*星空文庫

echo (エコー)

温詞 (from センチミリメンタル) 作

echo (エコー)
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 部屋で何度も、何度も、聴いていた歌があった。
 きっとそれは私にとってとても大切なもので、忘れてはいけないもののはずだった。それなのに、私はその歌の中身はおろか、タイトルすらも思い出せずにいた。
 「あ…う…」
 自室のベッドで寝転んでいた私は天井を眺めながら、心を無にして、もしかしたら頭が忘れてしまっていても体が覚えているんじゃないか、という可能性に賭けて無理矢理に歌おうとする。でも、大切だったはずのその歌は、今日も私の口から出ることはなかった。情けなくって深い溜息が漏れた。
 体を起こして、ベッドから足を外に出すような形で腰掛けた。こうしてうす暗い部屋でベッドに座っているとまるで時が止まったように思えた。雑に閉められたカーテンからは日の光が漏れていて、私の足下を細く照らしていた。その部分が優しくぬくもりを持って、なんだか心地よかった。
「また、思い出そうとしているの、凛」
 私を呼ぶ声がして、振り返った。部屋のドアの所に、響(ひびき)がいた。低くて優しい響の声は、私の鼓膜を心地よく揺らした。黒く、まっすぐでさらさらな彼の前髪の隙間からのぞく目元が穏やかに笑っている。
「うん。でも思い出せないの。切なくて、なのに温かくて、包み込まれるような感覚があって…。すごく、すごく好きだった歌だったと思うんだけれど…ごめんね」
「そっか…。でも言ってるだろう、その歌は多分僕の歌ではないよ。きっと、別の人の歌か何かを、僕の作ったものだと勘違いしているんだ」
 響は私の隣にゆっくり腰掛けて、髪を優しくなでながらそう言った。いつもそうだ。響は、それは僕の歌じゃないって言う。どちらにしても確証はないし、真実はわからないのだけれど、響の声には不思議な自信があった。まるで答えを見透かしているような。だから、曖昧な記憶しかない私はいつもたじろいでしまうのだ。けれど、確かに彼の口から、その歌が生まれたような気がしてならなかった。なぜならその歌は、響の人間性そのものとよく似た空気を持っていた記憶だけかすかに残っているからだ。その歌はきっと、彼によく似合う。その歌が彼のものであって欲しい、という強い願望もあるのかもしれなかった。
「どうして、自分の作った歌ではないってそう思うの?」
 私がそう訊くと、響は困ったように笑った。
「どうしても。思い当たる歌がないよ」
「でも…」
「なら、どうして思い出せないんだい?」
 響にそういわれて、ハッとする。空気が少し張りつめたような感覚がした。
「それは…その…ごめんなさい」
 私は言葉に詰まりながら、そう答える。
「謝らなくていいよ。言っているだろ、そんな歌は僕の作った歌の中にはきっとないよ」
 張りつめた空気を緩めるように、響はそう笑って、もう一度わたしの髪をくしゃくしゃとなでて立ち上がった。部屋のすみに置いてあるアコースティックギターを手に取って、また私の隣に腰掛けた。アルペジオを弾きながら、彼は自作の歌を歌いだした。芯のある、でも儚げな声で、私はその声に包まれながら目を閉じるのが好きだった。そうしていると、まぶたの裏はまるで映画館のスクリーンにでもなったかのように、いろんな映像を映し出してくれた。
 燃えるような夕焼け。
 雨にぬれた路地。
 うだるような夏の坂道、暗い夜道を照らす古びた街頭…。
 いろんな景色が、歌によってくるくると変化して、私のまぶたの裏のスクリーンを彩る。
 その世界は無限だった。
 現実でも、非現実でもない。それは彼にしか表現出来ない、彼の中に存在しているもうひとつの世界。その世界の中に、私が入り込める瞬間。
 それが、目を閉じて彼の歌を聴いている瞬間だった。その瞬間は、響と私は現実世界とはまた別の世界で、ひとつになれる。同じものを見て、同じ気持ちを抱ける。それは言い表すのが難しいほどの大きな喜びだったし、何よりとても特別な行為に思えた。
 響は幼いころからピアノやギターを弾いていて、中学の一年生のときから自作の歌を作るようになったという。それからずっと作り続けて、今では百を超える数の歌がある。それらは時に明るく元気で、時に物悲しいものもあった。でも、不思議とどの曲にも共通しているのは、どことなく切なさが存在していることだった。底抜けに明るい曲はないのだ。どの曲も、どこかにひっそりと影を抱えていて、それが切ない印象を与えるのだろうと思う。その歌たちの持つ雰囲気が、彼の歌声にはよく合った。
 しばらく歌ったあと、響はギターをまた元の場所に置いて、大きく背伸びをした。
「それじゃあ、そろそろ行くよ。またね」
「うん。ありがとう、またね」
 バタン、と扉を閉めるときの乾いた音が耳にこびりつく。
 いつまでたっても、この音だけは好きになれなかった。


 私は昼寝をするのが好きだ。
 なぜかというと、昼寝をするとほとんど必ずといっていいほどの確率で夢を見るからだ。
 そしてその夢は、いつも自分の昔のことの回想のような内容だった。
 つまり私は、昼寝をすればいつでも過去にタイムスリップしたかのような感覚が味わえるのだ。こんな素敵なことって、ない。
 今日の昼寝で見た夢は、まだ私が響と恋人という関係になる前の頃の回想だった。
 夢の中での私と響の会話はどんな内容だったのか忘れてしまったけれど、夢の中での景色や雰囲気は、きっと『あの日』に違いなかった。
 その日は忘れられるはずのない日だったから、実際に響と交わした会話の内容は、今でも鮮明に、隅々まで覚えている。

「どうして、響は歌を作るようになったの?」

 自転車を降りて腕で押しながら、並んで歩いた帰り道でのことだった。ふと私は、響にそう訊いたのだった。
「うーん、そうだな。」
 響は辺りをきょろきょろ見渡して、そして見上げるような仕草をする。考えごとをする時の癖だ。
「音や言葉は、目に見えるもの以上に強い力があると思うんだ。」
 やがて響は、噛みしめるようにそう言った。
「目に見えるもの、以上に?」
 私がそう聞き返すと、響はこくりとうなずいた。
「そう。目に見えるもの以上に」
「それはどうして?」
「たとえば何か嫌なことがあったり、見るに絶えないような残酷なものを目の当たりにしたとき、目を塞いで何も見ないようにするだろう」
 響は自転車をその場に停めて、私の両目を手のひらでそっと塞いだ。
「すると何も見えなくなる。けど、こうして音は聞こえるんだ」
「たしかに…当たり前のことかもしれないけれど、考えたこともなかったよ」
「うん、そうだろ。でもね…」
「でも?」
「聞きたくないような無情な言葉たちから逃げようとして耳を塞いでも…」
 響は手のひらを私の目から離し、次は両耳にそっと被せた。
「…塞いでも、聞こえるんだよ」
「ほんとだ」
 響はふっと笑って、耳から手を離した。
「誰かが辛く悲しい出来事の中で絶望して目を塞いでしまったとき、その人を救えるのはきっと、音なんだ。だから僕は歌を作り、歌うんだと思う」
 まっすぐな目をして、響はそう言った。
 私はその目に吸い込まれそうになる。
「そっか…なんかすごいな」
「でも、絶望して目を塞いでいる人を、さらに突き落とすことができるのも、音なんだ。だから、一音、一字一句に気をつけて作らなきゃいけない。大きな責任が伴う作業だと思うんだ」

 辺りはもう真っ赤に燃える夕暮れ時で、私をセンチメンタルな気持ちにさせた。
 響は停めた自転車を再び押して、二人ゆっくりと歩き始めた。
 きちんと整備させておらず少しでこぼこした道だったから、押している自転車がガチャガチャと音を立てた。
 夏の終わりの湿ったような、乾いたような、何とも言えない風が私の前髪を揺らして、視界の邪魔をする。かき分けて、響の方をみた。
 夕焼けに目を細めて、まぶしそうな横顔。
 男の子なのに、私よりも長いまつげが少し憎らしくて、愛おしかった。
「ねぇ、響」
 そう呼ぶと、響がこちらを向く。
「ん、なあに」
「私ね」

 深呼吸する。
 時が、今にも止まりそうなほどゆっくりと流れる。

「響のこと、すごくすごく好きだよ」


 自宅の近くには古びた商店街があって、そこを抜けたところに森の抜け道があった。夏の強い日差しから守ろうとしてくれてるみたいに、並ぶ木々のトンネルがあって、そこを通り抜けると、そこには果てしなく広がる草原がある。そこは町の人たちにもあまり知られていない場所で、私のお気に入りの場所だった。
 無情なほどにせわしなく過ぎてく現実世界からぽつんと切り離されたようなその草原は、まるでそこだけは時間がゆっくりと進んでいるかのような感覚さえあって、それは響の歌を聴いている感覚によく似ていた。だから私は、やる気がなくて何もしたくない時は自室のベッドの上で止まった時間を堪能しては、それに飽きるとここへ来て、ゆっくりと進む時間の流れの中で好きなことをするのだ。
 もっぱら最近は、部屋に置きっ放しにしてある響のアコースティックギターを持ち出しここへ来ては、練習するのが日課になっていた。
 ギターケースの中から、ぐしゃぐしゃのコード譜を取り出して地面に広げる。
 タイトルの部分は滲んでいて読めないが、字の癖から、これは響の書いた譜面に違いなかった。譜面には歌詞は書いてなくて、ただ小節ごとに区切られた五線紙の上にギターコードがいくつも書いてあるだけのもの簡単なものだった。いつだったか私の部屋に落ちていたのを取っておいたのだけれど、ふと最近、もしかしたらこれが私の思い出せない「あの歌」なのかもしれないと、淡い期待が私の脳裏に浮かんだ。急いで商店街にある本屋さんでギターコードブックを買って、それから毎日のようにこうしてこっそり練習しているのだ。
 この譜面を響に見せて「この歌知らない?」と訊いてしまえば、それが一番早いのかもしれなかった。だけど響も、きっと自分の歌じゃないと何度も言ってしまった手前、意地を張って簡単には認めてくれない可能性もあった。だから、私がいきなりこの譜面のコードを弾きだしたら、響自身、タイトルや歌詞、そしてこの曲の存在そのものを思い出してくれるかもしれないし、なにせギターの全く弾けなかった私が弾くのだから、その驚きで意地を張るのも忘れて自分の歌だったことを認めるんじゃないかと考えたのだ。
 ぎこちない動きで、ギターの弦を押さえていく。ビーン、と変な音がなったり、上手く音が出なかったりすることも少なくなかった。忘れてしまったコードが出てくると、慌ててギターコードブックを開いて押さえ方を確認した。
 D、G、Eマイナー、A…こんな、パッと見なんのことかさっぱりなアルファベット記号の羅列で、音楽を書き記せるだなんて妙な感じがした。
 そもそもなにがどうなってこの羅列を思いついたのかがわからないし、歌を作る、ってことがどんな感覚なんだろう。
 いつもそれが不思議だった。
 悩みに悩んで、時に手を止めて頭を抱えながら書く夏休みの作文みたいな感じなのかな。
 それとも、よく売れっ子のミュージシャンがよく話しているみたいに曲の方からこちら側に舞い降りてきた、みたいな感じだろうか。
 
 歌を作る感覚は、口では伝えづらい感覚だな、でも僕は、作るというよりは、いくつもの想いやメロディーの断片たちを、積み上げるみたいな…と響は言っていた。
 人にもよるけどね、とも言っていた。
 
 もし。
 私がもし、自分で歌を作るとしたら、どんな感じに作るんだろう。

 そんな風に考えることがよくあった。
 まず何を歌うんだろう、自分のこと、このお気に入りの場所のこと、響のこと。歌いたいことはたくさんあった。
 こうしてギターをずっとずっと弾き続けていたら、そのうちいつか、勝手に歌いだして、どんな感覚で作るだなんて考えることもなく、自然に自作の歌が生まれる時なんかがくるんだろうか。
 そう思うと少し胸が踊った。

 しばらくギターを弾いていたら、弦を押さえる左手の指が痛くなってきた。ギターをケースに仕舞って、草原を後にした。

 森を抜けて、商店街に出た。
 また現実世界に戻ってきたんだな、という感じがした。
 そこでいつも、なぜか涙が出る。
 いつもこの森を抜けた瞬間は、心がずっしりと重くなるような感覚があった。それは私一人では抱えきれないような重さだった。
 誰かの歌に、素晴らしい世界だ何だみたいなものがあったけど、とんでもない。現実世界なんてなんの取り柄もない、ただただ残酷な世界だ。でも私には世界を変えるような大きな力はないし、ただそこから逃げることしか出来なかった。けれど、いつまでも逃げてもいられない。こうして森を抜けてこちら側に来なくては行けない瞬間が必ず来てしまうのだ。ああ、やっぱりなんて残酷な世界なんだろうって、そう思う。

「あ、凛ー!」
 私を呼ぶ高い声にびくっとして、振り返る。そこに立っていたのは同級生の三千香だった。
「ああ、みっちゃん。久しぶり」
 泣いていたのがばれないように、なんとか笑ってみせる。
「凛、元気してた? …あれ、ギター、やってるの?」
 怪訝そうな表情で三千香がそう訊いてきた。
「うん。最近ね」

「そっか…。凛、まだ、×××れないの?」

 私はその言葉が上手く聞き取れなくて、適当に「うん」とだけ曖昧に返した。

「そっか、それは×××…」

 なんだか聞くに堪えなくなってしまって、私は逃げるようにその場を立ち去ってしまった。

 大きなギターを抱えて、走る。
 静かで古びた商店街の風景の中に、それはあまりに浮いている光景だったと思う。
 息が切れる。
 胸が苦しくなる。それでも走った。
 ずっと後ろを追いかけてくるような感覚があった。本当に追いかけてきているのかどうかはわからないけれど、振り向いて確認するような余裕はなかった。
 走りながら思う。
 私はきっと三千香から逃げているんじゃなくて、私の力ではもうどうしようもない現実から必死に逃げているだけだった。
 いつだってそうだった。学校で嫌なことがあると、その場を走り去った。
 響と大げんかしたときもそうだった。
 そしてそういう時はいつも後ろから追いかけられている感じが付いて回った。それは全部、現実を受け入れれずに逃げ出そうとした私を、逃がすまいと追いかけてくるそれが、そう感じさせるだけに違いなかった。

 自宅の玄関を乱暴に開けて、中に飛び込んだ。
 はぁ、はぁ、と荒い私の呼吸が、静かな空間に虚しく響いていた。


「歌って字は、可能性の『可』が二つに、欠乏の『欠』って書いて『歌』でしょ?」
「うん」
「それに気づいたとき、なんか凄く感銘を受けたんだ、勝手に」
「どうして?」
「一説によると、歌、というものが生まれたきっかけは、様々な宗教とかで行われる『祈り』が音楽と結びついて生まれた、って言われてるんだ。祈りは、可能性を信じてするものでしょ。でも、もちろんすべての祈りが叶う訳じゃない」
「そうだね」
「どんなに可能性を信じて歌っても、叶わないことがある。どれだけ祈っても、そしてその中のどれだけ多くの人が救われたとしても、叶わない人がいる。『歌』は、どこか欠けてて不完全な『祈り』を表現してるんだ、だから歌は今もずっと歌われ続けていて、増え続けているんだなって。勝手な解釈だけどね」
「ううん。なんだかそういうのって、すごくいい」
「だからきっとさ…、」
「うん」
「きっと、全部手にしてしまったら、歌うことなんて何もなくなっちゃうんだろうなぁ…」


 私はきっと臆病で、そしてとても脆くて、今にも壊れそうな心を抱えて生きている。
 だから、普通なら、きっと気づかないうちに忘れてしまうような出来事でさえ私の心に重くのしかかるのだ。
 実体のない圧力に、胸を押しつぶされるような苦しみが、幾度となく私に襲いかかる。これでもか、とその実体のない圧力が、苦しんでいる私を見て嘲笑っているように感じる。
 息苦しい世界だ。
 理由もなく、涙が出てくる。
 いや、もしかすると理由はちゃんとあって、ただ私はそれから目を背けているだけなのかもしれなかった。
 見たくないものを、目を塞いで見えないようにしているのだけ。
 いつからこんな風になってしまったんだろう。私は考えていた。 

 自室に置いてあるテレビをつけると、ついさっき起きたばかりの痛ましい殺人事件の話題で持ち切りだった。
 慌ててテレビを消す。
 ベッドに潜り込んで「何も見てない、見てない」と繰り返し呟きながら、体を小さく丸めて身を、心を守った。
 やめてよ。
 やめて…。

「高校生の少年が、何者かに腹部を刺され、死亡しているのが今朝発見されました。犯人は未だ見つかっておらず、警察は慎重な捜査を進めています…」

 布団越しに、響の声が聞こえた。いつの間に部屋に来ていたのだろう。

「ほら、言っただろ。嫌になって、もう何も見たくなくて。目を塞いだとしても、聞こえる。そうでしょ?」
「帰ってよ」
 泣きながら、私はそう言った。
「お願い、帰ってよ」
「凛…」
「帰って」
 響の言う通りなのだ。いくら目を塞いでも、この耳に、情報は音として入り込んでくる。
 それは優しいようで、とても恐ろしいことだ。逃げ道のない行き止まりで、震えながら私はこの身を丸めているしかないのだ。
「凛、いつまでそうしているんだい」
「いつまでも」
「いつまでも、そうしていられると思うの?」
 痛い所を突かれて、少し口籠ってしまう。それでもなんとか私は返事を返した。
「…けど、とにかく今はこうしていたいの。そして、このまま時がずっと止まってしまえばいい。私の感情ごと止まってしまえば、そんなに幸せなことはないよ」
「…」
「響にはきっとわからないよ、私の気持ちなんて。きっと、わかりっこない」
「そっか」
 響はとても悲しそうな声で、そう言った。
「そっか…」
 それは自分に何かを言い聞かすような感じだった。

 しばらくして、バタン、と私の嫌いな音が聞こえた。
 布団の中で膝を抱えて、また私はずっとずっと、泣いていた。


 その日を境に、響はぱったりと会いにきてくれなくなってしまった。携帯に電話をかけても、響が出ることはなかった。
 馬鹿。
 布団にくるまりながら、そう独り言を言う。これでもう何日そうしているだろう。
電話をかけて、繋がらなくて、逃げるように眠りについて、また起きて、電話をかけて。
 そんな繰り返しの中で、響に会いたいという気持ちだけが、どんどん募っていった。
 トントン、と部屋のドアをノックする音が聞こえる。
 はあい、と力なく返事をすると、お母さんが入ってきた。
「凛、寝てたの」
「ううん、響に電話かけてたの、でもね、全然出てくれないの。ひどくない?もう何日も無視するんだよ?」
「そうなの…」
 お母さんは力なくため息をついた。
「凛、久しぶりに、下で一緒にお茶でも飲む?」
 お母さんの提案に、小さく返事をした。
「うん」

 急須から湯のみにお茶を注いでいるお母さんを見ていると、こんな光景いつぶりなんだろう、となんだか懐かしい気持ちになった。注がれたお茶を一口飲むと、心まで少し温かくなるような感じがした。
「凛とこうしてゆっくりするなんて、いつぶりだろうね」
「私もいまそう思ってた」
「ふふ、なんだかんだ親子なのね」
 お母さんは小さく笑った。
「その…響くんに、電話かけてたのよね」
「そうなの、でも出てくれなくて。困っちゃう」
「んと、何かあったの、響くんのことで」
「うん、ちょっとね」
「そう…」
「喧嘩したの」
「喧嘩?」
「そう、喧嘩。私が冷たくあたっちゃったから、響、怒って出てっちゃったんだと思う」
「何があって、どうして冷たくあたっちゃったの?」
 お母さんは優しくそう訊いてきた。
 その優しい声に、胸がちくりと痛む感じがした。
「布団にくるまってたら、いつまでそうしてるつもりなのかって、そう言われちゃった。響に」
「うん」
「それで、私は、帰ってって言ったの。そして、このままこうして布団にくるまったまま、時間が止まってしまえばいいんだって、その気持ちは響には分かりっこないって、そう言ったの」
「そうなの…」
 お母さんは一口お茶のゆっくり飲んで、小さく息を吐いて、大きな何かを受け入れるような、そんな温かく、そして決意に満ちた表情をした。
「響くんは、凛のそんな姿、見たくないんじゃないかなぁ、きっと」
「私の?」
「うん、前みたいに、暇さえあれば出かけて外で遊び回って、いつも笑顔で元気な凛を見たいんじゃないかな」
「そんなこと言ったって…もう戻れないもん、昔には、戻れないもん…」
 胸がきゅーっと苦しくなって、涙が溢れ出る。毎日こんな調子で、私の涙は一体どれだけあるんだって自分であきれてしまう。
「凛、向こうが来てくれないならね、こっちから会いにいけばいいのよ。何かが起こるのを待つんじゃなくて、自分から起こしに行かないと」
「お母さん…」
「行ってきなさい、凛」
「でも…」
「行きなさい」
 お母さんの声が、少しだけ厳しくなる。
「行きなさい…」
「わかった、お母さん」
 席を立ち、私はリビングを出た。お母さんが泣いている声が聞こえたけれど、私は振り向かずに家を出た。

 外はもう日が傾き始めていて、涼しい風が町を包んでいた。
 響の家は、隣町にあって、私の町からはバスに乗って三十分くらいの所、バスの終点にあたる所だった。だから、バスに乗ったら眠りについても、寝過ごすことがないので、ねぼすけな私には嬉しいことだった。
 商店街の近くにあるバス停で、私はバスを待った。
 私の町のバスは二時間に一本のペースしか来ないのだけど、タイミングよくもう間もなくバスがくる時刻だった。バスがくる方向を見て目を細めると、遠くからこちらに向かってくるのが見えた。
 こうして私から響の家に向かうのは、いつぶりなんだろう。私にとっていろんなことが、昔のことになってしまった。
 家族とのふれあい、学校に向かう道、制服、友達との会話、響の家に向かうバス…。
 数えきれない日常の欠片たちが、もう手の届かないような遠くにあるような感じがしていた。
 音を立てて開くバスのドアをくぐり、私は中に乗り込む。一番後ろの、端っこの席に座って、窓の外を見ながら、感傷に浸る。
 前は、よくこうしてこの景色を見ていたのにな…。
 なんだか夢でも見てるような感覚だった。もう二度と見ることのないと思ってた光景が目の前に広がっていた。
 窓に頭をこつんと当てて、ひんやりとした感触を頭に感じながら、私は眠りについた。

 しばらくして、終点のアナウンスが車内に響いて、私は目を覚ました。慌てて席を立って、お金を払い、バスを降りた。
「うわぁ…」
 何にも変わってない町並みだった。いや、そんな数年で町並みが変わる訳ないのだけれど、なんだか不思議な感じだった。
 バス停から少し歩いて、コンビニエンスストアの所を曲がってすぐの所に響の家はあった。わたしが響の家から帰るとき、いつも二人でそのコンビニエンスストアに立ち寄り、私はミルクティーを、響はコーヒーを買っていた。高校生だから二人ともお金はなかったけれど、バス代の代わりにこのくらいはさ、とか言ってカッコを付けて、いつも響がお金を出してくれた。
 懐かしいなぁ…って思い出しながら、わたしはその前を通り過ぎ、角を曲がった。見慣れた家がそこにあって、でももうずっと来ていない家で、わたしは変に緊張してしまった。
 インターホンに指を置き、押そうとした所で、わたしははっと我に返る。
 私は何をしてるんだろう。こんな所で、響の家族にでも見られたりしたら、どうするつもりなのだろう。
「やだ、危ない危ない…何してんの私、ほんと、馬鹿みたい…」
 見たくもない現実が津波のように押し寄せてきて、私の心に激しく打ち付ける。
「帰らなきゃ…!」
 走り出そうとした瞬間、後ろから声をかけられた。
「凛ちゃん…よね」

 響のお母さんの声だった。


「ほんとに久しぶりねぇ…凛ちゃん…。あ、入って入って」
 響のお母さんに手招きをされて、恐る恐る家の中へと足を踏み入れた。
 懐かしくて、ちくりとする匂いがする。響の匂いだ。家全体が、彼の匂い…いや、逆なのか。彼の匂いはこの家の匂いなんだなって、再確認する。
「その、あの…」
「良ければ、お茶でも飲んでって」
リビングに連れられ、テーブルの前に置かれた椅子に腰掛ける。
「でも…家でも飲んできたので…その…申し訳ないですし…」
「あらそうなの、なら何か食べる? お腹すいてない?」
「いえ…大丈夫です」
 弱々しくそう返す。出来ることなら今すぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「そっか。なんかごめんなさいね、気を遣わせてしまって」
「そんな! こちらこそ何だかすいません…突然こんな…」
「いいのいいの」
 響のお母さんは、私の向かいの席に座ると、懐かしむような表情でこちらを見た。
 「響も喜ぶわ、きっと…」
 ちくり。
「あ、あの…ごめんなさい」
「どうしたの、謝ることなんてないのよ、凛ちゃんにはつらい思いをさせちゃったわね。こちらこそごめんね」
 響のお母さんが目にうっすらと涙を浮かべると、ひどく胸が苦しくなった。ずっと目を背けてきた現実という巨大な怪物が、私に襲いかかってくるような感覚だった。それはもちろん響のお母さんが悪い訳ではなくて、もちろん響が悪い訳でもなくて、紛れもなく私自信のせいだった。
 今、私の目の前に、しっかりと現実と向き合い、受け入れ、戦っている人がいるのだ。でも私にはそれが出来ていない。
 だから私はこの人とこんな風に面と向き合っていいような立場ではないのだ。
「響が×××からね…ずっと凛ちゃんのことを気にかけていてね…」
 聞こえない。私にはその言葉は聞こえない。
「だからこうして会えてよかった。元気そうでよかったわ。凛ちゃんはいい子だから、自分を責めたりしちゃってるんじゃないかって。何度も電話をかけようとしたり、直接会いに行こうとしたりもしたけどね、逆に追いつめちゃうんじゃないかって、そんな心配もあって出来ずにいたの」
「あ…あ……」
 体が小刻みに震え始める。この場から消えたい。助けて欲しい。
「けどほんとに。凛ちゃん来てくれてよかった。ねぇ、響?」

 やめて。そんな物に話しかけたりしないで! そんなの響じゃない。そんなの、響じゃない!!

「よかったら凛ちゃん、手、合わせていっ…」

「ご、ごめんなさい! そ、その、わたし、その、ごめんなさい!」

 立ち上がり、逃げるようにその場を去る。椅子が倒れた音がした。響のお母さんが心配そうに、私を呼ぶ声がする。それでも振り返らずに、私は逃げる。
 とにかく走る。どこに向かってるかもわからないままわたしはとにかく走った。
 息が切れて、口が渇く。苦しい。
 もう誰も追ってなど来ていないはずだった。それでも何かが追いかけて来ているような感覚があった。それは、響のお母さんなんかじゃなくて、私が目を背けている現実そのものなのかもしれなかった。
 人気のない、暗く細い道路に入り込む。足がもつれて、わたしは倒れ込むように転んだ。
「どうして…」

 どうして。

「どうして…どうして…」

 涙が止まらなくて、私は道路の上にも関わらず小さく丸まってすすり泣く。
 どうして私はこんな風になってしまったんだろう。
 なんてことない、ありふれた幸せに包まれた日々のはずだった。なのに、どうして。

「理由なんて、わかってるくせに」

 その声に、私は目を見開く。

「ひ…びき」

 私の横に、しゃがみ込む響がいた。私は上半身を起こして、道路に座り込む。
「響…響だ…」
「凛、目を覚ましなよ、そろそろ」
「やだ」
「凛」
「やだ」
「あのなぁ…」
「やだもん!!」
 子供のように駄々をこねる。
「やだじゃない」
「やだ!!」
「凛、もう僕は、」

 やだ!!

「死んだんだよ」

 ―あの日。響が死んだあの日は、なんてことない、普通の日のはずだった。

 その日は雪が降っていて、ずっと二人で寄り添い、手をつないで歩いた。
 コンビニエンスストアを出て、響の家の方に向かって、家の前でまた明日ねって、そう別れた。
 家に帰って、あることに気付いた。手袋がない。手をつなぐ時、はめていた手袋を外してポッケにいれて、それをどこかで落としまったみたいだった。響が買ってくれたプレゼントだったから、失くしたくなくて、すぐに探しに出かけた。
 私の家からバス停までの道にはなくて、あとはバスの中か、響の住む町に落としたかのどちらかだった。バスの会社に連絡を入れてみたけれど、それらしい忘れ物の連絡は入っていないようだった。とりあえず私はバスに乗って、響の町に向かうことにした。
バスを降りて、バス停から歩いた道を辿って地面を探しても、それらしきものはなかった。コンビニエンスストアを曲がって、あとは響の家の前の通りを見るだけだった。
角を曲がり、私は立ち止まる。沢山の人だかりが出来ている。パトカーもあった。嫌な予感がして、私は人をかき分けて進んだ。
 人だかりを抜けて、私は目の前の光景に言葉を失った。地面に血の海が出来ている。そして、私は周りの人たち会話から、響が通り魔に襲われたということを知った。
 携帯電話を見ると、響の携帯から着信が数件来ていた。慌てて掛け直すと、響のお母さんが出た。ひどく動揺しているようで、言葉がしどろもどろだった。とにかく私は響の安否が心配で、病院の名前を聞いて、急いで向かった。
 病院に駆け込み、受付で響のいる場所を訊いた。
 どうか無事でいて、と願いながら、私は集中治療室へ向かった。

 でも、遅かった。
 
 響は、私の手袋を強く握りしめて倒れていた、と聞かされた。
 どうやら私が落とした手袋に気付いて、それを渡すため追いかけた途中、通り魔に斬りつけられたとのことだった。
 私のせいだ、と思った。
 私が手袋なんか落とさなければ、響はまっすぐ家に帰っていて無事なはずだった。
 響が死んだのは、私のせいだ。
 私のせいだ…。
 でも、認めたくなかった。私のせいで響が死んでしまったなんて、信じたくなかった。受け入れがたい現実だった。

 
 あの日から、私は学校にも行かず、ずっとずっと現実から目を背けてきた。
 お葬式で、周りのみんなのすすり泣く声や、挨拶をする響の両親の声を聞きながら、私は下を向いて、自分を責め、泣き続けた。
 
「凛…顔上げなさい、ね、ほら…つらいのはよくわかる。けど、最後はきちんと見送ってあげなきゃ…」
 お母さんは私の背中を優しくさすりながらそう言った。
 私がぐしゃぐしゃの顔をなんとか上げたその時、目に飛び込んで来た、大きく飾られた遺影の響は、相変わらず屈託のない笑顔だった。
 その笑顔で、私の中の何かがプツッと切れた。

 その時。私は心の中でこう思ったのだ。

 そうだ、響は死んでなんかない、って。

 ―気付くともう響はそこにいなくいて、ただ道路に座り込む私だけがぽつんと残されていた。
「響…」
 響はもう、死んだ。
 信じたくない。
 けれどそれは紛れもない現実だった。どうあがいても、色んな方向から現実は私に襲いかかってくる。
「もう…限界なのかな…」
 私は力なく苦笑いして、立ち上がる。
「ここ、どこかな。響と行ったコンビニ…どこ…あっちかな…」

 ふらふら歩いて、やっとそのコンビニエンスストアを見つけた。
 中に入り、ミルクティーとコーヒーを、ひとつずつ買って、バス停へ向かう。
 時刻表を見ると、バスがくるまでには、まだ時間もう少し時間があった。
 私はミルクティーをあけて、一口飲む。
「おいしい。響、ありがとう。いつも買ってくれて、ありがとう」
 返事はない。私の横には誰もいない。
「ああ、そうそう、コーヒー私が預かってたね、ごめんごめん、はい、飲むでしょ? ねぇ? 響?」
 誰もいない右側に私は話しかける。響は現れない。
「ねぇ、響…ねぇ…出てきてよ…」

 バスはまだ当分、来そうにはなかった。


 真っ暗な自室で、ベッドに座って、私は考える。
 もう響はどこにもいない。
 もう響はどこにもいない。
 でも、そんなの認めたくなくて、あまりに無情な現実を前に、目を塞ぎたくて、私は自分を騙そうとした。
 なのに。
 やっぱりダメだった。響がもうこの世界に存在していないことは紛れもない事実だった。
 でも…。
 諦めきれずに、私は再び自分を騙そうとする。
 でも…本当は響はまだ生きていて…あの日の出来事は全部夢で…。
 そう自分に言い聞かせようとすると、あの声がする。
 
 凛、もう僕は、死んだんだよ。

 「そんなのやだよ…」
 ぽつりと呟く。静かな部屋にその声はすぐ溶けて消えてしまう。
 「響がいないなら、私、生きてる意味なんてないよ…だってもう、どれだけ願っても響には会えないんだもん…。そんな人生なんて、なんの価値もないよ…」

 もうこの世界に響はいないのに、どうして私はまだこうして居座っているのだろう。
 響はもう、違う世界に旅立ったんだ。違う世界に。
 
 私は立ち上がり、ふと思い立つ。

 それなら、いっそ。

 部屋を出て、リビングに向かう。
 リビングに置いてある薬箱の中を探すと、寝付きの悪いお父さんが、時々使っている睡眠薬があった。まだ中身はたくさん入っている。私はそれを握りしめて、再び部屋に戻った。ギターケースを反対の手に持ち、私は家を出た。
 
 夜の町は静かで、涼しげで、とても穏やかな気持ちになった。自殺日和だ、なんて不謹慎な言葉が頭に浮かんだ。けれど、私のそれは他の人とは少し違う。私は響に会いに行くだけなのだ。失うことではなく、むしろ幸福を手に入れる為の行為なのだから、悲しいことなんて、ない。
 
 森を抜けて、草原に出る。風が、私の門出を祝福してるかのように、前髪を揺らした。
 ギターケースと睡眠薬を地面に置き、私はそのまま寝転んだ。どこまでも広がる星空に吸い込まれそうだった。この空のどこかに、響がいるのだと思うと、いつになく綺麗なものに見えた。
 もうすぐだよ、響。
 そう笑って、上半身を起こして薬を手に取った。ふたを開け、中身を手のひらにジャラジャラと出した時、ふと、一緒に持って来たギターが視界に入った。
「向こうで響に返そうと思って持って来たけど…せっかく持って来たんだし、最後にギター弾いてから、にしようかな」
 睡眠薬を一度容器に戻して、私はギターを取り出した。ひんやりした木の手触りが心地いい。
 深く息を吸って、私は練習していた「あの」曲を弾き出した。

 その時だった。

 

   部屋で何度も、何度も、
   聴いていた 歌があった 
   飽きることもないまま

 
 その歌声に、私は振り返る。

「ひ…びき」

 そこには、いるはずのない響がいた。優しいまなざしで、私を見つめていた。

「凛、僕が、見える?」
「見えるよ…見えるよ!!響!!」
「よかった。さぁ凛、続けて、演奏」
「響、あのね、私ね、」
「いいから、続けて」

 響がそう笑う。私は止めどなく溢れてくる感情をこらえて、演奏を再開した。それに会わせて響も歌う。


   嫌になって もう、何も
   見たくなくて 目を塞いだ
   でも、「聴こえる。」
   そうでしょ?


 響はそう歌いながら、私の目をその大きくて温かな手のひらで塞いだ。
 目の前が真っ暗になって、何も見えない。でも、聴こえる。


   溢れ出した感情 繋ぎ合わせて 出来たメロディ
君は笑うかな 回りくどい、だなんて
   でも仕方ないよ
   言葉にならないから


 私は涙が止まらなくて、それでもギターを弾き続ける。


   部屋で何度も、何度も、
   泣き明かした 夜があった
   そんな時はいつでも
   繰り返し聞いては
   口ずさんだ歌があった
   ほら、「聴こえる。」
   今でも


 思い出す。響に出会った日。
 まっすぐな目をした人だなって、そう思った。それでいて、どこか遠くを見ているような、儚さがあった。


   溢れ出した感情
   繋ぎ合わせて 出来たメロディ
   ねぇ、今度は 君にとって大事な
   ものになれるかな  
   そうだと嬉しいな


 放課後の誰もいない音楽室、私が忘れ物を取りに行ったとき、そこでひとり、響がギターを弾きながら歌っているのを見た。きっとその時、私は恋をした。
 響は私が音楽室に入って来たことに気付いていないみたいで、気持ち良さそうに響は歌っていた。歌い終わったとき、大きな拍手をしたら、びっくりした表情で振り返って、恥ずかしそうに笑った。なんだよ、いつの間にいたんだよ、って。
 いい曲だね、誰の曲?って言ったら、響は嬉しそうにありがとう、自作なんだ、ってまた恥ずかしそうに言った。すごい!曲なんて作れるの!と私が驚くと、頭をぽりぽり掻いて、たいしたことはないよ、と謙遜していた。


   やがて季節は移りゆくけれど
   変わらないもの いくつも見つけた
   その「ひとつ」であるってことを
   どうか忘れないでね


 大事な曲なんだ、とその時、響は言ってた。本当に本当に、大事な曲なんだ、って。そうなんだ、もしかして、ラブソング?って私が茶化したら、うーん、と響は少し悩んでから、どうなんだろうね、と言った。もう、そうやってごまかしてー、って肘で突くと、響は苦笑いしながら、でもね、この曲は、バトンのような曲なんだ、と言った。バトンって、リレーとかに使う、あのバトン?って訊いたら、うん、そうだよって。


   部屋で 何度も、何度も、
   聴いていた 歌があった
   いつまでも消えない
   心に残ってるから


 へぇ、バトンかぁ…ねぇねぇ、なんて曲名なの?


   残ってるから

   その、すべてが


 ん?ああ、この曲はね…


   胸に響く エコー


 …いい曲名だね。
 

   消えない この魔法

   胸に響く エコー

   胸に響く エコー

  胸に響く エコー


 『echo』。
 やっと気付いた。
 私は、思い出せない振りをしていた。
 この曲を思い出すと、涙が止まらなくなるから。煌めいて、眩しいくらい幸せな過去にはもう戻れないという、無情な現実に、つぶされそうになるから。
 でも、心のどこかで忘れたくなくて、でも忘れたくて、私は無理をして忘れた振りをしながらも、ギターを練習していた。
 部屋で何度も何度も聴いていた、この歌を。

 演奏が終わって、響は私の目からその手を離して、立ち上がった。
「…響?」
 響は安心したような、でも何か強い決心したような表情だった。
「凛は、もう大丈夫だよ。ちゃんと、生きてゆけるから」
「やだ、やだよ! せっかくこうしてもう一度会えたのに、またいなくなっちゃうの?」
「凛、」
「やだ、やだやだやだ!」
 私はみっともなく泣き叫んだ。
「凛、聞いて」
「やだ…」
 響は子供を諭すような優しい声で話した。
「この曲は、バトンのような曲だって、あの日、そう言ったろ?」
「…うん」
「そのバトンを、凛が受け取ってくれたんだよ」
「私が?」
「そう、凛が」
 響はそう笑って、私の頭に優しく手を置いた。
「僕がいなくなっても、君がずっとこの曲を覚えててくれれば、歌い続けてくれれば、響っていう人間が確かに生きていたことの証明になるんだよ。だから、どうかこの曲を忘れたふりなんてしないで。この曲を心に置いといて欲しい。そしてどうか、ずっと忘れないで。凛がこの曲を、これから出会う沢山の大切な誰かに伝えて、またその誰かが大切な人に伝えて…って、そうやってずっとバトンは続いてく。この歌で繋がった人々の心の中で、僕はずっと生き続けていくから」

 うん、わかった。ずっと、忘れないよ。
 響、私ね。響のことが本当に、本当に。

 大好きなんだ。


***


 目を覚ましたとき、辺りはもう明るかった。
 草原の上で、私はギターを抱きしめながら横になっていた。
 慌てて体を起こして、辺りを見渡したけれど、どこにも響の姿はなかった。
 ギターを担いで、ポロン、と『echo』の最初のコードを鳴らす。それに乗せて歌おうとして、私は気付く。男の子が歌う為に作られた曲だから、歌のキーが低くて上手く歌えない。こんなことにも今まで気付けなかったなんて、今まで何してたんだろうな、って少し恥ずかしくなる。
 私はいつだったか響に教えてもらったのを思い出して、ギターケースからカポタストという、移調する為の器具を取り出して、ギターに取り付ける。少しづつ移調していって私の歌いやすいキーに変えてみる。
 やがて、ぴったりのキーを見つけた。
 これだ。
 これで、わたしもこの曲をきちんと、最後までしっかり歌える。

 しっかりバトン、受け取ったよ。

 そう心で呟いて、私は歌いだした。
 部屋で何度も、何度も、聴いていた、大切なこの歌を。
 もう私はきっと大丈夫だ。そう思う。
 どんなつらい時だって、こうしてずっと響が私の中に存在しているのだから。何も、恐れることなんてないんだ。

 歌い終わった丁度その時、私の名前を呼ぶ、両親の声がした。いなくなった私に気付き、心配して探していたのだろう。
 私は二人の元に駆け寄って、抱きつく。
二人とも号泣していて、何を言っているのかよくわからなかったけれど、こうして私は愛されていて、誰かに必要とされている。
ひとりぼっちなんかじゃなくて、繋がってるんだって、なんだかそう強く感じた。それが嬉しくて、私も泣いた。
「あのね、お父さん、お母さん」
 なあに、と涙を拭いながらお母さんが言う。お父さんもこちらを見た。
「あのね、」

 深呼吸して、私は言った。
 あのね。

「聴いて欲しい、歌があるんだ」
 



(The End. But, the story continues.)

 

『echo (エコー)』

『echo (エコー)』 温詞 (from センチミリメンタル) 作

〔 —部屋で何度も 何度も 聴いていた歌があった— 〕 現実を受け入れられずに、自分の世界に生きる少女の物語。 忘れられない、大切な人、景色、歌…。 そんなものたちに、触れたくなる作品です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2014-09-27
Copyrighted

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