シンフォニア

  平凡な暮らしを送っていた主婦・奏(かなで)をある日突然訪ねて来たのは、若かりし頃不倫していた相手・和宏の二人の息子だった――
 22歳の奏は、高校の放送部の時からラジオドラマをしていた。大学も一般のサークルに参加し、朗読劇などに出演していたがいまひとつパッとせず、普通のOLとして就職。朗読サークル「シンフォニア」に入会する。
 そこで聴いた、すごく自分好みの声を聴き素敵な人を想像し期待していたのに、後日紹介されたのは一回り年上で眼鏡をかけた、自分より背の低いおじさん、和宏だった。

 いつしか身長差も歳の差も、和宏が既婚者であることも乗り越え惹かれあう二人。
 付き合いはじめ2年半が経った時、奏はかつての朗読の師匠が主宰する劇団に和宏と参加する。そこで訪れた小さなハプニングは、二人の運命を大きく狂わせた……


 
 

第1章 訪問者

 午前中ある程度家事を終え、午後からちょっと気晴らしに出かけよう、そう思っていた時だった。ドアホンが鳴り、室内モニターを見ると見たことのない若い男性が2人、立っている。ああ、また太陽光発電とかの営業か……めんどくさい。

「はい」
「あの……こちら、旧姓織部さんで、奏(かなで)さんのお宅でよろしかったでしょうか」

 なに、旧姓だしてくるなんて怪しい。詐欺の匂いがする。
「……どういったご用件でしょうか」
 ちょっときつい声になった。

「あの……僕たち、渡邊と申します……父の名前は、和宏です。おわかりいただけますか」
 
 えっ――和宏の……
 良く見れば、しゃべっている方は顔がそっくりだ。眼鏡をかけていない時の顔。

「……どういったご用件でしょうか」

「ちょっとお話できませんか。お伝えしたいことが……」
「少々お待ちください」

 ドアを開けると、二人が深々と礼をしたので、私もつられて礼をした。
「織部 奏さん、ですね」
「はい……どうぞ、中へお入りください」

 生で声を聴くと、どことなく和宏に似ている。
「失礼します」
と言って入ってきたもう一人の方は、もっと声が似ていた。





 私と和宏が出会ったのは、今から25年前、私が22歳、和宏が34歳の時だった。
「シンフォニア」というグループで、朗読と声優、演劇を合わせたような会だった。文学作品からライトノベルまで、結構色んなジャンルを録音して、当時はラジオで流していた。今はそれがもうネットに流すようになってしまっているようだけれど。

 彼の声だけを初めて聴いた時は、頭の真ん中がビリッとしびれて子宮がうずいた。なんて響きのいい、のびやかな声なんだろう。強弱の付け方もうまくて、セクシーだ。
 どんな人なんだろう。声の感じから勝手に想像したのは、30歳くらいのスラッとした、ちょっと神経質そうだけど話すと優しい感じの、素敵な人。そうあってほしい、という願望。

 しかし、その後紹介されたその人は、かけ離れたイメージだった。見た目は……眼鏡をかけた背の低い、人懐っこい笑顔のおじさん。そう、22歳から見れば34歳はおじさんだった。ちょっと、軽くショックを受けた。

 正直に言えば、別に男に困っているわけでもなかったし、既婚者にはもっと興味がなかった。だから、最初に食事に誘われた時は、逆に全く警戒心がなかった。

「声、綺麗だよね。発声とかしてる?」
「はい、一応は……でもなかなか弱声をしっかり出せなくて」
「ああ、難しいよね。腹筋鍛えないと……普通にしゃべる声もいいけどね」
「ありがとうございます。渡邊さんの声も素敵ですね、幅広くて伸びがあってよく響きます」
「え、そう? 照れるなあ……奏ちゃんの声、最初聞いたときなんか脳天にガーンってきたよ、透明感ありすぎて」
「えっ、透明感ですか? 確かに最近は調子いいけど……褒めすぎですよ」



 彼に好意を持つのに時間はかからなかった。やたら、私の声を褒める。仲間内でも褒めるので、恥ずかしいけれど嬉しかった。経験もない私に、役を推してくれた。
「この役は奏ちゃんがぴったりだと思うけど、皆どう思う? やらせてみようよ」

 皆、和宏が既婚者なのを知っているのに、このサークルにいる間だけ私が恋人のような扱いを受けるようになった。夫婦役、恋人役も自然とまわってくるようになった。ただ、そういうふうに扱いながらも、まさか背の高い22歳の独身女性と、34歳の既婚者、小さいおっさんがそういう関係になると思っていないからこそ、冗談半分で言っていたのだと思う。



 ある日、大学時代に入っていた朗読劇団の公演案内状が届いた。シンフォニアの中でこれといって親しい人もいなかったので、何の気なしに和宏を誘った。

「あー! ここね、『劇団LAW毒』。知ってるよ、結構面白い事する所だよね。奏ちゃん、ここにいたんだ……ははっ、何か意外だな。一度ここの行って見たいと思ってたんだよ」

 チラシを見せた途端こんな反応だったので結構驚いた。へえ、有名だったんだ……中にいる時はよくわからなかったし、学生だったのでなかなか役はもらえなかった。
 チラシには、私が3年の秋ごろ、思いがけず大役をもらった時の演目が書かれてあった。準主役だった。自分としては後から考えれば考えるほど納得がいっていなかった出来だったので、かなり後悔した作品だ。

「県外ですから時間かかりますけど……高速バスで行こうと思ってるんですけど、いかがですか」
「ああ、いいね。わかった、空けておくよ」


 昼間の公演だったので朝一番の高速バスに乗った。今はどうか知らないが、当時の高速バスの座席は意外と窮屈で、嫌でも肩が触れあった。
 3時間の道中、なぜか和宏は私の事を色々知りたがった。朗読するようになったきっかけや大学時代の事、家族の事や付き合ってた人の事など、割とストレートに聞くので私もそれに答える形で会話は進んだ。
 
「で、この劇団の中に元彼とかいたりして」
「あー……今はいないと思いますよ。確か東京に就職したはずですから」
「今日バッタリ会ったりして」
「ないない! わざわざ来ないでしょ、東京からなんて」

 公演が始まった。懐かしい面々が、生き生きとステージを飛び回っている。朗読劇なのにアクティブなのがここの売りだ。かといって、普通の演劇ともちょっと違う。なんて言ったらいいのかわからないけど、独特なスタイルなのだ。
 
 2部は、私が納得いってなかったあの演目だ。遊園地の回転木馬をめぐる人間模様。私がやったのは係員のお姉さんの役だった。
今日その役をしているのは全然知らない人だ。うまい……私なんかより、ずっとうまい。
 
「待って……! その馬には、乗らないで」

 短いけれど、私がどう表現してもなかなか監督からOKをもらえす一番苦労した台詞を、その子はいともたやすそうに、しかも感動的に読んだ……次の瞬間、私は泣いていた。

 和宏は私の方を見て一瞬驚いたみたいだったが、私の頭をそっと包み込むように腕を回し、ポンポン、と撫でて
「悔しいんだろう……わかるよ」
と言った。

 えっ……どうしてわかったの……私はただ、この役をやった、ということしか話していなかった。
 私はコクリ、と頷いた、けれどもその時は、どうして私の気持ちをわかったのか、という驚きよりも和宏が初めてこんなにもしっかり私に触れた事に対して動揺していた。鼓動がなかなか止まらない。えっ……? 私、なんでこんなにドキドキしてるの?

 和宏はその手を一旦私の肩に置き、ポン、と1回軽く叩いてまた舞台を注視していた。
 
 彼にしてみれば、私などきっと子供と変わりないのかもしれない。そうだ、きっと、子供によしよし、ってするあの感覚。それもまた、なんだかちょっと悔しく感じている自分に対して混乱していた。え? 私、おかしくない?

 そこから先、私は上の空であまりよく覚えていなかった。帰りのバスの中で当然、今日の劇について和宏が興奮気味にしゃべりかけるのですら生返事で、和宏の手ばかりを見ていた。顔を見たら、ちょっと自分自身がどういう反応をするかわからなくて恐かった。

 この日を境に私は、この小さいおじさんが気になり始めてしまったようだ。


 コンクールが迫り、グループ内でいくつかに別れて短いドラマを出品することになった。和宏が、
「奏ちゃん、これ一緒にやろうよ」
と言って持ってきたのは、ある恋人達の物語で、出会いから付き合いプロポーズ、結婚式までのことが書かれているものだった。

 恋人同士の会話を演じる練習をするうち、私は本当に和宏を好きになっていることを自覚するようになった。内容だけでなく実際二人きりで車の中で練習し、セリフとはいえ至近距離であの声で囁かれ続けるのだ。元々好きな声だけにウズウズしてたまらなかった。次第に、練習して帰宅した後トイレに行くと、濡れていることに気付くようになった。

 まさか自分が、自分より小さい、一回りも歳が違うおじさんを好きになるとは思ってもみなかった。その気持ちに自分で気付いても、相手には家庭があるのだし、気持ちを伝えても信じてもらえない、相手にしてもらえない、と思い、ただまんじりと悶える日々が続いた。

 練習する日は、私が彼の仕事場まで車で迎えに行き、大抵は食事をし、ひとけのない山や海岸へ車を止め練習する。練習が終わって彼をまた仕事場まで送って行く。彼は車を降りドアを閉めると、必ず窓ガラスをコンコン、と叩き手を振る、そんな習慣があった。その時の笑顔も好きだった。

 ある日食事中、
「奏ちゃん、今彼氏いないの。いつでも練習来れる、ってことはいないのかな」
「あははっ、わかります? 今はいませんよ」

 私がシンフォニアに入って没頭するようになってから、当時付き合っていた3歳上の彼氏とは別れた。振られたようなものだ。

「僕と一緒にいるところ、誰かに見られたらなんて言うの」
「……えっ」
「僕の事、なんて紹介するの」
「……え、あの……朗読仲間、みたいな?」
「ああ、なるほどね……ははっ、そりゃそうだな。ちょっとがっかりしちゃったよ」
「え?」
「恋人、って紹介されるかな、って期待してしまった。あつかましいよな」

 和宏は、家庭の事は最初の頃こそ話したが、その頃にはもう全く家庭の話は出なくなっていた。奥さんとの馴れ初めは、和宏が若くして大腸がんになり入院した時の担当の看護師さんだったということ、奥さんは2歳年上で奥さんの旧姓も渡邊だったこと、息子が二人いる、ということだけだった。もう数か月、そういう家庭の話を聞いていなかったので私の意識の中ではあまり「既婚者」という気がしなくなっていた。

「それって……どういうこと?」
「いや、いいよ、気にしないで。おじさんの戯言」

 恋人として紹介されるかな、って期待した。好きな人にそう言われて意識しないわけがない。私なんて身長でかいし、大人の女としての魅力もまだないし……ただ、若いだけ。それしかなかった。それなのにそういう目で見ててくれていたことが嬉しかった。

 食事が終わり、さあ、今日はどこで練習しようか、と思った時彼が
「ちょっと僕の言う通り行ってみて。海岸線をずっと道沿いに……20分位かな」
 言われるままに車を走らせる。そして、とある波止場に車を止めた。
「もうすぐだよ」

 すると、対岸にドーン、と花火が上がった。ドーン、パラパラ……ドン、ドン……

「わあっ、ここ、特等席だね! きれい」
 私が喜んで和宏を見ると、優しい目で見つめられた。恥ずかしくなり、慌てて目をそらす。

「今度、日帰りだけどどこか旅行いこうか」
「えっ……旅行?」
「あんまり遠くには行けないけど……そうだな、今高原の方行ったら気持ちいいかもなあ」
「高原かあ……うん、行きたい! 旅行、っていうかドライブね」
「じゃあ、来週の土曜日とか、どう?」
「うん、大丈夫」

 初めて二人で遠くにドライブしたのは、和宏の車だった。4駆のちょっと大きな車で、当時の流行でもあった。助手席に座るのを一瞬ためらったけれど、家族は誰も乗らない、と言う。子供たちも母親にべったりで、といいかけてやめた。
 
 街中のねっとりとした蒸し暑い空気から、高原のさわやかな涼しい空気へと次第に変わっていく様は、途中クーラーを消して窓を開けると全身に感じることができた。木漏れ日のトンネル、ぱあっと目の前にひらける草原、どこまでも続く山の稜線。時折牛が草を食み、遠く入道雲が見える。

 広い草原に降り、芝が気持ちよさそうだったので裸足になって地べたに座る。売店でソフトクリームを買ってきた和宏が横に座り、それを差し出した。

「気持ちいい! 靴脱いでみてよ」
「おー、ほんと、気持ちいいな。子供の頃を思い出すなあ」
 嬉しそうに笑う、彼の笑い皺が大好きだった。



 その日家に送ってもらう時、家の近くの公園の前に車を停めて、次回の練習の打ち合わせをしていた。
「ここから、ここまで。明後日でいいかな、……多分7時位には仕事終わるから、いつものように迎えに来てくれるかな」
「うん、わかった。行くね」
 じゃあ、と降りようとした時
「奏ちゃん」
と腕をつかまれた。とっさに振り向いた時、頬にキスをされた。

「……じゃあ、また明後日」
「え……あ……う、うん」

 車を降りると、彼は手を振り発車させていってしまった。私は、キスされた頬を押さえ呆然としながら家に帰った。どういうつもりなんだろう。いや、普通に考えたら、「そういう」つもりなんだろう。
 素直に、喜んでる自分がいた。

「帰りに頬にキス」は、暗黙の了解のようになりいつしかそれは、唇へのキスへと変わった。最初に唇にされた時はもう既に、驚くというより「ついに」という気持ちだった。いや、「やっと」かもしれない。

「奏ちゃん……こんな、おじさんでもいいのかな」
 コクリと頷くと、今度はディープキスをされた。私は全く経験がないわけでもなかったが、そんなに慣れているわけでもなかった。ぐっ、ぐっと押し入られたかと思うとふっと力を抜いて絡ませてきたり、時折フレンチキスをしてまた舌を入れて……そういう、緩急ついた大人のディープキスに、自分でもわかるほど子宮がうずいてたまらなくなった。初めて、自分から「抱かれたい」と思ったけれど、いきなりそんなことを、小娘が言うのは……はしたない、恥ずかしい。そういう時代だった。

 それからは、練習の度に濃厚なキスをして帰宅する、ということが2か月続いた。どうしても、その次にいくには、私よりも彼の方が勇気のいることだと思う。

 一度、他のメンバーと一緒に練習した時に、別にラブシーンをしているわけでもないのに
「二人とも息が合って来ましたよね、なんかエロい」
と言われたことがある。やっぱり出てしまうのかな、と思うと皆に見透かされているようで恥ずかしかったが、和宏は平然と
「ははっ、そうだろ、羨ましいか」
なんて笑ってる。こっちは赤面しているというのに。

 ラジオドラマコンクールの作品を録音し終えた日、メンバーで打ち上げと称し飲みに行った。皆がそれぞれ作品の仕上げに満足していたので、入賞したら嬉しいけどそれ以上に充実感で、恐ろしくハイ状態になっていた。それぞれが思い思いに互いの作品の評価をする。私と和宏のラブストーリーは、とにかくエロいと評判だった。

「もうさあ、聴いてて赤面しちゃうよね、すごい絡みがあるわけでもないのにさ、会話だけでここまで聴かせるとは」
「ほんとの恋人同士みたいだよねー」
「和宏さんの囁きとか、もう女性が聴いたら絶対、すごいハンサム想像しますよね」
「なんだよ、実物もハンサムだろ、なあ、奏ちゃん」
 そこで皆がえーっ、とブーイングするので、というかどっちにしても返答に困る。和宏は、かっこいいとかハンサム、という感じではない。強いて言えば、かわいい?

「奏ちゃんの声って、少女でもいけるくらい透明感あっていいよね」
「そうそう、今度高校生の役やってもらおうかなー」
「おいおい、うちの奥さんはそう簡単に貸さないよ」
 皆がヒューヒュー、と冷やかす。

「え、でも色々やってみたいです」
と私が言うと
「あーあ、和宏さん振られたー」
「ざまーみろー、奏ちゃんを独占するからだー」
「そーだそーだ」
とヤジが飛ぶ。

 大学の時の同級生や職場の人たちとも違う、同じ趣味で同じ目標をもっている人たちの集まりの中にいるのは、とても楽しかった。

 2次会でお開きになり、3次会に行く人――、と数名が流れていったが、前もって和宏と二人で飲もうと約束していたので、
「お疲れ様でした、失礼します」
と、人ごみに紛れた。しばらくして和宏が追いついて、
「じゃあ、行こうか」
といつものように、少しだけ距離をあけて私の斜め前を歩く。どこに行くのか、と思って着いて行くが、段々飲み屋街から外れていく。完全にひと気のない所に来ると私の手を取って少し引っ張り気味に歩きはじめた。手をつなぐなんて、初めてのことだった。嬉しさよりもハラハラして……。

「ね、どこに行くの? この辺にお店あるの?」
 すると、和宏は立ち止まったけれど前を向いたまま、
「……奏、僕の事、好き?」

 うん……と返事をするとそのまままた手を引いて歩いて行き……ついた先は、ラブホテルだった。

「いいかな」
「……」
 どうしよう……躊躇わないわけがない。でも、もう彼の方からそこまで言うのだから、と言い訳になるのかならないのかよくわからない理由で自分で自分を納得させ、コクリと頷いた。

 戸惑いながらも、私は和宏に抱かれ、あの声を耳元で受け止め子宮を震わせた。今までの葛藤や鬱積したものが一気に解放され、私は正式に、和宏の愛人になった。愛人に正式もなにもないのだけれど。



 今、目の前にいる和宏の息子、と名乗る男性二人は、年齢でいえばあの頃の和宏と大差ないはずだ。確か、出会った頃この子たちは、小学校低学年だった。不本意ながらも会ったこともある。この子たちは覚えていないだろうけれど。
 長男は顔が似ていて、次男は声が似ている。

「あなたたち、私の事をどこで?」
「父に直接聞きました……あの、その関係も」
「それで、どういったご用件ですか」
 おおかた、興味本位で見に来たのだろうと思っていた。

「先日……父が亡くなりました」
「えっ」

「若い頃大腸がんをしていたのはご存知ですか」
 ショックで声が出ない。軽く頷く。
「再発、というわけではないんですが体質だったんだと思います。前立腺癌から再発して、大腸や胃にも転移して……摘出はしましたが全てを取り除くことができずに……1年ほど闘病したんですが、2週間前に亡くなりました」

「それで……ある日呼び出されて、岩本さんへお伝えしたいことがあるから探してほしい、と頼まれました」

 なんだろう、伝えたいことって……
 和宏が亡くなったということが信じられず、想像すらできず、ただ自分の膝の上に重ねて置いた手を他人のもののように見つめていた。

第2章 転機

 私は、しばらくは幸せで幸せで、舞い上がっていた。和宏の家族の事をなるべく考えないようにしていたし、仮に思い出したとしても和宏が心から愛しているのは自分だ、と思い込んで気持ちを鎮めていた。それでもたまに、どうしようもなく虚しさに襲われ枕を濡らすこともあったけれど……

 身体の関係は、さほど頻繁ではなかった。いつも夜しか会えず、食事をし読み合わせをすると、ホテルでゆっくり過ごす、とまではいかない。毎月1回土曜日出勤のフリをして出てくるか、たまに食事の後すぐにホテルに行くか、だった。
 それに、正直言って和宏は淡白、というか……体(精)力のあるほうではなさそうだった。それまで自分と歳相応の男性と付き合ってきたので、一晩で2回、3回は当たり前だと思っていたけれど、和宏は1回が限界だった。何を以てして満足というのかわからないけれど、それでも、好きな人に抱かれるのだからそれで良かった。

 シンフォニアの仲間内でどのように見えていたのかは知らない。私自身あまり人前でベタベタするのはもとから好きではなかったので、常に彼の斜め後ろをついて歩く、というスタンスだった。ただ、行き帰りや食事している所を仲間内に見られてもコソコソしないようになった。

 もちろん良く思っていない人もいるのだろう、「あんなおっさんのどこがいいんだよ」と聞こえよがしに言う人もいたし、既婚女性はやはりあからさまに私に話しかけなくなってきた。それでも、男性やいまいち事情のわかっていない人、独身の女性はそれなりに話してくれるので、まだなんとか会に顔を出せたし、和宏も私も、誰に何を言われても決して付き合っていることを認めなかった。



 和宏と付き合いだして2年目の春のことだった。

 他の市で、私の朗読の師匠が朗読劇をするからおいで、と誘ってくれ、最初に話したときに「中年男性が欲しい」と言うので和宏を紹介し、練習にも一緒に行くようになった。その会はあまり知っている人がおらず、特に隠し立てする必要がないと油断していた。

 和宏がどうしても仕事で行けなかったある日、先生に言われた。
「君は渡邊君とお付き合いしているのか? 誰かが、あの人は家庭のある人だと言っていたんだけどな。どうなの」
「……いえ、お付き合いなんてしていません。仲間として……ただ、気が合うだけです」

 当然だ、認めるわけにもいかない。和宏には次に会った時に報告した。
「当分、ちょっと気を付けないとなあ」

 私はやはり、師匠の手前もあるので「ちょっと」ではなく「かなり」気を付けたい、と伝えると
「……わかった」
と少し不満げな答えだった。仕方ない、私だってこれを趣味以上のものとして続けていきたい。

 しかし、師匠と日頃から話していると、キャリアも違うので比べるのも変な話だが、私よりも和宏の方が評価が高いようだった。男性がこの業界では貴重ということもあった。もし、何か問題を起こす、というかバレでもしたら辞めさせられるのは私の方なのは明確だった。師匠と和宏はたまたま他にも将棋という共通の趣味があったようで、私を介さずとも回を重ねるごとに仲良くなっていくのがわかった。
 それからは、師匠がいる前では個人的に言葉を交わすことはほとんどせず、なるべく近くにも寄らなかった。師匠や、周りの人から何か言われることはそれ以来なくなった。

 もちろん行き帰りは一緒だったが、それは遠くから来ているから、という大義名分があった。そのうち少しでも長くいられるように、練習に行くときは学生の部活並に早く家を出て、練習して夜遅く帰った。
 
 

 その朗読劇本番の前日のことだった。私の都合でその日は別々に行動することになり、和宏は結構早い時間にリハーサルに入った。そこで、事故が起きた。

 和宏がセットの段差に躓きバランスを崩し、1.2mくらいの高さから落ち骨折したのだ。私はその時にいなかったのでわからなかったが、和宏は躓いたときとっさにセットを崩さないようにするため、変なバランスで落ちたようだった。私が夕方会場に着いた時には、もう既に和宏はギブスをしていた。

 そして、その連絡を受け、奥さんとお子さんが駆け付けたのだった。
 
 ばつが悪そうに極力私から離れ、当然家族も紹介しなかった。年上の奥さんとは聞いていたが、私と一回り以上違うその女性は、母親とはいかないまでも、親戚の若い方のおばさんくらいな感じのひとだった。気の強そうな顔立ちだと思ったのは少なからず「そうあって欲しい」という願望もあったのかもしれない。だから、和宏は私に癒しを求めているのだ、と。
 子供たちはなかなかじっと座っていられないようで、なぜか私の横を通る時じっと私の顔を見ていく。何か感じるものがあるのだろうか……

 本当なら今日のリハーサルが終わったら二人でホテルに泊まるつもりだった。でも、そうも言っていられなくなった。その日は独りで泊まり、次の日の朝会場で和宏に会った。誰にも聞かれていないか辺りを見回す。

「おはよう、どう? 脚」
「ああ、うん、まあなんとか」
「あの……ご家族は?」
「本番は来るよ……昨日は、ごめんなあ、ひとりで」
「……仕方ないよ。夜のレセプションはどうするの?」
「いや、子供居るから多分帰らないと……奏は?」
「私は一応残る。先生もいるし、亜弥ちゃんもいるから大丈夫」

 亜弥ちゃんというのは、今回来るようになって初めて知り合った、この市に住んでいる2歳年下の子だ。おそらく私達の事情には気付いていないのだろう、無邪気に話しかけてきてくれ、友達になった。ちょっとアニメ声の子だ。奏さんに憧れますぅ、と目をキラキラさせてくれる。
 亜弥ちゃんも私と和宏の関係を知ったら引くだろうなあ……

 本番の準備で、全員が慌ただしくしている中、怪我をしている和宏は客席の丁度中央あたりに座りその様子を見ながら、セットや照明の位置を聞かれるままに答え、もっと右に、とかそうそう、そこでいいんじゃない、と大きな声で言っていた。
 本番前にあんな大声出していいんだろうか、本番に差し支えないだろうか、と心配ではあった。その時間は奥さんや子供もいないので話しかけることはできたが、やはり師匠の手前もあり結局話すことはなかった。

 女性陣は時間がかかるから早めにメイクや衣装を、と言われ女性用の楽屋に入る。私は恥ずかしいのだが、学生の役でセーラー服だ。髪をポニーテールにまとめ上げ、これ見よがしな赤いリボンを結ぶ。メイクはそんなに濃くなくてもいいのは楽だった。亜弥ちゃんはその友達の役、和宏は先生の役だ。一度、その衣装でHしたい、と言われたけれど。日頃淡白なくせに男って奴は……

 朗読劇なので舞台にランダムに椅子を並べ、そこに座ったまま台本を持たずに進めていく。セリフを言う人にスポットがあたる。

 一度、リハーサルをしたが緊張で少し出遅れたりして、怒られはしないものの師匠から、頼むよ、と丸めた台本でポン、と肩を叩かれた。
 和宏は完璧だった。足の怪我など全く関係ない、鍛えた腹筋は和宏の声を会場中に響き渡らせた。
 すると、リハーサル後半あたりから来て客席に座って見ていた和宏の次男が
「パパー、がんばれー」
と無邪気な声援を送り、和宏は手を挙げて応えメンバーは和やかな笑いに包まれた。奥さんが慌ててその子の口を手でふさぎ、舞台に向かってすみません、というふうに頭を下げていた。

 本番10分前のブザーが鳴る。大勢のお客さんの前で演じるのは大学の時以来だ。嫌でも緊張する……緊張すると声が出なくなるので深呼吸をしたり温かいお茶を飲んだりストレッチしてどうにかして身体をほぐす。
 舞台袖の楽屋に近い方の入口の横にある黒いカーテンの所が一番暗かったので、そこが集中できそうだと思い一人で台詞を繰り返していた時だった。

「奏」
気づかないうちにすぐ傍まで、和宏が来ていた。
「ひゃっ……びっくりした」

「調子、どう? リラックス、リラックス」
「ああ、うん……和……渡邊さんは」
 この会の中では名前で呼ばないことにしていた。和宏は年上だし、私を呼び捨てにしてもそんなに不自然ではないけれど、私が和宏を呼び捨てにするのはさすがによろしくない。

「聴いただろ、さっき。絶好調」
「いいですね。よろしくお願いします」
 自分で言って、ハッとした。棒読み。……やっぱり、私ムカついてるんだ……


「奏は時々視線が落ちてるよ。声も落ちちゃうから、上ね、上。2階席見るくらいで丁度いいよ」
「気をつけます」
 私、暗い。言葉、冷たい。どうしても奥さんの顔がちらつく。

 和宏はキョロキョロ周りを見て、誰も近くにいないことを確認すると小さい声で言った。
「足治ったらお詫びは必ず。何でもわがまま聞くから」

 私がムッとしているのがわかったんだろうか……私の背中をポン、と叩いて離れていった。

 やっぱり、客席を見ると足がすくむ。朗読劇は何度か経験あるけれど、こんなにお客さんが多いのは初めてだった。
 舞台袖でスタンバイし、前のプログラムの、地元の小学生の合唱も上の空だ。所在なさげに手をこすったりぎゅっと握ったりしていると、背中をポンポン、と叩かれ和宏がふっと横に並んだ。不安そうな私の顔を見てにっこり笑ってみせた。
 
「どうした? さっきから暗いぞ。そんなに緊張してるの?」

 和宏のせいじゃん……なんで骨折なんてするの、バカ。
「大丈夫です。気にしないで」
 相変わらず棒読みだ。

「さあほら、もう終わるよ……よし、行こう」
 小学生たちが上手(かみて)に向って出て行くと、ステージは暗転になりスタッフがピアノを下手(しもて)に下げ、私達が使う椅子を並べる。合唱のひな壇はそのまま使うのだ。

 和宏は肘から下の杖をなるべく音を立てないようにつきながら、ゆっくり上手側の椅子にスタンバイした。私は客席をなるべく見ないようにしながら、下手に近い、ひな壇に1段上げた椅子に座る。

「プログラム3番 朗読劇『氷点の教室』を『劇団チューニング』がお送りします」
 アナウンスが入ると、真っ暗な中主人公にピンスポットがあたり、この劇は始まった――。


 私は小刻みに震える手をみつめ、止まれ、止まれと念じ静かに深呼吸を繰り返す。

 先生役の、和宏の声がマイクなくてもいいんじゃない、というくらい朗々とホールに響いた。ああ……やっぱり、好き。どうしてこんなに、こんなおじさんの声に私はかき乱されてしまうのだろう――一瞬ボーっとなったのに気付き、自分で勝手に慌てて台詞の出だしが……自分と師匠にしかわからないくらい本当にコンマ2秒くらい遅れてしまったけれど、なんとか最初のヤマは越えた。

 友達と一緒に、先生(和宏)に話しかけるシーンは、一番緊張した。客席で奥さんが聞いている、聞いている、聞いている……
 どう? 貴女は和宏に、こんな若くてハリのある声で話しかけられる? 出来ないでしょう? ――実際の、純粋な女子高生の声とは裏腹に、自分の中ではこんな醜い「女」の声が渦を巻いている。
 学生の役なのに、一瞬妖艶な目で和宏を見てしまった事に自分で気付いてハッと目をそらす。

 ……誰も、気付かないよね? 冷や汗が出てきた。

 暗転になった時、自分が死んだような表情をしてるのもわかっていたが、こんなに消耗してしまうのはひとえに奥さんが聞いているからに他ならない。彼女さえいなければ、もっとうまくやれていたはずなのに。
 奥さんの顔を見てしまったがために――あの二人が夫婦であることを見せ付けられてしまったがために、自分が「不倫」という反社会的な行動をしているという罪悪感を深く深く、この胸にナイフで切り刻まれた気がした。

 朗読劇なので、椅子に座ったまま(時折立つこともあるけれど場所は動かない)なのは幸いだった。もし普通の演劇のように、話しかける時にそばに行ったりするような絡みがあれば、もっとひどかったかもしれない。


 45分の演目が終わった時には、ぐったりだった。 もう嫌。和宏と朗読劇なんてもう絶対出ない。

第3章 予感

「奏さん、今日こっち泊まるんですか?」
 亜弥ちゃんがレセプション会場に向いながら聞いてきた。すぐ前で、和宏が聞いている。和宏は宿泊せず家族と帰宅するのだが、一度顔を出して乾杯までは、ということだった。

「ああ、うん……レセプションでお酒飲みたいし。亜弥ちゃん、お酒強い?」
「えー、私元々あんまり飲めないし、今日車で来ちゃって」
「弱いんだ? いいなあ、かわいい」
「奏さん、強そう!」
「そんなことないよお、普通!」
 ついこの前まで女子大生だった亜弥ちゃんは、うそお、強いでしょ、ときゃらきゃら笑っていた。若いよなあ……

 突然、和宏が振り返った。
「奏ちゃんが飲みすぎないように見張っててね、亜弥ちゃん」
 あまりにも唐突で、しかも私達の事を何も知らない亜弥ちゃんは
「えっ、あっ、ああ、はい……」
とキョトンとしている。
「大丈夫ですよ。渡邊さんもご家族とお気をつけてお帰り下さいね」
 ははっ、なんて刺々しい、私。目も合わせず言ってやった。だから、和宏がどんな顔をしたかは知らない。
「あ、ああ……」

 レセプション会場に入って、和宏は師匠やこの会の役員さん、役者さん達に一通り挨拶をし乾杯が終わると帰っていった。チラチラと私の方を見ていたのを知っているけれど、わざと気付かないふりをした。
 私は乾杯にスパークリングワインを飲んでからあとは妙にハイテンションで、亜弥ちゃんと一緒に色んな人と話をした。今まで練習の時は、早く和宏と二人きりになりたくてさっさと帰っていたので、初めて話す人もたくさんいた。

 その中に、亜弥ちゃんの親戚のおじさんの従弟だと紹介された 杜脇 智哉(もりわき ともや)がいた。彼は私の4歳上の28歳で、ここの市の職員をしているという。今回は、このイベントの主催を市がしていて、その担当者のうちの一人だった。
 すらりと背が高く、顔の作りはそんなに派手ではないけれど優しそうだった。話す口調も優しい。
「ああ、亜弥ちゃんのお友達役の方ですね! いやあ、よく通るきれいな声でしたね」
「あっ、ありがとうございます」
 面と向かって褒められるのは嬉しいけどちょっと恥ずかしくもある。どう反応していいかわからない。

「でしょ? 奏さんの声ってすごく綺麗で憧れてるの。話す声もなんていうか……女の私でもホワッってなっちゃう、ホワッて」
「えー、亜弥ちゃんの声もかわいいじゃない。羨ましい」
「やだあ、嬉しい!」
「こいつね、ちっちゃい頃からキャンキャンうるさい声で。こういうことで活かせるとは思わなかったなあ」
「智兄ぃ、余計なこと言わないでよ、もう」

「杜脇さんもいかがですか。低くてソフトな声ですよね、女性ファン絶対つきますよ」
「ははっ、無理無理! 演技とか全然だめですから。アガリ症ですし」
 話している間に、亜弥ちゃんがフッと離れていった。飲み物でも取りに行ったのかな……

「えっと……か、奏さん、って苗字は……」
「えっ、苗字? 織部ですけど……ああ、名前のままでもいいですよ」
 普段もなぜか名前で呼ばれることが多いので、抵抗がない。彼になら、名前で呼ばれても嫌な気はしないし。
「えっ、……じゃあ、奏さん、奏さんはお仕事は何を?」

 そんな話をしていたが、亜弥ちゃんは一向に戻ってこず他の人達と話をしていたかと思うといつの間にか会場から姿を消していた。
「あの、杜脇さん。亜弥ちゃん、さっきから見かけないんですけど……」
「帰っちゃったかな? ちょっと見てきます」
 あ、いいのに……と声をかける間もなく杜脇さんは行ってしまった。

 ずっと人に囲まれていた師匠の周りが少し空いてきたので、挨拶へ向った。
「先生、この度はありがとうございました。勉強になりました」
「ああ、織部くん。よかったよ、なかなか。また来年声かけるよ」
「ありがとうございます! よろしくお願いします」
「あー、あの、渡邊君は?」
「ご家族とお帰りになりましたよ」
「怪我させちゃって申し訳なかったなあ。君、会う機会ある?」
「あ、はい……多分」
「よろしくお伝えしてて。またお願いするかもしれないから。男性は貴重だからねえ」
「わかりました」
「あ、君、2次会行く? こっちに泊まるんだったろう、ちょっと華添えてくれよ。若い子皆帰るみたいだから」
 華添えるって……ホステス代わりってこと? ちょっとムッとしたけど師匠だしな……

「大丈夫ですよ、行きます」
「じゃあ、もうそろそろお開きだから。ちょっとこの辺にいてくれ」
「はい」

 それから師匠やそれぞれの参加団体の代表、市長が〆の挨拶をし、その場はお開きになった。
「2次会行く人、こっちです」
 その声についていくと、ホールの出口に杜脇さんが立っていた。居酒屋の送迎バスを指し、案内をしていた。

「2次会行かれる方はお乗り下さい……あ、奏さん、亜弥ちゃんね、やっぱりもう帰ってました。車、なかったです」
「ああ、そうなんですか。わざわざすみません」
「あいつ、一言くらい言って帰りゃいいのにね、すみません。2次会、行きますか?」
「はい」
「よかった、じゃあゆっくり話せますね」

 にっこり笑った杜脇さんが、ちょっと素敵に見えてしまってハッとした。何考えてんの、和宏に悪いじゃない……悪い? 悪いのかな? 別に、悪くなくない……?

 2次会は30人ほどで、居酒屋の畳の部屋ワンフロア貸切だったので席にも余裕があり、皆最初こそ普通に並んですわって飲んでいたけれど、立ち歩き始めると段々席は関係なくなってきた。私は最初師匠の横に座らせられ、お偉方のおじさんたちにお酌をさせられていて正直うんざりしていたのだが、1時間ほどして師匠が帰ってからすぐに、グラスを持って杜脇さんの横に座った。

「お疲れ様でーす」
「ああ、奏さん。お疲れ様、なんかお酌とかして大変そうだったけど」
「はい、でもお世話になってる師匠ですから」
「ははっ、大変だね。飲んでる?」
「結構……ちょっと、足にキテるかも」
「今日どこ泊まるんでしたっけ。駅前?」
「はい」
「送りましょうか」
「いえっ、大丈夫です」
「ここからタクシー乗るほどでもないし……歩いて15分くらいですよ」
「ああ、そうなんですか……この辺のこと、よくわからなくて。大丈夫です、一人で歩いて……」
「酔っ払い多いから、危ないです。送ります」
「……あ、はい、じゃあお願いします……」
 きっぱり送ります、と言われてあまりに頑なに固辞するのも逆に失礼かと思った。まるで、何か疑ってるみたいだ。

 2次会が終わり、大体はそこで解散したようだった。
 駅のほうへ向って、と言っても、昨日も泊まったのによくわかっていなかったので正直助かった。二人の影が、水銀灯の光で道に青く影を落とす。

「奏さんは……恋人とか、いるんですか」
 ああ、この世で一番苦手な質問。

「杜脇さんは?」
 いつもこうして聞き返して、流れればいいなあと思う。

「俺はいないですよ、全然もてませんから」
「そうですか? 優しいのに」
「流行の顔じゃないでしょ。それに公務員はね、今時モテませんよ。こんな景気のいい時に」
「それはあくまでも杜脇さんのお仕事なんであって……杜脇さんご自身は、素敵だと思いますよ」
「……や、嬉しいです、そういう風に言っていただいて」

 大通りより1本入った小路を行く。猫が時々、家と家の間から出てくるだけであとは誰もいない。ビジネスホテルの屋上の看板が見えた。ああ、そうか。この道突き当たったら右に行けばいいんだ。丁度信号で立ち止まった。

「あ、あの、もうホテルわかりますからここでいいです」
「えっ……いや、入るまで見届けないと」
「大丈夫ですよ」
「あの……」
 そう言いながら、彼は胸ポケットを探り、名刺を取り出した。そして、何かを書き込んでいた。

「よ、よかったら連絡下さい」
 名刺の表は仕事用だったが、裏に自宅らしき電話番号が書いてあった。
「一人暮らしなんで、夜ならいつでも大丈夫ですから」

「え……あ、はい……あ、じゃあ私も、と言いたいところなんですけど今日は持ってなくて……」
「じゃあ、必ず連絡下さい! 食事にでも行きましょう」
「……はい」

 ここまでストレートに誘われたことがなかったので、ちょっとびっくりしたけれど悪い気はしなかった。和宏と付き合ってからこっち、独身男性からのアプローチはあまりなかった。よく考えれば私はまだ24歳だった……。
 和宏といると自分が女性として一番いい時期だということを忘れてしまっていたかもしれない。

 彼は、私がホテルの方向へ曲がるまで見送ってくれた。そんなことならやっぱりついてきてもらえば良かったのかもしれないが、角を曲がる時振り返ると、両手を大きく振ってくれた姿もまた、なんだか可愛く思えた。

 杜脇さん……

 ね、私、普通の幸せ追いかけても誰にも咎められないよね……? ちょっと、食事とかしてみても、いいんだよね? いつまでも先の見えない、先の話もしてくれない和宏といたって、女としての幸せは掴めないんじゃないかな……

 2年以上付き合っても「未来」の話はしてくれない人の事を、思い続けていてもいいのかな……



 ツインベッドのホテルの部屋は、なんだか寒々しかった。昨日の夜から使われていないひとつのベッドが、私の虚しさを増幅させていく。
 確かめるのが恐かっただけなのだが、私はやっぱり和宏にとってはただの「浮気相手」「遊び」なんだろうか。本気で愛し合ってると思っていたのは……私だけ?

 その日、私はシャワーを浴びたあと一糸纏わず、使われていないほうのベッドに潜り込んだ。今日、本当ならここで思う存分、和宏に抱かれるはずだった……
 私は、自分でも気持ちいいと思うふわふわだけれど張りのある乳房をゆっくりとまさぐり、すでに全裸でいる事で興奮しそそり立っていた乳首を指で弾いた。自分でしているのにビクン、とのけぞる。
 もう夜中の2時だ、安普請のビジネスホテルだけれどそんなに声を抑える必要もないだろう。少し酔いが残っているのも、自分の身体をこうして弄ぶのにはタガが外れて丁度良かった。

 いつのまにか、私は和宏ではなく杜脇さんを思い浮かべていた。

 彼なら、どんなセックスをするだろう、優しいのかな。どんな身体をしているのかな、細そうに見えたけど手は大きかった……意外とたくましいかもしれない。
 目をつぶると、杜脇さんがせつなそうにキスをしてくれるような表情が思い浮かんだ。自然に唇が開く。杜脇さん……初めて会ったけど、彼とはきっとまた会う。そう確信した。

 内腿にそっと手を這わせる。ぞわっと鳥肌が立って、膣がビクッとなったかと思うと、キュウッと締め上げる。
そのまま割れ目にそって指を這わせれば、もういいだけ濡れていた。ぐちゅっ、ぐちゅっと淫靡な音が暗闇に響く。ふうっ……自然に腰が浮く。指が、一番敏感な花芯を捉えると激しく身体が反り返り、ふうんっ、と声が漏れる。

 そこからはもう夢中で、杜脇さんが私にしている姿を想像し指を卑猥に動かした。まるで激しく突かれているかのように、あっ、あっ、んんっ、と声が出る。この声が好きだ、と和宏も、今まで付き合った彼氏も全員が言った。早く杜脇さんに聞いてもらいたい――! 

 絶頂に達し、身体が硬直する。少しして緩む、このときの開放感も好きだ。膣からさらにとろっと粘液が溢れ出たのがわかった。

 ふう……上がった息を、ゆっくり深呼吸して整える。

 和宏が寝るはずだったベッドで、他の男を思い浮かべながらする自慰に背徳感など必要あるだろうか、とは思ったがやはり、初対面の男性を思い浮かべるには自分がいかにも欲求不満なようで軽い嫌悪感もあった。それでも……いいじゃない、実際連れ込んでセックスしたわけじゃないんだし……

 そのまま、しばらくウトウトした。7時頃目が覚め、もう一度シャワーを熱くして浴び、身支度を整え一度ロビーに降り宿泊とセットになっている朝食を摂った。トーストとサラダ、スクランブルエッグとベーコン、スープとコーヒー。充分だった。

 チェックアウトは9時なので、その前に部屋でゆっくり杜脇さんと電話したかった。
 7回くらいコールしても出ないので諦めかけたその時、もしもし、と杜脇さんの声がした。

「もしもし、あの、奏です。昨日は送って頂いてありがとうございました」
「あっ、奏さん?! お、おはようございます。ゆっくり、眠れましたか」
「あ、はい」
「今まだこっちに?」
「はい、でもそろそろ帰ります」
「もう朝ごはん、食べました?」
「はい」
「……そっか、あの、良かったらちょっとお茶しませんか」

 どうしよう。会いたい、とは思う。でもここで会ったら、軽い女だと思われないだろうか。
「いえ、すみません。今日は用事があるので帰ります。また、連絡しますね」
「あ、そうですか……残念。じゃあ、絶対ですよ。俺、待ってますから」

「わかりました、じゃあ、また」

 ほんの少しだけ余韻を残してあっさりと切ろう。

「はい。じゃあ……また」

 彼は、また、に少しだけ力を入れて言った。

第4章 別れ


 和宏の骨折は、そんなに複雑なものではなかったが、仕事が休めなかったことで無理をしたらしく当初の診断より1週間ほど長引いていた。次のラジオドラマは10人くらいで取り掛かるので、二人きりで練習するという事もなく、せいぜい終わってから二人で軽く食事をする程度だった。
 
 杜脇さんには、あれから3週間経っていたがまだ連絡を取っていない。1週間ほどして亜弥ちゃんから電話がかかり
「智兄ぃが奏さんの事色々聞いてくるんだけど、話しちゃっていいんですか?」
とわざわざ確認してくれた。あの会の中では亜弥ちゃんが一番親しいかもしれないが、彼女にもそんなたいした話はしていないから、いいよ、とは言っておいたけれど。実家暮らしだと付け加えた上で、電話も教えていい、と言った。
 気にはなるが、いくら不倫とはいえ和宏と付き合っている以上、別れもせずにはい、次、というわけにもいかなかった。

 やはり和宏と会えば、好きなのだ。自分でも、なんだかなあ、と思う。一度、もし和宏が声が出なくなったら、それでも好きと言えるか考えてみたけれど……それはわからなかった。想像もつかない。

「ねえ、あのさ……」
「ん?」
「……いや、なんでもない」

 奥さんと私とどっちが好き、と聞いてみたくなるけれど、傷つくもの恐いし面倒な女だと思われるのも嫌で、聞けないままだった。それに私が聞けば、たとえ本心はどうであれ、奏が好きだよ、と言うに決まっている。

 ある金曜日、練習が少し早く終わった。けれどもホテルに行くほども時間はない。少しドライブしようか、と自動販売機でコーヒーとお茶を買って山道を行く。もう少ししたら、展望台があるはずだ。確か、和宏はこの辺りによく山菜を採りに来ると言っていた。
 
「あ、そこの右側、細い道、わかる?」
 和宏が指差した先に、舗装されていない細い道があった。
「えっ、ここに入るの?」
 戸惑いながらゆっくりと入っていく。20Mほどいった所に、車が5台くらい置けそうなスペースがあった。
「そこ、停めて」

 サイドブレーキを引く。エンジンを切ってもそう寒くも暑くもない、丁度いい季節だ。

「奏」
 私がサイドブレーキから離したその手を取り、身を乗り出して左手で私の頭を抱え込むようにキスをした。
「寂しかったよ」

 嘘。あなたは家に帰れば、奥さんもかわいい子供もいるじゃない。

 悔しい。どうして、私はこんな人好きになっちゃったんだろう。私はこうして、和宏の都合のいい時に好きにされるだけの存在なのかもしれない……好きだとかなんとか言っておきながら、自分で言うのも難だけど「若い愛人」がいるということで満足してるだけなんじゃないんだろうか。
 私じゃなくてもいいんじゃないの? 本当はこんなこと、初めてじゃないんじゃないの? 本当は家に帰れば、奥さんと仲良くしてるんでしょう? ぐるぐると、暗い心が渦を巻く。
 今まで2年間、特に気にしなかった奥さんのことが、その顔を知った途端気になって仕方がない。

 街頭も何もない、月すらも出ていない、ライトを消してしまえば真っ暗闇の中で、和宏は私の服をたくし上げブラジャーを押し下げると、あらわになった白い乳房をその感触を楽しむようにまさぐる。段々目が慣れ、眼鏡を外した和宏が顔を斜めにして乳首を舌で弄ぶのが見えるようになってきた。

 ふいに、杜脇さんの顔が頭をよぎる。……彼は独身で何の支障もない。あれから、私の中で彼は「普通の幸せ」の象徴になっていた。

 和宏の肩を、やんわり押しのけた。
「ちょっと……このままここでするつもりなの」
「たまにはいいだろ」
「やだ、こんなところで……今日泊まれないならもう帰る」
「泊まる、って、そりゃあ明日は休みだけどそんなこと突然言われても」
「いいじゃない。何でもわがまま聞くって言ったじゃない。できないならもう、帰る」

 服を直し、キーに手をかけた。
「……わかったよ、じゃあちょっと下に降りたら公衆電話探して」

 私は無言で、さっき来た暗い山道を下っていった。市道に出てまた街の方へ向う途中、既に閉まっている小さな商店の軒先に公衆電話があった。
 和宏は、ばつの悪そうな顔をして電話を切った。
「飲みに行くことになって立場上なかなか帰れない、ってことにしてるから。奏は家に連絡しなくていいの」
「……一応、する」
 私は母に、友達と飲みに行くけど遅くなるから先に寝ててね、と言って切った。早朝に帰ればいい。

 私達は、ホテルを1箇所に定めなかった。毎回違う所へ行く。今日は、泊まるのだったら、と海岸沿いの少し綺麗な新しいホテルに入った。
 
 もう、こんな試すようなことをし始めたら終わりだ。わかっていた、和宏との未来なんてない。

 和宏の足は、今はもうギブスは外れているがコルセットのような固定具をしていた。入浴の時は取ってもいいらしい。腹をくくったのか、時間もあるから、とゆったり湯船に浸かっていた。のんきに鼻歌なんて歌いながら。

 今日を最後にしよう。
 
 そう思った時に限って、和宏はいつにも増して丁寧に愛撫する。時折足をかばいながらも、私の反応を見ては私がして欲しいことをしてくれる姿を見ると、別れよう、とは言い出せなかった。
 ここがいいの? 気持ちいい? 奏、綺麗だよ……
 この声で、吐息混じりに耳元でささやかれて抵抗などできるはずがない。私の出す声も、いつもの声より無意識に高くなる。
 いいよ、その声……もっと聞かせて……
 さっきからどれくらい、和宏の舌は私の一番敏感な花芯をなめ続けているのだろうか。とても長く感じる……何度絶頂に達しても、やめようとしない。次第に足がガクガクと震えだし、頭が真っ白になってきた。
「お願い、もうやめて……早く、やあっ」

 それでもその言葉をわざと無視するかのように激しく舌を動かしながら、指で膣の中を刺激する。もう、何も考えられない。大きく、身体がのけぞって痙攣する。
 和宏はおもむろに起き上がり、口の周りを腕で拭うとうっすらと笑みを浮かべ、欲しいの、と聞く。私は肩ではぁはぁと息をしながら、頷く。のしかかり耳元に口を近付けささやく。
 「欲しいって言ってごらん」

 頭の中で「今日で終わりにする」なんて言っておきながら何をしてるんだ、と思いながら、口が勝手に欲しい、と動く。
 和宏は枕元に置いてあったコンドームを手に取りはめると、少しじらしてまた私の様子を楽しむ。身体が勝手に動くのをもう私の意志では止められない。膣がうずいてたまらず、もぞもぞと足が動く。

 私に和宏があてがっていたそれを、一気に押し進め貫く。ぬるっと膣壁をこすったかと思うと待ち構えていた子宮が、私の脳まで一気に閃光を送ってきた。何、この感触……今まで経験したことのない、激しい快感だった。
 それまでの和宏の、あの淡白なセックスは何だったんだろうか、別人なんじゃないだろうか、と思うほどに激しく情熱的だった。「宿泊」という背徳に興奮しているだけなんだろうか。それとも、私が別れようとしていることを敏感に感じとって……いるわけがない、この人が。だとしたら、こんなに嬉々としているわけがない。

「ごめん、ちょっと足痛いからさ……上に乗ってよ」
 体制を変え、私は和宏にまたがるものの、慣れないのでぎこちない。どうしたらいいのかいまだによくわからなかった。自分で気持ちいいようにしてごらん、と言われてもただ上下に動かすだけだったが、和宏がおもむろに親指を私の割れ目にあてがい、ほら、ここが自分で気持ちよくなるように動かして、と言われ夢中でこすりつけているうち、子宮にもグリグリと和宏があたり身体がのけぞったかと思うと、そのまま絶頂に達した。騎乗位でイクのは初めてだった。

 ばったりとそのまま倒れ込むと丁度乳房が和宏が顔をうずめるようになり、おいしそうに乳首に吸い付かれ快感の余韻でビクン、と身体がしなる。

 和宏は私をうつ伏せにし膝を立たせ腰だけを持ち上げ、背中はぐっとベッドに押さえ付けた。普通のバックよりも低くいささか屈辱気味な体位だが、奥まで深く挿しいれられ勢いよく上下左右に子宮口を刺激される。横から手を差し入れられ花芯をこすり上げられると、あっけなくまた絶頂に達した。
 また正常位に戻り濃厚なキスをすると、和宏は私の膝の裏に腕を差し入れ高く持ち上げ遠慮なく勢いをつけ激しく突く。
「奏……かなで、愛してるよ、奏……」
 その表情は、鬼気迫るものがあり、まるで何かが乗り移っているかのようだった。おかしい、今日の和宏はおかしい……

 やがて、激しい呼吸が一瞬止まったかと思うと、イクよ、と言い動きが止まった。ビクン、ビクン、と何度か私の中で痙攣し、少しずつしぼんでいくのがわかった。それを抜き出すと一気に脱力し、また荒い呼吸でバタッとベッドに倒れ込んだ。

 私もなかなか呼吸が整わなかったが、和宏はもう歳かな、と半笑いでいつまでもハアハアと胸で息をしていた。私は落ち着いてきたので冷蔵庫からミネラルウォーターを取ってきて差し出すと、上半身だけ起こして一気に半分くらい飲みあげ、また私に手渡すと仰向けになった。

「ははっ、だめだな、おじさんは。若い奴ならまだまだいけるんだろう、なあ」
「さあ、忘れたわ」
「よく言うな、奏だって俺だけじゃないだろう、まさか」
「えっ」
 耳を疑った。私に他にも恋人がいると思ってるということ?

「そんなのいない。何言ってるの、ひどい」
「隠さなくってもいいんだよ、別に」
 今日、彼がなんとなくいつもと違う気がしたのはそのせいだったのか。

「奏みたいな子をその辺の男が放っておくわけないんだし……いくらでも言い寄ってくるだろう?」
「ちょっと、やめてよ。何なの……私と別れたいの? 奥さんに何か言われたの?」
「何も言われてないよ、別れたいわけないだろ。ただ……俺だけじゃないだろ、って聞きたかっただけだよ」
「私の気持ちも知らないで……この2年間、他の誰とも付き合ったりなんかしてないのに」
 いつの間にか涙声になっていた。

「……ごめん。ほら、だってさ……俺なんかおじさんだしカッコいいわけでもないし、チビだし……わかってるよ、セックスだってそんな満足させてあげられてないだろ」
「……そんなこと、どうでもいい」
「自信ないんだよ。考えれば考えるほど、なんで奏が俺と一緒にいるのか、って……」

 私は、ずっと思っていたことをぶつけた。



「ねえ……私、このまま待ってていいの」



 和宏は一瞬、驚いた目で私を見た。恐らく、私がこんな事を考えているなど今まで思ってもいなかったのだろう。
「……」
「奥さんと、別れる気なんてないんでしょう」
「や、ちょっと……今までそんな話……」
「私が本当に和宏の事好きだとわかってくれてると思ってたから、今まで言わなかったけど」
「……」

「そうよね、遊びだもの、私は。和宏はただ若い愛人がいる、ってだけでよかったんでしょう」
「違うよ、誤解だ。俺は奏のこと、本当に」
「もういい、帰る」

 私はシャワーを熱くして浴び、さっさと帰り支度をした。和宏は最初呆然としていたが、私と入れ違いにシャワーを浴び着替え、まだ0時を回っていなかったが宿泊料金を支払った。

 無言で車に乗り込む。和宏も何も言わない。

 いつも和宏を降ろす道に入ったところで
「じゃあ……また、練習で。今日の話、今度ちゃんとしよう」
と言われたが、私は返事が出来なかった。



 次の日、私はシンフォニアの代表の池端さんに、しばらく休会する、と連絡した。役ももらっていたのに突然申し訳ありません、と言うとしばらく間をおいて言われた。
「何があったか聞かないけどさ……ほとぼりさめたら戻ってきてよ」

 彼は、和宏とは高校の同級生で、放送部の仲間であり、二人でこの会を立ち上げた人だ。何か、知っているのか気付いていたのか……改めて、すみません、とだけ言い電話を切った。

 とにかく、休会とは言ったけれど戻る気はなかった。もう、戻れるわけがなかった。
 この業界は、複数団体を掛け持ちしている人も多い。突然辞めれば、皆理由を憶測で広げていくだろうし、多分それは的外れではない内容だろう。そうなると、もう……私は、恐らくどこの団体でも歓迎されることはないだろう。

 自業自得だ。――私は、自分の「声」を捨てた。

第5章 結婚

 まさかこんな急に展開するとは思っていなかったのだが、その頃、和宏との連絡手段も考えて一般に普及し始めた「ポケットベル」を持ったばかりだった。今の若い人は知らないかもしれない。カード型の端末にそれぞれ電話番号があり、それに電話してプッシュホンで押した番号が、その端末の液晶画面に表示される仕組みだ。受信した方は、それが電話番号なら折り返し公衆電話などから電話をする。暗号もあって、おはようだのおやすみだの数字の組み合わせで短いメッセージが送れた。
 携帯電話が普及する前は、そういう地道な作業も相手が恋人ならばなんら面倒なことでもなかった。

 番号は、家族と和宏と、親しい友達数名しか教えていなかった。杜脇さんには、まだ早い気がしていた。
 和宏が残業などで周りにあまり人が居ない時に内線電話の番号を送ってくる。それを見て、私が電話をかける。購入してから、数えるほどしか使っていない時に、突然別れはやってきた。

 あれから数日間は、夜になると和宏から内線の番号が何度も送られてきた。以前ならそれを見て、いそいそと和宏の会社の代表番号へ電話し、内線番号を言って継いでもらう。それからしばらくは和宏の甘い声に酔いしれながら、とりとめのない話をしていた。
 当然、無視をし続けた。ただ、このまま終わるのもけじめがない。いつかはちゃんと話さないと……

 ある土曜日、両親はでかけ家に一人で居る時電話が鳴った。
「もしもし、織部です」
「もしもし、あっ、あのわたくし杜脇と申しますが、奏さんはいらっしゃいますでしょうか」

 えっ。心臓がトクン、と波打つ。

「あ、私です」
「あー、よかった、いらっしゃった。すみません、亜弥に聞いて厚かましく電話してしまいました。」
「こちらこそ……私のほうから電話しますって言ったのにすみません」
「いえ、全然。あのー……奏さん、明日何かご予定ありますか」
「いえ、ないですけど……」
「明日、仕事の関係でそっち行くんですけど、午後からお会いできませんか。お昼ごはんでも」

 彼が一生懸命話してくれているのが伝わる。言葉遣いも誠実で、ホッとする。

「あ、はい……大丈夫です」
「い、あ、えっ、いいんですか! よかったあ……えっと……どうしましょう」
「何時にお仕事終わるんですか」
「多分、12時には」
「じゃあ、12時半に駅の南口の噴水……わかります?」
「多分わかります。じゃあ、そこで。仕事からなんで、スーツですみませんけど」
「あ、いえ、お気になさらないで下さい。じゃあ、明日……」

 そうして、私と杜脇さんは、初めて二人で食事をした。やはり思っていた通り誠実で純朴、しかも話題も豊富な人だった。和宏ときちんと話は出来ていないものの、もう別れた気になっていたのでまた次に会う約束をし、ポケベルの番号も教えた。

 1ヶ月も経っていなかったが既に3度目だったデートで、正式に付き合ってください、と言われOKした。それからは週末の度、車で1時間半かけて来てくれたり、私が途中の駅まで電車で行ったりするようになった。

 何も気兼ねしなくていい「普通の人」との恋愛は楽しかった。彼も私だけを見てくれ、時間も気にしなくてよく、車から降りる時そこまで細心の注意を払わずとも良い。イヤリングやハンカチを落としていたってまた次に会った時に普通に「落としてたよ」と戻ってくる。髪の毛の1本や2本、落ちていたって誰の目を気にすることもない。
 食事の時も一緒に歩く時も、堂々と手をつないだり腕を組んでいい。肩や腰に手を回されたって、人の目も身長も、何も気にしなくていいのだ。私はエナメルのハイヒールを2足買った。――和宏と並ぶときは絶対に履けなかった高さのヒールだ。

 智哉自身が誠実で優しい人だということもあるが、とにかく私が普通の恋愛にのめり込むまでにそう時間はかからなかった。あの、いつもコソコソと人の目を気にして手さえつなげない、そんな暗い恋愛をしていた自分が嘘のようだった。
 いつも私を笑わそうとしてくれ、私が面白かったと言った映画や本は、次に会うまでにちゃんとレンタルして観たり読んできてくれ、その話で盛り上がる。私も、智哉の好きなクッキーを作って会う時に持っていったり、智哉が学生時代からやっているという弓道の大会を観にいったりするようになった。
 弓道の袴姿、所作、そして構えまっすぐ的を見つめる姿はあまりにも美しく、私を夢中にさせた。
 
 智哉は事を急がなかった。むしろじれったいくらいだったが、軽いキスをするまでにも3ヶ月かかり、その先毎週のように会っているにも関わらず初めて身体を重ねるまでに半年以上も時間をかけた。和宏とも知り合ってからはそれ以上かかったが、そもそも付き合い始めが曖昧で「愛人」である以上身体の関係は必須といっても過言ではなかったので、こういうほのぼのとした「普通の恋愛が踏んでいく段階」が新鮮に思えた。
 身体の相性はいいのか悪いのかはわからなかった。客観的に見れば「普通」としか言いようがないが、愛されている事は伝わってきた。私も、それに応えようと精一杯のことをした。それはそれで、幸せだった。


 和宏の事を考える時間は、次第に減っていった。3ヶ月経った頃から、和宏からのポケベルもぱったり鳴らなくなった。また、街中でシンフォニアのメンバーとばったり会うこともあったが、誰も私に声をかけなくなった。きっと、良からぬ……いや、本当の事が知れ渡ってしまったのだろう。
 ずっと、朗読のように声に関わる事は続けていきたいと思っていた。自分の声が、好きだった。自惚れかもしれないけれど、特に頭がいいわけでもなくパッとしない私の、唯一自慢できるものだった。


 
 私の2つ年上の姉は頭が良く、容姿もそこそこ綺麗で子供の頃からチヤホヤされていた。特に高校になると家族の中では姉の勉強が最優先で、姉が勉強している時の家の手伝いなどはすべて私に回ってきた。テスト前だろうが宿題が残っていようが、容赦なく母に呼びつけられた。

 次第に姉は、勉強していなくても自室にこもっていれば家の事は何もしなくて良くなった。しかも、私を使うまでになった。怒り出すと手がつけられず暴力を振るうので、私も逆らえず結局姉の言いなりだった。
 父は仕事も忙しい上に無関心、姉も父の前ではいい子のフリをする。母は姉のいう事が絶対で、まるで下僕のようになっていてもう家の中で姉に注意できるものはいなかった。私がそういう状況を訴えても、父親らしく姉を叱ってくれない父も嫌いになった。

 親戚が集まると話題はいつも姉の成績が中心だった。例え私が、放送部の大会で一番いい賞をもらい全国大会に出場しようが、高校野球の県大会の鶯嬢に代表で選ばれようが、話題は姉が全国模試で何番だったとか英検準1級合格した、とかそういう話で持ちきりだった。姉を自慢の娘だと言ってはばからず、私の事は一度もそんな話になったことがない。
 
 母は、自分がそこそこ頭が良かったのに時代のせいで大学に行けず、自分より頭の悪かった友達がただ金持ちだったというだけでお嬢様大学へ行ったことが心底気に食わなかったようで、その鬱憤を全て姉に被せていた。
 成績はそこそこ、見た目もそこそこ、高い身長を生かすスポーツも苦手でできず、ちょっと声がいいだけの私には何の興味もないようだった。

 姉が、親の期待通り県外の国立大学法学部へ進学し家を出た時は、母が姉についていって3ヶ月ほったらかされたものの、心底ホッとした。その3ヶ月間、父の食事の世話や自分の弁当掃除洗濯など全てひとりでやったが、それよりも姉がこの家を出て行ってくれたことが嬉しくて仕方なく、自然と父にも愛想がよくなり、あんなに嫌いだった父とその3ヶ月間は結構楽しく暮らせた。

 もう、母など帰ってこなくていいのに、と思ったがそういうわけにもいかず、帰ってきてからはまた、いつも姉を心配する母の話に付き合わされてうんざりした。
 案の定5月病になった姉が毎日のように電話してきて、「奏の声が聴きたい」などと言われた時は内心、ざまあみろ、と思った。絶対に電話になんか出てやるもんか、と母が呼ぶ声も聞こえないフリをした。

 「お金が足りないと変なバイトするから」と、母は当時の大学生にしては破格の仕送りをしていた。私は靴下1足もなかなか買ってもらえず、自分で穴をかがったり、毎日少ないおかずで我慢していたと言うのに、姉は「安かったの」と高級ブランドのバッグを手に帰省して来た時には、腸が煮えくり返った。いくら家庭教師のアルバイトをしていたとは言え、その分仕送りを減らすことはされず、バイト代は全て小遣いだと思ってる、と言い放った。
 
 こんな家、絶対に出てやる。
 それなのに高2の終わり頃言われた言葉は
「奏は地元の短大くらいでいいんじゃない、うちお金ないし。一人くらいは傍にいてくれないと」

 絶望した。

 しかし、姉に不自由させない為にフルタイムで仕事をし、自分の物は何も買わずいつまでも10年以上前の服を着て、美容院にも行けずパサパサの髪、ボロボロの爪、安い化粧品しか使わず年齢よりもずっと老けて見える母が、例え嫌いでも哀れで、強く反抗することもできなかった。

 それでも何度かケンカし話し合い、隣の県の国立大学なら、としぶしぶ了承を得て無事進学した。ボロボロのアパートだったが一人暮らしは天国だった。
 声は一般のサークルにでも入って活かせればいい。そのうち小さいテレビ局やラジオのレポーターに応募して合格でもすればそこそこ生きていけるだろう、と甘く考えていた。
 
 バブル全盛期ではあったが、声を活かせるような就職はなかなか見つからなかった。大学3年の冬休み帰省して、コンパニオンのアルバイトをした時に「その声いいね、うちの受付嬢にならない」という軽いノリで今の会社の社長に拾われた。地元では名の知れた、そこそこ大手だったので母は「地元で決まってよかったわ」と満足気だった。当然のように実家に住まわされた。
 その後バブルがはじけ、会社はつぶれなかったし給料は減ったが、それでも仕事があるだけマシだった。
 
 一方の姉は、院に進んだので私と卒業は同じ年だった。どうしても司法試験に受かりたいと就職活動を一切しなかった。しかしいくら田舎では成績優秀でも、司法試験ともなるとなかなかすんなりとは合格しなかった。そして、今に至る……そう、姉は院を卒業してもうすぐ3年、いまだに親の脛をかじっているのだ。今年の試験もだめだった。親も、弁護士になって恩返ししてくれると思っているから、都会じゃないと情報が入ってこない、という姉の言い分を鵜呑みにして仕送りを続けている。
 同級生で国家公務員になった彼氏もちゃっかりずっとキープし続けているのだから放っといても大丈夫なんだろうに、なぜこんなに母が姉に盲目なのか、いまだに理解しがたい。さっさと結婚すればいいのに。

 私は早くこんな実家を出て、できることなら遠く離れた所に住みたかった。

 智哉は、そんな私の事情を知り、交際して1年目の記念日という時にぽつり、「結婚しよう」と言ってくれた。

 実家から車で1時間半かかる市の職員だから転勤で近くに行くこともない。かといって何かあれば駆けつけられる距離だから、丁度いいだろう、と。

 この人なら……穏やかで、温かい家庭が作れるんじゃないかな……
 誰にも反対されない、そう思っていた。しかし、母だけは違った。
 その頃、次第に携帯電話が一般に普及し始めていて、契約数の欲しい会社はどんどん端末を無料で出していた。智哉の友達がその携帯会社の代理店を始めたとかで私達は比較的早く携帯電話を持った。しかしそのため、母からしてみれば、電話の取継ぎさえした事がない、あいさつすら交わしたことのない男に、いきなり娘をかっさらわれるのか、という不満をぶつけられる羽目になった。

 どこでなにをしている人なの、市の職員っていったって、小さな人口の少ない市じゃない、付き合い出して一度も挨拶もなしに、どういうしつけをうけてるんだか。田舎の漁師の息子風情が、市の職員っていったって実家の付き合い大変そうじゃない、絶対。言語道断、会う必要もないわ。そんな人と結婚なんてとんでもない。

 思いつく限りの悪口を、それこそ一度も話した事もない智哉の事をベラベラと並べ立て挙句、探偵でも雇って調べようかしら、と言い出したので
「いい加減にして! 今まで紹介もしなかったのは悪かったけど、会いもしない人の事そんな風に言うなんて最低じゃない!」
と怒るとしぶしぶ、じゃあ会わせなさいよ、話はそれからよ、となった。
 母は、私がいないと不便になる、そう思っているに違いない。

 その週末、急ではあったが実家近くのレストランで両親に智也を紹介した。
 外面のいい母は、あの勢いはどこへやら、まあ、優しそうなしっかりした方でよかったわね、なんてしゃあしゃあと言い心底呆れて仕方なかった。
 ずっと黙っていた父が最後に一言、頭を下げた。
「奏が選んだ方なら間違いないだろう、どうか幸せにしてやってください」

 思いがけないその言葉に泣いてしまった。

 次の週、私も智哉の家族に紹介され歓迎を受けた。智哉そっくりなお義母さんは、漁で日に焼けた笑顔で涙を流して喜んで下さった。
 私の手を両手で包むように取り、どうかこの甘ったれをよろしくお願いしますね、と何度も頭を下げられ、恐縮した。

 お義父さんも一緒に小さな港町を案内され、近所の方はもちろん、歩いていける範囲の親戚にはその日に紹介された。食べきれないほどの新鮮な魚介類に舌鼓を打ち、既に家を継いでいる智哉のお兄さんとお嫁さん、よそへ嫁いでいる2人のお姉さんとそのご家族、まだ学生の弟さん、そして夜には亜弥ちゃんのご家族も駆けつけてくださって、大宴会になった。

 ほんの少しの母の不満以外は、何ら支障なくトントン拍子に話は進んでいき、あっという間に結婚式を迎え――その直前におめでたも判明し、私は智哉の住む市に移り住んだ。

 少し洒落た新築のアパート、好きな色のカーテン、優しい夫は出来るだけ定時に仕事を終え帰宅し、つわりの自分を気遣って家事も一緒にしてくれ、この上なく幸せだった。
 

 ただ、胸にぽっかりと穴のあいている部分には見て見ぬふりをしつつ、既に不要なポケベルを、いつまでも解約できないでいた。
 
 和宏と別れて約2年、結婚して2ヶ月が経ったある土曜日の朝のことだった。たまたま、化粧をしていた時に、化粧ポーチの中に入れていたポケベルがブーン、と鳴った。大抵は携帯にかけてくるようになってきていたので一瞬ギョッとした。
 更にその液晶画面を見て驚いた。和宏の、家の電話番号だった――

 ――もし、これが何かの罠だったら……でも、本当に和宏だったら……

 智哉はまだ起きる気配はない。
 私は念の為、発信番号を非通知にするため「184」をつけてそれからその和宏の家の番号を押した。

 一度のコールで、もしもし、と懐かしい声がした。――ゾクッとした。無条件にこの声がたまらなく好きなのだと否が応でも自覚させられる。

「もしもし……ご無沙汰してます、お元気ですか」
「奏……今、どうしてるの」

 久し振りにその声で名前を呼ばれ、泣きそうになった。

「2ヶ月前に結婚して……お腹に、赤ちゃんもいます」
「えっ……結婚?」
「……うん……ごめんね」
 自分でもどうして謝ったのかはわからないけれど、自然に一言、口をついた。

 しばらく沈黙が続く。なぜか涙が止まらなくなった。

「ばかだな」

 そう言うと、和宏のほうから電話が切れた。

 涙が、とめどなく溢れる。搾り出すような、苦しいような最後の一言が頭の中を何度もこだまする。何故今更、そんな風に言うのか少し不思議ではあった。もう2年、連絡を取っていなかったのだから……当然、とっくに終わっていると思っていた。でもあんな風に言われるなら、和宏の中では終わっていなかったのかもしれなかった。じゃあ……この2年間は何だったんだろう。確かに最初の数か月、彼からのポケベルを無視してはいたけれど……

 朝の、清々しい空気と柔らかな光とは裏腹に、そのたった一言に心が嵐のようにかき乱され、走馬灯のように和宏と出逢った日からの事が記憶の奥底から蘇ってきた。
 
 和宏の言葉ひとつひとつが、その声と共に宝物のようだったことを思い知る。
 ただ、悔しさだけで別れたようなものだった。本当は、心の底から愛していた。智哉との穏やかな愛とは違う、暗い沼にずぶずぶと、手に手を取って溺れていくような愛だった。

 堂々と一緒にいられずとも、身体の関係がたとえ頻繁でなくとも、ただ「声」で繋がっていた――

第6章 慟哭

「これがその、手紙です。僕らは内容は存じません」

和宏の次男が、何も書かれていない白い封筒を私の前に差し出した。

「あなたたち、よく私を探し出せましたね」
「ええ、シンフォニアの池端さんに聞いて、そこから奏さんの先生だった方に伺って……」


***

 池端さんとは、和宏と別れてからしばらくは疎遠だった。しかし、長男が小学校1年の時、読み聞かせ団体の講演会の講師として招かれたのが池端さんともう一人、シンフォニアで比較的よく話をしていた女性、宮述(みやのべ)さんだった。

 私は普段からあまり化粧もせずラフな格好をしていた。幼稚園と小学生の男子を育てるには、自分の事まで手が回らなかった。
 学校に来るのが池端さん達なのは知っていたが、こんな風情でしかも遠く離れた市、苗字も変わっているから気付かれないだろうと思っていたが、運悪くグループセッションで宮述さんのグループになってしまった。セッション中、チラチラと視線を感じてはいたが、なるべく目を合わせないようにし、絵本を読むときもわざと雑に声のトーンを落として読んだ。

「あなた……もしかして、シンフォニアにいた織部さん?」
 無駄だった、やはりバレていた。講演会が終わった時手招きされ、池端さんのもとへ連れて行かれた。

「ちょっと、池端さん。織部さんよ、奏ちゃん。覚えてる?」
 恐らく全て事情を知っていたであろう彼は、一瞬息を呑んだように見えた。
「ああ! 久し振りだね、何、お子さんここの小学校なの」
「はい……ご無沙汰しております」
「なんだよ、声かけてくれればいいのに。結婚したっていうのは聞いてたけど、こんなところにいたんだ。今活動は? 読み聞かせだけ?」
「すみません、ちょっと恥ずかしくて……読み聞かせもたいしたことなくて……」
「もったいないな、それこそほら、いつか君と和宏がやった『チューニング』に入ればいいのに。君の師匠のとこだろう」

「ちょっと……」
 宮述さんが、池端さんを肘でつつく。ああ、やっぱり知られてるんだ、私と和宏の事は……

「いえ、あの、いいんです。まだ子供低学年だし下にも幼稚園児がいて、夜の練習も行けませんし……」
「そ、そうか、そうだよな。残念。でもさ、お子さん大きくなったらまたやりなよ。君の声、ほんと綺麗だからもったいないよ」
「いえ、もう何もしてませんし、子供怒鳴り散らして使い物になりませんから……じゃあ、すみません、失礼します」

 逃げるようにその場を立ち去った。和宏が今どうしているのか、少し気にはなったが聞けるような状況ではなかった。


***


「池端さんが……もしかしたら『チューニング』に関わってるかもしれないよ、と教えてくださって……」
「それで先生から住所を?」
 師匠はかなりご高齢でもう活動はされていないが、年賀状のやりとりを続けている。毎年のように、一言「また活動してください」と添えてくださる。

「はい、すみません。でも、お会いできて良かったです」
 長男は恐縮したように頭を下げた。


***


 池端さん達はほぼ毎年のように講演会に呼ばれるようになった。週に一度の読み聞かせの会は私に残された唯一の楽しみだったので、1年に1回、彼らと顔合わせるだけなら我慢しよう、と参加し続けた。小さい子供達はキラキラした目で楽しそうに聞いてくれるし、高学年の女の子は「おばちゃん、声綺麗だね」と話しかけてくれたりして嬉しかった。
 
 次男が小学校5年、長男がもう中学校2年生になった年のその講演会が終わった時、その年は一人で来ていた池端さんが私を手招きした。
「ちょっと、昼飯でもどう。仕事お願いしたいんだけど……あっちの通りにある本屋さんの前のコーヒーショップで待っててくれる?」

 また読める……? ちょっと胸が高鳴った。コーヒーショップの、一番奥まった席で待っていると池端さんが小脇に書類を抱え入ってきた。
 内容は、読み聞かせ団体のデモテープの録音だった。結構大量に録音しないといけなくてさ、とバサッと資料を渡された。私は、お役に立てるかどうかわかりませんが頑張ります、と引き受けた。
「ただね……録音の日にちって結構スタジオに指定されるから……あいつに会わないとは限らない」
「えっ」
「なるべく同じ作品にならないようにはするけどね……あれから、あいつに会った?」
「いいえ」
「あいつね、再婚したんだよ」
「……」
「前の奥さんとは別れて……こんなこと、言っていいかわからないけど、その……」
「――益田さんですよね」
「知ってるの」


***


 益田 美弥子(ますだ・みやこ)は、私と同じ小学校でひとつ年上だった。お嬢さんに育ち、当時珍しかった私立中学校へ進んだことを鼻にかけ、いつもツンツンしている嫌な女だった。音楽大学のピアノ科に進んだと聞き、ああ、いかにもね、と思っていた。
 彼女は卒業後地元に帰ってきて、合唱やソリストの伴奏専門ピアニストとして業界では名が知れるようになった。そして、朗読劇やオペレッタでも演奏するようになったのを、新聞で読んで知った。
 恐らくそれで知り合ったのだろう、いつか二人でオペラを見に来ていた所を偶然見かけた。

 長男がまだ2歳にならないくらいの頃だった。私は次男を妊娠中でたまたま叔母が、行けなくなったから胎教にどう? とチケットをくれたので、実家に子供を預けて久し振りの観劇にウキウキしていた。ホールの、独特の空気感が大好きだった。

 2階のバルコニー席からふと1階を見下ろすと、たまたま光沢のあるワインレッドのドレススーツを着た女性が目に入り、まあ、こんな田舎の公演であんなドレスアップしてる人も珍しいな、とよく見たら益田美弥子だった。そして、その隣に和宏がいた。

 目を疑った。――え? どうして……
 
 和宏がオペラを観るのも意外だったが、それよりも何故、私の嫌いなその女を従えているのか、しかも堂々と。幕間の休憩時はご丁寧に手を取ってエスコートまでしていた。ちなみに、美弥子も私と同じくらいの身長だ。
 なぜか、嫉妬にも似た嫌な感情が沸き起こる。妻子ある身で、何をしているの? 私の時はコソコソしていたのに、あんなに堂々と…… もし、奥さんの耳に入ったらどうするつもりなの?

 もう、オペラどころではなかった。2幕が開いても、もう舞台など観ていなかった。和宏と美弥子が、顔を寄せて楽しそうにしている、その姿しか目に入らなかった。イライラしてたまらなくなり、本当はあまり褒められたものではない行為だとわかっているが、幕間で途中退席しホールをあとにした。なぜ、なぜ私は泣いているの……

 二人が結婚したのを知ったのは、文化教室の募集一覧だった。それまで、美弥子が合唱講座の伴奏者として名前を出していたのは知っていた。オペラで二人を見かけた翌年の、年度初めの講座のチラシで「渡邊 美弥子」となっていた。

 間違いない。あの二人は結婚したのだ。


 私には用意してくれなかった「未来」を、あの女には――私の大嫌いな、あの女には用意したのだ。


 和宏がいまだ、朗読界で活躍しているのは知っていた。公演のチラシでも写真入りで載るようになった。インターネットで調べれば、いくつもそういった写真が出て来た。
そんな状態だから、もし私が復帰すれば和宏と会うこともあるだろうし気まずいだろう、と遠慮していた。それに、私が外の世界に出る事を智哉が嫌った。子供の事もあるが、基本的に夜は外出させてくれなかった。
 

 私だって、もし彼との未来があるとわかっていたら別れたりはしなかった――本当は、別れたくなんか、なかったのに!!

 穏やかな日差しの差し込むリビングで、文化教室のチラシを握りしめ私は声をあげて泣いた。和宏と別れて3年が経っていた――。


***
 

「ええ、お噂で」
「そう。まあ、狭い世界だからね。まあ、できるだけ気をつけるけど……そういうことも一応了承しておいてくれるかな」
「わかりました」

「あいつね、あれから……」
「え?」
「いや、なんでもない。じゃあ、来月から始まるからまた連絡します」

 結局、池端さんが上手にやってくれ、和宏と顔を合わせることはなかった。ただ、演者としてパンフレットに名を連ねたので彼の目にも恐らく止まっているだろう、「杜脇 奏」と。もちろん、その声を聴けば和宏なら名前を見なくても私の声だとわかっただろうけれど。

 私は録音から半年後に送られてきたCDの和宏の声を久し振りに聴いて、忘れかけていたあの頃の事を次から次へと、鮮明に思い出ししばらく苦しんだ。しかし、聴くのを止めることもできなかった。
 聴く度に泣いてしまうので、家族の前では聴けなかったが、平日の昼間や車の中に持ち込んで繰り返し聴いた。
 ああ……やっぱり、この声が好き…… 絵本なので、その声はことさら優しく温かい。――美弥子との間に子供はいるんだろうか……?


 別に智哉に不満があるわけではなかった。時代はバブルの崩壊で景気の低迷が続き、公務員が羨ましがられ(妬まれ)るようになった。世間とは現金なものだ、バブルで景気がいい時はあんなに公務員をバカにしていたくせに……。
 相変わらず智哉は性格も穏やかで優しく、智哉の実家との関係も良かったし、子供も健康で小さいながらもマイホームを持ち、なんの不自由もなかった。絵に描いたような、幸せな家庭と言えただろう。

 ちなみに私の実家は、司法試験を諦め、学生時代から付き合っていた国家公務員と結婚したけれどうまくいかなくなり離婚した姉が、再び天下を取っていた。近付きたくないので、なるべく距離を置いていた。


 しかし和宏のCDを聴いていると、別れてからの12年間が嘘のように思えた。私は、間違ってどこかアナザーワールドに来てしまったんじゃないだろうか。本当なら、和宏と結婚したのは美弥子ではなく私のはずだった。
 あの声で、あんな嫌味な女に愛を囁き抱いたのかと思うと、嫉妬の炎で焼け死にそうになった。なぜ、今更、と自分でも不思議でしょうがないが、CDを聴き続けたせいでまるでまだ、自分が和宏の愛人であるかのような錯覚に陥った。今思えば、あの頃の私は少し異常だったかもしれない。

 それからしばらくは、まるでストーカーに近かった。平日家族を何食わぬ顔で送り出した途端、急いで着替えて1時間半かけて車を走らせる。サングラスをかけ和宏の家の前をゆっくり通り、気配を伺う。洗濯物を観察したりした。子供の服やおもちゃなどを見かけないことに安堵した。さすがに、無言電話をかけたり郵便物をあさったり、というような事を直接することはしなかったが、この目で本当に美弥子がいるのかを確かめたかった。
 しかしそれも、たいして時間はかからなかった。そういう行為を始めて5回目くらいの時、真っ赤なコンパクトカーに乗ってその家の駐車場に車を入れ、降りて来る所を見た。わかっていたことなのに、帰路を走りながら号泣した。

 その日、私は智哉と目を合わせられなかった。いや、その日だけではない。しばらくそれは続いた。美弥子をこの目で見てからはもう家には行くことはなかったが、他の男の事を考えているだけでも申し訳なく思った。
 
 私は、和宏が読んだ分のCDを全て叩き割って捨てた。和宏への気持ちが治まるまでそれから数年かかったと思う。その間に、智哉への気持ちはただの「共同生活者」になり、子供に手がかかって疲れることもあって自然と夫婦生活はなくなった。智哉も、元々そんなに執着はなかったようで、誘ってもこなくなった。

 もう、私の心の中には誰もいなくなった。


 智哉はちょこちょこ浮気をしているような気配はあった。それも、最初は少しイライラしたが、次第にどうでもよくなってしまった。


***


 それでも今まで離婚もせずにいるのは、総ては生活の為、子供の為だった……息子達も無事に大学に行っているし、智哉と二人になったことで少しは関係もマシになってきたところだ。
 智哉も50を過ぎ、最近は以前のように浮気をしているような気配は感じない。こんなおじさんを相手にするのはせいぜい呑み屋のお姉ちゃんの営業位だろう。男友達も結構いるようで、ゴルフや釣りに、と忙しい。私も、べったり一緒にいられるよりは、出かけてくれる方が楽だ。あと10年もすれば定年退職、子供達も結婚していくだろう。このまま穏やかに歳を取っていくのには丁度いいパートナーだと思えるようになっていた。



「あの……ちょっと聞いてもいいかしら」
「はい」
「美弥子さんとの間に、お子さんはいらっしゃるの?」
「――継母をご存知なんですか」
「ええ、彼女は昔から知ってます。お父様と結婚したことも」
「子供はいません」
「そう……あなた達のお母様は、今は?」
「あ、はい、私と同居しています」
と、長男が答えた。

「いつ離婚したの?」
「……ええと……今から23年位、前のことです」
「……えっ?」

23年、というと私と別れて間もなく、ということ……?


私は、慌てて目の前に置いてあった封筒を手に取り引きちぎるように開封し手紙を開いた――

第7章 約束

 手紙を読み終わった時の私の顔は、一体どれだけひどかっただろうか。
 わなわなと震える手で手紙を握り締め、溢れる涙を拭く事もせずにいると、和宏の長男が傍らに置いてあったティッシュを数枚差し出してくれた。固まってしまった手をゆっくり開き、それを受け取った。

「すみません、僕らは内容を知らないので何とも申し上げられないのですが……何か、父に失礼があったのならお詫びいたします」
「いいえ……和宏さんは何も悪くありません……感謝しています、ありがとう」

 確かに、この手紙によって私は、今のこの平穏な生活を失った。もう、今までのように生活することは到底できない。一体これから先、どうすればいいのか皆目見当がつかなかった。

 泣き続ける私の前で、和宏の息子達は少し困ったように顔を見合わせていた。

「あの、そろそろ僕達は失礼しますが、もし何かありましたらこちらにご連絡下さい。僕でも弟でも結構ですから」

 それぞれ名刺を私の前に置き、もう一度二人で顔を見合わせたのを合図とするように同時に立ち上がった。私も慌てて立ったが、あまりの事にさっきから目まいが止まらずよろけて、またソファーに座り込んでしまった。
「大丈夫ですか」
 声の似ている次男が私に手を差し伸べた。その声に、胸が張り裂けそうになる。
 すみません、とその手を頼り立ち上がった。玄関へ向い深々と礼をする彼らの顔を、まともに見ることが出来なかった。玄関ドアがゆっくりと音を立てて閉まった途端、その場にへなへなと座り込んだ。

 和宏を、少なからず恨んだのは間違いだった……なぜ、私は和宏を信じることが出来なかったんだろう。「普通の恋愛」に目がくらみ、何も確かめもせず突っ走ってしまった報いだ……道理で、私は朗読劇に参加することはおろか、観劇さえもさせてもらえなかったはずだ。読み聞かせも、学校の中の活動だからこそさせてくれた。あのCDの録音の時は最後、CDができあがるまで内緒だった。今思えば、智哉に演者のクレジットを見せずに正解だった。

 一体、どれくらいの時間そこに座りっ放しだったのだろう。
 辺りは真っ暗になっていた。一度インターホンが鳴ったがそのあとすぐに、ガチャガチャと鍵を開ける音、そして勢いよくドアが開いた。

「うわっ、お前、どうしたんだ、こんなところで」
「――おかえりなさい」

「……泣いてたのか? 何があったんだ、びっくりするじゃないか」
 ハッと我に返り、手紙や名刺、二人に出したお茶などがそのままだったことを思い出し、智哉が先に洗面所に入ったすきにそれらを片付けた。手を洗い着替えた智哉がリビングに来た時には、一応何の形跡ものこっていなかったが、いつもならダイニングに並んであるはずの夕飯ができていない。

「なんだ、夕飯できてないのか」
「ええ、……具合が悪くて。今から作りますから20分位待って」

 智哉は少し不機嫌そうに小さくため息をつき新聞を読みはじめたが、もう取り繕う気持ちもわいてこなかった。
 グリルでアジの開きを焼き、生野菜を数種類切ったサラダを作り、豆腐を切り鰹節と葱、生姜のすりおろしを乗せる。昨日デパートの地下で買ったかぼちゃと豚の煮物と、朝作ったほうれん草の胡麻和えも並べた。全て夫の分だけだ。私は、もう食べ物など喉を通る状態ではなかった、ましてやこの人と一緒に食べるなど……

 テレビを見ながら無言で食べる夫をじっと見た。
 この人が――人って、わからないものね。料理をしている間に少し落ち着いてきた。事実を知った上で冷静に眺めてみても、さっぱりわからなかった。
 およそ、そんな事をするような人には見えない。誰に言っても信じてもらえないだろう。長年裏切られていたにも関わらず、実際夫を目の前にしてみると怒りや悲しみよりも、嫌悪感の方が強かった。

「どうしたんだよ、さっきから……おかしいぞ。何があったのか言ってごらん」
 私の様子があまりにおかしいので、何かを察したのか急に優しい声になった。本来なら、好きな声のはずだった。

 どうしよう……この期に及んで何もなかったように暮らす事だけは考えられなかった。和宏の気持ちに報いたい。
 しかし、その一方でこれから先、一人で生きていく自信はなかった。声以外、何も取り得なかった上にその活動すらも制限され、既にプロとして何かできるような代物ではなくなっていた。
 47歳の女性が一人で生きていくには厳しい世の中だということくらいはわかっている。ただ息子が二人とも成人しているのは幸いだった。
 どう考えても、先程の私の様子を納得させられるような理由は真実以外見つけられなかったが、今の時点でそれを言ってはいけない。何か対策をしなければならないこと位、この混沌とした思考の中でもわかる。

「なんでもないの。ちょっと……更年期かしら、目まいがして立ち上がれなくなってただけよ」

「そうか。それなら病院いけよ? 漢方とか、色々あるんだろう」
「ええ、そうね」

 確かに、更年期と思われる症状は普段からあった。動悸や目まい、倦怠感などは日常茶飯事だった。それに……おそらく閉経も近付いている。

「片付けは俺がするよ、横になってたら」
「何も食べないのも悪いだろう……ほら、かぼちゃ食べない? それとも何か買ってこようか?」
「季節の変わり目だからかなあ。疲れが出たのかもなあ。よく睡眠とって、気をつけないと」
「明日は早めに帰るよ、買い物があったら買って帰るから考えておいて」

 私はソファーに横になり、タオルで顔を覆った。いつもこんな風に私を気遣って、優しくしてくれる。それが、今日ほど辛く感じたことはなかった。優しい言葉をかけられるたび、涙が頬を伝う。
 
 夫は普段から優しい人なのだ。この優しさに縋って25年暮らしてきた。和宏に報いたい気持ちと、自分さえ我慢すれば、という気持ちがせめぎあっていた。
 

そしてそのまま、2ヶ月が過ぎた――

 私はそれを考える事自体に疲弊していた。しかし、自分でもわかるくらい虚ろな目をしあまり食べられず体重も落ちていった。更年期の症状で毎晩寝汗をかいて夜中に起きなきゃならないから、と寝室を別に移した。例え偶然でも、少しでも智哉と触れてしまうのが嫌だった。

 離婚――それしか、ないのだろうか。
 弁護士にも相談した。確かに、結婚前に知っていたら結婚に至らなかったはずだし、25年もの間裏切られた。とはいえ、それ以外の事はほぼ不満がなかった。落ち度もなければ、世間的にも「いい夫」として通っていた。
 お金を派手に使うわけでもなく、交通違反すらしたこともなく、性格も本当に穏やかで優しい。多少の喧嘩はしたが、怒鳴られたことなど一度もない。

 もうこのまま騙されたふりをして私さえ我慢すれば、死ぬまで黙っていれば、子供達もいずれ結婚しかわいい孫に囲まれて――そういう平穏な日々が待っているのではないか。

 しかしその、「私さえ我慢すれば」という思考は、私の忌々しい時代を呼び起こす呪文だった。姉の為に、それだけ我慢させられただろうか。もう、まっぴらごめんだ。なぜ私ばかりが我慢しなければならない?

 私は和宏の声を聴きたくて、次男の携帯へ電話をした。
「もしもし……あの、織部奏です」
「ああ、先日は失礼いたしました。何かありましたか」
「すみません、もし差し支えなければお墓の場所を教えて頂けませんか」

 説明してくれるその声に聴き入ってしまい、肝心の住所を聞きそびれたが、霊園の名前は書き留めていたのでわかった。あまり大きな霊園ではなく、管理人に聞けば墓石はすぐに見つかった。

 花を手向け線香に火をつける。数珠を手にかけ、目を閉じて拝むと、次から次へと、涙が零れ落ちた。真新しい和宏の名前と享年が刻まれてある墓碑をそっと撫でる。

 和宏――一緒に朗読した、色んな作品を思い出す。恋人同士だったり夫婦だったり……
 結婚できずとも、私達はあの頃幾多もの物語の中で、ちゃんと夫婦だった。
 二人で、たくさんの人生を、様々な風景を、あらゆる時代を生きた。――もう、すでに未来を生きていたのね……

 見ていて。私も強くなったのよ。


 それから1ヶ月、ひっそりと大切なものはまとめておいた。久し振りに綺麗にメイクをし、髪を整え、一番好きなワンピースを纏う。ヒールの高い靴を選び、家を出た瞬間から颯爽と歩いた。
 駅のコインロッカーにボストンバッグを入れ、その足で市役所へ向かう。

 市民課の窓口に行くと、窓口の女性が私に気付きにこやかに挨拶をする。
「杜脇課長、奥様がお見えになってますよー」
 智哉が市民課の課長になって3年、そろそろ異動だろう。ニコニコ笑いながら窓口に向かってきた。

「どうした、そんなに着飾って。何かの証明? 住民票? 言ってくれれば俺が取って帰ったのに」
 窓口の椅子に智哉が座りながら、私にもカウンター越しの椅子に座るよう促したが座らなかった。市民課どころか、隣の課の職員もチラチラこちらを見ているのがわかる。

 私は静かに深呼吸をし、今出せる最高の声で智哉の目をまっすぐ見て告げた。

「離婚届を受理してください」

 私は、先週弁護士に頼んでとってきてもらった離婚届に記入し捺印したものを、バン、と智哉の目の前に叩きつけた。
 田舎の市役所の狭いフロア全体が一瞬静まり返り凍り付いた。

「なっ……お前、なっ、何を……」
「後の事は弁護士から連絡がありますから。25年間、お世話になりました」

「えっ、ちょ……待てって、なあ、おい!」

 私は振り返りもせず、市役所のガラス戸を押し開け颯爽と外へ出た。後ろから、智哉が離婚届を片手に追いかけて来た。怒りと戸惑い、そして職場で恥をかかされたからか、とても興奮しているようだった。

「どういうことだ!」
 25年間の結婚生活の中で初めて怒鳴られた。

「ご自分の胸に聞いてみたらどうなの」
「さっぱりわからない! 何なんだ、俺のどこに一体、落ち度があるっていうんだ!」

「……渡邊 和宏さんをご存知でしょう」
 智哉は興奮しハアハアと肩で息をしながら、私の顔をじっとにらんだ。

「奴が、何か言ってきたのか」
「彼は3か月前に亡くなったわ」
「えっ……そうか、で? だから何なんだ」

「全て……手紙で教えてくれました、貴方が私と結婚した理由」

 益々激しく息をしながら、見る見るうちに汗ばみ顔が真っ赤になった。
「だからなんだって言うんだ! おっ、俺は、お前の夫としては何の落ち度もなかったはずだ!」

「そうね。だから、私は何もいりません。家も財産もいらないわ。まあ、少し当面の生活費は頂いたけれどね。ただ、貴方を許せない。それだけよ」

「はっ、今更……もう、こんな歳になってまで別れて何になるって言うんだ! お前みたいな甘えたおばさんが、これから先どうやって生きていくんだよ、ふざけるな」

「……もう、とにかく終わったのよ、貴方の下手な茶番は。まあ……私も気付かなかったわけだから下手、じゃないわね」
「俺は書かないからな!」

「そう。じゃあ仕方ないわね、返して」
 智哉の手から離婚届を奪い取った。一瞬、しまった、というような顔をしたがもう遅い。
「あとでまた弁護士に届けさせますから。無駄なのよ、あなたの負けよ」

 私は踵を返し、駅に向かって颯爽と歩き出した。まだ後ろから何か怒鳴っていたが、もう関係ない。


 駅のロータリーで、立ち止まり空を見上げる。身体の中の「杜脇 奏」だった息を全部吐き出した。



 青い、吸い込まれそうなくらい青い!――和宏……見ててくれた?

 私、約束するわ。声を、取り戻す。だいぶ錆びついてしまってるけど、必ず、この声があなたに届くまで読み続ける――

第8章 手紙

Dear K

 この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないということか。
 息子達が突然お邪魔して、驚かせてしまっただろう、すまない。長い手紙になるだろうと思う。

 あれからの事を書こう。
 君に結婚を迫られ、一時は私も躊躇した。しかし、君とそれからの人生を歩む事を決心し、それから間もなく離婚の手続きに入ったため、しばらく君と会うな、連絡を絶てと弁護士に言われた。ただ、その事を伝えようとしばらくはポケベルを鳴らし続けたが、君からの応答はなかった。
 もちろん他にも伝える方法はあっただろう。しかし、少しでも離婚を不利にしないためにその事を都合よく捉えてしまった。
 片が付けば、堂々と迎えに行くつもりだった。ただ、子供の事もあり長く揉めそうだったので、その間に君を他の男にとられては元も子もない、と考えた。

 それで、苦肉の策で 智哉君に君の事を頼んだ。
 私が君を迎えに行くまで、他の男に取られないよう見ていてほしい、と。

 智哉君は、実は昔少しだけ「シンフォニア」にいたことがある。若い男性は貴重で、私達もそれなりに大事に育てようと思っていた。しかし彼は結局半年しかシンフォニアにいられなかった。

 この事を書くにあたって、非常に迷った。しかし、この事を君が知らずにこのまま一生を終えるかと思うと、それもまた不憫でありこうなってしまったことに私にも責任がある。
 君の幸せを壊してしまうかもしれない。でも、私が死んでしまえばこの事を伝えられる者はもう他にいない。覚悟して読んで欲しい。


 智哉君は、バイセクシャルだ。最初は完全なゲイだと思っていた。
 私は、智哉君に襲われたというシンフォニアメンバーの男性の相談に乗っていた。 相談してきた男性はノーマルだったが、智哉君に犯されたことが元で精神の均衡を失い、自殺未遂を起こし退会した。

 あの「チューニング」の出演した市の芸術祭担当者が智哉君だと知ったのは、ゲネプロで私が怪我をした時だ。数年ぶりだった。私も驚いたが、彼も相当気まずそうにしていた。病院から会場へ戻る帰りの車の中で、知り合いであることは隠そう、と話した。

 彼には当時、付き合っている男性がいたようだ。年齢的にも家族から結婚を急かされていて、そのことを家族には言えず世間体のために結婚相手を探していたらしい。あの夜、君の事を気に入ったそうだ。
 あの時はまだ私も離婚するつもりはなかったし、彼がそういう理由で結婚相手を探していることや本当はバイセクシャルだということは知らなかった。
 君の事を頼もうと思ったのは、彼が君に手を出さないと思っていたからだ。そんなことを知っていたら、絶対に頼まなかった。

 最初は、私の離婚が成立した時点で君を返すことで話がまとまっていた。もし約束を守らなかったら職場や親にバラす、と一応言っておいたが、女性には興味がない、とはっきり言われたので安心していた。

 しかし、いざ君を返してくれ、と言った時にはもう、君は智哉君に惚れこんでいた。最初は彼が嘘をついているのではないかと思ったが、何度かその幸せそうな様子を垣間見て納得した。
 そして、君をダミーの結婚相手にする、と言われ説得したり脅したりしたが無駄だった。智哉君は君の事を早々に周囲に公表したから、仮に私が智哉君の秘密を周りにばらしたところで、誰も信じなかっただろう。
 それに、私が激しく怒ったため、彼も男性の恋人とは別れる、奏を愛している、大事にすると誓ってくれたから、もう仕方がないと諦めた。それが君にとって幸せならば、と考えた。

 そして君は彼と結婚した。
 結婚したばかりの頃、君に電話をさせたことがあっただろう。あの時はまだ結婚した事を知らなかった、君の口から聞いて思わずあんなことを言ってしまった。それに結婚だけならともかく、妊娠してしまったらもう無理なことは言えなかった。
 
 数年して、私は君に声の良く似た女性と知り合い結婚した。目をつぶれば君がそこにいるかのようだった。それだけを慰みに生きてきたが、こうしてこの歳で病に倒れてしまったことを思うと、君にこんな苦労をかけずにすんだ事だけが唯一の救いだ。
 とはいえ、私の浅はかな策の為に君との結婚が叶わなかったのは、自業自得だがどれだけ後悔したか知れない。

 智哉君はそのうち携帯電話の番号も変え、市役所にかけても絶対に電話に出ず、訪ねて行っても居留守を使った。そうして君達は多分、家でも建てて引っ越したのだろう、素人が調べられる範囲ではもうどこにいるのかわからなくなってしまった。
 もちろん、他にも方法があっただろう。池端に聞いて君がいる校区はわかったし、絵本のCD録音の時も池端は君の連絡先を知っていたが、自分も再婚している身、君もお子さんが順調に育っている中で、今更どうしようというのだ、と諌められ諦めた。

 君が今、幸せかどうかは知る由もない。私がこんな告発をしたことで、幸せであったとしても崩れるだろう、それは本当に申し訳ないと思う。私もできればこんなことはしたくなかった。
 しかし、恐らく、私の知る限りでは智哉君は今でもその筋の間ではかなり有名なようだ。
 君にとっては迷惑な事かもしれないが、今私が君の為にできる唯一の事でもある、ということは理解してもらいたい。
 また、本当ならこんな卑怯な言い逃げをせず、生きている間に何とかすべきだったが、家族の手前もあり叶わなかった事を許して欲しい。
 これを読んだ後の君が心配でならない。智哉君の事情は言っていないが、息子達には私の代わりに誠意を尽くすよう言ってあるので、もし力になれることがあれば遠慮なく言って欲しい。


 ただ一言、信じて待っててくれと言えていたらこんなことにはなりはしなかった。
 浅はかな私を赦して欲しい。
 心から、君を愛していた。


                                       From K

シンフォニア

 恐らくですが、自他共に認める声フェチです。男女問わず声が良い方にお会いすると、ポーッとなってしまい何故か目を合わせられなくなります。

 奏は幼い頃から成績優秀な姉と比べられて育ち、何もかもそこそこ、声しか取り柄がないと思い込み育ちます。経済的にも、親が全て姉につぎ込んでしまうため塾や習い事もろくに行けないままでした。
 そんな中高校で入った放送部で、県の代表になるなど活躍するも、家族は見向きもしません。横暴な姉に対して何も言えない父も嫌いになります。

 その代わりを……和宏に求めてしまったのかもしれません。親子ほどの年齢差でもないけれど、父親としての落ち着きもあり、すごく好きな声の人に褒められ優しくされる……父性を求めた愛でした。

 不倫を肯定するつもりはありませんが、「結ばれるべき相手」と違う人と結婚してしまった、という気持ち、結ばれるべきだった相手に対する愛を、否定する気にはどうしてもなれません。結ばれなかったのも運命、と言われればそれまでですが……

 大切な事を書き忘れていると思いますが、奏は和宏からの手紙すべてを鵜呑みにしたわけではありません。探偵に調べてもらっています(もしかすると加筆するかもしれません)。
 家庭では淡白なふりをしていますが、恐らく歳をとればとるほど自分の本能に忠実になるのか……智哉は女性よりも男性に傾向していき、調査されてもすぐに結果が出たことでしょう。

 あの後、弁護士に離婚届を郵送し智哉に署名捺印させてもらったのでは、と思います。

 47歳、奏の再出発はどうなるのでしょうか。想像する再就職場所は「葬祭場」です。遠く離れた他県の町で、進行のアナウンスをして、ひっそり暮らしているかもしれません。そして、ボランティア活動をしながらまた、朗読劇に参加できる日を夢見て発声練習や腹筋をしているでしょう。

 奏の息子達の話を全く出さなかったのですが、やっぱりこういうことに息子はドライなんじゃないか、と思ったんですね。息子は普段から母親と長々と電話で話したりしないですし、内容的にも相談しにくいし……恐らく奏は、家を出たその日、旅立つ電車に乗り込んでから息子にメールする、それくらいの関係だったようです。まあ、言っても信じてもらえないだろうというのもあったでしょう。

 もし、自分の夫が……と考えたら恐ろしくてたまりません。いくら他が完璧でも、許せますか?


 拙作にお目通しくださりありがとうございました。
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シンフォニア

※「小説家になろう」同時掲載 平凡な暮らしを送っていた主婦・奏(かなで)をある日突然訪ねて来たのは、若かりし頃不倫していた相手・和宏の二人の息子だった―― 「普通の幸せ」を選ぶため別れを、そして夢を棄てることを選んだ奏に和宏からのメッセージが届く。 幸せの形を追い求め、人生を振り返った時本当にその手に残るものは……

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-10-02

Copyrighted
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  1. 第1章 訪問者
  2. 第2章 転機
  3. 第3章 予感
  4. 第4章 別れ
  5. 第5章 結婚
  6. 第6章 慟哭
  7. 第7章 約束
  8. 第8章 手紙