蒼白の風景

ジャンルは、恋愛・サスペンス・オカルトです。小説を書くのは、初めてではありませんが、公開するのはこれが初です。編集者になったつもりで、ビシバシお願いします。

プロローグ

吉田萩(よしだ・しゅう)は夢を見ていた。なかなか覚めない夢であった。
街中でスタイル抜群の女が多数、歩いていた。電柱の側で脚をクロスさせる女・青信号なのに横断歩道を渡らない女・レーサーのようにバイクで交差点を左折する女。どの女もキレイだった。
吉田は良い夢だと思った。良い夢なら覚めないでほしい。目を閉じると夢から覚めると聞いたことがあったので、吉田はパッチリ目を開けていた。吉田の両腕に女の腕が絡んできた。両手に花であった。どちらも好みの顔である。
吉田は女と路地裏で何度もキスをしてから、飲み屋へ向かった。紫を基調とした店内で、吉田は会話を楽しんだ。夢の中でも酒はうまかった。夢の中で酔い潰れ、吉田は目を閉じた。吉田がハッとなって目を開けると、女達が居なくなっていた。淡い光が静かなバーカウンターを照らしていた。
吉田は席を立ち、バーを出た。街の景色が怖ろしいほど美しい夕闇に包まれていた。吉田はしばらく街の歩道を歩いた。見覚えのある道が随所で目に入った。T 字路の先で男が倒れている。吉田は仰向けで倒れている男に近づき、面食らった。それは自分自身であった。
(なぜここにオレが居るんだ?)
「ここは霊界よ」女の声が聞こえた。
吉田は振り返って声の主を見た。女子高生が立っていた。初めて見る顔であったが、かなり美しかった。
「あなたは?」
と、吉田は女の名前を聞こうとしたが、
「さあ、誰でしょう。まあ、ごゆっくり・・・・・・」
女子高生は笑顔で去って行った。
(オレは死んだのか? しかし、どうやって?)

蒼白の風景

春の風はやわかった。塚元亜由美(つかもと・あゆみ)は独りで夜道を歩いていた。夜道といっても、ちょうど薄紫の空から黒い闇に変化する頃である。
亜由美の趣味は夜の散歩であった。焼肉兼キャバレーで働く亜由美は、休日の前夜に車を走らせ、あえて店から遠く離れた駐車場で車を止めた。黒い蝶の柄のノースリーブと、紫色のスキニーパンツが今日のファッションであった。
亜由美は人気のない道をゆっくり歩いていた。エルメスのバッグを肩に掛け、夜の風を肌で感じた。大量の空気が全身に触れてくるようで恥ずかしかった。とはいえ、背後から聞こえる足音に比べれば、空気は宝であり、愛すべき存在であった。
亜由美は後ろが気になったが、振り返ろうとはしなかった。少し歩く速度を上げると、背後の足音の速度が速まった。
(やっぱりわたしのボディを狙ってるのね?)
亜由美は心の中で叫んだ。その時、男の大きな声が聞こえた。亜由美は思わず立ち止まって振り返り、二人の男を見た。一人は茶髪の若い男で、もう一人は警察官だった。警官の男がチラッと亜由美を見た。その後、職務質問が始まった。
亜由美は再び歩き出した。住宅地に差し掛かると、家々の灯りがぼんやりと目にしみた。曲がり角の多い道を歩いていると、制服姿の女子高生と鉢合わせになった。桜井佳苗(さくらい・かなえ)は、何か思いつめた顔で立っていた。
「佳苗ちゃん?」と亜由美が言って、「今晩は」
桜井佳苗は黙っていた。
「夜道は危険だから、気を付けてね」
亜由美はそう言ってから涼しい顔で歩き出した。
「先輩」佳苗が言った。
亜由美は振り返って、
「なに?」
「先輩こそ、気をつけて下さい」
「わたしは大丈夫よ。自分の身は自分で守れるから」
「・・・・・・わたしも」佳苗は小さな声で、「そのつもりです」
佳苗は自信のない表情を見せた。
佳苗と別れた亜由美は、しばらく夜の街を歩いた。今日は比較的怪しい男に出会うことなく、平和な時間が流れた。
亜由美は佳苗のことが気になっていた。彼女は夜道を歩くような危険な行為はしない。なぜなら、学校へ行くときや下校の時間になると、いつも専業主婦の母が車で送り迎えをしてくれるからだ。そんな家庭環境で育った娘が、生ぬるい季節に一人で散歩をするのは不自然である。
亜由美は不安な表情でオフィス街を歩いていた。この辺りの道は、帰路に付く人や車をよく見かける。足を進めると、駐車場が見えてきた。亜由美は二人乗りの赤いオープンカーに乗って、駐車場を後にした。
佳苗のことが気になり、歩いてきた道を引き返した。曲がり角の多い道を徐行で進んだが、佳苗の姿はどこにもなかった。しばらく巡回したあと、帰路に付いた。亜由美は最後に、人通りの少ない道を車で走った。
その時、片目を押えながら歩く四十代の男とすれ違った。男は目の辺りから血を流していた。塚元亜由美は驚いた。あの男が出所した。赤い車が少しずつスピードを上げて走り出した。不安な空が落ちてきそうであった。

                              ★

早朝から雨が降っていた。吉田萩は、狭い屋根裏部屋で眠っていた。吉田は小さな喫茶店を始めて二年になる。常連客も増え、ようやく軌道に乗り始めた頃だった。
雨が窓を叩いていた。その時、インターホンが鳴った。こんな時間に訪ねてくる人物は一人しかいない。吉田は耳を澄ませた。一階の裏口を開ける音が薄っすらと聞こえた。おはようございます! という女の声が店内に響いた。
女は階段を上がっていきなり屋根裏部屋のドアを開けた。吉田は起き上がって狩野未由(かの・みゆ)の制服姿を眺めた。ミニスカートが、朝の元気な息子を更に元気付けた。
「来ちゃった」と未由が言って、「朝ご飯作ろうか?」
「いいよ。自分で作るから・・・・・・。お前、春休みじゃなかったのか?」
と吉田が聞いた。未由は布団を踏みながら、吉田の隣りに腰を下ろした。
「うん。春休みだよ。でも萩くん、わたしの制服姿、見たいでしょ?」
吉田は何も言い返せなかった。未由は吉田の肩にもたれ掛かった。
「佳苗と連絡が取れないんだけど、萩くんなにか知らない?」
高校生の未由は、5年先輩の吉田を呼び捨てにしていた。
「オレが佳苗さんのなにを知ってるって言うんだ?」
と吉田は聞き返した。
「だって佳苗もこの店の常連なんでしょ?」
「日曜日にご家族で店に来るけど、彼女と話をしたことはないよ」
未由は軽く頷いてから、
「でもね、結構萩くんの好みのタイプだと思うんだけど?」
狩野未由は怪訝な目で吉田を見ていた。
「なにが」と吉田は喉をつまらせて、「なにが言いたいんだ?」
「好きでしょ? 佳苗のこと」
と未由が面白そうな顔で言った。
「高校生にしては大人っぽいと思うけど、オレはそう簡単に女性を好きになるタイプじゃないから」
「え~、ウソ」
「ホントだよ」
「じゃあ、わたしのことも嫌いなの?」
未由は哀しそうな顔で吉田を見つめた。
「嫌いなわけないだろ。未由は可愛い友達だよ」
「え? ・・・・・・嬉しい」
未由は本気で照れていた。未由は呼吸を整え、優しい植物の蔓のように自分の腕を吉田の腕に絡ませた。
「ねえ、萩くん。ドライブに連れてってよ」
未由は甘い声で言った。
「あしたなら、空いてるけど」
「ホント?」と言って立ち上がり、「萩くん」
「ん?」
「朝ご飯だけ、わたしに作らせて」
見えそうで見えないスカートを揺らしながら、未由は屋根裏部屋を出て行った。

                              ★

夜、煉瓦の外壁にオレンジ色の灯りがともっていた。年中無休のキャバレーで働く吉田輝夫(よしだ・てるお)は、毎日肉をさばいていた。吉田がさばいた肉を、スタイル抜群の女店員が焼いて、客に食べさせていた。女店員は色とりどりのレギンスパンツを穿いていた。女が足を動かすたびに、男の客が鼻の下を伸ばした。
吉田輝夫は穏やかな中年の紳士だった。今日は一番人気の亜由美が店を休んでいたので、輝夫は内心寂しかった。輝夫は厨房に立ち、冷蔵庫の中からレタスやキャベツを取り出して、サラダの準備をしていた。不意に写真立てに視線が移り、輝夫は作業を止めた。写真に写っている女性は美しかった。
(洋子・・・・・・。わたしは、あの頃に戻りたい。もう二度と、お前を一人にはしない)
と、輝夫は心の中でつぶやいた。真っ白な心で沈黙していたその時、女の店員が厨房の中へ入ってきた。
「店長、サラダできた?」
「え? ああ・・・・・・。いま作るところだよ」
若い女は脚をクロスさせ、その場で突っ立っている。芸術的なスタイルが眩しかった。
「どうかしたのか?」輝夫が言った。
「お尻さわられました」女店員が言った。
「そうか。君たちには苦労ばかり掛けて申し訳ない」
輝夫は頭を下げた。
「そんなに苦労してるとは思ってないけど」
と言ってから、女店員が笑顔を見せて、
「店長、またイタリアンおごってね?」
輝夫は優しく頷いた。女店員は厨房を後にした。輝夫は女のキュートなお尻を見送った。

営業時間が終了した後の店内は静かだった。従業員も皆、帰路に付いていた。シャッターを閉めきった時、輝夫の携帯電話が鳴った。輝夫が携帯を操作すると、心地良い女の声が聞こえた。
「亜由美ですが、吉田さんですか?」
輝夫は自分の苗字を呼ばれ、ドキっとなった。いつもは店長と呼んでいた亜由美が、この日に限って呼び方が違っていた。はっきりとした原型は掴めないが、胸が騒ぐ思いだった。
「もしもし、吉田さん?」
「ああ、もしもし。亜由美さんだね?」
「はい。あの、お仕事中ですか?」
「いや、丁度シャッターを閉めたところだ。なにかあったのか?」
輝夫は少し硬い表情で返答を待った。
「下田亮助(しもだ・りょうすけ)を見かけました。ちゃんと確認したわけではないですが、一応知らせておこうと思って」
下田亮助。連続暴行魔の名前であった。吉田輝夫は悲しみのあまり声が出そうになった。
「もしもし、大丈夫ですか?」亜由美の心配する声が聞こえた。
「ああ、大丈夫だ。亜由美さん。今夜、一緒に飲まないか? わたしのおごりで」
「ええ、いいですよ。ではいつものバーで待ってます」
「ありがとう」
電話が切れた。
輝夫は最寄りの駅へ向かった。街灯に照らされながら、暖かい風と街の光を全身で感じた。輝夫は光の少ない道に差し掛かった。
(無期懲役になったはず)
と輝夫は心の中で何度も叫んだ。あの男が出所した。娘の心を殺した奴が、ノウノウと街を歩いている。輝夫は怒りを抑えながら足を進めた。
ゴミ置き場が見えてきた。黄色い網のようなものが被せてあった。ほんの少し、香水の匂いがする。輝夫は足を止め、ゴミ袋の山に近づいた。よく見ると長い髪の毛が、袋と袋の間から出ていた。
輝夫は嫌な予感がしたが、これは絶対に無視できないことだと思った。網をはずして慎重に袋を崩していくと、直感通り、そこには美女が倒れていた。
「洋子・・・・・・」
輝夫の口から思わず漏れた娘の名前が、まだ頭の中で回っていた。あの頃に戻りたい。
(洋子。すまない。お父さんが全部悪いんだ)
輝夫はめまいの後、その場に倒れ、気を失った。

                              ★

白いワゴン車が交差点を左へ曲がった。吉田が運転して、助手席に未由が座っている。車内ではラジオ音楽が流れていた。未由は白いT シャツにデニム姿で風を受けていた。吉田の車が曇り空の下をしばらく走っていた。静かな通りを進み、街外れまで来ると、懐かしい建物が見えてきた。
芝生の駐車場に車を止めて、吉田と未由は車から降りた。吉田は大きな施設を眺めた。その時、施設の正面玄関が開き、スタイル抜群の女が出てきた。吉田は女の全身を目でなめた。
女とすれ違ったあとで、吉田は我慢できず、振り返って女のお尻を見ようとした。だが女も振り返って、吉田の顔をじっと見ていた。その時吉田の脇腹に激痛が走った。未由が脇腹をつねっていた。
未由に引っ張られ、吉田は施設の中へ入った。広い土間で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた吉田と未由は、誰も居ない窓口を覗いた。
「ここが萩くんの実家なの?」未由が聞いた。
「うん。実家のような所だよ」吉田は穏やかに言った。
「ふ~ん」
と言って、未由は落ち着きのある広間を眺めた。子供たちの声が廊下の奥から聞こえた。
壁に設置された防犯カメラが吉田の目に止まった。
(防犯カメラ? いつ設置したんだ?)
吉田は防犯カメラを直視した。
「萩くん、誰か来るよ」
未由が廊下の奥を指でさした。森山直子(もりやま・なおこ)が紅色のシャツとデニム姿でやってきた。直子は爽やかな美人であった。
「萩くん、久しぶり。元気だった?」
「はい。直子さんこそ、元気そうでなによりです」
「そちらの方は、萩くんの彼女さんですか?」
「え?」と言って微笑する未由、「はい、彼女です」
「いえ、友達です」吉田はすぐに言った。
「なに? 彼女だったら紹介してよ。ここでは隠しごとはなしだよ」
と、森山直子はニッコリとした笑顔で言った。
「はい。それは分かっています。分かっているからこそ、本当のことしか言いません」
と吉田。
「そう?」
と直子が言って、疑いの目で吉田を見てから未由に向かって、
「お名前は?」
「狩野未由です。よろしくお願いします」
「未由さん? わたしは森山直子。よろしくね」
吉田は防犯カメラを見て、
「防犯カメラ、付けたんですか?」
「ええ・・・・・・。丁度一年前かしら。園長先生の提案で、防犯カメラを取り付けてもらったわ」
「それは結構なことですね。ところで園長先生はどちらにいらっしゃるんですか?」
「園長先生は外出されたわ。あなたたちが来る十分くらい前に」
吉田は園長に会えなかったことを残念に思った。同時にさっきの女が気になり始めた。が、
あの女のことを直子に、しかも未由の前で質問する勇気はなかった。直子も未由も、嫉妬深い女であった。

                              ★ 

吉田輝夫は病院のベッドで座っていた。やわらかい光が個室の窓から差してくる。昨夜の出来事が夢であってほしいと輝夫は思った。病院の中に居る自分。自然と手を合わせる自分。洋子の居ない現実を嘆く自分・・・・・・。夢ではなかった。輝夫の体が震えた。確かに自分は気絶したのだ。
看護士の話では、救急車で運ばれた後、亜由美がすぐに病院へ駆けつけてくれたらしい。今日退院する予定だが、亜由美が見舞いに来ると言っていたので、その時までゆっくり待つことにした。
窓から見える雲を眺めていると、ドアをノックする音が聞こえた。どうぞと言うと、女の看護士が病室に入ってきた。
「吉田さん。警察の方がお見えですけど、面会されますか?」
警察・・・・・・。そうだ。輝夫はきのう、女子高生の仏を発見したのだ。自分の娘を見ているようで怖かった。そして悲しかった。
「通してください」輝夫は中年の看護士に向かって言った。
「はい、分かりました」
看護士は部屋を出た。少しの間の後で、男の警官が部屋に入ってきた。
「失礼します」
三十代くらいの大人しそうな警官であった。男は立ったまま質問を始めた。
「吉田輝夫さんですね?」
「はい」
「わたくし、黒峯康太(くろみね・こうた)と申します」
黒峯は無表情な顔で警察手帳を見せて、
「父は福岡県警の警視正をやっておりましてね。親子で大活躍をしております。ところで吉田さん。あなたゴミ置き場でなにをされてたんですか?」
と、黒峯康太が聞いた。吉田輝夫は溜め息を吐いてから、警官に向かって言った。
「知り合いと飲む約束をしていましたので、いきつけのバーへ向かっていました。その時、ゴミ置き場から甘い匂いがしまして」
「どんな匂いでしたか?」
黒峯が唾でも吐きそうな顔で聞いてきた。
「香水のような匂いでした」と輝夫が言った。
「それで?」
「ゴミ置き場から甘い匂いがしたので、変だと思って、ゴミ袋の山を崩しました。そしたら・・・
・・・」
「女子高生が倒れていた」黒峯は目を見開いて言った。
「はい」輝夫は小さな声で返事をした。
「あなたはその女子高生と、面識はありますか?」
「面識はありません」
「ほう」と言ってから、黒峯は腕を組んで、「おかしいですね」
「おかしいとはどういうことですか?」
「あなたは女子高生を発見した時、その場に倒れたそうですね?」
「ええ・・・・・・」
「それは何故ですか?」
「なぜと言われましても」
「言えない理由があるようですね。では替わりに言わせてもらいましょうか?」
「・・・・・・」
「あなたはかねてからその女子高生を狙っていた。そして乱暴しようとして逆に殴られ、その勢いで頭をぶつけて気絶した。どうです? わたしの洞察力、すごいでしょ?」
輝夫は気分が悪くなった。警察官は誠実で真っすぐな人間が多いが、黒峯康太という刑事はなんとも欠けた男である。輝夫はスイッチを押して、看護士を呼び出した。
「刑事さん。気分が悪いので、帰ってくれませんか?」
「ほう、逃げるんですか? 逃げたら負けですよ」
「逃げる?」
輝夫は耳を疑った。逃げる? なにから逃げているのか? 黒峯は軽い溜め息を吐いてから、余裕の表情で言った。
「女子高生を殺害したのはあんただろ?」
輝夫は鼻息を漏らしながら、黒峯を睨みつけた。
「あんた・・・・・・。本当に警察官なのか?」輝夫が聞いた。
「さっき、警察手帳お見せしましたよね?」
と言って、黒峯は鼻で笑うような表情を見せた。
「わたしが聞いているのはそんなことではない」
「はあ?」
「もういい。帰ってくれ」
黒峯は少し考えた後で、
「吉田さん。女子高生の殺害動機を聞かせて下さい」
輝夫は、平気な顔で人を犯人扱いにする黒峯から目を逸らし、これ以上話すことはないと言った表情で黙っていた。その時ドアが開き、中年の女性看護士が入ってきた。
「どうされました?」看護士が沈んだ輝夫の顔に向かって聞いた。
「気分が悪くて・・・・・・」輝夫が言った。
看護士が黒峯の方へ顔を向けて、
「おまわりさん。悪いけど、今日のところは引き上げてくれませんか」
「おまわりさん?」
と黒峯が言った。黒峯は階級をさげられ、少し不満顔になった。
「私、交番勤務はすでに卒業してありまして――」
「おまわりさん」
と、輝夫が遮って、
「あなたと居ると気分が悪くなる。どうぞお気をつけて、お帰りください」
黒峯がなにか言おうとしていたが、看護士に止まられ、病室を追い出された。
また静かな時間が流れた。輝夫は黒峯に犯人扱いされ、怒りが込み上げてきたが、やがて深い悲しみへと変わった。娘を助けられなかった。あの時、喧嘩さえしなければ、洋子が暴君に襲われることはなかっただろう。

                              ★

暗い道路を車が走っていた。麗しいクラシック音楽が車内に広がった。輝夫は娘の洋子と二人で、夜のドライブに出かけていた。街の灯りが減っていく時刻であった。輝夫は、洋子に彼氏が出来たという情報を耳にしていた。
「洋子。彼氏とはうまくいってるのか?」
「え?」と驚く洋子、「どうして知ってるの?」
「洋子の友達から聞いてんだよ」
と、輝夫が言った。輝夫は内心で怒っていた。
「そう・・・・・・」洋子はそれ以上なにも言わない。
「どんな男と付き合ってるんだ?」
「お父さんには関係ないでしょ」
「関係あるさ。可愛い娘に男が出来れば、どこの親だって心配するんだよ」
洋子は黙っていたが、自分の頭を掻いてから言った。
「わたしもう十七だよ。お父さんに心配される歳じゃないし」
「年の問題じゃない。父さんが良いと言うまで、交際は認めない。分かったな?」
洋子は車内から見える景色を睨みつけ、
「うん・・・・・・。分かった」
輝夫は満足そうな顔で運転を続けた。駅が見えてきた。まだ灯りが付いている。輝夫は人気の少ないロータリーを眺めた。
「お父さん」
「ん?」
「のど渇いちゃった。ジュース飲みたいな」
「ああ、いいよ」
輝夫は、駅の近くの路肩で車を止めて、外に出た。自販機を見つけ、ジュースを買った。車に戻るまで二分と掛からなかった。輝夫は助手席の窓に近づき、ジュースのペットボトルを洋子に見せようとした。――洋子が居ない。車の周辺を見回したが、娘の姿はどこにもなった。
やはりまだ納得していなかったのだ。輝夫は携帯電話を操作したが、繋がらなかった。そう
、いつものことである。喧嘩すると、洋子はいつも友達の家で一泊する。輝夫は娘の友達の
家に電話を掛けた。娘は居るか? と聞いてみたが、最近は彼氏が出来たという理由で、ほとんど家に来たことがないと言われた。
余計な情報であった。輝夫は一旦自宅へ戻って妻の侑子と話し合った。
「年頃なんだから、恋ぐらいするわよ」侑子が言った。
妻は娘の味方だった。侑子が携帯を操作して、洋子に電話を掛けた。いつもならすぐに繋がったが、今回は何度掛けても繋がらなかった。輝夫は心配になり、再び家を出ようとした。
その時、玄関が徐に開き、洋子が帰ってきた。衣服が乱れていた。
侑子は娘の状態をすぐに理解できたが、輝夫は何がなんだか、分からなかった。
「乱暴された」洋子は涙目で言った。
洋子はその日を境に、外出を控えるようになった。輝夫は一生かけて娘を守ると、心に誓った。

                              ★

亜由美は、歩きながら病院の自動ドアに映る自分を眺めた。我ながら美しいと思った。すれ違う男はほぼ全員、亜由美の全身を目でなめていた。
亜由美は病院の入口から中へ入って、独特な空気が流れる廊下を歩いた。女の看護士がすれ違うたびに挨拶をしてくれた。前方から不機嫌な男がやってきた。男は亜由美のスリーサイズを見て目をむき出した。すれ違うギリギリまで、亜由美は男の犯罪的な視線を感じていた。亜由美は男とすれ違ってから三秒後に立ち止まり、後ろを振り返った。
男も立ち止まってこっちを見ていた。充血した目が器用に動き、目で服を脱がされているような不快な思いであった。亜由美はさっさと歩き出した。後ろからしつこい虫がついてきそうで怖かった。
亜由美は、吉田輝夫様と書かれた病室の前で立ち止まり、ドアをノックした。
「どうぞ」
と、穏やかな輝夫の声が聞こえた。亜由美は病室へ入った。輝夫はベッドの中で漫画を読んでいた。輝夫は漫画本を閉じて、スーツ姿の亜由美を見つめた。
「キレイだな」輝夫が言った。
亜由美は嬉しい苦笑いで、
「やめてください。滅多に褒めないくせに」
亜由美はベッドの側の椅子に座って、輝夫の顔をじっと見た。
「大丈夫ですか?」亜由美が聞いた。
「ああ、なんとか生きてるよ」輝夫が言った。
亜由美は硬い表情で俯いた。輝夫は、なにか言いたそうな亜由美に向かって、
「どうかしたか?」
「・・・・・・下田亮助が、また事件を起こしました」
「そうか・・・・・・。逮捕は、されたのか?」
「はい」
亜由美はそれ以上口を開くことはなかった。輝夫が亜由美に向かって言った。
「亜由美は、彼氏とか居るのか?」
「彼氏? ・・・・・・彼氏は居ませんよ。ただ、気になる人は居ますけど」
「そうか。それは良かったな」
輝夫は昔の輝夫ではなかった。いまは思いやりのある紳士になっていた。あの頃は思いやりが過ぎたのかも知れない。輝夫はゆったりと思い出に浸っていた。
「吉田さん」
「ん?」輝夫は目が覚めたような顔で亜由美を見た。
「お店は営業されますか?」
「ああ、もちろん。迷惑を掛けて申し訳ない」
「いえ、大事に至らなくて良かったです」
「これからどうするんだ? 真っすぐ家に帰るのか?」
亜由美は立ち上がって、
「ちょっと寄り道をしようと思います」
「そうか。車で来たのか?」
「はい」
「気を付けてな」
「はい」
「油断するなよ」
「ありがとう、いつも心配してくれて・・・・・・。ではまた後で」
亜由美は頭を下げてから病室を出た。香水の匂いが鼻にきた。輝夫は亜由美を見送りながら、黒峯刑事のことを考えた。
『あんたが女子高生をやったんだろ?』 
そんな事実はどこにもない。でも洋子・・・・・・。洋子を殺したのは、父さんなんだね。悪かった。本当に悪かった。洋子が死ぬまで気づかなかった。父さんはあの頃、確かに身勝手だった。輝夫は崩れるように泣いた。泣き声が病室の外に漏れないように、必死で堪えた。

亜由美は病院を出て駐車場へ向かった。亜由美は赤いオープンカーに乗って走り出した。国道を走行して、信号が偶然青に変わったので、車を停止することなく走行が続いた。
交差点に差し掛かった時、亜由美は初めて赤信号で車を止めた。その時黒い車の運転手の顔が、ルームミラーに入ってきた。亜由美は目を見開いて驚いた。病院の廊下ですれ違ったイヤらしい男の顔が、ルームミラーに映っていた。
あとを付けて来たのだろうか? 信号が変わるまでの時間が長く感じた。信号が青に変わった瞬間、亜由美はアクセルを踏んで、ハンドルを左に切った。亜由美は真っすぐ道路を走った。
黒い車がオープンカーの後を付けてくる。亜由美は自分が勘違いしているのだと思い、路肩に車を止めた。だが勘違いではないことがすぐに分かった。通り過ぎるはずの車が左へ指示器をだして、亜由美の車の後ろで停止した。
黒い車の運転ドアが開き、大人しそうな男が出てきた。男はオープンカーに近づき、亜由美に警察手帳を見せた。
「すみません。ちょっといいですか?」黒峯が言った。
(この人、刑事だったの?)亜由美は内心驚いた。
「なんでしょう?」
「私、エリート刑事の黒峯康太と申します。あなたのお名前は?」
「塚元亜由美です」
「では塚元さん。二、三質問してもよろしいですか?」
「はい」
亜由美は緊張した。黒峯の視線が上下に動き、亜由美のプロポーションを楽しんでいた。
「ではまず」
と言って、ようやく亜由美と目を合わせた黒峯が、前のめりになって、
「あなたは吉田輝夫の知り合いですか?」
(この人は一体なにを調べているの?)
「ええ・・・・・・。吉田さんは、キャバレーのオーナーです。わたしもその店で、接客の仕事をやっております」
「そうですか。一度その店に行ってみたいものですな」
黒峯の目付きが変わった。イヤらしい男の目には慣れていたが、黒峯は明らかにケダモノだった。
「ところで塚元さん。吉田輝夫に殺人容疑が掛けられていることはご存じですか?」
「それは知りません」
(それはありえない)と、亜由美は心の中で思った。
「では、女子高生が殺害された事件はご存じですか?」
と、黒峯が聞いた。
「どこの事件ですか?」
「この辺りの地域で起きた事件です。吉田が第一発見者だと言われてますが、どうも怪しい。奴が事件に係わっていることは明白なんです」
亜由美は怪訝な顔で黒峯を見つめた。
「黒峯さん」
「はい?」
「その事件の犯人なら、捕まりましたよ」
「はあ?」
黒峯は少し考えてから亜由美に向かって、
「犯人は誰ですか?」
頓馬な質問に、亜由美は呆れて何も言えなかった。
「失礼します」
亜由美は車を走らせてから、ルームミラーを見た。黒峯の呆気に取られた顔が、いつまでも亜由美の車を見送っていた。

                              ★

春休みが終わった。体育館で始業式が行われた。全校生徒が桜井佳苗に向けて、黙祷を捧げた。佳苗のことが好きだった男子生徒は、絶対に犯人を許さないと言っていた。
狩野未由は廊下を歩いていた。悲哀に満ちた心の中で、未由はつぶやいた。
(もう佳苗は居ない・・・・・・)
美人で気が強く、時に優しい彼女の笑顔は二度と見ることができない。佳苗は下校時、いつも母親が学校まで迎えに来ていたが、その日は正門から出てくるはずの娘が、いつまでたっても出てこなかった。携帯電話も繋がらなかった。佳苗はこの時すでに行方不明になっていた。佳苗の母親は、葬儀の席で泣いていた。佳苗をあやめた男は、前科のある犯罪者だった。
未由は俯きながら考えた。佳苗は親に内緒で夜道を歩くような子ではない。一人で夜道を歩かなければ、ひどい目に合わずに済んだのだ。佳苗はどうして夜道を歩いたのか? 未由は誰も居ない廊下を歩いているつもりだった。未由はふと前を見て驚いた。
生田譲(いくた・ゆずる)が立っていた。生田は未由の顔をじっと見てから言った。
「大丈夫か? ちゃんと前見て歩けよ」
「すみません」
「・・・・・・桜井は優秀な生徒だった。わたしは犯人を絶対に許さない」
と、生田が言った。未由は生田の唇をぼんやり見つめて、
「先生。佳苗は親に黙って夜道を出歩くようなことはしません。なにか、大きな悩みを抱えていたのではないでしょうか?」
「わたしは彼女の担任ではないからね。その辺のことは、他の先生に聞いた方がいいよ」
「分かりました。では失礼します」
未由はカラ笑顔で歩き出した。下校時間になると、多数の親が学校まで女子生徒を迎えに来ていた。未由が正門を出ると、白い車がやってきた。
(萩くん。来てくれたのね)
未由は吉田の車に乗った。車がゆっくりと走り出した。未由は運転席に座る吉田の横顔をじっと眺めた。車外の風景よりも、吉田の顔の方が好きだった。楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
立派な一軒家の近くで吉田の車が止まった。
「付いたよ。未由」吉田が言った。
未由は目を閉じて眠っていた。吉田は未由の頭に優しく触れた。
「起きろよ。どうせ寝た振りしてるんだろ?」
未由は微笑して目を開けた。
「バレちゃった? ねえ、キスして」
「いきなりなにを言うんだ?」
「わたしたち、付き合ってるでしょ」
「付き合ってるわけないだろ。きみは数少ない親友の一人だよ」
「親友なの? そんなのつまらないよ。もっとドキドキさせてよ」
「ダメだ。きみの家の前で、変なことは出来ない」
「じゃあ、どこで変なことする?」
「・・・・・・早く降りなさい」
未由は頬を膨らせ、吉田の腕に絡みついた。
「おい、なにやってるんだ?」
「キスしてくれるまで放さないよ」
「勘弁してくれよ。ご両親が家から出てきたらどうするんだ?」
「その時はそのときよ。なるようになるわ」
「ならないよ・・・・・・」
未由は目を閉じてキスを待っていた。吉田は辺りを見回してから、未由の唇にキスをした。
短くもなく、長くもないキスであった。未由は満足した顔で、
「送ってくれて、ありがとう。またね、萩くん」
未由は車から降りて走り出した。若い女は体で幸福を表していた。未由は一軒家の中へ消えた。吉田は車を走らせた。久々にドライブへ行きたくなった。

                              ★

枡田吾郎(ますだ・ごろう)は廊下を歩いていた。制服の警官とすれ違いながら、枡田は警察署を後にした。下田亮助は片目に重傷を負っていたが、幸福に満ちた表情であった。オレはいつ死んでもいい。死刑になってもいい。下田はそんな言葉を吐いていた。
下田と面会した女が居る。いつ死んでもいいと、あの男に言わせるほどの女が、なぜ下田に会いに来たのか? 枡田吾郎は電車に揺られながら、思案した。夕闇の風景が眩しかった。目的の駅に着くと、約束の時間まで少し余裕があったので、枡田は駅を出て街を歩いた。
前方から森山直子がやってきた。枡田はドキッとなった。
「こんばんは」直子が言った。
「やあ、直子さん。散歩ですか?」
と、枡田は気まずい顔になって直子に聞いた。
「ええ。夕日がキレイだったので」
「そうか。くれぐれも用心ください」
「ありがとうございます。では失礼します」
直子は笑顔で礼を言ってから、歩き出した。枡田は姿勢の良い直子の背中を見送った。余計な詮索は一切しない。直子はスッキリした女である。今からどこへ行くのか。誰と何をするのか。細かいことは聞いてこなかった。聞かれては困るが・・・・・・。枡田は良い職員に恵まれ、幸せだった。
(直子さんが散歩?)
枡田の中でクエッションマークが浮かんだ。スポーツジムへ通うことが趣味だとは聞いていたが、夕暮れに魅せられ、街を歩く趣味があったとは知らなかった。だが今は、待ち合わせの場所へ向かう方が先決だった。
枡田は人気のない道に差し掛かった。一人で歩く女子高生とすれ違い、さらに真っすぐ進むと、遠方で二人連れの若い男が歩いていた。いずれも高校生だった。この辺りは通学路になっているらしい。
枡田は小さなステーキ店に入った。一階はカウンター席になっている。名前を言うと、女店員が二階へ案内してくれた。小柄で明るく、可愛い女であった。枡田は個室へ通された。三畳ほどの和室であった。壁に満月の絵が飾られてある。落ち着いた雰囲気の中に、ステーキを食べる亜由美の姿が見えた。
「ごゆっくり」女店員が明るい笑顔で言ってから、階段を下りて行った。
枡田は亜由美と目が合った。
「こんばんは。先にやっちゃってますよ」
と亜由美が言った。
「ああ・・・・・・」
枡田は胸が高鳴った。この歳で、こんな若い女と食事が出来るとは思わなかった。枡田は少しでも恋人気分を味わう為に、スローなテンポで亜由美と向かい合った。
「ステーキは美味しいか?」枡田が聞いた。
「ええ。美味しいですよ」
亜由美は上目遣いで枡田を見つめ、
「話ってなんですか?」
「・・・・・・亜由美さんは、吉田さんに、娘が居たことはご存じでしたか?」
「知ってますよ」
「では、吉田さんに孫が居ることは、ご存じかな?」
「え? お孫さん?」
「下田亮助の子供です。正式には、吉田洋子の息子だがね・・・・・・。誰も下田のことを父親だとは思わない」
「すると・・・・・・。吉田さんの娘さんは、被害に合われたあと、加害者の子を、出産されたんですか?」
「そうです。洋子さんは、子供を産んで間もなく、事故で亡くなられました。洋子さんの子供は、乳児院で育てられた後、わたしの施設へやってきました」
「息子さん。いまなにをされてるんですか?」
「いまは喫茶店で働いています。下田の血は一切受け継いでないから、安心して下さい」
と、枡田は強い口調で言った。亜由美は黙ってウーロン茶を飲んだ。
「少し前に、下田亮助と面会しました」
「・・・・・・亜由美さんが下田と? なんの為に?」
「それはもちろん」と言って、亜由美は枡田から目を逸らし、「いつもお世話になってる方の人生を、めちゃくちゃにした奴がどんな人間なのか、調べる為です」
(あの男は、おそらく死刑だ。亜由美さん。できれば面会などしてほしくはなかった)
と、枡田は心の中で思った。亜由美はクールな顔で話し出した。
「もしも下田が死刑なら、二度と会うことはありませんが、無期懲役なら出所する可能性があるので、せめて顔だけでも覚えておこうと思って」
「そうですね。なにが起こるか、分からないですからね」
亜由美はメニュー表を開いて、
「なにか注文します?」
美しい瞳が印象的であった。彼氏はいるのか? ボーイフレンドはいるのか? 色々聞きたかったが、セクハラにあたると思い、やめた。
枡田は緊張を逸らすために、他のことを考えた。人はなぜ犯罪を犯すのか。枡田は親の愛に育てられ、枡田も親からもらった愛で施設の子供たちを育ててきた。愛がないだけで、人は道を踏み外すのか?
「愛とはなにか?」
と、枡田は亜由美に聞いてみた。
「え? どうしました?」亜由美は笑顔で逆に聞いた。
「すまない。日本酒を頼んでくれ」
さすがに恥ずかしかった。愛とはなにか。なぜそんな質問をしたのか? そうだ。萩に質問されたのだ。愛とはなんですか・・・・・・? と。その時はなにも言えなかった。そして今も、簡単に答えることはできない。
可愛い店員が注文を聞きに来た。亜由美は日本酒を頼んでくれた。不意に枡田の心臓が鳴った。一部の職員しか知らない秘密を、会って数日の女に話してもいいのか。いや心配はいらない。亜由美の口は堅い。なによりも枡田は、亜由美と仲良くなりたかった。
枡田が俯いていると、亜由美が声を掛けてきた。
「枡田さん」
「はい?」
「どこのお店ですか?」
「え?」
「吉田さんのお孫さんが働いてるお店。どこにあるんですか?」
枡田はドキっとなった。実の息子のように育ててきた萩の存在が、外に漏れようとしている。

                              ★ 

夕日が窓から差し込み、店内を照らす。狩野未由はカウンター席で紅茶を飲んでいた。田中泰蔵(たなか・たいぞう)がカウンターの中で食器を洗っていた。吉田が雇ったバイトの店員らしいが、未由は吉田以外の男と会話をする気はなかった。
食器を洗う速度が遅い。田中とよく目が合う。未由は違和感を覚えたが、吉田が店に居ないという違和感の方が強かった。買い出しに出ているらしいが、未由が紅茶を頼んでからすでに三十分が過ぎていた。壁に張り付いた時計を見ながら、未由はもう一人の男を待っていた。生田謙である。

生田は事件のあった日の下校時間に、佳苗を車に乗せて学校を出ていた。複数の男子生徒が目撃していた。だが、学校の教師は、誰一人として生田の行為を知らされていなかった。もし佳苗を家まで送る為に車に乗せたのであれば、同じ教師や佳苗の両親に報告や連絡をするのが常識である。それが一切なされていないのはおかしい。
待ち合わせの時間は過ぎていた。生田は高校教師である。仕事が予定通りに終わるとは限らない。未由は紅茶を飲み干し、溜め息を吐いた。コーヒーの香りがする。
未由は隣りに座る人物を見てギョッとなった。田中がコーヒーを飲んでいた。田中は微笑してから、未由の顔をじっくり見つめ、
「店長遅いね」
未由はしばらく動けなかった。
「ぼくもさあ、早くこの店を任されるようになりたいな」
未由は震えた。まるでひとり言のような言い方である。なにかに集中している時が一番危ない。吉田に注意されたことを未由は思い出した。その時、出入口のドアが開いた。吉田が戻ってきたと思ったが、店に入ってきたのは生田であった。
「狩野。遅れてすまない。家まで送るよ。話は車の中でもできるだろ?」
生田は穏やかな顔で言った。未由は会計を済ませてから、生田の後に付いていった。いまは田中の方が薄気味悪かった。
未由は生田の車で走り出した。夕闇が深い闇へと変わっていく。車内は静かだった。後部席に座る未由が、さっそく質問を投げた。
「先生。どうして佳苗を車に乗せたんですか?」
「え? ああ・・・・・・。見ていたのか?」
「佳苗を車に乗せる所を見たって言う人がいましたよ」
「いまだから言うけど、彼女は人をからかうところがあってね。だから、ドライブがてら、説教をしていたんだ」
「どうして佳苗の両親や同僚の先生に言わなかったんですか? みんな生田先生が佳苗とドライブに行ったこと、知りませんでしたよ」
生田はすぐに返事を返さず、間を置いて、
「突然思いついたんだ。ドライブに出かけた方が、彼女も素直になると思ってね」
「じゃあ、どうして佳苗を車から降ろしたんですか? 夜道をひとりで歩けば、いつ襲われてもおかしくないことぐらい、先生も分かるでしょ?」
「分かるけど・・・・・・。そろそろ目的地に着くよ」
「はあ? 目的地って・・・・・・?」
未由は車窓の外を見て、薄青ざめた。家々の灯りが遠方で光っていた。この辺りは昼間でも人通りが少ない。暗い道の路肩で生田の車が止まった。後部席の未由は、体を硬直させて、生田の後頭部を見つめた。
これからなにが起こるのか、想像するのは簡単だった。未由は黙って運転席から降りる生田を凝視した。生田は後部ドアを開き、未由に向かって言った。
「少し休憩しないか?」
「え?」
生田は戸惑う未由を見て、
「先生も疲れるよ。桜井のような優秀生徒を亡くして・・・・・・。少し夜風に当たってくるけど、君はどうする?」
「あの、家に帰りたいんですけど」
生田は少し笑って、
「ごめんな。先生も気が動転してさ、道間違えたかも知れない。でもカワナビがあるから、安心してくれ。少しタバコを吸ってもいいか?」
「はい。どうぞ」
生田は後部ドアを閉めて、車から離れて行った。未由はほんの少し、警戒心が和らいだ。危ない教師だと思っていたが、生田は動揺していただけだった。未由と同じで、佳苗の居ない現実が、理解できないのだ。
佳苗は誰からも好かれる女であった。けして人をからかうような女ではない。負けず嫌いで、強気な発言をすることもあったが、陰口や悪口を言うことはなかった。
未由の携帯電話が鳴った。トランクを開ける音がする。未由は車外のことより車内の携帯が気になり、画面を見つめた。母からメールが入っていた。もう遅いから帰ってきなさいという内容だった。
未由がメールを返信しようとしたその時、風がなびくような音が聞こえた。フロントガラスの上部から、黒いシートが下りてきた。未由は、なにが起ころうとしているのか、理解できなかった。
すべての車窓が大きなシートで覆い被せられた時、未由は恐怖と共に、いまから起こることが理解できた。
車内が真っ暗になった。すぐに後部ドアが開き、ハイエナのような勢いで生田が入ってきた。
「キャー!」
未由は後部シートに倒された。生田は車内の灯りを付けてから未由を見下ろした。
「いただきます」生田が言った。
車内でなにがあっても、車の外からは見えない。佳苗が夜道を歩いていた訳が分かった。佳苗は先生に襲われたのだ。そのショックで、佳苗は人気のない夜道を歩き、命を落とした。
生田は未由の携帯を取り上げ、運転席の方へ投げた。未由は恐怖の中で吉田のことを考えた。
(萩くんなら、きっと愛してくれる。どんなことがあっても、わたしを愛してくれる)
未由は心の中で泣いた。生田の手が未由の下半身に迫ってきた。もう終わりだと思った瞬間、後部ドアが開いた。
「アッ!」という、生田の大きな声が短く聞こえ、車内が急に静かになった。後部ドアが開いたままである。未由は起き上がり、うつ伏せで倒れている生田を眺めた。生田は死んだように動かなかった。

                              ★

喫茶店の屋根裏部屋で、吉田萩が立っていた。窓から見慣れた景色を見下ろしながら、携帯を操作して未由に電話を掛けた。
「もしもし、オレだけど。大丈夫か?」吉田が聞いた。
「うん・・・・・・」
未由は小さな声で言って、
「ねえ、萩くん」
「ん?」
「わたしのこと好き?」
「好きだよ。友達として・・・・・・」
未由の笑い声が聞こえた。
「いま精神的に参ってるんですけど」
「ああ、そうだったな。ごめん・・・・・・」
「いま仕事中?」
「うん。もうすぐ営業時間だから、切るぞ?」
「冷たいなァ。もっと優しくしてよ」
「そうだな。あした店が休みだから。学校終わったら電話くれよ。車で迎えに行くから」
「・・・・・・」
「未由?」
「分かった。学校終わったら電話するね。心配かけて、ごめんなさい」
「うん。じゃあ、また明日」
「またね、萩くん」
電話が切れた。吉田は階段を下りて店を出た。準備中と書かれた木の板を裏返し、営業が始まった。吉田はふと、養護施設ですれ違った女のことを思い出した。あれだけのプロポーションは稀であった。
良い女を見れば、振り返るのが男のクセだ。吉田もまた、滅多に見られない美人とすれ違い、振り返ってしまった。ここまでは普遍的であった。だが、あの時、あの女も振り返って吉田を見ていた。
意外な風が吹いた。風はいまも心の中で留まっている。チャンスがあればもう一度、会ってみたかった。養護施設から出てきたということは、新しく入った職員だろうか? 吉田は色々想像しながら、一発で覚えられる女の輪郭を、頭の中でなぞっていた。
遠方へ視線を移すと、スタイルの良い女がこちらへ向かって来ていた。薄い紫色のサングラスが光って見えた。吉田は女の容姿から目が放せなくなった。気づけばクールな女の声が、吉田の耳に入ってきた。
「はじめまして。私、塚元亜由美と申します」亜由美は上機嫌な顔で言った。
「あ、はあ・・・・・・。はじめまして。吉田萩と申します」
吉田は緊張した。いまさっき会いたいと思っていた女が、目の前にいる。吉田は喜びを通り越して、変なプレッシャーを感じた。
「お店、やってますか?」亜由美が聞いた。
「はい、どうぞ」
吉田は、亜由美を店内へ案内した。亜由美はブラックコーヒーを注文した。美しいふと腿のラインを動かしながら、カウンター席に座る姿が眩しかった。吉田がコーヒーを作る間、亜由美はずっと黙っていた。
口が渇く時間が流れた。コーヒーの香りでさえ、いまはスパイシーであった。塚元亜由美・・・・・・。いい名前だ。しかし、どうして自己紹介をしたのか? 素直な疑問が浮かびあがってきた。色んなお客さんがいる。吉田はそう解釈するしかなかった。吉田はブラックコーヒーをカップに注ぎ、亜由美の前に置いた。
「お待たせしました」吉田が言った。
亜由美は上目遣いで吉田を見つめ、ふとコーヒーの色を眺めて、
「吉田さん。睡眠薬とか入れてませんよね?」
「いえ、とんでもないです」吉田は慌てて言った。
「ならいいけど・・・・・・。いただきます」
亜由美はカップに口を付け、陶器を眺めながら、
「吉田さん。携帯の番号、教えてもらえます?」
「え?」
「わたし、あなたと友達になりたいな。ダメ?」
「いえ。こちらこそ、よろしくお願いします」
吉田と亜由美は番号を交換した。しばらく沈黙が流れた。
「ねえ、吉田さん」
「はい?」
「あなた、養護施設で育ったの?」
「はい。よくご存じで」
吉田は気持ちよかった。理由は分からないが、良い女が自分のことを調べている。吉田はそれだけで幸せだった。
「枡田さんから聞いたのよ。あなたのこと」亜由美が言った。
(園長先生が? 枡田さんとはどういう関係なんですか?)
と、吉田は口に出して質問したかったが、寸前で止めた。亜由美は施設の関係者だろうか? 枡田は口が堅い。滅多なことがない限り、施設内部のことを、外へ漏らすことはない。
亜由美が吉田を覗き込むような顔で、
「吉田さん?」
「はい」吉田は驚いた顔で返事をした。
「なにを考えてるんですか?」
「いえ、なにも」
「もしかして、わたしの体を狙ってるとか?」
亜由美は少し笑いながら、コーヒーを飲んだ。
「とんでもない。ぼくはそこまで、狼ではありません」
「え?」
と言ってから、亜由美は声を出して笑った。彼女が笑うだけで、吉田は快感だった。このまま二人だけで会話を楽しみたかったが、夢の楽園はドアが開く音と共に崩れ去った。田中が店内に入ってきた。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
と、田中は吉田に挨拶したが、視線はすでに亜由美の方へ流れていた。大きな目をギョロっと動かし、亜由美の顔や体を見ていた。
亜由美はコーヒーを飲み干し、スマートフォンでニュースを見ていた。田中はカウンターの中へ入り、手を洗った。田中は手を洗いながら、チラチラと亜由美を見ていた。亜由美は無表情でスマホに集中していた。
吉田は、田中のイヤらしい表情が気になった。男だから仕方ない。そう思ったが、吉田は嫌な予感を抑えることが出来なかった。

                              ★

黒峯康太はタクシーの中で、窓に映る景色を眺めていた。今日は父、信夫(のぶお)と会食する予定だった。後部席で目を閉じ、黒峯は亜由美のことを考えた。
(あの女、恥を掻かせやがって!)
と心の中で言いながら、やわらかいものが硬くなっていった。スタイルが抜群なだけに、冷たくされると、逆に興奮する。黒峯は亜由美の心、以外に惚れていた。どうにかしてあの女を手に入れたかった。黒峯はひとり、こせこせと考えていた。
タクシーが田舎道に差し掛かった。黒峯にとっては、田舎の風景よりも女の風景の方が心地良かった。
(そうだ!)
と、黒峯は悪魔のような計画を思いついた。もちろん信夫には言えない。信夫には後始末をしてもらうだけである。黒峯が事件を起こし、逮捕されたとしても、親の力ですぐに釈放される。いままで十一人の女と関係を持ち、審判に掛けられたこともあったが、刑務所で生活したことはない。
十二人目の獲物は、黒峯がいままで出会った女の中で、一、二を争うほどのいい女であった。黒峯は確実に亜由美を捕えたかった。
タクシーが一軒の鰻屋の前で止まった。古い木造の二階建てであった。店内へ入ると、着物姿の老婆が迎えてくれた。黒峯は老婆に案内されて、個室へ通された。すでに信夫が来ていた。
黒峯親子は曖昧な挨拶をかわしてから、うな重を頼んだ。老婆は深い笑みを浮かべながら、部屋を後にした。
「康太。久しぶりだな。最近どうだ?」
去年と同じ質問が飛んできた。年に一度の会食であったが、ほとんど形式的な行事に過ぎない。黒峯は信夫と向かい合って座った。
「いつもと変わりないよ。父さんこそ、最近どうなの?」
「わたしは、お前が真面目に職務に励むことが一番嬉しいよ」
あのことを言っているのか。父は直接息子の犯罪を正したことがない。何度か厳しいことを言われたが、性欲を抑えることはできなかった。二十分後、うな重が運ばれてきた。誰が嗅いでも上手そうな匂いである。
黒峯は急いで食事を済ませ、店を出た。父親との会話が楽しいと思ったことは一度もない。黒峯はタクシーでマンションへ戻ってから、自家用車に乗り込み、車を走らせた。
高速道路を利用して目的地まで向かった。高級住宅街の一角に、三階建ての家が建っていた。黒峯はその家の前で車を止めた。玄関のインターホンを鳴らすと、亜由美の明るい声が聞こえた。
「どなた?」
「警察です」
と、黒峯は低い声で言った。
「警察?」亜由美が言った。
黒峯はあえて、それ以上なにも言わなかった。少しの間を置いて、亜由美が玄関を開けた。
ショッキングピンクのノースリーブと、黒のレギンスパンツが眩しかった。
「あなた・・・・・・」亜由美は驚いた顔で言った。
黒峯はじっと亜由美を見つめ、
「塚元亜由美さん。あなたを公務執行妨害で逮捕します」
「はあ?」
「署までご同行下さい」
亜由美は少し考えていたが、着替えてくると言って家の中へ引っ込んだ。亜由美は全身から警戒心を放っていた。が、こちらの黒い計画まで見通すことはできない。黒峯は、自分を無視して、職務質問を逃れた亜由美を許すことができなかった。なんとか亜由美を計画の糸に絡ませ、情事を超えた情事を楽しみたかった。
黒峯は腕時計を見ながら、上玉が来るのを待っていた。十分が過ぎ、二十分が過ぎた。また無視されたのかと、焦り始めたその時、ドアが開いた。
「お待たせしました」
亜由美が出てきた。レギンスパンツはそのままで、上に着る服が黒のT シャツになっていた。どんなファッションでも、美貌に変わりはなかった。亜由美を乗せた車が走り出した。黒峯は運転しながら、チラチラとルームミラーを眺めた。
亜由美は後部席で腕を組み、落ち着いた表情で座っていた。女のバストが大きく見える。
(この女は外に出る時だけ、胸が大きく見える下着を付けるのか?)
黒峯は赤信号で急ブレーキを掛けた。下手な妄想をしていると事故に合う。黒峯は前だけを見て、運転を続けた。
高速道路を走る途中で携帯電話が鳴った。黒峯は助手席に置かれた携帯をチラッと見てから、待避所で車を止めた。亜由美は平然とした表情で遠くの景色を眺めている。訪問した時の警戒心は、どこへいったのか。
黒峯は携帯を操作して、アラームを消した。
「はい、黒峯です」と言って、耳に携帯をあてながら、「え? 事件ですか? 場所は?」
黒峯はルームミラーを見ながら一人で話を続けた。
「分かりました。すぐ現場へ向かいます」
黒峯が電話を切った。亜由美は初めて興味深い顔で言った。
「事件ですか?」
「ええ。申し訳ありませんが、現場が近いので、少しお付き合い願えますか?」
「仕事が十七時からスタートするので、それまでに済ませてもらえるなら、構いませんよ」
「もちろん。業務に支障をきたすことはないので、ご安心下さい」
「それならいいですよ」
亜由美は知的な笑みを浮かべた。どの角度から見ても、自分の性欲を満たしてくれる女は美しい。黒峯は車を走らせ、高速道路を出た。県道を走り、さらに細い道へ入った。左手に鬱蒼と草木が生えていた。
(たしかこの辺に、車二、三台が駐車できるスペースがあったような)
黒峯が目を凝らしていると、左端に微かな轍を見つけた。
(ここでいい。ここでゆっくり食するとしよう)
黒峯は生唾を飲んだ。ハンドルを切って左へ曲がった瞬間、黒峯の顔から笑みが消えた。
目前に警察車両が二台、止まっていた。動き回る鑑識員が多数、目に入った。黒峯は現場をま違えた振りをして、車をバックさせようとしたが、若い男の巡査の大きな声が聞こえ、心も体も萎えてしまった。
「黒峯警部補!」
黒峯は運転窓を下げて、近づいてくる巡査に挨拶した。
「やあ」
「お疲れ様です。少し狭いですが、あの車両の隣りに止めて下さい」
若い巡査がパトカーの隣りを指でさした。
(こんな所に用はないんだよ。無能な新人め!)
「ああ、分かった」
黒峯は眉間にシワを寄せ、バックで狭い駐車スペースに車を止めた。エンジンを切ってから黒峯は考えた。
(どうしよう。このままでは上玉を逃してしまう)
と、黒峯は心の中で叫んだ。やはり現場をま違えたことにして、この場を走り去ろうか。
「黒峯さん」
と言われ、黒峯はハッとなった。亜由美の声ではなかった。黒峯のことを警部補と呼ばない人物が、署内に二人いる。一人は父、信夫で、もう一人は車外から怪訝な視線を送る森洋子(もり・ようこ)という婦警であった。
「ここでなにしてるの?」
と、中年の婦警が目を細めて聞いた。
「なにって、仕事ですけど・・・・・・」
「ふ~ん。そこに居る女性はどなた?」
と、はじめから気になっていた様な顔で、森婦警が聞いた。
「こちらの女性は、職務質問を無視されたので、少し注意をしていたところです」
「そう? でも殺人現場に連れてこなくてもいいんじゃない?」
「そうですね・・・・・・」
後部席の亜由美が鼻で笑った。
「婦警さん。そろそろ家に帰りたいんですけど」亜由美が言った。
「ぬっ」という声が、黒峯の口から思わず漏れた。
「あら、ごめんなさい。いまからタクシー呼ぶから、それで帰ってちょうだい」
と、森婦警が言った。
「分かりました」亜由美が笑顔で言った。
森婦警は、携帯でタクシーを呼んだ。しばらくすると、タクシーがやってきた。黒峯は呆然とした顔で鑑識員の風景を眺めていた。森婦警が黒峯に向かって言った。
「あんたいつまでここに居るの? さっさと現場へ行きなさいよ」
黒峯は一瞬、父の名前を出して、森を脅かしてやろうと思ったが、亜由美の前で恥を掻きたくなかった。黒峯は運転ドアを開き、外へ出た。
「黒峯さん。お金出して」森婦警が言った。
「え?」
「えじゃないわよ。善良な市民を連れまわしたんでしょ? 迷惑料とタクシー代、いますぐ払いなさい」
「ちょっと待ってくれ。ぼくは法律にのっとって――」
「お黙り! いいから金だしな」
森婦警は黒峯を睨みつけた。
(なにさまのつもりだよ。この野朗!)
と、黒峯は口に出して言いたかったが、無理だった。言い返す力が残っていなかった。黒峯は仕方なく、財布の中から一万円札を取り出して、森婦警に手渡した。
「はい、どうも。じゃあ今日も真面目に頑張ってね」
黒峯は黙って歩き出した。後部ドアが開く音が聞こえた。亜由美の足音がタクシーへ向かった。黒峯は振り返ることができなかった。亜由美に笑われているようで怖かった。だが、まだ諦めるわけにはいかなかった。
男は、性欲を満たす為なら、どんな苦しみでも耐えられる。なぜなら、その先にある快楽を知っているからだ。黒峯は黒い計画を練り直すことにした。

                               ★

朝から携帯電話が鳴った。吉田は屋根裏部屋で目が覚めた。寝ぼけた目で携帯画面を見ると、亜由美の名前が出ていた。吉田は飛び起きて携帯を操作した。
「はい。吉田です」
「吉田さん? いま大丈夫?」
「はい、いま起きたところです」
吉田は正直に答えて、
「あの、亜由美さんから電話してもらえるとは思っていなかったので、驚きました」
亜由美は微笑して、
「なんのために番号交換したの? あなたに興味があるから、番号交換したのよ」
吉田は朝から興奮する自分に気づいた。どんな言葉を返せばいいのか、分からなかった。
「あ、そうだ。ちょっと聞いてくれる?」亜由美が言った。
「はい。なんなりと」吉田が言った。
「なんなりと? ハハハ・・・・・・。あなたは、わたしの召使いじゃないのよ」
「すみません」
「吉田さんって、案外おもしろいのね」
吉田は全身が気持ちよくなった。亜由美は、いままで出会った女の中で一番だった。顔もスタイルも声も笑顔も、最高だった。
「いえ、おもしろいと言えば、亜由美さんの方がおもしろいですよ」
「え~、そうかなァ」
「おもしろいと言うか、亜由美さんはとてもキレイです・・・・・・」
亜由美は黙っていた。吉田は緊張して手が震えそうになった。余計なことは言わない方がいいと、反省した。
「やっぱり違うね。全然違う・・・・・・」亜由美が言った。
「なにが違うんですか?」吉田が聞いた。            
「それは内緒。それより、今度わたしの店に来てくれない?」
「はい、行きます。どんなお店ですか?」
「キャバレーみたいな所よ。吉田さんが来てくれるなら、色んなサービスするよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、また電話するね」
「はい」
電話が切れた。吉田はしっかりした足取りで階段を下りた。浴室でシャワーを浴びてから、着替えを済ませた。吉田は屋根裏部屋に戻って、窓から外の景色を見下ろした。
亜由美のことを想像するだけで、元気になりそうだった。携帯電話が鳴った。吉田はドキッとして携帯を操作すると、未由の明るい声が聞こえた。
「おはよう、萩くん。もうすぐそっちへ行くから、待っててね」
電話が切れた。え? っという暇さえなかった。未由は学校を休んだのだろうか? 車が走る音が聞こえる。窓の外を眺めると、一台のパトカーがやってきて、店の前で止まった。パトカーの中から二人の女が出てきた。ひとりは未由だったが、もう一人は中年の婦警だった。
(なにかあったのか?)
吉田は不安を抱えながら、裏口の玄関を開けた。その時、未由が吉田に抱きついてきた。
「萩くん!」
「未由・・・・・・。なにかあったのか?」
「あのね」
と言いかけた時、未由の背後から婦警が顔を出した。
「私、福岡県警の者です。驚かせてすみません」
森婦警は警察手帳を吉田に見せた。
「そちらのお嬢さんの身の安全を考えてまして、ここまでお送りしました。あとのことは、よろしくお願いします」
未由は超ミニスカートを翻し、森婦警に向かって頭を下げた。
「ありがとうございました」
森婦警は優しい笑みを浮かべて、
「今後とも気を付けるのよ。では失礼致します」
森婦警は会釈してからその場を去った。吉田は玄関を閉めて、未由の顔をじっと見た。
「学校、休んだのか?」
「うん、休んだよ」
未由は平気な顔で言った。
「学校に行くと見せかけて、萩くんの家に来ちゃいました」
「来ちゃいましたじゃないだろ。学校には連絡したのか?」
「当たり前でしょ。早くドライブ連れてって」
吉田は仕方なく車を走らせた。朝からドライブへ行くのは初めてだった。街の道路を走りながら、静かなクラシック音楽を掛けた。やがて音楽と風景が混ざり合い、車内の雰囲気を高めていった。
未由の希望に答え、未由が襲われた現場まで車を走らせることになった。テンポの速い曲が、風にのって吉田と未由の心に響いた。人通りも車の通りも少ない道に差し掛かった。吉田は、現場近くの路肩で車を止めた。
この周辺は殆ど家が建っていなかった。遠方の街並みが薄く見えた。未由は少し伸びをしてから、口を開いた。
「あの時は怖かったけど、いまは全然怖くないよ」
「そうか?」
「うん・・・・・・。萩くんと一緒に居ると、安心する」
「生田先生が、未由を襲ったんだろ?」
「うん。教頭先生が驚いてた。まさか犯罪を犯すとは思わなかったって」
「そっか。人は見た目で判断できないからな」
「・・・・・・萩くん」
「ん?」
「わたしね、決めたの」
「なにを?」
「これからは萩くん以外の男性と、二人っきりにならないことにしたよ」
「オレ以外の男性と?」
「そう。萩くんだったら、絶対にヒドイことしないし、仮に萩くんに襲われたとしても、望んだ相手だから、全然嫌じゃないよ」
「お前、なに言ってるんだ?」
未由が上目遣いで笑顔を見せて、
「あ、いまエッチなこと考えたでしょ?」
「・・・・・・朝から変態になれる男はいないよ」
「え~、そうなの? それはそれでヒドイよ萩くん」
(なんの話をしているんだ?)
と思いながら、硬くなっていく自分の息子が気になった。吉田はなんとか話を変えたかった。
「それよりさ。なんでパトカー乗ってたんだ?」吉田が聞いた。
「ああ、そのこと? わたしは大丈夫だって言ったんだけど、婦警さんがね。危ないから目的地までお送りしますよって、言ってくれて、それで、パトカーに乗せてもらったの」
「危ないって、なにが危ないんだ?」
「さあ。なんだろう? ただ、帽子とマスクで顔を隠した男に、後を付けられているような気がしたけど」
「それは危ないだろ」
「でも、その人が悪い人かどうか、よく分からないでしょ?」
「バカ。勘違いでもいいから逃げるんだよ。さっきの婦警さんは多分、男の変な殺気に気づいて、未由をパトカーに乗せたんだ」
「そうなの?」
「そうだよ、きっと。無事で良かったな」
未由が吉田の手を握って、
「心配してくれて、ありがとう」
吉田は微笑してから空を見上げ、未由に向かって言った。
「ところでさ。未由を助けた人って、誰なんだ?」
「さあ・・・・・・。誰が助けてくれたのか、よく分からないわ。生田先生が短い叫び声を上げたってことぐらいしか、覚えてないの」
「短い叫び声? 死因はなんだったんだ?」
「刑事さんの話では、ショック死だったそうよ。警察も詳しいことは教えてくれなかったわ。多分、スタンガンのようなもので電気ショックを与えられたんだと思うけど」
「なんで、スタンガンだと分かるんだ?」  
「だって、それしか思いつかなかったから。だいたい犯人が使うものって言ったら、ナイフかスタンガンでしょ?」
「うん。そうだよな」
スタンガンは、護身用としても使われることがあるが、人を死に追いやるほどの威力を持ったスタンガンは、合法的とは言えない。が、女性が所持する場合、見せ掛けだけのスタンガンを持っていても意味がない。
未由を助けた人物は、一体誰なのか。吉田はその人物に会ってお礼が言いたかった。
「萩くん。お腹すいた。ランチおごってよ」
と、未由が言った。吉田は車を走らせ、来た道を戻った。

                             ★

養護施設の地下には実験室があった。将来のため、多くの子供が地下の部屋で技術を学んでいた。枡田吾郎はエンジニアでもあった。子供たちからゴロさんと呼ばれ、好かれていた。
枡田は今夜、亜由美の店で会食する予定だった。しかし、誘いを受けたのは、枡田だけではなかった。吉田萩・森山直子・狩野未由・そして、なぜか黒峯康太という刑事も呼ばれていた。亜由美と刑事は知り合いなのか? 枡田は子供たちの風景を見ながら思案した。

夕闇が迫る頃、枡田は自家用車に直子を乗せて、車を走らせた。初夏の風が車内を循環していく。遠方に見える薄紫の空が美しかった。亜由美は吉田に興味を持っていた。住所まで聞いてきた。亜由美は吉田に会って、どんな話をしたのか。枡田は密かに気になっていた。

枡田の車がキャバレーの店に辿り着いた。店内に入ると、多数の男性客で賑わっていた。女店員が、枡田と直子を店の奥へと案内してくれた。二人は個室へ通された。
吉田・未由・黒峯が、すでに焼肉を食べていた。肉を焼いていた亜由美が、枡田と直子に向かって言った。
「いらっしゃい。遅かったわね」
「遅れてすみません」直子が言った。
(この前会った人だ。またひとり、ヤキモチ焼く相手が増えちゃった)
と、未由は思った。
(なかなか、いい女じゃないか。だが今夜の獲物は、まぎれもなく亜由美だ。今夜こそ亜由美をモノにしてみせる)
と、黒峯は直子を見ながら思った。
(この刑事は誰だ?)
直子と枡田は同じことを考えていた。聞けば、亜由美の知り合いだと言う。見た目で判断してはいけないが、この黒峯という男は、あまり良い雰囲気ではなかった。
枡田と直子が空いている席に腰を下ろした。
「みんなお酒は飲まないのか?」枡田が聞いた。
「ぼくは車で来たので、飲めません」吉田が言った。
酒を飲めるのは亜由美・直子・黒峯の三人だけである。だらしなく酒を飲んでいたのは黒峯だけだった。女店員が生の肉を持ってきてくれた。
「ねえ、枡田さん。生まれ変わるなら、どんな動物になりたいですか?」
と、亜由美が聞いた。
「動物?」と枡田。
「皆さん、答えてくれましたよ」と亜由美。
「そうだなァ。生まれ変わったら・・・・・・。ラクダかな」と枡田。
「どうしてラクダなんですか?」
と、亜由美が聞いた。
「あの広大な砂漠を、平然とした顔で歩く姿が、なんともいえなくてね。素晴らしい動物だと思うよ」
亜由美は枡田に穏やかな笑顔を見せた。
「直子さんはどんな動物ですか?」枡田が聞いた。
「わたしは・・・・・・。コウモリかな」直子が言った。
「その心は?」吉田が興味深い表情で聞いた。
(萩くん、浮気しないで。わたしだけを見て)と、未由は思った。
「その心は・・・・・・」直子は元気なく俯いた。
(悩んでる顔もキレイだ。亜由美・直子・未由の順番で、所望するとしよう)と黒峯。
黒峯は、よからぬこと以外考えたことがなかった。
(この人、さっきから、わたしたちのことをイヤらしい目で見てるけど、本当に刑事なの?)
と、未由が思った。未由は黒峯の嫌なエロスに気づいていた。亜由美が直子に向かって言った。
「超音波を使って、獲物を捕らえるところとか、格好いいですよね」
直子は微笑して、
「そうね。コウモリみたいな力が欲しいわ」
「皆さんは、どんな動物ですか?」枡田が皆を見回しながら言った。
「ぼくはチーターです。チーターのように、速く走りたいから」            
と、吉田が言った。
「わたしは野ウサギ。わたしに似てるでしょ?」
と、未由。亜由美が微笑して、
「確かに。可愛いところがそっくりね」
未由は照れ笑いを見せた。
「ぼくは狼です。あの強そうなところが自分に似てるんですよ」
と言って、黒峯が笑った。
(黒峯さん。あなたはもう二度と、人間に生まれ変わることはない)
と、誰かが思った。
場の空気が少し乱れた。黒峯の発言に反応する者は居なかった。
「亜由美さんは?」直子が聞いた。
「わたし? わたしは、動物じゃないけど・・・・・・」
「なんですか?」と、枡田。
「ハナカマキリです」と、亜由美。
「ハナカマキリ?」
と、直子が首をかしげた。
「花の姿をした、カマキリです」亜由美が言った。
枡田は苦笑して、
「花には見えるけど、カマキリには見えないな」
「ぼくも同感です」吉田が言った。
亜由美は満面の笑みを見せた。
(素敵な笑顔だ)吉田と枡田は同じことを考えた。
(萩くん。亜由美さんのことが好きなの?)未由が思った。
(萩くん。あなたは犯罪者の子供ではないわ。これから何があっても、わたしはあなたの味方よ)
と、直子が思った。
会食を終え、店を出ると、辺りは真っ暗だった。未由は吉田が、直子は枡田が車で送ることになっていた。黒峯は、直子と未由を目でなめ回してから、暗い道を歩いて行った。場違いな背中を皆で見送った。

                              ★

しっとりした木々の緑が麗しかった。雲が多少、目立っていたが、雨が降る気配はなかった。吉田・枡田・亜由美・直子の四人が、山道を歩いていた。二人の女の髪が、濡れているように見えた。
どちらもキレイだったが、どちらが好きかと聞かれたら、吉田は迷わず亜由美と答えるだろう。吉田は積極的で且つ、落ち着いた魅力を持つ亜由美に夢中だった。好きです、という言葉が思い浮かんだが、亜由美の前で口に出すことは出来なかった。
森は思ったほど深くはない。平坦ではなかったが、苦しいと感じることはなく、むしろ気持ち良かった。遠方の山々が薄蒼く映った。鳥の姿は見えないが、鳥の鳴き声が聴こえる。
古びた木造の平屋が見えてきた。その時、枡田が背を向けたまま立ち止まり、手を上げて後ろの三人を制した。前方の林の中から熊が現われた。大人の熊が吉田たちを見て、すぐに歩き去って行った。
四人は平家の宿へ入った。家の中は、蜘蛛の巣が張ってあったが、目立った埃は確認できなかった。老人が西洋の椅子に腰掛け、眠っている。椅子だけがやけに豪華であった。
受付をする必要はなく、宿代は払わなくてもよい。その代わり、食事は自分たちで作り、部屋の掃除も自分たちでするのが決まりらしい。吉田たちは老人を起こさないように、角部屋へ入った。
数時間、体を休ませた後、食堂のような広間へ集まり、皆で食事を取った。カップラーメンをすする音が、窓から見える静かな森の風景に流れていった。
「亜由美さん。萩くんとはどういう関係なの?」直子が聞いた。
「え? 気になります?」亜由美が逆に聞いた。
「うん・・・・・・。ちょっとね」
と、直子は少し照れていた。
「亜由美さんは、生涯独身をつらぬくそうだよ」枡田が言った。
亜由美が微笑して、
「あれ? そんなこと言いましたっけ?」
「言ってなかったか?」
枡田は恥ずかしかった。確かに独身をつらぬくとは言っていない。独身で居て欲しいという枡田の願望だけが、ひとり歩きしていた。
「亜由美さんとは、知り合ったばかりで、まだなにもありません」
と吉田が言った。
「え? どういうこと?」直子が聞いた。
「まだなにもされてないから、安心してちょうだい」
と、亜由美は直子にいじわるな笑顔を向けて言った。 
「別に、なにしてもわたしは構わないけど」直子が言った。
「あの・・・・・・。まだ、そういう時間ではないような気がするんですけど」
吉田の言葉で皆笑った。談笑を経て、四人はそれぞれの部屋へ戻って行った。
夜、少し雨が降ったが、長い雨にはならなかった。窓ガラスの飛沫が可憐であった。吉田は、六畳の室内で行灯の光を眺めていた。障子が開き、亜由美が中へ入ってきた。   
「亜由美さん?」吉田が言った。
亜由美のボディーは何度見ても飽きなかった。
「こんばんは」亜由美が言った。
「こんばんは・・・・・・。どうかされましたか?」
と言って、吉田は良い意味で怪訝な表情を見せた。亜由美が上目遣いで言った。
「お風呂入らない?」
「お風呂?」
「宿の水をドラム缶に入れて、温めればOKよ。いまあの二人が準備してるけど。吉田さん、あっ・・・・・・。萩くんも手伝ってくれない?」
吉田は下の名前で呼ばれ、嬉しかった。
「はい、手伝います」
「ありがとう」
と言って、亜由美が吉田に抱きついてきた。意味が分からなかった。肉体的快感だけが、真実を物語っていた。吉田の息子は、入学から卒業まで一気に駆け上がってくれた。
「亜由美さん」吉田は小さな声で言った。
亜由美は体を更に密着させてきた。
「わたし、あなたのこと、タイプかも・・・・・・」
吉田は発射寸前のミサイルに気づかれないように、自分の腰を少し引いて、
「ぼくも、タイプですよ」
「ホントに?」
「はい。本当です」
「うれしい」
亜由美は両手で吉田の腰に触れ、自分の方へ引き寄せた。吉田は一瞬、天国へ行きそうになった。
「萩くんは、直子さんと付き合ってるの?」
「直子さんはぼくにとって、姉のような人です」
「お姉さん? 直子さんは萩くんのこと、どう思ってるの?」
「さあ、どう思われてるか、正直分かりません」
「わたしは分かるよ。直子さんは、きっと萩くんのことが好きなのよ」
吉田は甘い女の香りを鼻で吸い込みながら、
「あ、亜由美さんは、どうなんですか?」
「どうって?」
「枡田さんとは、どういう関係なんですか?」
「え? 気になるの?」
「気になるというか。いつ知り合ったのか・・・・・・。気になります」
亜由美が微笑して、
「やっぱり気になるんだ? ・・・・・・いつからだろうね。でも、いまでは肉体関係にまで発展してるわよ」
「ホントですか!?」
亜由美が笑った。
「ウソに決まってるじゃん」
吉田はこのまま合体へとコマを進めたかったが、直子の高い声が耳に響き、目が覚めた。
「なにやってるの?」
吉田と亜由美が、同時に直子の方へ顔を向けた。吉田は亜由美を放してから直子を真っすぐ見つめた。
「すみません。直子さん」吉田が言った。
「仲いいのね。羨ましいわ」直子が言った。
「ごめんなさいね。直子さんの大事な人、抱きしめてしまったわ」
と亜由美が言った。吉田は冷たい汗を掻いた。
「大事な人に変わりはないけど。恋人じゃあるまいし・・・・・・。気にしてないわ」
と、直子は強い目つきで言った。
亜由美と直子は、しばし見つめ合っていた。不意に亜由美が微笑して、
「直子さんにビンタされそうだから、お先に失礼するね」
と、亜由美は吉田に言ってから部屋を出た。直子は亜由美を見送りながら言った。
「おもしろい人ね。彼女・・・・・・」
「はい・・・・・・」
「どこに惚れたの? 顔? 胸? 脚? それとも中身?」
「惚れたと言うか・・・・・・。直子さん。ぼくは多分、ずっと独りだと思います。結婚願望もないし」
「そう? わたしはあるわよ。結婚願望」
「誰かいい人いるんですか?」
「え? ・・・・・・いないわ・・・・・・。あっ、このままだと、わたしが萩くんに抱きつきたくなっちゃうから、わたし達も行きましょう」
吉田が笑った。直子は昔から冗談を言う女ではなかったが、最近変わったのだろうか? 吉田と直子は部屋を出た。一時間ほどで準備が整い、皆でドラム缶の風呂に入った。疲れを癒し、宿でゆっくり眠ることができた。
翌朝、太陽が昇る頃、吉田は山鳥の鳴き声で目が覚めた。吉田は台所へ向かい、土鍋にペットボトルの水と米を入れて、四人分のご飯を炊いた。人の足音が聞こえ、振り返ると目前に老人が立っていた。
「おはようございます」吉田が言った。
「ああ・・・・・・」
老人は怪訝な目で吉田を見ていた。吉田は、じっと見てくる老人の視線から逃れるために、台所を出た。吉田は枡田の部屋へ向かって、ドアをノックした。
「どうぞ」亜由美の声が聞こえた。
(やはりデキていたのか?)
と、吉田は一瞬焦った。ドアを開けると、亜由美が横たわる枡田の足裏を揉んでいた。亜由美が吉田を見て、
「おはよう、萩くん」
「おはようございます」
「萩。気持ちいいから、お前もやってもらえ」
と枡田が言った。亜由美は笑顔で吉田を眺め、
「朝食作ってくれてるの?」
「はい。お味噌汁は、まだですけど」
「マッサージ終わったら、わたしも手伝うね」
「分かりました。直子さん、起こしてきます」
吉田は枡田に対し、少しの火で餅を焙ったような感情が働いたが、すぐに消えた。亜由美が好きな相手は、まぎれもなく吉田であった。
吉田・枡田・亜由美・直子の四人が、広間に集まって朝食を取った。ご飯に味噌汁、そして、老人が山で収穫した季節の野菜は、どれも美味しかった。宿を出るとき、老人が家の外へ出て見送ってくれた。吉田たちが宿の主である老人に頭を下げ、歩きだそうとしたその時、遠くの方で犬が吠えていた。
犬は森の奥に向かって激しく吠えている。吉田は妙な気配を感じ、後ろを振り返ると、老人が怖い顔で犬を眺めていた。
(犬が嫌いなのかな?)
と吉田は思った。
「萩くん、行くよ」
亜由美に呼ばれ、吉田はあらためて足を振るうことができた。

                              ★  

未由は驚いた顔で、ま新しいスマートフォンを見ていた。福岡県警の警部補・黒峯康太の死亡が確認された。オレンジの日の光が眩しかった。未由は、街を歩きながら、しばらくスマホのニュースから目が放せなかった。
キャバレーで大好きな吉田と食事をした時、確かこの黒峯という刑事も一緒だったような・・・・・・。遺体は山で発見され、黒峯の体の多くが、熊によって食い荒らされていた。あまり好感できない男であったが、亡くなってみると、未由も身近な恐怖を感じずにはいられなかった。
未由はカバンの中にスマホを収めて、街を歩き続けた。制服のスカートが、いつもより長めであった。下校時間が一番寂しかった。未由にとって佳苗は、たったひとりの親友だった。男は吉田萩。女は桜井佳苗。家族以外で大切な人は、この二人を置いて他に居ない。
未由は一筋の涙を流した。
(萩くんまで死んじゃったらどうしよう)と未由は思った。
余計なことを考えるのはやめよう。未由は前を向いて歩いた。気づけば人通りの少ない道を歩いていた。未由の前方を歩く背の高い色男が、角を曲がって姿を消した。
その時、後ろから勢いよく足音が迫って来た。未由が危険を感じ、振り返ると、帽子とマスクで顔を隠した男が急接近してきた。男はスタンガンを未由の腹部に当てた。未由は短い叫び声を上げて、よろめいた。
男が未由を抱き寄せ、口を塞いで、近くに止めてあった車に乗せた。未由は後部席で精神的な死を覚悟した。が、それはすぐに払拭された。
「ギャー!」男が悲鳴を上げた。
未由がそっと目を開けると、ズボンのベルトをはずした状態で、男が倒れていた。なにが起こったのか、理解できなかった。
未由が車から降りると、亜由美が立っていた。右手にスタンガンを持っていた。
「未由ちゃん。大丈夫?」亜由美が聞いた。
「亜由美さん・・・・・・」
未由は倒れるように亜由美に抱きついた。亜由美は優しく未由の頭を撫でた。

赤い太陽の下で、赤いオープンカーが走っていた。風が女の髪に吹き荒れた。助手席に座る未由が、サングラスを掛けて運転する亜由美に向かって言った。
「今日は、仕事、お休みですか?」
「いいえ、休みじゃないわ。未由ちゃんを家まで送ってから店に向かうから、ギリギリ遅刻すると思うわ」
「すみません」
「気にしないで。あなたが無事であることの方が大事だから」
「亜由美さん、優しいですね」
亜由美は黙って微笑した。 
亜由美の車が交差点を左へ曲がってまっすぐ道路を突き進むと、住宅街が見えてきた。
「わたしね。未由ちゃんと同じ高校に通ってたのよ」
と亜由美が言った。
「そうなんですか?」未由は意外そうな顔で聞いた。
「桜井佳苗って、知ってる?」
「はい。わたしの親友です」
「そうなんだ・・・・・・」
亜由美は運転しながら息を吐いた。
「佳苗さん。殺害されたんですってね」
「・・・・・・亜由美さん。佳苗の知り合いですか?」
「あの子。店の常連だったのよ。お父さんと二人で、よくいらしていたわ」
未由は静かに頷いた。
「事件があった日の数時間前に、偶然佳苗さんにお会いしたわ。あの時・・・・・・。車で送ってあげればよかったわね」
未由は黙って亜由美の横顔を見た。サングラスの中に光るものが見えた。未由は、亜由美の内面性に惹かれていった。

                              ★

吉田は露天風呂に浸りながら、広大な海を眺めていた。今日は店を田中に任せてあった。田中は他の飲食店で、店長を勤めたほどの男だった。それが心機一転、吉田の店で働きたいと言ってきたのだ。店の外観や内装の雰囲気が気に入ったらしい。
吉田は一日の休暇を得られたことで、日帰りの温泉を満喫できた。できれば亜由美と一緒に行きたかったが、吉田にはまだ、亜由美を誘う勇気がなかった。
吉田は温泉から上がると、マッサージチェアに腰を下ろし、買い換えたばかりのスマホの画面を見た。少しずつ亜由美の声が聞きたくなった。いま電話したら迷惑かもしれない。吉田はしばらく考えていた。
その時スマホが短いメロディーを奏でた。吉田が慌ててスマホを操作すると、亜由美からのメールが届いていた。
『いま、萩くんのお店に居るんだけど、萩くんはどこへ行ったの?』
吉田は嬉しかった。好きな女から届いたメールをじっくり眺め、吉田はマッサージチェアの電源を入れた。吉田は、日帰りで温泉に来ていることをメールで送った。間なしに返信がきた。
『ひとりで? 女性と一緒じゃないの?』
しばしメールのやり取りが続いた。
『いえ、ひとりですよ。いま、マッサージしてもらってます』
『女性の店員さんに、やってもらってるの?』
亜由美はどこか焼いていた。
『マッサージチェアです。今度、亜由美さんと温泉に行きたいです』
『ホント? 嬉しいけど・・・・・・。萩くん、彼女とか、ホントに居ないの?』
『いません。ぼくは自分から女性に話しかけるのが苦手で・・・・・・。でも亜由美さんは、ぼくの苦手を突き破るほど、魅力的だと思います』
しばし間が空いた。吉田は高鳴る自分の心臓を意識しながら、返信を待っていた。スマホが短く鳴った。
『わたしも萩くんの魅力にやられそう。ずるいよ萩くん』
吉田の体が熱くなった。返す言葉が思いつかなかった。吉田がしばらく思案していると、亜由美からメールが届いた。
『お客さん、殆ど居なくなったよ。田中っていう店員さんに襲われたら、どうしよう?』
吉田は少し驚いた。だが、吉田に会いたいという彼女の意思の表れだと解釈した。
『大丈夫。田中さんは真面目ですよ。よく知りませんけど・・・・・・』
『そうよね。見た目で判断しちゃダメよね。萩くん。いまから会えないかしら?』
『いいですよ。すぐ帰りますので、少々お待ち下さい』
『了解。あ、誰も居なくなっちゃった。寂しいから早く来てね。じゃあまた後で』
誰も居ない? 田中も居ないということなのか。吉田はマッサージチェアから立ち上がり、帰る準備をしながら、考えを巡らせた。食材が切れたのだろう。よくあることだ。吉田も倉庫へ食材を取りに行くことがある。
吉田はとりあえず車を走らせた。早く彼女に会いたかった。知らない街並みが目に入ってきた。吉田は速度超過にならないように気をつけながら、車の波に乗り、走行を続けた。吉田は二時間かけて、見慣れた街まで戻った。
自分の店に辿り着いた吉田は、車から降りて、裏口へ回ろうとしたが、ふと正面玄関が気になった。営業中と書かれているはずの札が、準備中になっていた。これはおかしい。まだ営業中のはずである。
従業員専用の駐車場に目をやると、田中の車がなかった。吉田は正面玄関を開けて店の中へ入った。亜由美が居ない。吉田は嫌な汗を掻いた。スマホを操作して亜由美に電話を掛けたが、繋がらなかった。
吉田は偶然だと思った。たまたま電話が繋がらないだけだと・・・・・・。吉田は何度も電話を掛けたが、亜由美の声を聞くことは、ついに叶わなかった。

                              ★

吉田は亜由美の店へ向かった。キャバレーの駐車場で車を止めて店内へ入ると、美人の店員が多数目に入った。店の女の子が、吉田の汗をハンカチで拭いてくれた。
「吉田さん、居ますか?」吉田が女店員に聞いた。
「ええ、居ますよ。少々お待ち下さい」
店の女が柔らかい笑顔で厨房へ向かった。数分後、輝夫がやってきた。
「やあ、萩くん。亜由美さんなら今日は休みだよ」
と、輝夫は穏やかな顔で言った。
「吉田さん。電話が、亜由美さんと電話が繋がりません」
「喧嘩でもしたのか?」
「いえ」と俯く吉田が顔を上げて、「吉田さん、亜由美さんに電話を掛けてください」
「え? ・・・・・・分かった」
輝夫は吉田の表情に、ただならぬものを感じた。輝夫がスマホを取り出して、亜由美に電話を掛けてみたが、繋がらなかった。
「何度かけても応答がありません!」吉田が言った。
「分かった。警察に連絡しよう」輝夫が言った。
吉田は頭を下げて店を出た。吉田は車の中で枡田に電話を掛けた。だが繋がらなかった。
雨が降ってきた。吉田は車を走らせ、養護施設へ向かった。急な雨がフロントガラスを叩きつけたが、やがて静かな雨に治まった。
吉田は養護施設に着くと、駐車スペースに車を止めて、もう一度枡田に電話を掛けた。やはり繋がらなかった。吉田は玄関から施設の中へ入った。調理師のおばさんが、笑顔で迎えてくれた。歳を重ねても、昔から何ひとつ変わらない優しさの持ち主であった。
「萩くん、元気?」
「はい。あの、枡田さん居ますか?」
「みんなでキャンプへ行ったわよ。直子さんなら地下室にいるけど・・・・・・。まあ、ゆっくりしていって」
「ありがとうございます」
吉田は歩き出した。地下室へ続く階段を下りて実験室へ入ると、直子が立っていた。手に細長い棒のようなものを持っていた。棒の先端が青く光っている。直子は暗い表情で、青い電気を眺めていた。
「直子さん」吉田が直子を呼んだ。
直子が驚いた顔で振り返って、
「萩くん・・・・・・。来てたの?」
直子は棒型のスタンガンを広いテーブルの上に置いた。
「直子さんは、お留守番ですか?」
「え? ああ。まあね。風邪引いてる子が、ひとりいるのよ。だから、わたしはキャンプへ行かなかったわ」
直子が吉田に椅子を勧めた。吉田は椅子に腰掛け、直子のラフな Tシャツと青のデニムを凝視した。直子がクスッと笑ってから椅子に座り、吉田に向かって言った。
「あんまり変な目で見ないで」
「すみません」
「・・・・・・萩くん。萩くんは、亜由美さんとお付き合いしてるんでしょ?」
「いえ、亜由美さんは・・・・・・。亜由美さんとは、なにもしてません」
直子が微笑して、
「誰もしたとか、してないとか、そういうこと聞いてるわけじゃないわよ」
「そうですよね・・・・・・。ぼく、変ですよね」
「全然。萩くんのことは好きよ。わたし、結婚願望とかないんだけど、萩くんとだったら結婚してもいいよ。もしも、亜由美さんに振られたら、わたしのところに来てね。お嫁さんになってあげるから」
吉田は生唾を飲んで直子の目を凝視した。吉田は三人の女から好かれていた。未由。亜由美。直子。三人ともキレイで可愛いタイプだった。吉田は幸せだった。しかし、吉田には結婚願望がなかった。誰よりも自分自身が、結婚という未来が想像できなかった。
「萩くん? どうしたの?」直子が聞いた。
「あの、嬉しいです」吉田が言った。
「ホントに? ウソついたら・・・・・・。萩くんの唇、奪っちゃうよ」
「唇くらいなら、いつでも奪って下さい」
直子が目を見開き、吉田に抱きついてきた。吉田は息子が反応する前に、直子を優しく放した。
「ごめんなさい」直子が言った。
「いえ、こちらこそ・・・・・・」
と言ってから、吉田は奥の壁を眺めた。頑丈そうなドアが見える。一見すると、金庫室のようだが・・
・・・・。
「萩くん。なにか用事があって来たの? それとも、わたしに会うために来てくれたの?」
「そのどちらも、正解です。実は、亜由美さんが行方不明になりまして」
「亜由美さんが?」
吉田は、直子に詳細な説明をしてから、頑丈なドアに近づいた。直子は目を細め、吉田に向かって
言った。
「その田中って男が怪しいわね。連絡は取れないの?」
「なんど連絡しても、繋がりません」
「履歴書に住所とか、書いてないの?」
「それはまだ調べていませんでした。家に帰って、調べたいと思います」
吉田は焦っても仕方ないと思った。もしも田中が犯罪者だったとしても、面接だけでは心の闇まで暴くことはできない。せめて亜由美の命だけでも無事であってほしいと願った。
「大丈夫よ。亜由美さんは強い女性だから。きっと無事に帰ってくるわ」
「はい。そう信じたいです」
吉田のスマートフォンが鳴った。吉田は食いつくように画面を見た。亜由美の名前がはっきりと書かれていた。吉田はスマホを操作して、
「はい。吉田です」
「もしもし・・・・・・」亜由美は小さな声で言った。
「亜由美さんですか?」
「うん。いま大丈夫?」
「はい。亜由美さん。どこにいるんですか?」
「いまは車の中よ。田中っていう、アルバイトの人に襲われそうになったけど、通りすがりの人に助けられたから、心配しないで。なんども電話掛けてくれて、ありがとう。じゃあ、またあとで」
「はい」
電話が切れた。
「亜由美さん、大丈夫だった?」直子が聞いた。
「はい、大丈夫でした。直子さん。お騒がせして、すみませんでした」
「なに言ってるの。あなたとわたしは、家族みたいなものでしょ」
吉田は照れ笑いをしてから、再び頑丈なドアを眺めた。直子が吉田に向かって言った。
「気になるの?」
「こんな扉、ありましたっけ?」
「リフォームしたのよ。ここは園長先生の書斎よ」
「へぇ・・・・・・」
「園長先生しか入れないから、子供たちのあいだでは、秘密の部屋って呼ばれているわ」
吉田が直子に向かって、
「直子さん。ぼく、そろそろ帰ります」
「そう? また、いつでも遊びに来てね」
吉田は直子の優しい表情を見てホッとした。吉田は穏やかな気持ちで、養護施設を後にした。

                               ★  

黒峯信夫は自家用車の中で目覚めた。実の息子が熊に食い殺されたことがショックで、しばらく休暇を取っていた。きのうの晩から亜由美の家の前に車を止めて、張込みをしていた。
四つの車窓を全開にして、涼しい空気を流した。早朝の空はまだ暗かったが、日が昇る準備はすでに出来ていた。偉大な太陽の光が、一筋の線となってフロントガラスに差してきた。信夫は自分が罪人になったような気分だった。悪いのはお前だ! と太陽に言われているようであった。
(違う! 悪いことをしたのは息子だ! 親であるわたしが責任を負うことはない!)
と思いながら、信夫は密かに、息子の犯罪歴の多さに驚いていた。人はなぜ法に触れるのか? そんなことを考えたことは一度もなかった。ただエリートだという理由だけで、ここまでのぼりつめたのだ。信夫は、息子がなぜ犯罪に走ったのか、理解できなかった。
しかしながら、息子の犯罪を隠ぺいし続けた事実はぬぐえなかった。警視正としてのプライドを守るため、仕方がなかった。
街に広がる光の量が増してきた。いよいよ風景がハッキリと見える頃合いがやってくる。家の玄関が開き、亜由美が出てきた。紫色のシャツと、黒のレギンスパンツが怪しく光って見えた。亜由美は赤いオープンカーに乗って走り出した。
信夫は自家用車に乗り込み、亜由美の車のあとを追った。晴天の下で、亜由美の車が走っている。浜風が車内を癒していく。海沿いの道路を二台の車が走り、亜由美の車が左へ曲がると同時に、信夫もその後に続いた。
赤いオープンカーが駐車できるスペースで止まった。信夫はその車の隣りで車を止めて、辺りの景色を眺めた。小さな港のようであった。多数の船が目に付いた。その時、信夫の運転窓を、美人な顔が覗いた。信夫はあまりの美貌に驚いたが、亜由美の姿を見て、しっかりと性的魅力を感じた。
「おはようございます」信夫が言った。
亜由美は黙って、信夫の顔を凝視した。
「あの、なにか?」信夫が聞いた。
「尾行してたでしょ?」
と、亜由美が上目遣いで聞いてきた。
「まさか・・・・・・。わたしは海の風景を見に来ただけです」
「本当ですか?」
信夫は美女に責められ、苦笑して、
「いえ、ウソです。実は私、こういう者です」
信夫は警察手帳を見せた。
「警察の方ですか? ご用件はなんですか?」
信夫は車から降りて、亜由美と向かい合った。
「黒峯康太という刑事をご存じですか?」
「黒峯康太? ・・・・・・黒峯という刑事さんに、お世話になったことならありますけど」
「ほう。そうですか。できれば具体的にお聞かせ願えますか?」
「ええ・・・・・・。黒峯さんは、わたしが勤務する、お店の常連なんです。最近は、店に来てくれなくなりましたけど」
「黒峯康太は殺害されましたよ」
「えっ? ホントですか?」
「はい。ちなみにわたしは、黒峯康太の父です。この辺りではエリートの階級に属しています」
「そうですか・・・・・・」
亜由美はそっけない顔で信夫を見つめた。
「塚元さん。あなたは店が終わったあと、康太とドライブへ出かけましたか?」
「ドライブ?」
「ええ。康太が行方不明になる直前です。あなたは康太の車に乗ったでしょ?」
「はい。乗りました。それから最寄りの駅まで、送ってもらいました」
「そのあと康太は、どこへ行きましたか?」
「知りません。あの、待ち合わせがあるので、もういいですか?」
「構いませんよ。デートですか?」
亜由美は微笑して、
「海釣りです。男性の方は何人か居ますけど、彼氏ではありません。では失礼します」
亜由美は歩き出した。
(いい女だ)と思いながら、信夫は亜由美の後ろ姿をなめるように見送った。

                              ★ 

吉田は未由と二人で砂浜を歩いていた。吉田はスマホを操作してメールの履歴を見ていた。
『すまん。子供たちとキャンプへ行ってたから、電話に出られなかった。明日、直子さんと一緒に萩の店に行くから、よろしく』
枡田からのメールであった。
午前七時『萩くん、おはよう』午後11時『萩くん、おやすみ』未由から、朝晩のメールが入っていた。
直子に抱きつかれた吉田は、夢を見ているような感覚だった。姉のように親しいが、電話番号すら知らない女から、短い温もりを得た。直子は男に対して、積極的な方ではなかった。吉田は直子の心境の変化が気になった。
その時、吉田のスマホが鳴った。亜由美からメールがきた。
『山登りませんか? 山の宿で、今度は二人っきりで、お泊りしましょうよ』
吉田の下半身が踊りだした。まるでハナカマキリに誘われているような錯覚を覚えた。もちろん彼女はカマキリではないが、亜由美に誘惑されて食われるなら本望だった。
「誰から?」未由が疑いの目を向けながら聞いた。
「亜由美さんからだよ」吉田は正直に答えた。
未由はしばし黙っていたが、
「亜由美さんと付き合ってるの?」
「いや。まだそこまでいってない気がするけど・・・・・・」
「亜由美さんだったらいいよ」
「え? どうして?」
ずっと亜由美に嫉妬していた未由が、何故かあっさりしていた。
「わたしね。亜由美さんのことが好きなの」
「そうなのか?」
「うん。すごく、尊敬してるよ。だから、亜由美さんと付き合ってもいいよ」
「・・・・・・ありがとう。アタックしてみるよ」
「え~。アタックするの?」
吉田が苦笑して、
「付き合ってもいいって、言ってくれたじゃないか」
「言ったけど・・・・・・」
未由が吉田の腕に絡んできた。このままでは吉田の息子が反抗期を迎えてしまう。吉田は頭を回転させて、必死で話題を考えた。
「あのさ」吉田が言った。
「なあに?」未由は甘い声を出した。
「もしも、亜由美さんと付き合えることになったら、もう二人で会うのはやめにしないか?」
「・・・・・・」
「未由もさ。いい男を見つけて、幸せになってくれよ」
「うん・・・・・・。分かったけど・・・・・・」
「分かったけど、なに?」
「萩くんより良い人見つかるかな?」
「見つかるさ。未由は可愛いから、きっと見つかるよ」
未由は寂しげな角度で俯いた。二人は立ち止まって海を眺めた。
「萩くん」
「ん?」
「亜由美さんに振られたら、どうするの?」
未由の目に涙が光っていた。
「どうしょう・・・・・・。その時は、未由と付き合うよ」
「ホントに? じゃあいつまでも待ってます!」
吉田は喜ぶ未由の顔を見ながら、亜由美のことを考えた。もちろん振られないように、努力をするつもりだった。亜由美は、海の底に眠る宝石のような魅力を放っていた。自分にはもったいないと思ったこともあった。ただ、いまは純粋に、ひと目惚れから始まった恋を咲かせてみたかった。
吉田は未由の手を握りしめ、
「そろそろ帰ろうか?」
「うん」
吉田と未由が歩き出した。突然、未由が大声で叫びだした。
「キャー!」
「どうした?」
吉田は未由の驚いた顔を見つめ、未由の視線の先を眺めた。一足の靴が、浜辺にうちあげられてある。よく見ると、靴の中からマグマのような血が流れていた。

                              ★

星が目立つ空の色に変わる頃、直子は街の道路を歩いていた。車のライトが直子の瞳を細めていく。色んな男が、直子をチラッと見てからすれ違う。あの夜の悪夢が甦ってきた。
(萩くん、助けて!)
直子は悪夢をかき消すように、吉田に助けを求めた。その時、背後から直子を呼ぶ声が聞こえた。
「すみません」
直子が振り返ると、年輩の見知らぬ男が立っていた。直子は少し恐怖を感じたが、白髪まじりの男がニッコリ笑って警察手帳を見せたことで、安心した。
「警察の方ですか?」
「はい。黒峯信夫と申します」
「黒峯?」
信夫は直子の体をなめるように見てから、
「わたしのことをご存じなんですか?」
「ええ・・・・・・。黒峯という刑事さんと、食事をしたことがあるので」
「その男はおそらく、わたしの息子です。因みに康太とあなたはどういう関係ですか?」
「どういう関係と言われましても」
「知り合いなんでしょ?」信夫は怪訝な顔で直子を見た。
「知り合いではありません。食事と言っても、二人っきりで食事をしたわけではないので」
「康太はキャバレーの店で、数人の方と食事を取ったあと、行方不明になったようですが、そのことはご存じでしたか?」
「いえ、知りません。息子さん、行方不明なんですか?」
「ええ・・・・・・。息子は行方不明になったあと、何者かの手によって殺害されました」
「そうですか・・・・・・」
直子はなにも知らないといった顔で俯いていた。
(この女は白かもしれない。残りの奴らに事情を聞いて、ゆっくり考えるとしよう)
「お嬢さん。時間を取らせて悪かったね。では失礼」
信夫が会釈をしてから立ち去ろうとした時、直子が言った。
「刑事さん」
「なんですか?」
「黒峯さんのことなら、亜由美さんに聞いて下さい」
「亜由美さん?」
「黒峯さんが言ってました。ぼくは亜由美さんの知り合いだって」
「知り合い? そうですか、ありがとうございました」
直子は頭を下げてから歩き出した。信夫の視線を感じながら、直子は夜の街へと消えた。直子は人通りの少ない道を歩いたが、襲われることはなかった。ハナカマキリに寄ってくる獲物は、今日も居なかった。

                              ★

山の空気は優しかった。吉田と亜由美は手を繋ぎ、見つめ合い、時に休みながら山登りを楽しんだ。蒼い山脈が吉田の目に映った。遠い蒼白の風景と亜由美が、重なって見えた。彼女には、神秘的で力強い魅力があった。
一度彼女のプロポーションを目にした者は、なかなか逸らすことができないだろう。その上、中身も輝いて見えるのは少しずるい気もするが、吉田は山や海や空に感謝しなければいけないと思った。
好きな女と一緒に山を登れば、苦痛が半減する。実際、吉田の体は軽かった。
山の宿が見えてきた。老人が小さな畑で野菜を採っていた。吉田と亜由美は腕を組んで、宿の中へ入った。吉田は、亜由美と同じ部屋であった。緊張で色んな部位が硬くなった。
「亜由美さん、出身はどちらですか?」
と、吉田が床に座る亜由美の目を見て聞いた。亜由美から瞳を逸らすことができない。瞳を逸らし、
瞳以外の部位へ視線が移れば、下半身が反応してしまう。吉田はなるべく誠実な会話がしたかった。
「出身? 大阪だけど。萩くんはどこ?」亜由美が言った。
「ぼくは、福岡の養護施設で育ちました」吉田が言った。
「ご両親は居るの?」
「実の両親が、どこでなにをしているのか、ぼくには分かりません。養護施設で面倒を見てくれた人が、ぼくの親であり、家族だと思っています」
「知らないんだ。本当の親のこと」
「はい。知らなくてもいいんです。充分幸せですから」
「ふ~ん・・・・・・」
亜由美は窓から差す光を眺め、しばし黙っていた。俯く姿は枝垂れ桜よりも美しかった。
「亜由美さん」
「ん?」
「キレイですね」
亜由美が笑顔で、
「なに、それ?」
「いえ・・・・・・」
亜由美は立ち上がり、あぐらを掻く吉田を背後から抱きしめるように、腰を下ろした。吉田が戸惑った表情で、
「亜由美さん?」
「静かに」
甘い香りと胸の感触が息子に刺激を与え、吉田の下半身は直立不動を余儀なくされた。亜由美の囁く声が、吉田の耳元で聞こえた。
「萩くん、元気?」
「はい、元気です」
「そうじゃなくて・・・・・・」
「え?」と言った瞬間、吉田のズボンの中に、亜由美の柔らかい手が入ってきた。堅物の息子がキレイな女の手で握られた。吉田は驚いた。心の準備が出来ていなかった。が、息子は違っていた。
むしろその行為を望んでいた。
亜由美は無言のまま、吉田の息子を可愛がった。声が漏れそうなほどの快感が続いたあと、息子が日々溜め込んだ貯金が、一気に下ろされた。
「すごい・・・・・・」亜由美が言った。
亜由美の行為は、それから二時間ほど続けられた。吉田と亜由美は、並んで布団に横たわり、互いに見つめ合った。貯金や預金が下ろされたあとでも、亜由美は魅力的だった。それはどこか孤独に満ちた、蒼白な色であった。
夜が深くなっても、二人は裸で抱き合うことはなかった。ただ黙って見つめ合い、眠りに落ちた。
深夜。吉田は目が覚めた。起き上がって亜由美を見下ろしてから、部屋を出た。廊下の壁にランプが光っていた。
吉田は手洗場へ向かった。くみ取り式の便所が、珍しい気分にさせてくれた。吉田が用をたして便所から出ると、老人が徐にやってきた。
「おら・・・・・・。いやらしいこと、するんじゃねぇ」
と言って、老人が吉田を睨みつけた。
「なんのことですか?」吉田が聞いた。
吉田は自分の胸を押えた。鼓動が速くなるのが分かった。老人はあの行為を見ていたのか? 吉田は恥ずかしさと共に、老人がまだ男であることを知った。
「まあいいや、ったら・・・・・・。あの女はやめておけ」
「あの女って、亜由美さんのことですか?」
「チッ、気安く呼ぶな!」
「はい?」
老人はブツブツと得体の知れない言葉を吐いていた。吉田は自分の頭を掻いてから、老人の側を通り過ぎた。
「おい!」老人が吉田を呼び止めた。
「吉田は振り返って、
「なんですか?」
「あの女はやめておけ」
「なぜですか?」
「オレの亜由美はな。人殺しなんだよ」
「それはどういうことですか?」
「オレの亜由美はな。生きたまま男を埋めたんだ。オレはその手伝いをしたんだ。あんたは犯罪者と付き合ってるんだよ。だから、やめておけ」
吉田は、頭の整理が付かなかった。亜由美が人を殺めるはずがない。嫉妬に狂った老人のデタラメに過ぎない。吉田は部屋へ戻った。室内で横たわる女は、変わらず綺麗であった。
翌朝、目が覚めると亜由美の姿がなかった。きのうは嫌な夢を見た。夢であってほしかった。吉田は部屋を出て台所へ向かった。亜由美がエプロンを付けて味噌汁を作っていた。吉田は亜由美の背中を眺めた。亜由美が振り返って、
「あなた、おはよう」
「あなた?」
吉田は照れ笑いを見せた。
「いい笑顔ね」亜由美が言った。
「ありがとう」
吉田は礼を言ってから恥ずかしそうに俯いた。
「萩くん。きのうはごめんね。急にあんなことしちゃって」
「いえ・・・・・・。また、お願いします」
亜由美は笑顔で吉田を眺め、
「朝ご飯食べたら、すぐに山を下りましょ。台風が接近してるみたいだから」
「分かりました」
亜由美の味噌汁は上手かった。ご飯の炊き方も良かった。吉田はきのうの悪夢を忘れ、幸福な朝食を取ってから、山を下りた。老人は笑顔で見送ってくれたが、吉田に視線を向けることはなかった。

                               ★

喫茶店のカウンター席に座る枡田と直子が、コーヒーを飲んでいた。他に客は居なかった。
行方不明になっていたアルバイト店員の田中泰蔵が死亡した。ひとりで海釣りに行ったさい、誤って船から落ちたらしい。その時、田中は鮫に食われ、海の栄養分となった。浜辺で見つかった靴は、田中のものであった。
第一発見者の吉田と未由は、警察署で事情聴取を受けた。そして、先日の悪夢・・・・・・。色々あり過ぎて、吉田は混乱を隠せなかった。
吉田は手作りのケーキを直子の前に置いた。直子はケーキを美味しそうに食べた。直子が吉田に
向かって言った。
「萩くん。好きな人にでも振られたの?」
吉田はハッとなった。直子に返す言葉が見つからなかった。枡田は黙ってコーヒーを飲んでいる。
「直子さん」と吉田。
「なに?」と直子。
「スタンガンは、護身用ですか?」
「え? スタンガン?」
「実験室の机に置いてあったスタンガンは、直子さんのものですか?」
直子は少し考えてから、
「そうよ」
コーヒーを飲んでいた枡田が徐に口を開いた。
「わたしが持たせたんだ。施設の職員なら、全員持っているよ。特に女性はいつ襲われるか分からないからな」
「そうですよね。素晴らしいことだと思います」吉田が言った。
「そんなことより、亜由美さんとは上手くいってるの?」直子が聞いた。
「はい。お陰様で、順調です」
「そうなの? だったら暗い顔しないでよ。心配しちゃうでしょ」
直子が不思議と色っぽく見えた。だが、直子の恋愛対象が吉田であることに、吉田は気づいていなかった。吉田・直子・枡田は、吉田が養護施設に居た頃の思い出話で、盛り上がった。枡田も直子も、営業時間ギリギリまでゆっくりしていた。
二人が帰ったあと、吉田は店のシャッターを閉めて車を走らせた。吉田は運転しながら、ラジオを掛けた。田中泰蔵という三十代の男が、サメに食われて死亡というニュースが流れた。
吉田は山の老人の発言を思い出した。吉田は亜由美に対して、ありもしない疑いを掛けたくはなかった。自分の目で確かめるまでは、決め付けてはいけないと思った。キャバレーの店が見えてきた。駐車場が満車だったので、吉田は店の側で車を止めてエンジンを切った。それから数秒後、吉田は違和感を覚えた。何かがおかしいと思い、思案すると、台風情報が流れていないことに気づいた。亜由美は確かに台風がくると言っていた。亜由美が嘘を付くとは思えない。
店の出入口から男性客が出てきた。店員らしき美女が男性客を見送っていた。美女がふと、吉田の車に視線を向けて凝視してきた。若干怪訝な表情を浮かべてから、店の中へ消えた。
吉田はスマホを取り出し、今夜会えないか? というメールを亜由美に送った。吉田はしばらく店の外観を眺めた。なるべく早く、亜由美から話が聞きたかった。
店から中年の男が出てきた。輝夫だった。輝夫は吉田の車に近づき、運転手の顔を見て、
「萩くんか?」
「はい。今晩は」
「誰かと待ち合わせしてるのか?」
「いえ・・・・・・。あの、亜由美さん、いらっしゃいますか?」
「亜由美さんなら、体調不良で今日は休んでいるが・・・・・・」
「そうですか・・・・・・」
「萩くん。ちょっと待っててくれないか?」
「え?」
「渡したいものがあるから、ここで待っててくれ」
「はい」
輝夫は店内へ入って行った。吉田は中年の紳士を見送りながら、どこか柔らかいものを感じ取っていた。輝夫は優しかったが、それは赤の他人の優しさではないような気がした。しばらく待つと、輝夫が戻ってきた。
「はい、これ」
輝夫は小さな紙を吉田に手渡した。そこには亜由美の住所が書かれてあった。
「お見舞いに、行ってあげなさい」
「ぼくが行っても、よろしいのでしょうか?」
「彼女は、すごく寂しがりやなんだ。だから、きっと。萩くんとゆっくり話がしたいんだよ。じゃあ、あとはよろしく」
輝夫は店の中へ戻って行った。吉田は車を走らせ、亜由美の家に向かった。静かな住宅街の一角に、亜由美の家が建っていた。吉田は、車を止めて、しばし立派な建物を眺めていた。その時、亜由美からのメールが返ってきた。
『わたしも会いたいな。いまどこに居るの?』
吉田は急いでメールを打った。
『亜由美さんの家の前にいます』
『ちょっと待ってて』
吉田は車から降りて、家の玄関に近づいた。好きな女の家に来るのは初めてだった。緊張と不安を抑えるために辺りを見渡しと、遠方でひとりの中年男が立っていた。男はしきりに腕時計を気にしていた。玄関が開き、亜由美が現われた。
「いらっしゃい。どうぞ中へ入って」
亜由美は寂しそうな顔で言った。吉田は丁寧に頭を下げて、「お邪魔します」と言った。吉田は亜由美の家のリビングで、野生動物のDVDを見て過ごした。山の老人が言っていたことは本当なのか?
吉田はなかなか本題に入れなかった。事実かどうかの確認をするだけである。
体の内側から、汗が流れ落ちるような気分だった。雄と雌のキリンが一瞬で交尾を済ませ、歩き出した。亜由美の手が吉田の手を握り、小さな声で言った。
「なにか聞きたいことがあって来たんじゃないの?」
吉田はドキッとなった。亜由美は山の宿で、老人の怒鳴り声を聞いていたのだ。部屋へ戻った時、彼女は寝た振りをしていたのだ。吉田は真っすぐ亜由美を見つめてから言った。
「山の宿で、お泊りしたとき、宿の主人が言ってました――」
「うん。わたしも聞いてたよ。あのおじいちゃん。そうとう元気なんだね」
「あの、おじいさんのこと、どう思いますか?」
「う~ん・・・・・・。悪い人ではないと思うけど、萩くんが嫌な思いをしたのであれば、もうあの宿へは行かないよ」
「ありがとう・・・・・・。亜由美さん――」
「人を殺めたことは本当よ。黒峯康太と田中泰蔵を殺害したのはこのわたし・・・・・・。黙っててごめんね。萩くんとは、もう少し甘い恋を続けたかったけど、もう無理ね」
「そんなことはないよ。亜由美さんはなにも悪くない。女性に乱暴するような男は、死刑にするべきなんだ。亜由美さんは、甘い法律の代わりに、働いてくれたんでしょ?」
「そうね。そうかもね・・・・・・。萩くんはやっぱり、枡田さんの子供なのね」
「え?」
「ねえ、萩くん。あなたの実のお父さんのこと、教えてあげようか?」
「実の父を、ご存じなんですか?」
「ええ。あなたのお父さんは、犯罪者なのよ」
吉田はほんの少し驚いた顔で、
「犯罪者・・・・・・?」
「枡田さんから聞いたの。あなたの父の名前は、下田亮助。いまは刑務所で服役してるわ。あなたは性犯罪事件で産まれた子供なのよ」
吉田は戸惑いながら必死で考えた。母親は誰なんだろう。父よりも母の人生が気になった。
「母は・・・・・・?」
「萩くんのお母さんは、あなたを産んだあと、事故で亡くなられたわ」
亜由美がソファーから立ち上がって、
「詳しいことは、輝夫さんに聞けば分かるわ。輝夫さんは、血の繋がった萩くんのおじいちゃんなのよ」
「亜由美さん、どちらへ?」
吉田は自分のことより、亜由美を失ってしまう恐怖で胸がいっぱいだった。
「出頭するわ。どうせ妙な刑事に張り込まれているし・・・・・・。萩くんに説得されて、出頭した方が、気持ちいいでしょ?」
吉田はソファーから立ち上がって亜由美と向かい合った。
「亜由美さん。ぼくは亜由美さんの味方です。どんな判決が下ったとしても、亜由美さんを愛しています。いつまでも、あなたを待ってます」
「ありがとう。出所したら、萩くんのお店にまっ先に向かうから、その時は優しくしてね」
「はい。もちろんです」
亜由美は穏やかな笑みを浮かべ、家を出た。吉田は警察署まで亜由美を送り届けた。

                               ★

亜由美は任意取り調べのため、走るパトカーの中で腰を下ろしていた。若い男の刑事が運転している。亜由美の隣りに森婦警が座っていた。太陽は相変わらず、平等な光を放っていた。善人も悪人も、この平等な光を受けている。
亜由美はこれまで、十人の性犯罪者を葬ってきた。地味な格好の時は、ひとりの男が背後から襲ってくることが多かった。露出の多い服装の時は、車に乗った複数の男に道を聞かれ、近づいた所を車内に引きずり込まれた。が、車内から聞こえたのは女の嫌がる声ではなく、気が狂った男の悲鳴であった。
亜由美に襲い掛かってきた男たちは皆、まさか自分が殺されるとは夢にも思わなかっただろう。最初はナイフを使っていたが、最近では強力なスタンガンを使用するようになった。しかしながら、吉田との出会いによって、亜由美の心はすっかりと晴れてしまった。いまは、過ぎてしまった自分の行いを、悔いることしかできなかった。
パトカーが立派な家の前で止まった。黒峯という表札が見えた。
(うまくできるかしら?)
亜由美は不安な表情で前庭を眺めた。無名の石像が立っていた。どこか黒峯信夫に似ている。
森婦警が袋の中からペンダントを取り出し、亜由美に手渡した。丸いエメラルドの宝石であった。
「これは?」亜由美が聞いた。
「それはニセモノよ。危ないと思ったら、宝石の部分がスイッチになってるから、迷わず押してちょうだい」森婦警が言った。
「森さん・・・・・・」
亜由美は女の優しさが嬉しかった。森婦警が不意に涙声で言った。
「ごめんなさい。警察が、悪いことしちゃダメよね。わたしは、もっと早く、彼らの過ちを罰するべきだったわ・・・・・・。本当に、ごめんなさい」
亜由美は発する言葉が見つからなかった。警察官は真面目な人が多い。いま初めて気づいたわけではないが、亜由美はあらためて警察官という仕事に敬意の眼差しを送りたくなった。
若い男性刑事と森婦警、そして亜由美がパトカーから降りて、玄関の前に立った。インターホンを押すと、信夫の声が聞こえた。
「誰だ?」
「警察です」
と、若い刑事が言った。玄関の鍵が自動で解除された。
「ここからは、塚元さんひとりでお願いします」若い刑事が言った。
亜由美は男の刑事を見つめた。若い刑事は亜由美に見られて、恥ずかしそうであった。
「亜由美さん。気をつけてね」
と、森婦警が穏やかな表情で言った。亜由美は二人の警官に頭を下げてから、家の中へ入った。落ち着きのある広い土間が目に付いた。信夫がやってきた。眉間にシワを寄せ、疲労感に満ちていた。この前会った時よりも、老けて見えた。
「お待ちしてましたよ。さあ、お上がり下さい」
と、信夫が言った。亜由美は信夫に案内されて、リビングへ通された。亜由美は、信夫と向かい合って、ソファーに腰を下ろした。
「まさか君が出頭して来るとはね」信夫が言った。
「わたしも・・・・・・。出頭する気はありませんでした。ただ、愛する人の為に、罪を償うことにしました」
「愛する人。それは吉田萩のことだね?」
「よくご存じですね」
「君のことならなんでも知ってるよ」
亜由美は鼻で笑って、
「何故、わたしを逮捕しないんですか?」
「そうだな。本当は逮捕するべきなんだが・・・・・・。条件さえ飲んでくれれば、きみの罪をなかったことにしてもいい」
「条件をのむ気はありません」
「まだなにも言ってないぞ」
と、信夫が苦笑した。
「あなたと話をする時間はありません。早く逮捕して下さい」
「君はなにも分かっていない。亜由美さん。あなたは人殺しなんですよ。逮捕されて、起訴されれば、どれだけ穏便に見ても、無期懲役なんです。それを分かって言ってるのか?」
「分かってますよ。それに、無期懲役にはなりません」
「なに?」
「わたしは襲いかかってきた男を殺害しただけです。つまり、襲ってこなければ、命を落とすことはなかったんです。わたしは無差別に人を殺した覚えはありません。だから、情状酌量の余地があると思います」
「それはどうかな」
(この女、なにを考えてるんだ?)
と信夫は思った。どうすれば自分のものになるのか。信夫は必死で頭を動かした。信夫は思いついたような顔で言った。
「わたしがその気になれば、裁判長が決めたことでさえ、覆すことができるんだ。きみを死刑にすることも可能だ。わたしにはそれほどの力がある」
亜由美が笑った。信夫が前のめりになって、
「なにがおかしい! 君は犯罪者だ! どの道普通の人生は送れない。だからせめて・・・・・・わたしの女になってくれれば、すべての罪を闇へ葬ってもいい・・・・・・」
亜由美は表情を変えることなく、信夫の顔を眺めていた。亜由美は脚を組み、腕を組んでから信夫の目を見て言った。
「虚偽有印公文書作成罪」
「え?」
信夫の顔から血の気が引いた。
「覚えるのに苦労しましたよ。わたし、必要なこと以外は覚えない主義なんです。ところで黒峯さん。あなたの息子さんは、一体どれだけの女性に迷惑をかけたんですか?」
「な、なんのことだ?」
「あなたは虚偽の文書を作成して、康太さんの罪を隠していましたね?」
「それは、なぜきみが、知っている?」
「内部告発によって明らかにされました。それに――」
亜由美は上着のポケットから録音機を取り出して、
「あなたの卑猥な発言は、しっかり録音させていただきましたので、あしからず」
信夫が自分の拳を握り締めた時、玄関のドアが開く音が聞こえた。数人の足音がリビングに近づいてきた。五人の男性刑事がやってきた。その中の中年刑事が、信夫に向かって逮捕状を見せた。信夫は前庭に立つ像のように、固まっていた。亜由美は黙ってソファーから立ち上がり、黒峯家を後にした。

                             ★ 

秋が紅葉と共に深まってきた。吉田は屋根裏部屋で一通の手紙を読んでいた。亜由美が書いた直筆の手紙を読むのは初めてだった。刑務所での生活のことが書かれてあった。吉田は、手紙を小さな引き出しの中に納め、仰向けになって寝転んだ。一年後に彼女は出所する。吉田は一年後が楽しみであった。
寝返りをうつと同時に、インターホンが鳴った。吉田は部屋を出て階段を下りた。裏口のドアを開けると、未由が立っていた。
「どうした?」吉田が聞いた。
未由はピッチリしたレギンスパンツをはいていた。吉田はそれを見て心が躍った。亜由美が帰ってきたような気がした。
「ちょっと話したいことがあるんだけど」未由が言った。
「いいよ。入って」
未由は店内に入ってカウンター席に腰を下ろした。吉田はカウンターの中でレモンティーを作っていた。未由が大人しい声で言った。
「萩くん。亜由美さん、元気?」
「うん。元気だよ」
「・・・・・・あのさ。萩くんのお父さんって、犯罪者なの?」
吉田の手が止まった。
「誰から聞いたんだ?」
「わたしの父親が言ってたよ」
吉田はレモンティーを未由の前に置いた。
「その通りだ。オレの父親は、いま刑務所に居るよ」
と吉田が言った。
「ふ~ん・・・・・・」
「お父さん、なにか言ってなかったか?」
「え? ・・・・・・うん。言ってたよ」
未由は暗い表情の吉田を眺め、
「もう二度と店に行くなって、言ってた」
「そっか・・・・・・」
「萩くん。父親が犯罪者だってこと、どうして黙ってたの?」
「知らなかったんだ。亜由美さんから聞かされて、初めて知ったんだ」
「そうなんだ」
と言ってから、未由は自分の髪に触れ、
「本当の親が誰なのか、知りたくなかったの?」
吉田は頭を横に振った。
「親の代わりになってくれる人が居たから、わざわざ本当の親を探す必要がなくなったんだよ」
未由は微笑して、
「幸せだったんだね」
未由がレモンティーを飲んだ。吉田は未由の隣りに腰を下ろした。
「未由」
「ん?」
「オレの中には犯罪者の血が流れているからさ。あまり近づかない方がいいんじゃないか?」
未由は強い視線を吉田に向けて、
「わたしは萩くんに恋してるのよ。萩くんの父親がどんな人であろうと、わたしには関係ないよ」
「オレは亜由美さんに恋してるから、未由の恋は実らないよ」
「分かってる。でも、もし、亜由美さんに振られた時は、真っすぐわたしのところへ来てね」
「両思いだから、振られることはないと思うけど」
「はいはい、分かりました。どうぞお幸せに」
未由はレモンティーを飲み干してから、立ち上がった。
「萩くん。時々、電話とかメールとかするけど、着信拒否にしないでね」
「ああ、分かったよ」
「じゃあね」
未由は寂しそうな顔で店を後にした。
未由を見送ってから、吉田は車を走らせた。亜由美の家に言ってみたくなった。吉田は窓を全開にして、心晴れやかに風を切って走った。亜由美の家が見えてきた。彼女は現在刑務所の中であった。
吉田は車を止め、誰も居ない家を眺めた。亜由美がいなくとも、吉田は幸福を感じることができた。亜由美は歳を重ね、更に良い女になって帰ってくる。吉田はその日が待ち遠しかった。
亜由美の家の側に、トラックが一台、駐車してあった。吉田はトラックに気が付くまで、少々時間が掛かった。家の玄関が開き、作業着を着た男が三人出てきた。
(引っ越屋? どういうことだ?)
と吉田は思った。男らはトラックに乗ってその場を走り去って行った。トラック特有の大きなエンジン音が響いていた。静かな空気が戻ってきた。同時に不安な空気が流れ込んだ。吉田は、車から降りて亜由美の家に近づいた。吉田は表札を見て驚いた。
(鈴木・・・・・・?)
確かに表札には鈴木と書かれてあった。
(亜由美さん。いつ引っ越したんだろう?)
吉田は車を走らせ、キャバレーへ向かった。ハンドルを持つ手が震えていた。赤信号で止まるたびに、自分は運のない男だと思った。店に辿り着くと、シャッターが閉まっていた。まだ営業時間ではなかった。
吉田は車から降りて店を眺めた。亜由美が引っ越すはずがない。自分は幻覚を見ているのだ。いや、きっと場所を間違えたのだ。あの家は間違えなく鈴木宅であり、亜由美の家はもっと別の場所にあるのだ。吉田は過剰なまでの思い込みを深めて行った。
夕闇が訪れる頃、二人の男がやってきた。どうやら店の常連客らしい。店の女の子の中で、一番好きなタイプは誰か? そういった会話で盛り上がっていた。会話の中で、亜由美が店を辞めたという話題が持ち上がった。
吉田はスマホで亜由美に電話を掛けた。すると、感情のない機会音が聞こえた。
『オカケニナッタデンワバンゴウハ、ゲンザイツカワレテオリマセン』
吉田は蒼い顔で、スマホを地面に落とした。ショックだったが、冷静に考えれば不思議なことではなかった。亜由美は刑務所の中に居る。店を退職して、スマートフォンを解約したとしても、おかしくはない。
店には迷惑を掛けたくないゆえ、辞めたのだ。スマホは電話が使えないため、解約したのだ。そして近所の住民に迷惑を掛けないために、他の家に引っ越しをしたのであろう。吉田は冷静でいながら、どこかで見えない不安を感じていた。
気づけばシャッターが開き、女店員が五人ほどで、常連客を店内へ案内していた。
「萩くんか?」
吉田が振り返ると、輝夫が立っていた。輝夫は顔色の悪い吉田に向かって、
「大丈夫か?」
吉田は返す言葉が見つからなかった。
「塚元さん。出頭したんだってね。萩くんが説得したんだろ?」
「はい・・・・・・」
輝夫はカバンの中から白い封筒を取り出して、吉田に手渡した。
「それは塚元さんから貰った手紙だよ。三日前に店を辞めたんだが、そのことは知ってたか?」
(知らない。なぜ三日前なんだ? 亜由美さんは刑務所に居るんでしょ?)
吉田は倒れそうな自分の心をなんとか支えた。
「いえ、知りません。あの・・・・・・。亜由美さんは、どちらへ?」
と、吉田はようやく絞り出すように言った。
「さあねえ。それは教えてくれなかったよ。これからどうするのか。どこで働くのか。なにも話してくれなかった」
「刑務所にいらっしゃるんじゃないんですか?」
「刑務所? いや、取調べのあと、釈放されたそうだ」
(なんてことだ! 亜由美はぼくに嘘を付いている!)
「その話は、誰から聞いたんですか?」
「塚元さんが言ってたよ。じゃあ、仕事があるから、これで失礼するが、また会いに来てくれるか?」
「はい。必ず・・・・・・」
輝夫は疲れたような笑顔を見せてから、店の中へ消えた。輝夫の背中は喪失感に満ちていた。吉田は車の中で手紙を読んだ。

拝啓。吉田輝夫様。わたしは殺人者です。いままで黙っていて、すみません。わたしは好きな人に説得されて、出頭を決意しました。婦警さんの計らいで、そく釈放となりましたが、人殺しの罪名が消えることはありません。十代頃、荒れた性格のわたしを雇ってくださり、ありがとうございました。これからのことは、私ひとりで決めていきたいと思います。

お店に迷惑を掛けたことは心残りですが、いつかお詫びに参りますので、その時はよろしくお願いします。輝夫さんに会えて、本当に良かったです。お父さん、さようなら。塚元亜由美。敬具。

手紙の表面に、水滴のあとが残っていた。輝夫にとって亜由美は、掛け替えのない存在だったのだ。吉田は手紙を封筒の中に納め、車を走らせた。亜由美は嘘の手紙を送ってきた。吉田は純粋に悲しかった。亜由美は吉田に対して嘘の手紙で、さり気ない別れを告げたのだ。
店を辞める気持ちは分かるが、スマホの解約となれば、吉田の脳裏には失恋という言葉しか、浮かんでこなかった。もう彼女と連絡を取ることは出来ない。
吉田は車で養護施設へ向かった。夕闇に包まれた懐かしの建造物が見えてきた。駐車場で車を止めて、庭の花を眺めた。施設の玄関が開き、直子が出てきた。直子は真っすぐ吉田の車に近づいてきた。
吉田は運転席から直子を見た。直子は元気のない吉田に向かって、
「萩くん。亜由美さん、元気?」
「亜由美さんと、連絡が取れなくなりました」
「そう・・・・・・」
「直子さん。園長先生は、おられますか?」
(わたしに会いに来たんじゃないんだね)
直子は寂しい心の声を放った。
「園長先生なら、退職されたわ」直子が言った。
枡田が退職した? 吉田は亜由美の行方を知るために、最後の望みを掛けて施設へやってきた。枡田なら亜由美の居所を知っているかもしれない。そう思っていたのに・・・・・・。
「直子さん。枡田さんの住所を教えて下さい」
「どうして?」
「枡田さんなら、亜由美さんの行方をご存じだと思いまして・・・・・・」
「萩くん」
と言って、直子はしばらく吉田の顔を眺めた。その時、暗い予感が直子の中でよぎった。それが現実のものになるとは、想像も付かなかった。そして誰も、吉田の死を望んでいなかった。
「残念だけど、枡田さんは、現住所から引っ越されたわ」
吉田は驚いた顔で、
「どこへ引っ越されたんですか?」
「それは、教えてもらえなかったわ。あまり言いたくない事情がありそうだったけど」
吉田は直子に向かって深々と頭を下げ、車に乗って走り出した。ルームミラーに映る直子の目には光るものが見えた。吉田は亜由美に夢中だった。
(会いたい! 亜由美に会いたい!)
せめてもう一度会って、面と向かって別れを告げてほしい。はっきりと断ってくれるなら、諦めることができる。吉田は感情を抑えながら、運転を続けた。遠方の蒼い山脈が、淋しい視線を向けてきた。まるで亜由美に見られているようであった。

                              ★
                                  
狩野家では、未由の大学入学の祝いで、海外旅行へ出かけていた。ヨーロッパの街並みはいつ見ても美しかった。未由が旅行から戻ってスマホを見ると、吉田からの着信履歴が入っていた。
留守番電話に、「会って話がしたい」というメッセージが入っていた。未由は吉田に電話を掛けた。その時、父昭則(あきのり)がやってきて、スマホを取り上げた。
「あの男と係わるなと言ってるだろ!」
と、昭則は大きな声を出した。母のトウ子は、中立な態度を取っていたが、基本的には父の味方であった。すべては娘の為であった。だが、未由にとって両親は、ただの分からずやとしか思えなかった。
吉田萩の人柄は、未由が一番理解している一人だと思っていた。吉田の父は犯罪者だが、子供は関係ないのだ。父にスマホを取られたあくる日、未由は身支度をして家を出た。大学で知り合った男女三人と、映画を観る予定だった。
未由はスマホがないので、母の携帯を借りて街を歩いた。未由は吉田の喫茶店へ向かった。店の扉に、閉店と書かれた貼り紙が見えた。未由の鼓動が速まった。裏口へ回ってインターホンを鳴らしたが、吉田は出てこなかった。未由は仕方なくその場を去って行った。

数日後、未由は家族で花見に出かけた。満開の桜の花びらが、未由の口内に入ってきた。未由は呆然と立ち尽くし、白い桜の風景を眺めていた。トウ子が未由に近づいてきた。トウ子は未由の手を握り、頭を撫でてくれた。
親が娘を大切にする気持ちに変わりはなかった。父は桜の景色を写真におさめていた。
未由はふと考えた。
(萩くん。亜由美さんと上手くいってるの?)
会って話がしたいと、留守番電話で言っていた。それは、友達として未由に会いたくなったのか、それとも亜由美に振られたから付き合ってほしいという意味なのか。どちらにしろ、はっきりとしたことが分からない以上、うかつな判断ができなかった。
もしも吉田が、亜由美に振られていたとすれば、両親の反対を蹴飛ばしてでも、吉田と付き合っていただろう。だが今は連絡が取れない状態であった。未由は口から花びらを吐き出し、淋しい花見を終えて帰路に付いた。

大学は思っていた以上に楽しかった。寒くもなく、暑くもない風の影響で、余計なことを考えてしまう。未由は授業が終わった後、大きな溜め息を付いた。未由は、吉田のことを諦めようと思っていたが、なかなか吹っ切れなかった。
不意に視線を感じ、振り返ると背の高い男が立っていた。鼻が高く、目がキレイだった。
「狩野未由さんですか?」男が聞いた。
「はい。狩野ですが」
未由は立ち上がり、久々に自分の髪を触った。吉田以外にも良い男がいる。未由の心がほんの少し、揺らいだ瞬間だった。
「北川優(きたがわ・まさる)です。よろしく」
「よろしくお願いします」
と言ってから、未由は頭を下げた。
「もしよければ、最寄り駅まで一緒に帰りませんか?」北川が言った。
「はい。わたしでよければ」未由が言った。
未由は北川と二人で大学を出た。未由は男と二人っきりで、街の歩道を歩いた。少し怖かったが、この男は大丈夫だと確信した。吉田とは別な意味で、やわらかいものを醸し出していた。
北川の話では、新しいカフェの店が出来たらしい。二人はその店へ向かった。見慣れた道を真っすぐ歩いて、T 字路を左へ曲がった。確かにこの道は知っている。愛する男が経営する店が、あと少しで見えてくるはずだった。
が、未由の目に映った店は、まったく違った外観であった。吉田萩の店ではなかった。未由は北川と一緒に、店の中へ入った。コーヒーの香りが漂っている。内装は前より明るく見えた。女の店員が、「いらっしゃいませ」と言った。未由は店員の腕を掴んで、
「あの! 萩くん。いえ・・・・・・。ここの経営者の方は、どうされましたか?」
「はい?」女店員は少しうろたえた。
「経営者は男の方ですか?」
「いえ、女性ですが」
と言って、店員は瞬きを何度も繰り返した。
「では、店長の名前は吉田ですか?」
「いえ、池田という女性です」
「吉田萩という人を、ご存じですか?」
「・・・・・・存じ上げませんが」
未由の体がよろめいた。北川優が、すかさず未由を支えた。
「狩野さん。大丈夫ですか?」
未由は温かい腕の中でふと思った。
(萩くん。亜由美さんと別れたんだよね? きっとそうだよ。ごめんね萩くん。ダメな女で・・・・・・)
未由は涙を流した。北川が黙って未由を抱き寄せた。未由は悲哀の中、目を閉じた。いまは吉田と過ごした思い出に、寄り添うことしかできなかった。

                              ★

直子は夜道を歩いていた。頭を下げる吉田の姿が、直子の心の中に残っていた。それ以来、彼とは会っていない。カフェの店は、他の経営者に売り渡したらしい。吉田にはもう会えない。直子は失恋の重みを初めて感じた。これからは養護施設の子供たちの為に、全力を尽くすことにした。
遠方でマンションの灯りが見えた。この辺りは、やや自然の風景が目につく。歩道のない道路を歩いていると、後ろから足音が聞こえた。振り返ると、帽子を深く被った男が俯きながら、直子と同じ方向を歩いていた。
直子は足を速め、静かな公園に入った。後ろを歩く男は、公園の前を通り過ぎて行った。直子は溜め息を吐いた。男はたいがい真面目であった。襲ってくる狼は殆ど居ない。直子は帽子の男を見送ってから、公園の中を見回した。
一台のブランコが外灯に照らされ、淋しそうであった。直子は夜空の星をしばらく眺めたあと、来た道を引き返した。その時、強烈な匂いが鼻を襲った。目の前に厚化粧の男が立っていた。オレンジ色の髪、紫色のアイシャドー、そして赤い口紅が目立っていた。
直子は一瞬びっくりしたが、すぐに状況を掴むことができた。男はバッグの中から、一枚の紙を取り出して広げた。
「お嬢さん。ちょっと聞いてもいいかしら?」男が言った。
直子は黙って頷いた。男はタウンマップを直子に見せた。
「ここへ行きたいんだけど」
男が指をさした場所、それは紛れもなく、目の前の公園だった。
「あの・・・・・・。すでに到着されてますよ」直子が言った。
「あらごめんなさい。わたしってバカね」
「いえいえ、では失礼します」
直子が歩き出した時、後ろから女装した男が抱き付いてきた。直子は混乱した頭を整理しながら冷静に考えた。
(この人、男だわ)
直子は半信半疑だったが、次の瞬間、半分だった疑いが完全なものになった。男の下半身が硬くなり、直子のお尻に突起物が密着していた。
「仲良くしようか」男が言った。
直子は怖がることなく、スタンガンのスイッチを押した。背中の装着型スタンガンの電気が発動された。
「ギャー!」
醜い男の声が、公園の中まで響いた。男は倒れ、白目を向いていた。枡田の置き土産が役に立った。直子は男を睨みつけ、その場を去った。
直子はしばらく、人通りの多い道を歩いた。街の光が、直子の沈んだ心を支えてくれた。枡田はどこへ行ったのだろう? 直子は思案を巡らせた。直子は、枡田が退職する少し前に、施設の地下にある秘密の部屋に案内され、そこで初めてスタンガンの研究を進めていることを告げられた。
枡田は棒状のスタンガンと装着型のスタンガンを直子に手渡し、施設を去って行った。その後、枡田から連絡がくることはなかった。
直子はゲイバーの前で立ち止まり、息を吐いた。親しい人が自分の前から離れていく。ひとり、二人と・・・・・・。直子は孤独というもっとも怖ろしい影に襲われた。その時、ナチュラルメークの男が店から出てきた。
「お嬢さん、元気? よかったら内で飲まない? 安くしとくわよ」
直子の心が明るくなった。この男は本物のゲイだと確信した。

                              ★

吉田は蒼く白い山を目差していた。山に近づけば近づくほど、蒼白の風景が変化していく。
薄い森の景色が現われ、麓まで近づけば、蒼白の風景が消えてしまう。亜由美は蒼白の色に相応しい女であった。
大小の岩と、深い森に覆われた山を登って彼女の色を探したが、いっこうに見つからなかった。ひとりで登る山道は、思った以上に辛かった。山の頂上へ辿り着いたとき、吉田は愕然となった。
彼女の幻影が、遠方の山々と重なって見えた。もうあの笑顔は見られないのか・・・・・・。吉田がいくら手を伸ばしても、蒼白の風景に触れることはできない。一年立っても二年たっても、亜由美が吉田の前に現れることはなかった。吉田は全国を旅することで、偶然の再会に期待を寄せていた。
吉田は勢いよく山を下りた。足を滑らせ、泥まみれになりながら、無事麓まで下りきることができた。小雨が降ってきた。雨に合わせて涙が出ると思ったが、一滴も流れ落ちることはなかった。悲しいというよりも、失望感でいっぱいだった。
辺りが薄暗くなってきた。故郷とは異なる風景の中を歩き、路地へ入った。人通りの少ない道を進むと、若い婦警と中年の婦警が巡回をしていた。若い婦警が、泥まみれの吉田に気づき、中年の婦警と一緒に近づいてきた。
「吉田さんですか?」
と、若い婦警が話しかける前に、中年の婦警が口を出した。
「はい・・・・・・。吉田です」
「わたし、誰だか分かる?」中年の婦警が聞いた。
「・・・・・・森さんですか?」
と、吉田は元気のない声で言った。
「ええ、そうよ。こんな遠いところで会えるとは、思わなかったけど」
若い婦警の顔から警戒心が消えた。
「山登りしてたの?」森婦警が聞いた。
「はい・・・・・・。彼女は、いませんでした」
「彼女? 亜由美さんのことね? ・・・・・・実は、亜由美さんから伝言を預かってるんだけど」
「伝言? ぼくにですか?」
「ええ」
「亜由美さんはなんと、仰ってたんですか?」
森婦警は深呼吸をしてから吉田の目を見て言った。
「迷惑かけてごめんさい。わたしは独りで生きていくから、萩くんは普通の女性と結婚して、どうか幸せになって下さい。と・・・・・・」
(そうか、そうか、そうか・・・・・・)
もう九州へ帰ろう。吉田は頭を下げてから、森婦警と別れた。街灯の光が眩しかった。光が刃物に見えた。いまなら幻覚を見ても不思議ではない。ショックを通り越し、心が墜落しそうであった。
(亜由美が独身を貫くというのなら、オレも独りで生きていく)
吉田は心の中で誓った。ふらふら歩いていると、紫色のランプが目に止まった。中年の女がバーの前でタバコを吸っていた。『しぐれ』と書かれた看板が怪しく光っていた。吉田は立ち止まり、中年の女を眺めた。年齢は不詳だったが、容姿は端麗であった。
「兄ちゃん。わたしになにか用かい?」中年の女が吉田に向かって聞いた。
「いえ、別に・・・・・・。失礼しました」
吉田は会釈をしてから歩き出した。女の視線を背中で感じた。強く怪しい目力であった。前方から中年の男がやってきた。
(枡田さん?)吉田は心の中で叫んだ。
枡田は俯いたまま吉田とすれ違い、バー『しぐれ』の前に立つ女に、声を掛けていた。枡田は女と共に、店の中へ消えた。吉田はしばし沈黙していたが、自然と足が動き出し、バーの中へ入っていた。
店の中は紫色で覆われていた。壁や天井、カウンターテーブルや椅子など、殆どが紫であった。
「いらっしゃい。あら、さっきの・・・・・・」
と中年女が言った。枡田は機嫌の良い顔で吉田を見た。その瞬間、枡田の表情が硬くなっていくのが、吉田にも分かった。吉田はカウンター席に座る枡田に近づき、
「こんばんは」
「やあ、シュウ。ここでなにしてるんだ?」
久々の再会だったが、枡田はそれほど嬉しそうではなかった。
「ぼくは、ある人を探してまして・・・・・・」
「まあ、座りなさい」
吉田は枡田の隣りの席についた。
「ママ。ドライカレーとビールを下さい」枡田が言った。
「はい。ただいま」
中年女がチラッと吉田を見てから、奥へ引っ込んだ。枡田はママの姿が見えなくなってから口を開いた。
「塚元さんを探しているのか?」
「はい。その通りです」
「そうか・・・・・・」
枡田は水を飲んでから吉田に向かって、
「塚元さんは、もう誰とも付き合う気はないよ」
「それは、分かってます。ただ・・・・・・ひと目でいいから、会いたいんです」
枡田はなにか言いたそうだったが、グッと堪えて再び水を飲んだ。
「枡田さん」
「ん?」
「どうして養護施設を退職されたんでうか?」
「うん・・・・・・」
枡田は少し黙ってから言った。
「非常に言いづらいことなんだが・・・・・・。わたしは、ある人に恋をしたんだ」
「ある人?」
と言ってから、吉田は気配に気づき、前を見た。ビール・ドライカレー・水が入ったグラスを盆に乗せて、ママがやってきた。
「ママ。紹介するよ。息子の吉田萩くんだ」
「息子? 枡田さん、子供いましたっけ?」
と言って、ビールとドライカレーを枡田の前に置いた。
「血は繋がっていないがね。息子のようなもんだよ」
と言ってから、枡田が吉田を見て、
「萩。こちらは亜由美さんのお母さんだよ」
「え・・・・・・?」
吉田は驚いた。彼女の母に会えるとは思わなかった。
「真由美って名前だよ。よろしくね」
真由美は水のグラスを吉田の前に置いた。
「よろしくお願いします」吉田が言った。
「あんた、あの子の知り合いかい?」真由美が聞いた。
「はい。福岡の方で、喫茶店を経営しておりまして。いまは他のかたに店を譲りましたが、亜由美さんは、その店の常連になってくれました。とても、優しい人でした」
「へえ~。そうなの・・・・・・。あの子、人見知りするでしょ?」
「いえ、明るくて、面白い方でした」
「明るくて、面白い? ふ~ん・・・・・・。あんたさ。もしかして亜由美のこと、好きなの?」
「はい! 大好きです!」
吉田は清々しい顔で言った。真由美は目を丸くしてから、沈んだ顔で、
「あの子が人を殺したってことも知ってるのかい?」
「もちろん知っています。それでもぼくは、亜由美さんのことが好きです。亜由美さんには、振られましたけどね」

近づけば近づくほど、彼女は見えなくなり、別の山の蒼さに染まっていく。吉田は涙が出そうになった。
「わたしが悪いのよ」と真由美が言って、「わたしがあの子に、淋しい思いをさせたから・・・・・・」
「ママは悪くないよ。たとえ法律で裁かれたとしても、多くの女性が彼女を支持すると思うよ」
と言って、枡田はビールを飲んだ。吉田は二時間ほどバーで過ごし、枡田と別れた。枡田は多くを語らなかった。なにかを隠しているような気もしたが、枡田も真由美も、亜由美がどこへ行ったのか、知らないと言っていた。
(会いたい。亜由美に会いたい)
と思いながら、吉田は街を歩いた。街灯が所々で光っていた。亜由美は、真由美が女でひとつで育てたひとり娘であった。十代の頃に家を飛び出し、そのまま帰って来なかった。
久々に再会した娘から、人を殺めたと告白された時は、ずい分驚いたが、仕方のないことだと真由美は思った。離婚と再婚を繰り返し、男と遊んでばかりいる母の姿を見て、娘が関心を示すはずがない。
吉田はそれでも、真由美を責めることができなかった。なによりも亜由美と出会えたことに感謝して、もう一度彼女の笑顔が見たかった。吉田は前向きに考えながら、閑静な夜道を歩いた。T 字路からスタイルの良い女が出てきた。
横顔だけで、その女が亜由美であることに気づいた。亜由美は真剣な表情で吉田に背を向け、歩き出した。吉田は声が出せなかった。声を掛けるよりも先に、体が動いていた。吉田は速足で進み、後ろから亜由美を抱きしめた。
数秒後、吉田の体に電気が流れた。吉田はそのまま仰向けになって倒れた。
(・・・・・・ここはどこなんだ? そうか、オレは死んだのか・・・・・・)
吉田は自分がどのような状況で最後を迎えたのか、いまはっきりと思い出すことができた。

                             ★

吉田は自分の足で、高速道路を走っていた。時速百キロの車を余裕で追い抜かし、トラックにぶつかっても、まったく痛みを感じなかった。吉田は高速の出口を下りて、一般道へ出た。走っても走っても疲れなかった。
吉田は車より速い足で、街の道路を走った。時には男女二人乗りで走行するバイクの後尾に無理やり腰掛け、ゆったりとした街の風景を眺めた。十二キロメートル先で、吉田萩の葬儀がなされていた。
吉田はバイクから飛び降りて、歩道を歩いた。かたちの良い尻を持つ女が、吉田の前方を歩いていた。タイプではなかったが、かなり美人であった。吉田は女を後ろから抱きしめた。
女の動きに変化はなかった。吉田は女にしがみ付き、引きずられるように進行した。
恥ずかしい最後であった。吉田は、もう二度と亜由美を放したくない一心で、声を掛けるのを忘れていたのだ。吉田は亜由美に殺されたのだ。が、吉田は後悔などしていなかった。
愛する人に見取られ、むしろ幸せだった。
亜由美は始め、なにが起こったのか理解できなかった。犯罪者を倒したと思い、振り返って見れば、愛する男が倒れていた。
「どうして? どうしてなの? 萩くん・・・・・・」
亜由美はすぐに救急車を呼んだが、吉田は助からなかった。吉田は生前の思い出に浸りながら、横断歩道を渡った。真っすぐ進むと、葬儀会場が見えてきた。女は広い敷地内に建つ会場の中へ入った。
この女が葬儀屋の一員だったとは、知らなかった。吉田は女から離れて、綺麗な廊下を歩いた。女は作業員専用の部屋へと消えた。吉田は葬儀が始まるまで、会場の外で待つことにした。
吉田は壁をすうりぬけて外に出た。駐車場で寝そべっていると、鮮やかな鳥が大空を舞う姿が見えた。遠方の雲の上に人が乗っている。吉田は位の高い力を感じた。三百年前に亡くなった人であることがすぐに分かった。
ラジオがなくてもテレビがなくとも、簡単に情報が入ってくる。そういう世界であった。吉田は世界旅行へ行きたくなった。まだ行ったことのない美の地球の風景を、瞳の中に納めたかった。
吉田は浮き上がるように立ち上がり、会場の中へ入った。エントランスを通り過ぎると、多数の参列者が受付の前で列を作っていた。喫茶店の常連達・養護施設の職員・学校の先生・そして狩野未由と未由の両親の姿が見えた。
受付を担当するのは、枡田吾郎と森山直子であった。塚元亜由美の姿はどこにもなかった。
(来てくれなかったのか・・・・・・)
吉田は少々傷ついたが、今なら亜由美の気持ちが手に取るように分かるゆえ、余計に悲しかった。大勢の参列者が涙を流し、特に未由が取り乱していた。泣き叫ぶ声が会場に響いていた。
(わたしは間違っていたのか・・・・・・)
と、未由の父は思った。
(そこまで彼のことを愛していたのね)
と、未由の母が思った。
そこまで大事にされていたとは・・・・・・。吉田は正直驚いた。みんなの寂しい表情が、吉田の霊体に沁み渡っていく。
(未由・・・・・・。ごめんな。オレはダメな男だ)
吉田は会場を飛び出した。時速三百キロで道路を走り、壁という壁を一瞬で、すうりぬけて行った。吉田は内や外の、民衆の営みを見ながら、日本中を走り回った。だが、亜由美を見つけ出すことはできなかった。
吉田は悲しくなり、光のエレベーターで天へ昇った。水色の雲が目に入ってきた。空の色は薄いピンクであった。吉田は柔らかい雲の上を歩いてから横になり、目を閉じた。
光り輝く銀河の夢を見た。銀河を漂う夢は神秘的で楽しかった。宇宙の揺りかごに揺られ、吉田は贅沢な気分を味わった。地球が見えてきた。丸い地球を覆い被さるように、薄蒼い膜が張られている。
「あれが霊界だよ。萩」
吉田は男の声で目が覚めた。爽快な気分であった。吉田は起き上がり、辺りを見て驚いた。雲の風景が、広大な砂漠へと変化していた。暑さ寒さは一切感じなかった。蒸気が吹き上がる音が吉田の耳に届き、後ろを振り返ると遠方から、汽車がこちらに向かってきていた。
紫色の汽車が吉田の側で止まった。砂で隠れたレールが、風の影響で見え隠れしている。黄金色の車両が八つ、並んでいた。最後尾の車両のドアが開いた。吉田はしばし、豪華な汽車を眺めてから、列車の最後尾に乗り込んだ。
ドアが閉まり、汽車が蒸気を噴きながら走り出した。金や銀の砂漠を通り過ぎると、ルビー色に輝くピラミットが見えてきた。その時、砂煙が起こった。吉田は、少しずつ砂に埋もれる車窓を眺めていた。
光が完全に遮られたが、真っ暗ではなかった。魂で造形された瞳が、ライトの代わりをなしていた。深海の生物が車窓の外で泳いでいる。怪しくも美しい光を放つ深海魚と、目が合った瞬間、車輪がガタガタと揺れる音が聞こえ、汽車は更に深海へと進んだ。
暗黒のトンネルを抜けると、広大な草原が見えてきた。だがそこは、灰色の湿地であった。美しい風景ではなかった。汽車が徐に速度を落とし、灰色の広い景色の中で止まった。吉田の気持ちは晴れていた。灰色の風景を見た所で、テンションが下がることはなかった。

足音が聞こえた。下田亮助がやってきた。下田はドア越しで、吉田と向かい合った。が、ドアが開くことはなかった。吉田はドア窓に映る、血の通った暴君を凝視した。これが自分の父親なのか? 
「父親ではない!」下田が言った。
吉田は黙って下田の話を聞いた。
「お前は犯罪者の子供だと世間から思われ、苦労するはずだった。だがお前は死んだ。いい女に消されたんだろ? オレは仮出所させられたよ。警察が余計なことをしたせいで、オレは見知らぬガキに殺されたんだ。え? 誰がオレの命を奪ったかって? 教えてほしいか?」
吉田は小さく頷いた。
「北川優だよ」
と言った瞬間、下田は目を見開き、列車のドアに手の平を付けてから、うつ伏せで倒れた。
下田の背中に矢が刺さっていた。矢の羽の部分が可憐な花になっていた。
遠方から馬がやってきた。馬に跨っていたのは、桜井佳苗であった。佳苗は手綱を操り、吉田の目前までやってきた。その時列車のドアが開いた。佳苗が馬から降りて列車に乗り込むと、ドアが閉まり、汽車が動き出した。
馬がひと鳴きしてから、走り去って行った。吉田と佳苗は、馬の後を見送ってから、互いに見つめ合った。
「北川くん。心底わたしに惚れてたみたいね。いまは未由と付き合ってるけど・・・・・・」
と言って、佳苗が吉田の唇にキスをした。キスの感触がたまらなかった。
「吉田さん。気持ちいいでしょ?」佳苗が聞いた。
「うん、とても・・・・・・」吉田が言った。
「やっぱりね。苦労してる人は、なにをやっても気持ちよくなるんですよ」
吉田は佳苗を抱きしめた。甘い香りが、鼻から全身に吹き荒れた。吉田は佳苗の心の中へ入って行った。佳苗は北川よりも好きな男がいた。その名は吉田萩であった。家族で喫茶店に行った時、吉田を見て格好良いと思っていた。
しかし、声は掛ける勇気はなかった。佳苗にとって吉田は、かなり好みの男であった。
「ちょっと吉田さん。あまり見ないで下さい」佳苗が言った。
吉田は佳苗を放して、
「ごめん。でも、嬉しいよ」
「それはどうも」
吉田は車窓の外を眺めた。湿地が永遠に続いているようであった。車両が少し揺れた。次の瞬間、聞き覚えのある声が、佳苗の耳に届いた。
「佳苗。ここに居たのか。探したぞ」
吉田と佳苗が振り返ると、生田謙が立っていた。
「なんだ君は!?」
と言って、吉田が生田に近づくと、生田の強烈なパンチが吉田の腹に決まった。吉田は自分の腹を押さえながら、生田にもたれ掛かった。生田は吉田の胸倉を掴んで、横並びの席に向かってほうり投げた。佳苗は恐怖に怯えた顔で後ず去った。佳苗は女優のような顔で生田を見つめ、
「来ないで」
生田はニヤニヤした顔で佳苗に近づいてきた。
「さあ、楽しもうか」
と言って、生田が佳苗の腕を掴もうとした瞬間、逆に生田の手が佳苗に掴まれ、出入口のドアに向かって、投げ飛ばされた。生田は勢いよくドアにぶつかり、ドアと共に車外へ飛んでいった。吉田はシートに腰掛け、ぐったりしている。
「お芝居、上手ですね」佳苗が言った。
吉田が徐に目を開け、顔を上げて笑顔で立ち上がり、佳苗にキスをした。唇と唇が密着しながら絡み合っていく。二人は心と心で通じていた。
(キスは初めて?)と佳苗。
(生前、一度だけしたことがあるよ)と吉田。
(女性と体を密着させたことはある?)
(あるような、ないような。きみは先に亡くなってるから、ぼくの心はすべて、お見通しだろ?)
(ええ・・・・・・。色々いい思いしてますね。わたしはこれから嫌なくらい、快楽を味わうと思うわ)
吉田の唇と佳苗の唇が離れる時、丁度汽車がスピードを落として止まった。車内から外を眺めると、果樹園が広がっていた。フルーツの香りが心地良かった。
「ぼくも、快楽を味わえるかな?」吉田が聞いた。
「あなたなら大丈夫よ。しばらく、この世界を見物してみたら?」
「ありがとう」
佳苗は笑顔で列車を降りた。吉田は美しい佳苗の魂を見送った。

                              ★

空が泣いていた。海のように厳しい空が・・・・・・。輝夫は雨の中を歩いていた。折り畳みの小さな傘をさして、悲しみを堪えていた。霊園の中へ入り、墓石の前に立ち、手を合わせた。輝夫は吉田の冥福を祈った。
輝夫は過去のことを思い出していた。亜由美は十六歳の時、大阪から福岡へやってきた。どうやら家出したらしい。彼女の体はすでに出来上がっていた。大阪の飲み屋で働いていた頃に、いろんな男から肉体関係を迫られ、ずい分嫌な思いをしたらしい。
初めは警戒心に満ち溢れ、輝夫に対して、なかなか心を開いてくれなかった。輝夫は亡き娘が帰ってきたような気がして、嬉しかった。
亜由美のために無償の愛を捧げると誓ってから、七年になる。彼女は時々、手紙をくれる。
亜由美は、吉田の命を殺めたことを、いつまでも後悔しているようであった。葬儀に来なかったのは、きっと吉田の死を認めたくなかったのだろう。輝夫は流れそうな涙を堪えながら、吉田の墓石に向かって言った。
「亜由美から聞いたよ。きみは洋子の子供なんだろ? ・・・・・・わたしは娘を失い、孫まで失ってしまったのか・・・・・・」
雨が止むことはなかった。冷たい雨であった。吉田は輝夫の側で立っていた。実の祖父の寂しい背中に、吉田は温かい視線を送った。その時、輝夫の携帯電話が鳴った。電話の相手は離婚した妻であった。
「あなた、いま何してるの?」侑子は小さな声で聞いた。
「いまは、孫の墓参りに来ているよ」輝夫は高めの声で言った。
「そう・・・・・・。ねえ、久々にお茶でもしない?」
「ああ、いいよ。喫茶店で、ゆっくり話をしよう」
吉田は微笑してから走り出した。懐かしい街が目に映る。十年前よりも、走る速度が上がっていた。
(もう十年立つのか?)
吉田は自分が死んだ後の時間の流れを、推測してみた。・・・・・・やはり十年たっている。吉田はそろそろ、亜由美の顔が見たくなった。が、霊界の情報に頼らず、なるべく自分の足で探したかった。
甘い香りが鼻にきた。見知る顔とすれ違い、吉田は急ブレーキを掛けた。直子が歩道が歩いていた。吉田はマンションの中へ入っていく直子の後に続いた。直子は、自分の部屋の前で立ち止まり、辺りを警戒してからドアを開けて中へ入った。
吉田が直子の部屋を見るのはこれが初めてだった。リビングの机上に花瓶が置いてあった。花瓶の中から伸びる一輪の花が美しかった。花瓶のすぐ側に、写真立てが見える。吉田と直子が並んで写っていた。
直子は、十代の頃の吉田の写真を見て、「ただいま」と言った。直子は数時間後、浴室でシャワーを浴びた。吉田は、直子の全裸を後ろから抱きしめた。その時、直子の心の中が見えた。現在付き合っている男性から、プロポーズされたらしい。
(萩くん、どうしよう? そんなこと自分で決めて下さいって、言われるかしら? わたしはあなたの居ない人生なんてありえないと思ってた。でも、萩くん以外にも、好きな人ができたよ。萩くん。早く戻ってきたよ。早くしないと・・・・・・わたし、結婚しちゃうよ)
直子は涙を流した。悲しみがシャワーにまみれ、流れ落ちた。
(オレは姉さんの幸福を願ってます。今まで優しくしてくれて、本当にありがとう)
吉田は直子の部屋を出た。階段を上って、マンションの屋上まで駆け上がった。吉田が亡くなってから十年が過ぎるというのに、まだ吉田のことを思い続けている人が居る。喜怒哀楽の哀と喜が込み上げてきた。悲しくも嬉しい気分であった。
吉田は助走をつけ、百メートル離れたビルの屋上まで、飛び移った。そこから急降下で落ちていった。吉田はタクシーの後部席で着地した。男性の運転手が客に気づいて、後部ドアを自動で開けた。
中年のやつれた男が、後部席に乗り込んできた。枡田だと気づくのに、微々たる時間が掛かった。枡田は運転手に行き先を告げたあと、仮眠を取った。吉田は枡田の浅い夢の中へ入っていった。
枡田は、亜由美が狼に襲われる瞬間を、目撃していた。そして狼を倒した亜由美は、一部始終を見ていた枡田の力を借りて、性犯罪者への制裁を始めたのだ。枡田は、まさか自分の発明したものによって、吉田の命を奪ってしまうとは、夢にも思わなかった。
枡田の恋は、吉田の死によって、遠い風景の中へ消え去ってしまった。枡田は幻覚を見ていたのだ。亜由美も吉田も、いままで歩んできた自分の人生でさえも、幻だったのだ。 
恋は実らなかった。おそらく始めから、叶わぬ恋の一方通行をしていたのかもしれない。枡田は目を開けて車窓の外を眺めた。これからはゆっくりと生きて行こう。もう恋はしたくないと、枡田は静かに思っていた。
(枡田さんの好きな人って、亜由美さんなんですね。知らなかったです)
吉田は尊敬の目で枡田を見ていた。それから間なしにタクシーを降りた。吉田は人通りの少ない道を歩いた。女子高生とすれ違い、その後を不審な男が付けていた。女子高生の耳はイヤホンで塞がれている。物理的救助はできない。それが霊界の法則であった。吉田は女子高生に近づき、背中に念を送った。
大人しそうな美人が振り返り、吉田の後ろからやってきた男に気づいて、走り出した。男は残念な表情で、歩行を続けた。
吉田はひとりで走り出した。霊界と人間界の風が融合していた。時速六十キロで、街や山道を走った。二時間後、懐かしい香りに誘われて、吉田はスピードを落とした。男の子がひとり、住宅街の歩道を走っていた。
知らない顔だったが、なぜか知り合いのような気がした。吉田は男の子に付いて行った。男の子は横断歩道で立ち止まり、左右の確認をしてから、白い線を大またで踏み歩いた。さらに歩道を小走りで進むと、中年男性の声が聞こえた。
「シュウ!」
吉田は、自分を呼ぶ声に振り返った。萩という名前の子供が昭則に抱きついていた。住宅街の一角に建つ、真新しい家の中へ、昭則と萩が手を繋いで入って行った。吉田は鍵の掛かった玄関からお邪魔した。
リビングでトウ子がテレビを見ていた。あれから十年が立ち、昭則もトウ子も歳を取っていた。未由は結婚して、男の子をひとり、産んでいた。未由の両親は、萩という名前を息子に付けた理由が分かっていなかった。吉田はすでに忘れ去られていた。
萩がキッチンへ向かった。北川が料理を作っていた。吉田は、北川の行為がバレることはないと思った。下田は殺されても仕方のない男であった。北川は、佳苗の死の悲しみから、ようやく立ち直ろうとしていた。
「パパ、ただいま」萩が言った。
「お帰り」北川が言った。
「ねえ、パパ。ママは?」
「ママなら部屋で寝てるよ」
北川が萩と同じ目線に立ち、
「シュウ。今日はママの誕生日だから、おめでとうって、言ってきなさい」
「朝、おめでとうって言ったよ」
「じゃあ・・・・・・。いつも、ありがとうって、言ってきてくれないか?」
「うん、分かった」
萩は急いで階段を駆け上がった。吉田は萩の後に続いた。未由の部屋のドアが開くと、未由はベッドの上で本を読んでいた。
「ママ!」
と、萩が言って未由に飛びついた。
「・・・・・・お帰り。変な人に声掛けられなかった?」
「うん、大丈夫。ママ、いつも、ありがと」
「え?」
と、未由が言ってから、
「ありがとう・・・・・・」
未由は憂いに満ちた顔で、萩を抱きしめた。
「ねえ、シュウくん」
「なに?」
「大きくなったら、ママと結婚してくれる?」
「うん。大きくなったら、ママと結婚する」
未由は静かに涙を流した。吉田は、未由の心の中へ入った。未由の心はあの頃のままだった。吉田への片思いが、いまも続いていた。
(萩くんと一緒になりたかった。でも萩くんが好きな人は、亜由美さんなんでしょ? 亜由美さんは萩くんの葬儀に来なかったけど、きっと誰よりも萩くんの死を悲しんでると思うわ。萩くんが、黙って居なくなった時は、正直ショックだったけど、萩くんがこの世から居なくなるなて、想像すらしてなかった・・・・・・。もう萩くんには会えないのね? 会いたいよ。萩くん)
吉田は徐に歩き出し、未由の家を出た。
(未由。すまなかった)
吉田は亡くなって初めて、自分を大事にしてくれる人の気持ちが分かった。吉田は全速力で走った。全国の山という山を、登ってみたくなった。

                              ★

冬の風が春の風のように感じた。痛み、苦しみ、暑さ、寒さ、熱さ、冷たさ、すべてこの世界では心地よかった。幽体に蓄積された苦労が、霊界で一気にはじけた証拠であった。苦労をした覚えはないが、その反動で、ここまで気分が良くなるとは思わなかった。
吉田は山の麓で足を止めた。この山は一度登ったことがある。亜由美と二人で登った山だ。良い思いでと嫌な思い出が蘇ってきた。吉田は鼻を動かして、木々の気配を確かめた。
(亜由美の匂いがする)
吉田は山の中へ入った。半無重力状態で山道を進み、鳥の鳴き声に癒され、大きな木の下で立ち止まった。木の太い枝に飛びついて、木から木へ飛び移った。吉田は、一番高い木の枝の上で足を止めた。
草葺の屋根が見えた。吉田は屋根に向かって飛び降りた。屋根をすうりぬけ、板張りの広間に下り立った。吉田は辺りを見て驚いた。多くの人が仏壇に向かって合掌をしていたのだ。吉田は集団の中で、ひと際太った男の体と重なった状態で立っていた。
仏壇の前で髪を剃った女性が、お経を唱えていた。
(亜由美・・・・・・?)
その人物は、紛れもなく亜由美であった。綺麗な声が吉田の魂に響いた。まさか尼になっていたとは・・・・・・。亜由美は、尼になってからまだ日が浅く、おぼつかない知識で仏教の教えを説いていた。
話が終わると、皆別れを惜しみながら、平屋を後にした。吉田はひとり、改築された家に残った。亜由美は玄関の鍵を締め、再び仏壇の前に腰を下ろした。アラサーになっても、髪を切っても、彼女は美しかった。
吉田は亜由美の中へ入った。男に厳しく、女に優しい老人は、もうこの世には居なかった。亜由美が宿へ来なくなってから三年後に、孤独死の床に付いたらしい。第一発見者は亜由美だった。すでに尼となっていた亜由美は、色々な手続きをした後で、老人を手厚く葬った。

亜由美は、元々建っていたこの宿を改装して、先祖を敬う場所と定めた。吉田が亜由美の人生を振り返って見ていたその時、急に亜由美の心の声が聞こえた。
(萩くん、ごめんなさい)
(謝らないでくれ。悪いのはオレだよ)
と、吉田は届かない声を出した。
(わたしのせいで、萩くんは命を落としてしまったわ。これからどうやって罪を償っていけばいいの?)
(もう充分、償ってきたじゃないか)
(萩くん。どうして声を掛けてくれなかったの?)
(仕方なかった。ぼくはきみに夢中だったんだ)
(わたしはてっきり、性犯罪者だと思って・・・・・・)
亜由美の表情は静かであった。一滴も涙が流れ落ちることはなかった。彼女の瞳の奥では、すでに涙の道が出来ていた。亜由美は心の中で、常に涙を流していた。
(わたしはこれから、萩くんの供養を致します。毎日やってることだけど・・・・・・。ずっと、ずっと、あなたを供養いたします。どうかわたしの側で、見守って下さい。萩くん。愛しているわ)
(ずっと、ずっと、亜由美のこと、見守ってるからな)吉田が言った。
眩しい光の気配を感じた吉田は、そっと亜由美の体から出て行った。平屋の外で、光のエレベーターが待っていた。その側で女子高生が立っていた。吉田はキレイな女に向かって言った。
「あなたは、ひょっとして・・・・・・」
「ええ、そうよ。わたしの名前は洋子。あなたの母さんよ」
「母さん・・・・・・」
「ごめんね。沢山、苦労かけたわね」
「オレは苦労なんてしてないよ。オレは母さんの子供だから。百パーセント、母さんの子供だから・・・
・・・。母さんこそ、苦労してきたんじゃないか?」
「そうね・・・・・・。萩と同じくらい、苦労したかもね。あなたを育てるつもりだったけど、叶わなかったわ」
「母さんの愛情、受けてみたかったよ。母さんが母親だったら、オレもっといい人間になっていたと思うよ」
「充分いい人間になれたじゃない。温かい人たちに支えられて、良かったわね」
吉田と洋子は黙って抱き合った。二人は光のエレベーターで、雲より高く上昇した。輝夫・枡田・直子・未由、そして亜由美。いつか会える愛しい仲間を見守りながら、吉田は蒼い風の中へと旅立って行った。



                           
                          ★ 完 ★

蒼白の風景

蒼白の風景

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 成人向け
更新日
登録日
2014-11-04

Copyrighted
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  1. プロローグ
  2. 蒼白の風景