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『プライバシー、とは?』
―『自分の何を誰とシェアし、あるいはシェアしないかを、自分自身で決めること』
20XX年、ある高校生の回答より。



よしみや古書店の在庫一掃セールは、先月から始まって、未だ続いている。僕の引き受けたこのアルバイトも、本当は先月のうちに終わっているはずだったのだが、なかなか在庫が一掃できないという理由で、8月第2週も継続されることになった。僕等の生まれるずっと前に、電子書籍というものが出来て、紙の本は世の中から消えてなくなると誰もが思ったが、実際には相当数を減らしたものの、未だに新刊の発行が紙媒体でも行われている。レコードからCDに、そして、メモリープレーヤーに変わっていく中でも、カセットテープはある一定量売れ続けていたというから、新しいものはそう簡単に、古いものに取って代われないものらしい。小中学校でも大学でも、テストの時はやっぱりシャープペンシルが禁止というところが未だにあって、鉛筆という、もうこういう時以外見なくなった、ちょっと古臭い文房具で、削りクズを作りながらマスを塗りつぶすのだ。鉛筆を作っている工場というのは、どういうところなんだろうと、少し考えてみる。きっと、もう僕らの思い描くような、ロボット満載の工場とはかけ離れた、老境のおじいさんが、旋盤操って一本一本手作りするような環境なのかもしれない。もうそういった産業では、産業と言うよりも、社会貢献、いや、伝統芸能を守るような、真摯で謙虚な気持ちを抱いて、毎日一本一本、鉛筆を制作しているのではないか、と想像する。そうやって作られている鉛筆は、かつて全盛期に、大量生産されていた時代の鉛筆とは、やはり同じものなのだろうか。ある程度、技術が行き着くと、思いなんてものは、もう製品に宿らなくなってくるような気がしているのだが、それでもなにか、違うところがあるのだろうか。少なくとも僕が、鉛筆というものを使わされていたあの頃には、そんなことは一切考えず、指の股を器用にくるくるとくぐらせる友だちの妙技に、ただただ共感するだけのツールとして見ていた。

本の話に戻せば、正直、こんなコピープロテクトもかけられないアナログな本というメディアが、どうして今だに生き残っていられるのか、僕にはわからない。学校の図書館でも、保管が大変だから、もう本の実物はほとんど置いていない。国立国会図書館のデータサーバーにつながった端末が、一応おいてあるが、それだって、学内ネットワークからどこからでもアクセスできるわけだから、わざわざあんな所に行く奴は、勉強しているという空気を味わいたいか、家の環境がよほどまずいか、友達が少ないのか、はたまたアンニュイな司書の伊橋さんに恋い焦がれているかの、いずれかだ。祖父が残していた古いかびくさい本が、遺産のように父の書斎の容積を食っていたので、僕は小さい頃から本は好きだった。それでも、せいぜい数100冊であり、書店を埋め尽くす、これだけの量の本と棚に挟まれて、レジの前に鎮座するのは、生まれて初めての体験だった。地震でも来たら一体どうするのだろう。いつか、農業体験で嗅いだ腐葉土のような、なんとも言えないにおいが鼻の奥を刺激している。もしかすると、今、本を買う人達というのは、実際には本の中身ではなくて、この臭いを買いに来ているのかもしれない。そんなことを考えてみる。

携帯を取り出して時計を見た。もうすぐお昼だ。午後からはこの店のご主人と交代することになっている。奥さんが先月倒れられて、その介護があるので、ヘルパーさんが来てくれるまでの間、僕が店番するという事になっているのだ。正直、3時間のバイトだし、給料も安い。でも、おじさんもおばさんも小さい頃から知っている人だけに、そういう事情があると断りにくい。長居してると、必ずお昼を食べて行けと言われて、すごく申し訳ないので、お昼丁度には、いつもおいとまするようにしている。

時計をチラチラ見ながら、秒数をカウントしていると、画面にポップアップが出た。
「忘れてない?午後から神社行くよ~」美沙から僕へシェアされた予定投稿だ。時間になったら、自動的に通知されるように設定されていたのだ。あいつは大雑把なようで、意外と気が回る。
「...了解」なんとなくボツりと呟いて僕はレジ前の席を立つ。おじさんはまだ店に降りてこない。慣れない痰の除去とかしてるみたいだから、大抵まごつくのだ。おじさんに、おばさんの様子を聞きに行く。ついでに何か手伝えるなら、少し手伝って帰ろうかと思う。



午後になって、夏の太陽がジリジリと照りつける中、僕は美沙に連れられて裏山の神社を訪れた。神社はちょうど、今夜から始まる3日間の夏まつり準備の真っ盛りで、長い石造りの急な階段を超えると、大して広くもない境内には、収まり切らない程の屋台がすでに立っていた。美沙のおじさんもここで店を出すということだった。アルバイトがてら、美沙が準備だけ手伝うことになったので、ついでに僕も誘われるはめになっていた。

「焼きそば屋...、手水鉢の前あたりのすごくいい場所取ったって言ってたけど」
美沙はキョロキョロしながらあたりを見渡している。元々それほど長い方でもない髪を後ろで固く束ねた彼女は、小学生の時から母方の祖父の影響でずっと空手をしている。とにかくいつでも身のこなしが軽く、現に先ほども、階段を一段一段登ってきた僕を尻目に、彼女は二段飛ばしに駆け上がって行ったのだった。一年目の高校総体で、2回戦敗退とはいえ、いきなりインターハイまで出場し、来年はさらに良いところまで行くのではないかと言われている、じつは県の注目選手だ。

「良、もしかして息切れてる?」
そんなことはない、と僕は片手で遮りつつ、ごまかすように深く深呼吸した。子供の頃より体も大きくなって、体力もついたはずだが、やはり彼女には勝てない。
「いや....、しかしもうけっこう人が出てんな」ろくに周りを見もしないで僕は答える。
「うん...、ずいぶん少なくなったよね」咬み合わない言葉を返しながら、美沙はまだ周りを見渡している。

たい焼き、とうもろこし、わたあめ、りんご飴、焼きそば...。おなじみの屋台を組み上げる顔ぶれの多くは地元の商店街のおじさんやおばさんたちだ。昔はよく、こういうのを生業にしている専門の人達が入ってきていたそうだが、最近ではほとんど見ることがない。その代わりに入っているのは、僕達地元の高校生だ。小さいころ、このお祭りの屋台で見かけた若い知らないお兄さんたちは、今の僕らのような高校生だったのかもしれないと考えると、なんだか少し感慨深い。今日遊びに来る子供たちには、きっと僕らが、あの頃の見慣れないお兄さんお姉さん達に映っているんだろう。

「おい、ミサ!良二!」
向こうから僕らを呼ぶ声が聞こえる。よく見ると『金魚すくい』と書かれた屋台の下に、秋介がいた。
「秋介!」美沙が手を振り駆け出す。ぼくは後からゆっくり歩いて行く。

「どっこのお似合いカップルかと思ったら、何だお前らか」
「悪かったな」僕は秋介の頭にチョップをかました。
このやろ、と秋介もボディーブローで応じる。ニヤニヤした相変わらずの男同士の挨拶。
「お似合いカップルはあんたらよ」そういう美沙もニヤニヤしている。
「秋介、今年も金魚すくいやるの?」
「ああ、今年は殆ど俺一人だ、山田の爺さん腰悪くしちまってさ。長いこと座ってられないらしいんだ」
山田の爺さん、というのは、秋介のおばあさんのお兄さんにあたる人だ。となり町で金魚とカメしかいない小さなペットショップをやっていて、毎年この場所で金魚すくいの店を開いている。
「え~、最近見ないと思ったら、腰痛めたんだ。結構高齢だったもんね」
「70は過ぎてたかな。確かに今までよくやってたよな~」秋介も正確な年は知らないらしい。「あれで、若い頃は結構やんちゃしてたらしいぜ」意地悪そうな顔で言う。
「ほんとに?今見たら信じらんない!」美沙が大笑いした。
「あ、写真見せてやるよ、確かに、『昔のやんちゃ』って感じがする」
「ほんと!見たい見たい!」
秋介がポケットから携帯を取り出そうとした途端、
「こら!秋介、遊んでていいのか?」
隣の隣の屋台を組んでいたおじさんの一人がこっちを見て笑っていた。
美沙のおじさんだ。
「あ!おじさん!」
「ようミサ!良二くんも来たか」
「お久しぶりです」
「秋介ごめん、あたし達も、あっち手伝わなくちゃないんだ」
美沙が申し訳なさそうな顔をしていった。

「了解、『シェア』しとく。あとで見てくれ、ほんとすごいから」
「わかった。手の空いたときでいいからね!」
おう!秋介はそういうと、早速、金魚を泳がせるための子供用プールをふくらませる作業に取り掛かった。

「良二くん今日は悪いな。最初の準備だけやって貰えればいいから」
「はい、分かりました」
美沙のおじさんは、やきそばの屋台に似合わず色の白い人だ。実は本職は銀行員なのだが、町内会の役員もやらされていて、毎年焼きそば屋を出していた中華料理屋の主人が今年は病気で出られないため、急遽代役を頼まれたということだった。美沙に聞いたところ、昔から何でもそつなくこなせる人で、頼まれたら断れない、要するに器用貧乏らしい。だが、焼きそば屋の屋台はさすがにやったことがなく、正直あまり勝手がわからないので、その店で一時期バイトした経験のあった美沙に頼ったらしい。

「ミサは野菜を切っててくれ」
「いいよ~」返事をしながら、美沙はすでに、ダンボールに入った袋の中から、大玉の白菜を取り出していた。中華料理屋から借りてきたらしい、幅の広い、四角い中華包丁を持ちながらコッチを見て、にっと笑う。たとえ料理が上手でも、料理上手とは言われないタイプだな、と僕は思う。
「ほれ、軍手」おじさんが、よくわからない木くずのようなものがいっぱい付いた、使い込まれた軍手を差し出した。それを受け取り、軽く背伸びして、僕もテント張りにとりかかった。

夢中で作業したせいか、準備は30分ほどで終わった。僕とおじさんの目の前に、「やきそば」と、オレンジ色の文字で書かれたテントが、堂々と立っている。内部の明かりの配線も終わったし、発動機もつないだ。あとはガスボンベさえこれば、いつでも開店できる。美沙の方も、あらかた野菜を切り終えたようだった。大きなボウルに、見たことのない量の白菜が山盛りになっている。

おじさんが僕らに、レジ袋に入った3本のラムネを差し出す。
「町内会長さんからの差し入れだ、一本は秋介にやってくれ」
ありがとうございます、と受け取って、僕と美沙は結露したレジ袋を下げて秋介の働く金魚すくいの屋台の方へ向かった。

彼はまだ準備が終わらず忙しい様子で、あとで飲むから置いといてくれ、ということだった。手伝うか、と言ってみたが、すぐ終わるから気にするな、という。僕らは先に、屋台の裏手にある木陰に座り、薄いフィルムのカバーをはがして、ラムネの栓を勢い良く開けた。

ぽんっ、と小気味よい音がして、一呼吸置いて泡がするすると沸き上がってくる。美沙は慌てて、かぶりつくようにラムネの口を口でふさいだ。
おかしかったのか、ふふっ、と笑った拍子に、端から泡が数滴漏れた。彼女は少年のように、半袖から伸びた腕でそれを拭った。う、鼻から出た。小さな声でそんなことを言って笑った。
「いや~、久しぶりに飲んだラムネなんて」部活用のハーフパンツから突き出た足を伸ばして清々しく彼女は言った。
僕も本当に久しぶりだった。最後に飲んだのが具体的にいつだったのか、正確に思い出せない。でもなぜか、この見慣れた透明感のあるラムネの瓶が愛おしく感じるから不思議だ。レトロなものは、生まれながらにしてレトロなんではないか、そんな気さえもしてくる。まるで前世の愛着をどこかからつつき出すような、個体を超えた感覚がある。

「最後っていつだったっけね」美沙も同じ事を考えていたようだった。
「去年は飲んでない気がするから、中2か、中1のころかな。のずっちがさ、あのビー玉集めてて」
そう言うと、美沙の笑みが、かすかに陰った。夏の空を、ちぎれ雲がかすめる。木陰は明るくなり、また暗くなり、少し遅れて吹いた風が、境内の鎮守の森の高い緑の杉林の梢をくすぐっていく。一瞬の静寂に皆がふっと空を見上げる。しかし、一瞬暗くなっただけで、雨の振りそうな気配はない。再び作業を再開する。風はまだ静かに吹いている。

「そうか、もう2年経つのか、のずっちが、いなくなってから...」
そうだね、と僕は合わせる。早いよね。
「早いよね」彼女も言った。
「良二はもう慣れた?」
慣れない。僕は言った。
「慣れるのも、いやだよね」彼女も言った。そして、瓶の底に残ったラムネを一気に飲み干した。
「よし、あたしちょっと今から家に戻って着替えてくる!」彼女はすっくと立ち上がると、高らかにそう宣言した。
おっ!まじ!?浴衣?遠くの方から、膨らんだ水槽に水をはっていた秋介の調子の良い声が聞こえた。



彼女の言う「のずっち」こと、野口恵梨香が亡くなったのは、僕らが中学2年生だった夏のことだった。恵梨香の家は僕のところから近くて、両親もほとんど幼馴染といっていい関係だった。僕ら4人は幼稚園から中学までずっと一緒に育ったが、その中でも恵梨香は一番早く仲良くなった友達だった。いつ初めて出会ったのか、もちろん覚えていない。母によれば、僕を産んで、病院を退院してすぐに、恵梨香の家にはあそびに行っていたから、その時にはすでに会っているという。その時、僕より少し遅れて生まれた彼女は、まだ母親のお腹の中にいたはずだ。

恵梨香はこの田舎町では珍しく(と言うと美沙に怒られそうだが)、色白で、おとなしい少女だった。僕の知っている限り、最初に本を勉強以外で読むことをしていたのは彼女だった。あの時恵梨香の読んでいた小説は今でも覚えている。彼女は紙の本を好んで読んだ。特に昔の本は、ページを捲って読者の視界が切り替わるという効果を考えて、文章が作られていると彼女は言っていた。紙の色も、本の厚さも、物語を演出してるんだと。彼女も多分、僕のバイト先の店に現れるお客さんと同じように、あの腐葉土のような熟成された古書の匂いを好んでいたに違いない。僕はその、恵梨香の読んでいた本を貸してもらったことがあったが、しばらくして、なくしてしまったことに気づいた。恵梨香には結局そのことを言えずにいたが、それは今思い出してもほろ苦い気持ちで胸が締め付けられる。あれから、僕らはずいぶんいろいろな小説を読んだ。正直、恵梨香の興味とは違うものも多かったはずだが、彼女はいつでも不思議そうな顔をして、僕の話を聞いてくれた。彼女の癖なのか、そういう時、いつも首を右に傾けていたのを僕は思い出す。「ほら、傾けてる!」と僕が言うと、「傾けてない!」と恵梨香が言い、そしてまた傾ける。みんなとの集合写真でも、一人で写るときでも、彼女はいつも首を右に傾けていた。

恵梨香の教えてくれる本は、今思えばいつも僕より半歩先を行っていた。絵のない本を先に読み始めたのも恵梨香なら、純文学を最初に読んだのも恵梨香だった。太宰治も、村上春樹も、みんな恵梨香に教わった作家だった。



家に帰って、夏まつりが始まるまでの間、僕は部屋のベッドに寝そべって、枕元に転がした端末から天井にディスプレイされた『ライフログ』を見つめていた。L2という会社の始めたこのSNSは、『人間の人生すべてを記録する』という謳い文句で成長した会社だ。自分の父親たちがはまった、昔のSNSとやっていることは大きくは変わらないが、情報量が全く異なる。古い情報も基本的に削除されず、動画の形でどんどん蓄積されていく。今の携帯は、みんな『ライフログ』対応になっていて、カメラは常に、僕の場所と、見ている光景を、ライフログに送り続けている。もちろん、あとで公開しない限り、他人から見られることはない。この機能のお陰で、僕等は時間を指定すれば、いつでも自分の過去を遡ることができる。また、友人と映像の一部分を切り取って共有すれば、それが自分のライフログにも組み込まれる。誰かが撮影し、僕とシェアした映像の中に、偶然僕が写っていれば、それが僕のライフログにも挿入されるのだ。買い物をしている時の僕自身の映像、その時の店員側の映像、偶然通りかかった母の映像。こんな感じだ。こうして、僕自身の『人生の記録』は、多方面からのカメラ映像を組み合わせて、3次元、4次元と、視座をふやしながら、どんどん密度を増していく。

美沙はよく、カエルの缶バッジのようなカメラと、小さな花のついた髪留め型のものを使っている。ぼくのように眼鏡をかけている人間は、眼鏡のフレームに取り付けるか、内蔵されているものを使うことが多い。秋介のは、最近出た全天型だ。イヤホン型で、魚眼カメラがついており、前後左右の画像を記録できる。美沙に言わせると、あいつは本当に新しもの好きだから、浮気性に違いないというが、正直ぼくも、今あれが欲しいと密かに狙っている。

僕の天井のライフログは、今、先ほどの美沙の笑顔を映し出している。ラムネを飲み、こぼしそうになる彼女。思わず手で口を拭った表情。通り過ぎた小さなちぎれ雲の影。

こうして、いつでも過去を振り帰られることが、はたして自分のためにいいことなのかどうか、それはよくわからない。現に、これが可能になってから、現代人はますます引っ込み思案になって、過去ばかり見て積極性がなくなったと猛烈に批判するコメンテーターもいる。
ああいう血の気の多い人から見れば、現代人はそりゃあ引っ込み思案だろう。父はそんなことを言って笑っていたが、こうやって膨大な過去を記録し、これからも貯めこんでいって、将来僕が年取った頃には、本当に過去ばかり見て一日を潰すようになっているのではないかとちょっと恐ろしくもなる。そういう一日は、ログに何も記録されない日だ。僕の行動履歴は点線のようにどんどん断続的になり、最後は実際には生きているのに、過去ばかり振り返って、記録上は何もしていない状態に陥るのだろうか。そうやって、映画のフェードアウトのように消えていく、遠い破線のような僕のタイムラインを想像していると、僕は少し眠りたくなってきたが、美沙からの唐突なメール通知がそれを許さなかった。『出撃用意!』タイトルにはそう書いてある。過去など振り返っているうちに、帰宅して、もう1時間が過ぎていた。



「じゃん!」
金魚すくいの屋台の前で待っていた僕と秋介の前に、屈託の無い明るい声で美沙が現れたのは、約束通り午後7時だった。すでにあたりは夕焼け色に染まり、昼間の晴天の色素が沈着したような深い青と、星瞬く夜の闇と、茜色の残光が入り混じった紫色の空を、僕らは思わず仰ぎ見ていたのだった。
「おおお!いいいじゃん!」秋介が、屋台のバイト中であることを忘れて立ち上がる。今時期の夜空のような涼しく深い紺色に、伝統的な金魚の柄が浮かんだ浴衣だった。「似合うしょ。東京の染物屋にお父さんの知り合いがいて、せっかくだから頼んでもらった」美沙は自分の着ている浴衣の柄を確かめるように見ながらそういった。「予想以上にかわいいよね、...あ、あくまでこの浴衣がね」
「いや、似合ってる、似合ってる。マッチョな二の腕も隠れるし」
「うるせー」美沙は笑いながら秋介に正拳突きをかます仕草をした。

美沙は襟元を正すと、一瞬、僕の方をちらりと見た。僕は意見を言いそびれていたので、ちょっと気になったのかもしれない。僕は気が付かなかったふりをして笑っていた。似合っているな、と思った。こんなことを本人に言ったら怒られるかもしれないが、女武者のようなりりしさのある美沙には、こういう少し抑えた伝統的な柄がほんとうによく映える。

「ねえ、金魚すくい、何円?」
通りかかった小さな子どもが僕に尋ねた。
「300円」
そういうと、子どもはすでに握っていた300円を僕の手の上で広げた。秋介が美沙の前から動かないので、僕は仕方なく、屋台の棚から、金魚すくいの網を取って、しゃがみ込んで子どもに渡した。

子どもは、ありがとうと言う間もなく、心細く金魚の泳ぐ子供用プールの生け簀に向かい合う。目はこういうことのために付いているのだと言わんばかりに冷たい水の中をすばしこく泳ぐ金魚に向けられ、闇雲に振り下ろした網は、ただ水を切るばかりのようだったが、母親らしき付き添いは、少し離れてその様子を面白そうに見守っていた。
「わりいわりい、お客さんまかしちゃって」秋介が申し訳無さそうに僕の方を向いて笑った。気にすんな、という意味を込めて左手で合図した。久しぶりに浴衣を着てみた美沙はこころなしか上気した笑顔を浮かべて、いつも以上によく笑っている。大きめのモーションを取るたびに、袖の金魚は右に左にひらりひらりと闇を泳ぐのだった。

数人の客をとったあと、秋介はこれ以上は悪いからと僕らを店から追い出し、美沙と僕はそれから少し、神社の境内を歩いて回ることにした。小さな田舎町の、さらに言えば、普段は無人の特に有名でもない神社なので、全部回るのにそう時間はかからないはずなのだが、出店の人達がいちいち知り合いなので、いちいち挨拶しているうちに、あっという間に時は過ぎてしまった。携帯を取り出して時計を見れば、もう8時を過ぎていた。

ひと通り、境内の出店を回ったあと、僕等はまた、昼間ラムネを飲んだ樹の下に来て、石の上に腰掛けて休んでいた。美沙の手にはまだ食べきれていない味噌おでんがあった。味噌の載っていたトレーは、僕が持っている。彼女は、慣れない草履で指の間が痛くなったらしく、あいた方の手で握り締めるように、しきりにさすっていた。

「おう、どうだ、楽しめたか」見上げると、美沙のおじさんが立っていた。どうやら、今日の分の焼きそばは売り終えて、焼きそば屋は早々に片付けを始めたらしかった。出店のライトの下でもわかるくらいにすっかり汗をかいている。

「うん」美沙がにっと笑って微笑む。ぼくも笑って答えた。
「なにより、なにより。祭りってのはやるまではちょっと億劫だが、やってみると楽しいもんだよな」
おじさんはそう言って、額の汗を首から掛けたタオルで拭った。今日一日で、色白のおじさんもだいぶ日に焼けたような気がした。明日にはすっかり、真っ赤になっているだろう。
「今日はとにかく天気が良かったから、お客さんも入ったよ。あとは花火の日も晴れるといいけどな」
花火の日、というのは、祭りの最終日、3日目の土曜日のことだ。
「天気予報では晴れって言ってたよね」美沙が携帯を取り出しながら言った。「晴れてくれないと困るな~」
「ああ、おれも困る」おじさんは笑いながら言った。「去年は
結局雨で中止だったし、その前も雨だった」
「え~?そうだっけ?二年前は花火見たよ」美沙が口を尖らして言う。
「んなことはない。すごい雨で、テントが潰れそうでひどかったんだ」
「それって、もっと前じゃない?おじさんの勘違いだよ」美沙はそういうと、取り出した携帯でライフログを開き、過去の記録を遡っていたが、その時、ふと思い出したように顔を上げて、
「そうだ、おじさん、写真撮って!」と言って、携帯を彼に差し出した。
おう、とおじさんはふたつ返事で答え、美沙との携帯を受け取った。とは言え、おじさんは美沙の機種を扱ったことがないらしく、しばらく右に傾け、左に傾けして格闘していた。見かねた美沙が助け舟を出そうとするが、「ああ、大丈夫大丈夫」と言って、自分で何とかしようとする。そうやって何度か試みている間に、「ああ、こうだこうだ」とようやく使い方を解した様子だった。そして、どこかへっぴり腰でカメラを僕等に向け、「はい、チーズ」と言って、やにわにシャッターを切った。僕らの表情は、おじさんの昭和を感じるレトロな掛け声に、笑いをこらえた中途半端な表情になってしまったのは、言うまでもない。

「ほれ、とれたぞ」おじさんは、得意げにそう言って、まだカメラが起動したままの携帯を美沙に手渡した。だがそこで、店の方から呼び声がかかり、片付けの途中だったことを思い出したらしく、ちゃんと撮れたか確認すらできずに、あわてて戻ってしまった。「ありがとうございます」ぼくはおじさんの背中に向けてお礼をした。彼には聞こえていなかったかもしれないけれども。

おじさんの背中を見送り、ふと振り返って美沙を見ると、彼女はまだ携帯の画面を見つめていた。夜の暗闇の中で、ディスプレイの薄白い明かりに照らされて、美沙の顔の線が、おぼろげに浮かび上がっている。反射するディスプレイの中身が、はっきりと見えそうなほど、彼女の瞳は黒く、大きかった。「撮れてた?」僕はそう彼女に話しかけてみたが、周りの音にかき消されたのか、返事はなかった。だが、よく見ると様子が少しおかしい。それは、単に写りを確認しているだけでは無いようだった。美沙は僕に声をかけられたことに少し遅れて気づいて、さっと顔を上げてこちらを見た。その目には助けを求めるような、不安げな色が浮かんでいた。「どうした?」僕は少し心配になって、彼女に駆け寄った。美沙は怯えていた。誰よりも強い彼女は普段、こんな表情はめったに見せない。
「これ...」
彼女の手が、僕のTシャツの裾を握り締めた。左手に持った携帯を、彼女は僕に見えるように傾けた。僕はその画面に見入った。思考が一瞬固まった。そこには、3人の人影が映っていた。僕と、美沙と...。

「この浴衣着てる子....、恵梨香....だよね」



それは紛れも無く恵梨香だった。僕と美沙の並ぶそのさらに右隣に、色白の顔をまっすぐこちらに向けて微笑を浮かべていた。淡い色の浴衣を着ている。模様は、折り紙の鶴だろうか。繊細な小紋の柄だ。首は心なしか、やはり右にかしいでいる。

「え....、なんで....」
美沙の顔がこわばっている。もう居ないはずの人間が、並んで隣に写っていたのだから。無理もない。

僕も少し混乱していた。恵梨香は2年前に亡くなったはずだ。僕らが写真をとった周囲を見渡してみても、もちろん、恵梨香の影などどこにもない。お化けの出た後なら、床が濡れている、なんて迷信も聞いたことがあったが、ここ数日の晴天続きで、あたりはどこを歩いても、カサカサに乾いていた。

美沙派の右手はまだ、僕のシャツを固く握ったままだ。僕はどこにもいけないまま、少しづつ、状況を整理しようとした。

そして、ちょっとした事に思い当たった。

「ちょっと、携帯見せてみて」
美沙は、不安そうな顔のまま、僕に携帯を差し出した。僕は、先ほどの恵梨香の移った写真を開き、その『撮影情報』のタブを開いた。

「...ああ、そういうことか...」
僕は、少しホッとした。
「何?何?」美沙は、わらにもすがるような目で僕を見た。

「...AR(拡張現実)だ」
僕がそう言うと、美沙もはっと思い当たったようだった。

美沙は、おじさんに携帯を渡す直前まで、ライフログで2年前の祭りの最終日の天気を調べていた。おそらくおじさんは、そのまま、ライフログのカメラ機能を使って撮影してしまったのだろう。おじさんが撮った写真に、2年前の、祭り最終日、恵梨香が偶然ここに立っていた時の映像が重ね合わされたのだ。

「...そっか...」美沙は少しうつむき、恥ずかしそうに笑った。見せたくない顔を見せてしまったからかもしれない。そして、改めて、僕等と、そして、2年前の恵梨香が写り込んだ写真を、眺めた。
「のづっち、ちょっと笑ってるね....」美沙は、画面を見つめながらそう言った。偶然写り込んだだけだから、視点は、よく見ると、少しずれている。でも、偶然撮ったにしては、あまりによくできた『記念写真』だった。他の誰でもなく、恵梨香が、僕らがこっそり休んでいるこの金魚すくいの裏に、二年前のこの日、立っていたというのは、心霊現象でなかったら、ただの奇跡といったところかもしれない。お盆には昔から、死んだ人の魂が里帰りするという話も聞くから、彼女もこっそり、様子を見に帰ってきたんだろうか。そんなことを考えた。

表情を見る限り、恵梨香はちょうどこの時、この位置で僕等のように記念撮影をしてもらっていたのかもしれない。どこか照れているような、でも彼女らしい何かちょっと必死さの入った表情だ。恵梨香は、本をよく読むだけ会って、文章を書かせると、とても上手だったけれど、人前で話すのは、ひどく苦手で、いつも途切れ途切れの、うまくまとまらない話になってしまう癖があった。それは、僕らのように、彼女のことをよく知っている人間からすれば、時々冷やかすこともあるような、愛すべき弱点だったけれど、本人は実は意外に気にしていたらしい。みんなで恵梨香のうちに上がった時、いろんな本に混じって「上がり症克服!10のヒント!」という実用書がおいてあって、それも大いに笑ったものだった。そういう時、彼女はいつも、まゆを少し寄せて、困ったように笑うのだった。相変わらず、首を少し傾けたまま。

「のづっち、こんなところで何してたんだろう」美沙がそんなことを言った。確かに、当時も祭りのはずだし、一人でこんなところに立っている理由はないだろう。写真の画面では切れているが、恵梨香の更に右隣には、だれか他の人たちが立っているのかもしれない。

「ちょっと見てみようか...」美沙はライフログの画面を切り替えた。画面の中に、2年前の、この場所の様子が映し出される。先ほど僕等が立っていた位置にカメラを向けると、やはり恵梨香が立っていた。やや遠くから撮影した動画しか、美沙にシェアされているものの中にはないらしく、浴衣を着ていることで恵梨香とようやくわかる程度の解像度しか無い。彼女はまっすぐ、何もない中の方を見ている。その先には一台の、おそらく屋台で余った、幅の広い机があり、彼女はその机に向かって、何かを話しているようにも見える。
「誰か机のところにいる感じでもないよね」美沙が不思議そうに言った。

彼女は机に向けて、時々恥ずかしそうに微笑み、何かを話しているようではある。しかし、その音声は辺りの賑やかさにかき消されて全く聞き取れない。彼女の両隣には、誰も並んではいなかった。少し離れて、屋台で働く大人たちの姿は見えるが、僕や、美沙、秋介の姿すら無かった。

「...変だね」美沙はポツリとそういった。「何してたんだろ。恵梨香」
僕らはもう一度、映像をひと通り見た。奏しているうちに、ふと美沙が、「ああ、自分撮りしてるのかも」と気づいた。
「多分机の上に携帯かなんかがあって、カメラになんか記録してたんだよ」
そう言われてみると、たしかにそのように見える。美沙はカメラに向けて、何か、時折少し手振りも交えながら、何かを伝えようとしているようだ。
「でも結局、何を言ってるんだろうね....」
わざわざ、お祭りの最中に人ごみを抜けて、自分の携帯に向けて、自分を『自分撮り』する理由は僕にはわからなかった。あの日も僕らは確か4人で祭りに来たように記憶していた。恵梨香はそれなのにわざわざ、僕等から一度離れて、一人で何かを記録する時間を作ったのだろうか。
「良二に来てない?この画像」美沙は僕の方を向いて言った。「...もしかしたら、良二に向けたメッセージ、撮ってたのかもしれないよ」
言われて、僕も自分の携帯を取り出した。美沙と同じように、あの頃、この場所のログをたどってみる。僕はあの時の恵梨香の立っていた方向にカメラを向けてみた。だが、そこには、ほとんど何も写っていなかった。携帯に向かって話す恵梨香どころか、祭りの一部すら。かろうじて、遠くの方に、花火が見える。その程度だ。
「あ~....」脇から見ていた美沙が力なく笑った。「これは...、シェアされてる画像が殆ど無いんだね....」参考になる元画像が少なければ、当然こういう結果になる。ああ、わかっていたことだ。僕は、そもそも、友だちが少ない。「落ち込まない、落ち込まない、友達少ないって言ってないよ」美沙はそう言って、励ますように僕の肩をポンと叩いた。
「秋介なら...」美沙がふと言った。「秋介なら、みれるんじゃないかな。あいつとにかく顔広いし」
「確かに」僕も同意した。「...あいつはとにかく友達多いからな」
「...でも、どうする?」美沙は、そう言って、暗闇の中で薄く光を放つ黒い大きな瞳を、試すように僕に向けた。
「この、のづっちの真面目になって話している動画、もし秋介にだけシェアされていたら、どうする?」彼女はそう言って、目を細めた。
「...どうもしないよ」僕は努めて冷静に答えたつもりだった。が、返答は思いの外ぶっきらぼうになってしまった。口から出た返事を引っ込めることもできず、僕が内心、少しまごついているのを、浴衣の彼女は見透かしたように、ふふっと笑って答えた。印象より長く繊細な睫毛が一瞬、陰るように伏せられた。「よし、聴きに言ってみようか!」彼女は高らかにそう言って、僕の前にたって金魚すくいの屋台の方にかけ出した。固く握りしめたままだった僕のTシャツの裾は、いつしか手を離れていた。



「へ~、まじで!」
僕等の話を聞いた秋介は乗り気だった。金魚すくいも、もうお客さんのピークは過ぎたらしく、店は殆ど開店休業状態だった。子供達にさんざん攪拌され、そして急に静かになった広いプールの中で、数匹の金魚がまだ不安気に泳ぎ回っている。
「たしかに俺は、屋台のおじさんおばさんに知り合い多いし、シェアされてる率は高いな」そして僕の方を向いて、「...何より意外に、のづっちが携帯で撮影した映像そのものが俺にシェアされている可能性もある」と言った。「だよね」美沙もそう言って、僕の方をちらりと見ていたずらっぽく笑った。
「そんな映像来てたのに気づいてないなら、ひどい話だろ」僕も負けじと言ってみる。
「いや~、どうかな」秋介はニヤニヤしながら言う「あの頃は、僕も他に夢中で、のづっちの美しさに気づけてなかったからな...」
「いよっ、浮気者!」美沙が素っ頓狂な合いの手をいれた。

いや~、さて、どうかな。そんなことを言いながら、秋介もそわそわと自分の携帯を取り出し、先ほど僕と美沙の覗き込んだ、あの樹の下までやってきた。そして自分の携帯をその方向に向けてみる。
「あ...」「...すごい」「くっきりだ」

そこには、僕と美沙の映像よりより鮮明な恵梨香の姿が写っていた。しかし、やはり、というべきか、それは恵梨香の携帯そのものの映像ではなく、より恵梨香に近い位置の屋台のおばさんからシェアされた映像によるものだった。先ほどより、恵梨香の表情の細かい部分までは見えるが、何を言っているのかは聞き取れない。
「なんだ....」秋介は内心かなり期待していたのか、思わずそう漏らした。「残念だったね、ホント残念」美沙が秋介の肩を叩いた。

だが、しばらくその様子を見ていると、映像はこれまでにない展開を示した。恵梨香は、何かを携帯に向けて話し終わったあと、それを手に取り、手に持った手提げのようなものに入れた。そして、境内を神社の方へかけ出したのだった。
「おっ...、どっか走っていったな」
「追うか」
僕等は秋介の携帯画面に映る恵梨香の後ろ姿を追いかけるように境内を横切り、走っていった。なれない草履で、そそくさと走る恵梨香の走り方を、僕は久しぶりに見た。恵梨香の脇を、まだ結婚する前の近所のお兄さんや、赤ん坊の頃の近所の女の子、少し髪の毛の多い美沙のおじさんなどが通りすぎていく。だが、せいぜい2年前の映像なので、他の点に関しては、今と大きくは違わなかった。店の配置も、提灯の位置も、面白いくらいによく似ていた。
でも、画面から目をそらせば、そこに見えるのは、恵梨香のいなくなった縁日の姿だ。それは近いようでいて、やはり決定的にかけ離れた、2つのパラレルワールドだった。恵梨香が人ごみに入ると色々なカメラの映像が重ね合わされ、輪郭はくっきりする。走る度に、浴衣の裾から、彼女のくるぶしが見える。彼女の折り紙模様の浴衣は、育ち盛りであったはずの彼女の背丈にぴったりと合っていた。それは、彼女がこの日のために真新しいものを着てきたことを意味していた。先ほど携帯をしまった小さな手提げも、よく見ると浴衣と同じ図柄で、あわせて買ったもののようだ。僕は、おそらくこの日の恵梨香に会っているはずだが、彼女がどんな図柄の浴衣を着ていたか、覚えていなかった。どんな様子で、どんな表情をしていたのかすら、あいまいにしか覚えていない。あの日が、僕等にとって特別な...、最後の夏まつりになるとは、まったく考えもしていなかったから。これから何度も夏がやってきて、僕等が夏まつりを一緒に過ごすことなど、わかりきったことだったから。

「お、人ごみを離れていくぞ...」秋介が画面を見ながら言った。
恵梨香は境内の東側、鎮守の森のちいさな散歩道の方へ入っていく。人ごみを抜けると恵梨香の姿はまたおぼろげになり、解像度が落ちて今にも消えそうになる。しかし、散歩道をぬけ、開けた丘の上に出ると、急にまた、はっきりとした輪郭を取り戻した。
どーん、とスピーカーから大きな音がして、漆黒の彼女の周りがパッと七色に浮かび上がる。
「...花火だ!」美沙が言う。
恵梨香は、花火に驚いて、丘の入り口で一瞬立ち止まっていたが、ふと我に返ると、意を決して人ごみに飛び込み、花火の方を見上げる群衆を、かき分けるように進んでいった。そして、しばらく進んだ所で、ふと立ち止まった。誰か知り合いの背中を見つけたらしい。うれしそうに微笑んで、両手で覆うように、ぱっと背中を叩いた。その背中が振り向く。僕だ。
「ひゅ~ぅ...」秋介が僕を見た。僕は顔を逸した。
「ここから先はぁ...、良二くんのカメラで、ぜひみたいな...」
「わ、わたしも...、見ちゃおう、かな...」美沙の顔が心なしか赤くなっているように見えた。
「ダメ」
僕は即答した。

「だよな...」秋介はにやにやしながらそう言った。「結局、あの時のづっちが何を言っていたのか分からなかったな」
「良二にもシェアしなかった内容ってなんだろう。私達以外の誰かに伝えたかったのかな...」美沙はまだ真剣に考えているようだった。
「誰かって誰だよ?」秋介が尋ねた。「ん...」美沙も心当りがないようだった。「でものずっち、ずいぶん真剣そうに見えた。...前髪とかも、何回もいじってたでしょ。誰かを意識してたんだよ、多分」神妙な顔をしてそういった。「何を伝えたかったんだろう...」
「今となっては、もう分からないな」僕が言った。「恵梨香の両親にでも聞いてみないことには...」
「両親?両親に聞けばわかるの」美沙が驚いた様子で言う。

「...ああ、『ホール・シェアリング』か」秋介が言った。僕がうなづく。
「『ホール・シェアリング』?」美沙は知らなかった様子で、不思議そうな顔で僕等を見た。

「...誰かのアカウントの情報すべてを、他の誰かと全て共有してしまうことさ」秋介が答えた。「...『人生の引き継ぎ』だ」
「そんなこと出来るの!?」美沙が驚いた顔で秋介を見る。
「プライバシー上の問題があるから、幾つかの場合を除いて許されていない。ひとつは、ペットや家電、車とか、人間以外のカメラが、持ち主のライフログと映像を共有する場合。これはよくあるよな」
うんうん、と美沙がうなづく。
「2つ目は、小さい子供の場合。たしか...、10歳以下、だったかな。これはいざという時、こどもを守るためだ」
「なるほど」
「3つめは、当人が亡くなった場合...。ただ、これは一番微妙で、遺言で、本人が引き継いで欲しいという意思を残している必要がある」
「へ~」
「意思を示している証拠と一緒に、ライフログの会社に提出して、審査でOKが出たら、いいそうだ。でも、結構厳しいらしいぜ」
「だから、のづっちがお父さんとお母さんに『記録』を引き継いでいれば、聞けばわかるってわけか」
「せっかくだし、明日あたり、久しぶりに行ってみないか、あいつのうちに」秋介が言った。「おれもずっとご無沙汰してたしな、葬式以来...」
「わたしも....。なんか、足が向かわなくって」美沙が言った。「行こうよ。お盆だし。この前、街で会った時、今度遊びに来てって、のづっちのお母さん言ってたよ。友達が来なくなったから、少し寂しいって」
「...行こうか」僕も言った。「確かに、たまにはお線香でも上げに行かないと」
僕は携帯から、その場で恵梨香のお父さんにメールを打った。ご近所同士で、事あるごとに一緒に出かけたし、僕にとってはもう一人の父親のような間柄の人だが、考えてみればあの日以来、一度もメールを打っていなかった。彼の娘の名前の入った、懐かしいメールアドレスを僕はアドレス帳から選択した。

返事は直ぐに来た。ぜひ遊びに来てくれ。うちの母さんも喜ぶと想う、という内容だった。
僕等は美沙の朝練が終わったあとの、明日の昼過ぎに恵梨香のうちに集まる約束をして、その場は別れた。

2

よしみや古書店の店頭には、今日もお客は現れなかった。僕は午前中の間、携帯端末をいじって、自分のライフログを見返していた。あの恵梨香との最後の花火の記録だ。恵梨香が僕の背中に触れ、僕が振り返ったあと、しばらく二人で会話していたが、案の定、というべきか、美沙と秋介も直ぐやってきて、僕等はまた四人になった。
「なにが、ひゅ~ぅだよ...」
記録を見ながら僕は思わず苦笑せざるを得なかった。僕等は結局、いつでも四人だったのだ。僕等はそれから、大した会話もすること無く、1時間半あまり、ぼんやりと花火を見上げている。浴衣を着ていたのは恵梨香だけで、秋介も僕も、Tシャツにいつも着ていたジーンズを履いている。美沙にいたっては、相変わらずの部活のトレーニングウェアだった。でもそれが一番彼女らしく、似合っている感じがするのが、面白いところだ。
時々の会話も記録されていた。
へ~、とか、ほ~、とか、意味のない感嘆詞がほとんどで、花火のクライマックス、大玉のスターマインが夜空に炸裂すると、お~!とか、すげ~、とか、金かかってんな~、などの無粋な褒め言葉を上げている。最後の花火と知っていたら、と僕は今思う。もう少し、ましな会話でも、していただろうか。恵梨香は花火のあいだじゅう、美沙と一緒に歓声を上げながら、いつもと変わらぬ笑顔で花火を見ていた。彼女はこの時、よもや自分が数カ月後に亡くなるなどとは、思っても見なかったかもしれない。ぼくはもう、画面の中で無邪気にはしゃぐ自分自身と同じ目線では、あの彼女の笑顔を見つめられなくなっていることに気がつく。古書店のレジの奥、一歩斜め後ろに引いた目で、いつも以上に可愛らしくきめてきた彼女を見つめているうち、いつしか僕の頬を涙が伝っていた。



「ああ、いらっしゃい!」
僕らが玄関先に現れると、恵梨香のお母さんは待ちかねたように、扉を開けてくれた。その明るい声に、彼女の家の小さなダックスフントまでもが、キャンキャンと歓迎の声を上げる。「おじゃまします!こんにちはサトちゃん」サトちゃんと呼ばれた犬は、ますます喜んで尻尾を振っている。「おー覚えてるかー私のこと」美沙が顔を近づけると、犬はしきりに彼女の鼻を舐めようとした。「おっ、そうは行くか」彼女はそう言いながら、犬の顔をすんでで引き止めている。あれからしばらくぶりに見たサトちゃんは、以前より少し大きくなったように見えた。
「いらっしゃい」居間の方から、恵梨香のお父さんが姿を表した。地元の役場に務める方で、実直さが、姿にも現れているような方だ。温厚で、決して怖い方ではないのだが、僕はこの方の前に立つと、未だに少し緊張するし、背筋がぴんとする。うまくは言い表せないのだが、尊敬と、畏怖と、入り混じった、そんな存在の方だ。
「お久しぶりです。すいません、急にお邪魔しちゃって」いつになく丁寧に、僕は挨拶した。
「いやいや、いいのいいの、ほら、うちのワンコまでこんなに喜んじゃって」「上がってって、ほら、玄関狭いから」心なしか上気した奥さんに促されるまま、僕ら3人は、もうしばらくおじゃましていなかった、恵梨香の家の居間に上がらせていただいた。椅子の配置や、飾ってあるものは少し変わったけれど、最後におじゃました時の印象のままの彼女の家だ。心なしか、子供の頃恵梨香の書いた絵とか、随分小さな頃の写真とかが、少し多くなった気がする。居間の椅子の数は、相変わらず4つあった。そのうちひとつは、彼女が小さな頃に貼ったシールが、まだ貼ったままになっていた。居間に腰を下ろす前に、彼女の家の小さな仏壇に手を合わせる。3人で膝を付き、慣れているとは言えない手つきで線香をとり、火をいただき、点った炎が消えるのを待って、平たく均された灰の上に、そっと立てる。3本煙はあの時のまま取り立てて対流のない部屋の中で、はじめまっすぐに立ち上って、やがて、フラクタルな乱流を宙に描いて、周囲に混じっていった。この煙は、天国の恵梨香まで、つながっているのだろうか。柄にもなく、そんなことを考えてみる。昔、よく遠くからうちにやってきて、同じように線香を供えていった親戚のおじさんたちが、なにか懐かしそうに、仏壇の周りの空気を眺める様子が、幼い僕には不思議でならなかったのだが、僕はその時、思わず自分たちが、あのころの彼らと同じように、周りを眺めていたのを知って、彼らの行為の理由が、少しわかった気がした。あれは、手を合わせている時、ある意味では必死に、なくなった人と交流しようとしているから、思いを伝え終わったあと、ふっと現世に戻された自分を認識した、そんな瞬間の表情だったのだ。僕らの心は、亡くなった方の世界へ行っていたのかもしれない。ある意味では生まれ変わって、改めて世界を仰ぎ見たような、そういう感覚が、亡き人を偲ぶという行為の中には、あるのかもしれない。
隣を見ると美沙はまだ、目を閉じて、恵梨香に祈り続けている。秋介はすでに終えて、静かに笑みを浮かべながら、僕らの祈りが終わるのを待っていたようだった。恵梨香のお母さんは、仏壇のある部屋の入口にたって、仏壇に祈る美沙の様子を少し悲しげに微笑みながら、暖かく見守っていた。「ここは暑いから、居間に行きましょうか」彼女がそう促してくれたので、美沙もようやく、ふっと顔を上げた。

居間では、恵梨香のお父さんがPCをいじっていた。ちょうど接続したところだったのか、居間のテレビに、ディスプレイと同じ物が映しだされている。「夏祭りの頃の恵梨香の動画を探してるんだっけ?」彼はPCの画面から少し顔を上げて尋ねた。「はい」「...僕もあの後、久しぶりに自分のライフログにログインしてみてみたんだが、君たちが探してるような画像は無さそうだった」彼は端的にそういった。「僕はあの時、運営事務所に詰めてたから、あんまり外に出てないしね。恵梨香のアカウントから、僕の方に自動的にシェアされる機能があるって話も聞いていたんだが、あの子は手続きしてなかったみたいだな。知らなかったのかもしれない」「...そうですか...」
「...済まないね」恵梨香のお父さんは、付け加えるようにそう言った。そういう記録があるのなら、まっさきに見たいのはご両親だろう。僕等をこの家まで駆け込ませるような強い力が、今ご両親の中でも渦巻いているはずだ。
「でも...、僕も諦めきれなくて、せっかくだから、昔の写真を掘り出してたんだ」彼は言った。「...いざとなると、意外と整理されてなくて、僕もとった覚えのない写真や動画が出てきたりしたものだから...、もし、いいのがあったら、遠慮なくもらってくれ」
そう言って、操作していたPCを、僕らに預けた。
「ありがとうございます!」美沙は、恵梨香のお父さんのPCを貸してもらうと、早速僕らの生まれた年の名前がついたフォルダを開け、中に入った動画を再生した。生まれた頃の、産衣も着ていない恵梨香が映る。おむつを変えてもらう時にとったのだろうか。両足を何度も持ち上げて、とても上機嫌なように見える。
「生まれたときは、予定より少し遅れてね」お父さんが、画面を見ながら静かに語りだす。「僕も、彼女も、もちろん子供の経験なかったから、すごく心配したよ。そういうのは、よくあることらしいけど、親にとっては、他人との些細な違いでも、心配の種なんだよね」「恵梨香、お父さん似だと思ってたけど、子供の頃は、お母さん似ですね」美沙が言う。「本当?」恵梨香のお母さんが、嬉しそうに言った。「そう言ってくれる人あんまりいなかった」恵梨香のお母さんの笑い方は、少し娘と似ている。恥ずかしそうに、顎を引いて静かに微笑むのだ。

保育園入学前の恵梨香。近所の保育園の制服を着て、すましてピースしている。控えめな彼女は、このあと、ピースなどほとんどしたことがない。彼女はいつも、画面の端に立ったので、僕らの持っている彼女の写真では、彼女が真ん中に来ているものは本当に少ない。家族の写真で、そして、彼女を誰より愛した両親がとった写真だから、彼女は真ん中で、そして、いつもより、心なしか穏やかな表情をしているように見える。「このへんはまだ俺は会ってないな」秋介が言う。「...なんかどれもこれもすごい新鮮だ」「私が恵梨香と遊ぶようになったはこの頃からかな」美沙が言う。「親の話だと、保育園の入学説明会で会って、それからだからって言うから」「そうかもね」恵梨香の母が言う。「美沙ちゃんのお母さんは、二人目だからもう慣れたもんで、私は随分教えてもらったわ」「うちのお母さん、でしゃばりですから」美沙が恥ずかしそうに言った。「多分、兄の時にも、もう知ったかぶりして教えてたんだと思いますよ」

小学校1年生ころの恵梨香の動画があった。ランドセルが背中より広い。直前何か嫌なことでもあったのか、少し口をへの字にしてカメラの方を見ている。でも、ムズって、隣の母親に顔を隠してしまう。「ふふ、怒ってる怒ってる」「最初の授業参観の朝だな」恵梨香の父が言う。「恵梨香は僕も行くもんだと思ってたらしいんだが、母親だけだと聞いてむずってるんだ」「お父さん子だったんですね」美沙がそう言うと、恵梨香の父はまんざらでもなさそうに微笑んだ。「このあと、機嫌直してもらうために、みんなでお出かけする約束させられたり、ほんと大変だった」母が言う。「この頃はホント気むずかしい子だった...。将来どうなるのかと、本気で心配して」

運動会、学芸会、そしてまた運動会....。記録を紐解くたびに、恵梨香は、僕らの覚えている恵梨香に近づいていく。中学に入ってからの、彼女の印象が特に残っている僕らとしては、それまでの恵梨香は、『あの』恵梨香に至るための、すでに決まった道筋をたどっているように見えた。でも、実際には、恵梨香という人は、こうやって、家族との一日一日を経る中で少しづつ積み重なって生まれていったのだ。あまり見覚えのない、怒ってぐずっている恵梨香も、すましてピースする恵梨香も、恵梨香なのだ。

「人一人の歴史って不思議だな」秋介が感慨深げに言う。「こうやって見てただけでも、おれはのづっちのこと、あんまり知らなかったんだなって、よくわかったわ。知ってるのは、学校ののづっちだもんな。家族の一員としてののづっちとか、見ること無いもんな...」
「私も、小さい頃から遊んでて、もう全部知ってるつもりでいたけど...、なんか今日は新しい恵梨香に会えたな」美沙がそういった。僕も頷いた。

そして、記録はいよいよ、最後の年...、最後の夏祭りの時期に入った。僕は時計を見た。時間はすでに、夕方6時を過ぎていた。思ったより時間がたってしまったらしい。
「あの...、この夏祭りの写真と動画、僕等でシェアしても、いいでしょうか」僕はそう切り出した。「見始まったら、遅くなってしまいそうですし」「いいのに気にしなくても」恵梨香の母が言った。「ついでにご飯食べてってよ」「でも....」「まあ、いいじゃないか」恵梨香の父親が、母親にそう言って、ゆっくり立ち上がった。「たしかに、もう日が短くなってるからな。みんなご家族が心配するだろうし」
「実はこの他に、この年の記録は未整理なのが結構あるんだ..。もし良ければ、あとで送るから、それも君らのうちでシェアしていい......。今日はありがとう。僕らも懐かしい思いを共有できた」「....二人だけだと、なかなか、見ないしね」恵梨香の母が静かに微笑みながら言った。「なんか、今日はお腹いっぱいになっちゃった」

玄関先で、口々に、別れと御礼の言葉を述べて、僕らは恵梨香の家をあとにした。ご主人はすぐに居間に戻られたが、奥さんは、僕らが見えなくなるまで見送ってくれた。薄暗くなり始めた町で、その後ろ姿が、ずいぶん小さく、遠くに見えた。またここにお邪魔するのはいつだろう。そう思うと、僕はいたたまれないほど苦しい気持ちになった。用がなければおじゃましないというのは、マナーとしてはありうることかもしれないが、同時に薄情でもある。亡くなった親友の家のご家族と、今後どう付き合って行ったらいいのか、僕には、最善の答えと言えるものは思いつかなかった。疎遠になっていってしまうのが、目に見えていながら、何の対策も取れないのは、川を溺れて流れていく人を対岸からただ指をくわえて見ているかのように、とても歯がゆく、辛い現実だ。これを当然のことと受け入れるほど、僕は割りきってしまっても、いいものなのだろうか?

「ありがとね、良二」美沙は帰り道、そんなことを言った。「...正直、最後の年が近づくたびに、私どうしたらいいかと思って心配になって。あそこから先は、ご両親、どんどん落ち込んでいくだろうし...」「おれもだわ」秋介が言った。「さすがに、亡くなった年の写真は、泣くしか無いだろうからな...。そうなると、ちょっとみんな気が重い」「...まあ、何というか、俺自身があまり、みんなの前で見たくなかったのもある」僕は言った。「なんか、こういうことは、あまり大勢とおおっぴらに見るようなことではない気がするんだ...。心の中で静かに、振り返るものというか」「...難しいけどね」美沙が言った。「みんなで見られるものと、そうでないものは、やっぱりあるよね」「みんなそれなりに傷ついて、悲しいのを必死で隠してるところはあるからな」秋介が言う。「周りを余計に悲しませないために....。自分の悲しみに周りを巻き込むのは、なんだか申し訳ない思いもあるしな」「ご両親も、きっとそうだったんじゃないかな」美沙が言った。「私達に楽しく来て、そして、帰ってもらいたかったんだと思う。恵梨香のいい思い出を抱えて」
他人と悲しみを共有することが、悲しみを癒すのには有効だと、何かの本に書いてあったのを思い出す。だが僕らにとってそれは、多分こういう、僕等3人のあいだであって、恵梨香のご両親はまた別なのだと思う。ご両親しか知らない恵梨香があるからこそ、ご両親だけの悲しみもあり、僕らの持っているこの喪失感とは、また質がきっと違うのだ。どちらが重い、軽いではなく、ちがう質のかなしみを持っている同士が、同じ場で悲しんだところで、どこまで相手の思いに寄り添うことができるだろう。相手を理解できる、できないの違いを感じただけで、無力感に苛まされるのが、関の山なのではないだろうか。共有できる悲しみと、できない悲しみと、その文字にできない質の差が、シェアと、プライベートの間に大きく横たわっている。僕らには、ご両親を気遣い、時折こうして遊びに行ったりして見守ることはできても、その回復の過程に積極的に関わることは少し難しいように感じている。だが、積極的に関わらないながらも、見守っていることを、関心を変わらず持ち続けていることをさり気なく相手に伝えることは難しい。二人に孤独を感じさせず、かつ、面倒でもない付き合い方といのは、どういうものなのだろうか。僕には、正直、わからない。

家に帰り、夕食を済ませたあと、僕は駆けこむように部屋に戻り、恵梨香のお父さんから頂いたローカルの記録を僕のライフログにアップロードした。そして、その記録は、すぐに美沙と秋介の間で共有した。僕のライフログの中の、恵梨香の記憶がどんどん補完されていく。空白となっていた、長い長い時間が、両親の記録に寄って埋め合わされていく。お祭りに出かける前、父の前で浴衣姿を披露した恵梨香の、少し上気した顔は、彼女の母に驚くほど似ていた。あの浴衣は、彼女の母の実家で見つけた古いものを、綺麗に仕立て直したものらしい。職人さんのところから帰ってきて、まだビニールに包まれているそのピカピカの浴衣を、体に当ててみている恵梨香の姿もあった。こんな幸せそうな恵梨香をオフで見たことは、僕はついぞなかった。その笑顔は、僕があの頃心の底から望んで、結局届かなかった、遠い遠い笑顔だった。
だが、どんなに記録が埋め合わされても、あの時、彼女が残したメッセージはやはり、そこには含まれていなかった。彼女は誰のために、あの時メッセージを残していたのだろう。純粋に、自分のためなのだろうか。なにか日記をつけるような要領で、彼女は記録をつけていたのだろうか。あまりに進展がないので、僕はついに、そんなことを考え始めていた。僕のこの、亡くなった人の些細なことを知りたいと強く願う気持ちは、単なる自分本位の、偏執的な行為と言われても、しょうがないのかもしれない。誰にでも、知らせたいことと、知らせたくないことがあり、どんなに中のいい友だちにだって、教えずにしまっておきたいことというものは、必ずあるものだ。僕の知りたがっていることは、ひょっとすると、その彼女のプライバシーの領域に踏み込むような下世話なことなのかもしれない。果たしてそれを知ったところで、僕はどうだというのだろう。彼女が、あのメッセージの中で僕に告白でもしているというのだろうか?それは、楽天的な、自分勝手な、妄想にすぎないじゃないか....。

一人ベッドの上に寝転がって、そんなことを考えているうちに、僕は頭にいっぱいになった記憶と感情とともに眠りに落ちた。

3

翌日、祭りの最終日。僕は美沙の素っ頓狂な声で目が冷めた。
「ちょっと!見た?恵梨香のお父さんから、新しい動画がシェアされてる!」電話の向こうの彼女は、かなり興奮していた。メイクも中途半端だったらしく、あまりこっち見るなと言いながら、「私もちょっと見たけどなんかかなりはっきり映ってそう!今日暑くなるらしいから、駅前のどっかの冷房効いた店で秋介のタブレットで見ようよ!」朝ごはん食べたら即集合という、運動部らしい約束を取り付けられ、僕は母も呆れるほど慌ただしく朝食をすました後、自転車で15分ほどの最寄り駅前のファストフード店まで疾走した。
「ほい!こっちこっち!」店に入るなり、奥の席から美沙の声がした。秋介も、先ほどついたところらしく、まだ汗が完全に引いていなかったが、「いや、ちょっと見はじめてたんだけど、これはいいかも」と、かなり興奮していた。
僕等三人に当てられた、恵梨香のお父さんのメッセージによると、僕らが帰った後、恵梨香が犬のサトちゃんにもライフログのアカウントを割り振っていたのを思い出し、昔教わったパスワードでアクセスして、僕らにシェアしてくれたらしい。そういうのを、逐一メモしているところも、生真面目な恵梨香のお父さんらしいと思った。

シェアされた動画は、恵梨香が浴衣を着て、家を出たところから始まっている。サトちゃんは恵梨香の前を歩いているので、彼女の姿はほとんど映らない。だが時々、恵梨香のことを一瞬振り返ることがあって、その時に、彼女の姿が画面に映る。喜び勇んだサトちゃんの早足に、慣れない雪駄で必死に追いついている恵梨香の姿が微笑ましい。お盆の空は遠く、夕暮れが近いので深い群青色で、カメラが広角なのもあって、より広く、遠くに見える。ひつじ雲が空に広がっている。お祭りに来た人の路上駐車が、道のそこここに見え、いつもと違う祭りの雰囲気が、画像から伝わってくる。
「あ、懐かしい、これあそこの中華料理屋さんの前の車だ。私がバイトしてた頃の」恵梨香が、画面に一瞬移った、豚のイラストの中華料理屋の車を見つけて、思わずそう呟いた。あたりは急速に暗くなり、そして、次第に神社の下まで近づいていくる。街を彩る提灯に明かりが灯り、あたりの人を神社へと誘う。
「良二はのづっち迎えに行かなかったのか」が画面から顔を上げて僕に尋ねた。僕は頷く。「...たしか、向こうから現地集合って言った気がする」あの時は理由がわからなかったが、おそらくは浴衣を着て少しびっくりさせたかったんだろうと思う。
長い階段を登り終わり、サトちゃんが後ろを振り向くと、恵梨香は少し息を切らせてちょうど上がってくるところだった。境内の時計が見える。この時点で午後7時。花火の始まる一時間前だ。
「のづっち!」美沙の声がする。画面の中からだ。本人はそれを見てにやけている。部活が終わってそのまま来たのだろう。見慣れた、僕らの中学のジャージのまま、道着を右手に下げている。「わー!すごい!やばい!可愛い!」相変わらずの大きな声が画面から聞こえ、美沙は思わず、タブレットの音量を下げた。「...ちょっと騒ぎすぎ...私」
「ちょっと、男子!こっち来なよ」
あまり効かなくなった男子という言葉に、懐かしさを感じる。
「おー!すげえ!浴衣だ!」秋介が軽薄な感動の声を上げる。「いいよね!いいよねー!いいなー!」美沙は同じ事をずっと言っている。「おばあちゃんちで見つけたやつ、可愛かったから直してもらって、着てきた」恵梨香の照れの混じった高い小さな声が聞こえる。「...ちょっと大きかったかもしれない」「いや!そんなこと無い!ぴったり!」押し売りのような美沙の声だ。「ほらどうよ、男子!こんなの滅多に見れないぞ!」「いやー、似合う似合う」秋介が相変わらず、本心がこもってるのかはっきりしない声でそう褒め称えている。それは感動していないわけではなく、彼の癖だ。「ほれ、どうよ良二!惚れなおしたべ?」美沙がいたずらっぽい顔で僕の方を見る。僕の声は聞こえてこない。でも、僕は、ただ笑ってうなづいていたと思う。それ以上、なんと言ったらいいのか、あの時僕は、言葉を持ち合わせていなかった。綺麗だ、とか、可愛いとか、それでよかったのかもしれない。でも、どの言葉もうまく言い表せなくて、ただ、恥ずかしく、笑って頷くだけが、僕のできる彼女への表現だった。彼女は、終始微笑んでいた。彼女もまた、ありがとう、とか、嬉しいとか、率直な言葉を、使えない人間だった。
「...花火、もう行く?」恵梨香の声が聞こえる。「あ、うん、ちょっと早めに行かないと、場所取れなくなるよね」美沙の声がする。「あー、でも、サトちゃんはちょっとおいてったほうがいいかも。人いっぱいいるから、踏んづけられちゃうし」あ、そっか。恵梨香の声がする。「...金魚すくいのおじさんに頼んでみようか。犬かってるから多分めんどうみてくれるよ」「あ、俺行ってくる。俺今年あそこ手伝ってるから」秋介がそう言って、画面の向こうの金魚すくいの方までかけていった。
「ゴメンねーサトちゃん、置いてきぼりだぞ」美沙の顔が画面いっぱいになる。サトちゃんが、フン、と鼻を鳴らすのが聞こえる。
いいってさ!とぎれとぎれに秋介が遠くでそう言っている。「いいって!」美沙が言う。「行こ!」僕らは、金魚すくいの店の前まで移動した。人の出が多く、いい匂いがあたりに漂っているためか、サトちゃんは始終興奮気味で、鼻を何度も鳴らしている。

金魚すくいのおじさんに紹介し、ロープを裏の木にくくりつけたところで、恵梨香が「ちょっと先行ってて」と切り出した。「トイレか?」秋介の声の直後、痛ぇ、という微かな声が聞こえた。
「待ってるよ?」美沙が恵梨香にそう尋ねた。「...ううん、いい。先に行って場所とってて。サトちゃんに水だけやっていくから」何度か美沙が待っているというが、彼女は折れなかった。最後には美沙が少し根負けして、「...うん、わかった。じゃあ、いつもどおりのところで待ってるから」とだけ言い残し、先に暗闇の中へと消えていった。「花火で感動して、忘れてたけど、そう言えば、こういうやりとりちょっとあったね...」美沙が、画面を見ながら言う。「俺は、覚えてないな...」秋介がポツリと言った。

恵梨香は、金魚掬い用の器に水をもらって、サトちゃんの前においた。サトちゃんは、それをしばらく舐めた後、また恵梨香の方を見た。恵梨香は、少し離れたところで自分のカメラを前において、何やら語っている。

『私.....言おうと....、いえないんだ。それでも...、ごめんなさい』
「うーん、惜しい」美沙が言う。「恵梨香、声小さいから、ちょっと離れると、マイクに入んないな」秋介も言う。少しボリュームを大きくする。屋台のスピーカーからのまつりばやしが聞こえてくる。
『....、だから....、ごめんなさい。でも....、そのために....』

「何かをお願いしているみたいだね」美沙が言う。「...ますますわかんないな」

画面の中から、ドーン、と花火の音が聞こえてきた。恵梨香は驚いたように空を見上げる。そして、少し急いで話を終わらせると、携帯を掴んで、少し駆け足で、僕らの向かった方へ、消えていった。

「うーん...」僕等三人は思わず唸った。これではますますわからない。「そもそも、誰に向けたものなのかも結局わからなかったな」秋介が言った。「前半はいい感じだったんだが」「恵梨香、綺麗だったね」美沙が言った。「..やべ、少し泣けてきたぞ」
僕らはそれから、恵梨香が話した内容についてしばらく話し込んでいたが、一向に結論は出なかった。話はそれから、あの頃の恵梨香の話題に移り、今日の花火の事になり、集合時間を取り決めて、そして一度解散となった。



僕は家に帰り、もう一度あの動画を見てみた。全体的に薄暗く、声も小さいが、恵梨香の必死さは伝わってくる。おそらくはとても大切なことを、彼女は話していたのだ。しかし、誰に向けて?僕らの誰も知らず、親すらも知らない大切な人が、彼女にはいたのだろうか。僕には、想像もつかなかった。よく理解していると思っていた人の、意外な一面は、僕を安心させるどころか、心をかき乱した。解決するのなら、早く解決して欲しかった。永遠に解決しない可能性も考えると、溜息だけが漏れてくる。僕や、友人たちと、多くのことを共有していたと思っていた彼女は、それでも、本当に大事なことをずっと隠していたのだろうか? 

一時間後、僕は駅のホームで、町の山手方面に向かう各駅停車を待っていた。上下二本がすれ違うだけの、田舎の駅だが、住宅が多いこともあって、利用客は多い。向かい側の1番ホーム、県の中心の方へ向かう上り快速列車には、一足早く里帰りを終えた家族連れが、カラフルな旅行かばんを下げて乗り込んでいた。すっかり疲れた父母と兄とは対照的に、弟さんはまだ目をキラキラさせて、窓の中から、僕の方を珍しそうに見つめている。僕は、その屈託のない視線に笑を送り、どんなふうに見えているんだろうと思いながらも、ご両親には気づかれないくらいにそっと、右手を上げて挨拶した。少年は、その挨拶に恥ずかしくなったのか、慌ててくるりと背を向けてしまった。隣の母に、何やら話しかけている。お父さんは、どうやら早速寝始まったようだ。

僕の乗る下り各駅は、快速列車とすれ違いにするりと入ってきた。休日の日中の路線で乗る人も少なく、2両編成のディーゼルは、カラカラと、軽快に音を立てている。

「...あれ?良二君?」
後ろから、聞き覚えのある声がした。振り返ってみると、そこには、中学の時の同級生だった佐野が立っていた。佐野は今通っている高校の野球部の名前の入ったバックを肩に下げてにこやかに笑っていた。
「...ああ、佐野君、久しぶり」
僕も笑顔で応じた。
おそらく、部活の帰りだろう。彼の家は、そう言えば、この路線の終点近くに合ったはずだ。小学校までは校区が違い、中学では一緒だった。高校も一緒なのだが、クラスが違うこともあり不思議と接点のないやつだった。だが誰にでも礼儀正しく、印象のいい彼は、比較的誰からも好かれるタイプではある。
「...部活の帰り?」
誰にでも見てわかるようなことを質問した。
「ああ。休みなんだけど、自主練みたいなもん」真っ黒に日焼けした顔で笑った。
「そっちは?」「ん...」特に、言うほどの用事でもないと思ったので答えに詰まった。「気分転換」何となくそう答えた。

向かい合わせの席に座り、彼は隣にドサリとカバンをおいた。見た目よりずいぶん重いらしい。「グローブでも入ってんの?」と聞くと、「...ああ、ちょっと手入れしなきゃないかなと思って」といい、カバンを開けて、グローブをひとつ取り出した。茶色の、すっかり使い込まれた、くたびれた皮のグローブだ。手首のロゴマークのところに、「南中 佐野」と名前が入っていた。「中学の時から使ってんだ」僕がそう言うと、「うん、試合では使わないけど、練習用」と、言って、パタパタと、閉じたり開いたりしてみせた。見た目より軽く、乾いた音がした。「試合用はこっち」と、カバンの中から、もうひとつ、それよりはまだ新しいグローブをとりだす。「こっちはまだ固いから、使い込まなきゃな」頼れる親友を見るような目で、そのグローブを見つめながら、彼は言った。
「そっちはどうなの?秋介が、毎日古本屋のバイトしてるって言ってたけど」
「うん、思ったより長く続いてる。3日で飽きるかと思ってたけど」秋介は至るところにつながってるな。そう思いながら苦笑いを浮かべる。「うちにも何冊か、おじいさんの残した紙の本があるけど、ほんと見なくなったよね」彼もそう言って笑う。「どういう人が買ってくの?」「概ね、得体のしれない感じの人かな」そう言ったあと、佐野が真に受けて真面目な顔をしているので「なんか、学者っぽい雰囲気の人」と、少し付け加えた。実際、いまどき紙の本を買う人など、そういう収集目的でもなければ、ほとんどいない。「あー、なんかわかる気がする」佐野は、快活に笑った。「俺ももらったことはあるけど、自分では買ったこと無いしなあ」そう言いながら、手に持っていたグローブを大切そうにカバンに戻した。

あれは、中学に入ってすぐ位の事だったか。佐野は恵梨香のことが好きなんじゃないか、との憶測が、少し流れたことがあった。どこにでもよくある、そんなたぐいのうわさ話だったが、そんな記憶が、不思議なことに今でも、僕の中にわだかまっている。僕と恵梨香の関係は、恋人というには、幼馴染の延長のようなもので、全く赤の他人同士が、好き同士になるそういう恋とは、おそらく質が違っていた。僕には未だに、それがどういう流れを経て、進んでいくのか、よくわかっていないところがある。知らない同士から、友人になるだけでも、大変と感じることは多いのに、そこから、恋人となるのは、どれほど大変なのだろう。佐野と恵梨香の間の噂は、それほど事実無根というわけではなく、実際、彼と彼女が、一緒に話している場面は、比較的よく見た気がしている。あるいは、それも、心をかき乱された男が抱く、少し誇大な印象なのだろうか。だが、小さい頃から見ている恵梨香の、小さい頃は見たことのない表情に、僕は戸惑っていたのは事実だ。あれは、あれは、相手によく見られたいと意識する少女が作る表情なのか。はたまた、あまり話したことのない相手に少し緊張しているだけだったのか、僕はついに、彼女に聞くことはできなかった。

「...佐野君」僕はぼんやりと窓をの外を見ていた佐野に、恐る恐る切り出してみた。「実は一昨日、俺と秋介と美沙の三人でお祭り行ったんだけどさ...」 僕があらましを話している間、佐野は、いつもと変わらぬ真面目な表情で僕を見ていた。「...どうも恵梨香はメッセージみたいなものを録画してたみたいなんだけど、少なくとも俺ら3人と、お父さんお母さんにもシェアしてないんだよね...」ここで佐野が「ああ、僕が持っている」と答えてくれることは、僕も十分予期していた。だが、そうなった時の心構えまで、出来ているとはいえなかった。ほとんど見切り発車のまま、知りたい気持ちだけが先走り、僕はこの話を切り出してしまったに過ぎない。
だが佐野は、ひと通りの話を聞いたあとも、「不思議だね...」と言ったきり、自分が持っているとも、持っていないとも言わなかった。どちらかと言うと、なぜこんな話をしたんだろう、という表情をしているように、その時僕は見た。
田園風景の向こうに、付近よりやや高い山の峰が見えている。「誰に送ったんだろうね。野口さん」彼は窓を見ながらポツリとそういった。「僕も彼女は大好きだったけれど」彼は静かに吐き出すように語った。「シェアしてくれたことも、してくれなかったものも、そこには、彼女の意志があると思うんだ。僕は...あえて、彼女が見せなかった部分までは、知りたいとは思わないな。彼女が僕に見せたかった彼女こそが....、贈り物みたいなもんなんじゃないだろうか。自分のために作ってくれた」

僕は、その列車を、佐野が降りる数駅前で降りた。
平凡な名前の、特に目につくもののない田園地帯だ。だが、ここに、恵梨香がいる。
僕の父も、恵梨香のお父さんも多少地域は違うが結局地元の人間なので、墓も、同じお寺の中にあった。彼岸などで、自分の家のお寺にお参りするときには、一緒に、恵梨香のところにもお参りすることにしている。
わざわざ、墓まで来る必要など、なかったかもしれないとも思っている。昨日仏壇に御挨拶したばかりだし、恵梨香も「また来たの?」と笑っているかもしれない。僕も、それほど信心深いほうじゃないから、仏壇よりも墓参りが、とか、そんなことはちっとも思っていない。でも、こうやって、電車に乗り、恵梨香のことを考え、思い巡らし、そして帰ってくるという一連の作業そのものが、今の僕には必要な気がしていた。気が回らず、花など持ってこなかったから、とりあえず駅前の商店で、好きだった酢昆布を買って、田んぼの中のあぜ道のような道を通り、小山の麓のお寺に向かう。
『ちょっと!え!お墓参り?』駅で降りた時、ライブ映像をシェアしておいたので、ちょうど見かけた美沙が、驚いて参加してきた。「そう」画面の中の彼女に、そう言って笑う。見たところ、彼女は今家にいるようだった。兄か弟か、カメラの後ろでバタバタ走り回る音がしている。『言ってくれたらよかったのに!あたしお墓どこにあるか知らなかったんだよね。うちのお寺別だから』「俺も、急に思い立ったもんだから」まさに気分転換で、それほど考えがあっての行動ではないので、僕も笑って答えるしか無い。「まあ、あと10分も歩けばつくから、画面見ながら拝んでて」「はいはい。いきなり過ぎて全く呆れた」そうは言いながら、美沙もこういう突発的な出来事は嫌いでない。ちょと先にトイレ行ってくる、そんなどうでもいいことを言い残し、彼女は一瞬画面から消える。
時計を見れば午後一時。太陽はすこぶる高い。緑色の稲穂は、まだ頭を垂れるには早く、青々とした実を、そびえるように、天に向けている。遮る物のない、田園の太陽が、真夏のジリジリとした暑さを、僕の皮膚に刻みつけている。水は鏡の破片のようにギラギラと日光を反射し、あたりを取り囲む、山々からは、注ぎこむようなセミの合唱が聞こえてくる。狭い階段を上り、境内に入る。お寺はひっそりとしている。人影はない。砂利の敷かれた庭を抜け、裏手の墓地に入る。山の斜面を切り開いて作られた、急峻な墓地の、恵梨香の墓は真ん中辺りにあった。登って行くと、それでも結構な高さがあり、思わず後ろを振り返れば、ずっと歩いてきた広々とした田園が海のように、広々と広がっていた。僕の利用した鉄道の高架橋が、その向こうに、西から東に向けて、まっすぐに走っている。その向こうには、並行する有料道路が見える。真夏の暑い盛で、お彼岸には多いカラスも木陰で眠っているようだった。強靭なツクツクボウシの鳴き声が、ジージーゼミを背景に、ここまで来るとはっきりと聞こえる。恵梨香はあれから二年間、こんな広々としたところで眠ってたんだな、と改めて思う。この緑の景色は、彼女も嫌いではないと思う。墓の脇に刻まれた名前の中に、恵梨香の名前もある。70とか、60とかのご先祖様のなかで、「15歳」の文字が痛々しい。「学」の文字が入った戒名は、彼女が学生だったからだろうか。そんなことを考えながら、お墓に向きあう。買ってきた酢昆布を、お墓に備えた後、少しの間、心を空っぽにして、彼女の墓前に手を合わせた。考えたいことはいくつもあった。教えてもらいたいものも、聞かせてほしいこともたくさんある。でも、墓前で手を合わせながら、それをするのは、なにか抵抗があった。僕らの、今を生きる僕等のことはどうでもいいから、この開けた景色の中で、せめて安らかに彼女には眠っていて欲しい。

『途中から間に合ったよ』拝み終えた頃合いを見計らって、美沙が言った。『...ずいぶん長かったなって言いたいの?』「いや」僕は笑った。「しかし、暑いな」墓石に手を触れる。やけどしそうに暑い。何度か触ったり、手を離したりを繰り返しながら、僕は石の奥に、彼女の存在を探った。『恵梨香も、アイスの一つも食べたいだろうね...なにかお供えした?』「酢昆布」僕は、お供えした酢昆布を食べながら言った。うちの地方では、お供えしたものは食べるものとされていると、母が言っていた。『え!酢昆布!?地味!』美沙が笑っている。『おー、何だ、墓参りか良二!』秋介が参加してきた。『暑い中よく行ったな〜!のづっち!どうしてるー!』画面の向こうの墓標に語りかけるように彼は言う。『あー、俺も行けばよかった。実は俺も行こうかと、ちょっと考えたんだが、やっぱやめてたんだわ。お彼岸に結局行くしな』『私もこれで場所わかったから、後で行ってみる』美沙が言う。いつの間にか、手にアイスを持っている。「いい物食ってるな」僕は画面に向けて言う。『弟からもらった、暑いでしょ、食べたいでしょ』『実は俺も、ちょうど食ってたんだ』秋介も、透明なカップに入った、かき氷を画面に近づけて見せた。『わりいな、超うめえ』
こんな会話をしているうちに、僕はふと、背中に恵梨香の気配を感じたような気がした。振り向けば、彼女の眠るお墓が、そこにある。彼女にも聞こえただろうか。この今の僕等の、伝えたい、毎日が。



あの日、彼女が登った階段を、僕は再び登っている。2年の時が過ぎても、石積みの階段は、時の流れを感じさせない。おそらくはあの時より、多少はすり減ってもいるのだろう。だが、それは、そこを登る人間の変化に比べれば、些細なことだ。神社という場所は、変わらないことで、自分自身の変化を痛く感じさせてくれる場所でもある。

「お、来たな!」階段の一番上では、秋介と美沙がすでに待っていた。真昼の強行軍から帰ってきたばかりで、まだ体中の皮膚が火照っている僕は、また随分とくたびれていたが、秋介はそんなことはお構いなしに僕と肩を組み、半ば連れ去るようにして、あの日の特等席に―4人で花火を見上げた、あの場所へ連れて行く。あの丘に向かう雑木林の道では、浴衣姿の幼い姉妹が、じっとしていられないのか、両親に伴われて、我先にと、駆けていた。白地に淡い青系の染料で描かれた百合が、薄暗くなった小道を走る中で、おぼろげになり、そして、闇の中へと溶けるように消えていく。待ち切れない姉妹の歓声と、父親の「あまり走るなよ!」という声が、樹齢の古い鎮守の森の林間に、涼しげにこだましていた。花火の見える丘の上は、すでに人でいっぱいだった。ブルーシートを引いている人、立って待っている人。2年前は生まれていなかった子供たち。まだ結婚していなかった人たち。仕事を変えた人、病気で見れなかった人....。大勢で、同じ方向を見上げて、同じ花火を待ちわびている。「こういうのもいいもんだよな」秋介が言う。「雑多な人が、みんな同じ方向向いて、同じ物を待ってるっていうこの感覚」「一つ屋根の下っていうか」美沙が笑う。「だから何だって感じなのに、妙にうれしいよね」「だよな」秋介が笑う。「花火って大切なんだな。ただうち上がって消えるだけなのに、みんななんか寄ってくるし、妙にニコニコしちまうんだから」
小一時間にも思える、待ち切れない時間の後、西に流れる川辺から、ヒュルヒュルと、最初の一発が上がった。そしてそれを皮切りに、次々と色も大きさも様々な花火が、断続的に打ち上げられていく。田舎の花火故に、それほど豪勢ではない。それでも、みんなちょっと大きいのが上がるたびに、口々におー、とか、わーとか、感嘆の声を上げている。星のよく見える夏の暗い夜空に、皆ぽかんと口を開けて、次に来る花火をぼんやりと待ち望んでいる。

花火もいよいよ大詰めとなった。大型の花火が、小さいものに混じって、どん、と打ち上げられ、花火の煙で霞み始めた低層を突き破って、高い高いところに、大きな大輪を咲かす「わー、スターマインだ...」美沙はすっかり感心してしまっている。秋介は、ただ静かに、空を見つめている。僕も、時折口をついて出る、美沙の無邪気な反応に時々苦笑しながら、ただただ空を見上げ、みんなと一緒に過ごすこの時間にすっかり身を任せていた。

その時だ。僕の携帯が、ブルブルっと小さくバイブした、家からだろうか?反射的に、ポケットから取り出す。画面の記述を確認し、そして、一瞬、時が止まった。「....えっ」隣の美沙から声が漏れる。彼女は驚いた顔で、こちらを見ていた。秋介も、携帯を見て、ニヤリと笑っている。「俺も来たわ....、恵梨香から」

それは、予定投稿だった。二年前の恵梨香から、僕らに向けた、動画の。

『私....、今日こそはきちっと言わなきゃいけないと思って出てきたけど、やっぱりみんなの顔観てたら....、言えそうにない。いずれ、わかることだと思うけど、多分結局、うまく説明できないんだと思う。また、急に言っちゃった感じになって美沙を怒らせるかもしれない。いつもこんな形の伝え方になってゴメンナサイ。こういう大事なことは、ちゃんと人の顔見て言うのが、たいじなんだろうけど』
恵梨香は、少し神経質に、髪の毛を直している。
そして、人呼吸おいて、続けた。
『二年後の夏祭り...、高1、多分私は、みんなと一緒に花火を見てないと思う』
彼女は、再び言葉に詰まり、いきを整えるように、数秒待って、続けた。

『夏休みに入る前、担任と進路指導があったでしょ?あそこで私、この町でて、市の高校に行きたいですって言ったんだ。実は、まだお母さんにも、お父さんにも相談してないんだ。担任には、じゃあ、一人暮らしか寮ぐらしになるぞ、って言われたけど....。親はたぶん、大学からでもいいんじゃないかって、言うと思う。でも、私、そこまで何もできないわけじゃないし、いつまでも甘えててもいけないと思ったんだ。この町にしか住んだことなくて、他のこと、よくわからなっから、なおさら...、いろんな所に住んでみたいってのは、あるんだけど』
『ずっとこの町にいるのも、いいと思う。そういうのが悪いって思ってはいないんだけど、なんか、今見ないと、よその世界は見れない気がして...。大人になって、結婚したりとかしたら、きっと簡単に引越しもできなくなるし、好きなように、自分の好きなことをやったり、しにくくなると思う。私何がしたいのか、まだ自分でもよくわかってないんだけど、でも、だからこそ、それを早く見つけたいと思う。したいことが決まらないうちに、時間だけどんどん過ぎてしまうのは、まずいと思うから....。見つけないといけないと思うんだ。いろんな所に言ったり、いろんな人にあったりして、私なら何がやっていけるのか。まだ全然良くわからないし...。一度しか、無いのにね、』
『市の高校に行って、大学入って、いろんな人に合えば、自分がどこまでできて、どのくらいしかできないか、とか、よくわかると思うんだ。人任せみたいで、ちょっと甘いのかもしれないけど....、でも、ずっとここにいるよりは、見つかるんじゃないかとは思ってる。怖いんだけど』

『でも私、やっぱダメで、途中で、もしかしたら、その道もあきらめちゃうかもしれない....。やったこと無いことだから、よくわかんない。でも、そうできないように、今、私の思っていることを、こうやって喋ったやつを、ちょうど高1になった頃のみんなに送っておこうと思う。なんか勝手だけど。ちゃんと、このこと口で伝えたら、取り消すけど。急に届いてたらごめんなさい。でも、こうしておいたら、私、恥ずかしくて、途中で、簡単に放り投げたりできないと思う。きっと秋介とか美沙とか、冷やかしてくれると、思うし、良二にも笑われそうだし』
画面の向こうで、彼女は吐き出すように一気に言った。今まで、ずっと言いたいのを溜め込んでいたのかもしれない。今までの日常を急に壊すようなこの告白を、彼女はずっと僕らにできずに、悩んでいたのだろう。話すだけ話したことで、少し安堵したのか、後半は、少し表情が落ちついてきた。暗いのでわからないが、興奮気味に話していたから、顔はきっとそれでも真っ赤になっているだろう。一呼吸おいて、頬を手で抑えている。
『私は、小さい頃から一緒だったし、みんなと離れて一人でやるとか、ちょっと想像できない。兄弟いないけど、兄弟みたいなもんだったし。ずっと一緒にいたいし、良二とも、ずっと一緒にいたから、もしこのまま奥さんとかになったら、とか、一人でよく考えたりした。たまにふざけて、言ってたよね。美沙と秋介にもさんざん冷やかされてたし』
彼女は、首を心なしか傾けて、心持ち顎を引き、恥ずかしそうに笑った。
『でも、私は何も知らないし、私を奥さんにすることが、良二にいいことなのかわからない。もっとピッタリの人が、世の中にはいるのかもしれないし。良二には...、もちろん美沙も、秋介もだけど、とにかくいい人見つけてもらいたいから、私じゃなくてもさ』
彼女はちらりと、カメラの向こうの空を見上げた。花火の音が聞こえ始めた。
『私は、もっと、外の世界を見なくちゃいけないと思うんだ。いろんな人に出会って、いろんなコト考えて、いろんなこと知って...。それは、良二君や秋介や、美沙もきっと同じなんだと思う。私達は今、ほとんど私達しか知らないんだし。それでも小さな時から一緒なんだし、また何度も合うよね。いろんな外の事知ったあとでなら、改めて、いかに大切なのか、わかるんじゃないかと思う。家族も、友達も』
『正直、この町でずっと住んで、大人になってもいいのかもって思う。わざわざ面倒な方を選んでるんだよね。うちのお母さんも、町から出たことのない人だし、それでも何とかなってるから、そんな無理しなくても、いいものなのかもしれない。ずっと考えてるけど、結局何が正しいのか、よくわからない。色々読んでも、人に聞いても、やっぱりわからなかった。でも、だから、とりあえず出てみるんだ。あんまり大人になったら、この選択肢は、たぶん取れないから』
『ホントは、ちゃんと説明するべきなんだ。ごめんなさい。こんなかんじで。でも、みんなに少しでも伝わったらやっぱり嬉しい。また一緒に花火見ようね。じゃ、またね」
そして、彼女は、あくせくとカメラを取り上げ、携帯を操作し、僕らの見上げる花火の下へ、急いだのだった。



花火はまだ、夜空に散っている。おーとか、わーとか、集まった観衆の感嘆の声が響いている。予定投稿を見終わって、僕らは互いに目を合わせたが、この騒ぎが静まるまで、会話はできそうにない。

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設定だけ見るとホラーのようですが、そんな要素は全くなく実はわずかにSFです。失ったものと向き合う、が主要なテーマになりました。

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今よりやや未来、夏祭り、友人ととった記念写真に写っていたのは、2年前に死んだはずの幼なじみだった...。カメラの操作ミスにより、2年前が写ったその写真は、残された僕らに、僕らの知らなかった彼女を発見させる。彼女は、みんなと見上げた最後の花火の晩、僕らに何を『シェア』したかったのか。そして、何を思っていたのか。過去を見つめ未来を想うSF(すこしふしぎな)小話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-06

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
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