梨の木を切って泣け
僕たちの夕焼けは本当に長い。
千五百年くらいに地殻変動で地球がひしゃげた影響と誰かが言っていたが、知ったところで夕焼けの長さには変わりない。僕たちは四時くらいから七時くらいの間、ずっとオレンジ色の中で過ごす。紫外線を防ぐ僕のサングラスから通すと、あたりは黄色に見えるのだけれど。
僕は梨の果樹園を貫く道路を歩く。目の前には名前を知らぬ少女が一人歩いている。彼女は黄昏に当たりすぎ、頭を患ってしまって、自分の名前を忘れてしまった。彼女は梳くだけしかしていない長い髪を後ろで一つに束ねて、まるで一人で待ち望んだダンスの練習をするみたいに歩いてゆく。彼女は全く笑っていない。栄養失調で青白く痩せ細った頬も夕日が当たっているから生気を取り戻したように見える。
この町にはもうほとんど人が残っていない。みんな目を悪くして死んでいったし、残った人は死ぬのが怖くて逃げたからだ。彼女の両親も今ではどこかの盆地に住んでいると聞く。彼らは僕にいくつか頼みごとをして、彼女を僕に押し付けて盆地に逃げた。
僕は白く粉を吹いたようになっているアスファルトの上を歩く。夕日で焼けてしまった道路を歩いてゆく。梨を収穫する人は誰もいないから、根元から何本にも枝分かれした梨の木は、まるで湖に溺れた人が死ぬ直前になって水面に突き出した手みたいに見える。僕もだいぶ目を悪くしているからしっかりとは見えていない。
「見て、捕まえた」
彼女は薄黄色のネズミを捕まえて僕に見せた。太陽にやられて盲いてしまったネズミだ。橙に似た色をしたそのネズミは、一時期は珍しがられたが、今では誰も一瞥すらしない。
「どうするの」
「ホームレスにあげるんだ」
彼女はまるで水をたくさん吸収した初夏の蜜柑の葉っぱみたいに微笑んだ。ホームレスさえもうどこにもいないのだけれど。この町にまだいるのは、絶対日が沈むまで外に出ない町役場の職員とわずかばかりの町民だけなのだけれど。僕はあいまいに笑って見せた。彼女はやせぎすの体を揺らして笑った。二十年前のマフィア映画から持ち出してきたみたいな丸いサングラスの向こうの瞳が何を見ているのか僕にはわからなかった。きっと彼女からも、二日間何も食べていない僕の瞳は見えないのだろう。
「夕日はいつ見てもきれいだね」
彼女は毎日同じ言葉を言う。僕は彼女の服を毎日洗濯し、毎日彼女に服を着せる。食料はいつからか配給制になり、町を出ることの補助が笑えるくらい豪華になっても、僕も彼女も町を出ることはなかった。高校も卒業していない僕は他の町では絶対にうまくやっていけないし、彼女はきっと新しいことを何一つ覚えられないだろう。
「将来何になりたいの?」
彼女は今日も同じ事を聞く。僕は毎日違うことをこたえる。
「梨に水をやる職業」
「それはどういうことをするの?」
彼女はネズミのしっぽをつかんで、振りかぶってアスファルトにたたきつけてから言った。ネズミは小さく鳴いて絶命した。僕はポケットに手を突っ込んで、ナイフの感覚を確かめた。彼女の両親から言われた頼み事は、彼女の操を守ることとか、彼女には前日と違う服を着せるとかくだらないものがほとんどだったけれど、一つだけ、彼女を殺せと言われた。それだけを僕は守っていない。
「梨に水をあげるんだ。一本一本、ホースを持って水をかけていく。広大な梨の園にある木に」
「さぼったりしないの?」
彼女は紺色の少しプリーツの薄くなったスカートを揺らしながら聞いた。もともとは白かったブラウスも今では生成りの生地のように少し黄色がかって見える。
「さぼれるけど、僕はさぼらないと思う。僕が梨の水やりを任された時には、他の仕事を覚えるには歳をとりすぎているから。僕は毎朝起きて、重いホースを引きずって梨の間を水をやりながら縫っていく。夕方になって、長い夕焼けが終わるころに今まで通ってきた道を正確になぞりながら戻ってゆくんだ。それしかできないから、僕はきっとさぼらないと思う。さぼってしまったら、僕はきっと何もできない人だから」
「へぇ」
彼女はそれきり何も言わなかった。そんなことをして楽しいの、とか、仕事をしている意味ってあるの、とか、そういった疑問を口に出さない。僕はナイフの感触を確かめた。さやのついた刃の厚いナイフだ。ジーンズの腰につけていても、彼女は何も言わない。
遠くから五時のサイレンが聞こえる。日没まであと二時間ある。梨の木は何も言わず、痩せ細った手のような体を並べて黙っている。軽トラックが向こうから近づいてきて、僕たちの隣を通り過ぎて行った。僕は彼女の肩を後ろからつかんで、自分のほうに引き寄せていた。彼女の体の軽さも、骨ばった肩の感覚も慣れてしまっていた。また一つ家が消えた、と僕はつぶやいた。ナイフは今日もジーンズに縛り付けらている。
夕日は沈まない。まるで、永久に変わらない黄色信号のように。
梨の木を切って泣け