硝子の動物園

この作品群は、2000年の8月夏コミの時に出した小説本、および自サイトに出していたものの転載です。
内容は、オリジナルの18禁小説。
生まれてはじめて書いた18禁であり、初めて出した小説本であり、初めて仕上げたお話でもあります。
(そして、今に至るまで「仕上げたお話」のごく少ない私。)
今読み返すと至らないところだらけですが、かといって手の入れようもないので、言いまわしを少々変えたほかは改訂せずにそのまま載せます。
(と、すでにサイトに出した時点で言っていましたが、今回もそれは変わりません。)

使い回しも甚だしいですが、今読み返してもやっぱり自分で好きだと思う話なので、登録します。

タイトルの「硝子の動物園」は、テネシー・ウィリアムズの戯曲「ガラスの動物園」を意識して、というか、そこからいただいた、というか、……やっぱりまずいのかしら、これってば。
昔はまんま「ガラスの~」だったのを、今回はせめてと思い漢字にしてみました。

うさぎ

 え?
 は……はじめての、ひ……「ひとりえっち」ですか?
 そそそ、それについては、以前にもお話したじゃありませんか!
 え? あれじゃなくて? もっと何気ないやつ?
 この記事を読め?
 ……「コタツの足に偶然触れて」……「枕で」……。はあ。
 よ、世の中にはいろんなきっかけがあるものなんですねえ。
 でも、なんでこんな本持ってるんですか?
 資料用? あ、それはそうですね。
 う、うーん……。
 でもそんなこと、急に聞かれてもすぐには思いつかないです。
 え? 私が話さないと今度の仕事落としちゃうって……ずるいですよ、いつもそんなこと言って! だいたい、こうして録音までしておきながら、私の話が役に立ったことなんてないじゃないですか。
 「直接は書いてないけど、閃きの元になってる」?
 ……うー、わかりました。
 じゃ、あの、参考にはならないと思いますけど、それっぽいことお話します。
 笑わないで下さいね! 笑ったら、その場でやめますからね!

 確か、小学校の二年生くらいだったと思います。
 「ウサギは淋しすぎると死んじゃうことがある」って話を聞いたんです。
 お友達に聞いたんだったか、それとも何かで読んだのか、あやふやなんです。詳しいことも忘れてしまいました。
 ただ、その「淋しいと死んじゃう」っていうのが、すごく印象深くて……。
 あの……実験、してみたんです。
 いえ、それは、学校では確かにウサギとか飼ってましたけど、そうじゃなくて……。
 う、ううう、笑わないで下さいね。
 その当時、私、ウサギのぬいぐるみを持ってて、すごく大事にしてたんです。
 学校へ行くとき以外はずっといっしょで……名前は、ミミちゃん。
 ……はい、その子を相手に。
 今こうして話すとあんまりにも馬鹿みたいですけど、そのときはすごく真面目だったんですよ。真面目に、ほんとに淋しいと死んじゃうのかどうか、試したんです。
 ……真面目に試したっていう事は、相当残酷ですけど。
 でもなんでだか、どうしても試してみたくて。

 家に帰るといつも真っ先にそのウサギ……ミミちゃんを抱っこして、その日学校であったことを話してあげるのが日課だったんです。
 だからその日は、まずそれをしませんでした。
 鍵を開けて、ただいまも言わずに家に入って。
 ランドセルを置いて、流しで手を洗っている間中もずっと、部屋の隅にいるミミちゃんから目をそらしてました。
 そうしているとですね、その……なんていうか、「淋しい」気配が伝わってきたんです。 当時はぬいぐるみと話が出来たもので、そう言う気持ちもちゃんと読み取れたんです。
 ……笑わないんですね。
 「笑うなって言っただろ」?
 そう、そうでしたね……。
 えと、だからそれで私は、もう一歩実験を進めてみることにしたんです。
 ミミちゃんをそのままにして、隠れたんです。
 隠れるって言っても、六畳一間のアパートでしたから、押入れくらいしかないんですけど。
 その押入れにもぐり込んで、ミミちゃんの様子が見えるようにちょっとだけふすまを開けて、じっと息を殺してました。
 ……確かに。隠れる現場はばっちりとミミちゃんに見られてるんですよね。でも子供だったものでその辺りには頭が回らなかったんです。
 ここは、笑ってもいいところですよ?
 「その手には乗らない」?
 いえ、別にひっかけてるつもりはないです。
 えーと……それで……。
 けっこう長いこと、そうしてたんです。だから、暑い季節ではありませんでしたね。カーディガンを着ていたような気もするし、秋だったと思います。
 だんだん、日が傾いてくるんですよ。西日がさし込んできて、部屋の中が夕焼け色に染まっていくのを見てました。ミミちゃんの影が長くなって、表情がいっそう淋しそうになるのを見てたんです。
 声が聞こえる気がしました。
 淋しい、さびしい、早く帰ってきて、って……。
 それを見てると、私のほうもとても淋しくなってしまって、もうこんなことやめて早く抱っこしてあげたい、安心させてあげたい、そう思うんです。
 でも、ふすまに手をかけることはするんですけど、開けるのは思いとどまってしまうんで
す。
 見届けたい。そんなふうに思って。
 ……なんでそんなこと考えたんでしょうね。子供って残酷ですよね。

 ところがですね、そのうちに私のほうも差し迫ってきちゃったんです。
 その……生理現象。おトイレに行きたくなって。
 あは、お待たせしました、やっと本題です。
 それで、でも、そんなわけですから押入れから出てトイレへ行くわけにもいかず、しばらく我慢してました。
 もじもじとこう……太ももをこすり合わせたり、布団でこすってみたり……。
 ……えと、その、さっきの本にも書いてありましたけど、……おトイレを我慢してるときって、妙に……敏感になってるみたいで。
 それでそんなことをしたので……多分、当時はわからなかったんですが、あれはその、気持ち良くてしてたんだと思うんですよ。
 不思議な感覚でした。
 体も……その、感じてた、と思うんですけど、ほかにもいろいろ。
 淋しいミミちゃん、淋しいウサギ、淋しい夕暮れ、淋しいお部屋。
 目に映るすべてのものが皆とても切なくて。
 でも、泣いちゃったりしたら、私がそこにいるのがわかってしまうでしょう?
 だから必死で声を殺してたんです。
 お布団に顔を押し付けて、ぎゅっとシーツを握り締めて……足もこすり付けてるから、もうほとんど全身でお布団にすがりつく格好でした。
 それでもやっぱり涙はこらえきれなくて、お布団が涙で濡れちゃうんです。
 ああ、こんなにお布団ぐちゃぐちゃにしたら、お母さんに怒られちゃうかな。
 そう思ったとき、そういえばもう夕方だから、お米とがなくちゃ、なんて不意に思い出して。
 前にもお話しましたけど、ずっと母と二人暮しだったので、そういったことは私の仕事だったんです。
 お米をといでおかなくちゃ、ご飯炊いておかなくちゃ、怒られちゃう。
 ……でも母は、どんなことも頭ごなしに怒るような人ではなかったので、多分怒る前に理由を聞いてくれるだろうな、とも思いました。
 だけど、それはそれで困りますよね。「実験してたから」なんて答えるわけにはいかないことはその当時もちゃんと理解してました。
 だからきっと、何を聞かれても私は「ごめんなさい」って言うしかなくて、母は疲れた顔で
「仕方ないわね」って言うんだろうって……思って。
 も、頭の中ぐちゃぐちゃですよ。
 おトイレ行きたいのは限界に近づいてくるし、いい年をしておもらしするわけにはいかないし。
 お母さんに怒られちゃいけない。……でももしかしたら、ほんのちょっと怒られてみたかったのかもしれません。
 日が沈んで、部屋はどんどん暗くなって……淋しくて淋しくてさみしくて。
 あ、いえ、さみしいってミミちゃんが、言い続けてるんです。頭の中いっぱいに声が聞こえてました。
 それで。
 ……不意に、すべての物音が消えて、しーんとしちゃったんです。

 ……。
 ええ、まあ、その……そういうことかもしれません。当時はもちろん、わかりませんでしたけど。
 お願いですから、真顔でそういうこと言わないで下さい。その、いったとかいかないとか。
 えーと、それでですね! ……私、ホントにミミちゃんが死んじゃったのかと思って、ものすごく慌てて押入れから飛び出しました。
 抱き上げたら……ミミちゃんは「さびしかったよ、どこへ行ってたの?」って。……言ったような気がしたんです。
 泣いちゃいました。
 ごめんなさい、って、それはもうぽろぽろと涙を流して。
 あは、そのままで終わるとそれはそれで心温まるシーンだったのかもしれませんが、何しろ他のことも切羽詰っていたので、泣き顔のままトイレへ掛けこみました。
 間に合いましたよぉ、ぎりぎりでしたけど。
 なんですか? そのまま漏らした方がマニア受けしたのに、とでも言いたいんですか?
 ……「そんなことは言ってない」?
 ……や、やだ、あ、あははは、私ったら、毒されてますねえ。
 ええ、まあ、とにかく、お話はこれでおしまいです。落ちもつきましたし。
 ご飯? ちゃんと炊きましたよもちろん。お布団も直したし、その辺りは抜かりなく。
 あ、あははは。やだな、なんか恥ずかしいです。
 全然参考になんてなんないですよね、こんな話。話さなければよかったですね。
 ……あの? どうしたんですか? 表情が、めずらしく暗いような……。 
 きゃ!?
 あ、ああ、あのあの、なんですか一体!
 ……よ、欲情って!
 い、い、い、今の話の一体どこにそんな要素があったって言うんですか!
 やだ、ちょっとアケルさん、やめてください!
 まだご飯の支度すんでないんですから! ちょ……あの……。
 や……。


 ……さびしくなんて、ありませんよぉ……。
 だいじょうぶ、です。

春を待つきつね

 泊りがけでディズニーランドへ行こうと言い出したのは、リコのほうだった。
 リコ、は理子と書く。本当は「さとこ」と読むのだが、俺は、俺だけは、小さい頃からずっと、リコと呼んできた。
 決行はニ月の頭、大学の期末試験がめでたく終わったあと。
「平日なら空いてるものね。金曜日に朝から一日遊んで、その夜ホテルへ泊まって、次の日は屋内プールで泳いで、目いっぱいリフレッシュしてこよう!」
「平日って、リコは会社だろうが」
「有休取るわよ、もちろん。三月二十日までにあと三日消化しなきゃ、持ち越しできなくて損しちゃうんだもん」
「へえへえ」
「あら、何よその気のない返事」
「別に」
 『カズくんの為なら会社くらいいくらでも休むわ』なんて可愛らしい答えをリコに期待した自分が悪かった。
 そっぽを向いた俺は、目の端にリコがにんまり微笑むのをとらえる。
 リコは両頬を指の先で軽く押さえ、恥ずかしそうな表情を作って、猫撫で声を出した。
「カズくんの為なら、会社くらいいくらでも休むわぁん」
 ちっ。俺は舌打ちしてますます姿勢を崩した。
 リコは我慢できないと言って吹き出した。
 ひとしきり笑った後、また少し表情を引き締めて続ける。
「真面目な話、行こうよ。遅くなっちゃったけど、カズキの、誕生日と成人式のお祝いを兼ねて、豪華なディナーなど、ばーんと」
「どこにそんな金があるんだっつーの」
「ふふふ、聡明な姉をなめるなよ。この日の為にちゃんとへそくってございます」
「なーにが聡明だよ、粗忽ソウベエの間違いじゃねーの」
 黙って座っているならば、確かに聡明な美人に見えなくもないが、猫を脱いだらそこにいるのはただのリコだ。
 リコは喉をそらせて、俺を下目使いに見下した。
「カズキはディズニーランド嫌いだったんだ、知らなかったなあ」
「誰もそんなこと言ってねえだろ。自慢じゃないが高校の頃は月イチペースで行ってたんだからな」
「学校サボって彼女と? 不良ぉ」
「試験休み利用して、仲間とだよ。コウヘイとかワタルとか」
「はいはい、なるほど。あの子達とねぇ、色気のないこと」
「ほっとけ」
 本当は数度女の子と出かけたことがある.
 でもそんなことは、わざわざ言う必要のないことだ.
「リコのほうこそどうなんだよ。一緒にディズニーランド行ってくれるボランティアはいなかったのかよ、周りに」
「整理券配るのが大変だから誰とも行かなかったわ」
 アメリカ映画のような返し方をする。
 わざわざ聞く必要のないことを聞いてしまった、と後悔しかけた胸のうちに、その答えは優しい。
「……ディズニーランドへ行ったのは、後にも先にもあれっきりよ。小学校のとき……家族そろって出かけたよね?」
「ん、ああ……」
 そうだ、あれはたしか、俺が三年生でリコが五年生。
 俺たちがまだかろうじて「家族」だった頃のことだ。
「あれ以来行く機会がなかったのよ。うちからは遠かったし。だから……ガイドよろしく頼むわね!」
「……任せとけよ」
 ぱん、と手を叩き合う。
 洗剤でかさかさのリコの手の感触がいつまでも残った。

 俺とリコは正真正銘、血のつながった姉弟だ。
 だが苗字が違う。親が離婚して、リコは母親に、俺は父親に引き取られたからだ。
 それが今は、二人で暮らしている。
 俺と父とはずっと折り合いが悪かったので、父が海外に転勤になったとき、このマンションを買い与えられ、ひとり日本に残された。
 当時俺は高校生になったばかり。まだ自立も自律もできなくて、ずいぶんと無茶な事をしていたようにも思う。
 そこへ、リコが現れた。
 母が再婚することになり、家に居場所がなくなってしまった。そう言って転がり込んできたのだ。
 戸惑った。
 最後に会ったのは俺が小四、リコが小六。お互いほんの小さな子供だったのだ。
 なのに再会したとき、俺は高二、リコは短大の一年生。
 空白の七年間は俺たちを変えてしまっていた。
 リコは綺麗になっていた。やせぎすだった体は柔らかく丸みを帯びて、胸までの髪からはシャンプーだけではない、いい匂いがした。
 ものを鋭く見ぬく眼差しと、明るい口調はそのままに、心の裏を汲み取る洞察力と、考え方をプラスに変える柔らかい物言いとを身につけて帰ってきたリコは、俺に一言
「カズキ、大きくなったね」
と言った。
 そのときからずっと、俺は。

 その日。
 リコはひどくはしゃいでいた。
 冬の寒さをものともせず、いつもより早い時間に起き出して、いそいそと弁当など作っている。
「あ、おいおい、あそこは持ち込み禁止だって、昨日言ったじゃんか」
 ディズニーランドに行くからには、飲食物は中で調達するべきだ。割高だが、それも楽しみのひとつなのだから。
「わかってるわよお。これは、朝ご飯。食べてる時間がもったいないからさ、おにぎり握ってって電車の中で食べよ。ね」
「……何がお前をそこまで駆りたてるんだ」
 俺はソファにだっくりと腰を下ろした。朝刊を広げる。
「おーい、あれどうすんだ、いつも見てるやつ。九時からの」
「あ! いけない、忘れるとこだった。お願い、ビデオの予約しといて」
「……いい加減、やり方覚えろよ」
「だって複雑なんだもん。だからもっとシンプルなやつにしようって言ったのにさ」
「じじばばじゃあるまいし、あれくらいの機能、使いこなせよなー」
「……カズキぃ、おにぎりの具は何がいい? え? 梅干? まーあなたも大人になったのねえ」
「握ったって、くわねーぞ。ごみにしたくなかったら食えるもん作れ」
 いつもどおりと言えば、まあいつもどおりの会話で、どこがどう違うと言うわけでもないのだが……やはりリコのテンションは高かった。
 ディズニーランドへ着いたら着いたで、どのアトラクションにも目を輝かせ、ミッキーがいたと言っては握手をねだり、写真を撮りまくる。
「ねねね、あたしたち他の人からはどんな風に見えてるのかな?」
 通りすがりの人にカメラのシャッターを頼んで一枚撮った後、腕を絡ませて、そんなことを聞いてきた。
「……OLと若いツバメ」
「あんた可愛くないわねー」
 リコはぷうっと膨れた。
「どんな風に見えたところで、姉弟っていう事実には変わりないだろ」
「……かわいくなーい」
 膨れたままそっぽを向く。ずんずんと一人で歩き出す。
「ちょ、こら! 離れるなよ、迷子になるぞ」
 慌てて追いかけ、腕をつかんだ。
「いい年して迷子になんかならないわよ」
「天然方向音痴のくせに、嘘ついてんじゃない」
「はぐれたら呼び出ししてもらうからいいの! 『東京都よりお越しのオガタカズキさま、お姉様がお待ちでぇす』……」
「残念でした。ここでは一切の呼び出しをしてないんだな、これが」
「えー、サービス悪ぅ……」
「逆だよ、お客に日常を忘れてもらう為にそういうことをやらないんだ」
「……日常を?」
「それがここの基本コンセプトだからな」
「……じゃあ」
「そう、はぐれたら最後。わかったら、ほら」
 俺は手を差し出した。
 リコはそれに「お手」をした。
「おい」
「はいはい」
 リコの手が俺の手を柔らかく握る。
 二人、手をつないで歩き出す。
 たかがそれだけのことなのに、どうして見える景色が変わるのだろう。
 俺はさっきの会話を反芻した。
 ……他人から見たらどんな風に見えるのか、だって?
 どんな風に見えたところで、姉弟っていう事実には変わりないだろ。
「……日常をさ、忘れるところなら」
 リコが不意につぶやいた。
「あ?」
「……あ! チュロス売ってる、食べよ食べよ!」
「お前、食ってばっかりじゃねえか。減量中じゃなかったのかよ」
「そういう事は忘れることにしました~」
 するり。
 リコは俺の手を振り切って、チュロス売りの元へ駆け寄っていった。
 俺は一人、取り残されて、ただその後姿を目で追っていた。

 八時過ぎまでしっかり遊んだ後、ホテルのレストランで遅い夕食を取った。部屋に入った頃には十時を回っていただろうか。
「あ~、おいしかったねえ」
 リコは上機嫌だった。
「お料理も最高だけど、あのワイン! ワインっておいしいものだったのねえ、知らなかったわあ」
「……だからって、飲み過ぎだ」
「三杯しか飲んでませーん。赤、白、ロゼで一杯ずっつ」
「ビール一杯で赤くなっちまうやつが何言ってんだよ。いいか、ワインっていうのはビールよりうんとアルコール度数が高いんだぞ」
「大丈夫だっていってるのに、心配性ねえ。はげるぞぉ」
 ぐしゃぐしゃと人の頭をかき回す。
「やめろって」
「うし。ではあたしはひとっ風呂浴びてきます」
「おう。転んで頭でも打たんように気ぃつけれ」
「そんなに心配なら、一緒に入る?」
 くすり、とリコが笑った。
「馬鹿、お前の裸なんか金もらったって見ねえよ」
「姉に向かって馬鹿言うな、大馬鹿」
 いーっと歯をむき出して、リコはふらふらと浴室へ消えた。
「……完全に酔っ払いだな、ありゃ」
 つぶやいて、俺は心臓に手を当てた。
 その酔っ払いのたわごとに翻弄されるとは我ながら情けない。
 一緒に入る? じゃないっつーの。俺たちいくつになったと思ってるんだよ。
 でもそう答えたら。「二十歳と二十二」という答えが返ってくるのだろう。
 いや、「女性に年を聞くなんて失礼ね、おほほ」かな。
 あるいは「いいじゃないの、昔はよく背中の流しっこしたんだし」かもしれない。
 俺は靴を脱ぎ、二つ並んだベッドの片方へあお向けに寝転んだ。
 閉じた目を手の平で覆う。
 少し熱い。ワインは本当に美味かったので、俺もつい飲み過ぎたらしい。
 最近、リコはことさらに「姉」という言葉を口にする。気がする。
 まるで、俺の気持ちを知っていて、予防線を張っているみたいだ。と思う。
 そのくせ、さっきみたいに俺をからかう。
「……わっかんねー……」
 気付いているならいるで、もうちょっと自分の身は自分で守るようにしてほしい。
 あんまり無防備な態度をとらないでほしい。
 例えばソファで眠りこけるとか、Tシャツ一枚でうろつくとか、そういった類のことはやめてほしいのだが、いくら言ってもリコは聞かない。
 もっともそれは、注意するときに「世話焼きで心配性の弟」のポーズを崩さない俺のほうにも、問題はあるのかもしれない。
 もうちょっと身の危険を感じれば、リコも態度を改めるのだろうか。
 だからといって、……だからといってどうにかするわけにはいかないじゃないか。
 ぐるぐると思考は回りつづける。
 時折、俺たちはもう一緒に暮らすべきではないのかもしれないと思う。
 決定的にリコを傷つけるようなことをしでかしてしまう前に、離れたほうがいいのかもしれないと思う。
 けれど。
 別離の痛みを思うと、泣き出しそうになる。
 世界中の誰をなくしても、リコだけはなくしたくない。
 でも。
 なくしたくないのならなおさら、はなれるべきではないのか。
 いくらおもっても、おれたちは「きょうだい」なんだから。

 唇に、そっと、柔らかく温かいものが押しつけられる。
 薄目を開けるとすぐ目の前にリコの顔があった。
 え?
 一瞬、何が起こったか、理解できなかった。
 すっとリコの唇が離れる。
 俺は慌てて身を起こした。
「あら、おはよ、カズキ。霊験あらたかね」
「……お前、今……」
「お風呂、あいたよ。汗流しといで。疲れてるのはわかるけど、うたた寝なんかしたら風邪ひいちゃうよ」
 浴衣姿のリコは俺に背を向け、備え付けの冷蔵庫を開けた。
「ありゃ~、やっぱりこういうとこのは高いわねえ。お茶で我慢しておくかな」
「お前、今、何したんだ」
「やだ、そんなに怒らないでよ。あんたが悪いのよ、いくらゆすっても起きないからさ」
 背を向けたまま、リコは話し続ける。
「あたしとしては古来より伝わる魔法に頼らざるを得なかったわけ。眠り姫には王子のキスってね」
「ふざけんな」
 俺はかっとして、ベッドから跳ね起きた。ずかずかとリコに近寄り、肩に手を置いて顔をこっちに向けさせる。
「い、った……ちょっとぉ、乱暴ね」
「お前、……お前なあ、いくら酔っ払ってるからって、やっていい冗談と悪い冗談の区別もつかないのかよ。俺たちは、姉弟なんだぞ」
「そんなこと、あんたに言われなくたってわかってるわ」
 リコは目をそらした。
「わかってるんなら……」
 言いかけて、俺はリコの唇が震えていることに気がついた。
 怒りがすっとひいて、心配――不安が首をもたげる。
「……どう、したっていうんだよ。……なんかあったのか?」
 一瞬の沈黙の後、リコは重たげに口を開いた。
「ぎりぎりまで、言わないでおこうかと思ったんだけどね。これ以上隠し事するのは疲れたから、言うわ。……カズキ、母さん、また離婚するんだって。この間電話で知らせてきたの」
「……かあ、さん、が?」
 もう何年も会っていない。何年も、そう呼んでいない。
 まぶたに浮かぶのは、ヒステリックに父を責め、俺たちに泣きつく、かさついた醜悪な顔だけだ。
「あたしに、戻ってきてほしいって。田舎へ行って一緒に暮らそうって……」
 ざっと、血の気が引いた。それはつまり、リコが俺から離れていくということに他ならない。
「な……んな馬鹿な話があるかよ! 一度は追い出したくせに、今更!」
 俺はリコの顔を覗きこんだ。
「な、リコ、もちろん行かないよな? 断ったよな?」
 リコはふるふると首を振った。横に。
「……母さんは、誰かがついてないと駄目な人なのよ。馬鹿な人。旦那に頼りすぎて、重荷になって、それで結婚生活がうまくいかなくなるって、一度で学習しなかったのかしら」
 頬に浮かぶ、嘲り。めったに見せない、嫌な表情。
 そんな、そんな嫌な表情をさせる相手の所へ、どうしてわざわざ戻るんだよ。
「仕方ないよ。あたし、あの人の娘だもん」
「そんな理屈があるか」
「理屈じゃ、ない。人と人の関係なんて理屈じゃ割り切れないよ」
 リコは肩に置かれた俺の手に、そっと手を重ねた。
「そうでしょ? あたしとカズキの関係だって、理屈じゃ割り切れないんだから」
 俺は、言葉に詰まった。
 その間を、リコは誤解したらしかった。
「……割り切れるのかな、カズキには。ただの姉と弟。それだけ、なのかな」
 リコはよりいっそううつむいて、消え入りそうな声で、続けた。
「だけど……だけどね、あたしにとっては違うのよ。違うけど……このまま別れたら、『それだけ』のまんまで終わっちゃうでしょ? それが、嫌なの。母さんのもとに戻るのは我慢できても、カズキと『血のつながった姉弟』っていう名前の他人になっちゃうのだけは、ぞっとするほど嫌なの……」
 ことん、とリコは俺の胸に頭を持たせかけた。
「今夜だけでいいから、一緒に、……寝てくれない?」

 俺は、リコにくちづけた。
 というよりも、リコの唇を貪った。
 あごに手をかけ、もう片方の手を背中に回して、逃げられないようにしてから、貪った。
「ん! ん……ふぅん……う」
 リコが切なげに身をよじるのを押さえつけて、何度も唇を重ねる。舌を深く入れて、リコの舌に絡ませる。歯茎を舌でなぞる。
 唾液が、リコの口腔へ流れ込んでいく。
 こくり、と喉が動いて、リコがそれを飲み下した。
 それを確認して、やっと俺は唇を離した。
 リコが、焦点の定まらない目をこちらに向けている。
 唇の端から、飲み切れなかった唾液が筋になってこぼれている。
「……カ、ズキ?」
 ずきり、と胸が痛んだ。
 俺は、それから逃れるようにもう一度くちづけた。
 胸に手を這わせる。リコがびくっと体を固くさせたが、かまわずに乳房を揉んだ。
「ふ、ふ……ん」
 リコの息が荒くなる。握りつぶすように揉んでも、押し返してくる、柔らかい弾力。
 浴衣の紐を解き、前をはだけた。
 唇を離し、あらわになった肌をじっと見つめた。思ったとおり、ブラジャーはつけていなかった。白い肌が目に焼き付く。
「や……ちょっと、見ないで」
 リコは前を合わせて隠そうとする。
 その手を押さえつける。
 俺は、身をかがめ、白いふくらみの頂点、小さな乳首を口に含んだ。
「んんっ」
 またリコの体が震える。
 俺は乳首を離すまいとより強く吸った。そうしておいて舌で転がす。
「や、や、やだよ、カズキ……やめてよぉ……」
 リコは半泣きだ。
「何言ってんだよ。こうしてほしいんだろ?」
 声は、自分でも驚くほどに低く、かすれていた。
「『一緒に寝る』ってそういう意味で言ったんじゃないのかよ。まさか、手をつないで添い寝するだけなんて言わないよな。ガキじゃないんだから」
 言い捨てて、再び乳首を口に含む。だんだん固さを増してくるのが感じられる。
「だって……。ね、電気、消そうよ。せめて、ね?」
 機嫌を取るような口調が癇に障る。俺はリコの肌に軽く歯を立てた。
「痛っ!」
 小さな悲鳴が上がる。俺はさらに肌を強く吸い上げた。
「い、痛い、痛いってば……」
 白い肌に赤い小さい花が散る。もうひとつ、あとひとつ。胸元から首筋、二の腕、届く範囲のあらゆるところに唇を這わせた。
「……カズキ……」
 リコが俺の名を呼んだ。
「あんた、泣いてるの?」

 泣いてなんかいない。
 泣いてなんかいない。
 とっくの昔にやめたんだ、そういう事は。
 だって、無駄じゃないか。
 泣いたってなにも変わらないじゃないか。
 あの時も声が涸れるほど泣いたけど、結局リコはいなくなった。
 俺の前から姿を消した。

「ふざ、けんなよお……」
 俺はリコの肩に頭を持たせかけた。洗い髪の香りが俺を包む。
「知らないくせに。俺のことなんか、何ひとつわかっちゃいないくせに」
 引き離されて。
 あれからどんな思いで一人でいたか。
 再会して。
 それからどんな思いで見つめてきたか。
 俺の十年間を全く無視して、リコは行こうとしてる。
 俺の手の届かないところへ行こうとしてる。
 一晩きりの思い出と、何十年か続く虚ろの時を置き土産に、いなくなるつもりでいる。
「か、勝手なことばっかり、言いやがって……」
 きつく、きつく抱きしめた。
 このまま壊してしまいたかった。
「ごめんね」
 リコの手が、そっと背中に回された。
「わがままなお姉ちゃんで、ごめんなさい」
 俺は首を振った。
「リコは、リコなんだ。『お姉ちゃん』だなんて、考えたこと、一度だってない」
「……そいつは、困ったなー」
 リコは俺の背中をぽんぽんと、子供をあやすみたいに叩きながら、言った。
「あたしはね、あんたが『あたしの弟である』って特性コミであんたのこと好きなのよ。あたしと血のつながりがある、そのことが愛おしいってところ、あるんだ」
 俺は、息を吸った。
「あ、誤解しないでね。弟じゃなかったら好きじゃなかったのか、なんて聞きっこなしよ。そんな仮定は意味がないもの。……ね、理屈じゃ割り切れないでしょうが」
 さっきの言い方が悪かったね、ごめんね、と繰り返す。
 ゆっくりと、俺の体から力が抜けていく。
「だからさ、カズキ。『血のつながった姉と弟』って名前の他人は、とても嫌なんだけど、だからって姉弟じゃなければよかったなんて言うつもりはないのよ? そういう名前の、さらにトクベツな関係で、いたいと思ってるんだ、あたしは……だから」
 頬をすりよせてくる。
「だから、その、今晩……特別な事がしたいな、なんて」
 ふ……と笑いがもれた。
「カズキ?」
「……なぁに小難しいことぐちゃぐちゃ言ってんだよ、リコ」
 もう一回抱きしめた。
「似合わねえぞ」
「……言ってることが理解できなくて悔しいです、って素直に言いなさい」
「あーあー、悔しいなあ。こんなことならもっと早くに言っておけばよかった」
「何て?」
「……好き、みたいだ、とかなんとか」
「なんていうあいまいな告白なんでしょ! 情けないわね」
「じゃ、抱きたい」
「……ドラマの見すぎ」
「そりゃリコのことだろ」
 軽口を叩き合いながら、俺はリコの体を撫で回した。
 だんだんとリコの息が乱れていくのが、心地いいと思った。
「愛してる」
「……な、んか、嘘くさいから没」
「愛してる」
「没だってば」
「愛してる」
「……」
「ずっと一緒にいたい」
「……いじわる。それは、駄目だって言ってるのに……」
「それでも、気持ちは変わらないから」
「……」
「俺への駄目出しばっかりじゃなくて、リコのほうは何かないのかよ」
 リコはちょっと黙りこみ、それから、まるっきり棒読みの口調で言った。
「優しくしてね、はじめてなの」
 そして小さな声で付け加えた。
「ほんとよ」

「キタキツネのきょうだいはね」
 唐突にリコが言い出した。
 リコに請われて、ベッドサイドだけ残して明かりは消してある。オレンジ色の光に、リコの裸が照らされる。
「うん?」
 俺はリコを愛撫する手は止めず、続きを促した。
「きょうだいで、交尾の練習をするんだってさ」
「へえ……」
「……前にテレビでやってたの。ん……オス同士でもじゃれあったり、するの……」
 わざと敏感な部分を責めた。話し続けようとして、その刺激に声を詰まらせるリコがとても可愛かったから。
「だから、きっと、姉と弟だったら、あ、ん……」
「だったら?」
「しちゃうよね。出来るんだもん」
「ああ……そうだな」
 俺は、そっと指を入れた。十分に濡れているそこは、思ったよりもすんなり異物を受け入れた。
 が、さすがに押し戻すような抵抗も感じる。
「あ! や、や、や、痛い!」
「大丈夫、力抜いて……」
「ん……ん……」
「ほら、痛くないだろ?」
「でも……変な感じ」
 リコは口元にこぶしを当てる。頬が赤く染まっている。
 ゆっくりと指を動かした。
「……は……ん」
 眉根を寄せる。目を閉じる。
 いい顔だ。
 俺の知らなかった、そして俺以外誰も知らない顔だ。
「きついな……リコの中。指が痺れてくるよ」
 耳元に口を寄せて、息と一緒に言葉を吹きこむ。
 リコは唇を噛み締めた。
「……あ、んた、ちょっと、性格変ってない?」
「リコこそ。妙にしおらしいじゃないか」
「……だって」
 一旦指を抜き、リコの背中に左腕を回して、抱き起こした。横抱きに抱えて、自由の利くようになった右手でさらに秘部をかき乱す。
「……あ、ん……は……」
 リコは俺の胸にすがって、切なげな声をあげた。
「俺のも……触ってくれよ」
 リコの手を、すでに硬く張りきっている俺のものへ導いた。触れた瞬間に、リコは熱いものにうっかり触ってしまったかのように、手を離しかけた。それを無理に手を添えて握らせる。
「そう、そうやって……こすって」
 おずおずと、リコの手が動く。腰に快感が走る。
「……く……」
「あ、やだ、なんか……ぬるぬる」
「……男も、濡れるもんだからな」
「や、やだぁ、なんか気持ち悪いよ……。も、もういいでしょ?」
 リコは半べそをかいていた。
「……仕方ないな、この辺で勘弁してやろう」
「な、生意気……」
「その代わり」
 俺はリコの足をさらに広げた。
「きゃ!」
「……ちゃんと、イクとこ見せてくれよ」
 秘裂からあふれた愛液をすくい取り、肉芽にまぶす。
 何度も何度もくり返し、刺激し続ける。
「イ……なんて、そんな……ん、あ、ん……んんっ」
 リコは悶えた。
 肉芽はとがりきり、俺の指にいたぶられる。
 しかし、そうしているうちに徐々に包皮に埋もれてくる。
 そろそろ……。
 俺は、リコの乳首をくわえた。舌で弾く。
「あ、や、やだ、や、いや……」
 リコは首を振った。
 ひくん、と肩が震えた。
「あ、あ、ああ……んー……んふぅ……」
 身体が緊張し、弛緩する。
 俺の腕に体重が全てかかる。

 世界で一番、愛しいと思った。

「……力、抜いて」
「……ん」
 先端が濡れた部分に当たった。
 ゆっくりとすすめていく。襞が巻き込まれるのを、手を添えて戻しながら。
「……っ」
 声にならない悲鳴がリコの喉から漏れる。
 ぎしっと言う歯ぎしりの音がした。
「痛いか?」
 言わずもがなの事を聞いてしまう。
「……へいき」
 とは言うものの、まなじりには涙が浮かんでいる。
 しかし、ここでやめるわけにはいかない。
 俺は覚悟を決めて、リコの腰に手を添えた。
「いくぞ」
 そして、ずっ、と腰を前に出す。
 きつさに、俺のものの粘膜も引きつれるようで、少し痛い。
 だがリコの感じている痛みはそれとは比較にならないのだろう。
 我慢強く耐えて来たリコだが、とうとう声が出た。
「……ったい、いたい、いたーい……」
 だが、まだほんの先のほうしか入っていない。強い抵抗がある。
 これが処女膜ってやつだろうか。
「や、いたい、いたいよう……やあ……」
 シーツをつかむ。無意識のうちなのだろうが、ずり上がって逃げようとする。
 本当に愛しいと思うなら、やめるべきなのかもしれない。
 ちらりと頭をよぎったけれど。
 止まらなかった。
 リコの中があんまりにも熱くて。
 気持ちよくて。
 蕩けそう、っていうのはこういう事を言うんだろう。
 俺はもう夢中で、リコの中へ押し入っていった、
「あー……いたいっ、いたい、いたーいっ!」
 ぷつっ。
 小さい音がした気がした。
 次の瞬間、ずるり、と俺の体は前へすすんでいた。
 リコの体と触れ合う。
 根元まで、ぬかるみの中に浸かっている。
 やった、と思って、リコを見た。
「う、えええ……ん……」
 リコは泣いていた。
 顔をぐちゃぐちゃにして、泣いていた。
 急に罪悪感がこみ上げてくる。
「ごめん……」
 しかし、リコは首を振った。
「いいの……いいの……」
 それだけ繰り返す。うわごとのように。
 そして、腕を俺の首に回してくる。
 俺も、リコの頭の下に腕をさしいれる。
 抱き合った。
「……いたいよぉ」
 リコは、小さい子供みたいに泣いている。
「いたい……」
「……もう、やめるか?」
 しかし、そう問えばリコはまた首を振る。
「……動いても、いい」
 言われて、俺はそろそろと引き出した。
 ちらりと目をやる。
 やたらと濡れている。血、だろうか。
 もう一度、押しこむ。
「う……」
 リコはぎゅっと目を閉じて、痛みに耐えている。
 最初はゆっくり、だんだん激しく、俺は動き始めた。
 リコが俺をまんべんなく締めつけてくる。
 ひき抜こうとすればそれを惜しむようにまとわりつき、進んでいけば拒むように押しのけてくる。
 いつしか俺は、夢中になっていた。
「リコ……リコ……」
 名前を呼ぶ……唱え続ける。
「リコ……」
 これで、俺のものだ、という気がした。
 俺の体の下でうごめく白い体も、シーツに散らばる長い髪も、その唇も……。
 中も、外も、心も、体も。
 俺は、三たび唇を貪った。
「ああ……ん、ふあ……んんぅ」
 リコも夢中で答える。キスする事によって、少しでも痛みを忘れようとしているみたいだった。
「リコ……リコ、リコ……」
 息が、体温が上がっていく。
 首筋に唇を這わせた。
 このまま、食いちぎってしまいたい。
 ぞくり、と下半身に漣が広がった。
「あ、く……」
 歯を食いしばった。
 ど……と俺の中から何かが出ていく。
 どくん、どくんと脈打ちながら。
 俺は、リコの中にぶちまけていた。
「あ……んん……」
 リコが切なげな声をあげた。
 倒れこむようにして、俺はより一層強くリコを抱いた。

 薬を飲んでるから、とリコは言った。
 産婦人科の門をくぐり、処方してもらってきたらしい。ピル。
「初めてのときくらい、さえぎるものなしで愛し合いたいもんね」
 ……初めてのとき、だけかもしれないのに?
 いや、だけかもしれないから。
 リコはそこまでのことをしたのだ。
 女は恋に命をかけるのよ。
 きっとそんな風に言って笑うのだろう。

 裸のまま、抱き合って眠った。
 一度目が覚めたけれど、リコの寝顔を確かめてから、もう一度眠った。
 リコのぬくもりをいつまでも感じていたかった。
 だが、次に目が覚めたとき、リコは俺の腕の中から消えていた。
 身支度を整える気配がする。
 ……行って、しまうんだろうか。
 プールで泳ぐ、とか言っていたくせに。
 止める言葉を見つけられないうちに、リコは支度を済ませてしまったらしい。
 俺のそばにより、顔を覗き込んだ。
 つい、寝た振りをしてしまった。
 羽根のように、頬に唇が降りてくる。

 ドアがしまった。

 俺は、のろのろと起き出した。
 朝日の差し込む部屋。
 昨日のことが夢のように思える。
 しかし、夢ではない証拠に、もう片方のベッドはきちんとメイクされたままだ。乱れているのはこちら側だけ……。
 ふと、シーツの一点で目が止まった。
 血だ。
 ……俺は弾かれたように立ちあがった。
 服を着、スリッパを突っかけるのももどかしく、ドアへ向かう。
 ひきとめて、そのあとの言葉は思いつかない。
 けれど、ここで離れたらいけない気がした。
 心が通じ合ったこと、思い出を作れた事、それだけで満足してちゃいけない。
 俺たちはきつねじゃない。
 かりそめの交わりで満足して、その後別れ行く動物じゃない。
「リコ!」
 呼びながらドアを開けた。
「あ」
 誰かの手が外側のノブをつかんでいた。
 そのまま、体がくっついてくる。
「きゃ……」
「……リコ?!」
 思いがけない、しかし考えてみればそれしかありえない人物だった。
 向こうも相当驚いたらしく、目をまん丸にして俺を見る。
「お前、……出て行ったんじゃなかったのか?」
 一呼吸おいてから問い掛けると、リコは目線をそらした。
「……歯ブラシ」
「え?」
「……昨日、めずらしいからって、備え付けの品物あれこれ持ち帰ることにしたでしょ?」
 そういえば。トイレットペーパーから便箋まで。
「あんたの分の歯ブラシ、間違ってカバンにつめこんじゃったの思い出して……今ならまだ起きてないかと思って……」
「戻って、来たのか?」
「すぐ、出るわ。一足先に家に帰る」
「……どうして?」
「……どうしても!」
 リコはそっぽを向いた。
 俺は、有無を言わさず抱き寄せた。
「や……ちょっとこら! だ、誰かに見られたらどうすんの!」
「それが嫌なら、さっさと部屋に入れ、ばーか」
「馬鹿とはなによ、大馬鹿! ……ちょっと、なに笑ってんのよぉ!」
 ……これだよ、これ。この感じ。
「なあ、リコ。俺たち長生きしような」
「……何を唐突に」
「世の中が変って、法律が変って、遺伝子治療とかすすんでさ、きょうだいの婚姻が認められるまで、長生きしようぜ」
 ……リコは目を見張り、唇をかんで目を伏せ、そしてまた顔を上げた。
 くしゃりと歪められた顔は、微笑を意図したものらしい。
「……だったらあたし、新婚旅行は南の島がいいわ」
 俺たちは、もう一度くちづけを交わした。

シュレディンガーの猫

 新宿、金曜日、午後六時。
 梅雨明け宣言はまだ聞かれないが、それも時間の問題だろう。連日よく晴れた日が続いている。夏はまもなく本番を迎える。
 あたしは紀伊国屋を目指して歩いていた。
 今日はサークルの前期打ち上げがあるのだ。
 暑かった。
 夏の長い日は、未だ衰えず、ビルとビルの谷間にも光と熱を与えている。人が発する熱、アスファルトとコンクリが吐き出す熱。車の排気ガス。
 人ごみは、苦手だ。
 あたしはぼうっとした頭で、機械的に足を動かした。
 出かける時間ぎりぎりまで寝て、電車の中でも寝てきたのでまだ体が起ききっていない。
 夢……。今朝、というか今夕見た夢を反芻する。
 やっぱりこんな風によく晴れていたっけ。

 ようやく集合場所へたどり着いた。
 アルタ前ほどではないが、ここにも人が大勢いる。
 馴染みの顔がちらほら見える。ほっとして、近づいていくと、向こうから先に声をかけてきた。
「あ、慧子先輩、こんにちは」
 元気よく挨拶をするのは、二つ下の茅場ゆかりだ。
「やあ。幹事はどこだ?」
「あっちです。今会費集めてるところ」
「ありがとう」
 三年の男子部員が封筒片手に出欠を取っている。
「あ、氷室さん」
「四千円だったな」
「はい」
 あたしは一万円札を出した。
「二人分だ。瞳子が来られなくなった。夏風邪をひいたそうだ。ドタキャンですまんと言っていた」
 料理は前もって予約してあるから、人数が減ってもその分払わなくてはならない。立て替えておくと約束したのだ。
「あ、そうですか。ちょうどよかった。一人増えたんでどうしようかと思ってたところです。お
金、いりませんよ」
 幹事は六千円の釣りをくれた。
「増えた? 誰が?」
「緒方さんです」
 幹事が指し示す方向に、四年生が固まっていた。
 なるほど、いる。
「お前、今日は用事があるんじゃなかったのか」
 声をかけると緒方数樹は、飛びっきりの仏頂面をこっちにむけた。
「振られたんだって」
 当人を差し置いて、智が答える。
 数樹はじろりと智を睨んだ。
「ふられた? お姉さんにか」
 今度はこっちが睨まれた。
「睨む事はないだろう。聞いただけなんだから」
「あんまり触れてほしくないらしいぞ。そっとしといてやろう」
 真雪が、一見優しい言葉を吐いた。が。
「てめえ、何今更言ってんだ、散々人の傷をえぐっといて」
 数樹が食って掛かったところを見ると、いつものとおりのやりとりがここで繰り広げられていたのだろうと推察出来る。
 智が、どうどう、と数樹を落ち着かせた。
「真雪」
 あたしは、それを後目に、まっすぐに彼を見上げた。
 今日の真雪はコンタクトじゃなくて、お馴染みの縁なしメガネをかけている。
「瞳子、来ないらしいぞ。直接聞いてるかもしれないが」
「ああ、いや……。わかった」
「真雪」
「ん?」
「久しぶりだな」
「ああ」
「教育実習はどうだった?」
「どうもこうも」
 片頬だけで笑う。
「その様子では、母校の荒廃を目の当たりにして、ショックでも受けたか」
「当たらずと言えど遠からじってとこだ」
「お前が中学生に先生って呼ばれてるとこ想像すると笑っちまうよな」
 なんとか機嫌を直したらしい数樹が話に入って来る。
「あら、けっこう似合うんじゃないの、『柳川先生』……だいたい、私らもたまに呼んでるじゃない」
 と、智。
「いや、中学生にっていうのがポイントなんだよ。なんかこう……余計年よりくさく見えそうじゃねえか」
「ほっとけ」
 わいわいやっていると、幹事の声がした。
「はい、全員揃ったんで、移動しまーす。ちょっと時間おしてるんで、はぐれないでついてきてください」
「……やっと来たか」
 智が手をあげる。その先には、四年生の最後の一人、荒川浩平がいた。
「あれ、智、一緒じゃなかったのか」
 意外に思ってあたしが聞くと、智は肩をすくめて見せた。
「腹ごしらえしてくるって言って、吉牛入っちゃったから、先に来たのよ。遅いぞ、こら」
「わりいわりい」
 大して悪びれもせずやってくる。
「元代表がそんなたるんだ事でどうすんの」
「いいじゃんか、『元』なんだし」
「ほら、移動するぞ」
 真雪が促した。
 あたしは真雪に並んで、歩き出した。自然にそうしてから、奇妙に実感した。
 ああ、そうか。
 今日は瞳子がいないんだよな。

「えーと、それじゃ、前期終了とぉ、演劇集団『絶対零度』のますますの発展を祝って、かんぱーい」
「かんぱーい」
 浩平の乾杯の音頭とりはいつもなんだかおかしい気がする。これからの発展は「祈る」ものではないだろうか。
 しかしいつもの事なので、誰も特に気にしない。
 暑さの為に、皆喉が乾いていたらしい。ビールの空き瓶が瞬く間に増えていく。
 演劇集団「絶対零度」というのがうちのサークルの名前だ。
 学内のみならず、近隣にもけっこう名前の知られた演劇サークルである。
 全体で四十人近いメンバーがいるが、四年生はあたしを入れて六人だけ。(すぐ下の代から急に人数が増えたのだ。)
 改めてざっと紹介する。――紹介といっても、ほとんどこの間やった公演のチラシの抜粋だが。
 まずは遅刻男、荒川浩平。
 元代表。舞台に立つことは少なく、もっぱら音響、照明、大道具をしきっている。が、がっしりとした体格から発する声と何よりそのキャラクターは、役者としても貴重な人材である。
 その彼女、松原智。愛称・ともっち。
 ポニーテールが目印。身長一五三センチと、なりはコンパクトだが、芸達者で子供から老女から人間外までしっかり演じ分ける。唯一苦手とするキャラクターは同じ年頃の女性、というのは公然の秘密だ。
 振られ男(言葉の綾だ、気にするな)、緒方数樹。
 最初は公演のときに裏方を手伝ってもらっていたのが、いつの間にやら演技に目覚め、入部。(引きずりこんだ浩平は至極御満悦だった。)鋭い印象の二枚目で女性客に人気が高いが、性格的に甘いというか隙が多いので、いつもみんなからからかわれている。
 柳川真雪。
 まさゆき、ではなく、まゆき、と読む。本名。可愛い名前だが、本人はあまり可愛くない。脚本、演出をおもに担当。純文学を志すなどと言う反面で、それだけでは観客ががついてこられないだろうからと、とんでもなくけったいなギャグをさしはさんでくる強者。心の師匠は藤子・F・不二雄。
 そして、今日欠席の柊瞳子。ひいらぎ・とうこと読む。
 すらりと背が高い美人で、うちの看板女優。ということにしておかないと教育的指導を食らう。さっぱりした裏表のない性格で姐御肌(本人談)。その性格が災いしてか、可愛い系のヒロインを描いても熱血系になると脚本家は嘆いている。
 こんなところか。
 それであたしは、氷室慧子という。
 自分では特にそう思わないが、ずいぶん変っている人間らしい。乱暴というかぶっきらぼうな言葉遣いと中性的な外見が特徴。とよく言われる。一応髪は腰まで伸ばしているのだが、それでも中性的と言われてはもはやどうしようもない。
 以上六人、自分でいうのもなんだが、バランスのとれたいいメンバーだと自負している。この間の公演(毎年六月に行われる『卒業見込み生による公演・略して卒公』)を最後に引退となったのが、本当に惜しい。
 ちなみに演目は、「一九八〇円からのパンドラ」。柳川真雪渾身の書下ろしである。主要登場人物は当然ながら四年生のメンツで、皆あてがき。
 あてがきというのは、特定の役者が演じる事を念頭において脚本を書いたもので、脚本家を抱えていればこその贅沢である。ちなみにあたしの役どころは「シュレディンガーの猫」だった。量子力学上での有名な逆説らしいが、公演を終えた今でもそのもとネタを理解できていない。
 多分書いた真雪にも完全に理解できてはいないので、その辺は御愛嬌である。

「……だからぁ、俺は、一ヶ月も前から予定してたわけだよ。それが今朝になって、『ごめん、今度会社辞めちゃう友達とご飯食べるから、今日遅くなるね』って、どう思うよ? わざわざこの日にすることないじゃんか。今日は年に一度のあいつの誕生日なんだぜ? ひどいよな、あーんまりだよなぁ……」
 ぐちぐちこぼしながら、数樹は手酌で熱燗を空けている。
「りゃ……ねえぞ。おーい、幹事、こっちに日本酒三本追加ぁ!」
「酔っ払いだな」
「酔っ払いだ」
 あたしと真雪はうなずきあった。
「るせ。澄ましてねえでお前らも飲め。どうせ飲み放題なんだから」
「十分飲んでいる。気にせず愚痴を続けろ。聞いてやるから」
 あたしはちびりちびりとぬるくなった(ぬるくなるまで待った)酒を舐めた。
 猫舌で、熱いものは飲めないのだが、冷たいものを飲みすぎるとすぐ腹をこわす。炭酸も苦いのも駄目なので、ビールは最初の一口だけ飲んで、あとは真雪にやることにしている。
「しかしあれだな、どうしてこんなに熱くなるまで燗するんだろう。もっとぬるい方がうまいのに」
「仕方ないさ。こういう飲み屋じゃ」
 言って真雪は、次の酒が来るまでの間をつなぐように煙草に火をつけた。マイルドセブンだ。
「大丈夫だよな、そっち行ってないよな」
「ああ、換気扇はちゃんと機能している」
 本当は吸わないでくれるのが一番ありがたいのだが、まあ煙に気を使ってくれるだけでも上等だろう。真雪はちゃんとマナーを守る喫煙者なので、大目に見てやることにしている。
「俺も吸おう」
 数樹はマルボロを取り出した。
「うちは禁煙だから、こういう機会に吸いだめしとかねーと」
「いっそやめればいいじゃないか。煙草なんて、国家の陰謀だぞ。ニコチン中毒患者にされて金を搾り取られてる機構に危機感を抱いた方がいい」
「あんまりそんな本当のこと言ってると、政府に消されるぞ、お前」
 真雪が笑った。
「陰謀か……理子も似たようなこと言ってたなあ」
「お姉さんが? 気があうなあ。ますます気に入った」
 数樹のお姉さんという人とは何回かお目にかかった事がある。色素の薄いきれいな髪をした、楚々とした美人だった。
 美人は大好きだ。
「……はーあ」
 お姉さんの話に戻ってきたので、数樹は煙いため息をついた。恨みでもあるかのようにぎゅっぎゅっと煙草を消す。
「はぁい、熱燗お待ちぃ。飛ばしてるわね」
 遠くの席で飲んでいた智が酒を持ってやってきた。
「ここ入れてねー。あっちでは歌会が始まっちゃってさあ」
 その言葉に彼方を見遣ると、なるほど浩平と下級生数人が思いつくままに歌を歌って盛り上がっている。
「もうそんな時間か」
 あたしは真雪の腕を取り、時計を見た。開始からきっかり一時間が経過している。
「飲むとあれが出るのがねー、頭痛いわ」
「まあ下級生に慕われてていいことじゃないか」
 真雪が智にビールを注いでやった。
「ととと、さんきゅう。はいご返杯」
 真雪は注ぎ返されたビールをうまそうに飲み干した。好き嫌いが多いくせに酒に関しては無節操な男である。
「しかしあれだな」
 とあたしも酒をちびり。
「数樹の傷心の原因の一端があたしにもあるかと思うと、多少は胸が痛むな」
「なんだって?」
「お前が欠席の連絡してるの知らなくて、この間電話をかけてしまったんだ。お前は留守
で、お姉さんが出た」
「聞いてねーぞ、それ」
「じゃ、やっぱりそうだ。あれが原因だ。日にちを聞かれたから素直に答えたんだが、お姉さんなんだか考えこんでた」
「てことはまさか……理子のやつ!」
「いいお姉さんじゃないか。自分との約束は他の日に回して、残り少ない学生生活をえんじょいしてこいと言いたかったんだろう」
「……いっつもそうなんだよなー。ちくしょう」
 いっつもそうなのに、その度ごとに引っかかって、お姉さんの真心を疑う数樹は、もしかすると相当バカなのかもしれない。
「俺にとっては理子と過ごす時間のほうが大切なんだ、って、何度言ったらわかるんだよ、あいつはー!」
「のろけだな」
「かなり重症だ」
「恥ずかしいやつだ」
「でも、こんな事言われてるお姉さん、女冥利に尽きるわね」
「こんな事言われても怒らないあたしたちの男気にも、もう少し感謝してほしいものだが」
「男気ってなんだよ」
「もとい、友情だ。つまり数樹は、友情よりも愛情を迷わず選ぶ人間なわけだ」
 それはそれで美しいかもしれない。
「まあ、今日は一次会だけで勘弁してやるから、せいぜいこの場を楽しむんだな。お姉さんの気持ちを無にしない為に。一次会が終わったら飛んで帰れば、お姉さんと一緒にバースデー茶づけくらい食えるだろう」
「……悪いけど、そうさせてもらう」
 思うところがあるのか、数樹は少し落ち着いた。
「ほんとに、いいお姉さんじゃないか」
 あたしは数樹に酒を注いでやった。
「ん……」
「だからあれだぞ、数樹。あんまり『いじめ』ずに、いい加減なところで寝かしてやれよ。お姉さん仕事とお前の世話で疲れてるんだから」
 というあたしのセリフを皆まで聞かず、数樹は吹き出した。
「……どうした?」
「おめ……一応、それは秘密なんだから、あんまり大きい声で言うなよ」
 顔を赤くして、小さいがしかしきつい声で数樹は言った。
 言い忘れていた気もするが、数樹はただのシスコンではなく、実のお姉さんとばっちり恋人同士である。四年生の仲間内だけの秘密ということになっているが。
「言われたくなかったら、そもそもの自分の言動を反省しろ。ばらしまくってるようなもんじゃないか」
「っていうか、『いい加減なところで寝かしてやれ』はあんまりよー」
 智が腹を抱えて笑っている。
「あ、あんたも一応女の子なんだから……あはは……もうちょっと言葉を選べば」
「例えば?」
「……『やりすぎるなよ』とか」
 そう言ってさらにぎゃははと笑う。
「より下品だな」
「……コメントは差し控えておこう」
 真雪はいつの間にか水割りを手にしている。いくら飲み放題とはいえどれだけ飲むつもりだ。
「先輩がたぁ、集まっちゃってまあ、ずいぶんと楽しそうですねえ」
 笑い声にひかれたわけでもないだろうが、茅場ゆかりが寄って来た。何枚かの封筒とポケットアルバムを手にしている。
「これ、遅くなっちゃいましたけど、卒公の時の写真です」
「あ、ありがとー。いつもすまないねえ」
 智が愛想よく受け取った。どうも、いつの間にやら臨界点を超えて酔っ払いモードに突入しているらしい。
「うちの代、こういうことマメにやる人いなくてさぁ……あ、よく撮れてるぅ」
 ほれほれ、と見せられた。自分の写真を見るのは好きではないのだが、一応覗き込む。
 公演後の、四年生だけで撮った写真だ。主演の瞳子の両隣に智とあたし。後ろの列に、浩平、真雪、数樹。
 そのほかにも何枚もの写真があった。舞台中の写真はさすがにないが、照明あわせとか道具直しとか、いつのまに撮られたのかわからない写真も多い。弁当を食べている写真もあった。
 素人の撮ったものだから、特に面白い写真というわけでもないが、現場の空気が伝わってくる。いい写真だ。
「あー、これ可愛い。ほら、慧子、これ!」
 智が大騒ぎしている。
 それは、あたしの写真だった。衣装を着けて、立っている。誰かに呼ばれたかのように、斜め後方を振り返っている。その体のラインやバランスは、確かに何だかいい感じだった。
 ちなみにシュレディンガーの衣装は、全て黒。ノースリーブのワンピースにチョーカー、薄手のニーソックスにレースのリボン、そしてローファーという、普段だったら絶対しない恰好だ。あたしの標準装備はTシャツにジーパンである。
 ずいぶんと狙った衣装だというものもいるが、あたしとて好き好んで着ている訳ではない。考えたのは衣装担当の智だし、許可したのは演出の真雪。危うく猫耳をつけられそうになったのを、やっとの思いでやめさせたのだ。
「その写真いいですよね、一番人気あるんですよ」
「……誰に?」
「あ、えー、お客様に」
「売ってるのか、こんなものを」
「あ、いえ、まだです、まだ売ってません。一応御本人に了解を取ってからと思って」
「一応か」
「言葉の綾です。ええと、うちの兄が教え子大勢連れて見に来たの、覚えてらっしゃいます?」
「ああ、覚えてる」
 ゆかりの兄は、茅場大介という。「絶対零度」のOBで、卒業後も公演を見に来てくれる。この春赴任した高校で、演劇部の顧問になったそうで、参考のためという名目でチケットを売りさばいてくださったのだ。ありがたいことである。
「その生徒さんたち、『パンドラ』をすごく気に入ったみたいで……兄は私が写真撮りまくってるの知ってたもんで、生徒さんに持ってって見せたんですよ。そしたら『焼き増ししてほしい』って何人も……」
「ふうん。あたしは別に構わないが」
「あたしもー。っていうかみんな構わないんじゃない? 肖像権をとやかく言うほどのこともないし」
 あたしと智の答えを受けて、ゆかりはぺこぺこお辞儀した。
「ありがとうございます。じゃ早速」
「ちょっと待ってくれ」
 真雪が軽く手を挙げた。
「ひとつだけ確認しておきたいんだけど、そのシュレディンガーが一番人気だって言ったよな?」
「はい」
「茅場さん……大介さんの赴任先って確か」
「はい、女子高です」
 この写真だけじゃなくて、慧子先輩大人気ですよ、とゆかりは言った。
 智は何故だか笑い続けていた。

「それじゃ、お疲れ様でしたー」
「お疲れ様でーす」
 特に事件もなく飲み会はお開きになった。
「二次会、カラオケ組ー」
「飲みー」
「お茶してこう」
 三々五々、散らばっていく。
 数樹は公約どおり飛んで帰った。
「あたしたちカラオケに混ざるけど、慧子はどうする?」
 智が、大分酔っ払った浩介をまとわりつかせながら聞いた。
「……んー、帰る。何だか疲れた」
「じゃ、俺も」
「真雪も帰る? ほんじゃ、慧子のこと頼んでいい?」
「わかった。西武新宿まで送ってから帰るよ」
「ありがとう、よろしくね。じゃ、ねー」
 カラオケ組はネオンの向こうへ消えていった。
「さて」
「……なんであたしの事を無視して、二人で話を進めるんだ? あたし一人でも帰れるぞ」
「まあまあ。だって危ないだろ、夜の新宿、歌舞伎町辺りは」
「別に。酔っ払ったオヤジに絡まれるのが鬱陶しいくらいで、それ以上の実害はないが」
「とにかく送る。ほれ、歩け」
 促されたが、あたしは立ち止まったままでいた。
「どうした?」
「今晩泊まりにいってもいいか?」
 真雪はちょっと眉を上げた。
「何故? 帰るんだろ?」
「何となく離れがたい。そういう気が、今した。こういうときは感覚に従った方がいいんだ。万が一のことがあったら後悔するだろう?」
「万が一って?」
「例えば帰りの電車が事故るとか、暴漢に襲われるとか、そういうことだ。『ああ、あの時勘に従っていっしょに行動していれば、こんな風に巻き込まれずにすんだのに』というのは、やっぱり嫌だから」
「それはもちろん嫌だが……そんな風に言ってよくうちに来るけど、なにかあったことってないよな」
「一緒にいたから何も起きずにすんでるのかもしれない。その辺りはさすがのシュレディンガーの猫にも理解できかねる。にゃあ」
「鳴くなよ。可愛いから」
 真雪は笑った。
「可愛いか?」
「あんまり可愛いから、拾って帰りたくなる」
「じゃ、拾って帰ってくれ。にゃあにゃあ」
「はいはい」
 真雪はひょいとあたしの襟首をつまみあげる真似をした。
 こうしてあたしはめでたく今夜の宿を得た。

 うちの大学は、新宿から某私鉄の急行に乗って二十分のところにある。学校までは駅から徒歩二十分、真雪の下宿はそこからさらに十分の距離にある。
「今日はチャリか?」
「いや、もっと遅くなると思ってたから歩いてきた」
 あんまり遅くなると自転車置き場がしまってしまう。
 真雪は自転車運のないやつで、その辺の店の前なんかに止めておくと、必ず盗られるか撤去されるか壊されるかしてしまうので、有料の自転車置き場を使うことにしてるのだ。
「それに、酔払い運転は犯罪だしな」
「そう言えば、飲み会だったんだよな、あたしたち」
 全然酔っていないので忘れるところだった。
「しかし、あんまり飲んでないあたしはともかく、何で真雪も酔ってないんだ?」
「あんまり飲んでないってあのな、三合空けといて言うセリフか?」
「うん。まだ一合くらい余裕がある。それを越えると一気に気持ち悪くなるけど」
「難儀だなあ」
「まったくだ」
 言いながら、真雪の家に向かって歩き出す。
 途中のコンビニで飲み物と菓子を買う。いつもの通りに。
「久しぶりだ、真雪んち行くの」
「そういやそうか」
「ああ。卒公の練習始まる前に、ワープロ手伝いに行ったっきり」
 真雪は、手書きの方がノって書けるタイプで、差し迫ってくるとボールペンで書きなぐり出す。
 速度は上がるが、読めなくなる。
 普段から相当のクセ字なのが、もはや字とは呼べない、呼んでしまったら文明に対する侮辱だ、というところまで落ちるのだ。
 仕方ないのであたしが行って、出来たそばから清書していく、というのがここ数年の習いになっていた。
「……面白かったなあ、『パンドラ』打つの」
「ん?」
「セリフとか、ちゃんとみんなの声と姿で浮かぶんだ。一応キャスティングについては秘密だったけど、もう、ちょっと読むだけでまるわかりで。よく見てるなあと思った」
「そりゃどうも」
 パンドラの役、瞳子の役は特によく描けていた。
「あれ?」
「ん?」
「今ぽつっと……来たような」
 空を見上げる間に、大粒の雨がぱらぱらと降り出してきた。
「雨だ」
 どうして人は言わずもがなのことを言ってしまうのだろう。
「どうする? コンビニに戻って傘買うか?」
「もったいないから、いい。それにもう真雪んちまでの方が近いんじゃないか?」
「走るか?」
「いや。春雨じゃ、濡れて参ろう」
 月影半平太を気取る。
「風邪……は大丈夫かな、この季節なら」
 走り出した足をまた緩めて、真雪もうなずいた。

「ただいまー」
「お邪魔します、だろ、一応」
 勝手知ったるとばかりにずかずか入りこむあたしに、真雪が苦笑する。
「タオル借りるぞ」
 予想よりも大分降られた。シャツが体に貼りついている。
「いや、そのままシャワー浴びちまえよ。着替え出しといてやるから」
「真雪は?」
「あとでいい。お前の方が髪が長いんだから、濡れたままだと風邪ひくぞ」
「……じゃ、お言葉に甘えて。悪いな、すぐ出る」
「ゆっくりあったまって来い」
 あたしは雫をたらさない様に注意して、風呂場へ駆け込んだ。
 駅から遠いせいか、真雪の部屋はいい物件の割に安い。と思う。部屋は八畳一間、台所とバストイレつき。しかもユニットバスじゃなくて、風呂とトイレが別々なのは助かる。
 これでいろいろコミで五万円なんて、最初思わず「なんか出るのか?」と聞いてしまった。幸い今まで出くわした事はないが、出たとしても「ああやっぱり」と思うだろう。
 ぱぱぱっと服を脱いで、一応たたむ。元火をつけてシャワーを出す。暖かい季節なので、すぐにお湯が出る。
 冷えた肌にそのぬくもりが心地いい。
「ふー……生きかえるー」
 あったかいものは好きだ。
 体を洗っていると、髪の匂いが気になった。汗と煙草が交じり合ってる。
「おい、着替えここ置くぞ」
 いいタイミングで真雪がガラス戸の向こうに来たので、
「すまん、髪も洗っていいか?」
と声をかけた。
「おー、洗え洗え。ついでに風呂も洗ってくれ」
「そこまで待たせるのは悪いから、やめておく」
 体についた泡を流して、頭からお湯をかぶる。真雪のシャンプーを拝借する。ドラッグストアで一番安く売ってる、お徳用ポンプタイプのだ。
 隅々まで洗いきる頃には、すっかり温まっていた。ほかほかと湯気が出ている。
 いつも借りてる黄色い花柄のバスタオルで体を拭く。着替えは、これまたいつも借りている白いパジャマだった。
 ……当たり前だが相変わらずでかい。根性入れて袖をまくらないと、手が出ない。
 あたしの身長は一五三・五センチ。智がいなければ、うちで一番小さい。しかも、智に比べて凸凹に乏しいので、布が余って仕方がない。
 真雪はたしか一七二センチで、その上だぶっとしたデザインが好きだから、シャツがワンピースみたいになる。ズボンは借りなくてもいいんじゃないかと思うほどなのだが、一応はいておけと真雪は言う。こちらも、気合を入れてまくらないとまるで忠臣蔵、松の廊下のワンシーンだ
「待たせたな」
 あたしが出ていくと、真雪は何故か慌てて、読んでいた文庫本を置いた。上半身裸で、首からタオルを下げている。
「早かったな」
「そうか?」
「牛乳、あっためといたから、飲めば」
「おっ、かたじけないっ」
 真雪の作るホットミルクは大好きだ。ミルクパンで、沸騰しない様に丁寧にあっためるので、甘味が出てとてもおいしい。しかも、飲み頃になるように冷ましておいてくれる。
 もしあたしに金と権力があったら、ホットミルク専用職人として召し抱えたいくらいだ。といつか言ったら、なんだそりゃと笑われた。
 急いで濡れた服をハンガーに吊るす。
 真雪がシャワーを浴びる音を聞きながら、サッカーボールをかたどった巨大クッションに寄りかかり、じっくりとミルクを堪能する。至福至福。
 ……そういえば、何読んでたんだろう、真雪のやつ。
 カバーのかかっている文庫本を手にとって見た。
 ……「哀願動物・仔ウサギいぢり」。
「あー!」
 思わず大声を上げてしまった。
「ななな、なんだ、どうした!」
 滅多にないあたしの大声に真雪のほうがよほど慌てて、風呂場のドアを開ける。
「真雪、真雪っ! なんだよこれ! 新刊か? あたし知らないぞ」
「あ……あー見つかったか」
「見て下さいと言わんばかりに置いてあったんだ。――貸してくれ」
「俺まだ読み終わってないんだけど」
「どこまで読んだんだ? このしおりのとこか? あとちょっとじゃないか。風呂出たら読め。読み終えてあたしに貸せ」
「……いいよ、貸してやる。先に読め」
「いいのか? ほんとに? ありがとう。真雪はいい奴だ」
 あたしはクッションに戻り、早速読み始めた。
 タイトルから容易に推察出来るとおり、いわゆるひとつのエロ小説である。著者は一文字秀一。
 だが。実はこの著者は別のペンネームでも活躍している。そちらの方はかなり有名で、この間は直木賞の候補にもなったくらいだ。
 あたしも真雪も、この作家の大ファンなのだ。二人が親しくなったきっかけも、この人の本だった。
 最初あたしは寡聞にして一文字秀一の存在を知らなかったのだが、真雪のおかげでそちらも読破できた。渋る真雪から全巻借り倒したのが懐かしく思い出される。
 そんじょそこらのエロ小説とは違って、とても面白い。
「……読んでるしなあ、こいつは」
 頭を拭き拭き、真雪が風呂から出て来た。冷蔵庫を開けてコーヒー牛乳を出す。
「な、な、な、真雪、これもしかして、『うさぎ三部作』と繋がってるのかな?」
「……さあてねえ。言ってもいいのか?」
「あ、だめだ、言っちゃだめ。楽しみが減る」
「じゃ、聞くな」
 真雪はパックに直接口をつけ、コーヒー牛乳を喉を鳴らして飲んだ。喉仏が動く。
「はー……いいなあ、ここ。『少女の中で男の指が蠢いたとき、思い出したのは、昔クラスで飼っていた蚕であった。』」
「音読すな」
「すごいうまいこと言うよな。確かに、あの太さとかもちもちっとした感じとか、何よりあのうじゃうじゃな足なんて、いやな男に触られたときの雰囲気がよく出てる」
「……解説すな」
 真雪はコーヒー牛乳のパックをテーブルに置き、頭を抱え込んだ。
「……どーした真雪、頭でも痛いのか?」
「痛いっつーか、……痛い」
「風邪か? さっき濡れたから」
 あたしは手を伸ばして真雪の額に触ろうとした。
 ぽてん。
「あ」
 だぶだぶの袖が、中身入りのパックを引っ掛けていた。
 手に持っていた「哀願動物」を死守する事に気を取られていたら、コーヒー牛乳溜まりに突っ込んでしまった。膝のあたりに、冷たい感触が広がる。
 慌ててパックを起こしたが、大分こぼれてしまった。
「あー……すまん」
「いいから、拭け」
 首にかけていたタオルを真雪が放ってよこす。
「ばか、床じゃない、自分だよ」
「……拭くといっても」
 すでに液体は布に染み込んでいる。
「洗った方が早いな」
 あたしは立ちあがって洗面所に向かった。幸い被害にあったのはズボンだけのようだ。しみになっては大変なので、丁寧に水で洗う。
「あー、よかった。しみ取れた。ほんとにすまんな、真雪。責任持って明日の朝洗濯機回すから」
「それはいいけど、お前、そのかっこで出てくるな。今替えを出すから」
 そのかっこ、と言われるほどすごいものではない。前述の通りシャツはだぶだぶなので、膝上十センチのワンピース並には体は隠れている。と言ったら、
「隠れてる面積がどうのじゃないんだ。何ていうか……あああ、男にしかわかんねーよ、これは」
「ふむ、いわゆるひとつの『Yシャツ一枚でサービス』だな」
 正確にはパジャマの上着だが。
「サービスしてやろうか、真雪」
「バカな事言ってんじゃない」
「うーん。やはりあたしでは今ひとつ色気に欠けるか」
 パジャマの胸元を覗きこんだ。二十一歳にもなってAカップでは、多分この先もそう発達はしないだろう。
「色気は……あるよ、十分。だからお願いだから服を着てくれ」
「着てると言うのに。人聞きの悪い」
 まるであたしが露出狂のようではないか。
「ほれ、ズボン」
「嫌だ。こうなったら意地でもはかない」
「……いい加減にしないと、怒るぞ」
「怒られるいわれは無い」
「じゃ、いい加減にしないと、……襲うぞ」
「それは嫌だ」
 あたしが答えると、真雪は勝ち誇ったような顔をした。
「だよな。俺だってそんな事したいわけじゃないんだ」
「したいわけでもないのに、あたしのしつけのためにわざわざ奮い立たせてくれるとは、ご苦労な事だ。そこまでする必要は無いと思うが」
「慧子」
 真雪の声が厳しくなる。
 あたしはまっすぐに真雪を見つめて言った。
「襲われるのは、嫌だが……合意の上でならしてもいい」

 一瞬のうちに真雪の表情がさまざまに変化するのを、あたしはじっと眺めていた。
「俺たち……『友達』じゃなかったのか……?」
 真雪はようよう声を絞り出した。
「あたしは『親友』のつもりだったが。まあ友達である事には変りないな」
「普通、友達は……そういうことは、しないもんだろ」
「誰が決めたんだ、そんな事」
 あたしはゆっくりとボタンを外し始めた。
「おい……!」
「前から思ってたんだ。『友達』と『恋人』の境目としてセックスを重要視するのって、なんか違うんじゃないかって」
 三つ目まで外れた。
「セックスしなくても恋人だって言う状態が成り立つなら、セックスしたけど友達だっていう関係もありだよな」
 全部外れた。裾の方を外すためには、まくりあげなければならなかった。
 ほんとにでかい、このパジャマ。
「……それで? 試そうって言うのか?」
「まあ、そういうところだ」
 するりとシャツを床へ脱ぎ捨てた。下着姿になる。
「嫌だぞ、俺は。そんな理由でできるか」
「だって、いちいちうるさいじゃないか。肌をさらすな、もう少し身を慎め、男はみんな狼だから、例えば俺だってどんな気になるかわからないぞ……」
 いつも口酸っぱく言われていることを繰り返した。
「一度して、大丈夫なら、そんなに神経質になることもなくなるんじゃないか? 試してみるべきだと思うぞ」
「……大丈夫じゃなかったら、どうするんだ」
「あたしは、真雪とあたしの絆を信じてる」
「……ものは、言いようだな」
 真雪は苦しげに押し黙った。
「……でも」
 あたしはほんの少し目線をそらした。口元に微かな笑みを浮かべて。
「真雪がこう言うなら、納得して、やめてもいいぞ」
「……なんだ?」
「『瞳子に悪いから、しない』」
「……瞳子とは、別れた」
 思いも寄らなかった言葉に、今度はあたしが驚かされる。
「いつ?」
「俺が、教育実習で田舎へ帰る前だ」
 ではもう半月も前になる。
「瞳子から聞いてないのか?」
「全然。――どうして別れたんだ?」
「自分の気持ちに嘘がつききれなくなったからだ。俺は――」
「じゃ、問題はないな」
 あたしは皆まで言わせず真雪に近寄った。
 ズボン越しにペニスに触れる。
「ば……やめ……」
「なんだ、あたしみたいなものにでも欲情するって言うのは、本当なんだな」
 そこはほぼ硬くなっていた。形が手に伝わってくる。
 こんな風になっていたんだ、真雪のは。
「そこへ座れ。サービスしてやるから」
 ベッドを示す。真雪は……倒れこむように腰を下ろした。
 あたしはひざまづいた。ズボンとトランクスをいっしょくたに引き下ろす。
 股間でちょっと引っかかるのを、さらに引きおろした。
 現れた肉棒を、まず両手の平で包みこむ。
 意外なほど、立派だった。今までにそう多くの例を見てきたわけではないけれど、多分これは、平均よりも太いのではないだろうか。
 ニ、三度こすると、さらに硬さをました。あたしはそこに唇を寄せていった。キスするときのように顔を斜めに傾けて。
 ちゅ……。
 唇の内側の粘膜で亀頭に触れた。ぴくっと真雪が動いた。
 そのまま唇を離さず、舐めまわす。すぐに唾液でぬらぬらし始めるのを、竿のほうにも伸ばしていく。
 根元までまんべんなく舐めた後で、口に含んだ。
 けれど奥までは一度に入れず、すぐに出す。
 舌をのばし、雁首を刺激したり、鈴口をちろちろ舐めたり、逆に舌を平べったくして亀頭全体に刺激を与えたりした。
 先から透明な汁が出てきている。
 それも全体にのばしていく。
 くわえた。
 ず、ずずっと口の奥まで引きこんでいく。
 口の中に真雪の味が広がる。ちょっとしょっぱい、肉棒。
 洗い立ての体からは石鹸の匂いがする。
 口が、真雪で満たされる。
 あたしは頭を振りたてて、動き出した。
 舌で舐めまわしたり、唇を締めたりして、刺激を与える事も忘れない。
 じゅぷっじゅぷっと音がする。根元近くを握っている手が濡れている。あたしの唾液と真雪の汁で。
「く……」
 真雪の押し殺した声が聞こえた。
 息使いが荒くなっている。
 上あごの粘膜を使って、先のほうを刺激する。
 膨れ上がっているのを感じる。閉めている口元が痛くなってきた。
 それでも負けずに、さらに締めつける。口腔内の粘膜全てをくねらせて、真雪を包む。
 そっと、真雪の手があたしの髪に触れた。
「もう、いい……やめてくれ」
「別に口の中でいってもいいぞ。顔や胸に出されるのは困るが……」
「やめろって、言ってるんだ!」
 その剣幕に、体が勝手にびくっとしてしまった。
「……気にいら、なかったか」
 あたしは口の周りを手で拭いた。
 よだれでびしょびしょだ。
「やっぱりあたしとじゃ、できないか」
「……できない、今のお前とじゃ」
 真雪はうつむいたまま言って、のろのろとトランクスとズボンを引き上げた。
「『友達』のお前とじゃできない。『恋人』じゃなきゃ」

 ぐるりと世界が廻った。

 新宿、金曜日、午後六時。
 あたしは紀伊国屋目指して急いでいた。
 真雪に会える。
 そう思うと泣きたくなる。
 本当は飲み会はパスしようかと思っていた。
 瞳子と並んで歩く真雪を見るのはつらかったから、
 二人は、つい二ヶ月ほど前、卒公の練習が始まる頃に付き合い出した。
 それまでただの友達だったのに、恋人になっていたのだ。
 瞳子のほうから告白した。
 瞳子は、美人だ。積極的で、さばさばしていて、男の子に人気が有るのはとてもよくわかる。
 だから、真雪が受け入れたのもよくわかる。
 卒公の練習中、真雪は瞳子ばかりを指導していた。
 主役だから。そうかもしれない。
 けれど、あてがきで脚本を書いたのも真雪だ。最初から瞳子を主役にするつもりで書いたのだとしても不思議はない。
 ということは、真雪のほうでも瞳子を気にしていた事にならないだろうか。
 あたしは全然気がつかなかった。
 瞳子の気持ちにも、真雪の気持ちにも。
 あたし一人が置いてきぼりだ。

 でも今日、瞳子はいないのだ。
 真雪の隣に、あたしがいてもいいのだ。
 だってあたしと真雪は「親友」だから。
 「恋人」との中を邪魔しちゃ悪いから、遠慮してるけど、恋人さえいなければ、隣にいて悪い法はない。

 紀伊国屋でたむろしているサークル員の中で、真雪一人が目立つ。あたしの目に飛び込んでくる。
 真雪、真雪、真雪。
 久しぶりだ。
 教育実習に行っている間、全く会えなかった。
 電話もできなかった。
 だってあたしは「恋人」じゃないから、特別な用事があるわけでもないのに電話なんてできない。
 でも、今日は。
 「親友」として泊まりにいってもいいはずだ。
 瞳子と付き合い出す前のように。

「鳴くなよ。可愛いから」
 真雪は笑った。
「可愛いか?」
「あんまり可愛いから、拾って帰りたくなる」
「じゃ、拾って帰ってくれ。にゃあにゃあ」
「はいはい」
 真雪はひょいとあたしの襟首をつまみあげる真似をした。
 こうしてあたしはめでたく今夜の宿を得た。

 あたしのバスタオル、あたしのパジャマ。
 マグカップにホットミルク、クッション、本。
 あたしの居場所はここに確かにある。

 でももしかしたら。
 瞳子もここに泊まったりするのだろうか。
 シャワーを借りて、パジャマを借りて、おしゃべりして。
 あのベッドで眠るのだろうか。
 真雪と、いっしょに?
 あたしとは一緒に寝てくれない。
 変な気を起こしでもしたら困ると言って。
 友達だから。
 でも、恋人の瞳子なら、大歓迎なのだろう。
 変な気を起こしたら、それに従えばいいだけのことだ。

「……瞳子とは、別れた」


「……なんで?」
 あたしはめまいをこらえてつぶやいた。
 どうしてそんなに呼び方に拘るんだ? あたしたちの関係を、呼び方の枠に当てはめようとするんだ?
「いいじゃないか、セックスする『友達』がいたって。それを嫌がる『恋人』がいないなら」
「お前こそ、どうして『友達』に拘る」
 疲れた声で真雪が尋ねた。
「……それは」
「茅場、大介さんのことがあるからだろ?」
「え?」
 突然にその名前を出されて、驚いた。
「お前はまだ、引きずってるんだ、違うか?」
「そんな、馬鹿な……あれはもう一年以上前の事だし……ちゃんとけりはついてる」
 けりを、つけた。
 茅場さんの卒業式に、自分から、お別れを言った。
 茅場さんは、受け入れてくれた。
 茅場さんも気づいていた。あたしが苦しんでいる事に。
 あたしは、自分が恋をしている状況に耐えられなかった。
 あたしらしくありたいというあたしの信念と、茅場さんに好かれていたいという欲望とがせめぎあって、あたしは結局どちらも取れなかった。
 ただ意地っ張りで淋しがりで、やきもち焼きでわがままで、その気持ちの何一つも表現できない自分がいた。
 茅場さんはいい人だった。すごい人だった。
 付き合おうと、向こうから言ってもらって、あたしは有頂天だった。
「けりは確かについた。でもお前はいまだに怖がってる。恋愛ってものを、本質的に恐れてる。だから『恋人』の関係になるのが嫌なんだ」
「……ちがう」
 あたしは首を振った。緩やかに、だんだん激しく。
「ちがう、ちがう。茅場さんは関係ない」
「いくらお前がそう言っても、俺はだめだ。『恋人』になれない限り、お前の中に茅場さんの影をみることをやめられない……。あれだって、茅場さんに仕込まれたんだろ?」
「! 変な言い方するな! そりゃ……茅場さんと付き合ってるときに、……いろいろ覚えたけど」
「お前にとってはいまだに茅場さんは最初で最後の『恋人』なんだ。そんな気持ちを抱えてるお前を……どうこうできやしないだろ。たかが『友達』の俺には」
 たかが。
 たかが。
「……たかが?」
「そうさ」
 あたしは唇をかんだ。
 口惜しかった。
 
「そうか、『たかが友達』だから、あたしには知らされなかったんだ」
「……何をだ?」
「真雪が、死んだ事」
「なっ……」
「夢の話だ。今日の夕方見た夢。真雪はここから遠い故郷へ教育実習に行って、そこで何故か死んじゃうんだ。あたしはその事を知らなくて、ずっとずっと待ってるんだけど、結局真雪は帰ってこない」
「……」
「待ち疲れて、泣き疲れたあたしの前に現れたのは誰だと思う? きちんと喪服を着た瞳子なんだ。瞳子は葬式に来なかったあたしを責めた。友達甲斐がないと言ってなじった。『連絡が来なかったんだ、誰も知らせてくれなかったんだ』と言ったら、瞳子はこう言った。『あたしのところには危篤だって知らせが来たわ。だから最後に一目会えたわよ』」
 一息にまくし立てた。
 不条理な、夢だ。わかってる。
 本物の瞳子はそんな底意地の悪い言い方はしない。
 ただ、こう言われたことはある。
 慧子は真雪に甘えすぎている、と。
 ……夢の中は、上天気だった。
 眩しい空があって、そのほかに存在していたのは瞳子と、その黒い服だけだった。
 黒い服が、うらやましかった。
 せめてシュレディンガーの衣装があったら、と思った。
「そうだな、たかが友達だ。わかったよ、真雪。お前の言う通りだ。あたしは恐れてる、恋愛を」
 手が、震えた。
「でも、仕方ないじゃないか。怖いものは怖いんだ。自分が自分じゃなくなる。欲しい者を手に入れるためには手段を選ばなくなるし、邪魔者を憎む気持ちっていったら、吐き気がするくらい醜い。しかもその『欲しい』の度合いが尋常じゃない」
「……恋愛なんてそもそも、精神異常の状態だから」
 真雪が口を開いた。
「言ったじゃないか、あの当時。お前が俺の部屋で毎日泣いてた頃に。……忘れちまったのか」
「忘れて……ない。だから、怖いんだ」
 あたしは、ようやく理解した。
「今度真雪に恋をして、ああやって苦しんだら、もう、真雪はあたしを助けてくれない。当事者になってしまうから」
 いくら忍耐強くたって、一方がもう一方の愚痴ばかりは聞いていられないだろう。ケンカは避けられないだろう。
 いつか、終わりがくるだろう。
「そしたらあたしは、一人じゃなんにもできないから、そのまま真雪を失ってしまう。『恋人』と『友達』両方の真雪を失うくらいなら、友達としてだけでもいて欲しいと思ってたんだ、きっと……」
 それが全ての原因とは言わないけれど、心につかえていた大きな障害であることは確かだった。
 あたしは黙り込んだ。真雪も黙っていた。
 今まで全く忘れていた雨の音が、静かな部屋に満ちていく。
「俺は……」
 真雪がつぶやいた。
「俺とお前の絆を信じてるよ」
「……どこかで聞いたセリフだ」
 あたしは、口ではそう言っておきながら信じられていなかったということになる。
 自分の気持ちと真雪の気持ちが同じものなのか、自信がなかったのだ。
 真雪は微かに笑い、あたしを手招きした。
「こっちこいや」

 言われるままに、ベッドに腰を下ろした。真雪が広げた足の間に。
 背中から、抱きかかえられる。あったかい。
「体、冷えちまってるじゃないか。こんな格好でいるから」
 あたしは、真雪に擦り寄った。
 あったかいものは、大好きだ。
「……友達でもいいって、いうけどさ」
 真雪が言った。
「恋をするのは止められないよな。……シュレディンガー」
「え?」
 何故ここであの劇の役名が出てくるのか、理解できない。
「箱の中に、猫と毒がある。たとえ、猫は今頃毒を食べて死んでいるんじゃないかという疑念にとらわれても、箱の中を観察さえしなければ、猫は生きていると言い張る事は可能だ。だけど、観察をしないでいると言うことは、いつまで経っても不確定だと言うことだ。猫は生きる事も死ぬこともできず、二重写しの自分の体に戸惑うばかり……」
 二重写し。
 友達だからと言い聞かせる自分と、恋をしていると叫ぶ自分と……。
 真雪は、ふと口調を変えた。
「行かないで、シュレディンガー。あなたはこの、閉じた世界に残された最後の希望。箱を開けさえしなければ、あたしは信じていられるの、ふたつの可能性のうちの、信じていたいほうを」
 パンドラの……セリフだ。
 あたしは反射的に答えていた。
「でもそれは無理だよ、パンドラ。そんな状態は長く続かない。ふたつの可能性が存在すると言うことを君が知っている時点で、すでに僕の体は二重写しなんだ」
 ぞくっとした。けれど続けた。
「耐えきれず、いつか君は覗くだろう、禁断の箱を。君が君である限り、避けられない運命だ。そのときがパンドラ、僕の最後だ。君が望む可能性が生き残るということは、望まれなかった僕が死ぬということ。逆もまた然り」
「シュレディンガーの前では」
 真雪が言った。これは……真雪の役、ラプラスの魔のセリフだ。
「ある瞬間から未来永劫をはじき出す私の瞳も曇るのです。何故ならば、まさしくこれは不確定の申し子。それ故に『希望』の名を冠するのですが」
「でもそうなっても泣かないでね、パンドラ。僕の最後は、同時に僕のはじまりでもあるのだから……」
 声が震えた。
 演じているときは、気付かなかった。
「お前のことを、思って書いた」
 静かな真雪の声。
「瞳子にはばれてたよ。私情を持ち込んで、しょうのないやつだと言われた。瞳子には、ほんとに全部ばれてたんだ」
 瞳子、の名前を真雪の口から聞くのが、痛い。こんな会話ですら。
「それでもいいと、あいつは言った。とりあえず付き合ってみて欲しいと。そして……やっぱり駄目で、俺たちは別れた。短い間だったけど、いろんなこと教わった気がする」
「……瞳子は、パンドラは、『箱を開ける者』だから」
 そういう性格なんだ。だからあたしは……瞳子のことも大好きで。
「やっぱり真雪はすごいな……」
「ん?」
「よく見てるよ、ほんとに」
「長い付き合いだからな」
「あたしの気持ちも、まるバレだったんだ」
「希望も、だいぶ含まれていたけど」
「……駄目じゃないか、ラプラスの魔がそんなこと言ってちゃ」
「仕方ない、シュレディンガーの猫の前では形無しなんだ」
 真雪は軽くあたしの体をゆすった。
「さてどうする、シュレディンガー。俺は箱を開けた。そのあとを決めるのはお前だ」
「あたしか?」
「実はそうなんだ。あの逆説に唯一答えを出せるのは当の猫本人だと、俺は思ってる」
 あたしは、自分の心にもう一度問い掛けた。
「……真雪を、なくしたくない」
「……」
「でもそれ以上に、真雪が欲しい」
「……てことは、どういうことだ?」
「恋人になってくれ」
「喜んで」
 真雪があたしの肩にくちづけした。

「いい、においだな」
「真雪と同じにおいだろ。同じシャンプー使ったんだから」
「そうでもないさ。お前の匂いがするよ」
 なんだかこそばゆい。
「真雪だって……タバコのにおいかな、これ」
 大きく息を吸い込む。
 ブラジャーがはずされた。
 思わず隠そうとする手をそっとどけて、真雪が胸に触れてくる。
「ん……」
 揉まれるのかと思って身構えたが、真雪は手の平で乳房を包み込んだままで動かない。
「……真雪……?」
「念願が叶ったのが嬉しくて」
「小さくて済まんな」
「いや、それより形がいいから。大きさだって、俺の手に丁度おさまるし」
「浩平たちは『少し余るくらいがいい』と言ってたぞ」
「別に浩平に揉ませるわけじゃないだろ」
 ゆるやかに、真雪が手を動かし始めた。手の平で乳首がこすれる。人差し指と中指で乳首をはさみながら、揉みつづける。
「……ふ、あ……」
 頭の奥で、茅場さんのときと比べている自分に気付く。
 あの頃は、何もかも不慣れで、行為だけが気になった。
 でも今は、なんと言ったらいいのだろう。「愛されてる」ことを感じられる。セックスが「愛の行為」って呼ばれることにうなずける気がする。
 真雪の手は、優しい。茅場さんが優しくなかったわけじゃない、むしろ優しかったと思うのだけれど、でも違う。
 受け止めてもらえる感じ。
 真雪の手が腹を滑り、下半身へ降りてきた。
 ももを撫でまわし、下着ごしに外陰部をこする。
 反射的に足を閉じようとするのを、広げられた。
 抱きすくめられて、ただ愛撫を受ける。
 パンツの中に、指が入ってきた。
「ま、ゆき……」
「何だ?」
「……好きだ」
「……そのセリフはもうちょっと後までとっておけ」
 割れ目を指が這う。あたしの形を確かめるみたいに、そっと、微妙な強さで。襞の一枚一枚をより分ける。
「あう……ん」
 指が少しだけ奥へ入った。すでに潤んでいるのが自分でもわかる。真雪の指の滑りがよくなった。
 尖ってきたクリトリスを、探り当てられた、意思とは関係なく、体が反応してしまう。
 強く、弱く、振動が加えられる。
 それに合わせて、声が漏れる。
「あ、あ、あ、あああ、あ……」
「いい声だな。可愛いよ」
 真雪がささやいた。可愛い、と言われるとぞくぞくしてしまう。そんな柄じゃないと思いながらも、やっぱりその言葉には弱い。
「最初に聞いたときから、いい声だと思ってた」
「……そ、かな……」
 後輩たちの中には、アニメの声優のように可愛い声の子がいくらでもいる。
「お前の声は、特別だ。甲高いだけの声じゃない。……いい声だよ、深くて、柔らかい」
「そんなこと言ってくれるの、真雪だけだ」
「……ずっと、こうして泣かせてみたかった」
 きゅ、っとつままれた。
「あんっ」
 喘いでばっかりなのが悔しくて、あたしは憎まれ口をきいた。
「発声練習してるあたしを見て、妄想にかられてたのか?」
「妄想なんて……してないときのほうが少ないくらいだよ、俺もまだまだ若いもんで」
「そ、そうなのか?」
 そんなふうにいわれると……気恥ずかしいような、ちょっぴり気持ちが悪いような。
「でもどんな妄想より、やっぱり本物がいい。声とか体もそうだけど……笑顔とか、な」
 いくらでも、あげたいと思う。
 あたしがあげられるものはみんな、リアルに真雪にあげたい。
 あたしは後ろに手を回して、真雪のものに触れた。
「ね、真雪、もう……しよう?」
「もうちょっと……。指でお前を味わってから」
 その言葉をなぞるように、真雪の指が深く差し入れられる。
 結局あたしは、指だけで一度いかされた。

「このままの態勢で……いいか?」
「ん……」
 あたしはちょっと腰を上げて、真雪を迎える準備をした。
 入り口に先端を当て、徐々に腰を下ろしていく。
 入ってくる。
 かき分けるようにして。
「あ、あ、あ、あー……」
 奥まで届いた。
 深い。
 切ない。
 気持ちいい。
「すげ……いい」
 真雪があたしを後ろから抱きしめた。手が胸をまさぐる。
 下から突き上げられて、あたしはのけぞった。
 あごに手がかかる。振りかえらせられる。
 くちびるを、かさねた。はじめて。
 やわらかい。
 真雪が、入れたままクリトリスを刺激する。
 さっきあれほど攻められたのに、まだあたしの体は反応する。
「あ、あ、も、もおいいよお……」
「もういいのか?」
 肩に背中に、キスの雨を降らせる真雪。
「気持ち、よすぎちゃう……だめ……」
「駄目、じゃないだろ」
 ぐるんと円を描くように動かれた。新しい刺激に快楽は際限がない。
「さっきのセリフ、言ってくれ」
「さ、っき、の……?」
「俺のこと、好きか?」
「……好き」
「俺もだ、慧子」
「好き……好き……すき、だ……」
 息が荒れて、無声音は満足な声にならない。
 それでもあたしは、言いつづける。
 真雪が誉めてくれた声で、真雪の欲しいリアルをあげる為に。

 それでも最後の瞬間には、何もかも全部が頭の中から消えてしまっていた。

 少し、眠ってしまっていたらしい。
 煙草の匂いで、気がついた。
 真雪は身を起こし、あたしに背を向けて、煙草を吸っていた。
 ぬくもりが欲しくて、あたしが擦り寄っていくと、何故だか真雪は顔をそむけた。
 ぎくっとした。
 なんだろう、あたしはまた何か、悪い事をしたんだろうか。
 無理に覗き込む。
 真雪は泣いていた。
「ど……どうしたんだ!」
「……なんでもない」
「何でもない事あるか!」
「・・いや、悪い、気にしないでくれ」
「気にするなっていっても」
「嬉しかっただけだ」
 真雪は乱暴に涙をぬぐった。そして片頬だけで笑う。
「馬鹿みたいだな、俺」
「……煙が目にしみたのかと思ったぞ」
「……実はそうなんだ」
 あたしは、真雪に向かって手を突き出した。
「?」
「一本くれ」
「お前、吸わないんだろ?」
「いいからくれ」
 そして、火をつけさせる。
 つけ方なら、昔舞台でやったことがある。
 息を吸って……火がついた。
 大きく吸い込む。
 むせた。
「ああもう、だから言わんこっちゃない」
 真雪が呆れ顔をする。
 あたしは涙を拭きながら言った。
「これで、おそろいだ」
「……」
「初めて吸った。あたしのタバコ処女は、真雪のものだな」
「ばか」
 真雪はそっと煙草を取り上げて、あたしのあごを持ち上げた。キスされるのかと思ったのに、なかなか唇が降りてこない。
「真雪?」
「ほんとに……困った猫だ」
 むにむにむにっとあごをもまれた。
「にゃ!」
 くすぐったがるあたしを見て、真雪は目を細める。
「うし、牛乳飲むか、慧子」
「おう! いつもの通りやってくれ!」
 跳ね起きて、台所に立つ真雪の後ろについていく。
 脱ぎ捨てたシャツを拾い上げる。
 静かだった。雨は何時の間にか止んでいるようだ。明日もきっと晴れるだろう。
 でも、どんなに残酷なほどに空が晴れても、あたしはもう、あんな夢は見ない。

 ひとつのときは、終わりを告げたのだ。

小犬のワルツ

 女子高の教師になった、というと、悪友どもはしきりに羨ましがるのだが、実際にはそれほどいいものではない。
 この年頃の女の子の集団は、はっきり言って理解不能だ。
 ずっと共学だったし、妹もいるし、女性に対してまるで免疫がないというわけではない俺だが、ここで出会う「女子高校生」たちの集団は、過去に知っているどんな女たちよりもものすごい。
 四月に赴任して、二ヶ月あまりの間に、俺はその力に打ちのめされていた。
「あれ、どうしたんですか、茅場先生」
 教室の入り口前で立ち尽くしている俺を見て、先輩の飯田麻子先生が声をかけてくる。
「はあ……。前の時間が、体育で……」
「またですか」
 飯田先生は苦笑して、がらっとドアを開けた。
 きゃーっという黄色い声が耳を直撃する。
「こら、チャイムはとっくに鳴ってるでしょ! いつまでもてれてれやってるんじゃない」
「なんだ麻子ちゃんかあ」
「茅場ちゃんがついに切れたかと思っちゃった」
「まだ着替え中でーす」
「女の子はいろいろ大変なんでーす」
「そういうせこい授業妨害がいつまでも続くと思わないことね」
 飯田先生はふふんと鼻で笑った。
「三十秒以内に支度して席につかなかった者は、欠席扱いにします。三十」
 腕時計をちらりと見やり、秒読みをはじめる。
「二十九、二十八、二十七……」
「きゃー、麻子ちゃん横暴!」
「さっさと着替えなさい、二十五、二十四……」
「ブラシ貸してブラシー」
「もういいよ、欠席になったってー」
「あら」
 飯田先生はすまして言った。
「欠席扱いの場合、授業も受けさせませんからね。茅場先生の授業受けられなくていいの?」
「いやーん」
「あたしらの心のオアシス奪わないで~」
「じゃ、さっさと着替える、はい十七、十六……」
 何が『心のオアシス』だ、と俺は教室のドアにもたれて頭を抱えた。
「八、七……。ほら、やれば出来るじゃない。以後、この手は通用しないわよ」
 教室を見渡し、飯田先生はうなずいた。
「茅場先生、どうぞ」
「いつもすみません、飯田先生……」
 俺はぺこぺこと頭を下げた。
「まあ、慣れないうちは仕方ないですね」
 微笑んで、飯田先生は隣のクラスへと消えた。
 俺はため息をひとつつき、背筋を伸ばして、ドアをくぐった
 四十二対の目が一斉に俺を見つめる。
 夏の体育の後で、教室に汗の匂いがこもっている。女性の匂いというには、まだまだ成熟が足りない、などというと変態じみているだろうか。
 だが真面目な話、高校生くらいというのは、大人にはなりきれず、かといって子供のままではいられない、厄介な年頃なのだ。
 胸元を広めに開け、あるいはスカートの裾をぱたぱたさせて、下敷きや団扇(!)で風を送り込んでいる生徒にはなるべく視線を送らないようにして、俺は教壇についた。
「じゃあ、授業をはじめます。教科書の、八十六ページを開いて……」
 それを遮って、日直が号令をかけた。
「きりーつ」
 がたがたっと椅子を鳴らして、生徒たちが立ちあがる。
「れーい」
「ちゃくせきー」
 くすくす笑いが起きる。
 飯田先生や他の先輩諸氏は「若い男前の先生が珍しくてからかっているだけ」というが、ここまで逆らわれると、やられてる当人にとってはほとんどいじめだ。
 俺は何とか平静を装って、授業をはじめた。
「今日のところは期末の範囲になるんで、注意して聞くように……」
 板書しようと振りかえる。チョークの長いのがそろえておいてある。粉はきれいにふき取られ、前の時間の板書は丁寧に消されてあった。
 今日のテーマを上のほうに大きく書き、生徒たちに向き直る。
 真島ゆにの姿が目に入った。
 前から二番目、窓際から二番目の席にちょこんと座っている。教科書もノートも広げておいてあり、シャーペンを握り締めていつでもノートを取れるように身構えている。
 真摯なその姿勢が、微笑ましい。
 いつも黒板周りを整えておいてくれるのは、きっと彼女だ。級友たちがわいわい騒ぎながら、わざとゆっくり着替えている中で、一人で急ぐ彼女の様子が目に浮かんだ。
「えー、今日は摂関政治について。摂関政治、というのは中学の頃にも授業でやったかと思いますが……」
 下調べのノートを黒板に写していく。
 それを熱心に書き取る、真島ゆにのシャーペンの音が聞こえる気がした。

「ふ~」
 職員室に戻ると、一気に疲れが出る。
 今日の授業はこれで終わりだが、この後部活がある。
 教師生活もなかなか大変だ。
「お疲れ様です。いかがですか?」
 飯田先生がよく冷えた麦茶を出してくれた。
「あ、どうも……先ほどはすみませんでした」
「いいえぇ」
 口元を押さえてほほほと笑う。
「私にも覚えがあるものですから」
 そう言えばこの人も女子高出身だったっけ。
「あの子達も、いつかは先生みたいに大人になってくれるのかなあと思うと、それだけが救いですが……」
 麦茶を飲む。喉がずいぶんと乾いていたようだ。
「失礼します」
 凛とした声がして、二人の生徒が入ってきた。
 声の持ち主は、早川未来。二年生で演劇部の新部長。
 それに隠れるようにして、真島ゆにも入ってくる。彼女も二年生の部員だ。
 二人は俺のところまでやって来た。
「先生、今日の部活についてなんですが」
 早川はすらりと背が高い。ショートカットで、きりっとした表情をしているが、顔立ちはむしろ繊細だ。勉強も運動もよく出来、リーダーシップも取れるタイプで、生徒の間で非常に人気がある。絵に描いたようなスターだ。
 今日の予定については前もって聞かされていた。早川はその確認に来たのだ。
 秋の大会用の脚本の印刷と製本をすることになっている。
 すでに製本作業用の教室、印刷室の使用許可はとっているので使用に立ち会ってほしいといった内容だった。
「会議などのご予定は、ないですよね?」
「ああ、入っていない」
「それでは、六限のあと、また来ます」
 用件を済ませると、早川は一礼してきびすを返した。
 ずっと傍で黙っていた真島ゆにも慌てて頭を下げる。早川の動きに比べて、ずいぶんとよちよちしている。
「待って、未来ちゃん」
 小さい声で呼びかける真島ゆにを振りかえり、早川は視線で早く来いとせかす。
 外見も性格もまるで違っている二人だが、何故かともに行動することが多い。
 真島ゆには背が小さい。早川と並ぶとそれが余計に目立つ。
 全体的にまるまっちい印象。胸腰のくびれもほとんどなく、典型的なお子様体型といえた。
 黒目勝ちのタレ目はいつも上目遣いで、おどおどしている。
 毛先のそろわない半端な長さのショートカット。
 いろいろな特徴が、小犬を思わせる。
 性格も外見そのままだ。
 あがり症で、授業中に突然指名されると答えられなくなってしまう。予習をちゃんとやってきているにもかかわらず。顔を真っ赤にさせてうつむく様子が痛々しいので、俺はなるべく彼女を指名しないことにしている。
 そんな調子だから、演劇部員ではあるけれど、舞台に立つことはない。もっぱら裏方……衣装や小道具といったものを手がけている。他の生徒が練習している中、舞台の袖にある小部屋――過去に使ったいろいろなものがおいてあり、「準備室」と呼ばれている――に一人こもって、ミシンをかけたり小道具を作ったり。
「先生、茅場先生」
「え?」
 飯田先生が腕組みをしてこちらを見ていた。
「あ、はい、なんでしょう」
「……こういう事を言うのは、私としても気が進まないんですけど」
「はあ」
「気をつけて、くださいね。あんまり一人の生徒にいれ込まないように」
「え?」
 飯田先生はちらりと出入り口へ目をやる。
「ずいぶんと熱心に見送ってらっしゃったようだから」
「え? あ! いえ、けしてそういう訳じゃ……ただ、転びそうで危なっかしくて」
「危なっかしい、という事はやっぱり真島さんのほうを見てたんですね」
 飯田先生はため息をついた。
「気をつけてくださいね。茅場先生の性格からすると……ああ、もちろんそんなに詳しく存じてるわけじゃありません、印象で判断してるに過ぎませんけど、それからいくと」
 声を潜めて。
「ああいうタイプに弱いんじゃありません?」
 図星だった。
「いろんな意味ではまるとヤバイですから、気をつけてくださいね、ほんとに」
 同僚が懲戒免職というのはやはり気分が悪いですから、と冗談めかして付け加えて、飯田先生は立ち去った。

 思えばこの一件さえなければ、あるいは俺は自分の気持ちに気がつかないままでいられたかもしれない。
 それは仮定に過ぎないが。

 仕事をしている一日一日は長いが、週単位、月単位で見ると社会人のほうが時間が経つのが早いような気がする。
 期末テスト、そのあとの採点期間を利用しての期末恒例球技大会も終わり、夏休みが訪れた。
 長い休みがあっていいなと、会社づとめの友人は言うが、それはあまりにも教師という職業の実態を知らない。きちんと責任を果たそうと思えば、学ばなければならないことはいくらもあるし、それに充てていたら夏休みなどあっという間に過ぎていくのだ。
 その上に部活の顧問などやっていたら、プライベートはないに等しい。うちの演劇部は文科系の部活の中でも伝統があり、毎年地区予選を勝ち抜き、県大会に出場するレベルにある。
 毎日のように練習がある。
 キャストも決まり、本読みも終わって、夏休みになってからは仮の装置を置いての立ち稽古にはいっていた。
 部長がしっかりしているおかげで、その全てに顔を出さなくて済むのは幸いだが、やはり週に二、三度は様子を見に行く。そうすると必ず意見を求められる。俺も学生時代に演劇をかじったので(そのために顧問にされたようなものだが)、つい突っ込んだことをいってしまう。
 演劇部の連中は、負けず嫌いがそろっている。次に行くとそこが改善されていたり、あるいは「やはり納得がいかない」とつき返されて議論になったりする。
 そういったやり取りをくり返すうちに、「はまって」いく自分に気がついた。
 やはり楽しいのだ。一度芝居をやった人間は、どうしてもこの世界から抜けられないらしい。
 生徒たちが選んだ戯曲も、なかなかよかった。中原雅人という作家の「風のたてがみ」をとある劇団が戯曲化したものだった。
 中原雅人の名前だけは聞いたことがあったのだが、自分の趣味には合わないと何故か決め付けていた。
 戯曲化されたものを読んでみたら、面白い。
 一見ファンタジーだが、その裏では現実の人間の哀しみがよく描かれている。
 その上、笑いを取れる部分も沢山あって、演出次第ではよい舞台になるだろうと思われた。
 出来あがっていく過程を見るのが楽しみで、いつしかほぼ毎日のように部活に顔を出すようになっていた。

 真島ゆにとも、その分多く顔を合わせた。

 何日も真夏日が続き、そうでなくても暑い舞台の上は地獄の様相を呈していた。
 緞帳はしめっきり(隔てた体育館ではバレー部やバスケ部が活動している)、風は通ら
ず、ライトは当たりっぱなし。その中で練習していると、だんだん意識が朦朧としてくる。
「おーい、差し入れ持って来たぞー」
 俺は二リットルのペットボトルを何本も抱えて、部活へ行った。
「あ、先生!」
「ありがとうございます!」
「みんな、先生が差し入れくれたよー」
 演劇部の連中は、一応面と向かっては礼儀正しい。俺のこともちゃんと「先生」と呼ぶ。もっとも、裏では「茅場っち」だの「大ちゃん」だのいろいろ呼んでいるようだが。(意見が対立したときなどは、「カヤバカ」とまで言われたらしい。)
 ちょうど練習が一段楽したところだったので、休憩に入る。
「いただきまーす」
「はーん、生き返るう」
「そっちも開けちゃえ、オレンジジュースのほう」
 ジャージにTシャツ姿の一団が、首からタオルを下げて汗を拭き拭き、あちらこちらに腰をかけ、ぐびぐびと水分をとっている様は、何やら頼もしくすらある。
 一年生が出してくれたパイプ椅子に腰をかけ、俺も烏龍茶を飲んだ。
 ……あれ?
「あれー、『ゆにに』いないじゃん」
 部員の一人も気がついた。
 真島ゆにがいない。
「未来ー……も、いないや。さっきはいたのに」
「準備室かな」
 噂をすれば、の例えどおり、ここで早川と真島ゆにが現れた。
「ゆににぃ、駄目じゃん、せっかく茅場先生がさし入れくれたのに、お出迎えもしないで~」
「あ、ご、ごめんなさい」
 真島ゆには小さな声で謝った。彼女の会話の基本はこれだ。
「先生、こんにちは」
 俺に向かって、ぺこりと頭を下げる。
 準備室も、舞台ほどではないが相当暑いので、汗びっしょりだ。髪の毛が頬や首筋に貼りついている。ライトを浴びて、腕がぬらりと光った。産毛が浮いて見える。
 Tシャツの胸元も貼りついている。ブラをしている部分だけが白く残っている。
 俺は、妙にどぎまぎした。

「あの、小道具がいくつか出来たので、見ていただきたいんですけど……」
 休憩が終わり、練習が再開される中で、真島ゆにがおずおずと声をかけてきた。
「あ、いや、俺は……演出のOKが出ればそれでいいんじゃないか?」
「はい、でも……あの……」
「この間先生に駄目だしされたもののやり直しもあるので」
 そばで聞いていた早川が補足する。
「はい、あの、そうなんです……ペンダント、全部手を入れたので……」
「あ、あれか……!」
 思い出した。主要な登場人物がそれぞれつけている金鎖のペンダントがあるのだが、それの大きさや形について少し意見を述べたのだ。
 自分としては、「欲を言えば」という程度のつもりで言ったまでで、直せという意味ではなかった。
 それを、真島ゆには直したのだ、全部。
 準備室に入り、見せてもらう。
 見事な出来映えだった。
 基本的な造型は、買って来た出来合いの部分をそう変えているわけではない。だが、それぞれの役どころに合わせて象徴的な装飾を増やすことで、よりそれらしいものに変わっている。
「大変だったろ……」
 一つ一つを手に取り、感心した。
 きれいだ、とか丁寧だ、というだけではない。脚本を読み込まなければ理解できないそれぞれの内面が、小さなペンダントにきちんと表現されている。
「……あ、大丈夫、です。予算もそんなに使ってないし……」
 真島ゆには両手の指を絡ませ、もじもじした。
 恥ずかしげにうつむいている。
「これは、柘榴王のだな」
「あ。わ、わかりますか?」
 俺が言うと、ぱっと表情を明るくした。
 柘榴王。主人公が、幻想の旅の途中で出会う人物。自分が犯した過ち故に、国を失い、民を失い、一人生き延びてさ迷い続ける嘆きの王。
 ガーネット――柘榴石をしっかりと掴む烏の足のデザイン。石は模造、烏の足は針金製だが、汚しが施されていて、古びた本物の風合いが出ている。
 もちろん、こんな小さい部分まで、客席からは見えやしない。だから、真島ゆにのやっていることは無駄だといえるかもしれない。そんな暇があるのなら、大道具を作るのを手伝ったりしたほうが役に立つ、と言えるかもしれない。
 だが、立派な衣装、しっかりした小道具というのは、「らしさ」を表現するのに一役買う。いかに大道具が立派でも、例えば煙草ひとつをおろそかにして、「ある振り」でやろうとしてしまったら、その瞬間に全ては覚めてしまう。相当の演技力のある役者なら、まるでものがあるかのように見せたりすることも可能だし、それを前提にした演出も可能かもしれないが……高校生のレベルでは、そんなこと考えないほうがいい。
 それに、出来のよい舞台装置は、観客よりもまず先に、役者がそれに騙される。
 騙される、という表現は悪いかもしれないが、つまり「その気」になるのだ。
 それは役者にとって大事なことだと俺は思っている。
 そんなようなことを、以前に皆の前で語ったのを、真島ゆにはちゃんと覚えていたらしい。
「あの、わたし……舞台に立って、演技とか、できないんですけど、……だから、その、せめ
て、自分の出来る範囲で参加しようと思って……」
 それだけ言って、真島ゆにはますますうつむく。
「大道具とか、人手いるのわかってるんですけど、わたし、のこぎりとかかなづちとか、苦手で……かえって、邪魔してしまうので……」
 それで彼女は、こつこつと小道具を作るのだ。
「いや……すごいよ、実際」
 俺は心の底から誉めた。
 真島ゆには、頬を赤らめ、潤んだ目で俺を見た。
「……ありがとうございます……」
 いつもよりもさらにうわずった声を出す。
 ……やばい。
 俺は突然、この部屋に二人きりであることを意識した。
 もちろん、ドアは開けてあるし、舞台の上にも体育館のフロアにも山ほど人はいるし、邪な事が出来る状況ではないのだが、……・何かを、口走ってしまいそうだった。
 俺は努めて明るく、言った。空気をいれかえるように。
「さ、さあ、じゃあ俺はそろそろ舞台を見に行くかな。真島も、あんまり根は詰めるなよ」
 部屋から出ていく俺の背中に、真島ゆにの視線がいつまでも注がれている気がした。

 例年八月の頭に、演劇部は合宿をする。
 といっても、どこかへ出かけるわけではなく、敷地内の合宿所に泊まり込み、朝から晩まで、練習練習、また練習。手があいた人間は道具を作り、照明を仕込み、音のタイミングを合わせ、とにかく舞台作りにどっぷり浸る五日間だ。
 一枚の暑中ハガキが俺の家に届いたのは、今まさに合宿に向かおうとしている朝のことだ。
 一瞬、真島ゆにからか、と思ってしまったが、違った。
 慧子からだった。
 氷室慧子。大学の後輩で、昔の……彼女だ。
 今まで年賀状もよこしたことがないのに、と不思議に思って、文面を読む。
 きれいだがやや癖のある懐かしい字で、時候の挨拶と近況が綴られている。暑中見舞いというには文章が長い。ハガキ一枚が、細かい字で埋められている。
 俺は、慧子の目を思い浮かべた。黒曜石のような瞳。
 はきはきとものを言う子だったが、一番大事なことは言い出せず、胸の奥に封じ込めてしまうところがあった。
 そこにひかれた。けれど、それゆえに彼女とは別れることになった。
 こうしてハガキをよこすからには、何かこの文面以上に言いたいことがあるのだろう。じっくり読む暇がなかったので、とりあえずカバンに入れて、家を出た。

 学校に着いた俺を待っていたのは、貸し布団の手配とか、期間中の食事の申し込みと
か、合宿所使用上の注意とか、とにかく細々したことだった。
 特に注意を受けてしまったのは、夜の風紀についてだ。
 教師といえども俺は若い男であるので、何か間違いがあっては、と思われたらしい。こんこんと諭された。
 やっと解放されて、舞台に行ったのは昼を回った頃だった。
 人がいない。そろって昼の買出しに出かけたようだ。
 俺は舞台袖に積んである台のひとつに腰掛けた。朝、コンビニに寄って弁当は買ってきてあったので、皆が帰るのを待つつもりで。
 ふと、ハガキのことを思い出した。
 カバンから取り出す。
 もう一度、じっくり読みなおした。
「暑中お見舞い申し上げます。暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
 先日は、私達の卒公を見に来て頂き、ありがとうございます。お礼が遅くなり、申し訳ありません。
 あれからまた、いろいろなことがありました。
 就職活動に出遅れ、一時はどうなることかと思いましたが無事に内定ももらえましたし、卒論の準備も順調です。
 内定をもらった職種は、なんと電気器具の販売です。私の様な無愛想な人間のどこを採用者が気に入ったのか、大いに疑問です。不適合だと思いつつ、試験を受けに行った私も私ですが。
 卒論は、昔から予定していたとおり、額田王で行くことにしました。資料が膨大なので、読みきれなくて大変です。
 しかしながら、柳川君などは柿本人麻呂についてやろうとしているので、私よりもなお苦労しています。私達のゼミの先生は専門が人麻呂ですから、下手なことを書くと突っ込まれます。けれどまあ、柳川君のことですから、なんとかうまくやっていくでしょう。
 私の近況はこれくらいです。
 茅場さんが顧問をなさっている演劇部も、そろそろ大会の準備で大変でしょうね。是非一度舞台を拝見させていただきたいです。
 暑い日が続いていますが、お体にはお気をつけて。
 水分をよくとって、ご自愛下さい。では」
 最後に「氷室慧子」と記してある。
 読み返しても、やはりはっきりしたことはわからない。
 ただ、なんとなく、「柳川と付き合う事にしたのか」と感じだけだ。
 柳川真雪は慧子と同学年で、俺たちが付き合っていたときからふたりは仲がよかった。
「友達」として。
 俺と一緒にいるときにはいつしかしなくなっていた自然な表情を、柳川には惜しみなく見せていた。
 ……ほんの少し、昔の事に思いをはせていた。
 だから、物音がするまで、そこに人がいた事に気がつかなかった。
 ぱき、という、ベニヤ板の破片が割れる音。
 目をやれば、真島ゆにが立っていた。
 大道具を作るのに散らばっている、木っ端のひとつを踏んだらしい。
「お、おう」
 俺は手を軽く上げて、挨拶した。
 何となく、真島ゆにに見られたことが気恥ずかしくて、さりげなさを装い、ハガキをしまう。
「ごめんなさい……お邪魔してしまいました」
 俺のほうに近寄ろうとせず、ぺこりと頭を下げる。
「ああ、いや、別に、大した事してたわけじゃないから。後輩からの暑中見舞いを読んでたんだ。えーと、真島はこの間、うちの大学の芝居見に行ったよな。あれに出てた子だよ」
 慌てて言葉をつなぐ。
「氷室慧子。シュレディンガーの猫の役をやってたの、覚えてないか?」
「……覚えて、ます……」
 真島ゆには何故かうつむいたままだ。
「とっても、素敵な人でしたね」
 その声を掻き消すように、ざわざわと騒ぎながら他の部員が帰ってきた。
 そちらに気をとられた一瞬のうちに、真島ゆには準備室へと姿を消していた。

 合宿は、予定通り順調に過ぎていった。
 噂どおり、体力がじりじりと削られていくことも予定のうちに入れるとするならば、だが。
 家に帰らなくてよいと思うと、ついあれもこれもと新しいことに手をつけてしまうようで、俺がうるさく言わないとなかなか合宿所に引っ込もうとしない。
 情熱があるのはよいことだが、人間の集中力というものはそんなに続くものではないの
だ。――体力も。
 公演前になると気が逸り、「何かしなければ」とせきたてられるのは、俺にも経験がある。しかし、そこで敢えて休養を取ることが大切だ。本番当日に倒れてしまったら、泣くに泣けない。
 真島ゆにとは、初日の一件以来、言葉を交わしていなかった。気にはなったが、いつも誰かしらが舞台にいるので、プライベートなことでは話しかけられなかったのだ。
 真島ゆにのほうも、あきらかに俺を避けていた。
 合宿最後の夜に、OGを呼んで通し稽古を見せることになっている。それまでに仕上げておかなければならないことが多いからと準備室に閉じこもっている。
 準備に追われているのは事実ではあり、食事どきに見かける顔は、気のせいか少しやつれて、青ざめて見えた。
「真島は、大丈夫なのか?」
 思い余って、早川に聞いてみた。
「私も、無理はするなってくり返し言っているんですけど、聞かないんです。真島さん、一度言い出したら引かない頑固なところがありますから……」
 早川は、心なしか機嫌が悪そうだった。
 いかに出来た部長といっても、この合宿を仕切っていくのは疲れるらしい。
 俺は、それ以上彼女を煩わせるのが心苦しくて、話を打ちきった。

 合宿三日目の夜。
 練習が早く切り上げられた。連日の疲れが出たのか、主役の一人が具合を悪くしてしまったのだ。
 もちろんそんなことは言ってこないが、どうやら生理中でもあるらしい。妹が、割と重くてしょっちゅう寝込んでいたので、その辺りはぴんと来たのだが、言われて面白いことでもなかろうと思ったので、ただ報告を聞いた。
 いい機会だから、明日の晩に備えてよく休めと言い渡して、俺も顧問用の部屋に早くに引っ込んだ。
 明日の晩の通し稽古さえ無事に済めば、一応ささやかな打ち上げを、ジュースとお菓子で予定している。最終日は後片付けをして、午前中で終わりだ。
 体調さえ整えておけば、外部(身内だが)に見せてもはずかしくない出来の通しが出来ると思う。こんなことを言ってはあれだが、寝込んだ子が出たのはみんなを休ませるのにちょうどよかったかもしれない。
 シャワーを浴び、さて俺も久しぶりに早く休むかと布団に潜りかけたとき、ふと、変な気持ちがした。
 虫が知らせた、というのだろうか。
 スウェットのズボンとTシャツといういでたちで、舞台へ向かった。誰かがいるような気がしたのだ。
 舞台上には明りはついていなかった。それは遠目にも確認できたが、さらに近づく。
 外との境、体育館脇から直接舞台へ入れる扉の鍵が開いていた。
 そっと、中へ入る。
 犯罪者が入り込んでいたとしたら危険な行為だが、そうでないだろうという予想はついていた。
 明りはつけないまま、袖に常備してある懐中電灯を手にした。その僅かな光を頼りに舞台を横切り、準備室へむかう。
 ドアは締めきられており、中から明りも漏れていない。暗転中に影響を及ぼさないよう目張りがしてあるのだ。
 ミシンの音がした。
 俺は、一瞬迷った。このままノックをしたら、驚かせてしまうだろう。だが、声をかけないわけにもいかない。
 ミシンの音がおさまったとき、俺は遠慮がちにドアを叩き、同時に呼びかけた。
「真島? いるのか?」
 がたん、と中にいる人間が動く気配がした。

「入るぞ」
 ドアを開けると、案の定、中には真島ゆにがいた。
 おびえたような目を向けている。俺だとわかっても、怒られると思ったのか、表情をこわばらせたままだ。
 俺は、なるべく優しく、微笑さえ浮かべて、話しかけた。
「……頑張ってるな。けど、夜も遅いし、今日はみんな休んでるから、お前も休め、な……?」
 いつか、同じようなことを口にしたことを唐突に思い出した。
 あれはもう、三年も前のことだ。
 はじめて大きな役について、緊張していた慧子。合宿で、みんなが寝静まったあとも、懐中電灯を片手に階段の下に座り込み、台本を読んでいた……。
「……先生」
 真島ゆにが、いつもの小さな声でつぶやいた。俺は「今」に引き戻された。
「まだ何か、出来てないところがあるのか?」
「……踊り子の、衣装が……」
「そうか。でも明日にしろ。明日、手のあいてるやつに手伝ってもらったっていいんだし。そのほうが効率的だから」
 真島ゆには首を振った。
「いえ、いいんです。たった今、仕上がりましたから……」
「そうか、そりゃ……」
 よかった、と言いかけたが、断りもせず一人でこんな所で作業をしていたことを手放しで誉めるわけにもいかない。
 俺はわざとらしく咳払いをした。
「よかった、と言いたいところだが、やはりあれだな、こんなところに一人でいるのは感心できないな。万が一、泥棒でも入り込んできたら、危ないだろう?」
 真島ゆにはうつむいて黙り込んでいる。
「ほら」
 と俺は手を差しのべた。真島ゆには動かない。
「……先生、お願いがあるんです」
「ん?」
「一応出来ましたけど、このままじゃ、気になってよく眠れません。今、先生が見て、OKを出して頂けますか?」
「あ? ああ……どれ」
 俺が近寄ると、真島ゆにはまた首を振った。
「着てみますから……それを見てください。そうでないと感じがつかめないでしょう?」
「着てみるって……」
「すみませんが、ちょっとの間、出ていてください」
 そう言って、真島ゆには俺に背を向けた。と思う間に、Tシャツを脱ぎ始めた。
「お、おい!」
「……出ていて、ください」
 こうなってしまっては、出ていくより仕方がない。
 慌てて外に出、後ろ手にドアを閉めた。
 視界が闇に閉ざされる。
 心臓が、ばくばくいっていた。
「……もう、いいです」
 中からドアが開く。
 そこには、「踊り子の衣装」に身を包んだ真島ゆにがいた。
 それを見て、俺の心臓はおさまるどころか、よりいっそう大きく脈打ち始める。
 千夜一夜物語に出てきそうな衣装だった。
 上着もズボンも、半透明の薄い布で出来ている。
 その中につけているのは、セパレーツの水着ほどの面積の布だ。
「どうですか?」
 真島ゆには微笑んだ。
「あ、いやその、あの……いいんじゃ、ないか?」
「ちゃんと見てください」
 見ろといわれても、目のやり場に困る。
 準備室の薄暗い明りに、白い肌が浮かび上がる。
 子供体型だと思っていたが、こうして体の線の出る衣装を着けてみると、その中には確かに「女」が息づいていた。
「ああ、わかった。でもやっぱり、今は駄目だな。薄暗いここで見るのと、舞台の強いライトの下で見るのとじゃ訳が違う」
 くすり、と真島ゆにが笑った。
「先生、もしかして、照れてます?」
「な……」
 図星をさされて、俺はかっとなった。
「こら! あんまり大人をからかうな! ……俺だって男なんだから、こんな所で二人っきりでいたら、なにするかわからないぞ」
 つい、口走っていた。
 ドラマなどでは時折耳にするが、実際に口にすると陳腐且つ恥ずかしいセリフだ。
「……せんせい、わかってないですね」
 真島ゆにがふわりと一歩こちらに近づいた。その身のこなしには、普段の危なっかしさは微塵も感じられなかった。
 目が離せない。
 誰だ、これは?
 顔は確かに真島ゆにだが、まるで違う人間だ。
 じっと見上げてくる、黒目がちの瞳。微かな上目遣いは、「内気」よりも「媚び」を感じさせる。
 半端な長さのショートカット、そのそろわない毛先が、柔らかそうな頬や首筋、あごの線を目立たせる。
 息がかかるほど、近い距離で向かい合う。
「私だって、女なんですよ」
 そして彼女は婉然と微笑んだ。
「こんな所に二人きりでいたら、何をするかは決まってるじゃありませんか」
 彼女はそっと俺の手を取った。その手のぬくもり、湿り気に、俺の心臓は止まりそうにな
る。
「自分の指は、もう飽きちゃったんです。先生の指で……いじってください」
 指先が彼女の口に含まれた。

 あきらかに、その唇の動きは指を性器に見たてていた。
 俺に見せつけるように、唾液をまぶし、舌でなぞり上げる。
 強く吸い上げると、頬がへこんだ。
 生ぬるく、柔らかく、濡れた粘膜。
 指先は、人間の体の中で、非常に敏感な部分である。
 それをこんな風に責められて、俺は昂ぶってしまっていた。
 彼女がちらりと俺を見る。
 潤んだ瞳は緊張のためじゃない、興奮のためだ。
 ちゅるりと音を立て、指が口の中から引きぬかれた。
 唾液が糸を引く。
 その指を、彼女は自分の胸元へ持っていった。
 衣装をめくりあげ、乳首を露出させる。
 指先に、固くしこったものが触れた。
 ぬるぬるした指先は、乳首を押しつぶすように動かされても、どこにも引っかからない。
 くり、くりっと乳首を弾いた。
「あは……」
 彼女が艶っぽい声をあげる。
「やっぱり、先生の指って、いい……」
 手の平を両の手で挟み、頬ずりする。
「ずっと見てました。授業中も、ずっと……。板書する長い指を見ると、興奮しちゃって……。よくお手洗いに行って、自分で慰めてました」
 そしてまた、口に含む。
 舐めあげながら、喋り続ける。
「でも、チョークのせいかな、荒れてますね……。すぐかさかさになっちゃうみたい。……もっと潤ってるところにご案内します……けどその前に」
 彼女は俺の指を解放して、服を脱ぎ始めた。
「衣装汚すとヤバイから、ちょっとだけ待っててください」

 振り払って逃げることは、容易に出来たはずだ。
 何しろこちらは男で、相手は女。もとの力に差があるのだから。
 だが、身動きが取れなかった。
 催眠術にでもかかったように、言う通りに動いていた。
 準備室の一角に、ソファが置いてある。
 昔、大道具に使うために、どこかのごみ捨て場から拾ってきたらしい。
 そこへ座らされた。
 一糸まとわぬ姿になった彼女が俺の前に立つ。
 指が、陰部へと導かれた。
 陰毛は薄い。その薄い陰毛を掻きわけるとすぐに、俺の指は目的地へとたどり着いた。
 彼女の言葉にたがわず、そこはすごい濡れようだった。
 ちょっと合わせ目に指をもぐらせただけで、たまった愛液がとろりと流れ出す。
「もっと、奥まで、入れてくださ……い……」
 ぶるるっと身を震わせて、彼女は切ない声を出す。
 言われるままに、指を奥へ進めた。
 口の中とは違う感触。もっと狭く、もっときつい。
 彼女の中には、ざらざらした粒が一杯ある。
「あ、ん……気持ち、いい」
 唇の端から、一筋よだれがたれている。
「でも、私ばっかり気持ちよくなっちゃいけないか……」
 しばらく、中で俺の指を締めつけたあと、彼女は名残惜しそうに引きぬいた。自分の愛液で濡れた指を丁寧に舐める。
「先生、脱がせてあげる」
 Tシャツを引き上げられた。じっとりした夜気が直接肌に触れる。スウェットのズボンも、トランクスも脱がされる。
 部屋の中にいるのは、もはや教師と生徒ではなかった。ただの、性器を剥き出しにした、男と女だ。
 俺の物は、すでに固くそそり立っていた。
 ソファに横たえられる。
 頭のほうから、彼女がキスをしてきた。
 上下さかさまになって唇を合わせると、勝手が違う。常と違うところに刺激を受ける。
 そのまま彼女の唇は下へ降りてくる。乳首を舐められた。
 ちろちろと刺激を受けると、ぞわりと鳥肌が立った。
「ふふふ、先生、ここはあんまり愛されたことないんですね。ちょっと反応が鈍いもの……」
 唇ではさみ、引っ張る。そのまま舌がはじく。
「あ、ほらほら、立ちました。わかります?」
 嬉しそうに彼女が言う。立った乳首を指で刺激しつづけ、もう片方も唇で掘り起こし始め
た。
「く……」
 声が漏れた。
「……ふふふ」
 それを確認して、彼女はさらに下へ降りていく。
 へそ周りを舐められた。
 それから、骨盤の辺り、皮膚のすぐ下に骨がある部分を、唇と舌が這っていく。
 妖しいくすぐったさに思わず身じろぎするのを、押さえつけられた。
 やがて、彼女の顔が俺の物の辺りに届く。
 だが。
 そのまま彼女は何もしようとしない。
 顔の前に、彼女の「女」がある。
 淡い茂みの中で、赤く息づく花びら。
 すでにそこは濡れそぼっていた。陰毛が濡れて、貼りついている。
「……先生、お願い」
 彼女は言った。
「いじって」

 俺はそこへむしゃぶりついていた。
 口の中に、塩味が広がる。
 ぬるり、と舌がすべる。
 俺は何度も割れ目を舐め上げた。
 指で花びらを開き、中の粘膜を露出させ、そこにも吸いついた。
 舌を尖らせ、挿入する。
 きつくて、なかなか入らないのを、何度も何度も突き入れた。
「やだ、先生……犬みたい」
 笑って、彼女も俺の物をくわえる。
 そこだけ別の生き物が包んでいるような感触に、思わず内股に力が入ってしまう。
「ふふ……感じてくれてるんですね、嬉しいです」
 太ももに手を回し、彼女が撫でさすってくる。
 口にくわえたままでしゃべるので、ずるずると淫らにだらしない音がする。
「ね、ね、先生……指、入れてください」
 請われるままに、俺は指を突き入れた。
 人差し指と中指の二本をそろえて、かきまわす。
「や、いきなり、そんな……」
 苦しげな声が漏れる。
「……全然、余裕じゃないか」
 俺の中に、暗い炎が燃えていた。
 この気持ちがどこからくるのかわからない。
 ただ、この女のことも、自分のことも、めちゃくちゃにしてしまいたい気がした。
「もう一本くらい、入らないか?」
 薬指を加える。
「くあ……ん」
 彼女の体がこわばった。
「さすがに、きついか……でも」
 動かし始める。
「い、あ、あああっ」
「は、はは……いい感じでくわえこんでるぞ。ぐちょぐちょいうのが、自分で聞こえないか?」
 本当に、それはすごい眺めだった。
 小さな、まだ蕾とも言える秘部が濡れそぼり、限界まで開いて、俺の指を受け入れてい
る。引き出すたびに内側の粘膜が引き出される。
 女だ。雌だ。
「せんせ、せんせぇ……。お願い、クリトリスも……」
「欲張りな女だな。どうしてほしい? 舐めるか?」
「うん……舐めて……吸ってください……」
 俺は、指でクリトリスをむき上げた。
 ぬめぬめと光る真珠をくわえる。吸い上げた。
「ふああんっ」
「ほら、どうした。ご奉仕がお留守だぞ」
 促すと、彼女は再び俺の物をくわえた。
 だが俺は、そこでわざときつく責めたてる。
「く……」
 喉の奥で喘ぎ、体を硬直させる彼女に俺は言い放った。
「止めるなよ。やめたら、俺もやめるからな」
 いやいやと彼女は首を振った。口の中で俺のものが練り上げられる感触。
「そう、それでいい。いかせて欲しかったら、ずっとくわえてろ」
 そして俺は責めに戻った。
 三本のままでは自由に動かせないので、二本に減らす。
 指を曲げ、内膜をぐるりと刺激する。
 とある一点で、彼女の体がびくんと波打った。
「ここか?」
 もう一度、神経を集中してこすりあげる。
 ぐりぐりというしこりがあるのがわかる。
「ん、ん、んー!」
 悲鳴は、くぐもった声にしかならない。唇は俺の物でふさがれているからだ。喉の粘膜がひくひくいうのが感じられる。
 俺はさっきのようにクリトリスを舐めながら、中のぐりぐりを刺激した。
 高まるにつれて、呼吸をするように粘膜が蠢く。
 とがりきったクリトリスが包皮の中に隠れていこうとするのを、指でむいて、追いかけつづけた。
「う、ぐ、ふ、うう……ん、ふう」
 口の中に入れ続けているのがつらいのだろう。時折歯が肉棒に当たる。その強烈な刺激が、俺のことも限界へ押し上げていく。
「い、あ、いく、いっちゃうー!」
 とうとう、彼女の口から俺の物が吐き出された。
 びくんびくんと体がはねる。
 俺も、耐え切れず、精を放っていた。
 白い濁った液が、彼女の顔を、胸を汚した。

「しっかり舐めて、綺麗にしろよ」
 俺は彼女の髪を掴んで、「後始末」をさせていた。
「せっかく飲ませてやろうと思ってたのに、無駄にしやがるんだからなあ……」
「ごめんなさい、先生……」
 彼女は、眼の縁を赤くして、懸命に奉仕していた。
 あっという間に硬さが戻ってくる。
「……もういい」
 俺は、彼女を引き離した。
「……どうして欲しい?」
 肉棒で、彼女の頬を軽く叩く。
「あの……下さい」
「何をだ?」
「先生の、おちんちんを……」
「どこへ?」
「私の……お……あそこに」
「言いかけといて、やめるなよ。お、なんだ?」
 彼女はうつむき、唇をかみ締めた。
「あの、お……に……」
 小さいが、しかしはっきりした声で告げる。
「いいだろう。ケツをこっちに向けろ」
 ソファに手をつき、彼女は俺に尻を向けた。
「自分で広げるんだ」
 言われるまま、彼女は自分の指で陰部を広げた。さっき散々指で蹂躙されたので、すっかり緩んでいる。
 早く欲しいと、せかしている。
「いくぞ」
 ず……と俺は彼女の中に押し入っていった。
 ざらざらした粘膜にこすりあげられて、また達しそうになる。
 円を描くように、腰を動かした。
「あ、あ、あ、はあ、あ、……あ」
 獣のように、彼女が喘ぐ。
「あん、あん、んあ……んっ」
「まるで、犬だな。よく吠える雌犬だ」
 ぴしゃりと、肉の薄い尻を叩いた。
「いっ!」
 きゅっと締めつける。
「感じるのか」
「いやぁ……あ……」
 俺は、何度も何度も尻を叩いた。
「あん、あん、あんあんあん!」
 真っ赤に晴れあがるまで尻を叩いてから、引きぬく。
「いやあ……」
 振りかえった彼女の手を取る。
「上になれ。自分でいってみろ」
 言いおいてソファーに寝そべる。
 彼女は恐る恐る俺をまたいだ。俺のものに手を当て、位置を定める。
 腰を落とした。
「く……ん」
 下から眺める光景は、格別だった。
 のけぞった喉、小さくとがる胸には、さっき放った精が拭い切れずに光っている。
 不器用に動く。だが、自分で絶頂に達するにはまだまだ力が足らないらしく、彼女はむずがった。
「せんせい……先生」
「なんだ」
「ごめんなさい、私、へたくそで、ちゃんといけないんです」
「そうだな、下手糞だ。俺も全然気持ちよくないぞ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 とうとう彼女はしゃくりあげ始めた。
「お願いです、先生……いかせて、ください」
 俺は彼女の腰を掴んだ。がくがくと動かす。
「ああ! ああ、あああん、ん、は、あああ!」
 深く、深く俺のものが彼女を穿つ。
 ゴリゴリと俺と彼女の恥骨がぶつかり合う。
「胸は、自分でもめ」
 彼女は薄い胸をめちゃくちゃにこすった。
「あ、ああ、あー……」
 ぶるぶるっと、彼女が震えた。
 きゅっと俺のものが締めつけられる。
 耐え切れず、俺は彼女の中にぶちまけていた。
 合わせ目から、白い液が、こぼれて……。

 俺は自己嫌悪にかられた。
 あやうく夢精だけは免れた。だが。
 (な、なななな、なんつー夢を……。)
 目が覚めるた時、俺は合宿所の顧問用の部屋の、布団で寝ていた。
 思わず確認したが、使った形跡はない。
 全くの、夢オチだ。
 よかった。夢でよかった。
 本当だったら、犯罪だ。
 そう胸をなでおろしながらも、ほんの少し、その罪の情景が頭を掠める。
 ……まずい。
 俺は、単なる朝の生理現象以上に元気になってしまったものを見て、困り果てた。
 疲れてるんだ、仕方がない。
 自分に言い聞かせた。

 合宿は、俺個人の葛藤をよそに滞りなく終わった。
 通しは上出来だった。OGにもおおむね好評だった。
 あとはこれに満足せず、質を高めていくだけだ。
 合宿最終日、疲れて妙にハイになった生徒たちを学校から追い出す。駅まで団子のようになって向かう彼女たちを見送り、俺はもう一度舞台へ戻った。戸締りの確認の為だ。
 舞台には明りがついていた。
 準備室に、誰かがいる気配がする。
 近づいた。
 ミシンの音がする。
 ミシンの音が止むのを待って、俺はノックをした。
「誰だ?」
 ドアを開けると、真島ゆにがいた。
 驚いたような、おびえたような顔をして振りかえったが、俺だとわかると頬を赤らめた。
「あの……衣装を……気になったところがあったんで、直してたんです。見ていただけますか?」
 そして、まっすぐに俺を見た。
「踊り子の、衣装なんですけど」

ウロボロスの蛇

 四泊五日の演劇部の合宿が、ようやく終わった。
 ただでさえ消耗していた体力は、暑い中、重い荷物を抱えて帰宅している間に、ゼロを通り越してマイナスへいってしまった気がする。
「ただいまー」
「あらお帰り、早かったじゃない」
 死にそうになって玄関を開けると、母が呑気に出迎えた。
「づがれだ」
「あれまあ、ずいぶんよれよれになって。シャワーでも浴びてくれば。その間にお昼用意しとくから。何がいい?」
「さっぱりしたもの……」
「そうそう、昨日豚の角煮作ったんだけど」
「さっぱり、したもの。素麺ゆでて」
 人に質問しておきながら自分で勝手に会話を続けてしまうのは、いつもの母の話し方で、もうこれについてはあきらめているのだけれど……いくらなんでも「豚の角煮」はないだろうと思う。
「三人前くらい?」
「一人前で、いい……」
 私はずるずるとバッグを引きずって洗面所へ向かった。
 ためこんできた洗濯物を洗濯機に放りこむ。
 すでに何枚か入っていたので、いっぱいになった。
「洗濯機、まわすよ……」
「いいからさっさとシャワー浴びなさい。そんな干からびた声出してないで」
「……はあい」
 服を脱いで、これも洗濯機に放りこみ、私は久しぶりに家の浴室に入った。

「そういえば未来、ゆにちゃんは? 今日来るんじゃなかったの?」
 何気なく、母が聞いた。
 一番聞いて欲しくなかったことだ。
 シャワーを浴び、素麺を平らげ、結局豚の角煮もつついて、ようやく元気を取り戻した私は、急転直下不機嫌になった。
「……一回自分ちに帰るって。夜来るよ」
 嘘をついてしまった。
「あらそう。それじゃ晩御飯は何にしようかしらね。あの子はカレーが好きだったから」
「昨日のお昼カレーだった」
「湯豆腐なんかは? 父さん好きだし」
「おかーさん、今、夏……」
「あら、いいじゃない、夏の湯豆腐。冷奴ばかりじゃ体冷えちゃうもの」
 真面目に言ってるからこわい。
 それでまた、父が喜んで食べるんだ、夏の湯豆腐。
「昼食べたばっかりで、考えられない。後で決める」
「そうお? 買い物行く都合があるから、なるべく早く決めてね」
「……でも、ゆにね、来ないかもしれない」
「あら、ケンカでもしたの?」
「そうじゃないけど! ……ゆにも疲れてるから、そのまま家で休むかもって」
「はあ、そりゃそうね。ゆにちゃんはあんたと違って体弱そうだもんねえ」
 母は呑気にうなづく。
 人の気も知らないで。
「あんたも、ゆにちゃんゆにちゃんってくっついてないで、少しは休みなさいな。ほら、一眠りしておいで」
「……うん」
 私はため息とともに立ち上がり、二階の自分の部屋に引っ込んだ。

 学校では文武両道、品行方正、しっかり者の人気者で通っている私、早川未来だけれ
ど、家に帰ればこんなものである。
 要するに外面がいいのだ。
 これはもう血筋だと思う。あの母も、外へ出れば一変、「よく出来た奥様」を気取るのだから。(押しが強いのには変わりがないけど。)
「あーあ」
 ばふん、とうつぶせにベッドに倒れこんだ。
 母が敷布を取り替えておいてくれたらしい。すべすべと気持ちがいい。
 クーラーをつけていない部屋は暑かったが、じっとしている分には不快ではない。もともと暑いのは嫌いではないので。
「……」
 しばらくそのまま布団にめり込んでいた。
 が、眠れない。
 気が高ぶっているのだ。体も疲れ過ぎている。
 目を閉じると、ゆにとのやり取りが浮かんでくる。
 ――「残る」って、何バカな事言ってんのよ、今日はさっさと帰って休めって、茅場も言ってたじゃん。
 ――でも、気になるんだもの。気がついたときに直しておかないと、忘れちゃうから。
 ――うち来る約束はどうなるのよ。
 ――うん……終わったら、行くから。
 ――そんな事言って、いつになるかわからないんだから。あんた、ひとつ直し出すと、次から次へ始めちゃうじゃない。
 ――今日は大丈夫。
 ――なんでそんな事言えるの。
 ――とにかく、大丈夫だから、未来ちゃんは先に帰ってて。疲れてるんでしょ? 機嫌悪くなってるよ。
 ――……わかった。じゃ、さよなら!
 言い捨てて、帰ってきてしまった。
 だからほんとに、ゆにがうちに来るかどうかわからない。
 このまま、二度と来てくんないかもしれない。
「……ゆにの、ばーか」
 つぶやいて、枕に顔を押しつけた。
 確かにあの子は、もとから責任感が強い。与えられた役目を必死に果そうとする。
 けれど、今のゆにを動かしてるのは、それだけじゃない。
「なーにが『茅場先生』だっつーの……」
 その名前を口にする時の、恥ずかしげな誇らしげな表情を思い浮かべると、いらいらす
る。
 あんな男のどこがいいんだ。
 そりゃ、若いし背もあるし、そこらのオヤジ先生どもよりはましだけれど……。
 まし、よりももう少しいい点を与えてもいいかも知れない、とは思う。見栄えはそう悪くないし、何より演劇に対して熱心なのは評価してもいい。
 でも。
「でも、それとこれとは話が別だ!」
 私は憤りのあまり、布団の上でバタ足をした。

 ゆにのことが好きだ。
 といっても、別に私は「百合」じゃない。
 後輩の子からいくらチョコやプレゼントをもらっても、わーい嬉しいな、くらいにしか思わない。
 中学の時だって、男の子に恋してたし、高校入ってからしばらくはその子のことを思い続けてた。
 百合じゃないけど……ゆにのことが好きなのだ。
 「友達として好き」なんて逃げを打つつもりはない。
 さりとて「恋人になりたい」というのともちょっと違う。
 ただもう私は、ゆににとっての一番になりたいし、私にとってはゆにが一番なのだ。そうとしか表現できない。
 しばらくはそれについてものすごく悩んだ。
 自分はどこかおかしいんじゃないだろうかと、悩んだ。
 同性愛者を差別するつもりはなかったけれど、いざ自分がそうかもと思うと、けっこう平静ではいられないものだ。
 しかし、百合だと決めつけられるのは嫌だけれど、「思春期の少女(しかも女子高)にありがちな心の迷い」なんて言葉で片付けられるのは、さらに真っ平ごめんだった。
 なので開き直ることにした。
 あたしはゆにが好き。それのどこが悪い!
 ……。
 悪くは、ないはずなんだ。誰が誰を好きになろうと、自由なはずなんだ。
 人に迷惑さえかけなければ。
 でも。
 ――私が、ゆにを好きだと思うこと、思うだけならまだしも、それについて何らかの行動に出ることは、やっぱり、悪い事なのかもしれない。
 ゆにに、迷惑がかかるもの。

 ゆには可愛い。
 小さくて、ほっぺがぷよぷよしている。
 声が可愛い。
 『未来ちゃん』って呼ばれると、まじでぞくぞくくる。
 なんにでも一生懸命なところ、涙もろくて情に厚いところ、子供っぽい理想を真面目に語るところ、みんな好きだ。
 それはあるいは、「私もこうだったらよかったのになー」という気持ちの現われかもしれないんだけど……。はん、人間っていうのは自分に無いものに引かれるように出来てるんだもん、いいじゃない。
 ……ゆにがうちに泊まりにくると、いつもこのベッドで眠る。私と並んで。
 最初のうちは、お客さん用の布団を出してたんだけど、あんまりちょくちょく泊まるから、いつしかそういうことになった。
 シングルベッドに二人並ぶときつきつで、かなりひっついて寝なければならない。あの子はいつも変な遠慮をして、端っこの方へ端っこの方へ行くから、掛け布団からはみ出すは下に落っこちそうになるは、大変なのだ。
 だから、ゆにをいつも壁際に寝かせる。
 落っこちる心配だけは無くなる。
 あとは、私がこまめに布団を掛けなおしてやる。
 ゆにの寝顔は、これまた可愛い。
 子犬みたいに無心に眠る。
 ちっちゃいぷにぷにの手を、口の前で軽く握って寝てるのを見た日には、本気で理性が飛びかける。
 ここで、襲ったらどうなるかなー、何て考えてしまう。
 どうなるもこうなるも、破滅が待ってるのはわかりきってるからやらないんだけど。

 でも、襲われたって文句は言えないと思うんだ。
 ゆには、恥ずかしがり屋のクセにものすごく無防備で、部屋で二人きりのときにパンツ丸見えで座ったりする。(それは、まあ、普通、同性の友人に対してそうは警戒しないもんだけど。)
 着替えだってそう。一応「体育着替え」(女子高では死語。スカートはいたままズボンはきかえたりとか、そういう技術)を試みてるのはわかるんだけど、不器用なもんだから、背中なんて丸見え。その状態で、新しく着てるのと脱ごうとしてるのが絡まっちゃって、じたばたしてるの見たときなんて、このまま押し倒してみようかと思ってしまう。
 ――身動きの取れない体を押し倒す。
 きっと「きゃっ」と可愛い悲鳴を上げる。
 最初はふざけてるんだと思うだろうな。
「未来ちゃん、やめてー」
とか、あの声で言うの。
 私も、ふざけた振りを装おう。
「よいではないか、よいではないか」
「あーれー」
 くすぐったりしてね。
 でもそのうち、私の手はゆにの胸に伸びる。
 ブラの上から触る。
 ゆにのしてるブラは、いつも可愛いんだ。水玉模様とか、ワンポイントとか。「Aカップでよかったな、と思うのは、可愛いブラを見つけたとき」ってよく言ってるもんね。
 さすがにそこまでいくと、ただの冗談じゃ済まされない。
「み、未来ちゃん?」
 驚きの声をあげるゆに。
 でも私はそれに取り合わずに、揉み続ける。
 ……同性だから、どういう風にすれば気持ちいいかは大体わかる。
 そう、例えば、こう……。
 私は自分の胸をもんだ。
 シャワーを浴びたあと、ブラをつけていないので、Tシャツ越しにすぐに乳首がわかる。
 ぞくっとした。
 乳首を弾く。びりびり、電気が走るみたいな刺激。
 声が出そうになるのを、こらえる。
 ゆにも……こうしてやったら、おんなじように感じるのかな。息を荒くするのかな。
 押さえても、どうしても喉から声が漏れる。
 それで私は、ゆにの乳首に吸いつく。ちろちろと舐める。
 自分のを、舐めてみたことがある。目いっぱい持ち上げると、なんとか届いたので。
 不思議な感触だった。舐められているほうの乳首と、舐めているほうの口、両方の感触が同時に味わえる。
 ああ、でも、その「同時感」って下をいじってるときにもあるなあ。
 あたしは、するりと指をパンツの中にいれた、
 空想の中ででは、ゆにのパンツに。実際には、自分の。
 陰毛を掻き分けていくと、やがて泉にたどり着く。
 そこは、いつの間にか濡れていた。
 大した事はしてないのに。
 私は、くちゅり、とわざと音を立てて指をぬかるみに浸した。
 指を包む、液体、といったらいいのか、粘液の感触。
 それをそのまま持ち出して、今度はちょっと上、クリトリスを触る。ぬるぬるしてるから、乾いたとこを無理やりこするよりは、快感が上のはず。
「ん! んんん……」
 とうとう声が漏れる。
 私は自分のクリトリスを、強弱をかえながら、触っていった。いつの間にか、すっかり硬くなっている。ぐりぐりと手応えがある。
 同時に、反対の指を孔に入れる。
 といっても、あんまり奥までいれるのは怖いから、第一関節くらいまで。
 その指が、締めつけられる。温かい、濡れた粘膜で。
 クリトリスをいじるたびに、ひくひくと蠢く。
「あ、あ、あ、あ……」
 あんまり騒ぐと、母に聞こえる。でも。声は漏れてしまう。
 ヘビ……。
 ふと全く関係の無いイメージが浮かんだ。
 ゆにはヘビが嫌いだ。ヘビの「へ」の字を聞いただけで飛びあがり、私に抱きついたりする。
 ヘビ責め、ってあるけど……ゆににやったらどうなるだろう。
 泣いて、叫んで、暴れるのを、押さえつけて、縛って……。
 腹の辺りにヘビを一匹置く。二匹でも三匹でもいいけど、あんまり置くとゆにの肌が隠れちゃうから、とりあえず一匹。
 ず、ずずっと体の上をヘビが這いまわったら、ゆにはどんな悲鳴をあげるのだろう。
 私の頭の中では、ゆにはすっかり裸にされている。
 勝手な想像をしてごめん、と思いつつ、エスカレートするのが止まらない。
 ヘビの、うろこの体が、ぞりぞりぞりとゆにの白い肌の上を文字通り蛇行していく。
 つんと立った乳首の上を通ったりするかもしれない。ちろちろと、あの舌で舐めるかもしれない。
 それから、太腿の辺り。股間。
 この、股の間をヘビが通っていったら……どんな感触だろうか。
 私の指は妄想が激しくなるのにつれて、動きを早めていく。
 昔、うちに爬虫類の本があった。
 ヘビの交尾の写真が載っていた。
 ヘビのオスの性器はちょっと特別で、何本にも分かれてる上に、とげとげしている。
 はっきりと思い出せないけど、イカのげそに似てるかもしれない。白くてぶつぶつしてて。
 その写真では、白い精液が二匹のヘビの間に、つーっとたれていた。
 ……もしもあんなのが、私にあったら。
 ゆに。
 犯っちゃうのに。
 指や舌や唇で触れることすらためらって、思いとどまって、自らに禁じているくせに、私はそんな妄想までしてみた。
 つながることが出来たら、どんなにいいだろう。
 自分の尻尾を飲むヘビのように、際限無く深く繋がりあっていけたら。
 ゆにの中にどこまでも入っていけたら。
 私の中にもゆにが入って。
 もはや妄想は、でたらめでいびつで意味の無いものになりかけていた。
 ただもう、指を動かして、刺激を与え続ける。
 ゆに、ゆに、ゆに……。
 せめて、その喉を、一度吸わせて欲しい……。

 はあ。
 とりあえずいくところまでいって、私は脱力した。
 汗びっしょりだった。
 蝉の鳴き声がする。
「あたし……馬鹿かも」
 のろのろと身を起こした。
 一応すっきりしたけど、なおさら疲れた。
「ヘビ責め、までいっちゃったら、ちょっと変態入ってるよなー……」
 ティッシュを何枚か取り、ふやけた指先をぬぐう。
 ……ん?
 ぬるぬるした液に、どす黒い、チョコレートを食べ過ぎた後の痰のように、混じってるのは……血?
 一瞬、激しくやりすぎたかと思った。
 でも、爪は切ってあるし、そう無茶もしてないと思う。痛みも無い。
 私は、股間もティッシュでぬぐった。
 やっぱり混じっている。薄いココアみたい……。
 あ。あれだ。
「やっだー……まだ三日くらいはあるはずなのに」
 おとついの晩、比奈子がなったから、うつったのかもしれない。
 生理がうつるっていうのは一見非科学的だけど、経験論的にはかなり信用できる話だ。
 多分精神状態に働きかけて、体内のホルモンバランスに影響を与えるんだと思う。
「ま、合宿終わったあとでよかったけどさ」
 してみると、ちょっと機嫌が悪目だったのもこのせいかもしれない。疲れだけではなくて。
 私は、トイレへ行ってナプキンをあてた。
 するとそこへ電話が鳴った。
 母が出る。
「……未来ぃ、電話よ、ゆにちゃんから」
 私はパンツを引っ張り上げながら、ドアを閉めもせず、受話器に飛びついた。
「うん、ううん。うん……こっちこそ、ごめんね。でもほんと、あんまり根を詰めるのは……え? やっぱりうちに泊まりに来る? もちろん、大歓迎だよぉ。何時ごろ来る?」
 ……ゆにに欲望を感じるのは本当だけれど、それよりもこうしてただ会える方が百倍も嬉しいと思う私。
 ウロボロスの蛇は空想の中だけに存在するようだ。

ひつじと狼と

 優しい音楽で目が覚めた。
 いつの間にか、有線の環境音楽のチャンネルがタイマーセットしてある。
 重たい頭を抱えて、枕もとのデジタル表示を見た。
 九時。今から身支度すれば十時のチェックアウトにちょうどいい。
 池袋のラブホテルの一室。
 昨夜一緒に入った男の姿は、見当たらない。
 シャワーでも浴びているんだろうか。
 身を起こす。
 裸ではなかった。ホテル備え付けの、病院の検査着みたいなものを着せられている。
 ――いつ見ても、ロマンチックじゃないよなー、これ。
 それともあたしの行くところがハズレばっかりなんだろうか。昨日は昨日で、よく選びもせずにここに入っちゃったし。
 テーブルの上に、一枚の紙切れが置いてあるのが目に留まった。
 B5の大きさのルーズリーフに、男にしてはかわいい、人のよさそうな字が並んでいる。
「瞳子(とうこ)さんへ。
 おはようございます。
 夕べは大分酔ってたみたいですけど、ちゃんと起きられましたか? 二日酔いは大丈夫ですか?
 一緒に朝マックでもしたいところなんですが、バイト(学校の図書館で夏の間やってます)があるので、一足お先に失礼します。残念。
 お金は払っていきますので、安心して出てきてください。
 ……昨日は、いろいろ意地悪なことを言ってすみませんでした。
 でも、泣きたいときには思いっきり泣いた方がすっきりすると俺は思うし、瞳子さんにはそれが必要だったと思うので、後悔はしてないです。
 せっかくの機会に愛し合えなかったのは、ちょっと残念ですが(すげーこと言ってますね、俺)、瞳子さんの泣き顔&寝顔を見られてラッキーだったので、よしとします。
 なんてね(笑)。
 次に会えるのは新学期でしょうか? さびしいです。
 夏休み中に図書館に来ることがあったら、声をかけてくださいね。お茶でも飲みに行きましょう!
 それでは。気をつけて帰ってください。変な男に引っかかっちゃダメですよ。
 北本渉一より。愛をこめて(笑)」
 二度、読み返した。
 読んでるうちに腹が立ってきたので、破いて丸めて捨ててやろうかと思ったけど、思い直した。
 折り畳んでカバンにつっこむ。
 着ているものを脱ぎ捨てて、浴室へ向かう。
 勢いよくシャワーを出して、頭から浴びた。
 ――「せっかくの機会に愛し合えなかったのはちょっと残念ですが」だって?
 まったく、大したタマだよ、北本渉一!

      *

 昨日の夕方のこと。
 あたしは一人で新宿をぶらついていた。
 サークルの飲み会のために出てきたんだけど、仮病を使ってドタキャンしたのだ。
 飲み会には、真雪(まゆき)も慧子も来る事になっていたので、顔を合わせたくなかった。近くまで来ていながら、どうしても行く気になれなかった。
 まあ、いわゆるひとつの三角関係な訳よ。
 というか、あたしの横恋慕。
 真雪と慧子が「親友同士」って言い張って、なかなかくっつかないのに一縷の望みをつないで、真雪に告白した。
 当然のように断られたけど、食い下がって、一月かな、一月半かな、付き合わせた。
 でも結局だめで、半月前、はっきり振られた。
 それですっきり、あきらめられたはずだったんだけど。
 人の心なんて自分で思うほど強くないのね。
 もやもやの気持ちのときから数えて、一年間、思い続けたものをそうあっさりとは忘れられない。

 せっかく新宿に来たんだし、映画でも見ようかとコマ劇場近辺を歩いていた。
 集合場所は紀伊国屋前、飲み屋もその近所のはずだから、ズル休みの身でもこの辺は安全圏のはず、と思っていたら。
 真雪の、声がした。
 名前を呼ばれた気がした。
 慌てて振りかえる。それはもう反射的に。
 ……けど、思い描く姿は人ごみの中に無い。
 あたしは苦笑に頬を歪めて、また歩き出した。
 その肩を叩く者がいた。
「トーコさん。瞳子さんてば」
 真雪? と勘違いするには、その口調は別の人物のものとしてあたしに馴染み過ぎていた。振り向いて、確認する。
「渉一……?」
「うわ、すっごいラッキー。こんなとこで会えるなんて!」
 無邪気に笑う。
 北本渉一。同じゼミの後輩。一つ下。……なんだけど、どうしたんだその恰好は!
「なんで背広なんか着てんのよ」
「えー……へへ、一足早い就職活動を」
「まじ? あたしなんて四年になってから動いたのに。それに、メガネ、どうしたの?」
 トレードマークの黒ぶちメガネがない。
「あ、いやあ……コンタクト、作ってみたんだ」
「へえ……もしかして床屋にも行った?」
「うん、まあ」
 驚いた。
 あの野暮ったいメガネと長すぎる前髪の下には、こんな顔が隠れてたんだ。
 やや面長めの顔。頬からあごにかけてのラインがいい感じで男らしい。目は細め。眉は、濃いんだけど、太くはない。
 はっきり言って、好みだ。
 スーツも思いのほか似合う。
「なんだ、いつもそれでいればいいのに。けっこう男前じゃない」
「え? そう? 惚れ直す?」
「『惚れ直す』っていうのは、惚れてるのが前提の言葉よ」
 すぐ調子に乗るんだから。
 北本渉一は、……なんていうか物好きで、このあたしに惚れてると言う。
 いや、あたしは自分でいうのもなんだけど美人の部類に入るので、惚れられること自体はそう少なくない。
 彼のどこが物好きかと言うと、ふられてもふられてもあたしに付きまとってるところ、なのだ。
 あたしは、白黒つけなきゃ気がすまない、「とりあえずのお付き合い」っていうのが出来ないタイプなもんで、告白されても、第一印象でぴぴっと来れば付き合うし、そうでなければきっぱり断ることにしてる。
 渉一に告白されても……ぴぴっとは来なかった。前述の通り、見かけはぱっとしないし、妙に馴れ馴れしくて、変に明るくて、友達としてはまだいいかもしれないんだけど、恋人としてはちょっとアレって感じ。
 だからはっきり断った。
 そしたら、「友達でもいいから」と言ってきた。
「あたしの場合、友達って言ったらほんとの友達よ。なんの発展も望めないわよ」
「うん、それでいいよ。そばにいることさえ許してもらえれば。いつか必ず振り向かせるから」
「……タメ口なのはいいとしよう」
「うん? やなら直すよ?」
「あたしは、『なんの発展も望めない』って言ってんの。なのになんで『いつか必ず振り向かせる』なのよ?」
「あ、俺、口に出して言ってた? ごめん、今の聞かなかったことにして」
 そしてにゃははと笑う。
 毒気を抜かれる、とはこういう事を言うのだろうか。
 なし崩しにあたしたちは「オトモダチ」になった。
 それがあたしが二年生の時のこと。
 さてそれからが大変だった。
 あたしのいるところ、どこにでも出没しやがるのだ。
 学食なんて序の口。
 大教室で一般教養の授業を受けていれば、「隣いいですか?」と来たもんだ。
「今年からこの授業、一年生も取れることになったんだよ」
 涼しい顔で答える。
 次の授業にもついてくる。
「……この授業はいくら何でも取ってないでしょ?」
「あ、俺、次空き時間なんだ。後学の為に聞こうと思って」
 あたしが入ってる演劇サークルの公演も、欠かさず見に来る。
 入部しようかと言い出さないのが不思議なくらいだった。
 入部する、なんて言われたら困るんだけど、それでも思わず聞いてしまったことがある。
「なんでサークルまでは付きまとわないの?」
「うーん、瞳子さんと一緒の舞台に立てるってのは魅力だけど、演技なんて出来ないし」
「演技なんて、そう難しい事じゃないわよ。多かれ少なかれみんなやってることなんだから」
「俺は、いつも真正直、なにも飾らず生きてるもん」
 けろりと言い放つのが憎たらしくて、それ以上の会話を打ちきった。
 とにかく一事が万事この調子。
 友達には冷やかされるし、散々な目にあってきた。
 要するにアレよね、ストーカー。少なくてもその一歩手前。
 ところが。
 ……慣れちゃったんだよね、恐ろしいことに。
 いないと逆に目でさがすようになってしまった。
 一方、渉一のほうは、この春に同じゼミに入ってきてからは、憑き物が落ちたように大人しくなった。(あくまで比較問題だけど。)
 本人いわく、「ここへ来れば会える、と思う場所が出来たから、あんまり瞳子さんを煩わせなくて済むようになったんだ」だと。
 まあ、付き合ってみたならば、話も合うし、趣味も合うし、映画見にいったり芝居見にいったりお茶したり、そういうこともしたりして、「オトモダチ」としてはかなり上等の部類に入ると思うんだけど……決定的に、恋愛相手じゃないのよね。
 ……しかし。
 こうして見ると、ほんとなかなか、いい感じ。
 好みだわ。顔について言えば。
 ……つまりそれは、真雪に似てるということでもある。
「ね、瞳子さん、せっかく会えたんだし、一緒にご飯でもどう?」
 一般的に、顔の似てる人って、声も似てるんだよね。
 骨格が似てるってことだから、発声器官も似てくるのよ。
 気づかなかった。
 口調があんまり違うから。見かけがあんまり違ってたから。
「瞳子さんてば」
 こいつの声……真雪に似てる。

「もーう一軒、行ってみようかあ!」
「いくら何でも飲みすぎだよ、瞳子さん」
 「一緒にご飯」は「飲み屋で一杯」に化けた。
 新宿にそのままいるのはさすがに落ち着かなかったので、池袋に移った。
 二軒ほどはしごするとさすがにほどよく酔いがまわってきて、妙に気分が大きくなった。
「いやーん、かわいいんでないかい?」
 ゲーセンのUFOキャッチャーに貼りつく。
 半分眠りかけた目の羊のぬいぐるみが詰まっている。
「動物占いってあるでしょ? あたしさあ、あれでいくとひつじなのよね」
「ああ、そうだっけ。じゃ、お仲間だ」
「あんたもひつじ?」
「あ、いや、俺は狼……お仲間って言ったのは、瞳子さんとこの羊たち」
「へえ、あんたが狼ねえ。なんかイメージ違ーう」
「と言われても」
「コアラとかタヌキかと思ったわ。ペガサスとかサルとか。小犬とか」
「あはは……小犬なんてないって」
 なるほど、お仲間、ねえ。よし。
「渉一、先輩命令だぁ。これを取れ」
「えー……いけるかなあ」
 そう言いつつも、すでに下調べに入っている。
 渉一の特技なのだ。
 UFOキャッチャーだけじゃない。ゲーセンは渉一の庭だった。ダンス系でもレース系でも格ゲーでも、何をやらせてもうまい。見てるだけで惚れ惚れする。ギャラリーも集まってきて、連れとしては鼻が高い。
 あたしはと言えば、そういうのは、あんまり得意ではなくて、見る専門なんだけど。
 ……真雪も、体動かすのは苦手だったな。格ゲーなんかはそこそこうまかったけど、あれは理論や戦略で補ってるんだ。
 その代わり、パズルとかクイズとか、強かったなー……。
「はい、瞳子さん!」
 顔に、ばふっと柔らかいものが押しつけられる。いきなりだったので、驚いてしまう。
「きゃ! なにすんのよ!」
「せっかく取ったのに。決定的瞬間見てなかったでしょー」
 渉一が拗ねて見せた。
 ぎくっとした。
「あ、ごめんごめん。ちょっと……おトイレどこかなーと思って」
「この上だよ。行くんなら、その子預かろうか」
 渉一は手を出した。
 特にトイレへ行きたいわけじゃなかったけれど、言い出した手前行かざるを得ない。羊を預けて階段を上る。
 用を足して、手を洗いながら鏡を覗いた。
 派手な顔だ。
 化粧をことさらにしてるわけじゃない。紅を引いてるだけ。でも目鼻立ちがくっきりしてるので、紅ひとつで際立つ。
 髪は長い。天パで、短くするとぐりぐりになっちゃうからのばしてるんだけど、全体にゆるくパーマがかかってるみたい。
 自分の顔は、嫌いじゃない。
 でも今日は、なんだか見ていたくなくて、目をそらした。
 下に戻ると、渉一は何をするでもなくただ羊を抱えて待っていた。
 こちらに背を向けている。その背中が、妙に大きく見えた。
 スーツなんて着てるせいかもしれない。
 骨格の確かさ、筋肉の強さが感じられる。
 そうだよね……こいつも男なんだよね。
 気配に気づいたのか、渉一が振りかえる。
 ――。
 駄目だ。
 ほんとにこいつ……。
 真雪に、似てる。

「どうしたの? 気分でも悪い?」
 あたしは首を振った。
 一度似てると思うと、そうとしか思えなくなってくる。
 口調はこんなに違うのに、真雪の声にしか聞こえない。
「飲みすぎたんだよ。どっかで休む? ……って言っても、もうコーヒーショップとか閉まるなあ」
 軽く肩に手がかかる。
 あ……なんか、駄目。
「あはは、いっそどこかで御休憩ーとかする?」
「……」
「ごめんなさい、冗談です。気分悪いのに、変なこと言ってごめんなさい」
 一人で明るく振る舞う(そうか、こいつは明るく振る舞ってるんだ)渉一をおいて、あたし
は、ふらりと歩き出した。
 池袋は割とよく来る。このゲーセンの近所も通る。
「ちょっ……瞳子さーん」
 追いかけてくる。腕を取られた。
 あたしは渉一に向き直った。
「休憩じゃ、ゆっくり出来ないでしょ。泊まってこう」
 ホテルの前まで来ていた。
 いつも、通りすぎるだけで、入ったことのないホテル。
 日常の中の、普段は何事もなくやり過ごす落とし穴。
「……え?」
 渉一が目をぱちくりさせる。(ほんとはあたしの言ってる意味を一度で理解するくせに、時折こうしてわからない振りをする。)
「お金は、あたしが出すわ」
 ずんずんと、中に入ってしまった。
 渉一も慌てて後を追ってくる。
「いや、そういう問題じゃなくて……」
「この部屋でいい?」
 ぱっと見て、青系で統一された部屋を選んだ。値段は、まあ平均的。
「瞳子さん」
「なによ?」
「……本当に、いいの? 後悔すると思うよ」
「別に? どってことないじゃない」
 そう、どうってことはない。
 ただちょっと……そう、お腹が空いてご飯を食べるように、酔いたくてお酒を飲むように。
 したいから、するだけ。
 淋しいから、誰かと一緒に寝たいだけ。
 渉一は、ちょっと眉根を寄せた。困っているようにも見える。
 ――あんたが悪いのよ。
 あたしは心の中で渉一を責めた。
 そんな恰好であたしの前に現れるから。
 あたしに、余計なことを気づかせるから。

 部屋につくまで、渉一は無言だった。
 ただ、落ちつかなげにネクタイをいじっている。
 こういうとこ初めてなのかな。
 ――そうよね、こいつの浮いた噂って、聞かない。
 大体が、あたしの後ばっかり追いまわしてるのに、そんな暇あるはずないもの。
 高校時代、に経験がなかったとすると、ホントに経験なしってこともありうる。筆おろし、なんて言葉が頭をよぎった。
 部屋番号を確かめて、入る。見本写真よりは幾分薄汚れて、小さい印象。
 さて、なんて切り出そうか、と思っていると。
「瞳子さん」
 渉一が先に口を開いた。
「なに?」
「家に電話、かけた方がいいんじゃない? もう十時過ぎたし」
「……そうね」
 忘れてた。あたしは携帯を取り出した。電波、入ってる。
「もしもし、お母さん? あたし。あのね、今日も慧子んちに泊まるから。……わかってる、大丈夫だって。じゃ、はい、おやすみー」
「……さらりと、嘘、ついちゃうんだね」
 先に部屋の奥まで入り込み、上着を脱いでハンガーにかけながら渉一が言う。
「嘘も方便てやつよ。まさか『男とホテルに泊まります』とは言えないじゃない? 親の方だって、あたしが言葉どおり慧子んちに入り浸ってるとは思ってないだろうけどさ、そこはそれ、信頼関係って言うか、自分の責任内で何とか出来るなら干渉はしないって言うか」
 嘘、の言葉がちょっと痛くて、あたしは必要以上におしゃべりになる。
「……あたしのことより、あんたんちの方こそいいの? 外泊なんて、初めてだったりしないの?」
「うちは……それこそ干渉しないから」
「へえ」
 そういえば、こいつが自分の家族の話をするの、聞いたことがない。
「おかしなもんね、渉一の『ショウ』は干渉のショウなのに」
「幸って字を使う名前でも不幸になる人はいるよ」
 しゅるり。渉一の指がネクタイを引きぬいた。Yシャツのボタンを一つ二つはずす。
「シャワー、浴びてくれば?」
 促されて初めて、じっと見入っていた自分に気がつく。渉一は薄く笑って続けた。
「それとも一緒に入る?」
「じょ、冗談じゃないわよ」
 あたしは急いで浴室へ引っ込んだ。

 なんなんだ、あいつ。妙に場慣れしてるじゃない。
 「一緒に入る?」の言葉が耳に残る。
 そういう軽口は、普段からのあいつの特徴で、今更どきどきさせられるはずもないんだけど……状況が、状況だけに。
 なんだか自分にいらいらして、思いっきりシャワーの勢いを強くした。
 髪など洗っているうちに、酔いはさめ、だんだん冷静になってくる。
 ちょっと、……まずかったかな。
 やつあたりと言うか、やつあたりなんだけど、渉一を振りまわして憂さを晴らしてやろうと考えてた部分、なきにしもあらず。
 あいつのことだから、適当に困ってみせて、あたしの言う事をうまくかわしてくれる気が、何故かしてた。
 それが、ここまで来てしまった……。
 別に、怖気づいたわけじゃないのよ。このままやることやっちゃうのも、それなりに面白いかもしれないけど。
 ……やっぱり、渉一に悪いかもしれない。
 一応あいつはあたしに好意を持ってくれてるわけだし、それでもあたしはあいつのことを友達としか見られないんだし、ここで関係を持っちゃうのは……持っちゃうのは……。
 考えているうちに、洗うところは全部洗ってしまった。
 バスタオルで体をふく。
 ちょっと迷う。もう一度、服を着なおそうか。
 そしたら、笑い話ですませられるかもしれない。
 ――やっぱりやめた。
 ――えーひどいや、瞳子さん。……でもちょっと安心したかな。心の準備が出来てなかったんだもん。
 そうやって笑いあって、朝までカラオケをしてすごすとか……。
 そんなこと、軍隊でやったら敵前逃亡で重罪だ。
 もしこれがナンパだったら、ホテルについてっちゃった時点でそんな言い訳はきかない。
 でも、渉一だったら、なんとなく許してくれる気がした。
 服を、手にとって……。
 なのにあたしは、それを身につけることをしなかった。
 夏の一日を着てすごした服は汗になっていて、お風呂上りに着る気にはなれなかったのだ。
 あたしは、バスタオル一枚巻いただけの格好で、渉一のところへ戻った。

 部屋の光量は落とされていた。
 こういうところの照明って、舞台の照明みたいに明るさを調整できるようになっている。
 真っ暗よりも少し明るい程度の、カーテンを引きっぱなしで夕暮れを迎えてしまったような部屋。枕もとの電気だけつけてベッドに腰掛け、渉一は待っていた。
 なんか、明りの当たり方一つで人の表情って違って見える。
 これまで舞台やってきて、わかりきってるはずのそんなことを痛いほど実感する。
「……あいたよ、シャワー」
 近寄りがたくて、遠くから(っていってもそんなに距離があるわけじゃないんだけど)声をかける。
 渉一は顔を上げた。
「……俺は、いいや」
「あ……あたしは、汗くさいのいやよ。シャワー浴びないっていうんだったら、ここで帰る」
 つい言ってしまう。おいおいおい、「やっぱりやめた」はどこへいったのよ。
 渉一はくすりと笑った。
「とかなんとか言って。本当はもうそろそろ後悔してるんじゃないの? 『やっぱりやめた』って思ってない?」
 図星をつかれて、言葉に詰まる。
 渉一が立ちあがった。近づいてくる。
 手首を、つかまれた。思いがけないほど、強く。
「い、た……」
 つい声が上がったが、構わず渉一は、あたしをベッドのほうへ引っ張った。
 バランスを崩して、倒れこんでしまう。
 柔らかいマットレスだから痛みは感じなかったけれど、あたしは咄嗟に動けなかった。ショックで。
 渉一が、こんなこと、するなんて。
「汗の匂いなんて、すぐに気になんなくなるよ。別にそんなに潔癖症ってわけでもないでしょ?」
 言いながら、座り込み、あたしの右足を掴む。
 持ち上げた。
「や、何!」
 親指にぺったりとしたものが押し付けられた。
 舐められている、足の指を。
 舌が、生き物のように指を這う。
「や、や、や、ちょっと! やめて!」
 暴れて振り払いたいのだけれど、体勢が不安定で力が入らない。
 それに、あんまり動くと、バスタオルが落ちてしまいそうだった。めくれあがったそれを、今は懸命に押さえているところなのだ。
 あたしが逃げられないのをいいことに、渉一は、ゆっくりとそれを続ける。
 指の一本一本を口に含み、吸い上げた。間に舌をもぐらせ、ずるずると動かす。
 今まで味わったことのない感覚。
 くすぐったいような、その半端な感じがいやだった。
 子供のように無邪気に笑い転げることは出来ない。
 この行為は、明らかに、あたしを『その気』にさせるためのものなのだから。
「や、や、……ん」
 小刻みに震える、息混じりの声。
 突然、軽く噛まれた。
「ん! んん……」
 あたしは唇をかみ締めた。
「……いい色だね、このペディキュア」
 足の指から口が離れた、と思ったら、今度は足の甲を唇がなぞる。筋に沿って足首へ上る。
 くるぶしの周りを舐める。足首の腱、ふくらはぎ、膝の裏……。足がどんどん持ち上げられて、あたしはほとんどベッドに横たわってしまった。
 渉一は止まらない。
 膝小僧を軽くかじり、ふとももを舌が這い上がる。
「や、やだ、もう、やめてぇ!」
 見えちゃう。
 隠そうとしてバスタオルを引っ張った。止めておいた胸元のほうがゆるんで、外れる。もうこうなると、ただ被っているのと変わらない。
 そんなあたしに気付いて、渉一はにやりと笑った。
「そそるなあ、その格好」
 かっとなった。
「もう、いい加減にして!」
「何が?」
「こんな……こんなこと……」
「『こんなこと』する為にわざわざ来たんだろ、俺たち」
「……そ、それは、そうだけど」
 あんまりにも勝手が違う。
 今まで、こんな風に責められたこと、なかった。
「……柳川さんは、足舐めたりしなかったの?」
「! な、んでここで真雪が出てくるのよ」
「付き合ってたんでしょ、この間まで」
「……」
 あたしは唇を噛んだ。足を舐めるどころか、結局あたしたちの間にはキスすらなかった。恋人の関係を定義づける特別な行為は、何にもなかった。
 「付き合っている」なんて、言葉の上だけ。
 それ以前と変わらず、いや、前にも増して、真雪が見つめているのは慧子だけだった。
 あたしがいくら呼んでも、届かない。どこか遠く、真雪の視界ぎりぎりの所で他の人間としゃべっている慧子から注意をそらすことすら出来ない。
 つらい気持ちがよみがえって、涙が零れそうになる。
 でも、ここで泣くのは癪だった。
 絶対に泣くもんかと思った。
 少しの沈黙のあと。
 渉一が、あたしを離して立ちあがった。
 あたしは、のろのろと上体を起こす。そのまま、ベッドの一点を見つめて身じろぎもせず、黙っていた。 
 ――うん、仕方がないね。
 真雪から、やっぱり別れてくれと言われたときのあたしのセリフ。
 ――その代わりって言ったらなんだけど、慧子とのこと、そろそろはっきりしなさいよ。もう、あんたたちさえちゃっちゃとくっついてくれてたら、あたしこんな思いしなくてすんだのに。
 あたしは、笑っていたと思う。
 笑えていたと思う。
 そうでなければ、あんまりにもみっともなさ過ぎる……。

 突然、視界が閉ざされた。
 顔に何かが触れたので、反射的に目を閉じる。
 目の前、こめかみ周りに感じる圧力。
 目隠し?
「や、何これ!」
 外そうとする手を、つかまれた。
 まとめられる。押し倒された。
 しゅるしゅるという布の音。手首が縛られる。
 頭の上のほうへ引っ張りあげられる。どこかへ固定された。
「……渉一!」
 あたしの声は悲鳴に近かった。
 なんで、どうしてこんなことになったのか、わからない。
 バスタオルが取り除かれた。
 何も肌に触れていないのが、死ぬほど心細い。
「ちょっと! なんでこんなことするの! 渉一!」
 渉一は何も答えない。
 気配はするけれど、何をしているのか、どんな表情でいるのか、何を考えているのか、まるでわからない。
 なんの前触れもなく、胸をつかまれた。
「痛!」
 実際には、それ程強い力でつかまれたわけではないのに、見えない、動けないこの状態では、刺激は何倍にも感じられる。
 ゆっくりともみしだかれる。胸に触れる手以外には、渉一を感じられない。
「渉一! いい加減にしないと、怒るわよ」
「……怒れば?」
 言葉と一緒に、ぎし、とベッドに体重が乗ってくる。
 渉一があたしに覆い被さってきたのだ。
 汗とお酒と……渉一の匂いがする。
 耳に唇が触れた。
「――っ!」
 声をかみ殺す。
 こんなことをされて、気持ちよがってなんかやるもんかと思ったのだ。絶対、声はあげまいと思った。
 けれど、耳たぶをかまれ、舐められているうちに、息が乱れてきてしまうのは止められない。
 密着している、渉一の体、その熱さが皮膚の内側へ入り込んでくる気がする。
 耳の中に、舌が差し入れられる。
「……っ」
「別に、声出したっていいんだよ?」
 からかうように、渉一が言う。
 いつもの明るさとおんなじなのが……こわい。
「ここ、壁薄そうだから、隣に聞こえるかもしれないけどね。まあ、向こうだって人のことにはかまってられないさ」
 耳の下、首と顔の境目の柔らかいところが、唇に挟まれる。
「あは、目隠しって、いいでしょ? 次にどこから来るか予想がつかないから、ぞくぞくしない?」
「しないわよ」
「……そんな強情言わないで、せっかくだから楽しもうよ」
 渉一はあたしの耳に口を寄せて言った。
「な、瞳子」
 呼び捨てにされて、腰の辺りがぞくぞくする。
 けれど、次の渉一の言葉であたしの体は凍りついた。
「……こうすると余計、俺の声、柳川さんに似てるのわかるだろ?」

 渉一は、多分、何もかもお見通しなのだ。
「目隠しの、もう一つの利点だね」
 そう言って、渉一はあたしの上からどいた。
 暗闇に一人取り残される感覚。
 声だけが、降ってくる。
「見たくない事は見ないですむ。繋がってる体のその首に、誰の頭を据えたって自由だ。おまけに、俺はあの人に似てるしね、体格も声も」
「……似てないわよ」
 おなかの中に重苦しいものを感じながら、あたしはようよう言った。
「そうでもないさ」
 背筋が、寒くなる。口調まで似せると、ほんとにそこに真雪がいるような気がした。
「うまいでしょ? 柳川さんの真似。瞳子さんの為に練習しました、なんてね」
「……悪趣味だわ」
「でも、最初にそれを望んだのは瞳子さんだろ?」
 再び、声が近づいてくる。傍らに腰を下ろす気配。
 つつっと、腹を指が撫でた。乳房の下までいって、止まる。
「失敗したよ。メガネ忘れてきたの忘れて、声かけちゃった。……もしかしたら会えるかな、と思って新宿寄ったら、ホントにいるんだもん。そりゃ、有頂天にもなるよ、俺」
 腹を、手が撫でまわす。見えない毛皮を撫でるように、ほんの少し浮かしたような力加減が、気持ち……いいんだか悪いんだかわからない。
 ……メガネ?
 感触に気を取られて、危うく聞き逃すところだった。
「ちょっと待って」
 あたしは、不自由なのも忘れて身を起こしかける。
 けれど、渉一はあたしを無視して、体を撫で回しつづける。
 前触れもなく、乳首を吸われた。
「あ!」
 思わず声が漏れた。
 じっくりと吸いつかれる。舌が、じわじわと、眠っている乳首を掘り起こすように動く。腹を撫でていた手が、もう片方の乳房に回る。
「あ……あ」
 かろうじて、喉の奥で声をとどめる。でも、それが逆に、変にいやらしい。自分で聞いていて嫌になるほど。
 渉一の舌が、唇が、体中をはいずりまわる。
 わきの下にも、舌を這わされた。
「んむぅ……」
 二の腕の、普段人目に触れない部分を甘噛みする。
 強く吸われた。
 キスマーク、つくんじゃないかと思う。
 体がむずむずしてたまらなかった。
 いつの間にか、肩で息をしている自分に気がついて、愕然とする。
 渉一の愛撫は、わかりやすく敏感なところを避けて、じわりじわりときいてくる。それを、声を出すまいとして息を詰めて受けているから、余計に感じてしまうのだ。
 渉一の手が、太ももを撫でた。
 するりと内側へ入る。
 びくりと身をすくませたときにはすでに遅く、渉一の指はあたしの泉を探っていた。
 まったく抵抗なく、指が蠢く。
 くちゅ、くちゅっと音がする。にじみだした愛液が指に導かれて外へ垂れる感触があった。
「……っ、……っ、……っ」
「声、出せばいいのに」
 あたしは、いやいやと首を振る。
 渉一が移動した。足と足の間へ割り込んでくる。
 腰を持ち上げられた。浮き上がったお尻の下へ、渉一の膝が入る。
 完全に抱えられた。
 大きく広げられた。
 渉一の目に、さらされている。
 恥ずかしさに、下半身に力が入る。
「……恥ずかしい? ひくひくしてる」
 やだ、変なこと言わないで……。
 指で、さらに広げられる。
 舐めあげられた。
 ずちゅ、という湿った音。吸い上げると、ずるるるるっという音が響く。
 頬が、熱くなる。
 裂け目に沿って、渉一の舌が動く。滑りがどんどんよくなっていく。
「……硬くなってるよ」
 渉一の唇が、肉芽を捉えた。
「――あっ」
 とうとう、声が漏れてしまった。
 渉一は、聞こえているはずなのに、何も言わなかった。
 ただ、執拗に肉芽を攻めつづけた。
 舐める。吸う。唇ではさんで引っ張る。舌で押しつぶす。
「あ、あ、あ!」
 一度声が漏れてしまうと、あとはもう止まらない。
「あ、やあ、あ、やあ、やだ、あ……」
「いや?」
 今度は指で、肉芽を押しつぶす。
 舌は、襞を丁寧にねぶり、奥へと進んだ。
 割れ目に舌が入り込んでいる。
 それはあまりにも柔らかいために、何かが侵入したという感じじゃない。肉が増殖して、ふさがった感じ。
「い、ん、やあ、もう、やあだ……」
「いやって事ないだろ。ぐしょぐしょじゃん」
「言わな……で……」
「男なら、誰でもいいのかな」
 さりげなく吐かれた言葉に、胸がえぐられる。
「それとも、好きな男が一番だけど、似てる人間だから燃えられるのかな」
「ちが……そんな……」
「でも、俺のこと好きってわけじゃないんだろ?」
 ――瞳子さん。
 いつもの声が耳によみがえる。
 ――ねーねー、俺のこと好き? そろそろ恋人に格上げしてもいいかなーとか思ってる?
 涙が、零れた。と思ったら、すぐに目隠しに吸い取られる。
 じんわりと、冷たくなる布地。
 いなくなってしまった。
 喪失感が、胸を蝕む。
 いなくなってしまった。渉一。
「……ふっ、う、う、あ……」
「泣くほど、いいの?」
 渉一の意地悪は、際限がない。
 あたしの涙のわけ、わざと受け止めてくれない。
 そんな、馬鹿な勘違いをする人間じゃないはずなんだ、こいつは。抱いてる女の気持ち、わからないほど馬鹿な男じゃないはず。
 自分がどう言えば、相手がどういう反応を示すか、百も承知でものを言う。必要ならば、道化じみて明るく。
 そういう人間。
 ……知ってたよ。
 あたしだって、ちゃんと知ってた。そういう人間だって。
 表層意識では、小犬みたいなやつだって見なしていたけど。
 心の中では気付いてた。
 こいつは狼なんだって。
 本当の孤高を守るために、あえて尻尾を振って見せる。
 無邪気に笑うその目で、獲物との距離を冷静に測る。
 知ってて、甘えてた。
 あたしのことを好きだという、その気持ちだけはまったくの嘘ではないと感じてたから。
 狼の弱みを握ったつもりで、懐でぬくぬくと、甘えてたあたしは、馬鹿なひつじ。
「ふえ……ふ……うえ……えええん……」
 いなくなってしまった。
 あたしが、踏み込んではいけない最後の一線を越えたから。
 狼の忍耐を踏みにじるようなことをしたから。
 「他の人の身代わり」なんて、それだけはやっちゃいけないことだった。
 でも。
「ばか……ばか、ばか、渉一の、ばかぁ……」
 でも、「身代わりだからときめいた」ってことにしなかったら。
 あたし、気付かなくちゃいけなくなるじゃないの、自分の気持ち。
「こんな、こんなこと、どこで、どこでおぼえたのよぉ……」 
 あたしが好きなのは真雪だよ。
 一年も前から決まってた。
 渉一じゃない、渉一じゃありえない。
 例え、さびしいときに欲しくなるのがあんたの腕だとしても、あんたが好きな訳じゃない。
 人ごみの中で会えたのが、あんただってわかって、泣きたくなるほど嬉しくても、あんたのことが好きな訳じゃないんだから!

「あたしのこと」
 もう、声がぼろぼろだった。汚い。
 笑っちゃうよ、羊の鳴き声そっくりだ。
「あたしのこと、好きだとか言っといて、他の女とやることやってんじゃないのよ。なんでよ、なんでこんな……こんな……」
「……瞳子さん?」
 渉一はもう、あたしを辱めてはいなかった。
 持ち上げていた腰をおろし、体の横にくる。
 ちょこんと座ってる気配。
「……仕方ないよ、俺にだって性欲はあるから」
「ふ、普通は、好きな子がいたら、我慢するもんでしょ」
「我慢しすぎて、堤防が決壊したらどーすんの? 適当に水を抜いておかないと、さ」
 おおかみは。
 狼はその羊のことを本当に大事に思っていましたので、他の小動物を狩って、飢えを満たすのでした。
 用心深い狼は、その手や口についた獲物の血を、羊の目に触れないようにするのを怠りませんでした。
「心よりも体を重視した付き合いだと、やっぱり刺激的なほうに流れていくもんで」
「そんなこと、聞いてない!」
 あたしは叫んだ。ヒステリーだ。
「ばか、ばか、ばかばかばか! 知らないよ、もう。嫌い、大っ嫌い!」
 そんなことが言える義理ではないのに、どこまで威張り散らせば気がすむのだろう。
 あるいはあたしは、望んでいたのかもしれない。
 最後通牒をつきつけることで、狼に食べられることを。
「大っ嫌い、か……」
 渉一は、つぶやいた。
「……もっと早くに、嫌われといたらよかったかな」
 目隠しが外される。
 縛られたときと同じくらいするりと、両手の戒めが解かれた。
 それは、どうっていう事もない、大判のハンカチとネクタイだった。
 ぎしっ、とのしかかられる。
 体重がかからないように、上手に。
 あたしに顔をはっきり見せないように、うまく。
「そしたら、ここでこんなことする破目にならなかったのに……」
 そう、嫌いだったら。
 道が交わらなかったら。
 傷つけずに、すんだのに。

 渉一が、あたしの中に入ってきた。
 強い快楽と痛みは、紙一重だってことを知った。
 目を閉じる。
 もう、何も見たくなかった。
 感覚が、ひとところに集中する。
 締め付けてしまうのは、拒んでいるからか、縋っているからか。
 ゆっくりとした抜き差しが、体の奥からずるずると何かを引き出していく。
「ふ、ううんっ、は、かはっ」
 入り口、お腹の裏側、それからうんと奥。
 どこが感じるかを探るように、渉一が動く。ぐりぐりとこすり上げたり、円を描いたり、動きは様々で、快楽は蓄積されて、でも昇りつめるには少しだけ足りない。
「んあっ!!」
 上体を反らせた渉一のものが、あたしの一番弱いところをこすり上げた。
 ひときわ大きく上がってしまう、声。
「――ここ?」
 少し掠れた、渉一の声。
 渉一の、声。 
「んっ、あ、ああんっ!」
 腰を高く上げ、せり出すような形で、思わず体が勝手に動いてしまう。
「――すっげえ、やらしい。瞳子って、インラン」
 呼び捨てにされて、嬉しい。でも悲しい。わかんない。戻れない。
「知ってる? ここんとこ、ざらざらしてて、俺のこと舐め回してくんの」
 ぐり、と渉一が腰を回す。
 あたしの動きと組み合わさって、また新しい刺激が与えられる。
「すっげ、気持ちいい」
 でもまだ、いきたくないんだよね。
 言いながら、あたしの太ももをつかむ。
「ちょっと後ろっから、させてよ」
 くるりと、体を返される。
 抜かないままで、体位が替わる。
 ずぶ、とより深くに刺さってくる、熱いもの。
「あああああっ、んっ、あうん、ああんっ」
 枕に顔を押しつけて、あたしは叫んだ。
 もう喘ぎ声じゃなくて、叫び声だ。獣みたいだ。
 食べられちゃう。断末魔だ。
 唇の端からよだれが零れた。
 渉一の手が胸に伸びた。鷲づかみにしたかと思うと、ふわふわと撫で回す。
 掌でこすれる乳首が、痛いほどに立ち上がる。
 それをつまんで、弾いて、指が、意地悪で、優しい。
 もう片方の手で、肉芽もこすられた。
 愛液がこぼれ落ちて、全部ぬるぬるで、陰毛とかもびしょびしょで、どこを触られても、気持ちいい。
 渉一がのしかかってきた。背中に感じる、熱さと重み。
 肩口を甘噛みされる。
「ふぅっ! ん! んんん!!」
 そのまま、舐め回された。
「――しばらく、髪をあげられないね」
 うなじから背中にかけて、何ヶ所も吸われる。痛い。でも。
「肌の出る服も着られない」
 その言葉の通り、肩口にも背中にも多分散っている、散らされている赤い花。
「ちょっと痛いくらいがいいんだ? びくびくしてる」
 伝わってしまう、あたしの快楽。
「他に何かリクエストは?」
 耳元で囁かれて、あたしは息をついた。
「……さっきの」
「――さっきの、どれ?」
「さっきの、お腹の裏側、こすれるやつ……もう一回」
「あれね。俺も気持ちいいんだよな。いっちゃうかもしれないよ? いいの?」
「……いい」
「実はつけてないんだよね。中で出してもいい?」
 嘘だ。と思った。
 ていうか、何か、当然のように、つけてるもんだと思ってたんだよね。
 馬鹿だ、ばっかだなあ、あたし!!
「いい」
 もうどうでもいい。どっちでもいい。どうなってもいい。
「先に、いかせてくれるん、なら、何でもいい」
 はっ、と渉一は笑ったみたいだった。
 ぐる、とさっきの逆にひっくり返されて。
 髪の毛が、頬に張り付く。涙で。
 渉一があたしの腰を抱え上げた。
 がつん、と響く快感。
 がつん、ごつん、そんな感じの、体が、骨盤が、砕けちゃいそうな。
 あたしは思わず手を伸ばす。
 渉一に抱きつきたかった、のだと思う。
 だけどその手は、手に取られた。
 しっかりと組んで、腰の横に押さえつけられる。
 シーツに埋まる。
「やあ、やだあっ!」
 上体を離したこの体位で、渉一の体温がとても遠くて、感じられるのは手の温度だけ。汗のせいかな、少し冷たい。
「今更、やだって言っても止めらんないよ」
「ちがう、やだ、ねえ、やだよお」
 足を絡みつけた。彼の太ももに。
 抱きしめたいと、抱きしめられたいと、でもそれは言えない。
 キスしてほしいとか、言えない。
 言えない。痛い。心が。お腹が。
 体の奥が、絞られるみたいに、痛い。
 渉一の腰の動きが、めちゃくちゃ速くなる。
 もう、だめ、もう――。
「あああああああっ――!!」
 頭の中が真っ白になる。
 渉一の、あたしの手を握る力が、強くなる。
 くふっ、という息の音。
 あたしの中で脈打つ、渉一の――。
 襲ってくる、だるさと眠気。
 渉一のものが引き抜かれて――そして彼はまた、あたしの乳房に手を伸ばした。

      *

 新宿発の急行電車の中で、あたしは、もう一度渉一の残したメモを読み返した。
 『せっかくの機会に愛し合えなかったのはちょっと残念ですが』
 腹が立つ。
 何度読んでも腹が立つ。
 その腹立ちをパワーに変えて、あたしは駅から学校へ続く名物の坂道を登りきった。
 四年生になってから、学校にくる機会が減ったので、体がなまっている。息が切れる。
 ていうか昨日の――つい数時間前までの――だるさが残ってる! ちくしょう!
 汗がだらだら流れるのを乱暴にぬぐって、あたしは図書館へ殴り込んだ。
 黒ぶちメガネにぼさぼさ頭、トレーナーにエプロン姿の男が、こっちを見てびっくりしたように立ち止まる。
「瞳子さん……」
 何が、瞳子さん、だ。
 半々の確率で、来る事に賭けてたくせに。
「早めに昼休みもらって。裏の公園で待ってる」
 言い捨てて、指定した場所へ行く。
 ほどなく渉一が現れた。
「やあ……」
 相手のペースにはまる前に、あたしは動いた。
 渉一のメガネを奪い取る。
「な、何すんだよ、瞳子さん……」
「やっぱりね」
 伊達メガネだった。
「気付いてたわ、あたし。あんた、遠くを見るときでも目を細めない。メガネをかけてても、目が悪い人には多かれ少なかれその癖があるもんなのに」
「……当たり。両目とも二・〇だよ。遠視でもないから、メガネかけたのはこれがはじめて」
 渉一は肩をすくめた。ほんのちょっと、いつもよりもそっけない。……いい感じじゃないの。
「もっとも、それは根拠としては弱いと思うけどね。どうせなら『度が入ってるなら輪郭が歪んで見えるはずなのにそれがない』とか、そういうほうが説得力があるんじゃない」
「いいのよ、本格ミステリはやんないから。うちのサークル」
 あたしはずかずかと近寄っていった。
「今朝は、よくも逃げてくれたわね」
「それはぁ、ちゃんと手紙残していったでしょ? バイトだから、って」
「夜中の三時に出たんじゃ、始発動いてなかったでしょうが」
「……使いきっちゃったからね、備え付けのも手持ちのも。変な気起こして、生でやりたくなる前に、緊急退避」
「――つけてないんじゃなかったの?」
 少し意地悪心で聞いてみたが、渉一は軽く肩をすくめてこともなげに言った。
「まさか。ゴムつけない男なんて、挨拶出来ない人間と一緒って言うじゃん?」
 そうね、ばっちり、ゴミ箱に証拠物件は残してあった。
 「嘘だから安心してね」って言うみたいに、わかりやすく。
 ゴムの話は言い訳で、あたしに言いたくないほかの理由がちゃんとあるのだろう。
 よもや泣き明かしてはいまいな。と目元を見つめる。
 普通に、冴えない。普通に、赤くも何ともなってない。
 どんなときでも、少なくともこれくらいでは、泣いたりしないのね、きっとそう。
「とにかく、腹立たしいのよ。怒ってるの。一発殴らせなさい」
「……どうぞ」
「目えつぶって! 歯を食いしばる!」
 渉一は、言う通りにした。
 あたしは。
 
 背伸びだし距離をつかみ損ねて、ぶつけるみたいになってしまった。
 さすがに歯と歯は当たらないけど。
 一瞬驚いて、引き結んだところを、唇でこじ開ける。
 舌までは入れないけれど、バードキスよりはもう少し長く、粘膜を触れあわせる。
 外側は少し冷えてる。でも内側は、熱い。

「ひでえ! 瞳子さん!」
 あたしが離れると渉一は、非常にショックを受けたようによろめいた。
「なにがよ!」
「こういうことは、ホントに好きなやつとしかやっちゃいけないんだぞ! だから俺、昨日は……」
「ええい、江戸時代の遊女じゃあるまいし。文化によっては挨拶がわりのものに、ご大層な意味をつけてるんじゃない!」
 いや、挨拶代わりの深度がこれと等しいかは知らないけどね。
「……ご大層、か。そうか、やっぱり瞳子さんにとっては、挨拶代わりなんだね、これ」
「いじけるな。……あんた、最後にキスしたの、いつ?」
「高一のとき。二年のときに瞳子さんに出会ってからは……誰ともしてない」
「……え?」
 高二であたしと出会った、って何? 高校は違うはずよ?
 大学で会って一目ぼれしたんじゃなかったの?
「……言ったことなかったけど、俺がはじめて瞳子さんを見たの、予備校でだから」
「聞いたことない」
 なんとまあ、まだ隠しダマを持ってたよ、こいつは。
 あたしはこみ上げてくる笑いを押さえることが出来なかった。
「……なんだ、じゃ、許してあげよう」
「……何を?」
「いろいろ、よ」
 そしてあたしは、「ホントに好きなやつ」ともう一度唇を重ねる。
 一瞬だけ戸惑いを見せて、それから、貪ってきた。
 ぎゅっと抱きしめられて、やっと昨日の飢えが満たせた。
 そうね、飢えてたのね、あたしも。

「俺、本気出してもいいわけ?」
 掠れる息が、やばい、色っぽい。
「上等」
 にやりと笑い返してやった。

 食べるんなら、骨まで食べてみやがれってんだ。

夜のライオン(続・うさぎ)

「どう? ちゃんと起こせてるかな?」
 食器を洗いながら、朱流さんが聞く。
「……はい」
 恥ずかしさに消えてしまいたくなりながら、私は答える。
 昨日、朱流さんに頼まれて自分の「体験」を話した。そのテープ起こし(MD起こし?)のチェックをしているのだ。
 自分の声というのはどうして、録音すると違って聞こえるのだろう。
 その声だけでも恥ずかしいのに、話してる内容はあれだし、しかも文章に直されちゃったりしてるし、その上……。
「ちゃんと起こせてます、一言一句、間違いなく」
「ああ、そりゃよかった」
 エプロンで手を拭きながら、朱流さんが戻ってきた。
「だから、もうこれは必要ないですね」
 その目の前で、私は有無を言わさずMDを全消去した。書き込み禁止になっていないのは先刻確認済みである。
「あー!」
「『あー!』じゃありません! なんで私の話が終わったところで録音停止にしてくれないんですか! いつも言ってるじゃないですか!」
 私は朱流さんにくってかかる。
 体験談はせいぜい十分程度。そのあと延々と、一時間近く、「行為」の様子が録音されているのだ。
「いや、だって、可愛い声だからさ、録っておかないのもったいないかなーと……」
 朱流さんは頬をぽりぽりと掻く。なんで私が怒っているのか、伝わっていないに違いない。
 私はため息をついた。
 まあ、いいか、消しちゃえばこっちのものだもの。この人の性格からしてバックアップが取ってあるとも思えない。
「まあ、いいか。CDに焼いてあるし」
「な!」
「あ、ほら、MDだとこうやって間違って消しちゃうことあるだろ? だからさ。俺も少しは学習したんだよ。備えあれば憂いなしとはよく言ったもんだよなー」
「あけるさん!」
 本気で誇らしそうなその表情に、頭痛だけではなく胃痛までしてくる。
 ああ、もう、私はなんでこんな人と一緒に暮らしてるんだろう。

 二人の馴れ初めを語る前に、自己紹介。
 私、葦月ささらという。苗字の「よしづき」は、そう珍しくは無いけれど、「ささら」のほうは必ず由来を聞かれる。
 ささらというのは竹を細かく裂いたものをさす。漢字で書くと「簓」とか「筅」。お茶を立てるときに使う「茶せん」の「セン」の字はこれ。
 両親の故郷では「ささら踊り」という祭が毎年行われていて、私の名前はそこから取った。両親の出会いの記念なのだと、よく聞かされた。
 その両親も今はない。父は小学校に上がる前に、母も私の高校卒業を見届けて亡くなった。
 就職先の小さな印刷会社で……朱流さんに出会った。

「あれ、君、どこかで会ったことない?」
 それが、お茶を出した私に対する、彼の第一声だった。
「はい?」
 思えばナンパの手段としては、「お嬢さんハンカチが落ちましたよ」に負けず劣らずの古典だが、何しろ私はそういう体験に乏しかったので、お盆を抱えたまま、目をぱちくりさせるばかり。
 彼のほうもナンパ目的だった訳ではなく、本当にそう思ったから言ったようで、眼差しはすこぶる真面目だった。
 私は、思わず目の前の人を観察した。
 端正な、といってもよい顔立ちをしている。黒目勝ちの目は目尻がつっていて、鋭そうだけれど、全体の雰囲気は茫洋としている。微妙なバランス。
 短めの髪は硬そうで、真っ黒。ぼさぼさとおさまりが悪い――ように見えて、それはそれで秩序はありそう。失礼だけれど、犬の毛並みみたい。
 とりあえず、人はよさそうだけれど……白いTシャツにジーンズの上下、といういでたちで、会社づとめという感じではない。
 年の頃は……よく分からない。私より上なのは間違いがないのだけれど、二十歳といわれればそうかとも思うし、三十といわれても納得できなくはない。
 見つめあうこと、数秒。
 私は懸命になって過去に出会った人のリストを頭の中でめくった。学校の先輩、ご近所……。該当する顔はなかった。
「あの……すみません、お会いしたことはないと……思いますが」
 しかし、確かに見覚えがある気もする。自然、言葉の歯切れが悪くなる。
「俺、エニシダアケル。君は?」
「え。あ。葦月、ささら、です」
「ささらちゃんか! かわいいなあ」
 太陽のように笑う。お日様のような微笑、ではなくて、太陽のような、笑み。
 武者人形のような、時代劇俳優のような顔立ちが、途端に親しみやすいものになる。思わず見とれてしまった。
「こらこら朱流くん、うちの新入社員にちょっかい出さないでくれないか。お預かりしてる大事なお嬢さんなんだから」
 社長が笑いながら応接室に入ってきた。
 はっと我に返る。
「ちょっかいだなんて、人聞きの悪い」
「言葉の綾だよ、気にしないでくれ」
 社長はとてもいい人で、いつも笑顔を絶やさないのだけれど、今日はことさらににこにこしている。よほどこのエニシダアケルという人のことを気に入っているらしい。
 私はぺこりと頭を下げて、退室した。

 後で聞いたところによれば、縁田朱流と書くらしい。筆名ではなく、本名だ。
 この人も名前で苦労してるんだろうな、などと思いながら、更に話を聞いて驚いた。
 週に一度以上の頻度で本屋へ行く人ならば、恐らく知らない人はいないだろうというような知名度の作家さんだったのだ。ちなみにその筆名は中原雅人といって、本名に比べればいささか地味である。
「そ、そんな人がどうしてうちの会社にいらしたんですか? 社長ともずいぶん親しいみたいだったし……」
 お昼時、お弁当を食べながら、先輩に聞いてみる。
「ああ、それはねえ、彼が学生の頃からの付き合いだからよ。うちでよく自費出版の本を作ってね、ずいぶん支払いをためたりもしたんだけど、社長が、『あれは大物になる。今待ってやることがそれを育てるのに助けになるはずだ』とかずいぶんいれ込んでねえ……。それで予想通り大物に化けちゃったりしたもんだから、もう嬉しくてしょうがないのよ。性格もあの通り、さっぱりしててお気に入りだしね」
 そう語る先輩も、縁田さんのことを気に入っているようだ。
 私はあの太陽の笑みを思い浮かべた。
 その表情で、かわいい、と言ってくれたんだ。私のこと。
 頬が熱くなるのを感じた。
 ……また、会えるかなあ。

 「また」は思いがけないほどすぐに訪れた。
 会社を珍しく定時で上がり、さて今日の晩御飯はどうしようなどと考えながらビルを出たところで、彼に出くわしたのだ。
「や」
「きゃ!」
 ぬっと、物陰から現れたので思わず悲鳴を上げてしまった。
「あ……縁田さん?」
「今ひま? 飯食いに行かない?」
「あ、は、は、はい……。時間はありますけど、あの……?」
「あ、もちろん俺がおごるから。何食べたい? 牛丼屋……はあんまり行かないのかな女の子は」
「あ、いえ、そんな」
 会ったばかりの人にいきなりご馳走になるわけにはいかない。と言おうとしたのだが、彼は誤解したらしい。
「え、牛丼屋とか行くんだ。何だ、しめちゃん、リサーチが足りないなあ。あ、しめちゃんっていうのは俺の担当の編集さんなんだけど」
「あの、いえ、そうではなくて」
「……行かないの?」
「いえ、牛丼は好きですし、行く事にも異存はないのですが……その、お金は」
「大丈夫。牛丼の十杯や二十杯、食べても平気だよ。原稿料入ったところだし」
「いえ……ですから」
「どこがいいかな、やっぱりヨシ牛? らんぷ亭とかもうまいよね。松屋ならカレギュウも食えるし」
「そうじゃなくて」
「新宿の思い出横丁にも安いとこあったんだけど、火事で焼けちゃったから……」
「もう! 人の話も聞いてください!」
 つい大声で怒鳴ってしまった。道行く人が何事かと振りかえる。
「あの、私、理由もなく人にご馳走になるの、嫌なんです! ワリカンだったら行きます」
 きっぱりと言い切った。
 相手は目を丸くしている。
 ふ、ふふふん、どうだっ、ちょっと見にはおとなしく見えるかもしれないけど、伊達に母親と二人で生きてきたわけじゃないんだから。言うときには言うんだから!
 鼻息も荒く朱流さんを見上げる。身長差が三十センチくらいあるけど……負けない、負けないわ。
 必要以上にムキになっている気が、しないでもなかったけれど、それくらいの意気込みでやらないとペースに飲まれてしまうことが、もうこの数分で嫌というほどわかった。
 さあ、どう出る? 縁田朱流!
「うーん、いいなあ」
「……はい?」
「ますます気に入った。これはもう、是が非でもお近づきになりたい」
 そのセリフにどきりとする。こんなこと、十八年間生きてきて、言われた事がない。
「理由はあるよ。俺がささらちゃんにご馳走する理由」
「……なんですか?」
「俺が、そうしたいと思ったから」
 遠くで犬が吠えた。

 結局どうなったかと言うと。
 私は出会って数時間の男の人の家に上がり込む羽目になってしまった。
 しかもその台所に立って、料理をしている。
 こんなこと、十八年間生きてきて、した事がない、もちろん。 というか、この人に出会わなかったら多分一生経験することはなかっただろう。
 材料費を朱流さんが負担し、私は労働力を提供、後片付けはじゃんけんで勝った方という取り決めをするのに、冗談のようだが一時間近く立ち話をした。
「それにしても偶然だよなあ。こんなにご近所だったなんてさ」
「……ほんとですね」
 同じ駅の、反対側の出口を利用しているので買い物などの生活圏はあまり重ならないのだが、私のアパートと朱流さんのマンションとは歩いて二十分の距離にあったのだ。
「……とすると、顔をあわせていてもおかしくありませんよね」
 謎がひとつ解けた思いで口にしたのだけれど、朱流さんはそれを否定した。
「いや、違うよ。そういうんじゃない。俺、わかったんだ」
「わかったって……どこで出会ったんですか? 私たち」
「前世で」
 がしゃん、と思わず鍋を落としかける。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫、です」
 それよりもあなたは自分の頭のほうを心配したほうがいいんじゃないですか、というセリフをかろうじて飲み込む。年長者に対する礼儀は心得ているつもりだ。
「前世っていう言い方が胡散臭いなら……生まれる前に、かな」
 念の為に言っておくと、大真面目である。学生時代の、テスト前のかつての私と張るくらいには大真面目。
「さ、さすが作家さんは言うことが違いますね」
「あれ? 俺、自分の職業話したっけ?」
「あ……」
 しまった、つい。
「ご、ごめんなさい、あの、先輩からいろいろ聞いて……」
「ん? 別に謝ることないじゃん。俺に興味持ってくれたんだろ? 嬉しいよ」
 邪気のない顔で言われると……どきどきしてしまう。
「それに俺だってささらちゃんのこと根掘り葉掘り社長に聞いちゃったし」
 がしゃん。
「な、な、な……」
「あ、いや、大した事は聞けてないよ、あの社長そういうとこ固いから。名前は直接聞いてたから、年と……あと料理が上手らしいこととか」
 それだけ聞けば、充分でしょう。
 私はもう、なにかをいう気力もなく、料理の盛り付けにかかった。
 大した物は作っていない。焼き魚と味噌汁、付け合せに菜の花のごま汚し、きんぴらゴボウもどきと板ずりきゅうりといったところだ。
 それらをお膳に並べると、朱流さんは子供のように喜んだ。
「うわ、なんかいいなあ、『家庭の味』って感じだあ」
 その笑顔を見ていると、それまで散々頭の痛い思いをさせられていたのがすっと消えてしまう。……だまされている気がしないでもないけれど。
「あ、飲み物……買って来るの忘れたな……俺には缶ビールがあったと思うけど、ささらちゃんは未成年だろ?」
「お茶いただきますから。ビールは冷蔵庫ですか?」
 言いながら冷蔵庫を開ける。
 そこにはずらっと並んだ缶ビールと……何故か通帳とハンコが置いてあった。

「いや、なくすと困るから、わかりやすいところへおいとくんだけど」
「……いい考えだと、思います」
 実はうちの母もやっていた。ただし通帳だけだ。実印のほうはビニールにくるんでお茶缶
(お茶葉入り)の底に隠してあった。普段は三文判を使う。
「そりゃ、ささらちゃんのお母さんのほうが一枚上手だな。今度俺もそうしようか」
「……やめたほうがいいんじゃないでしょうか。忘れますよ」
「うん、そりゃそうだ。……それにしてもうまいなあ。ささらちゃんほんと料理上手だね」
「ありがとうございます」
 本当に大した物は作っていないのだけれど。誉められて嬉しくないわけはない。
 和やかなムードで、食事は終わった。
 しかし、じゃんけんの結果、洗い物の権利を朱流さんに奪われてしまう。
「俺、洗い物って好きなんだよねー」
 嬉々として台所に立つ朱流さん。
 それはいいのだけれど……私はその間何をしていればいいというのだろう。
 手持ち無沙汰にしているのを見越して、朱流さんがその辺に積んである自分の本でも眺めていれば、とすすめてくれた。(ほんとに、「積んである」のだ。古本屋の倉庫のように。)
 ……でも実は。実は私、中原雅人さんの本てほとんど読んでいたりする。
 実は実は、かなりのファンだったりする。
 でも、もうここまで別方向のアプローチをしてしまった後では、そんなこと言い出せない。仕方なし、ぱらぱらといわれた通り本をめくる。
 ああ、これ、この本、懐かしいな。最初の頃に読んだ作品だ。
 あ、これ、文庫に落ちたんだ。図書館で借りて読んだけど、文庫だったら買ってもいいかな。
 ふと、この人もやっぱり加筆修正とかするのかしらと考えた。なんとなく、一発勝負、感性で書き上げるような気もするけど……案外緻密な構成を練るタイプかもしれない。
 その何冊目かに、それはあった。
 文庫本だった。カバーがかかっていたので、ぱっと見てもどんな本かわからなかった。他の本と全く同じように手に取り、表紙をめくったところでタイトルが目に飛び込んできた。
 緊縛の館 美人姉妹身悶えの罠。
 きんばくのやかた びじんしまいみもだえのわな。
「……」
 こ、これはいわゆる十八歳未満お断りの本では……。
 私は見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌ててその本を山の上に戻し
た。
 お、落ちついて落ちついて。朱流さんだって成年男子なんだし、こういうものを読んでたっておかしくないんだし……。
 そこで初めて気がついた。
 私、今、男の人と部屋の中に二人きりなんだ。
 い、いやいや、この人に限ってそんなことは……。
 あ、でもでも「男は狼なのよ、気をつけなさい」ってピンクレディーも歌ってるし(私も古いなあ)。
「ほい、お茶が入ったよ~」
 突然後ろから朱流さんの声がしたので、びくっとしてしまった。
「? どしたの?」
「あ、いえ、別に」
 笑顔が引きつってしまう。
「お茶菓子も買ってくるべきだったなあ。大したものないんだよ。さきいかとか柿ピーじゃ、酒のつまみだしなあ」
「いいですよ、お腹いっぱいだし……それにもうそろそろお暇しないと」
「まだ九時だよ。夜はこれからじゃないか」
 よ、夜はこれからって……。
「それに俺、まだ本題に入ってないんだよ、実は」
 こほん、と鹿爪らしく朱流さんは咳払いをした、
「本題?」
「実は、だね。今度、書き下ろしで新しいシリーズをはじめることになったんだけど、その主人公のイメージにささらちゃんがぴったりなんだ」
「は、はあ……?」
「ずばり、モデルになってくれないだろうか」
「もでる……ってどんなことするんですか?」
「いや、別に……ただ、いろいろと話を聞かせてもらって……あと写真を」
「写真?」
 ま、まさか……裸の、じゃないよね。それじゃ悪質スカウトの手口そのままだもの。
「そう。できれば裸がいいんだけど」
「ええっ?」
「あ、だからできればでいいんだ。服着ててもまあ想像で補えるし」
「想像って……想像って、い、一体どんな話なんですか!」
「タイトルは俺の中では決まってるんだ。三部作で『雪うさぎちゃん気をつけて』『月のうさぎにおしおき!』『花うさぎ桃色遊戯』」
「は……花うさぎってなにー!」
「う、しめちゃんと同じところに突っ込むね。いや、俺としては雪月花とそろえたかったんで」
 は! そんなところにツッコんでいる場合じゃない。
「話の内容はね、んーと、いわゆる調教ものなんだけど」
「ちょ……調教? なんですか、それ!」
「あ、ごめん、専門用語か、これ。えーと、調教っていうのはね、無垢な女の子が性的に開発されていくという黄金パターンで……ちょいとSMもあり。あ、SMはわかる?」
 『調教』もわかってます。私は何も用語の解説を聞きたかったわけではなくて。
「……天下の中原雅人さんがそんなもの書いていいんですか!」
 新境地開拓にしたって、極端に走りすぎると思う。
 すると朱流さんは涼しい顔でこう言った。
「うんにゃ、中原雅人じゃないよ、一文字秀一名義のほう」
「い、いちもんじ、しゅういち……?」
「その辺に積んでなかった? エロ小説書くときの俺のペンネーム」
 私は思わずさっきの「緊縛の館」を手に取った。
 作者……一文字秀一!
 ぱらぱらと斜め読みをする。だいぶ印象が違うけど……確かにこの文章、中原雅人の匂いがする。
「いや、今まではそういうほんとの大人向けにばっかり書いてたんだけど、今度もうちょっと若いもの向けの文庫が創刊されることになってさ。第一弾のラインナップでお声がかかったんだよ。名誉なことだし、新境地だから気合入れようかなーって。いつもはモデルなんていないんだけど」
 嬉々として、ほんとに嬉しそうに、子供が学校であった楽しいことを話すみたいにまくし立てる朱流さん。
 私はもう、何がなんだか、頭の中が真っ白になってしまった。

「……お話は、わかりました」
 私はやっとの思いでそれだけ言った。
 朱流さんは調子が出てきたのか、別に頼んでもいないのに今練っているプロットを延々と語ってくれた。もはや私が年若い女の子であるということに注意は払わなくなったらしい。もともとそういう意味では払われてなかった気もするけれど。
「あ、ちょっと待って、これからがいいところなんだってば。それでその次の朝、その子は悩んだ挙句結局前の日と同じ車両に乗っちゃうんだ。で、そこにはもちろん男が待ちうけててさ」
「もういいです」
「……うーん。俺さ、いつも書いてて思うんだけどさ、『口では嫌だと言っても体の方は正直だな』ってあのパターン」
「はい?」
 話がいきなり飛躍した。
「あれ、女の子から見るとどうなんだろうな」
「……どうって、言われても……」
「書いてるほうの俺としては、本気で嫌がってる女の子を無理矢理やるばっかりっていうのは趣味じゃない。罪悪感が先にたってのめり込めないんだ。だから……まあ免罪符だよね、『ほんとには嫌がってるわけじゃない』っていうのは」
「そんな言い訳するくらいなら、最初から無理矢理しなければいいんじゃないですか?」
「あ、鋭いな。その通り」
 朱流さんは『一本取られたな』という顔で頭を掻いた。
「ところがさ、男っていうのは、自分でいうのもなんだけど困った生き物で、純愛とか優しさ、だけではやっていけないときっていうのがあるんだよ。中原雅人のときはそれでもいい。でも、エロ小説ってのは男の欲望を満足させてなんぼだから。強姦ってのはつまり、征服欲っていうのかな、相手を自分の支配下に置くことで快感を得るっていう、それを満たすんだ。相手の気持ちとか痛みとかすっ飛ばして自分だけ気持ちよくなりたい、っていう時もあるし
さ。そんで更に、『自分の技で嫌がってる女の子も気持ちよくさせることができた』っていうのが加わると、男としての自尊心も満たされて、一粒で何度もお得なわけだ」
 キャラメルじゃあるまいし。
「しめちゃんもね、そういう展開を奨めるんだよ。『性行為の描写パターンは数あれど、半ば強姦が最終的に和姦になってるっていうのが、一番読者の広い層に受け入れられる最大公約数だ』って力説する。なんかあの人の趣味くさいとも思うんだけど」
 くすり、と朱流さんは笑う。
「でもそこでまた俺は考えるわけだ。『和姦』ってなんなんだろうな、と。濡れるとか乳首が立つとかは、ほんとのとこ単なる体の反応なわけだろ? だからそういう状態になったからっていって『感じてる』って決めつけるのは嘘っぱちだよな。そう思いつつも書いてるけど。さらに、やってるうちに体が快楽を感じたからっていって、それですべてOKって訳でもない。最初に女の子の意思を無視した事実は消えないわけだし、それを『お前も楽しんだんだからいいだろ』って言っちまうのは……どんなもんだろ」
 ……この人、真面目なんだなあ。
 一生懸命話す表情が、綺麗だな、なんて思ってしまった。
 話してる内容はめちゃくちゃだし、とんでもなくマイペースで人の話を聞かなくて、腹立たしかったりも正直するんだけど。そういう欠点の全ては、このきらきらした目で相殺してしまってもいいんじゃないかとすら思ってしまう。
「……俺ってプロ失格かなあ」
 朱流さんは大きく息を吐いた。
「人間の、世の中の汚い部分っていうのが、今ひとつ書ききれないんだよ。話の中で人が死んじゃうの嫌だし、出てくる人間にはみんな幸せになってほしい。でもそれって『現実的』じゃないよな。いつもしめちゃんに怒られる」
「そんな!」
 思わず大声を出してしまった。
「そんな……私は、中原さんの作品好きです!」
 朱流さんは思いがけない言葉を聞いたかのようにこっちを見た。
「読んでるとほっとします。あったかい気持ちになれます。中には切ない話もあるけど
……そ、そうだ、切ない、悲しい話だってあるじゃないですか! 『夜のライオン』とか、あと、そうだ『ひとみの永遠』も!」
 私が思いつくままにタイトルを挙げると、朱流さんは目を丸くし、それからふわっと微笑んだ。
「読んでくれたことあるんだ、俺の本」
「ほとんど読んでます。ファンです。ずっと好きでした!」
 ずっと好きでした。
 自分でいった一言が、自分の心臓を締め上げる。
 好き、っていう言葉、もうずいぶん長い間口にしたことがなかった。
「『夜のライオン』か……懐かしいなあ。けっこう最初の頃のだ。あれさ、……悲しい話も書けるようにならなくちゃと思って、はじめっからそういう結末にするつもりで考えた話なんだよ。書いてる途中はよかったんだけど……書き上げてからけっこう悔やんだ」
「どうしてですか?」
「なんかね、そういう目的でひとつの話を書いたってこと、正しかったのかな、と思って……書かれた物語のほうにしてみたら、迷惑なんじゃないかなーって。最初から不幸が約束されてるのに生まれてこなくちゃいけなかったって、そういうことになるだろ?」
 ……そういう風にも、言えるのだろうか。でも。
「『ひとみの永遠』のときはまたちょっと違っててさ、あれは最初はそういうつもりじゃなかった。でも途中で、ばばばっとあのラストを思いついて、そうしたらもう止められなかった。虹子のこと、殺したくなくて何度も何度も考え直したんだけど、駄目だった。……・そうだね、あれはちゃんと『現実的』だったって言えるかもしれない」
「私は!」
 何か言わなくてはと思った。
 ここで何か言わなくては、「好きだ」という資格がない。
「私は……中原さんの作品が好きです」
 けれど、結局同じようなことしか言えない。これじゃ足りない。これだけじゃ……。
「あの、私……この間母を亡くしたんです」
 自分でも思いがけない一言が飛び出した。朱流さんが小さく息を呑んだ気がした。
「父はずっと前になくなっていたし、親戚とも付き合いがなくて、私ひとりぼっちになってしまって……どうしたらいいかわかりませんでした。でも社長が良い方で、お葬式とか、いろいろ手続きしてくださって、なんとか母を見送ることができたんです」
 ぎゅっと握り締めたこぶしが白くなっているのを、まるで他人のもののように目の端に捕らえながら、話し続ける。
「たった一人の母を亡くしたっていうのに、どういうわけか私泣きませんでした。気を張っていたっていうのもあるんでしょうけど、自分でも不思議なくらい涙が出てこなくて」
 思い出す。夜、がらんとした部屋にひとり、何もする気になれなくてただじっとしていた。
「そんなとき、中原さんの本がふっと目に止まって……。『夜のライオン』の入ってる短編集でした。それを読み返して……私、母が死んでから初めて泣くことができたんです。ラストのあの一文。子供を亡くしたお母さんの言葉。『私が生きていくことを止められるのは私しかいない。』」
 こみ上げてきたものを無理矢理飲み込んだ。
「い、一番最初に読んだときには、正直言ってその部分が好きになれませんでした。だってそんなこと言ったら、死んじゃった子供は自分で自分が生きていくことを止めたことになるじゃないですか。あんなに子供の死を悲しんでたお母さんが、その一言で自分を納得させられるの、なんだかおかしいと思ってたんです。でも」
 ぽたっ、と涙が落ちた。
「あ、あの、うちのお母さん、働き過ぎで死んじゃったんです。私を育てるために、すごく苦労したから……だから私、自分のせいのような気がして、つらく、て……。だけど、その文章読んで思ったんです。母は、母の人生を、力いっぱい生きたんだって」
 すすり込んだ鼻水が喉の奥を通る。
「あの、うまくつながらないんですけど、そう思ったんです。だから私も……」
 ひっく。とうとうすすり上げてしまった。
「私、わた、し……」
 好きです。
 全然関係ない言葉が頭の中を回る。
 好きです、だから、「プロ失格」なんて言わないで。
 私が大事にしているものを、取り上げないで下さい。
 好きなんです。

 すっとティッシュの箱が差し出された。
「あ……すみませ……」
 私は一枚もらって、鼻をかんだ。足りなくて、もう一枚。
 今度はごみ箱が出てきた。
「……どうも……」
 ごみをその中に入れる。まだ鼻がぐしゅぐしゅいうので、もう一枚使った。
「……書いてて、よかったよ」
 朱流さんがぽつりと言った。
「物書きで良かった」
 とても優しい目をしているのがわかる。涙でぐしゃぐしゃの顔が恥ずかしくてまともに向き合うことができないのだけれど、何故かわかる。
「あの話は、きみの夜に届いたんだね」
 頭に温かい重みを感じた。朱流さんの手が頭と髪を撫でる。
 私は、無言でうなずいた。何か言ったら、また泣いてしまいそうだったので。
 頬に、温かいものが触れた。Tシャツの胸。
 朱流さんの腕の中に、私はすっぽりと納まっていた。
「え、あ、あのあのあの……?」
 慌てた。
 咄嗟に離れようとしたが、思いがけない強い力で押さえられて動けない。
「あ、あの……離して、下さい……」
「やだ」
 きっぱりと言い切られた。
「え、え、え……やだ、って、そんな……」
「やだ、離さない」
「だだっ子ですか! いい年して!」
「子供じゃないから……離せないんだよ」
 言葉の意味を理解する前に、朱流さんが私の上に覆い被さってきた。

 押し倒された、という感じはしなかった。
 けれどあっという間にそういう態勢になってしまった。
 ひんやりと固いフローリングの床を背中に感じる。
 朱流さんの肩越しに見える、白い天井。
 朱流さんの重み、ぬくもり。熱いくらいの。
「朱流、さん……」
 朱流さんは無言で私の髪に顔をうずめてくる。
 息が耳にかかる。くすぐったい。
 ……こわい。
 突然、逃げ出したくなった。
 朱流さんの息が荒い。ふう、はあ、と音がする。
「や、いや……やだぁ!」
 押しのけようとする。けれどその手が押さえつけられる。
「んー!」
 キス、された。
 思わず目を閉じる。でもそうすると……感触が。
「ん、んん、ん……ん!」
 な、何これ、なに……!
 唇が、何かでこじ開けられる。舌?
「……」
 涙があふれてくる。息ができない。
 ひどい、なんで、なんでこんなこと……?
 とても長く感じた一瞬が過ぎて、朱流さんの唇が離れていく。 やっと息がつける。
「息は、止めなくてもいいんだよ」
「……ど、して?」
 どうして、こんなひどいことしておいて、そんな優しい声を出すんですか?
 やめてください、信じられなくなりそうです。
「ごめん……」
 謝って、でも朱流さんは私を離してくれなかった。
 私の両手は朱流さんの左手一本で押さえ込まれてしまう。
 必死に暴れても、体が動かない。朱流さんが私にまたがって、両足で押さえているから。
「やめて! いや、いやです!」
 ブラウスのボタンがはずされる。胸元を朱流さんの手が掠める。その度にびくっと体が震えてしまう。全部のボタンがはずされて、前がはだけられた。
「……や……」
 こわい。恥ずかしい。目を開けていられない。
 朱流さんの顔、見たくない。
 首筋に口付けされた。なめまわされる。胸に、手が触れる。
 ぞわっと鳥肌が立った。
「やあああ! もう、やだ、やだ、やめて!」
 かまわず、胸を揉みたててくる。ブラがずれる。手が、それをくぐって直接肌に触れる。熱く、しっとりした感触。
 乳首を指がはじいた。
「……固くなってる」
 耳元で朱流さんがささやいた。かああっと頬が熱くなる。心拍数が跳ね上がる。
「そ、それは……」
「いやだとか言っても、感じるもんなんだね」
「ちが……ちがう!」
「下は、どうなってる?」
 朱流さんの手が体を撫で回しながら、腰へむかう。スカートの裾からもぐり込んでくる。太ももに触れる。
「ストッキング、はいてないんだな。若いね」
「やああ、お願い、やめて、やめてぇっ!」
 下着の上から、こすられた。
「ん!」
 幾度か指が合わせ目をなぞる。
「ん、んん、ん、やあ……」
 あ、駄目、なんだか、力が……抜ける……。
「……声が出てるよ……」
 慌てて唇をかみ締める。
「我慢することないのに。気持ちよがってくれたほうがこっちとしては嬉しいんだから」
「だ、誰がそんな……ん!」
「見た目よりも強情だよなあ……まあいいか、それはそれで」
 パンツの裾の隙間から、指がもぐり込んでくる。
「い、いや、いや! いやあ!」
 ぬるり。
 あきらかにそのほかの場所とは違う感触があった。
 肌と肌がこすれ合うのとは違う。乾いているんじゃない。
 これ……やだ、これって……。
「濡れてるよ」
 小さな声で、でもはっきりと言われた。
「やぁぁ……ん」
「あ、でもこれは今じゃないな……。さっき俺が本のあらすじ話した時か。可哀想に、仔うさぎちゃんには刺激が強すぎたんだね」
 さっきの……話……。
「……うそつき」
「ん?」
「朱流さんのうそつき! 嫌がってる女の子を無理矢理なんて趣味じゃないって言ったくせに!」
 また、涙がどっと溢れ出した。
 嘘つき、嘘つき、嘘つき!
 いい人だと思ってたのに! 真面目な人だと思ってたのに!
 あんな作品を書く、素敵な人だと思ってたのに!
 物書きで良かった、って、言ってくれたのに。
 私の話を聞いて、そう言ってくれたのに……。
「……いや、それがさあ」
「もういいです! もう聞きたくありません!」
「いや、困ったなあ。俺としてもね、そういう趣味はないつもりだったんだけど、結構そそられるんだな、こういうの。知らなかったよ。おかげで引っ込みつかなくなっちゃって、どうしようかと思ってたんだわ」
 ……ん?
 な、なんか、変。
 なんか、いってることがものすごく変。
「どうしたらいいと思う?」
 私は、おそるおそる朱流さんの顔を覗いてみた。
 朱流さんは、私を押さえつけた姿勢のままで、ほんとに困った顔をしていた。
「あの……?」
「俺さあ。ささらちゃんのこと好きみたいなんだよな」
「……は?」
「このままやっちゃったら、駄目?」
「……だ、駄目に決まってます! どいて! さっさとどいて下さい!」
「あ。やっぱり?」
 朱流さんはしぶしぶといった感じで、しかし素直に私を解放した。
 慌てて起きあがり、朱流さんから離れながら服の乱れを直す。
「あの」
「それでさ」
 二人同時に話し出す。私が譲った。
「それでさ、俺思ったんだけど。ささらちゃんここで暮らさないか?」
「はい?」
「結婚、まではなかなかふんぎれないと思うんで、とりあえず、同棲してみるっていうのはどうかと」
「……あの」
「あ、もちろん生活費なんて入れなくていいよ、俺が全部出す。ていうか、収入と比例して生活費を出し合うことにしたら、失礼かもしれないけど俺のほうがほとんど出すことになると思うし。それだったらいっそその分は貯金に回したほうが建設的じゃないかと思うんだ」
「もしもし?」
「それで、その代わりと言ってはなんだけど、俺に晩御飯つくってくれないかなーって。あ、いや、俺だって料理嫌いじゃないから、疲れてるときなんかは俺が作るの全然かまわない。でも、俺ささらちゃんの料理食って生きていきたいんだ」
「……あの?」
「どう?」
 真剣な、真剣な目で聞いてくる。ちゃんと正座までしている。
 私はとうとう聞いてしまった。
「過去に頭を打ったとかそういうことないですか?」

 ……そうだった、それが始まりだったんだ。
 例のCDを一緒に聞こうなどとたわけたことを言っている朱流さんを完全に無視して、私は回想を終えた。
 思い返してみたところで、現状が何か改善されるわけじゃない。
 ただあんまりの間抜けさ加減にめまいがしてくるだけだ。
 結局、そのあと「今夜は帰したくないんだ」という、「一緒にモーニングコーヒーを飲もう」と一、二を争う古典な言葉に丸め込まれて……泊まってしまったのが運のつき。
 越えてしまいました。最後の一線。
 自分でまいた種とはいえ、時折ため息を禁じえない。
 それにしてもこの人、同棲するときの言葉は「俺のために料理を作ってほしい」だったし……。仮にも言葉を使うことで身を立てている人がこんな貧困なボキャブラリーでいいのだろうか。(作家としての腕は確かなんだけど……日常生活があんまりにも。)
「ささらちゃん、ささらちゃんてば!」
「なんですか、もう。CDだったら聞きませんよ」
「そうじゃなくてさ、これこれ」
 朱流さんはテーブルの上に紙を広げた。何か書いてある。
「これ、は?」
「俺とささらちゃんの今の関係ってさ、けっこうあやふやだろ? しめちゃんに言われたんだよ、この辺でちゃんとした契約書を作ったほうがいいって。俺は生活費を負担して、ささらちゃんは労働力を提供している。おまけに俺の作品に多大なる示唆を与えてくれる。その辺の取り決めをね、文書化して……」
 なるほど、A4サイズの紙には今言ったようなことが甲だの乙だの使っていかにも公文書らしく書いてある。
「昨日、遅くまでやってたのはこれだったんですね……」
 二枚目をめくった。
「……実印、押してくれない?」
 思わず笑ってしまった。
 立ち上がり、食器棚から茶筒を取り出す。箸で、底の方に埋まっているビニールに入った実印を取り出した。
「一応、成人式まで待ったんだから、いいだろ?」
「立会人は?」
「しめちゃんと、あと社長が引き受けてくれるって」
「……朱流さんにしては、オリジナリティがあっていいですね」
 私は実印に朱肉をつけて、所定の位置に押した。

 それはご推察の通り、婚姻届だった。

硝子の動物園

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

なんというか、時代を感じます。
まえがきにも書いたとおり、12年前の作品ですので。
携帯電話はまだまだ私の中で縁遠いアイテムで、家電話が連絡の主な手段だし。ましてや携帯メールとか選択肢にすら出てこないし。
脚本の清書はワープロ打ちだし。
録音媒体が、ナチュラルにMDになってたところなんて、思わず「MDて!」と突っ込みました。
いろいろなものが、さすがに12年前です。
前回の辰年です。ていうかまだ前世紀でした。2000年。


だいたい、12年前の時点で、私にとって過去だった大学時代とか高校時代とか振り返って書いているわけで、しかもキャラクターたちは半分くらい、大学くらいに考えてたキャラクターのコンバートだったりして。
自分で読んでると、あれこれ感慨深すぎて、めまいがします。

読んでくださった方が、どんな風に感じられたかが、気になるところ。

官能小説と言うには実用性が足りず、純愛小説と言うには性描写が長く、半端といえな半端なシロモノですが、もしも気に入っていただけたなら幸いです。

どんなに古くても、文章があれでも、容易には手が入れられないものだな、とつくづく思いました。
これが、いったんは完成させたものの持つ強みなのかもしれません。
今後は、その強みを持つものを一つでも多くここに登録できるように、がんばりたいと思います。

最後になりましたが、本文中に出てくる中原雅人の著作タイトルは、谷山浩子さんの曲名を拝借しました。

硝子の動物園

それぞれの愛の形を書いた、短編から中編のゆるい連作、そしてゆるい18禁です(単語は直接的だけど)。 <え? は……はじめての、ひ……「ひとりえっち」ですか?【うさぎ】> <どんな風に見えたところで、姉弟っていう事実には変わりないだろ。【きつね】> <もしあたしに金と権力があったら、ホットミルク専用職人として召し抱えたいくらいだ。といつか言ったら、なんだそりゃと笑われた。【猫】> <女子高の教師になった、というと、悪友どもはしきりに羨ましがるのだが、実際にはそれほどいいものではない。【小犬】> <ただもう私は、ゆににとっての一番になりたいし、私にとってはゆにが一番なのだ。そうとしか表現できない。【蛇】> <「へえ、あんたが狼ねえ。なんかイメージ違ーう」【ひつじと狼と】> <「あれ、君、どこかで会ったことない?」それが、お茶を出した私に対する、彼の第一声だった。【ライオン】>

  • 小説
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更新日
登録日
2012-01-18

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著作権法内での利用のみを許可します。

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