エミルとスタルニス

エミルとスタルニス

 1・クルコエ

 私はヌイノフスク村の近くにあるクルコエという集落に住んでいた。私の名前はエミル今年の6月で17歳になった。私の母は私がまだ幼い頃にガンを患い満足な治療も受けられないまま27歳という若さで亡くなってしまった。
 母が亡くなってから父と私は寄り添うように生活し、父はずっと一人で私を育ててくれていた。親子二人っきりの生活が一変したのは今から四年ほど前、戦火が激しさを増し私達の暮らしていた町でも大きな被害が出た事が切っ掛けであった。
 父は戦場と化した町を離れ故郷であり祖母が暮らしているクルコエの集落に非難する事を選んだ。暮らしていた町からクルコエまでの道のりはまるで数百年前の旅のような過酷なものだった。父と私は戦闘地域を避けながら約一か月ほどかかって命からがら祖母の家へと辿り着いた。
 クルコエに身を寄せてから半年ほどは祖母と父と私との三人で寝食を共にしていたのだが、もともと職の無いクルコエでの暮らしは苦しく生活は直ぐに行き詰まる事となり、父は集落に私をおいて隣接の自治共和国へと出稼ぎに行くことを決めた。
父が出稼ぎに出てからは父の仕送りと祖母の畑とで貧しいながらも暮らしていく事ができるようになった。祖母はいつも私にやさしく接してくれ“来年からは学校に行かせるから”が口癖になっていた。
 そんな祖母が突然たおれたのは私がクルコエに来てから二年目の秋の事だった。祖母の意識は戻ったものの容態は回復する事はなく、どうにも出来なくなった私は集落にたった一台だけある携帯電話を借りるために大叔父の屋敷へとむかい祖母の状態を父に知らせる事を思いついた…
 大叔父のイグシ・クルコはクルコエ集落の一切を取り仕切るクルコ一族の族長であり直系ではない私達でも何か事が起こった時には必ず大叔父に話を通さなければならないという一族の掟があった。この頃の私は集落についても大叔父についてもあまりに知っている事が少なくこの掟でさえ私達家族を大叔父が助けてくれるためのものだと信じていた。
 今にしてみれば祖母は大叔父から私を遠避け関わり合いをもたないようにしてくれていたのではないかと思う。これまでの祖母の思いや行動に私はまったく気付く事が出来ずに祖母に何も相談しないまま大叔父に助けを求めてしまったのである。
 十数分をかけて大叔父の屋敷へと辿り着いた私は祖母の容態を詳しく話し父の連絡先に電話をさせて下さいとお願いをした。事情を聞いた大叔父は同情する事もなくあからさまに迷惑そうな顔をして自分達の事は自分達で解決しろと言い放った。
 私はその言葉に怯えながらもなんとか頼みこんで電話を貸してもらいこれまでの経緯と祖母の状態を父に伝える事が出来た。話を聞いた父はなんとかしてお金を工面して近日中に祖母と私を迎えに来る事を約束してくれた。私は電話の内容を大叔父に報告して、何度もお礼を言って祖母の待つ家へと急いで戻った。
 それからは毎日祈るような思いで父を待っていたのだが、父からの連絡は一週間たった後でも一切無く祖母の容態も日に日に悪くなっていた。私はこの事を見舞いにやって来た祖母の義理の姉にあたるナタレに相談をすると、その日の中に大叔父が家へとやって来て祖母をヌイノフスクの養老所へ連れて行く事と、大叔父のツテで父の消息を調べる事を私に言うと大叔父はすぐさま祖母を車に乗せて養老所へと連れて行こうとした。
 私はせめて祖母の身支度をさせてほしいと懇願したのだが大叔父は話を聞こうともせずにそのまま祖母を養老所へと連れて行ってしまった。ひとり家に残された私は次々と湧き上がる不安の中、大叔父からの連絡を待ちつづけた。
 大叔父が家にやって来たのは三日後の朝の事だった、食卓の椅子に腰を下ろした大叔父はまず祖母の容態を話し始め祖母の病状がもう良くなる見込みは無くあと一年も持たないだろうと語った。私は涙ぐみ現実に打ちのめされていると大叔父はつづけて父の情報について教えてくれ、父の消息がドミニスタン自治共和国を出国したところまでで途絶えてしまった事、何人かの国境警備兵に金を渡して情報を得ようとしたがまったく情報が無く行方がつかめないと話した。大叔父の推測では連邦軍の憲兵によって拘束されたか、連邦軍の掃討作戦にまき込まれたのではないかとの事だった。
 私がいたベズロア自治共和国では9年ほど前からロシスキ連邦からの分離独立運動に端を発する独立紛争と内戦状態がつづき近年では独立派のゲリラ化によって再び連邦軍による軍事介入の事態に陥っていた。ほぼすべての町や村が空爆を受け大規模な地上戦が展開されると同時にベズロアの国境線は連邦軍によって完全に封鎖されていた。
 大叔父の話しでは通常、国境線を越える為にはマフィアの仲介を受けるか国境警備兵に金を握らせる事で国境を通過出来るのだが、時折なんの容疑も無いまま越境者が拘束され各地にある強制収容所か選別収容所に送られる事があると言うのだ。
 大叔父は収容所の収容者リストに父の名前がないかどうか探してもらっているところだと語った。私は自分がこれからどうやって生きて行けば良いのかと言う不安と自分が感じていた恐怖が現実になろうとしている事実に打ちのめされ、私は我慢することも忘れて迷子の子供のように涙を流していた。
 私の様子を凝視していた大叔父がとても厳しい表情をして、祖母が集落の家長達からたくさんの借金をしていた事を私に教えてくれた。大叔父は各家長と話し合い祖母の借金を大叔父が全て肩代わりをして、私を自分の屋敷に引き取ることで家長達と話がついたのだと語った。そしてこの話し合いは家長達の合意であるため、私が拒否する事は出来ない事と今から家を出る仕度をして昼過ぎには大叔父の屋敷に向かえるようにと言われた。
 私はこのとき大叔父の言う事を疑いもせず、借金を肩代わりしてくれたうえに私の面倒を看てくれると言った大叔父に涙を流しながら何度もお礼を言い何度も謝り続けた。大叔父が屋敷に一端戻った後、私は部屋の片付けと家を出る仕度を始めた、部屋の片付けが終わりカバンに衣類を詰めているとき私はもしかして父が帰ってくるかもしれないと思い“大叔父様の屋敷でお世話になっています。”とだけ書いたメモを残して中断した荷造りに手を戻した。私は衣類の他にも家族の写真や祖母が大切にしていた品物をカバンに詰めて大叔父が家へと迎えに来るのを待った。
 大叔父は正午を一時間ほど過ぎた頃、ハトコにあたるアンドレとアバニ兄弟と一緒に小型トラックに乗ってやって来た。大叔父は家に着いてもなかなか降りてくる気配を見せず車の中でアンドレ達と話しをしているようだった。ようやく車から降りた大叔父は玄関先に並べられた私の荷物を見て、着替え以外は全て置いていくようにと言い私にカバンを開かせ荷物を一つ一つチェックし始めた。
 大叔父はカバンの中から祖母と私の身分証や写真など、衣類以外の物を取り上げ傍らに居たアンドレへと手渡していた。アンドレとアバニは家にやって来た時から終止無表情でその雰囲気は何処と無く怒っているようにも見えた。私はもしかするとアンドレやアバニの家にも祖母が借金していたのではないかと思い、私はまともに二人の顔を見ることが出来ずこの一連の不可解な大叔父の行動にも疑問は感じたが、その事に何か言う事は無かった。
 大叔父は家の中を片付けるので車に乗って待っているようにと言うと私を置いて三人は家の中へと入っていった。私は言われるがまま車で待っていると三十分ほどして家の中から大叔父だけが出てきた、大叔父は時間が掛かるので先に私を屋敷に連れて行くと言ってトラックのエンジンをふかし大叔父の屋敷へと車を走らせた。車の中で大叔父は一言も声を発する事は無く,屋敷に着いてからも“後を頼む”と長男夫婦に言ってすぐに屋敷を出て行ってしまった。
 大叔父の屋敷には長男夫婦をはじめ四世代8人が同居していた。長男のイグシスが、大叔父が帰って来たら今後の話をするので居間で待っていてほしいと言われた。私は居間でお茶を飲みながら数時間大叔父の帰りを待っていた、大叔父が屋敷に帰って来たのは午後の六時をまわったところだった。
 大叔父はナタレと私の従姉違いにあたるタラを一緒に連れて来ていた。大叔父はイグシスに息子のイルスも同席するように伝え、大叔父、ナタレ、タラ、イグシスにイルスの六人で話し合いは始まった。
 話は主にタラが話しをしていた。話の内容はとしてはこの屋敷での生活の仕方についての事で、まず私は屋敷のはなれにある納屋にあしらわれた部屋で寝起きする事と、朝から夜までは屋敷の仕事をすること、そしてこれは大叔父が直に私に言い付けた事だが屋敷の敷地外へは出ない事と、大叔父が許す集落の人間以外とは絶対に話をしてはいけないという事だった。
 私がなぜ大叔父がその様な事を言うのか解らないという表情をしていると、ナタレが口を挟むようにして大叔父が祖母との話し合いの中で私を責任をもって守って行く事を約束した事と、集落の中には祖母を悪く思っている人々や私を集落から追放しようとしている人々がいる為、私を守るために必要なのだと言われた。私はこの時そんな大叔父の思いに応えるために堅信的に屋敷で働こうと心に決めた。
 最後にナタレが付け加えたのは、この言い付けを守れない場合は私がこの集落で生きていく場所は無いと言われた。この集落でしか生きて行く術を持たない私が、この集落を出ると言う事が何を意味しているのか無知な私でも十分承知しているつもりでいた。
 私は言付けを守る事を約束して話し合いが終わったのは午後の九時ごろ、その後食事を頂いて私は寝床である納屋の部屋に向かった、そこには小部屋が設けられていてベットもサイドテーブルもしっかりとした物が置かれていた。それは私の為に用意された物というより前々からここにあった物のように思われた。
 この小部屋が何に使われていたのかは数週間後、集落に連邦軍がやって来た時に解るのだがこの時の私は客人が泊まる部屋だろうか?としか思わなかった。私はこの日を境に何も課され無い子供から、何かを背負い続ける大人になって行ったような気がする、それが例えどんな事であろうとも私の人生を背負って行けるのは私しかいない事を、私は骨の髄まで思い知る事となるのである…
 次の日から私にとって単調で過酷な毎日が始まった。朝は日の出前から起きて羊とヤギの飼育小屋の掃除をしてから藁を敷き、餌と水を入れ替えた後は鶏小屋へと向かう、鶏小屋ではタマゴを拾ってから屋敷へと戻り昼食の準備が始まる。
 昼食が出来上がるとまず男性達が昼食をすませ、その後に我々女性達の遅めの昼食が始まる。昼食は主にパンかパイと野菜のスープか羊のスープでひじょうに質素なものだった。昼食を済ませた後の数時間は決まった仕事は無く、家畜小屋の整理や敷地内の菜園の手伝い時には屋敷の家事などの仕事をして、夕方からは夕食の準備を手伝った。
 なぜかは解らないが私は夕食を屋敷の人々と一緒にとる事を許されていなかったため、私は小部屋へと戻り一人で夕食をとり、夕食を済ませた後は食器の片付けや台所の掃除などを済ませたところで一日の仕事が終わる。仕事が終わった後は自分の服を洗濯したり洗髪や身体を拭いたり自分の身の回りの事をする、小部屋のベットに入る頃には真夜中になっている事が多かった。
 この様な一連の仕事が季節の移り変わりに合わせて徐々に変化して行く日々を送っていた。私がこの屋敷で働き初めて数週間が過ぎた頃、連邦軍の兵士が何の前触れもなく屋敷へとやって来た。
 丁度その時私は屋敷の入口で靴を磨いていて背後から近付いて来た兵士にまったく気がつかず、不意に声を掛けられた事に私は驚き、兵士の姿と肩に掛けられた自動小銃に恐怖を覚えうろたえていると、奥からイグシスの妻のミールがやって来てその兵士と話を始めた。
 兵士は族長のイグシと話がしたいとの事だったのでミールは私に大叔父はナタレの家にいるので呼んできてほしいと頼まれた。私は急いで屋敷を出ると通りには装甲車が二台と軍用車が一台止まっていた、ナタレの家までは五分ほど離れていて、私がナタレの家にたどり着く前に急いで家敷に戻って来ている大叔父と道端で出会った。
 私は連邦兵が屋敷にいて大叔父と話をしたがっていると伝えると大叔父は“解っている”とだけ言い一緒に帰ろうとした私に大叔父の末息子の妻で未亡人のナターシャとナタレの孫のアニヤを連れて来るように言われた。
 私は何故だろうと思ったが、とにかく急いでナターシャの家に行き大叔父が屋敷に来るように言っている事を伝え、アニヤを探して集落の至る所を探し回った。
 アニヤとカノマは双子の兄妹で共に軽い知的障害があり一度家を出てしまうとなかなか家に帰ってこないと言うクセがあった。私がアニヤを見つけたのは集落中を探し回って一時間ほどたった頃でアニヤは集落の子供たちと遊んでいる最中だった、私は話が通じるようにゆっくりと話しなんとか大叔父が呼んでいる事を伝えるとアニヤは何故か嬉しそうに、そしてイヤラしい笑みを浮かべていた。
 私はとにかくアニヤの手をとり屋敷へと急いだ、屋敷に戻ってみるとそこではすでに宴会が始まっており多くの兵士が木の箱の上に座りながら酒を飲み焚き木で暖をとっていた。数人の兵卒は屋敷の中や納屋の方に何かを運び込んでおり、私の部屋がある納屋の前では将校と思われる士官がナターシャと楽しげに話しをしている姿が見えた。
 この時私は以前父と祖母が話しをしていた内容が不意に頭によみがえった。その話の内容とは大叔父が武器の横流しをして現金収入をえている事と武器を横流しをした連邦兵に村の女を提供し慰安をさせていると言う内容だった。
 私がこの話を耳にしたとき慰安と言う意味を理解する事は出来なかったが、初めて見たナターシャの笑顔やアニヤのイヤラしい笑みを見ていったいどんな事があの小部屋で行われて来たのかをいっぺんに理解する事が出来た。
 私は何とも言えない恐怖が自分の背中に迫っているのを感じて、アニヤの手を握りながらただ身体を強張らせていると突然屋敷の方からアニヤを呼ぶ声が聞こえた。私はアニヤを行かせたくない思いで手を強く握ったが彼女は私の手を振り払って笑顔で屋敷の中に入っていった。
 屋敷の中からは大叔父が何かをアニヤに話している声が途切れ途切れに聞こえて来た、私は何も出来ずに屋敷の前でたたずんでいると大叔父が玄関先にやって来て私が屋敷の外に出た事の罰だと言って明日の夜まで食事を抜きにする事と明日中に小部屋を掃除をする事、そして明日までは大叔父の前に姿を現すなと言われた。
 私は震える声で返事をしてその場から逃げるようにして飼育小屋の方へ走っていった。飼育小屋に入るとそこにはイルスとイサの兄弟がいて足元に置かれた木箱を囲んで連邦兵と話をしていた。私の姿を見たイルスが私にむかって今日は小屋の仕事はしなくて良いから此処には近付かないようにと注意をした。私は連邦軍と屋敷の人々の目に付かない場所を探したのだが、結局私の納屋の裏手しか場所を見つける事が出来なかった。
 私はうずくまり薄手のボロまとって、ただこの状況が早く過ぎる事を祈っていた。そして私の頭の中では“次は私が相手をさせられるのでわないか”と言う恐怖を打ち消そうと“大叔父はクルコエを守るためにこんあことをしているんだ”とか“大叔父は祖母と約束をしたのだから私を最期まで守るはずだ”とか何の根拠も無い事で頭を一杯にしていた。
 時折聞こえてくる連邦兵の大騒ぎや話し声、そしてあまいナターシャの声や叫び声のようなアニヤの声、私はそれらが聞こえて来る度に耳を塞ぎ身体を硬くした。そして外の寒さはボロや藁を使ってもとてもしのげるものではなく体の震えは筋肉を痛めつづけていた。
 この日の将校達はアニヤが気に入ったらしく、ナターシャが夜半過ぎに帰ったのに対してアニヤは一晩中さけんでいた。アニアの声が止むのと同じ頃、連邦軍の車両のエンジン音が辺りに響きわたり、この恐怖と寒さの長い夜の終わりと不安にさいなまれつづける日々の始まりを知らせていた。
 アニヤが肌着一枚で抱えられる様にして納屋を出た後、私は大叔父に言い付けられた通りに人間の肉の臭いが残る小部屋に入り将校達やナターシャやアニヤの残していった物を片付け始めた。この小部屋には窓などは無く充満した臭いは私の頭に突き刺さるようで、私は幾度と無く吐き気に襲われ涙がこぼれそうになった。小部屋の掃除は昼ごろまで掛かった私は大叔父に会わないようにしながら眠気と空腹の中、与えられた仕事を終え一日半ぶりの食事を未だ臭いの残る部屋で頂いた。
 外では昨夜屋敷に運び込まれた武器をトラックに積み込み山へと出発する準備をしている。私はこの時何も考えないようにしてこの地に漂っている不安から逃れようとしていた。何故連邦兵達は自分達の敵であるゲリラに武器を与えているのだろうかと言う初歩的な疑問が湧いて来るのさえずっと時間が経ってからで、その答えが見えて来たのはつい最近になってからの事だった。
 私は大叔父を恐れ連邦兵を恐れやはり紛争の只中にあるこの集落を恐れ、どんなにおぞましい事が行われていようともそれを普通の事として生きる集落の人々を恐れた。その後も連邦兵は月に一度か二度集落にやって来ては武器を売り、それなりに安全な女を抱いていく、私は小部屋を出ている間、隠れている場所を見つける事だけに集中するようになっていた。
 真冬の寒さをしのげる場所は一ヵ所か二ヵ所しかない、私はその場所に連邦兵がたむろっていない事だけを祈る、連邦兵が来て私が身を隠し浅い眠りに着くまで、その祈りが一晩中続くうつむきながら歩く事が多くなった、いつも誰かに狙われている様な恐怖感で一杯になっていた。そんな毎日がゆっくりと過ぎて行き重い季節が次々と移り変って、屋敷に来てから一年が過ぎた頃、祖母が肺炎をこじらせて亡くなったと言う報せが屋敷に届いた。
 祖母の亡骸はナタレの家に運び込まれた、大叔父が自分の屋敷に運び入れる事も自分の屋敷で葬儀を行うことも拒んだからだった。私は何としても葬儀に出席して祖母の埋葬に立ち会いたいと頼んだ、この時ばかりは跡目のイグシスも妻のミ-ルも私を励まし、私の側に付いて大叔父に葬儀に行かせるべきだと進言してくれたのだが、かえってそれが大叔父の勘に障ったらしく結果的に私は屋敷の物置部屋に閉じ込められる事になった。
 物置部屋へと閉じ込められようとするその時、私は泣き叫び出来うる限りの抵抗をした。大叔父は私の髪を掴み私の顔を何度か殴った、私はそれに対して小さな子供がするように柱にしがみ付き更に大きな声で泣き叫ぶと、大叔父は木の杖を持ち出し私の顔や身体を殴り始めた、私がその痛みで泣く事も叫ぶ事もやめその場にうずくまっていると、大叔父が私の腕を掴み老人とは思えない程の力で私を物置部屋へと放り投げた。
 今思えばこの時が大叔父から受けた初めての暴力であり、それは私がこのクルコエを出るまで些細な事でも行われる年中行事となってしまった。私は祖母の葬儀と埋葬そしてベズロア人の仕来りである墓の前での墓守が終わる一週間もの間、この狭くカビの臭いが漂う物置の中ですごし食事もトイレもここで済ませた。
 全ての世話をしてくれたのはミールだったが、自分の排泄物の入ったバケツを手渡す時が何よりも恥ずかしく死にたくなる程の屈辱感でいっぱいだった。涙ぐみ小刻みに震えながらミールは「気にしなくて良いのよ、墓守が終わればお父様も許して出してくれるわ、それまでもう少し我慢してね」と言ってくれた。
 ミールには本当に申し訳ないと思っている、この屋敷に来てからというものミールは私の世話係であり指導役であった。私の不出来の事でミールが叱責される事や私の失敗で大叔父に殴られるのを何度か見ていた。彼女もまたこの屋敷に嫁いで来た時から私がされた様にして大叔父に躾けられて来たに違いなかった。
 大叔父はまさにこのクルコエの皇帝であり、大叔父には集落全員の生殺与奪の権利があり、全ては大叔父の思いひとつなのだ。大叔父は酒を飲み酔っ払うとよく言う台詞がある、それは“ヌイノフスクの連中は誰のお陰で生きていられると思ってるんだ”と言う台詞で、大叔父が軍やゲリラとの関係を持っているから村が空爆されないと言う事らしかった。父と祖母が大叔父と距離をとっていたのも、父が集落を出て町で暮らしていたのも、この様な大叔父の態度に縁る所が大きかったのではないかと今では思う。
 墓守の一週間がたち物置部屋から出た後の私の立場は大きく変わっていた、それは屋敷の人々はもちろん集落の人々全員が私が居るにもかかわらず居ないものとして私を扱ったのである。
 会話はもちろん挨拶さえもされなかった、私に用件がある時は全てミールが伝えに来た。そのミールですら私と話す事を止められているらしく用件だけを伝えると、そそくさと私の前から姿を消すのである。この制裁は私にとってとてもキツかった、大叔父に罵倒されながら意味も解らず殴られるよりも、ずっとずっとキツかった。
 私は私自身の存在を認識出来なくなるほど心はカタくなって行き、本当にどうやって話をしていいのか解らなくなった。夜一人で部屋に居る時などは、声を出す事が出来るのか不安になり、独り言をつぶやいてみる事が何日も何日もつづいていた。
 私はもうこの頃からかなり集落の厄介者になっていたのではないかと思う、それは集落の人々の態度を見れば明らかだった、けして大叔父に強制されただけではない私に対する嫌悪があった。私が仕事もろくに出来なかったとしても今迄のように誰かが注意する事もなく、仕事が早く終わったとしても誰も気に留めない、私は何もせずただ立ちすくんでいる事が次第に多くなっていった。
 一日数回のミールの指示が待ちどうしかった、私というものが存在している事を確認出来る瞬間だったからだ。同じ理由で連邦兵が来たときに私に掛けるイヤらしい言葉も、ハトコのロザルがすれ違いに見せるあのイヤらしい目付きも、本当に本当にイヤだったが心の奥底ではそれを待ち望んでいた。そんな自分がとても許せなかった、とても嫌いだった。大叔父の意に沿わない事をすればどうなるかと言う事を心に刻まれた、私は大叔父の呪いに落ちてしまっていた。今や父が帰ってくる可能性は限りなく低く祖母も亡くなってしまった。私をこの呪いから助け出してくれる人は何処にも居なかった。心がきしむような毎日の中で、私はただ献身的に振る舞い自分に掛けられた呪いが解ける日が来るのを待ちつづけていた。
そして転機は突然訪れた。それは小麦の種まきが始まろうとしていた春の初め祖母が亡くなって半年が経とうとしていた時だった。
 大叔父の孫にあたるアンドレ、アバニ、マジルが大叔父がらみの商売で数ヶ月のあいだ集落を出なければならなくなり、小麦の種まきに必要な人手が足りなくなったのだ。
 そのため村にいる少女数人と共に私も畑の耕しを手伝う事になったのだ。私はこの話を聞いた時、心の奥底から湧き出る喜びを隠す事が出来なかった。話を持ち込んだミールに感謝の言葉を言い、何度も満面の笑みをかえした。私を使う事を決めたのは大叔父だが、私を外に出す事はやはり気の進む事ではなかったようで、私は新たなルールを追加され出来るだけ集落以外の人間の目に付きづらい場所での作業を任された。
 仕事はきつくルールは厳しかったが毎日屋敷の外へ出れる喜びは、何物にも変えられない時間になっていた。集落の人々は相変わらず私と会話をせず仕事以外の話はまったくしなかったが、そんな事はどうでも良くなる程の開放感の中で毎日をすごしていた。
 日に日に暖かくなる空気と次第に色付く景色は、私の心に確固たる秩序を与え大叔父や集落の人々との関係を改善するための勇気を沸き立たせていた。そして畑の耕しも残りわずかとなったある夜、屋敷の方から驚くほどの怒鳴り声が聞こえて来た。
 声の主はやはり大叔父であり怒鳴られていたのは、三十分程前青い顔をして屋敷にやって来た大叔父の三男ルコエとノーマの夫婦であった。大叔父は物凄い形相で屋敷を出てきて大声でイグシスを探し出した。私はその恐ろしい表情にたじろぎ思わず身を隠して一部始終を覗き込んでいた。
 納屋の奥から現れたイグシスに大叔父が何かを早口で伝えるとルコエと共に車に乗り、イグシスの運転で何処かへと走り去ってしまった。私には何が起こったのか想像もつかなかったが、一人残されたルコエの妻ノーマが泣き崩れミールに慰められている姿を見て、これはただ事ではない事が起こっていることに気がついた。
 ノーマは“なんて事をしてしまったの”とか“なんでこんな事になってしまつたの”と言う言葉を繰り返すばかりで何があったのか少しも解らなかったが、ノーマほどの大人が泣き崩れる姿を初めて見て私はただじっと固まってしまっていた。その後、段々と泣き止んだノーマは付き添っているミールに何が起こったのかを話しているようだった。
 私は玄関先で話し込む二人を出来るだけ見ないようにして明日の準備を進めた。そして明日の準備も終わろうとしていた時ノーマを心配した娘が屋敷に来てノーマを家へと連れて帰って行った。その夜、車で出て行った三人は屋敷には戻らず、次の日の昼近くに車を運転していたイグシスだけが屋敷へと戻ってきた。
 種まきを目前にして人手を失ったばかりでなく、ルコエの小麦畑は未だ全体の三分の一程しか耕しが終わっていなかった。ルコエ家の問題の大きさが垣間見える、一族としてこのまま放置しておく訳にもいかず、畑や家畜小屋にはイグシスをはじめ各家長の人々や私を含め多くの女性達が手伝いをしていた。この大事態のなか家ではノーマが塞ぎこんでおり、一日の大半を泣いてすごしていた。
 二人の娘はとても申し訳ない様子で畑の仕事を手伝ってもらい毎日遅くまで働いているようだった。私は余りにも可哀相なその姿に結局、何が起こったのか聴けないままになっていた。
大叔父とルコエが集落を出て行き10日程が過ぎた頃、集落の砂利道を猛スピードで駆け抜けていく一台のRV車を見かけた。私はその車の後部座席に大叔父とルコエそしてその間に挟まれるようにして一人の青年を確認した。
 私はそれがいったい誰なのか検討もつかなかったが、大叔父が帰ってきた事で私の喉は少し渇き、心は落ち着きを失っていた。私はいつもよりも少しだけ早いペースで仕事を終え、ルコエの家を後にした。
 大叔父の屋敷に帰る道すがら憔悴した様子のルコエと左頬を押さえながら大きな荷物を持って歩く青年とすれ違った。私がルコエに挨拶をすると、ルコエは自分が居ない間、家の仕事を手伝ってくれた事のお礼を言ってくれた。
 私は久しぶりに人間同士らしい会話をした事が嬉しかった。隣に居た青年の事は気にも留めなかった…私とスタルニスの出会いはこんなものだった。お互いがお互いに気に留めるほどの余裕はなかったのだ。スタルニスは自分がした事のけじめで一杯で、私は声を掛けられた事の嬉しさで一杯だった。
 私は小躍りする様な気分で屋敷に帰ると、大変不機嫌だった大叔父に何の理由もなく殴られた。私の気分は一辺に落ち込み、その夜はルコエに声を掛けられ嬉しかった事など一度も思い出さずに床に就いた。
 次の日私が納屋の小部屋を出てみると既にスタルニスが呼び出されていて、大叔父から何やら叱責を受けている様だったが、スタルニスも黙って聞いている様子ではなく大叔父と激しい口調で話をしていた。
 私は出来るだけ屋敷に近付かない様にして仕事をしていたが昼過ぎになりミールが困った顔をして、今の状況を私を含めて皆に話し始めた。それはスタルニスをしばらくこの屋敷で面倒を見るという事で、以前の私のように屋敷の中から一歩も外へは出してはならないと言う事だった。
 私はこの時初めてルコエ家で何があったのか、スタルニスとは何者なのかをミールに訪ねてみた。ミールは致しかたないと言う表情でスタルニスについて話をしてくれた。
スタルニスは大叔父の次男ルコエと嫁のノーマとの間に生まれた長男で、幼少の頃から頭が良くヌイノフスク村どころか北ベズロア地方でも一番の学業優秀者であった。学校側の後押しもあり14歳でベズロアを離れロフトス・ドヌーにある寄宿生高等学校に入学、そこでも飛び級して十六歳で首都ロスク市のロシスキ連邦政治軍事大学に入学を果たした。
 この大学はロシスキ連邦の高級官僚を養成する為に創設された社会主義時代からの最高学府で学費は無料、さらには給与まで支払われる特殊な大学機関であった。そのような大学に飛び級で入学できる人材はロシスキ連邦全体でも年間数人しかおらず、否が応でも周りの人間とくに大叔父の期待は異常に大きかった。
 スタルニスはそんな回りの期待に応え超エリートの階段を上がっていったのだが、大学卒業を半年後に控えた先月、突然ロシスキ大学を辞め医療大学に編入する事を決意し、そしてそれを実行に移してしまった。
 それを知った大叔父は当然のように激怒し、ロスク市で暮らしていたスタルニスを比喩ではなく本当に連れ去って来たのであった。将来確実にクルコエや大叔父に金を降らせる金の鳥の反乱はこうして幕を開けたのであった。
 今まで両親や大叔父の言う通りに進む道を決めていた超優良児の変貌振りに両親は狼狽して憔悴し、大叔父は自分の大事なおもちゃを取り上げられた子供のように怒り狂った。大叔父とスタルニスとの話し合いでも議論が成り立つ様な状態ではなく、最終的にスタルニスがいつでも集落を出て行けると嘯いたため、大叔父は自分の屋敷でスタルニスを幽閉する事を決めた。
 私とミールはスタルニスが数人の男達によって取り囲まれている部屋をうつむきながら通りぬけ、今日からスタルニスが寝泊りする部屋を用意すべく、私が閉じ込められていたあの物置部屋へと入った。
 そこは半年前と少しも変わらず圧倒的な威圧感と破壊的な臭気が漂っていた、私は一瞬たじろぎ軽い吐き気に襲われた。私の様子を見てミールが外で休んでいても良いと言ってくれたが、私は手伝う事を伝え涙目になりながらも部屋に積もった塵をふき取り無造作に置かれた物を片付け最後にベットを運び込んだ。私はスタルニスの事を良く知らないが、彼なりの生き方を否定されこの薄暗い部屋に閉じ込められる生活に私は同情していた。
 部屋の片付けが終わろうとしていた頃、大叔父が部屋にやって来てスタルニスに怒っている時と同じ勢いで私にスタルニスと話しをしない事と物置部屋に絶対近付く事がないようにと注意をした。もしかするとこの時既に大叔父は私とスタルニスとの間に起きる事を予感していたのかもしれない。それはただたんに年頃の男女が近い場所で生活するとどうなるかと言う事を知っていただけなのかもしれないが、この日から私を見る大叔父の目が更に厳しくなったのは間違いなかった。
 それはまるで泥棒猫を見るような目であった。大事な大事な金の卵を産む鳥を食べられてしまわないように、大叔父の目はいつも威圧する様に私を見ていた。私は常に大叔父のプレッシャーを感じながらの生活を余儀なくされたが、それはきっとスタルニスも同じだったに違いない、時々屋敷の方から聞こえて来る大叔父とスタルニスの口論は夜遅くまで続いていた。
 私は抵抗を続けるスタルニスの心中を察してみるが、私の想像力ではたいした事は思い浮かばず、せいぜいとても辛いとかとてもキツイぐらいな物だった。速く楽になった方が良いのではとも思うのだが、大叔父とスタルニスの口論はスタルニスの命が続く限り終わる気配はない。そんなスタルニスの折れない心に何時しか私は憧れを感じていた、大叔父や集落の人々の顔色ばかりをうかがっている私とは大違いだった。
 2才しか違わないスタルニスがとても大人に見えた。私は自分がもしスタルニスの様に振舞えたらどうなるだろうと想像してみる、すると現実の生活でもほんの少しだけスタルニスの様に行動できる事があった、そんな時は心の内側に出来た穴が少しずつ埋まっていく様な気分になった。
 スタルニスが集落へと連れ戻されて一ヶ月がたった、私はまだスタルニスと話をした事も無かったが、この頃には私の中に居るスタルニス像はもうすでに出来上がっていた。実際にスタルニスと話をしてスタルニスと言う人物をよく知ってみたいと言う思いと、知ってしまうのが恐ろしいと言う思いが私の心を締め付けつづけていた。
 クルコエを含めヌイノフスク村地区の畑仕事が一段落した頃、毎年恒例のお祭りがヌイノフスク村の広場で行なわれていた。この日も大叔父は私を監視するように見つめていたが機嫌はよかった、去年のこの日は“田吾作共の祭りなど”と言って機嫌はすこぶる悪かったのだが、今年はそんな事はなかった。
 大叔父の変貌振りの訳は昨夜、商売のため集落を出ているアバニから電話が有り取引が順調に行っている事と数日後には予定よりも早く予定していた金額を送金できると言う内容だった。
 こうして大叔父は厳しい顔をしながらも上機嫌でイグシスをつれ集落の代表として村祭りに出掛けて行った。村祭りにはイルスの家族も遊びに出たため、この屋敷にはイサとミールが残るのみとなり、何時もよりもひっそりと落ち着いた様子になっていた。私の心も大叔父が居ない事でとても穏やかなものになっていた。
 私はずっと以前この集落に来たばかりの頃、祖母の畑で父と祖母と私の三人で働いていた時のような気分で一日の仕事をこなしていた。その日は特に屋敷の仕事が無かったため、早めの夕食をとり何時もよりも随分と早く自分の着ていた服を洗濯していた。
 すると不意に「何をしているんだい?」と声を掛けられた。その声が男の人の声だったので、私は今洗っている物をとっさに背中で隠すようにして振り向くと、そこには居るはずのない人物が佇んで居た。それは屋敷を抜け出して来たスタルニスだった。
 私はただ驚いて目を白黒させていると「洗濯かい?」と彼は聞いてきた。私は小さくうなずき震える声で自分の名前を言おうとすると、スタルニスはそれをさえぎり「ルラン婆さんの孫のエミルだね」と言った。
 私がまた小さくうなずくと「ルラン婆さんに君の小さい頃の写真を見せてもらった事があったんだ、小さな頃と変わらないんで直ぐに解ったよ」私は自分でも解るくらいに赤くなっているのを感じていた。
 私は会話を続ける事ができずにうつむいていると「ルラン婆さんにはとても可愛がってもらったんだ自分の孫みたいに、お婆さんの事はとても残念だったね」とスタルニスが祖母との思い出を語った。
 スタルニスは私が思っていたよりもずっと話しやすい人物だった。逆に私は自分が思っていたよりも随分と話しづらい人間だと言う事に気が付いた。
 「出て来て大丈夫なの?」私は勇気を振り絞って聞いてみた。
 スタルニスは「イサは酒を飲み始めてるし、ミールは告げ口なんかしないから大丈夫さ」と答えた。確かにミールは告げ口なんかしないし、イサは酒を飲み始めると止まらないので大丈夫だが、もしも急に大叔父が帰って来たら大変な事になると思い、その事をスタルニスに言うと「なぜ君はそんなに族長の事をおそれているの?」と逆に質問されてしまった。
 「恐れている訳ではないけど…私は…」と祖母の借金の事やこの屋敷に居る訳を話そうとしたのだが躊躇した。
すると「族長は平気で嘘を吐く人なんだ人を思いのままに操る為ならね、君がここに居る理由を族長が提案したなら気を付けた方がいいよ」そうスタルニスに言われて私はハッとした。
 そう言えばおかしな所はいくらでもある。それは例えば身分証の事だ。身分証明書が無ければ外出どころか家の中に居ても安心は出来ない。ベズロアは戦時下ありもし憲兵に身分証の不携帯が見つかればそれだけで連行されるのは間違いなかった。
 私の身分証を取り上げたままにして面倒が起こるリスクを冒すなど、慎重な大叔父にしてみれば有り得ない行動である事にスタルニスの言葉で気が付く事が出来た。私は随分と長い間ハッとしていたに違いなかった。
 スタルニスは思い当たる事があるんだねと言わんばかりに大叔父の話しを始め、ついには大叔父の悪口を言い始めていた。
 30分程はスタルニスが一人で話をしつづけていた、私は不意に何故大学を辞めてしまったのかを聞くと、スタルニスは話すのを止め一息おいて溜息をつくと「もう直ぐ族長が帰って来ると思うから部屋に戻るよ、その話しは今度に…今夜は君と話ができてとても楽しかった、今度から君をエミルと呼んで良いかい?」と聞かれたので私は小さくうなずくと「僕はあだ名とか無いけど親しい人はスタースと呼ぶので君がそう呼んでくれると嬉しいよ」と言われ私はもう一度うなずいた。
 スタルニスが屋敷へと消えて行き、私はスタルニスとの会話の間中ずっと洗濯物を握り締めていた事に気が付いた。大叔父が帰って来たのはそれから一時間程たってからだった。大叔父はベロンベロンに酔っ払い、早速スタルニスを捕まえて大声で説教が始まったが、その夜は何時ものように口論にはならずスタルニスはただ黙って大叔父の話しを聞いているようだった。
 私も何時ものように大叔父の大声に怯える事は無かった、不思議な気分だったが私の大叔父の見る目が変わっていたのだ、それはスタルニスがくれた最初の勇気だったのかもしれない、とにかく私は大叔父の大声を子守唄にしてその夜は眠りにつくことが出来た。
それからスタルニスは頻繁ではないが大叔父や屋敷の人達の目が届かなくなる時、たとえば連邦兵が来ている時やイルスとイサが山へ武器を運びに行く時、大叔父がナタレの家に行く時などを見計らって物置部屋を抜け出し、私に会いに来ては毎日溜め込んでいる怒りを私にぶつけていた。
 話しの大半は大叔父に対するものと自分の両親に対するものだったが、会う回数が増えるにつれて次第に自分の事や妹達の事、そして私自身の事を話すようになって行った。
 この頃の私はスタルニスに好意はあったものの、彼の事を好きなのかどうかはよく解らなかった。私はいつもスタルニスが物置部屋へと帰って行った後、自分自身に彼の事が好きなのかどうか問いかけている。
 しかし私の心は同じところで追い返され心には何時もモヤモヤした物だけが残る、私の気持ちを追い返すあの壁はいったい何なのか?確かに解っている事は彼に私は不釣合の人であると言う事、スタルニスには学歴も約束された将来も大叔父が決めた許嫁もいた。
 私にある物と言えばこの身体だけで、学も無ければ技術も無い見えてくる将来と言えば金持ちの第二婦人か集落の未婚男性の妻になって子供を何人か作るぐらいのもので、不釣合と言うこと自体がおこがましかった。
 気持ちを此処までにしておく事が一番幸せなのではないかと思えてくる。私は数時間ほど考えた挙句それが全ての答えである事にして考えるのを止め、数日間を掛けていつもの何も考えられない自分に戻って行く事を常としていた。私にとってこの過程はもっとも労力を費やす仕事となっていった。
 彼との会話の時間は夢のように過ぎ去り、後には大きくなりすぎた思いのカスを片付ける時間が悪夢のように永遠とつづく、心はいつも魔法のような言葉を求めて這いずり回った、自分を蔑み価値を無くして行く事だけが私に心の安らぎを与えていた。
 そんな私の思いも顧みず彼はまたひと回り存在感を増して私の前に現われ「元気だったかい」と私たずねる。私の心はひとたまりも無かった、心が溶けていく感覚をいつしか味わう様になっていった。
その日は屋敷に何人もの客人が来ている様だった、夕方になってから大叔父がもの凄く不機嫌な顔で屋敷を出て行こうとしていた。私はいつもそんな時はそそくさと大叔父の視界から外れる事を心がけていたが、その時は洗濯物を多く運んでいたため大叔父に気が付くのが遅れ大叔父の行く手を塞いでしまった。大叔父は邪魔だと言って杖で私の肩と足を殴り汚い言葉を私にかけて屋敷を出て行った。
 大叔父が見えなくなった後、ミールが私に近付き殴られたところを見てくれた、肩はそれ程でもなかったが私の太股はたちまち腫れ上がり青みを増していった。ミールはすぐに薬を塗りしばらく冷やしておくようにと言ってくれたのだが、私は後でミールが叱責されるのを恐れ、大丈夫だと言って仕事に戻る事にした。初めはそんなに痛くなかったのだが、夕食の頃には痛みが増し仕事が終わる頃には立っているのもやっとになっていた。
 心配してくれるミールをよそに私は痩せ我慢をして小部屋へと戻り腫れ上がった太股を濡れタオルで冷やしていた。足はズキズキと痛んでいたが日中の疲れもあって私はウトウトと眠りに落ちようとしていた、私が起きているのか寝ているのかまるで解らなくなった頃、小部屋のドアをノックする音が遠くで聞こえた気がした。
 私はミールがまた心配して来てくれたのだと思いこみドアの近くまで行って「ハイ」と言うと、ドアの向こうから聞こえて来たのはスタルニスのものだった。私は一気に目が覚めそして慌てふためいた、私が身に着けていたのは肌着一枚だけだったのだ。
 私の慌て様をドアの向こうで察したのかスタルニスは「このままで良いよ」。「このままで良いから話を聞いてくれないか」と言ってくれた。私はこの提案を受け入れ、私達はドア越しに話を始める事にした。
 この夜のスタルニスは何時もと様子が違いどこか暗い感じがした、私がその事を訪ねるとスタルニスは今日ヌイノフスク村で起こった事、この屋敷で起こった事を私に教えてくれた。スタルニスの話しでは今日の明け方ちかく連邦内務省軍による掃討作戦がヌイノフスク村とその近郊で行われ、多くの人々が身元保証金と呼ばれる身代金が払えずに連れ去られてしまったのだと言う。
 そう言えば今日は誰一人として敷地の外には出て行こうとしなかったし、私にも屋敷内の仕事が命じられていた。大叔父は昨夜の中から掃討作戦の情報を得ていた数少ない人物の一人であったのだと思う。
 それは昨夜急に慌しくなった大叔父の行動からも言える事で、連邦軍との間で何らかの取引があったに違いなかった。そしてその結果として村からわずか10km程しか離れていないクルコエ集落には連邦軍の車両は一台も通る事はなかった。
 私達にはどんな取引があったのか想像も出来ないが、大叔父にとっては予定通り、自分の力を堅持し自分の自尊心を満足させるのに充分な結果であったはずだ。大叔父の人を蔑む笑顔が目に浮かんでくる。屋敷には正午を過ぎた頃から連邦軍によって連れ去られた人々の親族が大叔父を頼って集まり始めていた。
 ほとんどの人々は身代金を払えなかった生活の苦しい人々で、大叔父はそんな人達には少しも会おうとはしなかった。涙ながらに懇願する人達にそれなりの対応をしてお引取りを願う、まるで皇帝の拝謁のように話はミールが全て聞いて、奥に居た大叔父はソファーにふんぞり返っているだけだった。
 大叔父の態度と機嫌が変わったのは、村の行政官である地区長とその妻が屋敷にやって来た時からだった。地区長は二人の息子が連れ去られた事と掃討部隊の所属が解らない事、そして息子達を助ける為に何とか大叔父の力を貸してほしいと懇願しに来たのであった。
 そもそも村の地区長と言えばロシスキ内務省地域臨時事務局という当局から任命される列記としたロシスキ側の人物である、普通に考えれば地区長の家族が逮捕連行されるなど有り得ないと思えるのだがベズロアの現実は違っていた。
 スタルニスの話しではベズロアで展開している連邦軍の規律は著しく低下しており、奪える物は敵味方を問わず奪い取ると言う部隊がいくつも存在しているというのだ、そして今回の掃討部隊も所属を隠していた事から正規の掃討作戦ではなかったのではないかと話していた。
 この様な盗賊部隊と話をつけるにはそれなりの労力が必要となる、地区長の話を聞いた大叔父の頭の中では様々な打算が行われ、そして二人の息子を助けた方がお得と言う答えを出した。大叔父は電話を始め二時間以上もの間、取引相手との交渉をしていた。
 盗賊部隊との話がついたのかは解らないが、大叔父は大変不機嫌なまま屋敷を出た。元来誰かの為に骨身を削るのは大叔父の性分に合わない、無性に腹が立ち誰かを殴りたかったのだろう、私はそこに居合わせそして殴られた。
 それが今日あった事の全てである。スタルニスが悲しげに「いったい何の為の戦争なんだろう」とつぶやいた。「ヌイノフスク村は元々ルスキ系移住民のむらなんだ、人口の七割はルスキ人で一割がスタボリ人、二割が混血、ベズロア人など村の五パーセントにも満たない」「バーナエフ派もグルスタス派も関係が無い、ましてゲリラ等とは関わった事がない人がほとんどだ」スタルニスは考えたくない事を話しているようだった。
 スタルニスの話はさらに続く「この戦争には様々な要因があると言われているんだ、独立運動に民族自決、シアリム国家の樹立、原理主義の急速な浸透、歴史的遺恨、テロとの戦い、地政学的原因、ロスク中央政府の政治力学、石油利権、人種差別、例を出したらキリが無い全てが全てもっともらしいが全てが全てこじつけの理由に思えてならない」「本当の理由はね、誰も声に出して言いたくないんだよ、あまりにも愚かだからね…」スタルニスはここで声を詰まらせた。
 認めたくは無い現実に打ちのめされている様子だった。私は小さな声で本当の理由を教えてくれないかと頼んだ。
 スタルニスは少し考えた後「この戦争は…少なくとも第二次ベズロア紛争は戦争のための戦争なんだよ…」私はその答えを聞いて狐に摘まれた様だった、まったく理解が出来なかった。
 どういう事かとスタルニスに尋ねると、スタルニスはやさしくこう答えてくれた「つまりそうだな…この戦争は戦争をする事が目的の戦争で、戦争によって発生する経済活動を維持するための戦争なんだよ」
 「プッシーニ連邦大統領は軍産複合体や新興財閥と共に在り、将軍たちは軍事関係予算を個人的な企業で回す、中堅将校達は身代金や武器の横流しでせしめる、下級将校や兵士達は略奪を糧とする」「ベズロア人も似た様なもので、親ロシスキの要人達は復興資金や支援物資を私物化し、反ロシスキの司令官は油田を私物化する、テロリストの司令官は海外からの潤沢な資金援助を得る、マフィアや地元の名士は武器や石油の取引で潤い、多くの市民はこの様な不法行為に身をゆだね、タカリながら生きている」
 「この正当な代価はロシスキ市民の血税とベズロア市民の命によって支払われ、ベズロア人が地球上から殉滅するか連邦の国庫が破綻するまでいつまでも続いて行く…」そしてスタルニスは吐露した。
 このシステムに組み込まれている自分自身が許せないと…私はこの時までこの戦争はロシスキのファシスト達から祖国を守る戦争だと思っていたし、そうだとしか聞かされていなかった。だからスタルニスの話しは衝撃的で嫌悪感をともなうものだったが、私はこの話を受け容れず否定する気持ちは少しも無かった。
 それは彼自身が罪を感じ、今の自分を強く恥じていたからかもしれない。この日から私達は大叔父が帰ってくるまでのあいだ毎晩会い話しを重ねた。世界の情勢や外国の戦争の事、この戦争や首都ロスクで頻発するテロの事、ロスク市で住むベズロア人の苦悩やスタルニスが受けた差別の事、大叔父がどうやってクルコエの皇帝になったのかや自分が何故医科大学に編入をしたのかなど時間が経つのも忘れて話し続けた。
 彼は自分の知る世界を話す事で、私の目を開かせ、耳を聞こえるようにし、私の世界を広げてくれ、それは私の心になった。スタルニスとの時間は私の人生の中で最も大切な時間となり、そして私は彼が好きな事をついに認めたのだった…
それは私が思っていたよりもずっと自然な行為で、夜に眠りにつき朝に目覚める様にごく自然で当たり前の行為であった。この寸前まで私が感じていた不安や苦しみは記憶が薄れていくように消えて行き、代わりに彼への思いは止めようもないほどあふれ出て来た。
 次第にあふれ出た思いは身体の隅々まで行き渡り、胸を高鳴らせ心を締め付け始めた。好きである事を認めるずっと以前から私の胸は苦しく悲鳴を上げていたのだが認めてしまった後では何かが絶対的に違っていた。
 自分自身がいとおしい日々の始まりだった、意気地の無い自分も、弱い自分も、嫌いな自分も全部一緒になって彼を好きだと言っている。一辺の迷いも無く思いは何処までも純化して行く、彼を思う自分の心がとても愛おしかった。人を好きになる事は自分自身を好きになる事なのだ…
スタルニスを好きだと認めた夜から二日が経った日、大叔父が出掛けて五日目の朝、集落にはヌイノフスクの村人達がぞくぞくと押し寄せ大叔父の屋敷の前に集まり始めた。
 村人達はみな家族を連邦軍に連れ去られた人達であり,未明に電話を掛けてきた大叔父の帰りを待っていたのだ。電話の内容は地区長の息子二人と村の住人三人、村の住人と思われる遺体三体を連れ戻したと言う事と、グリストフ検問所を無事に通過できれば昼ぐらいには戻れるだろうとの事だった。
 地区長の息子二人以外は村人の身元は解らない、大叔父が故意に名前を出さなかったのか口を開けないほど痛めつけられているかのどちらかである。
 こうして屋敷には大勢の村人がやって来るはめになったのだ。帰ってくるかどうか解らない家族を待つ人々には辛過ぎる時間が過ぎていく、村人達は一時も見逃さないように集落の外へとつながる道の方向を見つづけていた。正午を少し過ぎた頃、屋敷に地区長が現われた。村人達は地区長に一斉に詰め寄り何か情報が無いか聞き出そうとしていたが、地区長は何も情報が無いと言うような素振りをして村人達をかき分け屋敷内へと入ってきた。
 地区長は側に居たミールを呼び止めイグシスと話が出来ないかと頼んでいた。納屋の方からイグシスがやって来ると地区長は素早くイグシスに何かを手渡し話を始めた、どうやら値段の交渉をしているらしく地区長は大叔父よりもイグシスと話しを進めたい様だった。これにはイグシスも大変困った様子で「そんな事は出来ない」と言う台詞が何度も聞こえて来た。
 一時間程つづいた押し問答も当たり前ではあるが、イグシスが大叔父が帰るまでは金の話はできないと貫いた。地区長は大叔父の絶対的な権力をあまく見ていた、イグシスを使って何か自分に都合が良い様に事を進めたかったのかもしれない、もしもイグシスが地区長の話しに乗っていたらどうなっていただろうか?大叔父は躊躇する事なくイグシスを殺しただろう。今の私は確信をもってそう言える、たとえイグシスが実の息子で族長の跡目であろうとも、この答えは揺るぐ事はない。大叔父はその様な人物であり、獣の掟の中で生きている人間なのだ。
大叔父が帰ると言った正午から二時間が経とうとしていた時、にわかに門扉の村人達が騒がしくなった、大叔父が帰って来たのである。
 大叔父はバヌスと呼ばれる社会主義時代の象徴とも言えるボディがダンボールで出来た小型トラックに乗って帰ってきた。運転していたのは地区長の息子で荷台には黒い袋に詰められた遺体と4人の人が横になって乗っていた。
 大叔父はトラックに群がる村人には目もくれず地区長の腕を取り屋敷の中へと消えていった。大叔父の様子は身包み剥がされた老人のように見えた、実際に大叔父は村人の代金として持っていた現金を全てと、自慢の中古ハポネ車を盗賊部隊に差し出していた。一体どのくらいの金額を地区長に要求したのだろうか?この時は解らなかったが屋敷から出てきた地区長は、頭を抱え込んでへたり込んでしまった。
 地区長の様子から大叔父はかなりの金額を要求したに違いなかった、村人達はそんな事が起きているとも知らず、大騒ぎのなか変わり果てた遺体やぐったりとして動かない人を取り囲み、なんとか身内を確認しようとしていた。トラックの周囲では次第に女性の叫び声や泣き声が聞こえ始め、身内が居なかった村人達は蜘蛛の子を散らすようにクルコエを後にして行った。生きている人で怪我をしていなかったのは地区長の息子一人だけで、もう一人の息子は息も浅くピクリともしていなかった。
 村人の一人は意識があるが足を砕かれ重傷、あとの二人は意識がはっきりとせず顔が判別できないほどに殴られかなりの重体のように見えた。重体の一人は身元が判明せず村の人が一端引き取り、遺体となって帰ってきた人は全員身元が確認され家族によって引き取られて行った。そして地区長は無事だった息子を人質として置いて行き、重体の息子を車に乗せ村へと大急ぎで帰っていった。
 地区長はこの日から数日間に亘り金策に駆けずり回り、毎日クルコエにやって来て大叔父と会い金額についての話をしていた様だった。その後スタルニスから聞いた話では、人質5人と3人の遺体を引き取るために盗賊部隊に支払った金額は15万ルブルと中古車一台で、地区長に請求したのは35万ルブルだったそうだ。
 数日間の金策も甲斐なく地区長は20万ルブルしか現金を用意できなかった。追い詰められた地区長は現金の換わりにベズロア北管区特別通行許可証と石油パイプラインに不法に取り付けられたバルブの権利を差し出した。
 もちろんこれも違法な権利だが今のベズロアでは公然と取引される財産となっていた。地区長のバルブは小規模で一ヶ月あたり2万ルブル程度しか利益を出さないが、大叔父はこの条件に大変満足した様子であった、今や違法バルブの権利はベズロア人名士の証しとも言えるものだからだ。大叔父は上機嫌で地区長と酒を酌み交わし、人質となっていた息子を笑顔で送り帰した。
次の日大叔父はさっそく取引のある連邦軍兵士を使いに出しバルブの所有権が自分に移った事をバルブの実質的な管理者に伝えにいった。これだけかと思うが本当にこれだけである、つまりバルブの所有権とは石油泥棒達の後ろ盾になる事であり泥棒達が安全に石油を盗めるように心配りをしてやる事なのである。
 この心配りの報酬は産出額の50%で毎月か1ヶ月おきに使いの人間によって大叔父に手渡される。ごくごく小さな商売ではあるが毎月決まって道端で金を拾うような物なので大叔父には一切リスクは無い、たとえ石油バルブが誰か他の泥棒の手に堕ちようとも管理者が手違いで逮捕されようとも大叔父は痛くも痒くも無い、それどころか本当は実入りさえもどうだって良い事で大叔父にとっては石油バルブの所有者である事実が一番大事な事なのである。
 大叔父はこうしてまた一つ欲しい物を手に入れたのである、大叔父のこれまでの人生は人から何かを奪い取る人生だった。スタルニスや屋敷の家族から聞こえて来る大叔父の人生は、今の大叔父を考える上で実に納得がいくものだった。
大叔父のイグシ・クルコは1932年頃のこの地方ではない、もっと南の山岳地帯で生まれた。少年の頃ヤルジンス独裁体制下で行われたベズロア民族の強制移住によって、まるで家畜の様にして故郷を追われてしまった。
 このベズロア人の強制移住は小学校でも一番最初に習う民族の受難で原因は幾らでもあるが本当の理由はヤルジンスに聞いてみなければ解らない、一般的には他の少数民族に対するみせしめだったと言うのが最も有力な見方である。
 こうして大叔父は自分の両親と二人の兄妹、そして同じ氏族の縁の近い二家族と共に厳しく苦しい強制移住先での開拓の歴史にその即席を残したのである。大叔父は18歳のころ移住先で同じベズロア人の今は亡き大叔母と結婚をする、子宝にもたてつずけに三人めぐまれ長男イグシスが生まれたころ曽祖父から正式に跡目を託された。跡目を継いだ大叔父はその本性を徐々に見せ始め親族以外との争いや揉め事は耐える事無く続いていたと言う。
 1956年ヤルジンスが死亡し恐怖政治の時代が終わると次第にベズロア人達の間でベズロア帰還運動が起こると、新政権はこれに押し切られる形で翌年ベズロア人の帰還事業を始めた。1958年には大叔父たちの家族や親族達にも帰還許可が出され、半ば強制的にヌイノフスク村周辺の見知らぬこの土地に就労農家として帰って来る事となった。
 この頃にはもう既に曽祖母は他界し曽祖父も寝たきりの状態になっており、族長の決定事項である結婚や農地の配分は大叔父に委ねられる様になっていた。そして大叔父は中央政府よりの行動をとる事にこそ自分達の将来が約束されると考え、まず家族と親族達に氏族の中で信仰され続けられていた宗教を捨てさせ、自分の兄妹達にはルスキ人との結婚を勧めた。
 もちろんこの行動に反発する者もいたが大叔父は密告と言う社会システムを使って反発する人々を次々と追放し、最終的には一緒に引き上げて来た親族を全員追放させて自分の家族と兄妹達だけでこの地に生きて行く事になった。
 こうした大叔父の反民族主義的な行動は地方行政官庁からも直ぐに目を付けられ、ヌイノフスク村へのロスキ人入植の手引きや、不平を持つベズロア人の監視と排斥などの危うい仕事を依頼されるようになった。大叔父はこれらの仕事を見事にこなし見返りとしてクルコの名前からとったクルコエ集団農場の土地と計画農場としての地位、そしてそれに伴う機械や設備を手に入れた。
 帰って来た時には小作人程度の仕事をしていた男が数年で集団農場の農場長になったのである。成功と言えば成功である、だが大叔父の様に生きなければ生きて行けなかったかと言えばそれは違うはずだ。大叔父は生きたいように生き奪いたいように奪ったのである。
 大叔父がクルコエの農場長となった頃、寝たきりだった曽祖父と末息子の産後の肥立ちが悪かった妻を相次いで亡くすと、実弟の妻だったナタレと関係を持つようになり、弟が不慮の事故で亡くなるとナタレとの間にライサと言う娘を儲けてしまう、ナタレはライサを大叔父の子とは決して認めなかったが大叔父の子と言うのは集落の全員が知っていた。
 その後も大叔父の親族を利用するやり方は変わる事無く息子や娘、甥や姪が成人に達すると弟や妹にしたように自分の利害に合う結婚相手をあてがい決して自分の意に沿わない縁組をさせようとはしなかった。少しでもその事に反発する者は私の父の様に集落を出て行かざるを得なくした。
 この地に漂う閉塞感はこうして作り上げられクルコエが一つの大きな監獄になって行ったのである。この様な大叔父の絶対的な権力も陰りが現れた時があった。
それは1986年の改革開放政策により計画経済が廃止され集団農場の仕組みが機能しなくなった事と、1991年に起こった社会主義連邦崩壊に伴うロシスキ共和国からの分離独立運動であった。
 この一連の政変と内戦は大叔父のみならずクルコエ全体に絶望的な危機をもたらしかねない状況であったが、大叔父はまるで節操の無いやり方で自分の身とクルコエの集落を守ったのである。それはマフィアが中心となって行う闇市場への物資の供給と運搬であり、供給する物資は生活に苦しむ軍人から買い取った武器と農場で栽培したケシであった。
 このマフィアとの関係はロシスキ軍のベズロア侵攻によって終焉を迎えるが大叔父は取引相手を反ロシスキ・ゲリラに変え武器の調達や衣食住の提供を行い自身の裏切り者としての立場を精算する事に成功したのであった。
 そして1996年の第一次ベズロア紛争停戦合意の時までにはそれなりの立場になっていた大叔父は、利権を得られるかどうかのギリギリのラインに居た。ほかの反ロシスキの人々同様に停戦後は利権争いに邁進したが、この争いにはあっけなく敗北した大叔父は十数年ぶりにただの農民に戻り、もう一度戦争の混乱を待ち望む最も愚かな人種の一人になった。
 大叔父の願いは第二次ベズロア紛争と言うかたちで叶えられる事となり、この紛争にしっかりと根をはりどちら側でもないどちら側とも言える立場で私腹を肥やしている。
 大叔父は理屈ではなく感覚によってこの紛争の本質を理解している様だった、この地方とここの状況では武器の横流しが最もはまる商売である事は間違いない。大叔父は心の底からこの紛争が一日でも長く続く事を願っている、そして今度こそ利権争いで勝利を収めるべく毎日の備えを欠かす事無く続けている。自分がこの紛争で死んでしまうかもしれないと言う恐怖は頭の片隅にさえなく感じ取る神経さえも有りはしない。大叔父はこうして生きて来たのである、答えは全て我に有りそれ以外の答えは存在しない。スタルニスが反発した理由も全ては大叔父の出した答えにあった…
スタルニスは幼少の頃から医師になるのが夢だったが、大叔父から与えられた運命は官僚になる事だった。大叔父は今よりもずっと楽な方法で奪い取る術をスタルニスから与えられる事を期待していた。
 スタルニス自身は自分の夢はあったが大叔父の期待を裏切り自分の両親を大変な境遇に陥れる事は出来なかった、大叔父の道具になる事を承知の上で連邦政治軍事大学に入学したのである。
 大学に入学したスタルニスの学生生活は日常的に危険を感じる毎日であったと言う。それはベズロアゲリラによる爆弾テロが首都ロスク市内で頻発していた為で、ベズロア人に対しての感情が更に悪化し、差別や不闇討ちそして私刑や不当逮捕などの蛮行で、一般ベズロア人市民を恐怖のどん底に落し入れていた。
 スタルニス自身も二回拘束されゼミの教授が迎えに来るまで帰れなかった事や、度重なる警察の家宅捜索により下宿先を出て行かざるを得なかった事、ルスキ人の友人と付合いが無くなって行った事、子供じみた嫌がらせを学部内で受けた事があったのだと言う。
 本来テロリスト達が受けるべき罰をルスキ人達はスタルニスに流れるベズロアの血に見出し彼を逃げ場の無い所へと追い込もうとしていた。もちろんルスキ人達が全員が酷い行いをベズロア人にしていた訳ではない。
 スタルニスも差別の嵐が吹き荒れるロスク市の中で本当の人のやさしさを知った。スタルニスが下宿を追われ行く当ても無くなった時、あるルスキ人教授が大学内の職員用宿直室を提供してくれたり、劇場占拠事件や地下鉄自爆テロが起こり外出が困難になった時、友人の数人がスタルニスの代わりに食料品や日用品を届けに来てくれた。
 この様な助けはあったものの街に流れるベズロア人=テロリストと言う空気は変わる気配は無く、スタルニスは極度に外出を避け大学構内にこもる生活を強いられていた。スタルニスの心はギリギリの所まで追い込まれていたのだと思う。
 そんな日々の中、スタルニスに届いた手紙が彼を更に追い詰めることになった。その手紙の内容とは大叔父が決めた結婚についての報告と言うより命令であった。大叔父の決めた相手とはイルクーシ自治共和国のラバニス州知事の娘との縁談であり、結婚を大学卒業後直ぐに執り行う事が書かれていた。そして更にはスタルニスの妹であるアニスとナタレの私生児であるロイヤ・チマエフを結婚させると言う内容も書かれていた。
 スタルニスは自分の事はたいがい予測していた事だったが、妹がライサの息子と結婚する事は絶対に許せなかった。もともとスタルニスはイトコ、ハトコ同士の結婚には反対で、両親も血縁結婚は快く思っていなかったはずなのだが、けっきょく大叔父の言いなりになっている両親の無力さにも怒りを感じていた。
 自分の目の前に自分がどうする事も出来ない問題が立ち塞がると、まるで関係の無い自分の身近な人々に怒りをぶつけてしまう…
 多くの人がそうである様にスタルニスも世間に感じていた怒りを大叔父や両親にむけてしまった。それにスタルニスの場合はそうする事が当然に思えるくらいの切っ掛けを大叔父が与えてしまったのだ。スタルニスは大叔父の出した答えを否定し初めて自分の力で生きて行くことを決めたのである。
 スタルニスは奨学制度のある医科大学の編入試験を受けて見事合格し、医大の寄宿舎に住み込み、医者になるための第一歩を踏み始めたのである。スタルニスが並みの人物ならばスタルニスの反乱は放っておかれるものだったが、スタルニスは大叔父にとって金の卵を産む家鴨なのである。放っておかれるはずが無いとは本人も解っていたはずだが、その後の事態はスタルニスの予想をはるかに超えるものだつたはずだ。
 彼は夜な夜な屋敷を抜け出しハトコに怒りをぶつける事で何とかこの異常な状況と折り合いをつけようとしている。そしてスタルニスが想いのままにならない状態に大叔父は日に日に焦りを隠せなくなっている。事は自分の威厳にも係わるのだ、どんな手を使ってでも政治軍事大学に復学させ、9月には卒業させなくてはならない。
 それが出来なければ今後二度とは無いだろうチャンスを失ってしまう、先鋒の州知事には編入の事は絶対に知られてはならない、大叔父の焦りの中に緊張が見え隠れする。大叔父は地区長の件が落ち着いた頃からスタルニスの母親を使って説得するようになっていた。
 母ノーマは説得をすると言うより泣いている方が多かった様だ、毎日毎日くる日もくる日も泣くために屋敷に通い詰めていた。これにはスタルニスも心が折れかけていた、私はこの時スタルニスを励まし自分の考えを貫いた方が良いと話した。私はどうしてもスタルニスに大叔父の言い成りになってほしくは無かった、大好きなスタルニスが顔も知らない娘と結婚してほしくなかったのもあるが、何よりも大叔父の支配を逃れ自由を手にする者を見てみたかったのである。それが実現出来るのであれば、私もスタルニスへの思いを実らせ、私の運命とも言える従属される人生から逃れ、彼とともにクルコエから逃げ出せるかもしれない。
 私はそう思っていたのである、意気地がないと言うかズルイと言うかなんとも仕様が無い考えではあるが、あの頃の私はこの様な考え方に支配されていたのだ。スタルニスさえ譲歩しなければ私は彼と一緒になれる、そう本気で信じていた。私は彼を思う日々の中で大叔父を他の誰よりも一番あまく見ている人物になっていた。
6月23日その日は私の17回目の誕生日であった。スタルニスはその日の明け方、屋敷を抜け出し何処かで摘んできた小さな花と“誕生日おめでとう”と書いたメモを小部屋の扉の前に置いてくれた。私はそれを手に取り喜びとも悲しみともつかない涙を必死にこらえていた。
 多くの人々にとって誕生日という日はとても大事な日である、友人や家族からこの世界に生まれて来た事を感謝され歳を重ねる事を祝福されて、自分という者が確かに存在している事を確認する大切な日である。
 私はこの集落に居る限り私の誕生日を気にかけてもらう事などあり得ないと思っていた。だからスタルニスからの贈り物はとても嬉しかったのだが、それは同時に私が思い描いていた今日を迎えられないと言う知らせでもあった。
 私の落胆の理由はこの日の数日前、スタルニスと話をした時から始っていた。スタルニスは大叔父側から今までに無い妥協案が出されたと語り、その妥協案を受け容れるか否かスタルニスは明らかに迷いを見せていた。その妥協案の中身とは、彼が政治軍事大学に復学する代わりにアニスとロイヤの縁組を無かったものにすると言うものだった。
 これ以上の譲歩はあり得ないだろう、スタルニスは急速に現実的になり自分自身の気持ちと向き合い始めていた。私はただ黙って話を聞いていただけだったが内心は穏やかで居られる筈もなかった。私はスタルニスが私の前から去りずっと遠くへ行ってしまう事に恐れを感じ、想いや感情を伴う思考にすっかり混乱してしまっていた。
 その日はそのまま話しを続ける事なく別れたが、そのあと私は彼の事を考えれば考えるほど何も出来ない自分に涙がこみ上げてしかたがなかった。彼の性格からすれば大叔父の条件を受け容れる事は間違いなかった。別れの時が来たら私はただの友達としてうつむきながら彼を見送る事しか出来ないのであろうか?彼にとって私がただ単にお喋りを楽しむだけの隣人だったとしても、私は…私の気持ちはそうではなかったのだと言う事をせめて彼には知っていてもらいたかった。
 例え二人の人生が何も変わる事がなかったとしても、私が好きだと告げる事で私という存在を覚えていてくれるかもしれない…“クルコエの集落には自分を思う娘がいる”そう思ってくれるだけでも、本当にそれだけでも良いと思った…きっとスタルニスは私の誕生日を間違いなく覚えていてくれる、状況が許すのであれば彼の事なら必ず会いに来てくれるはずである。
 もしも彼が誕生日に会いに来てくれるなら、私は彼に自分の思いを告げよう、そう心に決めたのだった…彼が屋敷を抜け出し私に向かって“十七歳の誕生日おめでとう”と声を掛ける、そして彼が何かを話し始める前に“あなたの事が好きです”と彼に告白しよう…私は誕生日に会った時の状況をそこまで想像していた、まさに夢見る少女そのものだった。
 私のこの様な妄想の嵐は、誕生日の朝に部屋を出た途端に彼からの贈り物によって終わりを迎える事になり、私は息苦しい程のせつなさの中、溜息をつく理由をまた一つ覚えてしまうのであった。私は結局、誕生日から一週間ほどスタルニスと会う事は叶わなかった。
 つらい時間は無常にもゆっくりと流れる、スタルニスに一刻も早く会いたい気持ちと別離への恐怖、自分でも理解し難いほどの揺れる想いと浮き沈みする気分、私は一人では語る事が出来ない愛にもがいていた…
その日も大叔父は大声でノーマを叱責していた、スタルニスはまだ条件を受け入れていない様だった。ノーマには悪いがこの大叔父の苛立ちによって、私の気持ちは数日振りに落ち着きを見せた。心の平安は風景さえも違って見せる、集落の景色はちょっと気付かない間に夏に向かって勢いを増していた。
 私は何時ものように農作業を済ませ屋敷に戻ってくると、大きな荷物を側に置いたルコエが車の前でイグシスと何かを話していた。私は嫌な予感がしたのだが、話を盗み聞きするわけにもいかず二人の行動が気になりつつも敷地内の仕事こなしていた。
 夕食の後片付けをしている時にちょうどミールと二人きりになる機械があった、私はミールならそれとなく聞けばたいがいなんでも教えてくれると思っていたので、夕方のルコエとイグシスの行動に付いてそれとなく聞いてみる事にした。ミールは少し考えた後ここで話すのはまずいとばかりに洗濯をする時に話しましょうと答えた。私はこの時それほど気にも留めずに夕方の嫌な予感も忘れていたのだが、この後に聞いたミールの話しは、私の想像を遥かに超えており事の重大さに動揺を隠し切れなかった。
 ミールの話しではルコエは首都ロスクにむかいスタルニスの医科大学での在籍を抹消し政治軍事大学からの編入を無かった事にするために出発したのだと話した。私はグラグラとしためまいを感じながら本当にそんな事ができるのかと尋ねてみた。
 するとミールは大学の編入や除籍は書類上の事なので協力してくれる義務職員が居れば可能なはずだと答え、事務職員の数人とは既に大叔父が話しを進めておりこれによって支払う事になるであろう賄賂の方が大叔父にとっては問題だと話した。
 私は目の前が真っ白になった。視野が段々と狭まり話しをするミールがまるで小さな写真の様に見えた。ここに来て急速に外堀は埋まりつつあった、もう全てが終わりのように思えた、私の恋も人生も全て終わり、スタルニスの戦いは敗北に終わるが、私の場合は殉滅である。
 私は洗濯を早々に切り上げ、着替えもせずにベットへと潜り込んだ。もはや涙も出てこない、首筋がピリピリとして頭が痛い、とても眠りにつく事が出来なかった。私の悪い癖だが問題を先延ばしにしてとにかく眠りにつこうとしたのだが、その日はついに一睡も出来ずに朝を迎える事になった。
 私が眠りにつこうが眠りにつかなかろうが、仕事と天気は私を気にする事はなかった。あたり前の事だが私はこの事にとてつもない不条理を感じた。初夏の澄み切った日差しはパンパンになった頭を容赦なく照らし、牧草を運ぶ時には何度も膝を落とししゃがみ込んでしまった。
 私はヨレヨレになりながら屋敷に戻ると大叔父が仕事が遅いと言って怒鳴り付けて来た、私はこの時大叔父の好むような受け答えが出来なかったため更に大叔父を怒らせてしまいまたもや杖で殴られてしまった。
 いつもなら平謝りに謝ってすぐに仕事に戻るのだが、私は昨夜からの絶望感からか涙を堪える事が出来なくなり納屋の裏でしばらくうずくまってしまった。その後も私のする事は失敗ばかりで、終いにはミールに今日はもう休みなさいと言われてしまい、仕事を片付け切れないまま小部屋に戻る事になった。
 私は何をするわけでもなくベットの上に横になり、時々襲ってくる涙を止める事もできずにさめざめと泣いていた。数時間が過ぎた時かすかに私を呼ぶ声が聞こえて来た、私は慌てて涙を袖で拭き取り身なりを整え扉の方に駆け寄って行った。声の主はスタルニスだった、私は必死に取り繕ったつもりだったが目が腫れているのを心配されてしまい大叔父に酷い事をされたのかと問い詰められてしまった。
 私は大叔父に殴られたことは言わずに適当な言い訳をしてその場をやり過ごしてしまい、なんとなくぎこちない感じが二人の間に漂ったが、私はとにかくスタルニスと再会出来た喜びと興奮を抑える事に集中していた。どう言う成り行きでそうなったかは今になってもなお思い出ス事は出来ないが、スタルニスと私は屋敷の敷地内を抜け出して牧草地となっている丘陵の峰へと向かう事となった。
 私の心臓は今までに無いほど高鳴り、全身のあちこちが小刻みに震えていた。牧草地を見渡せる峰へと着いた時、私はスタルニスが腰を下ろす隙も与えずに今回の復学の話を聞いてみた。
 スタルニスは少し驚いた顔をして知っていたのかいと聞き返してきた、私はミールに話を聞いた事を聞いたとうりに話すと、スタルニスは復学の事は君が十七歳になったお祝いを言ってから話そうと思っていたと話した。
 私は自分があまりにも急いで答えを聞きだそうとして彼の気持ちに気付こうとしなかった事に、自分の自我の醜さを感じここ数日間の自分を反省した。私は彼にごめんなさいと謝ると彼は「気にしなくていいよ」と言って改めて誕生日おめでとうと言ってくれた。
 夜の牧草地は今はまだ寒くところどころ刈り取られずに残された草が風に流され揺らいでいた。しばらく私達は何も話さずただ並んで座って居ると、不意にスタルニスが「この国で美しいのは星空ぐらいなものだね」と言って星空を眺めていた。空には零れ落ちそうなほどの星のきらめきがあり、その美しさはこの苦しみの地上を覆い隠そうとしている様だった。
 私は美しいと思えるのは自分の心が美しいからと言う祖母の話を思い出し、スタルニスにその話をした。スタルニスは「そうだねルランお婆さんはそう言う人だったね」と言って、ぽつりぽつりと言葉を探しながら復学についての話しを始めてくれた。
 スタルニスの話しによると早ければ十日後おそくとも二週間後にはロスク市に戻り、7月20日頃には政治軍事大学の卒業審査を受ける事になるだろうと話した。私はあらためてこの事実に打ちのめされたが、私に悲観に暮れている時間は無かった。
 スタルニスは復学の話しをすると直ぐにロスクでよく見ていた映画の話を始めた「エミルはどんな映画が好きなんだい?」彼が私に尋ねて来た。私は「私の居た街には映画館がなかったの、たまに移動映画館が来るぐらいで…だからずっと映画は見ていないけれど、私がまだ小さい頃テレビで見た『シンデレラ』が大好きだった、その他にもお姫様が出てくるアニメは好きだったわ」と彼に話すと「僕もアニメは好きだよ」と話し、二人でアニメの話を始め、なかなか思い出せないアニメのタイトルを一緒に思い出そうとしたりしていた。
 ふと彼が今度一緒に映画を見に行こうと言い出した。私は一瞬にして現実に引き戻される様な感覚を味わったが、悪意の無い彼の誘いに私は「今度必ず行きましょう」と答えた。
 彼はその後も私の知らない合衆国のアニメやハポネのアニメの話しをして時間はまたたくまにすぎていった。時は真夜中を過ぎて朝になろうとしていた、私達はどちらともなく屋敷に帰ろうと言う事になり、そして私はほとんど何も考える事無く独り言をつぶやくように、スタルニスに思いを告げてしまった。
 彼は一瞬動きを止め、次に発する言葉を探している様だった。それはほんの一瞬おとずれた沈黙の時だったのかもしれないが、私はこの一瞬の間に自分が口にしてしまった言葉の意味や、自分が考えている言葉の意味がまったく解らない事態に陥り、すっかり頭の中が真っ白になってしまっていた。
 そしてスタルニスに泣かないでと言われるまで、私は自分が泣いている事にも気付く事が出来なかった。私の告白にスタルニスが何と答えを出してくれたのか?…正直に言うと私はその言葉を覚えていない、私がこの夜覚えている彼の答えは、泣いている私の涙を拭いやさしくキスをしてくれた事と、帰り際に言った「君だけをこの集落に置いてはいかない」と言う彼の心の一端であった。
 私達は数日後に会う約束をしてスタルニスは屋敷へ私は小部屋へと帰っていった。私は崩れ落ちるようにベットに潜り込み仕事が始まるまでの時間を眠りにつく事にした。私はこの数日間の苦しみから解放され思いもしない程の早さで眠りに落ち、生まれ変わったように仕事が始まる時間に起きる事が出来た。寝ていた時間は一時間程度だったのだが、体調はすこぶる良かった。
 私は今までになかった朝をすごし、未知なる今日を迎えようとしていた。いつもと変わらない庭の草花でさえ私に希望を与えてくれた。私とスタルニスは数日おきに会い再開を喜び、二人のこれからの話をして別れ際にはキスをした。
 私達はお互いを大切にしていたが、お互いの身体を求め合う衝動はもう抑えようもないほどだった。すぐにでもこの集落を抜け出してスタルニスと結ばれたかった。実際スタルニスは具体的に集落を出る計画も考察していた。
 それは彼がロスクに戻った後に大学の先輩である内務省軍中佐に頼み、私を拘束してドミニスタンにある駐留基地か比較的治安の良いノミノの難民キャンプまで連れて来てもらって、そこで再会すると言うものだった。
 私が「男の人は怖いわ」と言うとスタルニスは「先輩の中佐はベズロア人でとても良い人だよ、必ず僕達の力になってくれる」と言った。私達はこの他にもいくつかの方法を考えてみたが、どれも現実性にかけ危険を伴うものばかりだった。
 現実に私をこの屋敷から連れ出し安全に国境を越える為には軍人の関与が絶対に必要だったし、それが軍隊そのものであれば大叔父も深追いはしないはずである。例え信用できない軍人だったとしても私はそれに頼るしかないのである。
 私はこの計画を承諾し、スタルニスは一刻も早くロスク市へ戻る事を願うようになった。“内務省軍第六十二独立作戦任務旅団・第二百三十五特殊作戦任務大隊・第三中隊アル・カマノフ中佐”私はその人物の名前と所属を覚えられるまで何度もスタルニスに聞き、数ヵ月後に訪れるだろう再会に胸を焦がしていた。
 しかしスタルニスが連れ戻されるであろう一週間がたっても二週間がすぎても大叔父側の動きはなく、ルコエが帰って来ることもなかった。スタルニス自身も復学の話しをされない事についてとまどいを見せていた。
 実はこの頃スタルニスの復学は医科大学の除籍手続きさえ終了しておらず、卒業審査を受ける事は絶望的になっていた。この状況に対応する為だろうか大叔父はイグシスと共に留守がちになり、その結果私達は容易に会うことが可能になった。私は甘い言葉で現実を一杯にして、明日への不安を取り除くのに必死になっていた。
7月20日ルコエがロスク市から戻り何のうわさ話も聞こえてこないまま二日が過ぎ様としていた夜、スタルニスが青ざめた顔をして私に会いにやって来た。スタルニスが父ルコエから告げられた話しは、医科大学の除籍手続きが出来なかった事と政治軍事大学の卒業が不可能になった事、そして州知事の娘との縁談が破談になったと言う事だった。
 この事態によりスタルニスは大叔父が今後の事を決めるまでしばらくこの屋敷に留まらなくてはならなくなった。今回の一件で大叔父はスタルニスの家族は全員追放すると激怒しているらしい、スタルニスがこの話しを聞いた時ルコエは泣いていたと言う、父親の泣いている姿を初めて目にした彼はひどく動揺していた。
 私達がしようとしていた事を考えればスタルニスの家族に待っている運命は同じなのだろうが、数百キロかなたで起こる悲劇と目の前で起こる悲劇では話が違ってくる。私はとにかく何年かかろうとも待ち続けるから今は事態を見守りましょうと話し、今回の事が落ち着くまで会うのを控えた方が良いと提案した。
 スタルニスは終止釈然としない様子であったが、こればかりはスタルニスにも私にもどうする事も出来ない事だった。私達が出来る事があるとすれば、これ以上騒ぎを大きくしない事である。
 私は朝までの短い時間の中でスタルニスの事をどれだけ愛しているかを語り、スタルニスを待ち続ける決意を話し続けた。「一生を台無しにしてでも彼方をただ愛し続け、ずっと何時までも待ち続ける。決して他の男の人には心をよせたりはしない、誓って他の男の人のものにはならない。愛している、愛している、ずっと愛している…」
私は明け方まで彼に語り続け、目が倍に腫れ上がるほど涙を流した。結局、私は彼の苦境を考える事もできずに、自分の思いをぶつけるだけに終始してしまった。本当の現実に目をむける勇気のカケラもなく、自分の思いに酔いしれていた。
 彼は最後に必ず君を迎えに来ると言ってくれた。今や彼の家族と同様に彼にのしかかる重石になってしまった私に、彼はやさしくそう言い切ってくれた。彼はそう言う人だった、深いやさしさをもつ人だった。
 私達はこうしてその日が来る時を待ち続けることを決め、夜が明けきらないうちに別れた。私は浮腫みきった顔を丹念に冷やし早朝からの仕事に備えた。スタルニスとの逢引を悟られない様にいつもどうり気丈に働かなくてはならない、身体は重さを感じていたがそれはいつもの事でなれたものだった。
 この日ネイラの畑を手伝う事になっていた私は、ミールに挨拶だけをして足早にネイラの畑へとむかった。畑の手伝いは正午過ぎには一端片付き、私は昼食を取る為に屋敷へと戻って来た。屋敷の敷地内に入ると人影はないのだが刺すような視線を感じた。
 ふと納屋の方を見るとミールが顔を抑えて泣いているようだった。私がミールの方に身体を向けた瞬間、屋敷のドアをものすごい勢いで開ける音が敷地内に響き渡った。
 ドアから憎しみの眼差しで出て来たのは大叔父で、その表情を見た瞬間に私はスタルニスとの事がバレた事を理解した。捕食者に狙われた小動物の気持ちはきっとあんなものなのだろう、私の身体は一瞬のうちに力を失い本能的にこの事態を諦めていた。
 大叔父は大声で「このスベタ!!」と言いながら私に近付き水平に振りかざした私の腹部を殴ると、もの凄い汚い言葉を吐きながら背中、腰、肩、足、腕を立て続けに殴られ、すでに立っていられなくなった私は慈悲を求めるようにして大叔父を見上げると「オマエにはあれほど注意しておいた筈だ!」と言って私の襟首を掴み、容赦なく杖の枝の方で私の顔を何度も殴り始めた。
 私は何度か殴られた後、意識が遠退き周りの世界が途切れ途切れの映像のように見え始め、次の瞬間には誰かに引きずられ車に押し込められる感覚と全身に堪えきれない痛みを感じるようになった。
 車に乗せられた私は窓の外の景色がすでに夕方になっていたのを覚えている、車を運転していたのはイグシスで、私はちゃんと言えていたか解らないがイグシスに何度か“ごめんなさい”と謝ったように思う。
 車は数分でナターシャの家へと辿り着き、私は抱えられる様にしてナターシャの家へと運び込まれた。家の奥の方から様子を伺う様にして現われたナターシャは、私の姿を見るなりすぐさまイグシスに説明を求めた。
 私は自分で立っている事が出来ず居間のソファーに崩れ落ちていると、奥の方でイグシスとナターシャが大きな声で言い争いを始めていた。イグシスは必死に事情を説明している様だったが、ナターシャは「私には関係がない!私を巻き込まないで!」と言っているようだった。
 漏れ聞こえて来る二人の話しでは、どうやら私はナターシャの家にある隠し部屋に閉じ込められるらしかった。二人の話し合いは小一時間程続き、ナターシャも抵抗はしたものの大叔父の命令に逆らえなかった。
 私は台所の床下に隠してある入口から極端に狭い通路を降りて6㎡ほどの地下室へと連れ込まれ、カビの臭いが染み付いたマットレスの上に寝かされた。イグシスは私に「おまえがした事は、この集落に対する裏切りだ」と語り「おまえの処遇は族長が決めるが、おまえが追放されるのは間違いない、おまえはその時が来るまでここで反省するんだな」と言い「わかったな!」と念を押して、この寒々とした地下室に私を投げ捨てていった。
 今まで冷たい感じはするが、どことなく私を気遣ってくれているのではないかと言うイグシスの印象はこの時完全に失われ、大叔父には誰も逆らえないのだという底知れない恐怖が私の心を押しつぶそうとしていた。
 私はこれからどれくらいの間この地下室の閉じ込められるのであろうか?そう思うと身体中にはしる痛みを堪えてでも確認しなくてはならない事がある、それはやはりトイレである。
 以前閉じ込められた時はバケツだった、その時の思いは二度と味わいたくない。私は身をよじらせて周囲を見渡してみると、“陸軍”と書かれたプラスチックの箱が有った。私は側面にあった注意書きを読んでみると、それは軍が使用する簡易式のトイレの様だった。私は少し安堵して殴られたところが圧迫されない体勢を探りながら、マットレスの上へと身体を戻した。
本来この地下室はゲリラの人たちやマフィアの人達が身を隠す、もしくは傷ついた身体を癒す為の部屋だろうか?天井には空気を取り込むためのパイプとハダカ電球が一つだけぶら下がっている、壁にはここに滞在した物が残して行ったイヤラシイ落書きがたくさんあった。
 私は何とか身体の痛みを紛らわそうとその落書きに目をはしらせていた。私がこの地下室に閉じ込められてから二時間ほど過ぎた頃、ナターシャが何かをゴソゴソと運び込んで来た。
 ナターシャは「あんたも涼しい顔をしてやることはやっているんだね…それにしてもスタルニス坊ちゃんに手を出すとは随分と勇気があるね、あんた族長に殺されても不思議はないよ…」そう言ってナターシャは私の傷の手当を始めてくれた。
 私はナターシャの手当てを受けながら、彼女の説教とも忠告ともとれる話しをただ聞き続けた。今にしてみれば彼女の思い込みだけの話をすぐにでも否定すればよかったと思うのだが、この時の私はそんな気概は一切なく、正常な精神すら持ち合わせていなかった。
 繰り返し頭の中で響く“どうしよう”と言う言葉に私の全てが支配されようとしていた。「ちょっとあんた聞いてるの?」ナターシャの声で我に返ると、傷の手当てはすでに終わっており、ナターシャは私に問いかけた答えを待っている様だった。
 私は何も答えられずにいると、彼女は「まあいいわ、手当ては終わったけど口の中が切れてるから、今日は何も食べない方がいいわ、でも必ず水分は摂るように…ここに水を置いておくから無理をしてでも飲みなさい。明日の朝もう一度来るけどどうしても痛みがひどい時はキッチンの床下の所まで来て声を掛けなさい、私は居間で寝ているから直ぐに駆けつけてあげるわ…いい必ず水を飲むのよ。」そう言って私の小さなうなずきを確認すると、彼女は地下室を後にして行った。
 私はナターシャに言われたとうりに水を飲み身体を横にした、ナターシャが言ったように口の中が切れていて水がひどく沁みる。地下室はジメジメしていて、私が来た時よりも室温があがったように感じた。
 私はこの不快な湿気と身体の痛みのせいであまり寝付く事ができず、ナターシャが下りて来た事で初めてこの夜が明けたのだと言う事を知った。ナターシャは私の着替えとなる服と食事となるスープ、そして私の時間感覚が麻痺しないようにと男性用の腕時計を持って来てくれた。
 ナターシャは私の身体を気遣っていろいろと質問してくれたのだが、私は頭が朦朧として質問の半分も答えることが出来なかった。彼女は地下室を出る時に錠剤を二錠手渡してくれた「痛み止めの薬よ、食事の後に飲みなさい、薬を飲めば少しは眠れるかもしれない。」私は彼女の言うとうり薬を飲んだ後直ぐに眠りにおち、眠りから覚めたのは次の日の夕方の事だった。
 私が目を覚ましてみるとケガの手当てが新しくなっていたり、来ていた服が着替えさせられていたりした。ナターシャが日中にしてくれたのは想像できたが、私自身にはまったく記憶がなくどのような状態でナターシャに介抱されたのか、そして使用した形跡のある簡易トイレは何時使ったのか、私はとても不安になり夜の食事を運び込んで来たナターシャに勇気を出して昼間の事を聴いてみる事にした。
 ナターシャはうっすらと笑みを浮かべて「今日のあんたは酔っ払いの様だったよ、少し吐いたみたいだったから無理やり着替えさせたんだ、とても恥ずかしがって大変だった」と言った。私の絆創膏だらけの顔が見る見る赤くなっているのを感じた。
 「トイレは使ったの?」彼女にそう質問され私が小さくうなずくと「小便は五回ぐらいは吸収剤が吸い取ってくれる、大便は吸収剤ごと取り出して、そこにあるビニール袋に入れてくれれば、私が捨てるからここにおいて置きなさい。臭いが出ないようにこうしてビニールはきっちり封をしなさい、あとトイレ自体の臭いが気になる時はこの吸収剤を足しなさい、わかった?」そう言って私に簡易トイレの使用方法を教えてくれ、もって来た食事を広げるとこの狭い地下室の中で私と共に食事をとり始めた。
 「娘が嫁いでからは食事がいつも一人なの…一人の食事は味気ないのよ…うちの旦那が生きていれば良かったんだけど…旦那が死んでしまった時にはまだ子供が小さくて…この集落に残って旦那の土地を息子に継がせるには族長の言う事を聞くしかなかった…あんたも知ってのとうり終いには娼婦まがいの事もする様になった…息子は私に話しかけても来ない、ほんの100メートル先にすんでいるのにね…逃げ出せるものならこの集落を逃げ出したい…」ナターシャは大叔父の屋敷にいる時以外のいつもの悲しげな様子でそう言った。
 ナターシャはそれ以上自分の事を話すことは無かった。二人とも黙り込んで、ただ静かで穏やかな時間をすごした。食事も終わりナターシャが食器を片付けている時、不意にこう話を始めた「族長はスタルニスが復学を拒んで集落にとどまった原因はあんたにあると思っている、スタルニスをたぶらかしたって、スタルニスはあんたとの好い仲を否定してだいぶ痛い目にあってるみたいだ。」
 私は崩れ落ちる感覚と同時に頭のてっぺんから血の気が引いていくのを感じた。スタルニスが私をかばっている、私の頭は真っ白になり、目の焦点が合わなくなっていると、ナターシャがいきなり私の肩をつかんで「いいよく聞きなさい!」と私を強く揺らしながら言うと「いいよく聞いて、明日は武器の横流しがある!ゲリラも直接買いに来る大掛かりなものになるわ!集落の男達は大忙しになるし、もちろん私もこの家を留守にする、意味わかる?スタルニスが明日の朝まで口を割らなければ、スタルニスの監視もあんたの監視も手薄になるわ!意味わかるわね!あんた達は生きなさい!いいわね!しっかりやりなさい!」ナターシャの目には涙が浮かんでいた。
 なぜ?どうして?彼女に聞いてみたい事は山ほどあったのだが、彼女はそのまま地下室を出てしまったので、私は彼女の気持ちに触れる事は出来なかった。彼女は本当に私達を手助けするつもりなのだろうか?私の心の中には彼女に対しての疑念が直ぐに沸き起こって来た。
 私達の手助けをして彼女には何の得もない、それどころか私達の手助けをした事はすぐに大叔父にばれるだろう、集落からの追放が目に浮かぶ、なのにどうしてあんな事を私に言ってしまったのだろうか?私達への罠なのかもしれない、私の心はこの理解できない事態と植えつけられた恐怖心によって、酷く荒んでしまっていた。
 私は成り行きのわからぬ混沌の中で一夜を過し、不安のまま次の日の朝を迎えた。ナターシャは昼近くになって地下室へと現れ二、三日分の食料にはなるだろうと言って、乾パンとペットボトルの水そしてドライフルーツの缶詰を麻の袋に入れて渡してくれた。
 私は彼女に何か不振な素振りはないかと注視していたが彼女はそうする事が義務であるかのように、私達の旅立ちを見送ろうとしていた。“彼女は本当に私達の手助けをしようとしているの?”私の中に今まで感じた事のない驚きが湧き上がっていた。
 「夜の十二時まではここでじっとしていなさい、スタルニスが来るにしてもあんたが行くにしても必ずうまく行くようにするわ、それと家を出る時にキッチンの食器棚の上にある2000ルブルを持っていく事、いいわね私はもう屋敷に向かうからあんたとは最後になるかも…最後になる事を祈っているわ、じゃあね、エミル。」私は彼女を疑った自分に恥ずかしさ感じた、せめてもの償いにと想い私は出来るだけの笑顔で彼女に「ありがとう」と最後に言う事が出来た。ナターシャは私の頬笑みを見届けると静かに地下室を後にして行った。
ナターシャが地下室を出て行ってから少しずつ時間をかさねるにつれ、私の緊張は次第に高なって行った“スタルニスは本当に迎えに来てくれるだろうか?”“スタルニスが迎えに来ないときはどうやって彼の元に向かえばいいの?”“この集落をどうやって逃げ出せばいいの?”私の頭の中はどこを向いても不安ばかりだった。
 極度の緊張からか私はじっとしている事が出来ずに、地下室の中をウロウロとしたり、立ったり座ったりを繰り返していた。そして夜の11時を迎えた頃、地上から聞こえて来た大きな物音にビクリとした。
 私の身体はそれが合図となって小刻みに震えだした、地上の物音はドアを蹴破る音から、何かを探るような物音に変わっていった。私はスタルニスが来たと確信が持てずに、声を掛けるかどうかためらった。
 私が迷っている間に地上から「エミル!!」と私を呼ぶスタルニスの声が聞こえて来た。私は「スタルニスここに居るわ!」と大きな声で答えた。スタルニスはキッチンの隠し扉を開け、細い階段を下りてカンヌキをはずし地下室のドアをものすごい勢いで開いた。
 私はスタルニスの姿を見た途端、涙があふれ泣きつくようにスタルニスの足元に崩れ落ちた。スタルニスは崩れ落ちた私の身体を強く抱き上げ「ナターシャがここに居ると言ってた!今日は軍人が来ていて!今日を逃したら君を連れ出す事ができないと教えられた!どうしても君と一緒になりたかったんだ!屋敷には大勢人が居たけど何とか抜け出す事ができた!」スタルニスは明らかな興奮で話しの前後がつながっていなかった。
 そしてスタルニスの顔には殴られた傷がはっきりと残されていた。「あいつ等には全てを話せと殴られたけど、僕は口を割らなかった!ただの話し相手だと言い続けた!あいつ等は僕たちの事は知らない!今なら必ず逃げられる二人で前に話したノミノのキャンプに向かおう!国境を越えてこの国から逃げ出そう!二人で誰にも見つからない所まで行って何時までも二人で生きよう!」私は彼の肩で涙をぬぐい震える声で「一緒にどこまでも逃げましょう」と彼に答え、不安を打ち消すようにスタルニスの唇に私の唇をかさねていた。
口づけの余韻は静かに二人の再会を祝福している様だった。従属され利用され続ける集落から逃げ切る事を決意した私達は、少しばかりの食料と棚の上に置かれたナターシャの温情を持って彼女の家を抜け出し、あたりに人影がないことを確認して、連綿と続く麦畑と牧草地へと足を踏み入れていった。
 私達は集落と村とを結ぶ道路を避け漆黒の闇に包まれた麦畑をつらぬき、集落の境界線から十数キロはなれたドミニスタンへと続く国道を目指した。私は暗闇の畑の中で幾度となく転びそうになり、何度となく息を切らして足を止めていた。
 スタルニスはそんな私をやさしく励まし、握っている手を強くしっかりと握り直してくれた。私にとってこの握り締められた手だけが前へと進むべき道筋であり、明日へとつながる希望であった。
 私達は一体どのくらい走り続けただろうか?腕時計を見ても過ぎている時間の短さにまるで現実感がない。スタルニスの顔にも無我夢中の表情は消えて、疲労の色が濃くなって来た。私は勇気を出して少し休む事を提案するも、スタルニスにはあっさりと否定された。「夜明けまでには国道の近くまで行きたい、休むにしても森の中に入らなければ安心はできない、とにかくもう少しがんばろう。」私は彼の意見が正しい事を信じて走り続けた、息も続かない苦しみの中で私達はようやく集落の境界へとたどり着いた。
 ここから先は数キロほど森が続いている、スタルニスは方角を見失わないように境界線沿いを数百メートルほど進み、国道の方向へと続く獣道を探し当てた。スタルニスはおもむろに立ち止まり、森の中では何があるか解らないので、危険を感じたら直ぐに道を外れて隠れる場所を探す事と、ゲリラや連邦軍が仕掛けた爆弾や地雷に注意する事を教えられた。
 私達は森の中へと入り丹念に足元と辺りを注意しながら歩いていたため、畑を進んだようには移動する事が出来なかった。森の中には傾斜がありちょっとした登山の様だった、足元は非常に悪く滑りやすかった。疲労と睡魔が容赦なく襲う、私はついに耐え切れなくなってその場にしゃがみ込み「スタルニス待って!」と声を上げてしまった。
 近づいて来た彼は「大丈夫かい?」と声を掛けてくれた。彼の息もかなり乱れていて「少しここで休憩しよう」と言ってくれた。私達はしばらく息を整えるのに集中していたが、呼吸が整ってくるとお互いを見つめ合いながら何とも言えない微笑みを交わした。
 「エミル…君には言っていなかったけれども、僕は君と初めてあった時から君の事が気になっていたんだ。」意外な彼の告白に私は少し驚いた。「初めてって、いつ?」私は聞かずにはいれず、彼は恥ずかしそうに告白を続けた。
 「父に連れられて農道を歩いている時、君とすれ違った時からだよ…族長の屋敷に監禁されてからも、君の噂話を聞く度に君の事が気になってしかたなかった…だから部屋を抜け出して会いに行ったんだ。君の事はすぐに好きになったけど、僕は妹の血縁結婚に反対していたからとても言い出せなかった…結局僕はずるいやり方で君に告白させてしまった…すまなかったと今でも思っている。」
 私は彼の話を聞きとてもうれしく、そしてこんな事に引きずり込んでしまった心のつかえが少し楽になっていくのを感じた。私は彼に寄り添い時折たわいのない話をして一時間程の休憩時間をすごした。再び歩き出した私達は無事に森を抜け出し、荒涼とした伐採地に辿り着いたのは明け方になった頃で国道まではあと5km程の距離だった。
 途中に民家が幾つかあったが人気はまるで無く、休む事も考えたが先を急ぐ事を選んだ。スタルニスは私達が進んでいる方向に少々不安があった様だが、進路を進めるにつれて不安を自信に変えている様子がうかがえた。私達が国道を見渡せる丘まで着いた時、彼は国道を指差し大喜びをしていた。私もなんだか嬉しくなって彼と抱き合い喜びを分かち合った。
国道に入りドミニスタンへと続く道を歩き始めた私達は、ほんの数kmも歩かないうちに連邦軍の簡易検問所に足止めを食らった。検問所では十台ほどのトラックが止められていて、中には外国の人道支援団体の車もあった。
 運が良いのか悪いのかこの簡易検問所は身分証などのチェックは一切なく軍人達の小遣い稼ぎの検問所であった為、私達はナターシャのお金を使い一人につき100ルブルを支払って、兵士達に笑顔で見送られながら検問所を通過していった。
 検問所から10kmほど行くと小さな村があり国道沿いにはいくつかの露店も出ていた。私達は露店で売られていた水を買入し、この村で何時間か休憩をとる事に決めた。私達は国道から外れた小さな広場を見つけ、ここで食事を取り寄り添いながら浅い眠りについた。夏の強い日差しで目覚めたのは14時頃、目を覚ました私の身体は筋肉の痛みで悲鳴を上げていて、隣に居たスタルニスも同様に痛みを感じているようだった。
 私達は支え合いながら立ち上がり、ヨロヨロとまるで老人の様に再び歩きはじめた。夕方近くになると村にも国道にも人の気配が無くなって来る、例えすれ違う人がいたとしても皆不振そうな顔をして私達を見るだけで誰も気に留めたりはしない。
 夜の移動は出来るだけ避けたい、安全に身を隠せる場所を見付けて朝を迎えたかった。私達は国道を進みながらも、夜を明かせる場所がないか目を凝らして探していた。休憩をとった村から10kmほど進んだ道端で、越境者と思われる一団がテントを連ねて夜を明かそうとしていた。
 越境者の人々は焚き木を囲みながら食事を取ったり大声で話をしたりしていた。その様子からはこの付近が安全な場所である事がうかがえた。辺りはすっかり日が暮れていてこれ以上の移動は危険を伴った。私達はこの集団から少し距離をとり、彼らの様子を注視しながら身体を休める事にした。
 越境者の人々は私達の存在に気付いた様だったが、とくに声を掛けて来たりはしなかった。彼らも私達を警戒しているのだ“見知らぬ者には関わらない”彼らと私達、そしてこの国の人々の掟であった。とても厳しい現実ではあるが、そんな寂しさも今の私達にはありがたい事もある。私達は夜の寒さを身を寄せ合いながらしのぎ、ただ二人でいる事の現実を噛締めながら明日へとつなぐための眠りについていた。
 「エミル!!」「エミル!!」遠くから私を呼ぶ声が聞こえる、その声は明らかに危険が差し迫っている事を知らせていた。私が目を覚ますとスタルニスが数人の男達に羽交い絞めにされ殴られている。
 私は一瞬なにが起こっているのか理解できなかったが「エミル逃げろ!!」「早く逃げろ!!」と言う彼の声で頭で考えるよりも早く、集落の人間に見付かった事を理解した。
 私はこの時逃げるとか、彼を助けるとかそんな事は考えもしなかった。ただ本能に従う様にして立ち上がり、彼の居る方に向かおうとしていた。次の瞬間、私が耳にしたのは後頭部から広がる鈍い音で、私の頭の中では何かが弾ける様にして身体の力が抜けていく感覚と目の前がチカチカと白くなり意識が薄れていくのを感じていた。
私がうっすらと意識を取り戻した時には、私は車に後部座席に押し込められており車はスピードを出して走行していた。私は頭に感じる痛みを何とかしたいと思って後頭部に手を当てようとしたのだが、手は思うように上がって来なかった。
 私の両手足が縛られていたからだったが、私がこの状態に気が付くほど私の意識はハッキリとはしていなかった。私は訳も解らずどうする事も出来ないままただもがいていた。そんな私の姿を見てだろうか、助手席にいた誰かが私を覗き込み私を馬鹿にしながら笑っている様子がうかがえた。
 私は助手席の男に笑われているのが悔しくて身体を動かすのを止め、もう一度目を閉じて今の状態を把握するために考えを集中する事にした。考えをめぐらせ始めた私の頭の中では、バラバラの想いと考えが交錯し意識は次第に深い闇の中へと押し戻されて行った。
 私がしっかりとした意識で現在の状態を把握できた時には、車は既に停車していて車の中には誰も乗っていなかった。車の外は暗闇を増しており空は夜の装いを見せ始めていた。私は身を持ち上げ車の外を覗いてみると、車の前にはタラの息子のロザルが居て私を見張っているようだった。
 そして車が停車していた場所は見覚えがある打ち捨てられた納屋の前であった、そうここは呪われた地クルコエの集落だった。
 私の身体からは見る見るうちに血の気が引き、身体の芯から止めようもないほどの震えが湧き上がって来た。納屋の前には車が数台と集落の半分ぐらいの人々が集まっていて、納屋の左側の窪地には数人の女性達の人だかりが出来ていた。
 女性達はしきりに右往左往している、私が目を凝らして見てみると女性達の輪の中でうずくまり殴られている人がいる事が解った。私はギョッとして身を竦ませたが、どうしても吊し上げにあっている人を確認しなければならないと言う思いに駆られた“もしかしてナターシャでは?”私の頭の中にはこの逃避行を手助けしてくれた彼女の名前が浮かび上がった。
 私はもう一度目を見開いて見てみたが、殴られている人物がナターシャであるかどうかは確認がとれなかった。なおも私が女性達の方を眺めていると、車の前に居るロザルが車の窓を叩いて窓から離れろと言うジェスチャーをしていた。ここでは何が行われているのだろうか?私の頭は恐怖で一杯になっていた。
私が目を覚ましてから二時間ほど過ぎた頃、納屋の中からイルスが出て来てロザルにこっちに来る様にと言う合図をしていた。ロザルは後部座席の方に回り込みドアを開け「いいか!騒いだら殺す!逃げ出しても殺す!おとなしくしていろ!」と私を脅すと、私の足を縛っている縄を外し始めた。私はこの時あの納屋で殺されるのだと言う事を悟った。
 私は大叔父に殺される、大叔父の屋敷に来た時から感じていた死の恐怖が現実になろうとしていた。死が目前に迫った私の身体は力を失い、ロザルに引きずられるようにして一歩一歩納屋へと近付いて行った。
 納屋へと連れ込まれる私を見て納屋の前に居た人々は、蔑む様な眼差しで見つめていた。中には私に向かって売女と言う人やメスブタと言う人がいて、私刑を受ける私の罪状を説明していた。
 納屋の前に集まる人々から少し離れた所には泣き崩れているスタルニスの父と母、そしてミールとそれを慰めているアニスの姿を確認する事が出来た。私は吊し上げをしていた女性達の方も見てみたが、殴られていたのが誰だったのかはやはり確認する事は出来なかった。
 納屋の入口に立っていたイルスが扉を開けて中に通されると、納屋の中には大叔父とイグシス、タラの夫やネイラの二人の息子、ハトコのイサ、ナターシャの息子ニグリなどの姿があった。
 私は小突かれながら大叔父の前まで行くと耕耘機に縛りつけられ、ボコボコにされたスタルニスの姿を見つけた。私は思わず「スタルニス!」と声を張り上げると、間髪いれず大叔父の杖が私の頬をとらえた。
 大叔父は私に何を言うわけでもなく、ただ強い憎しみの眼差しで私を睨み付けていた。私は一瞬その目にたじろいだが、それでもスタルニスの名前を呼び続けた。スタルニスはぐったりしていたが意識は有る様で、ゆっくりと私の方を見て“エミル…エミル…”とかぼそい声を上げていた。
 私達の心のつながりを大叔父はどの様に感じたのだろうか?しばらく私達の様子を見ていた大叔父は「ロザル言われた通りにやれ…カノマとアリを中に入れろ。」とだけ言い残し納屋の外へと出て行ってしまった。
 私はついに殺されるのだと思い「おねがい!スタルニスは殺さないで!!」とロザルに哀願すると、ロザルはいつものイヤらしい笑みで私を見つめ、私の襟首を掴み持ち上げて右手を振りかざすと私の頬を思い切り平手打ちした。
 私は殴られた勢いで足がもつれ地面へと倒れこむと、ロザルはスタルニスの方を振り返り「エミルはな!!エミルはこの俺が嫁にもらうはずだったんだぞ!!」「それをこのクソガキが!!」と叫ぶとスタルニスを数回殴り、血走った目で私を見つめ「よく見とけ!スタルニス!」と言って私に近付き、私の着ていた服を引き千切り始めた。
 私はロザルの行動に完全にパニックに陥り、今まで出した事のない叫び声で悲鳴を上げた。私の少し離れたところではスタルニスが大声で止めろと叫んでいる、私は千切られた服を全身全霊の力で押さえてあらわになった素肌を隠そうとしていた。
 ロザルは固く組まれた私の腕を引き離そうと躍起になっている、私はロザルの手に力が入る度に悲鳴を出し続けた。
 私の抵抗が強固だったからかロザルの手は次第にスカートの中へと伸びて行き、私の股をまさぐり始めていた。
 耐え切れないロザルの体臭と臭い息に吐き気を感じる、ロザルの重い身体がのしかかり逃げ出す事ができない。
 私はより一層声を張り上げ何とかこの状況を抜け出そうとしていた、何よりもこんな恥ずかしい姿をスタルニスに見られたく無い。私がそう思った時、ロザルが「うるせぇ!」と声を上げ、固く握り締められた拳で私の顎を何度も殴ってきた。
 私の口の中は一瞬にして血が一杯になり、身体の力は徐々に失われて行った。口の中の血が喉をつまらせ声を上げる事が出来ない、私が口の中に広がる血の味を充分に感じた次の瞬間、何かが腹の下を引き裂く様な痛みが頭の先まで伝わって来た。
 それはとてつもない痛みで身体の中に何かを押し込められている様な感覚であった。私がこの未知の痛みに狼狽しているとロザルは「スタルニスめ!見たか!!エミルは処女だ!このインポ野郎!!」と叫びながら身体を上下させていた。
 私はロザルのこの言葉で自分がレイプされている事を知った。私の頭は真っ白になった、現実を受け入れない方向へ思考が流れて行く、納屋の中にはこの様子を見ている数人の人々と最愛のスタルニスがいる、殴られた顎の痛みも下腹部に感じる痛みも全ての感覚を断ち切り消えてしまいたかった。
 ロザルがどのくらい私の中にいたのかは解らないが、ロザルは大声で気持ち悪い叫び声を上げ私の体を引き離すと、ロザルは傍らにいたアニヤの双子の兄であるカノマを引き寄せた。
 カノマはロザルの手引きで私の中に入ると、今まで見た事の無い様な笑みを浮かべ、奇声を上げながら私の上で腰を振り続けていた。カノマの腰の振りが一段と速くなり息を切らせて私に覆いかぶさった後、ロザルはカノマを私から引き離し納屋の隅の方に居たアリに何かを話しかけていた。
 アリは輪姦の仲間に入るのを嫌がっていた様だったが、ロザルに馬鹿にされ捲くし立てられる感じで結局私の中に入ってきた。
 私がまわされている間ロザルは終始上機嫌であった。ロザルの私に対するサディスティックな行動の裏には、頭脳明晰なスタルニスへのコンプレックスがあったのだろう、ロザルは私をレイプする事でスタルニスへのコンプレックスを晴らそうとしていた。
 納屋の中にいた人々はこの惨状に気が引けたのだろうか?事が終わる度に一人また一人とその姿を消して行った。最後にもう一度ロザルが入って来た時、私はスタルニスの方を見てみたがスタルニスは項垂れ大粒の涙を流していた。
 私の記憶は途切れがちだがこの時のスタルニスの姿はハッキリと覚えている、私の心の傷はこのスタルニスの姿に起因しており、どうする事も出来ない絶望の象徴になってしまった。
 ロザルのサド振りは更に度を増し、私の首を締め上げながら私が苦しむ表情を見て私を犯していた。顔も体も血だらけの女をいたぶり陵辱して快楽を貪っていた。
 私はあの様な人間の顔を今まで見たことが無い、鬼畜と言うのはあの様な人間を言うのだろう、ロザルは十分楽しんだ後、息を切らせて地面の上に寝転がった。そしてスタルニスに一言二言なにかを話しかけていた。スタルニスは何も答えなかったが、ロザルはズボンをたくし上げ納屋の外へと出て行った。
 何故かは解らないが納屋の人々は消え去り、私とスタルニスだけが残された。しばらくの静寂の後、私は何とかしてスタルニスの元へと近付き彼にどうしても謝りたいと思った。私は這いずりながら彼に近付いたが、彼に数cm近付く度に全身に圧し掛かる様な痛みと天地が覆る様なめまいに襲われ始めた。
 「ごめんなさい、泣かないで、ごめんなさい」
 私は残る力を振り絞りせめて声だけは彼に届かせようと努力したのだが、だらんとして血が一杯になった私の口からは声を思うように響かせる事ができなかった。
 私は辛い思いをさせたスタルニスに謝る事も出来ずに、そのまま意識を失い生も死も夢も現実も無い今を迎えることになってしまった。
今、私が彼に許しを乞う機会は永遠に失われ様としている…
それが私に唯一残された後悔であり、今の私の罪…
そしてそれこそが私にかけられたクルコエの本当の呪いなのかもしれない…

 

 2・学校

  私の意識は何時ごろ戻ったのだろうか?もう既に日は昇っていて、私が居る場所は私が犯された場所とは別の納屋の様だった。私はこの納屋にあの時と変わらず、ボロボロの上着を一枚羽織るだけの全裸に近い姿で投げ捨てられていた。
陵辱とリンチを受けた私の体は自分の意思によって動かす事ができず、目に映る世界にはほんの少しの現実感さえ感じる事は無く、それはまるで遠くにあるテレビ画面を呆けながら眺めているかのようだった。
私が目を覚ましてから数時間ほどは経っていたと思うが、納屋の外に幾人かの女性の気配を感じた。彼女達は壁の隙間から私を眺めて私の悪口をささやき合っていた。とても酷い蔑む言葉と罵声が聞こえて来るのだが、まったく心が動かない感じる事はできていると思うのだが何も気になる事がない、全ての状況がどうでも良くなっている事に気付き始めていた。
 「バケモノだ!」「オバケだ!」夕日が納屋に差し掛かっていた時、今度は集落の子供達が覗きに来ていた。子供達はしばらく女性達と同じようにガヤガヤと騒いでいたのだが、老女の怒鳴りつけるが聞こえると蜘蛛の子を散らす様に納屋の側から逃げ出していった。“どうぞゆっくりとながめるといいわ”私の頭の中に浮かんだのはこれくらいのものだった。場末の集落では私はとびきりの見世物だろう、今思い出すと震えるほどの怒りと恥ずかしさを感じるのだが、この時の私は恐ろしいほど超絶としていて本当に本物の化け物の様になっていた。
 「どうだ?感じるか?気持ちいいか?」「こうしてやる!!これでもか!これでもか!」ふと気が付くと私の上にはロザルが覆いかぶさっていて、まるでキチガイのイヌのように身体を小刻みに動かし息を切らせていた。
手持ちランプに照らされた顔には、あのイヤらしい笑みが浮かんでいて、半開きの口からは臭い息とともに汚いよだれを吹き出していた。
“私の命が続く限りあなたに感じる事はない。たとえ生まれ変わって恋人同士になったとしても絶対にあなたには感じない”私の口が開く事が出来たならロザルにそう言ってやりたかった。ロザルはその夜、酒を飲みながら何度も私の体で自分を慰めていた。
 その後の私はさながら具合のよい雌羊か雌牛の様に扱われる様になった。ロザルは毎晩のように楽しみに来ていたし、ロザルの他にもカノマや誰だか解らない人がやって来ていた。彼らは朝も昼も夜も関係なく私を犯し続けていた。私は時折いたみを感じる事もあったが、ほとんどは何も感じる事はなかった。恐ろしい事だが初めてロザルに犯された時の様な心の衝撃も無かった。人間が何にでも慣れてしまうのか、私の心が完全に壊れてしまったのかは解らないが、私はこの状況をただ淡々と受け入れる人形の様になっていた。私は彼らの体液が私の身体に吐き出される度に、私は人間としの存在や今までの人格を失って行ったのではないだろうか?
 “私は生きているの?”時々やってくる頭の中の疑問もしばらく無くなって来た頃、納屋の外から大叔父が誰かと話しをしている声が聞こえて来た…「こいつだ、どうだ?」「……」「いくらでもいいんだ、引き取ってくれ。」「…この女を?…これじゃ使い物にならない…どうしてこんなふうにしちまったんだ?」
 “私を買いに来た!”私は大叔父の話し相手が人買いである事を悟った。人買いでもいい、たとえ一生性的奴隷でもかまわないからこの集落から連れ出してほしい、この場所で生きていたくないし、決してこの場所で死にたくは無い。“神様お願いです!この人買いに私を連れて行かせてください!”私は私の人生の中でこれほど神に願い事をした事はなかった。しかし神様がする事は過去も今もこれからもいつも同じで、ただ見守ってくれるだけだった。結局、私が人買いに買われる様な事は無く、その後に訪れた人買い達も私を買って行く事は無かった。
 人買いにさえ買われることの無かった私は、慰め物としての生き方を強いられ続ける事になった。ある日かある晩ロザルがせっせと事にはげんでいる時、ロザルがとびおきて大声で怒鳴り声を上げた。「このアマ!糞をもらしやがったな!!」
…ああ私は粗相してしまったのだなと思い、心の中でロザルを大笑いしてやっていると、私の腹にはロザルの蹴りが入り、私の顔にはロザルの拳がとんで来た。私は痛みを感じる間もなく意識を失い、ふたたび深い闇の中へと沈んでいった。
 私の意識が戻ったのは夜だった。納屋の扉が開く音と土を踏む足音、そして聞きなれない訛りを持つ男の声で私は目を覚ました。
「ウッくせえな…」この時、私の身体は血と精液と糞尿でドロドロになり酷い異臭を放っていた。私の状態をそう的確に表現した男は、後ろに控えていた大叔父と取引の話を始めた。
「いつからこんななんだい?」
「五日前からだ。」
「クルコさんの噂は聞いていたが、随分と凄いね…」
「そんな事より引き取れるのか?」
「先方からの注文は生きている事だけだ。」
「なら引き取ってくれ、こいつの父親もあんたのゲリラ組織で死んだんだ、ここではもう手に負えない」
「よしてくれ俺はただの運び屋で組織とは関係ねぇし仲間なんかじゃねぇ」
「まあいい何でも良いから引き取ってくれるんだな」
「あぁOKだよ…とりあえず手付けの200だ、後は使いがまた来る…」
“…父が組織で死んだ!?…”私は初めて知らされた父の消息に驚くとともに、今まで理解に苦しむ大叔父の言い付けが父の犯罪を隠蔽する為に必要だった事に今更ながら納得していた。
“そうか私は随分と前からこの集落では厄介者だったのだ…こうなる事は父が死んだ時からの運命で何をどうしようと今の私は変わる事はなかったのだ…”そう思い始めると次第に身体の硬直が抜けて行き、指先や足先には軽いシビレを感じるようになった。
運び屋の男が私に薄い毛布をかけてくれ、しきりに立てるかと質問していた。私はほとんど何の不自由も無く立ち上がり、その男の後に付いてトラックが止めてあると言う農道まで歩いて行った。途中何度か転んだか転びそうになったがあまりよくは覚えてはいない、地面を裸足で歩いた足裏の感覚だけが鮮明に記憶に焼き付いている。トラックへとたどり着いた私は男に荷台に乗るように指示され、荷台の荷物と荷物の間に身を隠すように言われた。
私は言われたとおり荷物の間に身をうずめると、男は一時私の側から離れ荷物の中から何かを取り出そうとしていた。
「腕を出すんだ。」懐中電灯の光とともに現われた男は私にそう言うと、私の腕をつかんで紐で縛り手馴れた手つきで私の腕を数回たたき私に何かの薬を注射していた。
「安心しなこれでおまえはハッピーになれる。」薬を打ち終わった男はそう言っていたが、私はそんな事が本当にあり得るのかと疑っていた。「今から荷物を積み直す、外からおまえが見えないようにだ、たとえ明るくなったり車が止まったりしても絶対おもてに出てくるな。出て来たら俺もおまえもお終いだ、俺はおまえを助けたんだ、命の恩人を困らせたくは無いだろ…いいな俺が声を掛けるまで絶対に出るな、移動は三日ぐらいかかるが薬を打ちに来てやるから平気だ、いいな!いい子にしてるんだぞ。」男はそう言ってトラックを走らせる準備を始めた。準備が進むにつれ私は暗闇に包まれ、徐々に気分がゆったりと楽になって来た。
“これでこの集落から抜け出せる…これで私は私のほとんどを捨て去る事が出来る…”この先一体どうなってしまうのかと言う不安を私は頭の片隅にも抱く事は無く、この集落から抜け出せる事実に私は小さな幸せさえ感じていた。急速に拡がっていく安堵感の中、私は久しぶりに感じる眠気に襲われ始めた。
“まだダメだ、車が動き出すまでは安心は出来ない、まだ起きていないと…”私は大叔父に引き戻されるのではないかと言う不安から自分にそう必死に言い聞かせ、重くなる一方のまぶたと戦っていた。やがて運び屋の男が荷台から降り、農道を踏みしめる足音と車のドアを閉める音が車内に響き渡った。“もう大丈夫…きっと大丈夫…”私は睡魔に勝つ事が出来ずに、自分を納得させる形で深い眠りの中へと身を落として行った。
 その後トラックは昼夜をとわず走り続けている様だった、私は何度か目を覚ましたがその度に私の腕を掴み薬を注射している男の姿を覚えている。男は傷だらけの私に何の興味も同情も見せる事は無く、時間が来ると機械的に注射を打ちに来ていた。
私はそんな男の態度が嬉しく、物として扱われることに心地良さを感じていた。だから男がやって来て私に水を飲まそうとした時は、まるで介抱されている様でギョッとしてしまった。男は私の口にペットボトルを押し当てて何とか水を飲まそうとしていた、私はそれを振り払うようにして出来うる限りの抵抗をしていた。
男はしばらくして諦めたのか私の手にペットボトルを握らせ、私の前から姿を消していった。そんな事が数回あったのだろうか?私の回りにはペットボトルが4、5本あり空の物もあれば一本丸々残っているのもあった。私は半分寝ぼけた状態でそのペットボトルを眺めていると、突然のどに猛烈な渇きを感じ手にしているペットボトルの水を飲もうと試みた。
だがしかし私の身体は自分の意思と手の動きにギャップがあり、かなりの間もどかしく歯がゆい時間を過していた。水を自力で飲む事を諦めた私の頭の中に、どの位トラックに乗っているのだろうと言う疑問が湧き上がって来た。私は自分なりに答えを見つけ出そうと辺りを見渡していると、トラックが停車しているのではないかと言う事に気が付いた。
車が停車しているのに男はやって来ない、私がいつもと違う状態に不安を感じていると、車の外から男と女性が話しをしている声が聞こえて来た。声は次第に大きく聞こえて来て荷台に人が乗り込む振動を感じると「どこにいるの?」と言う女性の声が荷台一杯に響き渡った。
 「どこなの?」
「いちばん奥さ…」荷物をガサゴソと避ける音と共に、一人の中年女性の姿が見えた。「もう大丈夫よ、何も心配する事は無いわ…ちょっとアナタ!もっと人間らしい扱いをしたらどうなの!!」
「引き取った時からこんなだったさ…」女性は男を叱り付けると、男はバツの悪そうな感じでそう答えた。そして女性は私の様子を注意深く眺め、「クスリを使ったわね!!」ともの凄いけんまくで怒り始めた。
「薬を打たなきゃここまでもたなかった!死にかけだったんだよ!」
「何を打ったの!?」
「……」
「はやく答えなさい!!」
「アンペックと…」男はまるで母親に叱られているかの様に、ずっと言い訳をしていた。
女性は話しを進める毎に怒りを強めていった。「もう結構!この事はあなたのボスに注意しとくわ!」運び屋の男のしょんぼりする姿が見るまでも無く伝わって来た。
女性は私の頭を優しく撫で「つらかったわね」と優しく声を掛けてくれた。瞳にうっすらと涙を浮かべたその女性は、私を力強く抱き寄せ私を立ち上がらせようとした。
私は自分は汚いから触らない方が良いと言おうとしたのだが、私の口はまだまだもつれたままで、自分でも何を言っているのか定かではなかった。「いいのよ、何も言わなくていいのよ。」女性は優しくそう言い、私の肩を支えながらゆっくりと荷台の外へと出て行った。
荷台から降りると外は闇に包まれており、トラックはメゾネット形式の共同住宅の前に停車していた。どうやらここは女性の自宅らしい、大きく開かれたドアからは優しい光が私達が居る車の方まで伸びていた。
私は再び女性に担がれ一歩一歩その光の方に近付いて行った。途中ばつの悪そうな運び屋の男が女性に手を貸そうとしていたが、女性は「アナタにこの子は触らせません!!」と一括されていた。私と女性は何度かよろめき何度か膝を落としながら、わずか数mの距離を数分かけて玄関へとたどり着いた。
私は玄関先で横になり少しの間待っているように言われ、女性は玄関のドアを閉め外で待っている男と何かを話している様子であった。数分後トラックのエンジン音と共にドアが開き、女性が私の元へと戻って来た。
「あなたはエミル・サラムね…わたしはハンナ・ジサクよっろしくね…何故アナタがここに来る事になったかは、後でゆっくりと私の主人が話しをします…とりあえず今は身体の傷を癒す事が第一です…今夜は身体をきれいにして傷の消毒だけをしましょう。」女性の話し方はとても優しかった。私はその雰囲気にあまり覚えていない母の印象を一瞬にしてだぶらせていた。
彼女は私に立ち上がれるかを確認して、再び私を抱えてこの家の奥にあるバスルームへと私を連れて行ってくれた。私は薬が切れ始めたのか、それとも人間らしい感覚が戻ってきたのか一歩一歩足を進めるたびに全身に痛みを感じ、バスルームに近付く度にその痛みは強さを増していった。
私と彼女がバスルームへとたどり着いた時、彼女は「今夜は夫はいないの、この家にはアナタと私だけだから安心して…アナタの身体を洗うからこの毛布を取るけどいいわね?」と言って、私が身に着けていた毛布をはがすと、今まで話し続けていた彼女の声が止まり、トラックの中から耐えていた涙がひとすじふたすじと彼女の頬の上を流れ落ちていた。
彼女は私の体を見て私の絶望を知ってしまったのだろう、彼女の涙は私の体を洗いながらも流れ続けていた。彼女は自分の服が濡れてしまうのも気にせずビショビショになりながら、私の血と汚れと泥を丹念に洗い流し、口の中や鼻の中の血の塊を傷口を広げない様に優しく取り除いてくれていた。
 私に重く圧し掛かる全身の痛みは消えないままだったが、彼女の献身的な努力によって私の身体の方はだいぶ人間らしく綺麗に整えられた。「もう大丈夫、これで大丈夫よ。」と彼女は声をつまらせながら言うと、私の身体の水気をフカフカのタオルで優しく拭き取り、私の傷を一つ一つ丁寧に消毒して出来うる範囲の手当てを施してくれた。
「私の出来る処置はここまでね、後は明日お医者さんが来てからの治療になるわ…あとねエミルあなたの性器から血が出続けているの…今は清潔にして止血剤を飲む事しか出来ないからこの生理用品と下着を使ってちょうだい、あとこれがあなたの寝巻きよ…」
私は手渡された生理用品の使い方をまるで理解していなかったため、ここでもやはり手取り足取り寝巻きを着終わるまでハンナの手助けが必要になった。私は大きめの下着とブカブカの寝巻きに身を包み、シャワールームを出て一階にある客間へと通され、その部屋にある小さめのベットに横になった。
「私も着替えてくるわ、そのまま横になっていて。」ハンナは息を切らしながらそう言って、一端ゲストルームを出て行った。私は自分が寝かされた部屋がどんな部屋かきになって頭を上げて眺めてみると、部屋はヨーロッパ調の家具で調えられ趣味の良さを感じさせる空間であった。
“こんな素敵な生活をしているゲリラもいるの?”私は自分の知っているゲリラ達のイメージとあまりにも懸け離れた生活環境に困惑し、あの運び屋の男が言っていた事はでたらめだったのではないかと疑い始めていた。
「どうこの部屋は気に入ってくれた?」着替えを終えたハンナが部屋へと戻って来た。「あの画はマチスよ、もちろん偽物だけど素敵でしょ、私も主人もこの部屋が一番気に入ってるのよ…ベットの寝心地はいかが?身体は痛む?」私は小さくうなずき身体の痛みをハンナに伝えた。「わかったわエミル、この薬を飲んでちょうだい、痛み止めの薬と止血の薬よ。」ハンナは私に水をふくませ口に薬を入れてくれた。「薬が効くといいんだけど…身体が痛む時は言ってちょうだい、私はそこのソファーであなたの様子を見ているから安心して大丈夫よ…」ハンナは私に毛布をかけてから、ベットの横にあるソファーに深々と腰を下ろし一冊の本を読み始めた。
時間が経ち私の身体には周期的な痛みが襲って来る様になった。私は痛みに翻弄され寝ているとも起きているとも言えないボンヤリとした意識の中にいた。ハンナは時折ベットの近くに来ては、私の寝相を変えてくれたり私に熱がないかどうか見てくれたりして一晩中私の看病を続けてくれていた。
私が眠りにつく事が出来たのはおそらく明け方ちかくの頃だったと思う、閉じたまぶたに薄っすらと朝日を感じ、ハンナが部屋と廊下を動き回り私が汚してしまった場所を掃除していたのを覚えている。私は聞こえて来る物音と自分の空腹を結びつけ、ハンナが私に食事を振舞ってくれる夢を見ていた。
 私が目を覚ましたのは正午過ぎの事で、目を覚ますとハンナではない女性が私の横に立っていた。「…彼女目が覚めたみたいよ…」その女性は妙に甲高い声だった。
「おはようエミル、彼女は医師のザレーマよ…あなたの診察をしに来て下さったの」ハンナはそう言うと先生の言う診断結果をノートに書き留めていた。
「まず顔の怪我だけど…左頬骨が陥没骨折しているわ、手術が必要ね…下唇の創口は縫合が必要よ、どちらも一日で終わる簡単な手術になると思うわ…問題は鼻ね、鼻の軟骨がズレて曲がったたまま固まり始めている…この町での手術はお勧めできない、専門医がいる病院を探さないと…それと身体の打撲痕はレントゲンを撮った方が良さそうね、とりあえず私が見て解るところはそんなものね。それじゃ私の専門に移るわ…」そう先生が言うとカバンから鈍く光る器具を取り出し、ゴムの手袋を着け始めた。
「エミル、今からあなたの膣を診察するの、あなたが病気にかかっていないか調べる大切な診察よ…怖いかもしれないけど何も心配する事はないわ。」ハンナはそう言ってくれたが、とうぜん私は不安に襲われ体を強張らせた。
「大丈夫よ…大丈夫…心配しないで…」ハンナは私の腕をさすり、私の気分が落ち着くまで私の手を握り締めていてくれた。
「診察を始めても大丈夫?」私はハンナの質問に小さくうなずき診察を受ける準備を始めた。先生が指示したとおりの体勢をした私は、とても診察の様子を見ていられず、捲し上げたシーツで顔を覆っていた。心臓の高鳴りと冷たい器具の感覚…診察は十数分で終わったが、私は何倍も長い時間に感じていた。
診察が終わると先生はゴムの手袋をはずしながら、私にもう大丈夫よと言うような笑顔を見せてくれていた。
「見た感じだとやはり入院が必要ね…性感染症にかかっている可能性があるわ、検査の結果を待たずに今日注射を打ちましょう、その方が感染初期には有効だから…あとは膣開口部の外傷と後膣円蓋に傷が認められるから出血はそのせいだと思う…経過の観察や顔の手術の為にも…」先生はそう言ってハンナに目をやった。
ハンナはほんの一瞬困った顔をして、メモを取っていたノートを見つめていた。ハンナが見せた困惑の表情を見て私はやはりハンナはゲリラの人達なんだと確信した。ハンナは考えた挙句、今日中に主人と相談してみると言う答えを捻り出した。「そうしてちょうだい、ベットは空けておくわ、それと妊娠してしまう可能性があるわ、避妊器具を挿入する処置をしましょう。性交から時間が経っているから確実ではないけれ…」
“妊娠”“妊娠しているかもしれない!?”“アイツ等の子供を身籠っているというの?”
…今になって冷静に考えてみれば、成熟した女性が性交をすれば当然の結果として十分可能性があるのだが、この時の私には考えてもいない事態であり、頭の中は妊娠と言う言葉によって掻き乱され、突然現われた生き物としての摂理に、私は恐れをはるかに超えたものに支配されようとしていた…
次第に私の全身の筋肉は強張り始め、手足は踊るように震えだして来た。私の奥歯がギリギリと音を鳴らし始めた時、私の異変に気が付いた先生が、私に駆け寄り私の名前を呼び続けていた。
私の様子を覗き込む先生と真っ青な顔をして私の手を握り私の名前を連呼するハンナの姿…私が記憶しているこの日の最後ののこうけいとなった。私はそのまま意識を失い、次に目を覚ました時には病室のベットの上に横たわった状態であった。
 「あなたエミルが目を覚ましたわ!」ハンナが私に気が付き、病室に居た男性に声を掛けていた。「今、先生を呼んで来てもらうわ、ごめんなさいエミル、あなたの症状を甘く見ていたの…ゆるしてエミルごめんなさい。」ハンナは涙ぐみながら許しを求めていた。
ハンナの側に居た男性は慌てた様子で病室を出て行き、ハンナの家で診察してくれたザレーマ先生を連れて病室へと戻って来た。ザレーマ先生は私の目や呼吸や心拍を診た後、私にいくつかの質問をして私にしっかりとした意識があるのかどうかを確認していた。
「…たぶん大丈夫でしょう…発作も精神的なものだと思うから…」ザレーマ先生はそう言って、私がここで横になっている事の説明を話し始めてくれた…
あの時私はてんかんの発作の様な症状を起こし、二日ほど意識の無い状態が続いていたらしい。先生は専門の医師ではないのでハッキリとした病名は診断しなかったが、強いストレスによる乖離障害ではないかと言っていた。突然ひきつけを起こして意識を失った私はザレーマ先生の車に乗せられ先生が勤務する病院へと運び込まれた。
脳や脳波、血液などの検査をして、病気や重度の障害は認められなかったものの、顔の整復手術や性感染症の治療をするために、そのまま入院させる事にしたのだと言う…
「性感染症は性器クラミジアが出たの、既に治療を始めているわ…それと妊娠している可能性はほとんど無いわ、避妊の処置もしてるから安心してもらっていいわ…顔の整復手術だけど今日一日あなたの様子を見て明日の午後に行いましょう。手術は左頬骨の整復と下唇の縫合で数十分から一時間程で終わる簡単なものよ…手術後は二、三日様子を見て退院になるはずだわ…」ザレーマ先生は感情をはさむ事無く、淡々とした調子で私に語りかけていた。
私は妊娠の可能性が無いと聞いてめまいを感じるほど安堵していた。そして手術をする事によってほんの少しでも以前の自分に戻れるのではないかと淡い期待を持ち始めたのだが、入院するにしても手術するにしても多額の費用が必要だと言う事が、私に漠然とした不安を感じさせていた。
当然の事ながら私はお金を持っていない、今後カラダで返すとしても長い時間がかかるだろう、ハンナが手術費用を支払うのだろうか?それとも組織のエラい人が支払うのだろうか?私は引き換えに一体何をしなければならないのか?クルコエを出れればどんな事になってもかまわないと言う決意がぐらつき始める…
 「…何もがんばる事も無いけど気を楽にしてちょうだい、がんばってね。」ザレーマ先生はそう言い残して病室を後にした。側に居るハンナを見るといまだ不安そうにしている、病室に居た男性は廊下に出てザレーマ先生と何かを話している様だった。
やがて病室のドアがやさしく閉まり男性が再び病室に入って来ると、ハンナがその男性の紹介を始めてくれた。
「まだ紹介していなかったわね、エミルこちらは私の夫で教師のラヒム・ジサクよ。」
「おはようエミル。」男性の歳は三十代後半、ハンナとは違い明らかに外国人で中近東系の顔立ちと髪質であった。男性はその顔立ちとは裏腹にとても丁寧で知性のあるルスキ語を話し、何よりもその口調はやさしくいたわりに満ちているものだった。
「おはようエミル、紹介されたとおりハンナの夫のラヒムです。あまり手術前にいろいろな事を話さない方が良いと思うのですが、話しをしなければあなたはきっと不安になると思うので少しだけ話をしましょう。」
「まず私達はあなたが健康を取り戻すために全力を尽くします。これは組織の意向とはまったく関係がありません。私とハンナが人として行う行為です。ですから何一つ心配する事はありません。健康を取り戻した後、組織に入るのもこの町を出るのもあなたの自由です。我々の組織があなたを保護したのには目的があるからですが、それでもあなたがしたくない事を強要する事は決してありません。だから今は安心してケガを治すことだけに集中してください。この国では汚い悪行があふれています、そんな世の中でも私とハンナはは正しくありたいと願っています、どうかエミル私達に正しいと思える行いをさせて下さい。」男性はそう話してしばらくの間病室で時を過していた。
私はもちろん話を鵜呑みにする事はなかったが、男性の真直ぐで優しい眼差しを見ていると何故だか話を信じて見たい様な気分になった。その後男性は学校へ戻らなければならないと言って病室を後にし、病室に二人きりとなった私とハンナはただ静かに時間を過していた。
ハンナは本を読み私は病室に備え付けてあるテレビを眺めていた。昼の食事を済ませてからは、明日の手術のためのレントゲン撮影をしたり、執刀する医師の問診を受けたりした。最終的に明日手術を行う事が決定したのは夕方のザレーマ先生の問診の後だった。
実際に手術が決まると私の緊張は徐々に高まってゆき病室のベットに横になっている事も辛く耐え難いものになって行った。私の様子をつぶさに見ていたハンナは私が少しでもリラックス出来る様にお茶を入れてくれたり、私のとくに打ち身のひどい腕などをやさしくさすってくれたりしていた。
この時ハンナが話してくれた事だが、ハンナは元看護師だったと言う、ハンナの介護が本職の物だと知った私は何故だかもっとハンナに甘えてみたくなった。この夜わたしはハンナの腕にしがみ付き、小さな子供の様に体を丸めて深い眠りの中へと沈んでいったのだった。
 次の日私が目を覚ますと私の周りで何やらガチャガチャと準備が始まっていた。私はハッとして身体を起こすとハンナがそっと私の肩に手を置き「大丈夫よ、手術の準備が始まっただけ、昨日は良く眠れたみたいで良かったわ。」と言っていた。
私はすぐに落ち着きを取り戻し、私の周りで手早く働く看護師の様子を眺めていた。
「おはようエミル、気分はどう?昨日はよく眠れた?」ザレーマ先生の軽快な質問に私は少し身を引くようにうなずいた。
「よかったわ、今から手術室に行くのでこっちのストレッチャーに乗ってちょうだい、今日はとても良い天気よ。」ザレーマ先生がそう言うので病室の小さな窓を見てみると、もうすでに日は高く昇っていて透通る様な青空が広がっていた…
私の手術はその二時間後に始まり、予定をしていた時間よりもずっと遅れて午後の三時頃に終わり意識が戻ったのは夕方の五時頃の事だった。手術の時間がかかった理由は私がケガをしてから時間がかなり経っていた事により、骨の整復に手こずったためだった。そして綺麗に元通りになると勝手に思っていた顔にも、手術前と変わらず青アザや顔の麻痺が残っていた。
私はやはり以前の自分には戻る事は出来ないのだと言う事に打ちのめされていたが、ハンナはとても綺麗になったと言って喜んでくれていた。ザレーマ先生の手術後の説明ではシビレや麻痺は数ヶ月続く場合があるのだと言う、手術自体は成功しているので後は根気よくリハビリを続けるしかないと言われた。
手術をした後の経過は良好だった。一日二日と時間が過ぎていくと、私の身体は予定通り入院の必要が無くなって行ったが、身体も重く気分も優れないのに外見だけが元に戻りつつある事に居心地の悪さを感じていた。
気分が優れないまま手術をした日から三日目の朝を迎え、ザレーマ先生の簡単な診察を受け数種類の薬をもらい、ハンナが用意してくれた外行用の服を着て、私の入院生活は終わりを告げ退院の時を迎えた。
「主人が迎えに来れれば良かったのだけど今日はどうしても外せない用事があって…仕方がないからタクシーに乗って家まで帰りましょう…」ハンナは私の入院中ずっと私の側についていてくれた。疲れていない訳が無いのだが、ハンナはそんな事を感じさせないくらい元気にしっかりと私の手を引き、私を外の世界へと誘ってくれていた。
「困ったわね、タクシーが一台も無いじゃない…」病院のタクシー乗り場には一台のタクシーも無く、乗り場には何人かの人々が列を成しタクシーが来るのを待っていた。
「仕方がない…そこのペテロ広場まで行ってみましょう、きっとタクシーが居るわ…」重い足取りの私に歩調を合わせながら、ハンナは市場や商店のある広場まで私を連れて行った。
色とりどりの食べ物に華やかな洋服そして行き交う大勢の人々、私は改めてこの町がベズロアでない事を実感していた。「今日は何かあるのかしら?タクシーが一台も見当たらないわ…バスを使うしかないかしら?ねぇエミルのど渇かない?私はカラカラだわ、そこのカフェで何か飲みましょう。」ハンナが指を差したのはオープンテラスのカフェだった。
ハンナは疲れた感じでカフェの椅子に腰をかけると、レモネードを二つ注文し、定員になぜタクシーが居ないのか尋ねていた。ハンナが聞いた話しでは隣町の教会で大きな祭事があり、大方のタクシーは観光客目当てにそちらに行っているのだろうとの事だった。
「まったくついていないわね…これも思し召しかしら…エミルやはりバスを使うしかないみたいね…」ハンナはそう言うとバックの中から時刻の書かれたメモを取り出して見ていた。
「お昼に一本あるだけね、あと一時間もあるわ、どうするエミルここで食事を済ませていく?」ハンナにそう聞かれるも、何も声を出せない私を見て「食事は家でゆっくり食べましょうか、代わりに何か甘い物でも食べましょう…これがいいわね。」今度は私の答えを待つ事はなかった。
ハンナはチョコなんとかと言う、まったく意味が解らない名前のケーキを頼んでいた。数分後カフェの定員が持って来たのは茶色くまるでオモチャの様な小さなケーキだった。私がその不思議な形に見とれていると、ハンナはケーキをザクリと半分にして片方を私に差し出してくれた。
「まあまあだわね…」ハンナはケーキの味をそう評価していたが私にはただ強力な甘さだけが口に広がる食べ物の様に思えた。
“ケーキってこんなに甘かったかしら?”なにげなく頭に浮かんだ言葉に私は自分がまだ幼かった頃、父にせがんで小さなケーキを買ってもらった事を思い出した。
“なぜ私は父との思い出を忘れていたのだろう?”そう思うと私の視界はにわかにぼやけて来た、私は訳も解らず必死になってまぶたをこすりこぼれ出た涙を止めようと努力していた。
そんな私の様子に気が付いたハンナはすぐに私に近付き、私を強く抱きしめ小さな声で「泣きたい時は泣いた方がいいわ…その方があなたの心が元に戻れると思うの…だから我慢しなくていいのよ…」と言って私をなぐさめてくれていた。
私は大粒の涙を流していた、人がたくさん居る所で泣いている事はとても恥ずかしかったが、自分の意思ではどうにも出来ないほどの感情のうねりが私を羽交い絞めにしていた。
私が徐々に気持ちを落ち着かせ涙を堪える事が出来るようになった頃、私達が待っていたバスは既に広場を出てしまい、いつ来るのかもしれないタクシーを待ち続ける事になってしまった。結局タクシーを拾う事が出来たのはバスを乗り過ごしてから二時間ほど経ってからで、家に戻る事が出来たのは午後の四時を少し過ぎた頃であった。
 家には既にラヒムさんが学校から帰っていて、私達が戻っていない事を心配して病院の方に車を出そうとしているところだった。ラヒムさんは私達の姿を見ると安心した様子でハンナと話を始めていた。
その日私は直ぐにベットに横になり夕食をとって浅い眠りについたが、ハンナは家に帰ってからも夕食を作ったり掃除をしたり、私の入院中の汚れ物を洗濯したりと大忙しであった。私は申し訳ないと思う反面、身体の芯から滲み出る脱力感や無力感に押しつぶされていた。
私は次の日もそのまた次の日もベットの中で泣いている時間が多くなっていた。そして涙が尽きると何時間でもボーッとしている状態が続くようになっていた。そんな状態の時私に少しでも感情の起伏が現われると、私は自分の肘にある傷をかきむしる事が癖になってしまった。
私が痛みも忘れてかきむしるため、私の傷はすっかり化膿しベットの上にもいくつかの血のしみを残していた。私は自分の傷を悪化させてしまった事とベットにシミを付けた事を気に病んでいたが、ハンナも往診に来てくれたザレーマ先生もその事で私に注意する事も無く、毎日丹念に傷口を手当をして汚れたシーツを取り替えてくれていた。
私の陰気さは日を追うごとにひどくなっていったが、ハンナとラヒムさんはそんな私に辛抱強く付き合ってくれ、私が意味も無く泣いている時はずっと側に居てなぐさめてくれたり、私が塞ぎこんでいるとどんなに些細な事でも話しかけてくれていた。私の感情が何の光明も見出せないまま一週間が過ぎた頃、ラヒムさんが神妙な面持ちで私が横になっている客間へと入って来た。
「今日は話があるのですが時間を割いてもらってもいいですか?」時間を割くも何も私はここに寝ているだけなので当然ラヒムさんの質問にうなずいた。
「まえにも少しだけ話しをしましたが、あなたがここへ来る事になった理由を話さなければなりません。もちろんあなたの身体が充分回復していない事は解っているのですが、我々にも残された時間が少なくなって来ているのです…本当に申し訳ないと思っています、あなたが正しい判断が出来る状態ではないのですが…本当にすいません…とにかく始めに行っておきますが、選択をする事が出来るのはあなただけです、あなたが望まない事は絶対にしないでください…お願いします…」ラヒムさんの表情は険しく、ラヒムさんの声は明らかに強張っていた。
「まず私達は第二代ベズロア自治共和国大統領グルスタフ・スフムアル派のルモルフ野戦司令官が率いるルモルフ東部隊に属しています。本隊はルモルフ司令官のもとベズロア南部で戦いを繰り広げていますが、私達のグループはロシスキ連邦管区内での情報収集、資金収集、武器調達などの活動をしています…工作員は20人前後で此処リユン市とロスク市に拠点があり、基本的には表向きの仕事をしながら生活しています。ハンナは今は主婦ですが場合によっては看護師として仕事をしますし、私はシアリム神学校の学部長として働いています。」
「私達の部隊の大儀はベズロア紛争の即時停止と民族の高度な自治にあります。ベズロアと近隣共和国との大シアリム国家樹立は我々の本意ではありません。何よりもベズロア紛争終結の為に我々は全力を尽くしています…我々はバラバラになってしまったベズロア民族を一致団結させる為にある作戦を準備しています。もしもこの作戦が成功すれば必ず紛争は終結へと向かうでしょう…エミル…あなたがここに来た理由はその作戦で中心的な役割を担ってもらう為なのです…この作戦に参加した場合…もちろんあなたが同意してくれたらの話しですが…この作戦に参加した場合あなたの魂はあなたの肉体を離れ神の美国へと旅立つ事になります…つまりこの世では死ぬと言う事になりますが、あなたの魂は殉教者として神の下で永遠の幸せと若さで生き続け、そしてこの現世でもベズロアを平和に導いた英雄として後世に語り継がれる事になるはずです…」
「今すぐに答えを出してくれとは言わないので、明日わたしが学校から帰るまで考えていてください。もしあなたがこの作戦に参加しなくても私達があなたを酷い目にあわせたり、あなたを追い出したりする事は決して無いので安心して下さい…」
「それともう一つ…この作戦に参加した場合、あなたには報酬が支払われますグルスタフ大統領とルモルフ司令官からです。結果的にはあなたが使う事は出来ないが、あなたが求めるとおりの人に受け渡される…これは我々の最低限の約束で、あなたが求めるな…」
 「いくらもらえるの!?」ラヒムさんの話をさえぎり私は思わず声を出した。ここに来て初めて発する言葉だった。
ラヒムさんは少し驚いた様子で「あなたが作戦参加で手にする金額は3万USドルです。あなたを保護…」
“3万合衆国ドルですって!?3万ルブルでも3万ナナトでもない!?クルコエ全住人がひと冬充分暮らしていけるだけの金額だわ!ラヒムさんは冗談でも言っているの?”
もちろんラヒムさんはそんな冗談を言う人でも、私を騙す様な人でもなかった。後で聞いた話ではあるが、3万USドルというのはこの手の作戦の報酬としては相場の金額なのだそうだが、ラヒムさんからこの金額を聞いたときには自分でも目が丸くなってるのが解るくらいに驚いていた。
私は3万USドルと聴いた瞬間からこの金額の虜になり、稚拙な思考も明日への不安も失って、おかしな安堵感だけが広がっていった。それは決して幸福がもたらす安堵感ではない、もうこれで楽になれると言った具合の安堵感である。
肥溜の過去と歪んだ顔を持つ女には明日への希望などありはしない…私は次の日ラヒムさんに作戦参加の意志を伝えた。私の様子がおかしいと気が付いたのかラヒムさんは「明日またもう一度考えましょう、そんなに簡単に答えを出せる話ではありません、考える時間はいくらあってもかまわないはずです…」と言って逆に返事を先延ばしにされてしまった。
ラヒムさんに諭されるまま、私は一日考えてみたが私の望みは変わるはずが無く、私はもう一度ラヒムさんに作戦に参加する事を伝えた。ラヒムさんは解りましたと言って、明日からの予定や私が訓練を受けるラヒムさんの神学校についての説明をしてくれた。
私は自分が参加する作戦に付いて詳しく話を聞きたいと思ったが、作戦が準備中である事や私自身の心の訓練が必要と言う事もあって作戦の詳細については後々説明して行くとの事だった。
そしてラヒムさんは最後に「今回の作戦から抜けたくなったらどんな時でも私か妻に話してください。あなたの心のままを私達は受け入れます。決して無理をしないように…あと私達に出来る事があれば何でも行ってください。」と言ってくれた。
私はこの時まで思いもしなかった父の消息について尋ねて見る事にした。
「どうしても知りたい事があります…父の消息です…父はルモルフ司令官の組織で死んだと聞きました…父の最後について解っている事があれば教えてほしいです。」
「…わかりました、お父上の名前は?」
「カフカ…カフカ・サラム…年齢は四十三歳…2001年9月頃消息が途絶えました…だいたい二年ぐらい前です。」
「そうですか…私は父上を存じませんが、必ず調べてあなたに伝えます…そのほかには何かありますか?」
「今はそれだけです。」
「わかりました。明日からは予定に沿った行動になります。今夜はゆっくり身体を休めてください。あなたに心の平穏が訪れる事を私達は心から祈っています…それと何か食べる様にしないとダメですよ…」ラヒムさんは私がここ二日ほど満足に食事を取っていない事を気にかけてくれていた。ラヒムさんは部屋を出る間際に今後自分の事は先生と呼んで下さいと言っていた。ラヒムさんが部屋を出て行った後、私はしばらく呆けていたが、私の心の中には昨日までとは違う心の落ち着き場所が出来ていた。私には先生やハンナそして組織の人々のような崇高な理念は有りはしないが、私の様な下賤の人間が先生達の役に立つのであればそれは素晴らしい事であろう、私の醜い人生にも一輪の花が咲くと言うものである。
その夜わたしは時間が掛かったが夕食をすべて食べ、今まで感じた事の無い様な胸焼けを感じながら明日に備えて眠りに就く事にした。
 次の日私はおはようと言うハンナの声で目を覚ました。私はハンナに挨拶を返し身体を洗いたい旨を伝えた。私はこの日病院に行って身体の方が元に戻っているか診察を受けなくてはならない、先生は身体が感知するまで神学校には行けないと話していた。私は少しでもよく見えるようにと入念に身体を洗った、身体を洗い終えてシャワールームを出るとハンナが朝食ですと言って、私はキッチンへと通された。
キッチンには既に先生が居て朝食も用意が済んでいる状態であった。私はこの家に来て初めて先生達と食事を取るので何か粗相が無いかと緊張していたが、この家のルールをハンナが教えながら食事をしてくれたので私は何の問題も無く食事を済ます事ができた。
先生達の食事は一般的なシアリム教家庭よりもお祈りの時間が長く、野菜や穀物を食べる順番も決まっていて禁止されている食べ物も随分と多い様だった。
また食事を取り終えた後はお茶の時間になるのが氏族の慣わしだと言う、私はその慣わしに従い先生達とお茶を頂き、世間話などをしながら穏やかな時間をすごした。
お茶を切り上げるのは男性の役目と決まっている、先生のそろそろ病院へ行く準備を始めましょうと言う言葉でお茶の時間はお開きとなった。私は食器の後片付けをしているハンナの手伝いをした。ハンナはただの手伝いを自分に娘が出来たみたいだと大変喜んでくれ、私はその言葉が嬉しくて今出来うる限りの笑顔をハンナへと返した。
手伝いを済ませたあと私は部屋に戻り病院を退院した時と同じ服に着替えた。どうやら教は先生が車を出してくれるらしい、車に乗り込んだ私と先生はハンナの仕度が終わるのを待っていた。
「妻は仕度が遅くてね…」先生が諦めたようにつぶやいた。ハンナは先生が言っていた通り私達よりも十五分ほど遅れて車に乗り込んで来た。「さぁ行きましょう。」ハンナの何も気にしない様子に私は久方ぶりに愉快な気分になった。
この日町の道路は空いていて病院も患者が少なく家を出てから三十分ほどで手術を執刀した医師とザレーマ先生の診察を受けることが出来た。
医師たちの診察では傷や顔の痙攣もだいぶ回復しており、性病等の感染症もほぼ感知したと言っていいだろうと診断を受けた。私とハンナは診察室を出たが、先生は医師と話しが在ると言う事で私達は廊下の長椅子に座り先生が来るのを待っていた。
ハンナはいつもの様に話し始めることは無く、何か悲しげで不安そうな表情を浮かべていた。「お待たせしました。それでは帰りましょうか。」先生の優しい声が廊下に響き、私達は家へと帰る事になった。
「ザレーマ先生がエミルの事をほめてましたよ、よくがんばって病気を治したと…私もよくがんばっていると思います。」先生は帰りの車中でそう言ってくれていた。私はそんな事は無いと一番よく知っている人間ではあるが、先生の言葉は正直嬉しかった。
家へと帰った私達は昼食を取りお茶を頂いた後、今後の予定について話し合いを行った。私が寝泊りする学校にはせいかっに必要な物は整っているのだが、私が個人的に使う服や下着と言った物などは無いため、明日ハンナが町に出て買い揃え明後日に家を出る準備をして午後には学校に入る予定となった。
予定が決まれば後は予定に従うだけである、ハンナは大変忙しそうだったが私は待っている時間が多く、食事の支度やハンナが買って来た服を試着する時以外は主にテレビを眺めているだけだった。
 家を出る日、ハンナはやはり忙しそうに朝から動きまくっていた。ハンナの凄い所はどんなに忙しくとも笑顔を絶やさない事だ。朝食を済ませ先生を送り出した後、私達は早々に家を出る準備を始めた。大きな旅行バックに昨日買ってもらった服を詰め、薬や洗面用具などをダンボールの箱に入れて約二週間ほど寝泊りした客間の掃除を始めた。
私はそれ程感じていなかったがハンナは少し感傷的になっていた様だった。「エミルがいなくなるのはとても寂しい。」とたびたび口にしていた。ハンナが昼食の支度を始め客間の片付けがようやく終わりに近づいて来た頃、先生が私を学校に連れて行くために一端家へと帰って来た。
先生は私に片付けは終わりそうですかと尋ねたので、私はもうすぐ終わりますと答えた。先生はそれでは片づけを終わらせてから昼食にしましょうと言って、私の荷物を車に詰め込み始めた。昼食が出来上がる頃には出発の準備と客間の片付けが完了した。私達は昼食をいただきお茶の時間を迎えていた。
他愛の無い世間話が続いていたが一瞬話題が途切れた時、先生から今回の作戦を実行する人員は三人である事、一人は既に学校で訓練に入っている事、もう一名は五日から七日で学校に到着する事が私に伝えられた。
私は幼い頃からよく人見知りをする、作戦がどうとかよりもほかの二人とうまくやって行けるかどうかが不安であった。そしてこれは恐ろしくて口にも出せなかったが他の二人の中に男性がいるのかが気になってしかたなかった。のどもとまで質問が出掛かっているのだが、やはり恐ろしくて口に出せない。
私は少し強張りながらじっとテーブルの木目を眺めていると、先生はハンナのほうに目をやりハンナに相談を始めた。「実は学校でエミル達を補佐する人員が不足していてね…君が賄い婦を引受けてくれると助かるのですが…」
「あらほんとに!!」ハンナの声が一気に高くなった。
「週に二日ほどは学校での寝泊りになるし、毎日の炊事はかなり大変な作業になりますが…」
「問題ないわ、大丈夫よ!まぁ嬉しいこれでしばらくはエミルのそばに居れるわ!」ハンナは満面の笑みを浮かべていた。ハンナが学校で働き始めるのは実行要員三人がそろってからだが、学校の宿直室や炊事場を見る為に三人で学校へとむかう事になった。
移動する車内ではハンナの明るさが冴えていた、先生も穏やかな表情を浮かべている、私も不安を抱えながらも学校までの三十分の道程を少し落ち着いてすごす事が出来た。
車は次第に町の中心部を離れ広い荒地といくつかの住宅街を走っていた。「さぁ着きましたよ、ここがリユン・シアリム神学校です。」車がたどり着いた場所は学校そのものの場所だった…いわゆる神学校というものの多くは、教会に隣接する建物や教会自体が学校としての機能を持つものなのだが、リユン神学校はロシスキ全土にあるごく普通の典型的な学校建物だった。
なぜこの学校が神学校なのかは、校舎を案内する案内する先生によってすぐに明らかとなった。このリユン神学校は1997年廃校となっていた校舎をそのまま買い取り、ベズロア紛争停戦時にルモルフ司令官が設立した神学校なのだと言う。
生徒はロシスキ全土から集まった信仰心の厚い子供たちで、男女合わせて150名ほどが親元を離れ寄宿生活をしている。校舎を歩く私達の耳にシアリム教の聖典を朗読する声が聞こえて来る、私達が歩いているA棟は男子クラス、B棟が男子寄宿舎、教職員室を挟んでC棟が女子クラス、D棟が女子寄宿舎となっていた。学校はちょうどEの字の形をしており、校舎から少し離れた所に私達が訓練を受ける体育館や給仕棟、宿直棟などがあった。私達が体育館に入るとそこには一般的な学校で使われるだろうありとあらゆる運動器具や教壇、机などといった物がうず高く積み上げられていた。
私達は積み上げられた物の間を縫う様に歩き、粗末なベニヤ板で仕切られた体育館の中央部までたどり着いた。どうやら体育館の前半分を用具置き場に後半分を訓練場にしているらしい。
ベニヤ板が途切れた所にはカーテンがかかっていて、そこが出入り口のようだった。「すまんね…何もかもが急ごしらえでみすぼらしいが我慢してくれ。」先生はそう言ってカーテンを巻くし上げ、私を中へと通してくれた。
訓練場の中はがらんとしたスペースが広がっており、大型のストーブが二台と食事を取るための長テーブルが置かれているだけだった。先生は体育館の後方を指差して「右側の体育準備室と書いてある部屋が君たちが就寝するベットルームで、私物はそちらに置いて下さい。そして左側がトイレで男子トイレと書いてある方をシャワールームに改造してあります。」
「実行要員の一人はベットルームに居るはずです。紹介しますので来て下さい。」先生は私をベットルームの前まで連れて行き、入口のドアの扉をノックした。
「はい。」中からは女性の声が聞こえて来た。私はホッとして開かれたドアの中へ入ると、ベットルームの中はまるで病院の相部屋の様に大きなカーテンで三つに仕切られていた。一番奥のカーテンから神経質そうな顔がこちらを覗いている。
「こんにちはニコラ、こちらは今日から君と一緒に訓練を受けるエミル・サラムです。よろしくお願いします。」
「よろしくエミル。」
「こんにちは…よろしくお願いします。」私は恥ずかしくて顔を上げる事が出来なかった。私とニコラのぎこちない挨拶を見た先生が、ニコラに皆で一緒にお茶を飲まないかと誘った。ニコラはハイと短く返事をして、皆で訓練場の長テーブルの椅子に腰を下ろした。最初ハンナがお茶を用意するために炊事場へむかおうとしていたのだが、先生がハンナを席に留めさせて私が用意しますと言って訓練場の外へと出て行った。
先生が出て行った後、私達三人はしばらく顔を見合っていたが、ハンナがニコラに自己紹介をするかたちで会話の重い扉が開いた。ハンナとニコラの会話の中でニコラはイルクーシとの国境近く、私が居たヌイノフスクよりもずっと西の出身であった。ニコラは話を始めるととてもチャーミングで、私が初めに抱いた印象とは全然違う人物に思えた。とても女性らしく人を和ませるユーモアを持った人だった。
ハンナとニコラの会話が弾んで来た頃、先生がお茶を持って訓練場へと戻って来た。先生はこの場の雰囲気を感じて安心したのだろうか?その顔にはいつもの穏やかな笑顔が戻っていた。しゃべり続けるハンナとニコラ、ときたま一言二言つぶやく私と先生、時間は思いのほか早く過ぎて言った。
 「いけません、もうこんな時間だ!君達の食事を確保しなくてはいけない。ハンナは私と一緒に来て下さい。ニコラはエミルにベットとシャワーの使い方を教えてあげてください。ニコラ大丈夫ですか?」
「わかりました大丈夫です。」
「では一端お開きにしましょう。」先生は少し慌てた様子で訓練場を後にして行った。二人きりになった私とニコラは私の荷物の片付けや、ほとんど男子トイレのままのシャワールームの使用上の注意などを聞いた。
「このシャワーお湯が出るようになったのは一昨日からなのよ。」
思い返せばこの言葉がニコラのぼやきを聞いた最初であった。ニコラがこの訓練場に来てからの一週間、ほとんどの時間をこの訓練場の設営に当たっていたことを語った。そしてルモルフ司令官の部隊が今回の様な自決作戦を行うのが初めてである事を聞いた。つまり先生も自決作戦を指揮するのは初めてと言う事になる。
私は先生が血で血を洗う極悪非道のテロリストではない事に安堵すると共に、今後の作戦の行方に一抹の不安を感じていた。先生とハンナが私達の食事を持って来たのは午後六時を少し過ぎた頃だった。
先生は食事を取りながらでよいのでと言って、明日からの訓練の内容を私達に教えてくれた。先生の話では一日の大半は聖典の朗読の時間であり、先生の講義は一日二時間から三時間程度である事がわかった。銃や爆弾の扱い方と言った、戦闘訓練の様なものは一切行わない事も先生の口から語られた。
今思えば確かに戦闘訓練など必要の無い、ただ自決しに行くだけの作戦なのだが、この時はまだその先に死があるだけしか解っていなかった為、なぜ戦闘訓練よりも聖典の朗読を重視するのか少しも理解できずに居た。
先生は最後に数日中に合流する実行要員についての話を始め、その人物がアレイナ・カリヤと言う女性戦士であることやルモルフ司令官の右腕で歴戦の勇者である事が語られた。
私は全員が女性である事に安堵していたが、ニコラはその人物の名前を聞いて少し強張っているように思えた。私達は食事を終え身の回りの整理をした後、一日の締めくくりとなるお祈りをして消灯の時間を迎えた。私は食事の時のニコラの様子が気になったので、ニコラにアレイナという人物を知っているのか聞いてみた。ニコラはうわさ程度しか知らないと前置きをして、彼女はルモルフ部隊の最強の女戦士で、戦場での勇猛果敢な行動はもはや伝説と言っても良いほどのものだと語った。
「本物の戦士が私達の仲間になるなんて…私こわいわ…」ニコラは溜息をつくようにつぶやいた。私もニコラの言葉に触発される様にして不安を感じた。私は自分の知っている軍人にアレイナのイメージを照らし合わせていた。初めて横になるベットの上で何とも言えない寝苦しさを感じながら、その日は眠りの中に落ちていった。
翌日わたしとニコラは学校における本作戦の訓練プログラムを始める事になった。まず起床した後シャワーを浴びて身体を清め、お祈りをしたあと朝食を取る、朝食の後は聖典の朗読を正午まで行い昼食を取る。昼食の後には先生の講義が行われ、夕方から夜の七時までは自主的な学習や聖典の朗読、瞑想室での瞑想の時間やミーティングなど、その時折に必要な事に時間を使い七時から八時の間に夕食となった。夕食後から消灯までは一応自由時間とされたが基本的には聖典の朗読を求められた。本作戦の訓練プログラムは死後の自分がどうなるのかと言う事に重点が置かれ、自分が信仰のために何をすべきかをより深く考えられるように組まれていた。私が渡された物は“シアリム聖典”と“最後の一瞬に咲く花”と言う詩集の二冊だった。
私は今まで宗教的な教育を受けた事がなかったため、聖典の朗読には大変な努力が必要だったが先生やニコラの協力で少しづつ聖典の内容が解る様になって行った。そして先生の講義はとても丁寧に行われ、私の様に無知な人間にでも充分に理解できるように進められていた。
ただ少し気になったのは教壇に立つ先生の雰囲気で、明らかに普段とは違う振る舞いであった。それは何処と無くぎこちない様な何となく自信が無い様な感じであった。
そんな先生の講義も三回目を終えた時、先生が書類の束を持ちながら私に近付き話しがあるので来て貰えますかと言った。私は返事をして先生のあとについて行った。先生と私は体育館を出てC棟の空き教室の中へと入っていった。私が席につくと向かい合うようにして先生が椅子に座った。私は自然と身体が強張っているのを感じた。たとえ相手が先生だったとしても部屋に二人きりになるのは、私の体が拒んでいた。
私はうつむいたまま先生の顔を見れないでいると、「あなたのお父さんの消息に付いて今解っている事をあなたに伝えたいと思います。」と先生が神妙な面持ちできりだした。
 「まず、大変残念な事ですが、君の父上カフカ・サラム氏は私達の仲間一名と共にベズロアの国境付近で亡くなっています…」私は父が亡くなっている事は充分承知していたはずだったが、先生から出た言葉は重く、私の心を簡単に打ち砕いた。「どうして父は…」私は涙をこらえか細い声を出すのが精一杯であった。
「君のお父さんは2000年11月ごろドミニスタンの建設現場で働いている時に我々の組織の者にスカウトを受けた様です…組織で働く事を決めたお父さんは、アジルドイバン共和国にある訓練キャンプで基本的な訓練を二ヶ月ほど受けた後、ロシスキ連邦の首都ロスク市で諜報活動に従事していました。これは君のお父さんがルスキ系の容姿をしていた事が理由となったようです。」
「君のお父さんを知る当時の上官の話では、お父さんは実に実直で信頼の置ける人物でいつも君や母親の事を気にかけていたようです。ロスクでの活動が半年ほど過ぎた頃、君からの電話で母親が倒れた事を知ったお父さんは、なんとかしてベズロアへ戻る方法を探していたようです。お父さんの上官はロスクに留まる様に説得していたのですが、お父さんの意志は非常に固く上官もついには折れてしまいました。上官は安全のため同伴者を一名付ける事を条件にロスクを送り出したそうです。」
「スタボリポスのトルハ空港に降り立ったお父さん達は、陸路で国境の町カフロドヌイへと辿り着き、この町で国境を越えるための案内人を雇いました。この案内人はラータン・タリムと言う名前で運悪く国境警備隊の内通者でした。越境者と国境警備隊双方から金を取る悪人です。」
「お父さん達はこの案内人に騙され待ち構えていた国境警備兵に射殺されました…地元警察に運び込まれたお父さん達の遺体は身ぐるみはがされていたそうです…」先生は非常に沈痛な面持ちで、私に数冊に綴じられた書類を手渡して「これがその時の国境警備隊の交戦記録と地元警察の事件報告書および検視報告書のコピーです…」
私はもう涙を堪えてはいられなかった。「私が電話したせいで…」心がはじける様に声が出た。
「エミル、それは違います。悪いのは案内人や国境警備兵…そして自分達の仲間を守れなかった私達です…」永遠にも思えるくらいの沈黙の後、先生が大きなため息をして話しを続けた。
「その後、連絡が途絶えたお父さん達を心配して、我々はお父さん達の足取りを調べました。結果は最悪の事態です…ロスクの諜報部にも危険が及ぶ恐れがあった為一時的にロスクの諜報部は解散しアジトも引き払いました。そしてこれと同時に我々は事件の犯人である案内人、ラータンを捜し出し血の復讐を果たし、地元警察に安置されていたお父さん達の遺体を引き取りました。今回の経緯と遺体を引き渡すために我々は君の集落に使者を出し、集落の族長に話をしましたが遺体の受け渡しは拒否されてしまいました。我々はせめて生まれ故郷の近くにと考え、ヌイノフスクの共同墓地に君のお父さんを埋葬しました…」
「君は族長に何も聞かされていなかった様ですが、それはきっと族長が自分の商売に支障が出ると考えたからでしょう。クルコエの裏の仕事については我々も承知しています、クルコエやヌイノフスクがある地域は我々の組織と対立する組織の勢力圏です。対立する組織に身内の者が居た事は知られたくない事実でしょう、クルコエの族長は全てを覆い隠すために母親を施設に追いやり、遺体の引取りを拒み、君に全てを伝えないまま自分の手元に置いていたのだと思います。」
「非常に残念です…今君がここに居る理由もこの事件に起因するところが大きいと思います…」
「…本当に申し訳ありません…」
 力無くうなだれる先生の背後にはキラキラとした夏の夕日が輝いていた…しばらく時間が過ぎても私は自分の心を落ち着かせる事が出来ずにいた。
私の様子を心配した先生がすっかり暗くなってしまった教室にハンナを連れて来てくれた。私は当然の様にハンナに抱きつき、ハンナは何も言わずに私を慰めてくれていた。
その後私は体調を崩し、数日間ベットから起き上がれない状態が続いた。看病はやはりハンナがつきっきりで行い、私の熱が下がるまで家に帰る事は無かった。私が寝込んでいる間に実行要員の最後の一人であるアレイナ・カリヤが合流した。
先生と一緒にベットルームへと現われた彼女は、まず私の側に居たハンナに抱きつき「お久しぶりラヒムもあなたも元気そうで何よりだわ。」と言って二人は再会をよろこび町の様子やこの学校の様子などに付いてしばらく話をしていた。
「騒がしくしてごめんなさいね。私はアレイナ・カリヤよ、よろしくね、私の事はアレイナと呼んでくれていいわ。」彼女は気さくに私に話しかけてくれ、病気が良くなるまでゆっくり休みなさいと言ってくれた。
アレイナは私がイメージしていたよりもずっと小柄でずっと優しい感じのごく普通の中年女性であり、見た感じは典型的なベズロア人女性の顔立ちをしていたが、それ以外は得に人目を引くような要素は持ってはいなかった。
私はそのまま眠りについたが華やかな話し声は夜遅くまで訓練場に響き渡っていた…次の日の朝、私のベットの前に現われたハンナは私の体温を測り「熱は下がったみたいね、身体の具合はどう?私、ラヒムと話し合ったんだけど一度ちゃんと、お医者様に診て頂いた方がいいんじゃないかと思うの…ザレーマ先生なら今日の午後ならいつでも診てもらえるらしいんだけど…」
私は、身体の不調を感じていたが熱が引いているなら大丈夫だと思い病院に行くのを断り、今日の先生の講義からプログラムに復帰する事をハンナに伝えた。
「わかったわ…あまり無理をしないで、体調がおかしいときは早めに教えてちょうだい。私は今から皆に伝えてくるね。」そう言ってハンナはベットルームを後にして行った。私は午後の講義までの時間をシャワーを浴びたり、他の人達よりも何倍もの時間を使って食事をとったりして過ごした。
「エミル、あまり無理をしないように講義の最中でも具合が悪い時は言って下さい。」先生は講義に入る前に私にそう言うと、いつものように教壇の上へと立った。先生の講義は相変わらず精彩を欠くものであった。淡々とした説明と一方的な授業内容、何も知らない私にとっては、それでも十分すぎる講義なのだが、アレイナにとっては耐え難いほど歯がゆいものだったに違いなかった。隣にいたアレイナの苛立ちが、彼女の方を見るまでもなく伝わってきた。
凍てついた緊張感がただよっていた。張り詰めた長い講義の時間が終わりをむかえた時、アレイナは我慢も限界とばかりに先生に詰め寄ろうとしていた。先生は一瞬アレイナの視界からはずれ身をかわすようにして体育館から姿を消した。不意をつかれたアレイナは、しばらくその場に立ちすくんでいたが、深いため息の後、諦めの表情を浮かべ次第にいつものアレイナの雰囲気へと戻っていった…
私は、この時のやり取りで先生がアレイナの苛立ちに気付いていながらも、今の講義の進め方を変えるつもりがない事に私は気付いた。そして部隊上層部が進めようとしている作戦のやり方と先生が行っている作戦のやり方に、かなりの違いがあることも自由時間で語られたアレイナの話によって明らかになってきた。
アレイナの話は、先生が語る話よりも宗教的で、より神秘的なものであった。彼女の考え方…つまり部隊上層部の考え方は、我々は神によって選ばれ、神の意思として作戦を実行し、神の御名においてロシスキに攻撃を加えるというものだった。自分達の命を神に捧げて初めて、神の美国に近づけるのだと、アレイナは強く語っていた。私はアレイナの話を聞き、先生の講義に欠けている何かを感じていた。少なくとも、この時の私はアレイナの熱い信仰心にふれ、大変興奮し、感動したのだった。
私の命はべズロアの土地と人々の為に…わずか数時間の話で、私がそう思い込んでしまう程の力がアレイナの話しには存在していた。次の日、朝食から聖典の朗読、聖典の朗読から昼食、そして先生の講義の時間まで私とニコラは、より厳格なシアリム教徒の真似事をしていた。特にアレイナに強要されたわけでもないが、そうする事が当然なのではないかと感じていた。
私とニコラの変わり様に、アレイナも少し満足気な様子がうかがえ、訓練場内は全ての歯車が回り始めた様な雰囲気をかもし出していた。そう、この日、先生の講義が始まるまでのほんのささやかな時間、私達はこの作戦が求めている、神の花嫁へと近付こうとしていたのであった…
 先生は私達の雰囲気に気付いたのだろうか?いつもの様に教壇へと立った先生は、いつもとはどこか違う眼差しで私達の方に目を向けていた。講義が始まる前、私がいつもの様に聖典にある一節、神との契約のお祈りをしようとすると、先生が手で合図を送り「今日はお祈りは無しにしましょう、聖典も閉じて貰ってもかまいません。」と言って話を始めるタイミングを見計らっている様だった。
一体何が始まるのか?少なくとも私とニコラには見当もつかなかった。ポカンとした表情を見せる二人の横でアレイナの顔が見る見る険しくなっているのが見えた。
「何から話して良いか解りませんが、今日は皆さんに嘘偽りの無い本当の真実を伝えようと思います…」
「ラヒム!!そんな事が!」アレイナは立ち上がり真っ赤な顔をして先生の話を止めさせようとしていた。
「アレイナ聞いて下さい。アレイナ!」
「ラヒムやめなさい!あなたは解っているの?あなたにそんな権限があると思っているの?」
「私はこの子達に嘘をつきとおす事など出来ません!私の出来る事は…」
「何を子供みたいな事を言ってるの?私達が教える事が真実よ!!あなたは間違いを犯そうとしているわ!あなたは組織の指示通りに…」
「アレイナ聞いて下さい!」
「いいえ聞かないわ!あなたはこの作戦の為にルモルフがどんな思いをしているか解っているの!?」
 「この作戦の全指揮権は私にあります!アレイナあなたも今は私の指揮下です!私に全権を与えたのはルモルフ司令官で、その事実はあなたも良くご存知のはずだ…」永遠に果てしなく続くかと思われた二人の応酬は、先生のこの一言で終わりを迎えた。
私は二人の迫力に圧倒され怯えて、机をカタカタと揺らしながら震えていた。
「すみませんアレイナ…私がこの子達に最低限しなくてはならない事は、やはり真実を伝える事だと思います…あなたが信じている真実とは違うかもしれませんが今日は少しだけ私の話を聞いて下さい…」先生は呼吸を整え大きく息を吐いて、アレイナが止めさせたかった話を始めた。
「…ニコラ、エミル、先ほどは大声を出してしまい申し訳ありませんでした。これからする話は、あなた達にはとても理解に苦しむ話しかもしれません…しかしそれこそが今、我々が直面している状況なのだと思います…つらい現実を味わい、今こうして私やハンナが生き続けていられるのは、あなた達と同じようにルモルフの組織が存在したからです…今から二年前ほどになりますが、私は一人息子を事件によって失いました。息子が死ぬ事になった理由は、私が当時ある人権団体で中心的な役割を果たしていた事に原因があります。私の団体での仕事は団体代表者の補佐で政府担当者との交渉をする事が主な仕事でした。当然の事ですが政府と対立する事も度々で、何者かからの脅迫を受けた事も一度や二度ではありませんでした。政府が強権的な政策を出せば出すほど、政府と対立する私達への支持や期待は次第に高まり、いつしか私達の団体は政治的な影響力をも持つような団体へと成長していきました。そして政府の中枢が私達の力を認識した時、大統領にごく近い一派がある策略を画策します…それは団体の代表を政府中枢に取り込み、団体を実質的に解散させようと言う思惑でした。策略を実行するには邪魔者がいます、私と私を支持し、私をいずれは団体の代表にと考え行動してくれていた人達です。息子は私を表舞台から引きずりおろす為だけに誘拐され殺害されました。私は息子を取り戻すどころか、彼らの思うがままに操られてしまいました…ゲームは彼らの勝利でした…代表は政府に取り込まれ、何も知らない市民は、政府の態度の軟化ととらえ、それに希望を見出しました。私は団体を追放され、今こうして皆さんの前に立っています…彼らの策略は国家的陰謀のごく一部分でしかありませんが、私達夫婦はこの事件で何もかもを失ってしまいました。失望感と絶望感だけの毎日に希望を与えてくれたのはルモルフ司令官やアレイナ女史、そしてこの学校の生徒達でした。私がルモルフのキャンプにたどり着いた時、ルモルフは私に宗教家のままでいられる道を与えてくれました。彼は私に銃を握らせようとさえしなかったのです。ルモルフの様なゲリラが存在している事は、今のベズロアではまさに奇跡です。真に民族の将来を愁い、人々を苦難の日々から救い出そうとしています。ベズロアが進むべき正しい道があるとするならば、それはルモルフが追い求めている道だと私は心から信じています。」
 「さきほどアレイナが言っていましたが、今回の作戦を実行するに当たってルモルフは大変な苦しみを味わったのだと思います。私自身もルモルフの口から自爆攻撃を計画していると聞いた時には、正直自分の耳を疑いました。人間の尊厳を侵すとして、絶対に許すことの出来ない行為だとルモルフ自身が、強く忌み嫌っていたからです。当然、私も作戦には反対です…ルモルフに直接会った時も作戦計画を直ちに中止すべきだと上申しました。彼は私の話を拒まず聞き、なぜ今回の作戦を計画するに至ったのかを私に話してくれました…長い話し合いになりましたが、ルモルフと私の溝は埋まりません…お互いに自爆攻撃は悪だと信じているにもかかわらずです。議論は何の答えも出せないまま中断しました…数日後、リユンへと戻った私に正式な作戦命令が下ります。本作戦の指揮を私に委ねると言うものでした。ルモルフの出した答えは機械的に命令を実行する者ではない人間に作戦を指揮させることでした。ルモルフは私に何かを託したのではないかと思っています。ルモルフが私に託したものが何なのか、私は今だ答えを出せないでいます。人として聖職者として、あなた達とどう向き合うべきなのか…今日と言う日がその始まりの日になれればと思っています…長い話になりますが今しばらく私の話を聞いてください。」
 「少し疲れましたね…15分ほど休憩を取りましょう…」先生はそう言って教壇を離れ、長テーブルの上に置かれているお茶に手を出していた。アレイナは険しい顔つきのまま、ただ一点を見つめている様だった。私と言えば体の緊張が解けず自分の席にじっと身を隠すように座ったままだった。
 「トイレに付き合ってくれない?」ひたすら気配を消そうと努力していた私にニコラが声を掛けてきた。私は助かったとばかりにニコラの誘いに応じてトイレへと向かった。ニコラはトイレに入るなり私にヒソヒソと話を始めた。
「あの先生やるとは思っていたけどついに始めたわね。」私が何を言っているのか解らないと言う表情を見せると「先生はね、私達が気楽に先生なんて呼べる様な人じゃないのよ…ロシスキ・シアリムではかなり高位の聖職者でね主徒の位を持っているのよ…それもベズロア・ゲリラの司令官が持っているインチキ主徒ではなく、正真正銘の主徒よ…先生がロスク市で補佐をしていたと言う人はアジハド大法官…つまりロシスキ・シアリム教最高指導者なのよ…」
「そんな絵に描いたような聖職者が素直に自爆攻撃を指揮するはずないじゃない、アレイナが参加するって聞いたときから何か起こるんじゃないかって私は思っていたわ…」
「私達どうなるんだろう作戦が中止になったら私はどうやって生きていけばいいの?人買いに売られてしまうのは絶対にイヤ!そんな事になるんだったら死んだ方がマシよ!エミルだってそう思うでしょ?」私はニコラの話に小さくうなずく事しか出来なかった。
あまりにもいろいろな事を聞きすぎて頭が破裂しそうになっていた。先生とハンナが息子さんを亡くしている事だけで私の心は張り裂けそうなのに、先生が味わった苦しみは耳を覆いたくなる様な話しばかりである。
この学校にいる先生の姿を思い浮かべるだけで涙がこみ上げて来るのを感じていた。「そろそろ始めましょう。」先生の大きな声が訓練場に響き渡った。私達はあわてて手だけを洗い自分たちの席へと戻ると、先生は少しうつむきながらこれから話す内容を頭の中で整理している様だった…
 「それでは始めます…まず先ほども少しふれましたがルモルフ司令官や我々の部隊が今最も危惧している事、それはロシスキ連邦政府とベズロアの親ロシスキ派によるベズロア正常化にあります。今年ベズロア自治共和国の新憲法が制定されました。まもなく親ロシスキ・ベズロア新政権が樹立します。ロシスキ連邦政府はベズロア紛争での勝利宣言をし、事実上の戦後処理に入りました。国内および国外ではある程度の安堵感が広がっていますが、ベズロアに平和が訪れる様な事は無いと約束されたに等しいものです。それはほとんどのベズロア・ゲリラが新政権を傀儡とみなし、新政権との武装闘争を宣言している事からも明らかで、今後、数十年は続くであろう血みどろの民族紛争へと発展していく可能性があります…ベズロア人が親ロシスキと反ロシスキに分かれて殺し合いをする、ロシスキ連邦政府は紛争を止める気など少しもありません。人間の命を金に買える方法をより自分達に有利にしただけです。
我々はこの一連の流れを“ベズロア化政策”と呼び近年、最も憂慮すべき問題だと考えています…この様な絶望的な政治状況においてもベズロア・ゲリラは統一した理想や目的を見出せずに、分裂と対立を繰り返しています。派閥、宗派、軍閥、氏族、山賊、マフィア、そして名前さえも無い武装集団…敵味方を問わずロシスキ連邦政府にとって都合の良い武装勢力が、生まれては消え、生まれては消えてて行きます。いったいこの状況のどこが戦争なのでしょうか?どこが紛争なのでしょうか?それともこの状態こそが新しい時代に求められている戦争の形なのでしょうか?テロ攻撃を行う原理主義者と対テロ戦争を行う政府によってベズロア独立紛争は大きく歪められてしまいました。第一次ベズロア紛争終結後我々は勝利に酔いしれ、まともな国家運営よりも利権争いと権力争いに奔走してしまいました。我々はあまりにも幼すぎたのです、シアリム原理主義に傾倒したジルミ・バーナエフの蜂起を止める事が出来ませんでした。グルスタフは求心力を回復するためにバーナエフよりの政治を行ってしまったのです。政治基盤が失われた国がどうなるのか、歴史を見れば答えがおのずと導き出せます。ロスク市郊外でおきたテロ事件を理由にロシスキ連邦政府は停戦合意を一方的に破棄し、再びベズロアに侵攻しました。ロシスキ軍は二度と同じ失敗を繰り返しません。徹底的な空爆と分断作戦で我々は地下闘争へと追い込まれました。一体的な組織の体を成さない多くの武装集団が生まれる切っ掛けとなったのです。小規模な集団はより大きな力を得るために他の集団と対立を深めて行きます、共通の敵がいるにもかかわらず我々は手を握り合う事さえ出来ていません。そんな我々を横目で見ながらロシスキ軍は我々に心を焼き尽くす様な憎しみを植え付けて行きます。
たいして意味の無い殺害と破壊、ロシスキ軍の十八番の強姦、略奪目的の掃討作戦、身代金目的の逮捕、監禁、拷問、まるで同じ時代に起こっている事とは到底信じられない無法の限りを尽くしています。ベズロアの若者は山へと向かうでしょう、それしか生き延びる方法がないからです。黙って殺されるくらいならゲリラでもテロリストにでもなるはずです。考えたくは無いのですがロシスキ側のねらいはそこにある様なきがします。戦争的な状況を作り上げ戦争とも戦争でないともとれる時間を長く継続していく、そのために必要な戦う相手であり、戦う相手を作り上げるために憎しみと言う力を最大限に利用しているのではないでしょうか?もしそうなのだとしたら我々の今後、数十年はまさに地獄と呼べる時代となり、数世紀に及ぶ憎しみを抱える事になります。誰も近寄りたがらない掃溜めの地へとベズロアは変わり果てようとしているのです。現に今、世界中の国々がベズロアから目を背けています。国連も欧州連合も合衆国も欧州人権委員会ですら何の力にもなってはくれません。それは現在、唯一の超大国である合衆国が国際テロ組織との戦いを宣言し、テロとの戦いを全世界的に展開していく中で、国連常任理事国であるロシスキ連邦との協力関係を得る材料として、ベズロア問題を原理主義者による分離闘争と言う、かなりロシスキ側に立った公式見解を示し、ロシスキ側の対応を支持する姿勢をとっている事や、近年、周辺諸国で拡大の一途をたどるエネルギー需要の受け皿としてロシスキ連邦のエネルギー資源が非常に注目されている為に、ロシスキ政府の対外的な発言力が高まっている事などが原因として挙げられます。国際社会からのプレッシャーは期待できません。世界中の国々はベズロア問題をロシスキ連邦の国内問題であり、ベズロア問題での圧力は内政干渉に当たると、どうしても思いたいようです。
 ではロシスキ国内の世論はどの様にベズロア問題を捕らえているのでしょうか?すでに国内主要メディアは政府系企業に経営権を握られ、情報はコントロールされています。またベズロアに擁護的な政治家や活動家達も次々と籠絡され、さらにはシアリム教指導者の一部もとり込まれて分裂と対立を助長するシアリム法令を乱発させています。市民を狙ったテロが起こるたびにルスキ人の右傾化は進み、本当にロシスキ市民の多くがベズロア人を害虫の様にしか思わなくなってきています。実際にロシスキ管内に住むベズロア系住民に対する差別や排斥は常軌を逸したものがあります…心に巣くった悪意をひとかけらの良心に見透かされない様に、この国の人々はシニカルに振る舞う事を常としているのです…
 このような情勢の中、我々は一体何をすべきなのでしょうか?…我々がすべきこと…わたし達がすべき事それは武器を捨て、憎しみを超えて争いを今すぐにでも終わらせる事です。独立やシアリム原理主義国家建設などと言う夢物語に踊らされず、しっかりと現実を見つめ、大地に根をはりベズロアの土地と共に生きて行く事なのです。戦争状態の混沌とした中で、弱き人々から奪い続けるだけの闇経済を打破し、かつてのベズロア人のように誇り高く気高い自由の民としての生業を取り戻さなければならないのです。我々に与えられた本当の試練はこの戦争を終わりにする事が出来るか否かにあります。そこには胸躍るような達成感も、涙があふれるような高揚感もありません。屈辱と苦悩さらには新たな試練が待っているかもしれません。たとえそれが絶対避けられない運命だったとしても、それでも我々はこの戦争を今すぐにでも終わりにしなくてはならないのです。
…それでは現実的にベズロア紛争を終結させる為には、いったいどの様な方法が考えられるでしょうか?停戦合意へと続く道程の中で私達がまず初めに行わなければならない事とは、やはりこの混沌とした秩序無きベズロア・ゲリラの現状を指揮命令系統が機能する一体的な組織体系へと再構築しなければなりません。今、仮にグルスタフ最高司令官が停戦の呼びかけをしても、ロシスキ側はおろかグルスタフ派と言われている野戦司令官でさえその呼びかけに従う事は無いでしょう。身内の野戦司令官でさえ従わないのですから、他のベズロア武装組織の司令官が従う事は100%無いと言えます。これはグルスタフ最高司令官に今のこるモノがあるとしたら第一次ベズロア紛争の英雄、元ベズロア自治共和国第二代大統領と言ったような過去の栄光であり、より象徴的なベズロア・ゲリラのリーダーとしての立ち位置でしかありません。グルスタフが再び実質的な最高司令官となるにはどうしてもバーナエフ派と言われる野戦司令官達との超党派的な協力が絶対条件としてあります。バーナエフ派も一時期の様な結束力は失われていると噂されていますが、それでも彼らがベズロアに与える軍事的影響力は現在でもはかり知れないものがあります…
 ベズロア・ゲリラの中でそれほどまでに力を持ったバーナエフとはいったい何者なのでしょうか?バーナエフ派とは主にグイーバブ宗派を信奉するグループで、グイーバブ宗派とはシアリム教スフム派の下位宗派で復古主義、純化主義を説いたグイーバブが創始者とされる、シアリム原理主義の宗派とされています。神への絶対的な帰依や禁欲的修行、そしてシアリム原理主義国家の樹立を最大の目標としています。そしてこのグイーバブ宗派を掲げ急進的な武装闘争を行い第一次ベズロア紛争当時一躍、軍事的リーダーに登り詰めた人物こそがジルミ・バーナエフであり、第一次ベズロア紛争終結のきっかけとなった事件を起こしたのも彼でした。紛争終結後は彼も政府に加わりナンバー2の地位である首相に任命されましたが、カリスマ的な軍人は良き政治家にはなれず分裂と対立の中、彼は大シアリム国家建設と言う暴挙を実現させるために、イルクーシやドミニスタンに兵を派兵したり、ロシスキ管内でのテロ事件などを引き起こしました。先にも述べましたがこの様な事件の結果、ロシスキ側の停戦合意破棄に正当な理由を与え第二次ベズロア紛争勃発の切っ掛けとなってしまいました。我々には到底理解に苦しむ行動ですが、彼らには彼らなりの正義と理念があるのでしょう、どんなに無知で愚かな者たちだったとしても我々には彼らを罰する権利はありません。なぜなら本当の罪は彼らに力を与えてしまった我々にこそあるからです。その意味ではグルスタフやルモルフや私でさえも大罪を償うべき罪人なのだと思います…話がずれてしまいました、話を元にもどしましょう…
 彼らバーナエフ派と呼ばれている部隊に共通する、ある特徴的な戦略があります。それは国際テロネットワークとの共闘で資金供与、武器の調達、義勇兵の派遣、戦闘要員の訓練などありとあらゆる面で密接な協力関係を築いています。現在、世界各地の民族紛争に多大な影響を与えていると言われている、この国際テロネットワークとは、1989年アルガニスタン戦争終結後より急進的なシアリム主義を唱えるオサマ・ラディルが新たな活動の場を求めてアルガニスタンを離れ、スーラン共和国に活動の拠点を置いた事に始まるとされ、反合衆国的な思想を持つ政府要人や資本家を取り込み、シアリム原理主義を掲げる過激派集団国際的な連携を形成し、テロ組織同士の協力体制を作り上げて行きました。シアリム過激派達の特徴や敵対する対象は様々ですが、シアリム原理主義国家建設と言う大儀を掲げる集団がほとんどである事や、シアリム教を国教とする多くの国々に政治的、ときには軍事的に介入して来るが合衆国への潜在的な反感を持っている事などが連帯を加速させている要因となっています。90年代の冷戦終結の裏で様々な民族問題が表面化し、様々な過激派集団が活動の場を得た事は確かで、資金面や物資面でのネットワークが確立されたのも、また必然だったと言えるのかもしれません。
 そしてこの様な過激派達の暗躍が世界をたった一日で変えてしまう事件を起こしました。皆さんもご存知のとうり2001年9月11日の合衆国同時多発テロです。この日を境に我々を含む多くの武装集団が、何の根拠も無くテロ組織と言う烙印を押され、殉滅を目的とする対テロ作戦が正義の名の下で行われる様になりました。合衆国は報復としてラディル氏と関係が深いとされるアルガニスタン・タリル政権を崩壊させ、アルドには国連安保理決議の採択がないままアルドへの攻撃を開始しました。テロとの戦いの前線は広がり続けています。我々の生きるベズロアの地も国際テロ組織とバーナエフ派の人々によって、この巨大な戦線の一部となりました。“テロとの戦い”と言う呪文でホロコーストが国際的に黙認される地区となったのです。戦争を続けたい者にとっては安住の地でしょう、怒りや憎しみ、死と暴力、女と金、武器と麻薬、敵と大義、全てがととのうベズロアの地を彼らやロシスキ政府は手放す事をするでしょうか?答えは簡単です。配役や脚本が変更になったとしても、彼らは決して手放す事はありません。今こうしてあなた達に話しているこの時間でさえ事態は悪化の一途をたどっているのです。今この時にでも、この争いを止めなければ決して取り返しのつかない状況になる可能性があります。
 もう我々の部隊に残された選択肢はそう多くはありません。このままたいして重要でない戦闘を続けながら、政治的な妥協点が現れるまでベズロア人民の生き血を吸い続けるのか、戦争を終結させる為に信念を捨て去り、あらゆる屈辱と自分を壊してしまうほどの罪と共に生きて行くのかのどちらかです。結局は我々の問題なのです。本当の敵はロシスキ軍でも国際テロネットワークでもバーナエフ派でもありません。心情では和平を望みつつも、場当たり的な戦闘をを続け、自分達が成すべき事から目を背けている我々の中にこそ本当の敵がいるのです。自らはまった深い穴から我々は這い上がり、本当の戦いを始めなければなりません。我々が成すべき本当の戦いとはたった一つです。グルスタフ派とバーナエフ派の合流を成功させ、ベズロア・ゲリラを一体的で統制が機能する軍隊へと再構築し、ロシスキ政府との停戦合意にこぎつける事です。
 この思いを実現させるため、今から10ヵ月ほど前からルモルフ司令官は内密にグルスタフ元大統領と会談を重ねていました。初めは非現実的だとして難色を示していたグルスタフもルモルフの熱意におされ、ついにはバーナエフ派との交渉を始める事を許しました。そしてグルスタフはルモルフに合流交渉の一切を任せ、自身の影響力の残る部隊への説得を始めたのです。これは退路を断って交渉の行方に全てを賭けた事になります。合流交渉の失敗はグルスタフの指導者としての死を意味するばかりではなく、自身の命を守る事も困難となる事が予想されました。グルスタフやルモルフには難しい決断でしたが、答えを先延ばしにする余裕はベズロアの民衆には残されていません。この戦争を終わらせると言う最も複雑で非常に危険な仕事に二人の司令官は足を踏み入れました。グルスタフもルモルフも相対する人物は違いますが、あらゆる人脈あらゆる資金ルートを使い交渉に全力を注ぎました。グルスタフはある程度の条件は付くものの、グルスタフ派の数人の司令官から内諾を得る事ができました。しかしルモルフの方は、バーナエフからの反応が一切ありません。直接使者を出しましたが、使者がルモルフの元へと戻ってくる事はありませんでした。気は逸るものの時間だけが過ぎて行きました。ルモルフはバーナエフの資金源となっている人物を探し出し、その資金提供者に交渉のテーブルに付くよう序言をしてもらうように考えました。ルモルフはアジルドイバン共和国の有力な資金提供者を割り出し、アジルドイバンへ直接、出向きました。これはかなり手荒なやり方でしたが、資金提供者はルモルフの願いを聞き入れ、序言をする事を約束してくれました。それから約一週間後バーナエフ本人からルモルフに連絡が入りました。バーナエフが言った事は交渉の内容は理解したと言う事と、本気で合流を考えているならば我々と共闘し、我々が計画中の自爆攻撃をルモルフの部隊で実行すれば、グルスタフとの直接交渉の席に着くと言うものでした…
 バーナエフは人間を操る方法を知る男です。ルモルフの忌み嫌う自爆攻撃を実行させ彼の信念を打ち砕き、自分の配下に取り込もうと考えたのか、もしくはグルスタフとの交渉を自分の優位に進めるためのバーナエフ流の戦略なのかもしれません。真意は不明ですが、とにかくルモルフは自分がスケープゴートとなるのが絶対条件の合流交渉を進めなければならなくなりました。彼はどんなに苦しんだ事でしょうか?どんなに怒りに心を焼き尽くされたでしょうか?私達には想像を超えたものがあったに違いありません。彼は一人で悩みぬき、そして決断しました。
 作戦の実行を決意したルモルフの元には次々とバーナエフからの指示が伝えられました。作戦決行の予定日や自爆攻撃の候補地、自爆をする者が女性である事、自爆実行者の選抜方法や選抜基準、自爆攻撃に至るまでの教育やマインドコントロールの仕方までありとあらゆる細かな指示を受けました。我々はバーナエフから出される命令をただ盲目的にこなすだけの忠実な犬である事が求められていました。バーナエフから出される一つ一つの命令が我々が彼のスタイルに当てはまるかのテストだったのでしょう。吐き気がする程の嘘を並び立て、誇りや信念を投げ捨てて一握りの魂さえ無くしてしまうまで、彼の要求は果てしなく続く事になるでしょう。私がニコラやエミルに最初に話した作戦の概要もバーナエフ側からの指示どおりの説明で事実とはあまりに懸け離れている大嘘です。現実的にはこの自爆攻撃で紛争の局面が劇的に好転し、紛争が終結に向かう事はまずありえません。実際には短期的ではあるでしょうが戦局は悪化し報復としての空爆や、掃討作戦が行われる事になります。もちろん我々の素性がロシスキ側に知られる事になれば、家は焼き討ちされ、家族は懲罰の対象になります。そして何よりも、この自爆攻撃で犠牲となるのは、あなた方だけではなくロシスキの普通の市民も犠牲になるのだと言う事です。何の罪も落ち度も無い人々に罪を支払わせる権利がそもそもこの世に存在してよいのでしょうか?神の名と言葉を語り、罪の無い人々を殺した我々を神は殉教者として神の美国へと向かえる事があるのでしょうか?
 …私は自分を神に仕える者だと思っています。今まで神の存在を疑った事は一度もありません。何時いかなる時も神と共に在りました。偉大なる神は我々人間にこう言われています。“汝、人と共に生き、人を愛し、人を助けよ、汝、人を騙さず、人から盗まず、人を傷付けず、人を殺すなかれ”私にはこの神の言葉が全ての答えなのだと思います。我々人間は過去何世紀にも渡って神の名のもとに戦争を行ってきました。しかし聖戦や正義の戦い、殉教者や聖戦士と言った言葉は神が言われた言葉ではありません。その時代その時代の権力者によって歪まされた教えなのです。信じるべき言葉は我々の言葉ではなく、神の言葉であると言う事を皆さんに知っていてもらいたいのです。現実を知ることはとてつもない恐怖であり、何かを信じる事は大変な勇気を必要とします。今こうして話をしている内容でさえ私の中の現実でしかありません。本当の真実や現実とは何なのか?到底見出せる問いかけではありませんが、どうか皆さんには何を信じるのかをもう一度考え直していただきたいのです。私達がこれからやろうとしている事は、それ自体にはさして意味を持たない無差別大量殺人です。民族の誇りになる事も神の美国へと導かれる事もありません。ルスキ人の怒りと憎しみをあおるだけの作戦です。私は皆さんをそんな卑劣な人間にはしたくはありません。ここに集まった私達は何らかの不幸を背負わされた人々です。背負わされた不幸を嘘によって歪ませ、何の罪も無い人に押し付ける様な事は断じてあってはならないのです。皆さんの答えが見付かるまで全ての訓練を中断します。ここを去るのも皆さんの自由です。もう一度、私に答えを聞かせてください。本来なら指揮権を持つ私が作戦を中止するべきですが、それはどうしても私には出来ませんでした。理由は自分の力の無さと、自分の心の弱さにあります。私の中ではルモルフへの忠誠と自分の正義が相対しているのです。あなた達に全てを任せると言う考えしか導き出せませんでした…すみません、許してください…」
 そして数分間の沈黙のあと、先生は私達がどんな答えを出したとしても、私達が暮らして行ける様にする事を私達に約束して訓練場を後にして行った。先生の話を聞き終わったアレイナは怒りに顔を歪ませ、ものすごい勢いで机をなぎ倒し先生の後を追って行った。
ニコラは何処から手に入れたのかタバコを取り出し震える手で机に座りながらタバコを吸い始めていた。私と言えば、先生の吐露には衝撃を受けたが、心の中ではどこか安堵していた。
それは先生の話によって私が生粋の殉教者になる必要が無い事が解ったからだった。私にとっては、学校に来てからの殉教者としての教育が心の負担になっていた。だから私はその夜学校に来てから初めて晴々しい気分で眠りにつくことが出来たのだ。
私にとって先生がくれた選択肢は無意味だった、先生の心の苦悩には本当に申し訳ないが、私がこうなる事はあの日よりもずっと以前、祖母が倒れ父が殺された時から決まっていた事なのだから…
先生の意思には反するが私を学校に連れてきてくれた事、先生が作戦を中止に追い込まなかった事、そして殉教者としてのレベルを下げてくれた事に私はとても感謝している。この日は自分が、やはり救い難く、どうしようも無い女である事を思い知らされた一日でもあった…
 次の日から訓練場は修羅場となった。正確には昨日の先生の話の後からずっとだが、アレイナが先生を捕まえて放さなかった。その日は一日中議論が続き、時には大声での言い争いになり、夕方にはすっかり二人の声はつぶれてしまっていた。
私とニコラは二人に気を使いながら、コソコソと食事を取り、シャワーを浴びて隠れるようにベットの中に潜り込んだ。次の日もまた次の日も議論が続いていた。議論にはハンナや知らない男性も加わる事もあったが、二人の議論は少しも噛み合う事は無く、議論は我慢比べの様相となってきた。
私もニコラも二日目ぐらいからはこの雰囲気にもすっかり慣れて、くだらない雑談を交わすようになっていたが、今後どうするかに付いてはニコラも私も話をきり出す事はなかった。そして議論が始まって丸四日が過ぎ五日目の朝を迎えた時、議論の間一度もベットルームに姿を現さなかったアレイナが、壁際に置かれた椅子の上に腰を下ろしていた。
アレイナは目を覚ました私に「おはようエミル…しっかしあの石頭が!」と言うと、その声を聞いたニコラが、もぞもぞとベットから起き出して来た。「おはようニコラ…二人とも今ここに居ると言う事は、ここを去るって事は無いと言う事でいいのかしら?」
 私達はアレイナの問い掛けにしばらく押し黙っていたが、この沈黙の時間が絶えがたかったのかニコラが深いため息を付いて話を始めた。
「私は何処にも行かないわ!だって行く所など何処にも無いんだから!私はお金が必要なの!そのお金で自分の馬鹿げた行為を清算するの…だから逃げ出す事もないし、作戦から降りたりもしない!放り出されて売春婦になるのは絶対にイヤよ!」
「そぉ…まぁそんな事はしないけど、でも理由はどうあれ此処に残ってくれる事には感謝するわ…ありがとうニコラ…エミルは?エミルはどうして此処にとどまってくれるの?」
「…私もお金の為…」私はアレイナの質問に短く答えた。私の答えを聞いたアレイナは小さくため息をついて「そう…お金か…私はねこの作戦ではお金は貰わないの…正確に言うと私の分のお金で、この学校の赤字を補填するの…この学校はね、私とルモルフの夢だった…私とルモルフは第一次ベズロア紛争の時に出会ったの…当時、私は市役所の職員、彼は警官だった。二人ともグロスヌイへの最初の空爆で家族を亡くしたの…私の住んでいたフラットの目の前でASM-12が爆発してね、私の旦那と息子がバラバラになって死んだ。娘は二日ほど頑張ったけどダメだった…その後、何がどうなってかは憶えていないけど、グロスヌイで抗戦していたマオニケス司令官の部隊に拾われていたの…数日もしないうちに私は戦闘に参加する様になっていた。ルスキ兵を一人一人撃ち殺して行くうちに私は私を取り戻せる様になっていた…前線から前線へと移動する仲間の姿はまるで幽霊のよう…生きているのか死んでいるのかも解らないくらい皆疲れていた。だれもかれもが自分自身の事で精一杯の中、一人だけ私を気遣ってくれる人がいたわ…それがルモルフだった。家族を亡くした境遇も似ていたし、二人とも元公務員だった事もあって結構ウマが合ったのね、体を合わせて傷を慰めあう様になるまでそんなに時間は掛からなかった。
 紛争が始まって半年が過ぎた頃、マオニケス司令官がチュリケス村での戦闘で死亡して部隊はルモルフとアーチェク少尉で指揮することになったのだけど、アーチェクはその後すぐに赤痢で死んでしまったの、部隊の大半はカンジスキー指揮官に編入されてしまってルモルフ部隊は少数部隊になってしまった。それでもルモルフはカオカチェク峠の戦闘やロジン抗戦で功績を挙げてね、第一次ベズロア紛争末期にはグルスタフ配下の部隊でも屈指の大部隊になっていた。私もルモルフの功績が誇らしかった、だって私は彼の功績に力をかしたって自信を持って言えるから…紛争終結の時には全身から涙が溢れたわ、大国ロシスキを打ち負かし、ルスキ人を追い払い、この国を救ったと心からそう思っていたわ。平和な時代がやって来たのだと信じていた、だから私達は部隊を解散させベズロア政府の要職も捨てて、紛争中二人で話し合った夢を実現させる事に決めたの…この学校が私達二人の夢…差別や貧困のせいで修学の機会を奪われた子供たちの将来の希望となり、この国に根強く残るシアリム教徒差別を根絶させる為にこの学校は生まれたの…
 でも実際に学校を設立させる為にはやる事は、それはもう山の様にあった。嵐のような忙しい日々を過して、完璧とまではいかないまでも生徒達を何とか向かいいれるまで三年ほどかかった。1999年1月に学校が開校、ちょうどその頃ベズロアではバーナエフがドミニスタン自治共和国に侵入、シアリム原理主義国家樹立を宣言したの状況は一気に緊迫。ルモルフにもグルスタフから内々でベズロアに戻るように要請があった。この時は断ったけど半年後、第二次ベズロア紛争勃発後には戦線に復帰していた。私はこの学校に一年ほど残ったけど校長に無理を言って彼の後を追ったわ…
 それから二年の間にベズロアの状況も、この学校を取り巻く状況も大きく変わってしまった…彼からこの作戦の話を聞いた時は、私も正直驚いたわ。
同時に彼の苦悩と焦りの理由を知ったの、彼はバーナエフの要求を呑む度に深い闇の中に沈んでいった…中でも心を痛めていたのが実行者の選抜…バーナエフからの要求は心に傷を持ちコミニティーから外れた女性…このバーナエフの基準はある意味、理に適っているわ。そういう女性は扱いやすいし洗脳もしやすい、最後の瞬間にもためらう可能性が低い、自爆攻撃にはうってつけの人材。反吐が出そうな理屈だけどルモルフはそういう女性を探さなくてはならなかった。彼の心は折れかけていた、だから私は志願したの…
 私だったら条件を満たしているし、彼の心の負担も一人分だけど軽く出来る。それに私は彼には負けてほしくなかったの、この苦しみを乗り越えて生きつづけてほしかった。私が志願すると彼に言った時、彼は私を止めようとはしなかった。ただすまないとだけ言ったの、私にはその一言で充分だった。」
「今、私が此処に居る理由はそんなものよ、私はただ愛する者の為に実行者になるの、神や民族の為ではない、あなた達には殉教者の真似事をさせてしまってすまなかったわ…ごめんなさい。ラヒムは明日か明後日にはあなた達の答えを聞きに来ると思うわ、人買いに売りとばすなんて事はしないから自由に決めてちょうだい。」
「つかれたわ、私は少し寝るわね…」そう言ってアレイナは服も着替えずにベットの中へと潜り込み、この日の夕方まで起きて来る事は無かった。私もニコラも先生の返答に付いて話し合うような事はなかった。
私もニコラも先生とアレイナの議論にかかわらず既に答えは出ているからだが、この日の先生の顔を見るのはしょうじき気が引けていた。私とニコラは重苦しい空気の中、顔を洗い着替えを済ませ朝食が運ばれてくるのを待っていた。いつもの時間よりも十五分ほど遅れて訓練場へと姿を現したハンナは、食事と共に見知らぬ青年を連れて来ていた。
「エミル、ニコラ朝食の前に彼を紹介します。」…ハンナの話しでは、先生は連絡員との会合の為、二日ほど学校に来れなくなるらしく、その間私達の講義を担当する神学生を紹介しに来たとの事だった。
見るからに真面目そうなその神学生の名は、ハルコム・トーラー。歳は18歳で、この神学校の最年長の一人であり、本作戦にも一部参加をするのだと言う。私達は朝食を一緒に食べ、いつもよりも長めにお茶を頂き、差し障りの無い会話を楽しんだ…
会話の中に垣間見えるハルコムの情熱と希望は、私やニコラには少し的が外れている感じがした。そして昼ちかくに始まった彼の講義も、神を称える内容であり本作戦が持つ深い闇とは」あまりにも懸け離れたものであった。
 一日目の講義が終わり聖典の朗読の時間になった時、ニコラがぼそりと「あの子この作戦でつぶれやしないだろうか?」と言っていた。確かに初日の授業を見るかぎり、彼の理想主義的な世界観は、彼自身の精神を打ち砕くには充分なものに思えたが、先生やハンナはその事も十分承知して作戦に参加させるのだろうから、私達がそんな事を気にしても仕方がないのではないかと思った。私はニコラに「大丈夫だと思うけど?」と返事をして、その話はそれで終わりとなった…
 次の日の午後にはアレイナも復帰して、ハルコムの講義が執り行われた。ハルコムは伝説の女戦士アレイナが席に着いていたせいか、昨日とは違い緊張した様子で聖典の引用も朗読も何度も間違いを何度も間違いをおかしていた。
さぞアレイナもご立腹かと思い、私はハラハラとしていたが、アレイナは若い神学生に対して腹を立てることも、辛辣な指摘をする事も無く殉教者としての立場を貫いている様だった。
そしてこの日の夕食の時間にハンナがハルコムの評価をアレイナに求めた、アレイナは現実を見ようとしない聖職者が多い中で、彼は勇気を持って現実を見ようとしている将来、良き聖職者になれる青年だとかなり高い評価をしていた。
それを聞いたハンナの顔から少し不安の影が抜けていく様に見えた。どうやら話しによると彼の作戦参加を決めたのは先生で、ハンナはその事をずっと心配していた様だった。
アレイナとハンナのやり取りがハルコムに伝わったのかどうかは解らないが三日目の彼の講義は少し持ち直しミスも目立つほどは無くなっていた。講義も終盤に差し掛かりハルコムの講釈も熱を帯びてきた頃、訓練場の入口にたたずむ先生の姿を見つけた。出先から戻った先生はハルコムの講義を注意深く見守っていた。
先生はハルコムの講義が終わると直ぐに姿を消してしまったが先生が戻って来た以上、作戦参加の是非を問われる事は間違いなかった。私達の答えは既に決まっていたが、それでも私の心は徐々に緊張の度合いを高めていった。
実際に私達が答えを聞かれたのは、次の日の講義が始まる前、私、ニコラ、アレイナの順で一人ずつ呼ばれ、先生と二人きりの状態で話をした。先生は手短に作戦参加の是非を問い、私は作戦参加への意思を伝えた。先生はなんとも言いがたい複雑な表情を浮かべていたが「わかりました。あなたの決断に敬意を表します。」と言った最後の言葉には、どこか覚悟を決めたような声の響きが感じられた…先生の反抗はこうして幕を閉じた。
 結果的に私達の運命は変わる事はなかったが、作戦えと向かう道筋は大きく変わる事となった。先生はまず私達に渡したバーナエフ派の教則本を破棄させ、聖典もより世俗的とされるスフム派の物と変えられた。
先生の講義も死を迎えてからどうなるのかと言う内容が無くなり、シアリム教徒としてどう生きるべきなのか、人間としてどうあるべきなのかと言う内容が全体をしめる様になって来ていた。
私達の居る場所や置かれている立場を別にすれば、それはまさに宗教指導者による説法そのものであった。私達にはとても静かな日々がゆっくりと過ぎていった。訓練場に来てからの二週間と比べたら雲泥の差があると思う。
ある人々にとっては生ぬるい偽善に満ちたものかもしれないが、少なくとも私にとっては静かで平和な時間がとても嬉しくとても楽しかった。先生はこの平和な日々を作り上げるのにどれだけの労力とどれだけの代償を支払ったのだろうか?時々憔悴した表情で訓練場にあらわれる先生を見る。その表情は講義が始まると直ぐに消えてしまうのだが、先生の身体がとても心配であった。日々魂を削ぎ落としながら生きている様に見受けられたからだ。
先生のそんな姿を見る度に頭の中に一つの考えがよぎる…先生は私達と一緒に消えてなくなってしまうつもりなのではないか?…思い過ごしであってほしい、心からそう思う。私はこの事が自分が死んでしまう事よりも怖くて怖くてたまらなかった…
 私の心配はよそに日々は着々と進んで行く、作戦の具体的な内容はいっさい明かされないまま学校に来てから二ヶ月が経とうとしていた。この日ニコラは朝からイライラしていた生理中なのだという、私はだいぶ前に止まったままだったが、私もニコラの様な感じであったのかと不安になった。
見るからに不愉快な表情でボヤキを連発し、終いにはアレイナにも食って掛かっていた。「ここに来て二ヶ月以上たったわ…何時になったら作戦の命令が下るのかしら?ここの暮らしはウンザリ!まるで牢獄だわ!!外に出る事もできないし、このままこんな暮らしをしていたらカビが生えて死んでしまうわ!こんな所でカビまみれになって死ぬ為に私は志願したんじゃないわ!!」
それに対してアレイナはニコラをなだめるようにこう言った。「今、様々な人々が係わって作戦の準備が進められている事は確かよ…ただこの手の作戦は場所とタイミングが重要になってくるの、いくつかの候補からよりダメージの大きい作戦が選ばれるわ、最終的にターゲットが決まるのは一週間前ぐらいで、私達が作戦のミーティングを受けるのは早くても四日前ほどになるわ…それまでは作戦の全体像を知っているのは指揮権を持つラヒムとバーナエフ派との調整をしているルモルフぐらい、情報が漏れ伝わる事はないわ、安全処置だと思って、もし私達の誰かが捕まっても知らない事は自白剤を使っても答える事は出来ない。多くの仲間を守るためだと思って今しばらく我慢してちょうだい…」
 ニコラのイライラは収まらなかったが、少しは落ち着いた様だった。「みんなおはよう!今日も天気が良いわね。」突然現われたハンナが何時もの様に元気に私達に声を掛け、私達が挨拶を返す前にハンナは今日の講義が昼食前に変更になった事と朝食の準備がまだ終わっていない事を伝えると「ごめんなさいね。」と言い残してそそくさと朝食の準備へと戻っていった。
「大変そうだわね、私も手伝ってくるわ。」そう言ってアレイナはハンナの後を追い訓練場を出て行くと、思いがけない形で私とニコラが二人きりとなった。私が気まずいなと思っているとニコラも気まずかったようで、その場を立ち去りベットルームで何やらゴソゴソと始めた様だった。
私達が遅めの朝食を取り、お茶を頂いていると先生が訓練場へと姿を現した。先生はまず予定が急に変更になった事を私達に詫び、早々に講義を始めたいがかまわないかと尋ねた。アレイナが今から始めてもかまわないと答え、私とニコラも同意した。
 この日の先生の講義はいつもの聖典の内容に関する講義ではなく、神というものそのものに付いての講義であった。先生の話の内容は先生の師であるリエンコ・ロテ聖主卿が説いたもので、かなりおおざっぱに言うと、神とは宇宙をも内包する絶対的な全てなのだと言う、師の自論ではあるが多くの唯一神の預言者も多神教の開祖達も同じものを求め、同じものを見ていたのではないか?違っていたのは神を表現する仕方が違っていただけではないのか?と言うのだ。
 この様な考え方は一部の多神教で見られる考え方ではあるが、シアリム教各宗派の中では異端中の異端で、この様な宗教観が元でリエンコ師は国を追われる立場になったのだと先生は話していた。
先生の講義は次第に白熱し、それに呼応するかのように話の内容も私が理解できる内容を軽く超えていた。知らない言葉が訓練場を満たし、もはや先生の話す言葉はロスキ語には聞こえず、私はいち早く理解する事を諦めてしまったが、ニコラ一人だけは気を張り、この講義に食らいつこうとしていた。
「先生の話では神なんかいないし、私達の魂も救われる事なんてないって事ね!」ニコラは目をギラギラさせその発言には怒りが満ちていた。訓練場の空気が一瞬氷付く…先生は少し間をおいてからニコラの会心の一撃に答えた。
 「私は神を否定している訳ではありません、神をどの様に捉えるかを話しているのです…それに人間の魂について神や預言者が関わっているとは私は思っていません。」
「神への理解を深めると言う講義の内容からは外れますが、先ほどニコラが言った事に付いて私なりの考えを話したいと思います…」
 「“神が魂を救う”まずこの言葉に疑問が湧きます…魂が救われている状態とは一体どんな状態の事でしょうか?救われている状態とは幸福であると言う事でしょうか?しかし幸福であると言うのは人それぞれによって違いがあります。あまりに主観的で個人的なものです。神を信じ神の為の行いをすれば神が人それぞれが求める幸福の状態に誘ってくれるのでしょうか?信仰または善行の見返りとして与えられる幸福と言う考え方は、私は間違っていると思います。人がより正しく生きようとする事に神の褒美が存在してはなりません…では魂とは一体どの様なものなのでしょうか?我々の中に存在し、私自身の分身であり本体。もしくは私達をつかさどる霊的なもの、それとも我々が認知していない様な未知の何か?私達は存在自体あやふやなものに心引き寄せられ、なんとかして形ある物にしようと努力し続けています。私達を引き付けて止まない魂と言うものを、私達はいついかなる時に感じて来たのでしょうか…太古より受け継がれてきた神話や伝説、人類が築き上げて来た文明や文化、その身を賭して作り上げてきた知識や知恵、人々の生き方や行動に私達は一つの情報と言うものを超えた何かを感じて来たのだと思います。人々はそれに触れ、引き合い、呼応する事で人間の死、さらには生物としての死を陵駕していきました。人間にしかないこの様な情報伝達能力は時に霊的なものに譬えられます、宗教により違いはありますが、この人間の不思議な力を神と結びつける事は、人間という生き物の立場を考える上で必要であり必然だったのだと思います…神の存在を否定する訳でも、魂の存在を否定している訳でもありません…私とニコラの違いは、その存在の捉え方の違いでしかありません…
 最後に、私の個人的な願いですが、私の魂の救われた状態をあなた達に伝えたいと思います…わたしは私の魂が私の愛する人々に触れ、引き合ってくれれば私の魂は救われているのだと思います。良い事でも、悪い事でも私の魂から何かを拾ってくれれば、これほどの幸福はないでしょう…私の個人的な幸福とはこの様なものですが、ニコラの魂の幸福とは一体なんでしょうか?永遠の若さで神の美国で永遠に生き続けることではないと私は感じていますがいかがでしょうか?」
 ニコラは必死に強気の態度を崩そうとはしなかったが、手は強く握り締められ、目にはうっすらと涙を溜めていた。ここに居る誰一人として幸せな人生を歩んできた人間はいない。聖典を引用し、言葉巧みに私達を籠絡する事はたやすい事だったはずだ。だけど先生はそうしなかった。聖職者や神の僕と言う前に一人の人間として私達に対峙したのだ…難しい事はわからないが私達の魂は先生によって導かれ、救われているのだと言う事を感じていた。

 そしてこの日から一週間ほど過ぎた頃、私達の作戦決行日が11月4日に決まったという事が伝えられた…

 

 3・決行日

 作戦決行日が4日後と伝えられた次の日、朝食を取り終えた私達の前に先生がやって来て、本日の夕方には学校を出てロスク市郊外の扇動指導部と呼ばれるアジトに向かう事と、本作戦の攻撃に至るまでの日程などが伝えられた。具体的な攻撃方法や攻撃場所に付いては、やはり此処に到っても教えてもらえる事は無く、ロスク市に着いてからの全体ミーティングで語られるとの事だった。先生の話を聞き終えた私達は二ヶ月ほど滞在した訓練場とベットルームの片付けを始める事となった。
 片付けはハンナも手伝ってくれたため午前中にはたいがいの事は終了し、あとはロスク市で生活する4日分の荷造りを残すのみとなった。荷物は着替えだけで身元につながる物はパスポートから指輪まで先生が預かるとの事だった。私も父に関する書類を先生に渡し、換わりに偽造されたパスポートと免許証が入った財布が渡された。荷造りが終わった私達は訓練場でお茶を飲みながら出発の時が来るのを待っていた。
 「車の準備が出来ました…」私達を迎えに来たのはあのハルコムだった。どうやら車は彼が運転するらしい、私達は彼に連れられる様にして訓練場を後にし、車が停車してある学校の駐車場へとむかった…久しぶりに外に出てみると外の景色はすっかり寒々としていて、空気のもつ匂いが冬の到来を教えてくれていた。
 ロスク市までは白いバンで移動する。運転席にハルコム、助手席に先生、後部座席に私達が乗り込む様であった。「荷物は全て積みましたね…それでは出発したいと思います…」先生の声が響き、私が此処に来て最も世話になった人物との別れの時が来た…その人は私達一人一人に言葉をかけ、やさしく抱きしめ別れを惜しんでいた。私が車に乗り込む時、目を真っ赤にしたハンナが「アナタにはつらい出来事の連続だったわね…私はアナタを救う事は出来ないけれど、きっと神様ならアナタを救って下さるわ…アナタに会えて良かった…あなたの事が大好きよエミル…」大粒の涙を流しながらハンナは私を力強く抱きしめていた。
 私もなんだか嬉しくなって止めどなく涙があふれた。「私もハンナの事が大好き…いままで本当にありがとう。」そう言って私は車へと乗り込みドアを閉めると、駐車場に一人残されたハンナが急に小さくなった様に感じられた。「それでは出発します…よろしいですか?」先生の問い掛けに誰も答える事のないまま、車はゆっくりと走り始め、ハンナの姿が見る見ると小さくなって行った。ハンナは私達を明るく送り出したかったのだろう…泣きじゃくった顔に無理やり笑顔を浮かばせ最後の最後まで手を振り続けていた。私はハンナの姿を見続けるのがやっとで、手を振りかえす事も出来なかったが、ニコラは車の窓を開け大きく身を乗り出しながら手を振っていた。
 私は別れの時が過ぎてもしばらく泣き止む事が出来ずに、やさしく肩を抱き寄せてくれていたアレイナの胸の中で、いつの間にか泣き寝入りをしてしまっていた。私が目を覚ましたのは日もすっかり暮れてしまった頃で、車の中では皆の会話が弾んでいた。会話の中心はニコラで、ハルコムやアレイナを相手に冗談を言い合っていた。知らない人が見たら私達は、まるでピクニックにでも出掛けている様に見えるだろう、それぐらい楽しげで、明るい時間が流れていた。
 ロスク市までの道程は、車でまる一日掛かる。ロスク市内に入るまでは、とくに休憩は取らないとの事だったので、夕食も学校から持参したパンと野菜の煮物を食べた。夕食を食べた後は車内の会話も徐々に少なくなり、ニコラは私に、私はアレイナに寄りかかる様にして浅い眠りに就いた。
 強い朝の日差しで目を覚ますと、車は停車していて、ハルコムが助手席で眠りに就いていた。私達は既にロスク市内に入っているようで、車は国道沿いのドライブインに停車していた。しばらくするとドライブインから先生が何かを抱えて出て来た。先生は私達の朝食を買って来てくれた様だった。先生が言うには、今日は作戦の説明や、準備があるので忙しくなるため、今のうちに朝食を食べておいて欲しいとの事だった。
 私達は走る車の中で朝食を食べながら、町の様子を見ていた。目に飛び込んでくる景色は今まで見た事の無い物ばかりだった。高い建物に美しい広告看板、多くの車に何車線も連なる道。私は都市が持つ巨大な力にすっかり包み込まれてしまっていた。
 ロスク市内を二時間ほど走った後、先生が扇動指令部と呼んでいたアパートへとたどり着いた。扇動指令部は6階建てのアパートの4階に在り、入り組んだ廊下の一番奥にある部屋であった。先生がその部屋のドアをノックすると、女性の声で“はい?”と言う返事が返ってきた。
 「ラヒムです、到着しました。」と先生が言うと,ドアが開き感じの良い若い女性が、私達を部屋へと招きいれてくれた。女性はドアを閉めると、まずアレイナの手を取り、何か言葉を交わした後につよくアレイナを抱きしめていた。アレイナは母親がする様にその女性の髪をなで、一言二言女性の耳元でささやいている様だった。女性は続けて私とニコラとも握手を交わし、自分は斥候のアンだと自己紹介をした。
 アンの案内で、この部屋のリビングへと通された。リビングには3人の男性が居て、一人はアンと同じ斥候のストイカ、残る二人は爆弾技師のセルゲイとイワノフとの事だった。私達は3人と順番に握手を交わし、この扇動指令部に無事たどり着いたことを神に感謝し、全員で祈りを捧げた。
 そのあと私達はキッチンへと移動し、お茶を飲みながら雑談をしていたが、小一時間も経たないうちにアンが、作戦の具体的な説明を始めたいのだと切り出し、私達は再び移動して、アパートの一番広い部屋へと入った。部屋には先生とセルゲイがいて、何かを話していた。ほどなくして部屋に全員が集まると、先生が本作戦の説明を始めた。
 「この作戦は、ロシスキ連邦共和国憲法発布10周年記念行事の一環として行われるロックフェスコンサートを攻撃し、連邦政府が行っているベズロア市民に対するホロコーストへの報復を完遂する事が任務であり、ベズロア民族と神の意思を世界に知らしめると言う大変重要な目的を有する作戦である…」
 「攻撃場所は三ヵ所…ロックフェス会場のスタジアムで一ヵ所…スタジアム中央東側ゲートで一ヵ所…スタジアム中央西側ゲートで一ヵ所となる…」
 「スタジアム内の攻撃はアレイナに行ってもらう。アンと共に会場スタッフとして潜入し、開演10分前に会場のほぼ中央で仕掛け爆弾を爆発させる…会場内の爆発を切っ掛けに、スタジアム内は大混乱となり出口には観客が殺到する事となる、この観客達を標的として東側ゲートをニコラに、西側ゲートをエミルに攻撃してもらう…」
 「以上が本作戦の概要である。また会場への移動方法や爆弾などの詳しい説明は各グループに分かれて行う事とします。アレイナはアンとセルゲイと一緒に…ニコラとエミルは私とイワノフとストイカが説明をします。」
 そう言うと、アレイナ達はキッチンへと移動し、私とニコラはそのまま先生達の説明を聞く事になった。
 ミーティングで始めに行われたのは、爆弾の仕組みと使用方法であった。私達が使用する爆弾は高性能プラスチック爆弾で、連邦軍でも内務省軍の特殊班でしか使用しない特別な代物だという。ストイカはこのプラスチック爆弾を使う事に意義があるのだと話していた。私には、その理由は想像も出来ないが、ストイカの表情を見るかぎり、何らかの策略があるのだと言う事が容易に想像できた。
 「そしてこれが、実際に君達に装着してもらうベルト型の装備一式になります。」
 ストイカがそう言って、イワノフがテーブルの上に広げたのは、ベルトと言うよりはガードルの様な物であった。ガードルには埋め込まれたプラスチック爆弾と起爆装置、そして小型の無線機らしき物が付いており、起爆装置からは1mほどのコードがのびていて、先端には起爆スイッチが付いていた。私とニコラは爆弾につながれていない別の起爆スイッチで、起爆の方法を何度か練習させてもらった。
 この起爆スイッチは、大き目の洗濯バサミの様な形をしている。一度握る事で電源が入り、ロックが掛かる、それを放す事でロックが解除され、もう一度握る事で起爆するという仕組みになっていた。爆弾の電源が正常に入ったかは、この扇動指令部でしか確認出来ないため、私達は起爆スイッチを握り締めたまま会場まで向かわなくてはならない。万が一手を開いてしまわないように当日は、手をスカーフで縛り付けると言う案が先生から出された。
 イワノフの爆弾の説明が続くなか、不意にニコラが小型の無線機らしき物を指差し、これは何なのか?と尋ねた。ストイカとイワノフは一瞬顔を見合わせ、何とか話をごまかそうと難しい言葉を並べ立てていたが、先生が二人のごまかしを遮るようにして、「それは遠隔操作の為の起爆装置です。」と教えてくれた。この無線機の使われ方としては、もし万が一私達が起爆の直前に、何者かに起爆を阻止された時や、起爆装置に不具合が起きた時、そして私達自身が自爆をためらった時などに使用される装置であるとの事だった。
 つまりこの小さな無線機は、私達が確実に自爆する為の保険なのである。ストイカやイワノフがごまかそうとした事は無線機の事なのではなく、この作戦の本質であった。遠隔操作の技術があるならば、わざわざ女や子供に爆弾を巻き付けて人々の中へと突撃させる必要はない。爆弾を仕掛け遠隔操作で、起爆させれば良いのである。それではなぜ自爆でなければならないのか?それは私達が神の意思に目覚めた殉教者であり、ベズロア紛争が、ロシスキ南部から中東を越え北アフリカに到るまでの、大宗教戦争の一端でなくてはならないからだった。
 本来、何よりも守るべき女子供の生命を、惜しげもなく浪費する大シアリム国家とは一体どんな国家なのであろうか?その様な国家に未来はあるのか?そもそもその様な国家に未来はあっていいのか?…私の頭の中は疑問だらけの様だが、でも本当はそうではない…疑問の答えは既に出ている。私を含め、この国の多くの人々がその答えを知っている…私達と普通の人々の違いは、嘘の答えを信じぬかねばならない事にある…たったそれだけの事が、我々とロシスキ市民を隔てる何かであり、殺したり殺されたりする大きな理由の一つなのである…
 「それでは、次に中央西側ゲートでの作戦行動を説明します。」「エミル、よろしいですか?」
 私は先生の声で慌てて我に返った。私の様子を気にかけながら、先生は丁寧に私に当日の説明をしてくれた。
 このアパートで爆弾を装着した私とニコラは、立会人の先生とストイカ、運転手のイワノフと共に、スタジアムの逆方向の地下鉄駅へと向かう、地下鉄に乗るのは私と、私の立会人である先生だけで、ニコラとストイカとイワノフはそのまま車でスタジアムへと向かう。私は先生と一緒にスタジアムの最寄駅である国立スタジアム駅まで行き、スタジアム中央西側ゲートの目の前にある広場で、作戦決行の時刻を待つ事になる。最初の攻撃は、会場内のアレイナでである。だいたい開演の10分ほど前に作戦が開始され、最初の攻撃によって、非難してきた観客の雑踏の中で、私が爆弾を爆発させるとの事だった。
 アレイナの攻撃から、観客がゲートへと避難するまでは、5分から10分ではないかと予測されていた。状況によっては、ゲートに人が殺到するため、作戦行動が執れなくなる事態に陥ると警告され、対応としては、アレイナの爆発後すぐにゲート付近に移動するのが望ましいと注意を受けた。
 またこの他にも警察や警備員に質問された時の対処の仕方や、自分がなりすます人物のプロフィール、そしてスタジアムでの作戦が決行出来なくなった時の行動をいくつかのパターン別にレクチャーされた。
 私とニコラのミーティングは2時間ほどかかり、この後は、全員が集まっての行動演習が行われる。休憩を手短にとった私とニコラは、決行日当日に身に着ける服装や、起爆装置の付いていない爆弾を装着する事になった。そして当日は、爆弾を装着した後は、トイレに行くことが出来ないためオムツを付ける事になっていた。先生からは「一度試しておいた方が良いでしょう。」と言われ、私が恥ずかしそうにしているとニコラが透かさず私をからかい始めた。私は顔が赤くなっているのを感じながら、しばらく無言の抵抗をしていたが、結局オムツをふくめ、全ての装備を装着する事になった。私は身に着けた爆弾よりも、紙オムツのガサガサとした肌触りが、気になって仕方なかった…
 全員の準備も整い、決行日の行動演習が始まった。この演習の中で分かったのだが、アレイナは実際の会場係員としての仕事をする為に、明日にはアンと一緒にアパートを出るのだと言う。つまりアレイナとは明日で最後と言う事になる。
 アレイナは私達の中では唯一、殉教者としての資格のある偉大な人物であり、全てを包み込む優しさを持った二児の母親でもあった。だから一足先に先に別れが来ることが分かった時には、寂しさと引き離される不安を同時に感じ“何時までもこのままで居られたら”と言う妄想を抱くようになってしまった。当のアレイナは寂しさなど微塵も見せずに「私は会場で、仕掛け爆弾を使うからオムツはしなくて良いのよ。ホントに助かったわ。」と一人明るく笑っていた。彼女の明るさは、顔に曇りを見せた私達への気遣いだったのかもしれない、豪快にして木目細かい思いやりが出来る人物。彼女はそう言う女性だった。
 リアリティーと言う感覚が、すっぽりと抜け落ちた、まるで出来の悪い演劇のような行動演習もつつがなく終わり、窓の外はすっかりと日が暮れていた。私とニコラはかなり疲れていて、疲労のいろを隠せないほどになっていた。次の予定は、この作戦の声明ビデオの撮影である。撮影の準備が始まるまでの間、私とニコラはソファーに深く腰を下ろしていた。
「つかれているわね…」私達に声をかけに来たのはアレイナだった。「ビデオ撮影が、今日最後の予定になるわ…もうちょっとだから頑張ってね…あとこれを渡すのは迷ったのだけれども…」そう言うとニコラには写真が入るペンダントを、私には小さく折られた写真の様な物を手渡してくれた。「…ニコラそれだけは返しておくわ、それなら身に付けていても問題無いだろうと、ラヒムも言っていたから…」ニコラの方を覗き込むと、ペンダントの中には、赤ん坊の写真が貼り付けてあった。ニコラは今まで見たことも無いような、いとおしい眼差しで、その写真を見つめていた。
 「エミルその写真はね、お父様が最後まで身に着けていた写真よ…あなたのお父様を埋葬した人物から預かったわ…開いて、見てご覧なさい。」折曲がった写真を開いてみると、そこには幼少の頃の私と思われる子供が写っていた…初めて見る写真であった。
「あなたの小さい頃の写真ね、目元が今と変わらないわ…あなたの事を愛していたのね、親なら子を愛するのはあたり前だけど、誰でも愛せるって訳ではないわ…あなたには愛してくれた親がいたって事を忘れないでね…」
 私が目頭を熱くしてうなずくと、隣りではニコラがシクシクと泣いていた。「ちょっとしめっぽくなっちゃったわね。さあ!次は一世一代のビデオ撮影よ、二人とも元気出して衣装に着替えましょう!」アレイナは元気良くそう言って、私達を着替えのある奥の部屋へと案内した。
 ビデオ撮影時の衣装は、中東系の民族衣装と、ゲリラが着用する戦闘服が組み合わさった様な、いかにもといった感じの風体であった。衣装に着替え終わった私達は、先ほど行動演習が行われた部屋へと通された。部屋では急ピッチで撮影の準備が行われており、部屋の窓を大きな布で覆い隠したり、カメラや照明のセッティングをしたりと、皆とても急がしそうに動き回っていた。数分ほどその光景に見とれていたが、不意に軍服を着た先生が近づいて来て、私達に拳銃を手渡し「小道具です。銃は本物ですが弾は入っていません。安心してください。」と言った。初めて手にした銃はズシリと重く、先生の口調は何処と無く緊張しており、初めて先生に出会った頃の雰囲気に似ていた。
 「こんなものでしょうか?」セルゲイが先生に確認すると、先生はビデオカメラの小さなモニターを見て「そうですね、良いと思います。それでは始めましょう!」と全員に声を掛けた。私とニコラとアレイナは、一列に並び、腕を組みながら銃を持つポーズをとった。そして先生の演説中は、身動きをせずに前を見据えたままでいるようにと指示を受けた。カメラの映り具合を気にしながら、私達の一歩手前に先生が立つと、セルゲイが合図を出して声明ビデオの撮影が始まった。
 先生は抑揚の付いた南部ベロキ語を話し、時には身振り手振りを使って力強く語り、その姿には鬼気迫るものを感じた。私はベロキ語…とくに南部訛りのベロキ語は苦手だったため、先生の話した内容の半分も理解できなかったが、先生が話した内容が、先生の考えでない事は明らかであった。
 “神、聖戦、殉教者、神の花嫁…”こんな格好には打って付けの単語が並んでいた。先生の演説が終わると一端ビデオは止められ、4人全員で掛け声を上げるラストシーンのリハーサルが始まった。「神の御名において、神罰を下す!神は偉大なり!神は偉大なり!神は偉大なり!」練習は2、3回程したが上手く掛け声を合わせることが出来ず、力強く掲げられるべき拳銃も私とニコラにそれは、あまりにも弱々しかった。練習をいつまでも続けていても仕方がないので、見切り発車的に撮影は再開したが、やはり望むような映像を取ることは出来ず、6回目の撮影でようやくアンやセルゲイのOKがでた。先生もやや疲れた様子で「お疲れ様でした。」と私達に声を掛けてくれた。
 拳銃を返し、着替えを済ませた私達は、先生達が部屋の片付けをしてる間に、夕食をとる様に言われキッチンへとむかった。キッチンではハルコムが食事をテーブルに運んでおり、テーブルの上にはパンとスープと3人分の羊のソテー、そして白ブドウが並べられていた。「明日は朝から、皆さんの鎮魂の儀式を執り行なう予定になっていますので、食事をとり終えたら早めに休んでくださいとの事でした。」ハルコムはそう言うと、先生達のいる部屋へとむかって行った。
 私達は、お祈りを済ませ、夕食をとり始めた。食事中はアレイナが話しかけて来る言葉に耳を傾けるくらいで、実に静かな食事となった。食事を済ませた後も私達は、ただ黙々と食器を片付け、寝床を作り、眠りにつく準備をした。この夜が私達3人で寝る最後の夜である。もっと感慨深くなる物かと思ったが、私を含めて皆すんなりと眠りの中におちて行った…隣の部屋からは、ビデオの編集をしているのか、先生の声と聴き慣れない音楽が、断片的に聞こえて来ていた。私達以外は皆忙しそうである、みんなの気配が、徐々に遠退いて行くのを憶えている。この日の最後の記憶であった…
 まだ夜も明けきらない早朝、ドアをノックする音とともに、先生のやさしい声が聞こえてきた。

「皆さん、起きてください…そろそろ準備の時間です。キッチンに集合して下さい…」
 重いまぶたをこすりながら、私達がぞろぞろとキッチンに入ると、アンから今日の儀式の流れと段取りの説明を受けた。
 私達の先ずする事は、身体を清めなければならない事だった。身体の清め方は、宗派により様々だが、簡略的なもので良いのではないかと言う、アレイナの意見に先生も同意した。
 簡略的な方法と言えども、禊ぎには真水しか使う事ができない。刺す様な水の冷たさは、止めどない震えと筋肉の硬直を引き起こした。この数ヶ月の訓練の中で、最も修行らしい儀式となった。
 禊ぎを終えた私達は、身体の震えが治まるまで、充分に身体を温め、その後ラマと呼ばれる簡素な服に着替え、昨日ビデオ撮影をした部屋に入った。部屋ではハルコムとイワノフが先生の指示で、祭壇の準備をしていた。
 先生が私達に気が付くと「それでは皆さんにも、儀式の準備をしていただきます。準備の中には儀式を受ける者の手で、執り行なわなければならない物もありますので、私の指示に従ってください。」と言った。
 私達は先生の指示に従いながら、一つ一つ準備をこなし、二時間ほどで全ての準備を終りにする事が出来た。式場の準備は終わったが、儀式の準備は続いていた。儀式で使用する服や、儀式後の食事の準備である、皆忙しそうにしていたが、私達は得にする事がない。私達が暇を持て余し始めた頃、玄関のチャイムの音が聞こえ、アンが一目散に玄関へ応対に出た。
 「ラヒム!リエンコ卿がお見えになりました!」アンの声は家中に響き渡り、それを合図に全員が玄関へと小走りに移動していった。
 玄関には何処にでもいる、ごく普通の地味な身なりをした、少々うらぶれた感じのする老人が立っていた。まず先生が老人に近付き跪くと、老人が頭に手を置いた。それに続いてアンもセルゲイも全員が跪き、老人に敬意を表する。私も見よう見真似に敬意を表してみた。
 そのリエンコ卿と呼ばれた老人は、先生の師であり、非常に位の高い指導者であると共に、高名な法学者で、ロシスキ・シリアムでは、穏健派の代表とも言われる人物であった。
 リエンコ卿は先生と「今日は寒い」だの「歩いて来たのだが、思ったより遠かった」だの、ごくごく普通の会話をした後、キッチンへと移動し、お茶をもらえないかと先生に頼んでいた。
 そんなリエンコ卿の普通さを、呆気にとられながら見ていた私に、アンが「そろそろ礼服に着替えてらっしゃい」と促した。私達はリエンコ卿に、挨拶をしてその場を去り、礼服を着るために奥の部屋へとむかった。
 儀式で着る服は、全身黒ずくめで、ベズロアでは死装束とされている服であり、見た目は昨日のビデオ撮影の時に着た、戦闘服にとてもよく似た服であった。
 礼服を着た私達は、儀式が執り行われる部屋へと通され、ロウソクの光が照らす祭壇の前で、座りながら待たされていた。
 十数分程たった頃だろうか、司祭服に着替えたリエンコ卿と修道着に着替えた先生が、ロウソクを手にして部屋へと入って来た。司祭服を着たリエンコ卿は、先程とは違い指導者としての威厳と、法学者としての知性を合わせ持つ、なんとも神々しい出で立ちであった。
 ゆっくりとしたテンポでリエンコ卿が祭壇に近付き、祭壇の前でひざまずくと、神を称える言葉を唱え始め、後ろに控えていた先生が、祭壇の周りにあったロウソクに火を灯し始めた。
 ロウソク全てに火を灯した先生は、リエンコ卿のやや後方にひざまずき、リエンコ卿の聖典の朗読に加わった。聖典の朗読がすすむにつれ、リエンコ卿と先生の声が重なり合い、今まで聞いた事の無い美しい和音をかなでると、私は頭のてっぺんから意識がぬけて行く様な不思議な感覚に陥り、時間や状況の把握が困難な状態になってしまった。
 一体どのくらい朗読が続いたのだろうか?永遠とも思える朗読が終わると、リエンコ卿が祭壇から離れ、私達一人一人の頭に手をかざし、祈りを捧げ始めた。その祈りは異国の言葉で唱えられていた。私には内容を理解する事は出来なかったが、祈りを唱えるリエンコ卿の表情からは、私達の魂に救いを与えて下さっている様に感じられた。
 私達への祈りが終わると、先生が小さな器に入った水をみんなに配り、みんながこの器に口を付けて儀式は終了ととなった。
 リエンコ卿に続き先生が退室し、数分後にアンがやって来て私達に退室を促した。厳格な雰囲気が一気に解けた瞬間だった。部屋を出た私達は、平服に着替えいわゆる最後の宴が催されるキッチンへと向かった。
 キッチンのテーブルには、それなりに豪華な食事が並べられ、リエンコ卿を囲むようにして全員の席が用意されていた。本来ならばここでリエンコ卿の法話を聞く事になっているのだが、リエンコ卿は法話などは一切せずに、ワインの話や近くのレストランの話だの、とても今の状況にはそぐわない話を続けていた。
 アンやアレイナの困り果てた表情に気が引けたのか、先生が法話をしていただける様にやんわりと促すと、リエンコ卿は「法話などつまらん、だいたいラヒムは堅苦しくい、昔からそうだった。」と言って、今度は先生の幼少の頃の話を始めた。先生は非常に困った様子であったが、ついに諦めたのか私達に食事を始める様に促した。
 皆の食事も進み、場の不陰気もすっかりやわらいで来た時、不意にリエンコ卿が「エミルよ、おまえは、おまえがしようとしている事が、本当に正しい事だと信じておるのか?」と私に問いかけてきた。私は突然の問いに戸惑い、場の雰囲気も見る見るうちに緊張の度合いを増していった。
 「その様な問いかけを、この者達にすることはおやめください!」先生が振り絞るような声で言うと、リエンコ卿はゆっくりとした口調で話し始めた。
 「その様子では、おまえの中にもまだ迷いがあるのだろう…今回の事を聞いて、わしも少し驚いた…あの時、リユンに流された事を止められなかった自分が情けなかった…今こうして、おまえに会い、おまえに迷いがあるのを知って少し安心したわい…おまえはわしに付いていた時から変わらんな、融通がきかん子じゃ…」
 私はこの時、先生の今に至るまでの話を思い返していた。その心とは裏腹に今こうしてここに居なければならない先生の生き方に同情していた。
 私が目に涙を浮かべていると、リエンコ卿が「エミルよ、おまえは優しい子じゃな」と声をかけて下さった。しばらくは全員が無言のまま食事を進めていたが、リエンコ卿の世間話をきっかけに、宴は元の和やかな雰囲気へと戻っていった。
 その後、宴は二時間ほどでおひらきとなり、リエンコ卿が帰り仕度をする中、ついにアンが出発する旨を切り出した。
「せっかくだから、リエンコ卿を自宅まで送ってから会場にむかいます」アンが言うと先生は「そうして下さい、お願いします」と言った。
 先生とアンは最終的な連絡方法などを確認し、アレイナはアパートを出る仕度を始め、ニコラと私は仕度が出来たリエンコ卿に今日のお礼を言った。リエンコ卿は私達に「つらく苦しい時代に生きることを、恨まないで欲しい」と言って下さった。そしてアンとアレイナの仕度も終わり、3人が出発する時が来た。
 先生はアレイナに言葉をかけ、アレイナはにこやかにお礼を言っている様だった。アレイナはセルゲイ、ストイカ、イワノフ、ハルコムと続けて握手を交わし、泣きじゃくって言葉にならないニコラに言葉をかけ、その後ニコラを強く抱きしめていた。そして後ろの方でもじもじとしていた私に、アレイナが駆け寄って来て「さようなら、エミル…」と言って私を抱きしめてくれた。私は精一杯の笑顔でアレイナを見上げた。私は言葉を交わしたかったのだが、喉がつまり言葉が出てこない、そんな私にアレイナは『いいのよ…』と子供をあやす様に髪をなで、よりいっそう強く私を抱きしめてくれた。
 出発の最後、3人はにこやかに手を振りながらアパートを後にしていった。3人のいなくなった廊下には扉の閉まる音だけが静かに響く…
 
 その後も泣きじゃくるニコラと、時には一緒に涙を流しながら、私は彼女をずっと抱きしめていた。ニコラはしばらくすると泣き寝入りしてしまい、私はアレイナがしてくれた様にニコラの髪を優しくなでていた。一時間程過ぎた頃だろうか、アパートを誰かが出て行く気配がした。
 私はニコラの頭をそっと下ろして、寝床の部屋を出てみると、ハルコムとイワノフが部屋を引き払う準備をしていた。私が先生達は何処へ出かけたのかと尋ねると「先生達は会場までの移動ルートを確認しに行くついでに、今夜の夕食を買い出しに行きました」とハルコムが答えた。つづいてハルコムは「先生に夕食までは休ませる様に言われていますので、エミルさん達は休んでいて下さい」と言った。
 私は何となく手伝いたい気分だったので「身体を動かした方が、気がまぎれるわ」と言って片付けを手伝わせてもらった。食器や寝具などの日用品は、そのまま置いて行くそうなので、私は儀式で使った物や私達が着た礼服などを箱に詰める役目となった。やはり2人でやるよりも3人でやった方が作業が早く進んだらしく、私達は時間を持て余してしまった。
 キッチンのテーブルに着いて、お茶を飲み始めた私達はとくに共通の話題も無いので、淡々とした沈黙の時間をすごしていると、突然イワノフが「そう言えば、アンさんに言われていた事があったんだ」と言って、何やらゴソゴソと探し物を始めた。
 しばらくしてテーブルに戻ったイワノフが「化粧道具をエミルさんに渡す様に言われていたんだ」と言って小さなポーチを手渡してくれた。それは私の目の周りにある消えないアザを気にかけたアンが、私の為に置いていってくれた物だった。
 だがここで私達は、一つの大きな問題に突き当たる事になった。それは私を含めここに居る誰もが、この化粧品の使い方を知らないと言う事だった。
 私がこのポーチをじっと眺めていると「練習してみましょう」と明るい口調でハルコムが言い出した。私もその意見に賛成して、恐る恐るポーチの中を開けてみると、何やら得体の知れないものがゴチャゴチャと入っていた。
 私はとりあえず解る物から手を付けてみる事にした。おそらく口紅と思われる物を、唇に付けてみるがどうにもうまくいかなかった。私が悪戦苦闘している姿を、2人は恐ろしいほどに凝視している。私がその事に気付きオロオロとし始めると、たまらずイワノフとハルコムが手を出す事態となった。
 ああでもない、こうでもないとしているうちに、2人が私の顔で遊んでいることに、私は気が付いた。最終的に出来上がった顔は、化粧とは程遠い子供の落書きの様な物だった。私達は私の顔を見て、幼い子供の様に大笑いをしてはしゃいだ。
 私達のはしゃぎ声で目を覚ましたのだろうか?目を真っ赤にして起きて来たニコラが、私の顔を見て大きなため息をついて「私がしてあげるから顔を洗ってらっしゃい」と私に言うと、テーブルの上に広がっている化粧道具を、ひとつひとつ手に取り何かを確認する様な素振りをしていた。私は洗面台へとむかい顔を洗ってテーブルに着くと、ニコラが慣れた手つきで化粧道具を操り、瞬く間に目の周りにあったアザを綺麗に隠していった。
 「明日も私が化粧をしてあげるわ…」ニコラは化粧の出来栄えに満足そうであった。
 ハルコムとイワノフはその変貌振りに、ただただ驚いた様子で「すごい、すごい」と連呼していた。先生達が出先から帰ってきたのは、それからしばらくしてからの事だった。先生は私の顔を見て「化粧をしたのですか、見違えてしまいますね」と言うと、セルゲイが「テレビに出てくるモデルさんみたいだぞ」と私をからかった。
 私は急に恥ずかしくなり、洗面台へと向かった。顔を洗い終えキッチンへと戻ると、先生達は移動経路に付いて何やら議論をしていた。「私達は夕食まで休んでいて良いそうよ」とニコラが私に教えてくれ、私達は寝床の部屋へ戻り、とくに何もすることがないので二人で他愛も無い話を始めた。
 会話の中で、自分達の故郷の話が出た。私は多くを話さなかったが、ニコラは故郷の話と共に自分の子供に付いて話しを始めた。「私の赤ちゃんは、とても可愛いのよ…今度の春で2歳になるわ」…自分の子供の事を名前で呼べないのは、それ相応の事情があるのではないかと、私はこの時感じた。
 「私がバカでなく、もっとしっかりしていれば良かったのだけれども…あの子に会うことが出来るなら、今すぐにでも会いたい…そしてあの子に謝りたい…」寂しい目をしながらニコラが言った。
 私は何の慰めにもならないのを承知で「ニコラは精一杯やったと思うわ…あなたが悪い訳ではないと思う」と言うと、ニコラは優しい笑みを浮かべて「そうかしら?そうではないけど…でも…ありがとうエミル…」と言ってくれた。
 その後、夕食の時間となり、私達は最後の夕食を全員で頂く事になった。夕食は昨日までのアンが中心となって作った手料理とは異なり、インスタント食品中心の料理下手が作る料理であった。
 味が濃いだけの料理で、口が肥えた人は決して口にしない料理であるが、私はその味の濃さが病みつきとなり、久方ぶりに胃が張り裂けそうになるまで食べてしまった。食事を取り終えた後は、明日の作戦のミーティングである。私は時折襲ってくる吐き気を飲み込むことに集中していた。
 作戦のミーティングは、今までのおさらい程度で時間もかからなかったのだが、ミーティングの後に始まった雑談が、思いのほか長かった。内容は自分達の故郷の自慢話と噂話である。皆、自分達の国に対する思いは強く、時に話は熱を帯びていたが、私は吐き気の次に襲いかかって来た眠気と戦う事に必死になっていた。
 「そろそろまずくないか?時間」セルゲイが我に返るようにつぶやいた。今こうして此処に居る私達は、故郷の四方山話をするために集まったわけではない。私達が、どんなにお気楽に振舞おうとも明日と言う現実からは逃れようがない、なにげないセルゲイのつぶやきは、そう静かに教えてくれていた。
 皆は、夢から覚めるように食器を片付け、明日の準備を済ませて、各々の部屋へと消えていった。私とニコラも部屋へと戻り、寝床に着いた。ニコラはすんなりと眠りにつけた様だったが、私は先程の眠気が嘘の様に目が冴えていた。寝たり起きたりを繰り返し、やがてそれさえも解らなくなって、ただ寝付けないと言う意識だけとなった。

 私がおいて行かれたと思い、飛び起きたのは午前11時をすぎた頃だった。私はベットから転げ落ちる様に飛び出し、覆いすがるようにして部屋のドアを開けて、壁にぶつかりながらキッチンへとむかった。
 「すみません!寝過ごしました!!」私がキッチンに居た人達に、とりあえず謝ると「焦らなくてもいいですよ…ニコラによると昨日はあまり寝付けなかったようですね、作戦の準備は始まっていますが、ニコラとエミルの準備はまだ先なので、もう少しゆっくりしていて良いですよ」と先生が言ってくれた。
 私はまだ少々寝惚けていたので、顔を洗おうと洗面台へとむかった。洗面台にはニコラが居て、ニコラは化粧をしているところだった。
 「ごめんなさい、もう少し掛かりそうなの、悪いけどシャワーを使ってくれる?」
 「うん…」私は顔だけを洗うつもりだったが、仕方がないので、身体も洗うことにした。私が身体を洗い終えると、そこにはすっかり化粧を済ませたニコラが居て、私にも化粧をするので、早く服を着てキッチンへ来るようにと言われた。私は身体の水気を取り、髪を乾かし、歯を磨きながら、鏡に映る自分の顔を何気無く見つめてみた。
 頬はこけ、目の周りにはアザがあり、鼻が曲がってしまっている。自分の顔がまるで道化の様に思えた。
 あの頃とはまるで違う自分を実感して、私の目からは自然と涙がこぼれた。
 なかなか出てこない私を心配したのか、ニコラがシャワールームに戻って来て「大丈夫?」と声をかけて来た。私は「大丈夫よ」と答えて、顔を拭くふりをして涙をぬぐった。
 「セルゲイ達がキッチンのテーブルを使うそうなので、ここで化粧をしましょう。何か爆弾に問題があったらしいわ」と軽い調子でニコラが教えてくれた。爆弾に問題があっては困るのだが、ニコラはその事を気に留める様子はなく、とにかく私の化粧に取り掛かりたい様子でいっぱいだった。
 ニコラの化粧は、昨日よりも何倍もの時間を使って行われ、化粧の出来栄えは昨日よりもずっと自然に見える感じに仕上がっていた。ニコラが「どう?こっちの方がエミルには良く似合うと思うけど」と言うので、私が「私もこっちの方が好き」と素直に答えると、ニコラはとても嬉しそうに微笑んでいた。
 私の身だしなみも終わり、二人でキッチンへと行って見ると、セルゲイとイワノフが爆弾に付ける小さな部品をいじくっていた。私もさすがに心配そうにしていると、先生が「少し電圧に問題があるようですが、大丈夫ですよ」と言ってくれた。私は何事も話しをしてくれる、そんな先生の態度にいつも安心させられていた。
 私達が作業を見守る中、十数分ほどでセルゲイとイワノフは問題を解決した。皆の緊張も一気に緩み、キッチンにはホッとした雰囲気が漂い始め、セルゲイとイワノフには笑顔も見せていた。先生の携帯電話が鳴り響いたのはその直後だった。
 先生の顔がみるみる険しくなって行く、鋭い目付きで非常に丁寧な受け答えをしている様子に恐ろしさすら感じた。数分間のごく短い電話を終ると、先生がキッチンに私達全員を呼び寄せ、私達に最終的な命令を下した。
 「たった今、アンからの電話で、会場内の仕掛け爆弾を、予定通り設置した事が報告されました…また会場及び会場ゲート付近の設備や警備状況なども当初の予定通りに執り行われているとの事です…これら現状を踏まえ作戦準備は最終段階に入ります…各員装備の装着を準備し、エミルニコラの装備を完了させ、扇動指令部を午後三時に出発…扇動指令部解散は出発をもって速やかに行う事…攻撃開始時刻は予定通り午後六時に決行…以上をもって本作戦の攻撃命令とする…各自準備の中で異常があった場合は、どんな些細な事でも報告する事…」
 先生はそう言うと、組織の幹部へ電話をする為、奥の部屋へと消えていった。セルゲイとイワノフは、機械のチェックを始め、ハルコムは撤収の準備、ストイカは誰かと連絡を取っている様だった。
 私達二人は、得にする事が無い、せめて皆の邪魔にならない様に、部屋の隅で皆が忙しそうに動き回るのを眺めていた。しばらくすると先生が戻ってきて、「服を着替える前に軽く食事を取って下さい」とお願いされた。あまり食べ過ぎるのも良くないとの事なので、昨日の残り物であるパンを一つづ食べた。
 パンを食べ終え、お茶を飲んでいると、ストイカがやって来て「装備の取り付けには、まだ時間があるのだが、衣類の片付けを済ませたいので、早々に着替えてくれないか」と言って、今日着用する服を渡された。
 服の中には、例のオムツも入っていたので、私達は小用をすませ、一昨日の行動演習と同じように服を着替え、メイクと髪形を整えてキッチンへと戻り、先ほど飲み干せなかったお茶に手を伸ばしていた。
 「一緒によろしいですか?」お茶を手にした先生がやって来て、テーブルに着くと私達が不安にならない様にだろうか?ずっと他愛の無い話をしてくれていた。先生と話をしている途中、緊張の為かニコラが、まだ行けるトイレに何度か行っていた。そんなニコラの様子を心配して、先生は私達に薬を手渡し「この薬は、向精神薬の一種で極度の緊張を和らげる薬です。二錠ほど飲めば、気分が楽になるはずです。副作用として、頭痛や吐き気をもよおしますので、あまりお勧め出来ませんが…」と先生が注意を促す中、ニコラは迷わず薬を服用していた。
 私はまだ大丈夫だと思い、薬は先生に持っていてもらう事にした。それから小一時間ほどたった頃、ストイカが先生に「そろそろ時間です。いかがでしょうか?」と尋ねに来た。
 先生は「良いでしょう」と答え、私達には「それではこれより爆弾を装着します、よろしいですか?」と確認をした。私達は声を合わせて「はい」と答えると、ストイカが「それではこちらにお願いします」と言って、先生と私達を昨日儀式が、執り行われた部屋へと案内した。
 部屋の中にはセルゲイとイワノフが居て、異常なほど張り詰めた空気を醸し出していた。その雰囲気はすぐに私にも伝わり、私の身体を強張らせ、私の頭を真っ白にさせた。
 そんな私にセルゲイが近づき「大丈夫か?」と聞きに来た。私は声も出せずにうなずくと、セルゲイは「起爆スイッチを通す為の穴を、胸元に開けるがいいね?」と確認をとってから、私のシャツをつまみ5㎝ほどの切れ目を胸元に入れ、同じ様にしてニコラのシャツにも切れ目を入れ終えると、セルゲイに先生が近づき、何か耳打ちをして、「それでは、まずニコラのベルトを装着します」と先生が装着する順番を伝えた。
 ニコラは覚悟を決めたのか、それとも薬が効いていたのかは解らないが、とても落ち着いた様子であった。セルゲイとイワノフは、まるでお姫様に御召物を着せるように、慎重にニコラの腹部にガードルを取り付け、起爆用の電源をセットし、予備の無線起爆装置の電源を確認した後、食品用のラップフィルムの様な物で胸の下から腰の辺りまでグルグル巻きにして、さらにビニール粘着テープでしっかりと定着させていた。最後にだらんとぶら下がった起爆スイッチを、シャツに開けた穴から手元にとおし、上着とコートを羽織って爆弾の装着は無事に完了した。
 少々息苦しそうなニコラの様子をまじまじと見つめていると、ニコラは“なんて事ないわ”と言った感じで私に目で合図をしてくれた。私は合図を返す余裕もないまま、爆弾を装着する番となった。
 極度の緊張の中、私はテーブルに広げられたガードルの前に立った。セルゲイにシャツを胸まで捲り上げる様に指示を受けたのだが、手が震えて思うようにシャツを捲り上げる事ができない、背中に汗がどっと吹き出る、その事が妙にリアルな恐怖に感じられた。
 「エミル、落ち着いてゆっくりと息をするんだ」セルゲイが少し強い口調で私に指示した。私は私が随分と速いペースで呼吸をしていたことに気が付き、言われたとおりにゆっくりと深呼吸をすると、数分で手の震えも治まり、肩に入っていた無駄な力もスッと抜けていくのを感じた。
 落ち着きを取り戻した私は、シャツを捲り上げその後の指示にも、ちゃんと「はい」と答える事が出来る様になった。セルゲイとイワノフも一度目のニコラの時よりも慣れた様子である、私の装着はニコラの時よりも十数分早く無事完了した。
 私とニコラの装着を待っていたのだろうか?部屋の扉を開けセルゲイが何か合図を送ると、部屋にハルコムとストイカが入って来た。部屋に集まった皆は先生の方を注視している、先生は重い腰を上げる様に椅子から立ち上がると、私達に対峙し話を始めた。
 「二人の装備が完了しました。まもなく起爆装置の電源を入れます。通電の確認がとれ次第すみやかに扇動指令部を出発します」「ストイカとイワノフは車の準備をお願いします。ハルコムは撤収準備を、セルゲイは私と共に通電の確認をお願いします…」
 「…最後に…最後にこの数日間の不眠不休の労力、ご苦労様でした。今日と言う日が、明日のベズロアの希望となる事を信じていますし、我々は他の誰よりも、そう信じぬかねばなりません。我々一人一人が抱える重責は、ベズロアの希望の重みそのものです。今はただその重みを胸に、今日のその時をむかえましょう…」
 「それでは以上です。何か質問はありますか?」
 だれも質問をすることは無かったが、先生の最後の言葉は、私に不思議な安らぎを与えてくれていた…先生の声がどことなく、ここに来る前の声に戻っているように感じられたからだ…
 私がそんな事に想いを致している間にも、準備は着々と進んで行く。ストイカとイワノフは車を準備する為に外へ、ハルコムはダンボールに何かを詰めている。セルゲイは電流を測るための機械をチェックしていた。
 「予備起爆装置の電波、確認できました。携帯電話からの強制起爆が可能な状態です。電流計も準備が出来ました。いつでもOKです」セルゲイの声が部屋に響いた。私達に近付いて来た先生が、電源を入れても良いかと訊ね、私達は声を合わせて「はい」と答えた。
 「それでは、まずエミルからいきましょう。練習通り、カチッと音がするまでスイッチを握ってください。確認しますが、一度握った手を開くとロックが解除され、もう一度握ると起爆です。手は握ったままでお願いします」
 私は「わかりました」と答え、スイッチがカチッと音がするまで、起爆スイッチを強く握った。先生は私の手が不意に開かないように、私の手をスカーフで巻き「大丈夫ですか?手は開きませんか?きつくはありませんか?」と確認をとった。
 私が「大丈夫です」と答えると、つづいてセルゲイが近づき「通電を確認するので袖を捲り、ケーブルを見せてくれ」と言った。
 私は言われた通り袖を捲り、腕を差し出すと、セルゲイが電流計を使って通電を確認していた。「OKです。通電できています」セルゲイの声が再び部屋に響いた。
 同じ手順で、ニコラのスイッチも握られ、通電が確認されると、私とニコラはすぐに車に乗るように指示された。
 私達はどことなくぎこちない歩き方で、ストイカの後を付いて行き、アパートのドアにたどり着くと、セルゲイとハルコムが見送りに来てくれた。
 二人とも今生の別れと言った雰囲気は微塵も見せずに、私達が、まるで夜には帰って来る様に見送った。
 「それじゃあな……」
 私達にプレッシャーを与えない為か、それとも本当に平気なのか解らないセルゲイの様子、それに比べハルコムは、ドアが閉まる瞬間まで何かを言いたそうにしていた…
 
 「申し訳ないのですが、階段を使って下まで降りてください」…人目に付く事を気にしているのだろうか?ストイカの指示にしたがい、更にぎこちない動きで、階段をゆっくりと一段一段確認しながら下りて行った。
 徐々にではあるが、私もニコラも下の階に進むにつれ、自然な動きが出来るようになり、階段を下り終える頃にはストイカの速い歩調にも着いて行ける様になっていた。
 自然な動きを保ちながら、建物の外へと出ると、外の景色は穏やかで、午後の柔らかな日差しが、私の心を少しだけ軽くしてくれた。
 「車はここから、二分ほどの所に停車してありますので、ついて来て下さい」
 事務的なストイカの様子に、少々冷たさを感じながら、私達は車が停車している所まで、無事たどり着けることが出来た。
 停車してあった車には、イワノフが乗っており、この町に来た時とは別のワゴン車であった。ストイカが助手席へと座り、私達は後部座席へと座った。ストイカとイワノフが何やら話し、イワノフが車を降りてアパートの方へと小走りで走って行くと、ストイカが振り向き「このままもうしばらくお待ち下さい」と事務的な台詞を吐いた。
 するとニコラの表情と目の輝きが見る見るうちに変わって行くのが分かった。ニコラはこの時を待っていたのであろう。満面の笑みで身を乗り出して「ストイカはアンのこと好きなの?」と質問した。
 ストイカは、今まで保ってきた冷静さをかなぐり捨て、慌てふためきながら、何故そんな事を言うのか?とニコラに質問を返した。
 ニコラは確信に満ちた表情で「アンと話をしている時の、あなたの様子を見て」とすぐさま答えた。ストイカの顔が真っ赤になっている事は、後部座席からもはっきりと解った。
 「なんで好きと言わないの?」と叱り付ける様にニコラが言うと、もじもじしながらストイカは「彼女とは…アン信徒とは階級が違います…それに彼女の方が年上ですから…」と言った。
 「あんたバカ!?そんな事どうでも良い事じゃない!!ねぇエミルもそう思うでしょ!!」とニコラに同意を求められたのだが、私は話の展開について行けず、ニコラの迫力に「うん」と返事をするのがやっとであった。
 その後もニコラとストイカのやり取りは、先生とイワノフが来るまでつづき、あまりのニコラの熱の入れように、私はニコラが飲んでいた薬が、効き過ぎているのではないかと心配していた。
 ワゴン車の中は、気まずくじっとりとした何とも言えない空気に支配されていた。後部座席に乗り込んだ先生も、この雰囲気にすぐに気が付き「何かあったのですか?」と私達に質問したのだが、すべてを覆い隠す勢いで「何でもありません。大丈夫です」とストイカが答えた。
 先生もそれ以上は、深追いしようとはしなかったが、そんなストイカの態度を見て、ニコラは憮然とした態度でバックミラーごしにストイカをにらみ付けていた。
 
 「それでは、出発しましょう。法定速度に気をつけて、安全運転でお願いします」先生がイワノフに指示すると、車はゆっくりと走り始めた。
 車はまず地下鉄の駅へとむかう。15分程の道のりであったが、車の中ではニコラの明るさが際立っていた。
 「あれがオスタン宮殿よ!」とか「あれは、テレビ塔だわ!」などまるで観光に来ているように町並みを説明していた。
 今の私達には似つかわしくないニコラの様子に、先生はとても心配そうにしていたが、とくにその事をニコラに言うような事は無かった。
 車の移動は、渋滞に引っかかる事も無く、予定通りの時間で地下鉄の駅まで到着した。ここでニコラ達とはお別れである。先生はニコラに「いつもあなたには、神と私達がついています。あなたに会えたことを誇りに思います」と言うと、ニコラは「私も先生と出会えた事を誇りに思っています。私は先生に救っていただきました。本当に心から感謝しています」と言った。
 …ほんとうにそうであった。私達は本当に先生に救ってもらったのだ…今こうして人間として生きていられるのは先生のお陰であった…
 先生は最後に、ニコラの事をお願いしますとストイカとイワノフに頼んで車を降りた。私はみんなに「今までありがとう!みんなと過ごした日々が今までで一番楽しかった…ほんとにありがとう」と言うと、ニコラが「エミル、私もありがとう。私もあなたに会えて良かった。今日のあなたはとても美しいわ」と言ってくれた。
 「ありがとう ニコラ」私はそう言って、みんなと握手を交わし車を降りた。先生が車のドアを閉めると、車はまもなく発車し、後ろの窓からはニコラが笑顔で手を振る姿が、車が見えなくなるまで見えていた。
 
 立ちすくむ私に先生が「エミル それでは行きましょう。地下鉄に乗るのは初めてですか?」と聞いてきた。私が初めてですと答えると 「地方の駅と違うのは、自動改札機がある事ぐらいです。何も心配はありませんよ」と先生が言ってくれた。
 私達は駅の入口から階段で、駅のコンコースへと下りた。改札口付近にある券売機で、先生が行き先までの切符を買って、私に手渡し、そこの改札から中に入りますと教えてくれた。
 私は、先生や他の人々がやるのと同じ様にして自動改札機を通り、これを難なくこなす事が出来た。
 「では、上り方面のホームへむかいます」と先生が言って、奈落の底につながる様な、とても長いエスカレーターに乗った。
 「この駅は、核シェルターとしての役割を果たす為に、とても地下深くに線路を通したのです」いつまでもつづく長いエスカレーターに、不安を感じていた私に、先生がそう言って不安を和らげてくれた。しばらくすると私達は、妙に広々とした空間に降り立った。上り方面ホームへは更に階段を下り、人一人がすれ違える程度の通路を抜けて、やっとホームへとたどり着いた。電車が来るまでは、5分ほどの時間がある。
 「電車はけっこう揺れますので、座る事が出来ない時は、しっかりと左手でつり革につかまっていて下さい」
 「あと、もしも誰かに話しかけられても、エミルは黙っていて下さい。私が外国人のふりをしてやり過ごしますので、よろしくお願いします」
 先生が私にそう指示をすると、轟音と共に列車がホームにすべり込んで来た。一斉に開いたドアに吸い込まれた私達は、車両の後方、全体が良く見渡せる席へと座る事が出来た。
 電車の車内は、ロスク中央駅に近付くにつれ、徐々に混み始め、ロスク中央駅を出発する時には、ほぼ満員の状態になっていた。
 私はこの間、ずっとうつむき、左手で右手のスカーフを隠す様にかさねたままでいた。ロスク中央駅からは、オリムタージュ美術館駅や国立王宮博物館駅など、連邦首都ロスクの一大観光名所が続いた。
 私が、ふと顔を見上げてみると、電車の中には、肌の色が違う人や、紙の色が違う人々が、大勢乗車していた。世界中の人々が、この町へ観光に来ている事を知り、この町の大きさをあらためて実感していた。
 中央駅から四つ目の駅、ヴェチー修道院前駅に着いた時、乗客の3分の1ぐらいが降りていった。先生が「この修道院は、この国で最も歴史のある修道院で、世界遺産にも認定されているのですよ」と言っていた。
 私は世界遺産と言うものが、どういうものなのか知らなかったので、先生に世界遺産というものを教えてもらっている内に、目的地である国立スタジアム駅へと到着した。
 「それでは、降りましょう」と先生が言って、他の乗客と共に電車を降りた。下車した乗客のほとんどが、まだ若い人々で、みんなロックフェスに行く人々なのだと言う事が想像できた。
 先生と私は、階段を上り、改札口を出て、また長いエスカレーターに乗って地上へとむかった。遥か地上からは、外からの光が、まるで人々を導く聖なる光のように降り注いでいた。
 地上に出てみると、駅出入り口付近は、大勢の人々でごった返しており、人々の大半は駅で待ち合わせをしている人々の様だった。
 私と先生は人々をかき分けながら、目的地である西側ゲートへと向かった。先生は時折後ろを歩く私を気遣いながら歩いてくれた。先生とはぐれない事だけを考えていた私に、ここにいる誰かを殺してしまうかもしれないと言う考えがよぎった。私は恐ろしくなり、人々の顔を見る事が出来なくなった。ただひたすら先生の足元を見て歩いた。
 「あれが西側ゲートになります」先生の声で頭を上げると、私達の150mほど手前に西側ゲートが在り、ゲートの手前でたむろする人々と、次々とゲートに吸い込まれていく人々が見えた。
 
 「時間が来るまではそこのベンチで座っていて下さい」「時間を確認する為の時計塔はあそこにあります…」
 私達の立っている場所の左手には、事前のミーティングどおり、誰かの銅像を中心として、ベンチが備え付けられた小さな広場があった。

「いいですかエミル、アレイナの爆発音がしたら、直ちにゲート付近に移動して下さい…もう一度確認しますが、起爆スイッチは一度放した後にロックが解除され、もう一度握る事で起爆します…よろしいですね…」
 先生の問いかけに、私は元気良くハイと答えた。私の精一杯の明るさは、直ぐに先生に見破られ、私が攻撃に行く直前まで、ここで一緒に時間を過しますか、と先生に提案されてしまった。
 私としては、先生の側を離れるのは、不安ではあるが、爆発後の混乱を考えると、一刻も早くこの場所から離れてもらうのが得策であった。私は事前の計画通りに、ここを離れてもらう様に先生にお願いをした。

 「…わかりました…ではスカーフを取ります。しっかりと手を握っていて下さい…」先生はそう言って、私の右手のスカーフをゆっくりと取り始めた。
 私の右手は小さく震えている。そんな私の様子を見てだろうか?先生は一人の人間としての、弱い部分を私に見せはじめた。

 「すまない…エミル…」
 
 「エミル…あなたを助ける事も出来ず、こんな生き方しか選ばせる事が出来ませんでした…」

 「エミル…あなたがもし恐ろしかったり、つらかったりするのなら、あなたはこのまま保安局に向かってもらってもかまいません」

 「保安局の捜査に協力すれば死刑になることは無いし、恩赦があれば釈放される事も充分ありえます。もしその事で、私達が逮捕される事があっても、けっしてあなたを恨んだりするような事はありません」

 「もしあなたが、クルコエへの送金を気にかけているのなら、どんな事になっても、私が責任を持って金は送り届けます」

 「…だからエミル、あなたはもう苦しまなくていいのですよ…あなたは充分苦しみました。あなたはもうこれ以上こんな茶番に付き合う必要はありません。自分の思うがまま、自由に生きてかまわないのですよ…」
 そう話してくれた先生の言葉には、自分がしている事への迷いが、痛々しいほどに滲み出ていた。
 
 私はスカーフが取られた右手を、左手で押さえながら「ありがとうございます…先生。…でも私出来るとこまでやってみます」と答えると、先生は何も言わずにうつむいたままであった。

 「ひとつだけ…ひとつだけ先生にお願いがあります」私が声を振り絞る様に言うと、先生が「なんですか?」と言って顔を上げてくれた。

 「…私の魂が…わたしの魂が、まよう事なくスタルニスの所へ…私の、わたしのすごく好きだった人の所へ行ける様に、祈っていただけますか?」

 私が言うと先生は「わかりました…私の命がつづくかぎり祈りつづけます」と言ってくれた。

 私は最後に「ありがとう」ともう一度言うと、先生は私をやさしく抱き寄せ「本当にすまない」と言って、その場を後にしていった。

 私は先生の後姿を見ていた。先生は一度だけ、何か大事な物をおいて行くかの様に、振り向いたのだが、やがてその姿を雑踏の中へと消して行った。
 先生が消えた辺りを見つめていた私は、スタルニスの事を思い出すのが、随分と久しぶりである事に気が付いた。

 今までスタルニスの事を忘れたわけではなかったが、私は、あの日を境にして、あの出来事の痛みも、スタルニスへの思いも一緒にして、私の深い所へと追いやっていたのだ。

 私が追いやっていたスタルニスへの思いは、先ほどの先生へのお願いによって、徐々に私を満たし始め、私の身体をスタルニスでいっぱいにして行った。
 私は止めどなく溢れ始めたスタルニスへの思いを抑えながら、決行の時を待つ為に広場のベンチへと向かった。
 ベンチに座りしばらくすると、すぐ左隣のベンチに一組の若いカップルが腰を掛けて来た。年のころは、私と変わらないほどの子供である。隣りのベンチまでは2mほどで、当然ではあるが、二人の会話も耳に入ってくる。二人のそれは、実に他愛もない会話で、話しには内容と言った物はまるで無く、数分の後にはどうでも良くなっている事を、二人は実に生き生きと楽しげに話していた。

 …それは私とスタルニスがそうであった様に、あまりにも稚拙で、あまりにも楽観的なすがたであった。
 あまりにも幼稚…私達は幼稚でバカだった…幼稚でバカだったが、私達はそれでも良かった。
 おさなくおろかでも、二人でいられるならば、現実を知ることも、苦しみを感じる事も否定して、生きて行けたのかもしれない…
 私がそう感じると、目の前にいる二人や、行きかう人々がとてもいとおしいものに思えて来た。

 我々の作戦に正義は無い…先生の言葉は正しかった。こんなにも素晴らしいものを人から奪う事に微塵の正義も有りはしない…わたしはバカだ…本当にバカだ…先生の話を真剣に聞く事が出来なかった…
 わたしは自分の不幸や悲しみを身にまとって、何も考え様とはしなかった…

 どうしよう…わたしはどうしたらいいの…

 ベズロアが受けた傷、民族が受けた苦しみ、私が受けた屈辱と痛み…それらを一緒くたにして、今、目の前にいる人々に償わせなければならないの?

 彼らは私達と同じ様に生きて来た人々、日々の糧を得て、想い合い、生活をいとなんで来た人々…神の名を騙り、罰を与える人々ではない。
 そんな事を私がして良いはずが無いし、そんな事をして良い人間がこの世に存在するはずも無い…

 …わかっている…わかっているけど、じゃあ、私はどうすればいいの?

 
 先生が言ってくれた様に保安局に逃げ込むの?

 私によくしてくれた皆や、世話をしてくれたハンナや先生を危険にさらす事が出来るの?

 全ての事から逃げ出して、私が生き延びる日々があるの?

 生き延びられたとして、その後は?

 その後、私はクルコエの男達がした事を、忘れる事が出来るの?

 スタルニスは…スタルニスはどうなるの?

 私には、スタルニスと一緒だった時の様に、笑える時が来るの?

 わたしは私自身をゆるす事が出来るの?


 どうしよう…


 どうすればいいの? わたしはいったい…



 “ドォォォーン!!!”

 それはアレイナの音だった。その号音は、私の思考を停止させ、現実の時間へと引き戻す合図となった。私の近くにいる人々は、この音をロックフェスの余興ぐらいにしか思っていなかったはずだ。私の隣りにいた二人もさして気にしていない様子で、顔には笑みを浮かべている。しかしそれが、余興などではない事を、彼らは直ぐに気付き始めた。遠くから次第に大きくなる悲鳴や怒号がこの場所まで押し寄せ、ゲート付近では人々の流れが止まり、係員の動きが慌しくなっている。
 若いカップルの男性は立ち上がり、ゲート付近の方を見つめている。女性からは、笑みが消えとても不安そうにすがり付いていた…


 “はやくゲートにむかわなきゃ、はやくいかなきゃ”

 徐々に大きく震えだした右手を、必死に左手で押さえる…

 “はやくにげて!!はやくにげて!!みんなはやくにげて!”

 心の中で必死に、必死に叫びつづけた…

 “ダメだ!”

 そう思った瞬間、私の目は誰もいない場所をさがし、同時に私の足はそこにむけて走り始めていた…


 “あそこなら…あそこなら、きっと誰もまきこむ事なく一人で”


 “あそこなら…あそこならきっと一人で死んでいける”


 “もうだれもまきこまないで…先生やハンナやみんな、スタルニスもだれもまきこまずに…”


 “先生…先生ごめんなさい…わたし、私ちゃんと出来なかった”


 ズォォーン!


 “ニコラの音だ!ニコラはいったんだ…ごめんなさいアレイナ…ごめんなさいニコラ…私にはやっぱり…”


 “ごめんなさい…わたしにはやっぱり出来なかった”


 “ごめんなさい…”


 “ごめんなさい”


 “ごめんね…”


 “ごめんね…ごめんねスタルニス…あなたとはちゃんとさよならも言えなかった…わたしが見た最後のあなたは泣いていたね…ごめんなさいスタルニス…”


 “…でもこれが終われば…これが終われば大叔父にお金が入ってきっと…お金が入って、きっとあなたを許してくれるわ…”


 “スタルニス…ゆるしてね…ごめんね…”


 “ごめんね…”


 “ごめんなさい…”


 “ごめんなさい”



 “スタース…”



 カチッ…ピッッ…

 シュパッッ


 ドゥンン!





 2003年11月4日

 ロックフェス連続自爆テロ事件

 死者15名

 重軽傷者108名

 2003年11月4日、ロスク市内、国立スタジアム、ロックフェス会場にて、連続自爆テロ事件が発生。最初の爆発は会場内中央部で、開演10分前に爆発。死者11名、重軽傷者50名。最初の爆発から15分後、東側中央ゲートにて二度目の爆発。死者4名、重軽傷者58名。また二度目の爆発と同時刻に、西側中央ゲート付近でも爆発があるも、負傷者は無し。自爆テロ犯3名は即死、いずれも女性。


 エピローグ

 事件後、グルスタフとバーナエフの会談は実現されなかった。グルスタフは2005年3月に、バーナエフは2006年7月10日に死亡。2013年1月現在、ベズロア自治共和国は親ロシスキ政権によって統治されている…



 

エミルとスタルニス

エミルとスタルニス

エミルは17歳になる少女。ある日ハトコのスタルニスに出会う。 次第に惹かれあう二人は許されぬ恋に集落を逃げ出す計画を立てる。 どこにでもある恋愛話、いつの時代にも転がっている恋愛話…ただ違う事は二人が生きた地が紛争地帯であった事… 彼女は何を見、何をされ、何故そこに居たのか? 今、我々の生きる時代に起こる、殉教者達の現実。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2012-01-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1.  1・クルコエ
  2.  2・学校
  3.  3・決行日