虚無を征く者たち
1
酒場は七割の客入りだった。四つあるボックス席は三つが埋まり、カウンターのスツールも半分ほど人の尻が乗っている。
出入り口から一番遠い奥のボックス席に、若い男と若い女がひとりずつかけていた。派手な化粧をした女はつまらなそうな顔で、カクテル片手にタバコの煙を吐いている。ひょろ長い顔つきでギョロ目の男は、両手に包み込んだグラスを見つめている。
うつむきがちに男が言った。「だからさ、俺が、その、そいつに言ってやったんだよ。あんまりくだらないこと言ってると、ぶっとばすぞ、なめんじゃねえ、ってさ。俺って、ほら普段は優しいんだけど、礼儀を知らないやつって、大嫌いっていうか許せない人間だからさ」
男は早口。女は無言。男は上目に女を見て続ける。
「そしたらそいつさ、すいません、俺が悪かったです、あなたのことを見くびってました、許してください、だって。土下座でもしそうな勢いで、ははっ、謝ってきてよ。いきがってやがったくせに、ちょっと、その、大きい声出してやったら、びびっちゃってさ。まあ、その、よわっちい野郎だよな」
女は真っ赤な唇をぴったり閉じたまま「ふーん……」と言った。前のカウンター席の奥の、色とりどりの酒瓶をながめながら。
男の額と首筋にどっと汗がふき出す。
「あ、そうだ、俺、こないだサピの競技場に、サッカー見に行ったんだよ」と男は貧乏ゆすりをしながら言った。「いや、俺もガキの頃、町の少年サッカーチームで、中盤でレギュラー張ってたんだよね、実は。ほんとだぜ、へへっ。まあ、経験者なんでさ、一緒に行った友達に、いやこいつが完璧素人でさ、オフサイドもよく分からないって野郎で、フォーメーションとか戦術とか、俺がいろいろ教えてやってさ。お前、詳しいなってほめられちゃったよ、ははっ……」
女は煙を吐いている。男は女の横顔をまぶしそうに見つめ、ぎこちなく笑う。「あ、そういや、サッカー好きだっけ?」
「全然」女はタバコを消し、カクテルを飲み干した。つんと伸びたその細い喉を、男はじっと見つめた。女がグラスを置く。かたわらのハンドバックから財布を取り出す。
「えっ」男は身を乗り出した。「今日は時間ないのか? もう帰るのか?」
女は財布から銀貨をつまみ出し、テーブルに置いた。男はズボンの右ポケットに手を突っ込んだがそちらは空っぽで、「あ、くそっ」と左ポケットに手を突っ込み直して財布を取り出した。
「俺が払うから」
男が言っている間に、もう女は席を立っていた。男は口を半開きにして、女の後姿を見送った。ブロンドの巻き髪を揺らし、女は「さよなら」も言わずに店を出て行った。
そうやって、ひょろ長の男が女にすげなくあしらわれると、入れ違いに丸顔に角刈りの若い男が店に入ってきた。丸顔男はいま出て行った女を振り返り、目を戻してひょろ長男を見つけた。ひょろ長の隣、今まで女が座っていたソファーにかける。
「よお」と丸顔が、顔面蒼白のひょろ長に声をかけた。「お前、まだあの女の尻、追いかけてるのか」
ひょろ長は無言で丸顔を見た。
丸顔は腕を組んだ。「無駄だって。あの女は脈なしだ。お前にはどうあがいたって落とせっこねえ」
ひょろ長は答えず、ぬるくなったビールを飲んだ。
「おい」丸顔が険のある目でひょろ長を見た。「お前があの女にほれてるって俺に話してくれたのは、もう二年も前だ。二年だぞ二年。その間、お前らの仲は一ミリでも進展したか? 一度でもデートできたか? 一度でもあの女はお前のくだらないギャグに笑ってくれたか? 一度でもあの女が、お前に楽しそうな顔を見せてくれたか?」
「うるせえよ……」とひょろ長はグラスを置いてつぶやいた。
丸顔は続ける。「二年も何の進展もなく不毛なおしゃべり繰り返してよ、お前もいい加減、目を覚ませよ。こんなこと延々と続けて幸せになれるってのか。これ以上、心を痛めて何になる。お前の気持ちはあの女の心には絶対届かない。あの女は、お前のことなんざ道端の石ころほどにも思っちゃいないんだ」
「うるせえ、バカ野郎」ひょろ長がいきなり丸顔の襟をつかんだ。「てめえに何が分かる? えらそうに言いやがって。俺の気持ちは本物なんだ。誰がなんと言おうと、俺にはあいつしかいねえんだ。あいつは運命の女なんだ俺には分かるんだ間違いねえんだよあきらめろって言われてあきらめられるかボケ」
「手を離せよ」丸顔は落ち着いて、ひょろ長の両手をつかんだ。「てめえの勝手な思い込みなんざ何の意味もねえ。そうさ無意味だ。お前のやってること全部、酔っ払いのゲロくらいナンセンスよ。……おい、手ぇ離せっつってんだ、小娘ひとりと、まともに口も利けねえ腰抜けが」
「俺のどこが腰抜けだってんだ、トーヘンボクが」ひょろ長が指に力を込める。
「頭を冷やせっつってんだよ。人が親切に、脈なしだって教えてやってんのに」
「てめえに物なんざ教わった覚えはねえよ、ゴミ虫が」
「いい加減にしろ。酔っ払いだろうと容赦しねえぞ」
「てめえ、やろうってえのか」
「上等だ、やってやろうじゃねえか」
「じゃあやろう」とひょろ長がパンチを出した。顔面にヒットして、丸顔が後ろへのけぞった。足がテーブルに当たり、グラスや氷入れが飛び散った。
「いてえなバカ野郎、いきなりやる奴があるかよ」丸顔が反撃のこぶしを繰り出す。ひょろ長のあごに当たって、のっぽな体が壁にぶち当たった。壁のリトグラフが床に落ち、額にひびが入った。
アイリスはななめ後ろの席で始まったケンカにすぐ反応した。スツールをくるりと回し、ケンカの主たちを確認すると、隣の人物の手をとった。
《セナン》とアイリスは、その人物に指で呼びかけた――相手の手の中で、自分の指を細かく動かし、意思を伝えた。
《どうしたの?》セナンはあごまで伸びた銀髪を揺らし、同じく指でアイリスに尋ね返した。
《右ななめ後ろでケンカ。グラスが割れて壁の絵が落ちた》アイリスは指を動かし、セナンへ状況を伝えた。《男が二人。にらみ合ってる。すぐにでも取っ組み合いが始まりそう》
《どうする?》セナンが片手のハイボールをテーブルに置く。
《やめさせる》アイリスは答え、それから大声で男たちへ言った。
「やめて!」
組み合おうとしたところで怒鳴られ、丸顔とひょろ長は声の主を見た。カウンターのスツールにかけた、長い黒髪をポニーテールにした若い女。ほほの線にあどけなさの残る愛らしい顔つきをしているものの、表情はまっすぐ真剣で、威圧的なほどに険しい。
女はきつい表情のまま、声を落として言った。「他のお客がいるのよ? こんなせまい店でケンカなんて迷惑よ。外でやって」
金縛りから解けたようにひょろ長が口を開いた。「な、なんだこのアマ、しゃしゃり出てくんな」
丸顔も続いた。「そうだそうだ、横から口出ししてくるんじゃねえ」
二人はケンカを再開した。取っ組み合い、怒鳴りあい、殴り、殴られ、蹴って、蹴られた。ひとりがタックルし、隣のボックス席に二人して突っ込む。その席の客たちは、悲鳴を上げてさらに隣のボックス席に避難した。
「ちくしょうバカヤロウ」ひょろ長がわめきながら、テーブルの灰皿を丸顔に投げつけた。狙いは外れ、灰皿は床で跳ねた。ポニーテールの女の隣で、この騒動にもまったく反応せずにいる若い男のスツールに当たり、ガギンと音を立てた。
アイリスはセナンの真下の床に転がる灰皿を見て決心した。
《やろう》とセナンに言う。《しかたないわ》
《了解》セナンはうなずき、スツールを回転させてボックス席の方を向いた。
アイリスは目を見開き、猛スピードで指を動かした。セナンから見たひょろ長男と丸顔男の位置を、仰俯角(上下の角度)と方位角と距離でまず伝え、続いて注意すべき他の客の位置関係を伝える。
セナンはすっと腕を持ち上げた。
ひょろ長がカウンター席の男の挙動に気づいた。さっきの女の隣にかけた、ほこりっぽい旅装束の銀髪の若い男。スツールを回転させ、自分たちのほうを向いている。
取っ組み合っているひょろ長がカウンターのほうを見たので、釣られて丸顔もそちらを見た。銀髪の男と目が合った――いや合わなかった。体を向けているだけで銀髪男は何も見ていなかった。自身の毛色と同じ灰色の布を、目にぐるぐると巻いているからだ。盲人だ。
銀髪は腕を上げた。手のひらを、ひょろ長と丸顔に向けて開いた。――太陽と月が破裂した。光のシャワーが店内を満たした。目を閉じる間もなく、今度は象に飛びかかられたような衝撃がやってきて、二人は吹っ飛んだ。背後の壁に背中と頭をしこたま打ち付け、床に倒れこんだ。
手足をおかしな具合に折り曲げ、苦痛と混乱にうなりながら、二人は銀髪の盲人を見上げた。
「なっ――」なんだ今のは? と聞こうとしたが、胸と背中に激痛が走ってひょろ長は黙った。
丸顔は咳き込みながらも、言葉を口にした。「魔法使い……」
店の奥のトイレのドアが開いた。蝶ネクタイを締めたこの酒場のマスターが出てきた。
「ふう、参った参った」とマスターはひとりごとを言った。「変なもの食ったかなぁ、腹を下しちゃって……」
そして店内の様子に凍りつく。テーブルは横倒し。グラスは粉々。氷や飲み物は飛び散り、壁にかかっていたリトグラフは床でびしょ濡れに。観葉植物は鉢と分離し、土が散乱。そして客が二人、床にうつぶせになってうめいている。
アイリスは財布から銀貨を取り出し、カウンターに置いてスツールから降りた。
《行こう》とセナンに言う。反対の腕でセナンの体を抱きかかえるようにして、彼がスツールから降りるのを助けた。そのまま手をつなぎ、ぴたりと体を寄せ合って二人は出入り口へ向かった。その間アイリスはセナンに、動線上にある障害物をひとつひとつ正確に教え続けた。セナンは盲人らしからぬしっかりとした足取りで店内を歩いた。
誰も、何も言わなかった。みなアイリスとセナンの背中を見つめていた。唐突に魔法を放ち、ケンカを強引にやめさせた二人組を、マスターもひょろ長も丸顔も他の客も黙って見送った。
ドアを押すと、冷たい夜風が二人のほほをなでた。
裏路地をアイリスとセナンは歩いた。目抜き通りから道二本隔たった、安酒場ばかりのせまい通り。店の灯が闇に点々と浮かび、灯と灯のはざ間には客待ちの街娼が、タバコの煙をくゆらせながら立っている。
小さな十字路にさしかかる。右の通りには、中へ誘い込む矢印の描かれた看板がたくさん見える。宿屋街だ。
アイリスとセナンは右に曲がった。こうしている間も、ずっと二人は手を離さない。何かあったときにすぐに意思疎通が図れるように、ぴたりと身を寄せ合っている。
店先の値段表を吟味しながらアイリスとセナンは宿屋街を歩いた。
一軒の宿の裏手、ゴミ箱の置いてあるせまいスペースに年老いた男がひとり座っていた。男は右手の酒瓶から左手のコップに酒をついでは、その酒を今度はコップから酒瓶に戻すということを繰り返していた。暗がりの闇に紛れて表情は分からないが、力のこもった手の動きから、その行為にかなり集中しているのが分かった。男がどういう人間か、アイリスには判断がつかなかった。浮浪者か、酔っ払いか。心の壊れた人間か。
アイリスはいつも、自分が目にしているものを可能な限りセナンに伝えることにしている。この奇人のことも詳細に教えると、セナンは《よく分からないけど、あまりじろじろ見ないほうがいいかもね》と言って、アイリスを促した。
めぼしい宿を探して歩いていると、不意に「そこのお二人」と声をかけられた。振り返ると身なりのいい、背の高い青年がひとり立っていた。
アイリスは警戒して黙った。
青年は人懐っこそうな笑みを浮かべ、金髪の頭をかいた。指に高そうな指輪を嵌めている。「いきなり申し訳ない。私はさきほど、あなた方と同じ店で飲んでいた者なんだ。ちょっとだけ、あなた方と話をしたいんだけど、いま時間はあるかな?」
《さっきの店の客だって。話をしたいと言ってる》とアイリスはセナンに言った。指で会話しているので、自分たちが何を話しているのか目の前の青年には分からない。
《用件はなんだろう?》とセナンがアイリスに言った。
「どういう用事?」アイリスは油断なくにらみを利かせながら青年に尋ねた。
「私はマフ」と青年は自己紹介した。「大通りの「アザルカク」というホテルを定宿にしている小説家だ」
「小説家?」アイリスは眉をしかめた。
「さきほど、酔っ払いのケンカをいなしたのを間近に見ていたけれど、すごかったな」マフは感心しているふうにあごをさすった。「そちらの魔法使いの方は目が見えないのに、魔法は正確に二人の酔っ払いをとらえていた。他の客にはまったく被害が及ばないよう、正確に」
マフはセナンとアイリスに交互に視線を送り、柔らかな笑顔を浮かべて続けた。「お願いなんだけれど、あなた方のことを取材させてもらえないだろうか? 無礼でなければ、今後の創作の題材にしたいんだ」
アイリスはさらに顔をしかめた。
「もちろんお礼は弾むよ。今夜の宿も私のほうで良いところを用意させてもらう。どうかな?」
《小説家が私たちのことをネタにしたいんだって》アイリスはセナンに言った。《うざいわね。自分たちが勝手に小説に書かれるなんてぞっとしない》
《相手は作家なんだね?》とセナンは聞き返した。アイリスが《うん》と言うと、彼は提案した。《アイリス、僕たちが傭兵だということを伝えて。その上で、戦争の起こりそうな国の情報を何か知らないか尋ねてみるんだ。作家なら、世の中のいろんなことに通じているかもしれない》
アイリスはしぶしぶ、セナンの言うとおり伝えた。
「傭兵か。なるほど」マフは何度もうなずいた。「それなら、協力して上げられると思う。戦争に関する情報なら、新鮮なのをひとつ持ってるよ」
《なんか軽い感じだよ》アイリスはマフの印象を述べた。《まっとうな人間って感じじゃない。どうする、セナン?》
《行こう》とセナンは答えた。アイリスがため息をつき《私、ため息》と伝えると、セナンの口元はほころんだ。
《一生に一度くらい、小説の登場人物になってみるのも楽しいかもよ、アイリス》
三人はマフの定宿のホテル・アザルカクへ向かった。
目抜き通りの中央の広場にそれはあった。三階建てで大きな建物ではないが、コーヒー色の壁が広場の縁に合わせて複雑に湾曲していたり、エントランスの柱に精巧な像が彫刻されていたり、凝っている。
《高そうなホテル》とアイリスは言った。
《マフという人は羽振りが良そうだね》セナンは柱の天使の像をなでながら返した。
ロビーに入ると、ドアマンがマフに親しげに笑いかけた。その笑顔のいかにも親愛のこもった感じに、確かにマフはこの高級なホテルの常連らしいとアイリスは思った。
三階のマフの部屋に行った。広い。寝室と執筆用の部屋と客間として使っている部屋、さらに小さなキッチンもある、とマフは聞いてもいないのに教えてくれた。
客間へ通され、柔らかなソファーにアイリスとセナンは並んで腰かけた。マフは大きなサイドボードからウィスキーのビンとグラスを取り出し、うきうきした表情でテーブルに置いた。
「まずは一杯いこうか」マフはそれぞれのグラスにウィスキーをついだ。「さあ、遠慮なくやってくれ」
マフは喉を鳴らして一気飲みし、微動だにしない二人にかまわず二杯目をつぎ始めた。
《おいしそうに飲んでる。毒は入っていないようね》アイリスはセナンにグラスを持たせてやった。
セナンが一口飲んだ。ほー、と感嘆の息を吐く。アイリスも飲んでみる。うまい。グラスをかかげて、中の液体を思わず確認してしまった。
マフはうれしそうに目を細めた。「酒の味の分かる人たちでうれしいよ。これはなかなかこの辺りじゃ手に入らない品なんだ。このホテルのオーナーが大きな酒問屋の幹部と友人で、ときどきこいつの仕入れに成功すると、特別にこのホテルに回してもらう。そして私にも融通してくれる」
長々としゃべりながらマフは三杯目をついだ。「北方の国のごく一部で作られる貴重なウィスキーだ。一流の職人が手間ひまかけて、最高の素材と最高の樽で作り上げた、格別の酒さ。出荷量も少なく、ほとんど自国で消費してしまうから外国まで流通することはめったにない。香り、味わい、色、どれをとってもすばらしいよ。鼻に抜ける甘みをよく味わってほしい。どうだい? こんなに幸福な気分にひたれる酒が、他にあるかな? 私はこれを去年、オーナーに教えてもらってからというもの――」
マフはウィスキーに対する愛を語り続けたが、アイリスは面倒になって、途中でセナンに通訳するのをやめた。
「あ、ちょっと失礼」と不意にマフは立ち上がった。「肝臓が活発になってしまった。トイレに行ってくるよ」
トイレに消えるマフを「何なのこいつ……」とながめながら、アイリスはウィスキーを飲み干した。
トイレから戻ってくると、マフはインタビューを始めた。
「まず二人の基本的なことをお聞きしたい。きみたちの名前と、それに歳を」
「私はアイリス。彼はセナンクール。どっちも二十歳」とアイリスはぶっきらぼうに答えた。マフはメモ帳に二人の名と年齢を書き付けた。
「出身地はどちら?」
アイリスは「ルカトニ」と答えた。
マフがメモ帳から顔を上げた。目元にしわを寄せる。「ルカトニか……。旅人に以前、聞いたことがある。ルカトニ。風光明媚で豊かな島国だったが、数年前に大きな災害が起こって、壊滅的な被害をこうむったと」
「よくご存知ね」アイリスはそっけなく返し、勝手に二杯目のウィスキーをついだ。セナンのグラスは――まだ半分ほど残っている。
「きみたちは、その災害の経験者?」
アイリスはうなずいた。受け答えをしながらアイリスは、マフの言っていることも自分のしゃべっていることも、すべてセナンに伝えている。言葉以外の行動や表情なども伝えている。他にもその場で何かが起こればすぐに伝える。
いつでも、周囲のあらゆる事物をアイリスはセナンに教えるようにしている。それを彼女はほとんど無意識に、かつ猛スピードで行っている。アイリスの五指の動きは、長い間の鍛錬で、もはや常人には目で追えないほどになっている。
「その辺りのことも、おいおい聞かせてほしい」マフは言った。「で、ルカトニではどういった生活を?」
「どんな? そうね……」アイリスは少し考えた。「私たちは十二歳までルカトニで育った。災害の日までは何の不自由もなく、毎日楽しく過ごした。こうして島の外に出ると分かるんだけど、祖国は温暖でさらっとした潮風がいつも吹いていて、とても住みやすい良い所だったわ」アイリスは一口グラスに口をつけた。「私たちがどんな子供だったか? ……私は五歳のときから地元のサッカーのユースチームに所属した。母が女子サッカーの元ナショナルチームのキャプテンで、その影響だったわ。父は王室直属の騎士団の騎士だった。両親はそれぞれ、自分の道を娘の私に継がせたがってたけど、私は騎士の仕事にはあまり興味がなかった。その点ではサッカー選手の母のほうが優勢だったわね」
「ふんふん、サッカー少女か……」マフはうなずきながらメモを取った。既にウィスキーを三杯ストレートで飲み干し、四杯目もグラスの三分の一まで減っているというのに、表情も手元もしっかりしている。
それにしても何がそんなに面白いのか、とアイリスはしゃべりながら思った。マフはアイリスの話を生き生きと目を輝かせて聞いている。
《きっと小説家には無駄なものがないんだよ。ネタにしようと思えば、彼らはどんなものでもネタにできるだろうからね》とセナンは言った。
「セナンクール、だっけ? きみは?」マフはセナンに聞いた。
「セナンは、厳密にはルカトニの出身じゃないわ」とアイリスが答えた。セナンのグラスが空になったのを確認して《もう一杯飲む?》と尋ねた。セナンがうなずいたので、ウィスキーをついであげた。
アイリスはマフに向き直って話を続けた。
これは両親から聞いた話。二十年前のある日の夕方、父と母が私を抱いて浜辺を散歩してた。海に沈む夕日をながめながら歩いていたら、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。泣き声のする方へ行ってみると、小型船舶が岩場と岩場の間で座礁してた。私を母に任せて、父が操舵室に入ってみると、がらんとした中、赤ん坊が床で泣いていた。
操舵室には赤ん坊の他に男が一人いた。舵の前で、額から血を流して倒れていた。その腕は舵輪へと伸びていたけれど、わずかに届いておらず、空をむなしくつかんでいたそう。男は座礁の際に激しく頭をぶつけたらしく、絶命していた。
父はまず、赤ん坊を抱きかかえて外に出て、母に医者に連れていくように頼むと、再び船内に戻り、男と赤ん坊の身元が分かるものがないか調べ始めた。隅っこにトランクがひとつ転がっている以外、操舵室は本当に空っぽだった。食料とか生活必需品のようなものは皆無。ちょっとした海の散歩のつもりだったのか、それとも何か荷物を積み込めない理由があったのか……。
男の所持品にもめぼしい物はなかった。ポケットは全部空だった。父はトランクを調べてみることにした。中くらいの大きさの、かなり高級な作りの品だったから、開けるときちょっと緊張したそうよ。何か宝物でも入ってるんじゃないか、と。でも予想は外れて、ろくなものが入ってなかった。空っぽの皮財布、底に穴の開いた水筒、未開封の避妊具がいくつか。それだけ。他は金貨一枚、飴玉ひとつなかった。結局、男は身元不明のまま城下町の教会の墓地に葬られたわ。
保護した赤ん坊のほうは、幸いケガらしいケガもなかった。病院のベビーベッドですぐに元気を回復したわ。でもすぐに、その子には耳の聞こえない障碍(しょうがい)があることが分かったの。看護師さんが目の前で大きな声を出しても、赤ん坊は普通に笑っていたそう。
私の両親はその親なしの子を哀れんで、引き取って育てることにした。聴覚にハンデはあったものの、赤ん坊はすくすくと健康に成長したわ。そのうちに、その子には天賦の魔法の才能があることが分かった。誰に教えられたわけでもないのに、その子は当たり前のように魔法が使えたの。ある程度の年齢になって文字を覚え、本を読めるようになると、彼は魔法に関する書物を読み漁り、更に自分の才能に磨きをかけていったわ。
「その彼というのが……」とマフが言った。
「セナンよ」アイリスは無表情に答えた。
「信じられないな」マフはぼう然とセナンを見る。「あれだけのことをやっておいて、耳も聞こえないというのか」
マフの言葉をアイリスが伝えると、セナンはにこっと微笑んだ。
「俄然、面白くなってきた」五杯目をつぎながらマフは笑った。「アイリス、どうぞ続けて」
セナンがアイリスの両親に保護されてから十二年後。アイリスはサッカーU12年代の地区選抜の選手になっていた。
彼女の記憶に最も印象的に残っている試合は、国王杯サッカー大会の予選で、隣町と地区代表の座を争った一戦。
プロクラブがホームグラウンドとしても使っている、本格的なサッカースタジアムで試合は戦われた。濃い緑と薄緑の芝生のコントラストが目にまぶしかった。練習でも本番でも、土のピッチしか知らないアイリスにとって、生まれてはじめて踏みしめる本物の芝生だった。
アイリスは中盤の要、試合の舵取り役であるレジスタというポジションでスタメン出場した。レギュラーではただひとりの女子選手だったが、彼女は堂々とキャプテンマークを腕に巻いていた。
試合は2‐1で負け、地区代表の座は逃したが、アイリス個人は一騎当千の働きを見せた。
空からフィールドを見下ろしているかのように、絶妙な位置にボールを出しては前線をアシスト。ここは一気に行くべきと踏めば自らドリブルでボールを持ち出し、相手ディフェンダーをおびやかす。相手にボールを奪われれば誰よりも速く駆け、相手を自軍のバイタルエリアに侵入させないよう体を張る。
自軍の得点もアイリスによるものだった。前半終了間際、ドリブルで相手のバイタルエリアにボールを持ち込んだアイリスは、ディフェンス陣の間を縫って強烈なミドルシュートを放ち、ゴールネットを揺らした。ドリブルで抜いてペナルティーエリアへ持ち込む、あるいは後から走りこんでくる味方にパスを出すという選択肢もあったが、アイリスは迷わずミドルを打った。外れれば「雑だ」と怒られるようなプレーだったが、彼女はそこで決めてしまえる技術と大胆さを持ち合わせていた。
ゴールが決まるとアイリスは、味方の選手を引き連れて応援団の下へ駆けつけた。スタンドで歓声を上げる家族へ、満面の笑顔で手を振った。
雲ひとつない晴天の下、スタンドのベンチは春の陽を受けて光っていた。光の中に満足げな母の顔があり、母以上にはしゃいでいる父の顔があり、そして穏やかな――しかし本当にうれしそうに手を振り返してくれるセナンの顔があった。
試合後、悔しさよりも楽しかったという思いが心に残った。チームメイトの中には泣いている者もいたが、アイリスは笑っていた。こんなに気持ちよく晴れた日に、立派な会場の青々したピッチで大好きなサッカーができて、泣けるわけがなかった。
両親やセナンと昼ご飯を食べるため、アイリスはスタンドへ上がった。
アイリスがやって来ると、母はレモネードの入った水筒を取り出した。レモネードは母の手製だった。セナンがそれを片手で持ち、軽い氷結魔法を放って中身をキンキンに冷やしてくれた。アイリスはコップにそそがず、ちょくせつ水筒から冷たいレモネードを飲んだ。
「あー、おいしっ」汗ばみ高潮したアイリスの顔に、また満面の笑みが広がる。それからセナンに「セナンも飲む?」と手話で尋ねた。セナンがうなずくので、アイリスはコップについであげた。「どーぞ」とコップを渡すと、セナンは手話で「ありがとう」と返してにっこり笑った。
レモネードが思いのほか冷たかったのか、飲むとセナンは少しむせた。アイリスは笑って、タオルで彼の口元を拭いた。セナンは恥ずかしそうに苦笑した。
「絵に描いたように楽しそうだ」マフはメモを取りながら、うなずいた。「充実した子供時代だね」
アイリスは微笑んだ。「あの頃は悩みも不安も何もなくて、毎日が楽しかった。目の前にあるのは無限の未来だけ。サッカー選手を目指していつでも一直線で……」
マフはうんうんうなずいた。「きみのお母さんは女子サッカーの代表選手だったと言っていたね? きっとその才能を受け継いだんだな。そしてお父さんは……騎士だっけか」
アイリスはうなずいた。「さっき、父は私に騎士になって欲しかった、でもサッカー選手にしたいっていう母の希望のほうが優勢だった、って話をしたわよね? 父もそれは認めていて、自分の希望はかなわないだろうって諦めてた。だけど何もしないでいるのは悔しかったのね、一応、私に剣の稽古も課していたわ」
「剣を?」マフは身を乗り出した。
話を続ける前に、空になっているセナンのグラスに、アイリスは三杯目をついであげた。
アイリスは続けた。「サッカーの練習と剣の練習と、どっちが好きだったかと聞かれれば断然サッカー。だけど、剣の稽古も嫌いじゃなかった。それはそれで楽しかった。子供だったから、面白いと思えるものは何だって楽しめたのよ」
さっきのサッカーの大会があったのと同じ年のこと。
その日は日曜で、ユースチームの練習はお休みだった。私とセナンは近所の小さな山へ出かけた。私はそこでいつも剣の稽古をしていたの。頂上近くに平らな、開けた広場のような所があってね。人もあまり来ないし、子供がちょっと動き回るのにはもってこいの場所だった。
修行とは言っても、本格的でもストイックでもなかったわ。父は私が十三歳になったら騎士団の中の、誰か剣技に秀でた人を先生にして、より踏み込んだ稽古をつける気でいたけど、その時まだ私は十二歳だった。まあでも、実際十三歳になっても、そんな大変な修行は無理だったかもしれない。十三歳になったら私はU15のチームに合流する予定になっていたから、サッカーが忙しくて剣の修行どころじゃなかったかもしれない。
とにかくその日は山に登って、セナンと頂上の広場へ行ったの。稽古に使う木刀と、お弁当と水筒の入ったバスケットを下げて。私たちはピクニック気分だった。天気も良かったし、気温もちょうどいい暖かさだったから。
広場に着くと、私たちは大きな木の根元にバスケットを置いた。私は中から練習メニューの書いてある紙を取り出して、地面に広げて重石を乗せた。――筋力トレーニングであれ、シュート練習であれ、きちんと紙に記録して体系的にこなせ、というのが母の指導方針だったから、その影響で、剣の稽古をするときも私はいつも、メニュー表をきちんと用意するようにしてた。
と言っても剣の稽古法はごく単純なものだった。何本かの木の枝につるした棒切れを、まず木刀でたたく。棒切れはロープでつながっているから、たたけば反動でこちらへ返ってくる。弱くたたけば弱く、強くたたけば強く。それを私は避けるかたたき返すかする。その繰り返し。簡単そうに思えるかもしれないけど、真剣にやるとなかなか大変よ。棒切れが少なかったり、たたく力が弱ければ、ばかばかしいくらいつまらない稽古だと思う。でも棒切れが自分を囲むように何本もぶら下がっていて、それを次々にすばやくたたき続けると、冬でも汗だくになるくらい緊迫した。油断すれば生傷も絶えなかった。
私はそつなくこなした。はじめのうちは痛い思いをすることもあったけど、慣れると本気のスピードで「たたく・たたき返すか避ける」を五分くらいは続けられるようになった。
その日も午前十時くらいから、休み休み、お昼ちょっと前くらいまで稽古していた。セナンは私の稽古をあきもせず見守っていた。まあ自分で言うのもなんだけど、私の剣の稽古は迫力もあったし緊張感もあったし動きも激しかったから、なかなか見ものだったと思う。
「休憩する」私はセナンに手話で言って、木刀を木の幹に立てかけた。セナンが投げてくれたタオルで汗を拭きつつ、空を見た。雲ひとつない、真っ青な空。広場の周囲には季節の花が咲いていて、その甘い香りが心地いい。空の青、花の赤や黄色、葉っぱの緑、どれも色鮮やか。今もはっきり頭に残ってる。忘れられない。
私はセナンの横に腰を下ろした。
セナンがバスケットからポットを取り出した。悪くならないよう家を出るときに一度キンキンに冷やしておいたけど、中身は少しぬるくなってた。稽古の後で体が火照っていたから冷たいのが欲しくて、セナンに冷やしてもらった。サッカーのときと同じで、氷結魔法をごく軽く。セナンの手とポットの周囲を、数秒間ミニサイズの吹雪が渦巻いた。
私は自分のコップとセナンのコップそれぞれに母のお手製レモネードをついだ。母のレモネードは単においしいってだけじゃなく、栄養のことも細かく考えて作ってあった。母のいろんな気遣いや、アスリートとしての思想が詰まっていた。喉がからからで、私はレモネードを続けざまに三杯もおかわりした。
バスケットのサンドイッチを食べ終えて、そろそろ午後の稽古を始めようかなと思った矢先だった。それは前触れもなく起きたわ。突然大きく地面が振動して風景がばらばらに崩れてしまったの。二人のいた山が巨人になって立ち上がったみたいな、もうめちゃくちゃな揺れ。
私はとっさに山が地すべりでも起こしたのかと思ったわ。けどあせる間もなく次の瞬間には意識を失った。ちょうどその場に立っていた私は転んで頭を打ってしまったの。座ったままのセナンは幸い、何のケガもなかった。地面が振動している間、セナンは気を失っている私に覆いかぶさって、私を守ってくれていたそう。
「それが、例の大災害?」とマフは手を止めて尋ねた。
アイリスはうなずいた。ウィスキーのおかげで、しゃべるのが気持ち良くなってきた。「大地震。それと火山の噴火。三百年以上眠り続けて、おなかにマグマをたっぷり溜め込んでた火山の。火山は私たちの町からかなり遠くにあったのに、噴煙がはっきり見えた。この世の終わりのような景色だった」
アイリスはグラスに口をつけ、笑った。「実際、この世の終わりだった」
セナンによれば、私が気を失っていたのは十五分ほどだそう。目を開けると揺れは収まっていて、目の前にセナンの心配そうな顔があった。私は体を起こして、自分の体を軽くさすった。幸い、どこにも痛いところはなかった。
私はセナンの手を借りて立ち上がった。そして、息を呑んだわ。気を失う前と後で風景がぜんぜん違っていたの。
空はすっかり厚い雲に覆われていた。陽をさえぎられて、草花や木もくすんだ色になってた。黄色い花は濃いオレンジ、葉っぱは濃い緑、土はこげ茶色。どれもこれも黒ずんでいて、広場は暗く憂鬱な雰囲気の中に沈み込んでた。……大げさな表現だと思う? 確かに大げさかもしれない。だけど私の頭の中では、そのときの風景がリアルに残ってる。今でも目をつむれば、稽古の棒切れのぶら下がった、くすんだ色をしたあの広場がまぶたの裏に浮かんでくるわ。
セナンが東を指差した。そちらは見晴らしの良い斜面になっていた。私はぎくりとして、めまいを覚えた。ずっと遠くの山々から大きな、本当に大きな真っ黒い煙が上がっていたの。空の雲よりもっと濃い色の巨大な噴煙。恐ろしい光景だった。いま思い出してもぞっとする。地平線の三分の一の幅の煙よ。地面を多い尽くすような勢いで広がっていたわ。本当に大変な大噴火だった。
セナンが私の袖を引っ張って、「急いで山を降りよう」と手話で言った。私たちは広場から登山道へ向かった。私の頭は真っ白で、何一つ冷静に考えられなくなっていた。セナンに言われなければ、いつまでもそこでぼうっとしていたと思う。歩き出す直前、足元に例のメニュー表が見えたけど、「稽古のメニューが消化できなかった。どうしよう」なんてのん気なことを考えたくらいだったわ。
二人で手をつないで山を下りる最中にも、二度三度と余震が起きて、私はセナンと身を寄せ合って震えた。とても怖かった。
私たちは下山するのに悪戦苦闘した。あちこちで地すべりや山崩れが起きていて、何度も道を外れなければいけなかったから。普段なら十五分で下りられる山なのに、その時は三十分経っても中腹辺りでまごまごしていた。
倒木もかなりあった。小さなものなら乗り越えてそのまま歩き続けたけど、大きな古木に出くわすと厄介だった。迂回するにせよよじ登って乗り越えるにせよ、かなりの面倒。だけど、それは私の取り越し苦労だった。簡単に乗り越えられない木は、セナンが衝撃魔法で粉々に吹き飛ばしてしまったから。
登山道をふさぐ大木の一本目を前にしたとき、私はただため息をついてうんざりしたわ。そして隣のセナンに「回り道ね」と言おうとした。でも私が言うより先にセナンは左手を上げて、何の躊躇もなく魔法を放ったの。目の前にあった大木の幹の三メートルほどがこの世から消えた。私はセナンがそんな強引な手に打って出たことにびっくりして、声も出なかった。セナンは余韻も何もなく「行こう」って私の手を引っ張った。
私たちはまた歩き出した。下山を妨げる障害物があったら、セナンは魔法で吹っ飛ばした。そんなふうにやたらに彼が魔法を使うことはなかったから、私はただ意外だった。そう、その時の私は、なぜそうまでしてセナンが道を急いでいるのか、ちっとも理解していなかったのよ。
更に歩いて、あと少しで登山口というところで私たちはまた歩みを止められた。地割れと地すべりが同時に起きたために、地面が長く、大きくえぐれてしまった場所に出たの。それはえぐれというより、ほとんど崖か谷のようだった。こわごわ下をのぞいてみると、底は光が届かず真っ暗で、どれくらい深いのかも分からなかった。私は震えたわ。えぐれを満たす闇がとても怖かった。とびっきり暗くて、底なしに深くて。自分の足元に、どこまでも続く暗闇が横たわってる――そういう感じだった。大仰な言い方だと思うかもしれないけれど、本当にそう感じたの。あの時の恐怖感と絶望感は今でも忘れられない。すごく生々しい思い出よ。
どうすることもできなくて、私たちは大きく迂回することにした。そんなこんなで結局、下山するのにたっぷり一時間はかかってしまったわ。
下山してからは町への一本道を小走りに急いだ。
町に入るともう何もかもが一変していて、凍りつく思いだった。家が崩れ、壁が崩れ、瓦礫があちこち散乱して、何もかもめちゃくちゃになっていた。私たちが出かけてからまだ三時間も経っていないのに。
どこかで悲鳴や、泣き声や、誰かを呼ぶ声が聞こえた。よく知る近所の人がケガをして倒れ、他の人に介抱されているのを見た。崩れた家を前に呆然と突っ立っている人もいた。家族が埋まってしまったのか、山のような瓦礫を必死に取り除いている人もいた。
私はパニック状態だった。頭には、形にならない切れ切れの思いが七色に渦巻いてた。何をすればいいのか、ちっとも分からなかった。今にもその場にへたり込んでしまいそうだった。
セナンが有無を言わさず腕を引っ張ってくれたから、私は何とか歩いていられた。ひとりだったら、本当に地面に座り込んで、動く気力もわかなかったと思う。
セナンと私は目抜き通りを抜けて、自分の家へ行った。門と壁と庭の物置が崩壊して、玄関までの道をふさいでいた。セナンがそれらをまた吹き飛ばした。でも今度は無人の山中でなく町中だから、慎重に威力を調節して、二人が歩ける幅だけ瓦礫を撤去していった。
壁にひびは入っているものの、幸い母屋は無事だった。でも玄関を開けて家の中を見て、私は今度こそその場にしゃがみ込んだ。棚とか靴箱とかランプとか鉢植えとか、みんなバラバラに倒れ、崩れ、散らばり、ごちゃごちゃのめちゃくちゃになっていた。そこが自分の家だなんて信じられないくらいだった。
セナンは私をその場に残してずんずん家の中に入っていった。セナンはちっともひるまなかったわ。いろんなものが散乱して足の踏み場もない状態なのに、物と物の隙間に足を突っ込んで器用に歩いていた。彼の背中を見ていたら私も少し勇気がわいて、セナンの後を追った。
セナンは台所に入ると、私に待っているように言った。私は言われるままその場に黙って立ち尽くした。セナンは物の散乱する台所で何かを探し始めたけど、私は何もできず、手持ち無沙汰な気分でなんとなくうつむいた。足元のごちゃごちゃの中に、金色のトロフィーが落ちていた。一年前、サッカーの地区トーナメントで優秀選手賞に選ばれた時のトロフィー。床に落ちたショックでカップが台座から外れ、そこに倒れた食器棚が直撃して、ひしゃげていた。
セナンは散乱した物の中から水筒を二つ見つけ出し、さらに倒れた戸棚からクッキーを一箱引っ張り出した。そして勝手口から外へ出て、水筒に井戸水を満たして戻ってきた。ひとつを自分のかばんにクッキーとともに入れ、もうひとつを私に手渡した。セナンは鋭い目でじっと私を見つめ、「すぐにお城へ行くよ」と言った。私は「なぜ?」と問い返した。セナンは「アイリス、お父さんとお母さんのところへ行くんだよ」と言い直した。
言われて私は、もう頭に天井が降ってきたような気分だった。その時まで父と母の安否には、まったく意識がいってなかった。セナンが下山を急いだのも、父と母の元へ一刻も早く駆けつけたいからだった。でもその場でそれを言うと、私がパニックを起こすと思って、あえて何も言わなかったの。その配慮は大正解だった。両親のことに頭が回った瞬間、私は大慌てで家を出て行こうとしたから。
セナンに抱きついて止められた。私は「離してよセナン、急いでお城へ行こうよ」と言った。焦りで手話がまともにできなかったから、どれだけ通じたか分からない。セナンは落ち着いて――少なくとも私よりははるかに落ち着いて、「トイレへ行ってからね、アイリス」と言った。「この先、ちゃんと使えるトイレがどれだけあるか分からないから、まずトイレで用を済ませてから出かけよう。アイリスはさっきレモネードを三杯も飲んだでしょ」って。
確かにそうだと思って、私は素直にトイレに行ったわ。家のトイレは、壊れていなくて普通に用が足せた。便座に座っていると私の心もちょっとは静まった。セナンの提案は、熱くなった頭を冷ますのにも役立ったわ。
交代でセナンも用を足して、いよいよお城へ向かって出発した。その日は、父は新人騎士の研修の講師のために、母は城に勤める人の子供を対象にしたサッカー教室のコーチのために、朝から城へ出かけていたの。
私たちは馬車乗り場へ行った。だけど地震と噴火の混乱で、稼動中の馬車は一台もなかった。あわてふためいている御者たちに「今日は臨時休業だ!」と怒鳴られ、私はもう叫びたくなった。でもセナンはあっさりきびすを返して、城へ向かう街道を歩き始めたの。彼は馬車が動いていないことを予想していて、まったく動じなかった。でも私は悄然として泣きたくなった。なんだかんだ言って、私は十二歳のガキんちょに過ぎなかった。両親の安否が分からず不安なまま、長い道を歩くなんて最悪だと思った。子供の足では城まで二時間はかかる。私は何も考えずに駆け出そうとした。けど、またセナンに止められた。
「あせる気持ちは分かるけど、今は体力を温存しなきゃだめだよ。水や食料もこれしかないんだし。急ぎすぎず遅すぎず、じっくり歩いて行こう。運動音痴の僕のためにも、お願い」
私はうなずくしかなかった。セナンのお願いを無下にするわけにはいかないので、私ははやる気持ちを抑え、彼と手をつないで城への道を歩いた。
マフは嘆息して、メモ帳をテーブルに置いた。何杯目だか分からないウィスキーをグラスにつぐ。
「すごい状況だな……」
「そうね、すごかった」アイリスも息を吐いた。空になったグラスに酒をつごうとし、思い直してやめた。「チェイサー(口直し)をもらえる?」
マフがサイドボードから炭酸水の入った金属製のジャグを出してくれた。アイリスは自分とセナンのグラスにそれをついだ。強い酒を何杯も飲んだ後で、炭酸水は舌にさわやかだった。
きっかり二時間かけて、私たちは城下町に着いた。町は騒然としていたわ。目抜き通りをまっすぐ歩いて城へ向かう途中にも、崩れた建物やケガ人をたくさん見たし、救助活動で緊急出動した兵士と何度もすれ違った。城下町のほうが建物が密集している分、私たちの住む町より被害が大きいようだった。でも私たちはそれらにはほとんど注意を向けなかった。両親のことがとにかく心配だった。
遠目に見ると、城は作りが重厚なだけあって、大部分が崩れずに持ちこたえていた。でも近付いて見ると、部分的に大崩れしている尖塔などもあって、瓦礫が地面に山積みになっていた。
私たちは門をくぐるとまず兵舎に向かった。兵舎は崩れず、無事だった。建物の前に父の同僚や部下の騎士がいたので、両親の安否を尋ねてみた。でも二人が無事なのかも、そもそも今どこにいるのかも誰も知らなかった。
私たちはそこで若い騎士のひとりに、兵舎内の通用口から城の内部には絶対に入るな、と注意された。兵舎と城をつなぐ壁や天井が地震でひどくやられて、強い余震が起きたら崩壊するかもしれない、ということだった。
私たちは城の敷地中を歩き回って、両親を捜せるだけ捜した。だけど二人は見つからない。中庭や渡り廊下ものぞいたけど、父と母の顔はない。私たちは次第にくたびれていった。冷静さを失っている大人たちの中を子供だけで動き回るのは、とても疲れたわ。誰もがあわてふためいて、自分のことで精一杯で、私たちにまで注意を向けてくれなかった。
一時間もそうして捜し回って万策尽きると、最後に「絶対行くな」と注意された兵舎の通用口へ向かうことにした。愚かと思うかもしれないけれど、あの時は他にどうしようもなかった。そちらはまだ探していなかったから、両親がたとえばケガをしてそこで動けなくなっている可能性もあったし。
中に入るとき、一応兵士や騎士たちに見つからないよう体をこごめた。私たちはうまいこと兵舎に忍び込めた。中は薄暗く、人気がなく、窓から入る光の中をほこりが舞っていた。石造りの無骨な壁の前には、騎士たちの鎧がずらっと並んで、鈍く輝いていた。私たちは忍び足で通用口の前まで歩いた。鍵は掛かっていなくて、鉄製の扉は音もなく開いた。扉の向こうには暗い廊下が伸びていた。いま思うと不思議だけど、真昼間だというのに異様な暗さだった。もちろん窓も明かり取りも無数にあったはずなのに、なぜか記憶の中の城内は夜のように暗い。
私たちは暗い廊下を身を寄せ合って進んだ。見える範囲には、両親はもちろん、誰の姿もなかった。外の喧騒もここまでは届かない。静か過ぎて気味が悪かったわ。壁や床や天井は、冷たく、固く、よそよそしかった。なんだか息苦しくて、お城に歓迎されていないという気がした。でもとにかく私たちは歩いた。私は声を出して父と母を捜したかったけど、忍び込んだ身なので、黙ってあちこちに視線をやるだけにした。
自分たちの足音がやたら響くのがいやで、私はすごく不安になってきた。「強い余震で崩壊するかも」という言葉を思い出して、とても怖くなってきた。だけど今更引き返すとは言い出せない。ちょっと泣きたくなったけど、セナンが横にいるのにメソメソするわけにもいかない。
誰とも会わないままに、私たちは大きく開けた場所へ出た。かなり幅広い空間で、天井もすごく高かった。何かの行事とかパーティーとかで使うスペースだったと思う。何箇所かの壁が地震で崩れていて、散らばった瓦礫のせいで広い割に雑然としていた。
私たちは壁沿いに歩いた。途中、崩れた壁の穴から陽が入り込んで、床を明るく照らし出している所に行き当たった。瓦礫の中、ひときわ鮮やかな白色が見えた。豪華な白磁の花瓶。床で割れて、生けてあった桃色の花も飛び出して、みんな瓦礫とぐしゃぐしゃに混じり合ってた。
私は壁に目を向けた。崩れた壁はきれいな青い塗料で塗られていた。混じり気のない、深く、吸い込まれそうな原色の青よ。そこに、ツタが這い登る様を表現した、打ち出し彫りの細工板が貼り付いていた。ツタは金製で、陽を受けて輝いていた。青い壁と金色のツタ。お似合いの組み合わせで、ほんの三時間前までは息を呑むほどに美しかったはずだわ。でもその時にはただの瓦礫となっていた。
両親はいなかった。山になった瓦礫の裏や隙間もよく見たけどねずみ一匹いなかった。
父と母の手がかりを見つけられないまま、広間の北側までたどり着いた。北の壁はわずかな崩れもなく、完全な状態で残っていた。壁の前には大人の男の背丈ほどもある大きなボンボン時計が置いてあって、あれだけの地震の後だというのにちゃんと動いて時を刻んでいた。
こちらにも父や母はいない。私の中でまたイラ立ちやあせりが首をもたげてきた。うつむいて父と母の顔を思い浮かべると、不安に心ごと飲み込まれそうになったわ。
私は顔を上げて、壁を見た。ボンボン時計の上の方には大きな壁画が描かれていた。やたらと気味の悪い絵だったからよく覚えてるわ。
せまくて薄暗い部屋で、豪華な服を着た男と、青白い骸骨がチェスをしてる。その衣服や立派なヒゲ、頭の金色の王冠から、男のほうは昔のルカトニの王様だろうと思った。骸骨のほうは説明するまでもない、裸の骸骨よ。ただおかしなことに、隣の王様のとまったく同じ王冠を、骸骨もつるつるの頭蓋骨に乗っけているの。
王様と骸骨の前のテーブルにはチェス盤が置いてあって、王様が骸骨に対してチェックメイトしている。王様は正面に目を向けて勝利の微笑を浮かべ、骸骨は……骸骨なので無表情。チェス盤の横にはトランプもひとセット置いてあって、その脇にはダイスも二つ転がっている。目を凝らすと、背後の薄暗闇にもルーレット台のようなものが見える。どうやらそこは遊戯室のよう。王様と骸骨が同じ王冠を仲良くかぶって、遊戯室でチェスやギャンブルに興じているわけ。今ここで言うとコミカルだけど、あの時はとても怖かったわ。だけど不思議な迫力があって目を奪われてしまうの、見上げていると余計に不安になるのに。
そうしてぼーっと絵を見ていたら、不意にセナンに袖を引っ張られた。セナンを見ると、彼の表情は恐怖に凍りついていた。
セナンは広間の暗がりを一心に見つめていた。そちらはまだ調べていない、西の壁際だった。セナンの視線を追って、私はぎくりとした。何かがいるのよ。暗がりの中、何かがうごめいているの。
私もセナンも目を凝らした。西の壁はところどころ崩れていて、外光が差し込んでいる。でも光はその何かの背中をかすめるように降りていたので、そいつの顔までは確認できない。
私はその何かに魅入られたように硬直した。暗闇の中に何かがいる、というのは本当に恐ろしいわよ。よく分からないから怖い。勝手に想像力がたくましくなっていく。
セナンが私の肩をたたいた。見ると、彼は真剣な顔で「誰かが倒れている」と手話で言った。何かの足元に、確かに人が仰向けに倒れている。
不意に何かが動いた。そいつは背中を丸めたか何かしたようで、光の角度が変わって、その足元の、倒れている人の顔が照らし出された。
父だった。
「パパ!」と私は思わず叫んだ。そうしたらその何かもびくりとして、こちらに体を向けたの。その顔に光が当たった。……私もセナンも、人生であれほどびっくりしたことはないわ。
オニだった。
「オニ?」マフは目を丸くした。
「知ってる?」アイリスは首をかたむけた。
「聞いたことはあるよ」とマフはメモする手を休めてうなずいた。「何年か前、この国を訪れた老人の呪い師に教わった。めったに人前には現れない妖精の一種で、人の魂を捕捉するとか。人間の魂は妖精の世界では、どんな病にも効く万能薬として珍重されているそうだ」
「さすがに作家は物知りね」アイリスは満足げにうなずいた。「私たちも、その時点ではオニのことなんて何も知らなかった。後で自分たちで文献に当たってはじめて分かったの。だけど、すごくまがまがしい奴だってことは、あの時ひと目で分かったわ」
オニは背中を見せ、顔だけこちらに向けていた。顔は信じられないほど醜怪で、足元に父がいなければ怖くて逃げ出していたと思う。短い毛に覆われ、とんがった鼻は狐のよう、ぎらぎら光るまん丸の目は魚のよう。額には遠目にも分かる深いしわがたくさん刻まれていて、その左右からヤギのような角が伸びていた。両肩の筋肉が異常に発達していて、肩にだけいかつい鎧を着けているみたい。腹より下――下半身部分は上半身に比べると細身で頼りなく、足も短かった。
オニが体もゆっくりこちらへ向けた。その際に、何の躊躇もなく父の体を蹴って横に除けたの。その時の父の動きがやけにぐにゃりとしていて、力のないゴム人形のようで、死んでるんだと分かった。私はものすごい怒りでわけが分からなくなった。恐怖が吹き飛び、カッと熱いマグマが頭にわいて、血が逆流した。
「父さんに何をした!」って私は大声で叫んだ。
オニは「何もしていない」と、見かけの不気味さからは想像もつかない、オペラ歌手のような朗々とした声で答えた。「私は魂を拾っていただけ。人間の魂は我々にとって大切な薬なのだ」
オニが言い終わる前にセナンが左手を上げた。奇襲よ。人差し指から矢じりの形をした電撃魔法を放ったの。間一髪のところでオニはよけた。矢じりは背後の壁に激突し、真っ白な雷を空中に光らせて、消えた。
「見事な魔法だな」と呆れたような声でオニは言ったわ。「年端もいかない童が、そんな強大な魔力を……」
オニが父の上にかがみ込んだ。父の唇に指を当てて、口の中から白く輝く球体を引っ張り出し始めたの。直感で「あれが魂なんだ」と分かった。
「やめて」と私は叫んだ。その横でセナンがもう一度、左手を上げて魔法を放とうとした。でも今度はオニに先を越された。父の魂をつかんだまま、奴は空いているのほうの手を振って衝撃魔法を放ってきた。衝撃が私たちに到達する前に、セナンが防御魔法をつむいで壁を作ったからモロに受けずにはすんだけど、完全に防ぐには遅すぎたみたいで、私たちは五、六メートル背後に吹っ飛ばされたわ。背中を打って息が詰まり、涙が出た。でも寝てはいられない。無理やり顔を上げ、私はオニを見た。オニは左手に魂を持ち、音もなく空中に浮かび上がった。
「返して」と私は叫んだ。魂を取られるというのがどういうことか、実はよく分からないのだけど、奴の左手につままれているのが父の魂だと思うと、全身を焼かれるような屈辱を感じた。
「返してよ、ちくしょう」ともう一度、飛び去ろうとしているオニに叫んだ。するとオニは空中で静止して私の前に降り立ったの。
オニは私の目をじっと見下ろしたわ。近くで見ると、その顔はいよいよ醜悪で不気味だった。でも私はオニの左手の魂に釘付けだった。跳びかかって取り返したかった。けど、魔法のダメージが大きすぎて立ち上がることもできなかった。
「いい目をしてるな」とオニは言った。その場にしゃがんで、さらに間近で私の瞳をながめた。その目つきの冷酷さと言ったら例えようがないわ。暗くにごった、ただの物体を見る目つき。
「お前の眼球もいただいてゆくよ。いいペンダントの材料になるだろう」
何を言われているのか、私には一瞬意味が分からなかった。理解した途端、血の気と怒りが吹き飛び、猛烈な恐怖がわきあがった。後で人に聞いた話だけど、オニというのは魂を集めるのとはまた別に、人間の目や耳、鼻、指、ときには性器などの体の一部を持ち帰り、アクセサリーに加工する趣向があるんだそうよ。……最悪ね。
オニは黙って私のあごをつかみ、右手の握りこぶしを私の眼前に突き出した。何が始まるのかと私が声も出せずにいると、こぶしにした右手の、人差し指と小指の付け根のあたりから皮膚を突き破って針のような骨が生えてきた。怖いなんてもんじゃなかった。想像してみてほしいわ。両目のすぐそばまで二本の鋭い針が迫ってきて、それがそのまま瞳に突き刺さろうとしているの……。
オニは右手を少し引いた。人を殴るときにこぶしを少し引くでしょ? それと同じような感じだった。私は、全身の力が抜けてしまったわ。
ところが、不意に私は横に吹っ飛ばされた。何が起きたのか一瞬、分からなかった。でも今の今まで私が転がっていた場所にセナンが倒れているのを見て、息を呑んだ。
「美しい情愛だな」と無感情な声でオニは言った。その目線の先には横から飛び込んで、私を吹っ飛ばしたセナンがいたわ。「身代わりになりたいのなら、望みどおりにして進ぜよう」
「なんと……」マフが手を止めて絶句した。グラス片手にくつろいでいるセナンを見る。彼の目には灰色の布がぐるぐる巻いてある。
マフはアイリスに尋ねた。「それじゃ、彼はその時に目を?」
「お前の目もなかなかきれいだな」とオニはセナンを見下ろし、言った。「いいアクセサリーになるなぁ」
本当にうれしそうで、朗らかなくらいの言い方だった。意地悪や皮肉でなく、アクセサリーの材料を見つけて純粋に喜んでいるといった雰囲気。山でワラビやゼンマイの群生でも見つけたような……そんな感じ。
私は全身粟立てた。オニは、絶望して声も出せない私の前で、セナンの顔に右手を押し当てた。その手を引き離すと、針に刺さった……セナンの眼球があったわ。
アイリスは少し黙った。あの時の光景が頭によみがえって、胸が苦しくなった。息をはき、グラスの炭酸水を飲み干す。
《こんなことまで話さないほうが良かったかな?》とセナンに尋ねた。
《いいや、大丈夫だよ》セナンはアイリスのこぶしを軽くたたいた。
セナンは仰向けに倒れ、両目を押さえてうめいた。オニは右手の針に刺さった眼球を満足げに眺めてる。私は倒れたまま、息を荒げていたわ。冷たい水を浴びたりして、急激に体が冷えると呼吸が荒くなるじゃない? ああいう感じ。痙攣でも起こしたように、ハ、ハ、と小刻みに。
オニが何かつぶやくと、つるりと眼球が光ったわ。指先で眼球を小突くと、コツコツと音がした。何かの魔法をかけて固めたのよ、アクセサリーに加工しやすくするために。
オニはさよならのあいさつもなしに再び空中に浮き上がった。そのまま天井へぐんぐん上昇し、闇にまぎれて消えてしまった。余韻も何もなく奴は消えてしまったのよ。父の魂とセナンの目を奪って。そして何もできない、みじめな私を残して。
私は床をはいずって、セナンのかたわらまで行った。セナンは声にならない声を上げ、両目を押さえてもだえていた。どうしてあげることもできなかった。
私は助けが来るまで、セナンの目からあふれる血を拭いていた。拭いても拭いても血はあふれたけど、私は機械のように拭き続けた。ハンカチが血で重たくなると、私は自分の服を食いちぎって、そのきれで拭いた。血を止めようとしたんじゃない。ただ拭いていただけ。何もしないではいられなかったのよ。何かしていないと気が狂ってしまいそうだった。
血を拭くことは、もちろんセナンにとって何の足しにもならなかった。そんなことをしても、痛みが癒えるわけじゃない。でも、止血しようにもセナン自身が患部を手で押さえているし、といってハンカチや布きれを目に当てるために、両手を引き剥がすなんてこともできなかった。私は何をすべきなのか分からなかった。自分に何ができるのか、何も分からなかった。
その時、北の壁のボンボン時計の鐘が鳴った。いくつ鳴ったかは覚えていない。でも何度も何度もたくさん鳴った。時間的には四時か五時だったと思うけど、もっとたくさんだった気がする。鐘の音は不気味で、広間は暗く、私の全身は痛み、父は動かず、そしてセナンは目を奪われてうめいている。地獄の底にいるような気分だった。
二十分くらいそうしていたと思う。騎士たちが捜しに来てくれて、私たちは助け出され、病院に運ばれた。私は軽い打撲だけでたいしたケガはなかった。セナンもきちんと止血され、命は助かった。だけど光を失ってしまった。耳の聞こえないセナンにとって視覚は、私やあなたには想像もつかないくらい大切なものだった。それを失ってしまった。
父はやはり亡くなっていた。死因は、広間の天井から降ってきた瓦礫に頭を打たれことだった。
私はオニに父の魂を取られてしまったことを誰にも話せなかった。おかしな話だけど、私は責任を感じていたの。私がいながらみすみす父の魂を取られてしまったことに対して。意味不明だと思う? 私もなぜそんなふうに考えてしまうのか、分からない。言うまでもないけど、私には魂をとられるのを阻止するなんてこと、どうあがいても無理だったはずよ。そう、私に責任なんてない。だけど私は、父が魂を取られたりセナンが目を奪われたりしたのに、自分だけが無傷で生き残ったことをつらく思ったの。
その後、余震が収まった後の捜索で母も瓦礫に埋まって亡くなっていたことが分かった。悲しいのと同時に、自分だけが助かってしまったという、さいなまれるような気持ちになった。……分かってる。そんなふうに考えるなんて間違ってるってこと。今は、よく分かってるわ。
「もう一杯いただくわね」アイリスはウィスキーをついだ。炭酸水で口直しした後のウィスキーは、喉が焼け付くように濃厚だった。視界が少しかすむ気がする。酔いが回ってきている。ちびちび舐める程度に抑えて、続きを話した。
2
ルカトニは存亡の危機に陥ったらしいわ。らしい、としか言えないのは、当時の私たちは子供過ぎて、国家のことなんか全然理解できなかったし、どうでもよかったから。後で聞いた話では、国自体が消滅するのは避けられたよう。海峡をはさんで隣の国のヨベテ王国が大きな支援をしてくれて、ルカトニは沈まずすんだそう。
親を失い、行く場所を失った私たちもヨベテの施設に移住したわ。私たちは来る日も来る日も、指先で文字を表現する練習をし続けた。必死だった。自己憐憫にひたったり運命を呪ったりしてる暇なんてなかった。指での会話ができるようにならなければ、私たちには未来がなかった。とりわけ、聴力と視力の両方をなくしたセナンには。死に物狂いで練習して、二年後には何とか普通に会話できるかなってレベルに達したわ。
指による会話と平行して、私たちは二人でコンビを組んで敵を攻撃する修行をした。と言うのは――私たちのいた施設には養老院も併設されていたんだけど、そこのあるおばあさんにこんな話を聞いたから。
おばあさんはかなり高齢だったけど、しゃべりは明確で、かくしゃくとした人だった。私たちはある時、おばあさんに、ルカトニの城でオニに遭遇し、セナンが目を奪われてしまった話をしたの。おばあさんは「私の父も、若い頃にオニに会ったことがあるわ」と言った。おばあさんのお父さんはヨベテの職業軍人だった人で、昔、戦場で遭遇したのだそう。オニは戦死者の遺体から、次々に魂を集めていたそうよ。 おばあさんのお父さんが、妖精に詳しい知り合いの学者に聞いた話によれば、オニは人間の魂を集めるのに都合のいい場所、つまり人間がたくさん死んでいる場所によく現れるのだという。戦場とか被災地とかね。ルカトニも今回の災害で大勢の人が亡くなったから、オニが現れたというわけ。
それからオニに関して、もうひとつ重大な話を聞いた。さっきもちょっと言ったけど、オニには人間の器官を魔法で加工し、アクセサリーにする趣向がある。セナンが目を奪われたのも、それが理由。おばあさんが言うには、魂は一度奪われたらもうオニの物となってしまって取り返しようがないけど、器官のほうは奪われてもまだ元の持ち主に属していて、取り返すことが可能なそうなの。奪われた本人が――必ず本人がよ、そのオニを打ち倒せば魔法が解けて、器官はその持ち主に、取られる前の状態で返ってくる。それはやはりおばあさんのお父さんが、妖精に詳しい学者から聞いた話だということだった。
私たちの心がどれほど沸き立ったか。どれほど希望と勇気を得たか。言葉では語りつくせない。
それでさっきも言ったように私たちは、二人でコンビを組んで敵を倒す修行を始めたってわけ。私がセナンの目となって相手の位置を伝え、セナンがそれを魔法で打ち抜く、そのコンビネーションよ。セナンの魔法でオニを殺すことができれば、セナンは目を取り戻せるわけだから、他に選択肢はなかった。でも修行は大変だったわ。あなたも酒場で見たでしょうけど、これは並大抵に習得できる技じゃない。正確性、論理思考、空間認識、しぶとさ、根気、冷静さ、大胆さ、一瞬の判断力、その他もろもろ……。人間の知覚を総動員してやっと可能になる戦い方よ。
私たちがそのコンビネーションのマスターに精を出したのは、オニだけが理由ではなかった。まあ最終的にはオニにつながる理由ではあるんだけど、私たちの今後の身の振りにも大きくかかわっていたの。
私たちはおばあさんの話を聞いて、世界各地の戦場を回る傭兵になろうと決めたのよ。プロの傭兵としてやってゆくには、並みの兵士が束になっても太刀打ちできない実力が必要ね。じゃなきゃ、どこの軍隊も、わざわざ高いお金を払ってどこの馬の骨とも知れない人間を雇おうとはしないでしょう。
傭兵になると決めたのはオニに再会するため。オニは効率よく人間の魂を集めるために被災地や戦場によく現れる。地震や噴火の起こる場所をあらかじめ知るのは難しいけど、戦争なら人間の起こすことだから丁寧に情報を集めればある程度予見できる。となると、戦争を求めて世界中を歩き回るのが、結局オニに会うのに一番近道のはず。
二人のコンビネーション、それからさっきも言った指による会話、その二つの習得に二年かかった。その時点でもまだマスターしたとは言いがたかったけど、私たちはそれ以上、孤児院でじっとしていたくはなかった。はっきりした希望があるなら、早くそこへ向けて出発したかった。
町を出る前に私は、あの小型船舶の中にあった大きなトランク、あれについてる金具を引っぺがすことにした。トランク自体は痛みが激しかったけど、金具は純金や純銀製で、売れば路銀の足しになりそうだった。引っぺがす過程で、私は偶然、トランクのふたの内側に隠しポケットがあるのを見つけた。手を入れてみると、きれいなエメラルドの指輪が入っていた。相当に高価なものだと思うけど、でもこれは売らなかった。船室で死んでいた男は多分セナンのお父さんだったんじゃないかと私も両親も考えていたんだけど、その人のトランクから出てきたってことは、ひょっとしたらセナンの親の形見かもしれないでしょ。ほら、セナンの左手の小指の指輪がそれよ。いつでもはめているの。
ちなみに言うと、私の両手首のこの細い腕輪。これは母の形見なの。母はアクセサリーは普段つけない人だったけど、この腕輪だけは別だった。父にはじめて買ってもらったプレゼントだったから肌身離さず身につけていた。
とにかくそうしてある程度の路銀も用意して、私たちは十四歳でヨベテを旅立った。不安もあったけど、希望はもっとたくさんあった。
傭兵としての旅暮らし――仕事柄、いろんな苦労もした。死ぬかと思ったことも何度もある。でも実地に戦うことで、私たちはさらにコンビネーションに磨きをかけた。やっぱりただの練習には限界があって、何事も本番と実践。本気になることで技術は高まってゆく。六年で、ずいぶん成長したと思う。あっちの戦争、こっちの紛争、と津々浦々歩き回って。そして――
「私たちは今ここにいて」アイリスはグラスを置いてマフを見た。「高価なお酒をいただきながら、あなたの小説の登場人物になろうとしているのよ」
「さすがに、飲みすぎたかな」とマフが、長い小便を終えてトイレから出てきた。飲みすぎたと言う割には、声も足取りもしっかりしている。
マフはソファにかけ、改めてアイリスとセナンを見た。手をハンカチで拭きながら首を振る。「すごい人たちに出会ったものだ。こんな面白い話を聞かせてもらえて、今夜の私は最高に幸運だ」
アイリスは肩をすくめた。隣のセナンはソファに深くかけて、くつろいでいる。
マフが言った。「セナンの魔法もすごいけれど、アイリス、指示役のきみも相当に超人的なことをやっているね」
「そうかもしれないわね」
「子供の頃にサッカーをやっていたのが役立っている?」
アイリスはうなずいた。「もちろん。私はいつでも場を俯瞰的に感じているの。空から自分たちのいる場所を見下ろすような感覚。サッカー場でもいつもそうやってパスの出しどころを探ってた。ピッチ上のどこかに、ボールを蹴るべきコースが必ずあるはず、と。あの時の経験がすごく役立ってる」
「ふんふんふん」とマフは何度もうなずき、再びメモを手にした。「俯瞰的な感覚、と。なるほどな」
「で、私たちの話はこれでおしまいだけど」アイリスはソファの肘掛にもたれ、体を楽にした。「対価は今すぐ払っていただけるんでしょうね?」
「お?」マフは眉を上げた。破顔し「おお、おお。もちろん。任せてくれ」と胸をたたいた。「取材への礼金、宿の用意、それから戦争の情報。どれも今すぐお支払いしよう」
「礼金と宿に関しては適当でいい。そちらの言い値でいいわ」アイリスは肘掛から離れ、居住まいを正した。「重要なのは戦争の情報よ」
「前置きなしに言おう」マフは声を低くしてテーブルに身を乗り出した。「何を隠そう、ここだ」
「は?」アイリスは眉をしかめた。「どこ?」
「ここだよ」とマフは床を指差した。「我が国トラーベモアが、隣の国と一触即発の状態に陥っている」
「はあ?」アイリスは眉根を寄せた。「なにそれ」
セナンにマフの発言を伝える。
《へえ?》セナンは小さく笑った。《僕らは知らず知らずの内に、仕事場に入っていたのかな》
《信じらんないよ》
《まあまあアイリス、話を聞いてみよう》
「ここが戦場って、確かなの?」アイリスはマフに向き直って尋ねた。
「もちろん」マフはグラスに新しいウィスキーをつぎながら言った。「情報を管制してあるからまだ市井の人々は知らないんだが、四日前のことだ。この国のさる要人が、お隣のディディリア王室の関係者との会食の席上、向こうの列席者をひとり斬り殺してしまった」
「え」
「殺されたのはディディリアの国務大臣のひとりだ。大臣歴も長く、経験豊富な、行政府の要のような人物だったという話さ。いざこざの原因は不明だが、トラーベモア側に非のある出来事だったらしい。ディディリアはカンカンにおかんむりだ。大切な要人を惨殺され、戦争も辞さないとトラーベモアへ詰め寄っている。今は外交大臣が話の落とし所を探り合ってるところだが……」マフはウィスキーをグラス半分ほどを流し込んだ。「ふう……まあ開戦は避けられないだろう」
「ふーん……」とアイリスはうなった。「確かにそれが本当なら、いつ戦争になってもおかしくないかも」マフの目をじっと見る。「それが本当なら」
「こんな話、本当のことだと証明する手立てはないよ」マフは肩をすくめた。「信じてくれとしか言いようがない」
《マフはどうやって、そんな情報を知ったんだろう?》セナンが言った。
アイリスはセナンの疑問をマフへ伝えた。
「国の中枢に知り合いが多いんだ」とマフは答えた。「いろいろとネタを提供してもらう代わりに、市井の様子や、旅人から得た外国の情報などを私は教えてやっている。職業柄、いろんな人物から話を聞く機会が多いんでね。たとえば今のように」
《嘘が本当かはよく分からない》アイリスはマフの印象をセナンに伝えた。《でも、なんだかいやな感じがする。私の勘だけど、こいつ何か腹に一物抱えてそう。隠し事でもしていそうな……。気に食わないわ》
《隠し事ね……》セナンは少し考えた。《どっちにしても貴重な戦争の情報だね。マフの言うことが嘘か真か、見極められるところまでは行ってみよう》
《了解》アイリスは嘆息した。マフに言う。「一応信じるわ、あなたを」
マフはにこっとうなずいた。メモ帳を一枚破り、何か書きつけ、アイリスに手渡した。「明日の午後二時過ぎ、そこへ行ってみてくれ」
「地図?」
「街道警備隊の兵営だ。事務所が入軍希望者の受付も兼ねている。きみたちなら、すぐに雇ってもらえるだろう」
「ありがと」アイリスはポケットにメモをしまった。
マフは息を吐いてソファにもたれ、メモ帳をぱらぱらと見返した。
「今夜は良い話を聞かせてもらった」満足そうに笑う。「このネタが、作品になる日をお楽しみに」
灰色の世界が広がる。大きな街、大きな通り。宿がずらっと軒を連ねる。野犬が道の隅を歩いている。
道も建物も看板も野犬も灰色。
廊下の窓の向こうに、せまい庭がある。満月の夜、星空を背に、木々が巨人の影のように腕を広げている。
小さな宿にアイリスは、セナンと泊まっていた。夜中。アイリスは催してトイレに起きた。廊下の先のトイレは故障中で使えない。
もうひとつのトイレは庭にある。裏口から庭へ下り、トイレまで歩く。途中、視界の隅っこに黒い塊が映り、アイリスは足を止める。
庭と道を区切る柵。その向こう側に黒い物が横たわっている。目を凝らしてアイリスはハッとする。人だ。満月の下、人が行き倒れている。
そこで目が覚めた。
夢――とアイリスはベッドの上でつぶやいた。暗闇の向こうで天井がかすかに回転している気がする。マフのウィスキーを飲みすぎたせいか。頭もぼんやりとした。
今までに何度も見た夢。灰色の町並みが生々しくて、アイリスはドキドキした。気を落ち着けるために、長い長いため息をついた。ここは、マフが取ってくれたホテル・アザルカクの一室。寝心地の良いベッドで、今まで自分は泥のように眠っていた……
隣でセナンの寝息が聞こえる。アイリスはセナンの手を毛布の中でにぎった。セナンは優しくにぎり返してくれた。
翌日、ホテルの食堂で昼食を取ると、二人は馬車に乗って街の東門を出た。街道を一時間ほど進むと、石造りの大きな建物が見えてくる。目指す街道警備隊の兵舎だ。
建物の手前で馬車を降りた。一帯は見晴らしの良い丘陵地。茶色の地面が山になり谷になりして、遠くへ広がっている。建物の裏の小高い丘も、緑が少なく全体に土色だ。
兵舎の前には警備兵らしい武装した人間が二人と、やはり関係者らしい軽装の黒髪の青年がひとりいて、談笑している。
アイリスは声をかけようと近寄った。
「お、待ってたぜ」アイリスが言うより先に黒髪の青年が言って、座っていた石段から地面に飛んだ。にこやかで人懐っこそうな顔つき。だが、少し軽そうな雰囲気、とアイリスは思った。
男は背後の入り口を親指で差した。「ねえさんたち、入軍希望者だろ? 奥の執務室で主任が待ってっからよ、急ぎな」
言われるまま中に入り、アイリスとセナンは薄暗い廊下を歩いた。
執務室のドアには「主任在室」のプレートが下がっていた。ドアの向こうから、何やら騒々しい音が漏れてくる。アイリスはノックした。返事がない。強くノックした。やはり返事がないのでノブを回してみた。鍵はかかっていない。
ドアを開けると騒々しい音がますます騒々しくなった。正面に、窓を背にして大きなデスクがあり、主任らしき男が座って何か書き物をしている。部屋の右側には本棚と、鉄砲百合の花弁のようなホーン付きの蓄音機が置いてあって、大音響のクラシックミュージックを吐き出している。
アイリスは「すみません」と声をかけた。ハゲ頭にでっぷり太った主任は、鼻眼鏡越しの目をデスクに落としたまま気付かない。「すみません、あのう」ともう一度声をかけた。主任は顔を上げない。アイリスは蓄音機を見た。一体このやかましいのは何なの? と思った。
よくよく耳を澄ませてみると、かろうじて歌声らしきものが聞き取れた。台風の轟音のようなストリングスとサルの鳴き声のような管楽器をバックに、女性ソプラノ歌手が独唱している。
録音状態が悪く、主役の歌声は蚊の羽音のようにか細い。バックのかまびすしいオーケストラに埋もれて、歌詞がまったく聞き取れない。独唱は言葉未満の音のまま、オケの嵐に消えてゆく。アイリスはイライラしてきた。
「ちょっと、すみません!」大声を出し、床を蹴った。
「お?」と主任は口を洞にして顔を上げた。あわてて立ち上がり、レコードへ駆け寄って轟音を止めた。
「いやあ、悪かった悪かった」主任は後頭をかきながら豪快に笑った。「ああいうやかましい音を聴きながらだと仕事がはかどるんだ。くだらない書類仕事は特に」
《変なオヤジ》アイリスは言った。《うるさいほうが仕事がはかどるんだってさ》
「じゃ、すぐに庭へ出るぞ」主任は言って、横のコートツリーから上着とステッキを取った。「馬車が待ってるんだ。出発しよう」
「は?」アイリスはしばたたいた。「馬車? なにが?」
「え?」主任もしばたたいて二人を見る。「なにって……城へ上がるんだよ。きみたちと一緒に」
《今すぐ城へ行くって》主任へは答えずアイリスはセナンに言った。《どういうこと? この人はいきなり何の話をしてるの?》
《アイリス、落ち着いて》セナンは言った。《主任さんは僕らを別の誰かと間違えているのかも。僕らが何者かってことと、事情が分からないってことを話してみよう》
《うん……》
アイリスはセナンに言われたとおり、まず自己紹介からしようとした。
「あのう、私たちは旅の傭兵で――」そこまで言ってアイリスは息を止めた。主任の背後の貼り紙が目に飛び込んできたのだ。
『勅令。特別の許可なく魔法を使用することを禁ずる。上記、破りたるものは禁固刑に処す』
アイリスは貼り紙を指差して主任に尋ねた。「そこに書いてあることは兵隊だけの軍規? それともみんなが対象の法律?」
「ん? これか」主任は貼り紙を振り返り、答える。「全員が対象の法律だよ」
「もうひとつ聞いていい?」アイリスの手のひらに汗がにじんだ。「あなたは私たちのことを知っているようだけど、もしかしてマフという男に聞いたんじゃない? 金髪で碧眼で、高そうな服を着て、左手に大きな指輪をして、背格好は――」
マフの特徴を主任に話した。主任は思案げに天井を見上げる。アイリスは数を数えた。一、二、三、四、五――不自然に長い間。
「それは答えられない」と主任は首を振った。
《まずいわ》アイリスは奥歯を噛んだ。《マフの奴、私たちを軍に売ったんじゃない?》
《そう……かなあ?》セナンは首をかしげた。
《だっておかしいよ、このデブ。城へ連行したがったり、マフのこと尋ねたら五秒も待たせて「答えられない」とか》
《アイリス、深呼吸して落ち着いて。手の汗がすごいよ》セナンは穏やかに言った。
《でも、ちんたらしてたらやばいんじゃない? とりあえず逃げたほうが……》
《アイリス》セナンが早口で(指をいつもより早く動かして)強く言った。《早まったことは絶対しちゃだめだ。冷静になって》
「きみたち、話には聞いていたが本当に指で会話してるんだなあ」主任が二人のやり取りを見て、のんびり言った。「手なんかつないで、ラブラブなカップルだと思ったんだが」
うるせえな、とアイリスは主任をにらんだ。それからふと、思いついて言った。「あの、悪いんだけど今日は出直すわ。雇ってもらおうかどうしようか一日考えて、明日また来るから」
主任はステッキを肩に乗せ、きょとんとする。アイリスは《今日は、これで帰ろう。もう一度作戦を立て直すの》と言い、ドアを振り返った。
「おい、ちょっと待て」と主任が声を上げた。「きみたちを城へ連れて行くように、俺は上官に命令されてるんだ」
《やっぱり罠にはまったんだよ》アイリスは言ってドアノブに手を伸ばした。
《そうじゃないような気がするけど、僕は》セナンは苦笑する。
「ほらノブから手を離しなさい。悪いようにはしないから」
主任が近付いてきた。スキンヘッドの巨漢なので結構な迫力だ。
《セナン、やって》思わずアイリスは攻撃を指示した。セナンは無言で動かない。
主任は二人の前で、困ったように両手を広げる。
《セナン、軽くでいいからやろう》と再度アイリスは指示した。
外からドアがノックされた。アイリスはびっくりしてセナンを引っ張りドアから離れた。
「拙者だ、クランカだ」とドアの向こうの人物が言った。「どうした? 入るぞ」
紫色のレインコートを着た大男が入ってきた。主任、アイリス、セナンへ順番に目をやり、彼はきょとんとする。
フードの奥の大男の目を、アイリスはにらんだ。鋭いがどこか朴訥とした、職業軍人らしい目つき。年の頃は五十前半、昔は美男子だったかもしれない彫りの深い顔立ちだ。
「クランカ隊長」ほっとした表情で主任が大男に言った。「参りましたよ、二人が城へ行きたくないと言い出しちゃって」
《やっぱり、マフが私たちのことをしゃべったんだよ》
《それはそうだと思うけど》とセナンはうなずいた。
「うーむ」大男クランカがうなった。「それは困った」
アイリスは背を丸め、上目遣いでクランカをさらににらんだ。それにしても巨漢だ。大柄の主任よりさらに頭一つ大きい。体も太目の主任と違い、レインコート越しにも分かるほど筋肉質だ。フードの奥の目に攻撃性はないが、ドアの前に陣取られている以上、戦わざるを得ない……とアイリスは忙しく考えた。
《アイリス、短気な真似はいけないよ》クランカについての説明を聞きながら、セナンはたしなめた。
「諸君らは、なにか誤解をしているようだ」怖い顔のアイリスへ、クランカは柔和な声で言った。口よりも立派な口ひげのほうがよく動く。「我々は諸君らに危害を加える気はない。諸君らの傭兵としての腕の良さも話に聞いている。知っておろうが、いま我が国は隣国と一触即発の状況にあり、良い兵はすぐにでも雇い入れたいのだ。そういう次第で諸君らを城へ招き、雇用契約を結びたいと考えている」
《たかが傭兵の雇用契約のために、なぜわざわざ城へ?》セナンの疑問をアイリスがクランカに伝えた。
「皇太子殿下が諸君らを雇いたいと、直々におっしゃっているからだ」クランカは答えた。
《王子?》アイリスは目を丸くした。《そんなとこまで話がいっちゃってるの?》
《マフが国の中枢にコネがあると言っていたのは、本当のようだね》セナンも興奮気味に指を早く動かした。
「信じてはもらえぬか?」ますます警戒を強めるアイリスに、クランカはほほをかいた。
「信じろって言われても……」アイリスはじっと動かない。
「よし」不意にクランカはレインコートの前を開いた。腰に下がっている剣を抜き、床に捨てる。
アイリスは眉をしかめた。《クランカが武器を捨てた》
「そなたも捨てろ」とクランカが主任に命じる。
「え? あ、はい」主任もあわてて腰の剣を捨てた。
「これで信じてもらえぬか?」とクランカは両手を広げ、言った。「我々に敵対する気はないのだ」
アイリスはどうするべきか分からなくなった。セナンに《どうしよう?》と尋ねる。
《信じよう》とセナンは答えた。アイリスは体の力を抜き、クランカに言った。
「あなたたちを信じるわ」
クランカが笑った。唇よりも口ひげのほうが喜びに持ち上がる。無骨だが素直そうな、気持ちの良い笑顔だ。
クランカに案内され、アイリスとセナンは中庭へ移動した。クランカ自ら城へ連れてゆくということで、主任は部屋に残った。
広々と緑の茂る中庭に出て、アイリスはしばたたいた。雲ひとつない青い空へ、念のため手のひらを上向ける。
アイリスはクランカの紫色の背中をながめ、首をかしげた。《晴れてる……。あのオヤジ、なんでレインコートなんか着てるんだろう?》
庭はコの字型をした兵舎の壁に三方をふさがれている。残り一方は何もなく、そのまま街道へつながっている。
馬車は街道への道の中途に停まっていた。人の乗るコーチ部分は艶のある黒い木材で組まれ、つながれた白馬の毛並みはよくブラッシングされて光っている。たてがみは複雑な模様に編まれ、その毛の隙間には小さな赤い花が挿してあった。
街の辻馬車よりずっと豪華な雰囲気だ。
アイリスは乗車すると、回れ右してセナンの手を取った。目の見えないセナンが馬車に乗るのをサポートするのだ。
セナンの背後にひとりの青年が進み出た。あ、とアイリスは思う。兵舎の前で「主任が待ってる」と教えてくれた黒髪の男。
「あんちゃん、大丈夫かい?」男はセナンの肩と腰に手をそえた。助けようとしてくれたのだろう。しかしセナンは、不意にアイリス以外の人物に触られたことで混乱し、ステップを踏み外した。
アイリスはすばやく彼の体を支えた。すんでのところでセナンは転ばずに済んだ。
アイリスはほっとすると同時に急激に怒りがこみ上げ、男を怒鳴りつけた。
「勝手に触んな、バカ!」
男はびっくりして、両手を上げて体を引いた。「オーケー、すまんかった。許してくれ。悪気はなかったんだ。オイラはあんたたちの味方だよ」
「インザ」馬車内からクランカが、男に呼びかけた。「この二人は拙者が城へ連れてゆく。お前も兵舎の馬を借りて城へ戻れ」
「承知しやした」男――インザはクランカに敬礼した。
《大丈夫よ。そのまま足を出して》アイリスは気を取り直してセナンを導いた。《そうそう、そこがステップでここが窓枠。うん、そのまま体を前に出して。いいわ、じゃ抱くわね》
アイリスの甲斐甲斐しい様子に、向かいに座っているクランカは目を細めた。
香水でも吹いてあるのか、馬車内は甘やかな香りに包まれている。壁や床は上質な紺のベルベッドで、座席も、長く乗っていると尻の痛くなる街の辻馬車とは大違いにやわらかい。
馬車が走り出した。
アイリスは改めて向かいのクランカを見た。クランカはぼんやりと窓の外をながめ、口ひげを撫でている。紫のレインコートは本当に異様だ。今日は温度も高い。広い額や頬には汗が流れている。
「聞いてもいい?」アイリスはクランカに声をかけた。「どうしてレインコートなんか着てるの?」
「これは拙者の妻の形見なのだ」クランカは温和な声で答えた。「今日は妻の命日でな、弔いの意味で一日これを着て過ごすのだよ」
「ふーん……」《形見、だってさ》アイリスはちょっとあきれつつ、セナンに伝えた。《そんなやり方でお弔いをする人、はじめて見るよ》
《クランカさんの奥さんも、相当に大柄な人だったのかな? 大柄なクランカさんが着ていられるくらいなら》セナンは言った。
アイリスがセナンの疑問を伝えると、クランカは目をぱちくりやって、それから笑った。
「いや、これは妻のレインコートと同じ素材で、新しく仕立てさせた男物だ。私の体格では妻の物は着られないのでな。それにもし本当に着て、運悪く雨でも降ってきて汚したら大変だ。本物はクローゼットの奥に大事にたたんでしまってある」
「レインコートは雨で汚れるものでしょ? それに新しく仕立てたなら形見じゃないじゃない」アイリスは突っ込んだ。
「まあペアルックで供養というのも乙なものだろう」真面目な顔でクランカは言った。
「はあ――」この国の軍隊には変な奴しかいないのか、とアイリスは思って笑いたくなった。だが同時に無性に暗い気持ちにもなった。汗を噴出させながら亡くなった妻を弔うクランカにはどこか笑えないものがある。見る者を暗澹たる心持ちにさせる何かが。アイリスはクランカから目をそらした。
「ところでセナン殿に――うかがってもよいのかな」クランカはアイリスにたずねた。アイリスは「どうぞ」とうなずいた。クランカはセナンを見て続けた。「なぜ拙者が大柄だと分かったのだ? 貴殿は目も見えず耳も聞こえないとうかがったが」
《僕らの周囲にあるものを、アイリスが可能な限り描写してくれるんです》とセナンはアイリス越しに答えた。《でも、そうでなくともあなたの体格が立派だということは、分かる。大きな壁が空気の流れをさえぎるような感覚がありますし、人間には体温もありますから。熱の発生の面積が幅広だと感じるので、だいたいの体格は想像がつくんです》
アイリスがセナンの答えを伝えると、クランカは口ひげを震わせた。「たいしたものだ。セナン殿は実に鋭い感覚を持っているのだなぁ」
クランカの言葉を伝えると、セナンはにっこり微笑んだ。
馬車は城下町に入り、大通りを抜けて、止まらず城門をくぐった。大きな庭を横切って、西側の尖塔の下で停まる。
到着を待っていた部下たち数人とともに、クランカとアイリス・セナンは居館へ入った。廊下を進み、階段を上がり、また廊下を進んで階段を上がって、豪華なドアの前にたどり着いた。入り口から遠い、城のだいぶ奥まった場所だ。
《深いところまで来たね》とセナンが言った。《大物がいそうだ》
クランカがドアを開けて二人を招き入れた。彼の部下たちは廊下で待機する。
足を踏み入れてアイリスは、思わず嘆息した。豪勢な貴人の書斎だ。壁と天井の建材は艶のあるこげ茶、床は黄色や紫の花が刺繍された厚い絨毯。瀟洒なシャンデリアに照らされ、一方の壁には埋め込み式の大きな本棚と書き物机、一方には様々な動植物の彫刻されたマントルピース、一方にはたくさんの酒瓶の並ぶサイドボード。残りの一方は城の中庭に面していて全面ガラス窓だ。窓の向こう、中庭の中央に立派な噴水があり、低木を動物の形に刈り込んだトピアリーが囲んでいる。
部屋の大物感にアイリスはただ立ち尽くす。《これは本当に王子様でも出てきそうよ、セナン……》
「お、あんちゃんもねえさんも来てるね」
振り返ると、親しげな笑顔を浮かべたインザが立っていた。
クランカはインザにうなずき、それからセナンとアイリスに言った。「ここで待っていてくれ。拙者はこの部屋の主を呼んでくる」
クランカは部屋から出て行った。入れ違いに部屋の中に入ってくると、インザはガラス窓から中庭をながめ始めた。庭には午後の陽がさんさんと降り注ぎ、トピアリーや噴水が瑞々しく輝いている。
「いい部屋だよなぁ」インザは二人を振り返って屈託のない笑顔を見せた。
アイリスは不機嫌にインザをにらんだ。インザは肩をすくめ、立ち尽くす二人の横に並んだ。
「こんな豪勢な部屋で、緊張してるかい?」
「平気よ」ぷいと横を向いてアイリスは答えた。「ただイラついてる」
インザはハハハと笑った。「そりゃそうだろうな。わけの分からねえままこんなところへ連れてこられちゃな」
「ねえ、あなたは」アイリスはインザに尋ねた。「私たちが置かれてる状況を、どれくらい理解してるの?」
インザは両手を後頭で組んで首を振った。「オイラにもよく分からねえ。クランカ隊長から、これこれこういう風体の傭兵カップルが来るから出迎えよろしく、と言われてただけなんだ」
アイリスは嘆息した。何かいやな感じがする。よく分からないが、とんでもない面倒事に巻き込まれようとしているような気がする。
「ところでよ」とインザが言う。「そっちのあんちゃん、目と耳が不自由なんだろ? 見たところあんたたち旅暮らしのようだが、いろいろと大変じゃねえかい?」
アイリスはそっぽを向いた。「別に。あなたには関係ない話よ」
インザは腕を組んでうなずいた。「ま、確かに。変なこと聞いちまってすまんかったな」頓着せずにすぐ笑顔に戻って、「せめて自己紹介だけでもさせてくれねえか」と続ける。「オイラはインザってんだ。一応軍に所属する兵卒だ。けど戦闘要員じゃなくてよ、まあクランカ隊長の秘書みてえなもんだ。プラス雑用係も兼務、ってぇ感じかな」
アイリスはため息をつき、「アイリス。旅の傭兵」と名乗った。
「ふーん。それから」インザはセナンを見た。
アイリスは仕方がなく「セナンクール。魔法使い」と教えてやった。それからインザの自己紹介の内容をセナンに伝えた。
《アイリス、インザの位置を教えて》
アイリスは位置を教えてあげた。セナンはアイリスから手を離し、インザの方へ体を向けて手を差し出した。
インザは眉を上げた。セナンの手を見つめ、すぐに破顔一笑してその手をしっかり握った。
「びっくりさせるねえ」インザは感心して首を振る。「まるで見えてるみてえじゃねえかい」
セナンは目に布を巻いているので、仮に盲目であることが嘘だとしてもインザの姿を見ることはできない。
「驚いたか、インザ?」
声に、アイリスは入り口を振り返った。そして目を丸くした。
クランカと、なぜか小説家のマフが立っている。
《クランカとマフが部屋に来た。何でマフ?》セナンへ状況を伝える。
セナンは《それは、面白いねえ》と微笑んだ。
マフは背筋を伸ばし、後ろ手を組んでアイリスとセナンに笑いかけた。光沢のある黒のフロック・ジャケットにクリーム色のズボン、レザーブーツという貴族の出で立ち。金髪もしっかりとスタイリングされて艶がある。
「私はインザに尋ねたんだが」マフは言い、おかしそうに肩を揺らした。「きみたちにこそ「驚いたか?」と聞くべきだな」
「驚いたわよ」マフの正体を理解し、アイリスは片腕を広げた。「あんたが王子様なわけね」
「そう」マフは本棚の前の書き物机にかけた。クランカが横にはべり、インザも机の前へ移動したので、アイリスとセナンもならった。机のマフに面と向かい合う形になる。
「改めて自己紹介しよう」マホガニー材のイスに深くもたれ、マフは言った。「トラーベア皇太子のファンだ。市井に下りて、情報収集するときにはマフと名乗っているがね」
「だましたんだ」アイリスは腕を組んでマフ――ファン王子をにらんだ。
ファンは苦笑した。「酒場や賭博場では、町人の生の声を聞くために嘘の名を名乗ってるのさ」
アイリスはふん、と鼻を鳴らした。「名前だけでなく身分もでしょ。作家だ? 聞いて呆れるわ。人の過去を根掘り葉掘り長々と尋ねて、ふざけ――」
「小説家なのは本当さ」ファンはクランカに合図した。クランカが背後の本棚から本を二冊抜き取り、ファンに渡す。
ファンは「これはデビュー作」と赤い表紙の本を机に置き、「こちらは最新作」青い表紙の本を置いた。
アイリスは二冊の本を見た。赤の書の表紙には『空っぽの無限 マフ・エロームブレルツ著』と書かれ、青の書の表紙には『無人の移動遊園地 マフ・エロームブレルツ著』と書かれている。マフというのは筆名でもあるらしい。
「どっちもあんたが書いたの?」
ファンはうなずいた。「良かったら二冊とも差し上げるよ。感想を聞かせてくれ」
「いらない」アイリスは首を振った。「そんなことより、私たちを呼び寄せた理由を聞かせて」
「無論、きみたちを傭兵として雇いたいからさ」ファンは自著を横にやり、両ひじをついた。「お隣さんと戦争になりそうなのは事実だし、君たちの実力は納得済みだし、小説家として二人のコンビネーションにも非常に興味を持っているんだ。この場で契約書を作るから、サインをしてほしい」
「なんで昨日のうちに雇わなかったのよ?」アイリスはイライラと尋ねた。「ホテル内なら他に誰もいないんだし、その場でちゃんと身分を明かしてさ、インタビューの後にでも雇えばよかったじゃない。こんな面倒なこと、する意味が分からないわ」
「明かして、どうなった?」ファンは首をかしげた。「実は私は王子様だ――そんなことを突然言って、きみは信じたのか?」
アイリスは少し考えてから、舌打ちをし、息を吐いた。「確かに。頭がおかしいと思うだけね……」
セナンに不満げにこぼす。《なんか私やだな、セナン。だってこいつさ、私たちのこと――特にセナンのことを、興味本位の目で見てるんだもの。失礼よ》
《そうだね、確かに》セナンは同意した。《だけどアイリス。僕たちには戦争が必要なんだよ。戦いに参加させてもらうには、ここでへそを曲げちゃだめだ。仕事の話を進めよう》
《うん……》アイリスは唇をかんだ。だがすぐに力を抜き、小刻みにうなずいた。《そう……そうだね。うんうん。オーケーよ》
「サインするわ。契約書を作って」
「よしっ」ファンは手をたたいた。「羊皮紙をくれ」とインザに命じる。
「がってんです」インザは部屋の隅のチェストへ向かった。
ファンはインクつぼを手元に引き寄せながら言った。「そう言えば兵舎にあった貼り紙だが、あの法律は別に気にしないでくれ。きみたちは外国人だし、セナンの魔法は私が特別に許可するから」
アイリスの目はインクつぼに吸い寄せられた。美しいガラス工芸だ。黄色のガラスと無色のガラスが二層構造で組み合わさり、一面が幾何学的なひし形模様でカットされている。カットされたところには下の層の無色のガラスが出てくるので、上の黄色と無色が複雑に並び合うことになる。黄と透明のコントラストがなんとも優雅だった。ふたの部分も精緻な虎の形に加工されていて、手が込んでいる。
インクつぼを見つめるアイリスに、ファンは笑う。「きみは見る目があるなあ。これはエドワード切子というんだ。海を越えてずっと東方の小国のガラス工芸だよ。この大陸じゃ、めったにお目にかかれない珍品だ。ずっと昔、ドサ回りの旅芸人に父が譲ってもらったのだ。優秀な血統の馬が三頭は買える額を払ったそうだが、その価値はあったね。この細やかなカットガラス、鮮やかな色味、勇猛な虎の意匠、本当に芸術的な仕事だ。そこらのアルチザンとは次元が違う」
アイリスはめんどくさくうなずいた。昨夜のウィスキーの説明同様、セナンへの通訳を途中で打ち切った。
「殿下」インザが戻ってきて、羊皮紙を差し出した。ファンはペン立てからペンを取った。
「このインクつぼからインクを取るとペンが躍るんだよ」広げた羊皮紙を前に、ファンは語り続けた。「作家としての脳が強く刺激される気がするんだ。本来の私なら思いつけない斬新なアイデアも、このインクつぼにペンを突っ込んでいると不思議と浮かんでくる。今では、私はこのインクつぼなしには短編小説の一本も――いや、文字ひとつ書く気になれないね。……いや、悪い悪い、契約書だな。すぐに作るよ。そんなに怖い顔をしないでくれ、美人が台無しだ」
アイリスはこめかみに青筋を立てた。
ファンは肩をすくめてふたを取り、ペンを突っ込んだ。
「あれ?」引き抜いたペン先はきれいなまま。ファンはインクつぼを覗き込んだ。
「インクが切れているな。――おい」インザに呼びかける。「キャビネットに製図インクが入ってるから持ってきてくれ」
――――
インザの差し出す製図インクのつぼにペンを入れ、ファンは契約書を作り始めた。
《結局、このつぼ使わないじゃん》アイリスはあきれた。《長い語りはなんだったの?》
《おしゃべり好きなんだね、この王子様は》セナンは肩で笑った。
ファンは文言の後ろにサインし、契約書をアイリスへ渡した。
アイリスが契約内容をセナンに語って聞かせ、二人して納得したところでこちらのサインも書き込む。セナンのサインはアイリスが代筆した。
「契約成立だ」ファンは笑顔でアイリス・セナンと握手した。
ファンが二人に部屋を用意してくれた。城に程近いホテルの一室。室内は清潔で広く、テーブルやベッドなど調度の過不足もなく、従業員の愛想も良かった。
おまけにメイドをひとり、身の回りの世話のためにつけてくれた。
一傭兵に対する待遇としては破格のレベルだった。
翌日の朝。
レースのカチューシャを乗せたメイドが、ホテルのドアをノックする。胸の前に紅籐の洗濯籠を抱えている。
「おはようございます、メイドのティナです。アイリスさん、セナンさん、もう起きてらっしゃいます?」
うーん、おはよぉー、とアイリスの間延びしたあいさつが返る。
「入ってもよろしいですか?」
「どうぞ。寝起きのだらしない格好で悪いけど」
「大丈夫ですよ、楽にしてください」
ティナは部屋に入った。正面の窓にかかるカーテンに、朝陽が透けている。カーテンは草色、絨毯は淡いクリーム色で壁は白。ベッドの他に、洋服ダンスが二さおと大きなテーブルが置いてあるが、それでもまだ余剰な空間がある。広い部屋だ。
テーブルの上は片付いているが、ベッド脇のチェストにはウィスキーの瓶とグラスが置きっ放しになっている。
ベッドはシングルが、ティナから見て手前と奥にひとつずつ。アイリスが奥のベッドにあぐらをかいて、あくびをしている。
「おはよ」と頭をかきながらアイリスは改めてあいさつした。丈の短いタンクトップ姿で、へそを見せている。腹筋が軽く割れている。
「わ、腹筋セクシーですね」とティナが目を丸くした。
「え? ああ……ありがと」アイリスは恥ずかしそうに笑った。
「ところでセナンさんは?」ティナは尋ねた。手前のベッドは無人だ。
「いるわよ」アイリスが横に動いた。彼女の隣にセナンは寝ていた。上半身は裸。下半身は毛布の下。目に布を巻いているので、眠っているのか起きているのか分からない。
ティナは改めて手前のベッドを見た。毛布はきちんとたたまれ、シーツにしわはない。昨日の朝ベッドメイクされてから、まったく使われた形跡がない。
「あ……申し訳ございません」ティナは気まずくなって視線を落とした。「やっぱり外に出ていましょうか?」
アイリスは小さく笑いを漏らした。「大丈夫よ、いま着替えるからちょっと待っててね」
着替え、と聞いてティナは洗濯籠を差し出した。「洗濯物があればクリーニングに出しておきますので、これに入れてください」
「ありがとう。結構あるわよ」アイリスはベッドを降りて背伸びした。肉体の均整がよりはっきりし、ティナはちょっとの間見とれた。
アイリスとティナの目が合う。アイリスはしばたたき、笑った。「でも先に朝ご飯にしたいな。お腹すいちゃった」
ティナも連れて三人で宿を出て、近所のこ洒落たレストランに入った。
客は少ない。テーブル席十組ほどのうち、三つが埋まっているだけ。
窓際の席にかけ、アイリスは店内の壁を見た。勲章や賞状などが、壁一面、所せましと飾ってある。肖像画も一枚あって、顔中しわだらけのシェフと、貴族らしい豪華な服装の人間が並んで描かれている。昔の料理長と昔の国王か誰かだろうか。
料理が運ばれてきた。こんなに勲章をもらえる店ならさぞおいしいだろうと期待して、口に運んだ。
無言になる。アイリスはサラダを複雑な思いで飲み込み、念のためハムと青菜のトーストも一口かじってみてから、セナンに《すごく、まずくない?》と尋ねた。
《まずいね》とセナンも返した。正面のティナも、苦しいようなむしろ笑いたいような微妙な表情。みなで苦笑し合った。
食後のコーヒーは幸いおいしかった。口直しをしながら、アイリスはティナに話しかけた。「ティナはお城に勤めるメイドなんでしょ?」
「はい」料理の味を消すための三杯目のコーヒーをすすりながら、ティナはうなずいた。「普段は大臣様や兵士長様のお世話をしています。お二人のお世話は、皇太子殿下からの直接のご用命で、ちょっと緊張してます」
言う割りに緊張感はない。顔は田舎の童女のようにほんわかしている。
《メイドはいい子そうね》とアイリスは言った。《城の男たちみたいな変人じゃなくて良かった》
アイリスはティナに言った。「面倒なことは頼まないから安心してね。しばらくの間だけど仲良くやりましょう」
「はい。よろしくお願いします」ティナは笑顔でうなずいた。
新しい客が店に入ってきた。入り口は背中側にあるが、鐘が鳴ったのでアイリスには分かった。
他の客がざわついた。シェフも皿を持ったまま固まった。
アイリスはコーヒーを混ぜていた手を止めた。向かいのティナが目を見開き青ざめている。
「どうしたの?」ぎょっとして尋ねるが、ティナは何も言わない。こちらの肩越しに入り口を見つめているばかりなので、アイリスは振り返った。
帯剣した四人の女が立っていた。ひとりが一歩前に立ち、残りの三人を引き連れているような格好。前に立っている女も、他の三人もみな整った容姿をしている。
前の女は高貴な身分を示す白金のティアラを、ショートカットの頭に乗せている。服は飾り気がなく、白のシャツとタイトなズボンで活動的。体はすらっと細身だが、姿勢も良く堂々としていて弱々しさはない。目は怜悧で切れ長、華やかに上向いたまつげも美しい。颯爽とした、ボーイッシュな美人だ。
だがアイリスは、女に対していやな感じを覚えた。何かに追われるように左右する視線。イラ立たしげに下唇をかむ前歯。気ぜわしく動く眉。小刻みな貧乏ゆすりで床をたたく右足。女は見るからに神経質そうだ。
その女と目が合った。女はつかつかとこちらに近付いてきた。残りの三人も従う。
ティナがすごい勢いで立ち上がった。あわてふためきながら頭を下げ、「ご、ご機嫌うるわしゅうございます、ルゥ殿下……」とぎこちなくあいさつした。
「うるさい黙れ」と女は早口で言った。ティナは頭を下げたまま「……申し訳ございません」と消え入りそうな声で謝った。
女がアイリスとセナンをイラ立たしげに見下ろした。その肌は色白できめ細かく、碧い瞳も吸い込まれそうにきれいだ。
女は右の太ももを右人差し指でたたきながら言った。「お前たちがファンの雇った傭兵か? 一体何者だ? 何の目的があってこの国に来た?」
いきなり問われ、アイリスは面食らう。「な、何者でもないわ、ただの傭兵よ。仕事を探しに来ただけ」
女は左の太ももを左人差し指でたたき始めた。「ファンはお前たちのことを一騎当千の実力者だと言っていたが、信じられん。そんなふうには見えない。その男は目も見えず耳も聞こえないのだろ? どうやって戦うと言うのだ。馬鹿げてる。ファンは一体全体何を考えている?」
アイリスが困惑していると、女はハッと目を見開いて、親指の爪をかみ始めた。
「お前たちもしや、ファンと結託し、私に反逆しようとか、良からぬことを企んでいるのか? そうなら殺す。脅しじゃない。心臓をきっちり止める。八つ裂きにして細切れに切り刻んで、そこらに捨てて、百年たってもまだ遺体のすべてが見つからず、中有に迷い続けて輪廻転生できないようにしてやる」
アイリスは口をぽかんと開けた。女の言うことが、半分も理解できない。
セナンが手を動かした。《僕らはファン王子が何を考えているのか知りません。彼と結託してあなたに良からぬことを働こうとも思っていません》
女は目をぱちくりさせ、アイリスに「しゃべっているのはお前だが……今のは、ひょっとしてこの男が答えたのか?」と尋ねた。アイリスがうなずくと、女は握りこぶしを上下に振って怒鳴り始めた。
「黙れ黙れ、馬鹿者が! 貴様になんぞ聞いてはいない。私はこの女に聞いたんだ。なぜ許可なくでしゃばる? 頭にウジでもわいているのか? 貴様になど聞いてはいないだろ。そうだ、聞いていない。私は何も貴様に尋ねていない。貴様には答える資格はない。理解できたか? できたら黙ってじっとしていろ殺すぞ」
アイリスは一瞬ぽかんとした。それから頭にカッと血がのぼり、何かを考える間もなく立ち上がった。
「お前、さっきから何言ってんだ!? いきなり出てきて、わけわかんねえこと言いやがって! 舐めてんのか? セナンは親切に答えてるだけだろ」
女は少しもひるまず、眉をぴくぴく痙攣させて言い返した。「いきなりなのはお前らだ。怪しい詐欺師どもが、私の国に土足で踏み込みおって」
アイリスはさらに言い返しかけたが、女が間髪入れず続けた。
「傭兵ども、命令だ」女は氷結したような目で言う。「今すぐ隣国の王女のドレスを、盗んで来い」
「はあ?」アイリスは固まった。
女は早口で一気にしゃべる。「ケルミの湖のほとりに王女の別荘がある。今は水遊びの時期じゃないから、王女もいないし警備も手薄だ。一騎当千なら別荘に忍び込んでドレスを盗み出すくらい、わけないだろ。失敗は絶対に許さん。もし盗み出せなかったら、いいか役立たずども、即刻トラーベモアから出て行け、国外追放だ」
女は言い終わるときびすを返した。他の三人を引き連れて、とっととレストランから出て行った。
アイリスは、ガラス窓の向こうを歩き去ってゆく女をながめ、どっと尻をイスに落とした。
セナンに《なんなの、あれ? この国にはまともな奴はいないの?》とこぼした。
《今の人が誰なのか、ティナに聞いてみて》セナンは打ちひしがれた様子のアイリスの肩を撫でながら、言った。
女たちがいる間、終始頭を下げていたティナはやっと顔を上げ、イスにかけた。「ああ、怖かったぁ」
「今のは誰なの?」とアイリスは尋ねた。
「ルゥ殿下です」ティナは声を落とした。「国王陛下のご長女にあらせられる、つまりファン殿下のお姉さまです」
《王子のお姉さん》セナンは苦笑した。《これはまた、強烈なお姫様だね》
《強烈どころじゃない》アイリスは肩を震わす。《どうするの? 隣の王女のドレス盗まないと、国外追放とか言ってたわよ》
《とりあえず……》セナンはあごをさすった。《弟さんに相談しようか》
ティナがファンの居場所を知っていると言うので、案内を頼んだ。
辻馬車に十分ほど揺られ、一軒の古書店にやって来た。小さな店構えだが膨大な商品を扱っているようで、書物が入り口の前にまで積まれている。
書物をまたぎ越えて中に入ると、かびのにおいが鼻を突き、アイリスは顔をしかめた。
商品は本棚だけでなく床にも所せましと並んでいる。カウンターの向こうにも本が積んであって、その前に店主らしい丸眼鏡の老人が座っていた。
ファンは店の奥まったところにいた。他に客はいない。
「マフ様」とティナは呼びかけた。今は、ファンでなくマフなのだ。
マフはこちらを見て、「おお」と微笑んだ。「わざわざこんなところまで、どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもないわよ。あんたの身内にひどい目に合わされて頭来てんだから。どうにかしてよ」アイリスは息せき切って言う。
マフに、レストランでの顛末を話して聞かせた。
聞き終えるとマフは長いため息を吐いて、頭をカリカリかいた。
「いやな気分にさせて、申し訳なかった。姉に代わって謝るよ」マフは肩を落とした。「姉はあのとおり変わり者でね。周りの人間は手を焼いているんだ。いつもピリピリ神経をとがらせて、何が気に入らないのかイライラして、そして恐ろしく疑り深い。誰に対しても、こいつは良くないことを考えているんじゃないかと疑心暗鬼だ。被害妄想の気もある」
「何なのよ、それ」アイリスは顔をしかめた。
「だけど姉にはこの国の誰も逆らえないんだ」マフは苦笑した。「なんせ、王子の私より偉くて、しかもとても強いから。剣の腕は、騎士団の精鋭でもまったく歯が立たないほどさ。その上に国中の女性の中から素質のある者を二十人ばかり集めて、自分の親衛隊を組織して侍らせてる――姉の後ろにいただろう? あいつらがまた強い。強い上に機械みたいに姉の言いなりで、私の話でさえ無視する。姉も親衛隊のレディーたちも、少なくとも対話でどうにかなる相手じゃない」
「最悪」アイリスは心底うんざりした。腕を組み、投げやりな気分になりながら言った。「そんで、私たちは一体どうすりゃいいの?」
「まあ、悪いけれど」マフは本棚に目を戻した。「ドレスをとってきてもらう他ない」
「なんでそうなるのよ……」アイリスはイラ立たしくうなだれた。セナンに言う。
《ねえ、もう今回の仕事はやめよっか? あんなイカレポンチの姫に振り回されるくらいなら、降りちゃったほうがいいんじゃない?》
《だめだよ》とセナンは言った。《王女がイカレポンチでも、僕らが参加させてもらうのは貴重な戦争さ。選り好みはできないよ》
《そっか……》アイリスは鼻から息を抜いた。心に悲しみが音を立ててわき出した。頭を少し冷やさないといけない。《うん……そうだね。戦争なんて、そうそうその辺には転がってないもんね。オーケー。やりましょう、とことんまで》
《ありがとうアイリス》セナンは言い、それから《ところで、ファン王子に王様のことを聞いてみたらどうかな。国王なら娘のむちゃを止めることができるんじゃない?》と提案する。
「父上か」アイリスがセナンの言葉を伝えると、マフは本棚を見たまま薄笑いを浮かべた。「父のことが気になるなら、会ってみるといいだろう。今から行けば、ちょうど茶の時間だ」
「ふーん……」マフの顔つきに「期待できなさそう」と感じながら、アイリスはさっきのルゥ王女の態度についてもう少し苦情をぶつけたくなった。
「それにしてもさ、私あの女の、特にセナンに対する物の言い方が頭にきたのよ」ルゥがセナンにでしゃばるなと怒鳴ったときの様子を思い出して言った。「あんまりカッときて、私もチンピラみたいな言葉遣いで怒鳴り返しちゃった。すごく恥ずかしいし、最低だったわ」
その様子を想像してか、マフが小さく吹き出した。「本当にすまないなあ。姉は男嫌いだから」
「男嫌い? さすが王族、庶民と違って潔癖であらせられること。……思春期の小娘じゃあるまいし、アホか」アイリスは吐き捨てた。そしてもうこれ以上話をしても無駄と思い「隣の王女の別荘ってのは、どう行くの?」と尋ねた。
「行ってくれるか」マフはほっとした様子。「では、地図を描いてあげよう。私も昔、何度か遊びに行ったことがあるから」
《遊びに行くということは、以前は仲が良かったんだね、戦争になりかけてる国の姫と》
セナンの発言を伝えると、マフはうなずいた。「二年ほど前まで、王室同士、家族ぐるみの付き合いがあった。最近はいろいろあって密な関係ではなくなったが、それでも例の会食の席でのできごとがあるまで、二国間が緊張したなんてこと一度もない」
脇の台で地図を描きながらマフは続けた。「くだんの別荘やケルミの湖でも昔、よく遊んだものだよ。水面にボートを浮かべて、私が櫂をこぎ、その前にカジェ――隣国の王女だ――と姉が並んで座っている。その画(え)が今でも目の前に浮かぶよ」
「ふーん」さみしげなマフの横顔に、アイリスは少し同情の気持ちがわいた。《なんかセンチメンタルだね》
《仲の良かった者同士、争わなきゃいけないのは、つらいだろうね》とセナンも返した。
「お、そうだ」とマフが元気な声に戻って言った。「別荘までの道だけでなく、邸内の見取り図も描いてあげよう。忘れている部分もあるが、要所要所はまだはっきり頭に残っているぞ。えーと、玄関を入って吹き抜けの左が台所で、右がメイド控え室だろ。その奥が客間の並ぶ廊下で、この辺りはまあどうでもいいか、それから階段を上がって右に曲がると、えーと――――」
ブツブツ言っているマフから目を離し、横の本棚をアイリスは見た。何気なく、汚れた背表紙の本を一冊、抜き取ろうとした。
「触るでない!」店主が怒鳴った。アイリスはびっくりして手を引っ込めた。
「それは千年もの大昔にさる高僧が書いた、ありがたい教えや金言に満ちた哲学書だ」目をぎらぎらさせて店主が言う。「思想的にも歴史的にも、とっ……っても貴重なものだ。古くなっていて、素人が触るとページがバラける。そのままにしといてくれ」
アイリスはうんうんうなずき、尋ねてみた。「ありがたい教えって、どんなことが書いてあるの?」
「知らん」と店主は答えた。「昔の文字で書いてあるから読めん」
「さ、できたぞ」マフが地図と見取り図をアイリスに渡した。笑顔で言う。「がんばって、ドレスを盗み出してきてくれ」
隣国・ディディリア王国へ向かう前に、アイリスとセナンは城へ寄った。ティナの案内で、バルコニーで昼のお茶を楽しんでいるトラーベモア国王を訪ねるのだ。
ティナの後をついて城内を歩いて、二階のバルコニーに出た。バルコニーからは中庭の全体が見下ろせる。真下は昨日マフ(ファン)と再会したあの豪華な書斎だという。
バルコニーの端に重厚な作りの椅子が置いてある。背中は椅子の背もたれに隠れているが、肘掛に置かれた左手だけは見える。年寄りの手だ。
三人は国王に近付いた。王の隣にティナより年長のメイドがひとり、ティーワゴンの取っ手に手を乗せて立っている。
ティナが年長のメイドに何か話しかけた。年長のメイドは王に声をかける。王がメイドの耳元に何か返す。
「どうぞこちらへ」メイドが二人を手招いた。
アイリスとセナンはイスの斜め前に回った。白いあごひげを蓄えた細身の男が、ティーカップ片手に中庭をながめていた。
「王様?」アイリスは声をかけた。
「いかにも」と彼はうなずく。
「あのう、私たちは――」
「ファンの雇った傭兵じゃろう? 聞いておるよ」アイリスをさえぎって王は言った。庭へ向けていた目を、ちらっと二人に向ける。「自己紹介しようかの。わしがトラーベモア国王エゾじゃ」
国王エゾはアイリスの想像よりかなり老けていた。ファンもルゥも見たところ、自分たちより三つか四つ上という程度の年齢なので、国王も四、五十代の中年男性だと思っていた。しかし目の前にいるのは、しわだらけ・しみだらけ、髪もヒゲも真っ白の老人だ。体型はかなりの痩せ型、顔も手も骨と皮ばかりといった感じ。
震える手で紅茶を飲み干したエゾは、メイドにもう一杯所望した。ついでもらう間、エゾの視線はただ庭の噴水に注がれる。噴水の周りには象や熊、キリンなどを模したトピアリーが並んでいる。
見るからに期待できなさそう、とアイリスは思ったが、《話すだけは話してみよう》とセナンに背を押され、レストランでの顛末を話した。
「――――というわけで、王様にどうにかしてもらえないかと、うかがったんですけど……」
エゾは表情を変えず、アイリスたちを見もしないで「そういうことなら、せがれに言っとくれ」と答えた。
「ファン王子には、もう言いました」とアイリスは返した。「そうしたら、姉の言うとおりにするしかない、と。だから王様、あなたのところへ相談しに来たんです」
「せがれがそう言ったなら、ルゥの言うとおりにする他ない。あきらめるんじゃな」
にべもないエゾに、アイリスは少しイラっとした。「あなたは国王でしょう? このトラーベモアで一番偉い人。王子には無理でも王様なら、王女に命令することができるはずです」
「ルゥはわしの言うことなんぞ聞かんよ」エゾは大儀そうにアイリスを見上げた。「国のことはな、全部ファンに任せておるんじゃ。あれが無理と言ったなら無理じゃ」
エゾの投げやりな言い方にアイリスはさらにイラ立った。「王様、どうしてそんなことを言うんです? こんな理不尽な話ないわ。それじゃ私たち、本当に隣の国までドレスを盗みに行かなくちゃいけないの?」
「残念ながら、そうするしかないじゃろうな」茶をすすりながらエゾはうなずく。アイリスがあきれていると、さらに独り言のように続ける。
「そう、ルゥはわしの言うことなんぞ聞かん。いや、ルゥだけではないのじゃ。誰も彼も、わしの言うことなんぞ真面目に聞いちゃくれん」
アイリスは王の顔を見た。その目に光はなく、頬にも張りがない。
「どいつもこいつも、ほれ、あのトピアリーみたいなものじゃて。わしが何を言おうと、わめこうと、ただじっとそこに立っておるだけ。王様だ陛下だと持ち上げても、国の仕事など誰も任せちゃくれんのじゃ。わしはお山の頂上のお飾りなんじゃ。
わしも若い頃は――ちょうどお前たちくらいの頃は覇気があった。やる気にあふれとった。王位を継いで王座について、さあ今日から自分がこの国をリーダーとして引っ張ってゆくのだと燃えておった。じゃがな、議会の政治屋どもにとって、青くさい理想主義の若い国王など、面倒な腫れ物でしかないんじゃ。奴らに言わせると、国王なんてものは偉そうな顔をして、下々の者へにらみを利かせていればいいんじゃと。国政は我々でコントロールしますので、陛下はどうぞ王座にデンと鎮座ましまして黙っていらっしゃいませ、何も陛下が政治の面倒や苦労を背負うことはありません、と議会のみなに言われたよ。
わしもがんばってみたさ。若さというやつは体力だけは保証してくれるからの。何年間も「どうにかして、私こそ国政のリーダーだとみなに認めさせたい」と考えてぎらぎらしとった。だが結局どうにもならんかった。向いてないんじゃろうな、政治というものにわしは。不器用というか口下手というか、人の間をうまく立ち回るとか、さまざまな意見をすり合わせるとか、双方の顔を立てて誰のプライドも傷つけず、それでいて自身の考えを通してしまうとか……そんな複雑なこと、できんかった。しょせん王家のおぼっちゃんなんじゃ。お前たちが思うような万能な存在ではないんじゃよ」
エゾは茶で喉を湿らせ、さらに続けた。
「万能どころか……二十歳そこそこの娘一人、抑えることもできん情けない父親じゃ。この王冠は単なるアクセサリーよ。ちょっと派手な帽子ほどのものじゃ。いてもいなくてもどうでもいい、わしは人畜無害の王様じゃ。
……そう、わしなんぞより、せがれの方がずっと頭がいいわい。王族でありながら文学なんぞをたしなみ、町人たちとも仲良くやっておる。あれは、やがてわしから王位を継いでも、議会の連中ともうまく付き合い、自分の国づくりを進めてゆくじゃろう。父よりはるかに優れたタマじゃ。……つまりな、せがれが無理と言ったなら無理なのじゃ。あきらめるんじゃな」
アイリスもセナンも何も返せなかった。王様のところになんか来なきゃよかった、とただ思うばかりだった。
3
二人は馬車と城つきの御者を手配してもらい、ディディリアに向けて出発した。街道を行き、街道警備隊の兵営も過ぎ、土色の大地を数時間駆って国境を越え、ディディリアに入った。
都市部へ向かう街道を離れ、人家もまばらな田舎道を走り、ディディリア王家の別荘のあるケルミ村に到着したときには、すっかり陽が傾いていた。村の門をくぐってすぐのところの宿に部屋を取り、その日はさっさと休むことにした。
翌朝。朝食の後、二人はすぐに出発した。湖と別荘は西の森にある。森は広大だが、整備された馬車道がかなり奥の方まで伸びている、とファンの地図には書いてある。
背の高い常緑樹の隙間を縫うように、細い道を馬車に揺られ、二人は森に分け入った。一時間ほどして大きな湖が見えたところで、馬車を停めてもらった。降りると緑の匂いがした。静かな森の深みだ。
徒歩で湖の南東のほとりに出る。背の高いヒノキが湖を縁取るように群生している。マフの地図によると、湖は東西に細長い形をしている。横は巨大だが縦はそれほどでもない。
とぼとぼ歩いて、二人は湖の北東に回った。そこからまた整った道が森の奥へ伸びていたので、道なりに歩いた。
だが、一分も歩かないうちに別荘の屋根が木々の間に見えたので、二人は立ち止まった。警備の人間に見つからないよう、二人は草むらへと分け入った。下草が密集した場所を歩くのはセナンには大変だろうから、アイリスはゆっくり亀の歩みで進んだ。
別荘の真正面まで来た。派手な建物ではないが、玄関や出窓、柱の彫刻などのデザインは、王族の持ち物らしく瀟酒だ。
アイリスは草と草の間から様子をうかがっていた。門の前に兵士が二人、槍を持って立っている。片方は新聞を読みふけり、片方はあくびをしながらタバコをふかしている。見るからにやる気のない、手薄な警備だ。
《兵士を魔法で吹っ飛ばす……ってのはだめよね?》とアイリスは聞いた。
《派手なことはしない方がいいだろうね》とセナンは返した。《裏口に回ろう》
草をかき分け、二人は別荘の背後へ回り込んだ。
こちらはひと気がない。草むらから裏口の小さな門をのぞき見るが、誰もいない。アイリスはゆっくりその場に立ち上がった。
《大丈夫、誰もいないわ》
セナンもゆっくり立ち上がり、大きく深呼吸した。《森のいい香りがする。空気がおいしいよ》
のんきなセナンの言葉に、アイリスは小さく笑った。少し心が軽くなる。そうして、自分の中の大きなストレスの塊にアイリスは気づいた。
ディディリアへ入国してから、彼女はずっと不安だった。先手必勝で派手に敵を打ち倒すのが本分の自分たちが、こんな隠密行動を取らねばならないことが不安で仕方がなかった。敵に隠れてこそこそ動くのは本来苦手なのだ。何よりもまず攻撃して敵を動けなくしないと、ハンデのあるセナンが安全に戦えないからだ。
にもかかわらず今、セナンはどっしり落ち着いている。それでアイリスも少し余裕が出る。
二人は門に近付いた。細い鉄棒で組まれたありふれた門だ。古い郵便受けが引っ掛けてある。蝶番が壊れていて、風にあおられたふたがカスカス音を立てている。郵便物は入っていない。
アイリスは門を押してみた。何の抵抗もなく開いてしまい、目を丸くした。
《警備、ほんとに手薄》
庭を横切って二人は屋敷の勝手口の前まで来た。アイリスはポケットから見取り図を取り出した。勝手口の向こうはキッチンで、キッチンを出るとL字に廊下が伸び、吹き抜けの玄関ホールに出る。二階に上がり、南へ廊下を進むと、突き当りがディディリア王女カジェの部屋だ。
勝手口のノブを回してみたが、さすがに鍵が掛かっている。アイリスはノブを握ったまま耳を澄ませた。木の葉がさやぐ音。あとは何も聞こえない。
《ドア、壊しちゃう?》アイリスは尋ねた。
《周りの様子は?》
《誰もいない。物音もしない》
《ちょっとくらいなら音を立てても大丈夫かな。鍵だけ壊してみるよ。ドアをぶち破ったりしたら、さすがにバレるだろうし》
セナンはこぶしを突き出し、ドアノブにぴたりつけた。唇を結び、集中する。
魔法は、威力が同じなら影響の出る範囲が小さいほどその難易度が高まる。魔法エネルギーには魔法使いの手から八の字に広がってゆく性質があるからだ。集中を欠き、意識が散漫になると、広がりはだらしなく大きくなる。するとパイ生地を伸ばすように、影響の出る面積に反比例してエネルギーは薄まる。目標物がひとつなら、できるだけエネルギーを一点に集中したほうが効果が高くなるのだ。それに、そうすれば、対象以外のものを不用意に巻き込むような失敗もなくせる。
また静かに仕事をしたいなら、範囲だけでなくエネルギー自体も小さく抑える必要がある。魔法は大なり小なり魔法使いの力みを誘引するので、威力を制御したいなら力を強めすぎないよう意識しなければならない。だがエネルギーが弱すぎると、今度は不発になってしまう――その力加減の調節が難しい。
セナンは今、エネルギー方向の一点集中とエネルギー量の制御のため、意識を高めている。対象物はドアノブ内部のシリンダー。ノブ本体は傷つけず、シリンダーのみを破壊するのだ。
アイリスはじっと待った。人間や丸太相手と違い、この仕事にはセナンも集中力と時間を要した。
不意にセナンがするどく息を吐く。硬いものにひびが入るような、小さな音がした。
セナンは《完了》と告げた。
アイリスはノブを回した。勝手口は抵抗なく開いた。
《天才、セナン》アイリスはセナンの頬にキスした。
中に入り、ファンの見取り図を頼りに廊下を進んだ。人の気配はない。吹き抜けの玄関ホールから二階に上がり、どんどん歩いて、突き当たりのカジェ王女の部屋まで難なく来た。
アイリスはノブを回し、ドアを少しだけ押してみた。開く。鍵は掛かっていない。
音を立てないように注意してドアを開け、部屋に滑り込んだ。入ってすぐのところに大きな水槽があったので、とりあえずその陰に身を隠した。
アイリスは水槽を見た。しっかり手入れの行き届いた、きれいなガラスの水槽。水は清潔に透き通り、窓からの陽がオーロラ状に水中に広がっている。たくさんの水草が森を模して植わり、光合成をして、酸素の泡をいっぱい吐き出している。水草がない部分は、茶色い土と白い砂の二色分け。くねっとした流木と、角ばった石がオブジェとして底に転がっている。
魚はいない。水もきれいで、光合成のための水草まで植えられているのに、生き物の影はない。
アイリスは水槽の陰から顔を出し、部屋の様子をうかがった。手前に灰色の暖炉があり、安楽椅子が二脚置いてある。その向こうに金色の柱時計。化粧壜の乗った鏡台。天蓋つきのベッドと洋服ダンス。
《洋服ダンスがあるわ》
部屋の東側はここから見えないが、物音はしない。
《さっさと済ませて帰ろう》アイリスは水槽の陰から出て、洋服ダンスへ向かった。
東の窓際に人がいた。若い女がソファーにかけてこちらを見つめていた。
心臓が止まりそうなほどアイリスはびっくりし、その気配に気づいたセナンも一緒に立ち止まった。
女は無言。二人組の侵入者の登場にも、わずかな声も上げず、身じろぎもせず、色白の面(おもて)にも何の表情も浮かべない。ただじっと無表情にこちらを見ている。幽霊に会ったような気持ちでアイリスは押し黙った。背中に冷や汗がわいた。
女は右手にワイングラスを持っている。赤ワインがなみなみついである。アイリスは既視感を覚え、あ、と思った。エドワード切子だ。グラスのデザインがファンのインクつぼとそっくりだ。
「エドワード切子……」アイリスがつぶやくと、女はしばたたき、自分の右手のグラスをためつすがめつし出した。長い髪が肘掛から持ち上がって揺れた。
騒ぎ出すような気配がないので、アイリスも女を観察した。髪は茶色でストレートのロング、ふわっとした少女風のワンピースを着て、手首にダイヤをちりばめたブレスレットをはめている。眼はやや垂れ目がち。頬の稜線はゆるやかで、どことなく幼さが残っている。体つきから二十代と分かるが、かなり童顔だ。しかし薄っすら桜を散らしたような肌は、色っぽい。
「あなたたちはどなた?」女がやっと口を開いた。声は穏やかだが、緑の瞳は鋭い。
女の様子をアイリスに教えてもらうと、セナンは言った。《正直に何をしに来たか話してみよう。変に怖がらせて、騒がれるほうがまずい》
アイリスは女に言った。「私たちは旅の傭兵です。今日はのっぴきならない事情があってうかがいました。実はカジェ王女のドレスを一着拝借したいの」
「わたくしのドレスを?」女は怪訝にアイリスを見返した。
この人がカジェ王女なんだと思って、アイリスはこぼした。《ひっどくない? 時期じゃないから誰もいないとか言ってたのは何なのよ》
腹を立てるアイリスに代わり、セナンが答えた。
《ある人に、あなたのドレスを盗み出して来いと頼まれたんです。理由は分かりません。ひょっとしたら、あなたの信奉者とか?》
カジェにそのまま伝えながら、アイリスはセナンに突っ込んだ。《信奉者ってどんなジョークよ》
カジェは数秒間、じっと目を見開いた。それから力なくうなだれた。
「どれでも持ってお行きなさい」ぶっきらぼうに言い、うつむいたまま洋服ダンスを指差すと、二人を無視してエドワード切子の飲み物を飲み始めた。
許しも出たので、アイリスは洋服ダンスからブルーのドレスを拝借した。洋服ダンスを閉め、セナンの隣に戻り、それから手持ち無沙汰な気分でカジェの横顔を見た。カジェはもう二人を見もせず、窓の外をながめている。
《どうしよう?》ドレスを小脇に抱えてセナンに聞いた。
《長居は無用。行こう》
二人は部屋を出て行った。
馬車に乗り、もうこんなところに用はないと御者に早駆けさせて、森を抜け、二人はケルミ村を後にした。
途中の国境付近の町で一泊し、翌日も朝から全速力で走って、馬車は昼過ぎにはトラーベモア城下町に入った。
城門をくぐって居館の入り口の前で下車すると、ティナが笑顔で出迎えてくれた。
「すっごーい」アイリスの小脇のドレスに彼女は目を丸くする。「本当に王女のドレスを盗んでくるなんて。お二人はすごいですね」
ティナの案内で、二人は大きな広間に通された。謁見の間だ。ビロードの絨毯が、一段高いところにある玉座へ向かって伸びている。
その道の真ん中に人だかりがあった。右手に、もう命日が終わったのでレインコートを脱ぎ皮鎧を身につけたクランカと、後ろ手を組んだインザが並んで立ち、メイドが二人従っている。左手には例のルゥの親衛隊の女が四人いて、無表情にうつむいている。
そして中央に、玉座にも負けない豪華な革張りのイスにかけたルゥと、その横に立つファンの姉弟がいた。
ファンはカップとソーサーを両手に持って紅茶か何かを飲んでいる。
ルゥは目元をゆがめ、眉をせわしく動かしながら床をにらみつけている。激しく貧乏ゆすりして、床をかつかつかつかつ鳴らしてもいる。
何とも近寄りがたい雰囲気だが、ティナに「アイリス様とセナン様をお連れいたしました」と頭を下げられてはどうしようもない。アイリスは一歩踏み出し、ルゥの前に立った。
「どうだった? うまく忍び込めたか?」と息せき切るルゥに、アイリスはドレスを掲げて見せた。
「おお!」ルゥがはじめて笑顔を見せた。ぱっと華やいだ、美しい笑顔だ。「よこせ、傭兵」
言われるままドレスを手渡した。ルゥは左手に、エドワード切子のワイングラスを握っていた。カジェのと同じグラスだ、とアイリスは思った。中は空っぽだ。
「持ってろ」グラスを親衛隊の一人に渡し、ルゥはドレスを広げた。青のシルクで、胸元と裾にレモン色の縁取りが走っている。貴族の召し物らしく、スカートの裾が実用性を無視して大きく広がっているシルエット。夜会で正装として着るような派手なデザインだ。
ルゥはドレスの隅々までにらんだ。隠された暗号でも探すように必死の形相で。
すっかり納得すると、ルゥはドレスを自分の胸元に引き寄せ、恍惚と目を閉じ、息を吐いた。
「でかしたぞ!」いきなり立ち上がり、ルゥはアイリスの手を握った。「すばらしい、すばらしいぞお前たち。お前たちは完璧だ。どんな兵より優れた兵だ。神の子だ。神そのものだ。歴史に名を残す軍神だ。アイリスとセナン、と言ったか、お前たちはこの世界を丸ごとひっくり返してしまうほどの働きをした。感激だ」
クビだ国外追放だと言ったのと同じ口に、今度はめちゃくちゃに褒められてアイリスは混乱した。ルゥはカジェのドレスが本当に欲しかったのか。意地悪で無茶振りしただけと思っていたのに。
《どういうことなの?》とアイリスはセナンに尋ねた。
セナンも答えられず、ただ首を振る。
「決めたぞお前たち」ルゥは頬をバラ色に染めて言った。「お前たちを、私の城へ招待する」
「城?」
ルゥは親衛隊に馬車の手配を指示し始めた。アイリスは困ってファンを見た。ファンはカップをソーサーに下ろし、何ともいえない表情でアイリスを見た。
「姉上は専用の城を持っているんだ」とファンは言った。「ずっと西の小高い山のふもとに、小ぶりな城があるんだ。姉上の別宅みたいなもので、私でも勝手に入ることはできない」
「さあ、行くぞ」とルゥはぼんやりしているアイリスの腕を取った。
「え、あの、ちょ……」アイリスはファン、クランカ、インザに順々に視線をやった。みな申し訳なさそうに黙っているばかり。最後にティナを見ると「一緒に来て」という意味にでもとったのか、泣きそうな顔でぶんぶん首を振った。
セナンに言った。《行きたくない。すごくいやな予感がするよ》
《僕も。でも断れない雰囲気だね》セナンはアイリスの手を握り締めた。
拉致されるように馬車に乗せられ(ルゥ専用の純白色の豪勢なもの)、二人はルゥとともに彼女の城へ出発させられた。
馬車の中で、ルゥはずっとしゃべり続けた。簡単な自己紹介(私はルゥという名で、お前たちの雇い主ファンの姉で、いま二十四歳で、といった内容)をすると、後は自分の趣味の話を延々とし続けた。
ルゥはまず自分は演劇マニアだと告白し、それから好きな劇の筋書き、好きな役者、好きな脚本家のことについて熱く語り始めた。しかしアイリスにはまるで興味のない話で、まぶたを上げているだけでも一苦労だった。
ルゥは恐ろしく説明下手だった。劇に対する愛情が深すぎて、論理はこんがらがり、口ぶりはしどろもどろに乱れた。ストーリーならストーリー、役者のことなら役者のこと、と話題をひとつにしぼってくれればいいのに、ストーリーを話しているその合間合間に役者の他の出演作の情報や、脚本家の制作意図や、演出家の複雑な生い立ちなどの話題を挿しはさむので、今なんの話をしているのかよく分からなくなってきて、聞く方の頭はどんどん混乱してしまうのだ。
それでも、目をらんらんと輝かせ、身振り手ぶり激しく、つばを飛ばしながら聞かせてくれた話を総合すると、およそこんな劇について彼女は語っているらしかった。
ある山村に年頃の青年と娘が住んでいた。二人は許婚の間柄だったが、ある時、山のてっぺんを住処にする人食いの魔物が娘をさらってしまう。悲しみと怒りに燃える青年は、ある老人のもとを訪ねる。老人は、かつて世界に名をとどろかせた歴戦の騎士だった人。長年の戦いの日々に疲れ、街を捨てて、村外れに庵を結んで隠遁生活を送っている偉人かつ奇人だった。
青年の話を聞いた老人は、若い頃に使っていた愛剣ベッケンクライフを青年に譲ると言ってくれる。青年は大いに喜び、勇気を得るが、老人は剣を渡す前に、その剣にまつわる伝説やいわれを長々と語り始める。やや認知症の気がある老人の話は相前後し、矛盾し、堂々巡りし、いつ終わるとも知れない。
ただでさえ気が気でない青年は三十分で耐えられなくなり、老人を殺して剣を強奪してしまう。
人食いの魔物が待ち受けるてっぺんを目指し、青年は険しい山を登る。途中、魔物の手下である大猿の親子の襲撃を受ける。青年はベッケンクライフを振るい、大猿の子供を人質にとって親猿を脅す。親猿がひるんだところを崖から突き落として死なせ、子供のほうはその夜、切り刻んで猿鍋にして食べてしまう。
翌日も登山の途中で、今度は熊に襲われる。ベッケンクライフを振るうも熊は手ごわい。青年はおいしい蜂蜜のありかを教えるから見逃してもらえないかと熊に頼む。食い意地の張った熊はうなずく。そして案内したミツバチの巣、その蜜に夢中になっているところを青年は背中から斬りかかって、熊を殺す。晩は熊鍋。
山に入って三日目、青年は頂上にいたる。待ち受けていた魔物は、ありとあらゆる獣を掛け合わせたような奇妙奇天烈な見てくれ。醜いことこの上ない。
ふと見ると獣の後ろで愛しい許婚が震えている。いま助けてやるぞと青年は叫び、魔物に躍りかかる。死闘は一晩続き、翌朝、青年が魔物の額をベッケンクライフで割ってようやく決着する。
勝利の余韻にひたる間もなく、後ろにいた許婚が倒れた魔物のほうへ駆け寄り、その体に伏せて泣きじゃくり始める。自分の胸に飛び込んで来るものと思っていた青年はわけが分からずオロオロする。
許婚は般若のごとき形相で青年をにらみ、「あなたのような乱暴な卑怯者と結婚するのがいやで、私はこの方の元へ逃げてきたのよ。この方は紳士的で礼儀正しくて、見た目の醜さと正反対の優しい心の持ち主だった。この方を殺したあなたなんか嫌いよ、大嫌いよ」と叫ぶ。
主人公は激しい悲しみと怒りに発狂し、ベッケンクライフで許婚を斬殺する。終わり。
――――
胸クソ悪い物語だった。ルゥの暑苦しい口ぶりとあいまって、聞いているとアイリスは頭が痛くなった。しかし時間が経つに連れて少しずつ頭痛はなくなり、頭の芯が死んでゆくような、ぼんやりした静かな気分になってきて、最後はしゃべり続けるルゥを何の感情もなくただ見つめるだけになった。
《ねえセナン》アイリスは言った。《わたしたち、ここで何してるんだろうね……。戦争なんて、本当に始まるのかな……眠くなってきたよ》
《流れに身を任せるしかないさ》セナンは投げやりに返した。《それにしても災難だね、アイリス。今回ばかりは、僕は耳が聞こえなくて良かったと思ったよ》
城下町を出て三時間。たどり着いたルゥの城は、アイリスの想像を超えて大仰な建造物だった。王都の城に比べれば確かに小ぶりだが、カジェの別荘のような規模のものを思い浮かべていたアイリスには、あきれるほど巨大だった。
城門と、左右の見張りの塔。こげ茶色の石と真っ白な石のコントラストが壮麗だ。背後には三角屋根の居館が派手派手しく建ち、あちこちから背の高い尖塔が突き出している。
王都の城が人の住む「家」だったのに対し、ルゥの城は、昔の勇者や魔王が住むおとぎの国の要塞といった雰囲気。見目麗しいがどことなく古くさく、前時代的。のどかな田園風景の中、完全に浮いている。
城門をくぐり、一行は居館の前で馬車を降りた。アイリスは城を見上げ、セナンに城のすごさを説明した。
そんな様子に、ルゥはご満悦の表情。駆け寄ってきた親衛隊員にカジェのドレスを渡すと、「この二人は私の心の友だ。城の内部を案内する」と言った。
《心の友だって。最悪》不快感に吐きそうになりながらアイリスは言った。
内部はさらにすごかった。すごく異様だった。
ルゥは廊下の端からひとつひとつ部屋を案内した。どの部屋も、四方の壁一面・天井一面に絵が描かれていた。ルゥは、これらは好きな演劇の世界を絵で表現したものだと言った。山が舞台の劇なら山と登場人物、川のほとりが舞台なら川と登場人物、昔の街中なら昔の街中と登場人物、夜の草原なら風にそよぐ草と一面の星空が描いてある。芝居の書割のようなものだ。
壁と天井にごちゃごちゃ絵が描いてあるのは、非常に目に騒々しかった。アイリスは五つ目か六つ目の部屋で目の奥が痛くなってきて、セナンに《もう帰りたいんですけど》とこぼした。
ルゥは嬉々として、室内に表された世界について――それぞれの劇の中身ついて語ってくれた。その語りがまたしどろもどろで、アイリスは心底辟易した。
《なかなかすさまじいね》セナンは言った。《まさか、耳と目、両方の障碍に感謝する日が来るとは思わなかったよ》
部屋を回りながらルゥは言う。「気持ちがくさくさするとこの城へ来て、その時の気分に合った部屋を選び、劇の世界に入り込んで、私を嫌な気持ちにさせる馬鹿どものことを忘れるんだ。現実の世は、ただひたすらにイラ立たしい。皮を剥がれた赤肉に焼きゴテを当てられるような、そんな苦痛の連続だ。憎しみ、悲しみ、憤り、屈辱、孤独。
生きることに疲れ、負の感情でいっぱいになったら、私はこの城へ来るのだ。今日は『竜の尾に咲く花』のヒロインがいいと思ったら、その作品の部屋でヒロインの衣装に着替えて、ヒロインになりきって一人芝居を演じる。今日は『けだものの揺籃』の主人公がいいと思ったら、やはりその部屋でその衣装に着替え、主人公のセリフをひとりで暗誦する。今日は『ステファニー欣喜雀躍!』の悪役だと思ったら、その部屋でその衣装を着てその人物になりきって断末魔の叫びを上げる。今日は『ヘラブナ歳時記』のヒロインだと思ったらヒロインに、『イチョウ並木のゴンザレス』のゴンザレスだと思ったらゴンザレスになりきる。そうやって私は日がな一日すごしている。この遊びのために、莫大な金をつぎ込んだ。城の建設費、内装費、絵を担当した画家への給金など」
これまた胸クソ悪い話で、アイリスは体が震えてきた。《最悪。最悪のカミングアウトよ。気色悪い。いい年して何なのその趣味。子供のロビンフッドごっことかと同レベルじゃない。そんなことに国民の血税つぎ込んでんの? こんなイカレた城までおっ建てて》
《すごいなぁ》セナンもあきれ気味だ。《ケタ外れの趣味人だ》
「見てくれ」そう言って、その時いた部屋(戦記物の劇を表した部屋らしく、地面は乾いた土色、壁には昔風の鎧を着たたくさんの兵士たち)のクローゼットをルゥは開けた。中には大量の衣装。「衣装も大金をかけて作らせた。国中のデザイナーを総動員し、針子という針子を連日徹夜させた。主要な登場人物のものは、このとおりすべて揃っている」
ルゥは熱く語り続ける。
「これらを身にまとい、その人物になりきってセリフを口にしていると、このくだらない現実から飛び出して、劇の住人になれる気がする。そんな時、私は本当の私になれる。クソ喰らえの世を生きる私は偽者で、本当は歴戦の英雄であり、可憐なヒロインであり、地獄の釜で亡者どもを煮る魔王であり、イチョウの木の下で恋人に振られて涙を流すゴンザレスであるのだ、と思って幸せを感じる」
不意にルゥは頬を赤らめた。いまさら何を照れるのか、アイリスには理解できない。
結局、二十近い部屋をアイリスたちは連れ回された。その間、ルゥは無邪気な子供のような満面の笑顔でおしゃべりを続けた。
アイリスは何度も「もう黙れ」と怒鳴りたくなった。ルゥの顔面に、セナンの魔法をぶちかましてやりたくなった。登場人物たちへの愛を熱っぽく語る、その口にいま履いているブーツをぶち込んでやりたくなった。
ルゥの話はほとんどセナンに通訳しなかった。その価値もないと思った。気色悪い語りを、自分の口(指)で繰り返すのもいやだった。
最後の部屋を出ると、もう夕方になっていた。日暮れのオレンジの光の中で、アイリスはぐったり肩を落としていた。疲れ切って、もう倒れそうだ。
「二人を客室へ案内しろ」ルゥは親衛隊員のひとりに命じると、その他を引き連れて去って行った。
案内された客室はごく普通の部屋だった。壁も天井も無地の壁紙が張ってあるだけ。アイリスは心底ほっとした。客室まで同じ内装だったら、暴れ出していたかもしれない。
案内役の親衛隊員はコーヒーを淹れてくれると、無表情のまま一礼して出て行った。彼女の物言わぬ態度に、アイリスはティナのほんわかした顔が恋しくなった。
《で、どうする?》アイリスはベッドに寝転がり、隣のセナンに尋ねた。
《どうしようかねえ》セナンはベッドに腰掛けてのんびり返した。《晩御飯まではゆっくりしようか。アイリス、かなり疲れたでしょ?》
《半年分くらいのストレスを一気に感じたわ》アイリスはぐったり答えた。《もうちょっとで爆発しそうだった》
《おいしいコーヒーだよ、これ》セナンは親衛隊の淹れたコーヒーを褒めた。《飲んで、少し落ち着いたら?》
《うん。いただくわ》上半身を起こして、アイリスはチェストのコーヒーを取った。いい香りだ。一口すすると、ムカムカした消化器官が少しだけ人心地を取り戻す。
コーヒーを味わいながらアイリスは前の壁を見た。肖像画が一枚掛かっている。ルゥによく似た、美しい面立ちの女性の絵。
セナンに絵の説明をし、それからアイリスは言った。《下に「母上」ってプレートが貼ってある。ルゥとファンのお母さんだ》
《母親の絵をわざわざ自分の別荘に飾ってるということは》セナンは返した。《もう亡くなってるのかもしれないね》
女性は一国の妃らしく、ゴージャスな衣服やアクセサリーで身を飾っている。
フリル付きの真っ赤なドレス。大きくアップにした入道雲のような髪。白金のティアラ(ルゥが乗せているのと同じものだ)。首にリボン結びのチョーカーを巻き、胸元にはバラをかたどったブローチ。お腹の前に組んだ手には色とりどりの指輪。細い手首には宝石をちりばめたブレスレット。
だがそんな豪華な衣装とは裏腹に、女性の顔は不安げで心細そうだ。顔だけなら堂々とした王妃というより、美人の町娘といった感じ。親に無理矢理、一張羅を着せられた子供のような居心地悪さが、表情の全体から漂い出ている。
《なんか、アンバランスな絵》とアイリスは言った。じっと眺めていると、モデルの気持ちが伝播するように、不思議な圧迫感を覚えた。
陽が完全に沈むと、親衛隊員が二人を呼びに来た。「お食事の用意が整いました」
隊員の案内で食堂へ移動するも、入り口でアイリスは立ちすくんだ。入るのをためらうほど室内が、絢爛豪華だったからだ。
大きなシャンデリアが何灯も下がり、食堂は昼間のように明るい。照らし出された天井、柱、マントルピースは白地に金の縁取りがなされ、派手だが、品もある。
柱と柱の間には絵がかかっている。ユニコーンやフェンリルなどの幻獣が精密に描かれている。柱は大昔の神殿のようなコリント式で、贅沢な内装によく合っている。
中央に長大なテーブルが設置され、革張りのイスがずらっと並ぶ。金製・銀製の燭台が等間隔で置かれ、すべてに火が灯っている。
上座に最も近い席に二人は案内された。隊員がイスを引いてくれようとしたが、セナンを安全に座らせるのは自分の役目なのでアイリスは首を振った。
セナンを座らせ、自分のイスを彼のイスに密着するほど近付けた。隊員に、「セナンの食事をサポートするためよ」と説明した。
食前酒のシャンパンが運ばれてきた。給仕も親衛隊員が行っていた。そう言えば、ルゥと親衛隊以外の人間を見かけない。ルゥは何もかも隊員たちにやらせているのか。
給仕の隊員が「しばらくお酒を召し上がりますか? それとも前菜をすぐにお持ちいたしますか?」と尋ねた。
《前菜、どうする?》アイリスはセナンに聞いた。
《すぐほしいな。お腹すいちゃったよ》セナンはお腹をさすった。
「すぐちょうだい」
前菜が運ばれてきた。洋ナシに溶かしたチーズをかけ、花弁の形に折りたたんだ生ハムを乗せた、見た目もきれいな品。アイリスはセナンに皿の位置や料理の形状を教えた。
セナンはひとくちたべて、唇をほころばした。おいしいようだ。
アイリスもフォークを取った。
と、どこからともなく親衛隊員が十名ほど小走りにやって来て、次々に空いている席に着いた。アイリスはナイフを持ち上げたまま、隊員たちを見た。彼女らは酒を飲むわけでも食事をするわけでもなく、ただじっと上座を見つめている。
アイリスも隊員たちの視線を追った。ルゥの座るべきそこは無人で、そう言えばルゥはどこに行ったんだろう、まあいないほうがありがたいけど、と思った。上座の背後には紫色の緞帳が下がっている。前に低い階段があるのでステージか何かだ。
緞帳がするすると開き始めた。アイリスはいやな予感に打たれて背筋を伸ばした。
緞帳の向こうには思ったとおり大きな舞台があった。中央に、真っ白いひだひだ付きの衣装を着たルゥが立っていた。アイリスはますます不安になって、セナンの手を握った。セナンは食事するのをやめて、アイリスのほうを向いた。
ルゥは陶酔したような、気味の悪い目つきでお辞儀した。ゆっくり顔を上げ、高らかに言う。
「これより、親愛なるアイリスとセナンの酒席の肴に、ひとり芝居「人食いと青年」(馬車の中で熱く語ってくれた劇だ)を上演する。二人には歓を尽くしていただければ幸いだ。ゆるりとご覧あれ」
アイリスはナシと生ハムにフォークを刺すのも忘れて、おののいた。これはえらいことになると直感した。《ひとり芝居、だって》とセナンに言うが、指があまりにも震えていたので、セナンは何も返さずに、アイリスの手をただ撫でた。
そして、女優ルゥによるひとり芝居は始まった。
衣装は贅沢なものだし、小道具も本格的、舞台装置・書割も立派。舞台美術は非の打ち所がない。
しかし肝心の演技は非の打ち所しかなかった。完膚なきまでにズタボロ、子供の学芸会もいいところ。
棒を飲んだような動作に、棒読みを演技の基本ラインに、そこへ数え切れない致命的ミスをルゥは積み重ねてゆく。
セリフに抑揚が付きすぎ、言葉が聞き取れない。力みすぎて声が裏返る。短いセリフでも噛む。納得がいかないと、客などお構いなしに同じシーンを何度もやり直す。すべての登場人物を一人で演じるのに、声色を変えたり表情を変えたりといった役作りをせず、全部一緒。
始まって一分でアイリスは食欲を失い、フォークを下ろした。冷や汗を額に浮かべて黙る。
《拷問だよ……》ルゥのセリフを聞きながらアイリスは言った。《ひどすぎるこんな芝居。完全に拷問》
アイリスのみぞおちは火がついたように熱くなる。じっとしているのがつらくなる。
イスに掛けている十名ほどの隊員は芝居のところどころで拍手をしたり、掛け声を入れたりして、舞台を盛り上げようとしている(ただし全員無表情)。彼女たちはルゥを景気づける「観客要員」らしい。
芝居が始まって十五分ほどして給仕がやって来た。「お下げしますか?」
アイリスはゆがみきった顔でうなずいた。結局前菜には一口も口をつけなかった。
セナンは落ち着いたたたずまいで、すでに前菜は平らげ、スープを飲んでいる。アイリスは耳も聞こえず目も見えないセナンを、今だけは心からうらやましく思った。
スープが運ばれてくる。ごぼうのポタージュスープ。きれいなクリーム色で、とてもおいしそう。だがこの状況では、とても口をつける気になれない。せめて薄味の透明なスープだったら、まだ飲めたかもしれないが、濃厚なポタージュでは飲んだ途端、胃が逆流しそうだ。
結局アイリスは、スープにも一口も口をつけなかった。セナンはすでにメインディッシュの肉料理を食べている。
アイリスの分も運ばれてくる。濃厚なソースのかかった牛ヒレ肉。付け合せにチンゲン菜、にんじん、ピンポン玉大のジャガイモ、シメジのバター炒め。とてもおいしそうだ、こんな状況でなければ。
そうしている間も、芝居はひどいクオリティで続いている。ああ、もう、本当に気絶しそう、とアイリスは思った。
やはり口をつけないままメインの皿も下げられた。
「待って」アイリスはキッチンへ戻ろうとする給仕の袖をつかんだ。「デザートはいらない。そんなのいいから、シャンパンをじゃんじゃん持ってきて、早く」
アイリスはいよいよ気が狂いそうになって、アルコールに逃げることにした。前後不覚になるまで酔っ払って、全ての事象を意識の彼方に追いやって、この拷問を耐え抜くのだ。
給仕が次々に持ってくるシャンパンを浴びるように飲んだ。それだって相当な高級品のはずだが味もヘッタクレもない。とにかく流し込んだ。
空っぽの胃に落ちるアルコールは効果てき面だった。アイリスの目と耳から、ルゥの芝居が徐々に遠のいていった。
そして、劇が終わったときにはアイリスはべろんべろんになっていた。お辞儀しているルゥも、閉まる緞帳も、何もかもがぐるぐる回転していた。シャンパンをちびちび舐めるセナン、天井のシャンデリア、壁のマントルピース、自分の握りこぶし、すべてが。
頭をゆらゆらさせてアイリスは言った。《ぐっでんぐっでんだよセナン。やっばい。シャンパン、効くわぁこれ》
《アイリス、よくがんばったね》セナンはアイリスをねぎらった。
えへえへへへええへぇへぇえ、とアイリスは不定形の笑いを漏らした。《褒められちゃったぁ》
何とかこうとか立ち上がり、歩くことはできた。しかし、酔っ払いと盲人ではあまりに危なっかしく、親衛隊の人間が「部屋まで支えていきましょう」と申し出てくれた。
アイリスは手をぶんぶん振って、「らいじょうぶ、らいじょうぶれ~す」と断った。それから突然「おまえら、ヘナンに指一本触れるんやないろ~。ヘナンはあたしが守るんらぁ、お前らなんかに助けられてたまるかっての~」と舌足らずに凄んだ。
親衛隊員は困ったように初めて笑みを見せた。
アイリスは客室のベッドにへたり込み、セナンも横に腰掛けた。ついて来てくれた親衛隊員が、酔い覚ましのブラックコーヒーを入れてくれた。
コーヒーを飲んで時間を過ごすうちに、少しはアイリスも落ち着いた。《最悪なところだけど、コーヒーだけは本当においしい》
三十分ほどしてルゥがどやどややって来た。隊員数名と部屋に入ってくるなり「劇はどうだった?」と尋ねてくる。
アイリスはコーヒーの湯気を漂わせながら、「すごかったわ。あんな芝居、はじめてよ」と言った。「あんなつらい劇を長々と演じ続けられる根性に感服したわ。あなたはそんじょそこらの凡人とは違うのね」
皮肉で言ったのだが、ルゥはうれしそうに笑顔でうなずいた。
「そう言ってもらえると私もやったかいがある。お前たちは分かってくれる人間だと思っていたよ」
《喜んでる》アイリスはあきれた。《おめでたい女ね》
《育ちがいいからね》セナンもカフェオレをすすりながら返した。
「あの劇を書いた作家には他にも代表作があるんだ」とルゥは楽しそうに続けた。顔だけなら大劇団の看板女優にもなれそうな美人なんだけど、とアイリスはぼんやり思った。
ルゥは興奮気味に語る。「『をこ絵とナニする女』という幻想怪奇かつ妖艶な作風の傑作で、これもいずれお前たちに演じて見せたいと思っているのだが、これはな、蜃気楼を見に行った帰りに、をこ絵(※滑稽な絵)を馬車の窓へ立てかけていた妙齢の女を見かけた主人公の若い娘が、その女に興味を抱いて話しかけるとたちまち二人は意気投合、そのをこ絵のいわれを教え・教わるのだが、そのうちに非日常的な性の雰囲気が二人の身を包み出し、腹の底を焼かれるような心持ちで互いに身をよじり始めると目的地に着く前の宿屋街で二人ともに下車してしまい、主人公たちは手ごろな宿に一緒に泊まって肉体関係を持つに至るが、それぞれにはそれぞれの家庭やしがらみが当然あって、それらがこの行きずりの肉体関係に端を発して崩れ出し、互いの家族や恋人などを巻き込んで、それぞれの思いや主張が複雑に絡まりあい始め、そして」
「待って!」とアイリスは大声で止めた。ルゥはきょとんとした顔で口を閉じた。
「あのね、さっきシャンパンを飲みすぎて……」アイリスはこめかみをもみながら言った。「今夜はもう休みたいの」
飲みすぎたことも、疲労困憊したので早く眠りたいことも別に嘘ではない。
「そうか……残念だが友の願いなら仕方がない」まだまだ話し足りなさそうな顔をしていたが、ルゥは分かってくれた。
ではお休み、とルゥが出てゆくと、アイリスは心底ほっとした。顔を上げると、アンバランスな女の肖像と目が合った。
――――
柵の向こうに人が倒れている。
トイレの前に立っていたアイリスは、あわてて柵に駆け寄った。柵を乗り越え地面に飛び降り、倒れた男の様子をうかがう。浮浪者だろうか、ぼさぼさ頭に薄汚れた格好。年齢は六十代後半。脈もなく、息もしていない。既に事切れている。
明るい月明かりの下、目立った外傷はない。野垂れ死にだろう。
かわいそうに、とアイリスは思った。今日、自分たちも傭兵として参加していた戦争が終わった。こちらの国の勝利で、明日は城で祝賀パーティーが開かれる。何もそんな日に野垂れ死にしなくても……。せっかく戦争を生き延びたのに。
そこまで思ったところで、空が暗転した。月明かりが「何か」にさえぎられ、アイリスも死体も闇に覆われた。空を見ると、大きな蝶のようなものが浮かんでいて息を呑んだ。
アイリスは体を硬くする。それはゆっくりと地面に降りてきた。「あっ!」と気付いたが、もう遅い。
あのオニだった。父の魂を奪い、セナンの両目を奪った、あの。狐のような鼻、ヤギのような角――。
目の前で起こっていることが信じられなかった。こんな偶然があるだろうか。ぼう然とする思いで、アイリスは目を丸くするしかない。ずっと探し求めていた相手が、何の前触れもなく、突然目の前に現れたのだ。
オニはニヤッと笑った。「驚いたな。何年ぶりだろう。お前のこと、覚えているぞ」
アイリスは動けなかった。一歩も。あまりに唐突にオニに出くわしたショックと恐怖で、頭が真っ白になっていた。
オニが覆いかぶさってきた。組み倒され、アイリスは首を振って抵抗した。オニのほうがずっと力が強い。
「セナン!」とアイリスは叫んだ。「セナーン!」
「助けは来ないだろう」とオニは、昔と変わらない朗々とした声で言った。「あの男は確か耳が聞こえない」
オニが右手をこぶしにした。人差し指と小指の付け根からとがった骨が突き出る。
「セナン! 助けて!」聞こえるはずがなくても、呼ばすにいられない。
オニが言った。「あの時、持ってゆけなかった瞳をもらっていこう」
アイリスは叫ぶのをやめた。絶望が全身の神経を殺した。力が入らない。もうだめ。おしまいだ。
オニは右手を引き、上半身をのけぞらせた。
月明かりがオニの胸板を照らした。――
アイリスは目を開けた。目の前は真っ暗で、全身をふわっとしたぬくもりに包まれている。自分はいまベッドの中にいて、時刻は分からないが多分真夜中。
また夢か……。アイリスはため息をついた。すると息が目の前で跳ね返って、自分の顔に生暖かく吹きかかった。セナンの背中があるのだ。アイリスは背中に抱きつき、腕を回した。セナンは軽く身震いして、寝ぼけながらその手を握り返した。
大きなダブルベッドの中央に、アイリスとセナンは身を寄せ、横になっていた。
アイリスは再び目を閉じた。何も考えず、もう一度眠ろうとした。しかし、うまくいかない。眠りをはばむ、不愉快なものが胸にわだかまっている。いやな夢の感触が心にこびりついている。
それから、ふと強い尿意を感じた。膀胱がパンパンだ。大量に飲んだシャンパンと、酔い覚ましに三杯飲んだブラックコーヒーのせいだ。
隊員に教えられたトイレは食堂を通り越して、さらに先の廊下の奥。遠い。この部屋の近くにもトイレくらいあるかもしれないが、夜中に勝手を知らない他人の家、しかもやたら広いお姫様の居城をうろうろするのはいやだ。
しかし、このままでは眠れそうにもない。アイリスは観念して、静かにベッドを抜け出し、部屋を出た。
廊下は肌寒いくらいひんやりしている。大理石の床の冷気が足元を這い登って全身を包み、ぬくもりを奪ってゆく。さっさと用を足して戻ろうと思いながら廊下を進んだ。
ふとアイリスは立ち止まり、目を細めた。廊下の先が明るい。ドアのひとつから灯が漏れているようだ。
アイリスは灯りへ向かって歩いた。食堂だ。両開きの扉が開け放たれて、灯が廊下に漏れ広がっている。
食堂の前に差し掛かると、アイリスは何気なく中をのぞいた。そして、固まった。
五人いた。ルゥと、親衛隊員が四人。親衛隊のメンバーは全員、デザイナーを総動員して作らせたという劇の衣装を着ている。だがルゥだけは裸だ。一糸まとわぬ裸体をシャンデリアのもとにさらしていた。いや――よく見ると下半身にだけ細く黒いパンツをはいている。その股間部分には、男性器を模した赤黒い突起がついている。
ルゥの前には、やはり何かの劇のコスチュームらしいフリルつきのドレスを着せられた隊員が、テーブルにひじをついて尻を突き出す体勢になっている。スカートはめくりあげられ、下半身がむき出しだ。
その股間に向けて、ルゥは腰を振っていた。
隊員は両手首を縄で縛られ、口に猿ぐつわをかまされている。ルゥに股間を突かれるたび隊員はあえぎ声を漏らすが、猿ぐつわのせいで声がくぐもってしまう。
他の隊員に、ルゥが声をかけた。隊員は飲み物の入ったグラスを差し出した。ルゥは目の前の隊員の尻を平手でたたきながら、グラスの中身を飲み干した。満足げに口元をぬぐうと、また腰を振り出した。
アイリスは動けなかった。その場を立ち去れず、目も離せない。
不意にルゥがこちらを向いた。目が合って、アイリスは心臓が飛び出しそうなほどびっくりした。のぞきを弁解する言葉が頭にあふれる。が、言葉が口をつく前にルゥのほうが先に言った。
「どうした? 眠れないのか?」
アイリスはしばたたいた。普通の言い方。表情も落ち着いている。こちらをとがめもせず、あわてもしない。当たり前の態度。
「飲みすぎたせいで、トイレに起きたの」アイリスもルゥに合わせることにした。心を無にして何でもないような表情を浮かべ、動揺を悟られないようにした。
「ああ、トイレだったら、客室の廊下の突き当りを右に行ったところにもある」ルゥは腕を振り、指をさして教えてくれた。その間、腰の突起は隊員の股間にめり込んだまま。
「そうなの、ありがとう。そっちへ行くわ」アイリスはきびすを返した。今来た廊下を早足で戻り、言われたとおり突き当たりを右に行ってトイレに入り、用を足した。排尿している間に、アイリスの心にふつふつと嫌悪感がせり上がってきた。
急ぎ足で部屋へ戻り、ベッドにもぐり込んでセナンの背中に顔を押し付けた。
息を大きく吸い込む。セナンのにおい。かぎなれたセナンのにおい。
セナンが起きて身じろぐ気配がした。アイリスは顔を押し付けたままセナンの手を握った。
《どうしたの?》とセナンが尋ねた。
《変態よ、あいつ》早口に(手を速く動かして)アイリスは返した。そして今見てきたものをセナンに話して聞かせた。
《本当に最低よあの王女。手下に劇の衣装着せて、縛って猿ぐつわかませて……女同士で……それも客が泊まってる夜に。きもい。気持ち悪い。マジで最悪》
セナンは寝返りを打ってアイリスのほうを向いた。そして何も言わず、アイリスを抱きしめた。
アイリスも文句を言うのをやめ、セナンの胸に顔をうずめた。そしてもう一度セナンのにおいを肺一杯に吸い込んで、目を閉じた。
翌日、王都に帰った二人は取りも直さずファンを訪ねた。
城の居館の前で馬車を降りると、昨日同様、ティナが二人の帰りを待っていた。ティナの顔を見た瞬間、アイリスはほっとしてへたり込みそうになった。
ファンの書斎まで案内するよう頼むと、ティナは困り顔で口ごもった。「あの、ファン殿下は今、執務中ということですので……」
「お願い、大事な話があるの」アイリスはティナの肩をつかみ、じっと目を見た。
本当は大事な話などなかった。ルゥの身内であり、自分たちを雇い入れた張本人でもあるファンに、昨日のことについて一言文句を言ってやらないと気がすまないだけだった。
「わ、分かりました、ではこちらへ」アイリスの迫力に押し負けて、ティナはきびすを返した。
また長い回廊を、ティナの案内であっちこっちとうろうろし、やがて見覚えのある廊下に至った。廊下の先に書斎のドアがある。
ドアの前にクランカとインザが立っていた。ティナとアイリス・セナンが歩いてくるのを見て、クランカが止まるように身振りした。
「待て待て」
「ルゥのことで話があるの。ファンに会わせて」アイリスはクランカをにらみつけた。
「殿下はいま執務中なのだ」クランカは優しい声で言った。ヒゲの動きまで優しい感じ。「またの機会にしなさい」
アイリスは首を振る。「どうしても会いたいの。クランカさん、掛け合ってよ」
クランカは目をぱちぱちさせる。「拙者に言われてもどうにもならんよ。執務中の主君に口をはさむことはできん」
「あのねえ、昨日はほんとにひどい目にあったんだから、一言くらい弟にも文句を……」
「まあまあ、ねえさん」インザが愛想の良い笑顔を浮かべて、クランカとアイリスの間に入った。「とりあえず落ち着こうや。一体全体、どうしたってんだい?」
《二人に昨日のことを話してみたら?》とセナンが言った。
アイリスはため息をつくと一気に話した。
聞いたこともないマニアックな演劇の話を延々聞かされたこと。頭痛がするほど奇天烈な城の内装や衣装。食欲を根こそぎ奪った素人芝居。そして夜中の食堂での女同士の乱交。……
話を聞き終えたクランカは、げっそりして見えた。
「二人とも、大いに災難だったなぁ。お主の見聞きして来たとおりだ、姫様は大変変わったお方でな。考え方、ものの見方、ご趣味、そして……その、お心も」
「変わりすぎよ」とアイリスは言った。
「あのお城も、ご自分の遊びのためだけに建てられたものだ。相当な税金をつぎ込むことになり、ファン王子もずいぶん反対したようだが……結局押し切られてしまった」クランカは天を仰ぐように遠い目をした。
アイリスも何気なくクランカの視線を追った。視線の先の壁には立派な彫刻があった。
兜からすね当て・鉄靴までひとそろいの甲冑と、その左右を飛び回る二人の天使、というモチーフの彫刻。天使はうれしそうにラッパを吹いて甲冑を祝福している。だが甲冑には、顔がない。面頬の開いたデザインだが、中身は空っぽだ。天使はがらんどうの鎧を祝っている。
クランカは遠い目をしたまま言った。「一度だけ、落成のときにお祝いということで呼ばれ、拙者も城内を拝見したが、お主と同じで頭が痛くなったよ。壁や天井一面に描かれた絵もそうだが、あの豪華絢爛な外観に食堂に遊戯室にベッドルーム――すべてが拙者なんぞの理解を超えていた」
「でしょ? クランカさんもそう思うでしょ」アイリスは力強くうなずいた。「私にもちっとも理解できないわ。いかれちゃってるわよ」
「それに、姫様は……」クランカはさらに何か言いかけたが、憮然と口を閉じた。
「なあ、ねえさん」インザがニッと口角を上げてアイリスを見た。「この国、嫌いになっちまったかい?」
アイリスは少し考えて答えた。「少なくとも王女は、嫌いよ」
「まあ、そうだわな」インザは苦笑し、セナンを見た。「あんちゃんはどうだい?」
《この国が嫌いか? って》
セナンは答えた。《好きも嫌いもないよ。雇われの身だからね、目的のために仕事をこなすだけさ》
インザは笑って歯を見せた。「なーるほど、優等生って感じの答えで……食えないねえ」
インザの言葉を伝えると、セナンもニコッと笑い返した。
城を出て、ティナと三人で宿の近くのレストランに入った。三日前のとは別の、せま苦しい小さな店をいい加減に選んだが、料理は大変おいしく、今度は正解だった。
食後のコーヒーを飲みながら、気の収まらないアイリスはティナ相手に愚痴った。
「……まあそういうわけでさ、とにかくひどいもんだったわ。生まれて初めてよ、あんな気持ちの悪い思いを一日に続けざまに味わったのは」
「本当にお疲れ様でした」ティナはねぎらい顔で言った。「それにしてもルゥ殿下のお城、噂には聞いていましたが、本当にすごいところのようですね」
「プッ。やっぱり噂になってるんだ」アイリスは吹き出した。
「それはもう。それだけの所ですから」
《王様は一体どう思ってるんだろう?》とセナンが言った。アイリスは国王エゾのやせ衰えた顔を思い出した。
セナンの疑問を伝えると、ティナは声を落とした。
「陛下は、あのお城のことは別に嫌がっているとか怒っているとか、そういうことはまったくないそうですよ。ルゥ殿下のことを小さな頃から、それはもう大変に溺愛してらっしゃるので」
「へえ?」アイリスは意外に思った。三日前に話した感じでは、娘のことをかなり突き放しているようだったけど。
「例のお城を建てる際にも、ファン殿下や議会の大臣様たちは強く反対したそうです。でも、結局陛下が建設をお許しになってしまいました。趣味のための城を建てるから国庫を開放して、というルゥ殿下の願いを、陛下が鶴の一声でかなえて差し上げたんです」
「そんな思い切りのいいことしそうには見えなかったけどなあ」アイリスは王様のしわだらけの顔を頭に浮かべた。
「確かにお国のことについてはもう全部ファン殿下にまかせっきりになっていて、口出しなど一切されないそうです。でもルゥ殿下のことは今も誰にも文句を言わせずに可愛がって……というか甘やかしていらっしゃるという話です。何でも……私は存じ上げませんが、若くして亡くなられた王妃様に、ルゥ殿下は瓜二つなんだそうですよ。それでおかしな趣味を持とうが強烈な性格であろうが、娘には強く出られないんだって」
例の女の絵をアイリスは思い出した。
「王女も王様も最悪ね」アイリスはため息混じりに言った。
「あのう、お話は変わりますけど」ティナが笑顔を浮かべた。「お二人はこれまで世界中を旅してこられたんですよね? すごいなあ、私なんか、この街からほとんど出たこともないんですよ」
「え? ……そうね、うん」アイリスはひとまずルゥのことは忘れて鼻の頭をかいた。「すごいなんてこと、ないわよ。ただ仕事であちこちふらついてただけだもの。でも、まあいろんなところを回ったね。仕事じゃなきゃ観光でも楽しみたいような所もあれば、二度と来たくないところもあった」
これまでの旅を思い出すと、アイリスの心も少し落ち着いた。
《ティナは一度もこの街から出たことがないの? 旅行はしないほう?》セナンがアイリス越しに尋ねる。
ティナはこっくりうなずいた。「ないです。でも今お金を貯めていて、来年の春にお休みがもらえたら、ちょっと東のほうへ観光に出かけてみようかなと思ってますけど」
「東?」とアイリスは首をかしげた。
《東には有名な温泉地があるよ》セナンがアイリスに教えた。
「ああ、温泉かあ……いいねえ」
「はい、父も連れて、親子でゆっくりできればいいなって思って」
ニコニコしているティナに、アイリスは少し悲しく思う。
《戦争が始まっちゃったら、そんなこと言ってられなくなるかもね》
《そうだね、かわいそうだけど》セナンも同意した。
「あ」とティナが不意に言った。「子供の頃、一度だけこの街を出たことがありますよ。乗り合い馬車で四つ隣の街まで行っただけですけど」
「へえ? 何をしに行ったの?」
「母に会いに」とティナは答えた。「私が五歳の頃に両親が離婚して、母は家を出て行きました。私、十二歳の頃にひとりでその母を訪ねたんです」
「へーえ」アイリスは興味をそそられた。「それは結構な冒険じゃない。お母さんには会えたの?」
ティナは笑って首を振った。「結局会えませんでした。お家はすぐに分かりましたけど、母はもう他の人と再婚していて子供もいましたから。ドアの向こうで「お父さんのところへお帰りなさい。遅くならないうちに」と言うばかりで、出てきてはくれなかった」
「そっか」アイリスはうなずいた。「切ないね。それでどうしたの?」
「言うことを聞きましたよ」とティナは言う。「母の気持ちは分かりました。ちっちゃい頃に別れた娘に訪ねてこられて、うれしい気持ちもあったでしょうけど、つらかっただろうとも思います。私がいつまでもドアをたたいていたら、ますますつらくさせてしまう――言うことを聞かなきゃ、って」
「ふーん」とアイリスはうなった。「十二歳でよくそれだけ聞き分けよくできたわね」
「十二歳なら、ある程度大人の事情も分かりました」ティナは微笑んだ。「だけど母の顔、一度でいいから見たかったんです」とティナは続けた。「向こうにどんな事情があろうと、その気持ちを抑えることはできなかったですね」
《帰り道、つらくなかった?》とセナンが尋ねた。
「つらかったですよー」ティナは苦笑した。「もう本当につらかった。何がつらかったかって、母が会ってくれなかったことよりも、「会ってくれないだろうな」って分かってたのに、会いに行っちゃった自分が、みじめで哀れでやりきれなかったです。分かってたけど、気がついたら馬車乗り場に立っていて、目の前に停まった馬車に乗り込んで、母のいる街で降りてた。母が別の街でまったく新しい生活を始めてること、近所の人の噂で知っていたんです。無理に訪ねて行っても会うのは難しいって分かってました」
ティナはため息をついた。「帰りの馬車の中で同じことをずっと考えてました。悲しい思いを味わうって分かっていながら、どうして会いにいっちゃったんだろう。私、一体何やってんだろう。って」
アイリスは深く二度うなずいた。「分かる。分かるわ、ティナ。よく分かるわよ」
ティナはしばたたいてアイリスを見た。
「私には分かる」アイリスはもう一度うなずいた。「分かっているのに、そうせずにいられないことってあるわ。やっても無駄だと知ってるのに、やらずにいられないこと。やめたほうがいいと思いながら、動かずにいられない。人はそういう衝動に駆られることがある、人生に一度や二度は必ずね」
しゃべるうちにアイリスの心は、自分の内に沈んだ。「ほんとにそうですよねえ」と同意しているティナにかまわず、テーブルに視線を落として何度も自分の言葉にうなずいた。
隣のセナンはおいしそうに紅茶を飲んでいた。
翌日は打って変わって何事もなく、穏やかに時間が過ぎた。二人は部屋で日がなダラダラした。ティナはたまった洗濯物をクリーニングに出したり、出しておいた洗濯物をクリーニング屋から引き取ってきたり、二人にコーヒーを入れたり、「手料理を振舞いましょう」とおいしい食事を作ってくれたりした。
――――
ベッド脇のチェストにウィスキーの瓶とグラスが置いてある。窓の夕陽を受け、光と影の複雑な模様をチェストに描いている。グラスは空っぽ。
ベッドにはセナンが寝転がっている。
アイリスがトイレから出てきた。つま先をとがらせて背伸びする。セナンの横に腰掛け、言った。《一日中何もしないでいると、かえって疲れる。体がなまっちゃって》
《アイリスはやっぱりアスリートだね》とセナンは返した。
《セナン、退屈じゃない? 本でもティナに頼んでみようか?》
セナンは、アイリスに話して聞かせてもらうことで読書する。
《うん、いいね》セナンはうれしそうにうなずいた。《ファン王子の作品なんてどう?》
《ええ~》アイリスは大げさにいやがった。《気乗りしないなぁ》
「失礼しまーす」ティナが大きな封筒を持って入ってきた。「お手紙です。カウンターで預かりました」
アイリスは眉を上げた。「私たちに? 誰から?」
「差出人は書いてありませんね」
アイリスは封筒を受け取って表書きを見た。アイリスとセナンの名がフルネームで書いてある。
《王子からじゃない?》とセナンが言う。《僕らの名をつづりまで知ってるのは王子だけだ。契約書を持っているのは彼だからね》
封筒は五ミリほどの厚みがあった。さっそく開けてみると、何やら紙の束が入っていた。
頭の紙にこう書かれていた。《「私の新作小説が完成した。大切な友である両名に読んでもらいたく、少々かさばる荷物を送付した。時間の許すとき、暖炉のそばで、安楽椅子にもたれて楽しまれよ。マフ・エロームブレルツ拝」……だって》
《王子の小説の原稿ってこと?》セナンが笑った。
《そうみたい》アイリスは二枚目の紙も読んだ。《「この作品はフィクションであり、実際の人物・団体・国家とは一切関係がないことを明記する」だそうよ。何のつもり?》
《とりあえず読んでみようよ》セナンは楽しそうだ。《アイリスは気乗りしないかもしれないけどね》
ベッドに腰かけ、アイリスはセナンにファンの小説を読み聞かせた。それほど長くない中篇で、宵の口までには読み終えることができた。
およそこんな内容だ。
ある土地の領主タイガ家と、隣の土地の領主ウッシーロ家は仲が良かった。ある日タイガ家とウッシーロ家が、タイガ家の屋敷で会食をした。タイガの家の者たちと、招待されたウッシーロ家の者や家臣たちは、和気あいあいと酒やご馳走を楽しんだ。
そこへ、用事があるから出席できないと事前に申し出ていた、タイガ家の長女エリザが現れる。エリザは土地の外にまで噂が届くほどの美女だが、剣の腕前でも傑物という、界隈の名物のような人間だった。
しかしその時のエリザは、息荒く、目は充血し、顔は真っ青で無表情と、異様な雰囲気だった。家族やウッシーロの者たちが話しかけても、テーブルの一点を見つめたまま無言でいる。
突然エリザは顔を上げ「前からあんたに対して、腹の虫が据えかねていたんだ」と、ウッシーロ家の一人娘サベトを罵倒し始める。その内容は意味不明で、サベトを始めとした全員が一体何事かとあっけにとられる。
するとエリザは、わめき散らしながら壁に飾ってあった剣をとって、その切っ先をサベトに向ける。そして、驚いてなだめようとしたウッシーロ家の執事頭を斬り殺してしまう。一同、てんやわんやの大騒ぎとなるが、凶行に及んだエリザ本人は落ち着き払い、口元には笑みさえ浮かべている。
その後、タイガ家とウッシーロ家の間で難儀な話し合いがされる。今回の出来事にどのように落とし前をつけるか。タイガ家としては、娘は乱心(精神の病)であり、今回の凶行も病による妄想がさせたことだ、という方向で話をまとめたい。
しかし当のエリザは病どころか冷静そのもので、平然と「今回の件はあくまでサベトに非があり、私はその非を責め立てたに過ぎない。それを留めようとした執事頭が死んだのは、事情をきちんと理解せずに粗忽な行動に出た彼の自己責任だ。私には何の非もなく、ましてや心の病気などあろうはずもない」などと主張し、傲然としている。
しおらしく謝罪していれば、あるいは本当に病気らしくしていれば、昔からよく知っている仲だけに軽い賠償だけで済ませてやろうと思っていたウッシーロ側も、そんな態度で出られたら怒りを抑えられなくなる。結局、二領主間の協議はケンカ別れに終わり、このいざこざはやがて、血生ぐさい武力衝突にまで発展する。
エリザは実際のところ、狂ってなどいなかった。開戦前夜、彼女は部屋でひとり、愛用の剣を磨きながら澄み切った頭で考える。
これでいい。うまくいった。うまいこと戦争が始まってくれた。これでついに私はサベトを我が物にできる。
エリザは、ウッシーロの長女サベトのことを強く想う。
ああ、サベト。大好きなサベト。愛しいサベト。私の想いを踏みにじってくれた。私が勇気をふりしぼってした告白をすべて台無しにしてくれた。ああ、分かっている。お前は普通の健全な人間だ。まっとうだ。私のほうがおかしな運命を背負ってしまったのだ。女しか愛せないというこの身。それも、姉妹のように育った幼馴染のお前を愛してしまった……。この焼け付く想い、誰になんと言われようとも消すことなどできない。私はお前を必ず手に入れる。そのために戦争を起こすことくらいいとわない。戦勝してウッシーロを領地ごと手に入れれば、同時にお前も私の手中だ。もう逃げられない。お前は私に愛でられ、私とともに生きてゆくのだ。――
同性愛者であるエリザは、十代の終わりに幼馴染であるサベトに長年の恋心を告げた。しかし性的にノーマルのサベトにはその想いを受け入れてもらえなかった。それがエリザの憎しみに火をつけ、同時に愛しさをもより募らせた。エリザは戦争を起こしてサベトを自分の物とするために、向こうの執事頭を殺し、また話し合いの席ではわざと倣岸な態度をとってウッシーロを挑発したのだった。……
読み終えて、アイリスはセナンに尋ねた。
《どう思う?》
《そうだな……。アイリスこそどう思った?》セナンは聞き返した。
《つまんない》とアイリスは言った。《ストーリーに起伏もないし、どんでん返しもないし、ダラダラ話が進んで、これからどんな盛り上がりがあるんだろうと思ってたら、そのまま終わっちゃって……。領主の娘が執事頭を殺してしまうのはショッキングだけど、ただショッキングってだけじゃねえ……。そういう事件があって、どんなふうに問題が決着していくのか、大事なのはそこでしょ。
この終わり方はなに? これってまだ途中だよね? 続き物でないなら詐欺みたいなラストだわ。まあ文章だけは、すっきりしてて読みやすい。でも全体的にはひどい。こんなの読まなきゃ良かった、って小説。一体作者は、こんなものを書いて何がしたかったのか。意図がちっとも分からない作品ね――本当にフィクションだとしたなら》
《そうだね》セナンもうなずいた。《フィクションだとしたなら》
《これ、明らかにルゥだよね。ルゥがモデルでしょ?》とアイリスは聞いた。
《だろうね》
《要するに、前にファンが言ってた、ディディリアの大臣を殺してしまった犯人ってルゥだったってことよね。……まあ、多分そうじゃないかとは思ってたけど》
《僕もそんな気がしてた》
《それから、エリザがサベトに惚れてるって下り。これはつまり、ルゥはあのカジェ王女に惚れてるってことよね》
《多分ね》
アイリスはため息をついた。《ドレスを渡した時、おかしいと思ったんだ。ただの意地悪で頼んだにしては、異常な喜び方だなって。ドレスに顔をうずめちゃったりして》
《やっと意味が分かったね》
《ファンに会いに行こう。今すぐ》アイリスは原稿を置いて立ち上がった。《ドアを蹴り破ってでも、今度は話を聞かせてもらうわ》
《やめておいたほうがいいよ》セナンはアイリスの手を引いた。
《どうして?》
《行っても無駄だからさ。アイリス、なぜファン王子は「小説」なんて回りくどいやり方で、真実を教えてくれたんだと思う?》
《え? ……自分は作家だってことを、誇示したかったんじゃないの?》
セナンは首を振った。《王女が戦争のきっかけになる事件を起こした張本人だった――それは王子の立場上、事実として語るのが難しいことだからだよ》
《どういうこと?》アイリスは首をかしげた。
《小説だったら、ただの作り話だってギリギリ言い張れるでしょ? どんなにモデルになった事件があからさまでも、それが架空の土地を舞台にした架空の人物の物語なら、フィクションなんだよ。僕らが息巻いて、この小説に書いてあることは何だって尋ねても、王子は「自分の新作小説だ」と答えるだけさ》
《うーん……》
《王子は僕たちに「フィクションという建前で受け取って欲しい」と期待してるのさ。ならそれに合わせてあげたほうがいい。王子だって、都合が悪ければいつでも僕らをこの国から追放できるんだしね》
《……そうだね》アイリスは不満げにだが、うなずいた。《オーケー。この話はファンには絶対しないわ》
4
翌日の九時頃、インザが宿へやって来た。
「急でわりい、ねえさんたち」部屋に入るなり彼は手刀を切った。「城へ来てくんな。会議があるんだ」
アイリスたちはまだ朝ごはんを食べている最中だった。インザが急かすので、あわててハムエッグをコーヒーで流し込み、歯を磨いて着替えて、ティナに「行ってきます」と手を振って、二人が部屋を出たのが九時半。
インザによると、開戦に備えてルゥが作戦会議を開くので、二人にも顔を出してほしいのだという。
「何で? ただの傭兵よ、私たち」とアイリスが言うと、
「姫様がどうしても呼んでこいって、おっしゃるんだ。相当気に入られちまったようだな」と同情を込めた顔でインザに言われた。
歩いて行ける距離だが、インザは馬車を待たせていた。
インザと向かい合いに座って、アイリスとセナンはやっと一息ついた。
「作戦会議ってことはさ」とアイリスは尋ねた。「戦争がついに始まるのね?」
「さあな」インザは肩をすくめる。「外交大臣同士、毎日国境付近の宿で、話し合ってるようだが、いついつ開戦だってのは分からねえ」
「あのさぁ、本当に始まるんでしょうねぇ?」アイリスはかったるい気分を隠しもせずに聞いた。「この国に入って以来、ドレス盗んだり、ひとり芝居を無理やり見せられたり、王子にインタビューを受けたり、ろくなことをしてないわ、私たち」
「そうだなぁ」くっくっくとインザは笑う。「でもよ、今日は作戦会議だぜ。軍の実力者みんなで集まって、どう戦いましょうかって、熱く議論を交わすんだ。ちったぁお宅らの気分も盛り上がるんじゃねえかい?」
アイリスはため息をついてセナンの横顔を見た。《会議を開くのがルゥってのが、気に食わないのよ》
《まあ不安だよね》とセナンも同意した。《まっとうな話し合いの場になればいいけど》
「なあ、ところでよ」インザがセナンの左手を指差した。「あんちゃんイカした指輪してるよな」
《いい指輪してるな、だって》
《これは僕の親の形見なんだ。美しいエメラルドだろう?》セナンはアイリス越しに説明した。《十四歳のときに――傭兵として旅に出るときに、やっぱり親の形見だった旅行かばんの隠しポケットから、アイリスが見つけてくれたのさ》
「隠しポケット?」インザは眉を上げた。「そんなとっからエメラルドたぁ、ロマンのある話じゃねえかい」
セナンは笑う。《でもね、僕自身はこの指輪を一度も見たことがないんだよ。指輪が見つかった時、もう失明していたからね》
「ああ、そうなのかい」インザは神妙な顔でうなずいた。「そいつぁ残念だなあ。オイラはよぉ、宝石の良し悪しなんざちっとも分からねえ野暮天だが、でもこの指輪がすげえもんだってこたぁ分かるよ。窓の日差しを浴びて、きれいに光ってやがるじゃねえか。目の前で見てると、まぶしいくれえだ。きっとえらい職人が、てめえの全身全霊を込めて磨いた最上級品なんだろうなあ」
《そんなふうに言ってもらえると、うれしいよ》セナンは本当にうれしそうに微笑んだ。《かなうならいつか自分の目で、この指輪の美しさに酔いしれてみたいものだね》
「ああ、きっとできる、できるさ」インザは(セナンには見えないのだが)セナンを元気付けるようにうんうんうなずいた。「殿下や隊長に聞いたんだがよ、あんちゃんたち、オニとかいう化け物を追いかけてんだってな? で、その野郎をやっちまえば、あんちゃんの目も戻ってくんだろ? そうなったらもう、いやんなるほど酔いしれるってもんだぜ」
通訳をしながら、アイリスはうつむいていた。まつげを伏せて、嵐に耐えるようにじっとしていた。インザが彼女の顔をのぞき込んだ。
「どうしたい、体調でも悪いのかい?」
アイリスは顔を上げて、「ううん、大丈夫、平気よ」と首を振った。
長い廊下をインザに案内され、城の会議室に通された。部屋の中央に横長の大きなテーブルがあり、軽装の鎧や軍服を着た軍人たちのお歴々が並んで座っている。各々、憂鬱そうにうつむいていたり、ぼんやり窓の外をながめていたり、白けた雰囲気だ。
何人かは、アイリスとセナンに、はっきりと嫌悪の目を向けた。
《こっちをいやな顔で見てる連中がいるわ》アイリスも相手をにらみ返してやりながら言った。
《みんながみんな、傭兵に友好的ってわけじゃないようだね》セナンも苦笑した。
二人の隣に座ったインザが、横のクランカに尋ねる。「隊長、ルゥ殿下とファン殿下は?」
「ファン殿下は急用で参加されない」クランカは腕組みをして答えた。「……まあ、参加したくないお気持ちは分かるがな」
「ルゥ殿下は?」
「みなが揃うのを待っている間、お茶を飲みすぎてトイレに行かれたよ」
《あの姉弟はそんなのばっかりね》アイリスは言って、天井を見上げた。大きなシャンデリアがある。豪華さではルゥの城の物に劣るが、大きさでは負けていない。
「あ、このシャンデリアな」とインザが言った。「上げ下ろしの滑車が壊れちまっててよ、下ろせねえんだよ。火をつけられねえんだ」
「じゃあ、夜はどうするの?」とアイリスは聞いた。
「どうもしねえよ」インザはしれっと答える。「昼間に会議すりゃいいのさ」
「待たせたな」
赤いマントに白い皮鎧姿のルゥが颯爽と入ってきて、軍人たちの背筋が伸びた。
ルゥはテーブルの上座にかけ、全員の顔を見渡した。
「みな揃っているな。……さっそく話そう」ルゥは、ドンっ、と両こぶしをテーブルについた。「治水施設をたたく」
軍人たちが目を丸くし、インザが笑顔を消し、クランカが眉間にしわを寄せた。
ルゥは話し始めた。
「みなも知っているだろうが、憎きディディリアには巨大な湿地帯がある。大きいもの小さいもの、すべてを合わせた面積は国土の半分だ。ディディリアはどろどろの沼地に上に、城も街も建設しているのだ」ルゥはアイリスとセナンを見た。お前たちのために説明している、という意味だ。「ディディリアの水はけの悪さは尋常でない。古文書にも、洪水で大勢の人間が死んだという記述がいくつもある。過去、あの国は水害によって何度も滅亡しかけているのだ。
そんな土地が現在、問題なく乾いているのは、国土の東西南北にある治水施設のおかげだ。私も昔、見学に訪れたことがあるが、堅牢な石造りの、立派な建物だったぞ。あそこには常時、有能な魔法使いが四人、詰めている。交代で魔法を放ち続け、二十四時間体制で雨水を海へ排水しているのだ。そうして洪水を防ぎ、ディディリアは国家として成り立っている」
ルゥは一息入れた。後ろの親衛隊にお茶を入れさせる。
「治水施設をたたけば、ディディリアは浮き足立つ」湯気の向こうでルゥは口角を上げた。「軍部はあわてて部隊を四つの治水施設へ向かわせる。中央の警備は手薄になる。そこをわが軍の大部隊が一気に攻め込む。それで作戦終了、ディディリアは我らがトラーベモアの軍門にくだるというわけだ」
会議室を不気味な静けさが包んだ。
《ルゥの作戦ってどれくらい現実的なんだろうね》アイリスはセナンに言った。
《さあねえ》セナンは首をかしげた。《その施設の情報がないからね、何とも言えないな》
「殿下、お尋ねしてもよろしいでしょうか」クランカが手を挙げた。
「何だ」
「治水施設をたたく部隊の規模は、どの程度でしょうか?」
「小規模だ」ルゥは即答した。「これは奇襲作戦だ。大勢で押しかけたら、すぐばれる。少数精鋭――まあ一箇所につき四人といったところだな」
「で、では……」クランカは腹痛に耐えるように汗を浮かべる。「恐れながら申し上げます。ディディリアの治水施設は拙者も一度見学したことがございますが、大変に堅牢な建物でございました。あれはディディリアにとって国家の心臓とも言うべき、重大な施設。警備の堅さは中央の城以上とか……。そこへたった四人での奇襲とは、あまりに分が悪うございます」
ルゥは冷たい目つきで聞いている。
クランカはがんばった。「ですので殿下、どうかお考え直しをお願い申し上げます。その作戦、そのまま決行しましたら、おそらく十六人の兵は犬死でしょう。治水施設を占拠することもかなわず、ただ貴重な命をみすみす失うばかり……。それでは戦いにもなりません。もし本当に治水施設をたたくおつもりでいらっしゃるなら、全面対決覚悟で大軍を差し向けるべきです。そこまでしてやっとどうにか陥落させられるか……それほど堅牢な施設です。どうかお願い申し上げます、いま一度再考のほどを」
ルゥは腰の剣を鞘ごと抜いた。腕を一閃――柄でクランカの頬を殴った。クランカはイスごと背後に倒れて、頬を押さえた。指の間から血がにじんだ。
「愚か者が!」ルゥは顔面蒼白でクランカを怒鳴った。「口答えしおって馬鹿者め。貴様はそれでも兵か。国をしょって立つ兵隊か。分が悪いだの犬死だの大軍を差し向けるだの、腑抜けた言葉ばかり並べおって。数千の兵を率いる隊長の肩書きが聞いて呆れるわ。貴様のでかいばかりの図体は何のためにある? 戦うためではないのか? 貴様の腰の剣は何のためにある? 敵を切り刻んでマナスにして、血で大地を洗い流すためではないのか? 情けないセリフなど聞きたくはない!
私はトラーベモア皇女ルゥだ、かしずくべき主君を前にそのような弱腰、恥を知れ! 黙って私の命令に従え! 私の言うとおりにして殊勲を立てて見せろ! 私を喜ばせて見せろ!」
ルゥは床を蹴りつけ、続けた。
「いいか? もう一度言うぞ。治水施設を少数精鋭でたたけ! これは命令だ! 口答えは絶対に許さん! 私に意見する者は地獄を見るぞ。頭蓋を割って、脳みそを豚小屋の豚どもの餌にしてやる。目は犬どもに、鼻は猫どもに、他の部位はすべて山のカラスについばませる。いいか腑抜け! やれ! やるのだ! やってみてだめならまた考える。まずはやれ! やりもしないで逃げる軍人があるか! トラーベモアのために死ぬ気のがんばりを見せてみろ! 死ぬ気のがんばりを! そして死ね! できぬ者、役に立たぬ者は死ぬがいい。極つぶしの役立たずなど、わが家臣にはいらん。そんなクズどもは、生き恥をさらすより死んだほうがよほどいい! やれ! やることをやって派手に死んでみせろ!」
クランカは難儀そうに上半身を起こし、何とも言えない悲しげな顔でうつむいている。その白髪まじりの頭に、ルゥの暴言がガンガン浴びせられた。
インザも、会議室にいる他の誰も無言。目を伏せ、嵐に耐えている。
アイリスは我慢できなくなってきた。そもそもルゥに対してはずっとイライラを募らせていたのだ。
「死ね! 死ね!」ルゥは言い続けている。「私のために死にに行け、腰抜けども!」
「てめえ、いいかげんにしろ!」大声で怒鳴り、ついにアイリスは勢いよく立ち上がった。「さっきから黙って聞いてりゃ、うすら汚い罵詈雑言、グダグダグダグダ並べやがって。死ぬ気のがんばりを見せろ? バカヤロウ、少数じゃ難しい作戦だから、クランカさんはわざわざ意見してやってんだろ。いいか脳タリンの田吾作、人様の意見をきちんと聞いて、問題を検討し直すなんてことは十歳のガキでもできる事なんだよ! その程度の芸当もできねえハナタレの小娘が、えらそうに皇女だの何だの、ゴミみてえな肩書き振り回していい気になってんじゃねえぞ!」
アイリスは目の前の紅茶のカップをふっ飛ばした。インザが驚いて体を引き、向かいの席の軍人たちが悲鳴を上げた。
アイリスは大声で続けた。「兵の命がどれだけ貴重でかけがえのないものか、てめえ一度だって考えたことがあるか? 人の命だぞ? 分かってんのか人ひとりの命なんだぞ! みんな貴重な命を抱えて、それでも国のためと思って志願して、剣を持ってがんばってるんだ。使い捨てなんかじゃないんだよ、全員が国を支える大切な力なんだ! てめえみたいに税金つぎ込んでクソの役にも立たねえ城おっ建てて、気色悪い趣味に走ってへらへら喜んで、きれいどころの女集めて自分の人形に仕立ててよろしくやってるような変態は何人死んだって誰も困りゃしねーが、十六人の兵が犬死したらみんなが嘆き悲しむんだよタコ!
ちょっと反対意見が出たくらいでびびって自分見失いやがって、てめえこそ腰抜けだ。自分の作戦に自信があるんだったら、正々堂々お前は間違ってるって反論すりゃいいだろ低脳。
できないんだろ? 自分の方が間違ってて、クランカさんのほうが正しいって分かってるんだろ? だからキレてんだろ。それを認めるのが怖くて、キレて肩書き振り回してごまかしてんだろ? 配下の人間に、むちゃくちゃな作戦を押し付けるほうが、よっぽど愚か者だってことを少しは自覚しやがれ!」
アイリスが怒鳴る間、ルゥは顔を青くして固まっていた。インザも、クランカも、周りの軍人たちもアイリスをあっけに取られて見つめていた。
アイリスが怒鳴り終えると、会議室はしん、と静まり返った。
《アイリス》とセナンがゆっくり呼びかけた。
《セナン、…………ごめん》とアイリスは謝った。「ごめん」と指を動かした途端、すっと心の圧力が下がり、冷静になった。頭に昇った血が地面まで急落したような、震えたくなるような気持ちだ。ルゥには一度、クビにされかかっているのに、またやってしまった。おしまいだ。自分たちはお払い箱だ――。
《いや、アイリス》セナンは言った。《きみが正しい》
アイリスの心がほっと温まった。
「お前たち」ルゥが無表情で口を開いた。
アイリスはルゥをにらんだ。
ルゥの顔が生気を取り戻す。目元が桜色に染まり、瞳孔がらんらんと輝く。
怒鳴り返される覚悟をしていたアイリスはしばたたいた。
ルゥは笑った。「では、お前に敬意を表して、人命を尊重しよう。隣国王女カジェを生け捕りにして来い。決して殺さず、傷ひとつつけず、生け捕りにして私の前に突き出せ」
アイリスは目を見開いた。だが言い返す前にルゥが続けた。
「命令だ。生け捕りだぞ。できないなら、クビだ」
会議は終わった。ルゥは揚々と出て行った。クランカにハンカチを渡すインザ、頬の血を拭くクランカ、天井を仰いだり頭を抱えたりする軍人たち、そしてぼう然とするアイリスとセナンがその場に残された。
――――
城門の前の噴水の縁に座り、アイリスはふてくされた。セナンも隣に座っている。噴水の周囲はベンチが並び、日よけのパラソルも立っていて、目抜き通りの憩いの広場になっている。
――生け捕りにして来い。
「バカじゃないの……」
噴水の水音を背後に聞きながら、アイリスはルゥの言葉を反芻して嘆息する。
そんなことできっこない。どう考えても無理。不可能だ。あのさびれた別荘ならともかく、いま王女がいるのは王都の城だ。城。どこより警備は厳しいはず。目の見えないセナンと一緒に忍び込み、人ひとり、それも無傷でさらってくるなんてできるわけがない。
アイリスの肩に鈍重な疲労がのしかかる。もういやだ、こんな国、出て行きたい、と弱音で胸がいっぱいになる。
広場の向こうから子供の声がした。アイリスはぼんやりと顔を上げた。一軒の商店の軒先で幼い男の子と女の子が積み木で遊んでいる。アイリスは二人のやり取りを何となくながめた。
女の子が慎重に積み木を積んでいる。三角屋根の建物。教会か何かだろうか――。
男の子がそれをたたいて崩してしまう。女の子は頬を膨らませ、「何すんのよお」と怒る。男の子は笑って逃げてゆく。
女の子はそっぽを向き、もう一度積み木を積み始める。どこからともなく戻ってきた男の子が、またそれを崩す。女の子が怒る。男の子は逃げる。
女の子はめげずに積み木を積む。男の子が戻ってきて三たび崩す。
ついに女の子が泣き出す。男の子は急にあわて出し、な、泣くなよお、ごめんよお、と女の子をなだめ始める。
子供たちの様子をセナンに実況し、アイリスはうっすら笑みを浮かべた。
《私たちも、子供の頃、幸せだったよね。あの子たちのように》
《そうだね》とセナンは返した。
《あの頃に戻れたら、こんなひどい気分、味わわなくてすむよね》
セナンは答えない。アイリスはセナンを見た。セナンは背筋を伸ばして、まっすぐ前を向いている。まるで遠くの何かをじっとにらみつけているよう。見えていないのに、何かを見つめているよう。
やっと、セナンは答えた。《そう……かもしれないね》
アイリスは息をついて、目を戻した。子供たちは仲良く一緒に、積み木を積んで遊び始めている。
《夢見たってしょうがないよね》アイリスは首を振った。《でもさ、今度という今度はほんとにいやになっちゃった。王女本人を連れて来いだなんて、バカげてる。私たちは泥棒でも誘拐犯でもない。こんなのってないよ。もういや。もうやめたい。仕事を降りたい。こんな国、出て行きたいよ》
《アイリス》セナンはすぐに返す。《それはだめだよ。とりあえずのところ、トラーベモア以外に戦争の始まりそうな国の情報はないんだ。ここで開戦を待たなきゃ、一体何のために僕たち、世界中をうろうろしているのか分からないよ。つらいのは僕も一緒さ。ルゥ王女には僕も辟易してる。でも、お願い、もう少し一緒にこの国にいてほしい。開戦はひょっとしたら明日かもしれない。そうしたら今度こそ再会できるかもしれない――オニに。オニが現れるのを、どうか一緒に待ってほしい。お願い》
アイリスの心の深いところで、嵐のような悲しみが噴き出した。だが同時に、セナンがそれを望んでいるならもう少しがんばってみよう――とやる気もわいてくる。
《うん。分かった》アイリスはうなずいた。《ごめんね、弱気になっちゃって。ちょっとルゥの言葉が心にこたえちゃって……、でももう平気。セナンがいやだって言うまで、私はあなたと一緒にいるよ。ずっとそばにいて、いつかセナンが目を取り戻す日まで、私がセナンの目になる。旅に出る時、そう約束したもんね。大丈夫だよ、一緒にがんばるから》
《ありがとう、アイリス》セナンは小さくうなずいた。
「お二人さん」
ハッとアイリスは振り返った。自分たちのななめ後ろに、いつの間にかインザが座っている。
「おどかさないでよ」
インザは苦笑いした。「あんまりしょげてやがるんで、声かけづらくてよ」
アイリスはふんと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
《クランカさんのケガは大丈夫?》とセナンが尋ねた。
インザは笑顔でうなずく。「平気さ。あの人は鍛え方が違うからな。それにまあ、ありゃいつものことだから」
「いつもあんな調子なの、あのバカ?」アイリスはインザへ顔を戻した。
「まあな。気に入らねえことがあったらすぐ拳よ」インザはこわごわと首をすくめて見せた。それから尋ねた。「それよりよ、ねえさんたち、これからどうするんでい? 仕事、降りちまうのかい?」
「降りないわ」アイリスは即答した。「やれるところまでやってやるわよ。あのバカ女が「やれ、やれ」言ってたじゃない? 私たちは有能な傭兵ですからね、主の命令には忠実ってもんよ。当たって砕けろだわ、ちくしょう」
「まあ落ち着きな」インザは笑ってなだめた。「捨て鉢になるには早いぜ。オイラの古い友人にな、以前ディディリアで商店をやってたのがいるんだ。そいつと急いで連絡を取るからよ。何か協力してやれるかもしれねえ」
「商店? 当てになるの?」
「それは当たってみなけりゃ分からねえ……。まあここで手ぇこまねいてても埒はあかねえや。とにかくねえさんたち、飯でも食ってそこらブラブラしてよ、昼間は時間をつぶしな。で、そうだな……夕方の適当な頃合に城の馬車置き場まで来てくんな」
じゃあな、とインザは行ってしまった。
夕方。言われたとおり城の居館の裏手、馬車置き場にアイリスとセナンはやって来た。
レンガ作りのすすけた建物の前で御者が二人、並んでおしゃべりをしている。その横のベンチにアイリスたちは腰を下ろした。
《どうなることやら……》餌を食む馬車馬をながめながら、アイリスはため息をついた。《インザのやつ、どう協力してくれるっていうのかな》
《さあ……でも賢い人だからね》セナンは微笑した。《安直な気持ちで「協力しよう」なんて言わないと思うよ》
「今日は暇だなー」御者のひとりがあごひげをさすりながら言った。
「あっちこっち行ったのは、姫様だけだったからな」もう一人が、ずれた丸眼鏡を直しながら返した。
「姫様の専用の馬車よ、立派なもんだな」あごひげの御者が言う。「一度でいいから操ってみたいもんだ」
「姫様が乗ってるんだぜ?」丸眼鏡がふっひっひと笑った。「俺はごめんだな。虎を乗っけて走るようなもんだ」
「違えねえ」あごひげも笑い返した。
ルゥは、こんなふうに城の人たちの冗談のタネになってるんだ――そう思うと、アイリスの溜飲も少し下がる。
「あ、ちくしょ」あごひげが舌打ちした。「タバコ、切らしちまった。恵んでくれねえ?」
「ほれ」丸眼鏡が紙巻タバコの箱を差し出した。「……って、ありゃ? 俺も空っぽだ」
「なあ、あんたたち、タバコない?」あごひげが二本指を立てながらアイリスに尋ねた。
「ごめん、吸わないのよ」アイリスは首を振った。
「買ってくるの、めんどくせえなあ……」丸眼鏡がつぶやくと、彼の手の中に、葉巻タバコが一箱投げ込まれた。
「おろ?」丸眼鏡とあごひげが葉巻を投げて寄越した人物を見た。「インザ、いいのかよ?」
《あ、来た》
にっと笑い、御者たちとあいさつを交わしながらインザが歩いてきた。
「一箱まるまるは悪いな」あごひげが早速一本に火をつけた。「うめえな、これ」
インザが首を振る。「気にすんなって。おやっさんたちにゃいつも世話んなってっからよ」
「結構な高級品だぜ」丸眼鏡もうまそうに煙を吐いた。「景気が良さそうじゃねえか」
「オイラは安月給よ」インザは笑った。「そいつはもれえ物さ。今朝の会議でクランカ様が姫様に一発お見舞いされてよ、ファン殿下がお詫びにって葉巻をまとめて下さったんだ。そのおこぼれさ。気にしねえでやってくんな」
「そうか……姫様は相変わらずだな」あごひげは首をすくめた。
「クランカ隊長も災難だったなぁ。こいつの礼、言っといてくれな」と丸眼鏡が言った。
「さて」インザはアイリスとセナンに向き直った。「待たせたな、お二人さん。ちょっとこっちへ来てくんな」
インザは馬車置き場の裏手に二人を導いた。レンガ塀に陽をさえぎられた、ひと気のない薄暗い場所だ。
インザは周りに誰もいないことを確認すると、二人の方を振り返り、胸ポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
「何これ?」受け取りながらアイリスは尋ねた。
「ディディリア城の商用通行証さ」とインザは答えた。「ディディリアの判が押してあんだろ? 例の商店やってた友人に融通してもらったんだ。これさえありゃ、堂々と正面きって城に入れるぜ」
「こんなので? 行けちゃうの? ほんとに?」あまりに簡単すぎる話で、かえって疑わしいとアイリスは思った。
インザはこぶしで自分の胸を打つ。「城の警備は厳しいが、そいつさえあれば心配ご無用。自分たちは商人だって言って門番に見せれば、すんなり通してくれるぜ」
「うーん、怪しい……」アイリスはインザをじとっと見つめる。
《インザ》セナンがアイリス越しに呼びかけた。《城の商用通行証は、商人にとっても城にとっても、とても重要なものだ。商人からすれば自分がまっとうな人間だと城に証明する手立てだし、城からすれば「こいつは城へ通して大丈夫な人間だ」と確認する手段だ》
「ふん」とインザがうなずく。
《こういうのは普通、発行された店の人間以外、利用できない。もし他に貸し出して、無関係な人間を城へ侵入させたなんて知れたら、その店主はきつい罰を受ける。だから、どんなに仲の良い友人にだって貸さない。今は店をたたんで無用になったとしてもね》
セナンの言葉に、インザはしかつめらしくうなずいている。
《そんな大層なものを、それもこんな短時間で用意できるなんて、インザ、きみは一体どんな魔法を使ったんだい?》
インザは声を上げて笑った。「どんな魔法を使ったかって? 本職の魔法使いにそんな質問されちゃ、弱っちまう。別にオイラは何もしちゃいないさ。ただ友情に厚い友人に恵まれてるだけでい」
アイリスはにこりともせず、インザをにらむ。
インザはもう一度首を振って笑った。「やめてくんな。あんたたちはオイラを買いかぶってんだよ。オイラは何者でもねえ、しがねえ秘書だ。そいつは本当に友達が貸してくれたのさ。そんな怖い顔するのはよしてくれ。寝覚めが悪くなっちまう」
《本当に大丈夫かな、これ?》とアイリスはセナンに聞いた。
《それ自体はまともな通行証だと思うよ》
ディディリア行きの馬車に揺られながら二人は話している。手綱を握るのは先ほどの丸眼鏡。葉巻を吹かしているようで、夕陽の差し込むコーチ内に甘い香りが漂ってくる。
《でも、アイリス》セナンはゆっくりと続けた。《しばらくは気を抜かないほうがいい》
《何か思うことがあるの?》とアイリスは尋ねた。
《順調すぎる》とセナンは答えた。《僕らは今、誰かの思惑の中を動かされているのかも》
《誰かって、誰?》
《それは分からない。だけど、物事の流れが不自然なのは確かだね》
《うん》アイリスもうなずいた。《勘だけど、実は私もいやな感じがするんだ。自分たちのやることを自分たちで決められなくなってる、って言うか》
《そうだね》セナンはうなずき返し、それからふっと力を抜いた。《何だかここ最近の僕ら、いろんなものに振り回されっぱなしだね》
《本当に》アイリスも苦笑した。《このままじゃ、自分が何者なのかも分からなくなっちゃいそう》
夜遅くに、馬車はディディリアの王都に入った。二人は、城へ行くのは明日の夕方にしようと決めた。昼間は人目が多い、夜はいざという時の逃げ道が分からなくなりそうで怖い。それで間を取った。
城の近くに宿をとり、その日はすぐに休んだ。
翌日、アイリスは朝から不安だった。苦手な隠密行動を再び取る羽目になるとは、と考えると心が鬱々として気がふさいだ。
セナンが悠然としているのが唯一の救いだった。セナンが落ち着いているおかげで、アイリスも何とか自分を保っていられた。
夕方、宿を出た。家路を急ぐ人々で混み合う目抜き通りを、しっかり手をつないで歩いた。
茶色いレンガ造りの城門が見えるところまで来ると、人通りはぐんと減ってさみしくなった。
アイリスは立ち止まって城門の様子をうかがった。門の前には槍を構えた兵が二人立っている。別荘のだらけた兵とは違う、本物の門番。周囲に鋭い眼差しを投げかけている。
《アイリス? 大丈夫?》
アイリスは《少し足がすくんでる》と答えた。
《心配ないよ》セナンは穏やかな顔で返した。《いざとなったら、僕がみんなチリにするから》
《そんなことせずに済むよう祈るわ》アイリスは首をすくめた。
さあそろそろ行こうか、とアイリスが一歩踏み出そうとしたところで、先客が兵のそばに現れた。アイリスは「む……」と足を止めた。
若い、元気そうなメイドだ。二人の兵それぞれに「おつかれー」と明るく声をかけ、「何か用はあるー?」と尋ねる。
今までしゃちほこ張っていた兵たちが緩んだ。
二人の兵のうち、年上の先輩格らしいのが言った。「いいところに来たな。日が落ちると少し冷える。茶を入れてくれ」
「あー、ごめんねえ。紅茶は切らしちゃってるの」メイドは両手を合わせた。
「んだよぉ。じゃあコーヒーでいいや」後輩らしい若いほうの兵が言った。
「うーん、コーヒーも切らしちゃってるんだよねえ」とメイドは両手を広げて、舌を出した。
「おいおい、そりゃ困るな」
「なんだ、コノヤロ。全然だめじゃねーか」
「ワインでもあっためようか?」メイドは笑って言った。「ばれたら兵士長にめっちゃ怒られるけど」
「そりゃまずい」と先輩が笑い返す。「怒られる前に、酒じゃ何度もトイレに行かにゃならんからノー。俺の肝臓は仕事熱心なんでな」
「じゃあよ」後輩がにやにやとメイドを見る。「お前が俺たちをあっためてくれよ」
「いいわよ」メイドはにっこりうなずいた。「あたしたちの部屋においで。メイド長に殿下の婆やさん、みんなで相手してあげるから」
「そんなら、ここで震えてたほうがましだっての」と後輩は笑った。
《出て行きづらい……》アイリスは歯噛みした。《こういう雰囲気、入りづらいわ》
《あんまりぐずぐずしてると余計行きづらくなるよ》
《うん、分かってるけど……》
「じゃ、食堂にお茶葉さがしに行ったげるね」メイドが城へと戻ってゆく。
二人の兵は、その背中へ手を振った。そしてこちらに目を戻して、
「お?」
アイリスとセナンに気付いた。
《やばっ》アイリスは背筋を伸ばした。《目が合った、どうしよ》
《落ち着いてね、アイリス》
「おい、お前たち」先輩格が呼びかけてくる。「さっきからずっとそこにいるな。何をじろじろ見ているんだ?」
「なんか用でもあんのか?」後輩も怪訝な目つきをする。
「はい、あの、私たちは商用で……」
「商用?」先輩は眉根を寄せた。
「まあとにかく、こっちへ来な」後輩が手招きした。おとなしくアイリスとセナンは兵の前へと歩いた。
「で、何の商人なんだ?」先輩が二人を見比べて言った。
「え? あ、その……」聞かれててんぱった。何も考えていない。
《自分たちは荒物屋です》とセナンが言った。
《荒物屋? 何それ?》分からないまま、アイリスは兵にそのまま伝えた。「私たちは荒物屋です」
「荒物屋? ……ああ、何でも屋か」
《何でも屋って意味なの?》とアイリスは聞いた。
《そう。昔読んだ小説に出てきたの、覚えてない?》
《覚えてない》
「何でも屋さん、紅茶かコーヒーない? うちのメイドが切らしちまっててさ、参ってんだよ」後輩がなれなれしい調子で尋ねた。
「こらこら、いま探しに行ってくれてるだろ」先輩は後輩をたしなめると、アイリスたちのなりを上から下までながめ、「商品を持っていないな」と言った。
「え?」アイリスは眉を上げる。
《新しくお城とお取引の関係を結びたくて、今日は商品の目録だけ持ってうかがいました。備品管理者の方へお目通りを願いたいのですが》
セナンの言うことをそのまま伝えた。同時に、何でそんなに落ち着いてられんの、とアイリスはあきれた。
「ふーん、なるほど」先輩格があごをさすった。「参ったな。そういうことなら、商工会議所の紹介状がないと」
「商工会議所?」アイリスはしばたたく。
「ギルドだよ、ギルド」後輩が言い直した。「商店街の組合さ。そこの紹介状がなきゃ初顔は通せねえってこと。あんたらがどんな素性の馬の骨か、俺たちにはちっとも分からないんだから」
《アイリス、あれを見せよう》とセナンが言った。
「あのう、こういうのなら持ってるんですけど」アイリスはポケットから例の羊皮紙を出した。
「ん? なんだこれ……え?」羊皮紙を見た先輩の顔面が真っ青になった。そして――彼は突然頭を下げた。
「失礼いたしました! どうぞ、お通りください!」
「え? どしたんですか先ぱ……わっ?」
困惑する後輩の頭を先輩がつかんで、同じように下げさせた。
アイリスは目をぱちくりさせ、突き出された二つの頭を見つめた。
《さ、行こう》とセナンがアイリスを促した。
門をくぐり、居館へ続く石畳を歩きながら、アイリスは羊皮紙をためつすがめつした。通行を許可するうんぬんの文言と、真っ赤な判。
《これは一体なんなの……? インザは一体、何をくれたのよ》
セナンは歩きながら肩をすくめた。《まあ通してもらえたんだし、良かったんじゃない?》
《うーん……》アイリスはかえって気味が悪くなった。《やっぱり……気が抜けないよ》羊皮紙をポケットにしまいながら言う。《次に何が起こるのか、全然予想がつかないんだもん》
居館の入り口の前にも警備兵がいたが、羊皮紙を見せるとやはり頭を下げて通してくれた。
通るついでにアイリスは尋ねてみた。「カジェ姫のお部屋を教えてもらえませんか?」
二人の兵は「どうする……?」と顔を見合わせたが、どちらからともなくうなずき、「城に入ったら、廊下をこれこれこういうふうにお行きなさい」と懇切丁寧に教えてくれた。アイリスは改めてこの通行証の威力に驚いた。
居館に入り、教わったとおりに廊下を進む。入り口から近いところではメイドや下男たちがランプに火を入れ始めていたが、奥はまだ灯りがなく人気もない。明かり取りの夕陽だけが差し込む回廊は、暗く、冷たく、静かで、底気味が悪かった。
アイリスはセナンに体をぴたり寄せ、しっかりと彼の手を握った。
足音がいやに反響する。空気がよどんでいて息苦しくなってくる。何度もつばを飲み込み、空いているほうの手で顔の汗をぬぐう。
白塗りの壁は今は濃いオレンジに染まっているが、天井や床の隅にはすでに夜の闇がはびこり始めている。
背後を誰かがつけているような気がしてアイリスは何度か振り返った。――その度に、無人の暗い廊下が伸びているだけなのを確認して息を吐いた。
背中に不快な汗が浮く。空気が肌に絡みつく。手足が重い。自分の体が自分の体でないような気がしてくる。
夜の暗闇が廊下に広がり、目の前さえ見えにくくなってくると、ますます歩くのが難儀になる。
姫の部屋は遠い。敵に攻め込まれたときのことを考え、要人の部屋は城の奥深くに作られる。歩いても歩いてもたどり着けない。
そうしているうちに夜が完全に訪れる。城の中庭からか、ふくろうの鳴き声が聞こえてくる。
夜露が降りたのだろう、空気が湿っぽい。窓から入り込む夜気が不快にまとわり付いてくる。暗闇が意思を持って自分たちをその場にとどめようとしているかのように、アイリスの体はさらに重くなる。
そんなふうに暗い廊下をとぼとぼ歩いていると、手足をばたつかせてもがいているだけのような気がしてくる。何もない虚空に放り出されて、前にも後ろにも進めず、上下に浮き沈みしているだけのような――。
《アイリス、大丈夫?》
不意にセナンの手が動き、アイリスはハッとする。
《え?》
《歩きがずいぶんゆっくりになったけど、どうかした?》
《ごめん》アイリスは首を振った。《廊下が暗くて歩きにくかっただけ。大丈夫よ》
アイリスは少しの間、セナンの肩にもたれて息を整えた。
気を取り直して、二人はまた歩き始めた。だが十メートルも行かないうちにアイリスは足を止めた。廊下の先のドアから光が漏れている。ドアが少し開いているのだ。
《あそこだ》とアイリスは言った。《カジェの部屋だよ》
音を立てないよう、二人はそっとドアに近付いた。アイリスは隙間から中をのぞいた。暖炉が見えた。火が入っている。暖かな空気が顔に触れると、今まで汗ばむほどだったのに急に寒気を覚えた。
《見える範囲には誰もいないけど》ドアから顔を離してセナンに言った。《どうする、入る?》
別荘での一件があるのでアイリスも慎重になっていた。
《入ろう》セナンはうなずいた。
アイリスはゆっくりドアを押した。暗闇に慣れた視界に、シャンデリアの光がまぶしく広がった。
目を細めながら部屋に侵入した。
部屋の中を見回すが本当に誰もいない。絨毯・壁紙ともに淡いピンクの部屋。豪華な作りの鏡台、マントルピース、暖炉の前のすわり心地の良さそうなイス、天蓋付きベッド、タンス、テーブル、燭台などが並んでいるだけ。
《さて、目当ての姫様はどこかな?》アイリスの隣でセナンが言う。
そう。今回の目的はカジェ自体。改めて考えるとアイリスの気は沈んだ。ドレスを盗んで逃げるのとはわけが違う。人ひとり、それも一国の姫君をこっそり連れて帰らなきゃならない。どうやって? どんなふうに説得する? どうすればこっちの言うとおりにしてもらえる? どう言えばトラーベモアへ一緒に行くのを納得させることができる? あるいは――セナンの魔法で脅しつけ、黙らせるしかないのか。
アイリスは気乗りしない。そういう強引で、人の意思を無視するようなことはできればしたくない。これまで傭兵として血で血を洗うようなことは飽きるほどしてきたが、それはやる側もやられる側も了解した上での戦いで、何の後腐れもなかった。今度のは違う。どう言葉を尽くしてもカジェを納得させることはできず、結局は嫌がる彼女を無理矢理さらっていくという形になるだろう。誘拐なんて、自分向きじゃないとアイリスは感じる。そんな卑劣な真似はしたくない。
だがセナンはたぶん(気持ちの問題は別として)あっさりやるだろう、とアイリスは思った。彼はいざとなったら思い切りが良すぎるほど良い。必要とみれば魔法のひとつやふたつ、躊躇なくぶっ放す。
アイリスはパートナーの横顔を見た。城のこんな奥深くまで来ても、セナンは口元にかすかな笑みを浮かべて落ち着いている。人さらいになど、とても見えない。
《どこにもいない?》とセナンが尋ねた。
《うん》とアイリスはうなずいた。
ベッドの脇の壁にドアがひとつある。壁紙と同色に塗られていて、気をつけないと見落としてしまう。
ドアに近寄った。ぴたり耳をつけると、かすかに物音が聞こえた。
《ここにいる!》アイリスはノブを回し、ドアを押してみた。抵抗はない。
そっと十五センチほど開けた。書庫兼物置といった感じのゴミゴミした小部屋。古い書籍や汚れたぬいぐるみが棚に並び、床には子供のおもちゃ、木馬、古ぼけた家具などが転がっている。アイリスから死角になっている場所に灯があるようで、ぼんやりと光が揺曳している。
その中に引き伸ばされた大きな影がある。
《部屋の左に誰かいるよ》
アイリスはもう少しドアを開けて、部屋の中をのぞき込んだ。奥にイスが一脚あり、カジェがかけていた。
カジェは横顔を向けている。目の前の燭台に照らされ、肌が朱く染まっている。
《あれ、なんだろう?》アイリスはカジェの手を注視した。小さな板切れのようなものを持ち、それをじっと凝視している。《あ、写真立てだ》
写真は非常に高価なものだが、一国の姫なら日常的に撮ってもらっていてもおかしくない。
カジェのまなざしは真剣だ。が、同時にどこかうつろでもある。写真をにらむように見つめつつも、深い物思いに沈んでいるような表情。
《何の写真だろう?》アイリスは被写体が気になった。《近寄らないと分からないなあ……》
《アイリス、入ろうよ》とセナンが言ってアイリスの肩をたたいた。《いつまでものぞき見していても、しょうがない》
《うん……》アイリスはつばを飲み込んでうなずいた。
ドアを開けた。足元に転がるガラクタの位置をセナンに教えながら、アイリスは中に入った。
――――
色あせたセピア色の、自分たちのドレスの刺繍さえ判然としない写真。十年前、ケルミの湖畔。ボート遊びに出る直前に撮影した一枚。右からファン、自分、ルゥの順に立っている。ルゥと自分は肩を寄せ合い、笑顔。左のファンは生意気そうにあごを上げて微笑んでいる。自分とファンが十三歳で、ルゥが十四歳。こんなふうに三人一緒に笑顔で遊んでいられた時代が懐かしい。
背後の湖面にはボートが浮いている。湖では幼い頃からよく三人で水遊びをした。小さいうちは互いの親や召使のこぐボートに乗り、大きくなってからはファンがこぎ手を引き受けた。ファンはこぐのが下手で、ちゃんと後退ができなかった。水面をひたすら前に前に進むだけ。自分やルゥがからかうと、かわいげのない王子様は「僕たちには未来しかない。時間が後戻りできないように、ボートもただ前に進むだけさ」と何ともくだらないことを言って笑った。でも屈託ない笑顔のせいでカジェは言い返す気になれなかった。ちょっでも怒ってくれれば、さらにからかえるのに。
だけど、とカジェは写真を見つめながら考える。ファンの言うことは正しかった。わたくしたちにはいつだって未来しかない、良くも悪くも。時間を後戻りさせて、すべてをなかったことにできたら。過去を変えることができたら。全部を元通り戻せたら。そうしたらこんなひどい決断、せずにすんだのに。
カジェは息を吐く。でも、もしあの時に戻れても、結局は何も変えられないはず。仮に一からすべてをやり直しても、ルゥとわたくしは同じ道を歩み、同じあの日にたどり着く。何度時間を巻き戻しても、きっとあの瞬間に――。この写真の中にあるのはただの過去じゃない。二度と取り戻せない幸せな日々。今は存在しない穏やかな時間。希望あふれる未来しかなかった、幼き無知の時代。
けど、この頃にはもう壊れ始めていたのね、とカジェは思った。ルゥの中では静かに種子が膨らんでいた。気付けなかった。想像もしなかった。実の姉のように慕っていた親友の中に、あんな思いが育っていたなんて。この写真の八年後、今から二年前、あの日の出来事は、自分には思いも寄らない青天の霹靂だったけれど、ルゥにとっては長年悩み抜いた末の決断と行動だった。あのほんの数分間のやり取りが、すべてを破壊した。二十一年に及ぶ絆を、粉々のチリに……。
カジェはじっと写真をにらむ。写真の中では自分もルゥもファンも笑っている。ルゥの邪気のない、美しい笑顔が苦しい。三人の中で一番に美形で、一番ナイーブで、いつだって心むき出しで、いつだっていの一番にカジェの味方をしてくれたルゥ。その天使のような笑顔には二度と出会えない。天使は地獄に落ち、世界は一変した。
ルゥだけじゃない。写真の中の子供たちは、みんな心をねじ切られるような思いを味わって、根底から変わり果ててしまった。――いや、ファンだけはあまり変わってないかも――。少なくともここにいる自分は、もうルゥの親友だったカジェではない。自分ももうあの頃には戻れない。
そうして写真を見つめていたら、視界の隅っこで何かが動いた。見ると、物置のドアが開いて人が入ってきた。
――――
アイリスはドギマギした。声ひとつ上げず、落ち着き払っているカジェの様子に、かえってどうしたらいいか分からなくなった。
カジェは写真立てをテーブルに置き、改めてアイリスとセナンを見て、言った。「何の御用でいらしたの?」
《なんて答えればいいの?》アイリスはセナンに聞いた。
《正直に答えるしかないよ》とセナンは返した。
「あのう、突然のことで驚かれちゃうかもしれないけど」アイリスは後ろ頭をかいた。「あなたを生け捕りにしてこいと言われて、やって来たの」
「生け捕り……」カジェが眉を寄せる。「ルゥにそう言われたのですね」
アイリスは眉を上げた。
カジェは目を伏せた。しばらく二人を無視して黙った。そして、つと顔を上げると唐突に「あなたがたに折り入ってお願いがあります」と言い出した。
アイリスはきょとんとする。
ルゥは真剣なまなざしで続けた。「いきなり何だと思うでしょうが……わたくしをさらう前に、話だけでも聞いてもらえませんか」
アイリスはなんと答えればいいか分からない。
《アイリス、カジェ王女に聞いてみて》セナンが言った。《あなたは僕らのことをどこまで知っているのか?》
アイリスが聞くと、カジェは優雅に笑った。「ファンの雇った傭兵ということは知ってますわ。ルゥにずいぶん振り回されていることも」
「そんなことまで……」アイリスは不安になった。
《ねえ、どういうこと? 誰かがこの人に私たちのこと話してるんじゃない?》
《そうだね》セナンもうなずいた。《でも今は他にどうしようもないんだし、カジェ王女の話を聞いてみようか。無理に黙らせて誘拐するなんて嫌でしょ?》
アイリスは体の力を抜いてカジェに言った。「話を聞かせてちょうだい」
カジェは笑った。そして問いかけた。「初めにお聞きしたいのですけど、あなたがたはルゥがどういう人間かご存知ですか?」
「え? ……まあ、だいたいは」アイリスはうなずいた。「結構ひどい目に遭わされたし」
カジェは苦笑した。共感するような笑い方。「ではルゥの抱える性的な問題もご存知?」
アイリスは片頬をピクりとさせた。
「知ってらっしゃるのね」
アイリスはじっとカジェを見た。カジェはこちらを優しく包み込むような、母性的な笑みを浮かべている。そっか、この人も全部知ってるんだとアイリスは思った。なら遠慮することもないや。
「この間、彼女の別荘に招待されたの」とアイリスは言った。「そこで親衛隊の人たちと交わってるルゥを見たわ。場所は食堂で、五人ぐらいいた。全員裸で、おまけにルゥは腰に……何かを付けてたのよ。ほんとに寒気がしたわ」
うんうんと、カジェはうなずいた。「大変なものをご覧になりましたね」
「ええ、本当に大変」アイリスもうなずき返した。
「ルゥは女しか愛せないのです」カジェは笑みを消して言った。「生まれたときからそうだった、七、八歳の頃には自覚していた、と言っていました。生まれついてのものなら仕方がありませんわ」
「そうかもしれないけど」アイリスは首を振った。「だからって客の泊まってるそばで、乱交パーティーはやりすぎよ」
「そうね、それはやりすぎですわね」とカジェは同意した。
「本当に最低なやつよ」
アイリスの言葉に、カジェは目を伏せた。「その最低なやつに、私は告白されました」
アイリスは目を見開いた。「……やっぱり」
カジェは首をかしげた。「あら、ご存知だったの?」
「ご存知だった、ってことになるのかなぁ」アイリスは肩をすくめた。「私もセナンも、そうなんじゃないかって思ってはいたけど」
《ファン王子の小説のこと、話してみようよ》とセナンが言った。
マフことファン王子の「新作小説」について、アイリスはカジェに話して聞かせた。
カジェはイスの肘掛にもたれて聞いていた。興味深そうに、ときどきひとりで小刻みにうなずきながら。
アイリスが話し終えると、カジェは小さく笑った。「なるほど、よく分かりましたわ。小説で教えるなんて、いかにもファンがやりそうなこと」
「その内容は事実なのね?」とアイリスは尋ねた。
「細かいところはいろいろ変えてあるようですが」カジェはうなずいた。「ほとんどは事実そのままです」
「あなたに告白したのも本当のことだし、大臣を殺したのもルゥだし、それに」アイリスは眉をしかめた。「殺害の動機があなたを手に入れたいっていうのも事実?」
「事実ですわ」カジェはうなずいた。「そのきっかけが二年前の告白です」
カジェは話し始めた。
「二年前の秋口のことです。ルゥがたったひとり、お供も連れずにこの城を訪ねてきました。ルゥが遊びに来るのは別に珍しいことではないのですが、ひとりでというのは初めてだったので驚きました。
ルゥは城に着いたときから様子が変でした。……今のルゥしか知らないあなたがたは、ルゥに変でないときがあるのかと思われるかもしれませんね。ですがルゥが特におかしくなり出したのは、まさにこの二年のことで、それまでは今ほどひどくはありませんでした。まあ短気だったり、疑り深かったり、傷つきやすかったり、根っこは一緒ですが、そういう傾向も以前は常識の範囲に収まっていました。趣味のためにあんな城を建てたのは、さすがに狂ってると思いましたけど」
カジェは手を口元に当てて笑う。
「その日のルゥは口数がとても少なかった。よく知らない相手には疑り深いルゥですけど、心を開いた相手には人一倍おしゃべりです。わたくしはルゥほどよくしゃべる人間を知りません。わたくしもルゥもお芝居がとても好きでしたので、主にわたくしが聞き手、彼女が語り手で、十代の頃などは夜遅くまで話し込んでいたものです。でもその日はこちらが何を聞いても思いつめたような表情で、ああ、とか、うん、とか生返事するばかりでした。わたくしは「どこか体の調子が悪いの?」と聞きました。ルゥは「元気だ」とだけ答えて黙り込むのです。
そんな調子で晩御飯もいただき、その夜、わたくしたちは街へ散歩に出ました。普通、一国の姫同士で、兵も伴わずに出歩くなどありえないのでしょうが、お二人もご存知のように、ルゥは並みの騎士では相手にならないほどの強者ですから、兵など必要ありません。
城下町を西へ向かって歩くと細い川があります。そこにかかる橋の上でわたくしたちは立ち止まりました。川辺の草むらから秋の虫の声が聞こえました。川面には月がゆらゆら映っていて風情がありました。いい夜でした。
わたくしたちは欄干にひじを乗せて川を見下ろしました。二人とも黙っていました。いえ、そこへたどり着くまでも、ほとんど会話らしい会話はなかったのです。その日のルゥは本当に口数が少なくて、わたくしまで何となく気詰まりを覚えて、うまく話しかけることができませんでした。二十年来の付き合いの幼馴染相手に、そんなふうにぎくしゃくしたのは初めてで戸惑いました。どうしたらいいのか分からなくて、それで欄干にひじを置きながら、わたくしは会話のきっかけはないかなとあれこれ考えをめぐらせていたのです。
そうしたら「カジェ、大事な話がある」と出し抜けにルゥは言いました。わたくしはルゥを見ました。ルゥはいつの間にか欄干から腕を下ろして、こちらを向いて立っていました。両手をきつくにぎりしめて、唇をわなわな震わせて、月明かりしかない夜でも分かるほど顔を赤くして、目を見開いて――尋常な様子ではありません。わたくしも驚いて「なあに? どうしたの?」と聞いたきり黙ってしまいました。ルゥも黙っています。たぶん二十秒くらい間が空きました。そしてルゥは言ったのです。「カジェのことが好きだ」と。
わたくしはただ目をぱちくりさせました。まさか恋愛対象として好きだ、という意味だとは思いませんもの。それで「わたくしも好きよ。ルゥのことは小さな頃から本当の姉のように思ってるわ。あなたは一番の友達よ。……なんて口に出すと、ちょっと照れくさいわね」とのんきに返しました。
ルゥはにこりともしませんでした。あせったような表情で「ちがう」と言い、「そういうことじゃないんだ。違うんだ」とぶんぶん首を振りました。そして困惑しているわたくしの手を取り、「カジェ、私はお前を愛しているんだ。驚くだろうが、私は女のことしか愛せない人間なんだ。男を愛することができない人間なんだ」
冗談だとは思えませんでした。あの必死な様子、恥ずかしそうな、泣きそうな目、すべてが真剣そのものでした。わたくしも今度はちゃんと理解しました。ルゥはレズビアンで、幼馴染のわたくしに恋し、そしていま愛の告白をしたのだ、と」
「あなたは、その時、どう思ったの?」アイリスはなぜかたまらなく悲しい気持ちになりながら尋ねた。
「冷静でした。自分でも驚くほどに」とカジェは答えた。「もちろん事前に知っていたわけではありません。ルゥがレズビアンだなんてちっとも。ましてや、わたくしに惚れているだなんて……。なのに告白されても、意外なくらいわたくしは落ち着いていたのです。
わたくしはルゥの手をゆっくり解き、しっかり彼女の目を見て言いました。「ルゥ、ごめんなさい。あなたの気持ちには応えられない。わたくしは女性を愛することはできないの。あなたは誰よりも大切で特別な友人だけど、そういう関係になることはできないわ」
ルゥは真っ暗になりました。比喩でなく本当に真っ黒い影になったのです。空の雲が月を隠したのでした。ただの影となったルゥの肩が震え出しました。鼻をすする声も聞こえ出しました。わたくしはルゥが哀れでした。哀れですが、どうすることもできません。
「カジェ!」真っ暗なルゥが唐突に叫びました。「もうだめだ! もうおしまいだ。この世は暗黒だ。私の居場所なんかどこにもないんだ。私は生まれたときからこうだ。七歳か八歳の頃には男を愛せないと自覚していた。いや……心の底から愛することができるのはお前だけだと、十三、四の時分にはもう分かっていた。ずっと……ずっと気持ちを伝えたかった。でもそれだけはできないと、自分を抑えつけていたんだ。爆発しそうだった。毎日、お前への愛で心が破裂しそうだった。気が狂いそうで、もういかれてしまいそうで。だからこんな……、こんなことを……。許してくれ。どうしても言わずにはいられなかった。告白せずにいられなかったんだ。お前への愛を押しとどめることができなかった。どうか許してくれ。こんな大馬鹿者を許してくれ」
ルゥはくずおれ、地面にひざをついて泣き始めました。嗚咽まじりに彼女は続けました。「軽蔑しているだろう? 汚らわしいやつだと、つばを吐きかけたいだろう? 分かっている。私は間違っているんだ。何もかも間違っているんだ。何かが狂い、間違って生まれてきてしまった人間なんだ。お前はまっとうで、愛らしくて、麗しくて、すばらしい人間だ。私とは何もかも違う、最高の人間だ。私の心を狂おしく焼き尽くさんとする、最上の女……そんなお前が好きなんだ。この世の誰より愛しているんだ」
わたくしは何も言いませんでした。あまりにルゥがかわいそうで、どんな言葉をかければいいのか分からなかったのです。
そのうちにルゥは涙を拭き、立ち上がりました。そしてくるりと背を向け、「帰ろう」と言いました。わたくしはうなずき、二人で城へ帰りました。
その晩、ルゥは客室に泊まりました。彼女は遊びに来ると必ずわたくしの部屋に泊まっていたのに。いつもは二人で遅くまで、時にはおそろいのエドワード切子でワインを飲みながら話し込み、そして幼い姉妹のように同じベッドで眠ったのに。でもその日のルゥは客室に泊まりました。わたくしは眠れない夜をすごしながら、それについて考えました。自分自身がいやになりました、心底から。ルゥはこれまで何度もわたくしとベッドを共にしながら、なにを考えていたのだろうと、わたくしは考えたのです。
吐き気がしましたし、寒気もしました、あなたがルゥの乱交を目撃したときと同じくね。でも同時に悲しくて涙があふれました。ルゥのことが哀れで哀れで泣けてきました。自分の気持ちを抑えながら、愛する人間と寝床を共にするのは、本当につらいことだったろうと」
カジェは息をついた。アイリスとセナンに笑いかけ「ごめんなさい、話が長くなってしまって」と謝った。
アイリスは首を振った。
「翌朝、私が起きると、すでにルゥは城を出た後でした」とカジェは続けた。「まあ当然でしょう。わたくしに会わせる顔などなかったでしょうから。
その日以来、わたくしたちは二度と元の関係に戻れませんでした。二人の関係は永遠に壊れてしまいました。ルゥがおかしくなったのもそれからです。
初めは手紙でした。告白から二週間ほどして、ルゥから一通目の手紙が届きました。それを読んだとき、わたくしは血の気が引きました。信じられないような汚い言葉のオンパレード。わたくしを呪い、罵倒し倒す内容で、ああ、ルゥは激怒してしまったんだ、振られた悲しみより、拒絶された怒りのほうが上回ったんだ、と私は思いました。事実そうだったのでしょうね。字なんかぐしゃぐしゃで、筆圧も恐ろしく強くて便箋がところどころ引きちぎれるように破れていました。もともと字はあまりうまいほうではなかったけれど、その手紙の文字は線の一本一本がゆがみきっていて、まっすぐな線なんて一本もないほどで、背筋が冷たくなるほどでした。
ところがそのすぐ後に、一通目の手紙について許しを請う手紙が来たのです。ありとあらゆる謝罪の言葉のオンパレード。詫び言の総合カタログといった内容で、便箋二十枚に渡ってひたすら「ごめんなさい許して」の嵐。それはそれで不気味でしたが、でも胸がきつく締め付けられもしました。この前の手紙は一時の感情に流されて書いてしまっただけなんだ、ルゥはそれを罪に感じて申し訳ない気持ちになってるんだ、とわたくしは思いました。
ところがそれからすぐに、また呪いと罵倒の手紙が届けられたのです。一通目にも増して激烈な内容で、一通目にも増して文字も便箋もぐしゃぐしゃでした。わたくしは混乱しました。一体ルゥはわたくしを憎んでいるのか、そうでないのか。わけが分かりません。どう考えればいいのか分からず、わたくしは判断を保留しました。ルゥの顔を思い浮かべながら、じりじりした気持ちでそれから数日を過ごしました。すると、またまた謝罪の手紙が届いたのです。今度の手紙は涙で濡れていました。滴ったしずくでインクがにじみ、ほとんど読めないくらいでした。
……最終的に、二ヶ月間で罵倒の手紙と謝罪の手紙が交互に、計十六通。わたくしの元に届きました。週に二通のペースです。作家である弟にも負けない文章量ですわね。
何にせよ、わたくしにはルゥの気持ちは分かりませんでした。分かりませんでしたがひとつ確かだと思ったのは、ルゥの心はいま完全に安定を失っている、ということです。彼女は両極端の一方と一方を、中間のないまま行ったり来たりしていました。憎悪と愛情、罵倒と謝罪、そんな精神状態を数時間から数日ごとに行き来していました。それはとてもつらいことだったろうと思います。
でもその気持ちをぶつけられるわたくしも、言葉に表せないくらいつらかったです。二ヶ月に渡って届き続けたルゥの手紙にわたくしは一喜一憂し、心はボロボロになっていきました。わたくしもまた罵倒によって傷つき、また謝罪によって安心するという両極の端と端を、ルゥと共に行ったり来たりしていたのです。慣れる、ということはありませんでした。あんなこと、慣れようがありません。
精神が不安定な状態では自分を強く保つことなどできず、わたくしは自らを責め、さいなみました。わたくしのせいでルゥは狂ってしまった、わたくしのせいで友情が粉々になってしまった、と。来る日も来る日もベッドに倒れて泣き濡れました。落ち着いた今では少し恥ずかしく感じますが、でもその時はどうしようもありません。だって体の底から涙が次々にわいてくるのですから。わたくしのせいでルゥは取り返しのつかないほど傷つき、損なわれてしまったんだ、そう思うとわたくしもやりきれませんでした。悲しくておかしくなりそうでした。
二ヶ月して手紙が届かなくなると、私の心も少しずつ落ち着きを取り戻してゆきました。その間、二度、ファンから手紙をもらいました。ファンもルゥから話を聞かされていて、わたくしたちの間にあった出来事を知っていました。慰めと激励と、姉についての謝罪と、そして自分もこれからどうしたらいいのか分からず困惑している、という、正直で、かつ温かい手紙でした。後でファンに聞くと、彼は姉が同性愛者でわたくしを好いているということに薄々気付いていたと言いました。でもそれをわたくしに伝えることなんて、とてもできなかった、と。まあ、そうですわね。言えるわけないですわ」
5
冷静に語るカジェの落ち着き払った顔に、アイリスは嘆息した。「あなた今、よくちゃんとしていられるね。精神的にもろい人なら、向こうと一緒に狂ってもおかしくないよ」
カジェはふふ、と笑った。「ありがとう。でも、まだ続きがありますよ。手紙だけではすまなかったんです」
アイリスは眉をしかめた。「まだ、ルゥは何かしてきたの?」
カジェは続けた。「手紙が来なくなってからひと月ちょっと経った頃、小包がひとつ届きました。差出人の名前はありませんでしたが、わたくしは別に怪しんだりはしませんでした。でも開けてみて、わたくしは飛び上がりました。ナイフで串刺しにされたネズミの死骸です。なんてこと、と絶句しました。手紙が添えられていて、ルゥの署名と共に短い文章が書いてあったので、彼女の仕業だと分かりました。手紙には「これが私の心だ」と書いてありました。「これが私の心だ。昔の私はお前の拒絶と嘲笑に串刺しにされ、殺されてしまった」と。拒絶は認めるとしても嘲笑などわたくしはしていません。でもルゥの中では、わたくしがルゥの性的な指向を笑っている、ということになっていたようです。
わたくしは召使にすぐその汚らわしいものを捨てさせました。そしてまたルゥからの届け物におびえる日々が始まりました。小包は一週間ないし二週間に一度のペースで届きました。中身はどんどんひどい物へエスカレートしてゆきます。最初のネズミの後は、にごった色の眼球がぎっしり詰め込まれた瓶が届きました。わたくしは叫び声を上げ、本当に吐きそうになりました。手紙がやはり添えてあって、「豚の目玉を親衛隊にくり抜かせた」と書いてありました。その後にはまたねずみです。でも今度は一匹の死骸なんて生易しいものでなく、たくさんの首でした。ねずみの首がびっしり瓶詰めにされて送られてきたのです。汚い話ですが、今度こそわたくしは吐きました。ルゥの手紙にはネズミをたくさん捕まえさせ、自分の手で一匹一匹ねじり切ったと書いてあり、その様を想像したら我慢できなくなりました。
そんなふうに犬の舌だとか、牛の耳を切り刻んだ物だとかが、瓶に詰め込まれて私の元に送られ続けたのです。わたくしはそれらの小包を必ず自らの手で開封しました。なぜ? と思うかしら? 召使にでも頼めばいいのに、と。でもわたくしは、城の者にあらかじめ中をあらためさせる、というようなことはしたくありませんでした。
ルゥがおかしくなってしまったのは、わたくしとの関係においてです。ルゥの行為がどんなにおぞましいものでも、それを受け止めるのは自分でなくてはいけない、とわたくしは思いました。まあ、意地になっていたのですね。いま考えれば、当時はわたくしも少しおかしくなりかけていたのかもしれません。まっとうな判断力がなくなっていたのです。
そんなことが何ヶ月にも渡って――、いやもしかしたら一年以上続いたのかもしれません。いくつ目の小包だったかはもう覚えていませんが、わたくしの心をついにへし折るものが届きました。
いつものようにおそるおそる箱を開けると、やはり一本の瓶が入っていました。幅が七、八センチくらい、高さが二十センチくらいの結構大きな瓶です。中身はよく分からないにごった液体でした。色は黄色と茶色の中間くらい、何とも言えない気味悪い色合いでした。わたくしは手紙を読んで、今までで最も激しい嘔吐の発作に襲われました。そこには「最高に興奮する」といきなり書いてありました。「最高に興奮する。こういうことをすると頭が真っ白になる。お前にこんな素敵なジュースを贈れて、私は最高に興奮する」確かそんなことが書いてあって、瓶の中身はルゥ自身の……」
それまで落ち着いて話し続けていたカジェが、はじめて顔をしかめ、言いよどんだ。「……ルゥ自身の、排泄物、生理の血液、それにその、なんというのでしょう……下の体液、でした。一ヶ月かけて溜めたものだと書いてありました」
「うえ……」アイリスも口元を押さえた。
カジェは息を吐いて続けた。「以来、わたくしは手紙・小包の類を一切受け取らなくなりました。すべて召使に開封させ、ルゥからの物だったらすぐに処分させるようにしました。もう耐えられませんでした」
カジェは目を伏せ、しばし黙った。
アイリスは寒気に首をすくめながら言った。「最悪……。予想以上だわ。勇気を出して告白したってエピソードには、ちょっと同情したのに。私が思っていたよりはるかにイカれてる。かわいそうだなんて少しでも思った自分がバカみたいになってきた。やっぱり最低、ルゥって。私には一ミリも理解できない」
「そう思うのも当然ですわ」とカジェは顔を上げ、言った。「二十年来の付き合いのわたくしにだって理解できないのですから。そう、今のルゥはわたくしの理解の外にいます。かつてのルゥは、この二年で完全に消滅しました。わたくしの知るルゥはもう死んだも同然です。あの天使のようだったルゥはもういない」
カジェは自分の言葉に何度もうなずいた。それからふと息を吐き、「ですが、それでもルゥを哀れに思う気持ちは消えません」と続けた。
「何年もの間ルゥは、誰より近いところにいる友に、自分が同性愛者であることや恋をしていることを隠し続けていたのです。それをあっさり拒絶されたら、怒りや悲しみに心を支配されても、ある程度は仕方ないでしょう」でも、とカジェは苦笑する。「だからと言って、わたくしはレズビアンにはなれません。ルゥの気持ちに応えることはできません。どれほど強く彼女を哀れんでも、それとこれとは、どうあっても別。そればっかりは、どうすることもできないのです。
まだ手紙が届いていた頃、わたくしは心底からルゥに幸せになってもらいと願いました。誰でもいいから、ルゥの愛情や好みにかなう女性が現れてくれないか、と。そしてルゥと恋人として結ばれてほしい。そうすればルゥの心は満たされ、わたくしとの友人関係も少しずつでも回復して、いつかすべてが元通りになる……そう何度も何度も夢想しました。夢だと分かっていても、何度も。いえ、夢だからこそ見ずにいられなかった。昔のように――何も知らなかった子供の頃のように、またわたくしと、ルゥと、ファンと三人で、ただ無邪気に笑い合えたら、どんなに素敵かしら、と。この写真のように」
カジェはテーブルの写真立てを取った。「これは十年前にケルミの湖で撮ったものです。わたくしと、ルゥ・ファンの姉弟と三人で。この頃のように、何も考えず、みんなで楽しく遊べたらどんなに素敵かしら。全部、元に戻せたらどんなに幸せかしら。そんなことばかり考えて、一日過ごす日もありました。夢を見て……それが夢だってことが許しがたかった。ついこの間まで、わたくしたちの目の前に当たり前にあった日常が、今では夢だなんて。……悲しかった。すごく。悲しかった。本当に悲しかった」
カジェは無表情でそう繰り返し、顔を伏せた。
アイリスは何も言わなかった。カジェはルゥを哀れだ哀れだと言うが、アイリスはむしろカジェのほうが哀れになってきて、ただ無言で彼女を見つめた。
《カジェ姫》と、ずっと黙っていたセナンが言った。《はじめに言っていたお願いというのは、結局何なのでしょうか? 時間もないので、そろそろ教えていただきたいのですけど》
アイリスはセナンの横顔を見た。《冷静、だね……》
セナンは微笑んだ。
「ごめんなさい」カジェは顔を上げて、セナンに微笑み返した。「ちょっと自分の世界に入ってしまいましたね。話を戻します。
とにかくルゥに対する同情の気持ちは今もわたくしの中にあるのですが、しかし、ルゥが我が国にしでかしたことは、もう嫌がらせの次元を超えています。ファンが小説に書いているとおり――細かいところは違いますが。例えばわたくしはその食事会には参加していません――、ルゥはディディリアの要人をひとり、言いがかりをつけて殺しました。そしてその目的はわざとこちらを怒らせ、戦争を起こすことにあります。全面戦争に持ち込んで、勝利し、わたくしの生殺与奪の権利を握ること。つまり、わたくしを自分のほしいままにするということ。それが望みです。
また仮にトラーベモアが負けても、ルゥには何も恐れるものはありません。もともとまともな理由で戦争を起こしているのではないのです、燃え尽きるまで戦い抜いて負けるのは、少なくとも悶々と今を生きるより、ルゥにはよほど幸せなことでしょう。
しかし周りの人間にとっては迷惑極まりない話です。わたくしもわたくしの両親も、ファンもその家臣も、戦争など望んではいません。戦争は互いの国力を無駄に消耗させるだけです。トラーベモアにとってもディディリアにとっても、損ばかりで何の得もないのです。ですが、ルゥが我が国の大臣を殺害したという事実はなかったことにできません。この理不尽な仕打ちにはきちんと落とし前をつけてもらわないと、ディディリアの多くの人間は納得しない」
カジェは肩を落とした。「わたくしはね、未練がましいと思うでしょうが今もまだ、どこかで希望を捨てきれないでいます。ルゥとの関係……何か元に戻す方法があるのではないか? また昔のように笑い合える、そんな奇跡の余地もどこかに残っているのではないか? そういう気持ちを捨てきれないのです。
……ですが、わたくしは一国の皇女として、決断せねばなりません」
カジェは背筋を伸ばし、アイリスとセナンを真正面に見た。
《泣いてる……》アイリスはハッとした。
カジェの目に涙がいっぱい溜まっている。だがその表情は凛と引き締まり、泣き顔には程遠い。
――涙が一筋こぼれ、頬を伝った。カジェは少しもたじろがない。表情も変わらない。カジェは自分が泣いていることを無視している。
すごい迫力……とアイリスは思った。
カジェは言った。「あなた方にお願いがあります。我々の側に寝返ってください」
アイリスは無言で眉根を寄せ、カジェを見つめた。
カジェは続けた。「あなた方はわたくしを誘拐しに来たのでしょう? わたくしもルゥを逆に誘拐しようと思っているのです。そして彼女をこの城の地下牢に幽閉します。それがいつかは分かりませんが、亡くなるまで。閉じ込めて、一生、日の光の下へは出さないつもりです」
カジェの涙が燭台の火を映す。まるで瞳自体が燃え盛っているようだ。
「幽閉……」アイリスはカジェの言葉を繰り返した。
「そうです」とカジェはうなずく。「殺しはしません。ルゥを確保して地下牢に閉じ込めることができれば、我が国の好戦派の人間も納得します。わたくしとしては、戦争を回避することさえできればそれでいい、不必要に血を流したくないと思っています」
「うーん……」とアイリスはうなった。
「お願いします」カジェはアイリスとセナンに順番に視線を注いだ。「アイリスさん、セナンさん、ディディリアへ寝返ってください」
《僕たちは、ただの傭兵に過ぎません》とセナンが言葉を選びながら言った。《僕たちを寝返らせる――仮に僕たちがうなずいたとして、あなたは僕たちに何を期待します?》
「あなた方はルゥにとても気に入られているようではありませんか?」カジェは微笑んだ。「あの城に招待される傭兵など、これまで聞いたことがありません。あそこはルゥの聖域ですから。ファンでさえ数えるほどしか中に入らせてもらっていないのです」
《招待してもらえたのは、あなたのおかげですよ》とセナンは笑みを返した。《あなたが快くドレスを貸してくださったからです》
「ああ、そうでしたわね」カジェは肩を揺らして笑った。「わたくしはね、あの城に招待されるほどにルゥに気に入られたあなたたちになら、ルゥをだましておびき出すことができるのでは、と期待しているのです。わたくしをルゥの元へエスコートするのはやめて、ルゥをわたくしの元へ引っ張ってくる。そのほうがあなたたちにとっても得ではないかと思います。もちろん礼金は弾みますわ」
アイリスは唇を噛んだ。
「いかがかしら?」カジェは再度尋ねた。「こちらへ寝返っていただけませんか?」
ぐっ、と心を惹かれる話だとアイリスは思った。うなずけば、あの大バカ王女と縁を切れる。その上、その大バカを幽閉する手助けをする――いま抱えている仕事より、ずっとやりがいと充実感がありそう。さんざ溜め込んだストレスの発散もできそうだ。溜飲も大いに下がるだろう。
アイリスは考えた。ルゥと、いま目の前にいるカジェ。理解不能の狂人と、このまっとうでしっかり者の王女様。天秤にかけるまでもないじゃないか。
《セナン、どうする? カジェの言うとおりにしてみる?》とアイリスは期待を込めて聞いた。
《だめ》とセナンは即答した。
アイリスは落胆すると同時に「だよね」とも思った。
セナンは続けた。《心惹かれる話だけど、聞き入れることはできないよ。僕たちの目的は戦争だ。ルゥに戦争を起こしてもらわなければ、何のためにここにいるのか分からない》
セナンの言葉に、アイリスは暗い穴へ落ち込むような気分になる。でも、セナンのためだ、セナンのそばについて、セナンと一緒に私はこの世界を生きていくんだ、そう決めたじゃないか――と思うと、体の底から大きな気力がわいてくる。胸を熱い血が駆け巡り、全身に力が満ち満ちてくる。
そうだ。「ルゥみたいなやつは嫌い」なんて私の好みはどうでもいいんだ。嫌いだから何だって言うのよ。私の我をセナンに押し付けて、どうなるっていうの? セナンが悲しむようなことをして、私は何がしたいのよ。セナンのために――セナンの望むように私は生きるんだって決めたはず。セナンがルゥを裏切らないと言うなら、私も裏切らない。それだけよ。
アイリスはカジェをまっすぐに見返し、首を振った。「ごめんなさい、そちらへ寝返ることはできない」
カジェは目をぱちくりさせた。「なぜです? あなたたちにとって少しも悪い話ではないのに。何が不満なのです?」
「不満ということはないけど」アイリスは小さく笑った。「だけど、私たちは戦争に参加したいの。それが仕事だし、簡単に雇い主を裏切る傭兵なんか二流だしね」
「雇い主はファンでしょう? ファンだって戦争なんか望んではいません」とカジェは首を振った。「ルゥをたばかっても、雇い主を裏切ることにはなりませんわ」
「それでも、だめ」アイリスはまっすぐに言った。「私たちは戦争に参加する」
「どうして開戦にこだわるのです?」とカジェは尋ねた。「礼金は弾むと言っているのに。トラーベモアとディディリアが戦争をしようがしまいが、旅人のあなたたちにはどうでもいいことでしょう?」
《一応、話してみようか》とセナンが肩の力を抜いて言った。《僕たちがどうして傭兵なんてやっているのか、カジェ王女に》
アイリスはカジェに、セナンの目をオニに奪われた話や、そのオニを求めて世界中の戦場を回っているという話をした。
聞き終えると、カジェは少しの間うつむいて考え込んだ。そして上目にこちらを見て、「取引をしません?」と言ってきた。「わたくしたちディディリアでは、国家として諜報に大きな力を注いでいます」
「諜報?」今度は何の話? と、アイリスは首をかしげた。
カジェは続けた。「諜報の能力に関して、我が国は大きな自信を持っています。カバーしている範囲も広いですわ。ディディリアの諜報員たちは周辺の国だけでなく、この大陸の端から端までを股にかけて活動しています。さまざまな国の戦争に関する情報量も、トラーベモアとは比較になりません」
「つまり、どういうこと?」
「それらの戦争関連の情報をあなたたちに提供します」とカジェは言って、アイリスでなくセナンに視線をやった。「わたくしたちが持っている限りの情報をすべてです」
《大きな財産ですよ、そういう情報は》と言い、セナンは苦笑した。《それを投げ売りするような取引は、賢明ではありませんね》
「賢明でなくてかまいません」とカジェは目をそらさずに答えた。「ルゥのような人間をどうにかしたいなら、賢明な選択だけではだめだと思います」
《なるほど》セナンはうなずき、それから黙り込んだ。片手をあごに沿え、深く考え始めた。
アイリスはセナンの横顔を見つめて動悸を早めた。セナンが長考している――それはとても珍しいことなのだ。彼はいつだって最良の選択を最短の時間でする。いま私たちは、セナンを悩ませるほどの大きな岐路に立っているんだ――そう思うと、横に立っているだけのアイリスも緊張してくる。
《分かりました》とセナンは言い、うなずいた。《あなたの言うとおりにしましょう》
アイリスはセナンを見た。通訳も忘れて「わっ、やった」と叫んだ。
「え? なんですか?」とカジェが目を丸くした。
「あ、ごめんなさい」アイリスは口に手を当て、赤くなった。それから改めてカジェに「あなたの言うとおり、そちらへ寝返るわ」と伝えた。
「本当ですか?」カジェの顔が華やぐ。「ありがとう、とてもうれしい。長い間心を覆っていた黒雲が晴れるようだわ……。本当にありがとうございます。お二人に感謝します」
それからカジェは思い出したように涙をぬぐった。
「ではさっそく」カジェはイスを引いて立ち上がった。「こんなところでお話しするのもなんですから、お部屋へ戻りましょう。おいしいお茶を差し上げますわ」
彼女はアイリスとセナンに目を向けたまま、「お二人にお茶とお菓子を用意しなさい」と誰かに命令した。
アイリスは一秒きょとんとし、それから真っ青になって背後を振り返った。
すぐ後ろにクロスボウを構えた男が立っていた。アイリスは頭を殴られたような衝撃を受け、息を呑んだ。セナンへ向けられた矢じりと男の顔を見比べ、恐怖より先に驚いてしまう。
「インザ……」とアイリスはつぶやいた。
「よ」と片手を上げてインザは笑った。「びっくりしたかい?」
アイリスはつばを飲んでうなずいた。だが思い直して、首を横に振った。
「いーや、そりゃびっくりしてるって顔だぜ、ねえさん」インザはクックと笑った。
「いかが?」とカジェも微笑んだ。「我が国の諜報員は、本当に優秀でしょう?」
なるほど、インザはディディリアのスパイでカジェとつながってたんだ……とアイリスは、少しずつ体の力を抜きながら思った。これであの通行証の威力も納得だ。
「びっくりはしたわ、でもね……」とアイリスはインザに言った。「あんただってことには、別に驚かない」
「え? そうかい? おっかしいなぁ」インザは白々しく首をかしげた。「驚き桃の木なんとやらってな具合に、びっくり仰天のはずだったんだがな」
「スパイとまでは思ってなかったけど」とアイリスは嘆息して続けた。「通行証の件で「なんかおかしい」と思ってたわ」
「そうかい」インザは肩をすくめてニヤッとし、クロスボウを下ろした。「さすがに怪しまれてたか」
《ねえ、セナン》アイリスはインザから目を離さずに、カジェのほうを向いたままのセナンに言った。《やっぱこいつ只者じゃなかったね。空気に敏感なセナンでも、後ろに立たれたのに気付けかなかったなんて》
《本当だね》セナンはゆっくりインザのほうを振り返りながら返す。《インザは只者じゃない、本当に。でもひとつ言わせてもらいたい》
《なに?》アイリスはセナンを見てしばたたいた。
《僕は気付いていたよ。――インザに引き金を引けと言ってごらん》
「えっ?」目を丸くしてアイリスはインザを見た。アイリスに見つめられ、インザも目をぱちくりさせる。
「なんでぃ?」
「引き金を引け、だって」アイリスはインザのクロスボウを指差した。
インザがハッとしてクロスボウを見た。地面に向かって引き金を引く。矢は発射されない。
「こいつぁ……」それ以上言葉が続かず、インザは絶句する。
「なに? どういうこと?」とアイリスがインザとセナンを見比べた。いつの間にかこちらへやって来ていたカジェも、アイリスの隣に並んでインザのクロスボウを見やる。
インザは一同を見渡し、セナンの銀の目隠しに目を留め、笑い出した。
「やられちまったぜ」インザは天井を仰いだ。クロスボウの引き金を指でゆすって見せる。引き金はいかにも頼りなげに揺れている。「破壊されてやがらぁ」
カジェも驚いて目を丸くした。そのままアイリス越しにセナンの横顔に首を向けた。「セナンさんがやったのですか?」
《ちょっと、セナン》アイリスが不満を感じて言う。《気付いてたなら、なんでインザがいるって教えてくれなかったの? しかも引き金だけ壊すなんて、なんて危なっかしい真似を――》
セナンがアイリスの指を鷲づかみにした。(何を……)と眉を寄せるアイリスのその手へ、自分の指を動かす。《……嘘だよ》
《は?》アイリスは眉を上げた。《嘘?》
《きみの言うとおりインザは只者じゃない。僕もちっとも気付かなかった。まあ仮に気付いても、正確な位置を教わらず引き金だけ壊すなんて、できるわけないけど》セナンは表情を変えずに説明する。《きみがインザに気付いて、彼の位置とクロスボウのことを教えてくれてから、僕は一気に魔法を使ったのさ》
《ええ?》
アイリスはいつも、目の前にあるものをほとんど無意識にセナンに教えている。今回も頭では驚きつつも、インザの位置やクロスボウのことは振り返って瞬時に伝えた。だが、セナンが魔法を放ったことに自分が気付けなかったのが信じられない。
《前にドアノブのシリンダーを壊したよね?》セナンは言う。《あの時の経験が生きたよ。力をぎゅっと凝縮して、音も立てず、小さい範囲に魔法を叩きつける。どうやら僕は一段レベルが上がったみたいだ。うまくいって良かったよ》
《セナン……》アイリスは驚くと同時にあきれながら返した。《あなたもスパイになれる……》
一同、カジェの部屋へ移動して、ソファーにかけた。アイリスとセナンが隣り合って座り、向かいのカジェがくつろいだ様子で足を組む。いったん出ていったインザがトレーを持って戻り、上に乗った紅茶のカップとケーキをそれぞれの前に置いた。紅茶はすばらしく芳醇で、モンブランのマロンクリームも豪勢に盛り上がっていた。
テーブルには小ぶりの花瓶が載っている。黒地に、さまざまな動物が色彩豊かに描かれた贅沢な品。だが花は挿さっていない。ただ花瓶だけが、テーブルから生えた首のように置いてある。
インザはカジェの後ろに回ってそのまま控えている。アイリスはまずインザに尋ねた。「あんた、どこまでこの人に伝えてるの?」
「ほとんどは」とインザは答えた。「オニの件は話しちゃいなかったがな」
「じゃあ、余計なことは抜きで仕事の話をしましょ」とアイリスは言ってカップを取り、セナンに持たせた。「ルゥは強い上に親衛隊が常についてる。どう拉致するの?」
「あなたがたが首尾よく仕事をこなしたと、インザがトラーベモアへ早馬を走らせて伝えます」とカジェは答え、ケーキ皿とフォークを取った。「向こうがわたくしを誘拐しろと言ったのなら、それをそのまま利用しましょう」
「と言うと?」アイリスはセナンにケーキの位置を教え、自分もケーキ皿を取った。
「どこか適当な場所にルゥを呼び出すのです。そこでわたくしを引き渡す、ということにして。そこへはわたくしとあなたがたの三人だけで向かうことになります。誘拐された人間が自国の兵を連れていたらおかしいですからね。わたくしの命はあなたがたに預けることになります」
カジェはケーキを口に運び、おいしそうに微笑みながらアイリスを見た。
「……責任重大ね」アイリスもケーキを食べた。眉を上げる。「おいしい、これ」
「場所は……」カジェはしばし考えた。「そうだ、国境の近くの森の入り口にしましょう。あそこはルゥもよく知っている所だし、ひと気もありません。そこであなたがたにルゥを取り押さえてもらいます。もちろん相応の抵抗はされるでしょうが……」
《僕らもプロですので、ルゥと戦うのは構いません。でもそんなに簡単におびき寄せられるでしょうか?》とセナンが尋ねた。
「大丈夫です」カジェは自信満々だ。「ルゥに伝える際、「わたくしがむしろ積極的にルゥに会いたがっている」とでも付け加えましょうか。いずれにせよ、ルゥは自分の欲しいものが手に入るとなると冷静さを失います。周りがまったく見えなくなる人間なのです。多少怪しい話でもまず間違いなく言うとおりやって来るでしょう。しかもあなたがたは以前、ドレスを盗む仕事を成功させているのですから。きっと信じます」
《ではトラーベモアは?》とセナンは続けて聞いた。《ルゥのような人でも一応お姫様です、拉致されたら黙っていないのでは?》
カジェはケーキ皿を置き、紅茶で口を湿らせて答えた。「話はついています」
《ファン王子とですか?》とセナンが聞いた。
カジェは後ろのインザと顔を見合わせ、うなずいた。「そうです」
《そうじゃないかと思いました》とセナンは言い、カップを置いてケーキを食べ始めた。おいしいようで、唇の端が上がった。
「いつから、そういう話になってたの?」とアイリスは尋ねた。「まさかファンも、最初からこういうことさせるために私たちを雇ったわけじゃないでしょ?」
「ルゥを誘拐するアイデアは、あなた方がルゥの別荘に招待された後でわたくしが思いつきました。もちろん、ファンははじめ、純粋に兵力としてあなたたちを雇ったはずです」とカジェは言って、そして付け加えた。「あと、小説のいいネタになるとも言ってましたが」
「そういうことか」アイリスは嘆息して、それから「ファンに騙されていたってこと?」と思うと急にイラっときて、一気にケーキを口に詰め込んだ。
「ファンが言っていました。この作戦がうまく行ったら」カジェも再びケーキ皿を取って言う。「表向きには「ルゥは心を病み、療養する」と発表する、と」
アイリスはケーキを噴き出しそうになった。「それ、誰も疑わないだろうね。つーか、もう既に病んでるでしょ」
カジェはさみしげに微笑を返した。
カジェはすぐに伝令を走らせた。インザの用意した早馬は、通常なら一日がかりの行程を半日で走破し、翌日の午前中にはカジェの伝言をルゥの耳に届けた。
――――
寝返ることを決めたその夜、アイリス・セナンはディディリア城に泊めてもらった。
翌日、二人はカジェと共に馬車に乗り、待ち合わせ場所の国境の森へ向かった。
小さな森だった。こじんまりとした木々の固まりが直径百メートル程度の規模で茂っている、子供の遊び場のような場所。森の周囲は広々とした草原。三人の立っているそばには小川も流れている。のどかな田舎の風景だ。
アイリスは街道の方をながめていた。
柔らかな風が吹いている。風にしなる草がアイリスの足や手を撫でた。セナンのマントが軽くあおられている。二人の前ではカジェのドレスのすそが小さくはためいている。
《来るかなあ》とアイリスはセナンに尋ねた。
《さあねえ》とセナンはのんびり答えた。《でも「欲しいものが手に入るとなると周りが見えなくなる」っていうのは、うなずけるよ》
《確かに》アイリスもうなずいて、再び街道をながめ始めた。
カジェは後ろを振り返らないので表情が分からない。緊張はしているようで、馬車の中ではうつむきがちに黙っていた。今も無言だ。
二十分ほど待ったところで、街道の先に馬車が見えた。アイリスは背伸びした。近付いてくるほどに、その馬車の鮮やかな白さがはっきりしてくる。ルゥ専用の馬車だ。
馬車は三人の前方に停まった。中から親衛隊員がひとり飛び出して、御者席の隊員も地面に飛び降りた。それからゆっくりとルゥが、赤いマントを翻して降りてきた。
伝令役には「カジェは、ルゥと久しぶりに会えることをむしろ喜んでいる。でも顔を合わせるのに気まずい部分もあるので、できればルゥにはひとりで来てほしい」という伝言を持たせていた。
《まあ想定の範囲だね》とアイリスは言った。
《僕は四、五人は連れてくるかと思ったよ》とセナンも返した。
ルゥは頬を紅潮させていた。息も荒かった。瞳孔も開いていた。
「カジェ」とルゥは、一歩前に出て言った。唇が乾くのか、しきりに舌なめずりしている。「「ルゥと会えるのがうれしい」だなんて罪な奴だ。お前は悪魔だ。私の心をかき乱して、心根の腐った売女(ばいた)め」
言葉とは裏腹にルゥの顔はほころんでいる。
「ひどい言い草ね」とカジェも一歩前に出て返した。背中を見せているのでアイリスには表情が分からない。だが親しげな声だ。「それが久しぶりに会った友人にかける、最初の言葉?」
「友人じゃないだろう?」ルゥは三日月の形に唇を捻じ曲げる。「お前は今日、私の恋人となるのだ。「うん」と言うまでどこへも行かさないぞ」
「わたくしは、ルゥを最良の友だと思ってたんだけど」肩をすくめ、カジェはさらに一歩前に出た。
ルゥはもう耐え切れないという様子でずかずか歩き出し、カジェとの距離を詰めた。
《もう少しカジェ姫の近くに》とセナンが言った。
アイリスはセナンの手を引いて、カジェの一メートルほど後方に移動した。
ルゥとカジェが間近に見つめ合う。ルゥが目を細める。
アイリスはルゥの顔に見入った。――美しかった。赤子を見る母のような情愛のこもった笑顔。本来、誰もがうらやむ美貌の持ち主なのだ、ルゥは。腐った根性が表に出ることさえなければ。
「そうだ、カジェ」ルゥが手をたたき、懐をまさぐった。「こんなものを用意してきた。喜んでくれ」
アイリスは嫌な予感がした。
「これだ」と言ってルゥは紫色の小箱を取り出した。
カジェが身じろぐ気配がした。
「受け取って欲しい、我々の愛の証に」ルゥがふたを開ける。中身は金色の指輪。
カジェはじっと指輪に目を注いでいる。と、手をゆっくり上げ、箱そのものを彼女はルゥの手から取った。そして指輪を抜き取り、それを目の高さに持ち上げた。
ルゥは、掲げられた指輪とカジェを怪訝そうに見る。
指輪はカジェの右手の親指と人差し指につままれている。その指をカジェが開いた。指輪は草の中へ、音もなく落ちた。
困惑してしばたたいているルゥに、カジェは空の小箱を突きつけた。
「ルゥ、あなたはかわいそうなネズミに自分を投影したわね。「これが私の心だ」と」カジェは低く抑えた声で言った。「それなら、これがわたくしの心よ。指輪の入っていない空のケースがわたくしの心よ、ルゥ」
アイリスは自分の目を疑った。目の錯覚かと思った。ルゥの顔の表情がかわるがわる、すごい勢いで変化したのだ。満面の笑顔、困惑の笑顔、悲しい泣き顔、気のない無表情、感動、安堵、緊張、恐怖、照れ、恥じらい、驚愕、感嘆、その他もろもろ……。次々に、表情を司る神経が暴走したように、多種多様な感情がルゥの顔に現れては消えた。
アイリスは唖然とした。こんなショックの受け方をする人間、見たことがない。
表情のスロットはやがて恐ろしい形相で止まった。目は釣りあがり、眉間には深いしわが刻まれ、真っ白い歯はギリギリと噛み合わされる。怒りと悲しみの入り混じった凄まじい表情。
ルゥは肩を震わせて、カジェをにらんだ。うあああ、とうなりながら、こぶしを自分のももにたたきつける。「カジェ……」とカジェの名を呼ぶが、後はより大きな声で「ああああああ」とうなるだけ。
「ぐううあああああああ」とルゥは三たび、うなった。「ぐああああああああ」四たび。「ああああああぐううああああああ」五たび。
汚い言葉の集中砲火が始まると思っていたアイリスは、獣のようにうなるだけのルゥに困惑した。
「カジェ!」ルゥが目を見開いて叫んだ。「許さん!」
《カジェの体を引いて》とセナンが言った。アイリスはカジェのドレスを思い切り引っ張って、後ろへ投げ飛ばした。カジェはやわらかい草地に背中から倒れこんで目を白黒させた。
「お前たちもか……?」カジェの前に立ちはだかった二人へ、ルゥは戸惑ったような顔を向けた。その顔はわけが分からず泣き出そうとするような、崩れた表情へ変化した。「お前たちも私を裏切るのか? 愚弄するのか? おのれ……」
ルゥは抜刀して二人に襲い掛かった。アイリスはセナンに攻撃指示する。
セナンの魔法をすんでのところで薙いだルゥは、三歩下がって間合いを取った。至近距離からの相当きつめの魔法だったが、無傷だ。
《さすがね》とアイリスは言った。《今ので終われば楽だったんだけど》
《そう簡単にはいかないさ》
セナンは動き回るルゥと二人の親衛隊に何発も魔法を放った。その余波で辺りの草がえぐられ、土がむき出しになる。
ルゥはうまく避けたり、間に合わないと見たら衝撃を剣で打ち砕いたり、致命傷を受けない。隙を見つければ、親衛隊ともどもバッタのような俊敏さで飛び掛ってくる。剣筋も正確で、動きも無駄がなく、思い切って懐へ入ろうとする勇気もある。噂通りの達人だった。彼女は一騎当千の実力を持つ武人だ。
やがて親衛隊のひとりが足をセナンに打たれ、倒れ込んだ。続けざまにもうひとりも、魔法にふとももを裂かれて動けなくなった。
仲間を失うとルゥはあせり始めた。それがルゥの限界のようだった。抜群の素質はあっても、所詮は才能を余人より持っているにすぎなかった。アイリス・セナンに比べ、経験が決定的に足りない。
ルゥの体に傷が増えていった。肩は激しく上下し、目は苦痛にゆがみ、見るからに疲労困憊し始めた。
《そろそろだね》アイリスは笑みを浮かべた。《一気にたたみかけよう》
《了解》
セナンは四発、衝撃波を連射した。
「くそっ……!」ルゥはすんでのところで転がって避けた。四発の衝撃波が今の今までルゥのいた場所の地面をえぐった。一発でも食らっていたらおしまいだった。
ルゥはひざを突き、立ち上がろうとする。一度うずくまってしまったら、急激に体が重たくなる。気力でごまかしていた疲労が全身にのしかかってくる。
「おのれ、おのれ……」ルゥはアイリスとセナンをにらんだ。くやしくて脳髄が沸騰しそうだ。しかも、今がチャンスのはずなのに二人は続けざまの攻撃をしてこない。黙ってルゥの様子を見ている。殺す気はないのか、生け捕りか――そう思うと、ルゥはますます屈辱感に身を焼かれるような気がして、歯噛みした。
おのれ、くそどもが――。怒りにルゥはぐっとこぶしを握った。その手の中に何か硬いものの感触。
手のひらを開いて何かを見つめるルゥに、アイリスは「あ」と思った。
カジェへ贈った指輪をルゥは拾っていた。あっさりと捨てられた指輪。自分の想いのすべての詰まった、最大級の贈り物。それをカジェは拒絶した。指輪のない状態が自分の心だと言い放ち、拒絶した。
ルゥはうなった。硬く閉じた目から涙がこぼれた。しずくが指輪にしたたって弾ける。
ルゥはすっくと立ち上がった。腕を思い切り振って、指輪を地面にたたきつけた。そしてまたうなった。
「ああああああああああっ」
そしていきなり跳んだ。
アイリスはセナンに壁を作らせた。ルゥはそれを横に飛びのいて避けた。間を置かず、壁を迂回するように走る。二人には目もくれず、呆然としゃがんでいるカジェへ向かう。
《やば、カジェ狙い!》アイリスはセナンに、足止めするためにもう一度衝撃波を連発させた。
華麗に飛び跳ねてルゥは連射を避けた。一撃も、体にかすりもしない。一体どこにそんな力があんの……? とアイリスは驚き、あきれる。
アイリスとセナンもカジェの前に移動し、ルゥに相対する。その顔を見てアイリスは総毛立つ。極限状態に追い込まれた人間はこれまで何人も見てきたが、ここまでまがまがしい表情もそうない。
「カジェェェェッ!」叫びながら、ルゥは飛び掛ってきた。
思わずアイリスはルゥの真正面へ攻撃指示した。殺さず捕らえるのが目的なのに、ルゥの迫力に気おされてしまった。ルゥは衝撃波を剣で真っ二つに裂いていなした。それを見越してアイリスはさらにもう一発、やはり殺す覚悟でセナンに放たせた。ルゥはそれをも続けざまに引き裂こうとして剣を振り上げた。
《足っ》とアイリスは言った。
セナンが、隙のできたルゥの下半身に三発目の衝撃波を放つ。二発目をいなしたルゥの顔が一瞬、絶望に固まる。その足をセナンの魔法が打ち砕いていった。ガキゴキと骨の折れる音がした。
ルゥは地面に転がった。すぐに起き上がろうとし、「あっ!」と声を出して硬直した。背を反らせ、頭を両手で押さえて首を振る。骨折の激痛に悲鳴を上げる。
アイリスがふと背後を振り返ると、カジェが目を閉じ、耳をふさいでいた。今も友達に戻れるなら戻りたい――そう言っていたカジェにはつらい時間だ。
「がああああっ」とルゥは、声がかれるまで叫び続けた。喉の水分が蒸発し、もう声が出なくなっても声の代わりに息を吐き続けた。
やがてルゥは頭を抱えたまま静かになった。口を半開きにしてよだれを垂らしながら、じっと体を横たえている。のたうつ体力さえ使い果たしたんだろうとアイリスは思った。
《終わったみたい》アイリスはあごの汗をぬぐい、背筋を伸ばした。《ルゥを縛るわね》
《油断しないでね》セナンが言って、二人はゆっくり手を離した。
アイリスは道具袋から縄を取り出し、慎重にルゥに近寄った。土と汗にまみれて、ルゥの白い皮鎧は見る影もない。あちこち血もにじんで、赤いバラが咲き乱れているよう。頭を両手で覆っているので表情は分からないが、顔面の筋肉はぴくりともしない。気を失っているのか――。
アイリスは縄をルゥの背中の下へ通そうと、しゃがんだ。
ルゥが動いた。その一瞬に命を賭したような瞬発力。アイリスは反射的に体を引いたが遅かった。ルゥに手首をつかまれた。ものすごい握力だが痛いと思う暇もない。
目の前を何かが猛スピードで通り過ぎた。と、アイリスは背後へ吹っ飛んで尻餅をついた。突き飛ばされたのではない。逃げようとして体を引いた自身のエネルギーで飛んだのだ。わけも分からずルゥを見る。ルゥは仰向けのまま、右手の剣を左方向へ薙いだ状態で横たわっている。目の前を通り過ぎたのは剣だったようだ。そしてルゥの左手は――アイリスの右手首をつかんだまま。
――そんな……。
嘘のような光景にぼう然とした。ルゥにつかまれた右手首の先に、自分がいない。ひじのところで千切れている。
右腕のひじから下がなくなって血を吹き上げているのにアイリスが気付くのと、カジェが悲鳴を上げるのは同時だった。
アイリスの意識が急激に遠のいた。不思議なことに痛みは感じなかった。猛烈な脱力感に襲われて体を支えられなくなる。仰向けに倒れると、頭の中が真っ白になってゆき、反対に目の前は暗くなってゆく。
ぐったりと首を回せば、すぐ隣にセナンが立っている。いま目の前で何が起こったのか、一切知らないままに――。
アイリスは薄れゆく意識の中で、セナンの手を左手で懸命につかみ、ただ《大丈夫、大丈夫。私は大丈夫。何でもないよ。大丈夫》と繰り返した。意識が途切れる寸前、幻のようにどこからともなくインザが飛び出してきて、アイリスは彼に担ぎ上げられた。インザがカジェや、一緒に現れた他の兵たちに何か話している声が聞こえたが、そこでアイリスは気絶した。
アイリスはトラーベモア城下町の王立病院に運び込まれた。大量出血のためショック状態に陥っており、すぐに緊急手術が執り行われた。
カジェも一緒について来て病院に入り、やがてインザの伝令を受けたファンも合流した。アイリスがルゥに腕を切り落とされたと聞いたファンは血相を変え、「絶対に死なせるな!」と大声で医者に命じた。ぶんぶんうなずく外科医や魔法医の手で、ストレッチャーに乗せられたアイリスは手術室に消えていった。
手術中、セナンは待合室の長椅子に座っていた。身じろぎひとつせず、ももに両手を置いてじっと前を向いていた。無表情のため、何を考えているのか、向かいのイスにかけるファンとカジェにはうかがい知れない。
二人は困っていた。セナンをどう扱えばいいのか分からないのだ。静かにじっとしていてくれるのは助かるが、こうして互いに見つめ合っていてもどうにもならない。アイリスが腕を斬られ、ものすごい出血量で命さえ失いかねないと、一体どう教えればいいのか。
アイリスの存在の大きさをファンとカジェは痛感した。アイリスがいるから二人とも、障碍を意識せずにセナンと会話できたのだ。アイリスがいないと、セナンは理解不能の暗闇だ。
「どうしようか」とファンがカジェに尋ねた。
「どうしようもないわ」とカジェもため息をついて返した。
手術は夜中になっても続いた。その間、側近たちにいくら休むように言われても、ファンとカジェは首を振って待合室にい続けた。雇い主であるファンも、ルゥ誘拐の手伝いをさせたカジェもそれぞれに責任を感じていた。アイリスを捨て置いて、ベッドでゆっくり眠るわけにはいかなかった。
セナンは姿勢を変えずに座り続けていた。時折お尻の位置をずらす以外、身動きしない。動きの少なさはもはや堂々たるものだった。状況が分からないので下手に動かずにいるだけだったのかもしれない。が、ファンやカジェには、セナンの居住まいは豪胆さの現れのように思えた。まるで年老いた歴戦の武人のような静けさ。静か過ぎて呼吸しているか心配になり、何度かファンは、立ち上がってセナンの口元に耳を寄せたほどだ。
日付が変わって一時間ほど過ぎた頃、インザが待合室にやって来た。その後ろにティナも、赤い目で鼻をすすりながら従っている。
「インザ、ご苦労だった」ファンが憔悴した顔で声をかけた。
インザはうなずいた。彼も疲労の激しいぎらついた目をしている。つと、カジェの方を向いて親指と人差し指で丸を作り、ルゥの首尾について伝えた。
「済んだのね……」カジェも疲れた表情で、ほっと安堵の息を吐いた。
ティナが前に出てセナンを見た。彼女の目にみるみる涙があふれた。下唇を噛み、目をきつく閉じて泣き出すのをこらえる。
「殿下、手術は?」とインザが尋ねた。
「まだ終わらない」ファンは首を振った。「もう十時間だ」
「その間、ずっとここにいらっしゃったんですかい?」インザは目を丸くした。
ファンは力なく笑う。「私にも責任がある。雇い主だからな。それに斬ったのは私の身内だ」
「姫様も?」インザはカジェに目を向けた。
カジェはこくりとうなずく。「わたくしにだって責任があるわ。ルゥを捕らえるよう協力させたのは、わたくしですもの」
「やれやれ」インザは肩をすくめ、穏やかに微笑んだ。「もうお休みください、とあっしが申し上げたところで、言うこと聞いちゃくれねえんでしょうね。失礼ながらお二人とも、ひでえ面してらっしゃいやすぜ」
ファンとカジェは顔を見合わせ、十年分は老けたような互いのくたびれっ面に苦笑した。
「結果が分かるまで、我々はここにいるよ」とファンはインザに言った。
「では、あっしもご一緒いたしやしょう」とインザは頭を下げた。
「あの……」おずおずとティナが声を出した。「アイリスさんは、助かるんですよね……?」
もう一度ファンとカジェは顔を見合わせた。二人とも思わず下を向いてしまう。
「出血がひどかったんですの」うつむいたままカジェは言った。「大丈夫だと信じたいのだけど……なんとも言えませんわね」
「わたし、大丈夫だって信じます」とティナは返したが、言葉尻は涙でぼやけた。こらえきれずに泣き出しながら尋ねる。「ディディリアの姫様、それは、アイリスさんの……?」
ティナは、カジェのドレスの袖口を指差した。点状に散った血が、乾いて赤黒い染みになっている。カジェはうなずいた。ティナは更に激しい涙の発作に襲われ、うなずき返すこともできなかった。
手術室のドアが開いた。弾かれたように全員そちらを見た。水色の手術衣姿の執刀医が疲労の濃い顔で現れる。
「どうなった?」とファンが立ち上がって尋ねた。
執刀医はかすかに笑みを浮かべ、うなずいた。「成功です」
「助かったのですね?」カジェも立ち上がった。
「命は助かりました。状態も安定しています。出血が多く一時は危険でしたが、もう大丈夫です」
全員、ほーっと息を吐いた。
「良かった。良かった……」ティナがへたり込み、泣きながら笑った。
「ただ……」執刀医の顔が曇る。「腕は……つながりませんでした。魔法医たちも懸命にやったのですが」
「そうか」ファンは冷静にうなずいた。覚悟はしていた。病院へ運び込むまでに相当の時間を要してしまったのだから。「命が助かっただけでも充分だ。よくやったな。よくやった……」
大仕事を成し遂げた医師の肩をファンがたたいた。執刀医は一礼して待合室から出て行った。
医師の背を見送ると、インザが一歩進み出た。ファンとカジェの前に立ち、「うまくできるかは分かりやせんが、あっしに試したいことがございやす」と言った。
しばたたく二人にくるりと背を向け、インザはセナンと向かい合った。セナンの隣に腰掛け、ゆっくりと彼の手を取った――セナンが弾かれたようにインザを見る。インザは息を止めた。セナンは顔を向けただけで何もしてこない。
インザは息を吐き、彼の手のひらに自分の指をぴたりつけた。
「お前、ひょっとして……」ファンが興味津々たる顔でインザを見た。
インザは指を動かした。《オイラはインザだ。通じているか?》
セナンがぽかんと口を開けた。その口が「Oの字」から「Dの字」に変わる。
《驚いたな》とセナンは返した。《僕らの「指文字」を覚えちゃったのかい?》
「通じました」とインザは大きな声で言った。
ファンもカジェも、へたり込んだままのティナも目を丸くした。
インザはセナンに続けた。《完璧たぁ言えねえがある程度はな。どんくせえ話し方になっちまうのは許してくんな。あんちゃんも、できるだけゆっくり指を動かしてくれ》
《了解》とセナンはゆっくり指を動かした。
「今の状況を説明してやりやす」とインザはセナン以外の人間へ言った。それからセナンへつっかえつっかえ、アイリスがルゥに右腕を切り落とされたこと、腕はくっつかなかったが命は助かったこと、ルゥはディディリア城の地下に幽閉されたこと、今いるのは病院の待合室だということ、ここにいるのは自分のほかにファン王子、カジェ姫、メイドのティナだということ、アイリスが回復するまでは自分とティナがセナンの身の回りの面倒を見るということを伝えた。
ティナが立ち上がり、セナンのそばにしゃがんで空いているほうの手をにぎった。彼女もセナンやアイリスのために何かしたかった。でも何もできることがないので、せめて人間のぬくもりを伝えようとした。病院というのは壁も床も無機的で冷たすぎる。気持ちを込めて、ティナはセナンの手をにぎり締めた。
《手をにぎったのはティナだ》とインザは言った。《ねえさんのこと、こいつもすごく心配してたんだ。もちろん、あんちゃんのこともな》
《インザ、ちょっと離してもらえるかい?》
インザが手を離すと、空いた手でセナンはティナの頭を撫でた。ティナは目を上げてセナンを見、また涙ぐんで泣き笑いの表情になった。
6
――――
ファンは王族用の病室にアイリスを入院させた。天井にシャンデリアが吊り下がり、壁に立派な暖炉とマントルピースのある豪華な部屋。天蓋付きのベッドに横たえられ、アイリスは何時間も眠り続けた。鎮痛用の魔法と薬品をたっぷり与えられていたので、眠りは死んだように深かった。
セナンの名を呼ぶこともやめ、アイリスは観念する。絶望で力が入らないので、抵抗の真似事すらしない。
オニは右手を引き、体も少しのけぞらせる。オニの分厚い胸板に月明かりが当たる。空から降り注いだ一本の槍のように、まっすぐ光が照射される。アイリスは思う。ただの月明かりがそんなふうになるはずないし、実際にもそんなふうにはならなかったはずだ。
これは夢だ、とアイリスは理解している。
オニにまさに襲われようとして恐怖している自分と、離れたところからそれを眺めている自分に、夢の中のアイリスは分裂していた。
襲われているアイリスの視点――
月明かりが当たって、オニの胸元で何かがきらりと光った。アイリスは一瞬それが何か分からなかった。だが理解した瞬間、驚きと悲しみ、そして言いようのない懐かしさを一緒くたに感じて混乱した。アイリスはセナンと目を合わせていた。正確にはセナンの眼球と。オニの胸元にはペンダントに加工されたセナンの目がふたつ、揺れていたのだ。
次の瞬間、アイリスはすさまじい怒りの発作に襲われた。世界の終局が自分の内部で始まったような、自分が怪物に生まれ変わろうとしているような激情。
オニも灰色の町並みも、セナンの眼球もすべて黒くなり、場面は暗転する。真っ暗闇で音もない。そのときの記憶がアイリスにないからだ。後でいくら思い出してみても、あの時、自分がどう動き、どう相手を制したのか、まったく分からない。父からもらった才能と子供の頃の剣術の訓練、母からもらった才能と子供の頃のサッカーの練習、それらが、自分が無意識に動くのを助けてくれたのか?
気が付いた時にはアイリスは、オニに馬乗りになって繰り返し右手を振り下ろしていた。
アイリスはただぽかんと、街道の先の暗がりを見つめてしばたたいた。セナンの眼球を目に留めてから、いまハッと気が付くまで、私は一体何をしていたのか。
ふと見ると、オニの胸や腹に自分の右手がナイフを突き立てている、何度も何度も執拗に。うわっと声を上げて、アイリスはナイフを投げ出した。
アイリスは自分の尻に敷かれている鬼を見下ろした。オニはピクリともしない。大口を開け、長い舌を垂らして固まっている。
死んでいる。どう見ても。
――殺したの、私が?
何が何だか分からない。アイリスはただぼう然とする。
だが――とにもかくにもオニは死んだ。それだけは確かだ。それも、状況から考えて、私が殺した……
なんてあっさりしてるんだ――だんだん気持ちが落ち着いてくると、アイリスはそんなことを思った。つらい思いを味わいながら、いつか倒す日を夢見た存在を、なんとあっけなく殺してしまったんだ、と。
アイリスはオニの死体をあらためて見つめた。動かなくなってしまうと、それは怖くもなんともない、単なる肉のかたまりに過ぎなかった。脇に転がっている行き倒れの死体となんの違いもなかった。
アイリスは何とも言えない物さびしさを覚えた。――実際には、まっさきに「助かって良かった」と思ったはずだ、と遠くから眺めているアイリスは思った。でもこの物さびしさも本物の記憶だ。目を取られずに済んでほっとして、それからめまぐるしく心が変化して、胸中に何とも言えない物さびしさが広がったのだ。
旅暮らしを続けながら、アイリスはどこかロマンティックな想像を頭の片隅に抱えていた。大切な物を取り戻すため、苦難に満ちた旅を何年何十年と続ける自分とセナン、というイメージ。いかなる苦境にもめげず、ただ愛する者の瞳を求め、世界をさすらう自分。イメージ。次々にたち現れる敵、罠、裏切り、エトセトラ。イメージ。それでも手を取り合い、互いを信じて闇の世を進み続ける二人。――そんな子供じみたおとぎ話のようなイメージ。
そんなイメージは今、あっさり壊れた。
オニの腹に座ったままぼんやりしていると、何かきらきらした砂のようなものが背後から飛び散ってきた。アイリスはわけも分からずしばたたいた。美しい光景だった。夜の闇を、砂金に似た光の集合体が散り流れてゆくのだ。
背後を振り返ってみてびっくりする。オニのひざから下が消えている。消えてゆくところから光の粒は流れ出ている。粒が空中に舞うほどに、足はさらに消えてゆく。アイリスが見ている間にも太ももまでなくなってしまう。
腹から降り、地面にしゃがんでその現象を眺めた。
オニの体が光の粒に変化しているのだ。
――オニって、死ぬとこんなんになるんだ……。
すごい勢いでオニは砂と化した。太ももが消え、股が消え、腕が消え、腹が消える。数十秒で消失は胸に至る。
アイリスは目を見開いた。胸にかかったセナンの眼球まで、一緒に砂になってしまった。一瞬の出来事でどうすることもできなかった。今まで眼球だった砂は、オニの砂と混ざり合い、空中の闇に紛れた。
アイリスは養老院の老婆の言葉を思い出した。
オニに体の器官を奪われても、奪われた本人がそのオニを打ち倒せば、器官は元通り本人に戻る。奪われた本人が――。必ず本人が――。
――わたしがやっちゃいけなかったんだ! アイリスは雷に打たれた。――わたしが殺しちゃいけなかったんだ!
ふらふらと部屋に戻り、セナンの隣に元通り寝転がり、眠れない夜を過ごして、朝を迎えた。頭ががんがんに痛み、全身の皮膚が裏返りそうなほどの吐き気がした。目の下にはどす黒いクマ。脳みそは限界を超えてフル回転し、気が狂いそう。ベットの中で悶々と、昨晩のことをセナンになんて伝えようと、アイリスは必死に考えていた。
その疲れ切った顔を、窓からの朝陽が照らしていた。
《アイリス?》とベッドから出ずに、不意に起き抜けのセナンがアイリスに尋ねた。《ねえ、どうかした?》
《えっ? な、何がっ?》鎖骨と心臓が乳房を突き破りそうなくらいドキッとした。
《よく分からないんだけど》とセナンは言った。《なんだか……アイリスの様子がいつもと違う気がしてね》
目と耳に障碍がある分、セナンの勘は鋭い。アイリスはとっさに、深い考えもなく、自分たちのその後の人生を決定する嘘をついた。《別に。大丈夫、大丈夫。わたしは大丈夫。何でもないよ》
《本当に?》
《本当よ。まあ、ちょっと気分が悪いんだけど。風邪かなぁ?》気分が悪いのは嘘じゃない。《せっかく戦争が終わったのにね。勝利したっていうのに、私って間が悪いね》
《そう? なら祝勝パーティは無理に出席しないほうがいいかもね》セナンは気遣い、それからポツリと言った。《……今回も会えなかったね。オニに》
アイリスはつばを飲み込み、返した。《そうだね。でも次の戦場では会えるかもよ。まだまだ、がんばろう》――
あれから、もう三年が経つ。
いつの間にか目覚めていた。ベッドに横たわりながら見つめているのは、夢の続きでなく――まぶたの裏。アイリスは目を開けず、名残惜しく眠りの中へ戻ろうとあがく。
さっきまで目の前にいた十七歳のセナンが懐かしかった。あせって大嘘をつく十七歳の自分も――。何度思い出しても後悔するばかりの記憶なのに。自己嫌悪で死んでしまいたくなるような最悪の過去なのに。それがどうして夢に見て、そこから覚めてみると、こんなに切なく焦がれてしまうんだろう。あの頃に戻りたい、と。
頭がどんどんはっきりしてくる。もう夢の中へは戻れない。アイリスはまぶたを上げた。美しい壁画の描かれた高い天井と、豪華なシャンデリアが目に飛び込んできた。見覚えのない光景。ここはどこだろう、と考えるが、まあどうでもいいか、とすぐ力を抜く。
別にここがどこでもいいじゃないか。ベッドは寝心地がいいし、シャンデリアはおしゃれだし、悪いところじゃない。おおかたファンが用意した城の客室か、ホテルの一室か――それともひょっとして病院か?
暖かな陽が横の窓から差し込んでいる。見ると、ブレスレットが窓辺に転がっている。母の形見だ。右だけ――左は、左の手首にいつもどおりはまっている。
左手を右腕へ伸ばした。包帯でぐるぐる巻きの右ひじの丸みに触れる。ひじから下はない。
アイリスは小さく息をはいた。ただそれだけ。取り乱したり、涙を流したり、叫んだり嘆いたりはしない。アイリスは冷静に自分の状態を把握していた。ルゥに腕を切られたことも、意識を失ったことも、ちゃんと覚えている。
何ともけだるい気分だった。二十年共にあった体の一部と別れるのはやはり悲しいし、今後の生活も不便だろうなと思うと憂鬱だ。
でも無くなってしまったものは、どうしようもない。
左腕を突き、腹筋に力を込めて上半身を起こす。痛むのを覚悟したが、ひじに軽く引きつるような感覚があるだけで平気だった。
毛布から右腕を出してみた。「うっ……」とたまらず声を出した。ひじまでしかないのを目にすると、さすがに胸が締め付けられる。片腕になったんだ、と改めてショックを受け、息苦しくなる。
「きついな……」とアイリスはつぶやいた。「旅、今までよりきつくなるなぁ……」
アイリスは包帯越しに右ひじを撫でた。少しかゆみが出てきたので、すぐによした。
病院の中庭のベンチに、インザは腰掛けていた。隣ではセナンが、じっと前を向いて座っている。
インザは懐中時計を取り出して時刻を確かめた。それから病院の建物の方へ首を向けた。
建物から庭へ降りるファンが見えた。ゆったりした召し物をひるがえして歩いてくる。遅れてカジェも現れ、後をついて来る。
インザは時計をしまって立ち上がった。
「ごくろうさん」ファンはインザを手振りで座らせた。
「昨日は眠れまして?」ファンの隣に並び、カジェはセナンに尋ねた。インザが通訳する。
《眠れませんでした》とセナンは答えた。《アイリスのことが心配で、一睡もできませんでした》
カジェはいたわるような笑みを浮かべ、うなずいた。
「話し合いは、どうなりやした?」インザがカジェとファンを交互に見て聞いた。
「話はついたよ」ファンが答えた。「ディディリアの大臣殺害の犯人の身柄を、我々はそちらへ」ファンはあごでカジェを差す。「引き渡した、ということになった。それでおしまいだ」
「争いは終わり」カジェも言う。「ルゥのことも何もかも」
「ようございました」インザは神妙に言って深くうなずいた。それから彼はセナンに戦争が回避されたと伝えた。
《そうかい》セナンは表情を変えずに返した。
《そっけねえな》インザは笑った。
「皆様~」庭の入り口から黄色い声がした。トレーを抱えたティナが、いそいそとこちらへやって来る。「レモネードをお持ちしました」
「ありがてえ、喉が渇いてたんだ」インザはトレーの上のグラスをファンとカジェにまず渡した。それからセナンにも《ティナがレモネードを持ってきた》と言い、渡してやった。
一口飲んで、セナンは口元をほころばせた。《おいしい。これ、ティナが作ったの?》
「うまい、ってよ」インザが通訳する。「あと、お前が作ったのか? って」
「はい、手製です」とティナはうなずいた。
《子供の頃、アイリスのお母さんに作ってもらったレモネードを思い出すな》セナンはしみじみと言った。《あのレモネードもおいしかったけど、ティナのも負けないくらいとてもおいしい》
インザに通訳されると、ティナはうれしそうに笑い、少し赤くなった。「そう言われると作った甲斐があります」
みながレモネードを半分ほど飲んだところで、インザが言った。「そろそろ始めてよろしいですか?」
カジェはファンへ、確かめるように首をかしげて見せた。
ファンは肩をすくめ、「戦争が始まらないなら、もうセナンもアイリスも私の兵ではないさ」と言った。
「よろしいわ」カジェはインザにうなずいた。
「よしっ」とインザはひざを打ち、セナンに向き直った。《突然だが、今日はよ、あんちゃんに大事な話があるんだ》
セナンはインザのほうを向いた。《大事な話?》
《いきなりこんなこと言われてびっくりするかもしれねえが》インザは、声に出すわけじゃないのに咳払いした。《ディディリアによ、正式な軍人として就職する気はねえか?》
《就職?》セナンの口角が上がる。
《そう。ディディリア軍に入隊しねえかって話よ》インザは真面目な顔で続けた。《あんたらの実力は、ルゥ姫との戦いでよく分かったよ――すまねえな、あん時オイラもそばの草むらに隠れてたんだ――。あんたたちなら、たとえひとりが片腕でも、一国の軍人として立派にやってける。やってけるどころじゃねえ、もしオイラたちの仲間になってもらえたら百人力だぜ。こんな頼もしい新入りはねえよ》
セナンは正面に顔を戻した。
《でもよ》インザは眉根を寄せた。《旅暮らしに戻るって言うなら……つらいぜ、ねえさんが片腕なのは。人生は戦いばかりじゃねえもんな。生きるうえで、いろんな不自由に出くわすぜ》
セナンは無言で前を向いている。
《だが、うちに就職してもらえりゃ、オイラもいるし優秀なメイドもいっぱいいる》インザは続けた。《生活する上でめんどくせえ思いはさせねえよ。軍人として戦いのことだけ考えていてくれりゃ、それでオイラも陛下や姫様も満足だ。何の問題もねえ。あんたらには何の損もねえ話だ。どうだい、あんちゃん? あんたら自身のためにも、ひとつどころに腰すえてよ……今日からはディディリアを新しい住処として生きてかねえか? いいアイデアだろ?》
セナンは黙っている。インザも、ほかの皆も黙っている。
やがてセナンは長いため息をつき、インザに顔を向けた。
《インザ、僕がどうして旅暮らしを続けているか分かるかい?》
インザは怪訝にしばたたいた。《知ってるよ。あんちゃんの目を奪ったオニを追っかけてんだろ? ――いや、あんちゃんの不自由さももちろん分かってるさ。目も見えず耳も聞こえねえってのは、オイラなんかにゃ想像もつかねえほど大変だろう。でもよ》インザは身を乗り出した。《同じオニにもう一度会えるなんて、夢みてえな話だと思わねえか? オイラもこんな稼業だ、これまで数え切れねえ戦場を渡り歩いてきた。だが、オニになんざ一回も会ったことねえ。せいぜい「どこそこで見た」っていう仲間の噂を聞くくれえだ。それだって本当にまれだぜ。だいだいこの世界にいくつの戦場があると思ってんだい? よしんば、どっかの戦場にあんちゃんの目を奪いやがったオニが現れたとしてもよ、その時にちょうどよくあんたたちがそこにいる確率なんざ、ほんのわずかだ。ほとんど奇跡よ》
セナンは黙って聞いている。
《そんな奇跡をいついつまでも信じてるつもりかい?》見えないと分かっていても、インザはセナンの目の辺りをにらんでしまう。《いつまでも旅暮らしを続けるのかい? 片腕のねえさんと、盲目で聾唖のあんちゃんとで、いつまでもよ。いくら目を取り戻したいからって……》
《それもあるけど》セナンがインザの指を押さえ、彼の話をさえぎって言った。《それだけが理由じゃないんだよ》
インザはしばたたいた。《なんでい、それだけじゃねえって?》
セナンが顔を向けている正面では、大きな椎の木が枝を広げ、きらきらとした木漏れ日を地面に降らせている。
セナンはゆっくり話し出した。《理解してもらえるかどうか分からないけど……僕が旅をしているのは、アイリスのためでもあるんだ》
《ねえさんの?》インザは眉根を寄せた。
《そう。アイリスにね、罪をあがなわせるために》
《あがないだ?》インザは眉を上げた。《何のだよ? ちっとも分からねえぜ》
《僕の目をオニに取られてしまったことの、あがないさ》セナンは微笑した。《アイリスはね、僕が目を失ったのは全部自分の責任だと思ってるんだよ》
《なんだ、そりゃ?》インザは口を洞にする。《あんちゃんの目を取ったのはオニだろ? ねえさんがなんで責任を感じるんだい》
《取られたときの詳しい状況は知ってる?》とセナンは尋ねた。
《ああ》インザはうなずいた。《ファン王子に聞いたよ。取材メモも読ませてもらった。まあ確かに、最初に目を取られそうになったのはねえさんのほうで、それをあんちゃんが身を挺して助けた……ってことだったな。でも、だからってねえさんが責任を感じるのはおかしいぜ》
《うん。僕もそう思った》セナンは静かにうなずいた。《だから何度も何度も言ったんだよ。「アイリスのせいじゃない」「きみには何の責任もない」「悪いのはオニだ」「きみを助けたのは、僕がただきみを助けたかったから」「きみは何も悪くない」……》
セナンは大きくため息をついた。《孤児院で、日常会話が何とかできるくらいに「指」でしゃべれるようになると、僕は何回もアイリスにそうやって言い聞かせなきゃならなかったよ。「私のせいでセナンが盲目になった」とアイリスが言い始めるたびにね。アイリスは、そもそも家族の中で自分だけ無傷で助かったことを、どこかで申し訳なく思っていたんだ。もちろん誰もそんなこと責めるはずはないし、無事でいてくれて良かったとみんな心から思ってる。でもアイリス自身はそうは思わなかった。あの頃のアイリスはすごく不安定だった。自分をさいなむ気持ちが心の中で盛り上がるたびに、どん底に沈んでしまうんだ。「パパやママは死んじゃった。セナンの目も奪われた。私が奪われるはずだったのに。私のせいでセナンをつらい目に遭わせてしまった。私は何にもできなかった。何の役にも立たないクズだ」そういう状態に陥ったアイリスをなだめるのは一苦労だった。根気よく「きみは悪くない」と言い聞かせるんだ。本当に難儀な時間だったよ。そうして何とか落ち着いてくれてもね、また数日後には、同じ状態になるんだ。そしてまた一から、アイリスは悪くないということを理解してもらわなきゃいけなくなるんだ》
《そりゃ、つれえな》インザは嘆息した。
《うん》セナンは続けた。《とてもつらかった。自分を責め続けるアイリスに、僕のほうがつぶされてしまいそうだった。それで疲れ切っていたある日、苦し紛れに思ったんだよ。アイリスがそんなに責任を感じたいのなら、いっそ好きなだけ感じさせたらどうだろう、って》
《ほお?》インザはしばたたいた。《一体、どうしたんでい?》
セナンは微笑んだ。《もちろん「お前が悪い」とか「お前の責任だ」とか責め立てたわけじゃないよ。ただ、「きみは悪くない」っていうようなことを言わないでみたんだ。ただじっと、彼女の言葉を聞き、彼女の言葉を受け入れてみた。素直にうんうんうなずいて、彼女が自分自身を責めても否定しないで聞き続けてみた。そうして何日か過ごすと、少しだけアイリスの表情が明るくなってきたんだよ。何が良かったのかはよく分からない。思う存分、心の中身をぶちまけたことでちょっとだけスッキリできたのかもしれない。まあ本当に、ほんのちょっとだけどね。僕は勢いづいたよ。このやり方で間違いないって思った。もちろん、アイリスの心は相変わらず不安定なままで、元の彼女に戻るのには程遠かったけど、でももっと効果的なやり方なんて僕には思いつかなかった》
《ふーん》とインザは息をついた。《ねえさんもあんちゃんも、苦労してたんだな》
セナンは《苦労したよ》と苦笑し、続けた。《そんなとき、養老院のおばあさんからオニの話を聞いた。例の、オニに奪われた器官は取り戻すことが可能だって話。アイリスはこの話に飛びついたよ。それこそ必死にしがみついた。気持ちはよく分かった。僕が目を取り戻したいと望み、そしてそれを手助けすることができれば、アイリスにとってはそれ以上ない罪のつぐないになる。――そう。彼女の心にあったのは大きな罪の意識さ。「自分のせいでセナンは目を奪われた」。とても深い罪の意識だよ。抱えて生きるには、あまりに重い十字架だ》
《じゃあ……何かい?》インザは考えながら言った。《ねえさんは、自分の贖罪のためだけにこんなつらい旅暮らしをしてるってことかい? ねえさんはあんちゃんに対して罪悪感があって、それをつぐないたいってずっと思ってた、と。だからそうやってオニを求めて旅暮らしすることは、むしろ望むところだって?》
《望む、どころじゃないよ》セナンは笑みを消して言った。《喜びさ》
《喜び……》インザも笑みを消した。
《人間、人生に喜びを見出せなきゃ、やっていけないだろ?》
《そりゃ、まあ、な》
《一番いいのはもちろん、オニに再会し、僕が奴を倒して目を取り戻すことだよ》セナンは笑みを取り戻して続けた。《だけどね、さっききみが言ったように、同じオニにどこかの戦場で、うまく再会するなんてほとんど夢みたいな話だ。それは僕もアイリスも分かってるんだよ。難しいだろうな、望みは薄いだろうなって。だけどね、もう最悪の場合、それでも別にかまわないと僕は思うんだ。会えなくたって仕方がない、とね。オニを探しにも行かずに、どこかにじっとしているよりは少なくともましだよ。探してるってこと自体が、アイリスにとっては人生の喜びなんだもの。
「セナンのために一緒にオニを探してあげている自分」、「オニに会うために戦場を巡らなきゃならないセナンに、文句を言わずついてゆく自分」、「セナンを決して裏切らず、セナンがオニを見つけられるようにサポートする自分」、「目となり耳となってセナンに寄り添い、助けてあげる自分」――そういう自分を感じることがアイリスには大切なのさ。セナンを助けている、と実感することが、ね。そうやって、アイリスは自分の心を保っているんだ。だからね、ひどい目にあわせてしまった僕のために罪滅ぼしする、その機会を奪ってしまったらいけないんだよ。――僕はそれを罪だなんて思ってないけど。
もし僕がオニ探しをあきらめてひとつの場所に住み着くことにしたら、アイリスはまた激しい罪の意識に苦しむだろう。贖罪の旅で鎮まりつつあった不安定さがぶり返してくる。それこそ最悪の事態さ。アイリスはきっともう、生きる気力をふりしぼれなくなる》
インザは口を横一文字に結び、指も止めたまま黙っている。
《だからねインザ》セナンはインザに顔を向けた。《せっかくのありがたい話だけど、僕たちは旅を続けるよ。これからもずっと》
インザは不機嫌な顔でうつむいている。地面を見ながら指を動かす。《オイラ……納得いかねえな。あんたらの人生だからよ、他人がしのごの言うことじゃあねえのかもしれねえが、でもよ》
インザは顔を上げ、またセナンの目の布を正面に見つめた。
《それじゃ、あんちゃんがつれえじゃねえか。ねえさんは、罪滅ぼしできて満足かもしれねえが、あんちゃんはどうなるんだい? あんたはまるっきり、オニだの自分の目玉だの、そんなもんどうでもいいように言いやがるが、あんただって人間だぜ。木くずや石くれたぁ違えだろ。
さっき言ったじゃねえかい、人生に喜びを見出せなきゃやっていけねえって。あんたは、一体何が喜びだってんだよ? ねえさんの贖罪のためだけに生きてるような人生でよ? そんなんで満足なのかよ。てめえの人生を捨てて、他人の人生の中を生きるような生き方で本当に満足なのかよ》
《満足さ》セナンは即答した。《僕は生まれたときから、常に誰かの助けを必要としていた。目を失った今は、もっとだよ。そんな僕でも、誰かに尽くし、その心をあたためてあげることができる……それは、本当に喜ばしいことだよ》
《そりゃ、本当にあたためてることになんのかい?》インザは厳しい表情で言った。
《分かってるよ、インザ》とセナンは微苦笑した。《ひとから見れば、僕らのやっていることは茶番だよね。バカげたごっこ遊びに過ぎない。罪滅ぼしごっこ……。アイリスは僕に尽くして罪悪感を洗い流そうとする。僕は、アイリスが存分に罪滅ぼしできるよう、彼女の望む僕――目を取り戻すために戦場を求め、オニを探し続ける僕を演じて贖罪の機会を与える。そうすることで二人とも満足感を得るんだ。いつ終わるとも知れないごっこ遊びとお芝居さ》
《持ちつ持たれつってか? くそったれ――むなしくねえのかよ》インザはセナンをにらんだ。《そんな無意味なことを続けて、あんちゃんむなしくねえのかよ?》
《むなしいさ》セナンは静かに、ゆっくりとうなずいた。《とっても、むなしいさ。罪なんてないのに。あるのは思い込みだけなのに。アイリスの中の、罪の意識という思い込みだけなのに。……むなしいね》
《じゃあ、なんでそこまでするんでぃ?》インザはイラ立たしげに聞く。《どうしてそこまで尽くせる?》
《愛してるからだよ》とセナンは答えた。《アイリスを愛してるからだ》
インザはきょとんとした。
セナンも黙っている。
ややあって、インザは長い息を吐いた。《弱っちまった……愛なんて持ち出されたら、何も返せねえじゃねえか。――まあ、いいやもう。あんちゃんの気持ちはよく分かったよ。長々、個人的な話をさせちまって悪かったな》
《いいえ》とセナンは首を振った。
《だがよ》とインザは続ける。《オイラは慎重な人間なんだ。最後にもういっぺんだけ確認させてくんな。あんちゃんにとってもねえさんにとっても、体のことを考えれば、ディディリアに就職するのが一番楽なはずだ。それだけは間違いねえ。それでも本当に、いいのかい?》
《うん》セナンはうなずいた。
《ねえさんを納得させることは、どうあってもできないんだな?》
《うん》セナンは自嘲するように笑う。《まず無理だね》
《強情そうだもんな》インザも苦笑いした。
《それにさ》セナンは空を見上げた――見えてはいない。空のかなたを流れる千切れ雲へ顔を向けただけ。《仮にアイリスを説得してディディリアに住み着いても、また何か新しい悩みがわいてくるはずだよ。環境、人間関係、身分――そういうものが変わっても、喜びと悲しみの総量は変わらない。今の僕らには僕らなりの楽しみと面倒があるし、君の話を受け入れても、そこにはまた別の楽しみと面倒があるよ》
《へ、そんなもんかい?》インザも空の千切れ雲を見上げ、鼻を鳴らした。
《今と違う自分になれたなら、ここではない別の世界に移れたら、きっとすべてがうまくいき、解決する……》セナンは一語一語かみ締めるようにゆっくりと指を動かした。《そう夢想するよりもね、僕は、いま僕らが生き抜こうとしてる世界で、精一杯やっていきたいと思うんだ》
「ちっ」インザは舌打ちして、肩をすくめた。「そうまで言われちゃ、どうしようもねえや……」
「インザ、どうなったの?」とカジェが身を乗り出して尋ねた。
「スカウトは成功したのか?」とファンもニヤニヤしながら聞く。
ティナはちんぷんかんぷんで、みなの顔を見る。
インザは後ろ頭をかきながらカジェを見、こうべを垂れた。「大変お待たせいたしやした、姫様。申し訳ございやせん、失敗です」
「え……」カジェは口を「△」にした。「そう……そうなの……失敗なの」
「残念だな」ファンが満面の笑みを浮かべる。「まったく残念だ、うん。せっかく長々待ったのにな」
「うれしそうね、ファン」カジェはファンをにらんだ。
「そりゃそうだろう」ファンは悪びれずにうなずいた。「自分が雇った優秀な人間を横取りされたら、やはりいやな気分だよ」
《優秀だよ、本当に。もったいねえなあ》インザはカジェとファンのやり取りをながめつつ、セナンに言った。《あんちゃんは一ヶ所に腰をすえれば、絶対大物に成長できると思うんだよ。別にてめえで戦場に出なくたってよ、ただイスに座って手下どもにああしろこうしろって命令してるだけでも、世界的な軍師になれるぜ。そういうカリスマ性みてえなのをオイラは感じるんだ。……なあ、ほんとに楽な道選ばなくていいのかい?》
《光栄だけど、遠慮しておくよ》セナンはうなずき、微笑んだ。《苦労を経て何かを成し遂げる――そういう生き方が嫌いじゃない人間なんだ、僕やアイリスは。苦労ってときどき、元気の素になるんだよ》
《違えねえな》インザはレモネードを飲み干し、あきれ顔で言った。《確かにカジェ様の部屋で「僕らには戦争が必要だ」ってあんちゃんに言われてるねえさんは、どこかうれしそうだったよ》
セナンは肩を揺らして笑い、自分もレモネードに口をつけた。すっかりぬるくなっている。唇を離し、グラスを目の高さにかかげて氷結魔法をかけた。グラスの周囲を小さな吹雪が舞った。
「わっ、魔法ですか、今の? すごーい」ティナが目をまん丸に開いた。
「物を冷やす魔法だってよ。ぬるくなったものを一気に冷たくする――」
インザが代わりに説明する横で、セナンはレモネードを飲み干した。甘く、優しく、さわやかで、初夏の日差しのような味がした。
――――
アイリスの療養などのために、その後三ヶ月ほど二人はトラーベモアに滞在した。その間アイリスは、それまで右手で行っていたさまざまな事を左手でこなすための訓練に精を出した。必要となればどうにかなるもので、三ヵ月後には文字もそこそこ書けるようになったし、フォークも器用に扱えるようになった。指による会話はもともと両手でしていたので問題なく、ナイフや短剣も、子供の頃、左手でも修行をしていたおかげで結構扱えた。
セナンは毎日、アイリスのリハビリテーションを見学した。目で見ることはできないので、いつもインザに付き添ってもらい、アイリスの訓練を実況してもらった。本来なら忙しい立場にある諜報官を、カジェは快くセナンに貸してくれた。
はじめアイリスは、セナンの横のインザに良い顔を向けなかった。アイリスは嫉妬していた。自分以外にセナンと会話できる人間がいる事実を、うまく受け入れられなかった。それは私の特権だと、インザにとげとげしい視線を投げつけながら思っていた。
だが、ひと月もすると、さすがにアイリスもいじけてはいられなくなった。インザはよくやっている、と認めざるを得なかった。アイリスがリハビリに忙しいときも、文句も言わずにセナンのそばについていてくれるのだ。指会話を体得してくれたことを、渋々でも感謝しないわけにはいかなかった。
ティナはセナンとアイリスの身の回りの世話を、一手に引き受けてくれた。彼女の作るご飯は朝昼晩共においしかった。世話するだけでなく、時には一緒にウィスキーをかたむけたりもした。彼女は意外にいける口で、飲むと歌いながら踊り出す陽気な癖の持ち主だった。病室に入るなりセナンをも差し置き、いの一番に抱きついてきて、命が助かった喜びと腕を失った哀れみ両方の涙を流してくれたティナに、アイリスは心の底から親愛の情を抱いていた。あの涙とぬくもりを、私は一生忘れないだろうと思った。
旅立ちの日には、インザ、ティナの他にクランカと、さらにファンとカジェの両殿下まで見送りに来てくれた。カジェは平服に帽子をかぶったお忍び姿。ファンは王子でなく作家のマフとして。
辻馬車乗り場の前で、ティナとアイリスは無言で抱き合った。アイリスは左手で、涙目のティナの背中をポンポンとたたいた。「ありがとう。あなたのおかげで毎日楽しく過ごすことができたわ」
「また、きっと」ティナは鼻をすすりながら言った。「いつか、この街に寄ってくださいね」
「必ず」アイリスはうなずいた。「でもその日が来る前に、まずお父さんと温泉旅行、楽しんで来てね」
「はい」とティナはうなずき、やっと少し笑った。
《ルゥ姫はどうしてます?》とセナンが尋ねた。
「どうもしてませんわ」とカジェが答える。「ただ……最近は独り言が増えてきた、と聞いています。牢の壁に向かって小さい声で何かぶつぶつしゃべっていると」
《あの姫も、哀れな人でした》とセナンは神妙に言った。
「うん」とファンが答えた。「でも、それはもういいんだ」
カジェも、ファンの言葉に深くうなずいた。
「そう言えば……」アイリスはふと思い、尋ねた。「親衛隊の娘たちってどうなったの?」
「隊はひとまず解散したよ。で、みんな故郷に帰した」とインザが教えてくれた。「全員ルゥ様に連座して牢屋にぶち込んじめえ、って意見も一部で出たようだが、そらぁ可愛そうじゃねえか、って暖かい言葉をくれた御仁がいてよ」
「誰それ?」アイリスはしばたたいた。
インザの隣でクランカが咳払いした。
「あ、クランカさんなの?」アイリスは笑顔でクランカを見上げた。(そう言えばこの人、インザがディディリアのスパイだって知らないんだよなあ、とアイリスは思った)
「ある方が、親衛隊がルゥ殿下のことで反乱を起こすのではないかと恐れたのだが、拙者にはそんなふうに思えなくてな」クランカはどことなく照れくさそうに話した。「あの娘たちはみな、ルゥ殿下の操り人形のようなものだった。操り手を失った今、もう娘たちで何かしでかすなどあり得ないと拙者には思えたのだ。まして、反乱をくわだてるなど……。それで王都追放という名目で、それぞれの故郷へ帰してやってはどうかとご意見申し上げたのだよ」
《クランカさんが、ご意見申し上げた、という言い方をするということは》セナンがニコッとして言った。《ある方とは、国王陛下ですか?》
クランカはもう一度咳払いし、ばつが悪そうに黙った。となりでインザが小さく噴き出した。そのとなりのティナは恐る恐るといった顔で、さらにとなりのファンを見た。ファンはすずしい顔で突っ立っている。
「そうなの? おじ様が? あんなに可愛がってた娘の親衛隊なのに」とカジェがファンに聞く。
ファンは軽く肩をすくめ、「父は、そういう人だよ。姉をそちらに引き渡す交渉でも、案外簡単に折れてしまったしね」と答えた。
「なんか、もはや、かわいそうだよ。お父さんも娘もさ」アイリスはうんざりした気分で言った。
「息子は?」ファンがおどけた顔で尋ねる。
「ちっともかわいそうじゃないし、可愛げもない」とアイリスは即、返した。
みなが笑った。
辻馬車の出る時刻となった。アイリスがセナンの体を左腕で抱えた。二人は名残惜しく、馬車に乗り込んだ。
御者の掛け声と共に、馬車が走り出す。
窓からのぞくと、遠くなる馬車乗り場ではみなが、豆粒のように小さくなるまで手を振ってくれていた。
やがて街道がカーブし、みなの姿が見えなくなると、アイリスは顔を引っ込めた。
《いろいろあったね》アイリスは、となりのセナンの肩に頭を乗せて言った。《一生忘れないよ、この国。忘れられそうもない》
《そうだね》セナンはアイリスの肩に右腕を回した。その指が、アイリスの右の二の腕に触れる。それより下にはひじがあるだけ。《これからは、前より旅がつらくなるね》
《旅、やめたい?》とアイリスは尋ねた。
セナンは少し考えた。《……ううん、まだやめられないよ。アイリスは?》
《セナンがやめたくないなら、私もやめない》アイリスは笑った。《次の戦場が待ってるわ。今度こそ、オニに再会してぶちのめしてやろうね》
二人を乗せた馬車は、どことも知れない場所へ向かって、草原を駆け抜けてゆく。 (了)
虚無を征く者たち