赤雪
書道家のくらーいお話。
個人的には大好き。
前編
雪が、降って居る。
音は無い。風も無い。
ただ己の呼気と、新雪を踏みしめる音のみが響いて居る。
空は鈍色に光る厚い雲に覆われ、無垢なる牡丹をはらはらと落とす。そうして世界は静寂の底へと押し込められた。
太陽が隠れて居るにも拘らず、薄らと明るい。儚げに降り注ぐ雪が、その雪に覆われた大地が、山々が、木立が、それぞれに光を放って居るかの様に見える。
息を吸い、吐く。その度に肺腑が凍り付きそうに成る程、寒い。大気が凍って居るのだ。指の先は冷たさを通り越し、仄かに熱を帯びて火照って居る。
脚を止め、懐に手を入れた。
其処に有るのは、黒塗りの拵えに身を包んだ、母の愛そのものである。
指先で、そっと触れた。皮膚の感覚は失われて仕舞ったが、其の奥の細胞が、骨が、滑らかで艶やかで、無機的な愛を感じ取る。
―――母様。
私は、私は間違って居たのでしょうか。
母様。
然うですね。きっと何処かで、間違って仕舞ったのでしょう。
今から、母様。
そちらへ。
尚も雪は、深々と、しんしんと、降り続いて居た。
男は、書家だった。
うだつは上がらぬ。町の外れの、古びた長屋の片隅に住んでいた。
家の中はがらんとして居る。箪笥が無い。障子は破れて、部屋を隔離する性能を失い、黄ばんで居る。
そんな荒れ屋の中央に、家に似つかわしく無い程上等な文机と硯、墨と大小の筆が丁寧に手入れをされて置いてある。家財を全て売り払い、道具に替えたらしい。
しかし男には、どうしても売れぬものが有った。
きっと売れば大層な金になるのだろう。道具を求めて、金策に奔走する日々も無く成るのだろう。
それでも、然うと分かって居ても、どうしても手放せなかった。
母の形見の、短刀である。
真黒なその短刀を見る度に、母を想起した。
短刀は、家に代々伝わるものであるらしかった。最早見えぬ目で私を見据え、短刀を手に握らせた母は、最期に力強い声で、
「生きよ」
と云った。
「そなたの好きに生きよ」
とも云った。
だから私は、書に没頭し、道を究めると決心する事が出来たのだ―――。
井戸から水を汲んで来て、硯にほんの少し垂らし、墨を手に取り、しゃらと擦った。
透明な水が墨を解いて、徐々に徐々に、柔らかな黒へと染まって行き、それと同時に墨と膠の入り交じった香が鼻から全身を満たし、部屋中に拡がった。
この臭いが、好きだった。墨を擦る感触が、ひと擦り毎に研ぎ澄まされる感覚が、善く手入れをした筆が墨を吸い込む瞬間の高揚が、えも言われぬ程に。
微かな興奮を覚えつつ、筆を執った。
しなやかな穂先を、墨に浸す。じわと、墨が駆け上がって来る。
たっぷりと墨汁を吸い込んだ筆を右手に、半紙に向かう。
この半紙は、世界其の物だ。
半紙の白には、無限が広がっている。
私はこの半紙の上に、世界を創造する。
来る日も、来る日も、世界を興しては積み上げた。
毎日毎日、素晴らしい書が生まれては、過去になった。
その内に、男の中に欲が生まれた。
何故だ。何故。
如何して、誰も見ない。見向きもしない。
これ程に素晴らしい書が此処に有るのだ。
素晴らしいではないか。美しい。そうだろう。
なのに、何故。
これ程に美しいものに、如何して。
欲が顔を出す度、理性で押さえ込んだ。書に其の様な煩悩は必要無い。ただ道を究める為に、自分の内側を見詰めて、人間の本質を見詰めて、そして内なる美を、半紙の上に、其処だけの真理として表現出来れば善いのだ。
そうして、自身の欲と葛藤し乍ら、見て見ぬ振りをしては、心の奥底に僅かに残った真理の残滓を汲み取って白と黒の世界を創造した。
やがて男の家に積み上げられた世界は山となり、時に崩れて男をその精神もろとも押し流した。その度に男は、希望が濁り澱と成ってどろどろにわだかまって居る坩堝の底から這い出し、嘗て全身全霊を傾けて創造した美しい世界達に哀れみと侮蔑の目を向け、それらを焼き払った。
そうしていると時折、欲望の顔が不意と自分の心の内を覗き込んだ。
少しずつ、膨れあがって居た。
然うと気付いて居乍ら、見まいとした。
やがて、目を逸らせぬ程に膨張し、鳩尾の裏側をじわりと締め上げる様な不快感に苛まれる様に成った。
どれだけ丹念に自らの内を探しても、美しいと思えるものは、欠片程も見つからない。
筆を手に執る。
墨を吸わせる。
半紙に向かい、姿勢を正す。
書くのだ。
世界を創造するのだ。
そう思い、或る種の義務感に突き動かされ、体に染み付いた動きで以て自らを書道の空気に浸そうとした。
しかし、書けない。
筆がぴくりとも動かない。
美とは何だ。真理とは、何だ。
分からない。
嘗ては慥かに此処に在ったそれが、見つからない。
書けない———
そして男は、筆を措いた。
中編
耳の奥で、音がする。
どろり
どろ、り。
これは、何だ。
何の音だ。
その濁音が脳に響く度、心の内に何かどす黒いものが溜まって居る様な気がする。
どろり。
まただ。いつからだろう。
どろ。どろり。
嘗ては斯うではなかった。
使い慣れた、愛着の深い道具と日々を共にした頃は。
あれらの道具があれば、ともすればこの音は已むのかも知れない。
しかし、もう其れは叶わない。
ああ、そうか。
そうだったのだ。
筆を措いたあの日。
あの日から———。
どろり。
目を開けると、何時もと変わらぬ荒れ屋だった。
障子が破れている。隙間風が埃を巻き上げ、静寂を掻き乱す。
箪笥が無い。部屋の中はがらんどうで、さして広くも無い筈であるのに、部屋の端まで果てしない距離があるかの様だ。
そう感じるのはきっと、嘗てこの部屋の中央に存在していた道具達が、今や其処には居ないからであろう。
あの日、筆を措いた男は、堪え難い程の空腹に苛まれるのを感じた。
胃腑の表裏が反転し、きみづを吐き出してしまいそうなその感覚は、男にとって未知のものであった。思えば、筆を手にして居る間は腹が減った事など無かったし、最低限を口に入れさえすれば其れで十分だった。
あれはきっと、五臓六腑の内側が、書と云うひどく有機的なもので満たされて居たからなのだろう。
書を已め、臓腑の内側がうろに成った瞬間、途端に煩悩が膨れ上がり神経の凡てをみっちりと占拠して仕舞ったのか。
そう思うと、惨めな気持ちに成った。
しかし其れは然うと、腹が減って仕様が無い。
だが喰うものも金もない。
と、なれば———。
不思議と、迷いは無かった。
筆も硯も文机も墨も、水差しに至る迄、書に用いる道具達は悉く上等な造りであった。長年使い込んだ代物であるとは云え、手入れは非常に丁寧で、本来ならば十両は下らないだろう。しかし男の格好の見窄らしさを見て、質屋が足下を見た。二束三文で買い叩かれ、得られた銭は一両と三千文であった。
侮られ、買い叩かれて居ると知り乍ら、男は平身低頭、さも有難がる様に頭を下げた。下げざるを得なかった。
もっと良い値が付く筈だと勘付いては居たが自信が持てなかったし、仮に確証を得られたとしても、元から口数が少ない上に半紙の上で禅問答を繰り返して居ただけの男に、商売の世界に身を浸し、弁舌とはったりによって口を糊している商人を言い負かして値段を吊上げるなど不可能だと、痛い程に善く判って居たのだ。
だからこそ、嫌悪感を奥歯で噛み潰して耐え乍ら、頭を深々と下げた。
勝利の眼差しに侮蔑の色をたっぷりと混ぜて見下されても、気付かない振りをした。
どろり。
耳の奥で、音がした。
質屋からの帰り掛けに、蕎麦を食べた。
300文だった。
味は、しなかった。
暖かいのか冷たいのかすらも判然とせずに、胡乱とし乍らだらだらと時間を掛けて蕎麦を流し込んだ。
途中で、体格の良い男が隣に座って来た。
誰だろうと惘と考え乍ら蕎麦を啜って居る間、何やら一言二言喋り掛けて来た様だったが、意味は分からない。見知らぬ男は搔き込む様に蕎麦を喰うと、さっさと店を出て行った。
それから暫くして、漸く蕎麦を喰い終え、店を出ようとして手元を見ると、傍に措いていた荷物が消えている。
ああ、成る程、先程の男が持って行ったのだ。然う云えば、手に何かを持って居た様な気がする。記憶の景色が不鮮明だから、善く判らない。
仕方ないから、そのまま店を出ようとした。
すると、店の人間に肩を掴まれ、金は、と云われた。
素直に、無いと答えた。無いものは無いのだから。さっき男に掏られたのだと云ったが、信じて貰えない。
怒声を上げて殴り掛かる店主の顔が、厭に緩慢と目に入る。
固いものが頬にぶつかり、脳が揺れた。よろけて体制を崩すと、今度は強かに前蹴りを喰らい、店の外へと追い出された。
二度と来るなと喚く店主の顔を睨め付けると、何だ其の目はと、食い逃げ野郎がと云われて更に蹴られた。
顔を蹴られ、いよいよ耐えられなく成り、突っ伏した。
其の光景を見て漸く溜飲を下げたのか、店主はくるりと踵を巡らせ店に戻って行った。
店主の後ろ姿を視界の端で捉え乍ら、しかし尚も起き上がれずに居た。
道行く人間の、好奇の目を感じる。
嘲り笑う声が聴こえる。
暫く然うして道端に臥して居ると、段々と周囲の雑音が遠のき、やがて、
どろり
と、頭の芯の方から大きな音がしたかと思うと、それ以降何も聴こえなく成った。
暗闇が押し寄せて来て、意識を飲み込んで圧し潰した。
意識を取り戻した頃には、もうすっかり日が暮れていた。
この時から、男の耳には何か膜でも貼った様に、くぐもった音しか届かない。
追憶から自信を引き戻し、体を起こした。
起き上がってみたは善いものの、何もする事は無いし、兎に角億劫で、指先ひとつ動かす気にも成れない。しんと静まり返ったあばら屋の真ん中で、起き上がった格好の侭、ただ何となく座していた。遠くで、長屋の子供達の遊ぶ声が聞こえる。無邪気な声は、何故か鮮明に男の耳に届き、脳内で幾度も反響した後に胸を締め付けた。
———腹が減った。
子供達の声は未だ響き続けて居る。しかし其れを掻き消す程に体の声は強烈で、瞬間に男の脳髄を掴んで仕舞った。
あの日道具達を売り払ってまで得た金はすっかり失って仕舞ったから、男は仕方無く、物乞いをした。
道端に座り込み、道行く人に嘆願しては蔑みと哀れみの目を向けられ、無視された。
疎まれ、罵られた。
まともな飯を恵んで貰える筈も無く、時には、汚物と同じ扱いを受ける事もあった。
空腹に耐えかね、人の足下に擦り寄り必死で乞い願うと、蹴られた。水だ、と云って小便を掛けられる事もあった。
その度に、あの音が聞こえた。
どろりと、その音が谺する度、何かが溜まって居る様な、そんな気がした。
粘り気の有る、湿気を多量に含んだ、どす黒い、泥水の様な何か———。
やがて男は、世界に色を感じなく成った。
全てのものが、白と黒とに濁って見えた。
自分の内側は、美しいと思えるどころか、醜悪な泥水で満たされて仕舞った。
自分を嗤った。
そして、世界を憎んだ。
どっぷりと溜まったこの泥水を、世界の所為にした。
泥水は体の隅から隅まで、満ちに満ちた。
体を流れる血は、憎悪で。
体を形作る細胞は、嘲笑で。
男の中はすっかり置き換わって仕舞った。
最早、人であるとは云えまい。
暗黒の感情が、人の皮を纏って現世に顕在して居ると云っても過言では無いだろう。
男の憎しみは向かう矛先を持たず、嘲笑は却って自分を惨めにした。
時折正気に戻っては、自分に絶望する。
然うして居るうちに、男はごく自然に、現世に別れを告げる事を決めた。
則ち、死ぬ事を、決めた。
後編
雪が、降って居る。
しんしんと、深々と、聴こえない音を発し乍ら、見えない光を放ち乍ら、降り積もって居る。昨夜遅くに降り始めた雪は一向に已む気配が無く、目に見えるもの凡てを白銀に塗り潰した。
確とは分からないが、時刻は恐らく午であろう。あの厚い雲の向こうでは、黄道の主が常と変わらず、眩い光を振りかざして居るのだろう。其れは或いは、恵みなのかも知れず、また或いは、責め苦なのかも知れぬ。しかし其の何れだとしても、今は灰色の雲に遮られて、光は届かない。遮られた光の下を、男が行く宛も無く、よろよろと覚束無い足取りで歩いて居る。足跡を見ると、歩幅もその筋も、時に狭く、時に広く、右に、左にと、取り留めが無い。
両腕はだらりと力無く下げられ、右手に黒光りする短刀が握られて居る。
双眸は濁り切って、何処を捉える訳でも無く、唯なんとなく、空を見て居る。
死を、決めた男。
世界を嘲り、他人を呪い、自身への絶望の末に、終わりを求めた。
最期は、何処か静かな処で。
時代も、人の目も。
世界が届かない、何処か静かな処で、死のうと思って居た。
手には、真黒な短刀が、握られて居る。
不意に、咳き込んだ。
しわぶきに、痰が絡んで居る。そう感じたが、どうやら其れは、痰では無かった。
口に添えた掌を見ると、今しがた咳と共に吐き出された其れが、べっとりと付いて居た。一目見たとき、男は、
墨だ。
と思った。自分の中に溜まった泥水が凝って、墨と成って溢れて来たのだと。
血だった。
掌にぬらぬらと張り付いている血は、男に、色を思い出さしめた。
再び、しわぶいた。
今度は、立って居られなかった。新雪の上に膝を突き、蹲る様にして、男は血を吐いた。
咳が治まってから、目を開けた。
目の前。
たった今吐き出した血が、雪を紅く染め上げて居た。
其れを目にした瞬間、男は自分の中に渦巻く憎悪の泥水の一切を忘れて、一つの感情に酔い痴れた。
うつくしい。
果たして何れ程の時間、然うして居たのだろうか。刹那の様で、那由他の如くであった。咳き込んだ格好の侭、血と、雪を見詰めて居た。
然うして居る内にやがて正気に還った時、昔以上の強烈な衝動が、自分の最も深い所、閉ざされ泥水に沈んだ底から込み上げてくるのを感じた。
書きたい。
其の強烈な衝動に耐え切れず、男は左手で、右手に持った短刀の鞘を払った。
抜き放った刀身は雪明かりを反射し、鈍い輝きを放つ。
刃を右手首に添え、微塵の逡巡も無く、一息に引き斬った。
雪は今も変わらず、降り注いで居る。重力の虜と成り、遥か高き天から落ちて来る牡丹とは対照的に、男の右手首から鮮血が吹き出し、雪の上に舞った。
男の体を流れる憎悪は、今や、半紙を彩るきれいな紅に成った。
体を形作る嘲笑は、紅を奔らせるやわらかな筆と成った。
世界を半紙とし、突き上げて来る衝動の侭、雪の上を舞い、筆を遣う。全身全霊を込めて、今迄のどの書よりも真剣に、軽やかに、耽美に、最期を飾った。
降り積もる雪と、鮮血と戯れ乍ら、
見ろ。世界は、こんなにも、美しい。
と、男は想った。
やがて、降り続いていた雪が已む頃、最期の世界が完成した。
男は其の傍らで、命を終えて居た。
その男は、書家だった。
全く、世界を憎み切って居た。
其の男の、最期の書は、唯の一文字。
この世界の、遍く文字よりも雄弁な、一文字。
真白な雪の上に、真赤な血で、
生
と、書かれて居た。
—了—
赤雪