麗しのナディア-The beautiful Nadia
超長編 Nadia SAGA
【その壱 行水にうってつけの日】
「だいたい超国ユグドラシルの王女をたかが三人で護衛する旅とは、なんたる軽率! 我らが頭である賢明な獅子丸(シシマル)はなぜ反対しなかったのだ?」
縦横に警戒の眼光を発しながらばかでかい図体の若者が言った。その言葉の端には多少の皮肉が交じっていた。上半身は鍛えられた鋼を鼓舞するように裸である。
「轟力(ゴウリキ)……獅子丸に反発するのは止せ。ではいったいどれほどの人数が適当だと言うのだ。仮に百人で護衛したとしてそんな旅路、目立ってしょうがないではないか、姫がここにいると言っているようなものではないか、違うか……凡百の寄せ集めより我ら三人の手練のほうが、第一に俺が信頼できる、安心もできる」
想魔(ソウマ)の言葉など端から聞いていぬ風に轟力が続ける。
「絶世の美少女との噂だが、顔の上半分をあのような仮面で隠しているとは、実は相当な醜女(しこめ)かもしれんではないか」
「轟力、言葉が過ぎるぞ。我々は御膳試合で獅子丸に負けたのだ。俺だって国一番の剣の使い手だと思っていた鼻をへし折られれたのだ。約束なのだから、ここは獅子丸に従うしかあるまい」
想魔の言葉は最もだと分かってはいるのだが、更に納得しかねる風な轟力。
「それにだ、こんな見通しのよすぎる物陰などなにもない湖で、怠業に行水に興じるとは、いったい何を考えておるのか、あの姫は……それにここは最も危険なやつらの縄張りだぞ」
轟力を鋭い視線が睨む。
「轟力、言葉が過ぎる。姫の前だ、口を慎め!」
視線の先には長身、屈強な若者の姿があった。その名を獅子丸という。
轟力は仕方なく不満げな顔を隠しもせず言葉を噤んだ。
「獅子丸、気にせんでくれ。轟力に悪気はないのだ。ただバカ正直なだけなのだから」
想魔が言う。一見すると女性にも見える華奢なその容姿、しかし、その肉体には剛が宿る。物腰の柔らかさが、いっそう優雅な女性のそれを思わせた。
獅子丸と呼ばれた若者はそれでも微動だにせず、頑なに大きな白布を前面にあてがっていた。
その裏には王女ナディアの一糸纏わぬ姿。
凛とした朝の空気に包まれた湖のほとりで、そんな会話を知ってか知らずか、ナディアは悠然と水浴びに興じていた。
「獅子丸、背中を流して」
「はっ? わたしがですか?」
「三日も水浴びしてないのよ! いいから背中を、口答えは許さないわ」
幼い頃より、傅かれる生活が身についた言葉が返った。城にいては数十人の女官がナディアの下に付き従っていたのだ。
右手に仮面が見えた。顔面の上部を覆い隠す仮面をめったに外すことをしないのだが、さすがに行水の間は別だ。
獅子丸は言われた通りに、ほっそりとした優美な背中のラインに沿って白布をあてがう。ナディア姫の裸体は、輝くばかりに湖面に映えた。
白くきめの細かい肌、背骨を伝う水滴の一粒一粒が湖面の反射で、まるで星々の輝きのように、獅子丸の指の間からこぼれた。
擽ったそうに身を捩ったほんの一瞬、ナディアの横顔が見え隠れした。
獅子丸は生まれて初めて胸の高鳴りを憶えた。顔が更に火照りを増す。
美しい。いつも仮面で覆っているいるこの姫は、自らの美しさを隠したがっているという噂は本当だった。
まさに絶世の美少女だった。その裸身を目の前にして獅子丸は、震える手で背中を流した。
白く透明な肌、滴る虹色のしずくすらこの姫の美しさには霞む。いや、この湖の静寂でさえこの姫の前では遠く及ばない。
それほど、人間離れした美しさをナディアは放っていた。
その瞳に魅入られしもの、その顔を一度でも見たもの、瞬時に恋に落ちるという噂は本当だったのだ。
獅子丸の口から思わずため息が漏れた。
――憶えておられるかナディア姫――
その吐息が聞こえたのか、ナディアは仮面で己の顔を覆った。
「いつまで背中ばかり流してるつもり! それともわたしにそちらを向けと言うの?」
獅子丸の顔がみるみる赤みを帯びる。
「姫様、わたしが洗っていいものかと……」
「獅子丸、女の裸がそんなに珍しい? まさか、国一の美男と呼ばれし誉れ高き男が女一人抱いたこともないなどと?」
「失礼つかまつる。目をつぶります。目隠しをします。わたしを使いの女官と思ってくだされ」
「いいわ、好きにすれば……」言い放った姫が躊躇なく踵を返した。
湖面から露出するナディアの上半身が否がおうにも眼前を塞いだ。
目をつぶったところで眼前にあるそれを意識せずにはいられない。
獅子丸の妄想はつのるばかり……白布を伝う胸のふくらみや、引き締まった腰骨のラインがいやおうなく頭に浮かび、占領する。
幼き日々、共に過ごしたナディアとの記憶が鮮明に蘇る……。
――あの男勝りが本当にここにいる姫なのか……? 俺のことを憶えているかナディ……あの夏の匂いを、あの丘を、あの夕立に雨宿りした東屋を、あの新緑の匂いを、憶えていてくれているのか、ナディア。
あの夏の日の記憶、幸せだった日々……タンポポの咲き乱れる丘で、幼き二人は無邪気に転げまわった。
草原を渡る風が火照った頬を優しくなぜた。
なぜ取っ組み合いの喧嘩になったのか、もう記憶の奥底にしまいこまれ、思い出せない。
馬乗りになったナディアが勝ち誇ったように言う。
「どうした獅子丸、手加減など許さん」
「ナディ……女の子に本気などありえん」
負けた獅子丸の精一杯の虚勢。
「お前は負けたんだぞ、偉そうに。潔く負けを認め、言うことを聞け、聞くんだ!」
あの頃……剣の腕前も、腕っ節の強さも、我侭も、なにもかも、ナディが上だった。どんな理不尽もナディの可憐の前には許された。
「なにがいいかな……よし決めた。獅子丸の一番嫌いなことだ。顔を背けたら許さんぞ」
ほんの一瞬の口づけが永遠にさえ思えた。口を真一文字につぐんで耐えた。
「獅子丸、拷問だぞ……もう一度だ」
おふざけのキス……拷問? 拷問なもんか! 大好きなナディアとの口づけ……俺の一番の宝だ、誰にも言えない、俺の宝……。
ほどなく訪れた闘いに明け暮れた日々、傷つき、幾多の屍を乗り越えてこの身に宿すは、幼さの中でたった二度触れたナディア姫の唇、あの日のくちづけを一度も忘れたことなどなかった……。
王女と家来とも知らずに……物心つけば同席すら許されず、お目通りすら年に数度、青年はいつしか諦め、忘れようと努めた。なにもかもが違いすぎたのだ。
――一同じ産湯につかり、幼き頃は同じ教師の元で勉学や武道に打ち込んだ。いつしか時は過ぎ、己は身分違い、姫をお守りするのがさだめと思い知った。
「あとはいい、自分で洗える」
「はっ、失礼つかまつる」
白布に浮かんだ姫のシルエット。大腿部の美しさ、細い体躯に張り詰めた乳房、ハート型のふっくらと盛り上がった臀部、均整のとれた、滴るしずくにも負けぬビーナスのようなその姿に獅子丸は再度、息を飲む。
大張りの白布を仰々しく持ち続ける獅子丸。その胸の高鳴りは一向に止む気配はなかった。
「……俺は、俺は、いったいどうしてしまったと言うのだ? 幼き頃より姫をお守りするのが俺の役目。それなのになんだこの高鳴りは……」
思わず飲み込んだ言葉に獅子丸自身が驚く。
あのナディアと過ごした夏の日々が永遠に続くとさえ思っていた。それが七つ目の春、引き裂かれた。
王族と家臣。俺は王族のために命をも投げ出す家臣の出。共に幼き日を過ごしたナディアは王女であった。
――王族とは目を合わせてもならぬと教えられた。ましてや姫の裸身など……ここ数年はお会いするのも憚られた。西の大国オーディンのお妃と為られるお方だぞ! 獅子丸、なにを血迷った――
心の中で己を叱責する。恋心、抱いたところで身分が違いすぎるではないか! 始めから適わぬ恋になぜ胸が踊る!
【その弐 巨鳥デランジェとロック・ピープル】
音もなく想魔が近づく。その物腰はどのような場面であろうとも冷静沈着そして優雅が伴う。
「獅子丸、どうやら長居しすぎたようだぞ、ここはロック・ピープルの縄張りだ。不穏な気配がする」
「姫、無粋なことで申し訳ないが……手早くお仕度を!」
白布を姫の裸身に預け、獅子丸が振り返る。清浄な湖面の冷気に交じってケモノの匂いが鼻腔を掠める。
轟力が前面に仁王立ちで立ちふさがる。
体長一メートルほどの小汚い麻布を纏った小人の群れがそこかしこに現れた。その数、数百。
このキケロ台地の天辺から伝うエンジェル・フォールに続く湖を縄張りとする半人、半獣(プリ・ヒューマン)ロック・ピープルは人間を嫌う。
過去の遺恨なのか、己の都合だけで自然を破壊し尽す人への憎悪。住処を岩山に追いやられた恨みなのか、ロック・ピープルには人間を毛嫌いするそれなりの理由があるのだろう。
「こいつらは無害だが轟力、油断するな。目を離すなよ。やつらはデランジェを使う」
想魔が轟力に駆け寄る。
「轟力! 想魔! 俺は姫をお守りする。一歩たりとも近づけるな!」
「獅子丸、ここは俺たちに任せろ! お主は姫を安全なところへ!」
叫んだ想魔の左手には今まさに放たれようとする黄金に輝く弓矢が握られていた。
ロック・ピープルが一斉に天空に向かって指笛を鳴らす。
辺りが巨大な影に包まれた。もちろん逸れ雲などではない。
雲間から数十羽の巨大な影が音もなく現れた。
デランジェは巨鳥と呼ばれる拡げた翼位二十メートル、尾を入れた体長三十メートルはある怪鳥である。
ロック・ピープルはそれを幼鳥の頃より飼いならし、己の手足のように調教し、攻めに、守りに、自分たちの非力さを補っているのだ。
だから、どんな国の民もこの小人たちには手出しはしないし、その縄張りを侵そうともしない。
侵そうものなら、死をもって償うことを身に沁みているからだ。
「我侭な姫のお陰でとんだとばっちりだ。まあ、この程度の戦闘など造作もないがな」
不適な笑いを浮かべた轟力が急降下するデランジェに向かってその長尺な槍を放つ。
「ウギャアアアア……」
赤子の悲鳴にも似た叫び。天空を揺るがすデランジェ、断末魔の悲鳴が辺りを蹂躙する。
片翼を貫通し、なお、天空を目指すその槍は、一瞬、太陽の光を浴び、飛散した真っ赤な血しぶきを纏って主の右腕に納まった。
「この槍はな、必ず放った主の元に戻る。それゆえ我れは不敗。獅子丸に負けはしたがな、生涯ただ一度だ!ふはははは、神をも恐れぬ不敵よ! デランジェがなんぼのもんじゃい! かかってこい下衆が!」
轟力のその槍はかつて神の子をも侵したロンギヌスの末裔。その槍先は研ぎ澄まされた金剛石。岩をも砕くという伝説の魔槍。
想魔の手元から矢継ぎ早に放たれた弓の数、およそ数十。一糸も乱れぬその姿は、まさに阿修羅の化身、美少女と見紛うそれだった。
数十本の弓で射抜かれたデランジェがまた轟音を立てて地面に落下した。
地響きが四方に放たれ大地が揺れた。大地震なみの揺れに、ロック・ピープルでさえ軒並み地べたを這いずり回る。
デリケートな想魔の思念がロック・ピープルの嘆きに感応する。
手塩にかけて育てたデランジェが次々に大地を埋める姿に嘆き、悲しみ一層の憎悪を滾らせる。
人間への憎しみは最高潮に達し、殺せ、殺せの大合唱が想魔の思念を覆い尽くす。
それに感応するかのように森に隠れていた鳥や獣がいっせいに逃げ惑う。
「いかんせん、多勢に無勢。数が多すぎるぞ想魔!」
数十のデランジェの死骸を従えた轟力が泣き言ともとれる言葉を吐いた。
デランジェの勢いはすでに獅子丸と姫に迫りつつあった。このままでは憎悪に捉われたロック・ピープルに退路を塞がれてしまうだろう。
「獅子丸、わたくしのせいなのかこの騒ぎは……無益な殺生は好まぬ!」
「姫、逃がれる算段をしております! どうか我々を信じて落ち着いて行動を」
「獅子丸、自分の身は自分で守ります! 剣を!」
一瞬躊躇したが獅子丸は姫に一方の剣を差し出す。
姫は剣の使い手だ。俺が一番それを知っている。
姫の手に握られた剣がまぶしく妖艶な光を放った。
蛇頭剣と呼ばれるそれは、まるで初めから姫のものだったようにしっくりと華奢な掌に収まった。
獅子丸の持つもう一方の剣は龍尾剣、蛇頭と龍尾が交わると、それは不敗の剣となる伝説の名剣。
獅子丸は国一の二刀流の使い手でもあった。
闘いではその鞘すらが相手の剣先を弾く障壁になるとさえ言われる、しかし、持つものがこの剣にふさわしくなければ災いをもたらすという諸刃の剣でもある。
包囲は段々と狭まってゆく。ロック・ピープルの指笛は一段とそのテンションを上げる。殺せ、殺せ、我が同胞を殺戮する人間共を抹殺しろ!!
獅子丸は全霊で姫を守って果敢にデランジェを切り刻む。血しぶきがそこら中を埋め尽くす。
姫を見る。その振る舞いに隙はない。見事な一太刀に我が目を疑った。軽やかに舞う蝶のように、重い蛇頭剣を操る。
しかし、そのしなやかな剣捌きも、風前の灯。敵があまりにも多すぎるからだ。このままではいずれこちらが疲れ果て、朽ち果てよう。
無数のデランジェの急降下による攻撃が激しさを増す。
一際巨大なデランジェが上空に姿を現す。その影は一瞬の真夜中を地上にもたらす。
真っ赤な憤怒の表情が見て取れた。仲間を多数、殺されたのだ!
一回り大きな体躯、尾の先が二股に分かれ、朗かに他とは違う。
デランジェの王たる風格があった。
想魔が躊躇なくそのデランジェの前に立ちふさがる。
「轟力! 俺に考えがある。俺がいくまで獅子丸に合流して姫をお守りするのだ!」
それを聞き、脱兎のごとく駆け出す轟力。猶予はない。
すでに、ロック・ピープルの包囲網の標的は姫と獅子丸に向かっていた。上空には更に無数の影が集合する。
それは太陽の光をも覆い隠すほどの勢い。
想魔の奇跡の弓が数本、巨大なデランジェに向かって放たれた。
急降下するデランジェが牙をむく。
眼光は想魔を捕らえて放さない。
その体躯に合わせた強大な鉤爪は一瞬で人間など八つ裂きにするだろう。鋭い一撃を交わし、想魔は二度目の弓を放つ。
羽の付け根に命中した弓、数本には麻を束ね髪の毛を仕込んだ屈強なロープが結ばれていた。
想魔の華奢な腕がみるみる盛り上がる。それは、着ていた布を引き裂き更に膨張する。
「ウオオオオオオオオ……」
想魔の雄叫びがこだまする。
大木にデランジェから伸びた麻のロープを縛り付ける。数本の屈強なロープものた打ち回るデランジェに、今にも引きちぎれそうだ。直径数メートルはあろうかと思われる巨木ですら揺れに揺れている。
時間はない。
巨木に繋がれ、引きずられ、地面に着地したデランジェの背に想魔が軽やかに飛び移る。
「き、きさま、わたしの背に乗るとは、王たるわたしに恥をかかす気か! くくく、八つ裂きでは済まさぬ! その肉片を喰らい尽くしてやる!」
デランジェの思念にシンクロした想魔が言う。言葉を発しているわけではない。思念に感応しているのだ。
「きさまを従わせる。ロック・ピープルにできるなら俺にだってできるはず」
「きさまああああ!!従わせるだとおおお!」
デランジェが吼えた。巨木があっさり根元から大地を離れた。
想魔を背に乗せ、巨木を引きずったまま、デランジェの王は急上昇する。
「俺に従え! さもなくば死をもってあがなうしかないぞ、デランジェの王よ。二度とこの地は侵さぬ。手出しもせぬ、俺がきさまの主となろう。俺に従うのだ!」
「人間共は我々の住処を奪い、同胞の血肉を喰らい、そればかりか我々を滅ぼそうとさえした! 姿形が異形だからといえ、ケモノなどと呼び、見下す。我々の心根を慮ったことなどあるのか……お前たち人間は二枚舌ばかりだ。嘘ばかり吐く」
「そういう輩もいる。しかし、俺は違うぞ! お前たち種が安らかに暮らせるよう手を尽くそう。約束する」
「人間、きさまの約束など! 反吐が出るわ、従うのは力のみ! お前など一撃で八つ裂きにしてくれるわ、 わたしをねじ伏せてみろ!」
デランジェの王がその鎌首を持ち上げ、天空で一気にとぐろを巻く。のたうつ巨体。想魔を振り落とそうと、一気に上昇し、下降する。
想魔は、波打つ背中にしがみ付きながらそれでも冷静にロープを、デランジェの王の首に幾重にも巻きつけた。
「俺も殺戮は望まぬ!種を絶やしたくなければ王よ、俺の知と力の前にひれ伏すのだ!」
首に巻きつけたロープをジリジリと絞める。膨れ上がった首筋に弓矢を突き刺す。
「グワアア……き、きさまああ」
ここぞとばかりに想魔は、巻きつけたロープを更に絞めた。
「これでも逆らうのか王よ! もっと深く抉ればいかに屈強なきさまといえど息絶える、承知なのか!」
荒れ狂うデランジェの動きが鈍った。
デランジェが発する憎悪の思念が朱色からゆっくりと変化する。それは服従を意味する白色だった。
「急げ、王よ! 姫のもとへ」
「どうしたのだ? 想魔はまだか!……これでは埒があかぬ。いったいこいつらは底なしか!?」
襲い掛かるロック・ピープルの放つ石つぶてを除けながら、轟力は上空から舞い降りるデランジェをなぎ倒す。
すでに累々と横たわる数百のデランジェの屍。ロック・ピープルの集団は、遠巻きに三人を臨む。決して剣先には近づこうとしない。しかし、その手元からは無数の石つぶてが獅子丸たちを襲った。
獅子丸は姫を庇いながら剣を振るう。背負った龍尾剣の鞘から発する妖しい光は姫を包み込み、無数の石つぶてをはね返す。
「姫! わたしの後ろに身をお隠しくだされ!」
「獅子丸、余計な気遣いは無用! お前に守ってなどいらぬ」
「この期に及んでもなお気の強いお姫様だ! 獅子丸も難儀よのう」
轟力が獅子丸の背後から叫んだ。
「さすがの俺もこの多勢、楽しむ余裕すらないというのにのう、獅子丸よ」
ナディアの太刀は見事だった。あれほどの手数をデランジェ相手に浴びせながらも、息一つ殺さぬ姿はまさに戦士のそれ。
轟力すら呆れ顔でその姿に敬服するばかりだった。
獅子丸も例外ではない。自分にはない優美さで振るう太刀の舞いは新鮮ですらあった。
この急場ですらこの姫と交えてみたいと思えるほどその剣捌きは見事だったのだ。
一陣の風とともに現れた他を圧する巨大なデランジェの背中から大声がした。
「姫様、獅子丸、轟力、飛び乗るのだ!」
「ほう、さすが想魔。デランジェを手なずけるとは!」
轟力が感心したように言いながら、その巨大な図体をまじまじと見上げる。
「轟力、ここは俺が食い止める、早く姫を、姫を頼む!」
返り血を全身に浴びた獅子丸が鬼の形相で叫んだ。数匹のデランジェの鉤爪を龍尾剣の切っ先が唸りを上げてぶった切る。
デランジェの王の裏切りを知ったロック・ピープルは残りのデランジェに向かって総攻撃の指笛を放った。
「姫、早く……お手を」言いながら轟力が腕を差し出す。
「無礼ぞ、轟力!わたしに情けなどいらぬ」
轟力の差し出す腕を払いのけ、ナディアは一気にデランジェの羽毛に消えた。
呆れ顔の轟力、苦笑する獅子丸も脱兎のごとくデランジェの背中にしがみつく。
「飛翔しろ王よ! 我に全霊で主従の証しを見せてもらおうか、服従を誓ったのならば、お前の種は絶やさぬ」
想魔の言葉にデランジェの王は瞬時に反応した。
同胞たちの容赦のない攻撃が延々と続く。噛み付き、その鋭い鉤爪を向けてくる同胞を蹴散らし、デランジェの王は一気に天空を目指す。
その速さについてこれるものなどこの世にはない。まさに天翔ける流星のごとくナディアたちは、危機一髪ロック・ピープルの縄張りから逃れた。
【その参 魔都グランジ サンド・ワーム襲来】
千メートルの頂から滝つぼに向かって落下するエンジェル・フォールに、獅子丸たちは暫しの間、時の立つのも忘れ、見惚れていた。
あまりにも壮大なそれは、長き旅路の感慨をも四人の若者に与えた。
滝から流れ落ちる大量の水も余りの高さに地面に届く頃には霧散し、それは雲となってこの地上千メートルの台地を覆うのだ。
「とうとうこんなところまで来たのだな……」
いつになく神妙に轟力が言った。
他の三人は無言……すさまじい勢いで千メートルを一気に落下する流れ、霧散する飛沫を見つめていた。
突然、旋回を続けていたデランジェが滝に向かって降下する。
咄嗟の急降下に振り落とされまいと四人は必死でしがみ付く。
「どうしたデランジェの王! 血迷ったか!?」
轟力が驚きの声を上げた。
「そうではない轟力……わたくしたちにこびり付いた同胞の返り血の匂いを洗い流せと言いたいのだ、デランジェ・リンはな……」
「デランジェ・リンですと? それが彼の王の呼び名なのですね! おお、姫はわたしと同じに獣にシンクロできる能力をお持ちか!?」
「想魔、わたくしはただ感ずるだけ……触れていると人であれ獣であれ何かが伝わってくる。それだけです」
「姫はわたしよりももっと深く感応しておられる! わたしよりも理解しておられる。そうですか、デランジェ・リンと言うのか……これからはそう呼びましょうぞ」
「想魔……このモノは言葉は持たぬけれど、わたくしたちと同じ種です。それに、わたくしと同性、どうやら想魔、お前に恋している」
獅子丸と轟力が一斉に想魔を直視した。
「クウゥオーーン」
ナディアの言葉を聞いていたのか、甘えたような声色でデランジェ・リンが一声吼えた。
エンジェル・フォールの落下する水流に何度も突っ込み、天然のシャワーを浴びた四人と巨鳥は、この台地を埋め尽くす、その高さ優に数百メートルはあろうかという巨木のてっ辺にてしばし羽を休めた。
「衣服が乾いたら出発しましょう、姫お仕度を」
獅子丸がたくましき上半身を晒し、大きく伸びをした。
「嫌です。わたくしは疲れました。もうすぐ日が暮れます。この柔らかな木立に抱かれて寝ます」
ナディアの我侭は依然健在。もうすでに寝支度を始めていた。
「困ったおてんばだ、なあ獅子丸」
獅子丸はそれには答えず、見下ろしのいい枝葉に陣取る。実直な獅子丸はすでに寝ずの番をするつもりだ。
そんな獅子丸に呆れ顔の轟力。
「轟力、もうすぐ日も暮れる。夜は魔物の世界。この高さなら、どんなやつでも不意打ちもできまい。姫の言葉、懸命かもしれぬ」
「そうか想魔よ。では、交代で姫の眠り妨げぬようお守りを。今は獅子丸に任せて俺も眠るとしよう」
羽を休めたデランジェに想魔が寄り添う。
「想魔よ、わたしはここから先へはゆけぬ。この台地を抜ければ東の砂漠グランジ。少しのグランジでもわたしには毒、それは頭に巣くい、感覚を麻痺させワームの餌食へと誘い込む。クランジはワームの縄張り、それにわたしが一緒では目立ちすぎる。だが想魔よ主従を誓った身、必要とあればいつでもはせ参じよう。天空に向かって指笛を二度鳴らせ」
「いかに王といえど、裏切ったのだ。同胞の元へは帰れまい。これからどう生きるデランジェ・リン? 済まなかった、しかし、約束だ。お前たちの種は絶やさぬ。この旅が終わったら俺が命に代えても」
「想魔、お主に出合ったのもまた運命。後悔など微塵もないが、逸れ鳥としての生もまた一興かもしれぬ。再開の時を、無事な帰りを祈っておるぞ想魔」
体長三十メートルにも及ぶ巨体が想魔に懐く姿はまことに奇妙ではあったが、巨鳥の瞳は満足気であった。
「夜は飛べぬ。日が暮れぬうちにわたしもまた塒を探すとしよう。また会おうぞ想魔、そして不敵な勇者たち」
飛び立つ羽音、その衝撃にさしもの大木も揺らいだ。それでもナディアの眠りを妨げることはなかった。
高鼾の轟力もまた夢の中にいた。
天上には月齢十五の満月が並んで二つ。その眩いばかりの光は、辺りをディープ・ブルーに染める。
枝葉の隙間に横たわった獅子丸に影が忍び寄る。
「美しい寝顔だな獅子丸……並みの女子(おなご)ならその視線に一目で射抜かれようぞ……」
想魔の呟くでもなく飲み込んだ言葉、暫くその寝顔を見つめていた。
「物音も立てず近づくとは……想魔、俺の刃(やいば)の慰みになるつもりか……」
獅子丸の右手にはしっかりと蛇頭剣の柄が握られていた。
「言っても詮無いことかも知れないが獅子丸、護衛のターゲットに個人的な感情は、咄嗟の判断を鈍らせるだけ」
「なんの話だ? いらぬ詮索、その口閉じたまま放っておけ」
「俺は獅子丸、うぬを心配しておるのだ……心の迷いは剣の捌きに現れる」
「くだらぬことを……そんな時間があるのなら、麒麟(キリン)はどうした? 四頭も手に入れるとなると、相当な金子が掛かる。戦闘に巻き込むのを怖れて手綱を放したであろう」
「うむ、あの闘いで傷ついていなければ、俺の思念の匂いを嗅いで追ってくるはずなのだがな、如何せん、数百キロ飛んだのだ、ここまで来るのに何日かかることか、しかし、あの麒麟は最上、最高の毛並みを有しておるからな易々と変わりは見つからんぞ」
「俺はな、想魔。お前の異能が時々信じられない。しかし、信じてもいる。あの凶暴なデランジェを服従させた思念とかいう代物……あの荒くれる麒麟がお前の前ではまるで飼い犬のように振舞う。獣とてお前の意のまま……俺の心根すら読心しているのではないのか?」
「戯けたことを……心など読まずとも、獅子丸。お前を見ていればどうにも合点がいく話だがな……」
「そうか、ならばお前は麒麟どもを呼び戻す算段に腐心しておればよい。枝葉末節に心砕くことなどない。口を噤め、俺の心などすておけ」
言うと獅子丸はそっぽを向いた。
「すておけぬから言っておる……」呟きを飲み込む想魔。
取り残された想魔の横顔をディープ・ブルーが染めた。心なしか悲しそうに見えた。
「王女ナディア、その瞳に魅入られしもの、必ず恋に落ちるという。確かにな、美しすぎるというのも罪なものよ、のう獅子丸」
誰に言うでもなく想魔はそう呟いた。
翌朝、獅子丸たちが樹上で目覚めると地上から歓声が聞こえた。想魔が麒麟どもとの再会を喜んでいたからだ。
「さすが想魔。獣を手懐ける術は一流。最悪、彼の地を徒歩で走破などと考えておったが、助かった」
轟力が真っ先に飛び降り、目ざとく見つけた自分の麒麟に頬ずりする。
「ヒェイ、ヒェイーン」
それに答えた麒麟が鼻を鳴らした。
「どんな手管を使ったのだ想魔。まっことその異能、お前は魔法でも操るのか?」
「それよりも轟力、さすが一日千里を駆けるという麒麟どもを褒めてやってくれ、よくぞ戻ってくれた。おおいい子だ」
キケロ台地の密林は昼なお暗いジャングル。麒麟の威圧がなければ、ここを塒とする虫たちの餌食になるも正当。その地底より這い出る虫の数数万。上空には十六枚羽の蜻蛉が悠々と滑空する。時たま、向かってくるは体長壱メートルはあろうかと思われる甲殻類。その殻は鋼にも似て強固。しかし、麒麟はものともせず、襲い来るそいつらを貪り喰らう。勇猛な四足獣にとって巨大な虫も格好の餌。
想魔を先頭に四頭はさらに西を目指した。
きっかりき三日と三晩で魑魅魍魎が跋扈するという魔都グランジの聳え立つ北門にたどり着いた。時は真夜中、点々と城壁を照らす灯りだけが頼り。
「姫、そのお姿目立ちすぎまする。その黒髪も邪魔、男人の服装に着替えなされ、失礼する」
懐から短剣を取り出した想魔が、ナディアの黒髪を掴む。
「な、なにをする想魔! いかにお前とて姫に無礼は許さんぞ」
「止めなさい獅子丸。想魔、おやりなさい。グランジは無法者ややさぐれたちの街と聞く。女であることで衆目を引くのであれば、この髪も邪魔、グランジを抜けるまでは男人の振る舞いに徹しましょう」
想魔の一太刀が容赦なくナディアの黒髪を一閃する。
頭を一振りすると短髪のナディアが現れた。まるで、少年のようなはにかんだ笑顔。ナディアに美辞麗句は通用しないと獅子丸はまじまじと見つめた。男の服を纏い、髪を切ったとてナディアの輝きを隠すことなど到底できない。どんな褒め言葉も、彼女の美しさには適わないから。
「なにを見ている獅子丸、わたくしの短髪、おかしいか?」
「余りに似合っておいでなので……」闇夜でよかったと獅子丸は思う、顔の火照りを悟られないで済む。
「戯言か? 笑うがよい。わたくしは今より男、扱いも粗野でけっこう」
茶褐色の断崖のようにそそり立つ城壁が行く手を遮る。
「なんともすごい長城だ。噂には聞いていたが、天を見上げるほどの高さとは、それにどこまで続くのだこの城壁は……」
轟力が見上げたてっ辺は暗闇の中に消えて、全貌すら見えない。
「想魔、どうやってグランジに入る? 策はあるのか」
「うむ、これほどのものとは、どうやら都の周囲全部を囲っているものと見える……デランジェがいればひとっ飛びなのだが……うーむ、どうしたものか」
「それにしてもこの頑丈。いったいなにからこの都を守っているのだ?」
「噂だが、都を取り囲む砂漠地帯には馬鹿でかい芋虫が生息していて、行き交う旅人を喰らうらしいのだが、それにしても大業なことよ」
「芋虫だと? わっはっは、芋虫ごときにこの大業な城壁だと……?」
「キイィ、キイィ、キイィ」
城壁の頂あたりから妙な物音、続いて生まれたばかりの獣のような泣き声。
「なんだこの音は……」
轟力が頭上を見上げたが、視界が利かない。
「キイィー助けて……キイィー」
弱々しい声色、人間のそれも子供のものらしいのだが、定かではない。
想魔が蛍火(ほたるび)を灯した。掌の炎が徐々に辺りを照らし始めた。いくつかの蛍日が想魔の手元を離れ城壁を照らす。
「これはまた奇怪な業を、想魔はやはり魔術師か?」
轟力の言葉に想魔がニヤリと笑う。
城壁に四肢を拘束された子供の姿が見えた。
「キイィ、お願い誰か、キイィ、キイィ助けて……」
叫ぶ声にも衰弱が見て取れた。
「なんてことを、まだ年端もいかぬのに、獅子丸助けてあげて!」
「獅子丸は姫のおそばに、俺がいく」
轟力が槍を軸にして城壁に飛び移る。体躯も体躯だが、素早さも尋常ではない。
轟力の腕には年端もいかぬ子供がぐったりと横たわっていた。
「助かったの、助けてくれたの? 早くここから逃げて……ワームが襲ってくる」
「大丈夫です。このものたちが守ってくれます。気を確かに」
ナディアが水を含ませた布を口に宛がった。
「……ここから逃げて早く、ワームはなんでも喰らうわ!」
遠く地平線で稲妻が光った。
稲妻に呼応するように咆哮が大地を揺るがす。
「オオオオオオオオオーーーーン」
砂漠がそこここで隆起する。それを照らす稲妻、隆起は城壁に確実に近づいている。
闇をつんざく獣じみた咆哮が何度も、何度も辺りを震撼させる。
北門から灯りがゆっくりと獅子丸たちを照らす。
「隠れろ」想魔が素早く身を潜める。一片が数メートルはあろうかと思われる城壁を形成する岩隙、隠れるには格好の場。
開いた門からは奇声を上げながら数百の騎馬が躍り出た。
騎馬に続いて火器を携えた巨大な木馬が数騎現れた。二つの砲塔からはすでに煙が立ち込めていた。
「今だ!どさくさに紛れて都に入るぞ、獅子丸、姫様を」相馬が叫んだ。
城壁の厚さ、数十メートル。されど麒麟ならば一歩で駆け抜ける。
興奮しきった人ごみの渦にあっさりと四頭は飲み込まれた。
「うまくいった。これだけの人ごみ、雑多な人種がいれば、我らなど全く目立たぬ」
人影もまばらな狭い路地に入り込みようやく想魔が一息ついた。
「それにしてもききしに勝る大都だな、こんな砂漠のど真ん中に、まるで蜃気楼のようだ」
轟力が感嘆の声色を上げる。興奮冷めやらぬ様子。無理もない。城壁の中はまる都中を巻き込んだ祭りのような賑わいだったからだ。数千人が浮かれていた。酒を飲むもの、女を抱くもの、喧嘩をするもの、巻き込まれるもの、まさに酒池肉林の有様。
「ドーン……ドーン」
遠く響く爆裂音。近くで闘いが行われているらしい。このお祭り騒ぎも城壁に磔にされた子供となにか関係あるのかも知れぬ。
「まず宿とそれから飯だ。それと酒もな。久しぶりの歓楽街、冷やかしにはちょうどよいわ」
轟力はいまだ子供を抱えたままだ。
「わたしは助かったのですか……」
「おお、気付いたか……事情は分からぬが、今、家に送り届けてやるぞ」
轟力が殊の外優しいので全員が注視する。
「わたしは……この都のものではありません。ワームの生け贄として浚われてきたのです。我が家は東方、ここからは遠い果て……」
「まず、ゆっくりと身体を休めなさい、童子(わらべ)よ。話は後で……」
ナディアの言葉に安心したのか轟力に抱えられたまま童子は目を閉じた。
獅子丸たちはほどなく都のはずれ、目立たぬ場所にある安宿に身体を休めた。
その一部始終を物陰から見つめる狡猾なまなこ。猿面に張り付いた下婢た笑い。猿の身軽さでそいつは暗闇に消えた。
「お頭、今宵最高の獲物が迷い込んできましたぞ」走狗(ソウク)が耳打ちする。
「……なんだと、ほう、そうか……ナディア、噂通りなら走狗、きさまに大枚与えようぞ! 大蛇(オロチ)、石竜子(トカゲ)ゆけ!ここへ連れてこい! 捕らえたものに相応の報奨ととびきりの女を抱かせてやろう」
【その四 勇者よ、旅立ちの雄叫びを高く上げよ】
国の内外より選ばれし腕に憶えのある、屈強な若者3名が、あの我侭でおてんばな姫を護衛して、嫁ぎ先であるアルカディーア王の子息が住む地まで無事にたどり着けるか否かは、まさにこの国の命運をも左右する出来事であって、面白おかしく語る民衆の最大の関心事、あるいは大いなる賭けの対象どころではなかったのだ。
その旅路は困難を極めることは間違いようのない約束された事実。
なぜなら敵対する国々がナディアとオーディンの王子との婚姻を望まないからに他ならない。
大国と大国の和合は、多くの小国にとって穏やかな出来事ではない。
大国の王がその征服欲を満たそうと虎視眈々と機会を伺う。大国同士が交わればそういった不遜もまかり通る。
轟くナディア姫の美貌は、知れ渡り、我が物にせんとする不届きものの数、幾多。
賞金稼ぎが更に付け狙う。ナディア姫ならば小国の宝物と同等な金品で売れよう。
獣心(ケモノ)たちの縄張りを通る危険も数知れずある。
厄介ごとが星の数ほどもある旅路。そして、この姫が真な厄介事の中心であった。
少数精鋭のこのパーティはある意味正解だったかもしれない。闇に紛れることもできよう。いらぬ波風は立たせぬことが肝心なのだ。
騒ぎは噂を生み、噂は脱兎のごとく国中に触手を伸ばす。
いかに王より選ばれし三人の勇者といえど、国中の練達の士、賞金稼ぎ、天地に巣くう魔物を全て敵に回しては姫を送り届けることはおろか、己の身一つすら守ることも困難であろう。
知と力、両方を兼ね備え、そして、忠義心に厚く、国一の美男と謳われし熱血の士、獅子丸。力は獅子丸と五分、知に優れた才を放つ、女と見まごうばかりの美貌、華奢な体躯。
国の女たちの心を獅子丸と二分する想魔。
ニメートルの体躯、鋼の胸板、居丈高な傲慢を絵に描いたような無粋な顔、しかし、その心根は優しく憐憫に満ちた繊細さを持ち合わせた轟力。
最強の三人の勇者が無事にナディアを送り届ければ、富と名声、約束された武官の地位が待つ。
しかし、この旅が失敗に終わり、ナディアを失えば国に帰ることさえ許されぬ、まさに三人の若者にとっては命を賭けた運命の旅路が今始まったのだ。
【その伍 東方幻想郷 浚われた愛里】
「どうやら咽に細工をされてうまく声が出せないらしい」
想魔が眠っている童子を見ながら言った。
「こんな年端もいかぬ子供を、いったいなんの為だ!」
轟力が怒りを顕に吐き捨てた。
「俺にはまあ心当たりはあるのだが、どれ、酒場にでも出向いて、轟力のために酒と、食い物を調達してこよう。獅子丸いくか、都グランジについても、ワームというバケモノのことも情報を集めてこようぞ」
獅子丸はどうやらナディアの傍にいたいのらしいのだが、ナディアはそれを見こしてこう言った。
「獅子丸、何度も言うように自分の身は自分で守れます。過剰な気遣いは迷惑です」
獅子丸はそれでもまだ躊躇していたのだが、想魔に押し切られて部屋を出ていった。
「おお気がついたか、想魔の煎じた薬が効いたようだな」
「わたしは助かったのですね。助けてくれたのはそなたですか?」
「うむ、まあな。気にせずともよい」
「せめて……お名前を……」
「うむ、俺の名か、俺は轟力と申すもの」
「わたくしは愛里(あいり)出所は東方にございます」
「愛里と申すか? なにか欲しいものはないか、酒と食い物は仲間が今調達しにいっておるが」
「できうればお風呂に……」
「そうか……宿の母屋に温泉が湧いておるはず、姫、いや、ナディアというものが先に浸かっておるかもしれぬが」
寝所を恥ずかしげに降りる愛里の仕種に轟力は違和感を覚えた。
風呂から上がった愛里を見て轟力は驚愕する。
「久しぶりのお風呂、気分が晴れました」
「お、お、お、女であったのかお主」
可愛い少女が立っていた。薄汚れた仮面の奥には美しい少女の井出達が隠されていたのだ。
「轟力、そのような好奇な目で見るのは止めなさい。愛里が困っているではないか」
ナディアが轟力を嗜める。
ナディアに見つめられた愛里の顔がぽっと赤みを帯びた。
ナディアを美しい顔立ちの青年と思っているのであろう。轟力はそれが多少面白くない。
部屋の戸が開き、想魔たちが抱えきれぬほどの食物をテーブルに置いた。
想魔も獅子丸も見違えた愛里を見て顔を見合わせため息をついた。
「おお、女子であったのか、お主。これはまた美しい」
想魔に褒められ、また顔が真っ赤に染まった。轟力はまたそれが面白くない。
「この子の名は愛里という、出身は東方、このお方はナディアこちらが獅子丸、そしてこやつが想魔」轟力が割って入る。
「こんな美しい殿方が三人も……まるで女子のように美しい顔立ち、轟力様の男らしい顔立ちが目立ちまする」
「轟力、よかったではないか。愛里が褒めてくれているぞ」想魔がチャチャを入れる。
「ほら轟力、酒だ。今宵くらいは多少の無礼講許しもしよう。しかし、このグランジ、さすが魔都と言われることだけはあるわ、一攫千金を夢見る荒くれどもの巣窟だからな。よほどグランジは人の心を惑わせるとみえる」
全員がたらふく食べ、腹を満たしたところで、想魔が酒場で仕入れた情報を語り始めた。
「この都の由来であるグランジとは、噂には聞いておるであろうが、その煙を体内に取り込むと人心を迷わし、快楽の境地へ誘う麻薬。グランジは砂漠のど真ん中の都。その砂漠はワームという体長百メートルほどもある芋虫の住処。
グランジは芋虫のバケモノの体内で精製されその消化域に蓄えられえるそうだ。よってグランジを手に入れるためにはワームとの決戦が必至。どうやら今晩はワームとの決戦、その日であるらしい。愛里はワームを引き寄せる生け贄にされたわけだが、どういうわけか、ワームへの生け贄は処女でなければならない。捕らわれた処女は咽に細工をさせられ、ワームが反応する超高音域が子供の助けてと泣き叫ぶ声と同一らしい。後は見ての通り、ここで麻薬グランジの元締めたちに雇われた荒くれものたちが今もワームを捕らえよう闘っているらしいのだがな……」
部屋の空気が揺らいだ。そして、部屋全体に振動が走る。どうやらワームに向けて大砲が何度も打ち込まれているらしい。
続いて愛里が驚くべき話を語り始める。
「轟力様、助けていただいたご恩は決して忘れません。わたしの都は東方にあり……幻想郷として知られているところです」
轟力が己の名を呼ばれ照れた。どうやら満更でもないらしい。
「幻想郷だと!? 愛里はひょっとして異能を司るものか」想魔の目が輝いた。想魔はなにか心当たりがあるらしい。
「はい、わたくしは魔術を用いまする。でも、わたくしの導師に封印されておりました。東方幻想郷は日常的にグランジを用います、わずかですが……グランジの助けなしに結界を張れませんし、固有の魔術を行う事もできません。グランジはいわば触媒なのです。グランジを手に入れるために年に一度、わたくしのような処女を生け贄に差し出す……」
愛里の顔とともに轟力の顔も真っ赤に火照った。
獅子丸は腕組をしながらナディアに寄り添う。大砲の音が鳴るたびに天井を見上げた。
轟音のたびに埃が天井からボロボロ落ち、あたりに舞った。
「で、咽に細工され、魔術を行使して逃げられないように封印されていたわけか……年端もいかぬ女子になんてことを、なんと野蛮な風習なのだ!」
轟力が憤慨して大声を上げた。
「とにかく、ここに長居は無用。魔窟とはこの都を指す言葉に違いない。胡散臭いことこの上ない」
想魔の言葉に一同揃って頷いた。
「先ほどから外が一層騒がしい。この宿屋の屋上がテラスになっていたはず。高みの見物としゃれようぞ」
言うや否や、轟力が部屋を飛び出す。
爆裂音が先ほどより近くに聞こえる。宿屋全体が振動で震えているのだ。その震えも激しさを増す。
テラスに上ると多数の人だかり。その誰もが恐怖に顔を引き攣らせていた。中には泣き叫ぶものも多数。
城壁の向こうではまさに阿鼻叫喚の有様が展開していた。
ワームの背中に登り立ち剣や槍を突き刺そうとしたものたちが一挙に天に放り投げられワームの触手だらけのばかでかい口に消える。
大砲を積んだ木馬もすでに何騎か破壊され、炎に包まれていた。
一匹のワームが今にも城壁を乗り越えて都に侵入しそうなほど近づいていた。
頑丈な城壁もワームの突進に今にも破壊されそうであった。
城壁に陣取る数百人の弓矢の隊列が一斉に弓を放つ。
だが荒れ狂うワームはその弓矢を突き刺したまま突進する。雷鳴が轟き辺りを照らす。
一瞬砂漠が真昼の体をなす。累々と横たわる屍、その数小山ほどもあろうか。
砂地に潜り込むたびに砂漠が波打ち、砂塵が舞い上がるたびに大地が震えた。
何人もがワームに挑み、粉々に打ち砕かれた。
城門からは次々に一攫千金を狙う荒くれものたちが躍り出る。
「これは、これは、ワーム殺しの名人たち数百人がかりでも止められぬのか!」
轟力は今にもワームに挑みかかるような勢い。
「見物人の話だと、生け贄を喰らうとワームの力が半減するらしい。その隙に殺してしまうらしいのだが、生け贄が逃げて、ありつけないワームが怒り狂っておるらしい」
轟力の言葉に思わず全員の視線が愛里に向かう。
小さな体躯の愛里が更に身をすくめ小刻みに震えていた。
「愛里、心配は無用。俺が必ずお前を守る、それが助けたものの努め」
轟力が任せておけと隆々たる腕っ節を見せる。
他の三人が深々と頷く。
轟力の言葉に安心したのか愛里が少しだけ微笑んだ。
「うーむ、東方の民を浚い、生け贄に供すというのもワームの恐るべき力を半減させることに意味があるのかもしれぬ」
想魔は相変わらず冷静な口調を崩さない。
「でも轟力様、皆様、わたくしには帰る場所はございませぬ。幻想郷にわたくしの居場所はございませぬ」
愛里は轟力にしがみつき泣き出した。
「想魔、口が過ぎます。愛里が怯えてしまったではないか。助けたものが面倒を見ます、のう轟力」
ナディアの言葉に獅子丸が頷く。轟力も愛里を宥めながらしきりに「心配するな」をバカみたいに繰り返していた。
「グオオーーン、ガガガガッ」
乾いた音が当たり一面を揺らす。城内に逃げ惑う人の渦ができる。見物人も蜘蛛の子を散らすように逃げはじめた。
「おお、あの頑丈な城壁を崩したぞ、まっことバケモノよ!」
怒り狂ったワームが巨体を持ち上げ城壁に打ち付ける。さしもの頑強な石組みも所々に亀裂が走った。
取り囲んだもの、背中に乗り剣を突き刺すもの、数百人が一片に大空高く吹っ飛ばされた。
天高く舞い上がった巨大漢たちがまるで木の葉のように落下し、砂漠の砂にのめりこむ。
それを他のワームたちが一気に貪り喰う。
「ウオオオオーーーーン」
ワームの嘶きが魔都グランジに響き渡った。砂塵が舞う様はまるで一陣の嵐がきたようだ。
「獅子丸、わたくしに蛇頭剣を!」
「いけませぬ!姫は愛里とここに留まりください!」
どうやらナディアはワームと一戦交える気らしい。
獅子丸の言うことなど聞く姫ではなかった。獅子丸、腰差の鞘から蛇頭剣を抜き、家々の屋根を一気に飛び越え、城壁にすっくと立った。
その後を間髪をいれず獅子丸が追う。
「姫! わがままが過ぎましょうぞ」
「獅子丸、お前の庇護などいらぬお世話! わたくしを赤子のように扱うのは我慢ならんぬ、口答えも許さぬ」
城壁から一気にワームの背中に飛び移ったナディアが蛇頭剣を振るう。
蛇頭剣の切っ先が雷鳴を呼び寄せ、獅子丸の龍尾剣と反応する。二つの剣が重なり、鋼鉄のワームの血肉を抉り取る。
ワームはたまらず砂中に潜りこもうと、躍起になる。
想魔が更に炎に揺らぐ弓矢を放つ。ワームの肉片が飛び散った。
「愛里! 身を隠せ。どうやらワームの狙いはお前らしいからの、轟力、お前の影を貸せ」
怯えきった愛里を轟力の影に立たせ、想魔は掌を重ね、なにやら呪文を吐いた。
愛理がゆっくりと轟力の影に溶けてゆく。
「これはまた奇怪な業を! 想魔なにをした?」
「なに、愛理に封じられた魔力を供給したまで、愛理は元々魔術師であるからな!」
「……轟力様、わたくしは、あなたさまとともにどこまでも一緒でございます」
轟力の顔がぽっと赤らむ。恋などという名前すら知らぬ轟力であった。
砂中に潜り込もうとしたワームの前に立ちはだかる轟力。その右手には伝説のアキレウスの槍。
目にも止まらぬ速さで轟力の槍がワームを襲う。
手傷を負ったワームはのたうち、その咆哮は千里先まで届いた。
砂塵が舞い、雷鳴が轟く。逃げ惑う巨大漢どもを尻目に、たった四人がワームを追い詰める。
「ワームよ、お前に怨みはないがのう、別けあってお前の命、貰い受けるぞ!悪く思うな」
見えずとも愛理が伴にいる。千人力の轟力であった。
ワームの断末魔の悲鳴がグランジの都を揺るがす。
「ドーーーーン」
鈍い大音響とともにワームが崩れ落ちた。
城壁から見守っていた数千人の喝采が響いた。
背中に陣取り最初に勝利の雄叫びを上げたのは轟力であった。
「わっはっはっはっは、我ら四名、最強の戦士なり!」
「姫様、二度と無茶はせぬように……」
言いながら獅子丸も満足そうな笑みを浮かべる。
「心、躍ったぞ獅子丸! 仕留めたのだな、我ら」
ナディアも興奮しきっている。こんな生き生きとしたナディアを見るのは始めてだった。
「まずい、獅子丸、なにかがおかしい!? 身体の自由がきかん」
想魔が異変に気付いたが時すでに遅し、ナディアがゆっくりとワームの背中からずり落ちた。
獅子丸、轟力さえもがその場に倒れこんだ。
「死ぬ間際、毛穴から湧き出るグランジを嗅いでもうた、油断した……獅子丸……ひ、姫が……」
想魔が朦朧とした意識の中で弓を引いたが、そこで力尽きた。
「へい、一丁あがり、雑作もなく手に入りましたぞ大蛇(オロチ)様」
烏面を付けた男たちがナディアを縛り上げ、馬の背に乗せた。
「お頭によい土産ができた。石竜子(トカゲ)、走狗(そうく)、我らがアジトに戻ろうぞ」
三騎が踵を返し走り去った。
「きさまたち……ひ、姫を……姫、姫!」
意識が遠のく間際、獅子丸の最後の言葉であった。
【その陸 九死の谷の霧空】
捕らえられて七日が過ぎた。一度たりとも食事は口にしなかった。薄暗い洞窟に幽閉され、時々の経過すら定かではなかった。
手枷、足枷が己が身に食い込む。
このまま衰弱して死してもまた本望だと思った。ナディアは絶望の瀬戸際にいた。
山賊に捕らえられ、半裸の晒し者にされ、蹂躙される姿など恥辱以外のなにものでもない。
想像しただけで虫唾が走った。咽の渇きに耐えられず頭上から滴る雫に口元を充てた。
水溜りに薄汚れた姿が映った。それが、自分の姿であると気付くのに暫く時間がかかった。
「なにも口にせぬとはどこまで我を張るつもりだ、おてんば……」
暗闇から声がした。堂々とした体躯、はちきれるほどの若さを鼓舞する裸の半身、義賊とも噂の九死の谷の山賊王、霧空(キリアキ)
が姿を現す。
手足を拘束されてもなお誇りを失わぬ気高き王女の気丈さがナディアにはいまだ残っていた。
霧空の手元から鈍い光を放つ鍵がナディアの足元にポロリと落ちた。
素早くナディアはその鍵で手枷、足枷を外しにかかる。眼光鋭く霧空を見据えたまま。
「拘束されていては抱くこともできぬ……せめてもの情けと知れ、おてんば」
「殺せ、外道! きさまごときに服従などありえぬ」
「薄汚れてもその誇りいまだ捨てぬと見える。それにしてもききしに勝る美少女よ、ナディア」
「きさまことき下衆に名前を呼ばれる謂れはない!」
「いきがるなおてんば、口が過ぎれば己の身を滅ぼすことになる。今、ここで恥辱を味遭わせてしんぜようか、かわいい王女よ。我を張らず素直に俺のものになればよし」
言いながら霧空は腕を捕かみ、引き寄せたナディアの片の乳房をわしづかみにした。
「な、なにをする無礼者!その振舞い 許さぬぞ!」
「はっはっは」
霧空の余裕の高笑いが洞窟中に響き渡る。
「つくづくうい奴よ。無数の男が惚れるのも無理はない。お前を傅かせる男はどんな奴だ」
「どんな男とてわたくしを傅かせることなどできぬ!」
素早く霧空の腕を逃れ、反転したナディアの右肘が霧空の顎を打つ。
「くくく、いまだ反逆の志は消えぬとみえる」
霧空が吐いた唾には血が混じっていた。
霧空の腰差しの短剣がナディアの右手に握られていた。
睨みつけたまま、ナディアは身構える。
「おてんば、俺と対等に闘うというのか……分かった、もしも、俺を負かしたら、ここから逃がしてやろう……適わぬと知ったその時はナディア、お前を好きにさせてもらうぞ!」
言うが否や、鋭い回し蹴りがナディアの左頬にヒットした。
短剣が手元から吹っ飛び、ナディアの身体も数メートル先の壁にぶち当たった。
「ゆ、許さぬ外道! きさまを殺す!」
憤怒にまみれたナディアの形振り構わぬ脚蹴りを、余裕で交わす霧空。
立て続けにナディアの手刀が霧空の顔面を掠めた。
一瞬油断した霧空の顔面をナディアの渾身の頭突きが襲う。
霧空の額から一筋の鮮血が滴る。
霧空ががくっと膝をついた。
「やるな、かわいいおてんば……それでこそ屈服させる喜びが増すというものだ」
「まだ言うか、無礼者!」
霧空の拳がナディアの鳩尾を抉った。
「うくっ……」
渾身の一撃で失神したナディアが霧空の懐に崩れ落ちた。
顎を持ち上げまじまじと失神したナディアの横顔を見つめた。
「美しい……薄汚れた絹を纏っても世俗にまみれぬこの輝きはなんだ!? 気高き王女とはお前のことだなおてんば。汚された恥辱に呻く姿もさぞ美しかろう……」
暫く悶絶したナディアの顔を見つめていた霧空が大声で叫んだ。
「女ども、入ってこい! おてんばを風呂に入れろ」
霧空の子飼いの女たちが手早くナディアの着ていた衣服を解き、担ぎ上げ、露天にナディアの裸身を浸した。
「丁寧にな、七日も風呂に入っていないのだ、臭くてかなわん。終わったら無理にでもなにか食わせろ、痩躯の女など抱く気にもならんわ」
女たちの笑い声を後に霧空はその場を離れた。
「……惚れたぞ、姫。お前は俺のものだ」
霧空が呟いた。
数時間後、霧空の寝室に素肌に薄布を纏ったナディアが屈強な男たちに両脇を抱えられて連れてこられた。
美しく輝きを増したナディアの肢体に霧空は満足の笑みを浮かべた。
「座れおてんば、お前たちは出てゆけ」
「頭、大丈夫か? こいつ女の分際で中々の手練、先ほども言うことを聞かず暴れておったが」
「ふはは、俺を誰だと思っておる。たかが女一人、手なずけることなど造作もないわ」
言い放つ霧空を睨みつけるナディア、風呂にたっぷり浸かって上気した肌はほんのりとしたピンク色に染まり、その薄布一枚纏った姿からは妖艶な香りが漂っていた。
訝しげな視線を残したまま、男たちが退席した。
「どうだここには二人きりだぞナディア。なにを考えておる、力では俺には勝てんぞ。それとも未だ俺の咽仏でも狙っておるのか……俺はお前に惚れた。力ずくで俺のものにしてもよい、それとも、いさぎよく俺に抱かれるか?」
「屍のわたくしを抱くがよい! きさまの言いなりになどなるか!」
飛びかかったナディアの鳩尾に霧空の足先がめりこんだ。
「うくくく……」たまらずナディアは苦悶の呻き声を上げて床に突っ伏す。
「口が過ぎるぞ、おてんば。女の分際でどこまで逆らう、そんなに俺が憎いか……俺を憎め、おてんば。余興の悦楽が増すというものだ」
馬乗りになった霧空のすさまじい力に押さえつけられ身動きひとつできぬナディアに向かって嘲笑の言葉は更に続く。
「……ますます惚れたぞナディア、一生伴侶は持たぬと決めていたのだが、お前なら俺の伴侶にしてやってもいいのだがな、ふははは……」
「外道! きさまにわたしが愛せるというのか、外道の分際で……」
「俺は惚れたと言ったまで……伴侶にしてやってもいいと言ったのだ! 愛だと? 聞きなれぬ言葉だな。身体を交えるのに一々愛などとほざくな! 世間知らずのおてんばが、ふふん、俺は欲しいと思ったものは必ず手に入れる。この己の力で、この己の腕でだ!」
纏った薄布が、強引に引き千切られた。鈍い音がナディアの耳元を襲う。
つんと張り詰めた両の乳房が顕になった。
押さえつけられたナディアの両腕から虚勢がゆっくりと消えていった。
無音の中で興奮しきった霧空の荒い息遣いだけが辺りを覆う。
かみ締めた唇に血が滲んだ。
身動き一つできぬ自分を呪った。服従は恥と教えられていた。ナディアの人生に服従など存在しなかったのだ、今の今まで……。
この粗野な振る舞いしか持たぬ男にナディアは敗北し、衣服すら剥ぎ取られようとしている。
まるで全ての誇りが剥ぎ取られるような惨めを感じた。
両の腕をがっしりと押さえられ、片手でしっかりと顎を捕まれた。
霧空の唇が近づく……背けようとしても一ミリたりと動かせぬ。初めての服従、初めての口付け……。
ナディアは霧空の唇を受け入れた。
荒々しい息遣い。獣の匂いがした。
死にたい……唇を奪われながらナディアは、心底そう思った。
しかし、こうも思った。この男に力で押さえつけられ、奪われる。男を男とも思わぬ不遜が解け、ナディアの女性としての本能が目覚めた瞬間でもあったのだ。
王女としての誇りもこの男の前では無に等しい。この男は女としての自分を意識させた初めての異性なのだと……気付かされもしたナディアであったのだ。
適わぬものへの憧憬、初めて味わう粗暴な振る舞い。憎悪、憎悪、憎悪、憎しみしかないはずの眼前の男に……腑抜けのような身体。ないまぜの感情。混乱する思考……。
人生で初めて味わう敗北、服従、そして苦く甘い官能、身体の芯が痺れて脱力してゆく自分……。
堂々と闘い、その力に屈服したのだ。従うしかないのだと自分を戒めた。
ナディアは冷静だった。従うか、死か、二者択一、どちらを選んでも残るのは絶望。
柔らかく湿ったその豊穣を霧空は存分に味わう。
ナディアには抗う気力すら失せていた。
「我が舌を噛むなよ、おてんば。 噛んでみろ、ただでは済まぬ!」
言いながら霧空は固く閉じられたナディアの股間をこじ開けようともがく。
同時に、顕になった胸の隆起に沿って舌を這わす。
「ああ……いやぁ!ううう……」
ナディアの口元から思わず漏れるため息。気力が失せ、身体中の力が抜けていった。
「どうした、おてんば。もう抗うことを諦めたのか、ははは……」
ぐったりと横たわったナディアに霧空が勝ち誇ったように言い放つ。
「所詮、お前も女。男の強力の前では非力。強い男が好きかナディア……抗えぬほどの力を鼓舞され、所詮女の非力、男には勝てぬと思い知った気持ちはどうだ? お前にへつらう家臣共に取り巻かれて幸せだったかナディア」
そっぽを向き唇を噛むナディア。
霧空の片膝がナディアの股間に食い込む。
ナディアの脳裏に一瞬、獅子丸のはにかんだ笑顔が過ぎる。
「……ああ、獅子丸、た・す・け・て……」
初めての情け、口をついて出た弱々しい吐息に交じって獅子丸の名を呼んだことにナディアは驚き、ためらう。
愛しているのか……わたしは……獅子丸を……今、やっと気付いた。
わたしは獅子丸を愛している……。
生涯、誰の頼りなどもいらぬと思っていた。自分の身は自分で守れると信じてもいた。
それだけ剣の修行も、格闘の術も真摯に学んできた。
その自分が今、生涯の愛に戸惑っていた。
この期に及んで、今さら気付くとは……野蛮な外道に力づくで蹂躙されようとするまさにこんな時に……。
「獅子丸……あなたを愛しています。心から愛して……」
無遠慮な腕が強引にナディアの口を塞ぐ。
「俺の前で別の男の名を口にするなど許さん。無礼だぞ、おてんば! 涙の一つも流せば可愛いものを……」
真一文字につぐんだ口元のまま、睨みつけるナディア。
にやけた笑いを浮かべて見下す霧空。ナディアの裸身に心を奪われそうなおのが身を嗜める。
羽交い絞めにされ、身動きできぬナディアの最後の薄布一枚が霧空の右手にあった。
顕にされた股間には雪のように白い肌に交じって見え隠れする産毛のような陰毛、それを霧空の指がなぞる。
「……いや、いや、やめろ!くうう……外道、許さぬ……」
抗う反応を楽しむかのように満足げに見下ろす霧空。
「しかし、ききしに勝る美少女とはお前のことだなナディア。噂とはつくづく嘘八百ばかりだったが、竜頭蛇尾の類とは何度も出会ったが、噂に違わぬ、惑わされた男が数知れずとはよく言ったものだ。殺すのが惜しいくらいのいい女だ」
獅子丸への想いがナディアの反抗心を呼び戻した。愛するものへの操が諦めかけたナディアに勇気をもたらした。心は決まったのだ。死など恐るるに足りぬ。
「股を開けおてんば! 泣き叫べ! さもなくば命乞いをしろ!」
暫くナディアの貞操を奪うことに没頭する霧空に、つかの間の隙ができた。
女豹の素早さでナディアの膝頭が霧空の股間を直撃する。
「うぐうううう!」
悲鳴を上げてのたうちまわる霧空。
「きさま! ただでは済まんぞ! 幾度も侵した後、裸のまま晒し者にして、生きながら烏の餌にでもしてくれよう!くそ……」
股間を押さえながらジリジリとにじみ寄る霧空。その顔には未だに苦悶の表情が浮かぶ。
「それ以上近づいたら舌を噛んで死にます!」
剥ぎ取られた布を必死で纏いながらナディアは凛とした口調で霧空を見据えた。
視線を絡ませたまま、お互いに微動だにせず一時が過ぎた。
ナディアの決意を嘘ではないと悟る霧空。
ナディアの瞳には真珠のような涙が一筋……。
痺れを切らし霧空が言う。
「唇は許しても心は許さないと……そういうことか? おてんば、誰のために守るその操を!」
視線が交差して火花を散らした。
王女としての誇りを捨てぬナディアと、外道であっても数千の盗賊を束ねる名の知れた山賊の王……心の行き先は同じ。プライドを持つ両者、分かり合えぬ相手ではないと悟る。
「分かった、無理にとは言わぬ。俺もたかが一人の女を力づくで蹂躙など本意ではない。惚れさせてみせるぞ、ナディア。その身、自ら差し出すまでじっくり待つとしよう……立て、ちこう寄れ!」
「約束してくれますね、わたくしの本意を尊重すると……契りを……」冷静さを取り戻したナディアが言った。
立ち上がり、霧空に一歩近づくナディア。征服されれば、従うのが世の常、それを知らぬわけではない。
生きる術も幼い頃より叩き込まれた、それが王女としての勤め。本意でなくとも生きるために委ねるべきは運命。徒死には己のため、民のために絶対してはならない選択なのだと……。
霧空の眼光に負けてふらふらと力なく近づくナディア……身体を覆っていた薄布の小片が地面にはらりと落ちた。半ば抗うことを諦めていた。しかし、このまま蹂躙される恐れだけは断ち切った。
心のどこかでこの男の信条を信じていたのかもしれない。
掠めるほんの少しの善を信じた。それはプライドという心根。
羽交い絞めにされ、引き寄せられ、再度、唇を奪われた。霧空の体臭に咽んだ。
「許します……唇だけなら……」
そう言うのが精一杯の虚勢だった。
対等に闘い、力で負けたのだ、裸で抱かれているこの状況を許す以外に自分を納得させる術はない。
獅子丸への思慕と同時にゆらぐ心……。獅子丸への懺悔、滲む涙と裏腹に受け入れた外道の唇。
男の匂い、霧空の力量に圧倒されるナディア……この男に惹かれているのかもしれない。
この粗野で、荒々しさだけしか持ち合わせぬこの男に……。
知と武、全てに秀でた獅子丸とは正反対の男……。
圧倒される力の前に無力な自分を思い知るナディア……。
頑なな意識に針の穴のような一筋が浮かんだ瞬間であった。
程なくして血眼になってナディアの痕跡を追っていた獅子丸たちに風の噂が飛び込んできた。
山賊王、霧空の軍団に絶世の美女ありと……。
「わたくしを引き入れてどうするつもりだ外道」
「ここに居座ってもう弐月、そろそろただ飯を食らうのも飽きた頃だと思うてのう」
戸口に立った夜叉
やしゃ
がナディアを睨み続ける。
夜叉は霧空から寵愛を受ける女たちの中でもずば抜けて美しかったが、男人の格好であれ、ナディアの前ではやはり霞んでしまうのだ。
日頃、自惚れていた夜叉がナディアと対面した時、はっと息を飲むのを隠せないほどナディアの美麗は際立っていた。
襲撃の隊列ではいつも霧空の隣であった席が今ではナディアが埋めていた。
霧空の一番のお気に入りだと、ぞっこんだと言う噂が盗賊の間に知れ渡っていた。
「貴族からお宝をごっそり頂く算段をする前に下調べするには城下にある荒くれものが立ち寄る酒場が一番でな」
「下衆の考えそうなことだ。わたくしになにをやれと言うのだ。襲撃や戦には何度も加担したぞ、きさまが無益な殺生をせぬようにな、わたくしが諌めるためにだ!」
「くくっ、大きな声を出すな。まだ誇りを捨てられぬと見える。俺にその身差し出すのはいつだ?」
「ぶ、無礼な!」
霧空の首筋にナディアの手刀が飛んだ。顔色一つ変えず霧空はがっしりとその手を受け止める。
視線が交差して火花が散る。押し戻されるナディアの腕、にやけた笑顔の霧空。片手の杯を飲み干す。
夜叉が近寄り耳打ちする。
「ほうこの酒場の隣でか、それもまた一興。ついてこいナディア」
酒場の隣の母屋では盛り上がった歓声が響いた。賞金の出る格闘技の試合が行われていた。
「俺がなぜ民に人気があるか分かるか、貧しい民に頂戴した金品を分け与えるからだ、稼いでこいナディア」
抱きかかえたナディアを幾重にも縄の張られた格闘場に放り投げた。
「止めろ! 盗人がなにを言う。なぜこのわたくしが……」
場内の興奮がマックスを迎えた。絶世の美男子が登場したからだ。
ここにいる全ての観衆がこの男が打ちのめされる姿を想像して、興奮しているのだ。
「俺の剣を使え、ナディア! 己の身、守ってみよ」
長剣がナディアの掌に収まる。それを合図に馬鹿でかい図体の男が格闘場に姿を現す。
周りを囲む松明の炎が妖しく揺らいだ。
夜叉がいつの間にか霧空の隣に擦り寄った。その顔は狡猾な笑いで満たされている。
「お前たち、こいつを負かしたら、この女抱かせてやるぞ!」
夜叉を軽々と担ぎ上げ霧空が叫んだ。
夜叉は驚き、もがき、霧空の手を逃れようと暴れる。
賞金の他に絶世の美女が抱ける。荒くれものたちが盛り上がらないわけがなかった。
片や 痩身百六十弱、片や百キロ超、ニメートルを超える巨体。やる前から勝敗など目に見えている。
対峙する両者、距離が縮まる。巨体が持っていた斧を振り上げる。
「わたくしに構うな! 然もなくば切る。容赦はせんぞ」
「小僧、なんの虚勢だ。そのいけすかない面、粉々にしてくれるわ!」
騒いでいた夜叉が目を見張った。場内が静まり返った。霧空が満足げな笑みを浮かべた。
優雅に舞う、蝶のようにナディアは剣を振るった。
まるで宮廷の視線を一身に集める優美な踊り手が舞う姿そのもの。
力みなど一切ない自然体の剣が力ずくで振り下ろす斧をものの見事に振り払う。
その証拠に巨大漢の荒い息に比してナディアは寸分も切らしていない。
斧の一撃を受け止め、その体躯から想像もできないような素早さで剣先を巨大漢の咽仏に充てる。
「動くな! 一ミリでも動いたらお前は死ぬ」
「まいった……命だけは、お助けを……」
斧を捨てた巨大漢が呻いた。勝負はあっけなくついた。
静まり返っていた場内に「殺せ! 殺せ!」の大合唱が響いた。
大合唱の最中、二人目が名乗り出た。霧空だった。
「その剣、見切ったぞ。俺が勝ったらナディアお前を好きにするぞ!」
「外道に服従などありえぬ!」
その闘いは見事の一言。お互い一歩も譲らず、蝶のように優雅に舞うナディアと荒々しくも鋭さを増す霧空の剣。
五分の闘いが延々と続いた。いつしか、場内が静まり返り、観客は言葉も忘れ見入った。
「ええーい、小癪な!」
「見切ったのではなかったのか、外道!」
霧空の片手がナディアの首筋を掴んだ。
「うくくっ」ナディアの口元から呻き声が漏れた。
ゆっくりと頭上高くナディアの身体がずり上がる。
「殺して! 霧空、そいつを殺して」夜叉が叫んだ。
夜叉の叫び声に霧空の気が向いた。一瞬の隙を見逃さず、反転したナディアの足先が霧空の鳩尾に食い込んだ。
跪く霧空の咽元にナディアの剣先があった。
「どうした、俺が憎いのではないのか、一突きで俺の呪縛から解き放たれるのだぞナディア!」
歓声が一際高く響いた。それは、お互いを称える、まさに見事な闘いを賞賛する歓声の渦が母屋を満たした。
夜叉が霧空に駆け寄る。悔しさにまみれた顔でナディアを睨みつける。
「これで借りは返したぞ下衆。きさまなど死にも値しない外道だ」
剣を捨ててナディアは歓声に包まれた母屋を飛び出した。
わたくしはどうしたと言うのだ? あの闘いの最中、霧空を獅子丸に置き換えてさえいた。
命をかけた五分の闘い……心が一瞬でも躍ったのではなかったか、ナディア? わたくしは霧空を……。
見上げると満天の星空があった。獅子丸も何処で同じ星を見上げていることを祈った。
獅子丸の懐に抱かれて眠りたい。
流れ星が東の空に消えた。
「何を想う、おてんば」
英々と流れる雲を見ていた。地平の彼方まで続く茶褐色の砂漠。所々に影を纏う奇岩。
悠久の時は静かにその歩みを刻む。
この雄大の中にちっぽけな人間の生など無にも等しい。いわんや争いなど無益、無常でしか計れぬ世界、形あるもの、全てはいつかこのちっぽけな砂粒の一つになるのが運命
さだめ
。
わたくしはなぜ生まれ、どこへゆこうとしているのか?
獅子丸に逢いたい……獅子丸も懐で眠りたい……。
あの格闘場での一件以来、朗かに霧空の態度が変わった。
貴族を襲い、身包み剥ぐ襲撃にもナディアを連れず、ナディアの寝所にも見張りを立てなくなった。
ナディアを同行する時はいつも二人っきり。狩りをし、飯を喰らい、清浄な川の流れをみつめ、抜けるような青空の下で己の生い立ちを語る。
静かに語る霧空の傍でナディアはたた聞き続ける。雲の行く末、風の語らい、砂塵の歌に耳を傾け、満天の星空の下で、ナディアの膝枕で目を閉じる。
ナディアもまたそんな霧空を見つめながら眠りに落ちる。
平穏な日々が続いた。
まるで隙だらけのその成り、俺を倒し、いつでも出て行っていいと言わんばかりの態度。
相変わらず不遜ではあったが、朗かにナディアに対して敬意をはらっていた。
ナディアを自分に値するものとして認めた霧空。ナディアもまた心根が変わっていった。
「外道にわたくしの心など分からぬ」
「男か……それほどお前の心を掴んで離さぬ男とは……嫉妬するではないか」
「外道、わたくしの心など捨て置け! きさまなど、きさまなど!」
ナディアが見せぬ涙、一筋頬を伝った。霧空がそれを指で拭う。
千路に乱れてゆく心の色をナディアは疎ましく思った。これほど心を揺り動かされる男に出会ったのは二度目。
それがナディアを苛立たせる。
「なにが欲しい外道! なにゆえわたくしの心を乱す。わたくしを弄ぶことがそんなに楽しいか!」
乾いた風が一陣、二人を包んだ。霧空の心が決まった。
「ついて来いおてんば! ついてこれるのであればな、お前に最高の天翔黒馬を与えようぞ」
「わたしが欲しいのは霧空、お前の騎乗するその白馬だ」
言うと、ナディアが素早く霧空の操る白馬にまたがる。間髪をいれず咄嗟を付かれた霧空の顎にナディアの強烈な肘うち。
「な、なにを!?」
転げ落ちた霧空の驚いた顔が砂塵にまみれた。
「欲しいものは腕づくで手に入れる、それが外道、霧空の教えであったではないか、はははっ」
「くそっ! おてんばめ」
後塵を配した悔しさを滲ませた霧空が毒づく。
黒馬に飛び乗り、ナディアを追走する霧空。荒涼とした砂漠地帯に弐本の砂塵が舞う。
自由だった。ナディアが生涯始めて感じる自由であった。全ての束縛から解放された一瞬でもあった。
真っ青な吸い込まれるほどの藍色と茶褐色の景色の中で疾走する自由よ。
運命は自ら切り開くもの。王子に嫁ぐ決まりごとなど存在もせぬ。国もない。民もいない。王族の呪縛もない。
見え隠れする岩肌を巧みに除けながら二頭の駿馬が追走する。
このまま王族の呪縛を逃れ自由気ままに山賊の仲間となり、霧空の懐で生きるのも運命やもしれぬ。
しかし、ナディアの脳裏に浮かぶのは獅子丸の面影……。
「逃げる算段でもしておったか、お前の手綱捌きなら逃げ遂せたものを……」
「逃げる気など失せた……」
並走する白馬に飛び移る霧空。懐に身を委ねるナディア。
「俺のものになるか、おてんば!」
粗野な口づけ、霧空にしがみつくナディア。
「ならぬ! 力などではわたくしを奪えぬ!」
「まだ言うか! おてんば」
二人を乗せた白馬が一瞬の躊躇を見せた。立ち止まり、後足を蹴る。
強靭な体躯を擁する駿馬、二人を乗せたとて疲れたのではない。
「この先は千尋の谷。一緒に地獄まで落ちるか、おてんば」
ナディアが視線の先に見たのはポッカリと開いた谷底……霧空の懐に抱かれて落ちてゆくのもまた運命と悟る。
「ヒヒヒーーン」
鞭を入れられた駿馬は躊躇なく谷を目指す。目の前に大口を開けた谷底が現れた。
一蹴りすると二人を乗せたまま真っ逆さまに落下する。
「幸せであったぞ、霧空……」
首に巻きつけた腕に力を込めた。
「始めて俺の名を呼んだな。その言葉、聞きたかったぞ! お前のことは忘れぬぞ、おてんば」
ナディアはゆっくり目を閉じた。走馬灯のように蘇る記憶、幼き日が脳裏を巡る、獅子丸! 獅子丸!
落下の風きり音が止む。
白馬の背中が盛り上がり翼がゆっくりと現れた。
翼は陽光を浴び、羽ばたきは力強さを増す。
「飛べ! 天翔白馬。俺の想い、いまだ届かずだがな」
ナディアがその瞼を開けると、白馬は飛翔していた。
眼下にはどこまでも広がる褐色の砂、砂、砂。
はぐれ雲が手にとれるほど近い。
「ナディアよ、これを見せたかった。この大地を、この砂漠を、この平原を、俺はお前と過ごして変わったのかもしれぬ……俺は北の地を圧しよう。そして、お前にふさわしい男になろうぞ!その時は、その時は……」
「霧空……霧空、もう一度くちびるを……奪いなさい。口答えは許さない」
別れを悟ったナディアの霧空への思慕がこもった言葉だった。
大空の真っ只中、逸れ雲に抱かれて口づけを交わした。
たった一度ナディアは霧空の懐にその身を預けた。
主を失った天翔黒馬が白馬にぴったりと寄り添っていた。
遠く地平線に騎乗する三つの影が見えた。
白馬がゆっくりと着地する。
陽炎に揺らぐ三騎の影に白馬がゆっくりと近づく。
威風堂々とした三騎が砂塵のてっ辺にその姿を現した。
脱兎のごとく降り立ちながら獅子丸が叫ぶ。
「姫、姫! ご無事か、許さんぞ山賊、絶対に許さぬ」
白馬から降り立ったナディアが走りながら獅子丸の名を呼ぶ。
獅子丸の懐に崩れ落ちるナディア。
「逢いたかったぞ獅子丸! 獅子丸!」
ナディアは確かめるように獅子丸の懐に頬を擦りつけた。
「おのれ、山賊! きさまだけは許さぬぞ!」
獅子丸、霧空、二人の視線が絡んで火花が散った。
「お前がおてんばの意中のものか、なるほど相当の手練と見えるが俺にはどうかな、ふははは」
憤怒に燃えた獅子丸が姫を抱いたまま霧空に一歩近づく。
霧空の瞳には穏やかな光が宿った。ナディアを渡すに足る存在だと獅子丸を認めたのだ、その力量を……。
「想魔、轟力、手出しはするな!」
「獅子丸、止めて! 霧空、逃げなさい! ここから逃げて!」
必死に止めようとするナディアを引きずりながらなおも近づく獅子丸。
その眼光に燃える怒りは、いかにナディアといえど鎮めることなどできそうもなかった。
「獅子丸、お願い! わたくしの言うことが聞けないのですか!」
姫の必死の叫びにやっと我に返った獅子丸。ナディアを抱きかかえ、霧空に一瞥をくれる。
「ほう、あちらはどうやら頭(かしら)が心配と見えて身構えているようだな想魔」
「うむ、戦になれば確かにこちらが圧倒的に不利なのだが、今の獅子丸なら数千の敵など、一人で充分かもしれぬ。わっはっはっは」
南の地平には夜叉と数千の騎馬の軍団が待ち構えていた。大地が砂煙で揺れていた。
「生涯一度の幸せな時であったぞ、ナディア!!」
踵を返し、走り去る霧空の最後の言葉であった。
【その漆 愛は与え、愛は奪う】
満天の星空の下で松明が明々と辺りを照らす。すでに粗末な食事にも野宿にも慣れた。
「姫も獅子丸も素直になればいいものを……」
「轟力、捨ておけ。とにかく姫が拉致されたのは、我らが一生の不覚。獅子丸の心中いかばかであったか、無事に会えたのだ。あの山賊の頭領、霧空とか申すものも盗っ人らしからぬ振舞いよのう。姫様の気高き心根に触れてなにか思うところがあったのであろう。まっこと不思議なお方よ、姫様は……あれほどの悪人、その悪心をも味方につけ改心の情を植え付けなさる」
「お待ちくだされ、姫様! どこへ行きなさる」
「付いて来るな獅子丸、うっとうしい!」
「もう二度とあのような狼藉、お止めくだされ! 姫様とて許されぬこと」
「わたくしがどう生きようとお前には関係ない! わたくしはディーン国の后の身、決まった運命など! 山賊の仲間になり自由を……」
「お止めくだされ、そのようなこと、父王が嘆かれますぞ。姫様、わがままが過ぎます!」
振り向いた姫の目に涙が一筋。獅子丸は始めて姫の涙を見た。
「助けに来るのになぜこんなに時間がかかった、獅子丸。遅すぎるではないか! わたくしはお前を信じておった。なによりもわたくしを心配し、わたくしの身を案じ、だから、すぐ助けにくると思っていた!」
「申し訳ありませぬ、申し訳ありませぬ」跪く獅子丸であった。
「わたくしを好いていたのではなかったのか、獅子丸。わたくしを愛おしいと思っていたのではなかったのか獅子丸」
砂漠に浮かぶ二つの月、満天の星空、そして、言い争う二人……この一瞬だけは愛し合うものだけの世界。
明日からはまた別れの旅が始まるのだ。
「焦がれておりました。姫のことを……一寸たりとて忘れたことはございませぬ!」
「ならばなぜ早く来なかった。許せない、どんなにわたくしがひどい目にあったか分かるか獅子丸。全部、お前のせいじゃ。なぜ、すぐ救いに来なかった!」
「申し訳ありませぬ、わたしの不徳のいたすところ、姫様には辛い思いを……」
「ならば、なぜ抱いてくれぬ! なぜ懐で眠らせてくれぬ! なぜ愛していると言えぬのじゃ!」
「身分が違います! 恋することなど許されませぬ!」
「獅子丸、わたくしが欲しければわたくしを奪え! きさまの豊穣の愛でわたくしを汚せ!」
「姫様、姫様……それだけは出来ませぬ」
「わたくしを奪え、獅子丸! 口答えは許さない!」
飛び込んできたナディアを獅子丸は精一杯の力で抱きしめた。
「抱きしめたい。いつもそう思っておりました」
泣きじゃくるナディアを獅子丸は更に強く抱いた。
「お慕いいたします。例え一国の后になろうとも、この心に留め、生涯変わらぬ愛を誓いましょうぞ、姫様」
獅子丸にもそれは抑えられない衝動だった。ナディアへの思慕が一気に解き放たれた瞬間であった。
長い、長い抱擁の後、ナディアは言った。
「許します。口づけなさい……」
その口づけはナディアの涙とともに獅子丸の心に深く、深く降り留まった。
その頃、轟力も想魔もそれぞれナディアが戻ったことに安堵し、物思いに耽っていた。
赤々と燃える焚き火のゆらめきにさもすれば眠気と闘う轟力。想魔は相変わらず五感鋭く辺りに気を配る。
旅もすでに半ば、轟力はその道程に思いを馳せる。
「轟力様、子守唄でも歌ってさしあげましょうか……」
焚き火に揺らぐ轟力の影が分かれ、二つになった。
横たわった轟力に膝枕する愛里が現れた。
「想魔様が力を貸してくれました。わたくしはいまだ導師の封印が解けておりませぬ。一人ではどうにも轟力 様の前に実体できませぬ。でも、例え影にいようともいつもお慕いしております」
「可愛いやつよ、愛里……そうか想魔がお前をか……」
「帰る場所のないわたくし……一生を貴方様のそばにいとうございます」
起き上がった轟力が愛里を抱きしめた。愛里はその胸板に安心しきったように目をつぶる。
「昼間の光の中ではいまだに実体化できませぬ。月明かりなら弱々しくも轟力様に会えまする」
轟力に愛しさが募る。俺はお前を守る……それが救ったものの努めと誓った。俺の命に代えてもお前を守る。それこそが絆、それこそが運命。
「これが恋というものか……」
寝顔を見つめる轟力が一人語つ。抱きしめた腕に力を込める。愛里はさらに轟力の胸に身を沈めた。
月を映した可憐な瞳が轟力を見つめる。その身体は小刻みに震えていた。
「なにを怖がる。俺がついておる愛里」
「この幸が果たして現実なのか、わたくしには……恋しゅうございます、轟力様。いつまでもお傍に置いてくださいませ」
「お前の震えを止めてやりたい。どんな事情があるにせよ、なにも聞くまい。俺はお前の生、背負うと決めた」
「この幸が怖いのです、轟力様。わたくしの人生はグランジで終わったものと思っておりました。恐らく、わたくしが生きているという事実。このままでは、済まされませぬ」
愛里の瞳に満天の星が浮かんだように見えた。涙が溢れた。愛里は更に強く轟力に縋り付いた。
「なにも言うな。安心しろ、俺の心はそなたのものよ」
くちずけをせがんだのは愛里。涙で濡れた頬を引き寄せたのは轟力。
月明かりの中で二つの影が一つになった。
「想魔、見張りを変わろう。一時の睡眠を、疲れたであろう」
「姫様は就寝なさったのか?」
「うむ、余程疲れていたのか。熟睡しておられる」
「どうするつもりだ獅子丸。姫の気持ち、鑑みればこのまますんなりとオーディンの王子の后に収まるのか どうか、なにしろ信念を曲げぬお方だからのう」
「姫様は姫様、王女としての信念、赤子の頃より叩き込まれておる。自らの命運よりも国の民のための信念、その信念を疑うとは、想魔、無礼が過ぎる」
「いいのかそれで、獅子丸。その信念の行き着く先に姫の幸はあるのか? 姫を愛おしいとは思わぬのか?」
「想魔、俺にどうしろと言うのだ。姫を浚って遠方へでも逃避行か? 国の父や母はどうする。家臣の身なのだぞ、父王は激情のお方。ただでは済まぬ……それに、家臣の俺が国を裏切れると思うか?」
「分かっておる、お前の忠義は心からのもの。しかし、それでいいのか姫もお前も……悔いはないか」
沈黙の間合い。静けさが更に募る……満天の星空、交わらぬ二つの月のようだと獅子丸は思った。
「悔いはない! 姫もそれが運命と……俺の姫への気持ちも……。例え、后になろうと、離れようと変わらぬと誓った」
「どれ、少しの仮眠でも取るとしようぞ……」
「うむ、想魔。話せて心の支えがいくぶんか晴れた。今の話、忘れてくれ。他言も無用ぞ」
想魔は軽く頷き、寝床にもぐりこんだ。
「俺がどれほど恋焦がれようとも、この運命は変えられぬのだ」想魔の背中に獅子丸は呟いた。
交わらぬ月は、相変わらず死んだ光を煌々と放ち、闇に包まれた大地を照らし続けていた。
麗しのナディア-The beautiful Nadia
登場人物 覚書
東の超国 ユグドラシル
女王ナディア 本編主人公 おてんばで気が強く剣の腕は並みの男より鋭い。絶世の美少女と謳われる。その瞳に魅入られしもの数知れず。
三人の従者
リーダー;獅子丸(シシマル)
ユグドラシル王の家臣の出。国一の美男と謳われし美貌の持ち主、知に力、両方にひいでる、冷静、沈着、
魔剣 蛇頭剣と龍尾剣、二刀流の使い手
;想魔(ソーマ)
女とみまごうほどの眉目秀麗な弓の達人、文武両道に優れる。
痩躯だがうちに秘めたるは鋼の血肉
;轟力(ゴウリキ)
体躯2メートルはあろうかという威風堂々とした男、 槍の達人、豪放磊落
彼の使う槍は二種 聖槍(ロンギヌスの槍)とアキレウスの槍(トロイ戦争の英雄アキレウスの槍。この槍で受けた傷は普通の治療で治らず、この槍の穂先を削った粉末を掛けることでしか治らなかった。)
キケロ台地あるいは西の台地及び東の湖 ミーミルの泉を縄張りとする;ロック・ピープル(半獣、半人、プリ・ヒューマン)
デランジェ;ロック・ピープルが操る巨鳥
デランジェ・リン:巨鳥の王 想魔に思慕を抱く・・・
九死の谷(ナイン・デス・バレー)に住む山賊の王、霧空(キリアキ)
霧空の恋人 夜叉(ヤシャ)
霧空の愛馬 天翔白馬、天翔黒馬
大蛇(オロチ)霧空の家来
石竜子(トカゲ)霧空の家来
走狗(ソウク)霧空の使い走り(間者・スパイ)
麒麟(キリン)
想魔たちが駆る駿馬に似た四足獣。
一日千里を駆けるという強靭な四肢、その姿、まごうことなき獣にて、調教すること違わぬと言われた伝説の生き物。
オラトリオ・レイダーズ(賞金稼ぎの集団)
頭;アマディウス
フィゲーロ 子分たち
グランジ(巨大なワーム(芋虫)の消化域で作られる麻薬
東方幻想郷;魔導師 鬼目羅(キメラ) 愛里の父
愛里(アイリ);轟力に助けられた 生け贄の少女 東方幻想郷の出
グランジ・ヘヴン(グランジの都の正式名称またはグランジで酩酊してる状態)
西の大国オーディン 王子エッダー ナディアと婚約の契りを交わした王子
中央の湖 エトラーダに住む人魚姫 静憐(せいれん)