (今は、それを幸運だと思おう! )
 背後でドアが圧し折られる音がしたが、恵理は振り返って確認することなどせず一心不乱に二階を目指した。
 おそらく、ヌイは巨体が邪魔をして幅一メートルも無いドアを抜けるには時間が掛かるはず。それまでに二階に辿り着けば助かるかもしれない。
 (こんな木製の梯子みたいな直階段、一〇〇〇キロ以上もある羆が登って来れるわけない! 二階に辿り着いたら羆の手の届かない廊下の一番奥まで這って行けば・・・そしたら・・・ )
 恵理は階段を登りながら声をあげて泣いていた。
 逃げながら顔を涙でクシャクシャにして叫んだ。
 「助かったって、私一人で助かったって、義人君がいないじゃない! 義人君が一緒じゃなきゃ嫌だ! 嫌だよ! 」
 誰が聞いているわけでもないし、誰を憚る必要も無い。
 恵理は心の声を隠さずに叫び続けていた。
 「どうしてよ・・・どうしてなのよ。」
 いつの間にか二階に辿り着いていた。
 「馬鹿じゃないのっ! 」
 必死で逃げている自分が空しくなった。
 空しいと感じながらも、今もヌイから逃れようと廊下を奥へと這って行く自分が、どうしようもなく無様に感じられた。
 間もなく、木製の階段が崩壊する音が聞こえ、家全体を揺るがす地響きが起こった。やはり木製の階段はヌイの体重を支えきれなかったらしい。
 恵理は這うのを止めた。
 「こんなとこで、私一人でどうするのよ・・・ 」
 一階からはヌイの唸り声が聞こえる。メキメキと壁や柱の折れる音もする。
 ヌイは家を壊そうとしているようだ。
 (やっぱ、ヌイって頭良いんだな。)
 何とか二階に這い上がっても、家が壊されてしまったら、これ以上逃げようが無い。崩れる家の下敷きになるか、待ち構えているヌイに喰い殺されてしまうだろう。
 (そか、私も死ぬのか・・・ )
 義人が死んでしまったのなら、それでも構わないと思った。
 「私も行くから、待っててね。」
 恵理は嗚咽を繰り返しながら小さく呟いた。
 壁や柱の壊れる音が激しくなってきた。
 恵理が踞っている廊下の床に、下から突き上げられる激しい振動が伝わってきた。
 数回の突き上げによって膨れ上がった床板が、恵理の背後で爆弾でも破裂したかのように吹き飛び、遂に二階の廊下に大穴が開いてしまった。
 ブウォッ! ブウォーッ!
 凄まじい咆哮とともに鋭い爪が並んだヌイの真っ黒な前足が穴の縁に掛かり、続いて牙を剥き出して大口を開けた頭がヌッと現れた。
 「なんて大きいの! 」
 振り返った恵理の目の前には、巨大な羆の顔がある。
 ヌイが一階の床に足を付けて立ち上がっているのだとしたら、二階の床からはみ出した頭の天辺まで三メートル半以上もあることになる。
 「バケモノ・・・ 」
 恵理は唖然としながら間もなく訪れるであろう死の激痛を覚悟した。


 家の中では壁や柱が砕ける激しい騒音が鳴り響いていた。
 まるで今が地震の真っ最中であるかのように、家全体がギリギリと軋む不快な音をたてながら揺れている。
 (家をぶっ壊す気か? )
 大急ぎで家の正面に回り込んだ義人が最初に目にしたのは、ヌイの巨体が突き抜けたと思われる壁に開いた大穴だった。
 (バケモノめ! アルミサッシもモルタルの壁もお構い無しかよ! )
 その凄まじい破壊力に一瞬怯んだが、今は恵理を助けるために一秒でも惜しい。
 (恵理さん! 無事でいて! )
 散弾銃を構え、大穴から家の中を覗いたがヌイの姿は見えず、恵理もいない。
 だが、奥の方から家を突き崩そうとするかのような破壊音が聞こえている。
 (未だ、恵理さんを捕まえてないんだ! )
 ヌイが暴れているのは恵理を捕らえるのに苦労しているからに違いない。
 (間に合ってくれ! )
 大穴の位置は高過ぎて、武器を抱えて乗り越えるのに手間取りそうだと判断した義人は迷わずに玄関を目指した。
 (ここだ! ここにいる! )
 玄関のドアノブに手を掛けた時、その向こうにヌイの巨体があることを確信した。
 全ての騒音は、明らかにドアの直ぐ向こうから聞こえてくる。
 だから、力任せに、ドアを引き千切らんばかりに開いた次の瞬間、迷わず散弾銃のグリップを握り正面に突き出すようにして構え、引き金を絞った。
 「ぬぉーっ! くそたりゃーっ! 」
 デタラメな気合いと共に発する銃声。
 その瞬間に確認したのは二つだけ。
 (射線上に恵理の姿は見えない! )
 そして、
 (やっぱり、いただろーがっ! この、くそったれーっ! )
 それだけである。
 ヌイは玄関の入り口から三メートルほど先で立ち上がり、天井に頭と片方の前足を突っ込んで何やら荒れ狂っていた。
 だから義人が見たのは凄まじく巨大な尻だった。
 その大尻目掛けて生まれて初めての銃を撃った義人は、想像以上の反動に両腕を煽られて、鼓膜が破れそうなほどの銃声に竦みながらも初弾をヌイに命中させた。
 直径一八ミリの実包が炸裂し、吐き出された散弾は全てヌイの肉に食い込んだ。
 しかし、義人はその威力に物足りなさを感じていた。映画などで見知っている散弾銃は、もっと破壊力があり、広範囲に多量の散弾を撒き散らしていたような気がする。
 単に義人は知らなかっただけだが、警察が使用する実包は対人用の九粒弾であり、僅か三メートルの距離では散弾は五センチも広がらないということだった。但し、義人がイメージしていた鳥撃ち用の一〇〇粒弾よりも九粒弾の方が威力はあるので、散弾はヌイにそれなりのダメージを与えているはずだった。
 ズン! と、床を揺らしながらヌイはそれまで一階の天井に引っ掛けていた上体を下ろして四つん這いになり、そのまま身体を半回転させて義人と向き合った。
 互いの目が合った後のホンの数秒、義人とヌイの動きが止まっていた。
 義人は散弾銃が与えたダメージを確かめようと目を凝らしていたのだが、ヌイは目の前にいる人間が雨水管の中で自分に炎を浴びせた憎い敵であることを思い出していたのである。
 ブウォッ! ブウォッ! ブゥブウォーッ!
 ヌイの咆哮には激しい憎悪が籠っていた。
 (こいつ! ちょっとも応えてねぇのか? )
 ダメージを受けていないはずは無いのだが、そんなことよりも義人に対する憎悪と敵意が勝っていたのかもしれない。
 ヌイは火傷で爛れた眉間に深い縦皺を刻み、口角をビリビリと震わせながら義人に向けてジワリと一歩を踏み出した。
 ヌイの迫力に押されるようにして義人は逆に玄関ドアに向かって一歩後退した。
 後退しながらも、ハンドグリップをスライドさせて次弾を装填する作業を忘れなかったが、極度の緊張状態にある義人は吐き出された使用済みの実包が顔にぶつかったのにも気付かずにいた。
 ヌイがさらに一歩を踏み出す。
 推定一〇〇〇キロ超の体重を奇跡的に支えている床板が不快な音を立てて軋んだ。
 (こいつ、なんで一気に掛かって来ない? )
 不思議に思ったが、ヌイは雨水管の中で自分に痛手を負わせ、さらに今は散弾を撃ち込んでくれた義人を強敵と判断し、決して侮らずに慎重に仕留めようと考えていたに違いない。
 しかし、その警戒が義人に攻撃の余裕を与えてくれた。
 義人は散弾銃をヌイに向けて突き出し二発目を撃った。
 煽られた銃身を元の位置に構え直し、ハンドグリップをスライドさせて三発目を装填すると、吐き出された使用済みの実包が床に落ちる前に再び引き金を絞った。
 距離が近く、的が呆れるほど大きいので、射撃の未経験者である義人でも外しようが無い。二発目の散弾はヌイの火傷で爛れた右顔面を破壊し、三発目は右前足の先を吹き飛ばした。
 ブギィーッ!
 これには、さすがのバケモノも痛みに堪え兼ねて悲鳴をあげた。
 しかし、まだまだ致命傷にはなっておらず、ヌイの歩みは止まらなかった。
 しかも、手負いの限度を超えてしまったらしい。
 ヌイは今までの慎重さなどかなぐり捨て、攻撃本能を只管剥き出しにして義人に向かって突進してきた。
 僅か三メートルの突進! 到底避けられる距離ではない。
 (どわっ! )
 義人は四発目を撃ちながら、それが命中したのか外れたのかも分からないまま、後ろ手に玄関のドアを開けて外に飛び出した。ダイビングしたと言った方が良いかもしれない。
 ヌイは義人を追って一旦閉まり掛けた玄関のドアに体当たりし、これを吹き飛ばした。
 ブウォーッ!
 玄関から少し離れた場所に転がったまま立ち上がれずにいる義人を憎々しげに見下ろしたヌイは、自らの勝利を確信しているようだった。
 (ミスった! )
 義人は足を挫いてしまっていた。
 ピロティの段差に足を取られ、転倒してしまったのである。
 大した怪我ではないが、現状では致命的な怪我だった。
 この窮状において自力で移動ができない。
 (ここまでなのかよっ! )
 玄関から門へと続く石畳の真ん中辺りにガックリと膝を突き、義人は自分の敗北を覚悟した。
 (終わった・・・もう無理だ・・・これで死んじまうのか。恵理さんが生きてるのか、死んでるのかも分からなかった。無事なのか、大怪我してるのかも分かんない。もう最後だってのに、顔を見ることも敵わないなんて・・・ )
 死を前にして見るとか言う走馬灯は浮かんで来なかった。
 頭の中は恵理で一杯になり、傷付いた彼女が今何処でどうしているのかを考えたら、わけも分からず、意味も無く、無性に可哀想になって涙が溢れてきた。
 (ごめん! 俺、もう傍に行ってやれないや。)
 強く噛み締めた奥歯がキリリと鳴った。
 しかし!
 未だ運は残されていた。
 この世に神様がいるのだとしたら、最後の機会を義人に残してくれていたらしい。
 「・・・っ? 」
 義人は自分の目を疑った。
 勝利を目前にしたはずのヌイが動けずにいるのだ。
 ヌイは、その巨大な上半身を玄関の外に突き出したまでは良かったが、意外に頑丈だったドアフレームに嵌ってしまっていたのだ。
 (やった! )
 ヌイの力ならば多少暴れるだけでドアフレームごと玄関の壁を破壊して外に出て来られるが、僅か数秒の足止めが義人に逆転の機会を与えた。
 その機会を瞬間的に捉えた義人は不十分な体勢であるのも構わずに散弾銃を構え、透かさず最後の実包を炸裂させた。
 義人とヌイの間隔は五メートル前後。
 鼓膜を圧する銃声とともに発射された散弾はヌイの鼻っ柱を真正面から砕いた。
 体勢を整えきれなかった義人は発射の反動に耐えきれず後方に飛ばされたが、
 「ざまぁ、くそがぁーっ! 」
 逆転の勝利を確信し、歓声をあげた。
 この一撃、間違いなく致命傷だったと思う。
 もう、ヌイには目も耳も鼻も無い。
 その巨体は間もなく命を失って義人の目の前に崩れ落ちるはずだった。
 それなのに?
 グシャグシャになった顔面の中で、唯一原型を保っていた最後の武器である血塗れの牙を剥き、ヌイは獣の執念だけで義人の位置を探り当て、最後の力を振り絞った一撃を食らわせようと、身体を締め付ける堅いドアフレームを玄関の壁から引き剥がし、そのまま引き摺って突進を再開した。
 (往生際悪過ぎだろぉが、バケモノめ! )
 致命傷を負いながらドアフレームを引き摺ったヌイの速度は明らかに衰えていたが、その圧倒的な質量に脅威が残されていた。
 弱っているヌイの突進力でさえ、人間は軽く振れただけで一溜まりも無く吹き飛ばされてしまうだろう。
 ン! グウォー!
 ヌイの怒りに燃えた最後の咆哮。
 しかし、二転三転する窮地の連続で、もはや義人は恐怖を感じる感覚が完全に麻痺してしまっていたらしい。
 ヌイの咆哮は只の喧しい騒音でしかなくなっていた。
 「てんめぇーっ! こんのくそやろぉーがぁーっ! 」
 負けじと発した絶叫がヌイの咆哮を打ち消した。
 (殺られて堪るかっ! てめえの息の根は俺が止めてやる! )
 恐怖を制した義人は全弾撃ち終えた散弾銃を手放して、まるで命を投げ出してしまったかのように石畳の上に正座をしていた。
 だが、その目には決して諦めの色は無い。
 これまで以上の激しい殺意を湛えてヌイを睨んでいる。
 (冷静だ! 冷静だ! 冷静になれば勝てる! )
 義人は自分に強く暗示を掛けて、呼吸を止め、心臓の鼓動を限界まで押さえ込んだ。
 (一瞬だ! 一瞬で決める! )
 そう決心して待ち受ける義人の姿はヌイに見えていない。
 だが、的確に義人の位置を捉え、その上体を上下左右に振り回し、石畳を震わせながら迫ってくる。
 あと一歩!
 その巨体をもって義人を弾き飛ばすべく、ヌイが最後の勝負を決しようとした。
 その一瞬!
 義人の右肩がピクリと動き、片膝が立った。
 同時に黒い影が横に一閃し、ビシッと肉を切り裂く鞭のような音が発せられるとともに黒い鮮血が飛び散った。
 ヌイの喉が切り裂かれていた。
 それは義人が居合い抜きの要領で放った火搔き棒による一撃だった。
 長さ一メートルほどの火搔き棒の間合いに入った瞬間、二股に別れた鉤状の先端が突進してくるヌイの喉を切り裂いたのである。
 ブフィーッ!
 苦しげに叫ぶヌイは既に痛みなど感じてはいない。
 だが、突然の衝撃に足が止まった。
 間髪入れず!
 義人は火搔き棒を両手でしっかりと握り締めると臍の辺りで構え、それを一直線に前へ突き出した。
 「ふんっ! 」
 と、一声力んだ途端、
 ガチッ! 
 と、鈍い音がした。
 義人の手に、ヌイの口の中に突き刺さった火搔き棒が牙を砕いた感触が伝わってきた。
 勝負は決した!
 火搔き棒の鋭利な先端はヌイの首の後ろに抜けていた。


  [二三]


 目の前にはチラチラと星が飛んでいた。
 首の後ろがズキズキと痛む。
 どうやら、軽い酸欠状態になってしまっているらしい。
 萎んだ肺が酸素を求めるので、まるでポンプのように肩と背中が上下していた。
 果たして数秒なのか、それとも数分なのか分からないが、義人の意識は暫く飛んでしまっていたらしい。
 正気に戻ってから最初に試みたのが、取り敢えず立ち上がってみることだったのだが、
 (たっ、立てねぇ・・・ )
 腰は抜けていないと思うが、足の筋や関節に力が入らない。
 折り曲げた膝がだらしなく開き、尻が地面に落ちたままの姿勢で下半身が固まってしまったようである。
 脅威が去り、全てが終わったのだということは知っていた。
 目の前で焦げ茶色の剛毛に覆われた小山が微動もせずに横たわっているのだから、それは確かなことである。
 だが、そこには何の感慨も無かった。
 自分が必死で戦い、勝利したことなど、どうでも良いことに思えていた。
 相変わらず義人の頭の中は恵理の身を案じる気持ちで一杯なので、それ以外のこと、つまりヌイを仕留めたことなど一顧だにする価値も無かったのである。
 (恵理さんを助けなきゃ! )
 義人が目指しているのは恵理の救出であり、ヌイを退治することではなかった。
 恵理を助けられなかったならば、自分が取った行動は全てが無駄以下の結果にしかならない。
 (恵理さんは死んでいない! 絶対生きてる! )
 たぶん、恵理は二階に避難しているはずだと思った。
 ヌイが天井に頭と前足を突っ込んでいたのは、そこに恵理が逃げ込んでいたからに違いない。恵理を捕らえられずにいたから、暴れて家を破壊していたのだ。
 しかし、無事でいるとは限らない。
 ヌイに襲われて逃げながら重傷を負わされたかもしれない。
 恵理は足が不自由なのだから避難には手間取ったはずで、すんなりと無傷で二階に登れたとは思い難い。
 (こんなしてる場合じゃないって! くっそーっ! )
 義人は、未だ火搔き棒のグリップと柄を握りしめたまま硬直している両手の指を膝に叩き付けるようにして外すと、取り落とした火搔き棒をもう一度拾って、それを杖代わりにして立ち上がろうとした。
 (くうっ、痛ってぇなぁ。)
 ヌイに追われて玄関を飛び出した際、ピロティの段差を踏み外して挫いた右の足首がズキリと痛んだ。
 (大丈夫。動いてんだから、腱が切れたわけじゃない。)
 たぶん、恵理と同じく捻挫か肉離れ程度の軽傷だろう。
 (くそっ! 未だ足に力が入んねぇしよぉ。)
 それでも義人に、じっとしているつもりは無い。火搔き棒を握ったまま四つん這いになり、両手で身体を引き摺るようにして玄関を目指した。
 無理矢理に身体を動かしたことが良かったのかもしれない。
 玄関に辿り着いた頃には、何とか火搔き棒を突っ張って立ち上がるぐらいはできるようになっていた。
 そこら中にガラスやモルタルの破片が散らばっているので、できれば家の中での四つん這いは避けたい。
 義人は玄関脇の壁に肩を付けて体重を預け、右手に握った火搔き棒と左の足を踏ん張って立ち上がった。
 (おおっし、立てるぞ! 問題無し! )
 全然問題無しなわけが無いのだが、生きていて動けていて恵理を探すことができるのなら、それで事足りると思った。
 後は体力さえ維持できれば何とかなる。
 幸いというべきか、片手で火搔き棒を突いている身にはヌイのおかげでドアが吹き飛ばされ、素通しになった玄関は都合が良い。義人は痛みを無視して走り出したくなる気持ちを抑えながら、慎重に足を進めながら元は玄関だった大穴を潜った。
 足下はジャリジャリと音を立てる細かなガラスの破片だらけだったので、ここで転倒するわけにはいかない。
 (・・・くっ! )
 家の中の破壊の跡は凄まじかった。
 玄関先から見える範囲の壁や柱はほぼ全壊していた。
 壁が失われているので元々の屋内レイアウトが想像できず、柱の支えを失った天井の一部が傾いていた。床を見るとヌイが踏み抜いた穴だらけで、残されている床板も鋭い爪で抉られ彼方此方捲れ上がっていた。
 こうした惨状の中でも、最も凄まじい破壊の跡が見られたのは、くの字に折れ曲がって床に倒れ込んでいる木製階段の残骸だった。
 (恵理さんを追い掛けて二階に登ろうとしたんだな。)
 木製のストリップ式階段ではヌイの体重を支えきれずに折れてしまったようだ。
 (くそっ! これじゃ俺が二階に上がれないじゃないか! )
 階段が続いていたはずの二階への入り口は、ヌイに掻き回されて大きく広げられてしまっていたが、下から覗いただけでは恵理の姿を見ることはできない。
 「恵理さん! 恵理さぁーん! えーりーさぁーん! 」
 義人は何度も叫んだ。
 生きているのなら返事をして欲しい。
 動けるのならば顔を見せて欲しい。
 それが難しいならば、せめて声を聞かせて欲しい。
 自分はここにいる!
 もう脅威は去った!
 無事ならば、生きてさえいてくれたならば、恵理を抱きしめてやれるのだ。


 近くで銃声が連発したような気がする。
 今し方まで、二階の床を突き破って恵理を捕らえようと大暴れしていたヌイの姿が見えなくなっていた。
 だが、階下では相変わらずの破壊音が聞こえている。
 ガラスやモルタルが砕け、木材が圧し折れ、度々大きな振動が伝わってきた。
 (まだ、壊し足りないっての? )
 ヌイは、恵理を二階から引き摺り下ろすよりも、家を丸ごと壊して転落させようとしているのかもしれないと思った。
 二階から転落し、崩れる家の下敷きになったら十中八九生きていられるわけが無い。
 但し、運が良ければ即死だろうから、生きたままヌイに食べられるという苦痛は味合わなくて済むかもしれない。
 (ついでに、あのバケモノも潰れる家の下敷きになっちゃえば良いのに。)
 そうすれば、恵理の死は無駄にならずに済むし、何より義人の敵討ちもできる。
 だが、そんな都合の良い結果にはならなさそうな気がする。
 ヌイは賢いらしいので、自分が潰されずに済むよう工夫して家を壊しているに違いない。
 (もう、義人君のこと考えたら、また涙が出てきちゃうじゃない! )
 もう、あれこれ考えるのが嫌になったので早く終わりにして欲しかった。
 (・・・? )
 いつの間にか、階下が静かになっていた。
 さっきまでは解体工事現場にいるような騒音が続いていたのに、今は恵理が鼻水を啜る程度の音が何にも邪魔されること無く聞こえている。
 (どういうこと? )
 気にはなったが、立ち上がって確かめることはできなかった。
 動きたくても身体に力が入らなかったし、足が痛くて立ち上がる気にも這いずる気にもならなくなっていた。
 このままじっとしていれば、そのうちに状況は伝わってくるのかもしれないと思った。
 (ヌイが立ち去ってしまったとか? )
 その可能性が浮かんだが、有り得ないと思った。
 羆の執念深さについては『北海道羆研究センター』の展示でも学んでいたが、あと一歩で手に入るはずの獲物を放置して立ち去るわけがない。
 (どうせ、その辺に隠れて、私が油断して出てくるのを待ってるのよ。)
 もちろん、出て行く気はない。
 自分が助かるとは思っていないが、ヌイに楽をさせてやる気にはなれなかった。
 (私を捕まえたきゃ、努力することね。)
 恵理は溜め息を吐きながら、床に寝そべった。緊張状態が続いているおかげで、座っているのも辛いほどに心身疲れきってしまっていた。
 階下に物音一つしなくなってから数分が経過した。
 寝そべりながらも耳は澄ましていたので、階下や外の変化には直に気付くはず・・・
 (階下に誰かいる? )
 ガラスを踏む音が聞こえたのだ。
 ヌイが戻ってきたのかと思ったが、そんな重量感のある足音ではない。
 (もっと軽い、これって人間の足音じゃないの? )
 ヌイなら、どんなに静かに歩いたところで床板を軋ませるだろうし、その重さで家が揺れるはずだった。
 (まさか、助けが来たの? 誰かが通り掛かったの? )
 今、階下にいるのが人間だったとしたら?
 少しも嬉しいと思わなかった。
 もし、下にやってきたのが羆の駆除作戦に参加している警察の部隊ならば、恵理は救出されるかもしれない。だが、彼らはヌイを雨水管から取り逃がしたに違いなく、そのせいで義人が殺されてしまったのである。今の恵理の心境では、そんな取り返しのつかない失態を犯した連中を同僚とはいえ快く迎えられるはずがなかった。
 万が一、通りすがりの誰かが何も知らずに立ち寄ってしまったとしたなら、これは最悪だと思った。近くに潜んでいるであろうヌイに気付かれたら殺されてしまう。
 恵理は階下に向かって警告を発しようと思ったが躊躇した。
 ここで自分が大きな声を出したら、ヌイを呼び寄せることになるかもしれない。
 ヌイが戻って来て、階下に新たな獲物がいることに気付いたら、間違いなく襲い掛かるに決まっている。
 (どうしよう・・・ )
 自分のことだけで精一杯の状況なのに、どうして他人の心配をしなければならないのかと頭を抱えた。
 その時!
 恵理は自分の耳を疑った。
 聞き慣れた、大好きな声が自分の名を呼んでいたのだ。
 (そんな馬鹿な! 有り得ないわ! )
 もしかして、これは幽霊の声なのではないかと思った。
 義人の幽霊なら出てきて欲しいぐらいだったのだが、
 (義人君が死んだって、決めつけたのは何故? )
 ヌイの口の周りに付いた血を見てそう判断したのだが、実際に義人が殺された瞬間を目撃したわけではなかった。
 (じゃあ、生きてたって言うの? )
 どうやって生き延びたのか? 
 ヌイがいることを知りながら何故大きな声で叫んでいられるのか? 
 など、色々な疑問が頭の中をグルグルと過ったが、身体は全ての思考を置き去りにして勝手に動いていた。
 四つん這いでヌイの開けた穴の傍に寄ると、その中に向かって叫んだ。
 「義人君っ! 」
 直に返事は返ってきた。
 「恵理さん! 」
 その声を聞いた途端、恵理は気絶しそうなほどの歓喜に包まれた。
 穴の下に義人が姿を表した時には、再び大きな声で泣き出していた。
 先ほどは義人が殺されてしまったと思い込み絶望と悲しみの涙を流したが、今は義人が無事でいてくれて、今、階下で自分の名を呼んでいるということに感激して、嬉しさで涙が止まらなくなっていた。
 「恵理さん! 大丈夫ですか? 怪我してませんか? 」
 義人が心配そうに声を掛けた。
 「だ、だいじょぶ・・・うん・・・ひっ・・・うん。」
 キチンと返事をしようとしているのに、嗚咽が混じって上手く話せないのがもどかしかった。
 「バケモノはやっつけましたから安心して下さい! もう羆はいませんから! 」
 義人が恵理に安心するように言った。
 ヌイを義人が一人でやっつけたなど、とても信じられるようなことでは無いはずなのだが、恵理は少しも疑わなかった。
 「どうやって? 」
 などと、聞き返すつもりも無かった。
 義人がそう言うのならば、手段など全然関係無く、ヌイは退治されたのだと決めつけてしまっていた。
 「う・・・う、うん・・・んぐっ・・・ 」
 助けに来てくれた義人に感謝の気持ちを伝えたかった。
 「ありがとう」と言いたかった。
 「愛している」と、伝えたかった。
 それなのに、舌がもつれて何も言えない。
 恵理が混乱しているうちに、義人は次の段取りを考えていた。
 「何とか、下ろす方法を考えますから、物置に梯子があったと思うので取ってきます。待ってて下さい! 」
 義人が、そう言って一旦階下を離れようとした途端、
 「嫌っ! 行ったら嫌だよっ! 」
 恵理は悲鳴をあげていた。
 もう一瞬でも義人が自分の傍を離れてしまうのが嫌だった。
 義人は恵理を階下に下ろすために梯子を取ってくると言っているのだから、恵理の悲鳴は意味の無い我が儘でしかないのだが、もう無我夢中で自分が何を言っているのか分からなくなってしまっていた。
 「直ぐ戻って来ますって。それまで、落っこちないように頑張ってて下さい。」
 義人は、そう声を掛けてから物置に向かった。
 「行っちゃ嫌だって言ってるのに・・・義人の馬鹿ぁ! うぐっ! 」
 自分がどれだけ我が儘なことを言っているのか、これっぽっちも考えていなかった。
 「ううっ、馬鹿・・・んぐっ・・・ばっ、馬鹿・・・ 」
 それから間も無くして、穴の縁に物置に置きっぱなしになっていた古いスチール製の梯子が差し込まれた。
 「あうっ! 」
 恵理は涙を拭って梯子の傍に座った。
 義人が階下から梯子を登ってくる音が聞こえる。
 (早く、早く、早く・・・ )
 それは僅か数秒のことなのに、苛々して無性に腹が立ってくるほどに長く待たされている感じがした。
 「恵理さん! 」
 間違いなく生きている義人の顔がそこにあった。
 義人が恵理を助けに梯子を攀じ登って来てくれた。
 「恵理さん? 」
 義人は驚いている。
 「あぐぅっ・・・ 」
 一生分の涙を使い切ってしまったのではないかというほど泣きまくった恵理は、当然目を真っ赤に腫らしていたのだが、何故だか口がへの字に曲がってしまっている。
 どう見ても、ご立腹の顔である。
 「え、恵理さん? 」
 義人は戸惑いながらも梯子から二階の床に乗り移り、そのまま恵理の傍に寄り添おうとしたのだが、
 「んーっ! 義人の馬鹿ぁ! 」
 恵理は叫びながら義人に跳び付いた。
 もう、愛おしいやら、安心したやら、腹が立つやら、良く分からない有りっ丈の感情をぶつけてしまいたくなったのだ。
 「うぉっとぉ! 」
 殆ど全体重を浴びせられながらも義人は辛うじて恵理の身体を受け止め切った。
 「恵理さん、良かっ・・・んっ! 」
 義人が何か言い掛けたのだが、恵理の唇が言葉を遮ってしまった。
 そのまま恵理は残されていた力の全てを出し切ってしがみついたので、義人はこれを支えきれずに後ろに倒れてしまった。
 「あっ! 」
 一旦、二人の身体は離れたが、恵理は夢中で義人の身体を攀じ登って再び唇を押し付けて、もう二度と離したくないと言わんばかりに舌を絡めた。
 そんな恵理を身体を義人の腕が優しく、但し力強く抱きしめていた。
 (ああ、気を失ってしまいそう・・・ )
 胸が苦しくなるほどに締め付ける義人の力強さが嬉しかった。
 許されるならば、この場で義人の全てを受け入れてしまいたいと思った。


 多数の被害者を出し、札幌の春を震撼させた羆襲撃事件は解決した。
 死んだ人喰い羆のDNA検査が行われ、『北海道羆研究センター』に残されていたサンプルと照合された結果、その正体はヌイであったことが確定された。
 中川前センター長の証言により松浦センター長と一部スタッフの取り調べが始まったようだが、こちらは結論が出るまでかなりの時間を要するらしく、その後の経過は伝わってきていない。
 ところで、ヌイは何故、恵理の実家にいたのか?
 ヌイは雨水管を使って狩りをしていたが、住処にしていたのは恵理の実家のある廃集落だったらしい。付近の空き家の中から新たに複数の犠牲者の遺体が発見され、そのことが判明した。
 つまり、恵理と義人は本当に運が悪かったということなのである。
 それでも命拾いしたことについては神様に感謝しなければならない。
 その後、恵理と義人は、パトカーにより病院に搬送されたが、義人の足は肉離れで全治一〇日間。恵理は治りかけていた足をもう一度痛めてしまったので、全治一ヶ月のはずが多少長引きそうとのことであった。
 この程度で済んだのは、やはり不幸中の幸いと言うべきだろう。
 ちなみに、義人の足の治療費は全額を北海道警察が負担することとなり、ついでに見舞金と感謝状まで頂いた。
 有り難いことである。
 まあ、分かりきったことだが、義人は通院に掛かる期間を札幌の恵理のマンションで過ごすことにした。
 もう、事件に煩わされること無く、二人して怪我の回復に専念しながら、のんびりと過ごすことができるだろう。


  [二四]


 午前二時の静寂。
 藍色の空を静かに通り過ぎてゆく透明な雲たち。
 カーテンを開け放した窓から差し込み、全てをモノクロに染める月灯り。
 ファンヒーターから流れ出する温かで微かな風の音。
 レモンをたっぷりと絞ったタンカレーがもたらした仄かな酔いに包まれながら、恵理はまるで世界が消えてしまったような、世界から切り離されてしまったかのような不思議な感覚に襲われていた。
 このままで良い。
 夜が明けなければ良い。
 明日も明後日も訪れなくて良い。
 この小さな部屋が世界から置き捨てられ、時にも忘れられてしまえば良い。
 そんなことを思っていた。
 望めば、叶うような気がしていた。
錯覚である。
そんなことは有り得ない。
夜は必ず明け、夢は覚め、記憶は遠ざかる。
 そんな願いが叶わないからこそ、この瞬間に価値を見出し、感情を昂らせることができるのだということも分かっていた。
 今、恵理はベッドの上に座り、義人と向かい合っている。
 この夜、義人の腕の中で七度目のキスを交わし、今も彼の吐息を首筋に感じていた。
 部屋着代わりに着ていたワンピースのボタンは全て外されてしまっている。
 解かれたワンピースの中では義人の温かな左右の手がサラサラと肌を擦る音を立て、臍から鳩尾を優しく撫でながら上へと移動し、胸の膨らみに差し掛かろうとしていた。
 (早く・・・ )
 恵理は、この瞬間を待ちかねていた。
 おそらく、義人も同じ気持ちだったのだろう。
 だから、義人の手が恵理の丸く柔らかな膨らみを覆い尽くし、その先端を刺激する指の感触を得た時、吐息は二人同時に漏れていた。
 男性に肌を触れられることを、これほど待ち遠しく感じ、これほど幸せに感じたことは未だかつてなかった。
 初めて肌を交わす喜びに身体の芯が熱くなり、感動が身体を小刻みに震わせた。
 「・・・寒いの? 」
 そんな義人の間抜けな気遣いが可笑しかった。
 「寒いわけないじゃない。」
 恵理は義人の首に手を回し、唇で耳を噛んだ。
 不意のくすぐったさに義人の背中がピクリと震えた。
 「仕返し! 」
 義人は両手で恵理を乱暴に抱き寄せると、その顔を左の胸に埋め、先端を口に含んだ。
 「んふうっ・・・ 」
 痺れるような快感が恵理の全身を包む。
 恵理は夢中で義人の頭を抱え、その快感を逃すまいとした。
 互いの肌を求め合ううち、いつの間にか肩に掛かっていたはずのワンピースはシーツの上に滑り落ち、月灯りに照らされた恵理の裸体が露になっていた。
 「綺麗・・・ 」
 義人が思わず抱きしめていた手を離し見蕩れてしまうほどに、恵理は美しかった。
 しなやかに延びた手足、上を向いた形の良い二つの膨らみ、柔らかに引き締まった腰の曲線、それらを一切の色彩や濃淡の変化が見られない白く滑らかできめ細やかな肌が妖しく彩っている。
 「そんなに見たら恥ずかしいよ。」
 恵理は肩を竦め、両手で前を隠して義人の視線を遮ろうとしたのだが、その儚い抵抗は簡単に押さえ込まれてしまった。
 「ダメです。」
 恵理は両手を掴まれて、ベッドの上で仰向けに押し倒された。
 最後に残されていたショーツも剥ぎ取られてしまい、義人の指の感触は恵理の内側にまで達していた。
 この時、恵理に抗う力は残されていなかった。
 全身に隈無く、そして絶え間なく訪れる快感に歓び、自らの内を義人に弄ばれる羞恥と嬉しさに身を捩り続けていた。
 そして、恵理の内に義人自身の熱く堅い脈動を感じた時には、自分でも呆れるほどの短い間に始めの絶頂を迎えてしまっていた。
 恵理は恥ずかしくなるほど一方的に義人の愛情を受け続けていた。
 九つも年上のプライドなど何処かに置き捨ててしまっていたらしい。
 まるで初めて経験する小娘のように無我夢中で義人にしがみつき、その堅く逞しい胸に顔を埋めていた。
 それから間も無くして、恵理に内にいた義人にも変化が訪れていた。
 不意に義人が動きを止めて、恵理から離れようとする。
 「嫌っ! 」
 恵理は義人を離すまいとして手足を絡めてきた。
 「そんな、もう危ないですよ。」
 義人が震えながら辛そうな顔をする。
 「今日はそういう日じゃないから平気なの。」
 だから離れないで欲しいと言い、恵理は義人を引き寄せた。
 その瞬間、恵理の内に義人の激しい迸りを感じた。
 最初の全てが終わり、義人は恵理の上に覆い被さるようにして荒い呼吸を繰り返していた。
 その重みが心地良かったので、恵理は暫くの間、義人を離そうとはしなかった。
 徐々に呼吸も落ち着き平常心に戻りつつあった義人が少し身体を上げて、目を瞑ったまま余韻に浸っている恵理の顔を心配そうに覗き込んだ。
 「もし、何かあっても俺的には全然構わないって感じなんですけど、恵理さん的には大丈夫なんですか? 」
 義人の問い掛けに恵理がボンヤリと目を開けた。
 「ん? だいじょぶだよ・・・ 」
 どうやら、恵理の方が義人の倍以上も疲労しているようだった。
 義人は、そんな恵理の気の抜けた表情が堪らなく可愛らしく思えた。
 「義人君。」
 「はい。」
 「よ・し・と。」
 「その方が良いです。」
 「じゃあ、私もね。」
 「え・り。」
 「はい。」
 二人はそんな無邪気な会話を楽しみながら、ベッドの上を抱き合って転がりながら笑い合った。
 「恵理さん、俺が卒業するまで待っててくれますよね? 」
 義人は恵理に耳打ちするように言った。
 「義人君が卒業する時には三〇過ぎてるよ。良いの? 」
 またまた恵理が歳の差を口にするので義人は怒った。
 「当たり前じゃないですか! 結婚するんですよっ! 」
 もう歳の差なんて義人には何の意味も感じられなくなってしまっていた。
 もちろん、恵理も同じ気持ちだった。
 意地悪するために口にはするが、既に歳の差なんて何処かへ消し飛んでしまっていた。
 そもそも、義人がヌイを退治して恵理を助けに来てくれた時、もう義人を離したくないという気持ちで一杯になり、その気持ちは未だに冷めること無く続いている。もう、どうしようもなく永遠に続きそうな気がしている。
 「怒んないのよ。」
 怖い顔をする義人の頬っぺたを優しく摘んでから、もう何度目なのか分からなくなった今夜で一番長いキスをした。
 「結婚するでしょ? 」
 「うん、義人がしてくれるならする。」
 「それで良いです。」
 義人は満足げに頷いてから、
 「俺、就活は道警目指そうかな。」
 唐突にビジョンを語り始めた。
 「え? 義人、北海道に来るつもり? 」
 いきなり道警などと言われて恵理は目を丸くした。
 「恵理が東京に来てくれるなら、それでも良いけど。いずれにしても、今回の事件で警察の仕事に興味を持ったんで勉強してみようかなって。」
 「ああ、なるほどね。」
 今回の事件、義人は民間人には有り得ないほどに関わり過ぎていた。恵理とも随分行動を共にしたので警察の業務に興味を持っても不思議は無かった。
 でも、まあ、そんなことよりも恵理は義人が北海道に来たいと言ってくれたのが嬉しかった。それが一時の気の迷いであったとしても素直に感動した。
 「でもさぁ、もし義人が道警に入ったら、私の恋人は部下ってことになっちゃうんでしょ? それは何か嫌だなぁ。」
 そんな恵理の心にも無い不満に、義人が透かさず切り返した。
 「それじゃ、キャリア目指して国家公務員の一種受けます。自分から進んで入った大学じゃないですけど、こういう時に東大卒は便利なんですねぇ。」
 義人がニヤリと笑った。
 「あーあ、生意気ぃ! 」
 恵理が義人の頬っぺたを抓ってやろうとしたら、その手を義人が素早く押さえた。
 「そしたら直に警部補だから恵理さんと同じ階級です。部下にはなりませんから。」
 「ええぇ? それはそれで何か嫌な感じぃ。」
 恵理が動きを封じられながらも、口をへの字に曲げた。
 「それじゃ、どうしろって言うんですかぁ! 」
 義人は意地悪そうに笑いながら恵理の脇腹を両手でくすぐってきた。
 「あひゃっ! だっだめーっ! あひゃっ! ひゃひゃっ! 」
 身をよじって笑い転げながら、恵理はふと思った。
 (先の話をするのは止めようね。)
 義人が卒業するのを待っていてくれと言うのなら、自分は絶対に待てる自信がある。
 でも、若い義人が二年後まで恵理を想い続けていてくれるかなど分かるはずが無い。
 義人を拘束するわけにはいかないと思っている。
 (待った結果がどうなったって良いんだ。)
 もし、義人の気持ちが冷めてしまったとしたなら、許すしか無いことだと想っている。
 (まあ、大人の女ですから。)
 そんなこと口にしたら、義人は激怒するだろう。
 ちょっと、可笑しくなった。
 義人は絶対に恵理を自分のモノにすると言い切ってくれている。
 (それで十分よ。)
 その言葉に嘘は欠片も無い。
 今、この瞬間、義人は自分を愛おしく想ってくれている。
 それが恵理にとっては、最高に嬉しいのだ。
 「ん? あや? メール来てる。」
 それまで、恵理をくすぐっていた義人の手が止まり、枕元の棚に置いていた携帯通信端末を取り上げた。ヌイに壊された通信端末を捨て、北海道警察からの見舞金で買い替えた新品の機種である。
 「こんな夜遅くにメール? 」
 「うん。何だろ? 」
 義人はビニールが剥がされていない新品の画面を指で何度かタップした。
 「ああ、なーんだ、関係無いや。」
 そう言って、再び枕元に放り出した。
 「誰なの? 」
 「ぜーんぜん、どうでも良い人です。」
 「ええ、内緒にするのぉ? 怪しいぃ! 」
 今度は恵理が義人の脇腹を鷲掴みにした。
 「ひゃぁーっ! くすぐったいってゆーか、いいっ、痛いですってぇ! つっ、爪立ってるしぃ! ご、ごめんなさいってゆーか、あやまるようなことなんてしてないってぇ! あひゃひゃははーっ! 」
 ジタバタと暴れる二人の頭の上で、義人の携帯通信端末は静かに灯りを消した。
 間際まで出しっぱなしになっていたメールの差出人は姉の恵子である。
 確かに、義人の言うように、どうでも良い内容のメールである。


                                    (完)

暗闇の牙 炎の爪

暗闇の牙 炎の爪

後編書き終わって完結しました。 人口が大幅に減少し多数の自治体が消滅してしまった近い未来。北海道札幌市のど真ん中で巨大な羆が出没して人間を襲うという奇妙な事件が発生するというお話です。アメリカ映画に有りがちな「モンスター的な動物パニック」になればと思いました。B級映画っぽい偶然の連続、有り得ない運の悪さ、そして都合の良い恋愛・・・そんな感じです。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • アクション
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-16

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 前篇
  2. 後篇