《アイ》

僕の幼馴染――結は目がまったく見えない。
結が「広周波光子受信デバイス」を付けた時から、僕らの小さな世界は少しずつおかしくなって行った。
「技術」と「感覚」の狭間を探る、SF風味恋愛もどき小説

『ゆるゆるSF企画2』(http://wit.bitter.jp/sf2/)参加作品です。


【おことわり】
作中に視覚障害の人物が登場します。
しかし、
・筆者のリサーチ不足
・物語の展開上の都合
・舞台が現代日本でない
ことから、現実の視覚障害の事情にあっていないと思われます。
一般的な常識内で注意して執筆しておりますが、違和感や、時には不快感を覚える可能性が考えられますのであしからずご了承ください。

小説家になろうとの重複投稿 http://ncode.syosetu.com/n8938ci/
なろう版は少しずつ改稿しながら投稿する予定

1

 児童会館のプレイルーム。その真ん中に立つ僕と、僕が手に持っている絵本に、いくつもの、期待に満ちた視線が向けられる。8人の子どもたち――恐らく小学校低学年から中学年だろう――が思い思いの姿勢で淡いオレンジ色の絨毯に直に座り、僕の読み語りに聞き入っている。
「『《助けてくれ》、と思ったろう? 《逃げる場所は……》、と思ったろう?』サトリは男に向かって言いました。考えたことが良い当てられてしまったので、男は恐くなってしまいました――」
 今日の読み語りの会の題材は「サトリ」だ。心を読む妖怪「サトリ」の伝承を元に創作された絵本は、小さい子には少し難しいかと思ったが、主人公の男と妖怪サトリのどことなくユーモラスな掛け合いが予想以上に好評だった。鳥獣戯画風のおどろおどろしい絵、サトリが今にも男に襲いかからんとするスリリングな展開。子どもたちは恐がりながらも、絵本から目を離せないでいる。
「サトリが男を頭から食ってやろうと大きく口をあけたその時、焚火の中の薪がぱちんとはねて、サトリの口の中に入りました。『あつい、あついよぉ~!』思い掛けない事が起きたのでサトリは大慌て――」
 いつもより大袈裟に、声色を使って演じてやる。子どもたちの反応があまりに良かったので、僕はすっかり良い気になってしまっていた。
 それに―― 僕は、プレイルームの一番奥、子どもたちから離れてひとり壁に寄り掛かって目をつむっている高校生くらいの少女を、ちらりと見る。雲光結(くもみつ・ゆい)。一つ年下の僕の幼馴染だ。彼女は生まれた時からまったく目が見えない、全盲だった。彼女に伝わるよう、音だけでも場面が想像できるよう、僕はいつも以上に声の演技に熱を込める。

「――サトリは、山の奥へ逃げて行きましたとさ。しゃみしゃっきり。……めでたしめでたし」
 小さな拍手がおこる。子どもたちの小さな手では、拍手の音はちゃんとならないみたいだ。それに、子どもたちは僕を称えるよりも、自分のしたい事を優先する。次これ読んでー、その本見せて―、しゃみしゃっきりってなぁにー、と口々に言いながら僕の足元へ群がってくる。
「はい、今日のお話し会はこれでおしまい! また来るからねー」
 えーっ! という子どもたちの非難の叫び声に後ろ髪を引かれながらも、帰り仕度を始める。かまってやりたいのはやまやまだが、奴らに付き合ってやるのには時間も体力も足りない。
 手早く絵本を棚に戻すと、プレイルームの一番奥、壁に寄り掛かって座っている結の方へ向かった。足音を手掛かりに、結は目を閉じたまま顔だけ僕の方へ向ける。
「結、お待たせ」
「ううん、面白かったからあっという間だったよ」
 僕は結から預けていた荷物を受け取ると、そっと彼女の手を握ってやる。結は、両手で僕の腕につかまるとそれを支えにして立ちあがった。そしてそのまま僕と結は腕を組み、ヴァージンロードを歩むのと同じ速度で児童会館を後にする。

 児童会館の扉をあけると、熱気が一度に僕らを包み込んだ。
 初夏の日差しは思いのほか鋭い。灰色のアスファルトですら、日光に照らされて柔らかい白さを湛えている。
 光に突き刺されて、目の奥は鈍い痛みを訴えている。つい瞼を閉じてしまいたくなるが、僕には目をつむる訳にはいかない理由があった。盲目である結と腕を組んで歩いている時だけは、どんなことがあっても目を伏せてはいけないし、どんなに暑くても組んだ腕を振り払うことはしない。僕が8歳、結が7歳で出会ってから10年間続けてきた習慣だ。
 僕は結の歩調に合わせてゆっくり歩く。結をリードするために、いつでも3センチだけ先を歩く。僕と結の身長差は、16センチ。時々こつんと僕の左肩に、結の頭が当たる。なんだかくすぐったい。
 結は、抱きかかえている僕の左腕を、少しだけ強くきゅっと抱き締めた。それが結の癖なのか、それとも「話しかけるよ」という合図のつもりなのかは分からないけど、ともかく結は話しかける直前に僕の腕を抱きしめる。そう言うことになっていた。
「あーちゃん、『サトリ』読むの久しぶりだね」
 彼女は僕を「あーちゃん」と呼ぶ。僕の名前「新(あらた)」の頭文字をとって、「あーちゃん」。
「そうだね、前に読んだのは……いつだっけな。下手したら一年くらい読んでないかも」
「あーちゃん、昔より『サトリ』上手くなったよ。わたしこのお話好きだから、もっと聞かせてほしいな」
「結、こんな地味な話が好きなの?」
 『サトリ』のお話しは、起伏に乏しい。ただ人間の心を読む妖怪があらわれて、人間を散々恐がらせた挙句、食べるのに失敗して逃げていく、それだけだ。
「えーっ! 忘れちゃったの、あーちゃん? あーちゃんが一番最初に私に読んでくれたお話、『サトリ』だったんだよ」
「そうだったかな……」
 僕と結は、10年前児童会館で出会った。さっき読み語りをしていたあのプレイルームが僕と結が初めて出会った場所である。10年前のある日、国語の先生に音読が上手いとおだてられ調子に乗った|(あらた)少年は、何を思ったのか放課後児童会館に直行し、プレイルームのど真ん中で我が物顔で絵本の朗読を始めたらしい。観客は、その時偶然児童会館を訪れていた結とその母親だけだった。それ以来僕と結は、なんとなく仲良くなり、一緒に遊ぶ――といっても、僕が本を読み結が聞くだけ――ようになった。
「そうだよ! あーちゃんは、わたしとの大切な思い出、忘れちゃったんだ……」
 しくしく、と結はわざとらしく落ち込んでいる。昔から彼女は演技が下手だ。
 不意に、ねえ、あーちゃん、と結が息が半分ほど混ざったかすれ声で話しかけてきた。んー、と喉の奥だけで唸って返事をしてやる。
「わたしね、昔からずっと考えてるんだ。人の心が分かったらどんな感じなんだろうって」
「そりゃあ、僕らが思っているほど楽しくは無いんじゃないかな。心が読めたって、占い師か詐欺師か、プロ雀鬼か……せいぜいそんなもんにしかなれないと思うし」
「ううん、そういう事じゃなくてね。……『サトリ』のお話しでは『助けてくれ』っていう気持ちが『助けてくれ』っていう文字で読みとれるみたいに書かれているけど、人間の心ってそう言う風に文字であらわせるものばっかりじゃないって思うの」
 そこまで言うと、結は僕の左腕をきゅっと抱いて、見えていない眼を僕の顔の方へ向けた。
「わたしがあーちゃんを好きだって気持ちも、言葉にできないもん。『好き』だけじゃ足りないし、『愛している』はなんだかうそっぽい。いっつも掴まっているあーちゃんの左腕が、なんだかたくましくなってるなって思った時のドキドキとか、いつも右側から聞こえてくるあーちゃんの声がたまに左側から聞こえた時のくすぐったさとか……モヤモヤしてて、言葉になんかできないよ。サトリがわたしの心を読んだら、サトリまであーちゃんのことが好きになっちゃうかもしれない」
 結は、自分の好意を僕にぶつけることにためらいがない。身ぶり手ぶりなど視覚的な情報伝達が苦手な結は、そうでもしないと相手に気持ちが伝わらないと思っているのだろうか。必死に言葉を重ねて、光を写さない瞳で、腕を抱きしめる力の強さで、結は僕に愛を語る。
 ど真ん中ストレートの愛情表現には慣れているはずなのに、なんだか照れてしまう。顔が赤くなるのが分かる。僕は浅くなってしまった呼吸を、昂ぶった感情をおさめようと静かに深呼吸を試たけれど、上手く行かなかった。夏の初めの太陽に暖められた空気は、どこかぬるりとしていて、肺の奥の方に溜まっていくようだ。ただでさえ結は僕の左腕――心臓に近い方に居るのだ。胸の高鳴りがばれてしまいそうだけど、でも彼女の腕を振り払うことも出来ない。僕はややこわばった身体を、こわばったままにしておくしか出来なかった。
 しばらくの間、僕と結の間に言葉は無かった。
 結は照れ屋だ。僕に向かって愛情を口にした後は、気恥ずかしさからか口数が少なくなってしまう。僕は僕で、まったくの無駄な面子を保とうと、冷静な男を演じようとして口が滑らかに動かなくなるので、やはり口数が少なくなる。
 お互いがお互いに照れくさくなって、無言になる時間。なんだかむずむずするけれど、これはこれで心地良いものだ。目が見えない彼女との「言葉の無いコミュニケーション」と言うのは、多分他の皆が思っているよりも深い意味を持っている。この無言は、僕と結の10年の積み重ねによって支えられているのだ。
 ただ黙って、ゆっくり歩いているうちに、僕の家に到着した。児童会館から徒歩15分。10年前は30分以上もかかっていた距離が、あっという間だ。
「あーちゃん、お邪魔していっても、良い?」
 結が訪ねてくる。何時もなら、断りもなく寄っていくはずなのに珍しいな、なんて思いながら「良いよ」と返事をしてやる。
 右手だけでポケットから鍵を出し、解錠。家の中は暗かった。外気とはまた違った粘り気のある熱気だけが出迎えてくれた。クーラーもついていない。家には母さんも姉ちゃんもいないみたいだ。
 結に、先に僕の部屋に行ってて、と告げる。彼女は文字通り目をつむっていても、僕の部屋に行くことができる。我が家の間取りは完璧に頭に入っているし、身体にも染み付いているはずだ。僕の両親は彼女が遊びに来ることを昔から歓迎しているし、彼女も独りでいるよりは僕と一緒に居ることを望んだ。自惚れでも何でもなく、10年前から彼女の居場所は僕の左隣である。僕が家に居る時、結も僕の隣に居るのは当然のことなんだ。
 冷蔵庫から麦茶と取り出す。僕の緑色のマグカップと、結の取っ手が大きめの深いマグカップを手にして、僕は自室へ向かう。
 結はいつも通り、彼女用のやや厚めの座布団を敷き、四角いテーブルの一角に座っていた。僕はテーブルにマグカップと麦茶を置き、彼女の右隣に腰掛ける。
「ねえ、あーちゃん。心が見えたらさ、どんな感じになるんだろうね」
 また、その話か。結はもしかしたら、僕に甘える切っ掛けを探っているだけなのかもしれない。
「さあね。でも、僕は心の中を見たいなんて思わないな。だって一番知りたい人の事は、心の中をのぞかなくたって良く分かっているからさ。……結、僕以上に君のことが分かっている人が、他に地球上にいるかい?」
 演技がかった口調で気障に応えてやる。さっきのお返しだ。
 恐らく僕は世界で一番、結という人間のことが分かっている。結本人が知らないことでも、僕は知っている。彼女の肩までまっすぐ伸びた黒髪の艶やかさも、白い頬のみずみずしさも、桃色の唇の柔らかそうな色彩も、彼女自身には知りようがない事だ。
「そう言う事じゃなくってさ……えっ? ちょ、ちょっと」
 右手で彼女の頬を、左手で彼女の顎を優しく捕まえて、少し上を向かせる。そしてそのまま、彼女の唇に自身の唇をそっとおとす。
 彼女は僕の服を握って、ただそれだけで、僕を受け入れてくれた。
 彼女の唇の柔らかさは、僕の唇だけが知っている。僕の唇は、その解かりきっている事実を改めて、たっぷりと時間をかけて確認した。
 僕の部屋には、一つだけある窓から斜めに光が入ってくる。僕と結が座っている場所は、直接日光が当たらない少し影になっている所だ。白い壁にさした光が乱反射して、部屋全体をぼんやりと照らす。宙に舞う埃でさえ見あたらなくて、なんだか部屋全体が淡く茶褐色に染められたように停滞している。
「ちょっと、もう……。そう言う事じゃなくってさ」
 結は言葉を切り、唇を指先で押さえながら、ひとつ深く呼吸をして、続る。
「心を読みとるってさ、多分耳で音を感じるとか、舌で味を感じるとか、目で光を感じるとか、そんなのに近いんじゃないかなって。心から発信された電波みたいな形が無くて言葉でもないものを、サトリの感覚器で受容するの。だから、私たちが想像するような『心を読む』とは全く違ったものになると思うんだ。……私も、空が青いとか、雲が白いとか、そう言う『言葉』は知っているけど、でも『青』とか『白』とか、色はまったく想像もできないもん。だからきっと心を読むっていうのも、私たちはきっと本当は予想すら許されないことなんだよ」
 結はまっすぐ前を向いたまま、小さな声で、しかしはっきりと言った。僕は、何故結がこんなことを言い出すのかが分からななかった。
「別に、目が見えない事、気にしているんじゃないんだよ。あーちゃんと同じ世界が見えないのは少し残念だけど、でも『見えていない』だけであーちゃんの事は『みえる』し、あーちゃんと同じ時間を共有できているし、それに」
 僕はぼんやりと壁を眺めていたので、結の顔が僕の顔にむかって静かに近づいてきたことに気付くことが出来なかった。
「目、見えなくなって、キスぐらいできるし」
 結は何の手がかりもなく、でも正確に僕の唇を奪った。

 気が付けば辺りは薄暗くなっていた。先ほどまで窓から差し込んでいた日は、オレンジ色になっている。僕の家族はまだ帰ってきていないようだ。僕と結の浅い息遣いだけが部屋を支配していた。
「ねえ、あーちゃん」
 ん、と返事をしてやる。今日の結はなんだか歯切れの悪い会話をする。
「わたしが、もしサトリになったら、どうする?」
 どうするって言われても。そもそもサトリはなったりならなかったりするもんじゃないだろう。
「別に、どうもしないよ。結は、多分僕以上に僕の事に詳しいと思うよ。だからサトリになってもならなくても、あんまり変わんないと思う」
「そっか……。ねえ、あーちゃん」
「なに?」
「あーちゃん、わたしね、目見えるようになるかもしれないの。新しい視覚治療技術の被験者に選ばれたから……今度手術してくる」

2

 僕が久しぶりに「サトリ」を読み語りした日から、一ヶ月。
 夏も盛りで、外に出るのも億劫なくらい熱かった。
 家の外に一歩出るだけで、上からは太陽の熱線が、下からはアスファルトの放射熱が襲ってくる。額と背中から急に汗が噴き出てきて、べたべたと僕のTシャツを濡らした。
 自室に引きかえしてクーラーの効いた部屋で自堕落に過ごそうか、と真剣に悩んでしまうほどだ。でも、今日だけはひきこもっている訳にはいかない。
 今日は、結が目の手術と最低限のリハビリを終え、退院をする日だ。退院する時刻に遅れないように、やや急ぎ足で地下鉄の駅へ向かう。
 結が受けた治療は、「広周波光子受信デバイス(Wide-renge Photon Receiving Dvice)」通称「WPRD」と呼ばれる機械を装着すると言うものだった。なんでも可視光線を含む広範囲の電磁波を受信し、それを脳が受け取れる形の信号に変換する装置を義眼として、眼窩の位置に埋め込むらしい(僕にはどうしても人体改造にしか思えない)。ここ20年ほどで開発されてきた技術で、動物実験も終り現在人間に適応するかどうか慎重に判断する段階にきていると言うことを、あの日結は僕に時間をかけて説明してくれた。結は、第40期目くらいの被験者と言うことで、ある程度安全性は確保出来ているとのことだ。
 目が見えるようになるかもしれない。この話を聞いた時、僕は始め驚き、次に戸惑い、次第に喜びが湧きあがってきた。結が僕と同じ世界を見てくれる。美しい景色のあの場所も、一緒に見たかった映画も、昔読んであげたあの絵本も、全部結に見せてあげることが出来るんだと思うと、期待感で胸がいっぱいで、喉がつまりそうだった。
 でも、WPRDを装着することになったと話す結の声はそれほど明るくなかった。結の話によると、WPRDは単純に目が見えるようになるのとは少し違うらしい。
 広周波光子受信デバイスは、その名の通り、広い範囲の光子を受信する。可視光線外の赤外線や紫外線、X線なんかも「見える」らしい。WPRDを付けた視覚障害者は、「一般人並みに目が見える」という段階を飛び越して「普通の人間には見えない物まで見える」ようになってしまうのだ。結はそのことを、まるで自分がサトリの化け物になってしまうような気分で受け止めていた。

 結が入院している大学病院は、地下鉄で7駅離れた場所にある。結が入院してからたびたび訪れてはいるけど、見るたびに建物の大きさに気押される。なんだか白くてでかくて角ばっていて、僕が入るのを拒んでいるようにさえ見えてしまう。
 僕は、彼女が入院してから2、3日に一度のペースでこの病院に来ている。でも、結とは一度も顔を合わせることが出来ていなかった。手術直後は経過を見るため、リハビリの最中はWPRDのデータ収集のため面会を断られ続けていた。家族や親しいご友人で、本人に承諾が取れれば面会時間内でお話しできますよ、と看護師さんに教えてもらったんだけど、いざ病室の前まで来るとなんとなく会うのが怖くなってしまって、なんだかんだと理由を付けて、自分に言い訳をして、病院から逃げ帰っていた。お見舞いの品を忘れたとか、まだ大学のレポートが終わっていないからとか、後頭部に寝癖が付いていたからとか、今考えればお見舞いを中断する理由になんかならないのに。
 でも今日ばっかりは、逃げるわけにはいけない。「あーちゃん」は何時だって結の手を引っ張っていかなければならないのだ。これまでもそうしてきたみたいに。

 受付で、本日退院する雲光結の迎えに来たんですが、と告げる。受付のお姉さんは、今退院手続き中ですがご本人はまだ病室に居ると思いますよ、と教えてくれた。
 結の病室である508号室に向かう途中で男子トイレに立ち寄る。手洗い場にある鏡で、自分の髪と服装をチェック。短めの髪はちゃんとセットしてきた。結の好きな手触りの服は、きちんと洗濯をしてアイロンをかけてきた。出来れば顔も新調してカッコイイのに付け変えたいものだが、そう言う訳にもいかない。
 鏡に映る自分と、たっぷり5秒間目を合わせる。
 いつも通りの特徴の無い顔だ。さほど高くない鼻、目立たない奥二重、薄い唇。くっきりした眉だけが、童顔にアクセントを加えている。髪の毛は結のリクエストで短く切りそろえられている。何でも触った感触が楽しいらしい。
 ふう、と腹から一つ深い息を吐いて、男子トイレを後にする。
 結がいるはずの508号室は、聞いた話によると個室だそうだ。ノックして入れば良いのかな、きっと結のことだから僕のノックの音くらい聞き分けるだろう、なんて考えながら部屋の前にたどり着く。
 ……どうしよう、ドアが開いている。入口にはカーテンがかかっており、お日さまの光を透き通らせるばかりで、中の様子は解からない。
 ……どうしよう、ノックが出来ない。
 三秒でたてた計画が一秒で崩れ去ってしまって、僕は少し焦ってしまった。軽くノックをして、久しぶりーって感じで、あくまでもいつもどおり何気ない感じで再会をしようと思ったのに。ドアが開いてしまっていてはそれが叶わない。
 どうすればいいんだろう、なんて僕がカーテンの前でひとり汗をかいていると、カーテンの向こうからぱすんぱすんと気の抜けたスリッパの足音が聞こえてきた。足音はカーテンの前まで来ると、一呼吸置いた後さーっとカーテンを開けた。
 結だった。
 口元を少し変な形に歪めながら、僕の顔を、きちんとピントの合った目で、見上げている。
 ――結、久しぶり、と声に出したかったけれど、出せなかった。喉だけがぱくぱくと動いて、肺からまったく息が流れてこなかった。
 不意に、とん、と僕の鎖骨に軽い物がぶつかってきた。
「……あーちゃん。あーちゃんだ」
 結が、なんだかやけに控えめに僕の胸に飛び込んで来ていた。
 僕の胸に余所余所しくすがる結を、そっと抱き寄せてやる。結の細い肩に手をまわし、その身体の柔らかさを一ヶ月ぶりに確認した。

 それからどれくらいそうしていただろうか。視界の端に、何やら気まずそうに立っている看護師さんらしき人物が映った。退院の手続きが終わって、それを知らせに来てくれたらしいのだが、声をかけるタイミングを窺っていたらしい。やけに軽いノリの本人の言葉を借りるならば、「なんだか青春しちゃってる感じのワカモノたちに水を差すのも悪いかなーって。おねーさんもあんな感じの感動の再会、してみたいなー」とのこと。

 僕と結は、そろって大学病院を出る。右腕には結のトランクケースを、左腕には結を。でも前ほどしっかりとしがみつく必要は無いらしい。結は、僕の左腕の肘あたりに、ちょんとかるく掴まっている。
 結の退院に付き添うのは僕だけだ。彼女の両親――父親は現在仕事で出張中、母親はパートらしい。彼女の母親曰く「新君なら大丈夫よね。結の事お願ね」という軽い一言で、重い任務を押しつけられてしまった。彼らは昔から結に対してやけにドライだ。
「あーちゃんの顔、初めて見た……。もう10年も一緒に居るのになんだか面白いね、初めまして、あーちゃん」
「……ごめんな、こんな顔で」
「なんで謝るの?」
「いや、なんとなく。もっとかっこいい顔なら良かったんだけど。顔も知らないままに付き合っていた恋人が、こんなのだったら……ショックじゃないのか?」
「わたし、かっこいいとかかっこわるいとか、良く分からないんだ。というか実はまだ、人の顔を判別するのがちょっと苦手。でもあーちゃんの事はすぐわかったよ、匂いで!」
 結の満面の笑み、そう言えば久しぶりに見たな。
 手術を受けると僕に告白するちょっと前から、結は何かに思い悩んでいた様だった。その時はあまり深く考えていなかったけれど、多分結は手術を受けるか受けないか、悩んでいたんだと思う。結の事を世界で一番理解している、なんて言いながらなんと言う体たらくだよ、僕。
「そんなことよりもわたし、あーちゃんが面会に来てくれなかったのが寂しかったなぁ。あーちゃんが見られる! ……と思って手術室に入ったのに。一ヶ月間、来る日も来る日も作業療法士さんと看護師さんと先生の顔しか見れなかったんだもん」
 めそめそ、と結はわざとらしく落ち込んでいる。やはり彼女は演技が下手だ。
 でも、面会に行かなかったのは確かなので、素直に謝っておく。
「うん、ごめん。……大学生の夏休みは思ったより忙しくて」
 とっさに少し嘘をついてしまった。
「……なーんてね! わたしちゃんと、あーちゃんの顔、見てたよ」
「どういうこと?」
「あーちゃん、よくわたしの病室の前までは来てくれてたでしょ。あれ、わたし見えてたんだ。わたしの『眼』――WPRDは壁の向こうの景色も見ることができるみたい。ちょっとぼやけちゃうけど、あーちゃんの形とか色とか、熱とか全部見えてたよ」
 事前に聞いていたが、WPRDは予想をはるかに超える高性能らしい。まさか壁を透視出来るとは思わなかった。
「すごいな、透視が出来るなんて」
「他の人たちが、壁の向こうを見ることが出来ないって、わたし最初信じられなかったんだ。壁の向こうの音を聞くことが出来るみたいに、壁の向こうも見ることが出来るんだと思ってた」
「ところで、壁が透けて見えるってことは……。結、まさか、服も透けてみえる、とか……?」
「うん、見えてるよ。でも多分あーちゃんが想像しているのとはちょっと違うみたい。服が透けて身体だけハッキリ見えるんじゃなくて、服も身体も、両方いっぺんに見えているんだ。わたし――WPRDにとってはこれが普通らしいから、恥ずかしいとかあんまり良く分かんないんだけど……」
 眉をひそめ、結は沈んだような顔を見せる。
「いや、別に落ち込むような内容じゃないと思うんだけど。それにしても、少し恥ずかしいな。いまも僕の、裸、見えてるって、ことでしょ」
「そうだけど。なんで恥ずかしいの? あーちゃんの体は、目が見えるようになる前から全部知っているから、いまさら恥ずかしがることも無いと思うんだけど……」
「……男心ってのは、複雑なのさ」
 違う感覚器を持つ者同士が分かりあうのはなかなか難しい。それに、結は昔から少し天然だから、なおさらズレていっている気がする。
 入院中の話を聞きながら、結を家まで送って行った。そのまま二人で再会を喜び合っても良かったのだが、荷物の整理もあるし、彼女にも家庭がある。退院当日くらいは一家団欒を優先させてやるべきだろう。

 結の家から僕の家までは徒歩15分ほどだ。結を家まで送り届けてから、途中のコンビニでアイスを買って家に帰ったら、もう17時をまわっていた。廉価なスイカ味のアイスはお風呂上りに食べることにして、いったん冷凍庫へ。
 居間から聞こえてくる、姉ちゃんの「おかえりー」というだらけた声に、「たー」とだけ返事しながら、二階の自室へと向かう。
 ベッドに倒れ込み、サイドテーブルの充電器に携帯電話をセット。
 今日、僕のアドレス帳には一件の新しい情報が追加された。結のメールアドレスだ。
 これまで結とは音声通話のみで連絡を取り合っていたが、今度からはメールすることが出来るんだ。
 アドレス帳を開き、結のアドレスをもう一度確認する。初期設定の、無意味な文字の羅列。こんな暗号みたいな文字列が愛おしく見える日が来るとは思わなかった。
 画素の荒い画面を見ながらニヤニヤしていると、メールが届いた。結からだった。
 僕はベッドに横たえていた上半身を起こすと、やや汗ばんだ人差指で携帯端末を操作した。

********************
From: KUMOMITSU Yui
To: KAGEYAMA Arata
日付: 2039年8月10日 17:19
件名: ゆいです
本文 
あーちゃんへ

ゆいですめーるおくってみます ちゃんとおくれてるかな
こんどどこかにあそびにつれていってね

ついしん
かんじがかけません たすけて

ゆいより
********************

 おいおい。今時こんな古典的なメール打つ奴いないぞ。漢字変換アシストはどうしたんだ?
「まったく……。もうちょっと僕が付いててやんなきゃ駄目だなぁ、結は」
 僕はわざわざ声に出して言う。自分でもわかるくらい、声に昂りが混ざっている。
 さて、結と一緒にどこへ行こうか。
 海もいい山もいい、青空も夜空もいい。 
 結に見せたいものは沢山ある。結に話してやるために、見てきたものが沢山あるんだ。
 博物館、美術館に行ったら、結なんて言うだろう。洋服を買いに行くのも楽しそうだ。チャップリンの映画は、これまで僕が勝手に文章化したものを話して聞かせてやることしか出来なかったけど、これからは肩を並べて一緒に見ることだって出来る。結が来るようになってからめっきり使う頻度が少なくなって部屋の片隅に追いやられた旧式の小型プラズマビジョンも、やっと日の目を見ることが出来る。そうだ一緒にゲームをやるのも良いかもしれない。きっと結はゲーム得意じゃないだろうけど、僕が教えてあげればいい。
 あれこれと想像が広がって、収拾がつかなくなって来た時、下から「ごはんよー!」という母さんの声が聞こえた。聞き慣れた母親の声すらなんだか優しげに聞こえた。
 ご飯を食べたら、お風呂に入って、スイカバーを食べて、今日は早めに寝よう。
 そして朝一で、結に会いに行こう。……いや、もうこれからはメールで連絡が取り合えるんだ。
 今晩メールを送るときに、明日の予定を聞けばいいんだ。

3

 結局、僕と結が町に繰り出したのは、退院してから3日経ってからだった。
 入院中の荷物の整理だの、各種手続きだの、リハビリだのと、なんだかんだと忙しかった。そう結は少しくたびれた顔で僕に教えてくれた。
 特に時間がかかっているのは学校関係の手続きだと結は言う。結は夏休み後の新学期から、一時的に転校することが決まっている。それまでの盲学校から、一般の高校へ。籍を移してしまうのではなく、術後の経過観察しながらの「留学」という扱いなんだそうだ。
 今日の僕らの予定は、思いつくままにぶらぶらしながら結の高校の制服を取りに行く事だ。
 制服を扱っているデパートは街の中心にあるから、郊外に出ずに町中を中心に周って行こうと思う。僕はそう結に告げた。
「うん、今日は全部あーちゃんに任せるね! エスコート、よろしくね!」
 こんなにはしゃいでいる結を見るのは、いつ以来だろう。
「ああ、僕に任せろ! ……とは言ったものの、なんも決めてなかったな。どこが良いかな……」
 後半の僕の独りごとを、聴覚に頼って生きてきた結が聞き逃すはずが無かった。
「えーっ!? あーちゃん、今日のデートプラン、決めてないの? 男の子は、ちゃんとデートプランを練って、女の子をお姫様扱いしなきゃならないんだって、この前あーちゃんが読んでくれた賀古ミライ先生の『王子様(プリンス)は女の子の夢をみるか』第3巻に書いてあったじゃない!」
 なんという記憶力だ。なんという脳の無駄遣い。
 賀古ミライ作『王子様は女の子の夢をみるか』(青海社)は、女子中高生に人気のファンタジックSFラブコメディ漫画だ。女子向け漫画月刊誌に連載されており、現在11巻まで単行本が発行されている。結のお気に入りの漫画の一つなのだが、これを読み聞かせてやるのはなかなか恥ずかしい。美男美女のラブコメをひとりで演じ分けるのも大変だし、歯の浮くような台詞を言うだけで、心が擦り減っていくのが分かる。ちなみに略称は「王夢(プリゆめ)」。
「そもそも今日のコレは、デートなのか。制服を取りにいくついでに色々見て周ろうとか、そんな感じなのかと思ってた」
「えっ、デートじゃないの? デートじゃないんだぁ……」
 うじうじ、と結はわざとらしく落ち込んでいる。彼女の演技力が向上する日は来るのだろうか。
「ごめんごめん、冗談だよ。デートで良いよ」
「なんか、投げやり……。あーちゃんの意地悪」
「好きな子には意地悪したくなっちゃうんだ。仕方ないよね」
「知ってる、確かそれツンデレって言うんだよね! この前あーちゃんが読んでくれた金子利典先生の『2万メートルの心の距離』の下巻に書いてあった奴だよね!」
 なんという人生の浪費。
 金子利典著『2万メートルの心の距離』(丸山文庫)は、女子高生に人気のミステリック・ラブ・ファンタジー小説だ。耽美的で甘い描写が女性に人気である。結のお気に入りの小説の一つなのだが、これを読み聞かせてやるのはなかなか大変だ。上品ではあるもののエロティック一歩手前の描写を朗読するのは恥ずかしいし、そもそも読むには長すぎて疲れる。
「いや、僕はツンデレじゃないよ。いつだって結にデレデレだよ。好きすぎてちょっと困るぐらい」
「えっ、あ、うん。わたしも……それ。でれでれ、かも」
 結の目が見えるようになっても、こんな軽口の言い合いはまったく変わらない。それが分かっただけで、僕は嬉しくなってしまう。心臓の底を優しく撫でられたみたいに、胸の奥にくすぐったさを感じた。
 
 3歩進んで5歩下がる様な楽しい掛け合いをしながら、とりあえず駅ビルを散策することに決めた。人が多い所に行くのは少し不安だからあーちゃんといるときに慣れておきたい、と結が言うからだ。
 結は見るもの見るもの、何でも楽しんでいるようだった。
 ウインドウショッピングにしても、そもそもガラス自体が面白いらしい。マネキンを見て「どうしよう、あの人ずっと動いてないし息もしてないよ。それに体温も低い……あーちゃん、どうしよう」と涙目になっていた。
 人生で初めてショートケーキを見て、「すごい! 白い!……でもわたし的にケーキはオレンジ色のイメージだったんだけどなぁ」としきりにつぶやいていた。その後地下スーパーマーケットの青果コーナーに行って果物のオレンジを見せたら「……これはわたし的にはピンクと呼びたい色だよ」と訳のわからないことを言っていた。
 アパレルショップをひやかしたときは、「あの服見てくるー」と走って行ったは良いが、その服を手にとってはすぐに戻し、手にとっては戻しを繰り返し、とぼとぼ戻ってきた。曰く「……手触りが残念」。結なりにこだわりがあるみたいだ。
 さんざん見て周って、あっという間に2時間がたった。最初ハイテンションだった結も、ややおとなしくなりつつある。WPRDは、慣れないうちは装着者への負担が大きいらしい。
「結、そろそろお昼にしようか」
「うん、そうだね。……わたしちょっと疲れちゃった」
「クイーンバーガーと、ハッピークラウンどっちがいい?」
 前者は比較的安価なファストフード、後者は味にこだわりがあるがやや高価なファストフード店だ。僕と結が外食をする時は、基本的にいつもファストフードである。予算の都合もさることながら、箸や皿を使う必要が無いため結が食事がしやすいという利点もあった。
「あーちゃん。わたし、ハンバーガー以外の物が、食べてみたい」
「えっ、でも……。そうか、そうだよね。見えるようになったんだし、他の物にも挑戦してみようか」

 駅ビルの最上階、レストラン街へ向かう。
 9階にはレストランがずらりと並んでいて、優柔不断な僕は何時も迷ってしまう。右手には洋食屋、その奥には中華、さらに奥にはイタリアン。いろんな種類のお店からその時の気分によって選ぶことが出来るのが、レストラン街の魅力だと思う。
 店の前のガラスケースには、精巧に作られた食品サンプルが並んでいる。食品サンプルは良い。見ていてえ飽きないし、制作者の工夫や熱意が伝わってくる気がする。僕はサンプルを見ているだけでも、ああ美味しそうだななんて思ってしまって、それだけでお腹いっぱいな気分だ。
「さあ、結。どこがいい? ここ一フロアに和洋中全部あるから、どんなものでも大丈夫だよ」
「……あーちゃん。このガラスの向こうに置いてある、なんか変な樹脂の塊、なに?」
 そうか、結は食品サンプルを見たことが無いのか。
「ああ、これは……『食品サンプル』って呼ばれているもので、そのお店で提供されているメニューをこんな風に模型で展示してあるんだ。文字や写真のメニューだけじゃ伝わり難い盛り付けとかサイズとかが、これだと一目で分かるよね。それに、最近の食品サンプルは良く出来ていて、本当の食べ物みたいでしょ! ほらこの麻婆豆腐のとろみの具合とか……!」
 中華料理店のガラスケースに展示してあるサンプルの麻婆豆腐を指差す。いかにもプラスチック製でございやす、という安っぽい食品サンプルとは違い、この麻婆豆腐(偽)は良く出来ている。豆腐の柔らかさから、餡のとろみ、油のテカリまできちんと再現されている。きっとこれを作った職人は熟練か、そうでなければ相当の麻婆豆腐フェチと見た。
「……これ、わたしが見たことある麻婆豆腐と全然違う」
 結がなにやら難しい顔をしながら言った。
「まあ、ちょっとした色とか具材の大きさとかは調理の方法によって変わっちゃうと思うけど」
「そうかなぁ……。シルエットはともかく、色は全然違うし、温度もこんなふうじゃない。……あーちゃんには、これが本当に麻婆豆腐そっくりに見えるの?」
 そう言う結の口調は猜疑心に満ちていた。ねえねえ新種のカブトムシ発見したんだ見て見て、と言いながらコガネムシを見せて周る人を眺めているような、そんな「かわいそうな人を見る目」で僕のほうへ視線を送っていた。
「……僕にはそう見えるんだ―」
 僕に出来るのは、そう言ってから、話しを逸らすことだけだった。

 食品サンプルの話題に触れてしまわないように注意していたせいか、僕らの口はいつもより重かった。サンプルを見ずに文字のメニューだけ見て、これはどうあれはどうと、しばらくの間うろうろしていた。
 少し歩いて、結局選んだのはおそば屋さんだ。何でも以前落語の「時そば」を聞いてそれ以来ずっとおそばが食べたいと思っていたらしい。
 お昼の時間を少し過ぎていたからか、店内は空いていた。空いているお席へどうぞ、と促されたので、お店の奥の方の、他の客からは死角になる場所を選んだ。
「ねえ、あーちゃん。隣じゃなくて、その、向かいに座ってくれないかな。隣だとあーちゃんの顔が見えなくて……ちょっと寂しい」
 いつもの流れで隣に座ろうとしたら、柔らかく拒否された。
 恐らく彼女に他意は無い。本当に僕の顔を見たいと思ってくれているのだろう。
 なんとなく照れくさくなって僕の顔は熱くなる。でも僕の首から下には、なぜか冷たい液体金属を流し込まれたかの様な悪寒が走った。背筋には汗が伝っているだけなのに、何匹もの蟻に這われている様にぞわぞわした。左腕は、肉がそがれて骨だけになった気がした。
 でも僕は、そんなことおくびにも出さずに、心とは裏腹に、物分かりよく、「そっか」と一言絞り出して、結が左斜め前に見える席に座った。席に座るとすぐ、ほうじ茶が運ばれてきた。結はそれを見て「まだ熱い色してる……今飲むとやけどする……」とぶつぶつ言っていた。僕はそれを目の端で眺めながらお品書きへと手を伸ばす。
 結は目が見えるようになったものの、文字はまだ読めない。文字自体は一応覚えている様だが、小さい文字や長い文章を読むのには時間がかかってしまうらしい。
「結、なに食べる?」
「コロッケそば!」
「いや、そんなものは無い」
「え、ないの?」
「存在はするけど、こう言うおそば屋さんにはないかな。駅の立ち食いそばとかに行かなきゃ」
「じゃあ……どんなのがあるの?」
「基本は冷たいのか、温かいのか。それに、かき揚げとか油揚げとかをトッピングする感じかな。あとサイドメニューで稲荷寿司とか小さな丼ものとかがあるみたい」
「うーん、じゃあ、あったかいの」
「じゃ、僕は冷たいにしようかな」
 すみませーん、と店員さんに声をかけてかけそばとざるそば、そして稲荷寿司を一皿注文する。僕がざるそばと稲荷寿司を選んだのは、結がかけそばを食べられなかった時の保険だ。彼女が初めてみるそばを、それも熱々のかけそばを上手に箸でたぐれるかどうか不安だった。
 注文を終えてしまうと急に手持無沙汰になって、ほうじ茶に手を伸ばす。茶碗に口をつけようとした時、結が声をかけてきた。
「あーちゃん、そのお茶まだ熱いよ。多分85度くらいあると思う。やけどしちゃうかもよ」
 結の言葉を聞いて、僕はお茶碗を持った姿勢のまま固まった。
「……そうか、そんなことまで分かるのか」
「多分、多分だよ。家でポットから85度のお湯を出した時の感じと似てるの」
 ――危ないから気をつけて、と言うのはどっちかというと僕の仕事だったはずなのに。
 結も成長してしまったんだなと、嬉しい様で、寂しい様な、頭の芯がしびれてしまって、あんまり深く考えたくなくなってしまった。。脳みその痺れを、ただ一言「ジーンとした」という陳腐な慣用句に押し込た。ふいに結に一歩先に行かれてしまったという、喜びと切なさが入り混じった複雑な感情を僕は出来る限り、ポジティブな感情でくるんで飲み込んだ。何か忘れ物をしている様な引っかかりが残ったけど、僕はそれを無視した。
「そっか。ありがとう、気を付けるね」
 礼を言うと、結は頬をいっぱいまで引き上げて、にっこりと笑った。ほとんど見たことが無いくらいの顔全体の笑顔だった。
 僕も、それに微妙な会釈を返してから、茶碗に息を吹きかけるのに集中するふりをした。
 僕と結の間に、沈黙の時間が訪れる。
 結はきょろきょろと物珍しそうに店内を見回し始めた。僕はどうしていいかわからなくて、だんだん冷めていくお茶をまだ吹き続けている。
 結の目が見えなかった時は、むしろ穏やかで温かかった沈黙の時間が、少しだけ苦痛だった。
 いつもなら僕に寄り掛かってくる結の体温を感じて、結のささやかな呼吸の音に集中して。おそらく結も、僕から発せられる小さな音とか体温とか匂いとかそう言ったものを感じながら、僕らは無言の時間を過ごしてきた。言葉は無くても、二人の間に交わされているものがあった。
 今はどうだろうか。僕は手に持った茶碗の熱だけを感じている。結は、安っぽい和風の内装も、人工皮張りのソファーも、くるくる働いている店員さんも、何もかもが興味深いのか、それらをじっと観察している。おそらく、僕との間に会話が無い事さえ気がついていないだろう。そう考えると、みぞおち辺りがイライラして、口の中には薄めた血液のような変な唾液が溢れてきた。
 その後、運ばれてきたそばを二人で食べた。
 結の箸遣いは、決して綺麗ではなかったが、僕が予想していたよりはあるかに上手だった。
 結はWPRDを使って、舌をやけどすることなく、一生懸命かけそばを食べていた。僕は僕で、別に食べたかった訳でもないかけそばと稲荷寿司をもくもくと食んでいただけだ。時々結が「上手くすすれないよ。ねえどうやってやるの」とか「そばの色って思ったより気持ち悪いね。味は美味しいけど」とか話題を振ってくれたけど、生返事しか出来なかった。思えば結からこんなにたくさん話題を振ってくるなんて、今まではなかった。結の外で起きている出来事を僕が言語化して結に伝えるばかりで、結から会話を始めるのはそう多くないパターンだ。でも、そんなことにすら僕は気付けなかった。

 昼食を食べる前は、少し疲れているように見えた結も、お腹がいっぱいになったら元気を取り戻したみたいだ。おそば屋さんから一足先に飛び出すと、あーちゃん、はやくいこうよー、と僕を急かしてくる。なんだか散歩に行きたい犬みたいで微笑ましい。
 そんな風に僕が和やかな気持ちでいると、結が転んだ。何も無い所で転んだ。
「結、大丈夫?」
 結のそばまで早足で駆け寄って、左手を差し出す。
「いてて……。このデパートの床、なんだか紛らわしいね。段差がある様に見えるよ」
 結は、恨めしそうに床の一部をにらみながら、独りで、立ち上がった。
「いや、そんな風には見えないけどな」
 宙を切った左手を誤魔化す様にチノパンの太もも辺りでぬぐいながら、結に訪ねる。
「どこら辺が段差に見えるの? 結」
「あの、模様が付いている所。黒、だよね? あそこの辺りが、周りの床とも少し温度が違うし、反射する色も全然違ってるし。もーっ……」
 デパートの床は、大理石風のベージュのパネルが敷き詰められており、規則的に小さな黒いパネルが配置されている。僕には単なる幾何学的な、平面的な模様にしか見えない。
「気を付けなよ。いくらWPRDが凄いからと言って、今の世の中はWPRDに適応するように作られている訳じゃないんだから」
 まだ納得言っていない様子の結の右手を、左手でつなぐ。結は、この社会に、視覚の社会に生まれたばかりの赤ちゃんだ。やっぱり僕がきちんとリードしてやらないと、駄目なんだ。

 膝をしたたかに打ちつけた結は、足を引きずる様にしてゆっくり歩いている。僕はそれを支えながら同じようにゆっくり歩く。
 結は少し頭が冷えたのか、先ほどよりもやや落ち着いた感じだった。それでも、まだまだ色々な所を見て回りたい、あーちゃんどっかに連れて行って、とねだってきた。僕もそうしてやりたいのにはやまやまだったが、退院したての結を長い時間連れまわすのには気がひけたし、実際結も結構疲労が溜まっているはずだ。
「今日はこのくらいにして、制服を取りに行ったら帰ろう。結も、もう疲れたでしょ?」
「確かに、ちょっと疲れてきたけど……」
「どっちにしたって一日で行きたい所全部に行くのは無理だよ。また明日にしよう。明日はどこに行きたい?」
 こう尋ねると、結は一瞬無表情になってから、なんだか情けない顔をした。 
「ごめんね、あーちゃん。明日は、その、お父さんとお母さんと、久しぶりにお出かけするんだ」
 結は眉を下げたまま、精一杯笑っている。
 ――そう言えば、この表情久しぶりに見たな。結は両親の話をするとき、嬉しい様な、それでいて嬉しくない様な中途半端な顔をする。最近、結の両親について触れることが無かったから、この寂しい笑顔を見る機会も無かった。
「そっか」僕は出来るだけ、素っ気なく答える。「それなら仕方ないね。明後日は……リハビリだし、明々後日は学校の書類提出日だっけ。次に遊べるのはいつになるかなあ」
 僕は、結が、えー、やだ、そんなに後なの? とだだをこねるんじゃないかと期待した。けれども結は、なんだか年上のお姉さんのように少し寂しげに微笑んでから、そっかぁ仕方ないね、とつぶやいただけだった。
「そうだ、今度星を見に行こうよ。結、あんまり夜で歩いたこと無かっただろ? 星空、結も目が見えるようになってから何度も見ているだろうけど、そんなの比べ物にならないくらい綺麗に見える場所、僕知ってるんだ! いつがいい? 今夜でもいいんだけど」
 僕は、少し焦って早口でまくしたてた。滑舌の練習に用いる『外郎売』のセリフ回しもこんなに熱を込めて読んだことは無い。
「今夜はちょっと……。まだ、昼と夜の視覚の差に慣れていなくって、ちょっとずつ慣らしているんだけど……、その、ごめんね」
「……、そうだよね。ちょっと僕、先走っちゃったよ」
 あはは、笑って見せた。こんな暑くてじめじめした日なのに、どこまでも乾いた笑いだった。

 それから、僕と結はほとんど会話することもなく、制服を扱っている服屋へと向かった。たまにちらりと結の顔をのぞき見たけど、人形みたいに無表情で、何を考えているか分からなかった。いつもなら左側から伝わってくる結のぬくもりも、この外気の暑さにマスキングされてしまっている。僕らは二人で居るのに、ひとりひとりだった。周りを忙しなく歩いている群衆とおなじ、偶然居合わせた二人が、お互いに興味もなく、偶然に並行に歩いている、そんな気がした。

 

4

 結局、昨日はなんとなくぎくしゃくとした雰囲気で制服を買い終え、そのまま結を送って行った。
 今日、結は両親と楽しくお出かけするらしい。僕は結のために空けておいたスケジュールが無駄になってしまった。仕方が無いので昨晩急に飛び込んできたアルバイトのヘルプに入ることにする。
 僕はコンビニエンスストアでアルバイトをしている。結が寝ている深夜や早朝に入れることがシフトを入れることが多いので、まだ日のある時間帯に仕事をするのは久しぶりだ。
 バックヤードに入ると、先輩の西鵜涼太さんが、雑誌を読みながらくつろいでいた。
 西鵜涼太、自称フリーター。フリータ―を名乗っていながらシフトに入っている日数は少ない。恐らく他のバイトを掛け持ちしているんだろうけど、涼太さんは自分のことを話したがらないので、その生態は謎に包まれている。
「おー、新。ひさしぶりー」
「涼太さん、お久しぶりです」
 涼太さんは誰にでも気さくで、話しかけやすい、まさに「気のいい兄ちゃん」だ。ほどよい長身と、整った顔立ち、深くて良く響く低音の声は、多くの女性を虜にしている。この前も女子高生二人組にアドレスを聞かれてたらしいが、バックヤードで店長が目を光らせていたから断ったそうな。男の僕でさえ、あの良い声で静かに「新」と呼び捨てにされると、うっかりときめいてしまいそうになる。結には絶対に会わせたくない人ランキング一位は常にこの人である。
「昨日ヘルプの連絡行ったんだって? 大変だったな」
「暇だったんで、ちょうど良かったですよ」
「そう言えばこの前、新が歩いているのみたぜ」
「そうだったんですか、声かけてくれれば良かったのに」
「いや、女の子と腕組んでたんで、遠慮したんだよ。かわいい子だったな、彼女?」
 しまった、見られていた!
「いや、彼女と言うか、その……」
「そう警戒するなよ、他人のツレを盗る趣味はないからさ」
 盗る趣味が無くても、勝手に心奪われる可能性があるから、警戒しているんだけど。
「そうですか……。それに、あれですよね、涼太さんのタイプってどっちかっていうと綺麗でグラマー系ですよね!」
 結はどっちかと言うと可愛い小動物系だ。顔立ちは良く見ると、綺麗な日本美人って感じだけれど、遠目に見れば分からないだろう。だから多分大丈夫。
「いや、俺のストライクゾーンは広いぜ。新に紹介したヒトが偶然そんなタイプだっただけだと思う」
「……そうなんですか」
「ああ、俺のストライクゾーンはサッカーゴールくらい広い」
「それ、違うスポーツじゃないですか」
 ストライクゾーンは野球だ。
「いや、それくらい広いってことだ。ちなみに、キーパーはいない」
 枠に打てば必ずゴールするってことか。
「そして、反対側のゴールも、俺のストライクゾーンだ」
「もう入り組み過ぎて何が何だか分かりませんよ! 反対側のゴールってどういう意味ですか」
「同性もイケる、ってことさ」
 涼太さん、わけわかんない事、そのいい声で言わないでください。
「そう警戒するなよ、他人のツレを盗る趣味はないからさ」
 ……つまり、付き合っている人がいなかったら僕も狙われてるってことでしょうか。
「まあ、良いです。僕のことも、結のことも狙わないでくださいね」
「……結ちゃんっていうのか、かわいい名前だな」
 涼太さんが大きめの口をにんまりと釣り上げて笑った。寒気がするほど美しい笑顔だった。
「本当に! やめてくださいね!」
「冗談だよ、冗談。あんなに仲が良さそうな二人を引き裂けるかよ。俺はハッピーエンドの物語しか見ない派だ。バッドエンド見ると泣いちゃうから」
 涼太さんが泣いている所……想像できない。
「新、大切にしろよ。あんなにまっすぐ好きになってくれる女なんて、そうそういないぜ」
 涼太さんほどモテる人がこんなことを言うなんて、なんとなくしっくりこない。けれど、にこやかに話している涼太さんの目は、真剣そのものだったのできっと冗談ではないんだろう。
「……そう、ですね」
「遠くから見ただけだけど、あの子はあれだぜ、きっと強い子だぜ。新、将来結婚したら尻に敷かれるのは間違いないな」
「結が? それは無いですよ、むしろ僕が結を引っ張ってやんなきゃ」
 僕の言葉を聞いて、涼太さんが急に真顔になった。
「新、あんまり自惚れるんじゃねえぞ。自分が引っ張っていく? 恋人のどっちか片方だけが頑張ったって空回りするだけだ。もし新だけが引っ張って言っているように感じるなら、そりゃ相手が気を使ってくれてるんだろ」
 涼太さんに僕らの何が分かるんですか、と喉まで出かかったけれど、努力して飲み込んだ。涼太さんの表情に遊びはない。いっつもへらへらしていて、どこまでが本当でどこからが嘘か分からない涼太さんが、今日はいつになく真面目だ。きっと涼太さんは涼太さんなりに、自分の経験を照らし合わせて、僕を叱ってくれているんだろう。
「……ありがとうございます。覚えておきます」
 バックヤードの扉が薄く開いて、店長が交代おねがーい、と声をかけてきた。涼太さんはもういつもの表情に戻ると、うーす、と答えながら店内へと向かって行った。
 僕もそれに一呼吸遅れてついていく。結には今日、両親が付いてるんだ。いまはバイトに集中しよう。
 

5

 結と一緒に制服を取りに行ってから一週間。僕はバイトに精を出したり、大学の課題を片付けたりして過ごした。
 あれから僕は、結とまともに会うことが出来ていない。
 二日に一度は顔を合わせているから、一般的な感覚からすると、顔を合わせる機会が少ない、とは言えないんだろう。でも結の目が見えなくなる前、一日中結と一緒に過ごしていた頃と比べたら圧倒的に独りの時間が長い。
 それに結と会うたびに、なんだか結が結じゃない気がしてならなかった。結の代わりに知らない大人が結を演じています、と言われても僕は信じてしまうかもしれない。結は発見した美しい物、感動した出来事、面白かった発見、何でも僕に話してくれる。でもその結が語る内容は、なんとなく納得できないことばかりだった。カマキリが想像していたのよりずっと可愛かったとか、嫌いだった雨の日が好きになったとか、僕の知っている結は絶対に言わなかっただろう。「綺麗な模様のお花を見つけたの、あーちゃんにあげるね!」と結から渡された花が、真っ白で模様が無かったのを見た時、僕は卒倒してしまいそうになった。結が僕の手の届かない、得体のしれない何者かになってしまった気がした。
 現実の結と話していても、ただ心が締めつけられるだけで全然楽しくなれなかった。仕方ないので僕は、一週間ぽつぽつと空いた時間に結の写真をぼんやり眺めることで自分の心を鎮めた。
 購入してすぐ制服を試着した結を、僕は携帯端末のカメラ機能で写真に収めた。濃紺のブレザーとチェックのプリーツスカート。まっしろなブラウスに、控えめなリボン。一歩だけおしゃれの方向に踏み出しているその制服は、結にとても良く似合っていると思う。振り向いた瞬間にふわりと舞った黒髪は、指で梳いたらさらりと爽やかな匂いを振りまきそうだ。卸したてのかっちりした制服は、相対的に結の柔らかさを引きたてている。
 写真の中の結は、目が見えるようになる前と同じようにはにかんでいる。眼にWPRDが埋め込まれてはいるけれど、たしかに僕の良く知る結の顔だった。

 僕はベッドの上で横たわり、しばらくのぼんやりと間、携帯端末の中の結を眺めていた。
 視線を画面の左上に滑らせる。19:40。天気:晴れ。そろそろ出掛けようかな。
 今夜は、結と夜空を眺めに行くことになっていた。少しくらい時間がずれたって星は逃げたりしないけれど、結を迎えに行く時間を考えると、そろそろ出発したほうがよさそうだ。
 身体を横たえていたベッドから起き上がり、クローゼットから薄手の上着を取り出す。八月も中旬とはいえ、夜はそれなりに冷える。それから、携帯端末と、財布と―― あとは何が必要だろうか。
 階下でチャイムの音がした。こんな時間に来客とは珍しいな、お隣さんだろうか、なんて考えていると「あらたぁー、降りてきなさーい」という姉ちゃんの声が聞こえた。よくもまあ、あんな気の抜けた喋り方で大声が出せるもんだ。僕は身支度を手早く済ませ、そのまま外出できる格好になってから一階へ降りて行った。
「なに、姉ちゃん?」
「結ちゃん、来てるよ」
 何を馬鹿な事を。結が独りで家に来るはずがないじゃないか。
「あーちゃん。……待ちきれなくて、きちゃった」
 結がいた。悪戯っぽく「きちゃった」とつぶやく結は、やけに大人っぽくて、まるで結じゃないみたいだ。
「……結、よく独りでこれたね」
「あーっ、あーちゃん、わたしの事子どもあつかいしてるー。わたしだってもうひとりで出歩けるよ。文字通り眼を瞑ったって来れるよっ!」
 へー結ちゃん良かったわね―、ありがとうございますー、と姉と結が仲睦まじげに話している。僕はなんだか窓際に追いやられ仕事も与えられない閑職にまわされたサラリーマンみたいな気分になった。
「……まあ、良いや。ちょっと早いけど、行こうか」
 うん! と笑顔で返事をする結は、まるで普通の女の子みたいだ。

 
 八月の夜道は涼しかった。冷たい星の光が、僕らの火照った肌を撫でて冷やした。
 幸いにも雲ひとつない快晴だ。住宅街の真ん中でも綺麗に星がみえる。
 結はもう待ちきれないと言った感じで、いつもよりも大分早足で歩いている。結の歩く速さを考慮してタイムスケジュールを組んだけど、大幅に巻きで進行していた。
「ねえ、あーちゃん。これから行く場所は、どんなところ?」
 結がはずんだ声で聞いてくる。僕の正面に立って、後ろ向きに進みながら、まっすぐ僕の目を見ながら。
「僕の通ってた小学校の裏手にね、神社があるんだけど、そこからさらに裏山の方に進んで行くと斜面に少し開けた場所があるんだ。街の光も届かないような所だから、きっとここよりももっと綺麗に星がみえると思うよ。……それより、そんな歩き方しているとまた転ぶよ」
 大丈夫大丈夫ー、なんて言いながら結が僕の、右側に、来た。
「そんなことより、あーちゃん。じゃーん! これどう?」
 結はそう言って、薄手のパーカーを着た両腕を広げて見せてきた。
「結、そんな服持ってたっけ?」
「この前、お母さんと一緒に出かけた時に買ったの! 色も手触りも気に居る服を選ぶの大変だったんだからね」
 そう言う結の顔は、混じりっ気なしの笑顔だった。
 結のパーカーは、パステルピンクの、微妙なシルエットの、なんだか妙に部屋着っぽい雰囲気だった。恐らく結の美的感覚は、一般の女子高生のそれとは大きく違っているのだろう。それでも、自分自身で選んだと自慢げに胸を張る結は、その服を完全に着こなしているようにみえた。
 楽しそうに洋服の話をする結は、本当にただの女の子みたいだ。結のおしゃべりは神社の裏手の広場に着くまでずっと止まらなかった。僕は初めて聞く結のマシンガントークに面食らってしまって、ただただ曖昧な返事を繰り返すことしかできなかった。さすがに、自分の下着の色の話までし始めた時は慌てて止めた。服の中まで当たり前に透視してしまうWPRD装着者には、僕たちが当然持っている所謂「羞恥心」みたいなものは育たないのかもしれない。やっぱり結は僕が支えなきゃ駄目みたいだ。

 久しぶりに来る広場は、10年以上前の記憶とほとんど変わっていなかった。バスケットコート二面ほど広さに足の短い草が一面に生えわたっている。露も下りていないし、座ったり寝転んだりするのに支障はないだろう。
 僕は無言で、結は、ほえーと一つ息を吐いてから、適当な場所に腰を下ろす。
 二人で黙って宙を見上げる。
 夏の星空は、僕らを包む生ぬるい空気とは裏腹に、どこまでも冷たく透き通っていた。それでいて、火打石からはじけた火花が時間を止めてしまったかのように熱を内に秘めている。
 ぎらぎらと尖る星の光を眺めていると、まるでここでは無いどこかの時間を過ごしているみたいで、実際星の光はそうなんだろうな、とひとり納得してみる。地球と星々との距離を考えると、あの星からの光は10年前に放たれた光、あの星からは18年前の光、あの光は8年前、あの光は1週間、この光は昨日の光。色々な過去の光たちが、いまここに居る僕と結とに同時に降り注いでいる。二人の間に言葉は無いけれど、人類には理解できない光の歴史の奔流を、二人して無言で受け止めている。
「……あーちゃん」
 結の声が、ぽつりと届いた。
「ありがと、ね」
 うん、と返事をしたかった。でも口を動かすのさえ億劫だった。
 それでも結は、僕の無言から、僕の言いたかったことを感じ取ったらしい。また空を眺めるのに戻った。
 上を向いたまま、結が小さな声で言った。
「あーちゃん、将来の夢は?」
「……なに、それ。青春っぽい問いかけだね」
「『若者たちが夜空を眺める時は、必ず未来の話をしなければならない』って、《教授》が言っていたじゃない」
 ちなみに、結の言う「教授」とは、僕らの愛読書、金子利典著『2万メートルの心の距離』(丸山文庫)の登場人物の名前である。
「そうだね、公務員にでもなって、安定生活かな。時間も自由に使いたいし、結と一緒に居る時間を出来るだけ確保したい。……まあ、今時は公務員になるのも大変らしいけど」
「なに、それ。堅実ー!」
 そう言って、結はわざとらしく笑った。
「わたしはね……、どうしようかな。急に目が見えるようになっちゃって、生活がまるっきり変わっちゃって。今まではあーちゃんに必死についていくことだけを考えてたけど、これからどうしていいか、まだわかんないや」
「……目が見えるようになっても、僕と結の関係は変わらないよ。結が迷っている時は僕が引っ張っていく」
 僕がそう言うと、結は何故か泣きそうな顔になった。そして泣きそうな顔のまま「ありがと」とつぶやくと、顔を僕の顔の方へと近付けてきた。しっかりと目が合う。僕の鼻から結の鼻まで、直線距離で16センチ。結の「目」をしっかりと見るのはこれが初めてだ。一見普通の目と変わらないけれど、その虹彩は黒真珠みたいに不思議な輝きを放っていた。
 結が目を閉じる。つられて僕も目を閉じる。
 結の息が近づいてくるのが、はっきりとわかる。
 5センチ、4センチ、3センチ……
 二人の距離がさらに近くなる。直接肌を触れ合っている訳でもないのに、結のぬくもりを感じる。
 2センチ、1センチ……
 ほんのわずかな距離。体温も吐息も、もう混ざり合ってしまって、僕らが二人だということが信じられない。
 そして、ついに二人の唇の距離が0に――
 ――ならずに、ややマイナスになった。
 ガチン、と硬質な音が頭蓋に響いた。間髪をいれずに唇にチクリとした痛みが走り、口に血の味が広がった、ような気がした。僕の前歯の神経は、じんじんとした痛みを脳につたえている。
 唇の柔らかさを期待していた僕は、思い掛けない奇襲に混乱しながらも目を見開く。目の前に、口を押さえながら痛みをこらえる結がいた。眉を寄せ必死に痛みに耐えている。
 僕と結が「こういう仲」になってから、幾度となくキスをしてきたけれど、失敗するのは初めてだった。
「てーっ……。ちょっと血が出ちゃったよ。結、大丈夫?」
 結の唇を確認する。幸い血は出ていないみたいだ。
「いたた……。ごめんね、あーちゃん。失敗しちゃった」
「僕こそ、ごめん。それにしても、いまさら歯ぶつけるなんてね」
「ううん、わたしのせいなの。あーちゃんの顔見てたら、距離感間違えちゃった」
「あれ? 結、目閉じてなかった?」
「閉じてたけど、見えたの。……WPRDは自分の瞼も透視しちゃうんだ」
「意外と融通聞かないんだね、最新技術なのに。ずっと見えてると疲れちゃったりしないの?」
「付けてすぐはまともに夜も眠れなかったなあ」
 小さく息を吐いて、結は草の上にあおむけに寝転んだ。そして瞼を閉じてから、顔に影ができるように宙に手をかざした。
「こうやって目をぎゅってつむっても、掌で夜空をおおっても、星の光はそれをすり抜けてわたしの網膜にささるの」
 それは結のひとりごとだったのだろうか。聞こえないくらい小さな小さな声で、結はつぶやいた。そして、すっと僕のほうを見てから、
「この目は、見えすぎてわたしにはちょっと疲れちゃうけど、まばたきをする一瞬の間でさえあーちゃんを見逃すことが無いのだけは嬉しいな」
 結はそう言った。照れたり、恥ずかしがったりせず、ふふっと笑った。その顔は決して「恋する少女」ではなく、もっと成熟したなにかだった。
 一時の無言。
 風が草を撫でる音が、耳に心地いい。温かい風の指が、僕の髪を梳いていく。子供の頃お母さんに優しく頭を撫でられたのを思い出す。
「……『お日様が出ている時に何度逢瀬を重ねるよりも、お月様の立ち会いのもとで一晩語り明かした方がずっと仲良くなれる。夜には人を素直にする力がある』……。賀古ミライ先生の『王子様(プリンス)は女の子の夢をみるか』第12巻に書いてあったよ」
 結が、つぶやいた。
「あーちゃんは、もしかしてわたしともっと仲良くなろうとして、ここに誘ってくれたのかな?」
 僕の反応も待たず、結が続ける。
 ――ちょっとまて、何かがおかしい。
「そうだとしたら、わたし、うれしいな」
 ――何かが引っかかる。
「ねえ、あーちゃん。『王夢(プリゆめ)』のフィリップ様とメリーちゃんね、ついに結ばれたんだよ」
 ――まさか。
「二人もね、こんな星空の下でおしゃべりしてね、やっと自分に素直になれたの」
 ――やめろ。
「だからわたしたちもね」
 ――やめろ。
「二人みたいに、」
「やめろ!」
 思わず、大きな声が出た。
 結は目を見開いて、固まっている。
 結と出会ってから10年。僕は初めて結に向かって、怒鳴った。
 でも、許せないんだ。これだけは。
「……やめろよ。僕まだ、12巻、読んでないんだよ!」
「あっ、そうだったの?! ごめんね、あーちゃん」
「ネタバレだけは、許せないんだ! ていうか、12巻って最新刊じゃないか、いつの間に読んだんだ!?」
「昨日、お母さんとお買い物に行ったときに売ってたから、つい……」
「あぁぁぁ……。なんだかんだ、僕も楽しみだったのに……。というか、『王夢(プリゆめ)』の連載が始まってから6年間、結に読であげるのは僕の役目だったのに……。そっかぁ……、独りで読んじゃったのかぁ……。挙句ネタバレかぁ……」
「あーちゃん」
 ウジウジとへこむ僕に、結が声をかけてきた。芯が通った、ハッキリとした声だった。
「あーちゃん、わたしね、もう一人で漫画、読めるんだよ。お買い物も行けるし、多分もうちょっと慣れればきっと小説も読める。一人でお出かけも出来るし。……もう、あーちゃんに、何でもかんでも手助けされなくても、わたしは大丈夫なんだよ」
 結は静かに言った。10年間で一番透き通っていて真っ直ぐな声だった。
「……急になに、言ってるんだよ、結」
「だからね、あーちゃん。あーちゃんがわたしのために、わたしと一緒に居ようとして公務員になりたいって言ってくれるのは嬉しいけど……。わたしがWPRDを付けてまで見たいと思った世界は、あーちゃんと一緒に見たいと思った世界は、きっとそういうじゃないと思うの。あーちゃんは、あーちゃんがやりたいことをやって欲しいの」
 なんだよ、それ。
「……ちょっと、結が言っている意味が分からないよ。別に僕は結のためだけに公務員になろうとしている訳じゃないんだ。いいじゃないか、公務員。クビにはならないし、人のためになるし、サイコーじゃないか!」
「ちがう、ちがうよ。あーちゃんは他にやりたい事、いっぱいあるのに、それを見ないようにして、自分に目隠しをして、諦めてる。わたしが好きなあーちゃんは、目の見えないわたしを引っ張ってくれたあーちゃんは、逃げたり諦めたりする人じゃなかったよ。わたしにいろんな世界を教えてくれるために、いっぱい工夫していっぱい勉強して、たくさん方法を試して……わたしがちゃんと笑えるようになるまで、諦めてなかったよ。だからね、あーちゃん、」
「結に、なんで僕の心が、心の中が分かるんだよ。結が僕の将来について聞いてきたのも初めてだし、僕だって話したのは初めてだ。それをなんで、逃げとか諦めとか、そう言いきれるのさ」
「わたしには分かるよ。見える、の。WPRDを付けてからまだ一ヶ月くらいしか経ってないけど、わたしはずっとあーちゃんをみてきたよ。あーちゃんが喜んでいる時、嘘ついてる時、わたしの事考えてくれている時、全部のあーちゃんの『色』を、この目は捉えてきたよ。体温とか、内分泌とか、血流とか、そういうもの全部、わたしには分かるの。世間一般の感覚で上手に嘘をついても、わたしには嘘かほんとか分かっちゃうんだ。『公務員になりたい』っていった時のあーちゃん、全然楽しそうに見えないの。だから、あーちゃん、」
 話しながら、結は泣いていた。僕は混乱して、頭が真っ白になってしまっていた。ほんのわずか残っていた脳みその冷静な部分は、WPRDつけてても涙は流れるんだな、なんて場違いな事を考えていた。
「だから、あーちゃん。これからは、自分に嘘、付かないで。自分の好きな事、いっぱいして。わたしの事は、もう大丈夫だから」
 なんで結はこんなこと言うんだろう。僕の人生は結のためにあるのに。いや違う。僕らは見えているものが違っても同じものを視ることが出来る、互いに信頼し合った仲じゃないか。どちらかがどちらかに奉仕するような関係じゃない。いいや、そうでもなくって……。だめだ、思考が、まとまらない。
「それは、なに。なんだ? 目が見えるようになったら、」
 いや違う、こんな事言いたいんじゃない。でも混線しきった思考回路は、身体を上手く制御することが叶わなくなっている。僕の口は、滑って滑って、ただ心の奥に溜まった澱を吐きだすだけのマシーンになってしまったみたいだ。
「目が見えるようになったら、僕なんて必要ない。そう言う事かい?」
 一番言いたくないことを、言ってしまった。
 結は一瞬目を見開いただけで、声は出さなかった。
 草を撫でていた風が止んだ。
 呼吸の音すら聞こえない、完全な静寂が訪れた。
 そのはずなのに、僕の耳はぐわんぐわんという、揺れるような低音を感じていた。
 きっと、僕の心臓が揺れる音なんだと思う。
「そうだよね、高校に入ったら、新しい友達もできるだろうし、」
 ああ、自分が何を考えていたのか、自分の本心が何なのかすら分からない。でも、きっとこの膿は出し切るまで止まらない。
「あーちゃん」
 たぶん、結の声だ。僕の脳みそはすっかりぐらぐらになってしまって、人の声さえきちんと判別できない。
「わたし、帰るね。……独りで、帰れるよ」
 そう言って、結はいなくなった。
 僕はその場に残って、独りごとを言っていた。実際に声に出ていたのか、心の中で内省していただけなのかどうかはわからない。ただ溜まった、変にどす黒い、タールのような、澱のような、固まった血液のような、膿のような、ともかくそういった感情を吐き出してしまわないことには、その場から動くことさえできなかった。
 それから、家に帰って寝た、筈だ。気が付いたらベッドの中で、朝だったから、きっとそうなんだと思う。
 


 

6

  あれ以来――草はらで別れてから一週間、僕は一度も結と会っていない。。
 電話で声を聞くこと、もちろんない。もしかしたら、結から連絡が来るかもしれないと思って携帯端末をずっと握りしめているけれど、メールの一つも着やしない。
 思い返せばこの十年間、結と三日と離れた事は無かった。
 高校の修学旅行の時も空いた時間を見つけては結に電話をかけていたし、大学の受験勉強をするときもいつでも結が隣に居た。というか、僕の学力は結に勉強を教えることで支えられていた。他人に教えるにはまず自分が理解できなければならないと言う意見には、強く実感を持ってうなずくことが出来る。
 僕は、友達も少なくないし、充実した人生を送っていると思っていた。けれどもこうして結と離れてみると、自分が本当に空っぽな人間だったと思い知らされる。趣味と呼べるものは無いし、こうして暇でも気軽に連絡を取り合える相手はいない。高校でも大学でもクラスメイトとの関係は悪くないけれど、それはプラスマイナスゼロみたいなものだ。部活も委員会も、カラオケも合コンも、何もかもを結を理由に断り続けてきた。そもそも僕は、周りの人間から居ても居なくても同じだと思われているんだろう。何せそもそも交流する機会が休み時間のお喋りしか無いんだから、居なくなっても支障は出ないし、気が付かれない。
 結は僕の全てだ。嘘偽りなく、大袈裟でもなく、こう信じていた。
 でも本当は、結の一部が僕なんじゃないだろうかとこの一週間で思うようになった。結という母艦から切り離されて、単独ではなんにも出来ない個体。それが僕。愛する恋人との別離を、半身を引き裂かれる、なんて表現することがあるけれど、僕の場合は身体の九割くらい持って行かれた気分だ。
 逆に身体の一部が増えた、「目」を移植された結はどんな気分なんだろう――なんて、また結のことを考えてしまう。
 ――WPRDのせいだ。あんな変な機械を埋め込まなきゃ、僕と結はずっと幸せに暮らしていけたのに。あんなもの、結の体に埋め込むべきじゃなかったんだ。僕の心の中に淀んでいた不定形の感情が、一気に「WPRDへの恨み」という気持ちへ固まる。
 可視光線外の光も捉える? 壁の向こうも見える? なんでそんな事する必要があるんだ。そもそもあの機械は何のために開発されたんだ。視覚障害の治療のためなら、もっと別な方法があっただろう。
 僕はずっと握りしめていた携帯端末へ向かって「WPRD」とつぶやく。端末はその音波を即座に音声認識し、関連情報を検索した。
 WPRD――|広周波(Wide-renge)|光子(Photon)|受信(Receiving)|デバイス(Dvice)は、もともと脳科学分野の実験のために生まれたらしい。人体が本来想定されていない情報――たとえば音だったり、温度だったり――以外の情報を受信した時、脳がどのように活性化するか、人間の脳の新たな能力を開発出来ないか。そんな有るかも分からないニンゲンのカノウセイを実証するためにWPRDの開発はすすめられた。
 こんなふざけた装置の開発、誰も反対する奴はいなかったのか、と思って調べていくと、確かに倫理的観点、人体への安全性の観点から反対を受けた歴史もあったらしい。しかし、その事について詳しく述べている文章には、「WPRDへの恐怖心は、遺伝子組み換え作物や、原子力発電への過度の恐れと似たようなものであり、適切に使用すれば問題なし」と分かったような分からない様な事が書いてあった。現代の法律に照らし合わせても、WPRDの使用に制限はかかっていない。
 現在の反対派は、この装置を装着することを禁じている宗教くらいだろうか。もっとも、逆に蛇を神として崇めている一部の信仰者は、赤外線が見れるようになることを「神と同じ視点を得る」ことだとして、逆に装着を推奨しているなんてこともあるみたいだけど。
 
 どうやったら結はWPRDを外してくれるだろうか。目が見えるようになってあんなに喜んでいる結に、なんて伝えればいいのだろうか。
 こんなことをぐるぐる考えていると、夜も眠れなくなって、しかも夜にはアルバイトが入っていたりして、でも昼眠れるかというと、そんなことはなくて。
 仕方が無いので、バイト先の店長に無理を言って、シフトを変えてもらった。深夜の仕事を、昼間に変更してもらったのだ。もともと、結と会う時間を確保するために深夜にしていたのだ。結と会うことが無いなら、昼間に仕事して夜眠ろうとする方がはるかに健全だろう。
 僕は重たい体を無理やり動かし、バイト先のコンビニへ向かう準備を始めた。


 お疲れさまでーす、と呟きながら、バックヤードに入る。一緒のシフトに入っている涼太さんが、雑誌を読みながらくつろいでいた。
「おう、新。おつー」
 涼太さんが雑誌から目を切らずに答えてきた。
 手にしている雑誌は『月刊 家庭菜園の友8月号 キュウリ、ゴーヤ、スイカ――夏の瓜科特集』だった。涼太さんの意外な趣味発覚。
「涼太さん、家庭菜園なんてやるですね」
「ああ、ちょっとな、」と言いながら涼太さんが顔を上げる。「……って、新。お前、酷い顔してるぞ」
 涼太さんが少しだけ驚いた顔をしている。笑顔以外の涼太さんの表情は珍しい。
「そうですか? そんなことは無いと思うんですけど」
 家を出る前に、顔を洗って鏡でチェックしたときはいつもと変わらない顔だったはずだ。違いは少しクマが出来ていることくらいだったろうか。
「そんな、この世の苦しみを一身に引き受けましたー、みたいな表情でレジに立ってみろ。店長がすっ飛んで来るぞ」
「……そんな顔、してます?」
「ああ、してる。何かあったのか? もしかして結ちゃんにフラれた、とか。……当たりかよ。新、お前、もうちょっと表情筋を制御しろよ。内心だだ漏れだぜ」
「別に、フラれたんじゃ……。それに結と僕は、付き合ってた訳じゃないですし」
「恋人同士でもない奴らが、腕を組んで仲良さげに歩くのか」
「……結は目が見えな、かったんですよ。だから僕が介助していた。ただそれだけです」
「『見えなかった』ってことは、今は見えるのか?」
「ええ、WPRDなんていう大層な機械を装着したら――」
 僕はWPRDと、それから結についてざっと説明した。別に教えてあげる義理も無かったのだけれども、涼太さんの「へーそうなのか、知らなかった」という少し驚いた顔を見たくなった。
「……ああ、あれか」
 涼太さんはWPRDを知っていたらしい。僕は自分の目論見が上手く行かなかった事に少しだけふてくされた気分になって、半ば自棄で腹にたまった言葉を吐きだした。
「だからもう、結には、僕が必要ないんです」
 僕の言葉を聞いた涼太さんは、たっぷり5秒間かけて、じわじわ不機嫌な顔になっていった。最近の涼太さんはなんだかやけに表情豊かだ。
「……お前、まだそんなこと言ってんのか」
 いつもなら、良い事も悪い事も笑って受け流す涼太さんが、生々しい、苛立ちを隠さない声で言った。普段は他人を魅了する深くて豊かな低声も、いまは僕を威圧する以外の効果はなかった。
 涼太さんは手に持っていた『月刊 家庭菜園の友8月号』を手近なテーブルに置くと、すっと立ち上がって僕の近くへ来た。何故かもう、涼太さんはいつもの顔に戻っていた。
「……なあ、新。お前、『月暈』って知ってるか?」
 涼太さんは僕に、近くにあった椅子に座るよう促してから、自身もその隣の席に腰を下ろした。
「ツキガサ、ですか? ……きのこの名前か何かですか」
「ちげーよ。月暈ってのは、月に雲がかかっている時なんかに、月の周りに光の輪が出来る現象のことだ。月の光が空気中の氷の粒を通過するときに、それがプリズムの代わりになって光が輪っかの形になったり、それに色が付いたりして見える。月が明るい夜に、月の周りに変な色の雲がかかってるの、見たことないか?」
 そう言えば月の周りに、変に虹色に光る雲を見たことがある。見るたびに不吉な感じがするので、僕はあまり好きじゃない。
「あります、けど。……それがどうかしました?」
 涼太さんはちょっと目を細めて、視線を宙に動かしてから、静かに話し始めた。
「元カノと一緒に、夜歩いてた時の話なんだけどさ。その晩は月が真ん丸で、明るかった。その月に、キレーに月暈がかかってたんだ。それも、白とか虹色じゃなくてさ、珍しい事に綺麗なピンクだった、らしいんだけど」
 僕は、涼太さんの「らしい」という言い回しに少しの違和感を覚えながらも、無言で話しの続きを促した。
「でさ、元カノが月を指差して『わ―みてみて、きれい!』なんていうから、俺も月を見上げたんだよ」
 涼太さんの声真似が上手すぎる。でもそれを茶化すことが出来なかった。涼太さんの顔はあくまで真剣そのものだ。
「俺はその月を見て、言っちゃったんだよ。『へー、綺麗なエメラルドグリーンだな』って。そう言った時の元カノの顔、得体のしれない化け物を見るみたいなスゲー恐い目してたな」
 なにがおかしいのか涼太さんは、ははっと小さく声を出して笑った。
「……ピンク色の月暈だったんですよね。なんでエメラルドグリーンなんですか」
「俺さ、色弱なんだよ。緑色と赤色の区別がつかない奴」
 高校の頃、生物の授業で習った気がする。
「そうなん、ですか」
「ああ。で、それがきっかけで大喧嘩。『ピンクがエメラルドグリーンなんて、変だよ』って、スゲー冷たい目で見られたなぁ。良いじゃねえか別に、俺はそういう風にしか見えない目なんだからって思ったけど、アイツは許せなかったみたいだ。同じ風に見えないなんて気持ち悪い、ってな感じで」
 回りくどく説教されているみたいで気分が悪い。自分の眉間にしわがよるのを感じる。ていうか、元カノさんの台詞を、女声で忠実に再現するのを本当にやめてほしい。涼太さんは、ちょっと前までの不機嫌顔が嘘みたいにニヤニヤしている。自分の失恋話のなにが面白いのだろうか。
「……なにが言いたいんですか。僕と結とでは見えているものが違うから、喧嘩しても仕方がないっていうんですか」
「いや、別に」
 僕が真剣に悩んでいるのに、涼太さんはどういうつもりなんだろう。頭に血が上って来た。視野が狭くなり、くらくらする。でも相手は一応年上だから、出来るだけ冷静に、落ちついて話す。
「それとも、見えているものが違うって理由で喧嘩するのは下らないからやめろ、って言いたいんですか」
「そういうつもりでもない。第一、見えているものが違うと喧嘩するっていうんなら、目が見えるようになる前の結ちゃんと新は喧嘩しっぱなしだったはずだぜ。『見えているものが違う』どころか、片方は何も見えていないんだからな」
 涼太さんは、本当に意味不明なことに、最高に楽しそうだ。獲物を追い詰めて遊ぶネコみたいな目をしている。
「……じゃあ、なんでそんな話を僕にするんです?」
「新が女々しく、うだうだしているから、俺も愚痴ろうと思って。だって、ありえないだろ、なぁ!? 月の見え方ひとつで別れるとか、マジ意味わかんねーっ! 『同じ月の美しさを共有できないなんて、私あなたと、もうやっていく自信ない……』って、ロマンチストにもほどがあるだろ。俺も散々フったりフラれたりしたけど、こんなん初めてだぜ」
「涼太さん、さっきから気になってたんですけど、なんでそんなに女性の声真似上手いんですか?」
「挙句、『最近はWPRDっていうすごい機械もあるんだって。それを付ければ涼太君の目もきっと良くなるよ』ときた。別に俺の色弱は病気じゃないし、困ったこともほとんどないっつーの!」
 だからWPRDについて知ってたのか。
 涼太さんは此処まで捲し立てると、一息ついてからすっと真顔に戻った。
「新、そもそもお前、結ちゃんと喧嘩してるの?」
「……普通は仲違いしているのを『喧嘩してる』って呼ぶんじゃないですか」
 僕は別に、結と喧嘩したい訳じゃない。
「じゃ、なんで仲違いしたんだ?」
「それは……、WPRDが……」
「だーかーらー、WPRDは関係ないだろ! 『見えてるものが違う』から仲違いするんだとしたら、お前と結ちゃんは、そもそも仲良くなんかなれなかったはずだろ。結ちゃん目が見えて無かったんだから。新は、WPRDを付けた結ちゃんの、何が許せなかったんだ?」
「僕は……」
 ……結の、何が気に食わなかったんだろう。
 結の目が見えるようになったらいいな、ずっとそう考えてきた。そうしたら、僕が見ているもの、美しいと思うもの、楽しいと思うもの、全部結に知ってもらえると思っていたからだ。
 でも結は、僕と同じものを見るどころか、僕が見えないものまで見えるようになってしまった。僕は、それが許せなかったんだろうか。
 でもそうだとしたら、目が見えなかった結は、目が見える僕を、どんな気持ちで眺めていたのだろう。サトリの妖怪を見るように、気持ち悪いと思っていたのだろうか。
 ――いや、そんなことがあるはずない。結は嫌いな人間とずっと一緒に居られるような人じゃない。それに結は演技が下手くそなんだ。僕を内心嫌っていながら、それを隠し通せるはずがない。僕が一番よく知っている。
 僕は、結の何が気に食わなかったんだろう。
 僕は、何にいら立っていたんだろう。
 僕は――
「……所で新、おまえ結ちゃんと付き合ってる訳じゃない、って言ったな」
 ふいに涼太さんがつぶやいた一言で、僕は強制的に思考の海からサルベージされた。
「ええ、そうですけど」
「じゃあ、お前今、誰とも付き合っていない、ってことか」
「……そうですけど」
 涼太さんの話す口調が真剣なものへと変わっている。僕の脳みそは、急な話題変更についていくことが出来ず、反射的に返事をしてしまう。
「じゃあ、新はいまフリーってことか。……俺もさ、いま独り身なんだよ。下らない理由で彼女と別れちまったからな」
 涼太さんの目が怪しく光っている。
 僕の目はWPRDではないはずなのに、涼太さんの全身から怪しいオーラが出ているのが見える。そんな気がした。僕の脳みそはフルスロットルで警戒信号を送っているけれども、僕の体は硬直してしまって動くことができなかった。
「なぁ、新。俺のストライクゾーン広いんだぜ、って教えたよな」
 やばい。
「俺なら、お前にそんな悲しい顔、させないぜ」
 涼太さんの、低い声がねっとりと僕に絡みついてくる。左隣に座る涼太さんからの見えない圧力が大きくなるのを感じる。物理的な距離も近づいている気がする。
「新」
 左耳に向けて、僕の名前がささやかれる。粘着質に僕の体を取り巻いていたはずの低声が、今度はまっすぐに僕の耳を貫いて脳まで届いた。低周波で僕の脳はぐずぐずに溶けてしまいそうだった。
「なあ、新」
「い、いや、僕、そう言う趣味は無いんで! 涼太さんにはお世話に、なっていたり、するんだったりするんですけど。ちょっとそう言うのは、だめ? かなーって!!」
 やばい、なんとかこの状況を打破しなきゃ、色々やばい。
「じゃあ、結ちゃんにするわー。10年来の幼馴染と喧嘩して傷心の結ちゃんを慰めて、落とす。遠目に見ただけだったけど、結ちゃん美人だし」
 さっきまでの妖艶な雰囲気とは一転、涼太さんが爽やかな声で宣言する。涼太さんのニヤケ顔をみて、からかわれたんだと悟る。
「だ、ダメです!! 結は、結とは……ダメです!」
「なんで駄目なんだよ。別に恋人でもない新が口出すことじゃないだろ」
「でも……! ほら、涼太さんフリーターじゃないですか。そんな収入の安定しない人に結は任せられないなー!」
「お前は父親か。……それに俺のフリーター業は、趣味だ。他に収入があるから大丈夫だよ」
 なんていう趣味だ! でも涼太さんなら……、と納得してしまうのも事実だ。
「歳の差が!」
「結ちゃん17、だっけ? 今時10歳くらいの歳の差、珍しくないぜ」
「見た目が!」
「俺の外見、どう思う?」
「カッコいいです!」
「だろ?」
 くそぅ、ダメだ!! 隙が無い!!
「じゃっ、お前に止める権利は無いな。バイト終わったら早速アプローチに行くわ」
「だ、ダメです! それに結が涼太さんになびくとも限らないじゃないですか!」
「新。お前は知らないかもしれないが――」
 涼太さんが、すっと、笑った。青天の三日月をそのまま笑顔に落とし込んだような、美しく凄みのある笑みだった。
「――俺は、自分から告白して失敗したことは、これまで一度もない」
 そんなの、ありかよ。いくら、色男と美男子とハンサムとイケメンとイイ男とナイスガイをたして6を掛けた様な涼太さんでもそんな事ありえて溜まるものか。
「それでも、ダメです!」
「なんでだよ。俺が結ちゃんと付き合うことに、何か問題でもあるのか」
「僕が、結の事好きだから、駄目です!」
 一瞬の静寂。
 涼太さんはこれまで人生で一度も見せたことが無いでくらい間抜けな顔で、口を半開きにさせている。
 僕の脳みそは、僕の唇が紡いだ言葉を、いまだ理解できていない。
 それほど広くないはずのバックヤードの壁が、ものすごく遠くにある様に見える。
 僕が発した言葉が壁に跳ね返り、僕の耳に届く。
 僕は、僕の言葉をやっと理解する。
 バックヤードの中心で愛を叫んだ男、ここにあり。
 ――そんな状況だった。
「ぷっ、ふふ。あーっはっはっはーっ!! そうか、好きか! じゃあ仕方ないな!」
 涼太さんがやけに響く良い声で笑っている。僕の頭はじーんと痺れて鉛みたいになってしまっている。僕の顔は真っ赤になっているに違いない。顔や耳が暑くて暑くてたまらない。
 おーい暇ならそろそろ交代してくれー、という店長の声が聞こえる。
 涼太さんは笑いすぎて涙が出ている目元を擦りながら立ちあがり、おい行くぞ、と僕の背中を叩いた。僕も慌てて頭を切り替えて立ち上がる。バックヤードの出口に向かいながら、涼太さんがちらりとこちらを振り返って、言った。
「ちょっとかましな表情になったぜ」
 そして、サムズアップして、満面の笑み。
 涼太さん、慰めてくれてたのか。……本当に、慰めてくれてたのか? からかわれていただけのような気もする。不器用な慰め、というか斜め上の方向に器用な慰めだったけど、僕の心は大分軽くなっていた。バイト中に表情の暗さで店長に怒られることはなさそうだ。
 余談だけど、バイト中に涼太さんに聞いた話では、そもそも自分から告白したことは無いそうだ。ゆえに失敗率ゼロ。……あんなに何人もの女性と付き合っておきながら自分から告白したことが無いのも凄いと思うけど。


 

7

 バイトを終え、必死の思いで自宅にたどり着く。
 ただでさえ寝不足だったのに、いつも以上に涼太さんが絡んできて、それをいなすのに余計な気力を使ってしまった。
 ただいまー、と小声で言いながら家のドアを開ける。奥から母さんが夕飯を作っている音が聞こえる。現在午後17:25分。やや早めの夕飯と言うことは、今日父さんが帰ってくるのは遅くなるんだな。一家そろってテーブルを囲むことに何やら憧れみたいなものを抱く母さんは、20時までに父さんが帰宅できる場合は、それまで夕飯の時間を遅らせる傾向にある。しかし、我が家の面々は皆食いしん坊で、御飯をおあずけすることなんてできないので、父さんが20時を超えて帰宅することが分かっている場合は18時頃に夕飯を食べてしまう習慣になっていた。
 重たい身体を無理やり起動させて、居間へ向かう。姉ちゃんがソファーでごろごろしながら雑誌を読んでいた。手にしていたのは『月刊 家庭菜園の友8月号』だった。流行っているのだろうか、あれ。
 新、おかえりー、という姉ちゃんの気の抜けた声に、たー、とだけ返す。姉ちゃんに「ただいま」の四文字言ってやる必要は無い。
 二階の自室までたどり着く元気が無いので、とりあえずテレビの対面に設置されているシングルソファーに、ぼすんと音を立てて座る。ソファーの柔らかい座面に体がずむずむと沈み込んで行く。
「へあぁーぁぁ」
 軽く息を吐いたつもりなのに、温泉に入ったおっさんみたいな唸った声が出てしまった。
「ずいぶんお疲れだね。どったの?」
「真面目に労働すれば、疲れるもんだよ」
 この三歳年上の姉は、僕の知る限り今まで一度もアルバイトをしたことがない。
「ふーん。疲れるんなら、止めればいいのに」
 この姉、本気で言ってるんだから困る。大学四年生の姉ちゃんは、就職せずに大学院に進むらしい。なんで就職しないの、と一度聞いたことがあるのだが、真顔で「仕事は面白くなさそうだから、別にいいかなって」と返事をしてきた時は本当にどうしようかと思った。母さんは教育熱心な所謂「教育ママ」だったはずなのに、何故こんな風に長女が育ってしまったのか。我が親ながら同情する。
「疲れるから、ってだけで辞めたり出来るもんじゃないんだよ。働かなきゃお金もらえないし」
「別にお金もらったってさ、結ちゃんのためにしか使わないんでしょ? 結ちゃんと喧嘩したんなら、お金を稼ぐ必要もないんじゃないかなって」
 急に結の名前が出てきて、僕の体がびくんと反応してしまう。。
「なんで、姉ちゃんが、そのことを……」
 姉ちゃんが、こちらをじろりと見た。眼つきが悪いから、ただ視線を向けるでも睨んでいるように見える。
「……結ちゃんと出かけて行ってさ、独りで帰って来て、それから一週間ほぼひきこもりって、そりゃなんかあったなって、思うじゃん」
 存外に普通の返答で、なんだか気が抜けてしまった。僕はやっと肺に溜まった息を吐き出すことが出来た――
「それに、結ちゃんがメールで言ってた」
 ――と思ったら、また息が詰まった。
「なんてっ、言ってた!?」
「女同士の約束だから、言えない」
 なんとか情報を得ようと、姉ちゃんの方に強い視線を投げかける。
 姉ちゃんはいつも通り、少し眠そうな顔でこっちを静かに見ていた。ぼやぼやしているけど頑固な姉ちゃんのことだ、きっとどんな聞き方をしても、話の核心は絶対に言わない。
「……じゃあ、これだけは教えてくれよ。結は、元気そうだった?」
 姉ちゃんは、少しの間目線を右上の方にさまよわせ暫し、んー、と唸ってから言った。
「ものすごく元気、とは言えないけど。まあ、大丈夫なんじゃない?」
「なんだよ、その曖昧な返事」
「正直、メールの文面だけ見て元気か元気じゃないか判断するのは、無理」
 こっちは真剣に聞いてるのに、何だその適当な対応は――。怒りにまかせて怒鳴りつけたい衝動が湧きあがったけど、そんな体力も無かったし、姉ちゃんに当たっても詮無きことだ。
「……わかった。結に元気が無いみたいだったら、僕の代わりに元気づけてあげて」
 僕が結に出来ることは、もうない。
 結は僕のことを見切っただろうし、僕は結から切り離されたただの木偶の坊だ。
「……新、あんた。そんな事いっているから結ちゃんと喧嘩するのよ」
 姉ちゃんが至極淡々と言った。こういう喋り方をする時の姉ちゃんは、大体怒ったり悲しんだり、兎に角感情が高ぶっていることが多い。
「どういう、意味だよ」
 それまでソファーに寝転がっていた姉ちゃんが上体を起こし、こちらに正対した。それから僕に向かって無遠慮に言った。
「新、結ちゃんに対して過保護すぎ。別に誰が慰めなくても、結ちゃんは立ち直れるよ。それに『僕の代わりに元気づけて』っていう言葉の裏には、『僕が慰めてあげないとかよわい結は立ち直れないんだいっ!』っていう願望が透けて見えてて気持ち悪い」
「そんなこと……」
「ある」
「いや、ないと……」
「あるって」
 姉ちゃんの言葉の温度がどんどんと下がっていく。こんな姉ちゃんを見るのは、姉ちゃんの数少ない友人が大学教授のセクハラとパワハラに苦しめられているの解決した時以来だ。
「結ちゃんね、目が見えるようになった時わたしになんて言ったと思う? 『これでやっとあーちゃんの重荷にならなくてすみます』って笑ってたのよ。目が見えるようになって、やっとあんたと同じ立場に立てる。あんたに助けられるだけじゃなくて、助け合って生きていけるって、喜んでいたのに。……それなのに新は何をしていた。『目が見えるようになっても結をサポートしないと。結を支えるのは僕だ!』なんて結ちゃんを子ども扱いして|騎士(ナイト)ごっこでもしてたんじゃないの? そりゃ結ちゃんも愛想を尽かすわ」
 姉ちゃんは止まらない。
「それに、もし元気が無かったとしても、夏休みが終わって高校が始まれば、元気になるんじゃない? 新しい友達も出来るだろうし」
 新しい友達、という単語を聞いたとたん、さっと身体が冷たくなった。結が僕の知らない大勢の人と交流して、僕の知らない結になっていくのが怖いと思った。結が僕の手元から離れていくことに真剣に恐怖している自分自身にも絶望した。
 僕は、姉ちゃんの言葉に、まるっきり反論できなかった。
 目の見えない結が僕を必要としていたんじゃない。僕が、目の見えない誰かを、僕を頼って縋ってくれる誰かを求めてたんだ。
 小学生の頃の僕は勉強も出来ない、スポーツも出来ない、クラスの人気者でもない、味噌っかすだった。教育熱心な母親には叱られてばっかりだし、姉ちゃんは学校の成績は良かったから劣等感を抱く対象でしかなかった。僕はいつでも、僕を認めてくれる誰かを、ちょっとだけでいいから僕を必要としてくれる誰かを探していたんだろう。だから国語の先生にちょっと音読を褒められただけで有頂天になったし、僕のことを頼ってくれる結を独り占めしたくなった。
 一度結が「手に入って」からは、それを逃したく無くなった。僕は結を、二人だけの世界に軟禁した。そうすることで僕はちっぽけな承認欲求を満たし続けることが出来るようになった。結に目隠しをして、耳もふさがせて、何にも触れさせないようにして。結という小さな女の子を犠牲にして、僕は幸せになった。
 思えば、僕にも「普通に」幸せになる道はあったはずなのに。実際に結のために勉強して、結のために身体も鍛えて、結のために読み聞かせも上手くなって。学校の成績も上がったし、児童会館では子どもたちから大人気だ。でも僕は、少しでも自分が傷つくリスクを回避して、結とのちっぽけな世界にひきこもった。そっちの方が失敗する可能性が低いからだ。僕はとんだ卑怯者だ。
 気が付けば、横隔膜の辺りが痙攣して、呼吸がし辛くなっていた。鼻もずるずる言っているし、目は炎が差したように熱かった。僕は声も出さずに泣いていた。自分が泣いているという事実にびっくりして、ちょっとだけ冷静になった。
 姉ちゃんの方を見ると、何故か姉ちゃんも涙目だった。
「……そうだね、姉ちゃん。ありがとう」
 姉ちゃんは優しい人だ。普段はだらけているし、ものぐさだし、覇気は無いけど、他人を思いやる心を持っている。本当は争い事が苦手で、サイエンスドキュメンタリー番組でカブトムシとクワガタムシが縄張り争いをしているのにさえ顔をしかめるのだ。他人を叱ると言う行為も、結構心の負担になっているはずだ。
 こんな僕のために。自分のちっぽけな自尊心を満たすために幼馴染の少女を利用しつくそうとした僕に、厳しい言葉をかけてくれた。
 僕に出来ることと言ったら、もう姉ちゃんに感謝しながら、結に謝罪しながら、死ぬしかない。
「『死ぬしかない』なんて、考えてるんじゃないでしょうね。新」
 姉ちゃんが、僕の思考を読んできた。サトリが意外と身近にいた。
「なんでわかった、って顔してるけど、あんた顔に出過ぎ。新は、昔からロマンチックというか、悲劇のヒロインチックというか……。どうせ死ぬ勇気も無いのに、へこむ時はとことんへこむんだから。立ち直るの速い癖に……なんというか、一言で言うと、ウザい」
 ひどい。
「……やさしいやさしいおねーさまは、へこんでいる弟を慰めてあげましょう!」
 姉ちゃんが急におどけ始めた。情緒不安定なのだろうか。僕が言えた筋じゃないけど。
「結ちゃんはね、新が慰めなくても独りで立ち直れるくらい強い子だよ。……でもね、そんな強い心を持てたのは、新のおかげでもあるのよ。新がいっぱい頑張って結ちゃんを楽しませようと努力したから、結ちゃんは目が見えなくてもいつでも笑っていられたの」
 僕の頭はもう大分冷静になっていたのだけれども、体はまだ少し昂っているらしくて涙が止まらない。仕方ないから、涙をぽろぽろ流しながら、でも真顔で姉ちゃんの話を聞くことにした。
「新もね、結ちゃんからいろんなことを教えてもらったはずよ。勉強もスポーツも嫌い、読書感想文が書きたくなくて泣いてだだをこねるようなクソガキだった新が、曲がりなりにも勉強をするようになって、本もたくさん読むようになって、大学生にまでなったのは、結ちゃんがいたからでしょ。誰かのために努力できるのは素敵な事よ。でも、その誰かが成長して自分から離れていくことに嫉妬してはいけないわ。それから、今度は他人のためじゃなくて自分のためにも努力できるようになること。分かった?」
 僕は無言でうなずく。目に溜まった涙が跳ねて、熱い雫が僕の手の甲に落ちたけれども気にしない。
「分かったらさっさと仲直りする方法を考えな。恋人なら大喧嘩の一度や二度、乗り越えないと」
 姉ちゃん、誰とも付き合ったことが無いのに、何を知ったような口を聞いてるんだろう。……こんなに優しい姉ちゃんに恋人が出来ないのは何故だろう。
「……ありがとう、姉ちゃん。でも、結とは別に付き合っている訳じゃ……」
 ぴくっと姉の動きがとまる。それまで聖母のようなだった姉ちゃんの雰囲気が、阿修羅のようなおどろおどろしい物に変わっていく。僕の目にはWPRDが付いていないはずなのに、姉ちゃんの背後にありもしないはずの燃え盛る煉獄が見える。ような気がする。
 姉ちゃんがソファーから立ちあがり静かに僕に歩み寄ってきた。僕の腕をとって無理やり立ち上がらせると背後に立ち、僕の左足を自身の左足でからめとった。そのまま、僕の右腕を左の脇に抱え、僕の右側の体側を無理やりぐいと伸ばした。
 綺麗なコブラツイストだった。
 ひどい。
 いたい、っていうか、苦しい。ちょっと、もう無理。ギブ、ギブギブ――
「ギブギブギブ!! ちょ、ちょっと姉ちゃん、苦しい!」
「あんたは! この期に及んで『付き合っている訳じゃ』とか言ってんじゃないわよ! ウザい! あれだけ腕組んでべたべたしちゃってさ、き、キスとかしちゃってさ、いまさら恋人じゃありませんは通用しない! 『まだ告白とか、してないから……』とか言うんじゃないでしょうね!?」
「ちょっと、も、無理!! さっきからタップしてるじゃないか!! レフェリーは、レフェリーはどこだ!」
「これ以上ウジウジすんな! 正直ウザい! さっさと仲直りしてこい! ウザい!」
 ――もう、ウザいっていいたいだけじゃないか!
 僕が必死に関節技の痛みに耐えていると、なにも事情を知らない母さんが「遊んでないで手伝って―」と台所から声をかけてきた。
 姉ちゃんは、はーい、といつものように気の抜けた声で言うと、何事も無かったようにコブラツイストを解除し、すたすたと台所へ向かった。姉ちゃんがあんまり素っ気なく去って行くもんだから、今までの会話は全部夢だったんじゃないかとも思ったけど、脇腹の痛みがその考えを論破した。僕はあばら骨の痛みで立ち上がることが出来ず、その場にへたり込んだ。
 ……とりあえず、ご飯を食べよう。結と仲直りする方法は、お腹をいっぱいにして万全の状態で考えよう。


 ――その後、結局僕は、ご飯を食べてお風呂に入ったらすぐ寝てしまった。
 結との関係が改善した訳でもなく、そのあてもまったく無い。でも、なんとなく何とかなりそうな気がして、安心してしまって、あっという間に夢の世界に旅立ってしまった。

8

 目覚まし時計よりも先に目が覚めた。5:16。いつもより大分早い。
 まるっきり音がしない。家人は誰も目を覚ましていないようだ。
 よくよく耳を澄ませると、遠くの方でキジバトが鳴いているのだけが聞こえる。静止した音空間を一瞬乱して、朝刊を配達しているのであろうスーパーカブのエンジン音が家の前の道路を通過していった。
 僕の部屋に一つだけある窓のカーテンの隙間から、細く光が差し込んでいる。
 光芒の中で踊る塵と、僕の静かな心臓の鼓動以外、この部屋で動いているものは無い。
 ――清々しい気分だ。
 これから僕は初めて仲違いした10年来の幼馴染と仲直りする方法を考えなければならないのに。その目途もまったく立ってないのに、憑き物が落ちたみたいに頭の芯からすっきりしている。
 思えば結と顔を合せなかった一週間、僕はろくに食べもせず寝ず、結のことを悶々と考えていた。寝不足でお腹がへってりゃ、そりゃネガティブな思考にもなる。三大欲求って、大切なんだなあ。なんて、変に感心してしまった。
 カーテンを透過した光と、隙間から洩れる光線だけがこの部屋の壁を照らしている。淡い光に照らされた僕の部屋はセピア色の写真みたいで、僕の涙腺をくすぐった。今日はなんだか自分の部屋が柔らかく見える。
 一昨日も同じようにベッドに横たわりながら、同じように薄暗い部屋の壁を、同じように眺めていた。その時の部屋は淀んだ、冷たい、硬いものに見えていた。
 同じ配置の同じ部屋を、同じ僕の同じ瞳で見つめているのにも関わらず、まったく違うものに見える。それは僕の目の問題じゃない。僕の内側にあるもの。もしかしたら、脳のシナプスの配置のほんのわずかな違い。それが引き起こしている。
 目をつむってもそうだ。耳に届く音。心臓の鼓動。骨や筋肉のきしみ。肌と布とが擦れる音。家鳴り。家の外で空気が流れる音。
 昨日までは、その全てが僕を責めている様な気がしていた。圧の無い圧力で、僕の体が押しつぶされそうだった。でも今日は、音が僕の体を何気なく通過していくのが分かる。ただただ穏やかだ。
 まるで別人に生まれ変わったような気分だった。でも、僕は生まれ変わってなんかいない。涼太さんが励ましてくれて、姉ちゃんが叱ってくれて、僕は僕のまま成長することが出来た。ただ「昨日の僕」が、「今日」の僕になっただけだ。
 「昨日の僕」が「今日の僕」になったように、きっとみんなも成長している。「昨日の姉ちゃん」は「今日の姉ちゃん」になったし、「昨日の涼太さん」は「今日の涼太さん」になっているはずだ。
 人と接する、誰かを友達と認める、恋人になる、ということは、「昨日の君」から「今日の君」へちょっとだけ変わってしまった相手を、ただ静かに受け入れて、また「明日の僕ら」を目指すことなんだと思う。
 僕は、そこで躓てしまった。「ある日の結」がWPRDを装着して「その次の日の結」になった時、それを受け止めてやることが出来なかった。出来なかったから、結に「前の日の結」になることを押しつけようとした。僕も一緒に「前の日の僕」で居続けるからさ、という意味の無い対価を支払って。
 きっと結はいつだって「明日の結」になりたいと思っていたのにだ。多分それも、僕のために。
 
 僕は布団から静かに抜け出す。ベッドに腰掛けたまま携帯端末を手に取り、結に送るメールを制作し始めた。

********************
From: KAGEYAMA Arata
To: KUMOMITSU Yui
日付: 2039年8月28日 5:34
件名: 【無題】
本文:
結、この間はごめん。
ちょっと暴走してた。

また、会いたい。
結の見た世界の事、教えてください。

新 
********************

 多分、たくさんの言葉はいらない。もし結が完全に僕を見限って一人で「明日の結」を目指していたとしても、「今日の結」が「二週間前の結」の連続体であるならば、言いたいことは伝わるはず。
 一日で仲直り出来なくてもいい。もし「今日の僕」が失敗すれば、「明日の僕」がする。「明日の僕」が失敗すれば「明後日の僕」が頑張ればいい。昨日までの僕みたいに、「一ヶ月前」の結を取り戻そうとして暴走しない事、それだけを心がければ良かった。


 爽やかな気分で目を覚ました僕は、自分の頭がハッキリ廻っている様な気がしていたが、気のせいだったようだ。早朝五時半にメールを出して、すぐに返ってくるはずが無かった。そんなことすら失念していた。結局僕は、結が目を覚まして、メールに気付き、それに返信するまで悶々とした気分で過ごすしかなくなってしまった。

 仕方が無いので、朝食を作って時間をつぶすことにする。今日は日曜日なので、恐らく母さんもしばらく起きてくることは無いだろう。気まぐれに親孝行をして罰が当たることもあるまい。
 パジャマを脱ぎ棄て、動きやすい部屋着に着替える。たとえ休日であってもパジャマで過ごさないのは、僕の信条だ。
 顔を洗って、一階へ降りる。
 誰もいない居間は、空気がゼラチンで緩く固められたみたいになっていて、その場を乱すのが少しためらわれるくらいだ。出来るだけ空気をかきまぜないように静かに歩いて台所に向かう。
 最初に御飯を炊いておこう。とりあえず二合でいいかな。米櫃から2カップ、炊飯器の釜に直接取り出す。家庭科の教科書的には、ボウルの曲面を使って優しく米を研いで、ざるにあけて乾かしてから……なんて面倒くさい手順を踏まなければならないことになっているけれど、そんな質面倒くさい事、してたまるもんか。手早く研いで、炊飯釜の線の所まで水を入れて、スイッチオン。家族で食べるだけなら、これで十分。
 ご飯を炊いているので、おかずは勢い和風と言うことになる。家の台所に設置されているコンロは三口。その内ひとつでみそ汁を作るとして、残り二口で何品か作ろう。
 冷蔵庫を開ける。この茄子、良いツヤだな。茄子で一皿作って、それから、オクラでおひたしにしようかな。茄子と豚肉の味噌炒め、オクラとみょうがのおひたし、常備采のきんぴら、豆腐の味噌汁! 野菜とタンパク質、脂質も入っているし、今日の朝食はこれで決まり、かな。
 まず、冷蔵庫で保存してあっただし汁を、鍋に入れ温めておく。
 オクラは塩でもんで産毛を取ったら、シリコンスチーマーに入れて電子レンジへ。その間にみょうがを刻んでおこう。レンジにかけ終わったら、冷水に取り、オクラの色が変わるのを防ぐ。刻みみょうが、小口切りにしたオクラ、鰹節を薄い出汁醤油であえて完成だ。冷蔵庫に入れておこう。
 続いて、フライパンに少し多めにごま油をひき、刻んだネギとショウガを投入。香りが移ったら、一口大に切った豚肉を入れる。豚肉が焦げないように気をつけながら、茄子を乱切りにしておく。
 ……そう言えば茄子、僕も結も子どものころは大っ嫌いだったな。僕は茄子のあの見た目が嫌いだった。なんだかカブトムシみたいで恐かったのだ。一方、結は食感が嫌いなのだと言う。小学生の時、結に茄子を食べさせたら、口に入れた途端しかめっ面になり、飲み込むことも吐き出すことも出来ず困っていたっけ。口に茄子が入っているから、声を出して助けを呼ぶことも出来ず、おろおろしていた……までは覚えているんだけど、結局どうなったか思い出せない。 
 今まで意識していなかったけど、嫌いな食べ物が同じでも、その嫌いな理由はまったく違ったんだな。以前の僕は、よくもまあ「僕は結と同じ世界を見ている」なんて恥ずかしげもなく言えたもんだ。
 昔のことを思い出しながら調理していたら、茄子と豚肉の味噌炒めに火を通し過ぎる所だった。豚肉が硬くなってしまう。
 ――もしWPRDを付けた状態で料理をしたら、どんな風に見えるのかな。肉のちょうどいい火の通り具合とか分かるんだろうか。今度、結に手料理とか、作ってもらえないかな。
 もうすでに結と仲直りが出来ることを前提していることに、自分で自分に苦笑い。今は料理に集中しよう。
 最後にみそ汁を――味噌、かぶっちゃったけど、まあいいか――作る。温めて置いただし汁に味噌を入れる。味見した時に、少し薄いかな、と思うくらいがちょうどいい塩梅だ。小皿にとって味見した時にちょうどいいと感じる濃さは、お椀で飲んだ時にはしょっぱすぎる。味噌が溶けたら、火を止め豆腐を投入。最後に豆腐を入れることで、豆腐が崩れるのを防ぐことができる。
 よし、完成。皆あとどれくらいで起きてくるかな、と考えながらポケットの携帯端末の時計を確認する。6:32。そして、新着メール、有り。結からだ。
 僕はあえて大袈裟に、一つ溜息をつき、体面だけでも冷静になったふりをしながら、メールを開く。

********************
From: KUMOMITSU Yui
To: KAGEYAMA Arata
日付: 2039年8月28日 6:20
件名: 結です
本文 
あーちゃんへ

おはよう。
私の見た世界、本当に教えて欲しいの?
知って、どうするの?

>結、この間はごめん。
>ちょっと暴走してた。
>
>また、会いたい。
>結の見た世界の事、教えてください。
>
>新 

********************

 ――結、漢字打てるようになったんだ。
 僕の心が小さくえぐられたように疼いた。でも、気にしない。
 僕は、少しだけ文面を考えて、でも考えすぎないようにして、返信した。

********************
From: KAGEYAMA Arata
To: KUMOMITSU Yui
日付: 2039年8月28日 6:37
件名: 【無題】
本文

結が何を見て、何を感じたか、ただ知りたい。
それが僕の望むようなものでなくても。

この前の僕は、結が、僕の知る結で無くなることに耐えられなかったけれど、今度は大丈夫だと思う。多分。
もしだめだったら、お尻けっとばしておくれ。

********************
 
 僕は、携帯端末を持ったまま、ただ黙って待った。
 しばらくしてから、結からの返信があった。

********************
From: KUMOMITSU Yui
To: KAGEYAMA Arata
日付: 2039年8月28日 7:02
件名: 結です
本文
あーちゃんへ

分かった。
じゃあ、デートしよう。私、安全靴履いていくから。

今日と明日、どっちとも午後から空いているけど、どっちがいい?

>結が何を見て、何を感じたか、ただ知りたい。
>それが僕の望むようなものでなくても。
>
>この前の僕は、結が、僕の知る結で無くなることに耐えられなかったけれど、今度は大丈夫だと思う。多分。
>もしだめだったら、お尻けっとばしてくれ。

********************

 よかった。ちゃんと返事、帰って来た。
 僕は、あまりの安堵にその場でくねくねと怪しい動きをしながら、返信をした。今日の午後1時、駅北口に集合で、あと、安全靴はしゃれにならないからやめてね、と。 
 後ろのほうから、階段を下りてくる音が聞こえる。姉ちゃんが起きてきたみたいだ。僕はポケットに携帯端末を隠し、無駄かもしれないけどポーカーフェイスをして、姉ちゃんを迎え撃つ態勢をとった。


 
 
 
 
 
 

9

 日曜日の駅は、混雑していた。
 人通りが多く、僕と同じように待ち合わせをしているような人も何人か見受けられる。
 もっと人が少ない場所で待ち合わせればよかったかな、とも思ったけど、結と一緒に行ったことがある場所で、他に分かりやすい待ち合わせ場所が考え付かなかったので仕方がない。
 現在12:34。やや早く着きすぎただろうか。遅れるよりはましだろうけど、これから約30分間もそわそわした気持で待ち続けるのは、あまり身体に良くない気もする。心拍数はあきらかにいつもより上がっていて、いくら深呼吸をしようとしても肺が上手く膨らんでくれない。口の中はからからなのに、なんども唾を飲み込もうとしてしまう。

 僕から7メートルほど離れた位置に立っていた女性、待ち合わせ相手の男性が来たみたいだ。やや急ぎ足で向かってきた男性は、少しばつの悪そうに笑いながら片手をあごの位置まで挙げて、挨拶していた。きっと、待ち合わせの時間に遅れてしまったんだろう。女性はそれに、無表情で答えている。でも怒っている感じもしないから、あれが二人のいつもの距離感なのかな。
 二人は、なにやら会話をしている。内容は聞き取れないし、表情から読みとれることも少ない。デートなのかな。ラブラブと言う感じでもないから、付き合って長いのかもしれない。いや、単なる友達どうしで、これから他のメンバーも集まってくるのかもしれない。二人の立ち位置が結構離れているから、実は知人レベルの付き合いという可能性もある。大学のゼミの買い出しとか、友達の結婚式の打ち合わせとか。
 男性と女性はしばらく話しこんでから、手をつないで駅の出口の方へ向かった。なんだ、ただのカップルだったのか。ちょっとありきたりな関係でつまらないな。
 彼らは、これからどこに行くんだろう。ありきたりにデートして、ありきたりに楽しんで、ありきたりに別れを惜しむのかな。もしかしたらありきたりに喧嘩して、ありきたりに別れるのかも知れない。何れにせよ、「今の彼ら」は逢瀬を経て「明日の彼ら」に変わる。それが小さな変化か、大きな変化かは分からないけれど、5時間後の彼らは、現在の彼らが想像すら許されていないような関係になっているだろう。
 僕と結の、「明日の僕ら」は、一体どんなふうになってるんだろうか。駅の出口のあたりをぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていた。

「あーちゃん。……まった?」
 考え事をしていた僕の背後から声がした。結の声だと、わかった。
 突然声をかけられたのだで、僕の体の内はびくりと痙攣したのだけれども、そんなことおくびにも出さずに冷静なふりをしながら振り返る。
「いいや、今来たところだよ」
 結がいた。
 肩の所で切りそろえられた髪はまっすぐで、くせひとつない。でも僕が梳かして整えていた頃とは、少しだけ髪型が違うみたいだ。きっと美容室にでもいったんだろう。
 結が着ているのは、薄い青のシンプルなシャツと、落ちついた色合いのひざ丈のフレアスカート。漕げちゃいのあの夜に着ていたパステルピンクのパーカーとも、目が見えない時に着ていた肌触りが良いだけの野暮ったい服ともちがう、きちんと現代のおしゃれにそぐう服装だった。
「……わたし、20分くらい前からこっそり隠れて見てたんだけど、あーちゃんそのときもう居たよね。わたしに気を遣って嘘つかないでよ」
 結が悲しんでいるような、怒っているような、そんな目で見上げてくる。
 20分も前から隠れてるなんて、なんという暇人だ。それとも、僕に声をかける踏ん切りがつかなかったのだろうか。
「結、あまいな。デートの待ち合わせで『待った?』と聞かれたら『ううん、今来たところだよ』と答えなければいけないと、古来より決まっているのだ! 百里薫先生の『恋するの下手くそだけど……これから上手くなれば良いよね!』第一巻にもこんなシチュエーションが書いてあったぞ!」
 僕は、自信満々で告げてやる。
 ちなみに百里薫『恋するの下手くそだけど……これから上手になれば良いよね!』(イブキジャコウソウコーポレーション出版)は、自称ラブコメ漫画、らしい。この間古本屋で一冊一円で投げ売りされていたので立ち読みした。正直一円でも払いたくないレベルの駄作で、買っても本棚の容量を圧迫するだけなので買わなかった。
「へっ? ……あーっ! あーちゃん、わたしの知らない漫画、勝手に読んでるー! わたしそれ教えてもらってないよー」
 結は虚をつかれたような間抜けな声を出した。そして直ぐに、怒ったような顔をして僕に言った。でもその怒った顔の裏側に笑顔が隠れているのを僕は見逃さない。というか隠し切れていない。口調は怒っている風なのに、声色は明らかに楽しそうにはずんでいた。
「この間『|王夢(プリゆめ)』のネタバレされたお返しだ」
 僕がこういうと、結は、もーっと言いながら笑った。もう怒るふりはやめたらしい。
「……それより、結。髪、切ったんだね。良く似合ってるよ」
「うん、お母さんがきちんとおしゃれくらいしなさいっていうから……」
「服も、良く似合ってる。可愛いよ」
 僕は、結の目をまっすぐ見ながら言う。おべっかでも口説き文句でもない、心からの言葉だ。
「わたしは、そんな紋切り型な台詞で喜ぶような安い女じゃないんだからね!」
 結は、僕に向かって指を突き付けながらハッキリと言い切った。やけにキリッとした精悍な顔つき……をしようと努力しているのが分かった。顔を真っ赤にしながら口元を妙な形にゆがめている。きっとニヤケてしまいそうなのを我慢しているのだろう。制御しきれなかった頬だけが上に引き上げられている。
「さて、そろそろ行こうか。結、もうお昼ご飯は食べた?」
「ううん、ちょっと忙しくて、まだ食べられてないの」
「じゃあ、どこか適当な場所で食べよっか」
 そう言いながら、僕は改札に向かって歩き出す。結もそれについて、僕の左側にくる。
 さも、今日のデートコースは全て決まってます、といった体で歩き始めたはいいものの、実は行き先なんてまるっきり決まっていない。漠然と電車に乗ろうとは決めてから来たんだけど、その先はノープラン。
「ねえ、あーちゃん。わたしあれ、食べたい」
 いつの間にか僕の左腕にしがみついていた結が、僕の腕をきゅっと抱きながら言った。結が指差した先には、立ち食いそば屋があった。

 短い暖簾をくぐって、店内に入る。昼から少し過ぎただけなのに、僕らの他に客は居ない。ほとんど囲われていないそこを「店内」と呼んでいいのか疑問だったけれども、その閉鎖感と言い独特の雰囲気と言い、僕らがどこか非日常的な所に潜り込んでしまったのは確かなようだだった。
「コロッケそば、ふたつ」
 僕はメニューをちらりと見て、直ぐに注文する。結も異論は無い様だ。
 この立ち食いそばは、60代くらいのおばちゃん独りでまわしているようだ。そばを茹でる機械、ネギが入った大きなタッパー、ペラペラのパックに入って陳列されている稲荷ずし――。最近あまり見ない様なチープで安っぽい作りだ。
 僕も結も、コロッケそばが来るのを黙って待っている。
 僕は、店内に備え付けられている調理器具を眺めていた。家庭では見ない様な大きなお玉とか、濃縮つゆを薄めるためのお湯を保温する大きなステンレスの容器だとか、冷凍麺を保存している銀色の色気ない冷蔵庫とか。無骨なガジェットが料理好きの僕の心をくすぐる。あんなもの家にあってもきっと使う機会なんてほとんどないんだろうけど、こんど業務用調理器具のお店にいってみようかな、なんて考えてしまう。
 ちらりと横を見ると、結はおばちゃんが調理している所をじっと眺めていた。おばちゃんの動きは緩慢だけど無駄がない。コロッケそばは、注文して数分と立っていないのにもう完成しそうだ。結はそのおばちゃんの洗練された動きを、見逃すものかという気概でねめつけている。
 はーい、おまちどう、という言葉と共に僕たちのまえに大きなどんぶりが二つ置かれる。
 茶黒く濁った関東風の出しに、そばが沈んでいる。その上に明らかに適当に乗せられたネギ、いかにも機械で作られましたといった感のコロッケが並んでいた。鰹だしの濃い匂い。その中に静かに紛れ込んでいる油の匂いとネギの青臭い香り。安っぽくって適当で、作り手の愛情なんてこもっているはずもないのに、うまそうだった。
 僕と結は、黙って割り箸を取る。目の端に映る結は、箸を割るのに苦労していたが僕は黙っていた。
 僕はぱきんと箸を割ると、まずそばを一口。
 もぐもぐもぐもぐとそばを噛む。本来僕はそばを食べる時、勢いよくすすって、もっもっもっ二度三度噛むか噛まないかのうちに喉に通してしまう。その方がそばの香りや食感を楽しめるような気がするからだ。良いそば粉で出来たそばは噛み過ぎると、香りが悪くなる。でも立ち食いそば見たいのは別だ。気取らずもぐもぐ噛みしめても全然問題ない。うん、このそば、柔らかい。こう目をつむって噛んでいると、そば粉で出来た麺なのか、小麦粉で出来た麺なのか分からないくらい、香りが薄い。この麺は「蕎麦」としては失格だ。でも「立ち食いそば」としては満点。
 ここでコロッケを一口食べよう。箸でコロッケを割って持ち上げる。衣の下の方は出汁を吸ってべちゃべちゃになっている。出汁に触れていない上の方も、やはりしけってべたべたになっている。コロッケの中には申し訳程度にミックスベジタブルが入っていた。コロッケのかけらを口に入れて咀嚼すると、口の中の水分が無くなっていくのが分かった。そこでそばつゆをひとすすり。コロッケそばのコロッケは安っぽくってぱさぱさで良いのだ。失われた口の中のうるおいは、そばで取り戻せばいい。
 そばにしては長すぎる麺も、柔らかい歯触りも、濃すぎる出汁の香りも、べちゃっとしていて粉っぽいコロッケも、全てが一つの「立ち食い」という体験を成立させていた。
 横から、ちるちるちる、というあからさまに不器用な音が聞こえてくる。結はそばをすするのが上手に出来ないらしい。
 僕たちは、しばらく黙ってそばを食べていた。

「ねえ、結」
 結が、箸を止めたタイミングを見計らって声をかける。
 結は何も言わず、ゆっくりとこちらを見た。
「この前の事、改めて謝らせて。ごめん。僕、ちょっと焦っていたというか、混乱していたというか……『あーちゃんは凄いね』『あーちゃんはなんでもしってるんだね』って言ってくれていた結が、居なくなっちゃうんじゃないかと思うと、恐くなったんだ。だから、結のWPRDをつけるっていう決心とか、目が見えるようになった喜びとか、全部踏みにじって、結が弱いままでいてくれたらいい、結の目が見えないままならいいなんて考えちゃったんだ。結が成長した分、同じだけ僕も強くなろうと頑張ればよかったのにね。……本当にごめん」
 僕は出来るだけ、飾らない言葉を紡ぐ。きっとこうしないと、僕は弱い僕自身と立ち向かえない。
 結は何を考えているか分からないけれど、怒りもせず、笑いもせず、黙って僕の言葉を聞いてくれた。
「結に頼られたいんじゃない、結に縋られたいんじゃない、ただ一緒に居たい。独りで過ごした一週間で、純粋にそう思えるようになったんだ。だから、もし結が僕とまた一緒に居てくれると言うなら――可視光線しか見えない僕と、また友達になってくれないか」
 僕の瞳と、結のWPRDが真っ直ぐな視線で結ばれる。断られたらどうしよう、と思うと恐くて目線を逸らしたくなるけど、絶対にそれだけはしないんだ。
「……なにそれ。そこは、『愛している、僕と付き合ってくれ! 君のいない生活なんて考えられない』って熱烈な愛の告白をして、キスをして、ハッピーエンドってところじゃないのー」
 結は、少し不機嫌そうな声で言った。
「結……、僕もその責任の一端を担っているんだけど、漫画に毒されすぎじゃないか?」
「だって、あーちゃん! わたしたち、あんなにたくさん、ちゅーとか、とかしてるのに、わたし一度も『好きだ』ってあーちゃんから言われた記憶無いよ!」
 僕も言った記憶が無い。ごめんね結、僕は自他共に認めるヘタレなんだ。
「そのことについても、ごめん。きちんと気持ちを伝えられないのは僕の弱さだ。……でもね、結。たしかに僕も仲直り出来たら、ゆくゆくはきちんと告白をしなきゃなーなんて考えて居たけれども、でもそれは立ち食いそばでする事じゃないと思うんだ」
 僕らの前には、いまだ湯気を立て続けるコロッケ蕎麦(食べかけ)が二つ。店の外からは雑踏の音が聞こえるし、他に客が居ないと言っても店員のおばちゃんがいる。さっきからちらちらと興味深そうにこちらを見ているのが分かる。
 無言。
 僕はこの空気を誤魔化す様に、食べかけのそばに手を伸ばした。そばはすっかり伸びてしまっている。さっきまではあんなに風情がある様に思えた立ち食いそばも、今は単なる伸びきった出来の悪いそばにしか思えなかった。
 間を持たせるように出来るだけゆっくり食べる。途中七味をひと振りして、気分を変える。そうでもしないと食べきることが出来ない気がした。
 僕は出汁まで飲みきってどんぶりをおく。一呼吸おいて結もそばを食べ終えたらしい。
 鰹出汁風味の吐息を吐ききってから、結が話し始めた。
「……わたしも、ごめん。わたしも少し焦ってたかも。WPRDをつけてね、わたしの人生はすっごく変わったんだ。目が見えるようになったっていうのもあるけど、そのおかげで、お父さんやお母さんともきちんと向き合えるようになったし。お父さんもお母さんもね、目が見えないわたしとどうやって付き合ったら良いか分からなかったんだって」
 大人って意外と子どもだよね、と呟いて結は小さく笑った。
「今まであーちゃんが読んでくれていた漫画も独りで読めるようになったし、高校に行ったら新しいお友達が出来るかもしれないし……もう、あーちゃんに頼りっきりで弱いわたしから卒業するんだって、意気込み過ぎてたみたい。だからあーちゃんがあの夜、これからもずっとわたしを守ってくれるって言ってくれた時、びっくりしちゃったんだ。あーちゃんはまだわたしを子ども扱いしたいんだ、あーちゃんはわたしの目が見えるようになったのを喜んでくれないんだ、ってちょっと失望しちゃったんだけど……」
 結は一瞬寂しそうな顔をした。と思ったら直ぐになんだか意地悪な笑顔になって言った。
「あーちゃんが、結構カッコ悪くって、うじうじしてて、直ぐに悩んで、直ぐに落ち込むってこと、わたし知ってたはずなのにね。ごめんね、あーちゃん」
 おいおい、それは謝罪のつもりなのか、それと貶しているのか。口を挟もうとした時、結が続けて言った。
「でも、直ぐに立ち直って、頑張って努力して、いっぱいいっぱい考えて、工夫して……。わたしは、そんな情けなくて弱いけど、その後頑張れるあーちゃんが大好だよ」
 結は一粒涙をこぼした。その涙はきっと、悲しみでも怒りでもなく、ただ純粋な感情の洪水だったんだと思う。そば屋のおばちゃんも何故か泣いていた。
 ……まいったな、告白まで結に取られちゃったよ。
「後だしになっちゃってカッコ悪いけれど、僕も結の事、好きだよ。10年間でもうすっかり結のことが体に染みついちゃった。きっと僕の辞書の《愛》の項目を引いたら、『愛:結と一緒に居る時に湧きあがる感情』とか書いてあるんじゃないかな」
「なにそれ、もっと『君のお淑やかな性格が好きだよ』とか『君の濡羽色の髪の毛が好きだよ』とかそういうことを言ってくれるもんなんじゃないのー?」
「じゃあ、目が見えない所が好きだよ」
「今見えてるし!」
「じゃあ、目が見える所が好きだよ」
「WPRDをオフにすれば見えなくなるし!」
「髪だって切れば無くなるじゃないか。それに結がお淑やかだったとは知らなかったよ」
 結は、むーっとわざとらしくむくれている。
「良く分からないんだ、どこが好きなのか。でも、好き」
 僕は誤魔化す様に、右手で彼女の頬を、左手で彼女の顎を優しく捕まえて、少し上を向かせる。
 そしてそのまま、彼女の唇に、自分の唇を、重ねる。
 久しぶりのキスは、鰹と醤油とネギの風味だった。
 ロマンのかけらも無かった。
 今までの甘いだけのキスとは違う。どこまでも現実的で、夢見がちな部分なんて一切ない、単なる粘膜接触だった。
 でも、これくらい間抜けで、情感もへったくれもないのが僕らにはぴったりなんじゃないか。そう思った。二人だけの小さな世界に閉じこもっていた僕と結。二人がその温かい鳥籠から飛び立って現実世界に立ち向かうその門出には、これくらい生々しいほうが、きっとちょうどいい。

 立ち食いそば屋を後にして、電車に乗り込む。行先は決めていない。
 電車の窓から見える空は少し白んでいて、ややぼやけた色だった。結が着ている服の色と少し似ているな、と思った。結にそう告げると、え―全然似てないよ―、と笑った。
 それがWPRDのせいなのか、そうじゃなくて単に感性の違いなのかは分からない。でもどっちでも構わないと思った。
 どれだけ長い時間を共にしても、どれだけ科学技術が進歩しても、きっと誰かとまったく同じものを見ることなんて出来ないんだろう。二人で真実を愛を育む――そんなのきっと幻想でしかない。
 僕に出来ることは『明日の僕』の隣に『明日の結』が居ることを願うこと。そのために昨日の僕でもなく明日の僕でもなく『今日の僕』が頑張る事。ただそれだけだ。
 ガタトンコトトンと電車が揺れる。結が目をつむりながら、僕の腕にしがみついている。結の目が見えなかった時、いつか同じような状況があった。でも、今僕の横に居るのは『今日の結』だ。このぬくもり、この距離感が『今日の僕ら』のかたちなんだろう。
 まったく違うものを見ている僕らは、同じ電車に乗って、まだ決めていない目的地へ向かっているのだった。
 


 

《アイ》

《アイ》

僕の幼馴染――結は目がまったく見えない。 結が「広周波光子受信デバイス」を付けた時から、僕らの小さな世界は少しずつおかしくなって行った。 「技術」と「感覚」の狭間を探る、SF風味恋愛もどき小説

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-10-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  2. 2
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