とうこ

一つの作品に一万字書くことを目標にした大学三作目。
テーマは「傷痕」でした。
女の子の話を書きたくて。
一万字の厳しさを知りました。

とうこ

 私の友人の灯子は、時々誰にも知られないようにこっそりと奇妙な行動をとる。それは、灯子の周りにいる大勢の中でも、私しか気が付いていないと思う。
 いつも笑顔を絶やさない、太陽のような人。ありきたりな表現だが、この表現がこれほどぴったりと嵌る人を、私は灯子以外に知らない。同じクラスの灯子は、クラスメイトだけでなく、それこそ老若男女問わず慕われていた。私は、暖かな灯子の笑顔に群がる人々を見て、本物の太陽の方向に顔を向ける疑似太陽のような向日葵を連想した。向日葵は所詮、向日葵。太陽ではないのだ。
 そんな私も、灯子の周辺の人間の一人だった。ただ他の人と違ったのは、なぜかいつも灯子の方から声をかけてくれていたということだった。呼びもしないのに勝手に群がる人とは違い、私は、もし私が望んでいなかったとしても、灯子の隣にいた。隣に呼ぶからといって、特別親しく話しかけてくれるわけでもなく、目立つことが嫌いな私は、クラスで一番目立つ太陽の隣でひっそりと隠れていた。
「泉、帰ろう。」
 放課後になると、真っ先に灯子が席の後ろを振り返って、そう私を誘う。他の誰が灯子を誘っても「ごめんね。」と断るのに、その後にわざわざ私を誘って一緒に帰る。それでも最初に灯子に声を掛けたクラスメイトが嫌な顔をしないのは、灯子だからだ。断り方も誘い方も、その他のことでも、灯子は一人ひとりの人間に最もふさわしい受け答えをする。
「今日は涼しかったね。もう夏も終わりかな。」
「……そうね。」
 帰りの道を一緒に行こうと誘うくせに、別に特別なことはしない。どこででもできるようなくだらない会話。私には、灯子が私と一緒にいようとする理由がわからない。人付き合いが苦手な私は、他の人に比べて特別なことなど何もないのに。
 そして、ああ、ほら。まただ。
 授業中も、この帰り道でも、灯子を見ると毎回気になって仕方がない。白くて細い、彫刻のお手本のような灯子の手。その左側が、華奢な灯子の右肩にすっと伸び、筋が浮き出るほどにぎゅっと強く握る。綺麗に整った指先を、ぐっと自分の肩に喰い込ませるかのように、強く。かなりの力で爪を立てているはずだ。その動作をするたびに、灯子は太陽の笑顔を消す。眉根が寄せられ、口がきゅっと結ばれる。この不可解な行動は、一日に何度も灯子に訪れた。
「灯子。」
「なに?」
 口数の少ない私を補うようにして饒舌に話すのに、私の小さな声を聞き逃さない。灯子は笑顔で振り返った。
「……なんでもない。」
「そう? なにかあったんじゃないの?」
「別に……」
 こんな会話を必ず一度は行われる。それでも私の口をついて“なにか”が出てこないのは、道を照らす夕日よりも、灯子の笑顔が眩しかったせいだ。
 聞きたい“なにか”は私の胸に仕舞われたまま、この日も終わった。


 灯子と出会ったのは、中学校に入学した翌日だった。私が教室に入って真っ先に目に入ったのは、一つの席に群がる生徒たちだった。誰も座っていないのに、席には人だかりができていて、後から来た私にはその不可思議な光景が理解できなかった。私が自分の席に着いて、黒板の上の時計を見上げた時に灯子は現れた。
『あたし、灯子。あなたは?』
 第一声がそれだった。時計を見上げる私の視界に割り込んできたのは、あの太陽の笑顔。突然のことに動揺して、私が何も言えないでいると、灯子はにこりと笑って机に置きっぱなしになっていた私の手を握った。
『よろしくね』
 こちらこそ、とかどもりながらぼそぼそと、つまりは聞き取りにくい喋り方で私はそう言ったと思う。その直後に、誰もいない席に群がっていた何人かが灯子に気づき、私はやっとその席の主が灯子であったと知った。


 その時から、入学当初から周囲の誰からも一目置かれる存在の灯子は、クラスの誰からも顧みられることのない地味な私と一緒にいる。嫌なわけではない。むしろ喜ばしい事だろう。それでも私は、一年以上経過した今も、灯子には馴染めきれずにいる。
 体育の時間、皆が更衣室で着替える中、いつの間にかすでに着替え終わった灯子が私を呼んだ。
「泉!」
「灯子……」
 灯子は体育の度にジャージのファスナーを一番上まで上げて、いつも息苦しそうに見える。一度、あまりに苦しそうなのを見かねて、もう少し下げてもいいんじゃない、と言ってみたこともある。しかし、そのときは笑ってはぐらかされるだけだった。
「今日の体育はドッチボールだって!」
 灯子はいかにも楽しげにそう言って、それ以上閉まる余地のないファスナーをきゅっと上げ直した。
「楽しみだね!」
「そうだね。」
 適当に相槌を打つと、灯子は私の手を引いて四列に並んでいるクラスの一番後ろに座った。体育座りをした灯子は、礼儀正しく体育の授業が始まるのを待っている。やがて騒がしい体育館に、普段は決して体育など担当しない家庭科の先生が入ってきた。見るからに面倒だという顔をしている。灯子が今日の授業はドッヂボールと言っていたのは、体育の先生がいないかららしい。家庭科の先生は監督役だけというわけだ。
「四チーム作って自由に試合してください。」
 面倒くさがりな家庭科の先生からの指示はそれだけだった。体育館は再びがやがやと騒がしくなり、いつの間にかチームが出来ていた。私と灯子はAとBのチームにそれぞれわけられていた。移動式のホワイトボードに対戦表が書かれる。AとBの試合はすぐに始まった。
「頑張ろうね!」
 私にそう一言声をかけて、別の枠線の中に入っていった灯子は、やっぱりまたぎゅっと右肩を握っていた。
 試合開始の笛が鳴る。男女が入り乱れたドッヂボールは思いの外白熱した。弾丸のようなボールを投げる男子にみんながパスを回し、女子は上手くそれを避けている。私は始まってから物の三分で外野にいた。
「泉!」
 私のチームの外野と、灯子のチームの内野。距離が近いせいか、灯子は敵である私に手を振った。自由な体育の時間を楽しんでいる。灯子を積極的に狙うような生徒はいないことから来る余裕なのか、灯子はボールから目を離しがちだった。
そして、灯子が再び私の方を振り向こうとした瞬間、それは起きた。
「灯子ちゃん!」
 ボールを投げた男子も、直接灯子を狙ったわけではないのだろう。しまった、というような顔をしたのが私からは見えた。その男子が放ったボールは、まるで拳銃で発射した鉛玉のように大きな音を立てて、灯子の右肩に当たった。
 灯子もアウトになっちゃったな、外野へ、などと私はぼんやり考えている。しかし、目の前の灯子はドッヂボールの弾丸が当たった瞬間から、その場に座り込んでしまっていた。白く美しい左手は、いつもと違って優しく、細い右肩を包んでいる。その肩には真っ赤な血が滲んでいた。
 私は敵のチームにも関わらず、灯子のもとに駆け寄った。先生も異変に気づいたらしく、笛を鳴らす。試合会場内は一瞬水を打ったように静まり返った後、一気に騒然となった。
「大丈夫ですか? 右肩……」
「灯子、保健室行こう。」
 処置がわからないのか、若干の狼狽を隠せない様子の先生に代わり、私は灯子にそう言った。痛みに耐えているようだった灯子だが、口をきゅっと結んで目元を歪ませたまま、小さく頷いた。灯子を連れて体育館を出ると、それと同時に誰もいなくなったかのように静かになった。
「灯子、血が出てるよ。大丈夫?」
「……うん。」
 灯子は出血のせいか、終始無口で、顔色が悪いような気がする。肩の出血は不自然なほど多く、ジャージを着ていても、腕を伝って流れているのがわかった。
 保健室には誰もいなかった。保健室にいつもいるはずの先生は、どこかへ出かけているらしい。
「灯子、ジャージ脱いで。手当てしないと……」
 灯子を椅子に座らせた私は、包帯や絆創膏が入った引き出しを見つけた。別の場所にあったタオルを湿らせて、とりあえず傷口を拭かなければと灯子に近づいた。だが、灯子は近づく私に触れさせまいとするかのように肩を抑えたままだった。滲んできた血が灯子の左手を濡らしている。
「灯子。」
「……泉はいいよ、そんなことしなくて。あたし、自分でできるから、だいじょぶだから……。」
「いいから、腕出して!」
 明らかに大丈夫であるはずないのに、肩からの出血が指先を伝って床に落ちたのに、まだ意地を見せる灯子に対して私は一喝した。大きな声に驚いたのか、それとも私であることに驚いたのか、灯子は急に大人しくなった。黙ってジャージの上着を脱ぐ灯子と私の間に、監獄の囚人と看守のような奇妙な空気が流れる。
「とりあえず、血を拭くよ?」
「……うん。」
 灯子の細い腕を掴んで、そっと血を拭っていく。白い腕に真っ赤な鮮血は妙に映えて見えた。ジャージの上から予想していたほど、出血は多くなかった。私が半袖のシャツに隠れたところまで拭き終えると、催促されなくても灯子はシャツから腕と肩を抜いた。
「灯子……これ……」
 私はいつも灯子が強く指先で抉っていた右肩を見て、驚愕した。そこにあったのは、明らかに数分前のドッヂボールが原因ではない傷痕。それも、灯子の右肩から肩甲骨や背中の広い範囲に渡っている大きな傷の痕だった。血はその傷痕の一部が裂けたせいでこんなに流れているらしい。透き通るような灯子の肌についた傷痕は、血が出ていないところを見ても、十分に痛々しかった。
「……二年前」
灯子は、今はもう沈んだ太陽を隠すように、俯いて話し始めた。
「あたし、大きな事故に遭ったの。夕方の遅い時間に弟と学校から帰るところだった。二人で歩道をいつもみたいに歩いてたら、普段は車通りの少ない道で、だからスピード違反の車も多くて、その時大きなトラックと軽自動車がぶつかったの。それだけならよかったんだけど、ひかるが……あ、ひかるはあたしの弟だよ。車がぶつかる直前に道路の反対側にいた友達を見つけて、道路に飛び出しちゃって、あたしはそれを止めようとしたんだけど、止められなくて。弟は車に当たって飛ばされた。あたしはトラックの割れたガラスの上に飛ばされた。弟は重傷で病院に運ばれて、大きな手術をして、入院もして。あ、今は意識もあるしほとんど怪我も治ったよ。でもまだ病院にいる。完治したわけじゃないから。あたしに残っているのはこの傷痕だけだけど、弟にはもっと重いものが残ってるから。」
「それなら……いつも灯子が肩をぎゅっと握ってたのは……?」
「これを消さないためだよ。」
 灯子はそう言って、暴かれた右肩の傷痕に爪を立てた。傷痕からはまだ血が流れているのに、灯子の爪はそこを的確に突いた。
「わたしはただ身勝手で、自己満足に溺れているだけ。弟は、あたしを恨んでるんだよ。助けてくれようとしたのに、助けられずに、その上自分よりも軽傷で済んだ、姉のあたしを。」
「……助けようとした灯子は優しいよ。恨むなんてそんなこと……」
「そう、ひかるが言ったんだよ。」
 私は何も言えずに、ただ灯子の傷痕を見つめていた。その傷痕はもう治った証であるはずなのに、右肩の一か所から血が伝ってくるせいで、まるで今つけられたばかりの傷のように生々しい。自分の手で灯子の傷に触れることが躊躇われて、私は黙ってタオルを渡した。
「ありがとう。」
 傷口に当てられたタオルは、あらかじめ含んだ水も手伝って、すぐに紅くなった。そのタオルを受け取って、別のタオルを灯子に渡す。二、三度それを繰り返して、ようやく血は止まった。灯子が手当てしているのを見守りながら、私はある決心を固めた。
「灯子。」
「……なに?」
「弟さんの病院、教えて。」


 翌日。私は市内の総合病院の前にいた。大きな白い建物の外観を一通り眺めて、懐かしさを感じた。入り口の自動ドアをくぐると清潔感溢れる内装が出迎えてくれる。私は真っ直ぐにエレベータへ向かった。車椅子の少年と、二人の看護師と乗り合わせた。小さな箱が上昇する感覚は、病人にとって害にならないのだろうかと考えながら、私は六階で降りた。廊下自体はしんと静まり返っているのに、両脇に並ぶ一つひとつの部屋からは子供の泣き声が漏れている。私は小児病棟の一番奥の扉を見上げた。一つ深呼吸をして、軽く叩く。
「どうぞ。」
 部屋の中からまだ声変わり前の少年の声が応えた。私は取っ手に手を掛けて、静かにスライドさせた。
「……誰?」
 白いシーツに覆われたベッドの周りに散乱する私物が、この部屋は長期入院の患者が使っているということを示している。日当たりの良い角度に置かれたベッドの上に、怪訝な表情をした少年が枕を積み上げてそこに寄りかかっている。細められた目は突然の訪問者に向けられている。
 この子が灯子の弟か。灯子の話を聞いていたせいか、実際に見るひかるは想像していたより普通の小学生の男の子だった。
「こんにちは。私はとう……お姉さんのクラスメイトの泉です。」
「……姉ちゃんの?」
 少年はより一層私に対しての不信感を強めたようだった。手にしていた本を閉じ、布団を胸のところまで引き上げている。背中も枕にぴったりとくっつけて、私を睨みつけた。
「お姉さんに聞いてない?」
「姉ちゃんとなんて、しばらく会ってもないよ。母さんが来て、姉ちゃんが僕に用事があるとかなんとかって言ってたような気もするけど。」
「私がお姉さんに頼んだの。弟さんに会わせてほしいって。」
「なんで?」
 私と向き合うひかるは、私の言葉の語尾を掻き消すように早口で訊き返してきた。どうあっても反発を弱める気がないらしい。私はきゅっと口元を結び直した。
「私がひかるくんに確かめたいことがあったから。」
 私はまたひかるが何らかの抵抗を示すと思っていた。しかし、ひかるは何も言わなかった。ただ黙って私を見ている。
 やがて、白く痩せた指がベッド脇の丸椅子を指差した。座れ、ということらしい。私は突然変化した状況に戸惑いつつも、一言礼を述べて、勧められた椅子に腰掛けた。
「で。あらためて何しに来たの? 僕に会わせてほしいってことは、姉ちゃんに僕のことでも聞いだんだろ。」
 私が頷いて肯定の意を示すと、ひかるは我が意を得たりとばかりに鼻で笑った。
「あの女、また性懲りもなくお涙ちょうだい話をしてるんだ。あんなやつが話す内容に耳を貸して、わざわざこんなところにまで来るなんて、あんたもよっぽど暇なんだね。」
 私は口を開きかけたが、結局押し黙った。それを、自分の言葉が私にとって図星だったからと受け取ったらしい。ひかるは饒舌に話し始めた。
「僕がこんな病院にいないといけない理由は、あの事故のせいだ。ヒマ人のあんたが聞かされた事故だよ。たぶん、姉ちゃんはあれが僕の不注意で起こった事故みたいな話し方をしただろうけど、僕に言わせればあんなの、事故じゃなくて殺人未遂だよ。僕は姉ちゃんに突き飛ばされてトラックに撥ねられたんだから。」
「灯子に……?」
 衝撃の展開を語り始めたひかるに、私は思わず目を見開いた。灯子は、私の理解力が正しければ、弟のひかるが突然道路に飛び出したせいで事故に遭い、灯子も巻き込まれたのだというような言い方をしていた。
 私の反応を確認するようにちらりとだけ視線を私に向けると、ひかるは再び得意げに話し始めた。
「そうさ。あんたが友達だって言ったあの女に、僕はトラックの前に突き飛ばされたんだ。僕は道路の反対側に友達を見つけたから、道路を渡った。でも猛スピードでトラックが走ってきたのに気付いたから、一瞬立ち止まったんだ。もちろん、トラックが通る方の反対車線にね。だからあの女が僕を突き飛ばさなければ、僕はこんなことにはならなかったんだ。」
 ひかるはベッドの上で両腕を広げ、このざまだと言わんばかりに頭に巻かれた包帯を指差した。しかし、その包帯は真新しく、怪我の痕を覆っているというよりも、ただ頭に巻いているだけに見えた。灯子の背にあった傷痕の方がよっぽど現実味がある。
 私はずっとひかるを見つめていたが、ひかるとはついに目が合うことがなかった。話し終えたらしい今も、ひかるの視線は私の方を向いていると見せかけて、たぶん私の顔から三十センチは上にずれている。ひかるは突然はっとしたような顔をして、眼光を強めた。
「わかったでしょ。僕は姉ちゃんに事故に遭わされたようなもんなんだよ。あんたがどういう風に聞いたのか詳しくはわからないけど、今のを聞いたら僕が姉ちゃんを許してない理由がわかるでしょ。」
「わからないよ。」
 私がきっぱりと言い放つと、ひかるは今まで姉に対する蔑みを形にしていた目を見開いたまま硬直した。私の言葉への反応か、それとも真っ直ぐに捉えた私の表情に対してかはわからない。ただ私はそんな灯子の弟から目をそらさずに、すっと立ち上がった。
「灯子には、その話はした?」
「なに? 突然」
「答えて。」
 決して譲る様子のない態度に、ひかるははっきりと顔を顰めた。
「話してないよ。話す必要ないだろ。二人ともおんなじ事故に遭ってるんだから。わざわざ面と向かって話さなくても、何があったのかくらいわかるよ。……怪我の程度は違うけどね。」
 言い忘れていたと、これ見よがしにひかるは最後に一言を付け加えた。私は自分の予想が正しかったことを確信し、両肩に力を籠めて、また脱力した。身勝手で自己満足だと言っていた灯子は、やはり私の言った通り優しかった。
「灯子は、あなたを助けようとしたんだよ。」
「だから、どう思ってやったとしても、僕はトラックに」
「灯子が助けようとしたのはトラックからじゃないよ。」
「……。」
 ひかるは押し黙った。目にはまた反抗の色が戻ってきている。しかし、その中に僅か揺れ動くものをわたしは見逃さなかった。
「お邪魔しました。入院中なのに、長居してすみません。」
「え……?」
 私は遠回しに退出を伝えると、本当にそのまま入口の方へ足を向けた。ひかるは口を開けて呆然とその様子を見ていたけれど、扉を開けた音で我に返った。
「なんだよそれ! どういうこと?」
「失礼します。」
 ひかるの叫び声を扉で遮り、私は別れを告げた。ひかるにとって、突然の訪問客はどう映っただろう。病室の中で一人取り残されたひかるの様子を想像しながら、私は廊下を戻った。
「あ。お兄ちゃんのところ寄って行こう。」
 エレベータに乗り込み、思いついたように装って、私はひとり言を言った。お兄ちゃんと言った瞬間、自分の背中の痕が確かに疼いた。


 三日が経った。灯子の弟、ひかると対面してからというもの、私は灯子を無意識に避けていた。病院に行った翌日、学校では灯子がいつものように私におはようと笑顔で言った。私はそれに対して、なんとなくいつもよりも眩しく感じて、視線を背けながら挨拶を返した。それ以後、学校で灯子とは会っていても話すことはなかった。お互いに口を動かし、声を出し、喋っていたけれど、話している気がしなかった。でも、そう感じたのは、もしかしたら私だけだったかもしれない。お喋りな灯子に比べるまでもなく口数の少ない私の、僅かな返答から灯子が普段との差異を感じていたかはわからない。私の思い込みに灯子が巻き込まれていたのかもしれない。
 三日目の放課後の時間に、私は再び病院に向かった。こんなに短い期間に二度もここを訪れるのは、本当に久しぶりだ。その上、自分がどうして今日、わざわざ来たかの理由も決めかねていた。病院の綺麗に磨かれた正面入り口のガラスには、無表情を歪めた私が写っていた。
「あ。」
 私が院内に足を踏み癒えた瞬間、細い体をパジャマに包んだ小柄な男の子と目が合った。入院患者が来ている治療着のような服ではない辺り、長期入院の患者だろうか。私がそうぼんやり考えていると、その男の子はこちらの方に近づいてきた。私への反発を全身で表現しながら、今日は私から目を逸らそうとしない。
「……こんにちは。」
 ひかるは私の眼の前まで来てそう言った。私はまさかひかるの方から近づいてくるとは思ってもおらず、面食らったまま呆然と私よりも背の低いひかるを見下ろした。
「……今日、退院するんだ。」
 目を丸くするだけで何も言わない私に痺れを切らしたのか、ひかるは一人で話し始めた。
「あの後、姉ちゃんと話したよ。体育の時間に傷口が開いちゃったからって、姉ちゃんが病院に来た時に。」
 灯子がドッヂボールでの怪我を診せるために病院に来ていたとは知らなかった。もしかすると、灯子が喋っていたかもしれないが、そうだとしても私は上の空で聞き流していたのだろう。ひかるは自分の両手を組んだり解いたりして、なんだかもじもじしていて落ち着かない。何か言いたげに口を開いて私を見上げるが、それもまた閉じてしまった。
「それじゃあ、灯子も今いるの?」
 弟の退院ということは、姉の灯子も付き添っているだろうと、私は途切れた会話を繋げるようにひかるに訊いた。しかしひかるは怪訝そうに私を見上げて、首を傾げた。
「え? 姉ちゃん、泉を連れてくるからって言ってたよ。学校が終わったら、二人で僕の退院をお祝いしてあげるって。姉ちゃんと一緒に来たんじゃないの?」
「え?」
 灯子とは、教室で手を振りあったきりだ。今日発した声の中に病院という単語はなかったと思う。私とひかるの間に疑問符が浮かんでいた。
「私、灯子とそんな話してないよ。」
「でも、姉ちゃんはそう言ってたよ。」
 二人で首を傾げたが、答えを持っている灯子が現れることはなかった。
「あのね、泉さん。」
 ひかるがやっと、重い口を開いた。ひかるの呼び方の変化に私は気が付いた。
「……ありがとう。」
 私の顔を見ずに、ひかるはまるで私のようにぼそぼそと聞こえにくい声でそう言った。そして、一度も私と視線を交わすことなく走り出した。走っていった方からはひかるを呼ぶ声がする。きっとひかるのお母さんだ。
 突然のことに、私はやはり何も言えずにただその後ろ姿を見送った。ひかるはお母さんらしき人と一緒に病院を出ていった。
 私は病院にひかるがいなくなった安心と、灯子がいない不安に板挟みの状態で立ち尽くした。ひかるが立ち去った後の病院には、私に用事はないはずだった。
 その日から、私が灯子の姿を見ることはついになかった。


 私の日常は、何事もなくゆるゆると過ぎていく。朝起きて、学校に行き、授業を受けて、帰って、布団に入ればまた同じ日が巡ってくる。灯子のいない私の一日は、本当に静かだった。
「なんだか、つまらないな。」
 私が思わずそう口にしてしまったのは、灯子がいなくなって一週間後のことだった。学校からの帰り道、私は一人で帰り道を歩いた。中学に入学してからというもの、一人での帰りはほとんど初めてのことで、私は吐息を零した。
「溜息なんて、泉らしくないね。」
「……灯子?」
 私が今真っ直ぐに通り過ぎた枝道から、灯子の声がした。住宅街の一角で、私は足を止めた。
「どうしたの? 学校に来ないから、皆心配して……」
「ひかるが退院したのは、泉のおかげなんだよね。」
 灯子の静かな声音に、私は振り返ることが出来なかった。振り返れば、そこに灯子はいないような気がして、私は灯子の声を背中で受けた。
「ひかるが喋ってたよ。泉が病院に来たって。それであたしと話す気になったって。」
 灯子はたぶん笑っている。私もよく知っている、私が憧れた太陽のような笑顔を浮かべている。でもそれはきっと表面だけのこと。太陽は温度をなくして向日葵になったのだ。
「ひかるはね、本当はもうずっと前から退院できたんだ。でも、あたしに会いたくなくて退院を引き延ばしにしてた。だから、ひかるがあたしから逃げなくなったのは泉のおかげ。泉がひかるに何を言ったのかは聞いてないけど、泉が何か言ったから、ひかるはあの事故を思い出す気になったんだ。泉のおかげで、あたしは弟と話せた。」
「そんなこと」
「久しぶりに見た弟は、真っ直ぐな目であたしを見てくれたよ。」
 灯子は私を遮って唐突に言った。私が黙ると灯子は一人でしゃべり続ける。いつも学校で話しているのと同じようだが、今は灯子が見えない。
「でも、泉だろうと、誰が何を言ってくれても、あたしはあの日を背負ってる。この傷痕は、きっと一生消えないし、消さない。弟を壊したのは、あたし。弟と話してみて、改めてわかったよ。あたしはもうあの子と向き合うことが出来ない。もしかしたら、今まで弟があたしから逃げていたんじゃなくて、あたしが弟から逃げていたのかもね。」
 灯子は寂しげに乾いた笑いをした。私は振り返って向き合いたいという思いと、走って逃げ出したい衝動に駆られた。だから私は動けない。足は地面に張り付いたまま、前と後ろの両方に引っ張られている。
「灯子は、どうして学校に来なくなったの?」
 私は灯子の方を向くことなく、灯子に尋ねた。一瞬、灯子が息を呑む微かな音が伝わった。
「灯子の弟、ひかるくんが退院する日、私は病院に行ったけど、灯子はいなかった。ひかるくんが言ってたよ。灯子が私を連れてくるって言ったって。あの日から、どうしたの? 灯子」
 私は意識的に長く話そうとした。私が完全に沈黙したとき、灯子が行ってしまうと思った。灯子はふふっとまるで秘密を打ち明ける前のように微笑んだ。
「準備をしてたんだ。」
「準備?」
「もう二度と、会わない準備。」
 私の予想が、当たった。
「会わないって、誰と?」
「あたしの弟と。」
「ひかるくんは灯子を許したんでしょう? 許したから、退院することにしたんでしょう? それなら、いいんじゃないの?」
 私が、私にしては珍しく声を大きくすると、灯子は声を小さくした。囁くような声は、背後ではなく、どこか遠くから聞こえてくる。
「あたしはね、泉。みんなが言ってくれるほど明るい人間じゃないの。」
 自虐気味な言葉を吐き捨てるように口にして、灯子は突然黙り込んだ。私は私で、何を話せばいいのかなんてわからない。
 すると灯子はすべて終わった風で、長く息を吐いた。
「じゃあね、泉。」
 たった一言、それだけだった。背後から灯子がいなくなる気配がする。私は結局、最後まで振り返らないまま、前を見ていた。
 それ以来、傷痕を背負った友人が私の前に現れたことはない。

                        終

一樹の陰 一河の流れも 多生の縁

 紅
 いつも笑顔で明るいクラスの人気者。あたしに張られるレッテルは大抵それだった。あたしが座っているだけでクラスの大半は周囲に集まってきたし、登下校も一人でということなんて有り得ないことだった。
 中学校に入学して、その傾向は弱まるかとも考えたけれど、それは甘い考えだったと、入学式の日に思い知らされた。あたしの何が、他人を引きつけるのかわからない。入学式当日から、あたしの周りには他人がいた。
「灯子さんって、訊いたことある! 有名だよね。」
「俺も友達から聞いたな。すごい明るくていい人だって。」
 あたしは自分の周囲に集まってくれる人の名前を知らない。あたしの周りにいる他人はあたしを知っているのに、あたしにとっては誰一人として他人だった。
「そう? あたしそんなに有名かな。クラブもなにも入ってなかったんだけど」
 否定もせず、肯定もしない。あたしの受け答えはいつも中途半端。それでも顔に張り付けた笑みは剥がれたことがないから、多分他人からしたら愛想良く見えているのだろう。
 いつもいつも人に囲まれて、あたしはそれが鬱陶しく思うこともあった。偶には一人で登校して、一人で一日を過ごして、一人で帰りたいと思うことだってある。それなのに、周囲の他人がそれを許してはくれなかった。
 そんなあたしだから、一人で机に向かう泉に興味を持ったのだ。泉は目立たない子だった。入学式当日からその目立たなさゆえに、あたしの目に入ってきた。羨ましい。泉への第一印象。入学式の翌日、あたしの席をちらりと盗み見していた泉を見て、あたしは無意識に声をかけていた。
「あたし、灯子。あなたは?」
「え……あ……」
 泉は面食らったように口をぱくぱくしていた。なんだかその様子が可愛く見えて、あたしは不躾にも唐突に手を差し出した。
「よろしく!」
「あ、はい……」
 これが、あたしと泉の初対面だった。
 泉はあたしが想像していた以上に無口だった。あたしが投げた会話のボールを、泉は受け止めるだけで、投げ返して来ることは稀だった。あたしを拒否するようなことはなかったけれど、泉はあたしが声を掛けるたびに、どうして私なのとでも聞きたそうな顔であたしに着いてきてくれた。
 中学生になって、半年ほど経った頃。あたしはいつものように他人からの誘いを断って、泉を下校に誘った。
「もう秋だねー。」
 下校途中にある公園の前を通ると、そこに植えられた木々の葉がすっかり紅く色付いていた。はらはらと落ちてきている葉もある。春の桜みたいだなと思った。あたしは何となく歩みを止めた。それよりも二、三歩前で泉も止まる。
「ね、泉。」
 あたしはふと、泉に訊いてみたくなったことを口にした。
「泉はどうしてあたしについてきてくれるの?」
 風に吹かれた木から、紅葉がたくさんの落ち葉になる。紅色の葉を背景にして、無表情にあたしを見つめる泉は一つの絵画に入り込んでしまったように見えた。
「……から。」
「え?」
 葉の擦れる音と、風の音でよく聞き取れない。あたしが聞き返すと、泉は少し躊躇うような顔をした。けれど、次に泉の口から聞こえた言葉は、これまでの泉の声の中であたしは最もはっきりと聞き取った。
「寂しそうに見えたから。」
 思いもよらない答えにあたしは目を見開いた。常に何人かの人に囲まれているあたしが、常に一人で過ごしている泉の目には寂しそうに映っていたなんて。あたしが何も言わずに凝視していたせいか、泉は先ほどよりも躊躇の色を濃くして、あたしから目をそらしながら囁いた。
「灯子は一人でいることなんてほとんどないし、いつも太陽みたいに明るい笑顔で楽しそうにしてるんだけど、なんだか、あたしにはいつも独りでいるように見える。」
 それから泉は、はらりと足元に落ちてきた一枚を拾い上げた。
「紅葉みたいだなって。」
 再びあたしに向けられた泉の視線は、真っ直ぐにあたしの右肩に注がれている。あたしは思わず反射的にそこを抑える。ぐっと力を入れた指先の下で、去年の今頃に意図せず拾った傷痕が疼いていた。丁度一年前、交通事故で負った傷は、今でも紅葉よりも紅い血が流れているような錯覚を起こさせることがある。そのたびにあたしは自分の右肩を強く握っていた。あの事故を忘れないために、いつまでも自分の身体深くに刻まれているように。
 そのことを泉は知っているのだろう。
「……なんか、まずいこと言った?」
 泉は不安げにあたしの様子を窺っていた。いつもは雰囲気だけでそのときの気分を示す泉が、眉根を寄せている。あたしはなんだか嬉しくなって、ふっと肩の力を抜いた。
「ありがと! 泉!」
「え? あ、うん……。」
 あたしは泉に駆け寄って、ぽんと右肩を叩いた。
 自分がどうして泉に惹かれたのか、このとき初めて気が付いた。


 命
 病室の窓に切り取られた景色を見て、もう秋になるのか、と俺は目を細めた。ついこの間までは一面雪化粧を纏っていて、その次には薄紅色の欠片が舞っていて、その後に蝉の鳴き声が五月蠅かったことなんて、つい昨日のことのようだ。
 車椅子に身を預けて病院内を散策するのは、いくらこの近郊で一番大きな病院とはいえ、ここに来て数か月も過ぎた頃には限界も見えた。車椅子だから辿り着けない、そんな常識だって覆してきた。人の手を借りて、機械の力を借りて、この病院は隅々まで制覇した。まだ行けていないのは他の入院患者の病室くらいのものだ。
「お兄ちゃん! またここにいたの?」
「泉。」
 いくつもの病室が並ぶ廊下の一番奥。そこにある大きな窓からは、道路を挟んで向かいに並ぶ、病院の駐車場と公園が見えた。駐車場はともかく、綺麗に整備された公園の方は長い入院生活の中で一際映えていた。残念ながら寝起きする病室からは見えない。だから、この病院の中で一番眺めの良いこの場所を見つけた。
「お兄ちゃん、いつも同じ景色見て、よく飽きないね。」
 十歳離れた妹の泉が、そう言いながら隣に並んだ。溜息でも突きそうな口調だが、泉だって病院に訪れるたびにここに来ている。兄妹そろっているところを顔見知りの看護師に見られて、何度笑われたことか。
 はらはらと落ちていく紅葉を見つめて、ふと、泉に訊いてみたくなった。
「なあ、紅葉ってなんで落ちていくんだろうな。」
 泉の顔を見たわけではないからはっきりとは言えないが、きっとポーカーフェイスをわずかに崩して、訝しげに兄の後頭部を探っているだろう。その中身を透かすような、泉特有の鋭いまなざしで。
「なんでって?」
「泉は、どう思う?」
 答えを促すと、泉は素直に考え始めた。そして、多分一分ほどかかって、ようやく泉は答えを出した。
「役割を終わったからだと思う」
「役割?」
「うん。葉っぱって、二酸化炭素を吸って酸素を出してっていつも繰り返しているんでしょう? 理科の時間に習ったよ。毎日お休みもしないで働いているから、一年に一回疲れちゃうんだよ。だから落ちちゃうの。」
「……役割、か……。」
 理科の知識に乏しいから、泉の答えが正しいのかなんてことは知らない。しかしその澱みない答えを聞いた瞬間、もう一つ、訊いてみたくなった。
「それならさ。」少しだけ、これはほんの少しの好奇心だ。
「もし、俺の役割は泉を助けることだったからって言って、紅葉が落ちるみたいに俺が死んだら、お前はどうする?」
 我ながら意地悪な質問だと思う。少なくとも泉には酷な質問だ。入院生活で車椅子を使って、そんな兄にこんなことを訊かれたら、この賢い妹は何を応えてくれるだろう。
「私も死ぬよ。」
 泉は、ひとつ前とは打って変わって、即座に答えを出した。思わず車椅子の上から後ろを振り返る。泉は真っ直ぐに、兄の目を見ていた。
「お兄ちゃんが紅葉なら、妹の私も紅葉だもん。秋にお兄ちゃんが落ちたら、私もそう遠くないうちに一緒に落ちる。」
 あまりにきっぱりとした泉に。思わず絶句した。目の前の妹が、知らない人に見えた。こんなにも快闊に返答をしたということは、日ごろから考えてでもいたのだろうか。
「……行くか。」
「うん。」
 自分で質問しておいて、何も次の言葉が浮かばなくなってしまった。慣れた手つきで泉は車椅子を押してくれる。しかし、車椅子の向きを変え、二。三歩歩き出しただけで泉は止まってしまった。どうしたのかと振り返れば、車椅子の影に座り込む泉がいる。小刻みに震えて、車椅子に縋っていた。
「俺は何が何でも生きなきゃいけないなぁ、泉。」
 公園の紅葉は、いつまで眺めていられるだろう。


 始
 私は鏡の前に立ちながら、服に隠れた自分の肢体を想像していた。元来、血色が悪いせいか蒼白い肌に焼き付いた、深い業。
目をそらしてはいけないと、私がこの傷痕と一緒に心を決めた、あの日。
 小学校に入学したばかりの私は、兄の背中に付いて回ってばかりだった。兄が行くと言ったところには、どこであろうと着いて行こうとしたし、そんな私を兄は全く拒もうとしなかった。兄の高校入学と、私の小学校入学は同時に行われたから、私と兄には十年分の壁があった。当時の私は、その十年を乗り越えようとでもしていたのかもしれない。
「おにいちゃん! いってらっしゃい!」
「いってきます。泉もちゃんと学校行くんだぞ?」
「うん!」
 兄は隣町の高校に電車で通っていた。下宿の方が何かと不便もないのにそうしなかったのは、やはり私がいたからだ。朝、兄が学校へ行く前にいってらっしゃいと言おうと、私は毎朝必要以上に早起きだった。
 それでも、兄が学校に行く日は、私も学校に行く日だったから、高校にまでついて行こうとはしなかった。しかし、学校には開校記念日というものがある。私の学校も例外なくそれがあった。もう秋も終わりが近づいてきた頃、私は朝に起きた瞬間、兄がすでに登校してしまったと気が付いた。休みだから起きてこない私をぎりぎりまで待ってくれてはいたが、電車の時間は私に合わせてはくれない。さらに、開校記念日がその学校だけの記念日で、その日は私の学校だけが休みだということも理解していなかったから、休みの日になぜ兄が出かけたのかわからなかった。
「おにいちゃんは……」
「もう学校に行ったわ。ほら、朝ご飯食べなさい。」
「……きょう、おやすみなのに……」
 小さな脳をフル回転させて、私は休みの日に兄が学校へ行った理由を探した。きっと、兄は自分を嫌いになったから家には居たくないんだ。幼い私の結論はあまりに極端だった。それでも、そうだと勝手に確信した瞬間、私は一人で泣き出した。母がなだめてくれるのも聞かずに、おにいちゃん、とそればかり繰り返した。
「お兄ちゃんは夕方になったら帰ってくるから。ね? ほら、泣くんじゃないの。」
 共働きだった両親は、隣に住むいとこの家に私を預けてしまった。仕事中に私を一人で家に置いておくわけにはいかないという配慮だったが、きっとそれは失敗だった。お留守番しててね、と一言提示されれば私は梃子でも家から動かない。留守番は親がいないときに家を守ることだと言い含められていた私がそこから出て行くことなど決してしなかっただろう。私が泣くことをやめて、大人しく三時のおやつを食べ終わると、母のいとこのおばさんはすっかり気を抜いていた。私が一人で遊んでいるのを見守りながら、おばさんはいつの間にか転寝を始めた。その機会を見逃す私ではなく、かくして私は一人、兄を追って玄関を飛び出した。
 小学校に入学したばかりの子どもが、こんなに行動力があると誰が想像できただろう。私は兄がいつも行く駅に一人で向かい、更にどうやったのか今では覚えていないが、電車にも乗り込んだ。電車に揺られて、親切な女の人が私の降りる駅を示してくれた。私はそうして初めて兄が通う高校がある町についた。
「おにーいちゃーん!」
 私は駅前で一声張った。勿論、兄を見つけて発したわけではないから返事は帰ってこない。それでも私はしゃんとして、まるで行軍中の兵士のように胸を張って歩いた。知らない町の知らない道を、兄を求めて彷徨った。しかし、私は兄がいる高校の場所など知らなかった。
行先はあるけれど当てのない状況で、ついに夕方になってしまった。烏が鳴く、急激に冷え込み、手が悴む。兄が帰宅する時間。私は寂しさと後悔でまた泣き出した。
「……泉?」
 突然、どこからか兄の声がした。私が聴き間違えるはずがない。私がハッとして顔を上げると、車通りの疎らな道路の向こう側に、兄が驚いた顔をして立っていた。
「おにいちゃん!」
 私は本当に、本当に嬉しくて、ただ兄のところへ行きたいとだけ考えて駆け出した。私は短距離走の自己ベストをここで出したと思う。
「泉! 来るな!」
 兄はそう叫んだ。兄に嫌われたと思ってここまで来て、私はショックで道路の途中で立ち止まった。それがいけなかった。立ち止まった私に向かって、大きな、それ以外どんな車だったかは覚えていない、車が突っ込んできた。もし、そのまま私に激突していたら、きっと命はなかっただろう。ブレーキの音、車の硝子が割れる音、そして背中に、まるで茨の鞭に打ち据えられたような鋭い痛み。
目を開けると、ぐったりとした兄の顔。
 私の記憶はそこで途切れている。再び記憶できるようになった頃には、私は病院の一室に運ばれていた。背中の大きな傷は、兄が私を庇ってくれた時、道路に散っていた硝子の破片が刺さった痕だ。私は服の上から、今はもうだいぶ薄くなってしまった傷痕を撫でた。傷痕を摩ると、あの時、兄の拒絶の言葉が聞こえる。あれはあくまで拒絶だったのだと自分に刷り込んで、私は鏡の前を後にした。


 峡
 病院は嫌いた。白で覆われた病室は不自然な清潔感で溢れかえっているし、どの場所へ行っても親切な人がいて、何もしていないのに優しくされる。僕は何も不潔なところがいいというわけでも、不親切な人ばかりで他人に関心のない人ばかりがいいと言っているわけじゃない。病院というところの清潔感だとか親切心などというものは、僕には外見だけのものにしか感じない。実際、この建物ほど病原菌に侵された建物はないし、親切にしてくれる人の多くは看護師という職業の人だ。この建物の中でだけ有効な笑顔でもって接してくる人たちに、僕は溜息を吐いてやりたくなる。
 僕がここに来てからもう二年経つ。交通事故で負った傷はすでに癒えているのに、僕は頑なにこの大嫌いな場所から動こうとしない。何かにつけて入院期間を延ばして、僕は退院するのを拒んでいた。大嫌いな病院と肩を並べるほど、いや、もしかしたら頭一つ分飛び出るほど嫌いなものが、僕にはある。その人物は、きっともうすぐ中庭にいる僕を探し当てるだろう。
「あ……ひかる、ここにいたの?」
「……。」
 躊躇いがちに僕に声を掛けたのは、僕の姉だった女。過去形なのは、僕がこの女をもう血を分けた姉であるとは思っていないからだ。
「寒く……ない? 風邪ひくよ。部屋に戻ろう?」
 まるで腫れ物に触る様に僕に話しかけてくる。そんなにおどおどとして話しかけるくらいなら、いっそのこと放っておけばいいのにと僕は心底苛立った。
「……五月蠅いな。一人で戻れよ。」
 僕が一言言い放つと、沈黙させまいと話し続けていた女が黙った。学校では太陽のような笑顔の明るい人、などと思われているようだが、そんなもの、僕はみたことがない。
「……ご、ごめんね。それじゃあ、先に行くね。寒くならないうちに戻っておいでね。」
 女はそう言って暖かい室内に戻っていった。僕は声が出そうなほど大きな溜息を吐いて、中庭に置かれたベンチに腰掛ける。女の言うように確かに寒い日だった。紅葉は終わりかけて、木は枝だけのみすぼらしい姿を晒している。
「綺麗だね。」
 不意に、誰かが僕に声を掛けた。いつの間にか、僕が座っているベンチの横に車椅子に乗った男がいた。秋も終わりだと言うのに、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた男は、僕がぼんやり視界に入れていた終わりかけの紅葉を見上げている。
「……もう紅葉は散ってるよ。枝しか残ってない。」
 丸裸にされた残りかすのような木のどこが綺麗なものかと、僕は吐き捨てるように言った。
「そうかな? もう少しだけ紅葉が残っているよ。まだ秋の中だ。」
 男が言うように、確かに木の下の方にはまだ枝にしがみついている葉が残っている。けれどそれも夏にあった葉の量と比べて、僅かに十分の一にも満たない。
「あんなの、残っているうちに入らないよ。」
 僕は紅葉から目をそらした。男が僕の方を見ているということには気付いている。
「さっき、君に話しかけていたのは、君のお姉さんかな。髪が短くて、背の低い人。」
「……そうだよ。」
 車椅子に乗って、他の人より目線の低い男が他人を指して背が低いというなんて、なんだかちぐはぐだ。
「君を心配してくれていたね。いいお姉さんだ。」
「……。」
 僕はもう、この男と会話することが嫌になっていた。あの女を褒めるような男なんかと、一緒にいたくはない。僕は舌打ちでもしそうな勢いで立ち上がった。
「あ、部屋に戻るのかい? 俺も戻りたいんだ。悪いけど、車椅子を押してくれるかな?」
 男はすまなそうにそう言った。
「そんなの、他の奴に頼めよ。」
 看護師ならそのへんにいるだろう。別に僕を頼らずともこの男は移動できる。そう思って言ったのに、男は頑なに言い張った。
「他の人は忙しそうじゃないか。君は病室に行くんだし、俺の病室は君の病室に近いから迷惑はかけないよ。」
「……なんで知ってるんだよ。」
 僕はしばらく男を睨みつけていたが、男は微笑んでいるだけだった。暖簾に腕押し、これ以上は意味がないとわかって、俺は男の後ろに回って車椅子を押した。
「ありがとう。」
 緩やかな段差で力を込めて、僕は男と病院内に戻った。僕が車椅子を押している間、男はずっと僕に話しかけた。
「あ、あの病室の子ども、また泣いてるんだね。あの子はいつも泣いてばかりいるんだ。」
「ふーん。」
 それに対して特別な反応は返さないのに、男は性懲りもなく話しかける。やっとエレベータホールまで辿り着いた。
「今、少し時間もらえるかな。」
「は?」
「ちょっと寄り道していこうか。」
 男は勝手にそう言うと、ちょうど着いたエレベータに自分で乗り込んで、僕の病室とは違う階のボタンを押した。
「どこ行くんだよ。」
「着いてからのお楽しみ。」
 エレベータは気持ちの悪い感覚を起こさせながら、ぐんぐんと昇った。三階、四階、五階、そしてついに最上階まで辿り着くと、ようやく扉が開いた。
「さ、降りて。」
 男に言われるがまま、僕は車椅子を押す。どうしてこんな見ず知らずの男に付き合ってこんなことをしているのか、僕が一番驚いていた。最上階は他の階とそう大きな違いはなく、病室が並んでいるだけだった。僕が来たのは初めてだったけど、そんな印象を持たないほど他との違いが見られない。それなのに、男は楽しげに道案内をしている。右、左、真っ直ぐ。僕はその通りに車椅子を押した。
「ここだ。」
 一番奥まで来た時に、男はやっと車椅子を止めるように指示を出した。そこは自動販売機が置かれ、椅子なども置かれて、簡単な談話室のように作られた空間だった。
「ほら、見てごらん。」
 男はそこの大きな窓を指差した。僕は眉根を寄せて、その窓から下を覗き込んだ。
「わぁ……」
 そこには、思わず感嘆の声を上げるほど見事な紅葉の群生があった。病院の真向かいが森林公園になっていることは知っていた。今、僕は其の森林公園を上から見下ろしている。公園の木は、さっき見た病院の中庭の木と違って、まだ多くの紅葉を抱えている。赤に朱色、黄色、色とりどりの紅葉は驚くほど綺麗で眩しかった。
「どうだい? ここは俺のお気に入りの場所なんだ。綺麗だろう」
「うん、綺麗……」
 僕は思わず正直にそう言った。紅葉を眼下に、僕は窓に張り付くように見下ろしている。
「その景色、ぜひ君のお姉さんにも見せてあげてほしいな。」
「……。」
 僕は高揚していた気持ちが急に冷めていったのに気付いた。この男になにがわかるのかという思いが湧いてくる。窓に張り付いていた両手をはがして、僕は一言言ってやろうと後ろを振り返った。
「……あれ……?」
 そこに車椅子の男はいなかった。いつの間にいなくなったのか、僕は全く気付かずにいたのだ。
「くそ……どこに行ったんだ……」
 僕が唇を噛んで床を蹴ると、男がいた場所に一枚の紅葉が落ちているのに気が付いた。真っ赤に染まった紅葉が一枚、ぽつんと忘れ去られたように落ちている。中庭から僕か男が持ってきてしまったのだろうか。それとも
 花
 小さな花束を抱えた一人の少女が病院に入っていった。季節は冬になろうとしている。紅葉も終わり、すっかり殺風景になった町、白を基調とした内装の病院には、少女が持つ花束がよく映えた。
 少女は慣れた所作でエレベータに乗り込むと、四階のボタンを押そうとしてぴたりと止まった。
「兄さんなら、病室じゃなくてあそこかしら。」
 一人、そう言うと、少女は一端止めた指をずらして、六階のボタンを押した。緩やかに扉が閉まると、エレベータは少女一人を乗せて上昇していく。重力に逆らうが故が、少女が抱える花束は少しだけ揺れていた。
 六階に着くと、少女は凛と背筋を伸ばしてエレベータを降りた。入れ替わりでエレベータに乗った二人の患者が、少女の持つ花束を見て振り返る。首を傾げるような動作をしていたが、真っ直ぐ目的地を見つめる少女の目には入っていなかった。
「あら、こんにちは。泉ちゃん。」
「こんにちは、看護師さん。あの、兄は」
 少女とすれ違った中年の看護師が、少女に声を掛けた。少女が躊躇いがちに聞こうとすると、看護師はそれを察したのか優しく微笑んで答えてくれた。
「海斗さんなら、さっき見た時にはあの場所にいましたよ。本当にあそこが好きなんですねぇ。」
「そうですか。どうもありがとう。」
 少女は軽く会釈をして、看護師とすれ違った。もう何十回も通った通路を、一つひとつ見つめながら歩く。なんだか新鮮な心持がするのは、この花束があるせいだろうか。少女は兄の顔を想像しながら、一人で笑った。
 看護師に言われた通り、その場所には見慣れた後姿があった。その場所は、この大きな病院の最上階、一番奥にある場所。自動販売機と座り心地の良さそうなソファーが並んだ談話室。そこの大きな窓の前で、男が車椅子に乗っていた。
「やっぱり、ここにいたのね。兄さん。」
「泉!」
 少女が声を掛けると、男は弾かれたように振り返った。どうやら、のように窓の前にはいたが、窓の外を眺めていたのではないらしい。もういい大人だというのに、まるで悪戯を発見された子供のような驚きの表情が面白かった。
「兄さんなら、絶対に自分の部屋じゃなくてここだろうって思って。私、兄さんの病室に行かないで真っ直ぐここに来たわ。そんなにここが好きなら、いっそここを兄さんの病室にしてもらえばいいのに。」
 少女冗談めかしてそう言うと、男は笑いながら「なるほど。その手があったか。」と手を叩いた。
「それなら、診察のたびに看護師さんは俺を探して彷徨うこともないもんな。最初からここに来ればいいんだから。」
「診察の時間の前にもここに来ているの?」
「俺はいつだって関係なくここにいるよ。」
 あまり威張れたことではないのだが、男はどうだと言わんばかりに得意げにそう言った。
「威張れたことじゃないわ。さっきも、すれ違った看護師さんに、兄さんはいつもの場所にいますよって笑われたんだから。」
 少女が口を尖らせて先ほどのことを報告すると、男は他人事のように大きく笑った。
「笑い事じゃないわ。」
「悪い悪い。今度から診察時間の前はちゃんと本当の病室にいるようにするよ。」
 そういう問題じゃないでしょ。少女が呆れてそう言うと、男は少女が持っていた花束に目を止めた。一輪が大きな花は、たった四本でも十分に華やかに見える。
「どうしたんだ? その花束。」
「ああ、これ。」
 少女は兄にそっくりの得意げな顔になって、花束を目立つように目の前に持った。
「ダリアの花よ。夏の花なんだけど、花屋に行ったらこの四本だけ残っていて、だからこれで花束にしてもらったの。綺麗でしょう。」
「綺麗だけど、なんでダリアなんだ?」
 男はダリアなどという花は一度しか見たことがなかった。訳を尋ねると、少女は愛しむように花束に視線を落として話した。
「ダリアってね、別名を天竺牡丹って言うんだって。天竺って、インドのことでしょう? 仏教とかもインドから始まったんだもんね。お兄ちゃん知ってる? 仏教では輪廻転生っていって、死んだら他の生き物に生まれ変わるの。」
 少女はここで、少し恥ずかしそうにはにかんだ。大きく咲いた天竺牡丹の花束を兄に差し出す。
「だから、もし生まれ変わっても、また……その、兄さんに会えたらいいなって。……お誕生日、おめでとう、兄さん。」
「……ありがとう。」
 男はお礼を言って、嬉しそうに花束を受け取った。妹からの花束を一通り眺めて、花束を大事に抱えた。
「もしかしたら、そういう意味なのかもな。」
「なにが?」
 男が笑いながらそう言うと、少女は首を傾げた。男は自分の車椅子の後ろを指差す。少女が後ろを覗き込むと、そこには少女と同じ、ダリアの花が一輪置かれていた。

                         終

とうこ

灯子がこのあとどこへ行ったのか。
それを泉は知りませんし、知ろうともしないのでしょうね。
作中でちらりと登場した泉の兄も含めて、この二組のきょうだいは鏡のように書きました。
心のうちをあまり語らない、それはどんなに恐ろしいことでしょう。
すれ違いの末に、別れることになった灯子とひかる。
では泉とその兄は。
そちらの話は、このサイドストーリーとして書いた短編で。

とうこ

太陽のような笑顔で、誰からも好かれる同級生・灯子。 そんな彼女はなぜ私のような存在とかかわるのか。光と影のような相反する二人の共通点。 太陽のたった一つの黒い点。彼女が抱える事故の真実に気づいた私は、彼女を悩ませる事故の犠牲者、彼女の弟に会いに行く。私にしかわからない、きょうだいそれぞれの気持ち。そして事故の真相。私が二人を結びつけたとき、怪しい均衡の上に成り立っていた灯子は。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. とうこ
  2. 一樹の陰 一河の流れも 多生の縁